【高い授業料と軽い授業内容で本当に,社会のために生かす教育が実施されているのか,よくわかりえない日本の大学】

 【学校法人の「経済計算」のもとでは「教育倫理」が無縁にみえる日本の大学】

 【小規模大学1校1学年分に相当する学生定員を水増し(率)で入学・収容させる大規模大学の,きわめてずさんな定員管理体制,合格手続率(歩留まり率)の変動とこの捕捉困難性はその理由(いいわけ)にならない】

 【文部科学省の,いかにも責任転嫁の文教行政,そのツケによってますます劣化し,瓦解する高等教育】


 
 ①「大規模11私大,定員増 抑制策前に申請3倍,3866人 来年度入学分」(『朝日新聞』2016年5月29日朝刊1面)

 2017年度に私立大学がどれだけ入学定員を増やすか,文部科学省が今〔2016年〕春,申請を受け付けたところ,全体で前年の2倍の7千人超となり,うち大規模大学(収容定員8千人以上)が計3866人(11大学)と前年の3倍に急増した。6月に文科省の審議会が認『朝日新聞』2016年5月29日朝刊大学問題4面画像める見通し。文科省が地方創生策として大規模大の学生数を抑える策を2018年申請分(2019年度分)から本格導入する前に,大規模大が駆け込み申請した格好だ。(▼4面=大規模大に人気集まる)

 入学定員増の申請は2009年申請分(2010年度分)以降,私大全体で2千~4千人ほどで推移しており,昨年申請分(2016年度分)は計3657人。大規模大はうち3分の1弱の1200人(7大学)だった。
 補注)18歳人口がじわじわ減少してきたいまごろになって,私大の学生定員管理,問題は水増し率(実員割合)を,よりきびしく問題にするという文部科学省の方針変更である。しかし,日本の高等教育のもっとも根本に控えている問題は,このような定員(実員)管理をどうする・こうする(させる)ところにあるのではない。

 一部のグローバルな大学競争に打って出ていける一流大学はさておき,それには全然及びでないような非一流大学がわんさと国内の大学市場に滞留している状況のなかで,問題になっている大規模大学の定員(実員)管理に対する,文部科学省側の指導姿勢をきびしめにしたところで,しょせん,この記事の話題になっているような対応を惹起させるだけであった。

 入学定員を申請した私立大学,それも大規模大学11校の具体的な名称は,つぎの ② に一覧されている〔が,さきに前掲( ↑ )してある。いずれの大学もほぼまともな大学であって,いまさら定員を多少増やしたところで,学校法人としての経営維持問題についても,それでどうなる・こうなる,つまり大きな影響が発生するような要因にはなりそうもない大学ばかりである。いずれも総定員で1万人を超える大規模の大学である。

 文部科学省はごく最近であったが,大規模私大の定員厳守を指導する方法でもって,「地方・私大・小規模」の大学経営がなるべく存続・維持できるようにするとした文教政策を方向づけていたが,以前より定員割れが常態である〔それも定員そのものも削減させてきながら,もはや定員割れの回避がとうてい不可能である〕こちら後者の大学群を意識しつつも,前者大学群の定員管理を厳格にさせたからといって,後者大学群がどうにかでもなりうる,今後「学生集めが顕著に改善される」といった展望はもてない。それはもとより無理筋の期待である。

 営利的な事業経営の論理に近い「私大経営の論理」が,教育産業におけるあり方として,不可避に追求しつつ堅持してきた「日本の学校という教育体制」そのものが,実は問題の根っこにある。にもかかわらず,昨日〔5月29日〕に報道されたこの記事の内容のごとき「文部科学省側の指導体制」は,「ほとんど意味をなさない」「効果が実質的にない」と断定せざるをえない。

 〔記事本文に戻る→〕 今〔2016〕年3月の申請では44私大から計7354人分が提出され,その半数超を大規模大が占めた。大規模大の増加数はこの10年のなかで最多。文科省幹部は「これほど大規模大の定員増が多いのは異例」としている。申請は例年,6月に2度目の受け付けがあり,さらに増える可能性がある。

 文科省は地方に大学生を分散しようと,首都圏や東海,関西に多い大規模大に対し,入学定員の一定の割合を超えて学生を受け入れると翌年以降,定員を増やせなくする規制を強化。今年の申請分から段階的に導入し,2018年の申請分から本格実施する。この抑制策に大学側が危機感を強めたとみられる。

 志願者数が全国一で,今回最多の920人増を申請した近畿大(大阪府東大阪市)の担当者は「抑制策が検討理由のひとつ」と話す。他大学に流れる学生を想定して多めに合格者を出すが,結果的に入学者が定員を大きく超過することがある。抑制策の本格実施後は定員が増やせなくなる事態が予測されるため,早めの増加に踏み切ったという。

 一方,文科省の担当者は「抑制策が本格実施され,定員増の基準が厳しくなった後は,都市部への集中を緩和する効果が期待できる」と話す。(以上,記事の引用)

 --この最後の段落に指摘された文部科学省の基本姿勢は,極論するまでもなく,無意味である。18歳人口は減少傾向でありつづけ,社会人入学などで定員を埋められる部分は僅少になっていた。いまの日本の大学ではともかく,若者の入学を中心に経営を維持する方途しかない。要は,学生(高校生)の奪いあい現象が生起しているだけである。

 日本の大学の質的水準はその関係でいえば,一流大学の一部でしかまともに保持できていない。いわば,大学まがいの高等教育「ごっこ」が,多くの非一流大学では,それもいいかげんになされている。大学は出て就職をしているけれども,卒業後3年経ってみたら3人に1人は辞めている。その大部分は,よその会社に転職のしたのではなく,ただ転落している場合が多い。

 要は,大卒で職にありつけている若者であっても,その2割は非正規労働層に分類される時代である。なかでも非一流大学の卒業者は,当然であるかのようにして,離職率の高い企業・業種・業態に就職している。

 換言すれば,その2割の大部分を傾向的に構成してもいるのが非一流大学卒の学生である。このことは,統計的な実証を経なくとも容易に推測できる。求人・求職関係でのミスマッチもあって,グローバルどころかドメスティックでもろくな仕事・職種がみつからないのが,そうした大卒生就活の実際である。

 「厚生労働省と文部科学省」の統計によれば,2016年2月1日の時点で,2016年3月に大学等を卒業する学生の就職内定状況は87.8%,前年同期比 1.1ポイント増,2008年3月卒業者以来8年ぶりの水準となった。また,同年4月1日の時点になると,2016年3月に大学などを卒業した者の就職状況は大卒就職率は97.3%で,5年連続の上昇となっていた。

 しかし,これはあくまで全体・総数に関した平均的な統計値であり,その中身を精査しなければ,具体的にはなんともいえない要因も混ざっている。大卒者も大勢が外食産業の店員や介護職の労働者にもならざるをえない時代環境である。

 非正規労働者層に大卒者が大勢参入し,働いている事実は,大卒という教育課程修了者の「学歴としての資格」が,実質的にいかほどのものでありうるのか,あらためて疑問を投じている。同一労働同一賃金制度が日本では普及していなかったため,同じ仕事でも高卒と大卒では賃金・待遇に差がつけられる。

 ②「学生,寄らば大規模私大『大きさ=人気』の傾向」(『朝日新聞』2016年5月29日朝刊4面)

 文部科学省が大規模な私立大の学生数を抑制する施策を打ち出すなか,大規模大が定員を増やす申請を相次いで出した。背景には,大きい大学ほど名前がしられ,志願者が集まる最近の傾向がある。少子化で学生の奪い合いが激しいなか,いかに定員を確保するかが生き残りに直結すると考える大学は少なくない。(▼1面参照)

 「来たいといってくれる学生の高い需要に応えたい」。215人増となる3370人の入学定員を申請した名城大(名古屋市)の担当者は語った。日本大(東京都千代田区)や立命館大(京都市),近畿大(大阪府東大阪市)も同様に,「ニーズの高まり」を定員増の理由に挙げた。

 18歳人口は現在の約119万人から15年後には20万人ほど減るとみこまれている。大規模大がさらに定員を増やそうとするのは,規模の大きさじたいが学生に人気校と受け止められ,宣伝材料になるからだ。志願者数の多さをPRする大規模大もある。
 補注)だがこれは「規模の経済」といったごとき「経済の論理」まる出しの理屈である。「教育の論理」はいったいどこに探せばいいのかといいたくもなる。ちなみに名城大学の場合(学部だけで),2016年度の全学定員は3155名であり,これに対して実員(入学者数)は3437名であった。その差,282名。私大にとってみれば,この程度の学部定員に対する水増し(率,ただし大学院は抜きでの話)は8.9%であり,なお控えめである。1割未満の水増し率ということで,それほどひどい水準とはいえない。

 だが,大規模大学になるればなるほど,学生水増し入学率1%当たりに応じて確保できる「絶対的な学生の人数」は大きく増える。1万人定員の大学であればその1%は100名である。小規模大学の立場から観た〈この比率・数字〉はまさしく脅威である。だが,以前から文部科学省が推進しているつもりであったような,大規模大学の定員増(数・率)を抑え,小規模大学の,それも地方の私大の経営維持に役立たせようという発想じたいが,高等教育全般を再考するための実質内容になりうるとは思えない。

 文部科学省ははたして,「私立大学の経営維持」のための文教行政をおこなっているのか,それとも,日本国における高等教育全体を質的に向上・発展させるためのそれをおこなっているのか,このあたりに関する識別や評価がしにくい。いままでのところ,なにをやっても見当外れの指導(誘導?)しかできないようにしか映らない。そう観るほかない実績しか出していない。

 法科大学院はその「悪い好例」である。数日前のベタ記事には北海学園大学の法科大学院が募集停止すると情報が出ていた。この法科大学院の制度は当初のもくろみとは大きく異なった経緯をたどってきた。
    法科大学院の設置数は当初,20~30校が適正規模と考えられていたところが,実際には74校も乱立してしまい,定員が約5800名となっていた。法科大学院創設後満10年も経過しないうちから,募集停止がはじまっていた。撤退していった各法科大学院の名称を,以下に順次並べておく。

  姫路獨協大学,明治学院大学,大宮法科大学院大学,神戸学院大学,

  駿河台大学,東北学院大学,大阪学院大学,島根大学,東海大学,

  大東文化大学,信州大学,関東学院大学,新潟大学,龍谷大学,

  香川大学愛媛大学(2大学連合),久留米大学,鹿児島大学,

  広島修道大学,獨協大学,白鴎大学,静岡大学,熊本大学,東洋大学,

  そして北海学園大学。

 法科大学院創設後,初めの2004年度の「受験者数 72,800人,合格者数 5,767人」が,2015年度は「受験者数 10,370人,合格者数 2,201人」まで激減した。

 この法科大学院を積極的に推奨し,制度づくりに貢献した人物たちは,その後音なしである。著名な関係学者・識者たちの氏名を思いだせるが,彼らはいまではしらんぷりである。

 ともかく,2016年度において院生を募集する法科大学院は45校まで減った。「法科大学院の設置数は当初,20~30校が適正規模と考えられていた」のだとすれば,まだその倍近くもこの大学院は存在する。

 本ブログ内でも,法科大学院に関連する議論はいくつかおこなっている。それにしても,法科大学院の創設にかかわる全体的な責任・管轄は,いうまでもなく文部科学省であった。
 〔記事本文に戻る→〕 一方,地方に多い中小規模大は定員割れが常態化しており,収容定員400~800人の94私大の入学定員充足率(定員に対する入学者の割合)は2014年度で平均84.8%。大規模私大(2014年度現在で44校)の112.4%とは大きな開きがある。

 文科省の抑制策は,こうした「格差」を縮めるために導入されたが,今回の大規模大の定員増を招いた面もある。収容定員720人(2015年度)の宇都宮共和大(宇都宮市)は「地域のニーズに密着した人材養成が目標で,大規模大とはめざす方向が異なる」とも説明している。

 ただ,定員を増やせばいいだけではない。龍谷大(京都市)は154人増を申請する一方,今年度からほぼすべての学部で入学定員超過の抑制に本格的にとり組みはじめた。教員1人あたりの学生が増えて教育の質が落ち,結果的に学生にとって魅力がなくなるのを防ぐためだ。
 補注)「教員1人当たり学生数」に関する統計資料は,つぎの3表をみてほしい。私立大学は社会科学系の学部・学科では,それが40~50名程度というところもザラにあるので注意が必要である。( ↓ 中間の画像のみ,画面 クリックで 拡大・可)
  教員対学生比率1
    教員対学生比率2
           教員対学生比率3
出所)http://tanuki-no-suji.at.webry.info/201602/article_9.html

 ここでは「教育の論理」が「経営の論理」に圧倒されている構図がみてとれる。もちろん,社会科学系(人文科学系も似ている点があるが)では,この「教員1人当たり学生数」比率が自然科学系よりも一般的には高くてもよいけれども,あまりにも高くなっている実情がある。

 そうした大学における教員がおこなう大教室の講義は,まるで公会堂・劇場での公演会になっている。サンデル教授の白熱授業ならばともかく,非一流大学の授業でそれほどまで大人数の授業など展開できるわけがない。だが,実際には無理を承知で,しかもできないことをやっている。学生の欠席率も高い。それで,なんとかもっている面もある。
サンデル教授白熱授業
出所) http://fujio-dayori.seesaa.net/upload/detail/js/2010_0816E794BBE5838F0032-thumbnail2.JPG.html

 ということで,この ② に引用した記事に論評を寄せた「金子元久・筑波大特命教授(高等教育論)の話」では,《教育の質を懸念》するということであった。こう述べている。
    大規模大は定員を超えて学生を集めるケースが多い。その場合,教員1人あたりの学生数が増えて教育の質が落ちていないか懸念される。

 規模が大きいほど教職員の目は届きにくくなり,さらに定員を増やすのは学生にとって利点が見当たりにくい。

 経営面以外の「哲学」があるかどうかが問題だ。大学が名前でなく質で選ばれるためには,教員1人あたりの学生数など教育の質が分かる情報の公開を義務にするよう,制度の見直しが必要ではないか。
 はたして「教員1人あたりの学生数など教育の質〔まで〕が分かる情報」が,必要かつ充分に入手できるかどうか,筆者は実際に体験してきた者の1人として疑念を抱く。大人数の授業があっていけないわけではないものの,とてもではないが,そうした授業の形態についていけないような学力・気力しかもちあわせない「非一流大学の学生層」が,いうなれば「日本の大学では学生の過半」を占めている。

 そもそも「大学の授業」というものは,その〈質的な水準〉という意味あいで,はたしてどの程度に,その内容が維持できていればいいのか? こう問われるとき,関連する議論すべてをまじめに試みたら,各個別分野ごとにもやたらむずかしくなりそうな論題である。

 それはともかく,現状においていえば,大学入学難易度が偏差値55以下に留まっている学生集団相手では,「大学の授業」をふつうに〔まともに・水準を落とさずにという意味で〕成立させることは,おおよそ無理だと判断せざるをえない。本ブログ筆者がたび重ねて,現状における日本の大学は「3分の2が不要・無用」と断定してきたのは,そうした背景事情を踏まえてのものであった。

 以上の話題,抽象的に過ぎて判りにくいというのであれば,たとえばサンデル教授の白熱授業は,テレビなどでも紹介されていたから(YouTube ではいまもそれを「鑑賞できる」),これを視聴したことのある人は「あのレベルの議論をできない若者は大学に進学する必要なし」だと,最低限は判断してもらえばよいのである。

 大教室であってもサンデル教授の講義を聴き,これに質問を提示したり,教授と多少は議論を交わすことさえできないような学力・智力では,とてもではないが,大学生としての資格をもたない学生だ(?)といわざるをえない。

 ここまでいえば,いまの日本の大学生のうちで,サンデル教授の授業展開になんとかしてでも努力して付いていける学生は,いったいどのくらいいるか? もしかしたら3分の1もいないのではないかと危惧する。
 
 ここまで書いてきたが,ここまで記述の材料にしてきたのは,昨日〔5月29日〕の『朝日新聞』朝刊1面と4面の記事であった。さて,本日〔5月30日〕の『日本経済新聞』朝刊を開くと,大学問題関連の寄稿「社会科学系,学習時間短く『どう学ぶ』問われる質」浜中義隆画像(20面「教育」)があった。投稿者は,国立教育政策研究所高等教育研究部総括研究官浜中義隆(左側画像)である。

 ここでは,先入観を与えることを恐れずに前言しておく。この程度の話題は,何十年も前に済ませておくべきものであった。もちろん,話題にしないよりはしていたほうが数段マシであるが,文部官僚がこの程度の認識をいまごろ披露してくれたところで,時すでに遅しである。日本における高等教育全体の問題をどのように改革していけばよいのかと問われるとき,この程度の議論では,実際に資するところは少ない。要するにもの足りない。以下に,日経記事を引用していく。

 --社会科学系学生は,授業の出席時間や授業外の学習時間が他の専攻に比べ少ないことが国立教育政策研究所の調査で分かった。浜中義隆高等教育研究部総括研究官に寄稿してもらった。

 a)「日本の大学生の学習時間は諸外国の学生と比べていちじるしく短い」。

 中央教育審議会答申が,学生の主体的な学習時間の増加・確保の必要性を訴えたのは,2012年のことである。授業時間以外の学習時間が不十分であることは,多くの人の実感にかなうものだし,そもそも十分な予習・復習をせずに講義の内容をすべて理解できるほど,大学教育の内容はやさしくもない。したがって,学習時間が重要であることは理解できるにしても,学習時間の増加と大学教育の質がどのように結びつくのかについては説明が必要だろう。

 学生が勉強しないのは,大学で学んだ知識が実社会では役に立たないからだといわれてきた。たしかに,特定の専門的職業への参入資格と結びついた一部の専攻を除けば,大学教育でえた知識と職場で必要とされる知識が直接的に関連する場面は少ない。とくに人文・社会科学系では顕著で,勉強よりサークル活動,アルバイト,ボランティア等で社会経験を積んだ方が就職に有利だという言説がまかり通ってきた。

 もっとも近年の大学改革の議論では,大学で学んだ専門的知識が職業上,直接的には役立たないことは織りこみ済みである。予測困難な時代において,産業界が大卒者に求める能力とは幅広い教養,課題発見・解決力,みずからの意思や考えを論理的に発信する能力などであるとされる。
 補注)敗戦後,アメリカの大学制度を占領軍に強制された日本の大学制度は,一般教育(教養)科目を真似させられて編成していたが,前世紀最後の10年間までには,文部科学省みずからこのリベラル・アート教育領域を軽視する文教政策を展開してきた。

 最近は,文系学部は不必要だとただちに誤解される発言をした文部大臣もいたりで,しかもこの誤解に関連する批判が飛んでくるや,すぐにすなおにその発想の不具合:不徹底ぶりを認めるなど,およそ,高等教育じたいの議論ができるような識見をもつ自民党の国会議員(文教族議員集団?)がいない惨状である。

〔記事本文に戻る→〕 こうした能力を獲得するには講義に出席して内容を習得するだけでは不十分で,学生がみずからの学術的・実践的問題関心に即して主体的に学ぶことが不可欠だ。「大学でなにを学んだか」もさることながら,「どのように学んだか」がより重要となる。このような観点からすると,授業時間外の学習時間は,学生が能動的な学習経験をどれだけ積んだか,大学がそうした学習経験を十分に提供できているかを示す指標として,大学教育の質(タイプ)を間接的に示しているとみなせる。

 以上のような問題意識のもと,国立教育政策研究所では「大学生の学習実態に関する調査研究」の一環として,2014年度に全国の大学生・短大生約2万7千人を対象とした調査を実施した。

  --ここまでの議論を聞いておかしいと思うのは,日本における大学生の生活実態を踏まえた説明をしているのかという点である。国立大学の授業料なども納付金が高いが,私立大学はもっと高い,私大医学部となれば金持ちの子どもしか受かってもいけない。あるいは,学生がアルバイトにはげまなければならない,勉強などそっちのけで生活じたいを維持するためにみずから労働者にならねばならないし,また就活では4年次の勉学は実質ないも同然の大学4年間である。こういった種類の話題は,次段以降〔引用中〕でもいっさい登場しない。

 b) 冒頭に紹介した中教審答申が主に依拠している東京大学大学経営・政策研究センターの調査から7年が経過し,その間,各大学は教育改善に向けたさまざまなとり組みを進めてきた。それらが学生にどのように受け止められ,主体的な学習行動を促したのかを明らかにすることが目的である。

 分析結果からは,授業内容,教授方法,授業形態面での改革の進行はうかがえたものの,学生の学習時間は7年前とほとんど変化していないことが明らかになった。

 1・2年生が授業の予習・復習,課題等に費やす時間(グラフ)は,週当たり「1~5時間」がもっとも多く約6割を占め,「0時間」を含めると約7割の学生は1日5時間未満の学習量である。ただし「必要な予習・復習をしたうえで授業にのぞんでいる」学生は29%から47%へ増加した。学習時間の大幅増とまではいかないまでも,必要最低限の準備や課題を課す授業は増加し,学生もそれらをこなしている。
『日本経済新聞』2016年5月30日朝刊教育画像
 注目すべきは専攻分野による差異である。社会科学では5時間以下が約8割であるのに対して,医・歯・薬,看護・保健,理・工・農ではその比率はもう少し低い。授業への出席時間でも専攻分野ごとの差異は明瞭で,医・歯・薬,看護・保健では6割以上の学生が,理・工・農,教育・家政・福祉でも5割以上の学生が,週に「21~25時間」以上授業に出席しているのに対して,社会科学は3割程度にとどまっている。

 さらに,4年生が卒業論文・卒業研究に充てている時間は,理・工・農の学生の60%近くが週21時間以上としたのに対して,社会科学ではその比率は5%程度であった。
 補注)この段落の指摘は,卒論の有無までを配慮したものか? 現状における日本の大学では,すべての学部・学科が卒論の提出を義務づけているわけではない。とりわけ非一流大学でいえば,それは不可能な要求になっているところもあるくらいである。

 c) 付けくわえると,授業におけるグループワーク,教員との接触の機会(「先生に質問したり,勉強の仕方を相談したりしている」「適切なコメント等が付されて課題等が返却される」)も社会科学で少ない。

 社会科学系は大規模大学・学部が多いことからいたしかたない面もあるが,「質的転換」という観点からは,現在の社会科学系の教育が課題を抱えていることは明らかであろう。全学生の3分の1と数が多いゆえに,わが国の大学の平均像に及ぼす影響もまた大きい。
 補注)さきほど挙げておいたグラフ(3点)でも説明ができるはずだが,社会科学系の学部・学科でも「教員対学生比率」の低い大学では,このような〈対面指導〉は充分にできる。

 1学年10人以内程度であればこれは教員にとって最低限は我慢し,応えねばなければならない教育上の義務といえる。けっこうしんどい作業にはなるが,そのくらいは指導する義務が教員側にはある。

 だが,私立大学でも大規模大学のみならず,その「教員対学生比率」が高い大学では,この種の要求はしづらくなる。絶対的に無理な期待であるほかなくなる次元に向かい,徐々に近づいていくからである。


 〔記事本文に戻る→〕 むろん,今回の結果が示しているのは日本の大学の全体像にすぎない。本来であれば,個別の大学において学生がどのような学習経験をえているのかについて情報公開がなされることが望ましいし,そうした情報を活用して大学を選択してほしいものである。
 補注)各大学学部・学科で用意しているシラバスをみれば卒論の有無はたいがい判明するはずである。文部官僚がその程度の作業を怠って,この種の発言をするのは解せない。全体像を把握することは,個別像を具体的に網羅・理解してからの作業となるのに,この点の手抜きを「そうできれば望ましい」などとお茶を濁したいい方で逃げている。

 そのためには各大学が結果を相互に比較可能なかたちで,類似の学生調査を実施することが必要であり,今回の調査研究が,そのさいのベンチマークとして活用できる水準に達していることを担当者として期待したい。(以上,日経・寄稿の引用)
 補注)ここで「期待したい」という点は,まさに「あなたが率先して調査すべき」対象であったはずの点なのであるが,このように中後半端な論旨であった。

 d)『ポイント』--「人文・社会系,改革不可欠に」(以上の寄稿文を踏まえての日経側の論評)

 国立教育政策研究所の調査で,あらためて社会科学系学生の学習時間が少ないことが浮き彫りになった。人文科学系も褒められた実態ではない。

 学校基本調査(2015年)によると,日本の大学生の32.4%は社会科学系。これに続くのが工学(15.2%),人文科学(14.4%)で,いわゆる人社系が全体のほぼ半数を占める。日本の大学教育の質を高めるには,人社系教育の改革が欠かせないことは明らかだが,道筋は容易ではない。

 --ここで指摘されている日本の大学の実情,それも社会科学系分野の苦境は,とくに私立大学の大規模学部の実際を観れば,実感できる点である。一部には実際に存在する「1学部千名にもなる」多人数の学生を抱えている組織のなかで,専任教員数が100名いたとしても,学生総数4学年分では教員1人当たりの学生数は40名である。

 それでは,なにをどのように,学生に対する懇切丁寧な指導をするいうのかといってみても,初めの段階から難題続出である。しかし,それでも日本のマンモス大学は,なんとかかんとかゴマカシながらでも,いわゆる「高等教育」に相当するはずの「大学の授業」〔など〕をおこなってきている。

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 【蛇 足】  池田光穂「大学授業・私語プロファイリング-私語対策の考え方と実際,あるいは教育ナチズムの実践-」( http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/991111AC09.html )という文章をみつけた。池田光穂は現在,大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)・臨床部門・教授。阪大でも私語の問題はあるという証左。


 【どうしてここまで,いい加減なデタラメを吐けるのか? 余人には代えがたい「幼稚と傲慢」「暗愚と無知」の発現者,わが日本国総理大臣】

 【恥ずかしい・みっともない,早く〈勇退〉をしてくれても,全然もったいなくない首相(!?)】



 ①「首相 消費増税再延期の考え 政府与党内の意見集約図る」(NHKニュースウェブ版,2016年5月29日 4時33分から)

 1) このニュースだと思われる報道を,筆者は午前7時にNHKラジオ第1で聴いた。
 ここでは,その前半部分だけを紹介するが,この内容を聞かされて呆れた。とくに下線を引いた第2段落目は,まったく事実に反する中身である。

 本ブログは,昨日〔2016年05月28日〕の記述,主題「アベノミクスのアホノミクスらしさは,G7参加の各国首脳も認識済み」のなかで指摘していたことであるが,G7に参加した各国首脳側とのあいだにおいて,この安倍晋三独自の意見であった「世界経済が,通常の景気循環を超えて危機に陥る大きなリスクに直面しているという認識を共有したことはなかったのだから,そっくりそのまま事実に反していた。
2016年5月伊勢志摩サミットG7画像
出所)http://kenbounoblog.blog.fc2.com/blog-entry-143.html

 ともかく,当該記事の(前半部分)を引用しておく。
    来〔2015〕年4月の消費税率の引き上げについて,安倍総理大臣は,〔5月〕28日夜,麻生副総理兼財務大臣,自民党の谷垣幹事長らに,2019年・平成31年10月に2年半,再延期する考えを伝えました。これに対し,麻生副総理らは慎重な姿勢を示したことから,安倍総理大臣は,政府与党内の意見集約を図るため引き続き調整を続けることにしています。

 安倍総理大臣は,昨夜,麻生副総理兼財務大臣,自民党の谷垣幹事長,それに菅官房長官と会談し,G7伊勢志摩サミットで,世界経済が,通常の景気循環を超えて危機に陥る大きなリスクに直面しているという認識を共有したことなどを説明しました。

 そのうえで,安倍総理大臣は,G7の合意に従い,日本としてもあらゆる政策を総動員して世界経済の成長に貢献する必要があるなどとして,来年4月の消費税率の10%への引き上げを2019年・平成31年10月に2年半,再延期する考えを伝えました。

 これに対し,麻生副総理,自民党の谷垣幹事長は,社会保障の充実や財政再建にも 影響が出ることが懸念されるなどとして,慎重な姿勢を示したうえで,仮に再延期する場合は,衆議院の解散・総選挙をおこなう必要があるのではないかという考えを示しました。  --後略-- 
 註記)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160529/k10010538891000.html?utm_int=news_contents_news-main_001
 このニュース,最後の段落においては同時に,次段(※)に引用する中身も報じていた。記事に書く内容は,なるべく公正・中立にするための配慮をくわえたつもりであっても,実は,この最後の段落のほうが「事実をより正確に反映する中身」になっていた。与党だ,野党だといった立場の違いに即して考えるのではなく,関連する諸材料をなるべく幅広く集め,極力客観的に均衡のとれた判断を独立させて下そうとすれば,そうならざるをえない。
   (※)これに対し,民進党や共産党などは,「安倍総理大臣は,消費増税を再延期する口実に,サミットの議論を利用しているだけであり,アベノミクスの破綻を認めるべきだ」などと強く批判していて,安倍総理大臣の退陣を迫る方針です。

 民進党は〔5〕30日,共産党,社民党,生活の党と党首会談を開いて,安倍内閣に対する不信任決議案の提出に向けて,詰めの調整をおこなうことにしています。
 安倍晋三のいいぶんが正しいのか,それとも間違っているかについては,昨日の本ブログ記述から任意に,該当する箇所を拾って説明させておけばよい。筆者の表現によって再言しておく。
    安倍晋三君はまさか,リーマン・ショックに相当する経済危機が再来してほしいわけではあるまいや。G7の首脳たちに対して彼は「財政戦略の機動的な実施」「構造政策を果断に進めることの重要性」だけは認めてもらった。

 だが実際は,それぞれの課題は結局「各国の判断に委ねる」〔ほかない〕というのだから,実質ではほとんど相手にされていなかった。華々しい外交の演技(パフォーマンス)を,内政の失敗(不調)に対する救急絆に転用しようとする魂胆(こざかしさ)からして,ひどくみえすいている。
 2)『朝日新聞』の報道から
  つぎに,昨日『朝日新聞』2016年5月28日朝刊3面の記事「首相『リーマン』7回言及 G7議長会見,増税再延期の口実に?」は,こういう事実を指摘している。

 とはいっても,安倍首相がいう「リーマン級のリスク」を各国首脳が共有していたわけでは全然ない。

 a) フランスのオランド大統領は〔5月〕27日の会見でリーマン・ショック直後の状況について触れ,「かつては,全首脳が『われわれが危機の最中にいる』ということを認識していた」と指摘。今後,危機に陥る可能性は排除できないとしつつも,「いまはむしろ,私たちは危機の後にいる」と述べた。

 b) 27日付の英フィナンシャル・タイムズ紙は「(英国の)キャメロン首相は世界経済について楽観的な見方だ」という英政府報道官の発言を引用し,ドイツのメルケル首相やキャメロン首相が,安倍首相が発した世界経済の悲観的な見通しに同調していないと報じた。
『朝日新聞』2016年5月28日朝刊7面記事画像資料
 c) 英タイムズ紙(電子版)は「世界の指導者は安倍首相の懸念に同調せず」との見出しの記事を掲載。安倍首相の「リーマン級」発言について,国内の政治的難局の打開策だと報じ,公約に反して消費増税を延期するために,差し迫った金融危機への警告にG7首脳のお墨付きをえようとしたものだと分析した。

 d) ドイツの経済紙ハンデルスブラットも「安倍氏がG7で新たな経済危機を警告したが,財政出動にG7参加者は共感していない」と報道。メルケル首相は「世界はある程度,安定した成長状態にある」との認識を示したと伝えた。

 こうした記事の内容(情報)に接するかぎり,安倍晋三がいうように「世界経済が,通常の景気循環を超えて危機に陥る大きなリスクに直面しているという認識を共有した」などと,1人で勝手に決めつけているのは,きわめて独りよがりであり,異様かつ奇怪な解釈である。

 ところが,NHKのニュース報道は,この安倍にあっては大きくズレていた〈手前味噌のいいぶん〉を,報道の冒頭で「しっかり・テイネイ」に重点を置いたかたちで紹介していた。

 それは,どこまでも現状における疑似独裁国である最高指導者の意向に迎合したかのような「ニュース報道の仕方・内容」であったと受けとられるほかあるまい。前段  a) ~  d)  のとくにEU諸国の首脳たちは全員が,安倍が夢想している次元とは無縁であって,もっと現実的に世界経済の動向・趨勢を観察する立脚点を明示していた。

 以上の話題をもっと庶民感覚的に紹介する記事を,つぎの ② に参照してみたい。安倍晋三君のアホノミクス性がさらに,じわじわと実感的に伝導してくる記述である。

 ②「安倍首相『世界経済がリーマン前みたいだから消費増税延期するよ!』メルケル・キャメロン・野党・市場『はぁ?』」(『BUZZAP!』2016年5月27日 12時53分)

