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父親

矛盾っていいな『恋におちて』【2回目の映画評】:SSSSS+++++ ⇒ 殿堂入り外国映画第44号5

『恋におちて』(1984年、アメリカ 106分)
監督:ウール・グロスバード、脚本:マイケル・クリストファー
午前十時の映画祭7 1本目。


またつまらぬ映画を観てしまった。

恋におちて [DVD]
ロバート・デ・ニーロ
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
2006-09-08


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クリス松村が気になって仕方ない


あの作り笑顔と、荒れた肌と、分厚い唇の裏側にある、途轍もなく歪みまくった何かを想像してしまう。歪んだヤツは大好きだよ。人間少々歪んでるぐらいがちょうどいい。メッチャ歪んでるヤツはもっといい。



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台湾格差社会の実相『郊遊〈ピクニック〉』:A++4

『郊遊〈ピクニック〉』(’13、台湾/フランス 138分)

監督:蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)
脚本:董成瑜(ドン・チェンユー)、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)、鵬飛(ポン・フェイ)
世界に羽ばたく隣国の映画監督特選集・3本目。


台湾の都会は日本とよく似ている。今に始まったことではない。昔からそうだった。日本が数歩先んじて、台湾がその後を追う。『恋恋風塵』を観たときもそう思った。親日的な台湾人のことだ。日本をお手本に街づくりを進めてきたのだろう。

台湾映画と知らずにこれを観たら、多くの日本人は日本のどこかと勘違いするのではないか。横断歩道の白線と自転車道のマーク。大型ショッピングセンターの商品陳列。台湾新幹線の車体と走行音。日本人の目に耳に馴染んだ風景。それもそのはず。台湾新幹線の技術供与は、JR東海とJR西日本が担っておるのであ~る。



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アカデミズムという砦『フットノート』:S+++4

『フットノート』(’11、イスラエル 106分)

監督・脚本:ヨセフ・シダー
三大映画祭週間2014 5本目。


象牙の塔に籠る研究者は、選りすぐられた奇人変人の集まりだ。一般市民には瑣末な事柄が、彼らには生死を分かつ一大事であったりする。

それはここ日本のみならず、パレスチナとの仁義なき戦いに明け暮れるユダヤ教国家・イスラエルでも同じ。イスラエル映画でありながら、この作品には戦争や紛争の影も形もない。学者にとっては学術研究が全てなのだから。

※そもタルムードとは何ぞや?
タルムード入門〈1〉
A. コーヘン
教文館
1998-07


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森は待ってはくれない『ロンドン・リバー』:S+4

『ロンドン・リバー』(’09、アルジェリア/フランス/イギリス 88分)
監督・脚本:ラシッド・ブシャール
三大映画祭週間2014 3本目。


2005年7月7日にロンドンで発生した同時多発テロ。以来音信不通になった娘を捜す母親。消息を絶った息子を捜す父親。文化も宗教も国籍も違う母親と父親。娘と息子が恋人同士で、爆破テロの標的にされたバスに同乗さえしていなければ、何の接点もないまますれ違ったであろう2人である。



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パパが封印解いちゃった『モスラ』(1996年版):B3

『モスラ』(’96、東宝映画 106分)
監督:米田興弘、特技監督:川北紘一、脚本:末谷真澄
京都みなみ会館 大怪獣大特撮大全集 7本目。
平成モスラシリーズ第一作。


森林破壊でしょう?仕事一筋で家庭を顧みない父親でしょう?隙間風吹く夫婦仲に兄妹仲?父親が工事現場で掘り出した「正体不明のペンダント」は魔物封じの盾で、封印が解けた所から怪獣デスギドラが出現。対抗すべく立ちはだかるモスラ親子。夫と妻が助け合い、兄と妹も助け合う。自然再生の物語は家族再生の物語。

「父性=男性性=近代文明=デスギドラ」と、「母性=女性性=大自然=モスラ」と。乱開発と森林伐採に走る父親の勤務先が「豊国商事」。わかりやすすぎでしょ。昭和特撮が用意した怪獣映画の祖形を、平成特撮でもそのまま継承。パターン読めた。30秒とかからんかった。



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悪あがきサラリーマン川柳『ポリス・ストーリー/レジェンド』:B+3

『ポリス・ストーリー/レジェンド』(’13、中国 110分)
監督・脚本:ディン・シェン
シリーズ第6作。


第1作を観てしまった行き掛かり上、最新作を観ないわけにはいかない!

