監督:宮崎駿、脚本:宮崎駿、山崎晴哉
~ぶんぱく青春映画祭 ヨリ道ノススメ~
『ルパン三世』劇場版第2作。
正味約半年で練り上げた作品。ほぼ同じ尺の『コクリコ坂から』は3年がかり。予算も時間もスタッフも遥かに潤沢な『コクリコ』がどうしてああで、これがこうなのか。宮崎吾朗が、父親が成し遂げたこの偉業から学ばねばならない点は、それこそ山のようにある。
出色は動きの緩急。こればっかりはアニメーターとしての資質の差といってしまえば身も蓋もないけれども、動きを形作るコツを掴むにはもってこい。宮崎駿特有の、ケレン味溢れるデフォルメの利いた動き。動きのツボを心得たアニメート。観る者の心を鷲掴みにする。奇妙奇天烈なアニメーションならではの動きに歓声が挙がっていた。これを聴くためだけにでも劇場へ行く甲斐がある。1人でDVDを観たって、客の反応は分からない。
宮崎駿は食べる動作が凄いとか、走りが凄いとか、よく耳にする賛辞ではあるが、やたらめったら動かしっぱなしなのではない。動きを生かす「止め」、静止状態の使い方が上手い。人間は、激しく動く動画をずっと見せられ続けると、疲れきってしまう。「止め」が入ることで一息つける上に、静止を差し挟むと、動きもよりダイナミックな印象を与える。伝説の、あの城の屋根をルパンが跳ね回るシーン。よく観て?ね?ずっと動いてないでしょ?空中で股を180度に開いて、ビヨーンと静止。また動き。動きが生きるし、おまけに止まっているところまで躍動感が出てくる。これぞアニメーションでしょうが。
「動き-動き-動き・・・」の連続は避け、「動き-止め-動き-動き-動き-止め-止め-動き・・・」と緩急をつけるのが肝要。余談ながら、『タンタンの冒険』でアニメーションに進出したスピルバーグも、これが分かっていない。分かっていても出来ないのかな。速い動きに頼りすぎるスピルバーグに、止めも動きも中途半端な宮崎吾朗。彼らとは雲泥の差がある。
動きの緩急は、ドラマ全体の緩急とも関連性が深い。このアニメ全体の劇構造が、「急-緩-急-急-急-緩-緩-急・・・」という具合に、緩急の組み合わせで成り立っているのだ。ドラマ全体で作られたリズムが、緩急ある動きのパートへとスムーズに導いてくれる(『タンタン』はこれも失格)。そしてまた、動きの緩急がドラマの緩急へのガイド役ともなる。緩急の入れ子構造。この連環、連鎖が気持ちいい。
岡田斗司夫が、このアニメのオープニングクレジットのバックに流れる、セルの引っ張りを題材に、いかに宮崎駿の手抜きが巧妙かを解説しているが、事はその部分だけに限らない。全体を通じて、手抜きが上手い。手抜きを手抜きに見せない手抜き。プロの仕事である。
先に述べた、ドラマ全体の緩急の流れ。そのうち、「急」のパートは、ギャグパートであり、活劇パートである。ここはアクション。アクションの中に「止め」を交えて、カタルシスをより高める。アニメーターの腕の見せ所。一方、「緩」のパートでは、設定や背景をキャラクターに喋らせたり(ここは余り好きではない。頭がこんがらがる。)、扇情的な音楽を流したりして、動きのない単調さを補っている。「緩」のパートは言葉や音の情報量で勝負、「急」のパートは動きの密度で勝負。客を飽きさせず、興味を繋ぎ止める工夫を凝らしている。
こうした措置はまた、過密スケジュールをやりくりするため、止む無く採用したものともいえる。時間がない。手はかけられない。だが手抜きを感付かれてはならない。ドラマ全体のリズムを損なってはダメ。そこで、こうした緩急の付け方、及び巧妙な手抜きの数々が編み出されたわけだ。制約だらけのテレビアニメ制作現場で日々格闘しながら、宮崎駿が身に付けていった手法でもある。
どんな仕事でも、必ず制約は付き物。制約のない仕事などない。限られた条件の中で、どれだけ個人の独自性を打ち出せるか。これでプロとしての真価が問われる。宮崎駿は、見事その要求に応えたのだ。それもただの条件達成ではない。ハイレベル。この上なくハイレベル。
