【昭和無責任男=「天皇裕仁の遺産」としての沖縄問題】

 【沖縄は捨て石であり要石である(鹿野政直)】


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 〔※ 断わり〕 本記述は旧ブログ「2010.5.24」からの転載・再出であるが,適宜,補正・加筆している。

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 ① 今朝〔2010年5月24日〕の報道

 『日経主要ニュースメール 5/23 夜版』が当方あてに,昨〔2010年5月23日〕夜午後10時台に配信されていた。この内容:主文を紹介する。
☆ 首相,「辺野古」に普天間移設 社民,沖縄強く反発 ☆

 鳩山由紀夫首相は23日,沖縄県を再訪問し,米軍普天間基地移設問題を巡って仲井真弘多知事,稲嶺進名護市長らと会談した。首相は名護市の辺野古付近に移設する方針を初めて地元に伝え,県外移設の公約を守れなかったことを陳謝,ヘリ部隊の訓練の一部を県外に移す考えも示した。知事は「大変遺憾だ。極めて厳しい」と強調,社民党も強く反発しており,混乱は続きそうだ。
 本日〔2010年5月24日〕に配達された朝刊は「首相『辺野古付近』『ヘリ部隊切り離し断念』沖縄知事に」という見出しで,つぎのように報道している。
    鳩山由紀夫首相は23日,仲井真弘多(なかいま・ひろかず)・沖縄県知事と県庁で会談し,米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題について,名護市辺野古周辺の海域に代替滑走路を建設する考えを初めて表明した。さらに「『できる限り県外』という言葉を守れなかったことを,心からおわび申し上げたい」と陳謝した。

 仲井真知事は「大変遺憾で,極めて厳しい」と述べ,辺野古への移設は困難という考えを示した。社民党も強く反発。地元,連立与党,米国が合意できる移設先を5月末に決めるという首相の約束は守れないことが明確になり,首相の政治責任が厳しく問われる事態となった。

 日米両政府は「辺野古周辺」を移設先として明記する両国の外務・防衛担当相(2プラス2)による共同声明を月内に発表する方針だ。その場合,社民党が連立政権からの離脱に踏み切るかどうかが政権運営の焦点となる。
2010年5月23日鳩山首相沖縄で
 移設先とされた名護市の稲嶺進市長も,23日の首相との会談で「県民や名護市民への裏切りだ。到底受け入れられず,断固反対だ」と述べた。
 出所)右側画像は名護市の稲嶺市長らとの会談であいさつする鳩山首相,http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2300P_T20C10A5000000/?dg=1

 仲井真知事との会談で,首相は「辺野古付近にお願いせざるを得ない。断腸の思いで下した結論だ」と述べた。その上で「ヘリコプター部隊を切り離して移設すると,海兵隊の機能を大きく損なう」として,ヘリ部隊の一部を県外に出すことも断念し,普天間全体を辺野古に移す方針をはっきりさせた。

 工法や詳細な建設場所の調整はこれからだが,自民党政権時代に米国と合意した現行案にほぼ戻ることになる。地元の反発で工事に着手できず,市街地の真ん中にある普天間飛行場を使い続けなければならなくなる可能性も高い。

 首相は辺野古周辺への移設を決めた理由として「昨今の朝鮮半島情勢から分かるように,東アジアの安全保障環境に不確実性がかなり残っている」と指摘。「海兵隊を含む在日米軍全体の抑止力を現時点で低下させてはならない」と述べた。韓国の哨戒艦が北朝鮮の魚雷で爆破された事件を念頭に置いた発言だ。

 首相は,沖縄の負担を軽減するために,米軍の訓練の県外移転を進める考えも強調した。しかし,移転先については「27日の全国知事会で協力をお願いしたい」と述べるにとどめ,鹿児島県・徳之島などの具体的な地名は示さなかった。同意を得られるメドが立たないためと見られる。
 注記)http://www.asahi.com/politics /update/0523/TKY201005230078.html  2010年5月23日22時35分配信。
 ② こんな日本に誰がした-天下一品の無責任男:戦争責任・戦後責任から逃亡した昭和天皇-

 つぎに,元早稲田大学教授鹿野政直の一文「沖縄の呻吟 本土が呼応を」〔『朝日新聞』2010年5月24日朝刊〕のなかには,つぎのような記述がある。
    現在の「そういう地位は,沖縄がまだ真の戦後を作り出しえていないという悲憤を醸成した。沖縄戦に当たって日本政府は沖縄を『捨て石』とした。占領した米軍は『要石』と位置づけた。いま日本政府が,その地にあらたな基地を作り提供するとなれば,それは沖縄を『捨て石+要石』の位置に置くことにほかならない」。
 かといって,沖縄県の米軍基地が自分たちの住む近所に移転してくることに対して,日本全国の各都道府県のどこもが「猛烈に大反対」している。日本国民はみな,沖縄県に米軍基地を押しつけた現状を,積極的にかえようとする気持をもっていない。

 沖縄県民が苦悩しつつかかえている米軍基地の,とくに事故発生・騒音問題・米軍兵士の犯罪問題などは,沖縄県以外にも日本全国に散在する米基地周辺の住民であれば共有・知悉している。その関連でいうと「自分たちの住む地域」にかぎっては絶対に「米軍基地」を受けいれないという姿勢は,いわば「住民エゴ」の発揮に類した対応でしかない。これでは,沖縄県がかかえる米軍基地の深刻な状況を,日本国全体の問題として解決する方向は打開できない。

 本ブログ(これはここでは「旧ブログ」のことになるが)で筆者は,なぜ沖縄県にばかり米軍基地が集中的に立地・配置されているのかについては,豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』(岩波書店,1996年)などを参考文献にして説明してきた。以下の日付と内容で議論してきた(なお,本ブログ〔新ブログ〕にまだ復活させていない記述は,後日再録するつもりである)
  ◇-1「2010.5.5」,主題「昭和天皇,戦後『内奏』政治」,副題1「はりぼてになりたくなかった天皇裕仁」,副題2「日本『帝国幻想』にこだわったヒロヒト天皇の生きざま」

    ◇-2「2010.1.27」,主題「日本国憲法に天皇制が残された事情」,副題1「闇取引的な裏交渉がマック(アメリカ)と裕仁(個人)とのあいだでなされていた歴史の事実を論じる」,副題2「自己保身に長けた昭和天皇の記録:かつての臣民・赤子を踏みつけにし,自分ばかりがうまく生き延びてきたつもりの男の,バレてしまった悪あがき的な画策」

  ◇-3「2009.12.25」,主題「書評:猪瀬直樹『ジミーの誕生日』2009 年11月」,副題1「羊頭狗肉的な書名で本を売る」,副題2「タマネギにも多少の芯はあった書物として読む」。
 
  ◇-4「2008.9.14」,主題「昭和天皇とマッカーサー」,副題1「昭和天皇像の真実」,副題2「豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波文庫,2008年7月」
 
  ◇-5「2008.3.16」,主題「戦争は自然現象も否定する」,副題1「国力なき戦争指導」,副題2「夜郎自大の帝国陸海軍-自然現象にも敗けた国-」 
 豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』1996年,進藤栄一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』(岩波書店 (2002年11月),豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書,2008年7月),同『『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』(岩波書店,2015年7月)などは,沖縄戦で守備隊が全滅する前日の昭和20年6月22日までにおいて,「天皇やその側近グループにあっては,沖縄は 一貫して本土防衛あるいは『国体護持』のための “手段” であり, “捨て石” と見なされてきた」と,論断した(ここでは,豊下『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』225頁)。

 現在(この記述がなされている2010年5月の時点で),2009年9月に新しく政権に就いた民主党が「沖縄県の米軍基地」問題で,四苦八苦の状況に追いこまれている。これは,敗戦後から今日までの「歴史的な経緯に鑑みれば必然的ななりゆき」ともいっていい。その意味でいえば,沖縄県は敗戦後において「天皇一家がうまく延命するための手段」に利用されたのであった。すなわち,沖縄県は「アメリカに投げ与えられた犠牲」であり,つまり捨て石であった。
琉球新報2012年3月16日捨て石記事
 『地元紙で識るオキナワ』(2012年03月16日)というブログは,「『捨て石』も削除されたら沖縄戦が見えなくなる」「あれだけの数の沖縄の民間人がどうして死ななければならなかったのか?」という見出しをかかげて論じるさい,当該の『琉球新報』記事を画像で出していた。右側画像であるが,これを借りて,ここにもかかげておく。

 アメリカにとって Okinawa が「世界軍事戦略上において《要石》としての役割」を果たしているかぎり,そんな簡単には手放せる土地ではない。天皇裕仁は敗戦直後,アメリカ帝国の意をよく汲んだ賢い旧日本帝国の「名君=敗軍の将」であった。その代償として昭和天皇に付与された日本国における地位が「象徴天皇」であった。

 ③ 大日本帝国の大元帥から,民主主義の頭上に居すわる人間「象徴天皇」への,みえすいた大変身

 1) 天皇ヨイショ用の「宮内庁御用達の記者たち」
 つぎにかかげる画像をみてほしい。これはあるとき,本ブログ筆者が古本を購入したところ,この「昭和天皇」関係の書物のなかにはさみこんであった新聞記事のスクラップである。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
毎日新聞昭和22年5月3日推定記事
 この記事の日付は,1947年5月3日(『毎日新聞』)と思われる。現在,ネット上で確認できる当日『毎日新聞』(http://showa.mainichi.jp/news/1947/05/post-303c.html)の実際の紙面とは相違があるが,こちらの記事のなかには「本社記者記」とあるので,そう判断しておく。

 実は,この写真そのものは「1946年11月3日に交付された日本国憲法」「公布文の上諭に毛筆で署名する昭和天皇」として,『毎日新聞』に掲載されたものである。したがって,1947年5月3日ではなく,1946年11月3日(日本国憲法公布の日付)の時点ですでに準備され使用されていたと思われ,1947年5月3日(施行の日付)のこの記事にも使用されることになった写真だと推測しておく。

 前掲画像での記事の見出しは「素朴さむき出し 気どらぬ天皇陛下-新憲法に署名される天皇陛下- 藤樫本社記者記」などとある。「陛下と偶然出会い・・・」というくだりは,演出されたウソの場面=創られた舞台であった。ここではくわしい事情説明はしないが,その事実はのちに藤樫準二(毎日新聞社記者)たちが告白していた。

 日本国憲法はその年の5月3日に施行され,前年の11月3日に公布されていた。ここに登場した毎日新聞の記者藤樫準二は,かつては生き神様であった天皇裕仁を「ふつうの人間天皇」に粉飾し書きかえるために,新聞記者の1人として滅私奉公的に懸命の努力をおこなってきた人物である。のちに,藤樫が「天皇から勲章を授賞された」ゆえんである。

 敗戦後における政治過程において,藤樫準二(毎日新聞),小野 昇(読売新聞),田中 徳(共同通信社)ら,主要紙などの宮内庁御用達の新聞記者たちが懸命になって昭和天皇擁護=生き残り戦略のために「懸命な言論・弘報係を務めた」ことは,本ブログ(→旧ブログ)でも論及していた 註記)
 註記)旧ブログの「2010.4.10」の記述,主題「日本文明の光と陰」,副題1「日本天皇制のシャーマニズム性とアニミズム性」,副題2「天皇中心に創った近代国家:明治維新政府と昭和戦後日本政府」,を参照されたい(新ブログではこの記述はまだ復活させていないが,後日再録する予定)

 敗戦後に創られた日本国「象徴天皇制」に関する学術的な解明に関しては,以下の文献〔ここでは最近作3著〕がある。このなかから,本ブログがまだとりあげていなかった,☆-3の河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』(講談社,2010年)から引用する。あれこれ引用・紹介したい箇所がたくさんあるけれども,禁欲して3カ所のみにしておく。
 
  ☆-1 五十嵐暁郎編『象徴天皇の現在-政治・文化・宗教の視点から-』世織書房,2008年6月。
  ☆-2 冨永 望『象徴天皇制の形成と定着』思文閣出版,2010 年1月。
  ☆-3 河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』講談社,2010年2月。

 話は,現在の平成天皇が皇太子明仁であった時代,つまり敗戦直後において「皇室が追いつめられ,切迫していた事情」を絡めたものである。この点に留意して読んでほしい。
    戦争の記憶が残存する昭和天皇では「新生日本」にふさわしくない。そのまま在位しつづければ,民衆に対する責任を果たしていないと捉えられるおそれもある。マスコミは皇太子を「新生日本」」のホープとして大々的に取り上げた。そしてそれが前提となって退位論が浮上する。

 講和条約期の退位論の多くが明仁皇太子の登場と期待を前提にして主張されており,象徴天皇制・天皇条の展開過程において,皇太子に期待を込めて積極的に報道したマスコミの影響は大きかった(河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』講談社,2010年,146頁)。

 皇太子に留まらず,天皇は元々民主主義の信奉者であったというイメージまでもが展開されるようになった。天皇を「民主」的な存在として捉え,社会状況や天皇周辺の人々が天皇の「民主」的な態度を阻んだから戦争に突入してしまったという考え。それはまさに敗戦直後より継続する天皇擁護の論理と通底する(162頁)。

 外遊では皇太子を媒介として,我が子を心配するやさしい父親として天皇像が形成されていったことは注目される。民主主義者・理想の父親としての新たな象徴天皇像が,この皇太子外遊を通すことで創り出された。「文化平和国家」としての国際復帰のためには,日本は戦争イメージからの脱却が不可欠であった。だからこそ象徴となった天皇の大元帥像も戦前とは転換させられる必要があった(163頁)。

 以上の説明に関しては,こういう付記も添えておく価値がありそうである。

 敗戦後,天皇制を維持するために宮内当局は積極的に皇室記者を活用する。皇室記者の側でも天皇制の「民主的」な側面を積極的に描き「象徴」へと変化した天皇制のイメージ形成に貢献することになる。

 宮内官僚とマスメディアの共同作業は,戦後巡幸,女性皇族のイメージ形成,美智子妃ブームなどでも同様にみられた。しかしながら,宮内庁はしだいに皇族の露出過多には過敏になっていき,開かれた皇室を求めるマスメディアの意図と対立する場面も生じるようになった。
  註記)https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24520772/
 2) 親分となったアメリカの,いまも依然いいなりの「日本国」
 はたして,敗戦後は「民主主義と自由」のもと,平和の国家に移行したはずの日本は,裕仁天皇にまとわりついていた〈その戦争イメージ〉を完全に脱却させえていたのか? そうではなかった。この国家の頭上全体におおいかぶさるかのように軍事占領している,そしていまもなお,そのように日本に対して「プレゼンス=居すわっている軍事国家」が,すなわちアメリカ合衆国である。

 本ブログの筆者がいつも述べているように,敗戦を機に日本国の象徴天皇に変身したつもりの裕仁は,憲法第9条=交換条件によってアメリカの人質のような存在になっていた。日本全国に配置されている各米軍基地は,治外法権というよりはあたかも,アメリカ合衆国の一地域である様相を呈して占有されている。なかでも沖縄県にある米軍基地は,日本の戦後がいまだに終わっていない状態を「象徴的に表現」している。

 豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』1996年は,昭和天皇のいわゆる「沖縄に関するメッセージ」を論究しているが,その元の文書をあらためて紹介する。

   a)  1947年9月22日付シーボルト連合国最高司令官政治顧問からマーシャル国務長官宛て書簡:「琉球諸島の将来に関する天皇の見解」(Emperor of Japan’s Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands.)。

 b) 1947年9月20日付シーボルト作成「マッカーサー元帥のための覚書」(Memorandum for: General MacArthur)。

 これらの文書は,米国による沖縄の軍事占領に関する天皇の見解(天皇メッセージ)をまとめたもので,いずれも宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルトに伝えられた内容の記録であり,内容は概ね以下の通りである。

  (1)   米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。

  (2)    (1) の占領は,日本の主権を残したままでの長期租借によるべき。

  (3)    (1) の手続きは,米国と日本の二国間条約によるべき。

 この文書によると天皇は,米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしている。1979年にこの文書が発見されると,象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めた。 

 こうした天皇メッセージをめぐっては,日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする説や,長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという説などがあり,その意図や政治的・外交的影響についてなお論争がある。
 注記)http://www.archives.pref.okinawa.jp/guide/newarrivals/2007 /2007U012.html

 ④ 日本国の沖縄県をアメリカに売り渡していた天皇裕仁

 昭和天皇の「意図や政治的・外交的影響についてなお論争がある」にせよ,この人間は自分の個人的な利害を絶対的な基準にして,日本国沖縄県をアメリカに人身御供のように「売り渡した」のである。この政治的行為が〈象徴天皇〉の地位,つまり日本国憲法第1条から第8条に規定された彼の地位に反するどころか,完全に逸脱した不法〔無法〕行為であった事実は,否定しようもない歴史の一コマであった。

 1945年8月を境に昭和天皇が民主主義を突如「理解できる」ようになったという事実はない。このような議論の次元とはことごとく〈別の世界観〉において宮廷の生活をしていたのが,昭和の時代における〈彼=天皇裕仁の生きざま〉であった。一言でいってのければ,実は「彼も,ただの利己主義者」であったに過ぎない。ちまたに,いくらでもいる,われわれと寸分も違わない,等身大の「彼を理解」しておく余地がある。

 --本日〔ここでは2010年5月24日〕の『日本経済新聞』「社説」は「日米同盟の役割に国民的な理解求めよ」と題して,こう主張している。けれども,それでは,これ以上になにか具体策を建議できているかといえば,なにもない。鳩山主張を責めているだけである。それもアメリカをただ代弁している論旨である。
    鳩山政権は沖縄にいる米海兵隊が日本やアジアの安全保障にどのような役割を果たしているのか,ていねいに説き,ねばり強く,沖縄の理解を求めていくしかない。朝鮮半島では韓国哨戒艦の沈没事件で緊張が高まっている。東シナ海などでは中国軍の行動も活発になっている。これらの火種を考えると,距離的に近い沖縄から米海兵隊を撤収させるのは難しいのが現実だ。

 首相はようやく抑止力の必要性に気づいたようだが,こうした実情をきちんと説明しなければならない。政府と沖縄県の協議の枠組みを整えて,対話を深めることも検討してほしい。だが,こうした努力は沖縄の理解を得るための最初の一歩にすぎない。より重要なことは,沖縄県民以外の国民も在日米軍が日本の安保に欠かせないという認識を共有し,沖縄の負担を極力,分かち合っていく姿勢を持つことだ。

 米側も普天間基地での一部の訓練などについては,県外移転の検討に応じる構えをみせている。このほかにも,沖縄の米軍基地の機能のうち,県外に移せるものがないかを米側と精査し,あるとすれば,他県が積極的に受け入れに動くべきだ。
 いまもなお,米軍基地の存在に「呻吟」させられつづけている「沖縄」に対して,「本土が」そして「日本国民」が,これまでどのように「呼応」してきたのか? どこまでも他人事〔=他県事〕ではなかったか?

 「言うは易し行うは難し」である。沖縄県の米軍基地を代替して「積極的に受けいれる」「他県」などない。財界新聞(『日本経済新聞』の代名詞的な別名)がそのように強説したところで,変化が生まれるという兆候が期待できるのか?

 いま沖縄県の基地問題に関して「一番の責任をもって」語るべき責任者は,裕仁天皇の子息=明仁天皇である。しかし,平成のこの天皇は,父のように日本国憲法を破ることはしないと数度「国民に対して誓っている」。平成天皇は,現状の枠組のなかで,もっぱら皇室一族の地位・立場じたいを高揚させるべく日夜努力している「人間」である。ここに父子間においてみいだせる顕著な相違点がある。

 --いま,この記述は2017年1月17日におこなっているが,本日の『朝日新聞』朝刊1面の冒頭記事は,つぎのように報じている。平成天皇もここまできたが,沖縄県の米軍基地の位置づけは以前「不動・不滅である」かのような風景でありつづけている。
◇ 退位,衆参議長が与野党調整 会派の意見,個別聴取へ ◇

 衆参両院の正副議長は〔2017年1月〕16日,国会内で会談し,天皇陛下の退位に関する法整備のあり方を両院合同で検討することで合意した。退位について立法府が本格的な議論に着手したかたちで,20日から始まる通常国会中に各会派の代表者から個別に考え方を聞き取り,意見を集約。退位を実現する法整備をめざす。
 結局,天皇明仁が強く意識していたはずのオキナワ米軍基地問題は,いまもなお,その本質において担わされている機能,つまりアメリカのための軍用施設である基本性格の「なにひとつ」をも変えることができていない。最後にこういう話題に言及しておく。

 中国の香港がイギリスに割譲されたのは,アヘン戦争後に締結された南京条約(1842年)によってであった。南京条約第3条は「清国皇帝陛下は英国女王陛下に香港を割譲し,英国女王陛下およびその後継者は永久にこれを占有し,英国女王陛下の適当と認める法律・規則をもってこれを統治する」。だが,1997年7月1日にイギリスが香港の主権を中国に返還し,香港は中国の特別行政区となった」。その間,155年の年月が流れてきた。
エリザベス女王の戴冠式1953年4月
註記)1953年4月イギリスのエリザベス女王戴冠式に
出席した皇太子時代の明仁。当時,学習院の大学生であった。

 だが,オキナワにある米軍基地ははたして,あと何十年経ったらなくなると予測できるのか? 日米安保条約は1年ごとに改約されうる軍事同盟関係であるけれども,実際におけるその核心部分に関する運用状態は,南京条約に勝るとも劣らない〈植民地支配法制〉として,頑強に継続されつつある。

 日本国の対米従属外交は,安保下の日米地位協定と日米合同委員会によって完全に統御され,牛耳られている。米政府は実質的に日本総督府を有している。日本国の外務省はアメリカのいいなりになる官庁のひとつであるが,このありようが自虐的な振るまいをもたらしている,という自覚が全然ない。自衛隊はいまや,アメリカ軍の下請け部隊である性格を本格的に表現しつつあるが,こちらは奉仕する相手を完全に間違えている軍隊組織である。

 安倍晋三君の「戦後レジームからの脱却」が,より具体的に「意味させられている実態」がある。それは,以上のごとき日米政治関係のなかでは,その脱却の成就がとうてい不可能事であることである。社会科学の用語として《奴隷の言葉》というものがある。

 安倍晋三君の「戦後レジームからの脱却」ウンヌンは,特定国の「奴隷である自分の立場・状況」を皆目意識できていない立場からする発言であった。それは,刑務所のなかに囚われている囚人が「オレはいま娑婆にいる,完全に自由の身なのだ」と錯覚して観念できる気分に似ている。


 【原発によるエネルギー調達政策が完全に失敗であった事実,国策民営エネルギー事業の責任を誰もとらない「スーダラ節電気産業」のデタラメ三昧】

 【廃炉問題で四の五のいいぬけている原子力村体制は,廃炉事業では「自分たちがだけ放射能を浴びない」で,焼け太り】

 【原発のコスト安価も技術安全もエネルギー確保安心もすべてウソであった出発点を,あらためて確認させたような,「日本の原発」の後始末のための「廃炉工程は永遠です!」の空虚な結論】

 【産業技術に関するムダ・ムリ・ムラを典型的に体現してきた原発産業のお粗末な顛末】



 ①「高速炉『急ぐ必要なし』原子力委,経済性を疑問視」(『朝日新聞』2017年1月14日朝刊)

 この記事は見出しの文句だけみても,完全に「ずっこける」ものであった。

 もんじゅという高速増殖炉は,1967年10月に動力炉・核燃料開発事業団(動燃」が設立されて以来,1992年12月に性能試験開始,1994年4月に臨界達成,1995年8月に発電開始したが,同年12月にナトリウム漏洩事故を発生させてから,いまだに商用化の段階に至るどころか,それ以前の実験・開発段階でもたもたするばかりでなく,結局「その計画をとりやめる」しだいになっていた。

 その間すでに半世紀もの歳月が経過した。ところが,この報道は見出しのなかに,もんじゅに替わる「高速炉『急ぐ必要なし』」という文字があるのだから,これを読んだ者がびっくりしないわけがない。ともかく,この ① の記事を紹介する。

 政府が高速増殖原型炉「もんじゅ」を廃炉にし,新たな高速実証炉の開発を決めたことに対し,〔2017年1月〕13日の内閣府原子力委員会で,委員から「現状では経済性がない」「急いで開発する必要はない」などの意見が相次いだ。

 政府は今〔2017〕年,開発の工程表づくりを始める方針だが,政府内の組織が注文を突きつけた。原子力委員会は,国の原子力政策について独自の見解を出す役割をもつ。この日の会合で,政府の方針に対し,「ビジネスとしての成立条件を検討して目標を設定する必要がある」などとする見解をまとめた。
核燃料サイクル事業画像『東京新聞』
出所)https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/genpatsu/kochira/27/

 これまでの高速炉開発では「研究の視点が強調され,実用化が考慮されてこなかった」と指摘。実用化に向けて費用を下げる必要があるのに「現状では建設費も高いとされる。東京電力福島第1原発事故や電力自由化といった競争環境の変化も踏まえるべきだ」と釘を刺した。

 プルトニウム消費については,ウランと混ぜたMOX燃料にしてふつうの原発で燃やすプルサーマル発電が,現在では唯一,現実的な手段だとしている。岡 芳明委員長は「(原発の燃料となる)ウラン資源は枯渇せず,現状で高速炉に経済的な競争力はない」と指摘。阿部信泰委員は,いまも高速炉を開発しているのは中国やロシアくらいだとし,「市場経済の国では難しい。米英独も諦めた」と語った。

 また,政府が,高レベル放射性廃棄物の量や放射能を減らす意義をかかげていることについても,阿部委員は「何度も再処理することになり,経済性がないのは素人でもわかる」と疑問視した。原子力委員会は原子力工学者らで構成される。かつては原子力政策の基本方針を決める司令塔だったが,福島事故後の法改正で2014年に位置づけが変わり,現在は経済産業省のエネルギー基本計画で基本方針が定められている。

 --この記事の内容は実に陳腐である。はたしてニュースになる価値があるのか,このような内容として報道する必要がある中身なのか強い疑問を抱くほかない。報じられているもんじゅ関連の情報は,既知も既知のものばかりである。なにゆえ,このような記事が新聞に掲載されるのか不思議と感じるほどに奇妙である。「いまも高速炉を開発しているのは中国やロシアくらいだ」が,完全に商用化できている段階にはない。

 ただ,高速増殖炉は読んで字のごとく当初は,核燃料が拡大再生産できるすばらしい原子炉だという触れこみであったのだが,実際の開発・利用は,いったいいつになったら本格的に可能になるのか全然判っていない。だから「市場経済の国では難しい。米英独も諦めた」のである。ロシアでは「高速」増殖炉が運転され近隣に電力を供給しているが,市場の論理=経済的な採算性に則して稼働させているわけではない。

 ともかく,この ① の記事は半世紀をかけてもダメな結果のままである日本の高速増殖炉の開発・利用問題について,それでも「高速炉『急ぐ必要なし』」と,なにやら「肯定的に否定している」だけであった。しかも,もっと時間をかけて悠長にじっくりいきましょうなどといったふうにも聞こえるような,原子力規制委員会側の基本姿勢が報道されている。それもこれも「原子力村の一隅における」「のどかな田園風景ならぬお花畑」状態であるというほかない。

