バリックのひとりごと

映画鑑賞・(昔は)音楽鑑賞をメインにした日記です

タグ:マーラー

2018年4月20日

演奏者
指揮:カンブルラン
オケ:読響
コンマス:小森さん

曲目
アイヴス:ニューイングランドの3つの場所
マーラー:交響曲第9番

場所
サントリーホール(一階中央)


アイヴスはライブでは初めて聞く曲です。アメリカは身近ですが、アメリカの作曲家の音楽ってあまり聞く機会がないですね。まだ古典というかクラシックではないのか、あるいは演奏するには何かが足りない音楽なのか、、、アイヴスってかなり前に交響曲第3番を聞いて「まだ自分には早すぎ」と思って以来しばらく近づかなかった作曲家でした。

ニューイングランドというのは、どうでもいい事ではありますがアメリカの東北6州の事です。全体で自分が良く言っているミネソタ州と同じ大きさです。

この曲が作曲された1910年ごろのアメリカは「進歩主義時代」という時代に入っていて、腐敗の浄化とそれと一体化して進んだ禁酒法への前哨的な、一方で工業化の推進など激動の時代でした。この曲の作曲は、ニューイングランドが近代化まで推進したアメリカ建国に対して、コネチカット生まれのアイヴスが古き良き時代を懐かしむオマージュだったと思います。

そう思ってこの曲を聞くとこの曲の内容は良くわかります。懐かしみを感じさせる俗謡が多くあらわれてくる中で、工業化を表すような元気のよいマーチが現れ、かと思うとちぐはぐなスネアが奇妙なリズムを刻んで社会の混乱を映し出している、、、という曲の構成が良くわかります。アイヴスは結構世相を表す音楽が多いです。

スポティファイでも聞けますので、この読響の演奏を聞き逃した方はそちらを、、、

いやその読響が問題。というかカンブルランが問題。予め勉強していくと割とすんなり聞ける音楽ですが、前回も書いた通り、カンブルランは全部の音符を聞かせようとするので、難解な曲(さすがにアイヴスの初体験からx0年も経つとさほどでもないですが)は初めて聞く人にはやはり難解にしか響かないと思います。パンフレットに書いてあるような俗謡の音楽はどこに出てきたの?という事で終わったでしょう。

第2曲の「コネティカット州レディングのパトナム将軍の兵営」のマーチのノリの悪さは気に入りませんでした。打楽器は「社会の混乱」の模様なのですが、音楽が混乱していて「社会の混乱」までわからなかった。スネアは実は「シュッシュッポッポ」とかもやるんですが、、、、オルガンは第3曲の「ストックブリッジのフーサトニック川」で使われます。ベースやチューバと同じようにロングトーンだけじゃないところはちゃんと出てほしかったし。読響は現代曲はすっきりできないです。カンブルランのせいかな。


マーラーが当然メインです。9番というと若い頃何度も何度も聞いたものです。カラヤン/ベルリン・フィルでした。「箱」に入ったLPを買い、あ、まだ持っていると思いますね。いやはや何度も聞きました。9番に関しては、その演奏が染みついているので結構厳しく聞いてしまう癖があります。

