2021年03月17日

父の話

父が他界した。3月10日、享年77歳だった。


ある日の昼過ぎに携帯電話に母から着信があった。この時点でだいたいの予感はしていた。
父の意識がなくなった。
来られるようなら来てと言われ、行くよと答えた。覚悟はしていたからか変に冷静だった。人と会っていたので、話を終わらせてから父の病院に向かう。冷静だと思っていたけど、今考えると考える力がなかったのかも知れない。何度も行ったことがある病院までの乗り換えを携帯で調べても頭に入って来なかった。

電車の乗り換えがギリギリで、乗ろうとした電車の扉が目の前で閉まってしまう。駆け足で扉に向かっていた僕に車掌が気が付いてくれたのか、再度扉が開いたのだけど他の線に乗るために背中を向けて進んでしまっていて扉はまた閉まっていた。気持ちが焦ってくる。ちょうど特急が停まっていたので有料のチケットと喉が乾いていたので麦茶を買って乗ることにした。

最寄り駅に着く。さっき買った麦茶の蓋も開いていない事に気がつきそのまま鞄に入れる。そこからは歩いて10分なので歩いて向かうつもりだったが、上の姉が連絡をくれて車で迎えに来てくれた。車中で父はまだ息はあり、意識はないけど話しかけると唇が少し動いて反応しているようだと教えてくれた。病院に到着すると検温の後にコロナに関する質問が続く。過去に感染したことを伝え、時期などを思い出しながら用意された用紙に記入する。それも終わると許可をもらい病室のある4階までエレベーターで上がる。その病室のあるエリアの前にはそれまで父の病室にいたと思われる下の姉がいた。
父は息を引き取ったらしい。
今までは感染症対策のために誰も入室出来なかった父の病室には特別一人づつ入ることが出来るということなので、会いに行かせてもらった。
父はいつもの寝ている時と同じ顔をして横たわっていた。穏やかに眠っているようにしか見えない。元気がある時に言えば良かったのに、このタイミングになって今までの感謝を伝えた。いつもそうだ。後悔している。


最初に癌が見つかってから13年間経っていたらしい。僕が父は癌を患っていると聞かされたのは数年前の大きな手術をした時だった。その手術も成功して元気に過ごしてはいたのだけど、それまでも転移を繰り返していたようなので厳しいと感じていた。ここ最近はずっと辛かったようだ。大して遠くもないのに実家に顔を出すこともあまりしていなかった。顔を出せばいつも喜んでくれたように思う。
簡単に軽く身体を動かす運動を何度か教えに行った。父は真面目なので、行かなくても思い出してそのメニューをやっていたようだ。
帰るときはいつも身体に気をつけろよと、毎回同じことをもう一言を言って送り出してくれた。もっと頻繁に帰って話をすれば良かった。僕は父をあまり知らない。

昨年末に癌が再発しその手術のための入院をしたけど、退院予定日になっても家に帰ることなかった。
電話しても大丈夫だとLINEが来たので電話をかけたら、とても喜んでくれた。みんなに会うことが出来れば元気になれるのに。もうすぐ大好きな野球が始まるから楽しみだ。みんなで花見に行きたいからそれまで頑張る。この電話で少し元気になったと言ってくれて嬉しかった。
それからしばらくして電話をかけると、具合が良くなくて話をするのが辛いと言われ、無理しないでねと電話を切った。父の声を聞いたのはこれが最後だった。


僕は兄1人に2人の姉がいる末っ子として生まれた。子供の頃、最後まで父と風呂に入り、最後まで両親と寝室が一緒だった。特別厳しくされた記憶もあまりない。幸せだった。
父と二人で何かをした記憶があまりない。父は柔道をしていたのだけど、兄弟はみんな剣道の道場に通っていた。ある日の夕方、父に剣道の稽古を一人つけてもらった記憶がある。防具をつけていない父の手に竹刀を打ち込む。あまりにもぼんやりしていて、本当にあったことなのか定かじゃない。
あとは、なんでだったのか二人で出かけてガンダムの本を買ってもらった。それもうっすらとした記憶。
高校へ電車で通学する時に一度だけ父の出勤と重なったことがあって、柔道を始めていた僕に細過ぎると言っていたのを覚えている。
ある日父がおしるこを作ってくれた。隠し味だと言って塩を入れていたのだが、それが多すぎて美味しくなくなってしまった。それは覚えている。
ヘビースモーカーだった父は気がつけばタバコをすっぱりやめていた。どんなきっかけだったのか分からないけど、良かったと思っていた。
定年退職した後は料理もするようになっていた。全く料理をしないということはなかったけど、楽しんでやっていたようだ。
家族の中で僕が一番離れている時間が長い。やっぱり知らないことが多い。


