監督:フランソワ・トリュフォー、脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン・グリュオー
フランス映画祭2013 in関西 2本目(ラスト)。
たとえ愛する人が先立っても、心の中では生き続ける。よく耳にする常套句だ。が、この映画、それとは似て非なる価値観を扱っている。
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Knowing more about Our Films, and Knowing more about Ourselves.
監督:相米慎二、脚本:中島丈博
没後十年 相米慎二の世界・9本目。
死が転じて生となる物語。死の懐より生まれいずる生の物語である。
開巻間もなく、葬儀が開かれている家の庭は春爛漫で、花の蕾が今か今かと開花を待ちわび、黒猫とチャボもいる。あるいは、「死んだ」はずの山崎努が、ひょっこり現れていきなり父親を名乗り居候する。その山崎努が本当に死んでしまい、霊安室で布団をめくると、山崎の腹の上には、体温で温められて卵から孵ったヒヨコがいる。どれも全て、死中に活を見出すエピソードばかり。生と死の邂逅。相米慎二が好んで取り上げるテーマが、本作でも全面展開される。
山崎努が面白い。何をやっても面白い。昔の私の父にそっくりだ。いや、あの頃なら笑えなかったけど。憎たらしくて。それはともかく、山崎が息子と勘違いして居候する、佐藤浩市の家の庭にいるところなんかいいなあ。あれこそ究極の幸せなんじゃないか。ここにも生と死の相関関係が見られる。死んだと思っていた山崎努が生きる幸せを運んできて、不況で失業の憂き目に遭う佐藤浩市や、精神の安定しない斉藤由貴が、何故かその鬱陶しい爺さんを放っとけなくて。
佐藤浩市も好演してると思う。この人は親父の出涸らしで食ってる役者とばかりナメてかかっていたが、どうやらそれは私の眼鏡違いだったようだ。佐藤始め、演技力のある役者陣を縦横無尽に使って、効果的に生と死の世界を構築していく相米慎二。スターを勿体無くも無駄遣いする三谷幸喜とは、この点だけ取れば比べ物にならない。
〔於 シネ・ヌーヴォ 前から2列目左から6番目通路沿い 04.05 12:40~14:20〕
監督:相米慎二、脚本:田中陽造
没後十年 相米慎二の世界・8本目。
お決まりのアイドルや少女が主役ではない。3人の少年と老人の物語。だがこれは、紛れもなく生と死の物語。相米作品恒例のテーマで展開される。
最初から結構危ない。少年の一人が歩道橋の欄干に立つ。眼下にはひた走る車だらけ(ちなみにガチ。やらせなし。怖い。)。生と死の境目を綱渡りするように歩く少年。『雪の断章』で斉藤由貴がやっていたことだ。その少年は幼くして父を亡くしており、火葬場で父が焼かれていった有様を鮮明に記憶している。元気いっぱいに生きている子供が、死を目撃する。少しだけ死に侵食されている。周りは眩しい夏の日差し。生命が最も活気を帯びる季節であるにも拘らず、少年の周囲は何かが壊れている。壊れた世界がある。
3人の少年は、独居老人が死んでいく様を看取りたいという、奇妙な願望を抱く。3人して老人の死を見たいのだ。考えて見れば、少年の夏は生き生きしているが、老人にとっての夏は過酷で、生命を脅かされる季節である。熱い夏。老人は生と死の狭間に立つものなのだ。
だからこの映画の序盤、橋がよく登場するのには頷ける。何となれば、橋にはこの世とあの世の架け橋としての意味合いがあるからだ。川は三途の川。川の向こう岸にいて老人を尾行する少年たちは此岸に、手前を歩きどこかへ向かう老人は彼岸に、それぞれが立っている。象徴的な構図である。
しかしこの老人。頑固である。自分はまだまだ死なんぞとばかり、生きる強固な主張をする。それがあの靴音。重そうなゴム長靴で「ゴッ、ゴッ・・・」と音を立てながら歩く。動きは緩慢ながら、重みを感じさせる靴音。今日まで積み重ねてきた生の痕跡が、あの靴音には宿っている。
そんな近寄りがたい老人に接近していく少年たち。老人が、雑草の繁茂するあばら家に住み、日がな一日テレビのお守りをして、薄暗い部屋で一人日常を送っていることを知る。老人の暮らしを、来る日も来る日も覗き見し続ける少年たち。ふとしたきっかけで、少年たちと偏屈な老人との交流が始まる。老人は心を開く。意外にも愛嬌ある一面を覗かせる老人。