 もっとも高速増殖炉もんじゅの場合は,商用化にまでは至らない段階で半世紀もの長期間,低速どころか,ただ足踏みしてきた「夢のそのまた夢みたいな原発」であった。ところが,「3・11」のときに原発事故を発生させ,それも人類史の記録に特筆大書されるほかない核惨事となった東電福島第1原発事故の場合は,4基のうち稼働中だった原発3基がすべて,溶融に至る事故を起こしていた。それだけでなく,事故発生以来5年と9ヵ月が経っているにもかかわらず,デブリ(溶融した核燃料)の後始末は全然できておらず,その事後処理の見通しについても全然ついていない。

 そのうえで,東電福島第1原発事故現場の後始末に関する先行き,つまり廃炉を完全に終了させるためにかかる「年月の見通し」もさっぱり把握できないでいる。環境経済学者宮本憲一は,こう断言している。
★ 原発事故は公害 ★
=「〈戦後の原点 民主主義のちから〉公害対策
 市民が動いた,環境経済学者 宮本憲一さん」
『朝日新聞』2016年12月4日朝刊 =

 公害との闘いは未完である。2011年3月に東京電力福島第1原発の事故が発生した。「環境汚染のせいで多くの住民が強制疎開させられ,ふるさとを失った。明治期の足尾銅山鉱宮本憲一画像2毒事件以来のことで」あった。

宮本憲一によれば,「公害とは,企業や政府が環境保全への十分な用意をしなかった結果,生活環境が侵害され,健康障害や生活困難が起きる社会的災害である。福島の事故は公害以外のなにものでもない。「福島の事故を戦後最大の公害ととらえ,環境民主主義を前進させること。それは現代の私たちの課題なので」ある。
 出所)画像は宮本憲一,http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39036
 最新の論稿が指摘するように,原発の基本的にかかえる技術的な困難性は,こう表現できる。「原発はその安全性を実験で確証することができない技術である」。つまり「科学や技術には不可知の領域があり,技術的対策では巨大事故を完全に防ぐことなどできない」。ところが,「福島原発事故において,規制当局や専門家たちが利益共同体の一員として振るまい,安全性をないがしろにしてきた」のである。
 註記)井野博満「脱原発の技術思想」『世界』2017年2月,191頁下段,197頁下段,同頁上段。

 そうであるかぎり,本ブログ筆者が常用してきた決まり文句でいえば「原子力は《悪魔の火》だ」というほかない。人間が原子力の利用に関して,悪魔との技術競争に対等に渡りあえてはおらず,ましたや勝利したことなど一度もない。結局,敗北の連続であった。しかも,その後始末においてもいつも,「技術の敗北」が確実に予見されているような昨今の事情もある。

 ②「核心予定調和の福島廃炉計画 6年間の現実,直視を」(『日本経済新聞』2017年1月16日朝刊7面,編集委員 滝 順一 )
 『日本経済新聞』2017年1月16日朝刊原発廃炉記事
 東京電力福島第1原子力発電所の事故から6年を前に事故対応のあり方が重要な転機を迎えている。経済産業省は昨〔2016〕年12月,廃炉や賠償などに必要な費用を大きく見直した。これまで11兆円と見積もられてきたが,ほぼ2倍の21兆5千億円になるという。

 福島第1の廃炉費用は2兆円から8兆円に膨れあがった。福島第1の現場はいまも汚染水の処理にてこずり,本格的な廃炉作業はまだだ。にもかかわらず6兆円ものコストアップである。その根拠は大ざっぱ。あたかも明細なき請求書だ。
 補注)ここでは「あたかも明細なき請求書だ」と形容されているけれども,その実質においては「あたかも金額欄の数字記入がない白紙の請求書だ」とまで極論しても違和感がない程度にまで,東電福島第1原発事故現場における〈被害の惨状〉が明らかになりつつある。その具体的な請求額がこれからもさらに,膨らみつづけていくことだけは請けあえる。逆にそれが減額される希望などは,それこそ「完全に想定外だ」と断言できる。

 1979年3月の米スリーマイル島原発の事故で溶融燃料(デブリ)を取り出し処分場まで運ぶのに約10億ドル(約1千億円)かかった。福島のデブリはスリーマイルの約6倍。デブリが圧力容器から落ちて飛び散っているため取り出しはより難しい。費用は最大で25~30倍程度になるとみて,さらに物価上昇を勘案し50~60倍の約6兆円をみこんだと,経産省の資料にある。

 注意が要るのは,これがデブリ除去までの費用の最大値とされている点だ。スリーマイルでも約1%の燃料の取り残しがあり,2030年以降の原子炉解体では被曝を避ける慎重な作業が必要になる。福島第1ではデブリが1カ所に固まっていないので,きれいに取り切るのは容易ではない。通常の原子炉よりはるかに大きな費用が解体にかかるとみるのが自然だ。「作業の進め方の工夫で費用は節減できる」と廃炉事情に詳しい関係者は話すが,はたしてどうか。
 補注)この記事の内容にかぎらず,東電福島第1原発事故現場に関する理解では,デブリが格納容器内にまだ収まっているという〈仮定〉での議論になっている。格納容器じたいからさらに溶融が進み,建屋の床面や地下にまでデブリが落下・浸入していないとは,誰も保障できていない。つぎのような記事があるが,これを否定できる専門家はいるか? 少し長いが重要な論及なので全文を紹介する。
◆ “フクイチ” で新たな恐怖!
 海外の研究者や政府関係者が不安視,
苛立つ最悪の「地底臨界」危機進行中? ◆

  =『週プレNews』 2015年4月28日 06時10分 (2015年5月24日 12時02分 更新)=

 〔2015年〕4月3日から福島第1原発2号機の格納容器の温度が約20℃から70℃へ急上昇し,2日後には88℃に達した。それと連動するように,原発周辺の「放射線モニタリングポスト」が軒並み高い線量を記録。復旧したての常磐自動車道・南相馬鹿島SA(サービスエリア)で通常の1000倍にあたる毎時55μSv(マイクロシーベルト)を最大に市街地各所で数十倍の上昇が見られた。(前編記事→http://wpb.shueisha.co.jp/2015/04/27/46919/)

 これはいったい,なにを意味するのか? 考えられるのは,原発内の核燃デブリ(ゴミ)が従来の注水冷却工程に対して異なった反応を示す状態に変化した可能性。たとえば,デブリが格納容器下のコンクリートを突き抜けて地盤まで到達(メルトアウト)し,地下水と接触するなどだ。
メルトアウトの想像図画像
 福島第1原発1~3号機では,巨大地震直後に圧力容器内の核燃料がメルトダウンし格納容器の下部へ溜まった。それは昨〔2014〕年4月から7月にかけて名古屋大学が2号機で実施した,宇宙線から生じる物質貫通力が強い「ミュー粒子」を利用した透視撮影で明らかになった。さらに,同じく1号機格納容器内の底から約2m上の作業スペースでおこなったロボット調査でも,数千℃の超高温デブリが圧力容器を溶かして落下した痕跡が撮影された。だが,デブリの正確な位置は特定されていないし,ミュー粒子画像に映った格納容器の底は平坦にみえた。

 となると,100t超といわれる大量のデブリ塊はどこへいったのか? 半球状の格納容器底部の内側は厚さ約3mのコンクリートを敷いて平らになっているが,そのうち深さ70㎝ほどが事故の初期段階で高熱デブリによって溶解した可能性があると,東電はこれまで発表してきた。この推測について,元・東芝の研究員で原子炉格納容器の強度設計を手がけた後藤政志氏(工学博士)に意見を聞くと,「今回のミュー粒子による撮影でわかったのは,格納容器が間違いなく壊されたことで,これは2,3号機にも当てはまると思います」〔と答えている〕。

 しかし,ほぼ地面と同じ高さに感光板を置いた撮影なので,核燃料が実際いまどこにあるのかの判断材料にはなりません。東電のいう70㎝という数字の根拠はよくわからない。コンクリートや建材の金属と核燃料が混ざり合った状態のデブリは,もっと下まで潜りこんでいるとも考えられます。ただし,ほかの物質が混じって時間が経っているのでデブリの放熱量は減り,容器の底の鋼板(厚さ20㎝厚)までは達していないはずです。仮に鋼板が溶けても,下には5,6mのコンクリート層があるため,その内部で冷却バランスを保って止まっていると思います」〔というのである〕。

 もしも核燃デブリが格納容器を突き破れば,メルトダウンから先の「メルトアウト」に進んでいくわけだが,実は先日,調査途中で止まったロボット装置について記者会見に臨んだ東電の広報担当者は,意味深長な感想を述べた。格納容器内では10Sv(1000万μSv)のすさまじい高線量が計測されたが,それでも予想していた10分の1ほどだったといったのだ。その意味するところは,デブリが金属格子の作業用足場からみえるような位置ではなく,ずっと深くまで沈んでいるということではないのか。

  また最近,東電の廃炉部門責任者がNHK海外向け番組で「2020年までに核燃デブリの取り出しに着手する」という作業目標について「困難」とコメントしたが,これも状況が非常に悪いことを示唆しているのかもしれない。「メルトアウト」または「チャイナ・シンドローム」とは,核燃デブリが原発施設最下層のコンクリートすら蒸発させ,地中へ抜け落ちていく状態で,それが現実化するかどうかは後藤政志博士が語ったデブリの温度しだいだ。1~3号機内では4年後のいまも各100tのデブリが4000~5000℃の高温を発し,メルトアウトの危険性が高いと説く海外研究者もいる。

 たとえば,「IAEA(国際原子力機関)」の “不測事態の管理技術会議” は,2012年時点でデブリが格納容器と下層コンクリートを溶かし,自然地層へ抜け出た可能性を指摘している。具体的にはデブリが施設地下6,7mまで沈み,直径10~15mの大穴の底に溜まっているというのだ。この仮説でも地殻を突き抜けるようなメルトアウト現象は否定しているが,代わりにひとつ厄介な事態を予測している。それはデブリの核分裂反応が再び爆発的に加速化する可能性だ。

 通常ならば,原子炉や実験施設内でコントロールされる「再臨界」は自然状態でも一定の条件が整えば起きうる。その条件とは中性子と水,地質。IAEA技術会議のシミュレーションでは,まず原発地下の水流と岩盤層が中性子の反射装置となり,デブリ内のウランやプルトニウムが連鎖的に核分裂していく。そして,膨大な崩壊熱で水蒸気爆発が繰り返され,新たに生まれた放射性物質が地上へまき散らされる。

 琉球大学理学部の古川雅英教授(環境放射線学)は,こう分析する。そうした自然界の臨界現象は,アフリカ中西部のウラン鉱山(ガボン共和国オクロ)で20億年前に起きており,当時の地層が海底にあったことが中性子による核分裂反応を少なくとも60万年間にわたり持続させたようです。その点では,大量の地下水が流れる福島第1原発の地質構造も共通した条件を備えているかもしれません」。

 飛距離パワーが強く,人体を含めて通過した物質の原子を「放射化」させる中性子線そのものの威力はとてつもない。1999年に東海村の核燃加工場で起きた「JCO臨界事故」では,ウラン化合物約3㎏の連鎖分裂で半径10㎞圏の住民約30万人が屋内退避した。それに対して,質量がケタ外れに多い福島第1原発のデブリが「地底臨界」すれば,東日本どころか地球規模の超巨大原子力災害に突き進む! だからこそ海外の研究者や政府関係者たちも福島第1原発事故処理の不透明な現状に対して不安と苛立ちを募らせているのだ。

 事実,この悪夢のような破局シナリオが決して絵空事でないことは,他の科学的事実からも裏づけられる。そのひとつ,CTBT(包括的核実験禁止条約)にもとづき「日本原子力開発機構」が群馬県高崎市に設置した高感度の放射性核種監視観測システムには,昨〔2014〕年12月から福島第1原発の再臨界を疑わせる放射性原子,ヨウ素131とテルル132が検出され続けている。

 【編集部注】
 a) 当記事掲載号(18号)の〔2015年〕4月20日(月)発売から8日後の4月28日(火),「CTBT高崎放射性核種観測所」は,《昨〔2014〕年12月~今年3月までの「放射性ヨウ素I-131」「同テルルTe-132」に関しては,ND(不検出)とすべきところをMDC(最低検出可能放射濃度)値を表示したので訂正する》との旨を発表した。つまり包括的核実験防止条約に基づく重要監視対象の2核種濃度について,3カ月間もの表示ミスが続いていたという。

 b) また福島第1原発2号機横の観測井戸では,今〔2015〕年に入って新たな核分裂反応の再発を示すセシウム134とトリチウムの濃度が高まるばかりだ。昨〔2014〕年秋に開通した国道6号線の第1原発から第2原発までの12㎞区間でも高線量が続いている。はたして,福島第1原発はメルトアウトで地底臨界という最悪の事態を迎えつつあるのか? 今回の格納容器温度の急上昇,一部地域での急激な線量アップは,原発事故が日本政府の大ウソ「アンダーコントロール」とは正反対の新たな危険領域へ入ったことを示しているのかもしれない。(取材・文/有賀 訓)
 註記)http://www.excite.co.jp/News/column_g/20150428/Shueishapn_20150428_46924.html  以下。
 〔ここで ② の記事引用に戻る ↓ 〕
 やっかいごとのひとつは,建物内の放射能汚染の広がりがつかめないことだ。東京電力は内部を観察するため配管を伝ってロボットを入れようとしているが,配管入り口周辺の汚染が高く作業を阻んでいる。

 「福島の状況はスリーマイルと(1986年4月に史上最悪の事故を起こした)チェルノブイリ原発(ウクライナ)の中間だ」と大西康夫・米ワシントン州立大学非常勤教授はいう。教授は米施設の除染などに長くかかわわってきた専門家だ。放射線を遮る水を内部に張れれば作業は少しは楽になるが,損傷した原子炉を冠水するのは難しいと考えられている。

 計画では,2017年度にデブリ取り出しの基本方針を決め,2018年度には最初にとりかかる号機を決める段取りだ。これから1年が見極めのヤマ場だが,状況がわかるにつれ困難さもはっきりみえはじめた。

 一方,費用負担では廃炉費用の8兆円は東電が利益の一部を積み立てて充てる方針が固まった。廃炉に約30年。単純計算で年間3千億円弱が要る。賠償の費用(東電負担分4兆円)などもあり,年間5千億円を超える利益を東電は計上しつづけなくてはならない。

 送電の託送料が有力な原資にみこまれる。合理化で送電コストを圧縮し利益をひねり出す余地は十分あるらしい。しかし,合理化分を廃炉の積み立てに回したのでは電力自由化で下がるはずの託送料が高止まりする。送電網への前向きな投資もしなければならない。相反する二兎(にと),三兎を追う構想だ。

 さらに経産省のシナリオでは,国が負担する除染費用を政府保有の東電ホールディングス株の売却で賄うことになっている。そのために東電の企業価値を7.5兆円にまで高める必要があるという。原発事故前の時価総額の2倍を超える。廃炉や賠償など事故の清算をやり終えないとできない相談だろう。柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働で生まれる利益も計算に入れているが,いまのところ動かせるメドはたたない。
福島第1原発事故処理経費見積もり画像
 廃炉の技術面だけでなく収支の面でも綱渡り。どちらでつまずいてもゆきづまりかねない。実現可能性よりも「実現させねば」との経産省の意図が前面に出る。21.5兆円のシナリオはそんなガラス細工にも似た危うさをはらむ。
 出所)画像は,http://toyokeizai.net/articles/-/149084

 廃炉費用が大きく膨らみそうなことが報道され始めてからスケジュールを根本から見直す意見を耳にするようになった。30年での廃炉は困難とみてより長い期間をかけよという。放射能の減衰を待つ狙いで,チェルノブイリのようにコンクリートで原子炉を固めて封止する「石棺」をモデルとする。

 昨〔2016〕年夏,原子力損害賠償・廃炉等支援機構が作成した廃炉の「戦略プラン」の案に「石棺」という言葉がいったん盛りこまれて福島県などが強く反発した。石棺は帰還をめざす地元の人びととの約束を破るものだ。支援機構の山名 元理事長は「石棺にはしない」と弁明に終始した。

 石棺は合理的に聞こえるが,30年を100年に延ばしたところで放射能が作業を阻むリスクであることには変わりない。建物の耐久性や,東電への支援をどこまで続けられるかを考えれば,長引くのは得策とはいえない。また原子炉の内部を調べて事故の詳細を報告することも原子力を推進した政府や電力業界の使命だ。フタをして済むことではない。

 ただ最善を尽くしても,できないこともあろう。そんな事態も想定する必要がある。予定調和的なシナリオだけでなく,最悪のケースも含めた将来像を福島の人びともくわわって議論する場を設ける時ではないか。専門家や有識者だけでは決められないことだ。(記事引用終わり)

 いまごろになってようやく「福島の人びともくわわって議論する場を設ける時ではないか」などと主張されているけれども,これままでは原発事業に関してはほぼ完全に,それもさんざん「依らしむべし・知らしむべからず」の基本路線で貫いてきた原子力村側の理屈は,調子がよすぎる。「福島の人びと」にかぎらず,日本「全国の人びと」の原発に対する態度は,その過半が稼働に反対である。このことは,多くの世論調査が明確に教えている。

 いまごろにもなってから「地元の人びとにも議論にくわわってもらい」といったごとき,従来の「原発安全神話路線」の表面的かつ宥和的な態度変更ぶりは,うがった観方ではなく,原子力村側が責任を外部に転嫁のために用意した,体のいい便法である。

 ③「福島第1原発2号機,溶融燃料観測なるか 週内にもロボ調査,位置や量が廃炉進捗左右」(『日本経済新聞』2017年1月16日朝刊15面「科学技術」)
 
 東京電力は週内にもf,福島第1原子力発電所2号機で溶け落ちた核燃料のロボット調査に着手する。東日本大震災で1~3号機は炉心溶融が起きた。2号機は建屋の水素爆発を免れたうえ圧力容器内に溶融燃料の多くがとどまっているとみられている。圧力容器の直下にロボットを入れ,溶融燃料を初めてカメラで捉えられるかが焦点となる。30~40年かかる廃炉工程のうち,溶融燃料の取り出しを1~3号機のいずれかで始める作業を2021年に控える。

 溶融燃料の状態は震災から6年が近づいてもいまだ実態がつかめていない。溶融燃料の位置や量によっては,取り出しが難しくなる恐れもある。今回の調査は廃炉作業の進捗を大きく左右する。東電は週内に先端にカメラを付けた機器を格納容器に差し入れ,ロボットの通り道をたしかめる。投入するロボットは,国際廃炉研究開発機構(IRID)と東芝が開発した。サソリ型をしており,移動中は高さと幅が9センチ程度の棒のようなかたちで進む。圧力容器の真下に来るとサソリの尾にあたる部分をもち上げ,圧力容器の底をカメラで見上げるようにする。

 調査が狙うのは,圧力容器から核燃料が溶け落ちたかどうかの確認だ。カメラの撮影画像から圧力容器の損傷程度や燃料が溶け落ちた様子がわかる可能性がある。溶融燃料の位置や量を絞りこめると,取り出しに使う機器の開発や回収の手順を検討しやすい。圧力容器内に残る溶融燃料が多ければ,格納容器の横からではなく上からの取り出しが有効といった工程を策定できる。
 補注)この記事が書いている内容は,あくまでも技術的な可能性に関する説明だけであって,これが実際に可能な作業となり,それなりに成果を挙げられるかどうかに関する記事ではない。いま東電が福島第1原発事故では「こういう対策をしている」「ああいう試みをしようとしている」といった類いのニュースなのであって,繰りかえしていえば,実際にはまだなにも結果をだせていない「デブリの取り出し作業」をめぐって,ただ今日の時点においてあれこれ議論できそうなことがらのみを,ただそのままに報じているに過ぎない。次段に続く記事もそうした内容である。

 2016年7月には宇宙から2号機を素通りしてくる素粒子「ミュー粒子」を調べ,圧力容器の底に溶融燃料と思われる影をとらえている。2015年の1号機の調査では,初めに入れたロボットが内部の床の溝にはまって動けなくなり,別のロボットを投入する事態となった。放射線量も毎時約10シーベルトときわめて高く,カメラが故障して映像が確認できなくなった。今回はより劣悪な環境が予想されることから,カメラの放射線に対する耐久性を大幅に引き上げた。障害物で止まる危険性を抑えるため,前方と後方の2台のカメラを使って周辺の状況を確認するようにした。2号機と構造が近く,事故の影響が少なかった5号機で模擬試験を重ねたという。

 ただ,調査の成否は見通せない。「やってみないと分からないことばかり」(東電)という。取り出し工法の絞りこみに役立つ情報をえられるかどうかは不透明だ。2号機の調査終了後は1,3号機の調査も予定される。2号機の調査の成否は今後の作業にも影響する。政府と東電は年内を目安として,1~3号機の各号機ごとに溶融燃料を取り出す方法を決める計画だ。

 この記事は要するになにをいいたく,つまり伝えたいのか? 東電さんはあれこれ一生懸命に,福島第1原発事故現場の後始末に努力していますが,いまだに確たる成果は挙げられていませんという報道になっている。結局《悪魔の火》の使い手によくなれるのは〈悪魔自身〉でしかない。この事実だけがより明白になっている。

 しかし,東電福島第1原発事故現場の後始末全体を石棺化の工事によっていったん終えようとする企画は,地元被災民が絶対に許さないという。かといって,今日の『日本経済新聞』記事なども報道するように,東電福島第1原発事故現場の後始末がわずかにでも順調に進捗しているかといえば,けっしてそうではなく,根本のところでは「なにも片づいていない」。
東電福島ゴジラ画像
出所)http://www.k2o.co.jp/blog4/2016/08/4.php

 東電福島第1原発事故現場で演じられている光景は,こう表現できる。原子力村の利害関係集団は《悪魔の火》を使いこなせると慢心していた。だが,いまでは,とうてい手に負えるような相手ではない怪物=原子力そのものに対面させられた,東電当局をはじめ原子力村の構成員たちは悪戦苦闘させられるばかりである。

 映画『ゴジラ』は,映像芸術の世界だけにおける娯楽作品であるが,東電福島第1原発事故現場の問題はすでに,人類・人間にとって「深刻・重篤な公害問題」となっていながら,いったいいつになったらこの問題が解決するのか,その見通しすらつかないでいる。


 【明治維新 150年がそれほどすばらしい時代の区切りか?】

 【明治維新の結論は 1945年の「敗戦時」にすでに出ていたのであり,その途中に「坂の上の雲」が発達したあげく,集中豪雨の被害をもたらしただけではなかった?】


 ①「明治維新150年と改元の危険な符号」(『東京新聞』2017年1月12日,途中までの引用)
 

 1868年の明治維新から150年を迎える2018年,政府はさまざまな記念事業を展開する。一方,安倍晋三首相に近い議員らの間では「明治の日」を制定する動きが本格化している。折しも政府内では,平成30(2018)年の区切りで天皇陛下の退位を実現するとともに,2019年1月1日に皇太子さまが新天皇に即位し,同日から新たな元号を適用する案が浮上した。「明治ブーム」と改元が連動すれば,安倍政権に色濃い戦前回帰志向が一段と加速しかねない。(橋本 誠,三沢典丈)  【こちらは記事の前文です(あとは有料記事)】
 註記)http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2017011202000121.html

 ② 原 武史 ‏@haratetchan〔2017年〕1月11日
原 武史ツイート画像
 2018年は明治150年に当たる。政府はそれに合わせて明治天皇の誕生日である文化の日を「明治の日」とし,記念式典をおこなう可能性がある。それと代替わりが重なる。大正から昭和になった途端に明治節が制定されて明治ブームが起こり,大正が忘却されていった過程を思い出さずにはいられない。
 註記)https://twitter.com/haratetchan

 この指摘は,大正天皇を過去における不出来な人物として流し捨ておき,昭和の時代に新しく登場した天皇に期待をかけようとしていた,当時の状況を批判的に論及している。昭和の時代の天皇になった裕仁自身は,大日本帝国を敗北の憂き目に遭わせるまで,大元帥である地位に立っていた。「熱誠の赤子」だけでも無慮310万名も「死なせた」人物であった。

 敗戦後において彼が記録してきたみぐるしい責任転嫁の言動はさておいても,1945年8月15日敗戦(その降伏の調印式9月2日)までにおける,彼の地位:「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)の政治的な効果は,さおれはもうたいそうなものであった。大日本帝国憲法の冒頭に冠せられた『告文』そのものからして,おどろおどろしい中身であった。つぎの ③ のように,ひたすら・まったく宗教的な含意でもって創文されていた。
   補記)このあたりの論点については,本ブログ,2017年01月06日のつぎの記述も参照されたい。

 主題「天皇制に対する民主主義が矛盾するのか,それとも民主主義に対する天皇制が矛盾するのか? 突っこみどころの甘い『佐伯啓思の天皇制度』論」

 副題2「明治維新以後における『天皇神聖化』と敗戦後GHQの『天皇象徴化』とが,そもそもの矛盾を産んできた,おおもとにある歴史の要因」
 副題2「保守の論者は,天皇・天皇制をいかほど,どこまで掘り下げえて議論しているのか?」
 ③ 明治憲法「告文」-大日本帝国憲法のオカルト性の面目躍如-

 皇朕レ謹ミ畏ミ

  皇祖
  皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持
   シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク

  皇祖
  皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外
  ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶
  福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆

  皇祖
  皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト
  倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ

  皇祖
  皇宗及我カ
  皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ

  皇祖
  皇宗及
  皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラ
  ムコトヲ誓フ庶幾クハ
  神霊此レヲ鑒ミタマヘ

 このような旧憲法「告文」のあった明治の時代が始まってからともかく150年が経ったので,この記念行事をやりたいというのが,安倍晋三の魂胆らしい。明治以来における「天皇の代替わり」だと,天皇の死去という出来事が先行する。だが,今回いわれている「明治維新150年」に関する記念行事は,いまの天皇明仁も健在でいる時期に実施できる可能性が大である。

 しかし,明治維新という歴史の区切りは,それほどまでにすばらしく時期を色分けするものであったのか? ここではあえて,アンサイクロペディアの妙説(珍説的だが的は射ている解説)を紹介しておく。次段に記述されている内容は,明治史をある程度しっている人であれば,けっしてデタラメとは思えない,むしろ事実(真実・真相)に肉薄する筆致が披露されている。

 ④ アンサイクロペディアが即妙に解説する「明治時代」とは

 明治時代とは,幕末に次いで捏造が多い時代である。

 1)明治時代の始まり
 後世の弁によれば「無能な癖に圧政を敷く政府が倒れ,四民平等の近代社会が構築された」となっているが,これは捏造である。実際には外交圧力とテロリズムにより国家が転覆し,そのどさくさで立った新政府が「欧米列強と比肩する強国にならなければ植民地にされてしまう。国内で争っている暇はないから一丸となろう」と国民を丸めこんだことから「明治時代」が始まったのである。

 なお「明治維新」という言葉は,昭和の軍人が捏造した言葉であり,明治時代には存在していなかった言葉である。力づくで社会を変えようという青年将校たちが「江戸幕府を倒したように,いまの政府も倒そう」という思いをこめたものだとされている……。

 2)身分制
 「封建的身分制度がなくなり平等になった」といわれているが,これも捏造である。士農工商にあたる身分は「貴族(公家様)」「華族(旧大名~中級武士)」「士族(武士)」「卒族(下級武士)」「平民(農工商)」「新平民(非差別民)」というものがちゃんと作成され,新平民はアンサイクロペディアにおけるIP民のようにひどいあつかいを受けつづけた。 
日本の階層画像
出所)http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkiky900/newsystem.html