 1)安倍首相が世界経済の悪化を理由に消費増税の延期を発表しましたが,各所から異論が渦巻いています。詳細は以下から。

 安倍首相は5月26日,伊勢志摩サミットで商品価格や新興国経済に関する指標を並べた4ページの資料も配布,出席した各国首脳に対して「リーマン・ショック前と状況が似ている」と指摘,世界経済が危機に陥るリスクがあると煽りました。

 その後の記者会見で安倍首相は「今回のサミットで,世界経済は大きなリスクに直面しているという認識については一致することができた」と記者団に対して語りましたが,残念ながら認識の一致には失敗した模様です。

 イギリスのキャメロン首相は「危機,クライシスとまでいうのはいかがなものか」としてこの認識を否定,イギリス政府は「G7各国は,それぞれの必要性に応じて経済政策をとるべきだというドイツのメルケル首相の意見を支持した」と公表しています。Times 紙によると,キャメロン首相とメルケル首相にくわえて,アメリカ合衆国のオバマ大統領も危機との認識には賛成していません。

 安倍首相の認識に疑問を呈したのは,各国首脳だけではありません。市場関係者らからは「市場は落ち着きをとりもどしつつあり,リーマン・ショックと比べるのは無理がある」との声が出ているほか,日本の野党からも「消費増税延期のためのいいわけづくりでしかない」との批判が噴出しています。

 民主党の岡田克也代表は「増税先送りのいいわけに都合よく使えるようG7を利用しているといわれても仕方ない。非常に恥ずかしい。アベノミクスの失敗と認めるべきだ」として,消費増税を延期する理由をアベノミクスの失敗と認めず,「世界経済の悪化」に責任転嫁していると批判。

 --生活の党と山本太郎となかまたち共同代表の小沢一郎議員も,ツイッターで以下のように批判しています。

  ★-1 「小沢一郎(事務所)」(@ozawa_jimusho)  2016年5月27日  ついに安倍総理が「みなさんいまの状況はリーマン前に似てますね!」といい出した。ああそういうことねと。とにかく単独暴走自己満足型円安バブルの崩壊によるアベノミクス失敗を断固として認めず,「大変なのは世界経済ですよね! アベノミクスは失敗してないですよ!」と。お得意の茶番劇の開幕である。

  ★-2 「玉木雄一郎」 (@tamakiyuichiro)  2016年5月26日  また,民進党の玉木議員は月曜日(5月23日)に発表された月例経済報告での世界経済に関する「緩やかな回復が続くことが期待される」との記述との矛盾を指摘。いつから〔それが〕「リーマンショック前に似た」経済状況になったのか。国会では一度も聞いたことがない説明だ。

 国内でいうことと外国人にいうことを使い分ける安倍話法がサミットでも炸裂した。〔そして〕それをそのまま垂れ流す日本のメディア。さすがにメルケルからは一蹴されたようだが,いろんな意味で恥ずかしい。
 補注)ここで玉木裕一郎は「安倍話法」を「そのまま垂れ流す日本のメディア」と指摘・批判していた。そのとおりである。安倍という首相に,いかにしたら気に入ってもらえるような〈報道内容〉にするか,NHK以下,各報道機関は日夜・鋭意・苦心している様子が感知できる。

 いまの時代に「安倍晋三にオシメをはかせていない状態ままで,その内容物を垂れ流し的に報道する日本の言論機関」は,戦時中のそれ〔大本営発表〕にだいぶ似てきた。

 いまや,大手新聞紙業界が安倍晋三ヨイショを一生懸命にする時代である。むろん,主に読売新聞や産経新聞のことであるが,NHKも放送局として同列である。新聞社が「社会の木鐸」だという金言・迷言は,日本ではいっさい使用禁止にしておいたほうがよいかもしれない。


  ★-3 「玉木雄一郎」 (@tamakiyuichiro)  2016年5月27日   今週月曜日に政府が発表した月例経済報告では,世界経済の先行きは「緩やかな回復が続くことが期待される」とされていた。なぜいきなり「リーマンショック前夜」みたいなことになったのか。午前中,政府に来てもらって説明してもらうことにした。
 註記)https://t.co/3tBpb5eHr8

 2)先月中に安倍晋三はこう発言していた。

 --安倍首相は熊本地震直後の4月18日,野党の震災対応を優先すべきだとの声を押し切って開催していた衆院環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)特別委員会において,こういっていたのである。

 「リーマン・ショック級,大震災級の事態にならないかぎり,予定どおり引き上げていくという基本的な考え方に変わりはない」と答弁し,増税延期の可能性を否定したのである。この時点で熊本地震が大震災と認識していなかったことと同時に,リーマン・ショック級の事態も発生していないと認識していたことは明らかである。

 それから1ヶ月後,政府の発表した月例経済報告でもリーマン・ショック級の事態との認識が示されていないにもかかわらず,伊勢志摩サミットでの一連の「リーマン前」との発言はあまりにも唐突。

 消費増税延期の理由をアベノミクスの失敗と認めたくないためのいいわけであることが,誰からもみえみえになってしまった。サミットの政治利用,サミットの私物化と受けとられても仕方のない状況であり,全方位からのツッコミにどう対応するつもりか?
 註記)以上,補注以外は全文,http://news.livedoor.com/article/detail/11570738/ 参照。

 ここではわけても,前段で安倍晋三が批判されていた点,すなわち「サミットの政治利用,サミットの私物化と受けとられても仕方のない状況であり,全方位からのツッコミにどう対応するつもりか?」という疑問点に関して,答えを出しておきたい。実は,このチャイルディッシュな首相にとってみれば,特注でもって装備されている自分の「感度計」には,まったくいっていいほど無反応でありうるのが,そうした批判として提示されれ疑問点であった。ケセラセラ……。

 重ねていえば,こういうことになる。安倍は自分に同じくらいに「おバカな連中であるのが」「G7に参加した」「ほかの6カ国の首脳たち」だと,非常に大きな勘違いを冒している。というか,そのような独壇場にまで単細胞的に跳躍しうる特技(美技?)を,彼だけは具有しており,駆使できてもいる。

 そうでなければ,今回のように,はたで観たり聴いたりしているわれわれのほうが,ここまでひどく恥ずかしくなるような「牽強付会」⇒「コジツケの屁理屈行使」など,披露できるわけがない。冗談にもほどがあるとたしなめたところで,しょせんは,そのへんの作法に関してもおそらく,なんら関連する知識をもちあわせない安倍晋三君の御家内事情である。あとはともかく,なにごとにあっても,とうてい無理難題ばかりのオンパレードとあいなっている。

 安倍晋三君は,日銀の黒田東彦総裁といっしょにつるんで,日本経済を運営してきたつもりらしい。だが,つぎの ③ に触れるような「世界経済のなかの日本経済」として背負わされている重要な課題,いいかえれば「経済の成長か社会の安全かという選択問題」にどのように接近していけばいいのか,いまだに初歩的な学習すらできていない。

 3)『日本経済新聞』2016年5月28日朝刊の記事「〈伊勢島サミット〉首相『リーマン前に似る』消費税延期へ地ならし-危機認識,首脳の差も」。

 この記事は,安倍晋三「個人の関心」がG7参加国首脳「全体の関心」であるかのような,見出しをつけていた。だが,日本国内の問題がいきなり各国の問題でありうるかのように騙った安倍の無理筋の主張は,各国の首脳の立場からはほとんど受けいれられていなかった。

 つぎの図表が,安倍がサミットで示した参考データだというものである。だがこれは,数字そのものの形式的な解釈にしかなっておらず,時期を違えており状況も異ならせた経済現象それぞれを,このように無理やりこじつけて,独自に「同じだとみなしておく」解釈は,結局というかはじめから,各国首脳にたいして相手にされていなかった。
『日本経済新聞』2016年5月27日朝刊図表1
『日本経済新聞』2016年5月27日朝刊図表2
  ここでは,この記事に出ていた上の図表2点も紹介しているが,以上について経済の専門家は,つぎのように安倍の発想(すり替え的な説明)を,こう批評していた。

 ★-1「世界経済のリスク和らぐ」(BNPパリバ証券 河野龍太郎チーフエコノミスト)  新興国や資源国のバブル崩壊の懸念はあるが,米連邦準備理事会(FRB)が利上げを検討するなど年初より世界経済のリスクは和らいでいる。リーマン危機級の不況であれば,利上げすることなどできない。

 日本経済は完全雇用の状態にあり,企業業績も良い。成長がもたついているのは潜在成長率の低さが理由だ。新興国リスクが日本経済の成長を妨げているわけではない。金融や財政政策は循環的な不況のさいに繰り出すべきであり,停滞懸念があるという理由で実施すべきではない。

 新興国が抱えているリスクに対しては,中国の過剰な在庫の解消などの対応が必要で,財政出動とは処方箋が違う。財政出動で国際協調をめざすことを,国内で消費増税を先送りする説明にしたいという構図だ。

 ★-2「リーマン前」はいいすぎ(三菱UFJモルガン・スタンレー証券 嶋中雄二景気循環研究所所長)  新興国への資金流入や新興国の投資伸び率など,たしかにリーマン・ショック時の指標に匹敵するものは一部にある。新興国の経済は弱い。石橋をたたいても危機を防ぎ,確実な景気の回復のために政策を打つことは大事だ。

 ただ世界経済がリーマン危機前の状況に似ているというのはいいすぎ。国際通貨基金(IMF)の世界経済見通しはリーマン危機後,実態より悲観的にみる傾向がある。新興国の経済指標の変調を今後の世界経済が悪くなるという根拠とするには,きちんと吟味する余地がある。

 商品価格も半年間で55%低下したから「ショック」なのであって,いまの低下スピードはリーマン後よりはるかに緩やかだ。下落の要因となった原油価格も上昇傾向にあるほか,中国経済も底入れしつつある。

 以上2名の指摘は,安倍晋三のいいぶんを基本から認めていない。おまけに,日本国のこの首相がいいたいらしい要点は,その肝心の相手であったG7参加の各国首脳からは,軽く袖にされている。それだけのことであった。あとは,日本国内の人びと,それも一般庶民をあわよくば,7月に実施される参議院選挙を意識しながら騙らかそうとしているだけのことである。その意味でも彼はいわば,とことんみえすいた策術を駆使しているつもりなのである。
『朝日新聞』2016年5月27日夕刊素粒子
 ③「〈経済気象台〉成長か安全かの選択」(『朝日新聞』2016年5月28日朝刊)

  世界経済に強まる先行き不透明感を打開するために、各国の事情に応じた成長促進を提言した主要7カ国首脳会議(伊勢志摩サミット)。これを機に,日本が成長促進を進める道について考えてみたい。

 経済最優先をうたった安倍晋三政権下の日本経済は,直近3年間で年平均 0.6%の成長にとどまった。マイナス金利策などで景気・物価引き上げの刺激を続けるが,労働市場がすでに完全雇用に近い状況(黒田日銀総裁)で,供給面の制約があることも認識されている。

 一方,労働市場が同じように完全雇用に近い状況にある米国では,この3年間の成長率は年平均 2.4%。日本の4倍のスピードで成長し,金利引き上げが可能になった。潜在成長率の違いといえるが,両者の差はどこにあるのだろうか。

 最大の違いは,完全雇用下でも労働力の増加が成長に寄与する米国に対し,日本では生産年齢人口が減少している点だ。もっとも,米国ではラテン系の移民の増加と彼らの高い出生率で人口が増えている面が大きく,文化的摩擦や人種差別の問題も大きい。

 つぎにビッグデータを戦略的に積極活用する米国に対し,個人情報保護を優先し,データの活用が遅れている日本の対称性も大きい。また,インターネットを活用したタクシーの配車サービスや民泊など,シェアリング・エコノミーを進め,遊休資産の活用を進める米国と,これに規制をかける日本の差も大きい。

 エネルギー戦略の違いも潜在成長率に差をもたらすが,最後は成長優先で規制を緩めるか,安全や既得権を優先するかの選択となる。夏の選挙を前に,与野党は国民が選択できる経済プランを提示して欲しい。

 --この見解は,ただちに全面的に賛同できるかどうか判断させにくい主張らしきものを,いくつも混ぜこんでいる。とはいえ,アベクロダメノミクスはいつまでもぐずぐずした政策展開しかなしえず,実のある顕著な効果を挙げていない

 そういえば,3月中にも安倍晋三は,アメリカの著名経済学者を日本に招いて意見を聞く体裁をとって,これを消費税率上げの実施時期を延ばす理由に利用しようとする魂胆もみせていた。だが,その企みは逆に,その経済学者の1人にネット上で暴露されたりして,大恥をかいていた。詳しくは,本ブログにおけるつぎの記述を参照されたい。
    ⇒ 2016年04月03日,主題「ノーベル賞経済学者の助言を都合良くつまみ食いしたかった安倍晋三の浅はかさは,この首相の『幼稚と傲慢・暗愚と無知』を実証した」

 副題1「いつものように安倍流にセコく・狡猾で,浅薄かつ愚昧な,アメリカ経済学者に対しての〈舐めきった態度〉はいっさい通用せず,ただちに暴かれていた」

 副題2「ジョセフ・スティグリッツもポール・クルーグマンも晋三坊やにはあきれ顔」

 副題3「世界に向けて自身の羞恥(厚顔ぶり)を拡散させているこの首相は,日本国の偉大なる欠陥政治家なり」
 最後に一言。--沖縄県警は2016年3月19日,2月28日から行方不明となっていた会社員島袋里奈さん(20歳)を殺し,遺体を遺棄してもいた事件の容疑者,アメリカ軍属で元海兵隊員シンザト・ケネフ・フランクリン(32歳)を逮捕していた。
シンザト画像3
 さて,この容疑者の姓名 “シンザト・ケネフ・フランクリン” なのであるが,その後における新聞報道などにおいては,一貫してシンザト容疑者と呼ばれている。
 出所)画像は,http://cumbersome.exblog.jp/25823659/

 日本のマスコミ報道にあっては,配偶者の日本人の姓〈シンザト〉もいっしょに名のっているこの容疑者の呼び方が,妻が日本国籍人であるという事実関係があってそうしているのか,一貫してシンザトである。

 アメリカ国籍である容疑者には,婚姻関係を介して日本国の永住権が付与されているにせよ,犯人であれなんであれ,わざわざシンザトにかぎって呼ぶのはおかしい。というよりは,基本的にはフランクリンの姓で呼びながら,あつかうべき事件・容疑である。そうでなければ『シンザト・フランクリンが姓だ』と判るように,最低限,きちんと報道すべきである。

 要するに,フランクリンという米国の姓で報道するよりも,シンザトという日本の姓で報道したほうが,日本人=沖縄県民側の反撥が少なくて済むのではないか,という計算でもあったのかと勘ぐりたくなる。もっとも,フランクリンは黒人系の人種的な特徴を明確にもつ人間であり,日本人であるその特徴はといえばほぼゼロであるから,以上の疑念は余計に深まる。

 しかも,この殺人事件はこれまたおかしなことに,報道関係では一貫して「沖縄遺体遺棄事件」と呼ばれている。殺人事件の容疑がある一点を故意にはずしたかのような事件名にしている。殺人よりも遺体遺棄(こちらの容疑じたいは殺人行為にかかわらなくてもありうる罪名に関する容疑である)の呼び方を,あえて使っているかのように観察できる。
 
 以上に指摘した疑問点2つについては,報道関係の奥座敷において,なにか一定の概念操作がほどこされていたとみたほうがいい。

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 ④【補 述】「伊勢志摩サミットG7で安倍晋三個人のさらけ出した姑息な立ちまわり,『リーマンショック前夜』をデッチ上げたかったけれども,失敗し,恥をかいた日本国の首相」。だが「これを追及し,報道できない言論機関のだらしなさ」。

 引用する資料;「『リーマンショック前夜』を裏付ける資料を作ったのは誰か未遂に終わったサミットを国内政争の道具にする計画」(ニュース専門ネット局『ビデオニュース・ドットコム』「ニュース・コメンタリー」2016年5月28日,http://www.videonews.com/commentary/160528-02/)

★ 安倍首相のサミットを国内政争の具に利用する計画は,
失敗に終わった ★

 一部メディアが報じているように,安倍首相はサミットの討議の場で,「リーマンショック直前の洞爺湖サミットで危機の発生を防ぐことができなかった。その轍は踏みたくない。世界経済は分岐点にある。政策対応を誤ると,危機に陥るリスクがあるのは認識しておかなければならない」と話し,積極的な財政出動の必要性を訴えたという。

 しかし,イギリスのキャメロン首相らから「危機はいい過ぎだ」などの指摘が出たために,サミットの共同声明の世界経済に対する認識のくだりは,かなりトーンダウンした内容になっていた。実際,海外のメディアでは,安倍首相の世界経済の「危機」に関する認識が,他の首脳との間で温度差があったことを指摘する記事や論説が目立つ。

 安倍首相は来〔2017〕年4月に予定される消費増税について,「リーマンショックや大震災のような事態が発生しないかぎり実施する」と国会などで発言してきた。世界の指導者が集まるサミットの場で,現在の世界の経済情勢がリーマンショック前に似ているとの同意をうることができれば,晴れて増税先送りの口実にできたはずだった。

 しかし,さすがに世界の首脳たちは,さしたる根拠もなくリーマンショック前夜の危機を吹聴することには慎重だった。それにしても,世界の指導者たちが世界的な問題を討議する場であるサミットを,小手先の国内政治目的で利用しようなどと考えるのは恥ずかしいことだ。とくに議題を設定する強い権限をもつホスト国の首相が,そのようなことをしていては,サミットを主催する資格が疑われる。

 しかし,今回,安倍首相がサミットの場でリーマンショックをもち出した背景には,もうひとつ根深い問題が潜んでいた。それは,今回のサミットでは安倍首相ならびに首相官邸が,みずからの政治目的達成のために,他の政府の部局とは無関係に単独で暴走していた疑いがあるということだ。そして,それが露呈したのが,5月27日に国会内でおこなわれた民進党による外務省のサミット担当者へのヒアリングだった。

 民進党のサミット調査チームは,サミットの討議の場で首相が唐突にリーマンショック前夜をもち出したさいに各国の首脳に提示した4枚の資料の出どころを問題視した。首相には日本の指導者として,みずからの政治的な判断でさまざまな交渉をおこなう権限があることはいうまでもない。しかし,今回首相が「政治的判断」でリーマンショック前夜をもち出したさいに使われた資料註記)には,日本政府が正規の手続で採用し,発表していた世界経済の状況判断とはかけ離れた内容のことが書かれていた。
 註記)この資料は,③ までの記述中にかかげてある〈新聞記事のなかの図表〉にそのまま反映されていた。

 首相がサミットの場でもち出した「リーマンショック前夜」の認識の前提は,政府の正規の経済判断とはまったく無関係に一部局が独断で単独で作成したデータにもとづくものだったのだ。

 そのペーパーには,IMFのコモディティ・インデックスや新興国の経済指標などが印刷されており,それらのデータがリーマンショック前のそれと似ていることを指摘する注釈が書きこまれていた。現在の世界経済がリーマンショック前の状況と似ていることを無理やりこじつけるために,使えそうなデータを恣意的に引っ張ってきただけの,およそサミットの場で首脳たちに配布するに値するとはいえない,やや怪文書に近い代物だった。

 民進党のチームはサミットを担当する外務省経済局政策課の担当者を国会内の会議室に呼びつけ,その資料の出どころを問い質した。なぜならば,その資料に反映されていた世界経済の現状認識は,その僅か3日前に政府が月例経済報告で示した認識と百八十度異なる内容だったからだ。

 安倍政権は5月23日に開かれた「月例経済報告等に関する関係閣僚会議」の場で,世界経済は「全体としては緩やかに回復している。先行きについては,緩やかな回復が続くことが期待される」とする2016年5月の月例経済報告を了解していた。

 5月23日に安倍首相みずからが出席した関係閣僚会議で「全体としては緩やかに回復している。先行きについては,緩やかな回復が続くことが期待される」とする判断を決定しておきながら,3日後のサミットの場では,「リーマンショック前と似ている危機的な状況」と説明し,誰が作ったかもわからない資料が各国首脳に配布されていたのだった。

 民進党のチームに呼ばれた外務省経済局政策課の浪岡大介主席事務官は,資料の作成者は誰かを問われると当初,「自分も直前にみせられたのでしらない」と回答したが,途中からことの重大さに気づくと前言を翻し,「自分たちが作ったものだが,詳細はいえない」との回答を繰り替えした。

 同じくヒアリングに呼ばれた内閣府の月例経済報告の担当者は,サミットで配られた資料の内容が政府が正規に作成した世界経済の現状認識とは大きく異なることを認めたうえで,内閣府は問題となった資料の作成には関与していないことを明らかにした。同じくヒアリングに参加した財務相の担当者らも,「サミットのことは外務省に聞いてほしい」と繰りかえすばかりだった。

 安倍首相がサミットの討議の場でリーマンショックをもち出した背景に,国内の政治的な思惑があったことは間違いないだろう。すなわち,サミットの共同声明になんらかのかたちでリーマンショックの文言を滑りこませることで,消費増税延期の口実にしようというわけだ。有権者が嫌がる増税を選挙前に発表することで,7月10日にも予定されている参議院選挙や,場合によっては衆議院解散による同日ダブル選挙を優位に戦いたいという思惑だ。

 しかし,かといっていきなり経済学者でもない日本の首相が,唐突に討議の場でリーマンショックをもち出しても,誰も賛同はしてくれない。そこで,急遽,何者かに命じて,それを裏づける資料を作らせたというのが,ことの真相なのではないか。そして,政府の経済見通しに直接関与する内閣府はむろんのこと,サミットの討議の裏方を務める外務省でさえ,討議の直前までその資料の存在をしらされていなかったというのが,ことの真相のようなのだ。

 サミットを国内政争を勝ち抜くための政治目的に利用することが,サミットに対する冒涜であることはいうまでもない。しかし,より深刻な問題は,仮にサミット参加国の首脳たちがホスト役の安倍首相の国内政治的な立場に理解を示し,「世界経済は危機的な状況にある」との認識を示す共同宣言が採択されてしてしまった場合,市場がそれに反応し,実際に危機を生んでしまう危険性があったことだ。世界の首脳たちが揃って「危機」を認定すれば,その判断にはなんらかの根拠があると市場が受け止めても不思議はない。

 なににしても,首相が政府の公式見解とはまったく無関係に,そしておそらく純粋に国内政治の党略的な動機から,サミットの場で危機を売りこもうと考え,何者かがそれを裏付ける資料を急ごしらえで作成していたのだとすれば,日本政府のガバナンスという点からも大きな問題がある。その真相は明らかにされる必要があるだろう。

 ところが首相の記者会見では,そのような質問をする記者が質問の機会を与えられるはずもなく,国会は6月1日で閉幕してしまう。民進党は急遽国会での緊急の審議を求めたが,無論与党はこれに応じないため,この問題の真相はこのまま藪のなかに置かれたまま封印されてしまう可能性が大きい。

 サミットの政治利用を目論んだあげく,他の首脳からこれを諫められ,阻止されたたという事実があったのかどうか,また,政府の公式見解とはまったくかけ離れたところで官邸の暴走があったのかどうかを質す記者会見や国会が機能しない状況といい,日本の政治はどこまで劣化を続けるのか。ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。
 註記)http://www.videonews.com/commentary/160528-02/

 日本国の内政・外交ともに,安倍晋三君の独走的・独善的・先走り的な独演会・独奏会・学芸会とみまがう光景を呈している。いまでは,日本の政治がとうとうここまでも劣化・腐朽してしまっている。この事実は,薄ら寒くなるなどといった形容では済まされないほど,相当深刻に無様である。

 なにせ,子どもが総理大臣を演技しているゆえ,首相官邸は幼稚園の校舎に映る,そして国会は安倍晋三君専用の大規模遊園地みたいな施設になっている。人間(政治家?)としての耐用年数は,だいぶ以前に終了していたような世襲3代目の幼児的な首相が,それでもいっぱしの最高指導者の気分に浸りながら,サミットG7が開催されていたあいだ,伊勢湾を泳ぎまわっていたしだいであった。

 サミットG6の各国首脳たち,この安倍晋三君をどのような視線で観ていたか? そう考えたとたんに,ひどく背筋が寒くなってきた。


 【虚空に飛ぶアベコベミクス,各国首脳にとって安倍晋三はニッポンノリスクと化している】

 【外交の檜舞台でイイかっこしたがるよりも,内政の諸問題(諸困難)にまともにとり組むほうが喫緊・必須である】

 【まず,参議院選挙(7月実施)で有権者は,自民・公明政権に打撃を与えておく必要が,国民・市民・庶民の立場からの責任としてある】

 【安倍晋三の狙いは憲法改悪】



 ①「首相,増税延期へ理論武装『危機回避』『財政政策』G7で合意」(『日本経済新聞』2016年5月28日朝刊2面「総合1」)

 日本財界新聞もしくは経団連新聞の別名をも有する日本経済新聞が,いま三重県伊勢で開催中のG7にかこつけるていさいで,自国経済運営の失政を合理化するための理屈を調達したがっている安倍晋三の立場を,忖度したかのような記事を報道していた。

 いいかえれば,アベノミクス(これは通名であり,その本名については,アホノミクス・アベコベミクス・アベクロダメノミクス・アベノリスクなど諸説あり,2014年までにはすでに「失敗の結果」を出していた経済政策である点は,つとに経済学者たちによって断罪されてきた)の失敗が,もっぱら海外要因に原因するかのようにして,責任回避までしたがる「安倍晋三風に独自の恣意」を,なるべくまろやかに善意的に解釈しておくための報道を,日本経済新聞はおこなっていた。

 いまどきの,国際経済の境遇における日本経済のありようである。各国経済のありようが国際関係的な諸要因の影響を形成しながらも,同時にまた逆方向からの影響を受けている。最近における経済状態に関していえば,アベノミクスのアホノミクス性を根幹か突きやぶったのが,原油価格(先物取引)の動向であった。

 今日のニュースによれば,それは1バレル=50ドルまで「もちなおしてきた」けれども,一時期は30ドルを割りこむ水準にまで落ちていた。その影響は電気料金にもいまなお響いており,本日の新聞に記載されている記事は,各電力会社の電気料金(標準世帯)が全9社ともに値下げ状態になった事実を報道していた(「3・11」を契機にこのような情報が毎月掲載されている)。

 以下に画像で紹介する記事は『朝日新聞』本日朝刊6面「経済」から引用したものである。最近は,ガス会社の料金まで記載されるようになっている。
『朝日新聞』2016年5月28日朝刊6面電気料金各社
 --ともかく日本経済新聞記事に戻って引用する。

 安倍晋三首相は5月27日,2017年4月に予定する消費税率10%への引き上げの延期を検討すると初めて表明した。同日に閉幕した主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)で,増税延期への理由づけがえられたと自信を深めたためだ。採択した首脳宣言を支えに,週明けから政府・与党内の調整に着手する。ただ,財政健全化や社会保障の財源確保など課題は多い。
『日本経済新聞』2016年5月28日朝刊2面画像
 首相は増税延期を早くから検討していた。背景には,自身の経済政策「アベノミクス」の先行きへの危機感がある。金融緩和を足がかりに続いていた円安・株高基調は年初から変調。国内総生産(GDP)の6割を占める消費は,2014年4月の消費増税がいまだに足を引っ張っている。

 こうした状況下で再び増税すれば当面の景気はさらに失速し,政権の最重要課題にかかげたデフレ脱却が遠のくおそれがある。「高い支持率はひとえにアベノミクスへの評価だ」(首相周辺)との声があるなか,どうやって増税を延期するか。首相は自身の2つの発言に縛られていた。

 ひとつは1年半前に先送りしたさいに「再び延期することはない」と断言し,成長戦略の実施などにより「消費税率引き上げに向けた環境を整えることができる」といい切ったことだ。国内景気の不振を理由に増税を再び先送りすれば,道半ばのアベノミクスは失敗だったとの批判を浴び,政権の土台が揺らぎかねない。

 首相が5月27日の記者会見で「有効求人倍率はかなり高い水準で推移している」「賃上げも今世紀でもっとも高い水準だ」などと説明し,「けっしてアベノミクスは失敗していない」と強調したのはそのためだ。
 補注)「賃上げも今世紀でもっとも高い水準だ」などと説明したというが,これは奇怪・珍妙な言説である。今世紀における賃上げ水準そのものが,労働者側にとってみれば,実質的にも低落傾向を明確にたどってきた。くわえていえば,最近でも実質賃金の上昇がみられていない。だから「実質賃金,5年連続マイナス 前年度比0.1%減」(http://digital.asahi.com/articles/ASJ5M6W1TJ5MULFA038.html)と見出しを付した記事は,こう解説している。 
   厚生労働省が5月20日発表した2015年度の毎月勤労統計で,物価の伸びを超えて賃金が上がっているかを示す実質賃金指数が前年度より0.1%減った。2014年4月の消費増税の影響が薄まり,下げ幅は前年度3.0%より縮んだが,5年連続のマイナスとなった。
    com20160520図表
 1人平均の月間の現金給与総額は,前年度比0.2%増の31万4089円。業績が好転した企業でベアが相次ぎ,基本給などは0.3%増と10年ぶりにプラスに転じた。ただボーナスなどが0.5%減ったほか,賃金が低いパートタイム労働者の比率も上がったため,現金給与総額の上げ幅は前年度の0.5%増より縮んだ。

 実質賃金の算出に用いる消費者物価指数は前年度より0.3%上昇で,上げ幅は消費税率が5%から8%に上がった2014年度の3.5%よりも縮んだ。それでも現金給与総額の伸びを上回り,実質賃金はマイナスとなった。

 フルタイムとパートの労働者の現金給与総額はそれぞれ前年度より0.5%増え,実質賃金も0.2%増えた。しかし,賃金が低いパート労働者の数が大きく伸びたことが,全体の現金給与総額と実質賃金を押し下げた。
『朝日新聞』2016年5月21日朝刊実質賃金低迷 この経済・賃金報告を聞いた者が,前述の安倍晋三の発言賃上げも今世紀でもっとも高い水準だ」といった内容(狂言?)を,どう受けとめるか,贅言は要さないくらい明瞭である。「冗談にもならないデタラメをこの首相はいっている」ということにしかならない。
 出所)右側図表は『朝日新聞』2016年5月21日朝刊より。

 〔日経記事本文に戻る→〕 もうひとつが「リーマン・ショックや大震災のような事態でないかぎり実施する」との発言だ。だがいまはリーマン・ショックのような危機とはいえない。国内経済では,1~3月期のGDP速報値は年率 1.7%のプラス成長。熊本地震も東日本大震災に匹敵する大震災とはいいにくい。

 活路をみいだしたのが国際舞台であるサミットだった。世界経済はいま危機的状況ではないが「危機に陥るリスクがある」とはいえる。首相は新興国経済の不振を指摘しつつ「現在はリーマン・ショック前に似た状況」と説明する資料を手に各国首脳に訴えた。

 英国からは異論も出たが,首脳宣言では「新たな危機を回避するため」と明記できた。5月27日の記者会見で首相は「大きな危機に陥ることを回避するため,協力して対応すると国際的に合意した。この事実は大変重い」と強調した。
 補注)「首脳宣言では『新たな危機を回避するため』と明記できた」といっても,この新たな危機がはたして起こってくるのかどうかについて,つまり,そのような「新たな経済状況」が発生したとみなせるような「事態・時期」が到来するのかと問われれば,G7の首脳たちが明記したことがらだからと断わったところで,これらの話題を総合して判断しつつ率直に指摘するに,「因果が具体的にありそうな関係」はなんらみいだせない。

 各国首脳は,G7開催国の議長である安倍晋三のいいぶんを多少は聞いてやり,「花をもたせている」だけのことである。仮にG7の意向どおりに世界経済が動くのなら,これほどたやすい国際政治経済の運営:あり方はない。しかし,それほど思いどおりに動くような世界全体経済でないことは,関係者であれば教えられるまでもなく周知の事項である。


 〔日経記事本文に戻る→〕 財政出動の合意にもこだわった。需要創出のため財政出動が必要だと各国で確認できれば「消費にマイナスになる消費増税は政策矛盾だからやらない,といえる」(経済官庁幹部)からだ。首脳宣言には「財政戦略」や「すべての政策手段を用いる」との文言を示した。

 「あらゆる政策と申し上げている以上,消費税の扱いも検討する」。首相は記者会見でこう語った。「経済危機の回避」と「政策の総動員」の2つを主要7カ国(G7)で確認したことで「都合のよい解釈」との批判をかわせるし,議長国として合意を履行する責任も強調できる。
 補注)内政問題としてのアベノミクスの失敗を,外交問題の次元にじかに混ぜこむ方法を使いこれを,自分の経済失策を隠すための道具に利用しようとしている。しかし,この画策が成功するみこみはほとんどない。それでもともかく,そのように「アヒルの水かき」の要領で,伊勢湾あたりでは一生懸命にやっている自分の姿を国民向けに訴求したいのが,安倍晋三君の真情。

