ブログネタ
映画鑑賞日記 に参加中!
04c8784a.jpg今年のGWのイチオシの超話題作といえばやっぱりこの「バベル」でしょ、でしょ。私の好きな旧約聖書の伝説をモチーフにした作品で、こんなに話題になるずっと以前に「バベル」という映画が公開されると知ったときそのタイトルだけどときめきました(笑)。

出演はその他に、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子、二階堂智、アドリアナ・バラーザ、エル・ファニング、ネイサン・ギャンブル
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

+++ちょいあらすじ
壊れかけた夫婦の絆を取り戻すためにモロッコを旅するアメリカ人夫婦のリチャードとスーザン。バスで山道を走行中、どこからか放たれた銃弾が、スーザンの肩を撃ち抜いた。近くの村までたどり着くものの応急処置が精一杯で語がなかなか通じない村の住人たち、対応が遅いアメリカ政府に苛立つリチャード。同じ頃、東京に住む聴覚に障害を持った女子高生のチエコは、満たされない日々にいら立ちを感じていた・・・
+++

スゴイ、凄すぎですよコレは。呼吸をするのを忘れるくらいスクリーンにくぎづけにされちゃいました。2時間35分だっけかな?あっという間に過ぎ去ってしまった感じがします。一つの銃撃事件を中心点にして描かれていく4組の人間模様。それぞれのドラマに言語、人種、国籍などのテーマが盛り込まれ迷走しながらもやがて1つの線へと収束していきます。

モロッコ、メキシコ、アメリカ、そして日本を舞台にアラビア語、英語、スペイン語、日本語と4つの言語で語られていく物語。手話も独立した1つの言語だから正確には5つの言語ですね。この作品の大きなテーマとなっているのは「言葉の違い民族の違いがもたらす見えない壁」。それは創世記以来の人類最大の課題なのかもしれません。私自身「言語の習得」を密かに人生の隠れテーマとしてたりするもんで、さらにそこへ旧約聖書の伝創世記伝説が絡んでくるとなればハマらないわけがないって感じです。

旧約聖書に記された創世記の天地創造の物語「ノアの箱船」などと並んで知られる伝説の巨大な塔「バベルの塔」。古代メソポタミアの都市バビロンにあったと伝えられるその塔は天高く神の領域まで積み上げようとしたために、神の怒りにふれ人間は言葉と人種を分断され混乱に陥り人々は世界の各地へと散っていた。と、私が子供の頃よんだ著名な漫画家の旧約聖書には確かそんな風に描かれていたのを覚えています。

物語の発端となるモロッコの兄弟の話はどことなく旧約聖書の「カインとアベル」の思い出させます。羊たちをジャッカルから守るのために父が手に入れたライフルが未熟な少年の心を惑わし全ての悲劇の引き金となっていきます。このライフルの銃弾に倒れるアメリカ人旅行者の妻とその夫は二人の関係に問題を抱えています。同じ言語を有しながらも分かり合えない二人。そしてバスの同乗者たちからはアラブ人への差別心が如実に露呈していきます。アメリカでその夫婦の幼い子供たちを預かるメキシコ人の女性はその姉弟を連れて結婚式に出席するためにメキシコへ行きのその帰路の国境で偏見と差別によって窮地に追い込まれてしまいます。

日本を舞台にしたエピソードでは民族的な問題は出てきませんが、聾者はまさにマイノリティそのもの。一見、関連性が薄そうなこの日本のエピソードに私は一番大きな意味がこめられていたような気がしてなりません。おそらく聾者の世界観というのはほとんどの人に理解出来ないし想像すらも難しいでしょう。特に日本の環境で言語的マイノリティの存在を意識するのこと自体が希薄ですし、事実、この映画の試写会で聴覚障害者を招待しておきながら日本語のセリフを字幕をつけず対応策をとっていなかったことが問題となったくらいですから、つまり配給会社ですらこの映画の本質の深いところまでは理解出来ていなかったという事なんだと思います。

変な言い方だけど、この物語においては最もマイノリティ的存在なんじゃないでしょうか。聾者の女子高生を主人公とする事で音の無い世界、言葉の通じない世界に生きる少女の孤独感や焦燥感が強烈なインパクトで伝わってきます。特に渋谷のクラブの場面でのオンとオフの世界を交互に見せていく演出には思わず唸ってしまいましたよ。

私が日本語に次に自身を持って話せる言葉は実は手話だったりします。別に福祉やボランティア目的で学んだわけじゃなくたまたま友達のなかに聾者がいて門前の小僧で覚えました。その後に手話のことをもっと学びたくなって自治体主催の講座にも通ったりしましたけど、基本は全て遊びの中で覚えていきました。ま、出来るといって日常会話に困らない程度で専門的通訳までは出来ませんけど友達と遊ぶには困らないレベルですね。で、その時の経験って今の自分にとってもとても大きな宝になってたりするんですよね。それは後の語学に対する熱意にということだけじゃなくて、言葉の持つ意味、感情表現の大切さというようにコミュニケーションの奥深さを学んだ機会でもありました。

日本が舞台でもパリが舞台でもアフリカが舞台でもお構いなしに全編英語のハリウッド映画や、お互いの言葉がわからないのに何故か会話が成立して恋に落ちちゃうラブストーリーとかにはどこか違和感を覚えてしまうほうなんですけど、実際、描く上での難しさがあるのもよくわかるんですよね。でも、この作品その難しいハードルから逃げることなく挑んでいった作品なんだと思います。

何か暗示するように終わるラストシーン。チエコのあの行動は別に性的に欲求不満だったわけでもエロスでもなく、ただただ自分の本当の気持ちをああいう行動でしか表現出来なかったのでしょう。父とは手話で刑事とは筆談で会話は出来ても、心の深い奥底にあるものまでも伝えることは出来なかったのかもしれません。この作品が強く伝えようとしたのはやはり「言葉の壁、すなわちディスコミュニケーションの壁は乗り越えられるのか?」というメッセージなんだと思います。そして私は必ず乗り越えられると信じてます。伝えようとする気持ちが通じない言葉を乗り越えていきます。壁は言葉にあるんじゃなくて心の中に存在してるんです。