 3)土地制
 地租改正により農民の生活は飛躍的に進歩したといわれているが,これも捏造である。そもそも日本の農政は律令国家時代から苛斂誅求をきわめ,水飲み百姓はいつも血の涙を流して,ただ耐え抜いていた。それがたかが一制度の改革でどうにかなるはずもなく,相変わらず農民は底辺の生活を余儀なくされていた。

 地租改正の成果といえば,「すべての土地に課税する」という原則が成立し地税が切れ目なく入ってくるようになったことくらいである。なお,平成の世における圧政に関しては「日本農炎(ウィルス)」を参照してほしい。これは捏造ではない。哀しいことに事実である。

 4)近代
 「鎖国により遅れた文化を脱し,近代国家になった」といわれてはいるが,これは欧米による捏造である。日本は鎖国下にあってなお文明文化の進歩は西欧を大きく上回り,独自の平和文明を築いていた。しかし,クジラ漁の中継地点が欲しいアメリカが一方的に不平等条約を押しつけて強引に開国させ,江戸時代までの日本文化を全否定させたのである。

 そのため多くの日本美術の逸品は海外に流出し,いまでは海外のコレクターの方がはるかに優れたコレクションをもっている。アンサイクロペディアよりも Wikipedia が面白く思えるようなものであり,悔しいものである。

 5)戦 
 上記のように,どうにか国民を丸めこむため新政府はとりつかれたように戦争に逸(はや)った。大義名分は基本的に捏造であり,「とりあえず戦争して賠償金せしめればみんな金持ちになって文句もいわないだろう」という楽観主義が主であった。

 当時「眠れる獅子」と恐れられていた清国を薙ぎ倒し,同じく青海の覇者だったロシアを叩き潰し,破竹の勢いで「日本ここにあり」とアピールすることで,たしかに植民地化は防げたが,それにより「金に困ったら戦争しよう」という思いが生まれてしまう。それにより関東大震災後の不況を振り払うため戦争を起こしたりもしていくのだが,それは昭和のお話なのでここには記さない。

 6)明治時代に関係した人物
 板垣退助 …自由民権運動を進めた政治家。「板垣死すとも自由は死せず」という名言は,後年の捏造であることは言うまでもない。

 西郷隆盛 …西南戦争で活躍した薩摩隼人。戦争責任を捏造され,まったく似ていない銅像を建てられてしまうという辱しめを受けた。

 伊藤博文 …日本史上唯一,天皇陛下から直々に「身を慎め」といわれた御仁。ゆえに反天皇思想者との説を捏造され暗殺された。

 岩倉具視 …岩倉使節団団長。のちに「明治政府外交の足を引っ張った」との醜聞を捏造されている。

 明治天皇 …思想の変化が早かったことから,実は暗殺され別人が秘密利に代理を勤めていたという説がある。多分捏造だと思われる。思われるが…。
 註記)http://ja.uncyclopedia.info/wiki/明治時代

 以上を引用したらたいそう面白く,楽しくもなれたので,アンサイクロペディアからはついでに「東京明治天皇」という項目,ただしその冒頭の段落のみを,さらに引用してみる。
    この項目は口に出すのも畏れ多い寅之祐親王陛下について書かれています。穢い心の逆賊・陸奥非道については睦仁をご覧ください。

 --「彼こそ私が信奉している人物である!!」 東京明治天皇について,サッダーム・フセイン

 ウィキペディアの専門家気取りたちも「東京明治天皇」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは,われらの誇りです。

 明治天皇(めいじてんのう)は,明治時代の大日本帝国を御統治なさった,後南朝の初代天皇。諱は寅之祐。臣籍降下されてた時点では大室虎吉(おおむろ・とらきち),大室寅之祐(おおむろ・とらのすけ)と名乗られていた。神武天皇からの流れを汲む亀山天皇の子孫,大覚寺統の血を引き,大日本帝国天皇家の正統なる皇統継承者であらせられ,大日本帝国の臣民をよく導かれた。

 本来,明治天皇といえばこの御方しかいないのであるが,京都明治こと睦仁と区別するために新たに京となった東京を頭につけ,東京明治天皇と称する。
 ⑤ 明治維新の暗がり

 この ⑤ に引用するのは,「今日はたばこの日~明治150年に向けた怪しい動き」『【アトリエこくらげ】の《週末おさんどん》』(2017年01月13日,http://ameblo.jp/kokurage/ )の記述であるが,途中から参照している。

 --ダイヤモンドオンラインに目を通していたら,こんな記事にも目が止りました。「なぜ,500円札に岩倉具視が採用されたのか?」『DIAMOND Online』2016年12月30日,http://diamond.jp岩倉具視画像/articles/-/111467?obtp_src=DiamondOnline_AR_1 )。
 出所)http://blogs.yahoo.co.jp/atusi_odazima/25441260.html,この画像は500円札の肖像になった岩倉具視であるが,いつも感じることとして,非常に「人相が悪い」。若いときにテロリストだった伊藤博文は,のちにその悪相を消していくことができていたが,こちらの男の顔(人相)は履歴書どおりそのままに,いつも凶相を浮かばせている。

原田三流の維新一流の江戸表紙
 作家の原田伊織氏による連載「三流の維新 一流の江戸」の第11回に当るこの記事で,原田氏の「史実に忠実に従えば,明治維新とは民族としての過ちではなかったか」という問題提起とはまったく逆に,世間では平成30年の《明治維新150年》に向って,早くも誰かが走り出しているそうです。
 註記)原田伊織の同稿「三流の維新 一流の江戸」は,まとめられて単行本となっていた。ダイヤモンド社,2016年12月発行。

 a)「明治維新150年と改元の危険な符号」『東京新聞』2017年1月12日「特報」面〔の記事の冒頭段落は ① に紹介してあった〕。
 註記)http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2017011202000121.html?ref=rank

 b)「平成の最後は『西暦2018年』 明治維新150年との一致は偶然か」『J-CASTニュース』(2017/1/11 19:20)。この見出しになる「ニュースの内容:文章」そのものは,この ⑤ の記述のなかでは(https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-287860/ を参照したと付記されているが),原文がいっさい引用されていないので,以下にあらためて引用しておく。少し長めである。

 --政府は2019年(平成31年)1月1日に皇太子さまの天皇即位にともなう儀式をおこない,同日から新元号とする方向で検討に入った模様だ。2017年1月10日に産経新聞(朝刊)と毎日新聞(夕刊)が報じたのに続いて,他紙も1月11日にかけて報じ,足並みを揃えた。

 「退位に関する特別措置法(特措法)」の成立など,仮に政府の想定通りに手続が進めば,平成は30年で幕を閉じることになりそうだ。この2018(平成30)年は,明治維新から150年を迎える年にあたる。維新から100年の1968年には政府が記念式典を開いており,150年も記念事業をおこなうことが決まっている。大きな「節目」が同じ年に2つやって来るかたちで,旧華族からは期待をこめた声もあがる。

 ◇ ビデオメッセージ冒頭で「平成30年」に言及 ◇

 天皇陛下が2016年12月の誕生日にさいして開いた会見では,退位の意向を示唆した8月のビデオメッセージについて,「ここ数年考えてきたことを内閣とも相談しながら表明しました」と振り返っている。

 「お気持ち」表明は,周到な準備を経ておこなわれたことが分かる。このビデオメッセージは,「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます」という言葉で始まっており,「30年」が一区切りとして念頭に置かれていた可能性もある。

 これとは別に「平成30年=2018年」にわくのが,明治維新に主導的な役割を果たした「薩長土肥」(鹿児島・山口・土佐・佐賀)の4県だ。4県は共同で観光キャンペーンをおこなっており,2018年のNHK大河ドラマは,薩摩の西郷隆盛がテーマの林真理子さん原作「西郷(せご)どん」に決まっている。長期政権の可能性が指摘される安倍晋三首相も山口県出身だ。

 政府も2016年10月,内閣官房に「『明治150年』関連施策推進室」を設置し,(1)明治以降の歩みを次世代に遺す施策,(2)明治の精神に学び,さらに飛躍する国へ向けた施策,をおこなうことを発表している。

 明治維新から100年の1968年10月には,政府は日本武道館で記念式典を主催。昭和天皇,香淳皇后や佐藤栄作首相(当時)ら約9000人が出席し,佐藤首相が万歳三唱した。150年にも同様の式典が行われる可能性がある。

 ◇ 元号が変わると国民マインドが変わる ◇

 とりわけ「維新150年」に関心が高いのが,明治維新で功績をあげた政治家や軍人の末裔も多い旧華族層だ。旧華族の動向に詳しい関係者は,経済成長の真っただなかだった「維新100年」から「つぎの100年」を考えると,150年は「折り返し地点」。大きな「節目」だとみる。そのうえで,「元号が変わるのは,非常に大きな節目。(維新150年と退位を)意図して合わせたかは分からないが,悪いタイミングではない。

 元号は国民生活に,なんだかんだいって染みこんでいる。メディアも『昭和の時代』『平成の時代』といった表現をするように,元号が変わると国民のマインドが変わる。良い方向に日本が動く気がする。いまの皇太子殿下は戦後生まれで,『戦後教育』を受けた初めての世代。新しい形の公務をなさるのでは」と,「節目」が重なったことへの期待を寄せていた。

  菅 義偉官房長官は1月11日の午前の記者会見で, 「報道されているような内容についてはまったく承知していない。現在,陛下の公務負担軽減等に対して有識者会議において予断をもつことなく静かに議論をおこなっている。そんな状況なので,そうしたことはまったく承知していない」と述べるにとどめた。(『J-CASTニュース』引用終わり)
 補注)官房長官の菅 義偉が「まったく」を2回も繰り返して表現に使いながら,「報道されているような内容についてはまったく承知していない」と答えていたことがらについては,オトボケの範囲を出るものではあるまい,ととらえておく。

 〔ここで【アトリエこくらげ】の本文に戻る→〕 いまの職場ではニュース・クリップを作る仕事が各管理職に割当てられているので,いままで職場ではほとんど捲ったことのない新聞に目を通すようになりました。

 私がクリップを担当しているのは読売新聞ですが,昨日(2017年1月12日)は,日経・毎日が退位後の天皇の呼称について,それぞれ異なる報道をしていましたね。日経は《上皇》,毎日は《前天皇》と,さも決まったかのように見出しを打っていましたが,どちらも違和感が拭えません。これは有識者会議,さもなくば政府の観測気球なのでしょうか。

 観測気球に釣られて,違和感の理由を一言述べてみますと,一方の《上皇》は《太上天皇》という呼称の省略形であって正式な呼称とはいえない。他方の《前天皇》は憲法に定める国家機関の名称(役職名)に着目した呼び名であって,呼称とはいえない。
 
 ということです。さらに,もっと困るのは敬称です。旧皇室典範及び現皇室典範の例によれば《陛下》とすべきところですが,歴史上,陛下と呼ばれた太上天皇はいらっしゃらないはずですし,さればといって《前天皇陛下》とはいえないでしょう。
 
 歴史に鑑みれば,呼称と敬称を併せたような尊称としての《院号》というものがありますが,いまのこのご時世に《平成院さま》というような院号が馴染むとも思えませんので,結局のところは,呼称と敬称を合せて特別法で《太上天皇陛下》という呼称+敬称を新設するのではないかな・・・と思っているのですが,どうでしょう。
 
 太上天皇という呼称について誰が懸念しているのか定かではありませんが,仮に太上天皇と呼ばれる方がおいでになったとしても,憲法によって国家機関として位置づけられているのは皇族のなかで天皇だけですし,仮に摂政を置く場合があったとしても,国家機関としての摂政に就任できるのは現皇室典範第17条に定めのある方々のみであって,太上天皇は摂政になることはできません(現皇室典範第17条では,皇太后・太皇太后が摂政になる場合があることを定めていますが)。
 
 したがって,太上天皇が《治天の君》として天皇の上に位置することは,少なくとも現皇室典範を改正しないかぎり考えられません。太上天皇に反対する人は,「太上天皇の存在が一世一元を定めた明治維新を否定して,明治維新150年に水を差す積りか」とでも思って怒っているのでしょうか。

 なんとなく嫌な動きが報道から透けてみえる1日でした。もちろん,わたしが《明治維新万々歳》でないことは申すまでもありません。アイルランドも大英帝国から独立するためにテロ行為を厭いませんでしたが,さればといって,現在の世界情勢は,勤王の志士のテロ行為を是認することができるような状況にないことは明白です。
 
 ちなみに,1月12日の読売新聞朝刊は《明治150年 江戸に学べ》と題して,歴史人口学者エマニュエル・トッド氏のインタビューを掲載していました。
 註記)以上,http://ameblo.jp/kokurage/

 ⑥ 明治維新から敗戦へ,そして原発事故へ

 明治の時代よりも江戸の時代のほうがよかったのか悪かったのか,当時にそれぞれ生きていた人びとから満遍なく,公正中立に話を聞くことなどできない相談である。人糞臭い匂いが漂ってくるのは,江戸も東京(敗戦後もしばらくは)も,マッタク同じであった。団塊の世代に属する人たちであれば,回虫や蟯虫などに寄生された自分の肉体であった体験の持主が大部分のはずである。

 ややこじつけの理屈になるかもしれないが,医学的・疫学的には寄生虫から解放されはじめた日本国の住民どもが「戦後レジーム」に囚われているといって,これからの脱却を叫ぶこの国の首相が居る。けれども,まさか昔のように,寄生虫のあれこれをかかえこんだ日本国の住民が復活してもよいとは思うまい。

 20世紀後半の日本国よりも19世紀後半にできた大日本帝国のほうがいい,素晴らしかったなどと観念できる「安倍晋三君のような政治家」は,単なる時代錯誤を通り越している結果,それも完全に「明治維新という〈バカの壁〉」に囲まれ,囚われた「倒錯の精神の持主」である。

 明治の時代よりも江戸の時代のほうがよりよかったどうかについても,明治の時代の半ばに生きていた人間と,江戸の時代,それも1600年代に生きていた人間の話を比べて聞くことはできないし,このあたりの話題を,歴史社会学的に適切に比較考量させてくれる研究成果があるとは限らない。

 ともかく,戦後レジームが嫌いで嫌いでしかたのない,それでいて,この戦後レジームからは最大限の恩恵を享受しているはずである日本国首相が「その脱却」を必死の形相で提唱している。これでは笑止千万の,漫画絵の世界における発想様式である。そしてこんどは,明治時代になってから150年目を迎えるときに,いまの天皇を退位させて新しい天皇に即位させることで,この日本国の歴史においては  “新しい画期” がほどこせるかのように錯誤している。

 明治維新は1945年に「敗戦」という体験をもって,完全に失敗した。そうした厳然たる事実に遭遇させられてきたのである。そうではなかったか? 「第2の敗戦」とまで形容されている「3・11」のときに発生した東電福島第1原発事故は,いまもなお,なにひとつ解決されていない。それでいて,明治維新150年を迎える平成30年=2018年には,再びまた,盛大に記念式典を挙行したいと考えている。そういうオメデタイ政治家がウヨウヨいる。

 天皇が変われば,そして元号を変えれば,この国が新生児として生まれかわれるかのように,つまり本物として再生できたかのように観念できるのだとしたら,まことに幸せでありうる。さきにこういう段落の記述があった。
    メディアも『昭和の時代』『平成の時代』といった表現をするように,元号が変わると国民のマインドが変わる。良い方向に日本が動く気がする。いまの皇太子殿下は戦後生まれで,『戦後教育』を受けた初めての世代。新しい形の公務をなさるのでは」と,「節目」が重なったことへの期待を寄せていた。
 ひとつ,想定話をする。元号を止めてみたらどうか? 天皇・天皇制を利用しての《験担ぎ》を,いつまでもしているような日本国の政治社会である。もっとまともに,もっとまじめに掘り下げて問題を考えてみようではないか。

 ⑦ 『日本経済新聞』に掲載された3つのコラム記事

 1)「春 秋」(『日本経済新聞』2017年1月12日朝刊1面)
 平成の世も来年かぎりか……。こんな感慨に包まれている人は少なくないだろう。天皇陛下の退位のスケジュールがにわかに浮上した。菅 義偉官房長官のコメントは「承知していない」だが,2019年の元日に新天皇が即位し,新しい元号も適用へと報じられている。

 ▼ 28年前の1月7日を思い出す。昭和天皇が亡くなった朝,記者たちはポケットベルの音で一斉にたたき起こされた。まだ携帯電話など普及していなかったのだ。午後になって「平成」が発表され,翌日からただちに改元となる。怒(ど)濤(とう)のような2日間をピークとする昭和の終わりの記憶は,あまたの日本人になお鮮烈である。

 ▼ ああした事態は避けたいというのが,陛下が退位を望まれる理由のひとつだろう。たしかに前もって元号を発表し,整然と代替わりを果たせるなら国民生活への影響は最小限に抑えられる。さまざまな印刷物だけではない。前回とは比較できぬほど進んだデジタルへの対応にも余裕がもてよう。ポケベル時代とは違うのだ。

 ▼ それにしても,誰もが不思議な体験をもつことになりそうである。事前に歴史の節目が定められ,それが1日1日,カウントダウンで近づいてくるのだ。胸に迫るのは愛惜か,新しい世の中への期待か。ふと,真新しい今年の手帳をめくってみれば最後のページは来年のカレンダーだ。平成30年--しみじみと眺めている。(引用終わり)

 さて,元号をとりかえるとなれば,誰しもがこのような感慨をもつのが当然であり,必然であるという論旨(つまり,いいたいこと)なのか? もっとも,こういう意見に接したほうが逆に,奇妙な感覚に囚われるといってもいいはずである。元号の制度に関しては,みなが同じに受けとらねばならないのが,日本国の住民たちそのものの立場だとでもいいたいのか? 実は,そういう思考の強制でもって国家の運営をなんどか大失敗させてきたのが,明治維新以来における日本国の体験ではなかったか? ふしぎの国,ジャポンである。

 2)「〈現代ことば考〉『明治150年』は西暦何年か」(『日本経済新聞』2017年1月8日朝刊,井上史雄;言語学者)

 2017年は明治150年なのだが,話題にならない。政府では2018年に記念式典を開く計画らしい。この1年のずれは,年齢を満で数えるか,数え年にするかと同じである。また葬儀の翌年一周忌があり,次が三回忌になるのと似ている。明治に改元したのは慶応4年,1868年の9月だった。

 当時は旧暦だったので,新暦に換算すると10月23日になる。明治100年の記念式典をおこない,記念切手を発行したのは,1968年10月だった。西欧式で,満年齢と同じである。1867を明治に足せば西暦何年か分かる。西暦から1867を引けば明治何年かが分かり,2017年は明治150年である。数え年と同じである。

 西欧と東アジアの違いといいたいが,キリスト教の「世紀」の数え方は数え年と似る。もし満ゼロ歳に似た概念を中世に応用していたら,キリスト生誕後100年間は0世紀と呼べたはずだ。100年代が1世紀,1800年代が18世紀。歴史の年代の暗記が楽になっただろう。

 さて,日本語の歴史からいうと,明治維新の前後に大変化があり,「近代」として別に扱われる。その150年は大きい。しかし街にみられる文字からいうと,1945年の終戦が転換点だった。米軍支配下におかれ,英語が圧倒的な勢いで入ってきた。1946年には文字表記の改革として,現代仮名づかいと当用漢字が告示された。横書きを左から始めることが増えた。看板などで人びとの目にも違いが分かった。日本語表記千年の流れのなかで最大の変革期だった。あれから70年と数えるときは2016年になる。

 しかし実は,底流は戦前からあった。日本語をローマ字で記そうという運動は明治からあったし,歴史的仮名づかい(旧仮名づかい)を廃止する動きもあった。漢字制限の運動もあって,戦前に候補案も出ていた。左横書き案も含め,保守派の反対に遭って,実現しなかったのだ。日本からみると,中国文化圏からの脱却,西欧文化圏への移行だが,世界全体でみれば,グローバル化である。逆コースをとることはないだろう。人びとの行き来や経済的交流が盛んになると,ことばにも反映するのだ。(引用終わり)

 ところで,このコラム記事は「世界全体」の「グローバル化」をいい,逆コースはありえないと述べている。だが,安倍晋三君の「戦後レジームからの脱却」も間違いなく,完全なる「逆コース」に向いている。こちらの発想はだから,もともと時間的・歴史的にもムリな価値観に依存していた。それでも,それこそ《バカのひとつ覚え》の要領でもってすれば,明治時代にまでもタイムスリップできると盲信するのが,日本国首相安倍晋三が抱く世界観である。

 明治維新は江戸幕府を衣替えさせるかたちで生まれた。安倍晋三君がいっていた「戦後レジームからの脱却」をめざすというごとき発想は,いまの21世紀の時代のなかで位置づけるとすれば,この国を明治の時代にまで戻したい立場である。これは,極右政治家の狂信的な立場そのものを,単純かつ正直かつ如実に反映させている。

 3)「〈現代ことば考〉次の年号,ローマ字略字は?」(『日本経済新聞』2017年1月15日朝刊,井上史雄;言語学者)

 このコラム記事, 2)  と同じ筆者が書いている。  

 平成の次の年号はどう定まるだろう。平成と決まったときには安心した。明治・大正・昭和を「M10 T12 S20」のようにローマ字で記す習慣があったから,重ならないHで助かった。将来を考えると江戸末期の文久,元治,慶応のBGKも避けるほうがいい。IとOは数字の1と0に紛れてしまう。O(オー)157(腸管出血性大腸菌)のようにローマ字に振り仮名を付けるのもわずらわしい。

 以上でアルファベット26文字のうち,9個が失格。アルファベットのなかには,日本語で使わない文字がある。LQVXの4個。パ行Pの年号は考えにくいから,問題外。合計14文字使えないから,使えるアルファベットは12個に減る。

 濁音は,擬声擬態語ではマイナスのイメージと結びつく。カラカラ対ガラガラ,サクサク対ザクザク,シャンシャン対ジャンジャン,トロトロ対ドロドロ,ホロホロ対ボロボロなどを考えればいい。そうするとGZJDBなどもふさわしくない。もっともこれまで文化文政,大永,元治,承久などがあったから,漢字音だと,濁音は悪い感じがしないらしい。

 西暦と別の数え方をする国はアジアに多く,宗教と連動する。仏教暦,ペルシャ暦,イスラム暦,ユダヤ暦がある。そもそも元号は中国の皇帝が始めたが,中国,ベトナム,朝鮮半島ではやめた。台湾では民国99年などと記すが,終わる年はない。いまの年号がいつかは終わり,1年の途中で変わるのは日本だけである。

 カレンダーや手帳は,年号が変わったらお金がからむ。正月に大きな書店でみたら,手帳の表紙は西暦だけだった。カレンダーも西暦優勢。年号を書かないものもある。手元の年賀状をみると面白い。平成と西暦が勢力争いをしている。

 インターネット検索で使用数を調べてみた。「平成~年」は「20~年」より少ない。かなり前に追い越されていて,最近は西暦が圧倒的だ。グーグルトレンドの検索でも,西暦が差を広げている。いまでも中国皇帝伝統の年号を使いつづけ,根拠を中国の古典に求める。一方で西欧文化圏由来のローマ字表記を考慮に入れて,異質なものを共存させる。日本文化の重層性が表われている。(引用終わり)

 --最後に「日本文化の重層性」という理解(概念)が出てきた。はたして「文化の重層性」と表現したら,なんとなく納得いきそうではあるものの,この重層性じたいが実は「消化不良になる文化の病的な現象」だと表現された場合,これにきちんとまともに反論できるのか?
和魂洋才画像
出所)http://isoppu.co.jp/
菓子作りと国家形成とは同じにはいかない。

 昔の日本では「和魂洋才」だとかいいつくろって,西洋文明への対抗意識をなんとか形成・維持しようと試みていたこともあった。あえて話を脇道にはずしていうと,最近において民法の改正があっても,必要かつ十分な「男女平等の路線・地平」にまでは,まだ到達できていない国での話題に終わっていた。明治以来の天皇制は「男女差別の実際」を,具体的に説明するための「最適の見本」を提供している。この差別問題は,前述に借りて引用したアンサイクロペディアの記述中にも言及されていなかったはずである。

 『日本経済新聞』のコラム記事〈現代ことば考〉,それも最後のこの  3)  の内容は,いわば単なる語呂合わせ的な言語学者の知識披露=知的な遊戯であった。だが,元号について「いまの年号がいつかは終わり,1年の途中で変わるのは日本だけである」と,なにげなしに語っているところからして,この言語学者の感性そのものが “いかにも日本独自的な思惟に遊泳している” といった印象を与える。

 しかし,よく考えてみようではないか。いまどき「この日本だけに」「そのような元号」があって,しかも「そのような使い方」をされている。ということになれば,日本はどうみても不思議の国:ジャポンである。極言するまでもなく,単なる時代遅れの政治制度である。東アジアの諸国はみな捨ててきているそれである。まさか日本の政治が先進しいるから,そうしているのだなどとはいえまい。伝統の創造ともいえず,その活かし方において倒錯が潜んでいる。

 天皇とこの一族には,ふつうにいうところの「民主主義国家体制であるはずの生活と人権」は賦与されていない。だが,彼らはまた,日本社会のなかでは特権階級の一集団を構成している。この一族の家長が「民主主義の日本国憲法」をもって,この国を,そしてこの《民をまとめあげる》ための「象徴の役目」を担わされている。

 ただ事実だけをみることにしたい。皇族内における男女待遇の差はあからさまに出ている。男女間における「性的な違い」が正直に厳在させられ,発揮させられている。天皇家の家族構造でみれば,男でも長男と次男の待遇差は大きい。家父長制の封建思想そのものが,皇室内ではかたくなに継承されている。

 日本国憲法内における天皇・天皇制は,奇妙であり不思議なものだと形容されていいのである。例の,GHQ(アメリカ)が「押しつけてくれた」憲法におけるその特性である。この点を不審に思わないほうが,実はとてもフシギなのである。天皇が代替わりすると「元号も替わる」とされているけれども,なぜそうなっているのか,なぜそうしなければならないのか? 民主主義の基本理念と矛盾していないのか?