やがて、あばら家をリフォームしようと少年たちが提案。実行に移される。その過程で発揮される、少年たちの生活知。父を亡くした少年は、母子家庭で家事を仕込まれ、洗濯物干しはお手の物。実家が魚屋の少年は、刃が錆び付いた包丁を研いで復活させる。その他、襖の張替えやペンキ塗りなど。これら全てが、所謂「生活知」である。生きる知恵である。生きるとは単に生きていることを意味しない。日々工夫して生活を送ることなのだ。老人との触れ合いを通して、少年たちはその事実を発見する。
少年たちはまた、生きていくためには、時に何か他の存在を犠牲にせねばならない、とも思い知る。老人の家に生い茂った雑草を根こそぎ引っこ抜き、燃やして命を奪う。少年たちは、雑草を殺しているのだ。気持ちよく人間が生きるには、雑草に死んでもらわなくてはならない。とはいえ、雑草にも五分の魂。一個の命を奪うには、奪う側にもそれなりの覚悟がいる。少年たちは全力で気張り、踏ん張って、どうにかこうにか雑草を一掃する。雑草を死なせるには、生きる側が生命を燃焼しなくてはならない。生半な覚悟では立ち行かない。
そこを踏まえて初めて、老人が語る戦争体験の意味も掴めるというもの。太平洋戦争でジャングルに送られた若き日の老人は、何の気なしに女を殺してしまう。腹に赤子がいるとも知らず。赤子がいると分かった時の、絶望にも似た驚愕。老人は、その日刻み付けられた悔恨の念を抱いて、今日まで生き長らえてきた。自分が生きるために他の命を犠牲にした。命を奪ってしまった申し訳なさが老人を生かしている。生きるために殺す。雑草を抜くのと同列で論じられるものではないが、無為に人命を奪ったことで、罪責の念に囚われ続けることもまた、生きることである。ゴム長靴の靴音の重さは、生きることの重さ、奪った命を背負っていき続けてきた重さの反映でもある。
他者の死が己の死を激烈にするのだ。夏の終わり、少年たちが当初「期待した通り」、老人が死を迎える件にも、そうした問題意識が継承される。老人との交遊で、少年たちはたくましくなっている。もう老人がいなくても、立派にやっていける。サッカーの試合で、自分たちの成長を証明して見せた。戦果を報告しに老人の家へ立ち寄り、そこで老人の死を知る少年たち。だが老人亡き後、夜の庭には、少年たちが植えたコスモスが一面に咲き誇っている。夏が終わり、一つの命が枯れる代わり、3人の少年の命と無数の花の命が、一つの頂点に達する。死が生を激烈にする構図は、ここにおいても繰り返される。
感心な少年たちだ。彼らは神戸の小学生。私は京都の小学生。何歳か私のほうが年嵩なくせに、彼らほど現実の死に向き合ったことがなかった。今もどうか。映画の中での死なら、毎日のように接している。だが今の私も昔の私も、本物の人間の死とは縁遠い所にいる。ある意味幸せな証か。とはいったものの、不謹慎なことに、曾祖父や曾祖母の死よりは、子供の頃身近に体験した、猫や蛇や蝉の死の方が、よっぽど真に迫っていた。人間の死は遠い所にあったし、今もある。葬儀社の手で管理された死、他所事のような死が主流である以上、これは止むを得ないことだろう。
それだけに、自発的に他人の死を覗こうとする少年たちは、奇妙かつ奇怪でありながら、奇特であるとも思う。なかなか経験できない、貴重な経験をしたことは、大いに誇れることだ。ここ数年、毎年夏になると体調を崩していた私。夏が苦手になりかけていたのだが、この映画で今年の夏がちょっとだけ待ち遠しくなった。
老人役の三國連太郎がいい。子供にとって老人は、謎に満ちた珍妙な生き物であって、その感じをちゃんと出している。いかにも関西のジジイって感じ。『飢餓海峡』ではぎこちなかった関西弁が、まずまず改善されていたのにも好感。出番の少ない淡島千景も名演だ。
ただ、どうしてもいただけないのはZARDの主題歌。ヌルい。大阪の読売テレビ製作で、関係の深いビーイングGIZAから無難な線で起用したのだろうけど、これは大失敗。ZARDに限らず、ビーイングは総じてヌルいアーティストしかおらんじゃないか。B'zは別としても。生と死を扱ったヘヴィーなドラマなのに。ZARDって、生真面目でヒワヒワな兄ちゃん姉ちゃんの癒し系音楽でしょうに。もうちょっと考えて選びなはれ。
〔於 シネ・ヌーヴォ 前から3列目左から4番目通路側 04.01 18:35~20:30〕
Akihiko Kimura