先週、伊豆旅行の往復の車中で暇つぶしに数冊の新書を読んだが、中でも内田樹『先生はえらい』と諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』が面白かった。
先生には本当に偉い先生とどうしようもないクズ先生がいて、そのどっちに当たるかは運次第、という考え方は間違いである。あなたがえらいと思った人、それが先生なのだ。だから、えらくない先生は語義矛盾、先生である以上、すべからく先生はえらい、というのが前著の主張。
対して後著では、共同体内の伝統的規範によって構造化されていた教師‐生徒関係は、市民社会的な個の自律によって子どもたちがすっかり「オレ様化」してしまったことにより、完全に崩壊してしまった、と教育現場の現状を告発する。
こうして両書はまったく対極の意見を主張しているかのように見える。しかし、実は両論の依拠するところはまったく同じである。
教える-学ぶ関係、つまり「師弟関係」は、本来、決して「商取引」でも「等価交換」でもない。それが内田、諏訪、両氏の共通の主張である。では、学ぶということはどういうことか。内田いわく「真の師弟関係において、学ぶものは自分がその師から何を学ぶのかを、師事する以前には言うことができない」。つまり、それは教える者からの純粋な「贈与」なのだ、そう諏訪は言う。
必要な情報がそれに見合った代価が支払われることによって獲得されるならば、その場合の情報提供者と情報享受者とは対等な関係にある。もし教育というものが、そのような等価交換に還元されてしまうなら、教育の場で教師が生徒を「指導する」などということは、およそ不可能となるだろう。
諏訪は次のような事例を報告している。入学したばかりの高1生が授業が始まってからずっと私語を続けていたのにたまりかね、「私語をやめなさい」と教師が注意したとき、その高1生はつかみかかるようにして「しゃべってねえよ、オカマ」とすぐ言い返してきたそうだ。これはなにも特別な例でなく、その後、その手の反応は決して珍しくはないのだと諏訪は言う。既に(親が)教師に適切な代価を支払い済みである以上、知識の交換当事者である教師と生徒の関係は対等であるはずなのに、一方(教師)が他方(生徒)の私語の自由を不当にエラソーに抑圧してくる、だからムカつく、というわけなのだろう。
対して贈与関係では、贈る者と贈られる者との関係はそのように対等ではない。あなたが誰かからいきなり贈り物をもらったと想像してごらんなさい。贈られたほうは、一瞬キョトンとして、えっ!これ何?と思わず尋ねてしまうことでしょう。包み紙をあけ、箱の中身をのぞいても、それが何だか、全然見当もつかないとしたら、ますますそのものの正体を知りたいと思うでしょう?とりあえず隣の友達と私語なんかしてる場合じゃない。知りたいのは、これが何かってこと。そして、それを教えてくれるのは、これを贈ってくれた当の本人でしかない。つまり、それが「先生」だというわけ。
ただし、ここで「先生」というのは、あくまで先生-生徒関係の成立を可能とする構造自体から語られているのであって、その者が所有する具体的な知識内容とは一切無関係である。
たとえば、よくあるカンフー映画的な場面を想像してごらんなさい。修行をまさに終えんとする弟子Aが師に尋ねる。「師よ、武芸の精髄とはなんぞや?」 すると師は答えていわく「そは無なり」。このさっぱりわけのわかんないやり取りで、弟子Aは急に悟って武芸開眼となる。そこへ別の弟子Bが来て問う、「師よ、真の勝利とはなんぞや?」 すると師は答えていわく「そは無なり」。やはりさっぱりわけのわかんないやり取りで弟子Bも武芸開眼となる。ところが実はこの師匠はただの呆けたオヤジで、何を問われても「そは無なり」としか答えられないのだとしよう。
しかし、そんなことは弟子Aにとっても弟子Bにとっても、もはやどうでもいいことなのだ。なぜなら、内田いわく「学ぶことの全行程はこの問いを発することができるかどうかにかかって」いるからである。
贈与者である師(教師)とは、ただ贈与者の位置にありさえすればいいのである。なぜなら、師が何を贈与したかを見出すのは、あくまで弟子の仕事だからである。内田も引用しているラカンの有名な言葉がズバリそのことを指摘している。
「自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。」