 テレビやインターネットに登場している元号の問題に関した発言・意見は,もっとも,実際に出てきたものでしか聴けないわけではあるが,元号が新しくなる事態:政治の変化を迎えるのだといって,とりあえずは「天皇の死」を介しない話題でありうるがゆえか,おおおそは一様にはしゃいでいる。

 以上のように進行している天皇代替わりの問題である。このさい,あらためて真剣に再考してみないことには,いいかえれば,問題意識をもって接しないのであれば,この国における民主主義の政治基盤はこれからも,旧態依然に,未熟な畸型のままにとり残されていくほかあるまい。旧中華大国の古制をいまどきにあっても,まだ後生大事にしたがっているようでは,21世紀における現代国家性,換言すれば,たしかに「先進国の一員である」はずのこの日本の根本性格が,いまさらのように問われる。


 【天皇が神になってしまった歴史】

 【大山誠一『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』2009年11月】

 【2016年8月8日,天皇明仁「生前退位」の希望を表明】

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 〔※ 断わり〕 本記述は旧ブログ「2010.2.14」からの転載・再出であるが,適宜,補正・加筆している。

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 ① 聖徳太子は実在しなかった

大山誠一表紙画像 1)  大山誠一『「聖徳太子」の誕生』1999年
 大山誠一にはまず,10数年まえに公刊した『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館,1999年)がある。この著作は,「日本史上の偉人=聖徳太子」は「残された史料に厩戸王は実在するが,聖人としての太子は謎のベールに包まれている」,そこで「太子のイメージはどのように成立したのか,奈良朝の政治地図の中に位置づけた」「革命的聖徳太子論」であると解説されている。
 註記)以下も各書に関する解説は,http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ を参照。

 2)  大山誠一『聖徳太子と日本人』2001年・2005年
 つぎに,大山誠一『聖徳太子と日本人』(風媒社,2001年)になると「聖徳太子は架空の人物だった」といいきり,「誰が,いつ,何のために『聖徳太子』を作ったのか。日本人にとって『聖徳太子』とは何だったのか。聖徳太子の謎を解明し,天皇制の本質に迫る」論究をおこなっている。

 さらに主題が同名の,大山誠一『聖徳太子と日本人-天皇制とともに生まれた “聖徳太子” 像-』(角川書店,2005年)も,こう主張している。「聖徳太子は実在の人物ではなかった。では,なぜ古代の日本人は,“聖徳太子” という架空の理想的皇帝像を必要としたのか。そして,それは天皇制の成立や歴史とどのように関わっているのか」。

 3) 大山誠一『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』2009年
 そして,本ブログの筆者が論及する,大山誠一『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』(日本放送出版協会,2009年11月)は,1)   2)  などの著書をもって「近年の聖徳太子論をリードしてきた第一人者」(とくに 2)参照)の立場から,さらに「聖徳太子」論を掘り下げ,鋭角的な考察をくわえた「日本の古代史」である。
大山誠一表紙
 --本書『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』の粗筋と主要目次は,こうである。
    隋唐帝国の出現により中国は巨大な龍となった。おびえる朝鮮諸国と日本。百済・高句麗が滅び,白村江で敗北した日本の運命は・・・

 藤原不比等は新しい王権を夢見る。その王権は草壁・軽・首の三人の皇子に託される。日本書紀の中に隠された不比等(ふひと)天皇は,天孫降臨神話で「神」になり,聖徳太子で「聖」になる。

 その「神聖」なる天皇を藤原一族が呑み込む。藤原不比等の企み,その呪縛は今もなお続く。

  第1部『日本書紀』の構想
    第1章 〈聖徳太子〉の誕生
    第2章 『日本書紀』の虚構
    第3章 実在した蘇我王朝
    第4章 王権の諸問題
  第2部 天孫降臨の夢
    第1章 〈天皇制〉成立への道
    第2章 藤原不比等のプロジェクト
    第3章 天孫降臨神話の成立
    終 章 天皇制をめぐって
 ② 聖徳太子「論」と明治体制「論」

 1) 日本の古代史における虚構
 本書『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』2009年においては,石渡信一郎が1992年に公刊していた『聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く-』(三一書房,1992年。→『完本 聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く-』河出書房新社,2009年9月)への言及がなく,巻末各章の参考文献にも挙げられていない。この関連文献に対する「無視(?)」の姿勢には,やや奇異な印象を受ける。

 それと同時に,いままで大山誠一が公表してきた諸著作「に書いた聖徳太子論をめぐる論争がようやく一段落しつつある」が,「何しろ,学問的反論は皆無なのである」(大山『天孫降臨の夢』〔あとがき〕293頁)と記述された「その後の経過」説明についても,奇妙な印象を抱くほかない。というのは,「論争」があったのに「反論」が皆無という経緯なのであれば,その「論争があった」ことにはならないのではないか,と考えられるからである。
1万円札2代
出所)前代の1万円札と現在の1万円札,
http://love.ap.teacup.com/mrboo/2052.html

 日本銀行券〔紙幣〕の絵柄に聖徳太子はなんども使用されている。なかでも高額券において聖徳太子「像」が採用されてきたせいか『お札(紙幣)といえば聖徳太子』のイメージがいまだに残っているようである。この聖徳太子が実在しなかった君子であるなどと指摘されたのでは,日本国の日本人・日本民族として「身も蓋もなくなる」ような気分になりかねない。

 --そうした疑問はひとまず棚上げしておき,本書『天孫降臨の夢』が「藤原不比等が,自らの分身タカミムスヒを『皇祖』とする神話を創作し,その後の日本の歴史を支配する野望が実現する。3世紀から始まる古代王権の決定的な転換であった」(〔あとがき〕293頁)という論点を語った点に,本ブログの筆者は注目する。

 この書の結論において大山誠一は,つぎのように主張している。この一文が意味させたい対象:実体はなにか?
    不比等により天孫降臨の神話が構想され,天皇制が成立すると,天皇は静かに藤原氏の部屋の片隅の人形箱に入れられてしまった。その箱は,時代の転換ごとに,時の権力者によって取り出され,化粧をほどこされることもあったが,生き生きとした生命力を回復することはなかった。そろそろ,そういう日本の歴史を冷静に回顧して,あらぬ虚構に振り回されることのない,普遍的な人類史の一員であることを自覚すべき時が来ているのではないだろうか(〔あとがき〕294頁)。
 2) 近現代史における虚構
 日本歴史を回顧するときとくに,明治期から昭和戦前期に続いてきた天皇「君主制の時代」が問題となる。明治期における天皇制(不比等が構築した王権体制=「箱」)は,それまでは「生き生きとした生命力を回復することはなかった」ものから,明治維新という「時代の転換」期「に,時の権力者によって取り出され,化粧をほどこされる」ものにかわっていた。この政治的操作は,明治の時代においては,明治天皇を囲む伊藤博文など重臣たちが用意した脚本やしくまれた演出によって大きく影響されてゆき,結局,昭和天皇の時代における〈1945:昭和20年敗戦〉に至って「大破綻を迎える結末」となった。

 今日に生きるわれわれは実は,現在の天皇・天皇制が古代から現代まであたかも連綿と継承されてきた政治的機構であったと,間違えて認識するように誤導されてきた。明治の時代が開始されてから1世紀半もの歳月を経てきていながら,そしてとくに「あの敗戦という契機」を与えられていながらも,大山誠一が指摘する「あらぬ虚構に振り回されること」からいまだに目が覚めていない。

 前段で「あらぬ虚構」とはいうまでもなく,明治の出立とともに「創られていった天皇〔の神格性〕や天皇制〔のカラクリ〕」の虚構性を意味する。しかし,現代の日本社会においてはこの〈虚構〉が,主権在民を謳った民主主義的憲法の,しかもこの上座に〈君主制〉の形態をとって堂々と陣どっていて,それも蜘蛛の巣のように張りめぐらされる状態となってもいる。この巣に絡みとられる自分=日本人・日本民族であることを,至上の名誉と感じる日本の国民〔臣民〕が多くいるかぎり,この国においてはこれからも,民主主義の根本理念が政治・社会の隅々まで浸透しえないのではないか?
 補注)今日〔2017年1月14日〕も『日本経済新聞』朝刊(この社会欄を見開きにするとき,「右面の左下」が定位置として関係の記事が掲載される場所)には,右側のようなベタ記事だが,恒例の叙『日本経済新聞』2017年1月14日朝刊叙位記事位情報が記載されている。死んだ人間に対してこのように「天皇の立場から観た・評価づけた」「位づけ」がなされている。戦前・戦中は「生きた人間」に対して,この「位づけ」が授与されていた。

 明治時代に創作された日本の華族制度を想起すれば判りやすくなると思うが,封建思想そのものである政治観念とその制度(日本なりに近代において復活させたかのような律令制のなりかわりらしいもの)の残骸の一部分が,21世紀のいまも,この国の政治制度のなかに忍びこまされ,堂々と〈活かされている〉,このような実情がある。ある意味での奇観である。なお,イギリスの貴族制度うんぬんをするなかれ。犬の目を説明するのに猫の目をもちだして語る必要はない。犬の目は目,猫の目は目。


 ③ 大山『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』終章「天皇制をめぐって」

 本ブログの筆者は,大山『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』の終章「天皇制をめぐって」に限ってとりあげ,議論したい。

 大山は最初に「古代に成立した」「天皇制とは何か」「を解明するのは古代史家の責務であ」ると述べる(267頁)。ところが,この「何か」と問われた「天皇制についての論文や著書」で「納得のいくものは皆無だった」とも述べている(268頁)。

 つぎに大山は「明快な天皇論」として,a)「戦前の皇国史観」,b)「マルクス主義的歴史観」,c)「制度史観」,d)「福沢諭吉の天皇観」などを,まとめ的に紹介している。

  a)「戦前の皇国史観」は,こう述べている。 伊藤博文があえて語って『ベルツの日記』のなかに記録を残させた「明治の元勲たちの天皇観」,それも明らかに明治天皇も含めて伊藤が示唆した点,すなわち彼らは「側近者の吹く笛に踊らされなけれがならない」という点には,特定の意味がみいだせる。この天皇観は,明治天皇の時代においても「天皇を神に仕立てておきながら,傀儡として利用ベルツ画像することしか考えていないところが藤原不比等とまったく同一である」(269-270頁)。
 出所)画像はエルヴィン・フォン・ベルツ,http://www.ktr.mlit.go.jp/sinaki/karakuri/karakuri/berutsu.htm
 補注)トク・ベルツ編,菅沼竜太郞訳『ベルツの日記』(岩波書店,1979年)のなかに記述された,つぎに引用する段落が有名である。明治時代,お雇い外国人の1人として有名だった人物,ドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツは,日本の医療制度の確立に重要な影響を与えていた。このベルツが書き残した日記のなかには,明治期に侍医を務めた「皇太子嘉仁(のちに大正天皇)の結婚」に関するエピソードが,伊藤博文の発言として紹介されている。その日付は明治33〔1900〕年5月9日である。皇太子の嘉仁が結婚したのは,その翌日,5月10日であった。
    一昨日,有栖川宮邸で東宮成婚に関して,またもや会議。その席上,伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて,伊藤のいわく「皇太子に生れるのは,全く不運なことだ。生れるが早いか,到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ,大きくなれば,側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は,操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。

 --こんな事情をなんとかしようと思えば,至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は,これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが,現代および次代の天皇に,およそありとあらゆる尊敬を払いながら,なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を,敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時,一日本人が次のように表明した。「この国は,無形で非人格的の統治に慣れていて,これを改めることは危険でしょう」と』(エルウィン・フォン・ベルツ『ベルツの日記(上)』204頁)。

 現在の平成天皇(明仁)が2016年8月8日に公共放送を使い,「自分が高齢のために退位したい意向」を表明したが,明治期から置かれてきた皇室典範にはその退位の規定がないがゆえの顛末であった。この事例においても,伊藤博文が百年以上も昔に得意げの語っていた〈筋書き〉のような要因が介在していないとは,誰にも否定できない事情である。
 「不比等が作った『日本書紀』の神話から天皇制が成立し,それを利用して明治天皇制も成立した。皇国史観はそのお先棒を担いだに過ぎない。根本にあるのは『日本書紀』のようだ」(大山『天孫降臨の夢』終章「天皇制をめぐって」270頁)。

  b)「マルクス主義的歴史観」は,こう述べている。 マルクス主義による天皇・天皇制に関する討究は,「しばしば人間不在の歴史学と批判され」「およそ実証はなく,日本がアジアに属することは自明とされ,いつのまにか日本の天皇もアジア的専制君主とされてしまった」。「マルクスの学問自体も必ずしも科学的とは言えなかったが,それ以上に日本の歴史家の態度も非科学的であった」。

 「そういうマルクス主義も一種の宗教のようなものであ」り,「教祖のマルクスの言葉こそ重視すべきであった。マルクスは,『資本論』の中で日本に言及し」,「はるかに忠実なヨーロッパ中世の姿をしめしている」。「マルクスは」「シーボルトあたりの情報に接していたのであろうか」(271頁)。

 しかし「要するに,伊藤〔博文〕の発言に見るような明治天皇制の虚構を見抜けず,科学的な実証によって皇国史観を克服することなく,ただ,言葉の上で皇国史観を裏返すだけに終始してしまった」(272頁。〔 〕内補足は筆者)。

  c)「制度史観」は,こう述べている。  「日本の古代史を真面目に勉強すれば,天皇が専制君主などという根拠ない。しかし,最近の制度史家は,これを頭から専制君主と決めつけているようにみえる」。「最近の古代史家が,非実証,人間不在の皇国史観とマルクス主義に追従しているからではないのか」。

 「天皇は専制君主ではないし,なかったことは誰でも知っている。象徴天皇と言われれば,ああそうかな,と思ってしまう。ところが,日本古代史研究の場だけは例外的に明治天皇制以来の非常識が生きているのである」(275頁)。

  d)「福沢諭吉の天皇観」は,こう述べている。 明治憲法がまだ制定(は明治22〔1890〕年のこと)されていなかった明治8〔1875〕年の『文明論の概略』では,正直に天皇を論じていた。「王室(天皇)に親愛の情は感じていないが,政治の変化は受け入れようというだけである」(276頁)。

 福沢諭吉が明治21〔1898〕年に刊行した『尊王論』は「皇室を旧家の一つとしている」。「天皇が薩長の藩閥に利用される」のではなく,「天皇の中立的かつ文化的役割を期待しており,そもそも権威には懐疑的だったのである」。「これが,明治憲法以前の良識であった」。「常識であったかは難しい。しかし,歴史学者は良識をもつべきである」(277頁)。

 2)『日本書紀』の問題
 大山誠一は「明治憲法と教育勅語が流布し,国民が皇国史観に洗脳されてくると,そのお先棒を担ぐ学問が生まれる。天皇を現人神とする神話を正当化し,その根拠をもっともらしく論ずる学問である」(277頁)。

 「この場合,もっともらしく,というところが重要である。明治憲法では,天皇は『神聖ニシテ侵スヘカラス』とあるけれども,現実の歴史に即してみるとそうは言えない。専制君主でもなさそうだ。とすれば,それを補うためには,必らずしも直接政治にかかわるのではなく,より高次の存在であると主張すればよい。要するに人間の価値観で考えてはいけない。現人神なのだから,そこを突きつめることになる」(277頁)。

 「天皇は単なる王ではない。日本古来の深遠なる宗教的風土から出現したものである。折口信夫などは妄想たくましく天皇の宗教性を強調する。まったく無駄な学問である。また,最近でも天皇をチベットのダライラマなどアジアの宗教性の中で論じるような人もいる。日本の歴史を見ないで,すぐ外の権威に頼ってはいけない」(277-278頁)。

 「重要なのは,天皇がいつから現人神になったかを見極めることではないか」。「それは」「『古事記』と『日本書紀』の神話によってである。『記紀』神話ができる以前は天皇は神ではなかった」。「『記紀』の神話,つまり高天原・天孫降臨・万世一系の神藤原不比等画像話は,日本人が古くから伝えてきた伝承ではない」。
 出所)画像は明治時代に描かれた藤原不比等:「想像の姿」,http://ja.wikipedia.org/wiki/藤原不比等

 それは「7世紀末から8世紀にかけて藤原不比等が作ったものである。天皇を利用するためにである。その結果成立した権力を,上山春平氏は藤原ダイナスティと読んでいる。」。大山「もそれに賛成だが,少し違う。藤原氏は,厳密には皇室を利用しているのではないか。皇室を藤原氏の一部に取り込んでいるのである。皇室は,藤原氏の一部としてしか存在しない。そういうシステムが世上言う天皇制なのである。何しろ,『日本書紀』の本文では,『皇祖』は藤原不比等なのだから」という結論を確認する(278頁)。

 ④ 古代天皇制と近現代天皇制の共通点

 1) 議論の整理

  ☆-1 古代天皇制 =藤原不比等が初めて創り,操った古代天皇たち。

  ☆-2 中世・近世天皇制 =これといった存在感はなし。

  ☆-3 近現代天皇制 =伊藤博文〔や宮内省・宮内府・宮内庁〕などが創り,操って
      きた明治・大正・昭和の天皇,そして平成の天皇。

 以上のように,大山誠一『天孫降臨の夢-藤原不比等のプロジェクト-』2009年に学んだ成果によれば,☆-1・2・3のように整理されるはずである。ただし,煙管(キセル)に譬えていうと,古代天皇制と近現代天皇制との中間における時代:「中世・近世」における天皇一族は,実は「京都で優雅ながらもごくつつしまやかに暮らしていた」し,現実の政治そのものに立ち入ることは,ごく一時期に起きた例外を除けば,ほとんどなかった。

 したがって,明治維新を契機に,伊藤博文らが古代天皇制を参考に「明治天皇の政治時代」,いいかえれば「アジア地域において後進帝国主義の時代」を新たに創って推進させていった,という〈歴史的な事実〉に注目しなければならない。

 現在まで残存・継続している「天皇家の一族」をめぐって,「古式ゆかしき儀式」をとりおこなう家族集団であるなどと,一知半解「以下」の歴史理解を披露する《無知:暗愚》とは,無縁であらねばなるまい。いまなお,天皇・天皇制に関する初歩的な歴史知識さえもたないで,皇室をやたら美化・称賛しまくる,一部の盲目的な「皇室礼讃主義の作家たち」も多くいる。

 明治以降の日本においては〈高貴な人びと〉が東京:皇居に移住してきており,世界無比の日本〔帝〕国もそれによって出立できたなどと間違えて教えられてきた結果,気分的にだけは「日本帝国は1等国だ」と舞いあがってしまっていたのが,1945年までの日本帝国とその臣民たちであった。こうした「過去における国民精神心理史」に関する「深い内省」が,いまあらためて要請されているのではないか。

 敗戦から5~6年経ったころから再び立ち上がれる契機をえた日本国がその後は経済大国となり,そしていまやそれ相応に豊かになれたからこそ,いまの「格差社会」も生まれており,とうとう「高齢社会」に突入していた。ここに至って日本はこの国なりに〈老大国〉にならねばならない地平に立っている。

 皇室の〈歴史・伝統〉を文明史的に他国の〈それらに該当するもの〉と比較するにしても,神話史的という含意でもってみても,そして他国における立国史物語とに比較してみても,日本がかくべつに優れているというための絶対の根拠はない。

 『記紀』の神話の話を他国の〈それらに該当するもの〉と比較しても,労多くして報われることの少ない試みとなるほかない。自国の自慢話が他国の〈それらに該当するもの〉に対して,圧倒的に優位にあると信じられるだけの合理的・客観的な材料は,どこにも・誰にも与えられていない。それなのに〈日本民族の絶対優秀性〉をひたすら高揚するのは,いい加減にしておいたほうがよい。

 とはいっても,こうした意見は,どの国の人間でもそうだと思うが,自分の住む国・地方・市町村〔→故郷〕を誇りに思い,自慢もし,大事にして暮らすという日常的な生活感覚のなかから生まれる愛国・愛郷心を否定するものではない。そうではなくて,明治天皇体制のもとで日本帝国がアジア侵略路線に入っていった国家的理屈は,いったいなんであって,その結果としてなにをもたらしたかなどを想起しなければならない。

 2) 天皇・天皇制,そのボタンの掛け違い
 大山は結局,藤原不比等が古代天皇制を構築する過程において「皇位が」「その直系の子孫へと受け継がれるべきことを宣言し」たさい,「その根拠に『高天原』をもち出したため」「万世一系の神話ないし虚構が必要となった」と説明している(234頁)。

 昭和天皇がたしかにそうであったし,その息子の平成天皇もそう思いこんでいるのは,自分たちが神代から天皇位を継承してきたと,それも「間違いかどうか」などというたしかめてみる姿勢とは遠く離れて,「万世一系」の系譜を引く自分たちは天照大神の子孫だと,実際に本気で,そして神話的にも信じこもうとしていることである。
平成天皇退位の意向テレビ画像
  出所)https://ringosya.jp/tennouheika-seizen-taii-kunaichou-zenmenhitei-34865

 考えてみるまでもないはずであるが,いくら天皇条項を冒頭からかかげる日本国憲法とはいえ,このような歴史観を抱懐する「天皇たちとその一家」を日本国民が扶養している現状のごとき政治的な関係は,けっしてまともな〈現代国家〉の態様ではない。ありていにいって正常態ではない。

 憲法における〈政教分離の原則〉を護ろうとする一般国民の「象徴としての天皇」が,そのように皇室神道的な「政教不分離」の観念を抱いて,それも年中行事である神道祭祀を日夜執りおこなっている。この天皇という存在と一般国民との政治的な関係をカリカチュアといわずして,いったいなんでありうるのか? この状況はすでに喜劇をとおりこして悲劇に至っているのではないか。

 天皇たちがそのように「自家の歴史」を考えるのは勝手である。しかし,京都御所に里帰りでもしたあとであれば,その古里の垣根のなかだけで「自分たちの祖先=天孫降臨を思いこむ」分にはいっこうにかまわない。だが,日本の歴史を通貫する視点において観るとき,ごく一時期でしかない明治以降の〈皇室的な政治史〉は,重臣たちの手練・手管によって天皇が「手玉」にとられる存在であったにせよ,天皇自身の地位や権威を異様に突出させる政治的な関与をも生み,他国侵略をおこなうための制度的な心理機構を用意するものになっていた。

 だから,昭和天皇自身において,もっとも代表的に現出した戦前・戦中政治の「過誤や失策」は,政治家個々人や国民全体のそれをはるかに飛び超えた〈異次元的に重大な体制責任〉を意味する。アジア地域の近現代史において大失敗を来したのが,明治以降利用されてきた『皇室機能の肥大的悪用』形態であり,これを具体的に担って生きてきた天皇自身であった。単に日本の臣民に対してだけでなく,アジア諸国家・諸地域の大衆に対しても〈甚大な被害と惨禍〉をもたらした「天皇を中心に担(かつ)いだ日本帝国主義路線」,この歴史的な意味がいまあらためて反省の素材にされねばならない。

 昨〔2009〕年秋に新しく登場した民主党政権は,東アジア共同体の形成をめざす〈日本の方針〉を明らかにしていた。しかしながら,これに対して日本国内からはたとえば,「日本国民はその構想に関する説明を受けておらず合意も示していない」という疑問が提示されていた。これに真正面から答える必要がある。そして,それ以上に留意が必要であるのが,過去における「大東亜共栄圏思想の残滓」をきれいさっぱり洗いおとしたうえで,東アジア諸国から評価・認定を受けられる「東アジア共同体の提案」を日本国が提案することである。
 補注)現在,2017年1月時点では,自民党〔プラス公明党〕に再び政権が握られているが,ここで言及された東アジア共同体「論」の構想は,吹っ飛んだままである。たった10億円のはした金で,韓国の日本大使館近辺にある「従軍慰安婦問題の象徴:少女像」などを除去するだけでなく,この歴史問題が「なきもの」にできるかのように観念したい愚かな,この国の,それも過度に無知かつ勇敢なるがゆえに「幼稚で傲慢」に張り切ってもいる最高指導者同志がいる。だが,この人の政治の実際を観ると,日本国の内政と外交は荷が重すぎる姿にしか映っていない。

 そこで話題は,この最後の段落における記述となって,ごく最近に飛んでいる。『日刊ゲンダイ』2017年1月10日の記事であるが,見出しは「気がつけば敵をつくるだけに終わっている安倍外交の正体」から,以下の引用をしておく。擬人化した表現で「日本はピエロである」という記事であるが,そのピエロ自身は,ほかならぬ安倍晋三である。
 註記)註記)http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/197237
    オバマ米国も,偽善の真珠湾慰霊で分かるように,安倍を信用することはないだろうし,次期政権は貿易問題で就任前にトヨタを名指し批判するトランプだ。経済だけでなく安保でも日本政府に無理難題を押し付けてくるだろう。

 北方領土問題でプーチンのロシアにもはしごを外され,習近平の中国とも睨み合いが続く。

 唯一,改善の兆しとされた韓国も朴 槿恵の失脚と今回の少女像問題で再び亀裂が走った。気がつけば,安倍外交は敵だらけだ。それでもタカ派路線で突っ走る。何の展望もないのに突っ走る。見ちゃいられない。この政権は,本当にマズい。
 註記)http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/197237
 この問題だらけの人物が,いまにまさしく「日本国における天皇問題:明仁の退位問題」もいじくっている。それも,伊藤博文の足下にも及ばない,いまの時代を混乱させる特技だけはもちあわせているその人物が,である……。


 【闇取引的な裏交渉がマック(アメリカ)と裕仁(個人)とのあいだでなされていた歴史の事実を論じる】
 
 【自己保身に長けた昭和天皇の記録:かつての臣民・赤子を踏みつけにし,自分ばかりがうまく生き延びてきたつもりの男の,バレてしまった悪あがき的な画策】


 〔※ 断わり〕 本記述は旧ブログ「2010.1.27」からの転載・再出であるが,適宜,補正・加筆している。この内容は古さを感じさせないどころか,昨今における安倍晋三君の悪政・拙治が大いに加味されているせいもあってか,あらためて,ますます意識して真剣に考え抜くべき論点の提示となっている。

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 ① 昭和天皇は本当に日本国民を考えて敗戦後を生きてきたか-そのような妄想を完全否定する歴史上の証拠-

 --本ブログの筆者は昨日〔これは旧ブログ,2010年1月26日であるが〕の記述において,こう論及した。

 「敗戦後もなまじ天皇家が残存させられたために,しかも占領軍による日本統治の都合という最大の理由もあったために,憲法第9条との作為的な〈矛盾の均衡〉のなかで存続させられてきた天皇・天皇制=皇室のありかたは,日本国憲法において一番説明しにくい暗点を提示しつづけてきた」。

 現在すでに,『昭和天皇の「沖縄メッセージ」』という文書の存在は周知である。敗戦後,日本国憲法が制定(1946年11月3日),施行(1947年5月3日)される過程において,日本国の象徴天皇になっていたはず裕仁が実は,改正されて新しくなった憲法において規定された「〈象徴〉としての自身の立場」を,平然と無視して蹂躙する闇交渉そのものを,アメリカ国家・政府側と直接におこなってきた。この明白に憲法を全面否定した彼の行動に関する歴史の記録が,20世紀も最後の10年になったころには白日のもとに引き出されていた。
 参考文献)ここではとくに,進藤榮一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』岩波書店,2002年。

 1) オキナワを犠牲にしてアメリカに自分を護ってもらおうとした天皇裕仁
 つぎの2つの文書をみれば(なお題名には下線を付しておいた)をみれば,昭和天皇が日本国民をないがしろにしただけでなく,日米政府間の正式な交渉経路も完全に排除したかたちで,自分の地位の保全のためにだけ汲々とする働きかけをしていた事実,分りやすくいえば,敗戦に打ちひしがれていた人びとを横目にしながら,彼(自分:天皇一族)のためだけの「非常にセコイ,我利我利の政治交渉」を記録していた事実=気持が読みとれる。
総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡
『主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解』

     
 国務長官殿 在ワシントン

  拝 啓

   天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。

 米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること,疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は,長期租借による,これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば,日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し,軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。

    敬 具

   合衆国対日政治顧問 代表部顧問
     W.J.シーボルト
          東京 1947年9月22日

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琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解』
を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から
1947年9月22日付け通信第1293号への同封文書

     連合国最高司令官総司令部外交部
       1947年9月20日


  マッカーサー元帥のための覚え書

 天皇の顧問,寺崎英成氏が,沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で,時日を約束して訪問した。

 寺崎氏は,米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると,言明した。天皇の見解では,そのような占領は,米国に役立ち,また,日本に保護をあたえることになる。

 天皇は,そのような措置は,ロシアの脅威ばかりでなく,占領終結後に,右翼及び左翼勢力が増大して,ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような “事件” をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。

 さらに天皇は,沖縄(および必要とされる他の島嶼)に対する米国の軍事占領は,日本の主権を残したままでの長期租借--25年ないし50年あるいはそれ以上--の擬制にもとづくべきであると考えている。天皇によると,このような占領方法は,米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ,また,これによる他の諸国,とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。