 焦点は延期幅だ。2019年4月までの2年延期を軸に,1年半や2年半などの案もある。再々延期の懸念にどう答えるかもポイントだ。増税延期の条件が空文化することで,財政への市場信認の確保策も求められる。

 財政健全化計画は2020年度のプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化目標は堅持する方向だが,中間目標を含め再設計する必要がある。消費増税を財源に当てこんでいた介護保険料の軽減対象拡大なども課題だ。公明党は増税を延期しても実施を求める構えで,新たな財源を捻出しなければならない。

 ②『朝日新聞』2016年5月28日朝刊から拾ってみる関連記事

 1)「消費増税延期を示唆 首相,参院選前に表明 サミット閉幕」(1面)
 主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)は5月27日,世界経済を支える金融,財政政策と構造改革の重要性をうたう首脳宣言を採択し,閉幕した。議長を務めた安倍晋三首相は記者会見を開き,「消費税率引き上げの是非も含めて検討し,夏の参議院選挙の前に明らかにしたい」と表明。来〔2016〕年4月に予定する消費税率10%への引き上げを延期する考えを示唆した。
 (▼3面=「リーマン」7回言及,4面=会見要旨,7面=専門家からも異論)

 首相は会見で,複数の経済指標について「リーマン・ショック時の下落幅に匹敵する」などとして,現状が2008年のリーマン前と似ているとの認識を示し,「世界経済が危機に陥る大きなリスクに直面している。G7はその認識を共有し,強い危機感を共有した」と強調した。そのうえで,「財政面での対応も含め,あらゆる政策を総動員する」とし,追加の経済対策にも含みをもたせた。

 首相はすでに,消費増税を延期する意向を固めている。しかし,これまで首相は「リーマン・ショックや大震災のような重大な出来事がないかぎり,予定通り実施する」と説明してきたため,G7の場で「リーマン前に似た状況」を強調することで,延期を正当化する狙いがあるとみられる。

 ただ,世界経済の先行きに関する認識には,首脳間で違いが大きく,首脳宣言では「回復は続いているが,成長は緩やかでばらつきがあり,下方リスクが高まってきている」と記しただけで,リーマン・ショックには触れなかった。また,安倍首相は,政府が公共事業などにお金を使う財政出動にG7が一致してとり組むことをめざしたが,合意できたのは「財政戦略を機動的に実施し,構造政策を果断に進めることに協力し,とり組みを強化することの重要性」だけで,実施するかどうかは各国の判断に委ねるという内容にとどまった。

 --以上までの記事を読んでこう感じる。

 安倍晋三君はまさか,リーマン・ショックに相当する経済危機が再来してほしいわけではあるまいや。G7の首脳たちに対して彼は「財政戦略の機動的な実施」「構造政策を果断に進めることの重要性」だけは認めてもらった。
『朝日新聞』2016年5月28日朝刊風刺漫画安倍晋三
 だが実際は,それぞれの課題は結局「各国の判断に委ねる」というのだから,実質ではほとんど相手にされていなかった。華々しい外交の演技(パフォーマンス)を,内政の失敗(不調)に対する救急絆に転用しようとする魂胆(こざかしさ)からして,ひどくみえすいている。上の画像は本日『朝日新聞』の風刺漫画である。
『朝日新聞』2016年5月28日朝刊3面記事画像資料
 2)「首相『リーマン』7回言及 G7議長会見,増税再延期の口実に?」(3面)
 この記事は冒頭だけ引用する。画像資料も右側に参照しておく。

 --5月27日に閉幕した主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)は,安倍晋三首相にとって,消費増税を先送りする口実づくりの場となった。

 G7で共有した「世界経済のリスク」を理由に,「アベノミクスの失敗」という批判をかわしたい考えだが,ほかの首脳との認識の差は大きく,野党も反発を強めている。
 補注)消費税先送り問題については,本ブログ,2016年04月03日「ノーベル賞経済学者の助言を都合良くつまみ食いしたかった安倍晋三の浅はかさは,この首相の『幼稚と傲慢・暗愚と無知』を実証した」も参照されたい。      

 3)「『リーマン前』に異論 新興国の指標に唐突感」(7面)
 閉幕した伊勢志摩サミットで,安倍晋三首相は世界経済について「リーマン・ショック前の状況に似ている」と強調した。ただ,各国・地域の状況は,新興国は減速しているが景気が堅調な米国は利上げを検討するなど,まだら模様だ。「危機前」とする安倍首相の認識には専門家からも異論が出ている。
 補注)安倍晋三の経済観が誰(どのブレーン)に教えられて話をしているかはさておき,その認識は妥当性を欠いている。「日本の経済事情」が〈即〉「G7すべての国々おける経済事情」になりうるわけはない。国際経済事情として相互に関連するものが,絶対的に通有「されねばならないとはいえない」し,そうした必然性もない。その程度に理解しておけよいだけの,日本国内における現象問題である。

 安倍晋三君の発言内容は,G7の開催を,なんでもかんでも強引に「アベノミクスの無効果作用:失策」に対する〈イチジクの葉っぱ〉に利用しようとする魂胆ばかりがみえみえになっている。

『朝日新聞』2016年5月28日朝刊7面記事画像資料
 5月26日午後,世界経済に関する首脳会議で,安倍首相は参考データとして,グラフを交えたA4の紙4枚の資料を配布した。原油など資源価格の推移,新興国の経済指標などを示し,各所に「リーマンショック」という言葉が入り,2008年9月のリーマン・ショック前と,現在がいかに似ているかを強調している。

 目立つのが新興国関連だ。産出が多い原油や穀物など一次産品の価格は,ショック前の2008年7月から2009年2月にかけて55%下落。そして,2014年6月から2016年1月にかけても55%下がったとする。他でも,新興国の投資の伸び率は2015年は2.5%で,ショック後の2009年の3.8%より低い,とした。

 新興国の輸入伸び率は,2015年が0.5%で,ショック後の2009年のマイナス8.5%より高いが,それでも「ショック以降もっとも低い水準」と明記された。先進国も,国際通貨基金(IMF)の2016年成長率予測は米英独仏で下方修正され,「リーマンショック時もプラス成長が予測されたが実際はマイナス成長に陥った」とする。

 ただ,5月23日に政府が公表した月例経済報告も同様のデータから景気判断を示している。海外経済について「世界の景気は弱さがみられるものの,全体としては緩やかに回復している」とし,「リーマン・ショック」という言葉はない。

 経済政策を担当する石原伸晃経済再生相も,4月の国会審議で「リーマン・ショック級の危機が訪れようとしていると思うか」と問われ「その当時といまが同じような状況だという認識はない」と答弁している。こうしたなか,サミットで示された安倍首相の「危機感」は唐突にもみえる。
 補注)経済情勢に関する判断がこのように『閣内不一致』(!?)の様相を呈しているのだが,これには触れないかたちで,安倍晋三君はリーマン・ショックが「来るかもしれない」と,狼少年のマネをするかのように叫んでいるらしい。だが,G7の首脳たちは本気で耳を貸すような気配をみせていない。安倍君の今回における演技は空回り,1人舞台である。

 a)「原油価格,底打ちの兆し」  リーマン・ショックは米国の不動産バブル崩壊をきっかけに世界中の株価が暴落。日本でも株価が6千円台まで下がったり,倒産も急増したりし成長率が戦後最悪のマイナスとなった。そんな経済危機の前に現在は「似ている」のか。

 SMBC日興証券の丸山義正氏は「リーマン・ショック並みの危機が迫っているといわれるのは違和感を覚える」という。資源価格低迷で,新興国の景気が悪化し,世界経済に悪影響を及ぼすかどうかは注意が必要としつつ,リーマンとは状況が違うという。

 丸山氏は「当時は需要が消失し価格が下落したが,いまはシェールガスなどの供給過剰が主な原因だ。(同じ下落でも)原因が違うものを比較しているのでは」と指摘する。実際,米原油先物価格は26日,約7カ月半ぶりに1バレル=50ドル台に上昇し,底打ちの兆しが出ている。

 b)「現在の新興国景気の低迷と,リーマン・ショックによる世界的な景気悪化は構造が異なるとの指摘もある」  大和総研の熊谷亮丸(みつまる)氏は「リーマン・ショックでは世界経済じたいがつるべ落としで一気に悪くなった。いまは米国が金利を上げようとしており,そのために新興国にお金が入らなくなっている側面がある」という。

 米国の利上げは,国内の堅調な景気が背景にある。利上げで新興国から投資資金が引き揚げられている面はあるが,世界経済全体が急減速しているとはいえない,というわけだ。熊谷氏は「リーマン時といま起きている現象は一見,似ているようにみえるがだいぶ違う」と話す。

  こういう専門家の観測・指摘とは無関係であるかのように安倍晋三君が,独自に「リーマン・ショック並みの危機が迫っている」と唱えたところで,周りで唱和する者はいない。むしろ,この人はいったいなにを妄想しているのか,ただに「違和感を覚える」といった反応しか出ていない。

 本日『朝日新聞』朝刊のなかには,安倍晋三君の以上のごとき「妄想的な発言」を否定したことになる,別の記事がさらにあった。これは〔いまの時間帯ではすぐに〕活字が拾えないので画像にして示しておくが〔その後,活字も拾えたのでつづけて文章での引用もしておく〕,ここに書かれている解説を読んだら,彼がG7で他国の首脳たちにいいたいことそのものが,ほとんど相手にされない理由・事情が了解できるはずである。(とくに図表:グラフでは2008年以降をよく参照しておきたい)( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』2016年5月28日朝刊12面「金融情報」

☆〈知りたい投信 なるほどリッパー〉
   投資対象を考える・REIT:2
株以上に揺れ動いた米REIT ☆

 米国の不動産投資信託(REIT)は,株以上に大きく揺れ動いてきました。FTSE  EPRA/NAREIT 米国指数は2007年の高値から2009年の安値まで77%下げたあと,直近 2016年5月20日まで4倍近くに上げました。一方,ダウ工業株平均は2007年の高値から2009年の安値までの下落率が54%,直近までの上昇率が約2.7倍です =グラフ左。

 a)  低金利が強力な追い風  REIT が株以上に下げたのは,相場下落がサブプライムローンという不動産がらみの要因だったからでしょう。その後は米連邦準備制度理事会(FRB)の金融緩和がもたらした低金利が強力な追い風となって急回復しました。

 b)  米市場の影響を受けて  米国は世界の REIT 市場で圧倒的なウェートを占めており,各国の市場動向に影響を与えます。日本でも REIT と株は似通った動きをしました。東証 REIT 指数は2007年の高値から2008年の安値まで73%下げた後,2016年5月20日まで約2.7倍に上げています。日経平均株価は2007年の高値から2009年の安値までの下落率が61%,直近までの上昇率が約2.4倍です =同右。

 株と同じく REIT は景気や金利が変動要因となり,同じように動くことが少なくありません。2007年までの米国のように REIT の上昇ペースが株を大きく上回る相場は,バブルの可能性があります。

 金利が上昇すれば,借入金に頼る REIT の金利負担が上昇し,配当利回りの魅力が相対的に薄れるので,相場の下押し要因になることには注意が必要です。ただし,物価動向や金融政策からみて,近い将来に REIT 相場が大きく崩れる可能性は低いと考えられます。

 なお,米 REIT 指数の名称の FTSE はロンドン証券取引所傘下の指数提供会社,EPRA は欧州不動産協会,NAREIT は全米不動産投資信託協会の略称です。
 4)「〈投書〉増税延期はアベノミクスの失敗-無職 中島一浩(千葉県,63歳)-」(14面)
  『朝日新聞』はこの投書主に自社のいいたいことを代弁させている。本ブログ筆者も,安倍晋三のG7「利用=悪用」を強く感じている1人であるが,みえすいたパフォーマンスには鼻白んでいる人は,この人と同じに,きっと大勢いるものと想像する。
    伊勢志摩サミットで,安倍首相は世界経済についてリーマン・ショック級の危機が再来する可能性を強調した。しかし,ドイツのメルケル首相は安倍首相に異議を唱えたという。当然だ。日本政府自身,5月の月例経済報告では,世界経済の先行きについて,「緩やかな回復が続くことが期待される」としていた。それなのに,急に危機を強調するのは矛盾している。
 補注)このくだりは,経済情勢に対して指摘した,さきほどの指摘「閣内不一致」の件であった。

 
安倍首相がリーマン・ショックを引きあいに出すのは,消費増税を延期したいという思惑があるからだろう。「リーマン・ショックあるいは大震災のような事態が発生しないかぎり,予定通り引き上げていく」という説明と整合性をとる必要もあるのだろう。

 だが,増税延期はアベノミクスの失敗を意味している。私は延期じたいには反対しないが,政府はそれを世界経済のせいにせず,増税が可能な国内環境をつくれなかったと素直に認めるべきだ。実際,私の周りをみても,皮膚感覚として景気が良くなっているとは思えない。サミット開催を幸いとばかりに手練手管を使って国民を納得させようとするやり方はおかしい。
 --要は,国民・市民・庶民の側が,この程度の首相が手練手管として駆使しているつもりの〈へたな目くらまし〉に騙されなければよいだけのことである。安倍晋三政権の賞味期限は疾の昔に終わっていたし,いまではすでに腐敗している真っ最中である。このようなものを食したら,誰であっても食中毒を起こす。

 ③「自民は追い込まれている…本紙が掴んだ『W選断念』の理由」(『日刊ゲンダイ』2016年5月28日)

 安倍政権の御用メディアが衆参同日選の見送りを報じはじめた。その根拠を「参院選単独でも余裕で勝てるから」としているのだが,実相は逆だ。ダブル選だと与党が大敗する可能性がある。ダブル選を打ちたくても打てない状況で,追いこまれているのは安倍自民のほうなのだ。
 補注)ここで『日刊ゲンダイ』が御用メディアだと指摘するのは,新聞社の場合だと,どこを指しているのか? 間違いないのは読売新聞,つぎに産経新聞,そして日本経済新聞である。そうでないかもしれないのが,朝日新聞,毎日新聞,東京新聞である。地方紙はさまざまであり,また部分的な知識しかなく,よく分かりえないのでここでの言及は回避。

 1)侮れない野党共闘
 5月中旬に自民党がおこなった情勢調査によると,参院は単独過半数に必要な57議席に迫る勢い,衆院も現有の290から10~20議席減で済むという結果が出たという。だが,このうち衆院の数字は野党共闘を考慮に入れずハジいたものだ。

 直近の衆院選の結果をもとに野党4党の票を単純合算すると,野党共闘によって295選挙区のうち59選挙区で与党を逆転。さらに,与党候補に対して1万票差以内の接戦区も38あり,勢力図は大きく塗り替わる可能性がある。
『日刊ゲンダイ』2016年5月28日野党共闘
   「ダブル選になれば『衆院でも野党共闘が一気に進む』と民進党内からも歓迎する声が出ていました。『共産党と組むことはありえない』といってきた民進の保守派にしても,共産票が乗れば多くの選挙区で逆転できると分かっている以上,選挙が目前に迫れば現実的になる。

 事実,岡田代表もここへきて衆院小選挙区で共産党候補への一本化に応じることも示唆しています。4月の北海道5区の補選結果をみれば,野党共闘の効果が大きいことは明らかですからね」(政治ジャーナリスト・山田厚俊氏)。

 北海道補選では当初,「保守派の支持者が離れる」と民進党内で懸念されたが,フタを開けてみれば民進支持層の95%が野党統一候補に投票。選挙終盤には野党側がリードする局面もあった。保守支持層が離れるなんて幻想なのだ。共産党関係者がいう。

 「参院では1人区すべてで野党共闘が実現する。志位委員長は衆院のほうもやる気マンマンで,小選挙区で公認候補を降ろすこともいとわないでしょう。実は年明けから,選挙のプロである小沢一郎氏と水面下で協議し,衆院での選挙区調整の下地づくりを進めてきた。比例の上積みを考えると小選挙区にまったく候補を出さないわけにはいきませんが,共産票が勝敗に影響しない選挙区に限定することは可能です」。

 2)4つの票を恐れる公明
 安倍自民が野党共闘を「野合だ」とことさら攻撃しているのは,それだけ脅威に感じている証拠だ。衆院選挙区でも共闘が進むことを警戒し,こんな皮算用をしている。

 「参院の野党共闘で,たしかに1人区はいい勝負になるでしょうが,選挙後は,無所属候補がどこの党に属するかなどで必ず揉める。そうなれば衆院の野党共闘も潰れる」(官邸関係者)。それで,野党がガタガタしたところで“時間差ダブル”に持ちこんだほうが得策だという声が出ている。同日選では公明票が目減りすることも,踏み切れない大きな理由だ。

 「ダブルになれば,それぞれ選挙区と比例の投票がある。公明党の組織が一糸乱れず4枚の投票用紙を書き分けるのは至難の業で,『比例は公明,選挙区は自民』ができなくなる。過去のダブル選で圧勝した中選挙区時代と違って,いまの自民党は公明党の協力がないと選挙区で勝てない片翼政党です。強気でダブル選にもちこめる状況にはありません」(山田厚俊氏)。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
『日刊ゲンダイ』2016年5月23日自民ボロ負け
出所)この記事は『日刊ゲンダイ』2016年5月23日,
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/181913

 5月22日投開票の和歌山県御坊市長選で,閣僚級や人気者を総動員した果てに二階総務会長の長男がボロ負けしたことも与党に衝撃を与えた。安倍1強といっても,足元はガタついている。
 註記)http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/182267
    http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/182267/2
    http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/182267/3

 さて,あなたは,参議院選挙ではどう選挙権を行使するか? 「政治と経済」は一体のものである。国際政治の華やかな行事であるサミットを利用したつもりで,そして世界経済状況を悪用する魂胆で(リーマン・ショックの再来などあるわけがないのに,近いうちに襲来してくるかのようにおおげさにいいたてていた),参議院選挙に勝つための小賢しい算段ばかりしているのが,最近の安倍晋三君である。

 そのような企図を妄想するのではなく,もっとまじめに,ほかに山積している身の回りの内政問題にとりくんでほしいところである。だが実は,この首相にあっては,そのために必要であるはずの理念も見識も技倆も器量も,なにも備わっていない。

 その点はいままでの実績が雄弁に物語っている。彼がいま考えているのはただひとつ, “憲法改悪” のみである。このチャイルドな首相はすでに用なしである。可能なかぎり早期退陣を念願している。


 【先進国とはいえないような陋劣な政治精神の持主たちが集う,それも〈とても今風にひどく古風である〉自民党の,非自民伝統的な極右政治家たちの観念構造】

 【日本国はもう一度,GHQに占領・支配・管理してもらい,民主主義の根本原理を教えてもらう余地がありそうである】


 ① 自民改憲草案に対する批判論を聞く


 1)「〈憲法を考える〉自民改憲草案・義務:上  権利に条件,『国家の従業員』か」(『朝日新聞』2016年5月25日朝刊)

 自民党憲法改正草案と現行憲法を比べると格段に増えているものがある。個人に課される「義務」の数だ。現憲法が定める国民の義務は「勤労」「納税」「子女に普通教育を受けさせる」の3つ。

 伊藤 真弁護士はこう解説する。「憲法は国民の権利を守るための法なので,本来,義務を入れる必要はまったくない。それでも主権者たる国民が国を維持し,つぎの世代に引き継いでいくために,主権者の責任として,この3つを義務としているのです」。

 だが草案をみると,「国民は,○○しなければならない」との条文が新たに置かれたほか,もっと直接的に「住民は,その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し,その負担を公平に分担する義務を負う」(草案92条2)などとする条文も新設された。なぜこれほど,義務が前面に出てくるのだろうか。

船田元画像 自民党の憲法改正推進本部長を務めた船田 元衆院議員は,自身のホームページに「現行憲法の欠陥のひとつとして,権利に比べて義務の記述が少ないといわれている」と記す。安倍晋三首相も,第1次政権の2006年,教育基本法改正の議論に絡み,国会で「自由に対しての責任,権利に対しての義務,そうしたものもしっかりと子どもたちに教えていく必要がある」と述べている。
 出所)画像は,http://digital.asahi.com/articles/ASH6W65F2H6WUTFK00G.html

 世耕弘成内閣官房副長官はさらに直接的だ。野党時代の2012年,『東洋経済』で生活保護の給付水準引き下げについて,「見直しに反対する人の根底にある考え方は,フルスペックの人権をすべて認めてほしいというものだ」「(生活保護受給者は)税金で全額生活をみてもらっている以上,憲法上の権利は保障したうえで,一定の権利の制限があって仕方がない」と述べた。
 補注)21世紀の現在になってみてとれる日本・日本人の生活水準・状況はだいぶ悪化している。「生活保護受給者は税金でめんどうをみてもらっている,一定の権利は制限されて当然,ウンヌン」という視点そのものが異様である。

 関連する議論は本ブログ内では,以下の◆-3の記述がおこなっている。ベーシック・インカム論の議論も記述していたので,これも挙げておく。

 世耕弘成内閣官房副長官の発言は,安倍晋三の手下「性」,極右ファッショ的な政治家のいいぶんを正直に表出している。われわれ側としては,十分に気をつけて,その真意を推し量る必要がある。国家に負担をかける者を露骨に厄介モノあつかいする姿勢が顕著である。どこかの国でいわれてきた政治的な標語「自由・平等・博愛」などとは,完全に無関連の発想しかない。


 ◆-1 2015年11月03日,主題「現代日本の貧困問題は『経済の自由な横暴』と『政治の極右的な狼藉』が主原因(1)」,副題1「安倍晋三の『政治・経済哲学』(?)は,貧困どころか,もともと不在」,副題2「新自由主義・ネオナショナリズムの内政と外交の不始末的な惨状」      

 ◆-2 2015年11月04日,主題「現代日本の貧困問題は『経済の自由な横暴』と『政治の極右的な狼藉』が主原因(2)」,副題1「安倍晋三の『政治・経済哲学』(?)は,貧困どころか,もともと不在・欠落していた」,副題2「新自由主義・ネオナショナリズムの内政と外交の不始末的な無残と惨状」,副題3「日本国の生活保護制度の実体は「後進国」的である」

 ◆-3 2014年03月08日,主題「格差社会を放置する日本という国-ベーシック・インカムに聞いてみる解決策の方途-」,副題1「貧者を救わない国家:日本における庶民の経済生活問題」

 要するに,工業製品などの性能を表示・意味する「スペック」という言葉で,人権を表現する感覚。人権を認めて欲しければ,まず義務を果たせ。この草案に感じる息苦しさの正体は,義務の数の多さではない。いつの間にか,義務を果たすことが,権利を行使することの条件にすり替えられてしまっていることにこそある。
 補注)「人権を認めて欲しければ,まず義務を果たせ」という考え方そのものが無様な,逆立ちした法感覚である。人間がオギャーと泣き声を上げて生まれてから,人間としての義務を果たせるようになるのは,早くとも20歳前後である。ならば,なぜ18歳に選挙権を与えたかと疑問を呈するほかないが,権利と義務の相互関係性をこのように「強者の論理」的に「弱肉強食」にしか解釈できないような政治思想(むろん「貧困のそれ」であるが)しかもちあわせない,いいかえれば,現在における自民党でも極右の特性しかもたない「粗忽な政治家集団の発想」に接すると,これは実に荒涼たる日本の政治風景だと思わざるをえない。

 敗戦翌年の1946年。後に自民党総裁から首相になる石橋湛山は,現行憲法の草案要綱を見て「(国民の)義務をかかげることが非常に少ない」と批判した。なぜか。

 「(国家を営む)経営者としての国民の義務の規定に注意がいき届いていない憲法は,真に民主的とはいえない」。現憲法の義務の少なさを問題視する点は,いまの自民党と同じだ。

 だが石橋は,天皇主権の明治憲法下にあった1915年当時でさえ「(国家の)最高の支配権は全人民にある」と書いている。「フルスペックの人権を認めてもらいたければ,まず義務を果たせ」と,上から国民に迫る昨今の政治家の姿勢とは明確な一線を画す。

 自民党の改憲草案のもとでは,国民は「国家の経営者」ではなく「国家の従業員」になり下がってしまうのではないか。そんな疑問を携えて,長野県の人口5千人の村に出かけた。日の丸に一礼しない村長に,会ってみたいと思った。(藤原慎一)

 2)「〈憲法を考える〉自民改憲草案・義務:中  空気読み黙る「和」,いまも」(『朝日新聞』2016年5月25日朝刊)

 長野県の山あいにある人口約5千人の中川村。小・中学校の卒業式や入学式では,壇上に日の丸がかかげられる。ただ,曽我逸郎村長(60歳)が一礼することはない。どうしてですか? 「『国旗には黙って敬礼せよ』という空気が嫌だからです。嫌だと自由に表明できてこその民主主義だと思います」。
曽我逸郎画像
出所)http://www.labornetjp.org/news/2013/0126hokoku

 国旗・国歌について,自民党憲法改正草案は,現行憲法にはない規定を新たに設けている。「日本国民は,国旗及び国歌を尊重しなければならない」。草案のQ&A集は「国旗・国歌をめぐって教育現場で混乱が起きていることを踏まえ,規定を置くこととした」と記す。

 東京や大阪などでは,卒業式で,君が代の起立斉唱を拒んだ教員が懲戒処分を受けた。国旗掲揚や国歌斉唱をしない国立大学が国会で問題視されたことも記憶に新しい。

 国の方針は明確だ。小中高校には学習指導要領で「入学式や卒業式などでは国旗を掲揚し,国歌を斉唱するよう指導する」。国立大学については,安倍晋三首相が昨〔2015〕年の参院予算委で「新教育基本法の方針にのっとって,正しく実施されるべきではないか」と答弁している。

 日の丸をかかげお辞儀をする。君が代を大きな声で歌う。草案が想定する「尊重」は,おそらくこういうことだろう。しかし曽我さんは憤り,危惧する。「政治家によって,憲法や国旗・国歌が国民を服従させるための道具にされている」と。「型にはまった思考や行動様式を押しつけられ,自由にものがいえない社会で,どうしてのびのび暮らせるでしょうか」。
 補注)国旗・国歌法は強制しないと当時の首相が明言していたにもかかわらず,この日本の国旗「日の丸」がどうしても「好きになれず嫌い」であっても,菅 義偉官房長官でニュースの画面でよくやっているように,「旗に向かい人間がお辞儀をする」という《本末転倒》の国家意識の高揚が演技されている。

 安倍晋三は,「君が代」がダサイ歌だから,もしくはつまらないメロディーだから気に入らないのだ,この国歌は歌いたくないのだという者を許さないというのである。自民党の極右議員たちはそう思いこんでいて,絶対に自分たちは正しいと感じてもいる。彼らなりのこの政治思想というか,それ以前の〈政治的な感覚〉は,理性で考え抜いたすえにそう決めたのではなく,自分たちがそう思いこみたいから「そうしろ」とまで,国民に対しても強要している。

 国旗(という「ハタ:もの」)に,いかほどの・なにものの精神が籠もっているのがわからぬが,これに敬意さえ払えば国家に対する忠誠心が担保されている国民であり,国歌(君が代)を大声出して斉唱すれば,日本国民としてふさわしいのだという政治の理解は,民主主義とは無縁の単純思考,それも暴力的な思考方式である。民主主義は独裁主義とは異なる。人の心のなかまで支配できるとでも考えているのか?

 国旗に敬礼しなくとも国歌を歌わなくとも,民主主義がおかしくなったり潰れたりするわけではない。戦後71年間,都合の悪いことは生じていない。ところが,それでは困ると思いこんでいるのが,安倍晋三のような独裁的専横政治が大好きな「極右・反動精神の持主たち」なのである。

 それにしても,政治的には
このように未熟な世襲3代目のボクちゃん政治家たちが,国旗を《葵の印籠》であるかのようにひけらかせ,また,国歌を仲間として認めるための証明になるテーマソングであるかのように,勝手に決めこんでいる。これらに外れるとまさか「非国民」?

 国旗・国歌を無視したからといって,この人が自分の居る国を愛していないとか,大事にしていないとか,第3者があれこれ評価・判断してはいけない点は,民主主義の根本原理からすれば当然の作法であるし,最低限必要な「寛容の精神」内の留意である。いまの自民党極右議員たちは,自分たちの政治思想(はたして思想に値する内実があるかどうか疑問だらけであるが)に合わない考え方は,一様にすべて排斥・非難するだけの知的水準:精神耐性しかもちあわせていないようである。

 といったしだいであり,多くのろくでもない連中〔いちおう国民に選ばれた自民党の政治家たち〕が国会のなかに〈選良?〉として送りこまれている。


 〔記事本文の引用に戻る→〕 曽我さんが草案越しにみているのは,戦中のこの国だ。思考も行動も型にはめられ,若い兵隊を突撃させて華々しく死なせることが目的化してしまった。国をあげて称揚された「和」とは結局,国民が世間の空気を読んで黙ることでしかなかった。日本の立憲主義は,そうした戦争の記憶と傷痕の上に立つ。その要諦は,憲法で権力を縛り,人々が自由に意見を述べ,批判しあえる空間を確保することだ。
 補注)しかし,安倍晋三君の立場からすると,ここで太字にしたごとき法律観は,もっとも忌み嫌うべき対象である。こういう主張をとりつぶしていくもくろみを,彼は強く抱いている。
 安倍晋三画像9安倍晋三この道はいつか来た道画像
     安倍晋三黙っていうことを聞け画像
 だが,空気を読んで黙ってしまう感じは,いまも身の回りにあふれている。東日本大震災のあと。東京五輪招致にさいして。国や国民が「一丸」となることを求められ,「ちょっと待って」と異論を差し挟むことすらためらわせる,同調圧力。

 なるほど,草案には国旗・国歌を「尊重しなければならない」としか書いていないし,Q&A集も「国民に新たな義務が生ずるものとは考えていない」と説明する。しかしどうだろう。草案の前文に盛りこまれた「日本国民は……和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」の一文。和を尊ぶことと和を乱す者への嫌悪は裏表だ。

 憲法に「和」と国旗・国歌の尊重がともに書きこまれたとき,どういう響き合いをするだろう。曽我さんのような人が「のびのび暮らせる」社会は,保たれるのだろうか。(藤原慎一)

正規・非正規労働者年齢賃金 --以上,ずいぶん笑わせる話になっている。日本国で働く人びとたち(もちろん「仕事がある:もっている」という意味で)の,単純平均年収は400万円と数十万の時代である。非正規労働者層のそれは250万円もあればいいところである。この程度の年収で「日本国民は……和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」ことを要求されても,そう簡単には合点はいくまい。せいぜい,反撥するだけである。
 出所)画像は,http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-04-21/2014042101_01_1.html

 つかぬ願いを妄想することになるが,安倍晋三君たちはせめて,いまの単純平均年収の倍は国民たちに保障してから,そのような高尚な要求=「日本国民は……和を尊び,家族や社会全体が互いに助けあって国家を形成する」ことにしてほしいところである。

 「国家の形成」のための抽象精神がやたら強調されている。国家の形成という視点が最優先の安倍晋三君の立場である。国家だとか政治だとか経済だとか,これらを身近に感じて思いながら日常生活をできるような経済水準を国民たちに与えられるようになってから,「日本国民は……和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」ことを期待したらどうか。安倍晋三君,そう思わないか……。

 政治家の任務・仕事は,いったいどこに焦点・目標を定めておこなわれるべきか? 安倍晋三政権は,自分たちの業務を問答無用的に,そして,自分たちの価値観を国民に押しつけることばかりに熱心である。「彼らの押しつけ発言」は脱線している。だから,それを本末転倒だと批判したのである。しかし,自民党極右議員たちはその『自分たちに固有である転倒性』が,本来からしてまったく自己認識できていない。

冷泉彰彦画像00     ※  冷 泉 彰 彦 の 指 摘  ※

 ここでは,冷泉彰彦の稿文「あのアメリカですら自国国旗の焼却が禁じられていない理由」(『ニューズウィーク 日本語版』2012年03月23日(金)12時36分)に聞いておく必要がありそうである。

 まず,1989~90年にかけて「国内での自国国旗損壊禁止は違憲」という最高裁判断が確定しています。これは政治行動などで自国の当時の政権を批判する主旨で,自国国旗を焼却する行為に関して,これを禁止する法律は憲法の「表現の自由,思想信条の自由」に違反するかが問われた裁判で,結果としては「表現の自由,思想信条の自由」が優先するとして禁止法は違憲という判例が確定しているのです。

 この話には複雑な背景があります。アメリカの20世紀後半においては,ベトナム戦争とベトナム反戦運動というのが非常に厳しい歴史としてあったわけです。そのなかで,ベトナムでの民間人虐殺などに反対して,自国国旗の焼却行為というのは広範におこなわれていました。この問題が背景にあります。

 アメリカという国といえども「自国国旗の損壊行為を禁止することへの自制」があるというのは重要な事実だと思います。なぜなのでしょうか?
 補注)ここで冷泉が「アメリカという国といえども」と,わざわざ断わっているには理由がある。星条旗は,移民・多民族国家であるアメリカの国民全体をまとめて象徴させる役目をもたされているせいか,ときおりその点を勘違いして,「モノである」にもかかわらず物神的に絶対化したがる者たちが登場する。冷泉はこの間違えた事実に注意せよ,とり違えるなといいたいのである。

 答えは単純です。国旗国歌というのは対外的にその国家の名誉を代表する一方で,国内的には思想信条の統制や政治的な権力への従属を強いることに使ってはいけないからです。民間を含む外交局面においては自他の国旗国歌は尊重されなくてはならないが,純粋に国内政治の局面においては,国旗国歌のもつ権威を政治的な圧力や示威の道具とすることはできないという考え方,そのようないい方もできると思います。

 日本の法律においても外国の国旗を損壊した場合にはこれを罪に問う法律があります。当然だと思います。ですが,この法律は自国国旗には適用はされません。これも当然です。日本の領土内において,外国国旗の損壊は外交問題になりますが,自国国旗の損壊は国内問題であり,国内問題の解決においては言論の自由や思想信条の自由は優先されるべきだからです。

 最初の問題もこれとまったく同じです。国内においては「国体=国のかたち」じたいを論争の対象とするような言論の自由というのは,民主主義国である最低条件のひとつであり,そのために外交上の国旗国歌への儀礼とは意味合いが違うのです。その意味で,国内儀式でも起立は必要でしょうが,腕組みまで禁止するのは過剰,まして国内問題に「国際常識」を絡めるのは,実は「国際的にも常識ではない」と思われます。
 註記)http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/03/post-415.php
 
菅 義偉と日の丸 菅 義偉が官房長官して登場するときは,必らず脇に置いてある日章旗に一礼する光景は,すでにお馴染みである。だが,この「国家の旗印」に頭を人間が下げていたら,人間よりもそのハタのほうがエライものであるかのような錯覚を発症させることになる,と診断せざるをえない。
 出所)画像は,http://www.j-cast.com/2016/03/11261107.html 説明 ⇒「記者会見に臨む菅 義偉官房長官。東日本大震災発生から丸5年を迎え」日であったので,「背景の日の丸には喪章がついている」。

 日本には「錦の御旗」の伝統,それも明治維新のさいその「ニセモノ」を調達して,西軍(勝てば官軍)が東軍(負ければ賊軍)に勝つきっかけにすら悪用されていたくらいであって,しかもこの事実を隠蔽しているのだから〔まともな歴史研究書はみな,この事実を指摘しているが〕,21世紀のいまとなってまたもや「たかが布で日の丸ボロボロ状態できた旗(日章旗)」を神聖視するという倒錯に浸っているのは,無理もないことかもしれない。とはいえ,こうした倒錯の観念にはよほどの警戒が必要である。つまり,なんども指摘するが,「本末転倒」をしていながらも,自身においてはこの現象を感知できていない。
 出所)画像は某警察署にかかげられていたという日の丸,http://hinomarukai.hamazo.tv/e4964298.html

 明治「維新」以来,1世紀半が時間が流れてきても,民主主義の根本原理はまだまだ根づいていないのが,この国の政治的な現実である。いうなればたかが国旗でしかないのに,これが物神化されている。旧日本陸軍の連隊旗と同じあつかいのようになっている。連隊旗を守るために兵士が犠牲になるなどという関係が,旧大日本帝国の軍隊組織においていくら至尊であったとしても,まともな神経で判断すればそれもまた本末転倒そのものである。

 3)「〈憲法を考える〉自民改憲草案・義務:下 国民にも『尊重せよ』,なんのため」(『朝日新聞』2016年5月26日朝刊)

 自民党憲法改正草案は,ダメを押すかのごとく,最後の102条でも,国民に新たな義務を課す。「全て国民は,この憲法を尊重しなければならない」。草案Q&A集は「憲法の制定権者たる国民も憲法を尊重すべきことは当然」と条文を新設した理由を説明。尊重義務の中身は「『憲法の規定に敬意を払い,その実現に努力する』といったこと」だとしている。

 おかしい。憲法によって権力を縛るという立憲主義の考え方にもとづき,現憲法は政治家や官僚に対してのみ憲法を尊重し擁護する義務を課していたはずだ。立憲主義をひっくり返そうとしているのか?