「レジェンド」と銘打ったジャッキー・チェン入魂の一本。そこには、近頃つれなくなった娘にヘーコラ許しを請う、「生ける伝説」の変わり果てた姿があった。

キャッチコピーは「娘に愛されたいのに愛されない、世界中のかわいそうなお父さんへ・・・」で決定やな。あの頃のジャッキーに胸躍らせたファンの一体誰が、こうなることを予想したであろう。

※最高傑作か最高失策かは客が決めることや。


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どぶよ、輝く星となれ『醜聞(スキャンダル)』:SS+++5

『醜聞(スキャンダル)』(’50、松竹大船 104分)
監督:黒澤明、脚本:黒澤明、菊島隆三
生誕100年記念 早坂文雄の映画音楽世界・5本目。


新進画家の三船敏郎と、売れっ子声楽家の山口淑子が、たまたま同じ宿に居合わせたところをパパラッチされ、ありもしない恋仲を週刊誌にスクープされてしまう。「恋はオートバイに乗って」。よくできたキャッチコピーも手伝い、オートバイに2人乗りする「カップル」のポスターがそこかしこに出回る。事実無根と憤慨した三船敏郎は、週刊誌を相手取って裁判を起こす。

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決して目を離してはならぬ『ブランカニエベス』:A+4

『ブランカニエベス』(’12、スペイン/フランス 104分)
監督・脚本:パブロ・ベルヘル


スペイン語で「白雪姫」を意味する「ブランカニエベス(BLANCANIEVES)」。サイレント映画版白雪姫なのだが、グリム童話やディズニーの『白雪姫』をなぞることなく、大幅にアレンジされている。物語の前半は『小公女』と『秘密の花園』だしね。『白雪姫』に突入するのは、少女が大人の扉に手をかけた後半から。毒リンゴも食べるし、王子様のキスもあるにはあるけど、趣向を凝らした仕掛けがいろいろと。

※グリム童話版は意外に知られていない。長くなるのでここではお話ししません。水曜日に授業でたっぷり喋りました。
白雪姫 (グリム童話)
グリム
西村書店
2005-10


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木村晶彦は、これからの記憶を愛すると誓います。『ペコロスの母に会いに行く』:SSSSSS++++++(第5回) ⇒ 殿堂入り日本映画第4号 5

『ペコロスの母に会いに行く』(’13、「ペコロスの母に会いに行く」製作委員会 113分):おかわり
監督:森崎東、脚本:阿久根知昭


あけましておめでとうございます。本年もご愛顧とお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。ペコリ・・・のご挨拶もそこそこに、元旦も休まず映画評をお届け。大晦日に観た映画をお正月に評論。2013年の終幕が2014年の開幕となる。終わりは始まり。粋な趣向でございましょう?

それをやるからにはこれしかないと、先年12月の初旬から心に決めておりました。『ペコロスの母に会いに行く』。これを2013年の最後に見直して、2014年の最初に評する。過去・現在・未来を超越する記憶がテーマですから、このタイミングで行くべし。そして狙い通り。おかげで悪い憑き物がキレイサッパリ落ちました。最高の厄払いができた。映画に大感謝を捧げたい。

4回もレビューしておいて、まだ褒めるのか?褒め足りないのか?ええ、そうです。まだ褒めます。褒め足りません。いい映画には発見がある。何度観ても、その都度発見がある。

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父と娘は鏡と鏡『もらとりあむタマ子』:A4

『もらとりあむタマ子』(’13、『もらとりあむタマ子』製作委員会 78分)
監督:山下敦弘、脚本:向井康介


長い長いモラトリアムを経た大学生が、いよいよ就職活動する段になって、誰しも直面する悩み。私には、僕には、特徴がない。

企業にアピールするには、他の誰にもない自分らしさが決め手になる。その自分らしさが、自分にはない。ないものはない。あるのかもしれないが、今の自分にはわからない。それなのに、あるように見せかけざるを得ない。「没個性」の烙印を押されてしまえば、即落伍者である。


映画の主人公。大学を出て、1年も2年も父親のすねかじりがやめられないタマ子の前田敦子は、悩ましい「当世若者気質」を表現するには最適の人材だ。前田敦子の売りは、特徴がないことである。特徴がないことが特徴になる。それが今という時代である。

彼女に特徴があるとすれば、あの喋り方だろう。舌っ足らずで低い声。キンタロー。のモノマネは声真似でしょう?それも歌じゃなくてトークの。この映画は音楽がないので、特徴的な声がより際立つ。



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サイレントは音楽が命『二人のブルディ』:B(作品解説編)3

『二人のブルディ』(’29、ソ連 65分)
監督:レフ・クレショフ、ニーナ・アガジャーノワ=シュトコ、脚本:オシップ・ブリク
モンタージュ理論を生み出した男―レフ・クレショフ傑作選・1本目。
サウンド版。


屁理屈は散々垂れました。ここからが本番。

敢えてタイトルにした通り、無声映画にとって、音は超重要なのである。音がないフィルムであるからこそ、後から付けられる伴奏音楽その他によって、作品の出来不出来が大きく左右される。ライヴパフォーマンス的要素が物を言う。この点、無声映画は映画でありながら演劇に近い。

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父親かて取り替えの利かん仕事やろが!!『そして父になる』:SS++5

『そして父になる』(’13、「そして父になる」製作委員会 120分)
監督・脚本:是枝裕和


子供を撮らせたら、今の日本映画界で是枝裕和の右に出る者はいない。そう断言しても過言ではない子供たちの自然さ。設定はある程度用意されているにしても、お芝居は要求されているのかな。あれが芝居には見えないんだよなあ。元が学校ドキュメンタリーで世に出た人だから、子供の扱いはお手の物なのだろう。