しかし演奏全体は素晴らしかったです。
前回の読響の演奏は6年前で、指揮は尾高忠明でした。その時の演奏も良かった記憶がありますが、今回も良かったです。弦主体になる第4楽章は本当に素晴らしかった。
とは言っても通り言いたいことは結構あって、、、
  • 1楽章と4楽章のテンポは良かったです。しかし2楽章と3楽章はあんなに停滞する音楽では困る。3楽章のスケルツオ?ブルレスケ?に関しては、あのテンポで伝えたかった意図はわかるのです。4楽章のアダージョの第1テーマが3楽章に濃縮されて入っているというのを殊更聞かせたかったかな、と。かなり明確に聞かせてました。しかし後ろのめりのテンポじゃあ3楽章の快活さがなくてつまらない。
  • 2楽章はテンポと関係ありますが、あんな重い音楽にしちゃって。もっと軽くやっていただきたかった。音をいちいち立てて聞いてると疲れますよね。それは4楽章まで取っておきたいのです。4楽章は音を全部聞いて体にしみこませたい。という音楽なんですから2楽章でやらないで。
  • ホルンのゲシュトップの練習やり直してください。ゲシュトップとはビービーとやる演奏法の事です。「1楽章にはあんなにゲシュトップがたくさんあったんですね」って思わせちゃダメでしょ。緊張で音が上ずる件に関しては、はい、プロでもありますよね。それはいいのです。一方、松坂さんがトップでしたが、ほぼパーフェクトで素晴らしかったです。「それスラーでお願いします」って箇所は何かありましたがブラボーも結構でしましたし、たしかにそれに値する演奏でした。彼、最近太ってきているのが気になりますが。
自分は9番の4楽章に関しては、外から見ると「看取りの音楽」、自分主体だと「昇天の音楽」だと思っています。(3番の6楽章はもっと積極的に天に向かう音楽なので少しニュアンスが違う)いずれにしても9番の作曲でマーラーが自分の死を意識していたのは明らかです。第1テーマが簡単に展開しつつ最後まで続きます。上にも書いたようにそのテーマを第3楽章にも入れています。死のにおいを諧謔(ブルレスケ)=それまでの人生、の中に入れ込んだのですから。

マーラーはこの曲の演奏を聞かないで死んだようですが、彼の頭の中ではこの曲が鳴り続けていたのだと思います。変な比喩ですが、もし死の床でこの曲を最後まで聞いてしまうと死なないわけにはいかない感じはあります、この4楽章のエンディング。今日の演奏は最後はそんな風に締めくくってくれましたので、すべて「よし」でした。

ちなみに自分はラ・ヴァルスを聞きながら昇天したいです。楽しんで踊りまくった後に「コテ」っと。

サントリーホールの音響ですが、やはり1階と2階では下の方が低音が響くと思います。あと先週2階で気になった金属音がしませんでした。


12月12日の演奏者 (演奏会当日から3日もたってしまった・・・)
指揮: コルネリウス・マイスター
メゾソプラノ: 藤村 実穂子
女声合唱: 新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤 洋史)
児童合唱: TOKYO FM少年合唱団、フレーベル少年合唱団
コンマス: 長原幸太

曲目
マーラー: 交響曲 第3番 ニ短調

会場
サントリーホール(座席は一階中央)


ほぼ2年ぶりのマーラーの第3番。
マラ3ファンは多いのでしょうか、ほぼ満席。自分の隣の席は二つ空いていました。そういえば前回の読響のアッシジの演奏会では女性が二人いました。難解な音楽にパンフレットをひっくり返しては閉じ、ひっくり返しては閉じという事を繰り返していましたね・・・それはさておき。

この日の演奏は、4楽章からの後半が素晴らしい演奏でした。特に自動合唱の5楽章とフィナーレの6楽章はとてつもなく素晴らしかったです。確かにカンブルランにも似た振り方をするマイスターですが、早めに振り下ろします。音が揃って出て来ないと散々な音楽ですが、逆に音を出す前に指示を早く出せる為、演奏者の気持ちが揃います。ブロムシュテットの様にわけがわからないタクトではなく、カチンカチンしたタクトですので、冗長になりがちなフィナーレが、良い意味で「ザキーン」(音のアタックが揃いながらもとげとげしくなく厚みがある事)としてフィナーレでマーラーが描こうとした美しい大絵巻がよく見えました。
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演奏としてはしり上がりに良かったですが、一楽章のトロンボーンのソロは、蓑田さんこの日はベストコンディションでした。一発も外さず…あんなに長いソロを、そしてあんなに高低幅のあるソロをよくぞ完璧にこなしてくれました。

下↓にマラ3が作成された時代背景を書きましたが、一楽章のあのトロンボーンソロは「人々の感情」の表現です。そしてオーケストラは荒れまくっていた「時代そのもの」です。興味ある方は読み進んでください。