病院から葬儀場に車で移動するのに父の横に座った。
到着すると死化粧が施されて、棺に入れられた。
葬儀までに2回ほど面会に行った。こうなってから会うんじゃなくて、もっと帰ったりすれば良かったのにと思いながらも、どうしても実感が沸かなくて会いに行った。


葬式の日、いつもいたはずの父がいないことに気がついた。親族の葬儀には必ず父がいて、いつまで経っても作法のおぼつかない僕は父に頼る気持ちがずっとあったのだった。必ずいたはずの父がいない。実感はまだないけど、こうやって少しづつ感じていくのだろう。

母はいつもと同じようによく喋っていた。父の退院を祈って、折り鶴を重ねてキレイに細工した造花が無駄になったと棺の中に入れる際も明るくその話をしていた。ただ、気を抜くととても悲しく疲れているようだった。ケンカをしているのをほとんど見たことがないし、いつも母は父に対して文句は言っても尽くしていて、本当に理想的と言える夫婦だった。


話を聞く限り、最後まで人を気遣っていた父は未練はあっても執着はなく、死ぬことへの恐れもなく穏やかに終わりを迎えたのではないかと思っている。


父には息子として何も孝行できなかったけど、与えてもらった命と育ててくれた恩に感謝して、精一杯生きていこうと思う。

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画像は父が大事に育てていた蘭と、迷惑ばかりかけながら育つ末っ子。

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2019年04月21日

‪KAIENTAI DOJO‬旗揚げの日のこと

2002年4月20日。‪
KAIENTAI DOJO‬は旗揚げの日を迎える事になった。生え抜きの仲間達はそのほとんどがデビュー戦。その頃の僕は少しみんなと距離を感じていた。そんな考えはすぐになくなるのだけど。Hi69と2人でこの日の約一年前に日本デビューをしていて、それから日本で活動していた。みんながプエルトリコでその後も一緒にいたのを羨ましく思っていたのもあった。

TAKAみちのく代表のビッグマウスとも思えるような発言でみんなの期待が高まっていた。WWEスターが育てた選手達、そのプロレススタイル。その上演出も派手で「音と光のプロレス」そう煽っていた。実際、団体に協力してくれる舞台監督の方の力で、当時にしては想像出来ないような演出を行うことになっていた。
カロリーナあきこの前口上で盛り上がり、十島と石坂の第1試合で熱狂が生まれていた。

そんな中、お客さんの一人が客席で倒れ意識不明になり救急車を呼ぶことになる。僕が呼んだ記憶はない。ただ、僕のガラケーの画面が変わった感じになっていて、119番を押すとこうなるんだと思ったことだけ覚えている。たぶん、少しパニックになっていた。
代表に後半戦をどうするのか何度も確認した。今考えると迷惑だったろうと思う。この日はヘアスタイリストさんがいて、髪を丁寧にセットしてくれていた。申し訳ないと思いながら、洗面台で髪をビショビショにしてリングに向かう。
恥ずかしいことに、泣きそうな顔をして入場した。リングに入る前にするいつものルーチンはこの日からするようになった。(この後しばらくして一度しなくなったのだけど、またある日からまたするようになった。いつも何かを考えているわけではなく、ただのルーチンだけど)
自分の試合はビデオで何度か見返すのだけど、この旗揚げの自分の試合はほとんど見ていない。見られなかった。今なら見られるのかも知れない。
大会は成功に終わったらしい。ほとんど覚えていないし、それについて考えようともしていなかったのだと思う。



その倒れたお客さんは亡くなってしまった。
夜に病院に行った。聞いた話だとその方は、仕事が忙しくあまり寝れていなく、その日も体調が悪かった。原因は疲労だったと。そして、この旗揚げ戦をすごく楽しみにしていたとのこと。
聞き伝えだし、今となっては記憶も定かではないのだけど。

その方はそれでもプロレスを観に来てくれた。そして、きっとプロレスを観て元気になりたかったのだと思う。そう考えると僕らがやるべきことはその方が楽しみにしていたプロレスを続けることなのかなと思う。