制作スケジュールの制約を、緩急のリズムと巧妙な手抜きで乗り切る。『ルパン三世』という作品ジャンルの縛り、キャラクター縛りを逆手に取って、古典的なモチーフである「囚われの姫君救出譚」を、ひょうきんな大泥棒・ルパン三世にやらせる。お城の塔が舞台の大活劇は、先行作品である『王の鳥』や『長靴をはいた猫』へのオマージュであり、ルパンが歯車に巻き込まれてあたふたするのは、どう考えても『モダン・タイムス』が元ネタ。過去のアニメーションや実写をどれだけ宮崎駿が吸収していることか。そしてその学習成果を、宮崎なりに消化してオリジナリティへと昇華させていることか。アニメーターの絵を描く動きは、潜在意識の現れであるとも聞くから、あのケレン味たっぷりの動きを目の当たりにすることで、思わず「口をついて出た」ならぬ、「手をついて出た」宮崎駿の「思想」をもまた、我々は目の当たりにすることとなる。
このアニメのタダモノでないところは、それだけで終わらないところにある。宮崎駿は、テレビアニメの劇場版という、娯楽性かつ商業性の求められるメディアで、極めて私的な趣味の表明と、テレビアニメというジャンル全体への自嘲を込めている。
私的な趣味の表明とは、それはもう、もちろん、駿のロリコン趣味。この作品の善悪の両巨頭、ルパンとカリオストロは、両者ともに美少女・クラリスを欲するものの、結局どちらもモノにはできない。あからさまに略奪の意思を表明したカリオストロは時計台の露と消え、紳士を気取るルパンはやせ我慢を貫き通す。エエ年したオッサンのロリコン趣味は、所詮満たされない。そんな危険極まりない趣味は、心の隅っこにしまっておくものである。という宮崎駿の鳴らす警鐘。そしてそんな警告をアニメ映画でやってしまい、自分の分身としてのルパンの声として、これまた自分の分身としてのカリオストロに、「このロリコン!」と非難させる自虐性。ルパンとカリオストロは、駿の中にどっかり根を下ろした、相容れない、けれど実は似たもの同士の、光と影。自分の胸に飛び込んできた意中の美少女を深く抱くことも出来ず、アニメキャラとしてしか接することのできない、駿のやるせなさがひしひしと伝わってくる。
それがまた、アニメジャンルへの皮肉めいた描写へも繋がる。銭形がクラリスに断言する。ルパンは貴方の心を奪っていったのだ、と。だが本当にそうだろうか。たかがアニメ如きで、人間の手で容易に消し去れるキャラクター如きに、人の心を奪い去ることなど出来ようか。心を奪い去ったといったって、あくまでもアニメという狭い箱庭の中での話。所詮は際限のない、エンドレスな空騒ぎに興じるのが関の山ではないのか。銭形の「名言(迷言?)」の後に即、いつもの銭形に追いかけられるルパン一味が映し出されるのは、アニメ、殊にテレビアニメ全体への問題提起のように、私などには思えるのだが。
それは取りも直さず、宮崎のしばしば発する忠告、「私のアニメばかり観てないで外で遊べ。」の意でもあり、イコール「私を反面教師にしろ。アニメなんかに憧れるな。じゃないと、危ないロリコン趣味を公衆の面前に晒して、明日をも知れぬヤクザな稼業でお茶を濁す羽目になるぞ。」の意でもある。
また、終わりのないゲームに現を抜かす人間たちを皮肉って描いたという点では、数年後にこのモチーフを正面切って採用した、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』の先駆けでもある可能性あり。押井守は何らかの形で、この映画を参考にしたのではないか。どちらもある意味アニメを小ばかにした、自虐的かつ自己言及的アニメなのだからして。
今月いっぱい、毎週土日、京都文化博物館では、1970年代末以降の、日本の劇場用アニメーションの代表的作品が上映される。これを劇場で、元の形で鑑賞出来るというのは、私にとって望外の喜びだ。さあ、明日は『999』だぞ。
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⇒3年半後に観直した結果。
〔於 京都文化博物館フィルムシアター H-10 02.04 17:00~18:40〕