 手続については,寺崎氏は,(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は,連合国の対日平和条約の一部をなすよりも,むしろ,米国と日本の二国間条約によるべきだと,考えていた。寺崎氏によれば,前者の方法は,押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて,将来,日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある。

   W.J.シーボルト
 --この文書については豊下楢彦の研究がくわしい分析・解釈を与えてくれているので,その詳細については,豊下楢彦の著作『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』(岩波書店,1996年),『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店,2008年),『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』(岩波書店,2015年)などの参照を勧めておきたい。

 そうした書簡をとおしても理解できるのは,敗戦した日本国をアメリカに全面的に委ねる〔=売り渡す〕代わりに,すでに確保されていたはずの「自分の天皇としての地位(象徴)」を,より確固としたものにしたかった昭和天皇の意向=〈個我の心情〉である。

 2) 第2次大戦後における東西対立構造を恐怖した昭和天皇
     -なにを恐れ・怖がっていたのか? 日本国民に対する売国奴的な裏切り行為-
 前掲の文書はとくに,第2次大戦後に発生した東西対立のなかで社会主義国家のロシア〔ソ連邦〕などをひどく恐怖していた裕仁天皇の姿を彷彿させるものである。アメリカの軍隊に日本を占領してもらっているが,いずれ日本国が占領統治を解かれたあとも,どうぞ「オキナワ」などを「半世紀以上の長期間になってもいいです」「貴国の基地にしておき存分にお使いください」と,昭和天皇がいっていたことを説明する〔=証拠づける〕文書である。
 補注)いうまでもなく本日は2017年1月13日である。綾小路きみまろの得意文句である “あれから40年!” さえも「はるかに越えた長期間」にわたり,在日米軍基地は日本の脊柱に打ちこまれた何本もの太い杭のように突き立てられている。
綾小路きみまろあれから40年画像
出所)http://blogs.yahoo.co.jp/red_purple_ruby/46481173.html

 東京都のど真ん中にはアメリ軍専用のヘリポートもあり,アメリカからの直行便で日本に飛来する政府や軍の関係者は,そのヘリポートから東京に出入りしている。むろん,税関での出入国手続など無縁の立場・資格でもって,米日間を行き来している。


 敗戦後の昭和天皇はそもそも,戦後における政治過程からしてこのように「旧日本帝国時代の君主」の気分をまだ剥きだしにしており,アメリカとの直接交渉を,それも日本国政府の主体的な立場をもってする正式な交渉経路を無視したかたちで,個人で勝手に行動していた。その姿は,かつて「現人神の天皇であった彼」であったけれども,ちまたの人間と同じに「単に利に聡い」行為を,それも必死になっておこなっていた。

 前掲,W.J.シーボルト文書において決定的に重要な特徴は,昭和天皇は当時すでに憲法上の「象徴」となることが決まっていた〔1947年9月であるから新憲法は公布されて施行を待っていた時期〕けれども,こちらの経緯・事情などどこ吹く風といった態度で,しかも戦前体制期における君主感覚の延長線上において,あるいはそれをはるかに超越したかのように,しかもあくまでも「自己保身=私利」のために懸命に画策していた点にみてとれる。これほどエゴを丸出しにしていた天皇裕仁の姿は,どうみても,とてもみぐるしかったはずである。

 3) 新憲法の基本精神を破壊していた天皇の行為
 昭和天皇はまた,そうした闇交渉をとおしてはあたかも,自分が日本国民の代表であるかのような立場でも言動してもきた。もちろん,これを利用したアメリカ側の狡猾で実利的な態度にもみのがせない重大な問題がある。いうなれば「天皇個人」と「アメリカ当局」との,おたがいに《身勝手な共作共演》。しかし,この関係の構図のなかに表現されていたごとき,「アメリカ政府の国務省」に対する「天皇という個人」との相互関係は,政治的交渉関係のありかたとして観察するとき,まことに奇妙な様相であった。

 オキナワにはいまだに,アメリカの日本占領地であるかのように軍事基地が配置されている。アメリカの領属地であるかのような風景が,オキナワのあちこちにみられる。この沖縄県にある米軍基地の移転問題が,最近では新聞紙上をにぎわす大きな問題である。昭和天皇にとって「オキナワ」とは,人身御供に差しだした程度の価値しかもたない,それも「日本の島々」のひとつにしか過ぎなかった。琉球人はいまも基地問題で苦しめられている。
 補注)2016年になって沖縄の米軍基地移転問題からは,「本土から派遣された機動隊員」が警備中に,沖縄県民を土人呼ばわりする事件が起きていた。この土人発言がたとえ,いきがかり上のやりとりにおいて発せられたものにしても,日本政府は沖縄県を日本国の付け足し程度にしか位置づけていないといわれて,これに有効な反論がしにくい事件の発生となっていた。

 天皇裕仁は敗戦直後,アメリカと交渉する地位にはなく,ましてやその権限などもとよりなかったにもかかわらず,アメリカに対して「オキナワ」などを「25年ないし50年あるいはそれ以上」お使いくださいと申しでた。そういわねばならなかった理由は,彼が「自分のモノ」だと,まだ思いこんでいた日本〔より正確にいえば自分1人であり,そしてせいぜい天皇家・一族のことに過ぎなかったが〕の防衛(守護)を,こんどはもっぱらアメリカ軍に担当してもらうためであった。

 この21世紀にもなってもなお,日米間の戦後史〔日本にとっては敗戦だったが,アメリカにとっては勝利だった〕関係が,正常かつ対等な間柄をもってするところまで復帰させえていない。こうした歴史的な推移に至らしめる起因をわざわざ提供していたのが,ほかならぬ「昭和天皇」=「個人」であった。敗戦に淵源する昭和天皇の戦争責任は限りなく大きい。日本の歴史においてこの事実は特筆大書されておかねばならない。われわれは,琉球人が「君が代」を歌いたがらず「日の丸」を揚げたくなかった〈歴史の背景〉を,よくよく理解しておくべきである。けっして他人事ではない。

 ② 日本国憲法の成立事情〔その1:天皇を日本統治の道具に使うために彼の戦争責任を免訴した〕

 古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波書店,2006年)は,こう論じている。
古関彰一表紙
 GHQが敗戦後の日本において憲法制定を急いだのは,1946年2月末の極東委員会発足を控えていたからだといわれている。だが,同年3月6日の日本政府案〔憲法改正草案要綱〕発表以後,GHQは急がなくなる。極東委員会発足と同じ2月26日「昭和天皇の退位について皇族方はこぞって賛成」という新聞記事が出ていた。

 マッカーサーはそれまでには,天皇の戦争責任を問う国際世論に抗して「天皇の戦争責任免罪」「天皇制の存続」を決めていた。天皇制存続のみこみが出てきたところに,天皇の退位問題がもちあがり,マッカーサーの努力を無にする恐れが出てきた。

 アメリカ政府に対するGHQの報告は,この憲法草案が《昭和天皇の意思》で積極的に作られた点を強調している。それは,第1条で天皇制を存続させ,1946年5月3日から始まる東京裁判で天皇の戦争責任を問わず,第9条の戦争放棄は一体のものとするという基本線であった。
 註記)http://ttakitttt.seesaa.net/article/133012424.html 参照。

 古関彰一は,オキナワをアメリカに担保して自分の地位を保守できた昭和天皇が,日本国憲法の制作過程においても裏舞台で取引していた事実,しかもそれによって「憲法の第1条から第8条と第9条との組合せ」が制作された事実に言及している。

 ③  日本国憲法の成立事情〔その2:その問答形式による理解〕

 ここで,以下に紹介するのは「日本国憲法誕生の真実」の題名をもって交わされた「問答の内容」である。その出典は後段に記してあるが,2007年4月25日に公表された「この人に聞きたい 古関彰一に聞いた(その1)」を引用・紹介している。

古関彰一画像 敗戦後,日本国憲法はどのような経緯をたどって生まれたのか,当時,人びとはそれをどう受け止めたのか。日本国憲法成立の過程について,「憲法学者古関彰一との問答形式」を借りる形式で,つぎに考えてみたい。
 出所)画像は,http://www.magazine9.jp/interv/koseki/koseki.php

 なお,古関彰一〔こせき・しょういち,1943 年東京生まれ〕は早稲田大学法学部卒業後,和光大学教授などを経て 1991年から獨協大学法学部教授,現在は同名誉教授。専門は憲法史。著書に吉野作造賞を受賞した『新憲法の誕生』(中公文庫),『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店),『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット)がある。

 1) 日本国憲法は「GHQの押しつけ」だったか

 【編集部】--「日本国憲法の成立過程」は一般的にこう語られている。敗戦後,GHQは日本政府が作成した憲法改正要綱の「松本案」〔国務大臣松本烝治が中心に作成した憲法改正要綱。日本政府案としてGHQに提出されたが,保守的に過ぎると却下された〕を拒否したうえで,GHQ作成の案を日本政府に「押しつけた」。

 また,戦後に民間の「憲法研究会」〔高野岩三郎の呼びかけにより結成した研究集団。1946年12月に独自の「憲法草案要綱」を日本政府とGHQに提出〕が作成した,その憲法草案の内容がGHQの憲法草案に影響を与えた可能性が示唆されてきた。

 【古 関】--GHQは憲法研究会の憲法草案を非常に民主的だとして高く評価していたから,おそらくはGHQが作成した草案にもその内容が摂取されていた。ところが,GHQ内部による「憲法研究会の案は素晴らしい」とした肯定的な評価は,当時日本国民に向かっては公表していない。

 GHQによる日本の占領は直接統治をせず,天皇と日本政府を通じておこなう間接統治にしてあった。新憲法を作るときも同じであり,あくまで主体は日本政府とされた。GHQが日本国民に対して直接「憲法研究会案は素晴らしい」とはいわなかったのは,憲法作成の中心が「天皇や日本政府」ではなく「民間団体の憲法研究会」に移ってしまってはまずかったからである。

 GHQは日本を占領統治するために「天皇の権威」を絶対に維持したかった。だから,憲法を制定させるときも,明治憲法の改正手続にしたがい帝国議会で審議させ,天皇による勅語を出させる工夫をした。GHQとくにマッカーサーが大事にしたのは,天皇および日本政府の権威をかえないことであった。

 【編集部】--GHQとマッカーサーは,天皇と日本政府の権威を守るために,そうした「面倒」な形式・手順をとった。

 【古 関】--GHQは憲法案を日本政府に手渡すときに,これを受けいれないならば日本国民に直接公表するといった。GHQのこの決意は,その内容を必らず日本国民に受けいれられるという自信に裏づけられていた。すでに憲法研究会案を読んで参考にしてもいた。

 天皇制を非常に支持する人たちに限って,憲法はGHQが日本国民に押しつけたと批判する。けれども,象徴天皇制を残した憲法を「受けいれないと天皇制をなくすかもしれない」と,やや強引に推しすすめたからこそ天皇制は残った。この史実を理解しないで押しつけだといいはるばかりでは,天皇制を残してくれたGHQに感謝もしないのは〈不敬罪〉? という冗談さえ成立する。

 【編集部】--日本政府の草案が否定された理由はなにか。「憲法押しつけ論」はいつごろ,どこから生まれたものか。

松本烝治画像 【古 関】--「押しつけ」ということばは,1955年に自由民主党が結党したのちにが出てきた。この翌年,内閣のなかに憲法調査会が組織されるが,ここでGHQに拒否された日本政府案を作成した松本烝治が証言をして,自分がGHQと渡りあった屈辱的な体験を話して「この憲法は押しつけだ」といった。
 出所)画像は松本烝治,http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/people/detail.php?cd=99&TB_iframe=true&width=550&height=310

 もっとも,松本は近代憲法の基本精神を理解しておらず,天皇を絶対とする国家観,ヨーロッパであれば19世紀流の絶対君主制国家の保守的憲法観しか念頭になかった。要は,時代にみあった憲法をつくる能力がなかった。

 2) 近代憲法の根本理念に無縁だった日本の憲法学者

 【編集部】--松本案は近代憲法ではなかった。

 【古 関】--日本国憲法21条には「表現の自由はこれを保障する」とある。しかし,明治憲法ではそれを「法律の範囲内で」だけ認める。松本案もそれを踏襲していた。これは近代憲法では許されない考えであって,GHQも居丈高に「直せ直せ」と要求したはずである。

 その点を思いだして「屈辱的な体験だった」という。しかしGHQは,自分たちの案をそのまま採用しろといったわけではない。たとえば,ヨーロッパの発想になる25条「生存権」は,「ドイツのワイマール憲法にはある」と主張した社会党国会議員の意見を受けいれている。

 【編集部】--受けいれられなかった部分と,受けいれられた部分がある。

 【古 関】--冷静に回顧しなければならない。日本側の案が受けいれられなかったのは,近代憲法の理念に反した部分であって,松本案が日本政府の案だから駄目という事情ではなかった。GHQから,いったいなにを押しつけられたといえば,近代憲法を押しつけられたのである。日本国民にとっては押しつけではなく,人権が広く認められる憲法・平和に生きられる憲法であった。しかし,国民にはいいと思われるその憲法が権力者は困る〈近代憲法〉だから,この憲法を「押しつけられた」と非難してきた。

 【編集部】--「押しつけられた」という言葉だけが1人歩きしてきた。

 【古 関】--権力者のことばがマス・メディアを通じていつの間にか広げられ,多くの国民が「押しつけられた」と思わせられてきた。誰がなにを押しつけられたのか,あらためて再考しなければならない。

 3) 憲法の改正と制定の相違点

 【編集部】--「憲法改正」か「新憲法の制定」か。敗戦後の日本国憲法成立過程は「新憲法の制定」ではなくて「明治憲法の改正」であった。ところが,自民党が小泉純一郎を本部長として作ったのは「新憲法制定推進本部」であって,2005年に発表されたのは「新憲法草案」である。改憲,改憲といいながらなぜか「新憲法制定」をかかげている。

 【古 関】--「憲法の改正」と「制定」は違い,もともとある憲法の改正手続を踏むか否かにある。現在の日本国憲法は,明治憲法の憲法改正手続に則って昭和天皇が詔書を出して発議し,帝国憲法改正案として帝国議会に出されたゆえ「改正」である。自民党はいままで,日本国憲法の改正手続を経て新しい憲法を作ると主張していて,国民投票法案を制定しようとした。これも「改正」である。

 【編集部】--自民党の「新憲法制定」という表現は矛盾する。

 【古 関】--そこに最大の問題がある。憲法を改正する手続にあっては,現行の日本国憲法との関連性を説明しなければならない。自民党による憲法「改正」の方向は「現在の憲法の平和主義」の引き継ぎを本当は嫌がっている。だから,憲法改正推進本部ではなくて新憲法制定推進本部を置き,憲法改正案ではなくて新憲法草案を作る。これは事実上「制定」である。

 【編集部】--憲法の制定であれば基本的に,革命やクーデターで新政権が誕生したときにしかありえない。

 【古 関】--自民党は戦後の60年を全部無視したい。日本国憲法の効能を誇りとはできず,その60年を心の底では「日本という国にあるまじきもの」と思いこみ,全部なかったことにしたい。その執念には驚かされる。

 4) 日本における民主主義思想の伝統

 【編集部】--私たちがすべきこと,なにができるのか。

 【古 関】--憲法研究会の中心成員であった憲法学者鈴木安蔵(1904~1983)は,治安維持法違反事件第1号であったが,政府からの弾圧を受けながらも,明治時代の自由民権派が作った憲法の研究をしてきた。自由民権運動は長い間弾圧されて社会からは認められなかった。しかし,何十年かして戦後になって認められた。

 先人が苦難をかいくぐって守り,育ててきた民主主義の思想を受け継ぐことは,つぎの時代へと受け継がれていく条件にもなる。権力者は,平和や民主主義を唱える人をいくらでも弾圧はできる。しかし,思想を殺すことはできない。思想は死なず,必らず地下水脈となって受け継がれていく。

鈴木安蔵画像 鈴木安蔵は,大正デモクラシーの代表的論客・政治学者吉野作造(1878~1933)に出会って非常に力づけられた。その死後は法学者尾佐竹 猛(1879~1946)が鈴木を支えて明治憲法の研究をやった。
 出所)画像は鈴木安蔵,http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/28013110.html

 さらに尾佐竹の死後は,前述にもあった憲法研究会の設立者・社会統計学者高野岩三郎(1871~1949)が鈴木を誘って憲法研究会を立ち上げた。このように1人ひとりの力はどんなに小さくても,思想はつながっていく。
 註記)「以上の問答」の引用は,http://www.magazine9.jp/interv/koseki/koseki.php より。なお,このインタービュー記事は〈話ことば〉での問答:やりとりなので,冗長な表現にはあえて相当手をくわえ,文章の形式にかえて抄約的に参照した。そのさい文意を壊さぬよう細心の留意も払った。

 ④ 騙しつづける天皇・天皇家と,そして,騙されつづけている臣民あるいは国民との関係

 以上の記述をおこなってきて痛感することがある。それは,敗戦後の政治過程において昭和天皇が,いかに手前勝手に自分の利害だけで妄動していたか,しかもその結果がその後における日本の政治に大きく影響しており,21世紀における日米軍事同盟関係までを方向づけていたという事実である。この点でいえば安倍晋三君も昭和天皇の掌にあったといえなくもない

 敗戦後によくも悪くも変身していたはずの天皇裕仁が,日本帝国から日本国に立場が変化したことなどおかまいなしに,個人的なかけひきでもって日米関係を構築していった歴史は,今後あらためて厳正な裁き(審判)を受けるべき問題である。その意味でも,戦争責任を逃れえた天皇裕仁が戦後において描いてきた彼自身の生きざまとしての軌跡は,未来永劫に消し去ることのできない〈歴史に刻みこまれた負の記録〉となっている。

 敗戦後,皇室御用の新聞記者として忠実に活躍した新聞記者藤樫準二は, 『陛下の “人間” 宣言-旋風裡の天皇を描く-』(同和書房,昭和21年9月)や『千代田城-宮廷記者四十年の記録-』(光文社,昭和33年),『天皇とともに五十年-宮内貴社の目-』(毎日新聞社,1977年)を公表して,昭和天皇のイメージ変換に熱心に協力していた。とくに最初の書物(昭和21年9月)は,宮内省高官から情報を提供されたり,出版の費用まで出してもらっていた。( ↓  左側画像は,画面 クリックで 拡大・可)
       藤樫準二表紙1 藤樫準二天皇とともに五十年画像
 宮内庁が当時それほどまでして変身させたかった大元帥:裕仁天皇の旧来の姿容(イメージ)ではあったけれども,第2次大戦後の日米軍事同盟関係を基礎とする両国主従の地位関係を決定的にした藤樫準二表紙3 (1)闇取引を,彼はアメリカ国務省とじかにおこなっていた。その意味でも藤樫準二のように,敗戦後「天皇を戦争から引き離そうとする宮中キャンペーンの一翼を担」った,まったく「批判的姿勢を欠く」どころか,事実さえも隠蔽して糊塗する役目を果してきた〈ジャーナリスト〉は,ともに並べて同罪というほかない。
 出所)画像は,藤樫準二『千代田城-宮廷記者四十年の記録-』昭和33年の表紙カバー。
 なかんずく,藤樫準二は敗戦直後,「役人や国民に示された貴重な民主化の第一歩」を記録したのが昭和天皇であると 100%(以上にも)間違いなしの大嘘をついたうえで,手放しで無条件に天皇を称讃する書物『陛下の “人間” 宣言-旋風裡の天皇を描く-』などを執筆してきた。

 そして,藤樫は1974年,「国家〔=皇室?〕への貢献」により勲章を授けられた。この世においては,いつでもその手の皇室御用しか頭にない似非マスコミ人などがいる。

 現在でも,テレビ放送においては「皇室ヨイショ番組」は,いくらでも堪能することができる。われわれ庶民は,この種の皇室番組を耳目をこらしてよく観察して鑑賞するのがよい。天皇とその一家はけっして「聖家族」ではない。

 観方にもよるが,ただの,いじましくも人間らしい家族たちである。皇室の物語だからといって,予定調和的にかつ美辞麗句に演出し,粉飾するマスコミの報道姿勢は,ある意味で間違いなく,非常に罪作りな習性である。

 現在における天皇・天皇制の源泉・本義は,どこまでも『明治における神武的な創業,この謹製』にあったという事実,すなわち,その「歴史の起点」を忘れるわけにはいかない。


 【「玉転がし」を始めた安倍晋三政権の不遜ぶり】

 【不敬か不遜か,傲慢か幼稚か,いずれにしても古代的な半封建制度の存続・維持】

 【天皇・天皇制がわれわれの時間を支配する21世紀の時代】


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    =「本稿(前編):その1」の目次=

 ①「2019年元日から新元号 事前に発表,準備期間 政府検討,特例法の成立が前提」(『朝日新聞』2017年1月11日朝刊1面冒頭記事)

  1)1面の記事(見出しは ① のとおり) 
  2)3面の記事「改元,国民生活を考慮 政府,年の途中避け元日に」
  3)『天木直人の BLoG』2017年1月10日の指摘
  4)元 号

 ② 元 号 考-問題の根源-

  1)「元号問題の本質」 
  2)「元号の由来」
  3)「元号問題再考:その1,偽りの歴史理解」 

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 ② 元 号 考-問題の根源-(前編「本稿:その1」途中,② の 3)に続く

 4)「元号問題再考:その2,改元の歴史」
 明治以来の元号法制が,けっして「 “民族共通の遺産” という性格を備えて」いない事実は,以下のような元号「本来のあり方:歴史的な伝統」に照らしてみれば,一目瞭然である。

 明治維新を境にして,改元に関する「これらの分類」が大幅に改変され,それも限定を受けていた。元号を改元する事由は本来,その「理由を基準として」主に,つぎのように分類されていた。

   イ) 「代始改元」……君主交代による改元。

   ロ) 「祥瑞改元」……吉事を理由とする改元。

   ハ) 「災異改元」……凶事に遭ってその影響を断ち切るための改元。

   ニ) 「革年改元」……三革-革令(甲子の年),革運(戊辰の年),革命(辛酉の年)-を区切りとみなし,おこなわれる改元。

 さらに,改元するにあたり,新元号の始点をどこに置くかが問題となるが,このときは,つぎのように分類される。

   ホ) 「立年改元」……改元が布告された時点で,布告された年の元日に遡って新元号の元年とみなす場合。

   ヘ) 「即日改元」……改元が布告された日からあとを(布告された日の始まりに遡って)新元号の元年とする場合。

   ト) 「翌日改元」……布告の翌日からあとを新元号の元年とする場合。

   チ) 「踰年改元,越年改元」……布告の年の末日までを旧元号とし,翌年の元日から新元号を用いる場合。

 だが,明治以来は,イ)「代始改元」と ホ)「翌日改元」との組みあわせになる改元の方法に限定したのである。いうなれば,改元のやり方に明治維新が介入し,改元の歴史に変更をくわえた。大日本帝国の敗戦までは,こうなっていた。

 1926〔大正15〕年12月25日に大正天皇が死亡すると,同日以後をあらためて「昭和元年」とする旨の改元の詔書が発せられていた。敗戦後は,1989〔昭和64〕年1月7日に昭和天皇が死亡すると,皇太子明仁が天皇が即位するが,元号法にもとづき,同年1月8日に〈平成への改元〉がなされていた。後者は,敗戦後に制定された元号法にしたがい,改元された最初の元号であった。

 明治以来の元号制度は,江戸時代までの改元関係の特徴・慣習の大部分を無視し,「一世一元」という狭隘な規定のなかに,それを閉じこめた。明治大帝という天皇睦仁に対する尊称も,この一世一元の制度に則してこそ成立させえた「称賛のための偉大な美称」であった。今日流の「元号概念」はせいぜい,「1世紀と数十年」の歴史しかなく,あくまでも,明治以降に「創られた元号に関する “民族共通の遺産” 」である。

 それをあえて,元号というものが,国民に対して,古代からの「民族としての誇り」「自覚の象徴」「国民感情」であると教化する意味は,いったいなんであるのか? それは,古代史からの永い歴史の継続のなかには,存在したことのなかった〈近代国民国家的な虚偽イデオロギー〉を,帝国のなかに浸透させようとした明治政府が「新たに創造した〈近封建遺制の概念装置〉」の,21世紀的な強要であり,その時代錯誤を意味する。

 発想を逆流させて再考してみればよいのである。それほどまで,「民族としての誇り」「自覚の象徴」「国民感情」である元号であったならば,わざわざ法制化する必要などないはずだと反論できる。法律で定めることなどもなく,自然に国民のあいだにも浸透・普及してきたのが元号だとすれば,これを強制するかのように法制化する余地はなかった。

 そもそも,天皇に固有の暦観でしかない元号を,あえて法律で定めてきた「大日本帝国から日本国への伝統」は,この元号がもとから有していた諸特徴-前掲しておいた改元の諸事由,ロ), ハ), ニ), ホ), ヘ), チ)   など-は,いっさい切り捨てていた。

 それでいながら,こんどは,偽りの臭いの強い「民族としての誇り」「自覚の象徴」「国民感情」などと抱きあわせの要領で,「一世一元」の元号制を使いはじめ,一方的に国民に対して押しつけてきた。このような方途によって発現させられうる〈国民との関係性〉においてこそ,元号を法制化しようとする国家の意志:真意は,その姿を正直に反映させることになる。

 上地龍典『元号問題』(教育社,1979年)はさらに,「法制化といっても,戦前のような天皇制復活とは無関係だ,現在使用中の元号に法的根拠を与え筋を通そうということだ」という,自民党側の主張を再度紹介していた。しかし,敗戦後における元号の法制化は,「戦後における天皇制の再生・復活・強化」に合致させたその復活であったゆえ,「国民の上位」に天皇・天皇制を配置させる関係を,当然視する歴史観に立脚していた。

 5)「元号問題再考:その3,明治の創作」
 ここでは,1970年代後半に公刊された元号に関する著作をとりあげ議論したい。最初にとりあげるのは,鈴木武樹編『元号を考える』(現代評論社,1977年)である。本書は,日本だけに残る元号制は一見進歩的にみえても,本質的にはきわめて保守的な日本人の性格を顕著に示すと断定している。

 年を数えるのに2通りの方法は必要なく,実用的な面からはただ混乱を招くだけである。世界の一員として日本が活躍するためには,元号制の廃止を実行すべきである。元号制の採用・不採用は,天皇制の問題とはまったく別のことがらである。現に女王の君臨す元号を考える表紙画像る英国において,元号制のようなものはない。
 註記)鈴木武樹編『元号を考える』現代評論社,1977年,28-29頁。
 出所)左側画像資料は Amazon より。

 この見解はもっともである。しかし,元号にこだわる側にすなおに受けいられる批判ではない。英国はキリスト教国であるから西暦で済むのであって,日本は別だという反撥(反論)も,ただちに出てくる。西暦と元号を二重に使用する不便は,いうまでもなく,誰もが感じている。にもかかわらず,いまでは日本政府は元号法を法律で制定している国家である。日本以外に元号を法律で定め使用している国家は,先進国にはない。もとよりそのような暦制度じたいが存在しない国家が,圧倒的に多数である。元号にこだわる国家意識じたいからして,もともと先進的とは思えない。

 さらに,鈴木武樹編『元号を考える』に説明させる。明治天皇が,孝明天皇の死(慶応3年12月25日)のあと,翌年の1月9日に践祚したが,すぐに改元がおこなわれず,9月8日に「明治」に年号があらたまった。このとき同時に「一世一元」,天皇1代に1年号に定められ,前述に説明されたごとき祥瑞・災異や「革命」などによって年号を替えることがなくなり,従来の年号と考え方が大きく変わった。