 そんな疑念に駆られつつQ&A集をめくると,「自民党の憲法改正草案は,立憲主義を否定しているのではないですか?」との問いがあった。答えは「否定するものではありません」。この問答は当初のQ&A集にはなく,増補版から追加された。

 さらに「立憲主義は,憲法に国民の義務規定を設けることを否定するものではありません」とも記されている。たしかに,憲法に義務規定を置いている立憲主義国家はある。たとえばドイツは国民に対し,「尊重」よりも強い「憲法忠誠義務」を課している。なぜか。

 1933年。ドイツは当時最も民主的なワイマール憲法下にあった。ところが国家緊急権を乱用され,ナチス独裁に道を開いてしまった。その反省から戦後,「自由の敵に自由は与えない」という考え方を憲法に定め,国民に忠誠義務を課しているのだ。
安倍晋三画像83ヒトラー似
出所)http://blogs.yahoo.co.jp/nawatohebi_s/40250397.html

 ひるがえって,自民党改憲草案はなんのために,国民に憲法尊重義務を課そうとしているのか。ドイツ流の歴史への反省? いや,草案は,現憲法前文にあった「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という一文を削除している。

 「尊重は当然」ではとうてい,答えにならない。憲法はいわば,主権者たる国民が政治家や官僚に対して突きつける「命令書」だ。そこに,主権者も憲法を尊重せよと書きこむのであれば,きわめて強い合理的な理由がいる。上から一方的に尊重義務を押しつけるだけなら,「臣民は此(こ)の憲法に対し永遠に従順の義務を負う」とした大日本帝国憲法の発布勅語と変わらない。
 補注)「戦後レジームの否定・脱却」を強調する安倍晋三君の基本姿勢に関することがらである。大日本帝国憲法の時代に戻りたいのである。しかし,21世紀における日本国の現状は,日本国憲法体系の上に米日安保法体系がのしかかっており,これが圧倒的に「実際的な権威と権力」を振るっているではないか。

 これは,昭和天皇もみずから申し出て協力し,形成された昭和20年代史からの遺物的な国際法制の実体である。押しつけ憲法をいうなら,自衛隊3軍もアメリカの命令によって創設されていたし,天皇・天皇制そのものもGHQのおかげで存続できていたのだから,押しつけそのもの。おまけに,在日米軍基地群がこの日本国内に「何匹も住むこむ〈獅子身中の虫〉」のように,のさばって実在しているではないか。

 沖縄県ではまもたもや,米軍属の人物による20歳女性の殺人・遺体遺棄事件が起きていた。2016年5月19日にその女性の遺体が発見されたが,犯人は元アメリカ海兵隊で現在はアメリカ軍属の男性であった。沖縄県民は極度の怒りに駈られているだけでなく,せめて海兵隊だけは出ていけと叫んでいる。
 注記の註記)今回におけるこの事件は「
遺体遺棄事件」との名称で報道されており,「殺人」という文句を故意に外した報道がなされている。事件を極力軽微に報道させたい権力側の意向が,報道機関側において反映されていると観察する。

 憲法尊重擁護義務を課せられている政治家が「憲法を変えよう」と声高にいうとき,私たちはよくよく注意しなければいけない。どんなに素晴らしい人たちでも権力をもてば,その力を濫用(らんよう)する危険性はつねにある。
 補注)この注意点はとくに安倍晋三のように「幼稚で傲慢」「暗愚で無知」な政治家である場合,怖いモノがない〔正確にいえば,ものごとを平常的に理解しうる触覚をもちあわせない〕基本的な性格であるせいで,その濫用度に関する制限をどこに引けばいいのか判らない。そのために事態はいっそう始末が悪いことになる。

 現行憲法12条を読み返す。「自由及び権利は,国民の不断の努力によつて,これを保持しなければならない」。そう。わたしたちの「不断の努力」は,権力者に憲法を守らせるためにこそ求められる。そしてそれは,「戦争の惨禍」を経てようやく手に入れた自由と権利を,自分たちの手で「保持」することにほかならない。(藤原慎一)

 --日本会議という奇妙な宗教狂信的な政治集団が存在し,いまや自民党極右政権の脊柱部分を形成する勢力として,日本の政治社会を背後霊のごとく徘徊している。最近,この日本会議に関する書物が何冊がまとまって刊行されている。そのほとんどが批判的にとりあげ議論する内容である。

  ◇-1 菅野 完『日本会議の研究』扶桑社新書,扶桑社,2016年5月1日。

  ◇-2 上杉 聰『日本会議とは何か-「憲法改正」に突き進むカルト集団-』合同出版,2016年5月18日。

  ◇-3 俵 義文『日本会議の全貌-知られざる巨大組織の実態-』花伝社,2016年6月25日発売予定。

  ◇-4 山崎雅弘『日本会議-戦前回帰への情念-』集英社,2016年7月15日発売予定。

  ◇-5 青木 理『「日本会議」の正体』平凡社,2016年7月19日発売予定。


 ② ひどく旧式の(旧態依然:封建遺制的な)家族主義観に拘泥する自民党極右政治集団の時代錯誤と,そのやはり本末転倒

 「夫婦別姓,海外の実情は 家族の一体感は? 親子で違う姓,不便?」という解説記事が『朝日新聞』2016年5月26日朝刊33面「生活」欄に出ていた。以下に引用する。標題だけさきに紹介しておけば,要点は理解してもらえるはずである。
  補注)本ブログは関連する記述をおこなっていた。2015年12月17日の次記である。

 主題「別姓問題を案件にし,最高裁判事1名ずつを国民投票にかけねばならない-明治時代の旧民法観念が定着しているとありがたがる封建頭脳の最高裁判事がいる-」

  副題1「夫婦同姓にすれば離婚はなくなり,すべての家族・家庭が平和・安寧になれるとでもいいたいのか? その旧時代的に超錯誤した法律感覚,この旧態依然の唖然・呆然・俄然」
  副題2「最高裁判事もただの高級職国家公務員,現政権の顔色をうかがった判決しか下せない,軟化しきった石頭をもつ人びと」
  副題3「あたかも,専門家的非専門家であるかのように『法・素人的な判断』をおこなった,そして,もっとも基本的な常識感覚すら疑われる『夫婦同姓を合憲と判断した10名』のアナクロ最高裁判事」


 〔 ② の記事引用に戻る→〕   昨〔2015〕年の最高裁判決をめぐり高い関心を集めた夫婦別姓。その導入を盛りこんだ民法改正案の答申から今〔2016〕年,20年が経ちました。この間,海外では夫婦別姓が広がりました。家族の一体感は? 親と子の姓が違うと子どもがかわいそう? 日本で指摘される懸念を,海外の別姓家族の実情から探りました。
 補注)以下の記事紹介では予断となるが,あえて先入観を与えるために断わっておく。日本は先進国としては恥ずかしいくらい,民法関連法の改正を遅延させてきている。それほどに日本の家族(家・家庭)はなにも問題がなく,世界に対して誇れるような家族制度を支えている法制であるというのか? 現実はしかし疑問だらけである。

 1)オーストリア 多様性認める規定
 ウィーンの写真家ローレンツ・サイドラーさん(41歳)と公務員カタリナ・ペッターさん(37歳)夫妻は,息子2人に妻の姓,ペッターを選んだ。長男コスモくん(4再)が生まれた当時は結婚していなかった。カタリナさんが自分の姓を付けたいと望み,ローレンツさんも同意した。
朝日新聞2016年5月26日朝刊33面「生活」各国姓名
 翌年結婚し,次男カースィミアくん(1歳)が生まれるさいは双方が自分の姓を付けたいと主張したが,話しあいの結果,名前と合わせた響きがいいことなどからペッター姓に。サイドラー家は由緒ある家柄だが,ローレンツさんは「その伝統にこだわらず,息子たちに彼ら自身の真っ白な人生を歩む機会を与えられた」と話す。
 註記)右側画像は(画面 クリックで 拡大・可)。

 オーストリアでは,夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある。2人はこの規定をしらなかったが,ローレンツさんは「女性に不利となる社会的抑圧や権力関係がまだまだ存在するので,賛成」と話す。

 この規定について京都産業大学の渡邉泰彦教授(家族法)は「母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで,親子関係と姓で婚外子だと分からないようにするという,婚外子差別をなくす意味あいがある」とみる。追手門学院大学の善積京子教授(家族社会学)は「大事なのは,違いがあることや少数者が差別されない社会をつくること」と指摘する。

 2)韓国 親の名字守る文化
 韓国では夫婦は別姓。子は父の姓を継ぐことが多い。「お子さんと名字が違うので,このままでは手続ができません」。昨〔2015年〕夏,大阪市の会社員趙 由美(ちょう・ゆみ)さん(36歳)は,生まれたばかりの長男持柔(じゆ)くん(1歳)の銀行口座を作ろうとして,窓口でストップがかかった。「名字が違うと,親子だと認められないのかとショックでした」と趙さんは振りかえる。

 実母の助言で,母子手帳を提出。夫の姓が書いてあり,親子関係が証明できたため,口座を作ることができた。趙さんは韓国籍の在日3世。韓国では,結婚後も女性は姓を変えない。「親からもらったものは,大切にする儒教の教え。名字も同じ」と夫の朴 幾薫(ぱくきふん)さん(35歳)は話す。朴さんは韓国生まれ。大学で来日し,日本で働く。結婚しても妻が姓を変えないのは「彼女らしさを尊重する当然のこと」と考えている。持柔くんは朴さんの名字を名乗ることにした。

 山梨学院大学の金 亮完教授(親族法)によると,韓国では,2005年に戸主制度を廃止。2007年末に家単位で作成していた戸籍制度を廃止。個人登録を基本とする仕組に変えた。金教授は「個人の尊厳と家族間の平等を実現するためだった」と話す。子どもは,母の姓を名乗れるようになった。「若者を中心に,意識が家から個人に変化している過渡期」と趙さんはみている。

 3)1990年代以降,導入国広がる
 昨〔2015〕年9月に政府が閣議決定した答弁書では,夫婦同姓を法律で義務づける国は日本の他に把握していないという。

床谷文雄画像2 大阪大学大学院の床谷文雄教授(家族法)によると,欧州なども,日本のように家父長制が重視されてきた。だが1979年に採択された国連の「女子差別撤廃条約」に影響を受け,1990年代から男女平等の実現をめざし,ドイツ,タイ,スイス,オーストリアでも選択的夫婦別姓が導入されていった。夫と妻の姓をつなげる「結合姓」も選択できるようになった。2000年代に,さらに子の姓も自由に選べる改正が進んだ。
 出所)画像は,https://www.osipp.osaka-u.ac.jp/ja/files/newsletter/98-7/ONL7-3last.html

 最高裁の日本の判決で指摘された「家族の一体感」への影響について,床谷教授は「同姓が子どもにとって安心感や便利さがあることは認める。別姓を導入している国でも,まだ男性の姓を選ぶ家族が多い。だがほとんどの国が別姓を求める夫婦には選択肢を用意し多様性を実現している。日本も習うべき大事な視点だ」と話す。(田中陽子,山内深紗子)

 --この最高裁の判断,「家族の一体感」は「同姓が子どもにとって安心感や便利さがあることは認める」というのは,時代の表層の流れさえもみえていない〔実はみようとしていない〕「日本の裁判所の後進性」をみごとに表現している。

 そもそも最高裁の判事たちの時代感覚が遅れている。最高裁の判決では,女性判事は当然のごとく全員が,別姓を合憲と判断していた。残るのは頑迷固陋な男性判事の多数派,別姓に反対したこの男たちである。要は,後ろはみてはいるものの,前がみえていないか,あるいはみたくないのである。

 4)解説〈民法改正案,答申から20年〉
 最高裁は昨〔2015〕年12月,夫婦同姓規定を合憲と判断しつつ,国会に議論を促した。法相の諮問機関が選択的夫婦別姓導入を盛りこんだ民法改正案を答申したのは1996年。だが,世論が割れているなどとして政府案は提出されないままだ。この規定の改正を求めつづける国連の女子差別撤廃委員会は今〔2016〕年3月,あらためて改正を勧告した。

 --夫婦が別姓だと家族の絆が〈薄れる〉あるいは〈保たれない〉という俗耳に入りやすい主張が日本ではまかりとおり,これが常識的な認識であるかのように受け止められている。だが,これは考えてみれば実に奇妙奇天烈な発想である。隣国の中国・韓国などでは夫婦別姓である。父系主義で封建思想の残滓を強く残していた韓国の民法はだいぶ以前に抜本改正していた(記事本文に関説があった)。

 すると,中国・韓国(韓国は原則,父系の姓を使用とはいっている)にあっては,家族の絆は薄れていた国々だということになりそうであるが,このような説明じたいが〈ますますの本末転倒〉である。この程度のことは簡単に理解できる事情であるはずである。

 それとも,日本では夫婦が同姓なので,おしなべてどの家族・家庭も数の絆が強く,離婚率も低いのだ(離婚などせず?)ということになるとでもいうのか? 問題の本質からは外れた議論・主張が,倒錯を犯しつつも真顔でなされている。これでは,コッケイすらをとおりこして冗談かとしか受けとりようがない。

 厚生労働省の『離婚に対する統計』を観た人は,こういう感想を述べていた。「このデータから読みとれること」について「どこかで聞いたことのあるような表現をすると」,次段のような感じになる。
       10代から30代前半の若い世代を中心に,離婚率は上昇してきています。結婚というものに対して,若い世代を中心に意識が希薄になってきています。

    経済回復の鈍化による金銭的な問題,できちゃった結婚の増加,価値観の多様化がこうした傾向を生むといえるのではないでしょうか?
 註記)http://eminews.jp/?p=2760
 ここで素朴な疑問を添えておく。「家族の絆」があれば,以上のように論じてきた問題は起こらないのか? 実は,それよりも別次元の現実的な諸問題が,離婚の原因を提供するかたちで,あれこれ飛びこんできているはずである。もともと「家族の絆」というものに,なんでもかんでもむすびつけたがるようにして,「同姓か別姓かの問題」を議論する立場そのものが斜視的なのであり,いわばボタンのかけ間違いを犯している。

 だが,自民党政権は,いわばコッケイと冗談の不整合的な合金みたいな,それも旧態依然である「19世紀的封建遺制の21世紀への勘違い的な居残りでしかない政治思想」を,日本会議の構成員を介していまだに盛りだくさんに抱えている。
石頭画像
 どうみても,極右ゴリゴリのコチコチ石頭でもって,『それら』を後生大事に保守している。明治時代にタイムスリップしたみたいだといったらいいのか,それとも,その時代から1歩も進歩できていない様子だといったらいいいのか?
 出所)画像は「石頭」の表題付き,http://www.biwa.ne.jp/~stone/

 いずれにしても「幼稚で傲慢」で「専横で独断」ばかりがめだついまの執権党。ところで,公明党はなにゆえ自民党とはいまだにひっついているのか? まあ,やむにやまれぬ特殊な事情もあるのだが……。公明党は元来,ファッショ政治に一番ふさわしい政党としての体質を具有している。したがって,さもありなんでもある。


 【「悪魔の火」にあおられつづける東電福島第1原発事故現場「凍土壁工事」の実状は,まさしく『賽の河原の石積み』である】

 【当初からその工事の成功は困難だと批判されていた,これからも凍土壁工事は延々と不成功状態を強いられていく……】



 ①「凍土壁,1割凍結せず 東電,追加工事検討 福島第1」(『朝日新聞』2016年5月26日朝刊)

 東京電力福島第1原発の汚染水対策として1~4号機を「氷の壁」で囲う凍土壁について,凍結開始から1カ月半以上経過しても土壌の温度が下がりきらず,計測地点の約1割で凍っていないとみられることが5月25日,分かった。東電は,とくに温度が高い場所は今後も凍らない可能性が高いとして,原子力規制委員会に追加工事をする方針を伝えた。

『朝日新聞』2016年5月26日朝刊7面「総合」凍土壁工事追加 地下水の流れが速く凍りにくくなっているとみて,セメントを流しこむなどの工法を検討している。凍土壁は,1~4号機建屋の周囲に1568本の凍結管を地下30メートルまで埋め,零下30度の液体を循環させて土壌を凍らせるもの。建屋に流れこむ地下水を遮断し,新たな高濃度汚染水の発生を抑える狙いがある。これまでに約345億円の国費が投じられた。

 東電は,まず建屋の海側を中心に約820メートルの全面凍結を目指し,3月末に凍らせ始めた。東電によると,凍結管近くの地中の温度は,5月17日時点で,約5800カ所の計測地点の88%しか0度以下になっていない。なかには10度ほどと高いまま推移している地点もあるという。氷の壁にいくつもの穴が開いているような状態で,東電はセメントや薬剤を流しこんで塞がりやすくする方針だ。

 東電は5月中旬にも,段階的に進めてきた山側の凍結の割合を倍増させる予定だったが,遅れている。報告を受けた規制委の担当者は「期待していたほど凍土壁の効果が出ていないのであれば,追加工事について東電と意見交換しながら検討していく」としている。

 --この工事には国費(税金)が投入されている。東電の負担分があるのかないのかについて,この記事は明述していない(つぎの ② の記述が触れているが)。

 ②「前代未聞『凍土遮水壁』の成算」(『日経コンストラクション』2014年4月1日)

 東電福島第1原発事故現場「凍土壁」工事については「前代未聞『凍土遮水壁』の成算」(『日経コンストラクション』2014/04/01)が,こう解説していた。いまから2年以上も前の時点における記事であった。

 --4つの原子炉建屋周辺を延長約1500m,深さ約30m,厚さ1~2mの凍土壁でぐるりととりかこみ,建屋内への地下水の流入を抑制する。東京電力福島第1原子力発電所の敷地内で,凍結工法による陸側遮水壁(凍土遮水壁)の建設に向けた試験施工が,〔2014〕3月から始まった。下の図解は( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
真実を探すブログ2013年12月18日画像
『日本経済新聞』凍土壁工事記事2014年4月1日
 試験施工が終われば,2014年度上期にも本体工事に着手し,2015年度上期内に凍土の造成を完了。建屋内の汚染水処理を終える2020年度まで維持する。建設費319億円は国の予算で賄う。維持費は東京電力が負担する。工事は鹿島とグループ企業のケミカルグラウトが担う。
 補注)この工事日程の予定(みこみ・展望・期待⇒「2015年度上期内に凍土の造成を完了」)は,現在:2016年5月下旬段階でも,① のように報道されたとおり,ひたすらにただ,ベタ遅れ状態を余儀なくされている。要はすでにもう1年程度は遅延している。これからも引き続きずるずると遅延したかたちで,この工事は継続されていくほかない状況・情勢(宿命・運命)にしかみえない。

 凍結工法は,都市部のシールドトンネル工事などにおける土留めや止水に活用されてきた。日本で手がけているのは精研とケミカルグラウトの2社だけだ。凍土壁を造成するには,二重構造になっている鋼製の凍結管を約1m間隔で地盤に打ちこみ,管の内部に冷凍機でマイナス30℃に冷やしたブライン(冷却液)を送りこんで循環させて,1カ月ほどかけて周囲の地盤の間隙水を凍らせる。ブラインには塩化カルシウム水溶液を使うのが一般的だ。
 補注)凍結工法が,原発事故に原因する放射性物質をも封じるために,東電福島第1原発事故現場においては〈汚染水漏れ対策〉として応用され実施されようとしている。だが,この記事は,その技術的な困難を予想させる問題点にはすぐには触れない記述になっている。もっとも,この記事はつづく内容のなかでは,くわしく「関連する技術的な説明」をおこなっている。興味ある人はつぎの住所(アドレス・リンク)から自分でのぞいてほしい。

   ⇒ http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/news/20140325/656430/

 凍結工法の国内での施工実績は588件。凍土の造成量がもっとも多かったのは,地下鉄の都営新宿線と東京メトロ半蔵門線のトンネル工事だ。日本橋川の直下を3万7700m3 も凍らせて凍土ごと掘削する難工事で,1980年に竣工した。福島第1原発では,このときの造成量をはるかに超える約7万m3 をみこんでいる。
 註記・出所)http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/news/20140325/656430/ 画像もここから。

 以上,この2014年4月1日時点での報道は,地下鉄の土木工事で使用された凍結工法を応用して,東電福島第1原発事故現場「凍土壁」工事にとりかかっていると伝えていた。この記事の見出しは「前代未聞『凍土遮水壁』の成算」と表現されており,成算があるかどうかについては,なお疑問があることを示唆している。この記事はウェブ版では7編に分けて掲載されていて,それぞれの編に対しては,つぎのような見出しをつけていた。
 1 → 東京電力福島第1原子力発電所の汚染水対策工事のうち,とりわけ注目を集めるのが,凍結工法による巨大な遮水壁の建設だ。2013年秋から進めてきた実証実験が,大詰めを迎えている。
 補注)2014年4月1日の時点でこのように,この工事が「大詰めを迎えてい」たかと問えば,否であった。

 2 → 敷地に降る雨が地下水の供給源に。

 3 →  「遮水」と「くみ上げ」で汚染水の流入と流出を抑制。

 4 → シナリオどおりなら理想的な工法。

 5 → 流れが速いと凍らない。

 6 → 効果が薄い場合の備えが不可欠。

 7 → 土木はどう関わった? 汚染水処理対策委員会の大西委員長に聞く。
 ともかく,現在までこの結果は,① の記事の標題どおりになっていた。つまり「凍土壁,1割凍結せず 東電,追加工事検討 福島第1」となっている。

 なお『日経コンストラクション』には,関連する記事がほかにもいくつか掲載されているが,検索欄に「凍土壁」と単語を入れて検索したところ,5件が出てきた。そのなかで一番新しい記事が,「2014/05/28」「〔2014年〕6月着工にめど『凍土遮水壁』のキホン」であった。それからすでにほぼ満2年が経過している。

 ③「凍土遮水壁は無意味? 福島第1発4号機の設計者が警告! 田中三彦氏「不確実性の高い凍土壁方式で押し切ろうとしている」(『真実を探すブログ』2013.12.18 23:04)

 この記事はすでに,① ② の話題が登場していた時期に掲載されていた。田中三彦は1990年に『原発はなぜ危険か-元設計技師の証言』(岩波新書)を公刊していた。本書の内容は,こう説明されている。
    チェルノブイリの事故が世界に大きな衝撃を与えたにもかかわらず,日本の原発政策にはなんの変化もみられなかった。日本の原発ははたして安全なのか。原発の心臓部である圧力容器の設計に携わった著者が,みずから体験した製造中の重大事故を紹介し,現在運転中の原発の問題点をえぐり出すとともに,脱原発のための条件を探る。
田中三彦画像
 出所)http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65814469.html

 
田中三彦『原発はなぜ危険か-元設計技師の証言』(岩波新書,1990年)は,こう主張していた。

 「原発の場合,一度でも大きな事故を起こしたらそれで終わりである。整備された基準や指針で古い原発の安全性が見直されねば,それらを整備する本当の意味はない。ここに,他の分野の技術規範の整備との根本的な違いがある。しかし,先の『原子力白書』〔昭和60年度版〕の文に,一つ大事故を起こせばすべては終わる」という危機感をみてとることはできない」(72頁)。

 この本『原発はなぜ危険か-元設計技師の証言』が出版されてから21年後に発生したのが,2011年「3・11」の「福島第1原発事故」であった。結局,東電〔と日本政府〕はいまもなお,その後始末に追いまわされており,いいかえれば,いつまでも〈おおわらわの状態〉を強いられてもいる。

 だが,今後に向けての見通しは,まったく暗中模索状態だと形容するほかないくらい,なにもおぼつかない状況に置かれている。しかも,その後始末のために必要な予算は基本的に,われわれの血税による負担になっている。

 東電福島第1原発事故は,この地域独占企業経営が自社じたいの責任では,とうてい始末できないような深刻・重大な事故を起こしていながら,いまもなおこの事故の状態が解消できないでいる。

 〔ここからが記事本文の引用→〕 東電と国が全力で福島第1原発に「凍土遮水壁」という氷の壁を設置しようとしていますが,多くの専門家たちは凍土遮水壁の効果に対して疑問の声をあげています。

 福島第1原発4号機を設計した技術者の1人である田中三彦氏は「凍土遮水壁は不確実性の高いシロモノだ」と述べ,東電が予定している凍土遮水壁では,失敗する可能性があると指摘。また,京都大学の小出裕章氏も同じように「凍土遮水壁は不確実なうえに,膨大な電力が必要」と話しています。

 そもそも,凍土遮水壁とは,地中に打ちこんだ凍結管に特殊な冷却材を循環させ地中の水分を凍らせる工法であり,普段はトンネル工事などで一時的に使用されるようなものです。なので,福島第1原発みたいな場所での運用を考えておらず,数年単位で耐えられるかは不透明となっています。東日本大震災以降は東北沖で地震の回数が激増していますし,これに耐えられないかもしれません。
 補注)② に紹介した記事である「前代未聞『凍土遮水壁』の成算」(『日経コンストラクション』2014年4月1日)は,その点をまさに〈前代未聞〉だと表現していた。この未知の要因から,いったいなにがどのように飛び出てくるのか,そのすべてを事前に説明できる技術的な知見は,いまのところ「まったくない」といっていい状態のままである。

 しかも,冷却するためには莫大な電気が必要になるので,これが大きな弱点となります。原発は電力を生み出す施設なのに,このような形で大量の電力を消費するとは皮肉な話ですが,大地震などの非常時に電源が損失した事態を考えると,この凍土遮水壁は非常に危ないといえるでしょう。

 過去にはネズミが電源コードを噛んだ影響で,福島第1原発の電源がすべて失われたことがありました。こんなにもズサンな管理状態の福島第1原発で,膨大な電力を消費する設備を増やそうとしているのです。誰がどう考えても「危ない」としか思えません。
 註記)以上,http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1405.html

☆ 福島第一原発4号機の設計者が緊急警告!
田中三彦「凍土遮水壁は不確実性の高いシロモノだ」☆

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131218-00023743-playboyz-soci =

 この記事は ③ のなかにおいて,つづいて紹介されていた関連の記述である。全文ではなく,その一部の紹介となっている。以下に引用する。

 --  “汚染水対策の切り札” として,設置に国費投入の決まった「凍土遮水壁」。だが,専門家からは,その実効性について強い疑問の声が上がっている。福島第1原発をしりつくした,元原子炉製造技術者で元国会事故調査委員会委員の田中三彦氏が解説する!