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神の子を授かった男『自転車泥棒』:A++4

『自転車泥棒』(’48、イタリア 84分)
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ、脚本:チェーザレ・サヴァッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ
第20回大阪ヨーロッパ映画祭
※多分VHS上映。


戦後イタリア映画に巻き起こった新潮流、ネオレアリズモの代表作。文字通り、自転車泥棒に遭う男の災難と窮状のドラマ。泥棒された主人公が、主客転倒して最後は泥棒に走るという、何とも切羽詰まったお話。

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子供がまぶしい『パパの木』:SS++5

『パパの木』(’10、オーストラリア/フランス 100分)
監督・脚本:ジュリー・ベルトゥチェリ


映画の楽しみのひとつは、大人になった自分が忘れていたもの、子供の頃には確かにあった日常を、ありありと再現して思い出させてくれることにある。この映画こそは、まさしくそうであった。

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『ローリング・サンダー』(’77、アメリカ 97分)・・・A+4

監督:ジョン・フリン、脚本:ポール・シュレーダー、ヘイウッド・グールド
70年代アメリカ映画/血と汗のアクション! 1本目。


ベトナムから帰還した空軍少佐(ウィリアム・ディベイン)が、家で息子と戯れる。ん?おかしいぞ。いやいや。留守がちな父親というのは、息子にとってある種怖い。近寄り難いものだ。普段男の気配が皆無な家に、しかもそのセンターポジションに、男の気配が充満している。あれは戸惑う。ちょっと迷惑。実体験ありますから。

ましてやここの息子は、1歳半で出征した父親を見送ったきり、記憶がない。そんな少年が、慣れ親しんだ記憶のない、赤の他人の男と、ああも仲睦まじくベッドで戯れられようか。

察するに、父親が帰ってくる直前、母親から「あの人がお父さんよ。戦争で捕虜に取られて、酷い目に遭ったのよ。慰めてあげましょうね。」とでも言い聞かされたか。はたまた、その母が同棲している男にどうしても懐けなくて、不意に現れた実の父親の方に、「避難場所」を求めたか。いろいろ勘繰りたくなる。

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『ニンゲン合格』(’99、大映 109分)・・・S4

監督・脚本:黒沢清
ぶんぱく青春映画祭 ヨリ道ノススメ2 21本目。


交通事故で14歳から昏睡状態だった少年が、10年後、24歳で目覚めて、はてさてどうなることやら。体は24歳の青年でも、心は10年前のまま。西島秀俊、14歳の少年になりきっている。喋り方、歩き方、駄々をこねて地べたに座り込むところまで、聞き分けのない中学生をトレースしてますなあ。

最初に引っかかったセリフがある。「何もなくしてないのに、何を取り戻せって言うんだよ。」と西島秀俊。そうだ。周囲の目には、14歳から10年間眠り続けた男の子は、本来なら経験できたことを経験しないまま、図体だけでっかくなった可哀想な青年と映る。でもそれって、おかしいよね。余計なお世話でしょうが。「失われた10年」も「空白の10年」もない。ただ眠り続け、ただ目覚めた。そっとしておけばいいものを、外野がいらん気を回すものだから、本人もナーバスになる。悩まなくてもいいことで悩ませる。

※これとちょっとかぶるんじゃありません?超能力兄弟。
ナイトヘッド DVD BOXセットナイトヘッド DVD BOXセット [DVD]
出演:豊川悦司
出版: ポニーキャニオン
(2001-07-18)

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『次郎物語』(’41、日活多摩川 86分)・・・B3

監督:島耕二、脚色:鶴岡謙之助
日活映画100年記念上映 日活映画の世界・12本目。


里子に出されたり、実家に呼び戻されたり、たらい回しにされる気の毒な少年の話。『路傍の石』といいこれといい、みんな少年を不幸にしたいんだねえ。まあ、不幸せな少年って、独特の翳りが魅力といえば魅力。そういう男の子が、小さな幸せ見つけてホワーッと緩んだ瞬間の表情も、たまらないんだよな。陰と陽の落差に、人は惹き付けられるものだから。特に少年は、暗さも明るさも混じりっ気なし。隠す術を知らない純粋なところがいい。

※戦前の片山明彦版のほう。
路傍の石 [VHS]
出演:片山明彦
販売元:日活
(1997-11-07)
販売元:Amazon.co.jp

※完成度は原作が上。何回か読んだ。機会を見て書評したい一冊。
路傍の石 (新潮文庫)路傍の石 (新潮文庫)
著者:山本 有三
販売元:新潮社
(1980-05)
販売元:Amazon.co.jp

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『路傍の石』(’38、日活多摩川 129分)・・・S++4