ソロの藤村美穂子についてですが、マーラーの第3番の第四楽章のソロといえば良く見るメゾの人です。新日本フィルでもこの人を呼んでいました。世界的にも有名なメゾです。

上手なのは当たり前だとして・・・ドイツが長い人ですが、わざわざ日本人向けの発音をしていましたか?マーラーって2番もそうですが、”sch”の発音が大事だと思っています。特に冒頭の”O、Mensch”「人間よ!」という呼びかけは大事なのですが、あんまり”sch”が聞こえなかった。この曲全体の中でこの第四楽章が、非常に重要な事については下↓に背景をメモしました。

対して第五楽章の児童合唱と女声合唱が素晴らしかった。自動合唱は男子合唱でした・・・そうです。声変わり前の男子児童です。女声合唱がやはり素晴らしかったです。ちゃんとビブラートが聞こえる合唱はいいですね。余裕がある歌声なのでより美しく聞こえます。この五楽章の演奏は極めて秀逸でした。明快で楽しくてやさしくて、そして美しかった。

第六楽章には、「・・・ビ~ム、バ~ム!」と合唱が歌い終わってアタッカで入ります。
わたしなどは、冒頭のバイオリンの「ラ」が聞こえたとたんにすでに泣きモードに入ります。聴衆としては「ラ」を探しに行きますし、その「ラ」がどんな風に聞こえるか、というのがすごく興味のあるところです。この日の読響は、耳を澄まして聞こえるほど静かに入ってきました・・・「泣くのはうーん我慢して」的な。

しかし、そこから「ラレー#ドシラシ#ドレミーファミミーレ・・・」(移動ドだと、ソドーシラソラシドレーミレレード・・・です。となるともう咽せ上がりそうになります。

嘘だと思うなら、これを♩=50ぐらいで、一つのカナ=♩のつもりでゆっくりレガートで歌ってみてください。それだけで「ううっ」ときそうになりませんか。この単純でありながら、しかし平和で高貴なこのメロディはマーラーが使ってしまったのですね。

このフレーズが手を変え品を変え、このフィナーレの楽章中、ピアノになったり、フォルテになったり、流れ続けているわけですから、もうオケの演奏の透明感と完成度が高ければ高いほど、より涙が出てきます。

わたしの瞼に映ったフィナーレの情景はこうです・・・

シンプルでかわいらしい一輪の花が始まりますが、楽章が進んでいく中で、花々が大地全体に広がっていきます。その情景が広がります。しかし晴れ晴れとした大地と、人々の晴れやかな気持ちは、突然嵐に見舞われ、雷まで響きだします。その後は、また晴れやかな大地が目前に広がるという自然への大賛歌。というのがフィナーレの大筋の情景です。しかしわたしなど、花々の情景とともに、亡くなった自分の知人や親の姿が浮かんで見えるので、サントリーホールの天上の方を見上げないと涙がこぼれてきてたまりません。

フィナーレの最後半は、より情景が感動的になります。
スコアの練習番号の21番になって、嵐も収まって、花々が広がる静かな大地が眼前に広がる音楽が、改めて始まります。嵐の後の日の光の到来とともに、救世主が人々に語り掛ける様子が表れて、そして天上から大きな道が表れて説法し、その後にその道に向かう人々の様子が描かれます。

しかし、練習番号23番の前あたりに雲行きが悪くなり、23でドカーンと雷が落ち、神が「お前たちにはまだ足りない。天国に来てはならない」と道が崩れ落ちます。

25番からは、人々はまた静かに、立ち上がって、今度は神、自らが天国から、輝く階段を下ろしてくれました。

自分の目には、最近亡くなった知人や母親の姿をサントリーホールのパイプオルガンのパイプ上に見つけました。さまざまな人々に交じって階段を上っていく様子を見ていました。31からは、一旦天国にたどり着いた人々が、今度は上から下をのぞき込んで「うんうん」とのぞき込んで「元気でね」と言ってくれていました。

この楽章には、天使も悪魔も、神の子も、神も、これまでに救われなかった人々も、家族も、そして自然も、大地も、雷も、土砂降りもありとあらゆる、語られる事・物・人がすべて目の前に現れ、そして最後に亡くなった大勢の人々も、亡くなった自分の知人や親も天上に行き、天上で見守っているという音楽になっています。