 これ以上,汚染水を増やさないためには,建屋内に地下水が流れこまないようにしなくてはいけません。そこで国と東電がやろうとしているのが「凍土遮水壁」です。

これは,ゼネコン大手の鹿島建設が提案したもので,等間隔で凍結管を地中約30mの深さまで打ちこみ,そこに冷却材(マイナス約40℃)を循環させ,周囲の土を凍らせることで土壁を造るというものです。スケートリンクを水平でなく,地中に縦に設置するというイメージですね。
   安倍晋三アンダーコントロール画像 安倍晋三ウソ画像
   出所)左側画像は,http://eigaflex.com/116/s116_135_s5_a16i.html

   出所)右側画像は,http://god634526.hatenablog.com/entry/2016/03/15/152627

 五輪招致のIOC(国際オリンピック委員会)総会で「汚染水は完全にコントロールされている」と大見得を切った安倍首相もこのプロジェクトを了承し,政府は凍土壁に320億円,そのほかの汚染水対策を含めて470億円の国費を投入することを決定。東電は来年度内の運用開始をめざしています。

 しかし,凍土壁による地下水遮断には,いくつかの大きな懸念がつきまといます。

 ひとつはこれまで流れていた地下水をストップさせてしまうことで,原発敷地内の土質が変わってしまうこと。水分量が減り,おそらく敷地内の土壌は乾いてガサガサになってしまうでしょう。

 原発の耐震強度は建物と土壌の相互作用にもとづき設計される。その土質が変わるのですから,当然,耐震の状況も変わる。ただでさえ傷んでいて健全でない4基の原発建屋がきちんと地震に耐えうるのか,心配です。

 その土質の変化より,さらに懸念されるのが地下水の水位の変化です。つまり,凍土壁で原発への地下水の流入をせき止めると,当然,原発の下を流れる地下水の水位が下がります。なぜ,それが問題か。

 原子炉建屋やタービン建屋のどこかが壊れているために,毎日約400tもの地下水がじゃぶじゃぶと建屋のなかに流れこんでいるのですが,水は高い所から低い所に流れるということを考えれば,現在,原発の地下水の水位は,原子炉建屋とタービン建屋の地下にたまっている汚染水の水位より高いということになります。

 ところが,遮水して地下水の水位が低くなれば話は逆。今度は建屋内にたまっている超高濃度汚染水が建屋から外へ大量に漏れ出す可能性があります。これは由々しき事態というほかありません。

 地下水の流入さえストップできれば,汚染水の問題は解決に向かうと,多くの人びとが漠然と考えている。しかし,凍土遮水壁という工法には,原発の地下水の水位を低下させ,その結果,建屋外に高濃度汚染水の流出をもたらすリスクが潜んでいるということをきちんと認識しておくべきでしょう。

 以下(アドレス・リンク)には,詳細な図解が掲載されているので,ぜひとも,この註記のアドレスのリンクから入って参照してもらいたい。
 註記)以上,⇒ http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1405.html

 以上に参照した文章は,2013年12月18日の記事であったが,「今日のいま」はもう2016年5月26日である。それでもなお,東電福島第1原発事故現場における凍土壁工事が「どうなっている・ああなっている」などと,報道されている。その現場における放射性物質漏れは以前と同じに,依然「防止できていない」。当初から「無理な結果に推移するほかない工事である」と,まさに懸念され批判されていたとおりに経過してきている。
魔法使いの弟子画像ウィキペディア
 いつも指摘しているたとえ話であるが,これはもう完全に “「魔法使いの弟子」=東電” という関係の構図ができあがっている。ウィキペディアの解説だと(上掲画像もここから),つぎに説明するような物語が創作されていた。しかし,東電福島第1原発事故現場の問題は「現実そのもの」である。
   ゲーテが,サモサタのルキアノスの詩『嘘を好む人たち Philopseudes』にもとづき書きあげたバラード,『魔法使いの弟子 Der Zauberlehrling』の仏語訳を原典としている。

 その「詩の大意」は,つぎのようになっている。さきに断わっておくが,東電の場合,その「老いた魔法使い」はどこにも居ないし,これからもけっして登場してこない。

 --老いた魔法使いが若い見習いに雑用をいい残し,自分の工房を旅立つところから物語が始まる。

 見習いは命じられた水汲みの仕事に飽き飽きして,箒に魔法をかけて自分の仕事の身代わりをさせるが,見習いはまだ完全には魔法の訓練を受けていなかった。

 そのためやがて床一面は水浸しとなってしまい,見習いは魔法を止める呪文が分からないので,自分に箒を止める力がないことを思いしらされる。

 絶望のあまりに,見習いは鉈で箒を2つに割るが,さらにそれぞれの部分が水汲みを続けていき,かえって速く水で溢れ返ってしまう。

 もはや洪水のような勢いに手のつけようがなくなったかにみえた瞬間,老師が戻ってきて,たちまちまじないをかけて急場を救い,弟子を叱りつける。
 さて,東電福島第1原発事故現場における汚染水漏れは,今後においてどのような推移になっていきそうか? これは,誰にもよく予想も展望もできないことがらである。あとはすべて,オボロ……。

 ④「原電,原発停止でも黒字〔20〕16年3月期」(『朝日新聞』2016年5月26日朝刊9面「経済」)

 原発専業の電力会社,日本原子力発電が5月25日発表した2016年3月期決算は,2016年連続で営業黒字となった。所有する原発2基は止まっているが,販売先で株主でもある大手電力5社から原発の維持費などを「基本料金」として受けとっているためだ。売上高は前年比13.5%減の1149億円,営業利益は17.1%減の68億円だった。

 この日本原子力発電株式会社の詳細はとりあえず,http://www.japc.co.jp/company/company.html  からみてほしいが,ここではこの「会社概要」からつぎの情報を拾っておく。

 ともかく,売上は「大手電力5社から原発の維持費などを「基本料金」〔これはわれわれが各電力会社に支払ってきた電気料金がその原資である〕として受けとっている」というのだから,不思議な原発関連の会社である。本業である原発2基,それも合計で「226万キロワット時」分の発電設備を保有・運営する原発会社であるというのであり,しかも現在は発電していない状態であっても「儲かっている」と報道されている。これは「?」である。

  会社名     日本原子力発電株式会社
  英訳名     The Japan Atomic Power Company
  設立年月日     1957年11月1日

  資本金(授権資本金) 1,200億円
  払込資本金      1,200億円
  発電設備     2基 226万キロワット(2015年4月27日現在)

  売上高(電気事業営業収益))     1,318億94百万円(2014年度)
  総資産     8,317億70百万円
  従業員数     1,200人

 --最後につぎの図表をみたい。2011年3月11日に東日本大震災と福島第1原発事故が発生していた。LNG発電は,最新鋭の設備である場合が多く,熱効率も高水準であり性能がよい。「3・11」以降,多くの原発が停止状態になっていった情勢を受けて,このように表現されるかたちでも,LNG発電(最上部の折れ線)が絶対的・相対的な比率を増大させていた。なお,折れ線グラフの上下変動は季節変動が主因である。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
LNG発電推移図表
 出所)http://agora.ex.nii.ac.jp/earthquake/201103-eastjapan/energy/electrical-japan/stat/08/

   ⑤「【エネルギー】日本の発電力の供給量割合[最新版](火力・水力・原子力・風力・地熱・太陽光等) 体系的に学ぶ」(『Sustainable Japan』( QUICK ESG 研究所,2016/05/18)

 この最新の記事から適宜任意に,つぎの諸箇所(◇-1以下)を引用してみた。長文であるが,その一部分を参照している。

 「原発による電気供給」にこだわるエネルギー観念が,いかに時代錯誤であるか,これだけを読んでも分かるはずである。とくに,日本の政府・電力会社側が披露してきた「原発体制への執着ぶり」は,21世紀のエネルギー資源観としては “完全に時代遅れ” である。

 ◇-1 ここ数年,世界のエネルギーや発電に関する状況は様変わりしました。まず,東日本大震災を機に,日本でも世界でも原子力発電に関する否定的な考え方が強くなりました。また,アメリカでのシェール革命により天然ガスや石油の価格が急落。化石燃料の輸出入ルートも大きく変化しました。そのなかで,日本のエネルギー・電力の供給量割合がどのように変化したのか,紹介していきます。

 ◇-2 原子力発電の魅力的な点は,発電コストの低さです。現在日本政府の検討会議で使われている比較データでも,原子力発電はもっとも発電コストの低い手法のひとつとして扱われています。しかしこの発電コストの低さを強調する議論に対し,「原発事故が起こった場合の対策費用や社会的損失費用などがしっかり考慮されていない」という,原子力の発電コストの計算方法に異議を唱える人々も少なくありません。
 補注)「原子力発電の魅力的な点は,発電コストの低さ」だという主張(しかし,事実にもとづかない虚構の見解)は,アメリカの原発産業の変遷:実体をみれば,ただちに了解できるはずである。日本では原発コストが一番安価であると,「原発神話」と抱き合わせで喧伝されてきたが,いまではその根拠がつぎつぎと崩壊しつつある。

 日本政府は2015年1月30日,経済産業省エネルギー庁総合資源エネルギー調査会基本政策分科会のもとに「発電コスト検証ワーキンググループ」を設置し,最新のエネルギー市場を踏まえて再度エネルギーコストを試算することとしています。

 ◇-3 原子力発電にはメルトダウンなどのリスク以外にも,放射性廃棄物の再処理・中間貯蔵・最終処分の問題があります。そのためもあり,日本政府が2014年4月に閣議決定した新しい「エネルギー計画」では,「原発依存度については,省エネルギー・再生可能エネルギーの導入や火力発電所の効率化などにより,可能なかぎり低減させる」という方針が決まりました。しかしながら,全面廃止するという意味合いではなく,発電コストを下げるためにも,目下のところ経済産業省は原子力発電の再稼働に躍起になっています。
 補注)この方針=見通しが,いかにむなしい姿勢(原子力村的な価値観・利害関係)に立ったものであるかは,これからもさらにヨリ鮮明になっていく。原発の廃炉数は日本ではすでに,15基にもなっている。この通常の廃炉作業でも,これから将来に向けて,どのくらいに莫大な経費を要求されていくことになるのか,まだ正確に見積もられていないだけのことである。

 機械・装置・施設の〈廃棄をおこなう対象〉としての原発を観るとき,放射性物質の処分を中心に「いまだに未知の事項」に属して対象が多く残されている。すなわち, “不可知のコスト” を発生させていく未知数的な諸要因の伏在を,いまから重々に覚悟しておかねばならない。

 
原発は,ほかのあらゆる物資・物質とは「決定的に次元を異にする放射能という物理・化学的な特性」を利用するが,この特性をそのまま呑みこんできたその「原発施設の後始末」である。それゆえ今後においては,廃炉=後始末をするに当たり,コストがどこまで上昇・膨張していくのかが,もともと予測・計算が無理・不能であると覚悟しておく必要がある。

 つまり,万事が未知であるままを強いらつづけていく将来に対面させられているのである。いわば「未知との遭遇」を強いられているわけである。しかも,目前に展開している事態は,けっしてSF小説の世界ではなく,現実の困難に関する深刻な話題である。

 ◇-4 日本の2014年の電力事業者がおこなっている発電のうち,新エネルギーが占める割合は 3.2%。震災前の2009年には 1.1%でしたので多少は増えましたが,それでも微々たる数値です。期待されても期待されてもなかなか日本で導入が進んでこなかった理由はコスト面です。……再生可能エネルギーのコストは比較的高いと計算されているのです。しかしながら,近年諸外国では再生可能エネルギーは積極的に導入されてきており,技術革新が進展。結果として,コストはどんどん下がってきています。

 2010年6月に改訂された日本政府の「第3次エネルギー基本計画」では,原子力発電と再生可能エネルギー(水力含む)の比率を,2020年までに50%,2030年までに70%とする計画を打ち上げました。さらに,そのなかで,再生可能エネルギーが占める割合を,2020年までに全体の10%達するという計画も含まれました。しかし,東日本大震災によって計画は方向性を失い,2014年4月の「第4次エネルギー計画」では達成目標については事実上白紙撤回となりました。

 ◇-5 では,再生可能エネルギーはやはり期待できない電力源なのでしょうか。世界に目を向けるとそうともいえません。世界各国の電力統計をまとめている国際エネルギー機関(IEA)のデータによると,2013年時点で世界主要国は,再生可能エネルギーを重点的に強化しています。定義が異なるため,こちらの統計では日本の発電における再生可能エネルギー割合は 6.0%(バイオマス発電が 3.1%で牽引)です。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
世界各国の発電量割合
 出所)http://sustainablejapan.jp/2016/04/01/world-electricity-production/14138
 補注)いまでは一方で,原発を決然と廃炉にすることにした国々があるが,他方で,これからも原発を新たに建造する予定を有する国々もある。われわれは,原発を利用するとどのような大事故が起きるかを,すでになんども体験済みである。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
世界の原発メーカー一覧
出所)http://no-reactors.holy.jp/maker.pdf

 それでも原発を「ビジネス(金儲け)のために」製造・販売する国々がある。そのうちの1国が日本である(東芝・日立・三菱重工業)。そのためにも原発は止められないというのだから,これは麻薬常習者と同じだとたとえたらいいかもしれない。


 この数値で比較していきましょう。環境先進国ドイツはそれぞれ21.5%,同じ島国イギリスは 14.3%,デンマークはなんと48.0%です。環境を顧みない印象のあるアメリカでも 6.6%で日本を上回っています。また,各国では2015年までの間にさらに再生可能エネルギー投資を活発化させており,年々この差は開いていきそうです。

 ◇-6 電力コスト削減の突破口は技術革新です。とくに上述したように再生可能エネルギーのコストは年々大きく低下しており,これはすべて開発している研究者やエンジニア,企業や研究機関の努力によるものです。

 当サイトでも,太陽光,洋上風力,バイオマスの技術革新の様子をご紹介しています。この分野の技術革新には海外ではESG投資として年々多くの資金が投じられており,ますますテクノロジーの進化は進んでいきそうです。
 補注)ESG投資とは「環境(Environment),社会( Social),企業統治(Governance)に配慮している企業を重視・選別しておこなう投資」のこと。

 従事する企業にとっては国際競争がより激化していくことも意味しています。事業会社にとってもエネルギーの安定供給を実現していくことは,企業のサステナビリティを高めることにも繋がり,アメリカのIT業界では,再生可能エネルギーでの発電を自社で推進しています

 --熱交換効率が3分の1しかない原発(最新式でも4割近くにまでになんとか効率を上昇させてはいるものの,まだ一般的に普及していない)にこだわり,「3・11」以前までは,将来的には70%の比率までも「電源用に原発を利用する比率を高めたかった」という立場は,ある意味では〈狂気の沙汰〉であった。原発の比率が高いフランスでもいい加減,その比率を低くするように方針を変更しているが,実際には,なかなか簡単にはその方向は実現させにくい。

 原発産業の「圏内:産業生活」域にあっては,どこを探してみても「老いた魔法使い」=師匠は,ただの1人も居ない。そこにみつかるのは,その魔法使いの「未熟な弟子たち」の一群だけである。この弟子たちがいま実際に,なにをできているというのか? お寒いかぎりである。

 その弟子たちの力量を具体的に判断するに,どうみたところでも,凍土壁工事を完全に作る技倆はもちあわせていない。この点だけは現実にはっきりしている。しかし《悪魔の火》の魔法に囚われつづけてきた者たちのことであるゆえ,これからも依然,この「現状:苦境」から逃げ出せない状態を強いられつづける。


 【坂中英徳『人口崩壊と移民革命-坂中英徳の移民国家宣言-』2012年の「北送された日本人妻と在日朝鮮人」難民論】

 【北朝鮮に送りこんだ日本人妻だけでなく,在日朝鮮人も全員を,日本は救出せよ,という提言】

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 〔※ 断わり〕 本記述は2013年2月20日に公表されていた。ここに再掲することになった。必要に応じて補正・加筆がおこなっている。

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 ①  坂中英徳『人口崩壊と移民革命-坂中英徳の移民国家宣言-』(日本加除出版,2012年3月)

 このところ本ブログは,北朝鮮問題・朝鮮総連問題を論じてきた関係もあって,以前,途中〔3分の2ほど〕まで読んでいたが,そのまま放置してあったこの坂中英徳『人口崩壊と移民革命-坂中英徳の移民国家宣言-』(日本加除出版,2012年3月)を,急に引っぱりだして読了した。未読部分,残りの3分の1の 部分に興味ある見解が提示されていた。今日はこれを紹介する記述とする。
坂中英徳2012年表紙
 坂中英徳(さかなか・ひでのり)は 1945年生まれ,1970年慶応義塾大学大学院法学研究科修士課程修了後,同年法務省入省,東京入国管理局長などを歴任し,2005年3月退職。

 同年8月に外国人政策研究所(現在の移民政策研究所)を設立し,法務省在職時から現在まで,在日外国人の法的地位問題など一貫して外国人政策ととり組んできた。 近年,50年間で1000万人の移民を受け入れる「日本型移民国家構想」を提唱している。現在,一般社団法人移民政策研究所所長。

 坂中 『人口崩壊と移民革命-坂中英徳の移民国家宣言-』は,こう訴えている。50年後,日本の人口は現在よりも約4000万人減少する。1000万人の移民こそ「人口崩壊」を免れる唯一の道である。「明治維新以上の革命」「憲法改正以上の難題」。移民革命以外に道はない。目次はこうなっている。

序 章 人が消えていく-日本は大震災から立ち直れるか-
第1章 移民国家宣言
第2章 人口崩壊・国際人口移動・移民政策
第3章 移民国家構想の軌跡
第4章 移民政策論補遺
第5章 北朝鮮にいる日本人全員の解放を
第6章 寛容と平等そして「和をもって貴しとなす」
第7章 孤高の闘い-移民国家の実現に向けて-  

 ② 坂中英徳の,「北送」された在日朝鮮人に関する主張

 1) 日本も国を挙げて協力し,北朝鮮に追いだした「在日朝鮮人たちとその日本人妻たち」とが遭遇した不幸
 1959〔昭和36〕年12月14日に始まった北朝鮮帰還事業により,在日朝鮮人の北朝鮮への帰国は実現した。だが,在北朝鮮日本人の帰国は,1966 〔昭和41〕年に36人が返ってきた以外に,実現することはなかった。その後は,日本政府が北朝鮮残留邦人の救出に動くこともなく,多数の日本人が北朝鮮にとり残された。

 日本に入国した脱北帰国者の数人が,北朝鮮残留日本人に会ったことがあるといった。北朝鮮残留日本人の大半は,山奥の一角に集団で押しこめられ,ジャガイモを主食として命をつなぐ,原始人のような自給自足の生活をしていると聞いている。

 日本政府の助けを待っている日本人は,いずれも70代・80代の高齢であるから,これは一刻を争う邦人保護問題である。日本人妻・北朝鮮残留日本人の帰国 が実現した暁には,移民政策研究所が責任をもって,帰国された皆さんが祖国で天寿をまっとうしていただけるように,全面的に支援する。

 1959〔昭和36〕年12月14日,975人の在日朝鮮人および日本人妻らを乗せた第1次帰国船が,新潟港から北朝鮮の清津港へ向け出港した。その日から1984〔昭和59〕年までつづく北朝鮮帰還事業で,総計9万3340人に及ぶ人びとが日本海を渡った。

 あれから50年,本国に帰った人たちが日本につぎつぎと戻ってくるという前代未聞の出来事が起きている。6人の日本人妻を含む,約200人の脱北帰国者が日本に入国している。帰国者たちが移住した先は 「人間の住める国ではなかった」のである(以上,坂中英徳『人口崩壊と移民革命-坂中英徳の移民国家宣言-』108-110頁)
 補注)この記述は2013年2月20日に公表されていたが,「日本の脱北者」(『朝日新聞』2013年04月04日朝刊)という報道によれば,つぎのように関連する情報が伝えられていた。

   「北朝鮮から中国に脱出した人のうち,かつて帰還事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人配偶者,その子孫らについて,日本政府は受け入れている。1990年代後半から増え,現在は200人ほど」。

 「2006年にできた北朝鮮人権侵害対処法は保護や支援策を政府に求めているが,日本到着後の生活の世話はNGOや親族に委ねられているのが現状。日朝両国の赤十字による帰還事業では,1959〜1984年に9万3千人余が渡った。
 註記)http://www.asahi.com/topics/word/脱北者.html


 2) 送還後の日本人妻の悲惨は,在日朝鮮人と同じか,それ以上
 帰国者たちは,北朝鮮政府から最下層の身分に指定され,特別監視のもとに置かれた。いわゆる「帰国者狩り」がおこなわれた1966〔昭和41〕年から 1980〔昭和55〕年代初めにかけての期間だけでも,強制収容所で亡くなった人や処刑された人は,相当な数に達する。

 日本国籍をもっているのに北朝鮮公民とされ,日本に帰国することが許されなかった日本人妻(1831人)のほとんどは,祖国に帰る願いすらかなわず無念の死を余儀なくされた。亡くなった日本人妻は「私が死んだら,頭を日本海のほうに向けて埋葬してほしい」といい残したと聞いている。日本へ帰ることがかなわないと分かると,せめて遺体は祖国の方角へ向けて埋めてほしいと願ったのである。

 日本に残った朝鮮人も帰国運動の犠牲者である。肉親が本国に囚われの身となり,帰国者を「人質」にした北朝鮮政府から「身代金を送れ」とか「日本人拉致に協力しろ」とかの脅迫を受けたからである。北朝鮮への怨念を抱えたまま「憤死」した在日朝鮮人は,万単位にのぼる。こう膨大な数の死者たちの霊は,いまだ 弔われていない。

 北朝鮮にはいまも,100人以上の日本人妻が生活していると推定される。70歳代から80歳代の日本人妻は全員,「生きてさえすれば日本政府が必らず助けてくれる」と信じている。「死ぬまえに日本の土を踏みたい」と切実な胸のうちを語っている。私は行政官として在日朝鮮人問題ととり組み,いま人道移民支援センター代表として,日本の帰って来た帰国者の定住支援をおこなっている。その立場から日本政府に緊急提言がある(以上,坂中,10-111頁)

 3) 提 言
 「現在も北朝鮮に軟禁されている帰国者全員を救出するため,まず『日本人妻』の帰国を日朝間の外交課題にあげていただきたい。この問題を日朝交渉でとりあげれば,膠着状態に陥った日朝関係を打開する糸口になる。人質外交に長けた北朝鮮政府首脳は「日本人坂中英徳画像3妻」を,対日外交の切り札として温存してきた。この話に乗ってくるとみている。
 出所)写真は坂中英徳,http://iwj.co.jp/wj/open/archives/140122

 今日の世界では,自国民・外国人を問わず,すべての人の出国の自由は普遍的な権利とされている。しかし,北朝鮮は出国の自由を認めていない国である。国交の正常化と人の交流の正常化は不可分のものである。したがって,日本が北朝鮮との国交正常化を進めるに当たっては,まず在北朝鮮のすべての日本人の出国の 保障を前提条件とすべきである。そして,北朝鮮が日本人の出国を完全に認めるとき,日本人拉致の問題も日本人妻の問題もすべて解決する。

 世界は,北朝鮮の日本人拉致を指弾している。北朝鮮が50年間も日本人妻の出国をはばんできたことについても,国際社会は非難を浴びせるに違いない。存命の日本人妻に残された時間はわずかしかない。日本政府は一刻も早い日本人妻の開放・帰国を求めるべきである。これは緊急を要する邦人保護問題である(以上,坂中,111-112頁)

 4)「帰国した」在日朝鮮人も日本に再帰国させよ
 坂中英徳は難民条約に言及したのち,こう主張している。北朝鮮帰国者は,北朝鮮政府から「資本主義の害毒をもちこむ者」として〈敵対階層〉に指定されたう えで,それを理由にさまざまな迫害を被ったから,「国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること」を理由に,迫害をくわえられた人たちである。したがって,難民条約〔現行:出入国管理および難民認定法〕上の難民に該当することは明白である。

 さらにいえば,難民条約が規定する迫害の 概念にはとうてい収まらない人権弾圧を受けた人たちである。すなわち,在日コリアン帰国者であることまたは日本人であることを理由に特別監視対象とされ,多数の人びとが強制収容所で獄死し,あるいは極刑に処せられた。そのうえ,半世紀も軟禁状態に置かれ,日本の残ったコリアンから金銭を強奪するための「人質」とされてきた。北朝鮮政府が帰国者に対しておこなってきた圧制の数々は,難民条約が想定する範囲をはるかに超える国家犯罪そのものである(以上,坂中,117-118頁)

 ③ 若干の論評

  の 4) の最後で坂中英徳は,つぎのように発言している。要するに,1959〔昭和36〕年12月から1984〔昭和59〕年まで,日本政府が赤十字を組織に使い 実施した北朝鮮帰還事業によって,「北朝鮮に送りこんだ」在日朝鮮人の日本人妻だけでなく,総計9万3340人に及ぶ在日コリアンたちも〔もちろん生きていればの話になり,子どもたちの問題にもなるが〕全員,日本に送りかえさせろと,いう提案である。その根拠は難民認定に関する自国の法律であった。

  問題は,北朝鮮の指図・命令であれば無条件にいわれたことにしたがってきた,いわば奴隷のような反応しかできていなかった,とくに自分の家族たちを,本当 の「朝鮮の故郷でもない地域」に帰国させた「朝鮮総連にまだ所属している人びと」については,とくにこういっておく。

 非常に気の毒であると深く同情する。 と同時に,いつまでも踏ん切りもつかずにこれまで北朝鮮に盲従してきた,その「あなたがた」の政治姿勢:生活態度がまさに,あの凍土の国に3代もつづいてきている独裁者を,このうえもなく,いまもますます増長させている。だから,この事実については,なによりもさきに深く反省しなければなるまい。帰国者のうち〈大勢の死者〉がいまだに,墓標すら与えられないまま,あの地のどこかを,列をなしてさまよっているではないか。

 およそ民主主義とは無縁,古代・封建の時代のようにあの王様たちが身勝手に振るまい,人民を奴隷視するあの国である。いままで覚悟のうえできちんと,あの粗暴な支配者たちに対抗しえなかったという〈怠惰〉は,当事者でなければ分からない苦衷・懊悩を噛みしめながら達した結論〔の態度〕であったとはいえ,だか らといってそれで許されるわけではない。

 とりわけ,「帰国しないで」この日本国に住んでいる自分〔あなた〕たちは,あの国に住んでいる帰国者たちに比較すれば,はるかに豊かで幸せに,そして平和に暮らしてこれた。そうなのであればなおさらのこと,あの惨状を黙過するわけにもいくまい。いまさらなどとはいうまい。いまからでも遅くはない,やれることはやるという覚悟がないのか?
1992年、父親の金日成氏との記念写真
 出所)http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-12/19/content_24192076_5.htm かつての金 日成と金 正日「親子」。一番よく似ているのはお腹の出っぱりぐあいである。息子の勝ち?

 うしろに控えている軍人たちは高齢であるが,この2人並みに肥満体の者はいないようである。「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民  飢えて死ね」の「北朝鮮バージョン」か? 歴史は繰りかえされているらしい。
金正恩デブ画像
 
 出所)http://livedoor.blogimg.jp/newsch777/imgs/2/8/2811c45b.jpg この金 正恩のお腹の出ぐあいは順調,30歳でもう祖父や父といい勝負(以上?)。

  そのためにはまず最初に,朝鮮総連という組織からこのさい,皆がもっと離脱することである。北朝鮮にまだ生きている家族たちの〈生命の保障〉があるとかないとか,いまやもう,そのような地平でものをとらえていうべき時期ではない。結論はすっかり出ていたではないか。

 中世のように凶暴な王様の3代め「坊や」 までが,恣意のわがままで「虫けら」のように〈人民〉を殺しつづけていても,平然としていられるのか? 生まれつきとされる「偉大なる指導者同志」が,なぜ〈同志〉などと呼ばれなければならないのか。

 冗談もたいがいにしたほうがいい。○○書記だとか呼称される「彼らが,それも,1代めから3代めまで」間違いなく,あの国のなかでは人民たちの一番の〈敵〉でありつづけていることは,いまでは誰もが簡単に認めうる事実である。

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       ★【追  記 : 2013年2月20日  余 論】★

 1) いつも流の朝鮮総連系人士からの新聞投書「記事」
 今日〔2013年2月20日〕の『朝日新聞』朝刊「声」欄に,朝鮮総連側の人物と思われる女性の投書:「朝鮮学校への補助金続けて」が採用・掲載されてい た。朝日新聞はいつも,この手の投書(=類似するもの)を,ほぼ定期的に「声」欄にとりあげてきている。

 それはともかく,この女性の意見は「子どもになんの罪もない,だから・・・」という,以前からかわることのない紋切型の内容にしたがっている。このお決まりの形式に包んだその意見は,それじたいをもってすれば表面的には,日本社会の「同情を惹ける」かのようでもあり,また「納得させうる」かような理屈が含まれているかもしれない。

 しかし,朝鮮学校という教育組織はあくまで,児童・生徒が通っているその小・中・高校〔初級・中級・高級学校(朝鮮大学校(←これは在日朝鮮人用政治大学校)もあるがこれは論外)〕を,「上から」政治イデオロギー的に統制し運営する「朝鮮総連の下部:傘下組織」である。朝鮮学校の基本性格は「北朝鮮の政治教育制度の一部」である。この位置づけは,いまだ止めることもできずに,確固として維持されている。

 今回の「朝日新聞」声欄へのその投書もまた,朝鮮学校→朝鮮総連の,そのまた上部に「絶対的に君臨している」「北朝鮮」(実体の正式名:北朝鮮非民主主義反人民偽共和国)の影響力から,これを便宜的・一時的に切り離しておけるかのような,虚構の《話題作り》に貢献している。いうなれば『子どもがかわいそうだ』という「同情だけを買おうとする作戦」なのである。分かりやすくいえば,なんでもいいから「同情するなら金をくれ!」(安達祐実が12歳のとき,女優として主演したテレビ番組『家なき子』1994・1995年のなかで使い,有名になった科白)。

 実は,これこそが朝鮮総連に特有の「作風」なのである,しかも非常にみえすいた,それでいて,日本社会側には「朝鮮総連とこれに指図・ 命令を出している北朝鮮」が,どっかりと朝鮮学校の上に覆いかぶさっている現実から,必死になって目をそらせようとする,ある意味ではきわめて下手な宣伝戦術である。

 2) 倒産状態の朝鮮学校にとって「補助金は点滴」的な効用あり
  投書の文中には「今,日朝両国の政治に翻弄されている彼ら」〔=朝鮮学校の生徒〕という一句があるが,これは朝鮮総連の立場からいわれており,まさにまやかしの理屈・騙しの修辞でしかない。

 「県が独自に支給してきた助成金は,子どもにとって未来への灯火で」あるとまでいってのけているが,朝鮮学校は助成金 を主な資金にして経営しているわけでもなく,それほどの金額にはほど遠い「助成金の高」(つまりわずか)にしかなっていないのに,大仰でおおげさな〈いいぶん〉であり,たいそう感心させられる。
 
 朝鮮学校で「民族のアイ デンティティ」に関する教育を否定することはできない。しかし,それがいつも「北朝鮮王朝風の独裁封建政治」と密接不可分に展開されているところが,以前からの問題でありつづけており,これは完全に否定されてしかるべきである。

 ところが,この投書主は〔この人に限らぬが〕この肝心なところは故意に「投書戦術的に」避けている。簡潔にいえば,この投書主は北朝鮮=朝鮮総連の傘下にある朝鮮学校を,イデオロギー抜きで理解してくださいと,無理を承知でこのようなみえすいた陳情文書を日本社会に公開してもらっている。その点に注意していうと,一方では,彼らにとってみれば「朝日新聞様々」であるけれども,他方では,この新聞社に固有である特定の意図を露見させてもいて,日本社会のなかでの特定勢力からは毛嫌いされる理由のひとつになっている。

 「教育に政治をもちこむな」という主張は耳に入りやすいものである。だが,かつては大っぴらに〔そしていまも秘かに〕その〈北朝鮮風の政治性〉をもろに朝鮮学校の教育現場にもちこみ,日本人拉致や「反日教育」のための予備軍を,そこで正々堂々と育成してきている。

 朝鮮大学校はその総仕上げをするためのエセ高等教育機関:政治学校である。現在に至ってもその体質を,基本的・最終的には,けっして解消も撤収もする気などまったくない。これが,朝鮮学校の基本的な〈政治姿勢〉であり,しかも極端に偏向した教育体制の本性である。

 3) 一国の教育体制は政治そのもの-どの国も同じである-
 この朝鮮学校は「もっとも政治性を強く教育の現場にもちこんでいる」教育機関である。それも「金 日成-金 正日-金 正恩の一家3代」が王朝封建風に独裁してきている北朝鮮という国家を,現時点では嫌々であろうが狂信的にであろうが,しかたなく『支持するほかない〈基本的な姿勢〉』をいまだに捨てられないでいる。

 朝鮮学校に子どもを通わせる父母・保護者や卒業生のなかには,北朝鮮の政治イデオロギー教育を止めてほしいと強く反対する人たちもいたが,あいもかわらず,金王朝式・路線の奴隷的な洗脳教育は基本的に継続されている(その現実における効果のほどはさておき・・・)る。
 補注)2015年度において朝鮮学校に所属する生徒・学生は往事よりも急減させており,6千人台にまでなっている。本当のところはなかなか分かりにくいが,もっと少ないと推測することも可能である。

  そうした教育姿勢(独裁国風の独裁者賛美イデオロギー)を完全に変更し払拭したまでとみなせる確実な保障は,いまのところ,まったく提供されていない。そのかぎりでいっても,本日〔2013年2月20 日〕に朝日新聞「声」欄に出ていた「朝鮮学校に無償化適用を」の投書に接するときは,彼らの本心を用心して読み解いておく必要がある。

 すなわち,彼らは「朝鮮学校の歴史・性格・実態」をよくしりえない日本の人びとを相手にして,とくに「表層意識=同情心」にのみ訴えようとする常套手法を駆使しようとしてきたのである。それも,例によっての戦術的な手法であるのだが,父母など保護者の語り口を借りてする,「子どものためなのです,子どもがかわいそうではありませんか」といったいいぶんばかりを,必死になって声高に唱える,つまり,高度に「姑息でみえすいた」「勝手ないいぶん」が前面に出されて,強調されているに過ぎない。

 それでは,日本の教育制度のほうにおいて政治が無関係かといったら,冗談にもそのようにいえるわけがない。 国旗(日の丸)を掲揚させ,国歌(君が代)を歌わせることを,政治力で強制しているのが,この国である。以前から,法律では強制しないといいながら,実質ではその方針に逆らう・疑問を抱く教員たちを抑圧してきた。

 しかし,この問題は日本の現実における政治の傾向であるが,朝鮮学校に関する現実の問題は「外国の地」におけるものである。在日の3世・4世の時代になっているのだといいながら,朝鮮総連の人たちはいまだに,北朝鮮風の政治イデオロギー教育を吹っ切ることができていない。