監督:田坂具隆、脚色:荒牧芳郎
日活映画100年記念上映 日活映画の世界・5本目。


父親の影が薄い家庭である。父親の影が薄い家庭の少年が主人公である。一家の大黒柱が放蕩三昧で、まともに稼がない。仕方なく、母が内職で家庭を支える。ほとんど家にいない父。気が向いたらフラッと帰って来るだけ。実質上の母子家庭。そして私も、母子家庭で育った。というか、映画のこの状況は、離婚前の私の家庭環境そのものだ。あの少年は私だ。私なのだ。私の心は、一気に小学生時代へとタイムスリップした。

(こういう話ですが、努めて冷静に書きます。『サラメシ』でアクセス数激増して狂喜乱舞してますので、ご心配には及びません。うーん、やっぱりみんな、花より団子かあ。グルメネタ時々書こうかな。ネタなら腐るほどありますぜ。)


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『放浪者』(’51、インド 175分)・・・A+4

監督:ラージ・カプール、脚本:K・A・アッバース
みんぱく映画会 日印国交樹立60周年記念 インド・クラシック映画特集1本目。
ヒンディー語映画。


インド映画特集が始まる。期待度大。というのもインドのことは何も知らないからだ。やたら数学が強いこと。ガンジーが先導した独立運動。独立後はパキスタンやバングラデシュとの「仁義なき戦い」。あとは世界史の時間に勉強した内容。これだけなもので、映画で知識を得られるならそれに越したことはない。

で、今日知ったこと。一口に「インド映画」といっても多種多様。『踊るマハラジャ』に代表されるダンスダンスの大衆娯楽作品、所謂「ボリウッド映画」ばかりではない。昨年(2011年)インドで製作された映画は1,225本。驚くべきは映画で話されている言語数。何と23言語にものぼる。本日鑑賞の『放浪者』はヒンディー語。先日鑑賞の『大地のうた』はベンガル語。確かに言葉の響きは別物。「異国語」と呼び表してもおかしくない領域である。


あ、でもやっぱりインド映画だわ。歌って歌って。踊って踊って。お話は『酔いどれ天使』と『ウエスト・サイド物語』を折衷して微妙に『十二人の怒れる男』をブレンドした、なかなかシリアスで法廷闘争モノにカテゴライズされてもおかしくないのに、この内容で踊りますか?ほんでこれ、結局「ミュージカル映画」やて。法廷モノでミュージカルなんかやらんよ、日本人やアメリカ人は。領分が違うもの。笑いに持っていこうとする三谷幸喜でさえ、ドラマパートじゃ歌わせてもいない。それをやっちゃうのがインド映画なんだねえ。てか監督兼主演のラージ・カプールからしてかなりの芸達者。コミカルにもシリアスにも振れるミュージカルスターみたい。あ、ミュージカルやからエエのか。

皆頑張って歌ってくれてるのはいいとして、何で悲しい歌なのに泣けないんだろ。ほら、分かります?インドとかアラブ独特の節回し。楽しい歌も悲しい歌も全部一本調子に聴こえちゃうからさあ。ありゃ慣れないと泣けない。どころか笑える。そこが食い足りねえんだなあ。ま、インド人はインド人でハリウッドや日本の映画観て、「エエ話やけど歌と踊りが足らん」とか思ってるのかな。

ミュージカルはどうにか許すとして、インターミッション明けの夢の光景は何とかならんのか。シヴァ神の周りに電飾ピカピカの時点で既にちょっと。まあそんなのは序の口で、主役のラージ・カプールを捕まえて連れ去ろうとする骸骨がいたり、キングダークやドン・ホラーみたいな怖い顔した岩があったり。これじゃB級特撮映画じゃない。映画のテイスト変わってません?おーい、大丈夫か?インド的な感性でこれはOK?大マジメ?


けれど考えさせられる重ーいテーマを内包しているのも間違いない。果たして「紳士の子は紳士、盗賊の子は盗賊」は真実か?これは深い。真偽の判断、容易には付け辛い。映画では「偽」として処断されるのだが。

ラージ・カプール演ずるコソ泥が、なぜコソ泥稼業に血道を上げねばならぬ羽目になるか。彼は断じて紳士ではない。盗賊だ。では元々はあどけない少年だったこの男を、盗賊へと至らしめたものとは。それが周囲の無理解であり不寛容なのだ。

人生の落伍者を過度に忌み嫌う厳格な父親。そんな父親(夫)に見捨てられても父のようになれと発破をかけ続ける母親。前科者というだけで避けて通る世間の目。判事を務める父親の家は、世間一般で言う「紳士」の家柄であるには違いない。しかしそんな名門中の名門に生を受けても、母親が盗賊の親分に拉致されるという予期せぬ不幸のせいで、天国から地獄へといっぺんに転落することがある。紳士の子が盗賊になることだってないとはいえない。


実は、この物語が本当に突きつけようとしている問題意識はまた別の所にある。家名に傷を付けられるのがイヤでイヤで仕方ないこの父親。彼は一体「紳士」なのか?「紳士」でいいのか?家を思い、家族を思ってこその「潔癖症」が、実際には人の心をズタズタに引き裂いているんじゃないか。「紳士」の仮面を被った「盗賊」。彼こそは最凶最悪の「大盗賊」だ。紳士と盗賊の別は外見で決まるものではない。心根が腐った「盗賊」は自覚症状がないから、期せずして我が子を「盗賊」へと育て上げてしまう。苛烈な振る舞いが次代の「盗賊」を生む。蛙の子は蛙。監督の意図する主張はこれだろう。