最後まで、ずーっと泣かせ続けてくれたフィナーレでした。これまででベストのマラ3のフィナーレでした。知っている音楽をたまに聴くというのは常に新たな発見があるというものですね。「たまに」というのが大事な気がします。何はともあれ、帰途に就いた時はかなり満ち足りた気分でした。


ちょっとマラ3が書かれた背景をメモします。

一楽章の冒頭に戻ります。
暗い幕開けを知らせるホルンのファンファーレの終わりに、スネアの音が入ります。あれがどうも軍隊の行進が止まる際の最後の2歩「ジャン、ジャン」と聞こえて仕方なかったです。

そしてドラ?の音が最後のホルンの音に「ぼわ~ん」と重なっているのに初めて気が付きました。あそこまで鳴らした演奏がなかったかと思います。あれが、どうにもこれから始まる95分の物語の始まりの様に聞こえました。

戦争の絵巻の音楽の始まりに聞こえてしまったわけです。音楽のその後の展開はわかっていますが、そのような響きを与える導入でした。パンフレットによるとホルンのファンファーレは、当時の学生の音楽と書いてありますが、自分はちょっと違う角度から・・・。

マーラーは、帝国主義が活発化した1860年~1911年の人です。51歳で死にました。当時工業地帯だった今のチェコ、ボヘミア出身で、オーストリア・ハンガリー帝国の中で、最も実力を持つ地域の出身でした。

特にマーラーがこの曲を作曲した1890年代中盤は、帝国「内」での自治を求める動きが活発でしたが、第一次世界大戦につながっていくようなドイツ、ロシア、その他周辺国との合従連衡の動きも活発で、さらに、歴史の教科書には出てきませんが、1896年までの数年間は大不況でした。その為に、経済的に人々は貧困で、心は寂れ、世の中が非常にきな臭い状況にありました。70年代中盤以降はワインも病気にやられて市場になかった。

個人的には1895年に弟のオットーが自殺してしまい、すでにハンブルグ歌劇場のカペルマイスターだったマーラーも心に大きな衝撃を受けた年でした。この交響曲第3番はその翌年1896年に完成させています。第2番から2年後でした。

そういう背景から、この第3交響曲が、マーラーのその時の暗い境遇を明確に表していると思います。ホルンからさらに暗いままにオケに引き継がれていきます。一楽章の暗い音楽は「人の世界」、そして長いトロンボーンのソロは、世の中に対する、あるいは弟の死に対する「人の声、あるいは叫び、悲しみ」だと理解しています。

しかしその暗さを打ち消すように軽快な弦や管楽器が入ってきます。トレモロなんかも多用されています。この一楽章の楽しげなメロディーラインは、マーラーにしては口ずさめるほどシンプルなもので好きです。マーラー自身にとってはこれは「天使の声」「小鳥たちの声」とか「自然の喜び」なのかもしれません。世の中は暗く、人の心もすさんでいるけれども、神を信じる事はできるし、自然そのものは美しいままであると。

そして一楽章全体は「人の世界」と「天使の声」が入れ混じって進み、最後には人の世界を自然が包み込み、そして天使たちが、飛び立つように終っていきます。そういう情景でした。

ながーい1楽章の後は、比較的短めの二楽章、そしてまた自然賛歌のながーい第三楽章です。この第三楽章はカウベルこそ使われないですが、まるでアルプスの情景です。

ちょっと演奏に関して・・・ポストホルンは最高音は多分「高ラ」でしょうか。まともに音が当たった人はないです。トランペットだと簡単だとは言いませんが、当たる音でもあの楽器(ポストホルン)だと簡単ではないのです。残念です。