~ぶんぱく青春映画祭 ヨリ道ノススメ~
『ルパン三世』劇場版第2作。
正味約半年で練り上げた作品。ほぼ同じ尺の『コクリコ坂から』は3年がかり。予算も時間もスタッフも遥かに潤沢な『コクリコ』がどうしてああで、これがこうなのか。宮崎吾朗が、父親が成し遂げたこの偉業から学ばねばならない点は、それこそ山のようにある。
出色は動きの緩急。こればっかりはアニメーターとしての資質の差といってしまえば身も蓋もないけれども、動きを形作るコツを掴むにはもってこい。宮崎駿特有の、ケレン味溢れるデフォルメの利いた動き。動きのツボを心得たアニメート。観る者の心を鷲掴みにする。奇妙奇天烈なアニメーションならではの動きに歓声が挙がっていた。これを聴くためだけにでも劇場へ行く甲斐がある。1人でDVDを観たって、客の反応は分からない。
宮崎駿は食べる動作が凄いとか、走りが凄いとか、よく耳にする賛辞ではあるが、やたらめったら動かしっぱなしなのではない。動きを生かす「止め」、静止状態の使い方が上手い。人間は、激しく動く動画をずっと見せられ続けると、疲れきってしまう。「止め」が入ることで一息つける上に、静止を差し挟むと、動きもよりダイナミックな印象を与える。伝説の、あの城の屋根をルパンが跳ね回るシーン。よく観て?ね?ずっと動いてないでしょ?空中で股を180度に開いて、ビヨーンと静止。また動き。動きが生きるし、おまけに止まっているところまで躍動感が出てくる。これぞアニメーションでしょうが。
「動き-動き-動き・・・」の連続は避け、「動き-止め-動き-動き-動き-止め-止め-動き・・・」と緩急をつけるのが肝要。余談ながら、『タンタンの冒険』でアニメーションに進出したスピルバーグも、これが分かっていない。分かっていても出来ないのかな。速い動きに頼りすぎるスピルバーグに、止めも動きも中途半端な宮崎吾朗。彼らとは雲泥の差がある。
動きの緩急は、ドラマ全体の緩急とも関連性が深い。このアニメ全体の劇構造が、「急-緩-急-急-急-緩-緩-急・・・」という具合に、緩急の組み合わせで成り立っているのだ。ドラマ全体で作られたリズムが、緩急ある動きのパートへとスムーズに導いてくれる(『タンタン』はこれも失格)。そしてまた、動きの緩急がドラマの緩急へのガイド役ともなる。緩急の入れ子構造。この連環、連鎖が気持ちいい。
岡田斗司夫が、このアニメのオープニングクレジットのバックに流れる、セルの引っ張りを題材に、いかに宮崎駿の手抜きが巧妙かを解説しているが、事はその部分だけに限らない。全体を通じて、手抜きが上手い。手抜きを手抜きに見せない手抜き。プロの仕事である。
先に述べた、ドラマ全体の緩急の流れ。そのうち、「急」のパートは、ギャグパートであり、活劇パートである。ここはアクション。アクションの中に「止め」を交えて、カタルシスをより高める。アニメーターの腕の見せ所。一方、「緩」のパートでは、設定や背景をキャラクターに喋らせたり(ここは余り好きではない。頭がこんがらがる。)、扇情的な音楽を流したりして、動きのない単調さを補っている。「緩」のパートは言葉や音の情報量で勝負、「急」のパートは動きの密度で勝負。客を飽きさせず、興味を繋ぎ止める工夫を凝らしている。
こうした措置はまた、過密スケジュールをやりくりするため、止む無く採用したものともいえる。時間がない。手はかけられない。だが手抜きを感付かれてはならない。ドラマ全体のリズムを損なってはダメ。そこで、こうした緩急の付け方、及び巧妙な手抜きの数々が編み出されたわけだ。制約だらけのテレビアニメ制作現場で日々格闘しながら、宮崎駿が身に付けていった手法でもある。
どんな仕事でも、必ず制約は付き物。制約のない仕事などない。限られた条件の中で、どれだけ個人の独自性を打ち出せるか。これでプロとしての真価が問われる。宮崎駿は、見事その要求に応えたのだ。それもただの条件達成ではない。ハイレベル。この上なくハイレベル。