楽しい気持ちで帰って欲しかった。


みなさんには、どうか無理をしないでいただきたい。無理をせずプロレスを観に来て、そして元気になって帰ってもらえたらそれが何より嬉しいと思ってプロレスを続けている。


改めて故人のご冥福をお祈りします。

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2016年12月25日

イブイブ

毎年この時期になると感じるのが、23日を“クリスマスイブイブ”という表現。
キリスト教では日没を1日の終わりと始まりとしていたらしい。だから、24日の日没から25日の日没までが同じ日。要するに、24日の夜と25日の日中がクリスマス。24日の夜をクリスマスの夜ということで、クリスマスイブと言っていたと。
だから、24日の日中はクリスマスイブではないし、25日の夜はすでにクリスマスではないということ。
でも、こんな事を言うと、みんなが楽しんでいるのに水を差すだけで何の得にもならない。だから、出来る限り言わないようにしている。
でも、ちょっとだけモヤモヤしてしまう。
まあ、ちょっとだけなんだけど(笑)

みんなが楽しむチャンスが増えるのは良い事だから、あまり気にしないことにする。


気になるついでに、エゴサーチの間違った使い方。エゴでサーチするのだから、自分に関しての事を検索する事。でも、割と普通にただの検索をエゴサと言う人もいるので、そのまま聞き流すことにしている。


僕が高校生の頃に“全然”を肯定する言葉の前に一部の人が使うようになったのを覚えている。当時はすごく違和感があった。
今となってはそれが全然普通のことになってしまった。


言葉の正しい使い方よりも、空気を読んで過ごすことが大事だと思ったり、やっぱり思わなかったり。

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2016年10月07日

祖母を想う

2016年10月3日0時5分頃祖母は92歳で他界した。
江戸っ子だから、口が悪いし、思ったことをすぐ口にしてしまう。素直に喜んでる様子を見せない。そして、優しくてお茶目な人だった。
一緒にいる時間はたくさんあったけど、話すことはあまりなかったように思う。大切な時間だった。

ーーーーーーーー

9月29日、母に用があってメールをした。用件とは違う話だったけど、祖母の元気がないとのこと。すぐに電話をかけ、様子を聞く。一週間食事を食べていないらしい。心配なので翌日会いにいくことを決める。祖母は僕が明日来ると聞くと「明後日で良いよ」と不思議なことを言っていたらしい。改めて考えると、早く来て欲しいとは言わない、祖母らしい言い回しだ。

30日。午前中の予定を終え、祖母のいる実家の近くの老人施設に向かう。話に聞いていたより具合が悪くなっていてずっと寝ている。母が起こして、色々問いかける。
「何がなんだか分かりません。」
としか答えられない。ただ、僕の
「ヤスだよ。」
という呼びかけには
「分かった」
と。もう一度言ってみると同じように答えが返ってきた。僕が来たことは理解してくれたようだ。
帰り際にいつも言っていたように「じゃあね、また来るね」と言うと、頷いていた。もう一度言う。また頷いていた。
帰り道に激しい後悔が襲ってきた。祖母に今までのお礼を言えていないことに気がついたからだ。なぜ、ありがとうの一言が言えなかったのか。今日が最後のチャンスだったかも知れないのに。

10月1日。会いには行けなかった。母にメールで様子を聞くとずっといびきをかいて寝ていて、意識もないから明日も来なくて良いと言われる。夜に祖母の家に写真を探しに行く。思ったよりも笑顔の写真が多く見つかって、嬉しくなる。88歳の誕生祝いの時の写真は引き伸ばして、パウチしてあった。ひ孫まで来て祖母を囲んでいて、嬉しそうに写っていた。

2日。僕は後楽園にいた。自分の試合ではないが、会場に行くと決めていた大会だった。
始まる頃に来なくて良いと言っていた母から電話がかかって来て、いつ来るのかと聞いてきた。夕方になると答えた。急に不安になる。途中で抜けて向かうことにする。
電車を乗り継ぎ、最寄駅まで着くと姉が迎えに来てくれた。車中で話を聞くと今日は痙攣を起こしたり、手足が硬直したりでかなり調子は悪かったらしい。みんなで「ヤスが来るまで」とか、兄の名前を言ったりで励ましていたとのこと。
部屋に入ると、叔母が「ヤスが来たよ」と祖母を起こすように言った。この日開いていなかったという目が開き、僕の方へ瞳を動かした。
「ありがとう」
その言葉を、感謝を伝えたかった。他に何を言ったかは覚えていない。とにかくそれだけは伝えたかった。本当は謝りたい気持ちでいっぱいだったのだけど。すると、祖母は声にはならない声をあげて、何かを言おうとしていた。
「、、、、、」
何を言いたいのか知りたかったけど、「頑張らないで良いよ」と耳元で言った。そして、「分かったよ」と伝えた。祖母が何を言いたかったのか分からないし、僕の気持ちも本当に伝えられたかどうかは分からない。でも、少しだけ心が楽になった。
祖母には幸せでいて欲しかった。