そして第四楽章はアルト独唱。第五楽章はアルト、自動合唱、女声合唱。歌詞は全て宗教に戻づく歌詞です。

第四楽章にどうしてこの詩を選んだか理由があります。
マーラーは、実は1897年にユダヤ教からローマ・カトリック協に改宗します。そしてウィーン国立歌劇場のカペルマイスターに就任します。この第3番完成の翌年です。すなわち3番の思いをしっかりと心に刻んで改宗に踏み切ったと考えられます。改宗は結婚の為だとされますが、全く違うと思います。なぜならアルマとの結婚は41歳の時、5年後ですから。

わたしの解釈はこうです。
マーラーはカペルマイスターとしてワーグナーを指揮しなければならず、一方で、ワーグナーは反ユダヤ主義の世論の最先鋒でした。ユダヤ人として、ほぼ同世代に反ユダヤ主義の活動や出版を行ったワーグナーを指揮する事は、(ナチにつながる)「純血」を求めるキリスト教徒や、不況の責任をユダヤ教徒に押し付けたい人々からだけではなく、ユダヤ人の同志(ボヘミアはユダヤ人がもともと多かった)からの反発も相当にあったはずです。その反発を避けるために改宗したのです。

心から改宗したか?違うでしょう。マーラーは間違いなく敬虔なユダヤ教徒でしたので、この改宗が、たとえ形式だけだったとしてもかなり苦悩を生んだことは間違いないです。

そこで、選んだのがこの第四楽章の詩として採用されているニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」第4部の一節です。同作に基づく音楽と言えばR.シュトラウスが有名ですが、マーラーもずっとその前に使っています。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は1885年に完成された著作です。実はニーチェは当初反ユダヤでしたが、その後、宗教対立を超えた人類の葛藤をこの作品に著しています。ニーチェの思想展開のほとんど絶頂期の作。これはこれはまさにマーラーが欲しかったものだったと思います。神の存在を認めつつ、それが宗教の違いを超えて存在するという事に対する言質を得ることで、改宗に対する苦悩を乗り越えたに違いないのです。宗教を完全に凌駕した世界観ですから、複雑な困難な心境を乗り越えさせてくれたはずです。ここを起点に最後のフィナーレに向かったと思います。

第五楽章の詩は、アヒム・フォン・アルニム(Achim von Arnim, 1781年1月26日 - 1831年1月21日)という人の詩ですが、こちらは第四楽章までで、弟を失った悲しみを克服し、改宗への勇気を得た心境の先に、壮大な人類愛にあふれる第六楽章のフィナーレにつながるためのステップとして用意したと考えています。


今日の演奏家
ピアノ: ピエール=ロラン・エマール
ソプラノソロ: 天羽明惠
指揮: 大野和士

今日の曲目
アルバン・ベルク: アルテンベルク歌曲集 op.4 
ラヴェル: 左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調
マーラー: 交響曲第4番 ト長調

今日の場所
東京芸術劇場(3階前列中央)


ベルクは初めて聞く曲です。天羽さんの声はどんな声か興味津々。曲は現代曲でしたが、ベルクは戦前に生きた人ですのでめちゃめちゃに現代という感じではありませんでした。しかしそれでもイメージのわかない音楽でした。この曲ペーター・アルテンベルク(1859-1919)の詩にアルバン・ベルクが12音技法による曲をつけたものです。短い5曲で構成されています。

最後の第5曲は次のような詩です。都響パンフレットから拝借しました。
 ここには安らぎがある。
  ここでわたしは心ゆくまで泣き明かす。
 ここでわたしの心を焼く、
  はかりしれぬほど深い苦しみが消える。
 ほら、この辺りに人影はなく、
  またここを訪れるものもない。
 ここに安らぎがある!
  雪が音もなく水たまりに降るここに。

何だか訳はわかりませんが暗いですね・・・この歌曲集の歌詞の部分、都響パンフから写真撮ってみました。多分天羽さんの歌声はこの曲にはあっていたでしょうね。憂いを帯びた、大きな歌声でないにも関わらず、そしてフルオーケストラにも関わらず、何となく合っているように思えました。この詩の内容は「冬の旅」の逆の詩の様に見えますよね。人々だけが去っていき、自分はここに寂しくとどまっているというような・・・。わたしなどには12音技法での表現の必然性はわかりまんが、12音技法の方が詩の意味が伝わるのだそうですが・・・本当にそうでしょうか。
アルテンベルク歌曲集 都響パンフより20161127