「ミュージカル映画」らしく、最後はほろ苦さを残しつつも希望を感じさせる大団円となって終幕を迎える本作。よくよく考えれば、事態は何ら進展してなどいない。この父親が殊更に名誉を重んじるのは、ヒンドゥー教の教義に背かんがためでもある。神の逆鱗に触れぬよう、かつての神の行いに倣い、不行状を行った身内はつまみ出す。そうしなければ周囲から「村八分」にされてしまう。社会生活を円滑に送るには、泣いて馬謖を斬るぐらいのことはしないと。その種のジレンマが常に付いて回るのだ。どこの社会にもこんなことはある。ましてや世間様のご機嫌伺いで持ってる日本人なら尚のこと。「病巣」の根は深いし、「病巣」と言いきれないところがまた辛い。


〔於 国立民族学博物館講堂 B-17  07.15 13:00~16:45
オープニングトークと終映後30分間の作品解説含む〕

『黄色いからす』(’57、松竹/歌舞伎座 104分)・・・SS-5

監督:五所平之助、脚本:館岡謙之助、長谷部慶治
映画女優淡島千景追悼上映 9本目。


なかなかに切ない映画である。久しく封じ込めていた思い出、父との不和に苦しんだ小学校6年間が一気に甦ってきた。


終戦後遅れ馳せながら復員してきた父親。父の顔を知らずに育った息子。そう簡単に睦み合えるものではない。

2人のすれ違いが始まる腕相撲のシーンが巧い。父と息子の距離を縮めようと、淡島千景が腕相撲をさせる。初めて手と手が触れ合って、ちょっとだけ打ち解けた二人。だがそこは男同士。愛情表現のもどかしいことといったら。

まず父が積極的に話しかけ、わらび餅(?)を分けながら宥め透かそうとする。だが息子はまだ恥ずかしがっている。そこへ復帰した会社から2週間は自宅待機せよとの連絡。少し不機嫌になる父親。間の悪いことに、このタイミングでようやく息子が懐いてくるのだ。気分の乗らない父親は適当にあしらってしまう。嫌われたと思った息子は、日増しに父親とうまくいかなくなっていく。


いやあ、よく分かる。身に覚えがあるもの。素直に好きと言えない。それは男だから。男同士だから。大体男って生き物は、ただでさえシャイでデリケートで捻くれてる。そこへ持ってきて、父も息子も初対面でぎこちない。この状況はキツイ。

本当にちょっとしたボタンの掛け違い。愛情表現に一拍の間があるために、少しの間があるために、その少しの間が軋轢の火種となってしまう。お互いに愛しているのに、好きと言いたいのに、機会を逸する。一拍だけだった間が、いつの間にか二拍、三拍と空いて、やがて取り返しの付かない気持ちのズレが生まれる。好きと言いたいときに相手はいないどころか、せっかく愛情を示してくれているのに憎らしく映るのだ。


どっちも悪人じゃないんだよね。善人も善人。ただ父は生きることに不器用なだけ、息子は人より少し無邪気でヤンチャなだけ。善人と善人だからこそ、横たわる心の溝が深くなっていく、このどうしようもなさ。

他人にはこれが客観的に把握できるのだ。岡目八目で、傍目から見ればお互いの欠点も対処法も見えてるんだけど、渦中にいると見えねえんだよ。五里霧中なんだよ。今の私なら、息子の腹は勿論読めるし、人の親じゃないにしても父親の歳に近付いてきたから、父の辛さも何と無しに実感はできる。それがいざ自分のこととなったら、二進も三進も行かなくなる。男の男たる所以。ままならないところ。女にこれが分かるかなあ。分かんねえだろうなあ。


この息子が耐えられないのは、いい子でいるように周囲からジワジワ締め付けられるプレッシャーでもある。父親の言うことを聞いて、大人しくお行儀よくなんてムリ。鬱積した不満の表れが、動物への偏愛であったり(そうだそうだ。私の場合慰めは猫だった。)、原色使いまくりのクレヨン画ということになるのだろう。

五所平之助初のカラー作品で、色彩心理学の知見も取り込んだ意欲作。鎌倉の大仏さんを真っ黒けに、背景を黄色一色に描くような子は、家庭に不幸があるから改善せにゃならん、とまあ押し付けがましいアドバイスはどうかと思うが。黄色と黒は家庭に問題ありって?じゃあリゲイン飲んでる男は家に居場所がないのかい?阪神タイガースの選手もフロントもファンもかい?あ、当たってるか。


それはともかく、のびのびやらせてやったら父親と息子の関係も改善されて、まともな絵を描くようになりましたってのがどうしても引っかかる。原色で絵を描いたらダメなのか。それって自由な創造力の否定にならないか。いい子になったら原色だらけで描かないとどうして決まっているのか。色彩心理学を忠実に反映すると、そういう結論に達するのもムリはないのだけど。そこに半世紀の時の流れを感じるかな。

