甲陽軍鑑は、武田信玄の生涯とその後継者勝頼の合戦など甲斐武田氏の興亡をを書いたと言われる軍記物である。
(ネットの辞典では軍学"
著者は高坂弾正昌信といわれている。
甲陽軍鑑は、江戸時代に庶民にも広く読まれているだけでなく、当時主流になっていた「甲州流軍学」の教科書として武士階級の必読書に近い扱いを受けていた。
しかし、当時から偽書説は存在したが、あまり広まらなかった。
しかし、明治維新後、歴史学者から【偽書】と認定されたため、近年まで歴史学者の間では、次のように評価されていた。
「先祖が甲斐武田家に仕えていた武士の子孫小幡景憲なる人物が、高坂弾正の名前を借りて、武田信虎、武田信玄、武田勝頼三代の事績と称して、内容を捏造して江戸時代に書かれた偽書である」
といったものであった。
ところが昭和も後半に近づくと、甲陽軍艦を再評価する動きが出てきた。
そして、国語学者酒井憲二が、古い写本を探し出して文体や用語の使い方を確認し、日葡辞典などを活用して、室町時代末期に使用されていた言語や文体で記述していると推測した。
(日葡辞典は、16世紀末から17世紀初頭に、当時日本に布教に来ていたポルトガル宣教師が当時の日本の言葉を翻訳したもの)
その研究をまとめた「甲陽軍鑑大全」を1997年に完成させ、以後この文献が「甲陽軍鑑」研究の基礎文献となったと同時に、甲陽軍鑑偽書説の否定につながったのである。
現在は、信長公記ほどの信頼性はないが、高坂が使えていた時期の武田家で起きたことが記述されていると考えられるようになっている。さらに、甲陽軍鑑の内容を研究、あるいは引用する学者も出てきている。
このように一般に知られた時系列で確認すると、甲陽軍鑑偽書説が否定されたのは1990年代となるが、じつは、それ以前に偽書説は否定されていた。
そもそも偽書説の元となったのは、明治時代に東京帝国大学教授の田中義成が書いた「甲陽軍鑑考」という論文である。
田中は、帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)から東京帝大教授に昇進するという、日本の歴史編纂に長年にわたって務めてきた人物であり、近代歴史学の成立過程の中心にいた人物である。
甲陽軍鑑偽書説の根拠となる論文は、その内容と言うより、歴史学の中心にいた上、最高学府の東京帝大教授の論文だからそのまま受け入れられてしまったと思われる。
この、「甲陽軍鑑考」は、考証が結構雑で、戦前に偽書説の根拠が一部否定されてしまうレベルだった。だが、根拠すべてを否定される研究を発表した学者はいなかったため、戦後も偽書説は信じられていた。
そして、戦後の歴史学の研究が進展して行くにつれ、偽書説の根拠は次々と否定され、残された偽書説根拠は、「年月記載の誤り」と「信玄は遺体を諏訪湖に沈めよと遺言したが、墓が恵林寺ある」という点だけになった。
その最後に残った根拠を粉砕したのが、有馬成甫という人物だった。
彼は、当時最も古いといわれていた明暦三年版の甲陽軍鑑を精読した結果、
「信玄は遺体を諏訪湖に沈めよと遺言したのは事実だが、家老たちが相談して恵林寺に葬ることにした」と甲陽軍鑑に記載されている事を発表したのである。
この発表により、甲陽軍鑑偽書説の根拠はすべて消滅したのである。
残りは、年月の誤りだが、これを主張すると、信長公記すら偽書になってしまうので、偽書説の根拠にはできなかった。
(信長公記は、桶狭間の合戦が天文23年に起きたと書いている)
現に、この論文を受けた歴史学者は反論をしたものの、その内容はいいわけとしか言いようのないものであり、反論とは言いがたいものであった。
しかし、歴史学界は、「山本勘助なる人物は、良質の資料に記載されていないので、架空の人物である」、「山本勘助は武田家に使えていたかもしれないが、せいぜい足軽程度の低い身分の雑兵」と主張し、有馬説の抹殺を図ったのである。
理由は、有馬成甫は元海軍少将の軍事史家だったからである。
田中義成は、日本の歴史編纂の中心にいた人物で、東京帝大教授であり、後に続く歴史学者の多くが弟子筋となる偉大なる大先輩でもある。その偉大なる大先輩をたかが軍事史家風情が批判することは、歴史学者にとって許されないことだった。
その結果が、山本勘助架空人物説、雑兵説であり、当時知られていた良質の資料には山本勘助の名前が書かれていなかったため、この架空人物説がまかり通ってしまい、有馬説は黙殺され、その主張は一般の歴史好きには、届かなかった。
こうして、むりやり「甲陽軍鑑偽書説」押し通した歴史学界であったが、彼らにとって新たなる脅威が現れた。
それは、テレビというマスメディアの普及であった。
それは、テレビの普及がある程度進んだ昭和40年代初めの事であった。
たまたま、大河ドラマ「天と地と」を見ていたある視聴者が、こんな疑問を抱いた。
「あれっ、ドラマに出てきた書状と似たようなものがウチにあるのだが」
そう思った視聴者が、つてを頼ってある博物館に見せたところ、これが歴史的発見となる文書だと言うことが分かった。
その書状は、後に「市川文書」と呼ばれる書状で、内容は武田信玄が信濃北部の国衆「市川藤若」に宛てた感謝と今後の方針を伝えるために書かれた書状なのだが、最後のある一文が歴史学界を揺るがす事になった。
そこには、次のように書いてあった。
「委細は山本菅助から説明を聞いて欲しい」
この一文で、山本勘助架空人物説も粉砕されてしまい、とうとう偽書説の主張はできなくなってしまった。
当時は、同じ読みであれば当て字を使うことは良くあるので、「山本菅助=山本勘助」と考えるのが妥当であり、「漢字が違うから別人」と主張した場合、歴史学者失格とされるので、さすがにこれを否定する学者は現れなかった。
さらに、武田信玄が使者として送り込む家臣は、信玄側近の中から有能な者を選ぶことが、市川文書の発見時点で解明されており、山本勘助が雑兵ということはあり得ないのであった。
こうして、甲陽軍鑑偽書説は昭和40年代に否定されたのだが、それでも歴史学者たちは「歴史編纂所の重鎮」「偉大なる東京帝大教授」の名誉と「歴史学界」のプライドを守るため、有馬説に対して黙殺を続けた。
こうして、甲陽軍鑑偽書説否定の名誉は、国語学者の酒井憲二に奪われ、自説を否定された有馬成甫は無念の内に没したのでしょう。
自分たちのプライドを守るために、「軍事史家の主張だから認めない」という、狭い了見で物事を判断した歴史学者たちは、この後、手ひどいしっぺ返しを受けるのであった。