ーーーーーーーー

2005年から2007年にかけて、僕は祖母の家に居候していた。足立区にあったスーパークルーの練習場に平日はほぼ毎日通うため、千葉からでは厳しく東京での住む場所が必要だった。居候をしたいという話を相談した時、母は80歳を越えた祖母の負担になるのではないかと心配していたが、祖母は喜んでくれたらしい。江戸っ子なので、そんな喜んでいるような態度は出さなかったが。毎日洗濯をしてくれ、食事も用意してくれた。口が悪いところもあり、小言を言うこともあったけど、冗談っぽく言うだけで僕にはとにかく優しかった。出来る限り迷惑をかけないようにしようとはしていたが、かなりの迷惑をかけたはずだ。
疲れるとよくコタツに座っていたので、敬老の日に同じくらいの高さの椅子を買ってプレゼントした事があった。僕の前では、そこまで喜んだ素振りは見せなかった。ただ、少し目を離すと、祖母はこっそり椅子に座って泣いていた。僕はとても嬉しかったのだけど、少し気恥ずかしくなった。それ以降妙に気構えてしまって、プレゼントをしてあげることはなかった。今考えると、お祝いの時には何でもいいからあげるべきだった。

2007年に祖母の家を出ることになった。歩いて数分のところに新たに住むことになる。いつでも会いに行ける。そうは思っていたのだけど、あまり祖母に会いに行くことはなくなっていた。
たまにお昼ご飯に誘って、近所の蕎麦屋に行くことはあった。朝に電話をして、昼に迎えに行くと何となくワクワクしているように感じた。あの時にあげた椅子は少し小さかったか、やっぱりコタツに座って待っていた。いつも、その日のうちに母に連絡がいき、母から僕にお礼の連絡が来ていた。喜んでいたと言われた。母は話を盛る所があるので実際のところは分からないのだけど。
しばらくすると、祖母は入院を度々するようになった。そんな時は出来る限りお見舞いに行くようにしていた。本当は元気な時に行けば良いのに、そんな時にならないとなかなか会いに行かない。普段から行くようにしようとはその度に毎回思っていた。祖母は頑張り屋なので、病院でも階段を降りるトレーニングをしたりして、気がつけば帰って来てまた元気に1人で生活していた。

今年の春のこと。母と叔母は頻繁に祖母の面倒を見るために通っていた。ある日、母が様子を見に行くと具合が悪かったので、翌日行けるなら様子を見に行ってくれと言われて家まで行った。鍵がかかっていて、家の中を覗くと姿がなかった。病院でも行ったのかと思い、時間を潰してまた戻ることにした。家の前に着くとちょうど祖母が帰ってくるところだった。どうやら200mほどの所にあるスーパーに買い物に行って帰ってくるのに、途中で休んだりして3時間かかってしまったとの話。随分落ち込んでいた。祖母が横になると、僕も一緒に横になって会話をした。何を話したかは覚えていないが、いつもよりはっきりと話が出来たのは覚えている。悔しそうにしていたので、励ました。
翌日、祖母は入院した。何日かしてお見舞いに行くと、急に老人施設に入ると言ったとの事で、叔母が驚いていた。あれだけ首を縦には振らなかったのに。運良く所沢の実家の近くに空きが出来たのでそのまま入ることになった。何十年も1人で守り続けて来た祖母の家に戻ってくることはもうなかった。

祖母の家はいつも綺麗で、余計なものはなく整頓されていた。年老いて体を動かすのもつらいだろうに、面倒臭がらずに何でもじぶんでする祖母は一番尊敬できる人だ。頑固で意地っ張りで、口が悪く、それでいて、かわいらしかった。いつも気にかけてくれていた。実際にたくさん世話になった。それなのに、僕がしたのはほんのわずかな事だけ。
もっと会いに行けたはずなのに。色々してあげられたはずなのに。