全体的な色彩のバランスには目を見張るものがある。黄色も他の原色も含めてケバケバしくはなく、抑制的で情感溢れる色使い。当時の人にはこれでもヴィヴィッドで刺激的だったのだろうか。それともフィルムが退色しているせいで、今観ると穏やかに映るのだろうか。ま、どっちでもいい。結果的に、作品の世界観を見事に体現した色彩設計に仕上がった。


〔於 京都文化博物館フィルムシアター I-11  05.24 13:30~15:14〕

『にごりえ』(’53、文学座/新世紀映画社 130分) 三部作総評:A+4

監督:今井正、脚色:水木洋子、井出俊郎
映画女優淡島千景追悼上映 7本目。
樋口一葉の同名小説三篇を三部作に綴ったオムニバス。


【第1話 十三夜】・・・A
貧しい家に育った娘が玉の輿に乗ったはいいものの、夫の苛烈な仕打ちに堪りかねて、実家へ助けを請いに戻ってくるところから始まる。嫁いだ者として娘に同情を示し帰って来い、と温かく迎えてやる母親。対して父親は、簡単に根を上げず嫁の務めを果たせ、と冷たい。これを果たして「冷淡」と取るかどうか。よくよく観察していると、父親は娘と母親から常に距離を取っている。心理的にもそうだし、見た目に離れて話しているのが分かる。心を鬼にしているのか。

その後父親に言い含められた娘がしぶしぶ帰宅することとなり、車引きが呼ばれて帰っていく。何事もないまま終わるのかと思いきや、何と車引きは娘の昔馴染みの男であった。旧交を温め、どうやら二人ともに仄かな恋心まで抱いている様子。だがそこで大きなアクションを起こすことはしない。黙って別れることこそ相手への思いやり。ささやかな秘めた思い。一欠けらの小さな宝石のような気持ちを握り締めて別れていく二人。

特別なことが起こるわけではない。いかにも激動の、波乱万丈の人生という風には描かれない人の生き様。どんなに辛くとも人生は続くが、悲劇調の煽った演出で訴えかけないあたりに、却って重い説得力と言い知れなさを感じた。

【第2話 大つごもり】・・・A+
商家で小間使いをしながら健気に働く久我美子。おかみさんにイビられながらも笑顔は絶やさない。裏表のない、どこをどう切って見ても善人そのものの彼女が、育ての親に借金返済を頼まれ、おかみさんに金の無心をするも取り合ってもらえないとなって、預かってタンスに片付けた20円から2円くすねてしまい、親孝行がふとした出来心の呼び水となってしまうお話。

今2円盗れたからってどうなるものか。すぐにバレて暇を出されて、金も返さなきゃならない。何なら慰謝料まで払えと、あのおかみさんなら息巻くところ。おかみさんもおかみさんで、極楽トンボの継子に50円やって追い払える余裕があるなら、2円ポッチの金など惜しくはなかろうに。不条理だなあ、人生って。でもまあ、その極楽トンボがタンスから「20円(くすねられた後の18円)」かっぱらってくれたおかげで事無きを得たわけだから、人生ってますます複雑。

【第3話 にごりえ】・・・A+
これは原作者・樋口一葉の作風なのか、監督・今井正の作家性なのか、脚本家・水木洋子と井出俊郎のカラーなのか、いずれもが作用してのことだろうが、三部作に共通しているのは、貧窮に喘ぐ弱者の目である。人生の苛酷さ、報われなさを描きながらも、そこを大袈裟にクローズアップはせず、ありのままを寄り添って見つめることで、スクリーンの向こうで小さな悲鳴を上げる登場人物たちに没入していく自分が、いつしかいるのに気づく。そうした悲しさの中に、誠に以ってささやかで取るに足らない救いをポンと投げ込むことで、実に巧妙なバランスを取っている。ただ後に残るのは爽やかさではない。もやもやした吹っ切れない気持ちなのだ。

この第3話にもそれがある。情死に至る結末が用意されている分、前2話より派手で陰惨な印象はあるとはいえ、割り切れなさは厳然として残る。女郎宿で荒んだ暮らしを送りながらも、周りの女たち共々、努めて明るく振る舞おうとする女郎の淡島千景。そんな女郎に惚れた哀れな男が一人。妻子持ちの身で惚れ抜いてしまった宮口精二。淡島にどれだけ邪険にされても捨て切れない想い。彼にも彼女にもそれぞれの生活があって、生活が余りにも重過ぎて、その重たい生活を背負い込んでしまったが故の悲劇。ラストに待ち受けるのは、悲恋は悲恋でも、『ロミオとジュリエット』のような美しさの欠片もない、何とも泥臭い悲恋であった。

宮口精二と杉村春子の所帯じみた感じがいい味。当の本人たちには地獄でしかないのだけれど。生活力はある。でもガーガーピーピー口やかましい女。可愛げも色気もなくて癪に障って仕方ない家庭の主婦を、杉村春子が好演。これを鬱陶しがる宮口精二も負けず劣らず。

