2010年12月06日
今日午後、母親を連れて近くのションピングセンター・アスティに行ったが、このシーズンにしてはあまりにも天気がいいので、急遽墓参りしようということになった。
仕事も入っていない訳ではないが、急ぎでもないので、明日以降にすることにした。
父方の祖父も、母方の祖母も月命日は、6日と7日で一日違いなので、両方の墓参りとなった。
外にいても暖かく、鹿島バイパスの道路際の温度標識では18℃だった。北陸ではこの時期珍しい。山を見れば色づき(紅葉というには茶色く、くすんできたが)、ちょっとしたドライブ気分である。
明日からは天候はくずれ、また北陸の冬特有の暗い空になるようだ。
明るい空を今のうちに十分楽しんでおきたい。
2010年12月04日
木町のチョンコ山(曳山)の(後部)垂幕に、武将姿の男が船に乗って、宝珠を両手にもっている姿が画かれている。
私は「ちょんこ山保存会」の冊子を書くために、これまで色々調べてきたが、今まで何の物語を描いた絵かさっぱり分からなかった。
先日木町のチョンコ山データを調べ、まとめ上げた資料の中身を点検してもらうため木町々会長にそれを渡してあった。昨日、チェックされた資料を受け取った戸田(保存会)事務局長より、木町の長老格の人から、あの絵の武者は武内宿禰(たけのうちすくね)の絵らしいという話があった。
ただ私としては直ぐには信じられない話だった。
亀山町のチョンコ山の人形は、今は住吉明神だが昔は武内宿禰という説もあったという話は聞いている。また阿良町も神功皇后(じんぐうこうごう)で武内宿禰とはペアで語られる伝説的人物だ。
その2町なら、不思議でもないのだが、木町のチョンコ山の人形は少なくとも享保2年(1717)(ちょんこ山の初出の記録)からゑびす様だ。米町とこの木町が一番古い曳山町でゑびす様と大黒様のペアの人形で、断言は出来ないが、人形の似姿が途中で変わった形跡もない。ゑびす様と武内宿禰では、ほとんど関連性が無い。よって最初は半信半疑だった。
ただ頭からは否定できないので、まずはインターネットで調べてみた。
そうすると、色々それらしき記述が出来てきたのだ。
新羅が攻めてきたことに対して行われることになった三韓征伐の時に、運悪くその頃仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が御崩御。日本国が動揺していると見られたならば、新羅に勢いをつけさせるだけなので、神功皇后は男装をして、軍船に乗って瀬戸内海を征西したらしい。
途中現在の兵庫県、住吉大社がある所へ上陸。そこで住吉大神に戦勝の祈願をした。そしたら住吉大神が潮満珠(しおみつのたま)潮干珠(しおひるのたま)という二つの珠―総称してこれを如意宝珠という。住吉大神が、この宝珠を神功皇后お投げになって渡したらしい。如意宝珠とは文字通り「意のままに様々な願いをかなえる宝」である。如意宝、如意珠、単に宝珠とも言う。
潮干珠は潮を干かせる珠。潮満珠は逆に潮を満たす珠。
新羅の軍船が押し寄せてきたところを、まず潮干珠を投げたらしい。潮が干いて水がなくり、新羅の軍船は横に倒れてしまう。それを見て次に潮満珠を投げて、水を湧きださせたらしい。横に倒れていた軍船に怒濤のように水が覆いかぶさり船が沈んでしまい、新羅の海軍は全滅。日本はそれにより大勝利を得たという伝説である。
この宝珠を投げたのが、神功皇后が投げたか、武内宿禰が投げたか、今のところ調査不足でハッキリしない。ただ武内宿禰が宝珠を捧げもつ奉納絵を見つけたりもした。彼が投げたか、住吉明神から投げられた宝珠を、武内宿禰が拾い上げ、神功皇后に渡したのかもしれない。
『日本書紀』では、神功皇后の夫・仲哀天皇の御宇2年の時、神功皇后が関門海峡の豊津浦に停泊していた時に海中より得たという話もある。となると仲哀天皇の生前の話となり、少し時代がずれる。この場合、長門(現山口県)の豊浦郡の住吉神社という説もあり、色々話が錯綜している。