ーーーーーーーー

最後の日。祖母の部屋に泊まっても良いとのことだったので、翌朝まで母と一緒に祖母の近くにいることにした。姉2人も夜まで残っていた。祖母は昼過ぎに僕が来てからだいぶ落ち着いた様子ではあったが、痙攣を何度かしたりして、時に苦しそうにすることもあった。姉が帰るついでに僕も食事をするために部屋を出ることにした。1時間もしていなかったと思う。その間、痙攣のタイミングが短くなっていたと、帰ってきた僕に母は教えてくれた。次にそうなったら励ましてあげようとは思いながら、部屋の空気を入れ替えるために窓を開けそのまま横になった。風の音が強かった。部屋に帰って来てほんのわずかな時間だった。母が祖母から呼吸の音がなくなっていることに気がついた。10月3日の0時を少し回った所だった。祖母は僕が帰ってくるのを待ってくれていたのかも知れない。それなのに、ただいまの一言も言わなかった。最後の最後でまたしても薄情なことをしてしまった。

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心の整理がついていない。祖母の先がそこまで長くないことは、随分前から分かっていた。年齢的にも当然のことだ。覚悟はしていた。祖母は十分に生きた。
それでも、未だに引きずったままだ。僕にはもっと出来ることがあったはずだ。祖母が少しでも幸せを感じるために出来たことが。
後悔する。
その度に祖母を想い、そして愛おしくなる。
そしてまた、後悔をする。

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2015年12月05日

ヤス・ウラノ15周年記念興行〜ヤス大サーカス 2015〜 全カード決定

◆大会開始前に細身のシャイボーイトークショー開催
19時10分頃より細身のシャイボーイによるトークショーを行います。ゲストは竹下幸之介。

◆ディック東郷がMAX LUCHA LIBRE認定無差別級選手権試合の立会人として来場。

◆全カード
◯メインイベント
ヤス・ウラノ&HI69 vs HARASHIMA&アントーニオ本多
◯タッグマッチ
石川修司&クワイエットストーム vs 火野裕士&福田洋
◯MAX LUCHA LIBRE認定無差別級選手権試合
〈王者〉佐々木大輔 vs 久保佑允〈挑戦者〉
◯シングルマッチ
丸山敦 vs 佐藤悠己
◯タッグマッチ
彰人&影山道雄 vs 高井憲吾&杉浦透
◯時間差入場タッグバトルロイヤル
参加チーム:円華&PSYCHO、木高イサミ&旭志織、房総ボーイ雷斗&DJニラ、小仲=ペールワン&翔太、ツトム・オースギ&ヘラクレス千賀、柏大五郎&TEPPEI、大鷲透&男色ディーノ
※試合順未定

【場所】新木場1stRING
【タイトル】ヤス・ウラノ15周年記念興行〜ヤス大サーカス 2015〜
【日時】12月8日(火) 19時30分開始
【席種】指定席 5,000円(当日5,500円) 自由席 4,000円(当日4,500円)

【予約・問い合わせ】
yasuurano219@yahoo.co.jp

basilisk_rave at 19:24|PermalinkComments(1)

2015年11月12日

ヤス・ウラノ15周年記念興行〜ヤス大サーカス 2015〜

私、ヤス・ウラノは今年でデビュー15年ということで、12月8日に新木場1stRINGで主催興行を行います。
ご都合よろしければ、ぜひ遊びに来てください!

【場所】新木場1stRING
【タイトル】ヤス・ウラノ15周年記念興行〜ヤス大サーカス 2015〜
【日時】12月8日(火) 19時30分開始
【席種】指定席 5,000円(当日5,500円) 自由席 4,000円(当日4,500円)
【参戦選手】ヤス・ウラノ、Hi69、HARASHIMA、石川修司、火野裕士、房総ボーイ雷斗 他


本日11月12日19時よりメールでの予約を受付を開始します。
予約を希望の方は以下の内容で申し込みをいただけますと助かります。

タイトルに
・「12月8日15周年新木場」と日付等を記入。

本文に
・お名前
※当日受付でニックネーム等で引き換えをされる方は、そちらも記入してください。
・席種
・枚数
・希望の方角、位置など
※希望があれば、ぜひ記入してください。最前列、通路側、最後列、南雛壇中央など。席が残っていれば、ご用意させていただきます。希望に添えない場合もございますので、ご了承ください。