宮口精二、好きだなあ。『七人の侍』でも、実は彼が一番お気に入り。木村功みたいに尊敬してる。いい役者。


〔於 京都文化博物館フィルムシアター I-8  05.19 13:30~15:40〕

『オペラ座の怪人 25周年記念公演inロンドン』(’11、イギリス 175分) SS++5

製作:キャメロン・マッキントッシュ、作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
10月1日、2日にロイヤル・アルバート・ホールで開かれた公演のスクリーン上映。


最近不眠症に悩まされている。それが昨晩から今朝にかけて、嘘のようにグッスリ。あまりに気持ち良過ぎて気付いたら10時過ぎ。そのせいで予定されていた出勤が無くなり、お鉢が回ってきたのが、『オペラ座の怪人』鑑賞。よく寝たお陰で、しっかり集中して観ることができた。職場の皆さんには申し訳ないが・・・。

私はこの演目の予備知識を殆ど持ち合わせていなかった。名前と音楽と劇団四季もやっていることぐらい。「25周年」と聞いて、意外な歴史の浅さに驚いたほど。けれども、裏を返せば、もう四半世紀大衆に支持され続けているということでもある。根強い人気を支えているものは何か。それが知りたい。現代人の必須教養としても観ておかなくては。


話は映画『ブラック・スワン』と似ている。大役を任された若手女優が、演技の魔力にとりつかれてしまうストーリー。当然、相違点も多い。『ブラック・スワン』のニナは破滅の坂道を転がり落ちるが、『オペラ座の怪人』のクリスティーヌはちゃんと我に返る。それと、ニナは芯がなくていかにも危なっかしいが、クリスティーヌにはまだ安定感がある。『オペラ座の怪人』が長きに渡って愛される所以は、このあたりに見て取れるのではないか。

『ブラック・スワン』の主眼は、不安定な自我、親への依存と自立欲求とのジレンマにある。今の時代ならでは。であれば、残念ながら『ブラック・スワン』は古びる宿命にある。25年経ったぐらいでは色褪せないとしても、半世紀経てばどうか。時代も人間も移り変わっていよう。今の時代に『シェーン』を観て感じた古臭さが、いずれ『ブラック・スワン』からも匂い立つことになるのだろう。CGだって、後から振り返ればカビの生えたように拙く思われるはずだ。

『オペラ座の怪人』には、そういう要素がない。何十年、何百年経とうが、ずっと新しい。クリスティーヌは、『ブラック・スワン』のニナと同じで、幼くして父親を亡くしている。ニナの場合、父の不在を補ってきた母親の強さに圧倒され、母から逃れようとした結果が、黒鳥役への過度の傾倒となって自滅を招いた。クリスティーヌは、父の面影を怪人に重ねあわせ、歌や演技の指南役としても怪人を尊敬はするが、悪魔的世界に留まることを決然と拒絶する。愛ゆえの拒絶。共鳴はしても、ズルズルベッタリにはならない。つかず離れずの距離感。大人のほろ苦い結末。たまらなくなるなあ。その表現水準が、高度に昇華されている。若者ばかりでなく、中年にも老年にも支持される所以は、このあたりにあると見た。


役への情熱。演技への情熱。演じることは生きることである。あるいは生きることが演じることであると言えるかもしれない。演劇を通して人生を語っているのだと思う。ドラマ内では劇中劇も展開されるから、お話上の設定なのか地の人柄なのか、境界線が曖昧。小娘ごときに主役を譲ってなるものか、と懸命に地位を守ろうとする大物プリマドンナ。儲けばかり考える興行主。これは役柄なのか人柄なのか。とこちらが考え込んでいるうち、ドラマと人生がオーバーラップするのだ。見物客の私まで、何か凄いドラマを自分が生きている気にさせられる。『天井桟敷の人々』とも重なるね。

外見にコンプレックスを抱くあまり狭量になった怪人が、クリエイティヴな才能に恵まれている。その設定も面白い。現状に何の不満も無い人には、新しいものを創造するパワーは漲らないということ。地獄を見、どん底を這い回っている人間が、代償として才能を授かる。ある意味「海老蔵的」。これは『ベニスに死す』のアシェンバッハが最期に見た極楽浄土だな。色んなことが頭の中を駆け巡る。


この舞台の役者たちは、揃いも揃って生きている。役を生きているし、人間としても生きている。目で語り、声で語り、息遣いで語り、手足で語り、全身で語る。肉体に言葉が乗っている。口先で語っている印象は受けない。研ぎ澄まされた肉体表現の完成形や到達点を見ているのだなあと思う。これを映画館で見るということは、フィルタリングされているということだ。キャメラや映写機という機材を通して物理的にも媒介されているし、アップやロングを交えた映像言語を通して媒介されてもいる。そういう邪魔者が介在しているのに、なおも役者の肉体に生々しさが満ち溢れている。凄まじい気迫の証だ。ライヴで、邪魔の入らない本物を見てみたい。きっとこんなものではない。震えが止まらないに違いない。でもこれはこれで収穫。あー、寝坊して正解。