 要するに,「天皇の治世」と年号との関係が強くなり,天皇の在位を示す符牒(シンボル)という性格に変化させられたのである。このために以後は,年号(元号)が「天皇生きた時代」の名称に転用されることになった。
 註記)鈴木,前掲書,106-107頁。

 天皇の治世と改元の関係でみると,昔は天皇の践祚とともに改元された例はほとんどなく,即位後2~3年経ったあと,大嘗会のさいなどに改元された例が多い。また,天皇の治世がかわったにもかかわらず,相当期間にわたって改元されなかった例も,数例ある(天平宝字,応永,天正など)。

 これに対して結果的に,一世一元になっていた例もある(元明天皇「和銅」,光仁天皇「宝亀」,平城天皇「大同」,嵯峨天皇「弘仁」,淳和天皇「天長」,清和天皇「貞観」など)。ともかく,一世一元が制度として明治期に始まった。

 中国に目を向けると,唐朝の初めの高祖の武徳,太宗の貞観など個々的に一世一元的な結果になったものもあるが,王朝全体としてみて一世一元の扱いが確立していたのは,明と清の2朝だけであった。
 註記)鈴木,前掲書,129-130頁。

 そもそも「元号の推進者たちが「日本固有の伝統」と主張していた元号の出典が,中国の古典である『四書五経』だという」史実は,みのがしてはなるまい。それにくわえていえば,「その中国ですら廃止となった元号をなぜ制定するのか,まったく理解できない」ことであった。

 要は,この元号制の法制化が問題にされたのは,当時の自民党「保守政権にとっては『象徴天皇制』が,その基盤を支える有力な『武器』となり,しかも,象徴天皇と国民が直接かかわりがあるのは『元号』だけという状況が『元号廃止』の動きを牽制することになった」註記)という利点の活用,いいかえれば,元号問題を道具として介在させる,迂回的な「天皇・天皇制の政治利用」が念頭にあったからである。
 註記)岩波新書編集部編『昭和の終焉』岩波書店,1990年,139頁,143頁。

 年号(元号)は,「日本独自」のものといわれ,ほとんどの国々では存在ない。西暦の起源がキリスト教的だとしても,これで年を数えるほうがどれほど明朗であり,国際性が豊かであることは判りやすい道理である。年号はそもそも,日本が独自に創出したものではなく,中国を模倣して始めていた。これを使用しなくとも,どのような害も生じない。

 明治に入って創られ,使いはじめられた「一世一号」の年号であるから,慶応以前の前近代にあっては,「もう年号だけでは,歴史的世界を追うことは困難」である。西暦による年の表記はキリスト教とは離れている。他の宗教を国教とする国々でも,そして,社会主義国家でも使用されており,すでに人類共通の暦になっている。

 日本では江戸時代の思想家たちが,年号制を天皇信仰と切りはなして,一般民衆の立場から生活の便宜のために組みなおすことが,自然に進行していたかもしれなかった。しかし,明治期の天皇制成立がそれを逆行させ,年号(元号)に神秘的な力が強める結果を産んでいた。
 註記)鈴木『元号を考える』121-122頁,143頁,149頁。

 明治政府が富国強兵・殖産興業をめざして近代化路線を歩んでいくに当たっては,国家全体主義イデオロギーの活用が必要とされた。その一環が,元号(年号)による天皇制度の政治観念的な補強であり,その国家政策的な工夫であった。

 したがって,論者によっては,「普通に考えれば,建国紀元のほうが,国家統一,ナショナリズムの機運が進んでくるときには,年号よりも自然なはずで」あって,「明治に入って一世一元にしてしまうより」,「神武紀元に統一したほうがむしろ筋が通ったのではないか」という指摘が,それも「イスラム教徒のように」という付言も,わざわざ添えてなされてもいた。
 註記)鈴木,前掲書,156頁。

 この指摘は,明治憲法の基本精神のなかに,大昔の神武天皇の神格性が注入されたのであれば,これをついでに元号制に対しても応用しておけばよかったのではないかという,「目のつけどころ」が面白い〈異見〉である。 日本の天皇制にあってとくに明治以来,「万世一系の天皇制」が日本国家の基礎をなしているのだと,臣民たちには教えこんできた。「一世一元」の元号が決められたとき同時に,帝国臣民に提示されたのが『教育勅語』(1890〔明治23〕年10月30日)であった。

 教育勅語は冒頭に,「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」と述べ,まず天皇・天皇制あっての大日本帝国であるとい国家意識を,帝国臣民に教えこんでいた。

 そのあとにつづけて,ようやく「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ……」という文句を登場させていた。天皇あっての大日本帝国であり,大日本帝国のという存在は天皇によってありうるのだという〈国家思想〉が,教育勅語の要諦であった。
    教育勅語は,抽象的な徳目の列記に終始し,抽象的道徳の視覚からのみ政治に触れる。ただし,その抽象的道徳は,君臣の分を守るという枠のなかに閉じこめられているという点で,根本のところで政治的制約を受けている。君臣の分を超えて君を批判する普遍的な規準というものは,ないのだ。
 註記)思想の科学研究会編『共同研究/明治維新』徳間書店,昭和42年,648頁。
 格調高き漢語調の教育勅語において,皇室中心主義のうちに国家と民族と公共倫理のすべてが無理矢理に押しこめられたのである。これが無理矢理な作為であったというのは,当の起草者たち自身が自覚していたことである。彼らは,欧米のキリスト教に当たるものが近代国民国家には必要だと認識し,それに当たるものとして,仏教・老荘・儒教などを消去法で考えていって,結局,皇室中心主義に舞い戻ったのであった。

 以後,1945年まで半世紀にわたって教育勅語が全国民に暗唱させられていったが,その最後の “聖戦” の時期において,いわゆる戦中派に特有の濃厚なコンプレックスが形成されたわけである。そこでは,倫理といえば国家⇔民族⇔皇室に直結し,皇室といえば倫理⇔国家⇔民族に直結するというように,それぞれの項目のどれをとっても他のすべてが同一物として反射的に連想させられるようになったわけである。

 このような条件反射は,絶対に不可避的な呪縛であったに相違ない。しかし,それは近代世界史の中で日本-アジア型の近代国民国家によって刻印された,特異なトラウマであることを意識化し寛解してゆくこともそろそろ必要ではないのだろうか。
 註記)新田 滋『超資本主義の現在-極端な資本主義と脱・資本主義との交錯として-』御茶の水書房,2001年,212-213頁。

 敗戦後に再発足させられた天皇の地位は,当初はいちおう,政治的でありながらも中立化されたかのような制度として存続させられていた。しかし「昭和」という年号の形式はそのまま継承されていたから,敗戦にもかかわらず,「万世一系的なイメージ」註記)が国民の心のなかから消滅することはなかった。
 註記)鈴木『元号を考える』165頁。

 元号制の制定は,あたかも〈神話の世界〉における昔話を大まじめに信じてこれを根拠にして,1979〔昭和54〕年に成立させられていた。この元号法が,「元号は,皇位の継承があった場合に限り改める」と規定していたので,天皇明仁のための元号は〈平成〉に決められることになった。 

 結局,元号にこめられている独占的な意味あいがなにかと問われれば,それは,天皇家の家長が日本国の支配者となり,この「君主が時間を支配するという思想が強固」なことである。
 註記)鈴木,前掲書,207頁。

 日本国憲法が天皇に関する「第1条から第8条まで」を抱えこんでいるかぎり,「民主主義のための新憲法だ」といわれてきた法律であったとはいっても,「主権在民を否定」する基本的性格がその第1条から第8条に厳然と控えている事実に関しては,なにもかわっていない。筆者はその意味では,日本国憲法が〈改正〉を要求されるべき,当然かつ必然の展望を抱いている。 

 6)「日本国憲法と元号制」
 つぎにとりあげる文献は,永原慶二・松島栄一編『元号問題の本質』(白石書店,1979年)である。本書は,元号法の制定以前に元号問題を批判的に追究した書物であるが,いまだに通用する議論を展開していた。本書に聞く意見は,つぎのものである。

 元号,それも「一世一元」の使用は,ちょうど明治の時代から始まった。明治は倒幕後の新政府として発足し,この明治が大正になったとたん〈大正政変〉に遭遇した。そして,この大正が昭和になったとたん〈金融恐慌〉が起きた。

 このような時代ごとの大変動に接した人びとがさらに,「敗戦:大日本帝国の崩壊」や,これに連続して起きた歴史的な出来事である「日本国憲法施行」,「サンフランシスコ講和条約発効」の時点などを契機に受けとめ,元号が廃止されたり改元されたりしていたとするならば,元号というもののもつ歴史的な意義,そしてその一定の便利さを,よく自覚できたのではなかったか。
 註記)永原慶二・松島栄一編『元号問題の本質』白石書店,1979年,174頁。

 この指摘は,日本の近現代史において大きな区切りとなった出来事に注目し,明治以来の元号制に古代史的な視座をすきこんだ意見を示している。すなわち,明治と大正の時代が,それなりにまとまって観察できるかのような様相=時代の区切りをみせたのとは百八十度異なったのが,昭和の時代,その足かけ64年であった。敗戦を体験した昭和の時代であって,その間,占領から独立への道程も経てきた。

 しかし,「一世一元」という元号制に関して創られていた「明治以来の新伝統」があったせいか,この法律がなくなっていたはずの敗戦後史においてでも,昭和の「改元は実施されることがなかった」。昭和の時代においては,改元するに値した大事件がいくども発生していた。だが,改元はなされなかった。というのも,「一世一元」によった元号運営の決まりが,明治時代からあって,これが敗戦後においてもそのまま準用されていたのである。

 ともかく明治憲法のもと,改元は天皇の治世1代ごとにするものだと決めておいた。ところが,天皇の威光によってこそ存立しえていたはずの「大日本帝国」敗北という重大事態の発生があったにもかかわらず,「日本国」へと生き延びていったさいに,改元がなされていなかった。

 元号古来の性格に照らして判断すれば,時代の推移:激変にそぐわないまま,無理やりではなくなんとはなしに,「昭和という元号」が継続されていった。敗戦後における元号法の制定は,そうした大日本帝国から日本国への移行のなかで,元号の「〈昭和〉の価値」が完全に破壊されつくしていたにもかかわらず,これを敗戦後も使用していかざるをえなかった事態を糊塗するためになされた,と観察されてもよいのである。つまり,こういう憲法上における「連続性有無の問題」として観察する。
    天皇の地位が,国民がみずから統合したことの消極的反映であれば,国民みずから統合した日こそ時代区分の画期であって,戦前戦後を通じて昭和という同じ元号が続いて良いはずはない。それと反対に,天皇地位が国民に対する形式的統合力をもつならば,天皇の死は時代区分の一つの画期として,まんざら無根拠でもない。
 註記)永原・松島,前掲書,109頁。
 ところが,明治以降における日本帝国主義は,初めから「天皇による一世一元」を志向していたために,敗戦という一大失地にこの帝国があいまみえたときでも,昭和天皇が自身の地位に執着する経緯も重ねられた事情も絡んでいて,元号制そのものを廃止するどころか,昭和という験(げん)の悪い元号をそのまま使いつづけることになっていた。あるいは,元号そのものを廃絶するうえで,絶好の機会に恵まれた歴史の場面に邂逅していながら,元号制を捨てることができなかった。

 参考にまでいえば,天皇・天皇制を捨てることを許さず,これを大いに利用しつつ,敗戦国日本を占領・支配・統治することにしたアメリカの立場は,日本国が元号を使おうが捨てようがどちらでもかまわなかった。こうして,きわめて縁起の悪い元号「昭和」が,敗戦を経て存在する法的根拠がなくなったのちも,つづけて使うことになっていた。その意味では,元号の使用に関する歴史的な論点は,アメリカ側における「消極的なあつかい」と日本側の「逃げの姿勢」とが重合された関係をもちながら,敗戦後における日本社会の表層を漂流してきたことになる。

 だが,昭和天皇が亡くなったあと平成天皇に代替わりすると,いまここでとりあげている文献,永原・松島編『元号問題の本質』(1979年)では当然,適切に対応できない時代的な変質が生起していた。たしかに,年号(元号)は,「天皇の国家支配の呪術的シムボルであり,絶対者としての天皇の権威を神秘化して人民に浸透させる政治的道具であった」。それによって「天皇の地位の正統性を認め,それの権威に服することを意味していた」。
 註記)永原・松島,前掲書,32頁。

 むろん,この基本点に大きな変質はないものの,しかし,「天皇が政治反動の武器として利用されているなかでは,元号法制化は,いや応なく,天皇に対する崇拝を,国民に法律で強制する意味をもつことになり」,「これが右翼やファシストによる再版『昭和維新』運動,政府による再版『国体明徴』運動に途を開く契機になる」註記)と批判されていた論点については,こういっておかねばならない。
 註記)永原・松島,前掲書,189頁。

 昭和天皇の世代が終わって,その息子の天皇世代になってからは,昭和維新に相当するような時代の変遷は,起こりようもない時代に移行したと判断してよい。このことは,現在の天皇の抱くと思われる〈天皇意識〉にかかわる論点を意味する。彼は,戦前版=裕仁風の天皇像は極力回避しながら,妻の美智子とも手を組んで,天皇家のよりよき「生き残り戦略」を模索し,実践しようとしてきた。「21世紀における天皇・天皇制」としては,彼らの歩んできた足跡に即して,未来予測的に考えねばならない課題が与えられている。

 7)「元号の不便と非合理性」
 かといって,元号問題の本質そのものは,それほどむずかしく考える必要がない。たしかに「日本が民族特有の年代表現をとるということ自体の問題はさらに考えてゆくべきであ」る。しかし「それを天皇の在位で区切り,一世一号が変えられていくということが,いかに不合理なものであり,時代認識や適切な歴史感覚の形成をむしろ妨げているかというころ」註記)を,まず最初にしかと把握しておかねばならない。
 註記)永原・松島,前掲書,18頁。

 「不合理」だといえば,21世紀になってもたとえば,下2桁だけを用いて,年を表現する出版物も散見される。たとえば「55年」と書かれているとき,これが1955年なのか昭和55年なのか迷うといったふうに,ただちには判別しにくい実例に当たることもある。

 さらにいえば,2013年を13年と略記することもある。こちらは平成13年なのかなどと,つい思いこんだりしてしまうことがある。2000年が平成12年であり,1900年が明治33年であるが,これらのうち,後者の年号(元号表記)のあいだにあっては,連続させうる手がかりがみいだせない。

 だが,元号制に固執する立場の人びとにとってすれば,天皇制に対する深い思い入れが,そのような混乱を「止むをえない現象」とみなさせるのかもしれない。とはいえ,この種の不必要な混乱を招来する「元号使用における不合理性」は,せいぜい「無用の用」以外のなにものでもない。

 いまだに「元号法制化の真の狙いが,天皇中心主義による『国民意識の統合』,すなわち天皇の元首化,新しい『天皇制』を確立しようとすることにあることは明らかである」こと,「そしてそのために『元号慣習論』が巧みに利用されている」註記)ことが指摘されてきた点についていうと,21世紀の今日になっても,前世紀から不変であるように映るのが「右翼・保守・国粋・反動勢力側の欲望的な事情」である。
 註記)永原・松島,前掲書,67頁。

 これら諸集団側における「時代に対する頭の切りかえの方法=改元」は,時代の流れ:変化にほとんど着いていけず,完全にとり残されている様子がうかがえる。最近は,右翼陣営でも21世紀の現在になってからも,あらためて「新右翼」という用語を使っている集団・人物がいるが,この名称は,旧来型の右翼運動の時代遅れ性を意識する立場を反映している。

 天皇中心主義による日本政治が確立したところで,はたして,これが日本における民主主義の発展とどのように関連しあえ,つまりおりあえるのか,まったく見通しがつかないでいる。

 その意味でも,日本国憲法の第1章「天皇」が,第1条で「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と断わりながらも,同時に第2章で,「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する」といってのけ,明治憲法(日本帝国憲法)の改定によって発生した,いいかえれば,敗戦後アメリカに押しつけられた日本国憲法に固有の大矛盾を,現在も平然とかかえこんでいる。

 この種類の事実に比べれば,元号制の問題は,この日本国憲法の上に咲いた一輪の徒花といえなくもない。天皇・天皇制がなくなれば,元号制も要らなくなる。自明の理である。京都御所に還ってから,人間集団としての天皇一族が存続していく範囲内で,元号の継続・保存がなされればよい。ところが,それを,古代妄想的に日本社会に法律で強要するところからして,どだい無理があった。せいぜい,古代史からの伝統を尊重した「改元の方法」,この原点に舞いもどってもらう必要があるかもしれない。

 平成天皇は天皇の地位に就いたとき,自分は日本国憲法を守ると公言していた。永原・松島編『元号問題の本質』(1979年)は,「元号法制化の真のねらいが,天皇元首化のための礎石をすえること,それへ向けての国民思想の統制にあることは,明らかである」と危惧していた。
 註記)永原・松島,前掲書,75頁。

 この危惧に対して一定の歯止めは,平成天皇自身の口から発せられていた。1990〔平成2〕年12月20日,「天皇陛下お誕生日に際し」て,赤坂御所でおこなわれた「天皇皇后両陛下の記者会見(即位の礼・大嘗祭を終えられ)」のなかで,彼はこう発言していた。「今の気持ち」(これは記者側の表現である)は,「憲法を守るということ,これにつきるわけでその憲法のいろいろな条項がありますけれど,それに沿っていくということになると思います」。
 註記)http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h02e.html,2017年1月12日検索。

 しかし,平成天皇が皇位に就いたばかりのころ,1990年の時点において,自分の「今の気持ち」として表明していた憲法順守の基本精神とはかけ離れた地平において,日本国「天皇元首化のための礎石をすえること」や「それへ向けての国民思想の統制」といった国家主体側の企図は,絶えず渦巻いてきている。この動静に対して,象徴天皇側がどのように対応してきたのかは,まだ分かりにくいことが多い。

 天皇明仁の思う方向とおりにはいかせようとしない宮内庁や政府側の思惑や期待が,天皇家の諸行為に対する介入や圧力となって実在している。こちら側における事実は,21世紀の今日においても基本的に継続されつづけており,「国家側の露骨な意思」としても明確に表現されるものでもある。まず,1990年以前に登場していた,その関連の法律を挙げておく。

  イ) 「建国記念の日」が制定されていた。……1966年〔昭和41〕年祝日法改正にもとづき「国民の祝日」にくわえられ,翌1967〔昭和42〕年2月11日適用,その趣旨は「建国をしのび,国を愛する心を養う」とされていた。人びとに対して国を自然に愛しうる国にするのが,政治家の役目であるはずのところが,逆転の発想によってなのか,「愛国心」を強要しようとする「国民の祝日」を置いている。

  ロ) 「元号」が法制化されていた。……1979〔昭和54〕年6月6日「元号法」成立,同月12日公布・施行。この元号(年号)の制度については,神話によって「自国の誕生日」を定めるという「古代史的な幻想ないしは妄想」が,精神的な根拠に動員されて法律が定めるものとなっていた。神武天皇には父や母がいたのではないか。なぜ,神武がヤマト:日本国の創業人物に決めうるのかという疑問は,不問に付されてきた。

 そして,1990年以後になると,つぎの関連する法律が出てきた。

  ハ) 「国旗国歌法」が制定された(1999〔平成11〕年8月13日に公布・施行)。当初は強制しないのがこの法律だと,当時の小渕恵三首相みずからが説明していたが,すぐに強制するための法律に化けていた。平成天皇がのちに,2004年10月28日,赤坂御苑で開かれた秋の園遊会の場で,「やはり,強制になるということではないことが望ましい」と発言していたが,これは小渕の説明をただ反復したに過ぎない。天皇には,それ以上の口出しはできない問題である。

  ニ) 「特定秘密保護法案」も国会を通った(2013年12月13日公布,1年以内に施行予定)。これはアメリカの軍事的属国としての日本国の地位を,より本格的に固定化するための法律である。戦前・戦時体制に向い帰巣本能が呼びもどされた感がある。しかし,21世紀においてこの法律が成立した意味は,米日軍事同盟関係のなかで発揮されるべき1点に集中されているところが,従前とはまったく異なっている。

 ホ) 「国家安全保障会議の設置」 2013年12月4日,国家安全保障会議が設置された。外務省は,外交・安全保障の司令塔として,国家安全保障に関する諸課題につき,内閣総理大臣を中心に,日常的,機動的に審議する場を創設し,政治の強力なリーダーシップを発揮できる環境を整えることを目的とするものだ,と説明している。
 註記)http://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/nsp/page1w_000094.html

 ヘ) 「安全保障関連法」 2015年9月19日,平和安全法制関連2法が成立し,同月30日に公布された。またこれに関連し,国家安全保障会議及び閣議において,平和安全法制の成立を踏まえた政府の取組について決定がなされた。2016年3月29日,平和安全法制関連2法が施行された。
 註記)http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html この法律は「戦争するために備えられた」ものであるが,平和という文字が当てられ,説明されている。

 8)「天皇の立場」
 平成天皇は,憲法において規定されている「自分の立場」がどのような形式になっていて,また,その実際上の運用が憲法第7条に定められた「天皇の国事行為」からどれほど逸脱し,かつ違反していようと,彼自身がこれらじたいについて発言することは,まずない。

 天皇家の人びとは,自分たちが関わっているいわゆる「公務」のなかには,形式面でも実質面でも憲法の規定に収まりきらないもりだくさんの〈仕事〉に従事している。こうした風景を,われわれはよくみすえておく必要がある。

 平成天皇は明確に「憲法を守る」と発言してきたが,この真意が奈辺にあるかは,今後も慎重に吟味していくべき論点である。これは,天皇・天皇制の全体を通して究明すべき研究課題である。
 補注)2016年8月8日に天皇明仁が表明した「退位したい旨の意思」は,元号問題にも根幹より関連する事態を予定していた。関連する議論は後段でおこなっている。 

 内閣や宮内庁は,「天皇の行為の範囲」を,実質においては非常な広範囲にまで拡延している事実:現状を,絶対に撤回も修正もしようとはしない。その関係でいえば,「天皇の政治利用」は,憲法からの逸脱や違反だという解釈・批判など,ものともしていない。そのどころか,機会をみてはより積極的にその領域を拡大・深化させてきている。

 たとえば,皇太子の妻:雅子に対する過去10年以上にもわたる「公務不熱心」「宮中祭祀忌避」の態度に対する世間の非難は,いったい,どのような憲法上にある規定ないしは根拠にかかわり発生しているのか。この点を一度でも意識的に考えてみればよいのである。

 日本の皇室の存在じたいに満載されている不当性・不法性・違反性は「菊のタブー」に護られてこそ穏便に済まされている。こうした論点に関しては,昭和天皇の「内奏」問題に,ごく言及しておく。憲法を厳守すべきだという観点に限っていっても,「昭和天皇の〈治世〉」のときには,あまりにも露骨に政治介入し過ぎていた。この「昭和天皇に関する歴史の記録」を想起するだけでも,天皇の行為のなかには,「国事行為」からかけ離れた政治干与が盛りだくさん記録されていたことに気づくはずである。

 その歴史的な関連で観れば,「名目だけの天皇主権性で,実権を藩閥や政党や軍部に奪われ,苦渋を飲まされつづけてきた裕仁天皇にとって,象徴天皇制を厭う理由はなかった」註記)。それだけではなく,前段に触れたように,実質的には戦前・戦中よりもいっそう自由に,あたかも「絶対君主に近い振るまい」をできていたのだから,息子の平成天皇が「日本国憲法を守る」ことを言明するに至る事情が生じるのは,これまた当然の経緯であった。
 註記)秦 郁彦『昭和天皇五つの決断』文藝春秋〔文庫版〕,1994年,250頁。

 さてここで,2014年1月1日に報道されたつぎのニュース,「黒塗りせず『昭和天皇実録』公刊へ……宮内庁方針」を紹介しておく。
    宮内庁が24年がかりで編修作業を進めている昭和天皇の生涯の動静を記録した「昭和天皇実録」が今春にも完成し,新年度から順次,公刊される見通しとなった。戦前から戦中,戦後の激動期を含めた昭和天皇の初の包括的公式記録で,一部を消す「黒塗り」はしない。新資料も含まれ,昭和史研究の基礎資料として専門家が注目するだけでなく一般にも高い関心を呼びそうだ。

 天皇実録はもともと,完成時の天皇に献上するために作られており,ほぼ同時期の公刊はされてこなかった。明治天皇紀は1933年(昭和8年)に完成したが,刊行は35年後の〔19〕68年から。大正天皇実録は,情報公開請求により,完成から約65年後の2002年から〔20〕11年まで,4回に分けてようやく公開された。当初宮内庁は,昭和天皇実録の早期公開に消極的だったが,「国民の財産でもあり,昭和天皇の事績を広くしってもらうべきだ」として方針転換。公刊に伴う費用として2014年度予算に600万円を盛りこんだ。

 昭和天皇実録は,誕生(1901年)から,87歳での崩御(〔19〕89年),大喪儀の終了(〔19〕90年)までを記録の対象とし,昭和天皇の活動や言動を,月日を追って(編年体)記録したもの。参考にされるのは,侍従の日誌や,侍医の拝診録,歴代首相の日記,当時の報道のほか,宮内庁が約50人の側近から聞きとった内容や公になっていない側近の日誌など多岐にわたる。
 註記)http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140101-OYT1T00225.htm YOMIURI ONLINE,2014年1月1日15時29分。『昭和天皇実録』は現在,東京書籍から刊行中である。
 「日本国・民統合の象徴」である「人間天皇」に関して,この宮内庁の編集・制作になる『公式伝記』の公表が,はたして,どのような意味において「国民の財産」たりうるのかについては,もっと山田朗昭和天皇の戦争表紙慎重な議論を要する。また,『昭和天皇実録』に記録されたとする《事実》のみが,「天皇に関する歴史を完全に物語るもの」たりえないこともたしかである。『明治天皇紀』『大正天皇実録』と同様に,日本天皇史に関する一資料である『昭和天皇実録』の過大評価は禁物である。
 
 こういう新刊情報をとりあげておく。雑誌『世界』2017年2月号の巻末,岩波書店が新しく発行する書物の1冊である山田 朗『昭和天皇の戦争-「昭和天皇実録」に残されたこと消されたこと』(1月27日発売予定)は,つぎのように解説されている。
    軍部の独断専行に心を痛めつつ,最後は「聖断」によって日本を破滅の淵からすくった平和主義者-多くの人が昭和天皇に対して抱くイメージははたして真実だろうか。昭和天皇研究の第1人者が従来の知見と照らし合わせながら『昭和天皇実録』を読み解き,「大元帥」としてアジア太平洋戦争を指導・推進した天皇の実像を明らかにする。
 ③「説得力に欠ける『一代限り』 天皇退位,特例法で 有識者会議見解」(『日本経済新聞』2017年1月12日朝刊38面「社会1」)

 本記述(昨日の「その1」,本日の「その2」)に関しては,元号の問題に関する議論であったゆえ,本日〔1月12日〕に出ていたこの日本経済新聞における意見を引用しておくのが好都合である。② の記述中で「批判されていた」問題性に基本からかかわる論及がなされている。
「苟(いや)しくもその才無くんば
       即ちその位に処(お)るべからず」