さて、ラベルの「左手のためのコンチェルト」ですが、ラベル絶頂期の印象派の音楽。この曲はどういう理由かわかりませんが、かかなり前から聞いております。40年ぐらい前にアンドレイ・ガブリロフという当時は若手でしたが、がソロをやっているLPを買ったのです。若かりし頃は、LPに入っている曲は初めて聞く音楽ばかりでした。続けて聴くには、第一印象はかなり重要です。この曲はなん10回も繰り返し聞きました。どうしてこの曲が気に入ったのか全くわかりません。

初めての何かに対して、第一印象が大事というのは、全ての人や状況において同じ事でしょうが・・・

以来、ライブでも何度も見聞きしましたが、今日のエマールがこれまでのベストでした。これまでの演奏家すべてが結構軽く聞こえていました。今日は座席が3階ですので音は遠いですが、素晴らしく力強い音楽でした。あの早引きをあそこまで力強く弾いてくれるとどう考えても素晴らしい演奏でした。指揮者もオケも音楽に載ってきていました。 勝手評価:90点


最後のマーラーの4番。残念ながら少しも面白くない演奏でした。長大な3番と5番に挟まれた、そしてトロンボーンが編成に含まれない、おとなしい室内楽的な、と評される交響曲ですし、3番と5番で使われるエピソードも聞こえてくる曲です。しかしそれでも明暗と緩急は明確な曲であります。

残念ながら管楽器トップ奏者のヴィルトゥオーゾ性が感じられなかったし、何だかパリッとしない感じの音楽なのでした。4楽章のソプラノは天羽さんが歌いましたが、マーラーの4番には十分ではなかった気がします。

前回の都響でも感じましたが、3階席が良くないですかね?全体的に音楽が平面に聞こえました。残念でした。


今日の面々。
指揮: パーヴォ・ヤルヴィ
メゾ・ソプラノ: ミシェル・デ・ヤング
合唱: 東京音楽大学、NHK児童合唱団
ホール: サントリーホール(座席は右手2階)

つくのが早すぎたようです。ホールに入ったら、トロンボーンが一生懸命に練習しています。最初は、ふーんこんなとこでウォーミングアップしてんだ。と思っていたところ、一楽章のソロの練習まで初めてしまったのです。「いやいや、それは本番で・・・」と急いで外に出たのでしたが、十分に外にも聞こえて来ます。余程ソロのペダルトーンが気になるのでしょうね、、、確かにあのソロはありとあらゆるトロンボーンソロの中でボレロ同様に緊張するでしょうね、、、本番はどうなるのでしょうか。と、ここまでは開演前までに書いたことです。

さて、マーラーの第3番は世の中で最も好きな曲の一つ。
前回は読響+テルミカーノフで、その前はな日フィル+忘れました(最近のヤマカズの演奏ではありません)の演奏でした。この間にヤンソンス=コンセルトヘボウが入る予定でしたが、出張でチケットを譲ったという事がありました。

この曲が最も好きな理由は、これ以上に長いフィナーレで、自分自身過去の懺悔ができて、全ての人に幸福を与えて下さい、と願い続けられる曲は無いからです。

これまで涙が頬からこぼれるなどという経験はしたことはありませんでしたが、今日の演奏はフィナーレでマジで涙してしまい震えていました。自分は、涙で視界が滲んでぼんやりとしか見えなかったのですが、確かヤルヴィが指揮棒を下ろしてからも拍手がしばらく出ませんでした。多分多くの人は、自分と同じような感覚にあったと思います。あの素晴らしい長いフィナーレと柔らかいフィニシュ、、、長いフィナーレは、闇の中に天から零れ落ちる光を目指して向かっていくようで、そして最後は、その光の中にようやく行きついて、安堵の感覚に陥ることができたというような和音です、、、その余韻を楽しめるようにあの清寂がずっと続けば素晴らしかったのに・・・静かに始まって怒涛のように鳴り響くという拍手が理想だった・・・。