訂正
wikiで見たら、『オペラ座の怪人』、歴史は結構あるんですね。アンドリュー・ロイド=ウェバー版が有名になっただけ。色々あるようです。


〔於 TOHOシネマズ二条 スクリーン4 E-7  11.12 12:30~15:35〕

『コクリコ坂から』の技法的欠点と作家性


『コクリコ坂から』は、これまでのジブリ作品同様、セルアニメの画調で制作されている。無論、デジタル化によって作画が省力化されているものの、キャラクターの絵柄はセルアニメと何ら変わりなく、背景美術とキャラクターとを別々に描いて合成するプロセスそのものも不変だ。そのこと自体に問題はない。が、人物と背景とが切り分けられていることは、こと『コクリコ坂から』に関しては、マイナスに作用したといえる。

制作技法の特質を併せて考えると分かりよい。人物と背景とが異なった層の上に描かれる。レイヤーが違う。そこで浮上するのが、セルアニメや、セルアニメ的デジタルアニメには付き物の、人物と背景とのギャップの問題。背景画はキャンバスに油絵で描かれた風景画と見紛うほど。ジブリの場合は特に、背景画のスペシャリストが何人もいて人材豊富だ。ところがキャラクターはベタ塗りで輪郭線もハッキリしている。微妙な色調のコントロールが効きにくい。極端化すると、モネの風景画をバックに、月野うさぎが所狭しと動き回っているようなもの。けれども我々は、老いも若きも人物と背景の絵柄がまるっきり違うのに慣れっこだから、おかしいと思うことは殆どない。何の変哲もないアニメでは。

ところが『コクリコ坂から』では、先に述べたとおり、人物の動きに生気がないのに比して、背景画には精彩がみなぎっている。生き生きとした風景の中で行動する、肝心要の人物には覇気がない。ただでさえレリーフのように浮き立つキャラクターが、このアニメーションでは悪い意味で一層浮いている。背景の完成度が高く、人物作画の完成度が低い。背景には汚れがあって人いきれが感じられるのに、人物そのものには息遣いが感じられない。キャラクターがキレイすぎる。背景美術がハイレベルであるが故、キャラクターの粗が目立つ結果に。目についたキャラクターを見たこちらは、どうしてもそこに目が行くので、ますます人物描写の欠点が印象付けられる。これでは悪循環ではないか。

これが実写映画やマンガなら、人物がさほど前面化しない。実写映画の実景やセットは人物の周囲に実在するし、マンガだと人物と風景は同じ1コマの中にある。但し、いまや実写映画でもCGは当たり前。更に当節は3Dが大流行だから、この問題が実写映画でも表面化しつつある点には注意を要する。ともあれ、セルアニメでは、同じ背景を使い回せる利便性と引き換えに、人物と背景との間で齟齬が来たされる危険性を孕んでいるのだ。


閑話休題、角度を変え、『コクリコ坂から』において否応なくこれもまた表面化している、宮崎吾朗の作家性について言及したい。父親・宮崎駿のシナリオで、父親に助け舟を出させてまで、形振り構わず新作を完成させた宮崎吾朗。44歳の今も父の面影を追い続ける彼の姿は、作中における海の姿そのもの。親離れできないのは海だけの話ではない。宮崎吾朗のことでもある。

そんなものはこじ付けだ、とお考えの読者諸賢もいらっしゃるだろう。しかし過去の映像作家や俳優の事例から推察するに、作り手や演じ手は、自身の心の内側から発想の源を搾り出す過程で、生みの苦しみを味わう。NHKのドキュメンタリーでも、キャメラは苦悩する吾朗の実像を捉えていた。ストーリーは父親がひねり出したものでも、そこでキャラクターを動かす肉付けを施すのは、監督たる吾朗の仕事。ああだこうだと口を差し挟む父親の偉大さに圧倒される一方で、父の才能に嫉妬し、鬱陶しさを感じていても、何の不思議もない。

作り手は無意識のうちに自らの深層心理を観察し、その観察結果が作品に吐露される。鈴木敏夫がある程度娯楽性を付加するようコントロールしてはいるけれども、逆に言うと、商業映画で数々の制約を課されても、そこには吾朗の怨嗟が噴出しているという見方も出来よう。父を恋う海の叫びは、宮崎駿を否定したくてもできない吾朗の叫びでもあるのだ。海に死相を感じ取ってしまうのも無理はない。

吾朗は駿の奴隷。オヤジの懐で思い通り生きられない。父への憧れと同居する、父への恨み。父親の庇護の下、エネルギッシュに躍動するキャラクターのイメージが、吾朗には捻り出せないのだと思う。吾朗の辞書に、父の傍で自分らしく振る舞うなどという言葉はない。無い袖は振れませんから。とはいえ、日本を代表するアニメーション映画監督と、その息子の不器用な関係が投影された物語と考えれば、それはそれで『コクリコ坂から』を観る意味があるのかもしれない。これで1000円分ぐらいの価値は出るかな?

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