 学識随一といわれた鎌倉時代末期の花園天皇が,甥(おい)である光厳天皇(北朝初代)に与えた『誡太子書(かいたいしのしょ)』の一節である。天皇はつねに研鑽を怠らず,その地位にふさわしい能力を備えていなければならないとする「帝王学」の書だ。皇帝は徳を示さねばならないとする中国思想の影響もあり,歴代天皇の多くは自身を高める努力を続けた。政治権力のあるなしにかかわらず,天皇の「義務」でもあった。

 「存在するだけでなにもしなくてもいい」という天皇観は,こうした天皇の克己の歴史への理解不足によるものだろう。ただ,天皇のあり方についてどのような意見を表明しようと言論は自由である。問題は退位を論じる政府機関の有識者会議のヒアリングに,適任とはいいがたい “専門家” も招いたことだ。人選は選ぶ側のレベルも表わす。これからの時代を担う若い世代と女性の研究者の意見が聞かれることはなかった。
 補注)これは,2016年8月8日に平成天皇の意向として明示された「退位の問題」を論じるために置かれた「政府機関の有識者会議」,そしてとくに,この会議がその後において選んだ「ヒアリング」の対象者たちの「具体的な布陣」に対する批判である。この記事では「適任とはいいがたい」「専門家」という修辞を使っている。

 だが,よく考えてみたい。実際においてはもともと「適任」でないというふうに,特定の人物に対する評定が下されたのであれば,この人物はその道・方面・領域においては「専門家とはいえない」という理屈が,自然に導出されうる。

 だから,前後のことばにおいては
そういった具合に,内容的に必要な条件を欠いたままで,つまり,その人物が必要とされる説明がうまくできないなかで,それでもこの人物が選択されたとした場合は,このように意図的に選択されたことじたいからしてどだいおかしかった,恣意が働いていたというほかない。

 要は,終始,安倍晋三好みになる「ヒアリング対象者の選抜」でしかなかった。その陣容はひどく偏向していた。この事実は,まずもってさきに「有識者会議」を構成する人物たちからして,ひどく偏向していた。そのせいで,この会議がさらに選ぶ「ヒアリング」の対象者が偏向してくるのは,みやすい道理であり,当初から予想されていた。


 〔記事本文に戻る→〕 このため実際的ではない方向に議論が拡散した。これが目くらましのようになり,核心的な問題を素通りして,当初からの政府方針といわれている「一代限り,特例法での退位」の結論が拙速ともいえるかたちで出されようとしている。核心的な問題とは退位の要件である。有識者会議は「年齢を要件にするのは難しい」「将来の天皇の退位要件を現時点で決められない。各時代で判断すべきだ」として,深く議論することを避けた。

 不可解である。たとえば「80歳を過ぎたら」という必要条件を設けることがどうして困難なのか。今回の問題は超高齢化にあるのだから年齢を要件にするのは当然であり,むしろ恣意的,強制的な退位を排除できる。そして「各時代で決めればいい」は問題の先送りそのものである。将来の天皇が必らず直面する高齢化問題から目をそらして真摯に議論したと胸を張れるのか。

 「有識者会議は政府方針の追認機関」との批判も出ているが,その責任は政府にある。超高齢化時代と天皇の退位は構造的な問題だ。国民各層から幅広く意見を聞く前から,現在の天皇陛下だけの問題に収束させる方針を固めていたとしたら,一内閣の権限を越えた判断ではないだろうか。昨〔2016〕年末に日本経済新聞が実施した世論調査では,65%が退位について恒久的な制度を支持している。これを覆す説得力のある理屈がみいだせていない。(編集委員 井上  亮)
 安倍晋三政権は,重要な懸案についてはことごとく,国民・市民・住民・庶民の立場・意見・希望・期待を裏切っていながらも,平然と独裁的な民主主義(?)を専制している最中である。平成天皇の要望について安倍は「表面的には聞いてあげる」ような姿勢は示しながらも,それよりも,自分の地位をいかに維持していくかに利用することしか考えていない。あるいはまた,自分好みの天皇「措置」しか念頭にはない。そうして,国民・市民・住民・庶民の立場・意見・希望・期待などまったく無視した「天皇問題に関する内政」をおこなっている。

 ④ 本日『朝日新聞』「社説」の関連する意味あい
 
 安倍晋三政権になってから,大手マスコミはとくに「社会の木鐸」である立場・使命・意識を,完全にマヒさせている。ましてや,昨今における裁判所の任務・役割とになると,完全に体制の使徒(走狗)になりさがっている。

 ②  ③  で議論し,批判してきた日本の政治における右翼勢力(とくに最近では「日本会議」が有名で注目されている)は,現政権と密着した政治集団として存在し,安倍晋三政権との《悪の相乗効果》を発揮しつつある。

 その極右政治集団を批判した最近作に発生した「以下のごとき裁判の結果」に対して,この社説は明確にもの申している。朝日新聞社がまだまともにモノをいえている論評のひとつである。いまの日本の司法(裁判所)に関しては「それなりの」独立性を求めても,すべて徒労である。

◇「出版差し止め 表現の自由の理解欠く」◇
=『朝日新聞』2016年1月12日朝刊「社説」=

 憲法が定める表現の自由や,市民の「知る権利」の重要性をどう認識しているのだろうか。大いに疑問のある判断だ。改憲運動などにとり組み,国政にも影響力をもつ日本会議の沿革や活動を書いた『日本会議の研究』について,東京地裁が出版差し止めを命じる仮処分決定をした。文中で言及した男性の名誉を傷つけたとの理由だ。
 補注)菅野 完『日本会議の研究』扶桑社,2016年5月1日発行。
菅野完表紙
 本の販売を許さない措置は,著者や出版社に損害を与え,萎縮を招くだけではない。人びとはその本に書かれている内容をしることができなくなり,それをもとに考えを深めたり議論したりする機会を失ってしまう。

 民主的な社会を築いていくうえで,きわめて大切な表現の自由を損なうおこないであり,差し止めには十分に慎重であるべきだ。司法も「一定の要件を満たしたときに限って,例外的に許される」との立場で臨んできた。

 はたして,この本は「例外」にあたるケースなのか。差し止めを求めているのは,日本会議と関係が深いとされた宗教法人の元幹部だ。『日本会議の研究』は,この教団がかつて展開した機関誌の部数拡大運動を紹介。所属する若者らは消費者金融から借金をして機関誌を買い,取りたてに苦しめられたとし,「結果,自殺者も出たという。しかし,そんなことは男性(実名)には馬耳東風であった」と書いた。

 地裁は「この部分は真実でない可能性が高く,販売を続けると,男性は重大かつ著しく回復困難な損害を被る」と述べ,差し止めの結論を導き出した。一足飛びの判断に驚く。十分な取材をせずに他人の名誉を傷つけたとすれば,書かれた側の救済はむろん必要だ。賠償金の支払いや謝罪広告の掲載などの方法も用意されている。

 今回,それを越えて,一冊の本を社会から閉めだすことまでしなければならない事情はなんなのか。表現の自由や知る権利との関係をどう考えたのか。だが地裁の決定理由に,こうした肝心な点についての検討はなく,問題ある記載があれば差し止めという,粗っぽい筋立てになっている。説得力に欠け,憲法価値に対する無理解・無頓着を疑わざるをえない。

 出版元は当面の措置として,指摘された部分を削った修正版をつくり対応するようだが,根本的な解決にはならない。プライバシー侵害を理由に地裁が週刊誌の出版を差し止めたものの高裁が覆した例がある。同様に後世の評価に堪える見直しがされることを期待する。司法の姿勢が問われている。(社説引用終わり)

 --すでに21世紀になっている日本「国」であるが,この程度の国にまで転がり落ちたというほかない。戦時中(敗戦まで)の日本における言論弾圧の歴史は,それはもうひどい記録を重ねてきた。最近までもその弾圧を受けてきた人びとが,その子孫が継承してまでして,名誉の回復を求める裁判を起こして闘ってきた。

 戦時中にはいくらでもあったけれどもさらに,21世紀のいまにおける〈排斥・弾圧〉ともいうべき現象となった,菅野 完『日本会議の研究』に対する,このたびのような “出版差し止めを命じる仮処分決定” は,問題あり過ぎる。いまどきの裁判所の判事たちは,安倍晋三の顔色に合わせて自分の判決文を作成している様子にしか映らない。

 ⑤ 色川大吉と三笠宮

 色川大吉の著作『近代の光と闇-色川大吉歴史論集-』(日本経済評論社,2013年)は,『朝日新聞』2013年3月3日朝刊「書評」欄に紹介されていた。この書評を書いた上丸洋一(朝日新聞本社編集委員)は,本書の中身をつぎのように紹介していた。「天皇制の是非について2人の歴史学者が対談した」と。以下,☆は昭和天皇の弟で古代オリエント史学者の三笠宮崇仁,★は同書の著者色川大吉である。
 註記)色川大吉『近代の光と闇-色川大吉歴史論集-』日本経済評論社,2013年,242-243頁。〔 〕内補足は筆者。
   ☆「これは憲法にあきらかなように,すべて国民に任せるという気持です」
   ★「国民が望むか望まないかの問題ですね,場合によっては天皇制は無くなってもよい」

   ☆「そういうことだと思います」
   ★「昭和という元号についてはどうですか」

   ☆「西暦にしたらよいですよ。(元号は)なにかにつけ,とても不便です。どうしても年号が必要なら,昭和をこのまま永久につづければいいのでは……」とかれ〔宮〕は笑っていた。
 敗戦後すぐ,三笠宮は東大文学部で西洋史を,色川は日本史を学んだ。上のやりとりは,もともと1974〔昭和49〕年に月刊誌に掲載された対談の一節であり,三笠宮との交友をつづる同書収録のエッセーで紹介されていた。関連させて断わっておくと,三笠宮が「とくにオリエント史を志したのは,南京総司令部の陸軍参謀として従軍した体験がもと」になっていた。色川大吉いわく,「天皇制はやはり,人間の尊厳のためにも,国民の意識変革のためにも,廃棄しなくてはならないと思った」。
 註記)色川,前掲書,242頁,245頁。


 【「玉転がし」を始めた安倍晋三政権の不遜ぶり】

 【不敬か不遜か,傲慢か幼稚か,いずれにしても古代的な半封建制度の存続・維持】

 【天皇・天皇制がわれわれの時間を支配する21世紀の時代】



 ①「2019年元日から新元号 事前に発表,準備期間 政府検討,特例法の成立が前提」(『朝日新聞』2017年1月11日朝刊1面冒頭記事)

 本日,この『朝日新聞』朝刊の記事は,つぎのように報じていた。以前よりとりざたされていた話題であるが,安倍晋三政権が実質,意のままにしえたかのような「天皇明仁・措置」に関するニュースである。

 1)1面の記事(見出しは ① のとおり)
 天皇陛下の退位をめぐり,政府は2019年1月1日に皇太子さまが新天皇に即位し,同日から新たな元号とする方向で検討に入った。国民生活への影響を最小限に抑えるため,元日の改元が望ましいと判断した。政府の想定どおり進めば,いまの陛下は2018年12月31日に退位し,平成は30年で幕を閉じることになる。(▼3面=国民生活を考慮)
 補注)「国民生活への影響」「最小限に」(次段の記事)という意味はなにか? よく理解しにくい論点であるが,後段で少し考えていく。

 複数の政府関係者が明らかにした。政府は1代限りで退位を可能とする特例法案を,春の大型連休前後に国会提出する予定。特例法案には退位の日付を明記せず,三権の長や皇族らでつくる「皇室会議」で決定し,政令で定める方向だ。

 政府関係者は「天皇陛下の代替わりの準備には,退位の日付が決まってから1年程度かかる」と指摘。今〔1〕月20日に開会する通常国会で特例法案が成立すれば,来〔2018〕年前半までにも,退位の日付を発表する日程を想定している。退位の日程を踏まえて事前に新元号も発表し,一定の準備期間を経たうえで改元することも検討。国民生活への影響を最小限にとどめたい考えだ。

 陛下は,退位の意向をにじませた昨〔2016〕年8月のお気持ち表明の冒頭で「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には平成30(2018)年を迎えます」と語った。政府は陛下の言及も踏まえて,2018年12月末に退位する日程を検討している。
『朝日新聞』2017年1月11日朝刊平成天皇退位問題画像1
 最近の皇位継承では,天皇が逝去した当日や翌日に元号が改められてきた。明治までは,皇位継承があった年は前の天皇を悼み慕う気持ちから元号を改めず,年が改まってから改元する「踰年(ゆねん)改元」の例が多かったという。

 今回の政府の想定は,いまの陛下が退位した翌日に改元する点で「昭和」から「平成」への改元に沿っているが,それを年末年始に合わせているところに特徴がある。

 元号については,明治憲法下の旧皇室典範では定めがあったが,いまの皇室典範になり法的根拠が失われた。このため,1979年に元号法が制定,施行された。同法は「元号は政令で定める」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と規定している。

 ※ 平成への改元,短時間で実施 ※ 「昭和」から「平成」への代替わりは短時間のうちにおこなわれた。1989年1月7日朝,昭和天皇が逝去。その6時間半後に識者による懇談会が開かれ,7日午後2時半過ぎに新元号「平成」が発表された。平成への改元は,翌8日から。ただ,当時の首相官邸の幹部は「新元号の検討は,発表のかなり前から水面下で続けていた」と明かす。

 今回,政府の想定どおりに進めば,新元号は天皇陛下の退位前に発表される。2018年12月31日にいまの陛下が退位し,2019年元日に新天皇が即位。三種の神器などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」と,新天皇が初めて三権の長らにあいさつする「即位後朝見の儀」がおこなわれる見通し。その後,「即位の礼」があり,新天皇が新穀を供えみずからも食べて豊年を祈る一代一度の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」は,2019年秋となりそうだ。

 2)3面の記事「改元,国民生活を考慮 政府,年の途中避け元日に」
 政府は天皇陛下の退位をめぐり,2018年12月31日に退位を実現し,2019年1月1日に皇太子さまが即位するスケジュールで検討に入った。新元号は,即位の前にあらかじめ発表する方向で調整を進める。準備期間を経て元日に改元することで,国民生活への影響を最小限に抑える狙いがある。(▼1面参照)

 最近の改元は,天皇の逝去に伴い,年の途中におこなわれてきた。「大正」から「昭和」への改元は12月末,「昭和」から「平成」は1月初めだった。しかし,政府関係者は,年の途中で元号が切り替わると「国民生活のさまざまな場面に元号が直結しており,影響が大きい」と指摘する。実際,過去の改元のさいなどにも「年が改まってから改元した方がいい」といった議論があった。
 補注)大正から昭和に年号が変わったときと昭和から平成にそうなったときとでは,国民生活に対する影響(前者における「規制」と後者における「規制と自粛」)という面に関していえば,質的にはだいぶ異なる様相を呈していたものの,その社会生活に対する影響度は後者においてもたいそう大きかった。いわば,「自粛という名」をもって語られた社会問題にまでなっていた。

 元号は皇位が継承されると変わるが,過去の事例では改元のタイミングとして,

 ★-1 即位が行われたその日のうちに改元する「即日改元」

 ★-2 年が改まってから,翌年以降に新天皇の下で改元する「踰年(ゆねん)改元」

がある。

 昭和から平成の切り替えは,即位の翌日に新元号を施行する「翌日改元」だった。明治までは踰年改元が多かったという。

 1979年に元号法が制定されたさいの国会審議でも,当時の公明党や民社党などの議員が踰年改元を主張。国会審議では「新しい元号は,可能なかぎり早く決めて発表すればよいが,使用を即日,翌日にすると,国民生活のなかに混乱を来すことは間違いない」「元号が国民のためにあるなら,国民生活の利便などを考えていかなければならない」といった意見が上がった。

 ただ,昭和から平成への改元のさいには天皇の逝去が1月だったことから,踰年改元は議論にならなかった。昭和天皇の逝去を受けて,改元に関する識者の懇談会が開かれ,衆参議長の了承と閣議決定を経て新元号の発表となった。

 一方,高齢などに伴う退位を想定する今回のケースでは,退位まで一定の期間を設けたうえで,年が改まると同時に改元することが可能となる。政府関係者は「皇位継承に伴う一連の儀式や,退位した天皇に関する予算措置,民間の印刷業者などの準備を考えれば,退位の日付が決まってから1年程度の準備期間は必要だ」と指摘する。

 政府が想定するスケジュールは,今後の状況に応じて変更される可能性もある。政府はいまの陛下に限って退位を可能とする特例法案を,春の大型連休前後にも国会へ提出する方針。法案に退位の日程を書きこむと「日程の自由度が低くなる」(政府関係者)ことから,退位の日付は明記せず,「政令で定める」といった表記にとどめる方向だ。(記事引用終わり)

 さて,以上の報道をもって,指摘されている「即日改元」や「踰年(ゆねん)改元」は,一見したところ,国民生活そのものとは縁遠い地点での歴史(=天皇史的な)問題でありながら,他方では一定限度においては国民たち側においても,たしかに深い影響を被るものである。それがこの「改元の問題」である。

 ただし,前段に引用した『朝日新聞』の報道は,当面した関連の論点にしか触れえていない。ここでは,元号の問題をもっと本質的に,それも日本の近現代史のなかで詮索・認識しておく余地があると考えている。

 この論点については,③ で本格的に説明するが,その前に『日本経済新聞』のほうでは,本日のこの話題「天皇退位」に関する記事を,どのように報道しているか。その1面に掲載された該当の記事を画像で紹介しておく。( ↓  画面 クリックで 拡大・可,原文は写りがよくないが判読できる程度には拡大できる
『日本経済新聞』2017年1月11日朝刊1面元号報道配置
 『日本経済新聞』朝刊は1面(上部左半分)でとりあげているように,冒頭記事ではなく,見出しを「皇位継承,19年元日に 退位巡り政府調整 新元号の検討着手」としてとりあげていた。『日本経済新聞』は原則として経済問題が冒頭記事となる。今回も皇室記事はこの程度というあつかいになったが,以前には,皇室の問題を1面冒頭記事としてとりあげていなかったわけでなかった。

 3)『天木直人の BLoG』2017年1月10日の指摘
 この日に天木直人が記述した表題は「今上天皇はあと2年で終わると書いた産経新聞の不敬」であった。こう主張していた。
    今日1月10日の産経新聞が,「新年号平成31年元旦から」という見出しで,一面トップの大スクープ記事を書いた。その要旨は,「政府は平成31年(2019年)1月1日(元旦)に皇太子さまの天皇即位に伴う儀式をおこない,同日から新元号とする方向で検討に入った」というものだ。その譲位に向けて,安倍首相は,有識者会議の報告と衆参両院の論議を経て,5月上旬にも関連法案を国会に提出する見通しだという。

 想定されているとはいえ,ここまではっきりと書いたのは,産経新聞がはじめてだ。しかし,これはいいかえれば,「今上天皇はあと2年で終わる」と書いたも同然だ。これほどの不敬があるだろうか。もちろんその不敬の極みは安倍首相だ。東京五輪までなにがなんでも首相を務める。その意欲を隠そうとしない。つまり2020年までは何があっても日本の総理を続け,自分の手で天皇を譲位させる。

 そういっているということだ。その意向を産経に書かせ,なし崩しに国民にその気にさせようとしているのだ。右翼の産経にスクープさせ,産経が書いたのだからほかのメディアも安心して後追い記事が書ける。そうして既成事実化する。これ以上の悪知恵があるだろうか。

 安倍首相も産経も不敬の極みである。みずからのお言葉を逆手にとられ,譲位だけを食い逃げされる。ただでさえ政治的発言を禁じられている天皇だ。おまけに今年は年頭所感まで口封じされた。今上天皇の悔しさは,いかばかりか。せめて国民は声をあげて,譲位関連法案のなかに,「この国の首相は憲法9条遵守の義務がある,それが国家と国民の統合の象徴である天皇制の本旨だ」,という規定を明記させなくてはいけない。

 憲法9条を国是とすることを公約にかかげる新党憲法9条は,何があっても今上天皇の譲位までに実現しなくてはいけない。
 註記)http://天木直人.com/2017/01/10/post-5879/
 最後の段落(2行分)はさておき,以上の指摘(批判)はこれ相応に受けとめ考えてみる余地がありそうである。「天皇への不敬」という発言であるが,この表現じたいにとまどう人がいないとは限らない。当然だと肯定できる人もおり,いまどきこのような表現を使って議論される「日本の政治問題:天皇・天皇制」そのものが実在する事実に接して,呆れる人がいても不思議はない。

 それにしても安倍晋三が,天皇明仁を「〈玉〉あつかい」しているかどうかについては,専門家の意見も訊きたいところである。それにしても,いままでの経緯も考慮しつつ観察するに,安倍が天皇をいいように処遇する(措置あるいは処分している)気分であることは,全面的には否定できない。

 4)元 号
 そもそも元号制とはなにか? 敗戦した大日本帝国が日本国になっても,なお継承され使用されてきた。元号を産んだおおもとの中国(中華人民共和国)では,いまどき使用されていない。隣国の韓国でも使用されていない。なぜ,日本だけがこの古代志向の元号を,わざわざあえて使用しているのか? 興味のもてる歴史の論題である。だが,日本ではなんといっても,歴史の問題ではなくして現実の制度になっている。そのための法制もある。敗戦後だいぶ時が経ってからだが,つぎのような法律をわざわざ創っていた。
◇ 元 号 法 ◇
= 昭和54年6月12日法律第43号 =

  1 元号は,政令で定める。
  2 元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。

   附 則
    1 この法律は,公布の日から施行する。
    2 昭和の元号は,本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

 ② 元 号 考-問題の根源-

 1)「元号問題の本質」
 1950〔昭和25〕年にまでさかのぼった話となる。当時,動きの出てきた西暦化採用に賛成する法案作成の準備を進めていたのが,参議院文部委員会委員長田中耕太郎であった。しかし,「第007回国会 文部委員会 第6号」(昭和25年2月21日午後1時58分開会)のひとつに上げられていた「元号に関する調査の件」に関する議事録の部分をみるに,田中は,この文部委員会の委員長である立場上,一委員としての発言はしていない。この委員会の冒頭における委員長として発言した文句は,以下のようであった。
    これはこの前にこちらで以てお諮り申上げました,元号に関する調査承認要求の件でございます。

 要求書の内容を申上げますと,1,事件の名称,「元号」に関する調査,1,調査の目的,新憲法の制定後「元号」に関する法的基礎が不明確となつており且つ,新憲法の精神から見ても,一世一元の制が果して妥当であるかという問題についても研究の必要が生じて来た。又講和会議を控え将来我が国が国際社会の一員となるべき立場からも,この際文明諸国共通の年号計算に従つてはどうかという問題が起つてくるというような見地から,元号に関する調査を行なつて,速かにその対策を講ずる。これが調査目的でございます。

 それから1,利益,「元号に関する種々の疑義を明確にし,文化国家の建設に寄與する。1,方法,官庁,公共団体及び学識経験者等から意見を聽取し,資料を要求し,又必要に応じて現地調査を行う。1,期間,今期国会開会中。それから費用の点は現在計算することがちょっと困難でございまして,取敢えず他の点だけを以て承認要求書を出したいのであります。

 右〔上〕本委員会の決議を経て参議院規則第34條第2項により要求する。年月日。ということでございます。只今の内容の調査承認要求書を提出いたしますことにつきまして御異議ございませんか。
 註記)「参議院会議録情報 第007回国会 文部委員会 第6号」, http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00702210804006c.html 2013年6月23日検索。原文には改行箇所なしだが,読みやすくするために入れた。〔 〕内挿入も同じ。
 昭和25年当時,「元号廃止法案」が文部委員会で検討されたさい,参議院文部委員会の田中耕太郎委員長は,山本有三〔勇造〕委員とともに,昭和の元号廃止と西暦の採用を主張していた。この文部委員会に多くの参考人が登場し,その8割が元号廃止を主張したという。
 註記)王 福順「日本の年号の一考察-平成の改元を中心に-」『修平人文社會學報』第9期,中華民國 96〔2007〕年9月,124頁。〔 〕内補足は筆者。

 また,『東京新聞』同年2月12日「放射線」欄に寄稿した田中は,天皇制と元号を絡めて大胆に,つぎのように論じていた。これは,いまから振りかえってみても,ごく自然でまっとうな「元号廃止の意見」であり,忌憚なく元号の除去を訴えていた。もっとも,「天皇の治世」は,1950年の時点になっても,新憲法下においてなお続いていた事情も考慮して聞くべき意見である。
    元来元号は天皇治世の標識だった。天皇の治世をやめば,その瞬間から標識が下されるのが当たり前なのである。もし廃業した肉屋の後に八百屋が開店して,用い慣れた故に肉屋の看板を下ろさなかったら,商売がなりたたないだろう。国民屋の店頭に天皇屋の標識を掲げるのは不合理であるばかりか有害である。
 註記)高橋 紘『天皇家の仕事』共同通信社,1993年,335頁。

 この記述で,肉屋とはなにを意味し,八百屋とはなにを意味するのか,贅言を要しない点である。その内容のひとつだけをいえば,肉屋は女性の参政権・市民権を認めない国家体制を意味し,八百屋はそれを認めた国家体制を意味した。
 井上 清『元号制-やめよう元号を-』(明石書店,1989年)は,先述に触れた「第007回国会 文部委員会 第6号」(昭和25年2月21日)における田中耕太郎の冒頭発言を,こう解釈していた。
井上清画像    元号制は,新憲法の精神からみて問題があるとか,日本が国際社会の一員となるべき立場から,紀年法は文明諸国共通の法(つまりいわゆる西暦)にしたがってはどうか,という問題があるなどというところには,委員長は元号制を廃止の方向で考えている,少なくとも調査の結果では,元号制の廃止・西暦の採用もありうると考えていた。
 出所)画像は井上 清,http://sakurajadehouse.com/?p=23033

 田中耕太郎は熱烈な天皇崇拝者であるが,また熱心なカトリック信者であり,『世界法の理論』(岩波書店,1948年)という大著もある商法学者で,コスモポリタン的な一面もあった。その面が,田中委員長のそうした発言にはにじみ出ているように思われる。
 註記)井上 清『元号制-やめよう元号を-』明石書店,1989年,75頁。 
 田中耕太郎は昭和25年3月1日に議員を辞職し,最高裁判所長官に就任していた。そのあとを襲って委員長になった山本勇造(有三)が,どのような采配ぶりをおこなったか,ここでは触れられない。ただ,田中が「元号問題」に対して明示した姿勢は,カトリック・キリスト教徒の立場,法哲学者としての思想に拠っていたが,昭和天皇擁護論でもある。その後における対米追随路線に対しても大きな影響を発揮していた。
 補注)ここで,戦後日本で初の国際司法裁判所判事になっていた田中耕太郎(1890~1974年)の「略歴」に,あらためて触れおこう。以下の段落で説明される。

田中耕太郎画像8 明治23〔1890〕年10月25日鹿児島で生まれる。杵島郡北方町出身。父秀夫が判事として最初に赴任したのが鹿児島地方裁判所であった。父親の転勤で転校を繰り返し,福岡の修猷館中学を経て第一高等学校,東京帝国大学(現東京大学)に進み,大正4〔1915〕年主席で卒業した。その後,東京帝国大学助教授・教授・法学部長,昭和21〔1946〕年には文部大臣,同22〔1947〕年から25〔1950〕年まで参議院議員を歴任し,同年から最高裁判所長官を10年間務め,退官。文化勲章を受章した。
 出所)画像は,http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3879754.html