 教育基本法第1条を適用されている朝鮮学校は1校もない。これは,朝鮮総連=北朝鮮の指示・方針に忠実にしたがおうとしているのが朝鮮学校であるゆえ,いまさら動かしようもない事実である。仮に1条校になれたとしても,北朝鮮の政治イデオロギー教育ができるのか? それでは,日本の教育制度の上部にかぶさる政治性と衝突する。これは必然である。

 4) 日本における在日韓国系民族学校の創造的・未来志向的なありかた
 a) 大阪市住吉区にある在日韓国系の民族学校,白頭学園「建国学校」は1条校であるが,韓国人としての民族心を養成する教育姿勢で,運営・管理されてもいる。「朝鮮学校」とは,いったい,どこかどのように違っているのか一考する余地がある。

 b)  大坂府茨木市にあるコリア国際学園は在日系の民族学校であり,朝鮮学校から逃避してきた生徒を多数受け入れている。すでに学校経営の方針・旗幟を,南北中立から韓国政府のものにあらためている。

  なお,コリア国際学園を説明する「学園概要」「建学の精神」は,それぞれこう記述している。「朝鮮学校」がいまだに束縛されている立場とこの学園とのあいだにのぞける溝は大きい。

 片や,21世紀にむかうコリア国際学園など在日韓国系の民族学校と,片や20世紀のままにとり残されたまま「化石化したゲンダイ朝鮮王朝」を〈ウリ〔エセの〕主体式〉に奉戴する,実は『非民族学校』である朝鮮学校との〈違い〉は,限りなく広がっている。

 なお,コリア国際学園は,こう自校を解説している。

  コリア国際学園は,2008年4月,「境界をまたぐ越境人」の育成を建学の精神にかかげて創立された中高一貫校です。コリア語,英語,日本語の3ヶ国語の育成と「ESD(持続発展教育)」の推進など,国際性と創造性を育むユニークな教育実践をおこなっています。

 開校5年目の若い学び舎であるKISですが, 図書室,理科室,PC室など基本的な学習施設は整っています。体育館などは地域の施設を活用しています。「越境人」としてアジアへ,世界へ,活躍の場を広げる「夢」をもつKIS生たちは,小さく真新しい校舎で,創意工夫しながら真剣に学び,汗をかき,友情を育んでいます。

 註記)http://www.kis-korea.org/overview/index.html

 21世紀の国際社会は,グローバル化と情報化が加速する一方で,政治・経済・社会・文化のあらゆる面において,解決すべき人類共通の課題にも直面しています。とりわけ東アジアは,その集約的な地域のひとつとしてダイナミックな変化が予見される歴史的な転換期にあります。

 こうした時代状況を未来に向けて切り拓いていくためには,なにより個性と多様性の尊重を基礎とした創造力の溢れる人間が求められています。いいかえれば,柔軟な発想と幅広いコミュニケーション能力を兼ね備え,問題解決能力に優れた人間の育成にほかなりません。

 コリア国際学園(KIS)は,在日コリアンをはじめとする多様な文化的背景をもつ生徒たちが,みずからのアイデンティティについて自由に考え学ぶことができ,かつ確かな学力と豊かな個性を持った創造的人間として複数の国家・境界をまたぎ活躍できる,いわば「越境人」の育成をめざします。

 コリア国際学園(KIS)は,すべての教育活動を通じて相互の信頼と協同を深め,地域社会に根ざし,コリアにつながり,世界に開かれた国際学校として,世界と東アジアの持続可能な発展に貢献します。

 註記)www.kis-korea.org/overview/index.html

 コリア国際学園中等部と高等部は,学年で1学級25名だけの定員である。2010年~2015年度の高等部における大学進学の実績は,同校のホームページに公表されている。

  ⇒ http://www.kis-korea.org/shinro/index.html

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 【付 記】 坂中英徳関連の本ブログ内記述として,つぎの2点がある。

 ★-1 2014年03月04日,主題「『年20万人』移民受け入れで人口1億人維持(内閣府試算)」,副題「日本の人口減少にどう対処するのか」

 ★-2 2015年04月14日,主題「北朝鮮帰国事業問題:日本赤十字の歴史的犯罪-忠良なる帝国2等臣民(在日遺民)を大事にしなかった敗戦後日本政治の悪徳と罪業-」,副題1「敗戦後,やっかい者払いの要領で在日を北朝鮮に送りこみ,さらなる『やっかいな問題』を創った日本現代史の悲劇」,副題2「在日朝鮮人はかつて,天皇のもとで『一視同仁されるべき日本帝国臣民』ではなかったのか?」


 【広告の実際的な効果が不明である,大学が出稿する新聞紙への全面広告は,基本的に社会的にぜいたくであり,単なるムダである】

 【大学が一般社会向けの広告予算を確保できるのであれば,その経費は奨学金に転用するか,学費などを値下げするために充当するほうが,よりまっとうな支出の仕方である】



 本ブログはいままですでになんどか,各大学(私立のみならず国立も含めて)が新聞紙に掲載している全面広告のありように対しては,批判的に議論してきた。まず最初に,以下に,ここ2~3日〔2016年5月22日から24日〕の『朝日新聞』に出稿されていた「諸大学による全面広告特集」を,画像資料としてかかげておく。議論はそれからである。( ↓  いずれも,画面 クリックで 拡大・可)
 『朝日新聞』2016年5月23日朝刊17面大学広告
 『朝日新聞』2016年5月23日朝刊18・19面大学広告
 『朝日新聞』2016年5月23日朝刊20・21面大学広告
 『朝日新聞』2016年5月23日朝刊22・23面大学広告
 『朝日新聞』2016年5月23日朝刊24面大学広告
 --ここまでは2016年5月23日朝刊,以下は5月24日朝刊。
   『朝日新聞』2016年5月24日朝刊24・25面大学広告
   『朝日新聞』2016年5月24日朝刊26・27面大学広告
   『朝日新聞』2016年5月24日朝刊28・29面大学広告
 経営学のマーケティング研究における関連領域に絡めていえば,いったい,なんのための「大学広告」の新聞への出稿であるのか,いっこうに明晰にならないことが,どうしても気になる。とくに私立大学であれば,学生からは高額の納付金を学校法人の収入としてえている。

 大手新聞への全面広告が,具体的・可視的にはたいした効果も期待できていないままに,あるいは,その効果じたいが,もとからさっぱり不詳のままでありながらも,大学間市場内においてのみ抱かれているような既定観念であるらしい「各大学ごとの〈狭隘な競争意識〉」に煽られるかのようにして,必死になって新聞への広告を出しあっている。

 本ブログは,最近における関連の記述として,つぎのものを書いていた。この記述のなかでは,部分的にではあったけれども,とりあげ議論していたのが,大学による大手新聞への全面広告出稿の問題であった。これ以前の記述でも同じ論題で議論してもいたが,こちらの出所はいちいち示さないでおく。

 ⇒ 2016年01月25日,主題「医学部新設・大学広告盛行,そして教育亡国に向かう日本の高等教育」,副題「なんのための大学経営による新聞全面広告か? ミエか外聞か,それとも単なる広告塔の意味・機能か」「新聞広告に充てる予算があるなら,学生への奨学金にまわすべきである」「教育産業,栄えて,国滅ぶ」「スベカラク教育ハ無償ニスベシ」「それでいて,原発事故処理にいくらカネを使ってきたか? 使っていくのか?」
    
 ①「広告には目的がある 広告印刷物をいかに顧客の売上へとつなげていくか?(連載第1回)」(『JAGAT』2013年11月20日)から

 経営学・マーケティングの本をひもとけば,広告とはなにかに関するひととおりの説明は記載されているが,ここではネット上からつぎの説明を聞いておきたい。

★ 広告の定義-広告そのものに関する定義-★

  「広告には目的がある」。そもそも広告はいったいなんのためにあるのか? 広告をみた人(消費者)の心理状態を考えながら答えを探る。広告「印刷物」は大きく分けて「イメージ広告」「レスポンス広告」「公共広告」「意見広告」の4つに分類される。
  △-1 公共広告とは,テレビなどで目にすることがあるかと思うが,商品やサービス,企業のイメージを訴求したりするものではなく,社会的な問題などを公共的に啓発する広告である。                                                                   

 △-2 意見広告とは,個人や団体が政治的問題や社会的問題などに対してみずからの意見や主張を訴える目的で作られる広告である。たとえば,岡本太郎氏が1967年4月3日の「ワシントンポスト」紙の紙面まるごと1面を使ったベトナム戦争に反対する意見広告は,大きな反響を呼んだ。

 △-3 イメージ広告とは,企業が市場に出した商品やサービスを,企業が思う好ましいイメージに形成・熟成するためという目的をもっている。ただ,イメージ広告の最終的な目的はイメージを形成・熟成するだけはなく,イメージを形成・熟成するプロセスのなかで消費者に購買活動を促すことが大きな目的であるといえる。

 △-4 レスポンス広告とは,「反応を計測できる広告」としている。広告をみた人(消費者)を購買活動へと直結させる,すぐにつなげる(アクションさせる)ための広告であり,その反応(アクション)がどれくらい起きているのか計測し,広告を打ったさいの基準づくりができる広告といえる。
 この広告に関する分類は「理念から目的へ」あるいは「抽象から具体へ」といった《尺度の内容》にしたがい,順に並べられている。広告としていちばん盛んであり,多く使用されるのはいうまでもなく,営利企業が自社の製品・サービスを世の中に売らんがためのそれにおいてである。「儲かってナンボ」であるとのまったく同様に,「実際に売れてナンボ」が広告の本当の任務であり,直面させられる課題である。

 前掲の,広告に関する△-1・2・3・4の分類は,日常的にはテレビやインターネットといった媒体に表現されている諸事例を念頭に置いて受けとめると,もっと分かりやすくなると思うが,販売目的(利益の追求)が目先にぶら下がっていて,「そのための広告」である点が,いうまでもなく最重要の前提である。

 それゆえ「△-4 → △-3」がとりあえずの狙いとなる場合が多い。△-3のような広告の目標は,自社のイメージをよくするための,あえての深慮遠謀になっているのだから,無理をしてでも気どったような,しかも充分に婉曲にしかも必要以上に気どったかのような広告活動に映る。レピュテーション経営が強く意識されている時代でもある。

 △-4のレスポンス広告は「反応を計測できる広告」だと定義されているとしても,実際における広告の「費用対効果」の計測は,一筋縄ではいかず,非常な困難をともなう場合が多い。自社の製品が大受けして売上が非常に伸びたというさい,はたしてこれが本当に広告の効果だけの現われなのか,それともほかの,たとえばネット上における評判(口コミ的なそれ)の波及効果によるものか,はたまた,それ以外の偶然に呼びこまれた・飛びこんできた要因によるものかなど,そう簡単には識別しにくい事例・場合がほとんどになりがちである。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
照ノ富士CM画像
出所)https://www.atpress.ne.jp/news/64733

 もともと,広告の実際的な効用を計る作業には,非常な困難な要素が混在している。大衆のあいだで好感度の高い芸能人(タレント・俳優)・アスリート・芸術家など有名人を,コマーシャルに登用したところ,この効果でもって該当製品がよく売れたのか,それとも製品そのものがよいものと評価されたから,自然に売上げを増やしてきたのか,はたまた,たまたま世間がその製品を緊急的に必要としていたから売れたのか。

 とにかく,広告の実際における効果の計測は,口でいうほど容易にできるものではない。統計学の相関分析手法などでもって計算し,これでもって析出できる諸要因が含まれている場合でも,それで関連する要素すべてが判明できたり,それらを総合的に把握したうえで有機的にまんべんなく認識できたりするというわけでもない。

 しかし,営利企業のマーケティング活動における大事な領域:「広告の機能」は,金儲けのためには欠かせない。それゆえ,他社との競争関係が熾烈な市場経済環境のなかで経営活動の一環としてみるとき,積極的に打って出るにせよ消極的に応えて向かうにせよ,この両策面が販売戦略上ともに必要不可欠である。

 この ① で引用している広告に関する説明は,本日の記述に関係する大学の広告について,以下のようにつづけて書いている。

 --広告の事例をいくつか紹介しよう。電車のなかなどで大学入学案内の広告をみたことがあるだろう。「オープンキャンパスは○月○日~○月○日」,というような告知をする広告。それをみた人(消費者=この場合は大学進学志望の高校生やその親)が実際に大学へと足を運び,大学というブランドを体験する。そのうえでこの大学を進学先として検討する。そして実際に進学先候補として受験し,この大学に入学をしたとすれば,学校法人としては広告に対する結果(売上)につながったといえる。
 補注)日本国内の産業経営が全般的に不調な状態であるなか,最近でいえば東芝と三菱自動車といった一流製造業会社が,経理・技術面において発生させていた不正問題によって,広告をする・しないといった以前の問題を会社内にかかえるに至っていた。

 それこそ日本の会社としては超一流どころの大企業が,そのような
現実の様相:「問題だらけの深刻な経営姿勢」を呈しているこのごろである。シャープに至っては,台湾の鴻海に身売りせざるをえなくなっていた。三菱自動車は実質,日産に吸収合併されるような結果を生んでいる。
『日本経済新聞』2016年5月23日朝刊12面シャープ前面広告
 出所)これは『日本経済新聞』2016年5月23日朝刊。同じものが『朝日新聞』には5月22日朝刊に出ていた。この全面広告は多くの人びとを対象に意識している。それなりに意味のある広告の出稿である。大学広告とは決定的に異なる要素が表現されているはずである。

 さて,大学(学校法人)による広告の出稿(ここでは新聞広告に注目しての話題)が,はたして前述で4つあるとして解説されていた「広告の4つの目的」のうち,どれにあてはまっているのか考えてみたい。おそらくせいぜい,△-3「イメージ広告」と△4「レスポンス広告」である。だが,ただし,一般の営利企業のそれと同じに接していいような「問題の性質・次元」を有しているかといえば,ここからは問題が出てくる。

 自動車でももちろん,軽乗用車から高級車まで市場は細分化されていると観察してかかる必要がある。それに比べて,各大学が自校のために学生集めをすることは〔もっぱら△-4によってだが〕,自動車販売のための広告と同類の広告であるとは,とうてい考えるわけにはいかない。

 ベンツやレクサスの販売市場(ドメイン)を想定し,これをめぐり議論しようとする経営問題に対して,東京大学・京都大学の大学「定員」への受験者をどのように集めるかという話題(2016年度からは東大も推薦入試をはじめた)は,比較することじたいからしてむずかしすぎる。双方間における問題の異質度が高すぎるのである。

 自動車の販売市場と東大・京大の入試状況とを対比する手順は,あまりにも根本から質的性格を違えた対象同士であるから,当初より成立させにくい。それでもともかく,広告の対象(相手)になりうる客体を探しているのだという抽象的な一点にかぎっては,まったく同質かもしれない。といってはみたものの,その狙い目になっている目標(標的)はまったく別次元・別世界にある。一方はあくまでより優秀な学力のある学生集めであるの対して,他方はあくまで営利のためである。

 金儲けのための宣伝をするのと,教育のために宣伝をするのとでは,同じ広告であっても,そのもたされるはずの意味が大きく違ってきて当然である。ところが,最近における大学広告の新聞全面広告への出稿ぶりは,それこそ猫も杓子もといった風景を披露しつ猫も杓子も画像つ,いったいなんのために「大学は広告を打っている」のか,さっぱりその意味が理解できない広告が多い。営利企業の広告管理問題と大学のそれとを比較対照させて考えることじたい,もしかすると不埒な・見当外れの問題意識だといわれるかもしれない。
 出所)画像は,http://ameblo.jp/blogatata/entry-10050475145.html

 筆者がいつも批判するのは,とくに私学の場合ならば,何千万円から億円単位で予算を都合して新聞全面広告を大手新聞紙に出すくらいならば,その金子は学生への給付型奨学金に回したらどうかという点である。だが,他大学がともかく広告(それもこのごろは全面広告がたいそう流行っている事情がある)を打っているのだから,自校〔ウチ〕も対抗上どうしても同じに応じないことには,大学間競争に「負けそうだ・まずいのだ」(?)といわんばかりに盛んに広告がなされている。

 だが,焦点となる大学広告の根本問題は,それをもって日本の高等教育の質が向上させえ,よりよい教育的な成果を挙げられることにつながるのかという点である。営利企業の広告戦略と大学経営のそれとの違いはなにかという理屈・詮索さえ,意外とそっちのけであり,他大学が広告を出しているから,うちも負けないようにやはり出そう,といった程度のものが多いだけではないのか。

 結局,大学経営がイメージ広告を出すにせよ,レスポンス広告に努力するにせよ,高等教育をになう大学(学校法人)自身が,いったいなんのために数多くこのように「大枚はたいて,ハデな新聞全面広告を大々的に出稿」していなければならないのか? 根源からの疑問が抱かれてよいのである。最近は国立大学までも私立大学の向こうを張って,同じように新聞全面広告を出している。そのような予算が確保できるのであれば,学費など納付金を下げるべきである。

 もっとも基本的な疑問は,こういうことである。大学経営は広告を出稿する仕事よりも,学内的に果たすべき本来の仕事が山積しているはずなのだから,こちらに資源(カネも)を集中すべきところを,イメージ広告ではムダな出費をおこないながら,くわえて,いったい効果があるのかどうかほとんど確認のしようがないレスポンス広告も出している。

 もちろん,大学がたとえば入試のための〈大学情報〉を世間にしってもらうことは,最低限,必要な条件であり,基本的な業務事項である。だが,新聞全面広告を出してしらせるほどに「特別な実質」はない。宣伝するためだけの広告であれば,本末転倒である。あまりに特殊な事情もある大学経営の問題に,営利企業流の広告手法が無分別に導入されている。

 現状なのであれば大学による広告出稿は,新聞社などの貴重な収入源にはなっても,大学に進学してくる若者とこれを支えている保護者のためには,なんにもならないどころか,入学関連経費を実質で押し上げるだけの要因となっている。「大学広告」を必死になっておこなっているが,なにかがおかしい,ネジがまちがったところに嵌められて〔ねじこまれて〕いる。そのようにしか映らないのである。

 〔ここでまたいきなり記事本文の引用に戻る→〕
 もうひとつ電柱広告の事例を紹介する。こちらも一度は必ずみたことがあるだろう。たとえばあるクリニックが「この先交差点を右に曲がって100m先」という案内をする広告。このような広告も一見案内を促すことが目的のように感じやすいが,この電柱広告をみた人の心理を仮説すると,「あそこに○○クリニックがあるのか。今度風邪を引いたときにでもい行ってみよう」という心理になるかもしれない。つまり突きつめていけばクリニックの場所の認知を促すと同時に患者を増やすための施策であると言える。

 このように広告には,しっかりとした目的がある。それは,消費者に購買活動を促すためのものといえる。これを前提に考えると,なんとなく作成していた広告にも,しっかりとした意味があることが分かる。消費者が広告をみたときにどのような心理状態になるのか? どうすれば購買活動へと促すことができるかを,しっかり仮説を含めて押さえたうえで広告印刷物を制作すると,大きく広告の表現方法が変わってくる。

 広告のレスポンス率を上げるためには,前提条件として広告の目的があること,そして消費者の心理状態を模索しながら,どのように購買活動へとつなげていけばいいのかをしっかり熟考したうえで,広告表現を工夫する必要があることを押さえておきたい。
  註記)http://www.jagat.or.jp/past_archives/content/view/5315.html

 大学経営(学校法人)による新聞全面への広告出稿は,イメージ広告でいえばまだ理解できる要素が含まれている。しかし,レスポンス広告としては,ほとんど理解できないというほかない。大学経営にとってはたして,どのくらいに広告(宣伝)が必要なのか? 業界なりに自主規制が教育社会的にも必要である。全面広告を出せるのは主に,その大部分が経営が安定している大規模大学が中心である。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
井関十二郎はしがき
 出所)この画像資料は,井関十二郎『生きた広告』同文館,大正3〔1914〕年。なかにはこう書かれている。「広告なくしては1日の発展の途なきことは著者が改めて云ふまでもない」と。そう記述されているが,大学広告にもまったく同じことがいえ,そのまま妥当するとみなせるか? 否である。 

 最近において大学が展開しつつある広告文化は,いまでは一種独特の特性を形成・発揮しつつある。だが,それは「費用対効果」という問題次元に関していえば,依然として,大学という高等教育制度のなかで位置すべき場所がよく定置できていない。それだけでなく,その広告のために支出する経費の性格を考慮するとき,いかにもムダな出費であるという印象〔実質的にムダだと断定してもよいのだが〕を回避できていない。

 大学経営者(学校法人)にぜひとも訊いてみたいのは,大学が出稿している広告が,けっして形式的になったムダな出費ではなく,実質的に有効な出費であると反論したいのであれば,より具体的・現実的にその点を説明しておかねばなるまい(これは反証以前にまず実証が必要である問題点)。「うちも広告している」のだというごとき「安心・保険」のための広告ではあるまい。

 その種の問題提起に対して納得のいくような説明は,筆者の場合,寡聞にして聞いたことがない。大学広告は,ただなんとなく,他大学への対抗上もあって必要だから実行されているがごとき,単なる〈思慮を欠いた目先の戦術的な展開〉になっていないか。よそがやるからうちも……でしかないのでは,学生から高い納付金をとっていながらそうするのは,経費の支出のありように関して,厳密に観れば社会倫理的な問題性があるとまでいうほかない。

 偏差値40の高校生にとって早慶の受験(99.99%以上は必らず不合格)は,大学広告の効果によってではなく,彼らの思い出作りのために生まれた受験の機会だと説明できる。だが,このような話題にまで大学広告がおよんでいく視座はもちあわせていないと思われる。すなわち,広告の効果を客観的に分析をしようとするさい,その対象になかにまでは,どうやってもすくいとれない「受験者側の行動一斑」が,そのような受験者側の行動には含まれている。

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 【2016年5月25日 追記:その1】

 まず『日本経済新聞』同日10面に広告が掲載されていた京都外国語大学。(画面 クリックで 拡大・可)
『日本経済新聞』2016年5月25日朝刊10面京都外国語大学広告
 つぎに同日の『朝日新聞』には2日前からの続編として,この大学広告が連載されていた。この画像の右上部分に,掲載されている各校の名称(創価大学・拓殖大学・中央大学・日本医科大学・日本工業大学・明治大学・早稲田大学・神田外語大学)が一覧されている。これら全校の広告紙面そのものは,今日は参照しないでおく。(画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』2016年5月25日朝刊21面大学広告画面
 
 【2016年5月25日 追記:その2】(画面 クリックで 拡大・可)

『日本経済新聞』広告料金早見表
出所) http://adweb.nikkei.co.jp/paper/ad/

 そのほかの新聞社の広告料金は,たとえばつぎを参照されたい。

  ⇒ 「全国紙の一面広告のお値段」( http://d.hatena.ne.jp/longlow/20120530/p1 )


 【軍国文化のカナメである靖国神社】

 【存在するもの,みな意味がある】

 【石
橋湛山「靖国神社廃止の議」昭和20年10月13日】

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 〔※ 断わり〕 本記述は旧ブログ,2010年10月9日の再掲である。必要に応じて補正・加筆をおこなっている。

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 ① 小菅信子『14歳からの靖国問題』2010年7月

  このごろは,小さい出版社まで新書版の本を制作・販売している。大手出版社の筑摩書房には〈ちくまプリマー新書〉という新書シリーズもあるが,この第 149冊めの本として,この小菅信子『14歳からの靖国問題』(筑摩書房,2010年7月)が発売されている。本書の解説は,つぎのようになされている。
小菅信子表紙01
 英霊,名誉の戦死,戦犯合祀・・・。

 いまなお靖国神社につきまとう様々な問題を通して,戦死者の追悼を平和と和解の未来へつなげるにはどうしたらよいかを考える。

   はじめに- 100点満点の答えのない問題-
   第1章 「靖国神社」に行ってみる
   第2章 英 霊
   第3章 戦死者を追悼する
   第4章 名誉の戦死
   第5章 敗戦と靖国神社
   第6章 靖国問題を解くために

 著者の小菅信子[コスゲ・ノブコ]の略歴を紹介する。

 小菅信子画像31960年東京都生まれ,上智大学文学部史学科卒業,同大学院文学研究科史学専攻博士課程修了満期退学後,ケンブリッジ大学国際研究センター客員研究員を経て,現在,山梨学院大学法学部政治行政学科教授。
 出所)画像は,http://synodos.jp/authorcategory/kosugenobuko

 専門は,近現代史・国際関係論・平和研究。著書に『戦後和解』(中公新 書,石橋湛山賞)など。現在は,戦争と人道,戦後・植民地支配後の平和構築と和解をめぐる問題にとり組んでいる。
 小菅信子は2005年に公表した著作『戦後和解』(中央公論新社)をもって,2006年に「石橋湛山賞」(第27回)を受けている。同賞は,単著として初めてこの『戦後和解』に授賞し,かつ女性としても初めてこの小菅を授賞したという。

 小菅には他の共著として『戦争の記憶と捕虜問題』(東京大学出版会,2003年),『東京裁判ハンドブック』(青木書店,1989年),『戦争の傷と和解』(山梨学院大学生涯学習センター,2001年-),“Japanese Prisoners of War”(co-edition, Hambledon and London)などがある。
 注記)http://www.ishibashi-mf.org/prize/27th.html 参照。

 小菅『戦後和解』2005年は「あとがき」で,「どんなに悲惨な過去であろうと,平和と友好を築くために忘れてはならない」(小菅,同書,212頁)と強調していた。この本で石橋湛山賞を授賞された小菅は,本ブログが本日とりあげる『14歳からの靖国神社』2010年のなかであらためて,石橋湛山が敗戦後に靖国神社を批判した小稿「靖国神社廃止の議」(『東洋経済新報』1945年10月13日号)に論及している(小菅『14歳からの靖国神社』113-116頁)。次項はこの文章をとりあげる。

 ② 石橋湛山「靖国神社廃止の議」昭和20年10月13日

 1) 敗戦直
 1945〔昭和20〕年10月13日という日付に注目する。この敗戦の年,それよりも早い日付の9月27日,昭和天皇はマッカーサーのところへ〈命乞い〉をする〈自己弁明〉のために,アメリカ大使館公邸で待ちかまえるGHQのマッカーサー元帥を訪問した。太平洋戦争に勝利した敵将に対して天皇ヒロヒトは,「その膝下の位置に自身がへりくだって立つ」という恭順を演じた。

石橋湛山画像2 同年10月4日,GHQは日本政府に対して「民権自由に関する指令」を命令し,天皇に関する自由討議や政治犯釈放・思想警察全廃などをおこなわせた。これを受けて,10月10日,治安維持法によって政治犯として投獄されていた約3千人が釈放された。
 出所)画像は石橋湛山,http://webronza.asahi.com/politics/articles/2013011800005.html

 敗戦後1カ月とわずかしか経過していないこの時期に,石橋湛山が『東洋経済新報』10月13日号に小稿「靖国神社廃止の議」を執筆した。この「社論」として書かれた「靖国神社廃止の議」全文をあえて紹介しておく。読みやすくするために適宜,1行空けおよび改行を入れてある。

☆ 石橋湛山「靖国神社廃止の議-難きを忍んで敢て提言す-」☆
=昭和20年10月27日号東洋経済新報「社論」=

 甚だ申し難い事である。時勢に対し余りに神経過敏なりとも,或は忘恩とも不義とも受取られるかも知れぬ。併し記者は深く諸般の事情を考え敢て此の提議を行うことを決意した。謹んで靖国神杜を廃止し奉れと云うそれである。

 靖国神社は,言うまでもなく明治維新以来軍国の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし,其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程,我が国に取っては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り,靖国神杜の祭典も,果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や,疑わざるを得ざるに至った。

 殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し,其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には,未だ靖国神杜に祭られざる者が多数にある。之れを今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには,二年或は三年は日子を要し,年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが,果してそれは可能であろうか。

 啻に有形的のみでなく,亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が,何と之れを見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け,祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら,卸て戦没者に屈辱を与え,国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。

 又右〔上〕の如き国際的考慮は別にしても,靖国神杜は存続すべきものなりや否や。前述の如く,靖国神杜の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にて,殊に其の大多数は日清,日露両戦役及び今回の大東亜戦争の従軍者である。然るに今,其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として,国家を殆ど亡国の危機に導き,日清,日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。

 遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても,之れを祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。とすれば,今後此の神社が存続する場合,後代の我が国民は如何なる感想を抱いて,其の前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。若しそうとすれば,之れは我が国家の将来の為めに計りて,断じて歓迎すべき事でない。

 言うまでもなく我が国民は,今回の戦争が何うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し,其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは,恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず,更生日本を建設することはむずかしい。

 我々は茲で全く心を新にし,真に無武装の平和日本を実現すると共に,引いては其の功徳を世界に及ぼすの大悲願を立てるを要する。それには此の際国民に永く怨みを残すが如き記念物は仮令如何に大切のものと錐も,之れを一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し,或は戦没者自身の立場に於て考えても,斯かる怨みを蔵する神として祭られることは決して望む所でないと判断する。

 以上に関連して,茲に一言付加して置きたいのは,既に国家が戦没者をさえも之れを祭らず,或は祭り得ない場合に於て,生者が勿論安閑として過し得るわけはないと云うことである。首相宮殿下の説かれた如く,此の戦争は国民全体の責任である。

 併し亦世に既に論議の存する如く,国民等しく罪ありとするも,其の中には自ずから軽重の差が無ければならぬ。少なくも満州事変以来事官民の指導的責任の住地に居った者は,其の内心は何うあったにしても重罪人たることを免れない。然るに其等の者が,依然政府の重要の住地を占め或は官民中に指導者顔して平然たる如き事は,仮令連合国の干渉なきも,許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終るべきことではない。
 注記)引用は,http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/293.html

 旧い文章で読みづらいが,要は「靖国神社」は不要になった撤去せよと,石橋湛山が敗戦直後に主張したのである。しかし,日本帝国:日本国はこの靖国神社を剔抉することができなかった。石橋は,明治以来の日本帝国主義の総決算が〈敗戦〉という結末に至ったからには,戦争を督戦する神社である靖国はもう要らないと断定した。

 2) 臣民・人民を愚弄してきた昭和天皇
 ところが,GHQが「日本の宗教問題である国家神道のあつかいにおいてきわめて慎重=紳士的であること」を利用して,1945年(昭和20年)11月19 日,昭和天皇はみずからが祭主を務める「臨時大招魂祭」を執りしきっていた。

 同年10月中にすでにGHQは靖国神社の存続を決定していたのである。石橋湛山の「靖国神社廃止論」に対して,昭和天皇は真正面から逆らったことになる。12月に「神道指令」が出されていた。

 小菅信子『14歳からの靖国問題』2010年の内容に入る。小菅は靖国神社の本質をこう捕捉している。
    靖国神社は,戦争をしていた時代の日本の軍事文化のかなめでした。軍事文化を軍国文化といってもよいでしょう。靖国神社は,戦死者の遺族と日本社会に名誉とプライドを注入し,敵に降伏するよりも死を選ぶ日本軍の空気を,社会全体に充満させる役割を果たしたのです(110頁)。
 本ブログの筆者は昨日〔旧ブログで,2010年10月8日〕たまたま,旧日本帝国時代の軍歌のうち『比島決戦の歌』(西條八十作詞・古関裕而作曲,歌唱;酒井 弘・朝倉春子,昭和19年3月)を YouTube で聴くことになった。その歌詞を紹介しておく。日本の負け戦も決定的になっていた段階で,このような勇ましい軍歌を作詩・作曲していた当時の軍国日本の虚しい〈空元気〉は,21世紀の現時点からの論評ではあるが,本当に悲しくも哀れに感じる。
 
   △ 1番
 決戦かがやく 亜細亜の曙 命惜しまぬ若櫻
  いま咲き競う フィリッピン
   いざ来いニミッツ,マッカーサー 出て来りや地獄へ逆落とし

      △ 2番
 陸には猛虎の 山下将軍 海に鉄血 大川内(おおかはち)
  見よ頼もしの 必殺陣
   いざ来いニミッツ,マッカーサー 出て来りや地獄へ逆落とし

   △ 3番
 正義の雷(いかづち)  世界を震はせ 特攻隊の 征くところ
  われら一億 ともに征く
   いざ来いニミッツ,マッカーサー 出て来りや地獄へ逆落とし

   △ 4番
 御稜威(みいつ)に栄(さか)ゆる 同胞(はらから)十億 興亡岐かつ この一戦
  あ〃血煙の フイリッピン 
   いざ来いニミッツ,マッカーサー 出て来りや地獄へ逆落とし

