テレビアニメ版『ハルヒ』の長所は、非日常的空間の演出にある。普通の男子高校生・キョンの日常に突如として侵入してくる、迷惑な女子高生・ハルヒと宇宙人・長門有希と未来人・朝比奈みくる。しかも、ハルヒが憂鬱になると、世界の秩序が崩壊し、全人類滅亡の危機が訪れるというのだ。日常に出現した非日常。これをキョンは鬱陶しがっているように見えるが、実は喜んでいる。喜ぶという行為は極めて日常的であるが、SF的非日常的空間の中に、喜びに代表される日常性がチラリと垣間見える様子。それこそが、『ハルヒ』の真骨頂だ。

劇場版『ハルヒの消失』がやってしまった失敗とは、キョンが非日常に感じていた日常的喜びを前面化してしまったことにある。ハルヒがいないと寂しいとか、長門有希の抱えるバグは人間的感情であるとか。あるいはその長門有希が、改変後の世界では、読書好きで内気な普通の女子高生である設定など。ハチャメチャな非日常は、そのままで十分楽しいのである。今更非日常が恋しいなどと、大上段に振りかぶる必要はない。それはテレビアニメを見ていれば分かること。わざわざ映画にして、それも2時間40分もの長尺で、改めて言いなおすほどのことか。『ハルヒ』の使命は、テレビアニメだけで果たされている。映画を作る必要が、一体どこにあったのだろうか。劇場版でまた金儲けをとの企みが働いた、安易な決定としか思えない。


テレビアニメ版『ハルヒ』の魅力は、その非日常性にあった。非日常的な世界では、意思疎通もままならない。キョンの言うことなど、ハルヒの耳には入らない。ハルヒはハルヒで、一方的な要求をSOS団に呑みこませる。黙ってそれを受け入れるSOS団。これはディスコミュニケーションだ。本来ディスコミュニケーションは不愉快なはず。なのに、話が通じないのに、なぜか居心地がいいキョン。ディスコミュニケーションは、普通の人間にとって日常的であって欲しくないと願うもの。キョンもそう願っているようだが、いつの間にかキョンにとって、そのディスコミュニケーションが日常になっている。話が通じないことは、本来は嫌で、日常的であって欲しくない状況であるはず。それがどうしたことか、不思議なことに、キョンの好もしい日常へと転じている。転倒状態の妙が、『ハルヒ』の『ハルヒ』たる所以。注意したいのは、あくまでも作品世界の基軸は、日常性にはなく、非日常性にあるという点。非日常性あったればこその日常性なのだ。

それがどうだろう。『ハルヒの消失』では、キョンがハルヒのいた非日常を愛していたと告白してしまい、長門有希がキョンを愛しており、最後の最後にキョンと長門は両思いになったかのようだ。普通の人を平凡に愛する。これは日常的営みだ。愛していると明確に意識している状態。これは、常識的な相手と常識的に話が通じている状態を指す。コミュニケーションが成立してしまっている。話がまともに通じることは、一般的な理解では日常の範疇に属する。そういうことにしておかなければ、もし話が通じる状態を非日常としてしまったなら、社会生活が成り立たないだろう。よって、「コミュニケーションの成立=日常」という図式が成立する。そんなもの、わざわざ『ハルヒ』シリーズで扱うほどのテーマか。キョンの愛は「非日常への愛」であって、「平凡な日常への愛」であってはならない。「日常への愛」なら、そんじょそこらの安っぽいアニメや三文ドラマで散々やってくれている。


非日常性は、そのままSF的設定とも言い換えられる。気付かぬうちに世界の命運を握ることとなった女子高生。その女子高生を暴走させないよう、密かに監視する宇宙人と未来人。『ハルヒ』のいいところは、設定の上手さである。上記の状況が成立している構図だけで面白い。別にそれぞれのキャラクターの内面を深く掘り下げなくともよい。人間心理を斟酌せず、設定の面白さだけで強引に押し切ってしまわなくては、『ハルヒ』とはいえない。キョンの愛は、SF的設定への愛とも換言できる。断じて、安直な人間愛などではない。

『ハルヒの消失』では、分不相応なことに、頑張って各キャラクターの内面に沈潜しようとしているようだが、ハッキリ言って、このアニメで人物の抱える悩みや何やらを炙り出すべきではない。そんな暑苦しいことをしてはいけないのだ。人間の中身を掘り下げることにかけては、『ハルヒ』など逆立ちしても適わない映画や小説、アニメがゴマンとある。間違えてはいけない。たとえキョンが本当にハルヒや長門をまともに愛していたとしても、恥ずかしくて言えないはず。ハルヒや長門への愛を口にした瞬間、それは幻滅に変わる。『ハルヒ』が普通のアニメへと転落する瞬間の到来である。クールに斜に構えてこそ『ハルヒ』なのだ。


奇しくも私今日鑑賞した、黒澤明の『羅生門』(後日レビューする)で上田吉二郎が口にした、「人間なんてそんなもんよ(=汚いことをするものだ)」という台詞と、『ハルヒの消失』でキョンが口にした、「長門がエラーやバグだと思っていることは、人間だったら当然ある感情なんだ」という台詞の意味するところは、全く同じ。私は両作を立て続けに鑑賞したから言える。人が抱える苦しみや執着や欲望の映像的表現に関しては、『ハルヒ』など、『羅生門』の比ではない。「人間の熱情」という土俵に立って勝負すれば、『ハルヒ』に勝ち目はない。黒澤作品にどうやって太刀打ちするつもりか。製作者にそのつもりはなくとも、黒澤作品がやったことと、まるでベクトルは一緒。どうせ人間を深く見つめるなら、黒澤作品と同等のレベルを目指すぐらいの志の高さがなくては。そう見られても仕方がない。現にこの私は、そういう目で映画とアニメを観ている。高みを目指す気もないのなら、中途半端に人の心をいじくるべきではない。出来もしないことをやってどうする。

またまずいことに、「ロボットだろうがアンドロイドだろうが人工知能だろうが心はある」というキョンの言葉は、幾度となくロボットアニメやSF映画で用いられた常套句である。『アトム』や『009』や『ブレードランナー』で、こちとら先刻承知なのである。使い古しで、カビの生えたような台詞などに気を回さず、非日常的箱庭ワールドだけ展開しておけばそれでよかったのだ。『ドラえもん』の劇場版を真似して、テレビで笑わせ映画で泣かせることもない。あんなもので感動させられるとでも思ったか。観れば観るほど冷める一方。熱いアニメでお客の心を冷ましてどうする。


なぜ、こんなアニメ映画を作ったのか。時間と金銭と労力の、壮大なる無駄遣いでしかない。水曜日に『ハルヒの消失』の監督が文化博物館に座談会で来訪するから、そこを問い質したい。あくまでも婉曲的にね。批判的調子は微塵も見せずにね。

こんなアニメ程度の「熱さ」に感涙で咽び泣いている暇があれば、古典的映画やアニメやマンガや小説に触れておかねばならない。「熱さ」では『ハルヒ』など軽くいなせる作品が、そこかしこに転がっているのだから。若いヲタの皆さんには、「温故知新」という言葉を贈りたい。昔を知らずして今を語る勿れ。