ポストホルンは長いながーい3楽章のソロを裏で吹かねばならないのです。やはり誰にとってもあのソロは難しいのですね。左手一階の通路で吹いていらっしゃいました。自分の席からは見えました。1楽章のトロンボーンのソロは緊張が抜けた一瞬、音が落ちましたね。でも音色は本番前にさらっていた時よりはるかにふくよかでした。そんな些細な事はどうでもいいのです。N響の金管は圧巻でした。 実は ↑に書いた日フィルでマーラーの第3番を聞いた時のホルンのトップは、今日と同じ福川さんでした。あの後すぐにN響に移ったというのを記憶しています。柔らかい音色は完璧でした。一発も外しませんでしたね。オーボエとコールアングレのあの5楽章のポルタメントは初めて経験しました。あの意図は何なのでしょうか?オカルトっぽいのでしたが・・・

ヤングのソロも素晴らしかったです。暗譜でした。あんなに深いセリフを歌うのですから、暗譜で当たり前とは思うのですが、過去の歌手はそうではありませんでした。声質も表情も素晴らしいと思いました。

思い出深いコンサートになりました。

しかしこのコンサートにはハプニングがありました。
観客はあのことは忘れましょう。

若い彼女に贈ります。
「体調が悪いのを我慢して出たのですね。晴れの舞台があんなことになって恥ずかしいと思っているかもしれない。そして思い切り泣きたかったかもしれない。でもあの5楽章では、後ろのお姉さんたちは、まさに「君よ泣かないで」と歌っていたという事を覚えていてほしい。観客のみんなが君の事を気遣ったと覚えてほしい。ヤルヴィさんも、かわいそうだと思った事を覚えてほしい。6楽章には、観客は君の気持に寄り添って、元気に立ち直ってくれればよいなあと願いつつ演奏を聞いていました。今日の事は傷ついたかもしれない。でも今日の事は後ろにおいて、明日からまた前を向きましょう、そして元気な姿をまた見せてください、と。」

本日のメンツ

指揮: 飯森泰次郎
ソプラノ: 安井陽子
メゾソプラノ: 池田香織
管弦楽: 新交響楽団
合唱: 栗友会

読響、N響に続く昨年から3度目の復活です。アマオケをプロオケと比較するという事にはいささか抵抗はありますが、新響のパフォーマンスはプロです。だから比較します。と言いながらも最後に聞いたのは、20年以上も前前だったきたします。キリスト教の復活祭に近い時期に行われた「復活」だったので行ってみようと思ったものです。飯森泰次郎の様なワグナー指揮者でもこのオケを振るのですから。

昨年来、読響、N響の後の3回目の復活だったのですが、パフォーマンスはアマチュアの域を完全に越えています。ピアノのアンサンブルは粗いです。個々の演奏家のヴィルトゥオーゾ性は低いと思われました。プロなら微妙な音の受け渡しにはもっと洗練されているでしょう。しかしフォルテシモは多分読響よりも、N響よりも素晴らしいエネルギー感があります。マーラーにはそれが大事です。

アマオケには「明日も演奏しなければならない」がないので、遠慮がなくフォルテが鳴らせるというのは事実ですが、破たんすればそれも「あーアマだしね」という事になります。しかしそれは全くなく、それどころか最後の3度を効かせた和音で完璧なクレッシェンドができるほどの「復活に向けての」エネルギーを持っていました。

N響よりも読響よりも格段に素晴らしかったのはソロと合唱です。ソロがちゃんと聞こえるのは大事ですが、合唱の「Auferstehen」がしっかりと聞こえていました。栗友会という間違いなく日本一のセミプロ合唱団が「復活」を歌っているので、東京音大の学生たちの合唱とは断然違って、良い意味でふてぶてしい高揚感とエネルギーがありました。N響の時に感じた「合唱が弱い、痩せている」という事は全くなく、音楽に重厚さと真実らしさを与えるばかりでした。

いやはや素晴らしい「復活」でした。


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