 最後の4番に出てきた「御稜威(みいつ)」ということばに注目しよう。日本の天皇・天皇制に関する通俗的な説明も借りて,以下に少し記述してみたい。
 (⇒山下将軍のその後は? フィリピン戦線出日本兵は何十万人死んだか? 特攻隊の無意味! ……などについては触れないが)

 a)  日本の「天皇家」には「何かの説明不能な力」があると信じこまれ,皇室じたいの尊厳を峻厳なまでに守ってくれているとまで勘違いされている。この皇室にまつわる「不可思議かつ強健な力場」「大きな神秘的影響力の場」が,日本古来の「御稜威(みいつ,または,みいづ)」と解釈された。

 b) 歴代天皇および三種の神器は,「誰のものが分からぬ多く古墳」や「比定のデタラメな皇室財産である陵墓」も含めて,この「御稜威」を帯びている存在であるかのように信心されている。いいかえれば,死後にも強い残留磁場として機能し,また血統を介して影響力を行使続ける,比類ない「集団型の神霊的生体力場」とみなされてもいるそうである。
 (→筆者コメント:皇室一族が過去現実に記録してきたように,彼らの血統力・生殖力の低機能化を踏まえていれば,これほどバカらしい,科学的根拠を完全に欠落させた歴史理解もない)。

 c) 御稜威の影響する範囲にはまず,過去の天皇たちの陵墓〔同上のように,その比定はデタラメになされていた〕がある。つぎに,天皇・皇族《ご自身》という存在がある。さらには「三種の神器」「専用施設」などの「天皇の所有物」という領域にまでまたがった,垂直的・水平的の両軸を満たす広範で深甚なものもある,とされる。これらは,単なる「権威」という言葉では,とうてい説明しきれるものではない。
 (→筆者コメント:とはいっても,それらのほとんどが明治以降に政治的に製作されていた事実をしれば,このように垂直的とか水平的とかいって「天皇・天皇制の権威の虚構的な偉大性」に酔いしれたかのような発言をするのは,歴史への無知を〈信仰告白〉的に露呈させるものである)。

 「御稜威」の発振源として想定され,即位の儀式・「大嘗祭」によって,次代の天皇に連綿と受け継がれているのが「天皇霊」という不思議な存在である。「天皇霊」は,民俗学者の折口信夫が提唱したものだが,天皇の神性を説明するとき,この論が非常に有効と考えており,これを前提に論をすすめたい。

 「天皇霊」とは,新天皇が「三種の神器」を受け継ぐように,祖先と先代天皇から継承する「霊的遺産」「生きた神霊的磁場」である。天皇を天皇たらしめ,「御稜威を発する神的力場の眼」として立たせる重要な「核」である。「三種の神器」と同様,これを受け継ぐことなくして「天皇」となることはできない。
 注記)以上は,http://www.geocities.jp/kunitama2664/daijyousai01.html を,あえて換骨奪胎的に参照して記述。

 --ともかく,そうした御稜威という強力な精神的援軍をえていたはずの旧日本軍が,戦争においては完全に敗北した。天皇霊の霊験があらたかであったどころか,これがまったく不全・不能であった。くわえて「三種の神器」にもその天皇霊は降臨しておらず,その効能も皆無であった。

 ところが,敗戦直後の昭和天皇は,靖国神社においてみずから祭主として招魂祭を執りおこなっただけでなく,もともと敗戦まじかのころには「三種の神器」が戦禍によって焼失したりしたらたいへんだと思った,だから戦争はもう止めたにした,といった。

 彼は,臣民の生命・財産のことなどよりも,その御稜威のおよぶとされる「三種の神器」=宗教的なシンボル〔ごく簡潔にいえば,くわえて〈御身大事〉だけということ〕のほうがよほど心配であると判断し,これを旧日本帝国臣民たちの運命よりも大事にしていた。その意味では彼も《ただの人》であったに過ぎない。

 さて,その御稜威のおよぶ範囲でいえば,靖国神社も同じなはずであった。戦争に敗けた日本帝国に『御稜威の御利益はまったくなかった」ことは,明々白々であった。ところが,昭和天皇は敗戦直後も,靖国にぐずぐずと出向いては「御稜威に護られることもなく戦場で生命を落とした」兵士たちを合祀するための作業にとりくんでいた。

 敵国元帥のマックに対しては自身の命乞いも,もちろんしていた。御稜威が厳在する日本帝国であるからこそ戦争に勝利でき,世界史的使命である大東亜帝国=共栄圏の建設も成就できると確信していたのに,1945年8月以降に披露していた彼の体たらくと自己欺瞞を,そのままそっくり許してきた「日本国民のメデタサ(デタラメ?)」は並みのものではなかった。このツケは21世紀のいまにも,日本政治社会のあちこちに分配されている。

 だが,かつての日本帝国主義の欲望は,8月15日の戦争停止(終戦=敗戦)によってついえたのである。御稜威は存在も機能もしていないことが,あの戦争での敗北によって実証された。石橋湛山はその点を突いて「靖国神社廃止の議-難きを忍んで敢て提言す-」を,『東洋経済新報』昭和20年10月27日号の「社論」として書いたのである。

 ③ 微温的な小菅信子『14歳からの靖国問題』2010年

 1) みかけの議
 石橋湛山の靖国廃止論はいまだに,日本国における今日的課題である。いいかえれば,天皇・天皇制の問題としても,天皇家が根底より反省すべき基本問題である。小菅『14歳からの靖国問題』は,靖国神社の「そもそもなにが問題なのか」「戦争の過去と平和の未来を,結びつける方法を考えてみよう」と語りかける(同書の帯より)。

 小菅の同書は「はじめに-100点満点の答えのない問題-」では,こう述べている。「21世紀の今日,第2次世界大戦の追悼を,平和と和解の未来へと建設的につなげていくことが大事だ」。「戦死者のための記念は,つねに平和のためでなくてはな」らない。「この目標に向かって,靖国問題を解いていけばよい」(小菅,12頁)。

 この小菅の目標は実は,靖国問題の議論になると「靖国批判」に無条件アレルギー反応を起こす人びとの感情を,予防措置的に荒立てまいとする配慮のもとに提示されている。つまり,小菅は靖国問題にけっして賛同する立場にはない〔そう解釈して大きな間違いはないはずである〕にもかかわらず,著作の出だしでは,そのように配慮した,いいかえれば「穏便に靖国の議論」を展開していこうとする姿勢(ポーズ)を打ちだしている。

 つぎのような記述には,小菅によるその種の配慮がこめられた繊細さを感じとれる。
    靖国神社に来ると,日本という国を意識させるものが,次々と目の前にあらわれてきます。あなたが日本人なら,「ああ,私は日本人なんだ,日本の国民なんだ」とあらためて自覚させられるでしょう。「日本人として生きていく」ことの意味を,どことなく誇らしい気持で,問い直してみたくなるかもしれません(18頁)。

 遊就館に来ると,別世界に来たような印象を受けます。戦争をするのが悪いことではないような世界に来た気がしてくるのです。英霊はみんな,ものすごく勇敢に戦闘に参加し小菅信子て,日本のために,天皇のためにと,惜しげもなく自分の生命を捧げています(30頁)。

 みんな勇敢に戦い,「天皇陛下万歳!」と唱えたりしながら,進んで生命を捧げて死んでいった人びとばかりだったようなのです。「死にたくない」とか「死ぬのは怖い」とか,そういうことをいって死ぬのをいやがった人たちは,英霊にはいなかったようなのです(28頁)。
 出所)写真は,前掲,http://www.ishibashi-mf.org/prize/27th.html より。
 しかしながら,小菅によるこのような記述は,けっして靖国礼賛ではなく,また遊就館賛成の態度を明示したわけでもない。小菅『14歳からの靖国問題』は,右翼・保守・国粋主義の立場から靖国神社を無条件賛美する陣営を,いたずらに・無用に刺激しまいとする立場から,そのような修辞をうまく駆使する方法でもって,そちらの方面から襲来しかねない圧力や暴圧を,事前に回避するための予防措置をほどこしていた。

 以上のように小菅が靖国神社に言及したからといって,彼女がこの国営神社がなにも悪いことをしていないとは考えてはいない。外国,とくに東アジア諸国の人びとからみた靖国は,いわば「悪魔の神社」であり,まさしく「日帝の戦争督戦用神社」であった。

 2)  本音の議
 靖国神社は「名誉の戦死」をとげた人びとを英霊として讃える場である(34頁)。彼らはだから「敗者とはけっしてみなされない」(35頁)。敗戦後になっても1975年11月21日までは20年間も,祭主の立場で靖国神社に正々堂々と参拝しつづけてきたのが,昭和天皇の行為・立場であった。
 補注)靖国神社に合祀されている戦没者全員が「名誉の戦死」だったと意義づける「歴史(戦史)理解」は,この軍国神社に特有の価値観(官軍的な戦勝「史観」)からなされている。それゆえ,大日本帝国用の「慰霊かつ督戦のための施設」であったこの靖国神社は,あの世紀の大戦争に完敗した瞬間からすでに,その本来の役割である国家神道的な使命を完全に喪失させられていた。

 しかしながら,いまもこの神社が存在するのは「そうではなかった」と狂信できる靖国神社信仰(「勝てば官軍」という教理にもとづく国家神道の宗教精神)が,そのまま捨てきれずに〔後生大事に〕執着して〔できて〕いるせいである。

 たしかに・間違いなく,大日本帝国用はあの戦争に「負けてしまい賊軍」になっていたはずである。ポツダム宣言を受けいれたのではなかったか? だから,この国で現在首相の地位に居る人間が,その宣言はつまびらかに読んでいないなどといって,開き直る必要があったことにもなる。

 第2次世界大戦で最後までがんばったけれども敗北した大日本帝国のその後は,どうなっているか? いろいろたくさんのその「その後」があって,一言で説明できるような問題ではない。ごく最近の出来事が「在日米軍」軍属のある人物(元海兵隊員)の起こして事件である。
   『琉球新報』(2016-05-19 19:34)は,こう報道していた。

 沖縄県「うるま市大田の会社員島袋里奈さん(20歳)が4月28日から行方不明になっている件で,県警は19日午後、重要参考人として任意で事情を聴いていた元海兵隊員の米軍属の男(32歳)=与那原町与那原=を死体遺棄容疑で緊急逮捕した」。
シンザト・ケネス・フランクリン画像
 出所)http://www.akb48matomemory.com/archives/1057659464.html

 この殺人事件では,犯人の姓名については「シンザト(新里)という配偶者(日本人)の姓を前面に出す記事の内容になっていた。上の画像資料からみて,この人物を新里とよぶべきか,それともフランクリンと呼ぶべきかは,きわめて歴然としていそうなものである。
島袋里奈画像
出所)殺された島袋里奈,http://okutta.blog.jp/archives/3325711.html

 
この殺人事件をめぐって沖縄県では,繰り返されて止まないアメリカ軍関係者による犯罪に怒りの感情が,いまさらにように強まっている。今後,大規模な抗議集会の開催も検討されていると伝われているが,この事件をきっかけに,県民の米軍基地への反発はいままで以上に高まりそうである。
 〔論旨は本論の段落に戻る→〕 その意味関連でいえば,彼(昭和天皇)に「敗北」はなかった。その20年間,靖国神社内の戦争展示館である「遊就館では,日本は太平洋戦争で負けたのにもかかわらず,『敗戦』や『敗北』といった言葉は,ほとんど使われてい」ない(小菅信子『14歳からの靖国問題』35頁)。

 靖国神社は1978年10月17日,A級戦犯として東京裁判に引き出され死刑判決を下されていた東條英機ら14名を合祀した。昭和天皇は,それまでは封印状態でしまいこんでいた記憶=「大東亜戦争」での「敗戦・敗北」を,一気に呼びもどされた。

 旧大日本帝国側における「敗者の代表たち:A級戦犯」たちは,昭和天皇の身代わりに東京裁判の法廷において裁かれたのち,絞首刑などの刑罰に処されていた。

 その意味で靖国に合祀されたA級戦犯は,いわば,天皇裕仁が大元帥であった大日本帝国「敗戦・敗北」の象徴であったという意味でも,彼の身代わりであった。この点はA級戦犯の代表ともいえる東條英機も納得ずくで13階段を上っていたのである。

 要は,靖国神社にあっては「戦いに敗ける」という国家宗教的な信仰心はない。「勝利する想定(?)」しかありえない《官軍神社》であった。

 だから,昭和天皇が「A級戦犯:敗戦国側の将軍たち」が祀られている靖国神社に参拝にいき,祭主の立場からこのA級戦犯らに向かい頭を垂れることなど,絶対にできない教理=国家神道的な宗教行為「違反:背理」を意味した。

 A級戦犯が合祀されている靖国神社に天皇が参拝をすることになったら,この神社が歴史的に根幹から有する意義(「官軍:勝利神社」としての基本性格)を,みずから全面的に否定することになってしまうからである。それこそ本当に自家撞着の宗教行為を犯すことになる。
大東亜戦争略史図解
出所)http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128443

 要は,昭和天皇は15年戦争とかアジア・太平洋戦争とか呼称される「あの大戦争の時代」を,本当は反省も悔悟もしていなかった。彼が感じているのは「戦争に敗れてしまった」せいで,昭和20年代それも前半期は「天皇家の維持・存続」のためにたいへんな苦労をした,という領域に収まりうるものだけである。

 「三種の神器」があっても,これを載せておくための民草(草莽)が日本帝国から絶滅(大東亜戦争で全滅)させられたら,自分という天皇の存在・地位も「これを成立させるための基盤」を喪失する。だから,ほどほど(?)のところで戦争を止めさせた,という歴史認識に留まっている。臣民・人民(国民)のことをまともに深慮したことなどないのが,正直にいって・正確に観察して,当時の〈生き神:現人神〉様であった。

 3) 戦争神社:靖国神社
 「靖国神社は明治天皇の思し召しによって創建された神社で」あった。「明治時代にできた帝国憲法では,天皇は『万世一系,神聖不可侵』の生き神様--現人神--で」あった。「当時の日本は,まさに天皇の国家で」あった(小菅信子『14歳からの靖国問題』43頁)。

 ところで,靖国神社の「遊就館では,戦争の悲惨さや,日本人が受けた被害も,あまり伝わって」こないし,「日本がおこなった台湾や朝鮮半島,中国に対する植民地被害についても,『侵略』とは表現してい」ない。「日本軍の犯した戦争犯罪についても言及されてい」ない(36頁)。
 大東亜戦争拡大図
出所)http://d.hatena.ne.jp/mensch/20091004/p1

 この種の戦争展示館に敗戦後も20年間にわたり,昭和天皇は靖国神社に参拝してきた。その間(1945年8月-1952年4月)GHQに占領支配されていた時期には,1945年11月の一度〔敗戦直後における駆けこみ参拝だった〕を除いては,さすがに九段にはいっていない。昭和天皇は,1945年までの戦争を遂行しつづけてきた日本帝国を,悪いことをした〈国家〉とは思っておらず,「戦争に負けたこと」を悔いているだけである。

 小菅信子は,靖国神社に合祀されている「246万柱の英霊のほとんどが対外戦争の戦死者であり,9割以上が日中戦争から太平洋戦争にかけての戦死者である」(57頁)という歴史の事実を指摘している。自国を他国からの侵略から守るために,そのように多くの戦死者を出したのではなく,欧米帝国主義諸国に負けじと東アジアの国々をさらに侵略するために,それほど多くの戦死者を出したのである〔これにくわえて一般・民間の戦争被害者も大勢いた〕。

 この国は明治以来,日本帝国主義の侵略路線を推進するための戦争を,「天皇の名」をもって,80年近くも続けてきた。1945年8月15日(正式には9月2日)に日帝は敗北した。臣民たちを侵略戦争に動員するための国家的な宗教精神装置であった靖国神社が,それ以降,日本という国において必要なわけがない。

 石橋湛山が『東洋経済新報』昭和20 年10月27日号「社論」として「靖国神社廃止の議-難きを忍んで敢て提言す-」を執筆したのは,きわめてまっとうであって,常識的にも健全な思考を推定させる。

 ④ 日本帝国主義に必要不可欠であった靖国神社の役目

 1) 天皇・天皇制維持のための靖国
神社
 日本帝国だけの問題ではなく,時空を超越した〈軍事心理の問題〉がある。それはこういう点である。日本の靖国神社のばあい,その〈約束〉(戦争で臣民が戦死したらこの神社に英霊として祀ってやるということ)をしていた人物は,生き神様=現人神とされた明治天皇や昭和天皇であった。

 「兵士を戦場に送りだす側は,あなたがたは正しい目的のために戦うのだ,あなたがたの勇気と自己犠牲は忘れられことはない,戦死しても永遠に語り継がれると訴え」て,「死を覚悟して戦場に赴く者に,彼らを送りだす側が,戦死したら与えるはずの社会的な名誉に関する約束」をする(68頁)。

 靖国神社のような「記念碑や追悼施設は,つきつめていえば,戦死者は『犬死』や『むだ死に』をしたわけではな」く,「戦死者はそれを確かめるために故郷に戻ってくる,あるいは戻ってきているのではないかとする,『戦死者の帰還』の感覚や願望の表われで」あった。「言葉をかえれば,人びとは,記念碑や追悼施設をつくることで,彼らの死が『犬死』や『むだ死に』でなかったと,自分たち自身にいい聞かせたので」ある(76頁)。

 昭和天皇がA級戦犯が合祀された靖国にはいかなくなったあとでも,靖国神社側や遺族たちは天皇の参拝を望んでいた。いまでも,明仁天皇の参拝を願っている。

 しかし,昭和天皇の息子も含めてこの家族が靖国にいかない〔正確にいえばいけなくなった〕のは,敗戦後はずっとGHQをごまかすことができていた〈靖国神社の戦争的性格〉を,わざわざA級戦犯の合祀によって明かされてしまったからである。

 その意味で靖国神社は,非常にあいまいなかたちであったにせよ,かつての国営であった基本性格を剥奪されてからも実際においては,長いあいだ密かに保持してきた「天皇・天皇制のための戦争神社」という国家制度的な性格・機能じたいは,とうとう放棄せざるをえなくなったのである。

 2) ヒーローを合祀する靖国神社
 小菅信子は,靖国神社に合祀された「戦死者」だけが「ヒーローなので」はなく,そこでの「追悼者もまたヒーローなので」あると断わったうえで,遊就館のような「戦争記念物や戦死者の追悼施設は,そこに集う追悼者を名誉ある『国民』たらしめ,『国民=国家』として結合力を高め」るための役割を発揮するとも述べる(85頁)。

 ここまで小菅の議論を借りて記述してきた本ブログ筆者の意図は,だいぶ理解しやすくなってきたと考える。要は,昭和天皇は「靖国にA級戦犯が合祀されて」からは参拝にいけなくなった。なぜなら,靖国神社に合祀される資格のある戦死者は「ヒーロー」なのであり,そこに参拝にいく資格をもつ者も「ヒーロー」でなければならないからであった。昭和天皇は,その「ヒーローではないA級戦犯」を,1975年当時合祀した靖国の宮司を,口をきわめて非難していた。
   『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊は第1面冒頭記事に,元宮内庁長官富田朝彦が残した靖国神社A級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感をメモした記録をとりあげ,大々的に報道していた。

富田メモ 天皇の発言は,靖国神社には 「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」といっていた。さらに,A級戦犯を合祀したときの靖国神社宮司松平永芳に向かっては,おまえの「親(天皇の立場を理解して配慮していた永芳の父:松平慶民)の心 子知らず」と,強く批判していた。

 この「富田メモ」と呼称される記録は,昭和天皇が亡くなる1年前に記されていた。そこには天皇の強い意思が読みとれるゆえ,昭和史を研究する者には驚きを与える史料となっていた。
 〔小菅信子の議論に戻る→〕 ここで注意したいのは,敗戦後も靖国神社には,ヒーローたちが合祀されつづけ,そこに参拝にいくヒーローたちも集っていたが,この風景のなかには,1945年「敗戦」がいっさい割りこむ隙間がなかったことである。

 ところが,A級戦犯が合祀された1975年10月を区切りにして,まさしくあの戦争においては「負け犬の代表」とも形容されるべき「ヒーローではありえないそのA級戦犯」が靖国神社に合祀されてしまった。この事態は,昭和天皇のプライド=国家神道的な靖国観を温存していたつもりである,いうなれば『自分が確信をもって有するはずの信仰感』を粉砕した。

 戦争「当時とその後の日本人の戦争観の形成に重大な役割を果たし」たのは,靖国の「英霊が憧れのスターになったこと」である(103頁)。敗戦後もこの歴史感覚は継承されてきた。
東京裁判A級戦犯死刑囚
出所)http://ameblo.jp/missyou-maki/entry-12046432201.html
    東京裁判で死刑(絞首刑)にされた7名。
  東條英機・廣田弘穀・板垣征四郎
木村兵太郎・土肥原賢二・松井石根・ 武藤 章

 ところが,その間にあって,東京裁判の結果をもって連合軍の手にかけられ「絞首刑」に処されたA級戦犯の「英霊」が,わざわざ靖国神社に合祀されていた。この出来事は,この元国営神社にとってすれば「身も蓋もない」事態を意味した。とりわけ,この事態が昭和天皇に対して発現させた《歴史の意味》は,実はもっとも重大なものであった。

 3) 戦前・戦中の日本社会
 旧「日本軍は英霊の軍隊で」あった。ここに「問題の本質がみえて」くる。しかも,戦前・戦中において,その「空気は,軍隊だけでなく,日本社会全体を支配してい」たのである(108頁)。

 靖国神社は,敗戦後になると〔1947年からだが〕新しく毎年7月に「みたままつり」を開催しはじめた。そして,その靖国神社の「問題の歴史的な本質」を,できるかぎりぼかそうと意図してきた。
靖国神社風刺画像聯合ニュースから
 しかし,それでも,戦前・戦中の靖国神社とまったく同じである「国家神道」的な宗教精神は,まったく捨てていない。そのかぎり,英霊の神社=戦争督戦神社である本質を除去することもない。しかも,敗戦していたのに,である。
 出所)画像は韓国の聯合ニュースに掲載された風刺漫画,http://imgnews.naver.com/image/001/2007/07/22/PYH2007072204400001300_P2.jpg 「戦後レジーム」を否定・脱却しえたら再び,こういう風景が現実のものとなるはず?

 旧日本帝国の軍隊組織は「生きてかえることを予定していない作戦,戦死が目的化しような戦闘を」当然視した。「戦死と戦勝の混同は」「日本の軍事文化の顕著な特徴で」あった(110頁)。

 だが,敗戦後も1975年までの昭和天皇は,靖国神社に平然と参拝していた。すると,彼のその心底にのぞける本当の気持は「戦敗したにもかかわらず,なお戦勝のための神社に参拝する」というふうな,まことに奇妙だと受けとるほかない《重大な矛盾》を犯しつづけていた。だがまた,彼は「自分自身の行為の歴史的な意味」を,実によくよく承知してのものであったと観察するほかない。

 ところが,靖国神社側が1978年10月17日にA級戦犯が合祀すると,昭和天皇がそのようにしてなんとか,〈自分自身の精神世界〉においてその歴史的な認識をごまかし続けてきた,すなわち「戦敗とは無縁であってほしかった」靖国神社側の変身ぶりを受けて,事後はとうとうこの神社に出向くことができなくなった。

 ⑤ いさぎよくない靖国神社,なぜ廃社にできないのか? 

   小菅信子いわく「戦争の時代に,靖国神社が抱えていたもっとも大きな問題は,この神社をとおして,人びとが戦争の正義はつねに日本とともにあると信じ,戦勝と戦死とを『名誉』の名のもとに混同してしまった」。「そして,戦争を不必要な死と苦痛でいっそう悲惨なものにしてしまった」。 それでも,敗戦後の靖国神社は「戦死の名誉を過剰に賛美し,その意義を強調することで,戦争にかかわったすべての人びとに不必要な死や苦痛をもたらした」(118頁)。

 「靖国神社は,ただ単に戦死者を追悼し称賛してきたのでは」なく,「国家の神社として,英霊を神として称賛し,勝者として顕彰してきた」。「ところが日本は『大東亜戦争』に敗北し,日本人はあっさりとその敗北を受けいれた」(119頁)。

 しかしながら,本ブログの筆者は,小菅が前段のように把握するのとは異なる歴史の認識をもっている。靖国神社の本体であっただ旧大日本帝国の推移を平坦にしか観察しない小菅の見地は,この神社に対する視座に甘さを残している。

 「いざ来いニミッツ,マッカーサー」「出て来りや地獄へ逆落とし」と臣民に歌わせた昭和天皇は,その逆に「逆落とし」された日本の「敗北を」すなおに受けいれられないまま,他界した。とくに1975年まではなにひとつ臆することもなく靖国神社に参拝していた。その行為は英霊に対する供養のつもりであったのかもしれない。

 だが,私家の墓所(霊所)に参拝する行為とは異質の宗教的儀式のために,「勝利のための」戦争神社でしかない靖国神社に参拝にいく行為は,英霊に対して裕仁自身が戦争責任をまともに認める立場ではない事実と併せて考えるとき,これはとうてい認容できない「宗教的な特定の行為」である。

第2次大戦犠牲者数各国 「天皇陛下万歳」といわせるために,第2次大戦で310万人もの自国民・戦争犠牲者,2千万人を超えるアジア諸国での犠牲者を出させたとすれば,天皇裕仁という存在は,果てしなくも厖大な戦責問題を背負っていたことになる。
 出所)画像資料は,http://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2010032702000170.html

 靖国神社に敗戦後も参拝にいっていれば,その戦責問題が帳消しにできるほど,あの戦争の時代における臣民・人民たちの犠牲は軽いものではない。その意味でも,昭和天皇が担うべきであった《敗戦=戦争責任》の重大性は,あらためて強調されてよい。

 ⑥ 憲法改悪による「信教の自由」・「政教分離の原則」の破壊

 石橋湛山が敗戦直後,靖国神社の撤廃を主張していた。だが,これを歯牙にもかけなかった日本帝国=日本国は,大失態を犯したことになる。戦後民主主義におけるそうした日本国の推移状況はいまもなお,この国における民主主義政治そのものの存在感を,萎縮さ信教の自由画像せるだけでなく弱化もさせる根本原因である。
 出所)画像は,http://image.search.yahoo.co.jp/search?・・・ から。

 2012年12月から第2次安倍政権が成立しているが,この自民党政権は「信教の自由」の破壊をもくろむ憲法改悪案を用意している。その信教の自由に関連する自民党の憲法改正草案第20条のなかには,奇妙な文言が並んでいる。これは敗戦以前の大日本帝国における国家神道を復活させるための内容である。

 その3に書いてある。「ただし,社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては,この限りでない」という案文に注意したい。この制限や条件を「解除するための一句」は,日本の裁判所がいままで下してきた日本の神社問題に関する「司法判断」の隙間をみつけて,ここから信教の自由や政教分離の原則を破壊しようとする底意から置かれている。まさに時代錯誤である。

 「天皇の神格化」あるいはこの「神格化を経た天皇の〈玉あつかい〉」によって,自民党のような執権党が独裁的政治をおこなわないという保証はない。これはまったく明治期の再来であり,それ以前における日本の歴史においては,もともと古代史よりありえなかった天皇関連の政治史が,つまりこれがデッチ上げられたかたちでもって,ひどく不自然に挿入されている。

 いままさに,アベノポリティクスのアベノリスク性,その独裁的な国会運営を目の当たりにしているわれわれにとってみれば,その危険性は自明に過ぎるほどに生々しく現実化している。靖国神社や伊勢神宮を国教化する事態が来ないとは限らない。その可能性が高まっているのが最近の情勢である。日本国憲法など「クソ食らえ!」を基本姿勢とする宗教的な政治組織が,いまのさばっている。

 ここでは,関連させてつぎの1件のみ指摘しておく。公益財団法人新日本宗教団体連合会(新宗連)が安倍晋三政権の「国家神道志向の政治体質」を批判している。同会の,2016年5月現在でホームページ表紙の「ニュース(最新20件)」が参考になる。
 


 【赤字しかもたらさない福島原発事故の処理を,国民の税金を充てていくしかない〈無限のムダ〉】

 【原発事故現場の後始末は廃炉とはいえず,あくまで事故現場の処理としての作業であり,それもいつ終わるか,誰にも判らない半永久的な難題である】


 ①「福島廃炉へ冠水実験 秋にも,溶融燃料回収で 実物大模型で成否見極め」(『日本経済新聞』2016年5月21日夕刊1面冒頭記事)

 この記事は,東電福島第1原発事故現場の状況,つまり溶融した核燃料がいったいどのような状態で,どのあたりに「存在するのか」さえ,まるで把握できていない現状において,しかも,格納容器の底面にデブリが溜まっている(留まっている)という前提を任意に置いたうえで,当面はとりあえず「実物大模型で成否見極め」るというのであるから,実際での話題はきわめて悠長な性格となっており,長期戦の構えだけは明瞭になっている。

 そもそもそのデブリ(溶融した核燃料〔など〕)は,どこにあるのかすら状況を理解できていないのに,どうやったらその「実物大模型で成否見極め」ることができるのか? そのように表現しておいていいのか,という点からして不可解な内実がある。この「想定話」は,格納容器の底面にデブリがあると推定している。だが,そうではなかった場合があとになって判明したときは,あらためて初めに戻ってやりなおすか,あるいは大々的に方法の変更を余儀なくされるはずである。

 ともかく記事に聞く。

 --東京電力福島第1原子力発電所の事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)のとり出しに向け,政府は今〔2016年〕秋にも,技術実証のための大型実験に着手する。デブリの取り出しは廃炉の最難関。実物大の模型を使って,安全に燃料をとり出すために原子炉を覆う格納容器に水を満たせるかどうかを検証する。実験の成否を見極めたうえで,廃炉への具体的な方法を決定する。
『日本経済新聞』2016年5月21日夕刊1面原発処理問題がぞう
 2011年の福島第1原発事故では,1~3号機で高温になった核燃料が溶け落ちる「炉心溶融」(メルトダウン)が起きた。溶けた燃料は原子炉本体である圧力容器の底に溜まり,一部は抜け落ちて外側を覆っている格納容器の底まで達したと推定されている。
 補注)この推定「話」はあくまで「想定としての推理」でしかない。このとおりでないときには,経費の枠や労力の使用方法が根本から変更を迫られるし,もしかすると,振り出しに戻される場合もありうることも否定できない。事故を起こした原発の「廃炉作業」が,いまではすっかり「事業化」されており,福島第1原発事故現場の後始末にたずさわる企業経営にとっては,いわば旨みのある商売の種になっている。

 2011年9月12日に原子力損害賠償支援機構が設立されていたが,2014年8月18日からは原子力損害賠償支援機構法の一部を改正する法律の施行に伴い,原子力損害賠償・廃炉等支援機構に改組していた。この機構は「廃炉等の適正かつ着実な実施の確保を図ることを目的に加え,新たに廃炉等を実施するために必要な技術に関する研究及び開発,助言,指導及び勧告の業務も行っております」と謳っている。
 註記)http://www.ndf.go.jp/soshiki/kikou_gaiyou.html

 しかし,この機構が唱える「廃炉等の適正かつ着実な実施の確保を図ること」という肝心な目標が,福島第1原発事故現場の後始末の問題では,もとよりきちんと整理がされていない。いわば,デブリのありかについては暗中模索のまま,事故をおこした原発3基の後始末に着手したいといっている。それゆえ,ある意味では「廃炉のための無鉄砲な作業日程」が組まれてゆくほかない状況に止めおかれている。

 実験は,東芝,日立GEニュークリア・エナジーなど国内の大手原発メーカーが電力会社などと共同で,廃炉の研究開発を進める国際廃炉研究開発機構(IRID)が実施する。デブリを安全にとり出すには,圧力容器ごと格納容器に水を満たして冠水させたうえで,原子炉の上部から遠隔操作によって回収する方法が有力だ。デブリが出す高い放射線を水が遮ってくれるため,作業員の被曝を抑えられる。

 ただし,格納容器はもともと水を満たせる設計にはなっていない。事故で損傷した可能性もあり,実際に冠水できるかどうか判らない。IRIDはこれまで,冠水の前提となる止水や補強などに必要な要素技術の検討を重ねてきた。今回の実験でそれらの結果を集大成し,実際に冠水できるかどうかを確認する。
 補注)事故原発を「格納容器」内で「実際に冠水できるかどうか」が,まだ判っていない段階で「今回の実験」を試みると説明されている。だが,もしも格納容器までが溶融現象によって破壊されている場合は,この実験は成立しない。こうした実験が本当に実験と呼ぶに値するかからして,疑念が抱かれる。ともかく,格納容器内に冠水できるかどうかが判明してからの本題があって,事前においてはなお,確実に頼りにできるかどうか不明な点を残す実験が想定されている。

 政府はこのほど,福島県に整備した廃炉技術の開発拠点「楢葉遠隔技術開発センター」に,格納容器の下部を同じ材料で再現した模型を設置した。IRIDは今後,水漏れを防止する特殊なセメントを流しこみ,止水したうえで実際に水を注入。格納容器を冠水できるかたしかめる。模型の下部はコンクリートで補強し,大量の水が入った格納容器が水圧に耐え,巨大地震に襲われても破壊せず安全な強度を保っていることを確認する。
 補注)話の進行がすべて仮想での説明である。ここに説明されている冠水する実験が,もしも成功しないときは,いったいどのように別の方法を選択しながらさらに,事故を起こした原発の廃炉作業を進めていくつもりなのか?