さきほど図書館から『日本書紀 上 日本古典文学大系67』と『女竜王 神功皇后』(黒岩重吾)を参考のため借りてきた。まだ1,2週間は大丈夫そうだから、少しじっくりとそれらを読んで、あの絵に関する伝説を調べようと思う。
2010年12月02日
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昨日、今日と12月にして暖かい天気だったが、私は七尾市小島町の長寿寺で配管修理の仕事をしていた。
最初、電話で長寿寺と聞いた時、どこの寺だったかな?と直ぐに思いだせなかった。住職は前にも何度か私がポンプの修理などに来ているというので、住宅地図を見た。確かにこの辺りの寺は行った記憶がある。
と言っても、この小島町の寺院群、通称「山ん寺寺院群」の寺は大半行ったことがあり、直ぐにはどんな寺だったか思いだせなかった。
昨日、寺へ行って思いだした。八百屋お七の供養塔がある寺だ。
江戸の大火の1つに、八百屋お七の事件で有名な大火がある(天和2年(1682)))。ただしその大火は八百屋お七が付け火した大火ではない。
その大火で焼け出されたお七は、避難のため寄せてもらい世話になっていた寺の寺小姓・吉三郎と恋仲になった。
だが店が再建されると二人は離れ離れになった。お七はもう一度会いたいがために、我家に付火した。さらにあちこちにも付け火した。それらは大火にならなかったが、お七は付火犯人として捕まった。
当時この事件は、付け火の理由が意外な理由だったので話題となり、色々な劇で演じられたらしい。
上の写真の白い石柱が八百屋お七の供養塔である。勿論、本人は火あぶりの極刑で、処刑場近くに埋められた遺骸など引取るのもご法度だ。それでも親というものは、子供を弔いたいものだ。
写真の白い大きい石柱がその供養塔。私は、その右横の黒っぽい石柱の方かと思ったが、墓の横に「法春比丘尼(ほうしゅんびくに)」と書いてある方が供養塔である。
お七の父親は七尾の足軽の家出身で(脱藩して江戸で出てきた)あった。その縁を便りにお七の母親が、本来は付火の大悪人として墓を建てるなどもっての他なのだが、事情を当時のこの寺の住職に話して、秘密裏に建てたらしい。その後も秘密にしてお七の供養塔の謂を代々言い伝えてきらしい。
確か、今年だったか昨年だったか、「夜桜お七」を歌う坂本冬実が、和倉温泉に来た際、この歌と縁のある八百屋お七の供養塔が七尾にあると聞き、参詣に来たと新聞にあった。
ところで、この寺は、他にも長谷川等伯の家・長谷川家の菩提寺としても有名で、等伯の絵ではないが、長谷川派の絵もあるようだ。また石川県史で有名な鋳物師・宮崎寒雉(みやざきかんち)作の梵鐘などもある。
興味のある人は、七尾山ん寺寺院群の一画にあるから訪れてみてはどうだろうか。
2010年11月29日
2010年11月27日
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今日午後は、石崎町の海産物商の㈱かねしげの(修理中の)水中ポンプの件や、お宿・すず花の(応急措置した)ラインポンプの状況見のため、石崎町、和倉町へ行ってきた。
その帰り、久々に和倉温泉の湯っ足りパークで30分ほど寛いできた。
いつもは駐車場に沢山の自動車を見ることが多く、作業着姿の私は遠慮することが多かったのだが、この日は晴天なのに、駐車場に停まっていた自動車わ、私の車以外は1台。
土曜の昼の割には、こんなに客が少ないのは珍しいことなので、寄ってみたのだ。
営業時間は、朝の7時から夜の7時まで。
勿論、無料だ。敷地の公園や駐車場は広いし、近くにトイレや自動販売機などもあり、非常に便利だから、和倉を訪問する予定の人にお薦めの場所である。
旧市街地の方に帰ってきてから、能登食祭市場の駐車場に自動車を停め、矢田新埠頭まで散歩。いい日和なので、イイダコ釣りや、魚釣りをしている人をよく見かけた。