制作スケジュールの制約を、緩急のリズムと巧妙な手抜きで乗り切る。『ルパン三世』という作品ジャンルの縛り、キャラクター縛りを逆手に取って、古典的なモチーフである「囚われの姫君救出譚」を、ひょうきんな大泥棒・ルパン三世にやらせる。お城の塔が舞台の大活劇は、先行作品である『王の鳥』や『長靴をはいた猫』へのオマージュであり、ルパンが歯車に巻き込まれてあたふたするのは、どう考えても『モダン・タイムス』が元ネタ。過去のアニメーションや実写をどれだけ宮崎駿が吸収していることか。そしてその学習成果を、宮崎なりに消化してオリジナリティへと昇華させていることか。アニメーターの絵を描く動きは、潜在意識の現れであるとも聞くから、あのケレン味たっぷりの動きを目の当たりにすることで、思わず「口をついて出た」ならぬ、「手をついて出た」宮崎駿の「思想」をもまた、我々は目の当たりにすることとなる。
このアニメのタダモノでないところは、それだけで終わらないところにある。宮崎駿は、テレビアニメの劇場版という、娯楽性かつ商業性の求められるメディアで、極めて私的な趣味の表明と、テレビアニメというジャンル全体への自嘲を込めている。
私的な趣味の表明とは、それはもう、もちろん、駿のロリコン趣味。この作品の善悪の両巨頭、ルパンとカリオストロは、両者ともに美少女・クラリスを欲するものの、結局どちらもモノにはできない。あからさまに略奪の意思を表明したカリオストロは時計台の露と消え、紳士を気取るルパンはやせ我慢を貫き通す。エエ年したオッサンのロリコン趣味は、所詮満たされない。そんな危険極まりない趣味は、心の隅っこにしまっておくものである。という宮崎駿の鳴らす警鐘。そしてそんな警告をアニメ映画でやってしまい、自分の分身としてのルパンの声として、これまた自分の分身としてのカリオストロに、「このロリコン!」と非難させる自虐性。ルパンとカリオストロは、駿の中にどっかり根を下ろした、相容れない、けれど実は似たもの同士の、光と影。自分の胸に飛び込んできた意中の美少女を深く抱くことも出来ず、アニメキャラとしてしか接することのできない、駿のやるせなさがひしひしと伝わってくる。
それがまた、アニメジャンルへの皮肉めいた描写へも繋がる。銭形がクラリスに断言する。ルパンは貴方の心を奪っていったのだ、と。だが本当にそうだろうか。たかがアニメ如きで、人間の手で容易に消し去れるキャラクター如きに、人の心を奪い去ることなど出来ようか。心を奪い去ったといったって、あくまでもアニメという狭い箱庭の中での話。所詮は際限のない、エンドレスな空騒ぎに興じるのが関の山ではないのか。銭形の「名言(迷言?)」の後に即、いつもの銭形に追いかけられるルパン一味が映し出されるのは、アニメ、殊にテレビアニメ全体への問題提起のように、私などには思えるのだが。
それは取りも直さず、宮崎のしばしば発する忠告、「私のアニメばかり観てないで外で遊べ。」の意でもあり、イコール「私を反面教師にしろ。アニメなんかに憧れるな。じゃないと、危ないロリコン趣味を公衆の面前に晒して、明日をも知れぬヤクザな稼業でお茶を濁す羽目になるぞ。」の意でもある。
また、終わりのないゲームに現を抜かす人間たちを皮肉って描いたという点では、数年後にこのモチーフを正面切って採用した、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』の先駆けでもある可能性あり。押井守は何らかの形で、この映画を参考にしたのではないか。どちらもある意味アニメを小ばかにした、自虐的かつ自己言及的アニメなのだからして。
今月いっぱい、毎週土日、京都文化博物館では、1970年代末以降の、日本の劇場用アニメーションの代表的作品が上映される。これを劇場で、元の形で鑑賞出来るというのは、私にとって望外の喜びだ。さあ、明日は『999』だぞ。
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⇒3年半後に観直した結果。
〔於 京都文化博物館フィルムシアター H-10 02.04 17:00~18:40〕
つまりブログ主様にとってはまさに図星を突かれたということですね