 政府・東電は福島第1原発の廃炉に向けて,2021年末までに,圧力容器と格納容器の底にたまったデブリのとり出しを開始する計画だ。2017年夏をめどに,具体的にどのような方法で燃料をとり出すか,方針を固める。
 補注)福島第1原発事故現場の3基は,なんども反復して指摘するが,デブリが実際にどこにあるのか,正確には全然把握できていない現状にある。にもかかわらず,このように具体的に「廃炉のための日程」を明示している。無理を承知での計画日程の公表かもしれないが,いずれにせよ「2017年夏をめどに,具体的にどのような方法で燃料をとり出すか,方針を固める」と断わられているだけである。

 廃炉事業の日程を組むというのではなく,そのために必要な「方針を固める」というのだから,前段で指摘したごとく,ずいぶん「悠長な話」になっている。福島第1原発事故が発生したのは2011年3月であった。今〔2016〕年5月で5年〔以上〕経っている。ここにおいては「そのめどの話題」についてだけでも,なんと「10年も先の目標」として設定されている。仮に,その時点になったとき,デブリをとり出すための方針が「決められた・立てられた」としても,これが「3・11」の事故発生からは15年後になる見通しなのだと,ただ説明されているに過ぎない。

 1979年に事故が起きた米国のスリーマイル島原発では,デブリが圧力容器内に留まっており,圧力容器を冠水させてとり出すことができた。格納容器まで水で満たすのは,世界でも初めての試みとなる。格納容器を安全に冠水することができなかった場合は,水を入れずに直接デブリをとり出す方法をとらざるをえず,作業員の被曝をいかに防ぐかが問題となる。実験の成否はデブリのとり出しに向けた方針決定を左右する。
 補注)ここではさらに「格納容器まで水で満たすのは,世界でも初めての試みとなる」と説明されてもいる。スリーマイル島原発事故が参考になることは間違いないものの,この段落での記事の内容は,チェルノブイリ原発事故には触れていない。奇妙な論理の展開になっている。

 福島第1原発事故現場は「スリーマイル島原発事故が参考になる」と説明しているが,事故を起こした原発,それも現況が把握できていないその施設(3基もある)に対する廃炉作業なのだとすれば,あらゆる「想定=可能性」を配慮に入れた説明・解説になっていて,当然である。

 だが「この記事の内容」は,いまもなお「原発安全神話」の延長線上にあるごとき  “原発理解”  でもって,いいかえれば,デブリがどこにあるのか未把握の状態のままで,10年先における〈廃炉作業〉の見通しについて,なんとなくフワフワした内容の報道をしている。


 ②「メルトダウン」「メルトスルー」「メルトアウト」と「メルトバースト」

 この記事に関連してはすでに,先行する記事があった。『日本経済新聞』2015年12月16日が報道した記事;「福島第1原発の原子炉内調査〔20〕16年度始動 政府・東電,廃炉へ次の段階に」であった。

 その記事に関して本ブログは,2015年12月18日「『現況における東電福島第1原発事故現場』の『技術史的な位置づけ』でいえば『原発の〈廃炉〉』という表現は不適・不要である」の,②「福島第1原発の原子炉内調査 2016年度始動 政府・東電,廃炉へ次の段階に」(『日本経済新聞』2015年12月16日夕刊1面)が議論していたので,本日の記述中ではとくに触れないが,この記事に添えられていた図解だけを以下にかかげておく。左側の図解は,① の最初に出した図解と同旨である。
 『日本経済新聞』2015年12月16日夕刊1面原発事故図解『日本経済新聞』2015年12月16日夕刊原発事故解説
 ここでは,核事故を起こした原発の後始末も「廃炉」という概念に入れ,併せて表現してよいのかという,もっとも基本的な疑問を提示しておく。つぎに,原発事故に関する分類をかかげておく必要を感じたので,これを参考にしてほしい。以下では「メルトダウン」と「メルトスルー」と「メルトアウト」に関する定義的な説明をしている。

 イ)「メルトダウン」は,炉心溶融とも呼ばれる原子炉の重大事故であり,その第1の段階である。冷却系統の故障により炉心の温度が異常に上昇し,核燃料が融解することを指す。燃料の大部分が溶融し,圧力容器の底に溜まった状態をメルトダウンと定義する。

 ロ)「メルトスルー」は,溶融貫通とも呼ばれるさらなる原子炉の重大事故であり,その第2の段階である。高温により圧力容器の底まで溶かされてしまい,燃料がこの容器の底を突きぬけて,格納容器の底にまで落下した状態をメルトスルーと定義する。

 ハ)「メルトアウト」は,溶融破壊ともで呼ぶべき最終にまで悪化した原子炉の重大事故であり,その第3の段階である。溶けた燃料が圧力容器をも壊してしまうだけでなく,液状化した炉心および熱せられた物質が格納容器施設じたいも破壊してしまい,外部へ漏出した状態をメルトアウトと定義する。
チャイナ・シンドローム図解NHK福島制作画像
 出所)チャイナ・シンドローム(メルトバースト),http://www.evacuate-fukushima.com/2015/05/china-syndrome-managing-the-unexpected/

 ニ)「メルトバースト(チャイナ・シンドローム)」 くわえて最悪の場合,つぎの第4の段階としてあえて定義し,置いておく必要がある。このメルトバーストは,筆者の造語である。溶融した炉心・容器などの核燃料とコンクリートなどが融合してしまい,ドロドロになりながら地下まで進み,俗にいわれるチャイナシンドロームを引き起こしている状態である。臨界中の燃料の温度は3000℃になるとされる。ハ)  との大きな違いはないかもしれないが,わざとこのように分類して説明してみた。
 註記)『知恵蔵2015の解説』などを参照した説明は,イ)  と ロ)  である。ハ)  と ニ)  は別途,適宜調べてまとめてみた。
◇ 関連事項のより正しい説明 ◇

 1) プレメルトダウン(炉心がいつ溶け出してもおかしくない温度の状態)
     ↓
 2) メルトダウン  (炉心が溶け出した状態)
     ↓
 3) パーフェクトメルトダウン(炉心が完全融解しすべて液体に相転移した状態)
     ↓
 4) メルトスルー(液状化した炉心が高熱により圧力容器を突き破った状態)
     ↓
 5) メルトアウト(液状化した炉心及び熱せられた物質が施設じたいを破壊し,外界に放射性物質をばらまいている状態)

 つぎからは「人類未到達の領域」となる。

 6) サーフェスフュージョン(溶け出した液体が大地すら侵食した状態 以後数百年は居住不可)
     ↓
 7) チャイナ・シンドローム(地球の裏側までいってしまった状態。ただし,空想科学小説レベルの話題。実際に起こりそうもないというものではない)。これは,チャイニーズ・シンドロームともいう
 註記)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1064013185
 ホ) メルトダウンを起こした例として,1966年10月5日のエンリコ・フェルミ炉事故(高速増殖炉・米国)や,1979年3月28日のスリーマイル島原子力発電所事故(米国),さらにメルトスルーに進んだ例としては,1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所事故(旧ソ連),そして,2011年3月11日〔発生〕の福島第1原子力発電所事故などがある。福島第1原発事故がメルトアウトからメルトバーストまで進んでいなかったかどうかは,いずれにせよ,まだ確認すらできていない「段階」にある。

 福島第1原発事故現場では放射性物質汚染水の問題処理ができずに苦悩しているが,その汚染の原因は イ)  ないしは ロ)  にしか求めようとしておらず,説明の態度・方法・内容が不自然であるという印象を与えている。

 要するに「福島廃炉へ冠水実験 秋にも,溶融燃料回収で 実物大模型で成否見極め」(『日本経済新聞』2016年5月21日夕刊1面冒頭記事)という対策を進展させていきたいとする試図じたい,どうにも評価のしようがない現段階にある。いまでは,原発反対派の代表者の1人となった小出裕章は,③ のような〈解決策〉を示唆している。

 ③「小出氏『福島第1原発は石棺を』元京都大助教」(『東京新聞 ウェブ版』2015年4月25日 17時58分,http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015042501001598.html

 原発の危うさに長年警鐘を鳴らしてきた元京都大原子炉実験所助教の小出裕章氏が〔4月〕25日,東京都内の日本外国特派員協会で記者会見した。事故発生〔2011年3月〕から4年が経過した東京電小出裕章画像2015年4月25日日本外国特派員記者会見力福島第1原発について「チェルノブイリのように石棺で(放射性物質を)封じこめるしかない」と述べ,溶け落ちた核燃料のとり出しをめざす政府や東電の方針を否定した」。

 小出氏は,第1原発の現状について「4年経っても現場に作業員がいけない事故は原発以外にない」と指摘。1~3号機では,溶け落ちた核燃料が原子炉格納容器内に散らばっているとみられることから「機器を使ってとり出せる燃料の量は高がしれている」と話した。(共同)

 小出裕章もここでは,「溶け落ちた核燃料が」格納容器の底面にではなく,そのなかに「散らばっているとみられる」と推定したうえで,批判をくわえていた。

 それでも,『日本経済新聞』2016年5月16日朝刊のコラム「SCIENCE & TECH フラッシュ」は,ここまでの論調に合わせていえば,つぎのように,悠長な原子力工学の基礎研究をしつつも,将来における福島第1原発事故現場の収拾に役立てるつもりだと伝えていた。
◆ 京大,溶けた制御棒分析 廃炉作業の一助に ◆

  〔京都大学〕 笠田竜太准教授らは原子炉の制御棒に使われているホウ素が事故で溶けて変化した様子を,精密に分析するシステムを開発した。電子顕微鏡と高精度のエックス線分光装置を組み合わせた。場所ごとのホウ素の化学状態を細かく把握できる。東京電力福島第1原子力発電所の廃炉作業を安全に進めるための基礎データの取得に役立てる考えだ。

 ホウ素には中性子を吸収する性質があり,原子炉内で核反応を止める制御棒に用いられている。福島第1原発では制御棒が熱などで溶けてデブリ(塊)になったと考えられる。廃炉作業では冷えて固まったデブリをとり出す必要があり,デブリの成分や形状などの把握が欠かせない。

 実験では原発の制御棒をセ氏1000度以上で水蒸気と反応させた模擬デブリを作り,新技術で分析した。制御棒のホウ素が酸化したり鉄やニッケルの化合物になったりしていた。
 この種の工学的な研究は,けっしてムダでも不要でもない。しかし,原発事故の全体像を歴史的に俯瞰して判断すれば,原発事故や廃炉の後始末のためにかかる経費と労力は,そのすべてが〈あとしまつ〉のためでしかないという意味しかない。この事象は,どうみても「ムダなのだが,しかたなしに必要とされる(要求される)」それらであるというふうに,技術経済的な観点からは評定せざるをえない。

 原発コストがいちばん安価であると復唱しつづけてきた原子力村利害共同体諸集団の主張は,いよいよその根底からくつがえされている。その虚構性がより鮮明になりつつある。率直に分かりやすくいえば,電気の生産にしか使えない原子力発電(核発電)を利用した技術の特性は,「悪魔の火」のために「人間の生命」を不必要に危険の瀬戸際に追いやってしまうような,第2次大戦後における技術史の展開にしかなっていなかった。

 したがって,つぎの ④ に引用する記事は,日本の社会経済全体の視点に立って評価するとき,人材育成面でも厖大なムダをしていくための「大学教育の必要悪的な部分」であると判定するほかない。たとえ,これが必要な人材育成の領域ではあっても,そう判断せざるをえない教育目的が含まれている

 ④「大学の研究炉今夏以降に再開,原子力人材確保なお課題 専攻学生 ピークの3分の1」(『日本経済新聞』2016年5月16日朝刊15面「科学技術」)

 京都大学と近畿大学の原子炉2基が国の安全審査に合格し,今夏以降に運転を再開する。国内で研究炉の稼働は約2年ぶりだが,停止したままの炉も多い。原子力を専攻する学生はピーク時の約3分の1に落ちこみ,いまも低水準が続く。原発の再稼働や廃炉が進むなかで,研究炉の運転再開を優秀な人材を集める契機にできるかが問われる。

 「感無量の思い。一日も早い運転再開をめざしたい」。近大の伊藤哲夫・原子力研究所所長は安堵の表情を浮かべる。5月11日,原子力規制委員会の担当者から安全審査の合格証を受け取った。国内の大学で原子炉をもつのは京大と近大だけだ。他大学の学生も研究や実習に活用していたが,2基とも福島事故に伴う規制強化で2014年3月までに停止した。近大は窮余の策として韓国の慶煕大学に学生を送り,実習にとり組んだ。

 東京大学の上坂充 教授は「停止による影響は甚大だ」と話す。事故前は2大学以外の炉も含めて国内で年間約1500人が研究炉を使用していたが,停止で実物に触れる機会が失われた。留学生にも実習の場を提供できず,日本に来る魅力が薄れてしまった。
 補注)ここでいう留学生の実数は不詳である。原子力工学の実習を提供できるのは,日本だけではあるまい。関連する解説をおこなう文書がネット上でもみつかるが,「3・11」以前の原子力村的な宣伝臭の強い文献・資料ではあまり参考にならない。

 ただ2基が再開しても課題は残る。国内に約30基あった研究炉は老朽化などで11基まで減った。東京工業大学の小原 徹教授は「このままでは研究の幅が狭まる」と危ぶむ。日本原子力研究開発機構の研究炉再開を望む声も多いが,安全審査は序盤だ。東芝の炉は未申請だ。

 また研究炉の構造や出力は多様で,安全審査では施設ごとの特性を踏まえたうえで項目をひとつひとつクリアする必要がある。合格のための明確な「ひな型」もなく,審査はなかなか進まない。「研究炉は人材の継続的な育成に不可欠。国の公共財と位置づけるべきだ」。危機感をもった日本原子力学会は3月,こう提言した。老朽化対応,規制の見直し,施設の安全管理などにかかわる人員確保の必要性を訴えた。

 原子力に関わる人材の確保は大きな課題だ。文部科学省によると,原子力を専攻する大学生・大学院生は1994年度の約2300人をピークに大幅に落ちこみ,2008年度に500人を切った。その後800人強まで回復したが,福島事故が起き横ばいが続く。

 原発再稼働や福島原発の事故収束,今後増える老朽原発の廃炉などにとり組んでいくには人材の厚みと研究の蓄積が欠かせない。京大の研究炉では運転停止前に実施していた,福島原発で溶け落ちた核燃料(デブリ)の安全なとり出しに関する研究を再開する予定だ。
 補注)「3・11」以前までは,50基以上も稼働させていた日本の原発体制を維持するための人材育成であったものが,いまでは,福島第1原発事故現場の後始末も含めた廃炉作業のための人材育成が強く前面に出され意識される時期に変化した。後者の目的のために必要が人材が確保できなければ,廃炉作業そのものに対して十分にとり組む態勢が維持できなくなり,これはこれで技術面で重大な問題とならざるをえない。

『日本経済新聞』2016年5月16日朝刊原子力工学専攻学生 明るい兆しもある。東工大では今年度,原子力を学ぶ修士課程に入ってきた学生が約40人と,この半世紀で最多となった。「事故以前と比べ,原子力に明確な問題意識をもった学生が増えている」と矢野豊彦・先導原子力研究所長は話す。研究炉の稼働再開を人材の裾野拡大に結びつけられるか。今後は物理や情報工学など他を専攻する学生の関心を引き寄せる方策も考える必要がありそうだ。

 結局,つぎのように報道された記事も引用しておくべきである。
★「『原発延長で変革遅れる』ドイツ環境相,日本に助言」
=『朝日新聞』2016年5月21日朝刊5面「総合5」=


 来日中のヘンドリクス独環境相が〔5月〕20日,東京都内の日本記者クラブで会見した。福島第1原発事故を受け,ドイツは2022年までにすべての原発を 停止する決めている。事故後も原発稼働を続ける日本に対し,「電力供給制度の改革はいずれ必要になる。原発の稼働延長は変革の遅れにつながる」と助言し た。

 ドイツではかつて20以上の原子炉が稼働していたが,いまは8つだ。ヘンドリクス氏は「それでも余剰電力がある」とし,脱原発の達 成は可能だとした。前〔19〕日に福島第1原発を視察したといい,「原子力とは,いかに甚大なリスクを伴うか,あらためて認識した」と述べた。「力を入れるべきは再生可能エネルギー。風力や地熱などを活用する条件は,日本はドイツよりよほどいい」と指摘した。

 東京電力が福島第1原発の廃炉に40年ほどかかるとみこむ点について,「除染作業の進み具合によるのではないか。溶け落ちた燃料を確実に捜す技術がまだないと聞いた。(福島での作業は)人的にも予算的にも模範的な作業という印象だが,それでも40年で終わるのかはなんともいえないと思う」と話した。(以上,記事引用)

メルケル首相 ところでドイツは,2011年の「3・11」を契機に,それまでは原発利用を継続するといった方針をもっていたけれども,一気に廃絶する決定をしていた。メルケル首相の決断であった。彼女については,こういう記述がある。
 出所)画像は,http://matome.naver.jp/odai/2139388076994262601/2139388227194693903

 ドイチェ・ヴェレ(DW;Deutsche Welle が運営するニュースサイトで,30言語に対応している。日本語はなし)は,メルケル氏はつねに実用主義者であると述べる。環境相時代に,原子力は選択肢のひとつと信じていた同氏は,福島の事故で「ドイツの施設は安全でも,事故の影響は時間をかけて熟考すべき」と,方針を180度転換した。

 DWは自分の政治の流れを変えることができるのがメルケル氏だといい,「お嬢さん」から成熟した「国家の母」に成長し,党,政府をうまくコントロールしていると述べている。
 註記)「就任10周年のメルケル独首相が高く評価される理由とは? そして訪れた最大の難問」『NewSphere』更新日:2015年11月27日,http://newsphere.jp/world-report/20151127-1/
 「電力供給制度の改革はいずれ必要になる。原発の稼働延長は変革の遅れにつながる」と助言したというドイツのヘンドリクス独環境相は,しごく当たりまえの条件を指摘したに過ぎない。

 日本は福島第1原発事故現場の後始末だけでなく,すでに廃炉処分が決まっている15基の原発も含めて,これから半世紀から1世紀以上にかけて,それも「厖大な予算と貴重な人材」を充てて,廃炉作業という果てしなくつづくほかない「〈悪魔の火〉との戦い」を余儀なくされている。それは,いつ終わるかさえ判りえない〈勝利なき戦い〉である。

 「東工大では今〔2016〕年度,原子力を学ぶ修士課程に入ってきた学生が約40人と,この半世紀で最多となった」ことじたいの評価をいえば,手放しで喜べるような話題ではない。どうみても,『悪魔の火』に勝てる「人間側の技・術」は,実は根本的にはなにも用意されていないし,これからも同然である。

 原発という「悪魔側の電源施設を創作した」のは,人間側の技術ではあったとはいえ,依然として,悪魔にはなれない人間が『悪魔の火』を「管理できない(uncontrollable)」事実は,すでに嫌というほど思いしらされている。廃炉の始末にかける経費は,東電にせよ政府にせよ,電力利用者・納税者から調達されるのである。


 【人物紹介の正確性と適切性】

 【書物を的確に紹介し,人物の似顔絵も〈似ているのか〉】


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 〔※ 断わり〕 本記述は,旧ブログ 2010年8月29日の文章を再掲するものである。必要に応じて補正・加筆がおこなわれている。

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 ① 坂本藤良という経営学者が〈昔〉いた。

 『日本経済新聞』2100年8月25日夕刊の「エンジョイ読書」欄に,植田康夫(上智大学名誉教授)が「ビジネス書が映す時代の欲望 『経営学入門-現代企業はどんな技能を必要とするか-』坂本藤良著,高度成長 指南書の先駆け」という一文を,書き下ろしている。

 その全文を以下 ② に紹介するが,この文章を読んだだけでは,坂本藤良という経営学者が波瀾万丈の人生を歩んだ足跡が少しも伝わってこない。この指摘を,本ブログの本日〔8月29日〕における記述の題材としたい。

 さきに,坂本藤良の略歴を記述しておく。2つの記事から引用したい。

IMG_20160521_0012 ☆-1「坂本藤良(さかもと・ふじよし〔とうりょう〕 1926-1986年)」は,昭和時代後期の経営学者,評論家。大正15〔1926〕年11月5日東京生まれ,東京大学経済学部卒,昭和32年慶應義塾大学商学部専任講師。

 昭和33〔1958〕年の『経営学入門』がベストセラーとなった。のちに,家業の製薬会社の倒産体験を「倒産学」に書いた。昭和61〔1986〕年9月15日死去,59歳。主著として「近代経営と原価理論」などがある。
 注記)http://kotobank.jp/word/ 参照。

 ☆-2「著者略歴」(坂本藤良自身が著作の奥付に書いた履歴:1979年7月現在)
 大正15〔1926〕年東京神田に生まれ,昭和26〔1951〕年東大経済学部卒業。わが国経営学の創始者・馬場敬治博士の唯一の門下生として,正統派経営学の研究に専心。大学院特別研究生時代に東大『経済学論集』に発表した諸論文は世界的に注目された。

 昭和32〔1957〕年,慶應義塾大学講師となり,商学部創立に参画。その後,日大,立大,成蹊大学等の客員教授を兼ね,東急百貨店取締役,日本マンパワー社長,日本経営政策学会理事長,経済審議会委員,産業構造調査会員などの要職を歴任。現在,日本ビジネススクール学長。

 昭和33〔1958〕年の『経営学入門』は超ベストセラーとなり,経営学ブームの端緒を開き,以後,テレビ,公園等に活躍。著書は『近代経営と原価理論』『経営学史』『日本経営教育史序説』『倒産学』『日本雇用史』ほか多数。
 注記)坂本藤良『現代経営者の意識と行動-企業革命の新しい姿-』日本綜合教育機構,1979年,奥付。
坂本藤良履歴紹介など画像
出所)( ↑  画面 クリックで 拡大・可)
http://blog.goo.ne.jp/genn1717/c/c5ab36e280ebca4be8560b56a02dfc41
 

 とりあえず,以上の☆-1,☆-2を踏まえて,植田康夫が坂本藤良『経営学入門』昭和33年を紹介した,つぎの ② を読んでもらおう。この文章の途中に筆者が適宜〔 〕内の記述を入れ,もう一歩踏みこんだ解説としてある。

 ② 植田康夫による坂本藤良像の描写,その吟味

 昭和29〔1954〕年に創刊された光文社のカッパ・ブックスは,新書判の双書として昭和30年代から40年代にかけて,新刊が出るたび,ベストセラーのリストに名を連ねた。昭和33〔1958〕年に刊行された坂本藤良著『経営学入門-現代企業はどんな技能を必要とするか-』もその一冊である。

 文章の途中に「北谷しげひさのイラスト」による a)「坂本藤良像」(左側)が挿入されている。のちの議論のために別に,坂本藤良の写真2葉,b)「坂本:50歳のときに公表された書物にかかげられていた写真」(真ん中)と c)「坂本:55歳のときの同上」(右側)も,同時に並べておくことにする。〕
    北谷しげひさイラスト坂本藤良50歳 坂本藤良55歳
 坂本藤良の「似顔絵」a) と「顔写真」2葉  b)  c)  との比較をしたい。似顔絵はその性格上,一定・多少のデフォルメ(仏語: déformer,意図的な変型や強調)があって不思議はないが,それにしても a)  は  b)   c)  にあまり似ていない。
坂本藤良経営学入門日経記事
 『経営学入門』の裏表紙に掲載された著者紹介によると,坂本氏は大正15〔1926〕年,東京の下谷の生まれで,東京大学の経済学部を卒業するとき,1300枚という同学部始まって以来の論文を書き,研究室に残って経営学の研究に専念した。しかし,研究室に閉じこもることなく,経営診断の実際面でも,多くの一流会社の顧問を務めた。

 ところで,坂本が東大経済学部の教員として残れなかった事情がある。それは『現代経営者の意識と行動-企業革命の新しい姿-』1979年のなかで,坂本みずから語っている。「わたしはマルキシズムの洗礼を受け,過激な行動に走った体験もあるので,経営者というものをきわめてさめた眼で見ようとしていた。にもかかわらず,経営者から感動させられることが少なくなかった」(同書,はしがき〔3頁〕)。〕

 坂本は昭和26〔1951〕年4月から東大大学院で特別研究生に選ばれ,いずれ東大経済学部の教授になることが約束されたも同然の人物であった。しかし,在学中に学内での労組運動に走ったために,この大学の経済学部に残ることができなくなっていた。慶応義塾大学がたまたま商学部を創設することになり,ここで経営学と会計学の講座を担当する教員(講師)として採用されていた(昭和32〔1957〕年4月~34〔1959〕年3月在任)。〕

 その後,坂本は傾きかけていた家業の巻きかえしのために慶応義塾大学を去ることを余儀なくされた。坂本藤良『倒産学 正・続』(ゆまにて出版, 1974年)は,その家業建て直しに失敗した自身の報告書である。

 そんな経歴をもつ著者が,理論研究と実践の両面から築いた実績をもとに書き下ろした本書『経営学入門』は,戦後の新しい経営技術をふくめた,全般的な「経営学入門」書であった(「まえがき」参照)。この本は,世界的にもあまり例のなかった,また当時の日本にはむろん,類書が一冊もない著作として刊行されたのである。

 以上,ここまでの段落の記述はこれでよいのだが,つぎの段落で「第1章」「第2章」と呼称していた『経営学入門』内容編成に関する「記号:呼称」は,厳密にいうと正確な表現ではない。「第1章」「第2章」ではなく「1」「2」とだけ,見出しの上に整理番号:連番の数字が振られているだけであった。ともかく,その内容説明を聞くことにしよう。

 『経営学入門』の全体は8章で構成され,第1章〈科学的管理法-企業繁栄法の初歩〉は,社員の給与はどのようにして決められているかという問題から論じてゆく。

 そのためにまず紹介されるのは,F・W・テーラーが提唱した労働作業の〈一日の公平な出来高〉を科学的に決定し,賃金を決めるという〈科学的管理法〉でテイラー科学的管理法画像ある。つぎに,この理論を〈科学的〉たらしめる根本的手段が時間研究であり,そして〈公平な一日の仕事の量〉を,この時間研究によって決めるためには〈作業のやり方の統一〉が必要だと指摘する。
 出所)画像は,http://keieikanrikaikei.com/history-of-strategy-002

 このように,本書は経営学における理論的検証をまずおこないながら,つぐく第2章では,機械を使った流れ作業(ベルト・コンベア)によって経営を合理化するフォード・システムを論じる。フォード・システムは,テーラー・システムを旧式のものにしてしまうほどの力を発揮するが,同時に人間をコンベアの番人にしてしまった。

 そこで著者は,人間には情感があるということを自覚した人間関係理論の重要性を指摘する。この理論によって人の気持をつかみ,働く者の自発性を引き出してゆく技術を紹介し,オートメーションと販売市場調査(マーケティング)の問題へと論を展開してゆく。

 さらには,現代企業においては計算技術が要求され,経理が扇の要になると指摘している。それでいながら,本書には「電子計算機」という言葉は出てくるものの,「コンピューター」という言葉は出てこない。昭和30〔1955~〕年代はまだそんな時代だった。

 坂本はこういっていた。「経営学は近年おどろくほどの進化をとげた。その知識がなくては,もはや現代社会は理解できなくなった。たとえば,オートメーション,マーケティング,人間関係(振りがなで→ヒューマン・リレーションズ),生産性向上など毎日ように新聞にでてくる言葉はすべて経営学の課題である」(〔まえがき〕3頁)。
 
 『経済白書』が〈もはや戦後ではない〉と書いたのは昭和31〔1956〕年のことであった。所得倍増計画をかかげた池田勇人内閣が誕生したのが,昭和35〔1960〕年。その中間期に刊行された本書は,日本が活発な企業活動によって経済大国になってゆくことを予感させるような本である。
☆『経済白書』「もはや『戦後』ではない」☆
=1956年7月17日 発行=
経済白書1956年版表紙
 経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表。その結びに「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。・・・もはや戦後ではない」と記述さ経済白書1956年版42頁れた。「もはや戦後ではない」が流行語になった。

 前年の1人当たりの実質国民所得が戦前の最高水準を13%も上回るまでに日本経済は回復していた。
 註記)http://showa.mainichi.jp/news/1956/07/post-3255.html
 出所)左側画像は『経済白書』42頁。
 
 『経済白書』1956年の標語:「もはや『戦後』ではない」は,「復興による好景気は終わった。今後,日本はどう経済を成長させればいいのやら」という,未来を不安視する文言だった。「もはや『戦後』ではない」が,楽観的な言葉として捉えられた背景には,その後,1964(昭和39)年の東京オリンピックのころまで,日本の経済成長が目覚ましかったため,白書に書かれている内容が杞憂と化したことなどが原因としてある。
 註記)http://sci-tech.jugem.jp/?eid=440

 つぎのスクラップ記事は,『日本経済新聞』2013年3月10日朝刊「日曜に考える」の関連した解説である。(画面 クリックで 拡大・可)
  日本経済新聞2013年3月10日朝刊1
  日本経済新聞2013年3月10日朝刊経済白書2
 坂本はこうも語っていた。「未来への期待と不安とがただなかにいる新入社員,近づく就職試験に悩む人びと,大会社のサラリーマン,管理担当者,中小企業を経営する人びと,そして生産性向上運動と対決する労組のサークルの人びとに本書をささげたい。経営学の知識があなたがたの現在の生活に役立ち,その未来をより希望に満ちたものに変えてゆくのに役だつならば,これ以上の喜びはない(〔まえがき〕3頁)。

 ③ 坂本藤良『経営学入門』1958年の意図

 坂本は『経営学入門』昭和33〔1958〕年の狙いは,こう定めていた。当時まで「戦後の新しい経営技術をふくめた全般的な『経営学入門』は,まだ世界にもほとんど例がない」し,「日本には,むろん1冊もない」状態であった。そこで「今日の経営技術があまりにも豊富な内容を持ち,精密化しているので,わかりやすく体系化すること」(〔まえがき〕4頁)に努めたというのであった。

 坂本が経営学を論ずる姿勢は,やや複雑に屈折している。昭和30〔1950〕年から日米が協力し,右翼労組も巻きこんで開始した「生産性向上運動」に対する〈批判的な視点〉は,大学院生のときに彼が東大内で労組運動にとりくんだ残滓を匂わせている。とはいえ,「経営技術」の問題体系を論ずる立場において「経営者の管理的な視点」を俯瞰させようとする志向も打ちだされている。

 ただし,坂本がつぎのように指摘したのは,間違いである。野田信夫(大正末期から活躍していた実業人⇒経営学者)の意見として紹介していたものである。
    東京工大をのぞく国立大学工学部の教化内容には,工場の管理技術にかんする講座すらほとんどない。まして会社全体にかんする経営管理の問題については,ほとんど無知のまま送りだされている(坂本『経営学入門』184頁)。
坂本藤良経営学史表紙 この指摘〔野田信夫⇒坂本藤良〕は,日本の大学における工学部史の展開内容を,より正確に認識したうえで説明したものではない。

 たしかに「工場管理」や「経営管理」の講座が,戦前・戦中における工学部カリキュラムのなかには十分・豊富に設置されていたとはいえない。かといって,大正時代中期から工場管理関係の講義科目が少なかったとはいえ,一定の比率を占めて実際に存在していた事実は,無視できないのである。

 野田信夫自身は,大正年間末期から工場管理(科学的管理)問題に,まず実業人側の研究者として深くたずさわってきた人物であったものの,明治後期から大正期において工場管理の「理論と実際(実践)」,どのように具体的・現実的に展開されてきたかについて,実証的に踏まえた理論把握をなしえていなかった。
   野田信夫写真 野田信夫銅像
   出所)左側画像は,成蹊大学野田先生還暦記念の会編『経営と労務』同文館,昭和30年,口絵。
   出所)右側銅像は野田信夫,http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/25_no/noda_nobuo.html  野田信夫の子息が野田一夫。


 この点について坂本は軽率な指摘を継承していた。坂本藤良『経営学史』(ダイヤモンド社,昭和34年)は「日本における経営学の独自な成果」についてもとりあげ,議論した貴重な著作である。だが,時代の制約があったとはいえ,前段で引用した日本経営学史に対する理解にかぎっては,関連する先学の理解をそのまま鵜呑みにする判断を下していた。
 

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