以上の項目を記入の上、下記のアドレスまでメールをお願いします。
yasuurano219@yahoo.co.jp
3日以内には折り返し連絡をするようにしています。数日経っても連絡のない場合は、携帯電話のメールをご利用の方はドメイン指定を確認の上、改めてご連絡下さい。

予約が完了しましたら、当日の受付でウラノ扱いとお伝えいただき、お名前を言っていただければ引き換えが出来るように手配いたします。

basilisk_rave at 10:03|PermalinkComments(0)

2015年01月19日

ギックリしました。

久しぶりにやりました、ぎっくり腰。
13年ぶり5度目。くらい。

でも、今までの中では一番軽い感じで。
先週の水曜日にやったけど、日曜日の試合の時には完治しているという。

座薬も覚悟していたのに必要なかった。
負傷箇所と近いから、すごく効く感じがするから。


今回思ったのは、ぎっくり腰をして良かったという事。本気で思った。
腰ベルトをして1日過ごしていたら、腹圧のかけかたというのを理解出来た。少しだけど。
食器を洗っても腰が痛くならないやり方をマスターした気がする。

もう、今後の人生でぎっくり腰をすることはない!はず。

基本的に怪我をしない人間なので、こういうことは気を引き締めるのに必要だった。
良かった、良かった。

basilisk_rave at 23:05|PermalinkComments(1)

2014年09月20日

9月23日イベントします!

9月23日(火祝)の17時30分に開始する、DDTプロレス石井慧介主催興行・所沢市民体育館サブアリーナ大会の終了後に新所沢駅近くでヤス・ウラノのイベントを行います。

21時頃開始予定。
4000円飲み放題+食事付。
場所は後日連絡。

参加希望の方は、新所沢からの終電時間を確認の上、メールで申込みをお願いします。

yasuurano219@yahoo.co.jp


basilisk_rave at 22:22|PermalinkComments(0)

2014年08月16日

2014年8月16日

人を喜ばせることは、嬉しい。


プロレスがなければ、自分が何人もの人(と言ってもそんなに多くはないけど)を楽しませたりする事が出来るだなんて思いもしなかった。

今でもプロレスを続けているのは、あの大学の中庭を取り囲んだ人々が、両手をあげて喜んだ姿を経験したからなのかも知れない。
プロレスに興味のない人々を相手に、ましてや僕らは学プロだった。
自分にこんなことが出来るなんて。

プロになりあの頃とは随分変わってきたけど、あの時に感じた嬉しさの延長にある。


明日は今まで体験したことのない期待の中で、試合をすることになる。
大会場の前売り完売なんて、信じられないことだ。

一人でみんなを満足させることなんて、間違いなく出来ない。
僕は、僕らはいつものようにベストを尽くすだけ。
DDTがみんなを満足させる。DDTならきっとそれが出来る。


プロレスに出会えて良かった。
プロレスにいられて良かった。


明日がみんなにとって、素晴らしい一日になりますように!

basilisk_rave at 22:35|PermalinkComments(5)

2014年05月29日

受け取ってくれない

「チリでも頑張って」

そんな言葉をぶつけるように、二本の指を向けて空港でお別れしてきた。


本当は最後に今までの感謝と、手助けの不十分さの詫びを全て伝えたかった。


2年前にボリビアで出会った時、スペイン語の分からない僕はちょっとした買い物でも困っていた。喉が渇いた、肌が乾燥するからニベアが欲しい、カメラの三脚が欲しい。どんな時でも、彼は助けてくれた。

「ディエゴがいないと生きていけない!」

僕は度々ボリビアでそう言っていた。


彼が日本に来てからもそうだ。何かあれば彼を頼った。
日本に入国する際に必要な書類の名前のスペルを3回も間違える僕と違って、彼は丁寧に物事をこなしていた。真面目な彼は、時に怒りながら。



感謝と詫びを伝えるなら今しかない、そう思いながら彼にお別れを言う。
しかし彼は話を聞こうともしない。めんどくさそうな表情をして。
最初、しんみりするのが嫌なのかと、ただそうな風に思っていた。


でも、たぶんそれは違った。


最後の話をするタイミングではない。彼は、また共に時を過ごすことを確信しているのだろう。


さよならワンチューロ。
Hasta luego!


basilisk_rave at 01:01|PermalinkComments(4)