 退官4カ月後,国連の機関である国際司法裁判所判事としてオランダのハーグに着任した。日本人としては戦後初めてのことで,昭和36〔1961〕年2月から昭和45〔1970〕年2月までの9年間に及ぶものであった。在任中9件の事件を扱い,なかでも南アフリカ共和国の人種差別問題では,裁判の基礎は正義・平和だが,国際問題はスケールが大きく,人種問題の複雑さをつくづくと感じていたようである。

 昭和27〔1952〕年北方中学校校歌作詞作曲,昭和42〔1967〕年北方町名誉町民。昭和49〔1974〕年大勲位菊花大綬章受章,文化勲章受章者。なお,日本国憲法施行後,皇族と内閣総理大臣経験者を除き,唯一の大勲位菊花大綬章受章者である。さらに,生前に勲一等旭日桐花大綬章と文化勲章を受勲したのは,田中耕太郎と横田喜三郎のみである(ただし新叙勲制度が始まってからは,井深 大が生前に文化勲章,没後に勲一等旭日桐花大綬章を受勲している)。位階は正二位。
 註記)http://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/jinbutu/text/koutarou.html,http://uwasano3.web.fc2.com/tanaka-kotaro-tyo.html を参照。いずれも,2013年6月26日検索。
 補注)「位階は正二位(しょうにい)」とは,貴族(家族)の位でいうと,伯爵に相当する〈封建政治思想〉の階位を表現する。前後の文脈からして田中耕太郎の〈天皇教〉信者ぶりは否定できまい。敗戦後の日本においては,人が死者になってからこの位階を授与していた。誰が誰に授与する政治・社会関係にあるのかの説明は不要である。

 田中耕太郎は,「桃李下成蹊」という揮毫を残している 註記)。この意味は,「徳ある者のもとには,なんら特別なことをせずとも,自然と人々が集まって服するということ」である。「桃や李(スモモ)は言葉を発することはないが,美しい花と美味しい実の魅力に惹かれて人びとが集まり,そのもとには自然と道ができることを譬えたことばであるという。
 註記)「田中耕太郎(明治41年卒)」(福岡県立修猷館高等学校ホームページ),http://shuyu.fku.ed.jp/html/syoukai/rekishi/tanaka_kotaro.html 2013年6月28日検索。

 けだし,名言である。ただし「徳のある者をアメリカ」にみたて,「日本側の人びとの1人でもある田中耕太郎」がその道を自然と歩く姿を想像するがよい。ただし,田中耕太郎・恒藤 恭・向坂逸郎『現代随想全集 第27巻』(創元社,昭和30年)において,田中はこう述べていた。
 補注)この段落の意味は説明を要するが,ごく簡単にこういっておく。最高裁は1959年12月に『砂川判決』を下したが,当時,最高裁長官の地位・職務にあった田中耕太郎の采配は,あたかもアメリカの走狗であるかのようになされていた。その事実・経過をとらえて表現している。2016年3月に施行された安保関連法が成立させられる過程においても,自民党幹部によってこの田中耕太郎の判断が悪用されていた。
   「われわれは理念や理論の価値を決して低く評価してはならない。またわれわれの公私の生活が主義や主張において一貫していなければならぬことも疑いを容れない。しかし公式的な理念や理論をむやみに押しつけたり,それを見当ちがいの方向に適用したり,それによって現実生活の正しい要求に盲目的であったり,長年の伝統の中に存する合理的なものを無視したりするような傾向が,わが知識階級の中にないといえるであろうか」。
 註記)田中耕太郎・恒藤 恭・向坂逸郎『現代随想全集 第27巻』創元社,昭和30年,15頁。引用箇所の原文論稿は『読売新聞』昭和27年8月28日夕刊に掲載。
 昭和20年代において,最高裁長官の任務に就いていた田中耕太郎が,知識階級の1人として,アメリカの「正しい要求に盲目的ではなかった」といえるか? 自分の判断を「見当ちがいの方向に適用した」ことはなかった,といえるか? 田中がはたして,本当に日本国民のために働いてきたのか,いまさらのように疑念が提示されねばならない。

 井上 清『元号制-やめよう元号を-』は,関連して,こういうことを述べていた。

 1950年初めには,国会や学者のあいだでは元号廃止論が有力であり,自身も口にし,筆に大いに廃止論を唱えていた。だが,同年6月,アメリカが日本を基地として朝鮮戦争を起こし〔なお,この歴史認識は1989年の記述になるものにしても,ひどい間違いである〕,それとの関連で日本と連合国の講和について,アメリカ陣営だけと片面講和か,中国・ソ連を含むすべての旧交戦国との全面講和か,日本再軍備か平和憲法擁護か,という国論を二分する大問題が起こり,元号論議は遠ざかっていった。本当はこのときこそ,天皇による国民統合の有力な仕組である元号制反対を,いっそう強めるべきであった。
 註記)井上『元号制-やめよう元号を-』83頁。

 2)「元号の由来」
 中国から伝来した《元号》制度は本来,支配王朝に対する服属関係を示す政治的意味を有し,その王朝の元号を使用する範囲は,支配の版図として認定されていた。日本における百数十に及ぶ年号は,そうした古い中国政治思想にもとづき,天皇の権威の妥当範囲を示してきた。そこでは,新しい元号の制定は,基本的に,新しい天皇の存在を民衆に対して宣言する儀式としての性格をもっていた。そもそも「特定の年代に区切り,この期間を単位にして」名づける「称号である元号」は,「国民主権という憲法の基本原理」に抵触している。
 註記)宮田光雄『日本の政治宗教-天皇制とヤスクニ-』朝日新聞社,1981年,19頁。

 元号問題は本来「皇位継承問題」である。元号は帝王の時間支配の具であって,日本の天皇制のもとでは,そのような非日常的緊急の手続を要していた。それゆえ,旧皇室典範第2章の「践祚即位」に関連しては,明治42〔1909〕年の,天皇の践祚即位礼・その他に関して規定した皇室令である『登極令』(皇室令第1号)が,「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ定ム」と規定していた。

 したがって,天皇の存在するところでは,どこでも日常性が排除され,天皇制としての非日常的(擬似終末的)支配形態が演出された。日本のナショナリズムがファシズムとむすびつくのは,その本質的な由来であった。

 また皇位継承は,天皇制のリバイバル(更新)であるから,元号の法制化はそのはしりともいえる。日本のナショナリズムにおける「収斂」が,誰に向かう収斂であったかは,もはや誰の目にも疑いえない。「正義」とは,国家主権を超える原理である。「罪」とは,国家的利益の絶対化である。国家と日本国民は,その否定において,普遍的価値の前に立たしめられる。ナショナリズムは翻されねばならない。
 註記)戸村政博編著『天皇制国家と神話-「靖国」,思索と戦い-』日本基督教団出版局,1982年,23-24頁,25頁。

 大日本帝国憲法では「元号の規定」は,旧『皇室典範』第12条に明記されていた。日本国憲法下,1947〔昭和22〕年に現『皇室典範』が制定され,その条文が消失した。しかし,その後も国会・政府・裁判所の公的文書あるいは民間の新聞などでは,慣例的に元号による年号表記が用いられてきた。1979〔昭和54〕年6月6日,国会で元号法が成立,同月12日に公布・施行された。なお「昭和」の元号は,この法律第1項の規定にもとづいて定められたものとされ(附則第2項),「平成」の元号は「元号を改める政令」-1989〔昭和64〕年政令第1号,〔昭和天皇が死んだ〕1989年1月7日公布・翌日施行-によって定められていた。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/元号法 参照。

 かつては,天皇を絶対的中心としてまとまって行動し,敗戦によって「中心の喪失」の混乱も経験している。このことは,人間というものがいかに弱くて,なんらかの「中心」をいつも欲しており,そのことによって重大な誤りを犯すことを示している。「神」というような超越的存在ではなく,天皇,社長などという具体的人物を「中心」に据えることにより,人間は安心することができるが,それは大きい破綻につながる可能性をもっている
 註記)河合隼雄『日本文化のゆくえ』岩波書店,2013年,282-283頁。

 この国では,なにごとも天皇を中心に〔あたかも天動説(それとも地動説?)のごとく〕回っていなければ,いつのまにか,天が裂け地が割れるような天変地異が起こるかのように,ひどく心配する者たちもいる。それでは,天皇がいなければ大地震が起きないか,超大型台風が襲ってこないか,日食・月食が起きないか(?),20世紀後期のような好景気が日本経済に必らず戻ってくるか(!)などと問うてみればよいのである。

 それらと天皇の存在とになんの関係もないことは,即座に理解できる。ただし,この理解に納得しない人たちもいる。それは,天皇・天皇制が「あること」の「偉大な効能・ご利益」を観念的に深く信じられる,幸せな一群・集団である。彼らは,自分たちの信心に和しない「日本社会内そのほかの諸集団」が「存在すること」を絶対に許せない,いわば『国体神道原理主義』とでも名づけたらよい “シントーイズム” に,どっぷりとぬるま湯的に漬かっていられる国家・皇室神道的な信者たちである。

 この種の錯誤が生ぜざるをえない理由は,つぎのように説明できる。

 まず,日本国憲法に保障されている「信教の自由」があるが,同時にまた,この憲法においては「象徴である天皇」とこの一族が,「大嘗祭を頂点とする神事:祭祀」を執りおこなっており,〈宮中祭祀:皇室神道にもとづく信仰生活〉を至上目的としながら,生きている。こうして,民主的だと誇ってきたはずの憲法のなかには,「日本国・民統合の象徴」であると規定された天皇が,もとより「政教分離」などそっちのけに,同居=割拠している。

 すなわち,民主主義の基本理念にとってみれば,まるで「獅子身中の虫のごとき」根本矛盾をまるごと抱えている一国憲法は,いったいなんのために作られたのか。そして,これを〔まるごと喜んでいたかどうかは分からぬが〕,そのまま受けいれてきた天皇家側の「裏」事情は,どういうものであったのか。

 3)「元号問題再考:その1,偽りの歴史理解」 
 前述に関説があったが,近代日本において元号が正式に使用されたのは,1889〔明治22〕年2月11日,大日本帝国憲法と同時に制定された『皇室典範』(旧法)においてである。第2章「踐祚即位」の第12条「踐祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」がそれであった。

 そして,1909〔明治42〕年2月11日に公布された『登極令』(皇室令第1号)は,第2条「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム」「元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」,第3条「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定し,天皇の代替わり儀式のなかで,践祚の直後に改元をおこなうと明記している。

 敗戦後,占領軍の民主化政策のもと,元号の法制化は承認されず,1946〔昭和21〕年の元号法案は立ち消えとなった。1947〔昭和22〕年をもって旧『皇室典範』と『皇室令』は廃止となった。

 だが,1970年代になると自民党が元号小委員会を設け,1976〔昭和51〕年の昭和「天皇在位50年式典」を経て,1977〔昭和52〕年の「元号法制化要求中央国民大会」を契機とする推進派による,地方議会での決議が相次いだ。

 1979〔昭和54〕年には,「元号は,政令で定める」「元号は,皇位の継承があった場合に限り改める」を本則とする元号法が定められた。1989〔昭和64:平成1〕年に皇位継承のあった1月7日,昭和は平成と改元され,翌日8日施行された。
 註記) 原 武史・吉田 裕編『天皇・皇室辞典』岩波書店,2005年,91-92頁。

  「一世一元」の元号はこのように,近代日本における産物であった。また,敗戦した大日本帝国の敗軍の将(元・大元帥)のための元号としても,つまり,現代日本においても使用される「象徴天皇用の〈暦の区切り〉」として使用されている。「一世一元」の元号,これにもとづいて改元する「天皇のための暦」は,もともと明治時代の創作物であり,けっして古代から継承されてきた固有の制度ではなかった

 日本において最初の元号は,「大化」(645年)とされ,その後しばらく断続的であったが,「大宝」(701年)と改元されてから,今日まで千3百年あまり連続してきた。ただし,明治以前は天皇1代になんども元号をあらためることがあって,1号に平均すると「5年あまり」の期間しかなかった。

 また,幕府の力が強かった江戸時代は,京都の朝廷から原案が送られると,これを幕府がさきに審議したのちその結論を京都に報告し,朝廷側でもこれを追認する審議してから,天皇が勅定するかたちを採っていた。それが明治の皇室典範により,枢密院で審議して天皇が勅定することになり,江戸時代以前のやり方に戻った。
 註記)皇室事典編集委員会監修『知っておきたい日本の皇室』角川書店,平成21年,70-71頁。

 明治維新後の近代社会に対しても,わざわざ置くことにした元号制であった。しかも,その時代錯誤の暦観は,新しく「一世一元」の方式に定められていた。特定の天皇が死ぬときにまで,皇位の期間を合わせたとなれば,なおさらのこと,その個人的な性格は強まざるをえない。

 敗戦後,GHQは「元号法案は天皇の権威を認めることになるので,占領軍としては好ましくない。日本が元号を制定したければ,独立後に立法化すればよい」と,GHQ民政局課長・次長を歴任したチャールズ・ルイス・ケーディス(Charles Louis Kades)が応えていた。この発言を,自民党は忘れておらず,「元号法」を復活させていた 註記)。

 元号法の施行は,日本国憲法内に規定されている「象徴天皇の地位(権威)」を高める効果を発揮させた。その結果,第1条から第8条に規定のある天皇条項にかけられた〈タガ〉が,大幅に弛緩させられる状況をもたらした。
 註記)皇室事典編集委員会監修,前掲書,75頁。

 上地龍典『元号問題』(教育社,1979年)は,敗戦後,GHQ民生局の担当官が「西暦を強制することは,宗教の自由に反することだ」という意見を述べていた事実を,日本側の記録にもとづいて論及している。
 註記)上地龍典『元号問題』教育社,1979年,74頁。

 そうだとすれば,敗戦後の日本が「元号法」を復活させた事実は,日本国民に対しても「元号を強制する=法制化する」行為,すなわち,皇室流「時間観念の宗教的な押しつけ」を意味した。これはいうまでもなく,〈政教分離〉の次元において指摘されねばならない,かつては「国家神道=皇室神道」であった「大日本帝国時代の宗教体制」に,もともとは発生していた問題点である。

 「日本は神の国」であるといったところで,民間神道における習俗的な信仰心に留まる話であるかぎり,天皇・天皇制の政治空間における元号に関した法制化の問題は,出てくる余地などなかった。あるいは,天皇が古代・中世のように,それこそ〈験担ぎ〉を狙い,改元を頻繁に繰り返す勝手しだいなのであれば,とりたてて深刻な問題は起こりえなかった。

 ところが,近・現代社会において天皇の元号の問題を,即,国民・国家運営そのものの時間的な区分の基準にまでもちあげて使うために法制化したとなれば,話の性格は根源より異なってくる。

 元号に固有の歴史的な特性がなんであったか,的確に認識しておかねばならない。明治中期以来,また敗戦後にも,無理やり復活(!?)させられた「元号の〈一世一元〉制」は,実は,朝廷内の歴史的伝統からはみ出た,「まったく異質・新規になる元号制の創造」であった。いうなれば,それもまた「明治に創られた天皇制」の産物のひとつに過ぎず,古来からの伝統そのものとは異相の制度であった。

 上地『元号問題』は,元号について「事実たる慣習」の問題であったと指摘している。けれども,歴史に刻まれてきた元号の記録:歴史を無視した,つまり,明治以降しか念頭に置かない「元号の議論」であり,まさに閉ざされた展望にだけ依った主張でしかなかった。「『昭和』元号は」「未曾有の最長記録樹立だけでも元号史上で重要な意義をもっている」註記)と解釈したところで,これは単に,この元号法制化が現代史的に結果させた新現象のひとつでしかない。この事実を,故意に針小棒大に強調する非〈歴史的な解釈〉は,思いつきの域を出ていない。
 註記)上地,前掲書,86-87頁。

 くわえていえば,現代日本人の平均寿命が伸びてきた結果にも原因するその効果(結果):「昭和元号の最長記録」でもあったことを考慮すれば,「元号史上で重要な意義をもっている」という解釈は,その根拠からして「主観的な決めつけに囚われた恣意の発想」であることを露呈させてもいる。そもそも,〈古代からあった元号〉と〈昭和の元号〉を比較しながら,その最長年月記録の樹立をうんぬんするのは,スポーツ競技の記録ではあるまいに,無意味に等しい議論である。したがって,「元号が “一世一元” とされたのは明治以降だが,『昭和時代』の長さは,当分破られそうにもない」註記)といった予想をしたところで,これに特別の意味がみいだせるとは思えない。この指摘のほぼ99%以上がナンセンスである。
 註記)高橋 紘編『昭和天皇発言録』小学館,1989年,229頁。

  上地『元号問題』はまた,第2次大戦後における元号法制化について自民党側がとなえた点に関連させては,こうも主張していた。「元号は,民族としての誇りと,自覚の象徴として,国民感情に深く浸透しており,まさしく, “民族共通の遺産” という性格を備えている」。「国民の文化遺産としての元号の歴史的意義を尊重し,限りなく続く時の流れに,節をつけ時を表示する元号に,法的裏付けを与えることが必要である」。

 しかしながら,そうした発想と意見は,要するに「《天皇中心主義》の歴史観」である。いまさらのように,「君主主権」の時代錯誤を地でいくつもりなのか,臆面もなく,天皇による「本質面で観れば」前近代的な〈時間支配観〉の「現象的・表層的な理解」を披瀝していた。こうした元号〈観〉からはいつも,国家全体の単位での「日本神国論」がせり出してくる。

 元号は,普遍的思想を欠落させた「天皇至上主義の政治思想」を端的に反映している。元号は,明治時代の帝国主義的な統治特性である「非民主主義・反自由主義の政治観念」を,《時間の次元》において正直に表象させている。

 この元号が,大日本帝国が〈敗北を憂き目〉をみたあとの時代になっても,大手を振ってまかり通り,しかも一国内に跼蹐した価値観から脱却できないでいるとなれば,その《古代遺物的な負の特性》がいまさらのように指摘され,きびしい批判を受けねばならない。

 ① の 3) で「不敬」という表現が出ていたが,なんのための議論をしているにせよ,元外交官の口からも,そのようなことばが出てこざるをえないのが,「現状における日本の民主主義の状態」である。天皇・天皇制問題の焦点に “なにがあるか” は自明に過ぎるほど自明である。

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 〔※ 未 完 〕  明日以降に本編の続論を記述する(←リンクあり)予定である。


 【なにを語りたいのか分からぬ本,その暗号が全然みあたらない本】

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 〔断わり〕  本記述は,2011年9月1日における旧ブログの再掲である。本日〔2017年1月10日〕の再出に当たっては適宜,補正している箇所・段落もある。

 昨日〔2017年1月9日〕に,関連する論点をめぐって記述をおこなっていたところ,この2011年9月1日の記述も思いだしたしだいであり,ここに復活させることになった。

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 ① 天皇・天皇制をどのように語るのか

 今日〔ここでは2011年9月1日のことになる〕読みおえた本なのだが,この大野 芳著『天皇の暗号-明治140年の玉手箱-』(学研パブリッシング,2011年6月)を閉じたあと,そういえば,大野 芳が以前公表した『伊藤博文暗殺事件-闇に葬られた真犯人-』(新潮社,2003年8月)を読んでいたことを思いだした。
大野2著表紙
註記)左は学研パブリッシング,2011年,右は新潮社,2003年。

 それはともかく,この大野『天皇の暗号-明治140年の玉手箱-』が,いったいなにをいいたいのかよく理解できないままに読了した。なぜか? 考えてみた。そのまえに本書の紹介をしておく。

 「詳細」はこうである。「孝明天皇の謎の死は,近代とともに南北朝の対立をも呼び寄せた。南朝の末裔を主張する熊沢天皇の登場,明治天皇すり替え説の根幹をなす大室家の存在,大逆事件の深層,そして座礁した幻のクーデター・・・維新成立にひそむ密約と暗号を追う異色ノンフィクション」。

  天脈拝診日記抄  熊沢天皇の登場  天皇機関説の怪  大逆事件の毒矢
  後醍醐帝の呪縛  勅旨乱発に窮す  孝明天皇の崩御  慶応三年の疑惑
  玉は死守すべし  烏羽伏見の戦い  東京遷都と隆盛  岩倉具視の死

 著者を紹介する。大野 芳[オオノ・カオル]は1941年愛知県生まれ,明治大学法学部卒,週刊誌記者を経てノンフィクション作家。本ブログの筆者はそれにしても,本書を一読してあと,妙な感じにとらわれた。「天皇の暗号」と題したこの本がその〈暗号〉をどこにしこんでいるのか,さっぱり検討がつかなかったためである。

  江戸幕末から明治維新への足がかりを準備した孝明天皇
  安 重根がこの天皇暗殺事件に触れた点   南北朝問題
  明治天皇すり替え説   瀧川政次郎の南北朝「観」
  ガイドウ・フルベッキというアメリカ人宣教師
  天皇=玉   伊藤博文と明治天皇の仲,明治天皇と西郷隆盛の関係

など,明治維新以降の日本に起きていた数多くの歴史問題を真正面からとりあげ,その謎・疑問を解くために「天皇の暗号」という書名が用意されたらしいのである。

 ② 意図が絞りきれていない
大野芳画像
 ところが,暗号という文字を出していながらも,この暗号という語彙が,どこにどのように埋めこまれているか皆目理解できない内容であった。これは,読み手である本ブログの筆者の読みが多分浅いとか,題材に対する基本的な理解がそもそも欠けているとかいう理由でもって示した点ではない。
 出所)画像は大野 芳,http://www.ksatou.com/oono-hp/onokaoruprofu.html

 疑問を投じるのはよいが,あれこれ言及してきた問題に関する検討としては,どうしてももの足りない,いいかえれば,満足感がえられず,食い足りない。論及されている中身に新味がないわけではないものの,結論にまで論旨を充足的に運ぶための実体がない。もっとも,本書の著者は「暗号にその論旨を任せている」つもりなのか,暗号解きそのものについてはおこなっていない。

 多くを語ってはいるものの,これに対する解答は肩すかしに終わっている。いままで天皇・天皇制の問題を論じてきた大量の探索,あれこれの議論に対して,なにかを確実に付けくわえられるものはあるのか? これが決定的といってよい疑問としての不満である。
明治天皇画像 
 大野は,明治天皇の肖像「写真」(左側にかかげたもの)をかかげた箇所〔頁〕で,こう要求している。明治天皇:睦仁の「すり替え説」は「大室寅之祐が,いつ,どのようにして禁裏の睦仁と入れ替わるかを,立証しなければならない」(255頁)。この論題は,歴史学の研究者が嫌がるものである。したがって,睦仁が大室寅之祐であったか否かどうかについては,いまなお本格的な解明が待たれている研究課題である。というよりはしばしば,のっけから回避され,無視するほかない問題対象でもある。ただし,大野もこの問題点からは回避(逃避?)している。

 ③ 旧帝大系の歴史学者には真相をみやぶる仕事を期待しないほうがよい

 つまり,② の最後部に触れたような論題は,旧帝大系に籍をおく研究者がほとんど眼を向けないか,あるいはその重大問題の実在をしりながらも放置されてきたものである。ドナルド・キーンも「伊藤博文と〔大室〕寅之祐の関係」(254頁)に触れざるをえなかったドナルド・キーン画像けれども,とくにキーンなりに新局面を開けたといえるような研究成果を披露できていない。
 出所)画像は,http://www.donaldkeenecenter.jp/message.html
 補注)ドナルド・キーンには大著『明治天皇 上・下』新潮社,2001年があるが,日本「国」内にとりこまれたこの歴史学者に(アメリカ国籍であったが,2012年3月日本国籍取得),帝大系歴史学者の立場を超えるなにかを期待するほうがムリである。本ブログ筆者の推察であるが,おそらくキーンは,明治天皇の時代から「日本の天皇・天皇制」にしこまれた秘密を,なにもしらないわけがない。

 「伊藤博文→天皇すり替え説」や「西郷隆盛と明治天皇の親密な関係」の問題は,いまだに歴史学的な論点として十分に認められていない。いずれにせよ,明治以降の「皇室の家憲は,政府が決めるという異例の法律」(370頁)で決められていた。敗戦後の日本国憲法における天皇・天皇制の位置づけも,占領軍が決める,という異例=異様な関係をもって出立させられていた。
フルベッキ集合写真1
出所)http://教えて.jp/1245.html(画面 クリックで 拡大・可)

 上にかかげた写真は,有名な「フルベッキと幕末志士」を写したものの一部である(昨日:2017年1月9日の記述にも出したもの)。この写真の存在をまさか,キーンがしらないとは考えられない。

 後列左右5人の真ん中の人物が「西郷隆盛」である。この前に座っているのがフルベッキである。フルベッキの横には子どもが立っていて,そのまた前には〔この写真全体の左右で観た中心点に〕大刀を左肩に立てかけて座っている人物がいる。これが大室寅之祐であり,明治天皇にすり替わっていたと推理されている,すなわち,孝明天皇の本当の子〈睦仁〉ではなかったが,この睦仁になりかわって明治天皇になっていたと目されている者である。
岩倉具視画像2
 その場合となればもちろん,元の睦仁は抹殺されていることになるし,その下手人には伊藤博文や岩倉具視がかかわっていたことも推理されている。とくに岩倉具視の人相・顔つきにあっては,明治維新史(陰謀史)にかかわる策術の駆使が,そのしわの溝々のなかにまで深く記録されている。つまり,岩倉の悪相・凶相ぶりが正直に表面化している。

 この大野の天皇・天皇制「論」のなかには「真偽のほどはともかく」(245頁)といった,まるで開きなおったような表現方法が登場する。これでは,せっかくの議論が御破算になってしまうのではないか。こういう論法を駆使することなればなるほど,帝大系の歴史学者たちには「明治天皇すり替え説」に対して距離を置かせる事由を与える始末になっていた。

 さきほど大野 芳の画像を借りたホームページにおいては,こう紹介されていた。大野は1941年愛知県生まれ,明治大学法学部卒。雑誌記者を経て,ノンフィクションを中心に執筆活動に専念してきた。1982年『北針-大正のジョン万次郎たち』で第1回潮賞ノンフィクション部門特別賞受賞。膨大な資料をもとに,近代史を独特の視点から描く手法が高く評価されている。そこまで高く評価されているはずのこの大野にとっても,「明治天皇すり替え説」は,手に余るような “ノンフィクションの素材だった” ということか。

BSジャパン2017年1月8日19時歴史ミステリー番組表画像

 【2017年1月7日午後7時からの2時間番組でとりあげられたフルベッキ集合写真】

 【明治維新が江戸幕府破壊史であった「歴史の事実」にかかわるフルベッキ集合写真の意味】

 【明治創造史の秘密を護った男:フルベッキの,そのまた『秘密の謎』】



 ①「歴史ミステリーロマン 幕末維新の謎を解け!【全ての歴史には謎がある】」BSジャパン(BS7)2017年1月8日午後7時00分~8時54分放映

 昨日〔1月8日〕の夜,夕食中であったがテレビのチャンネルをいじくりまわしていて,BSジャパンを通過しようとしていたら,本ブログでもとりあげたことのある題材が「いかにも,いかにもだ」という体裁でとりあげられていた。また,関連する「現代の人物」(この話題に関係する執筆者の1人だという意味であるが)加治将一画像に,加治将一〔かじ・まさかず〕が紹介され,だいぶ顔を出してもいた。
 出所)画像は加治将一,http://www.funaimedia.com/parson/parson.html?data_id=62
 補注)ここでは,本ブログにおいて既述であった3件を後段に挙げておくが,問題の核心は大室寅之祐という人物に関係していた。この番組でもフルベッキ集合写真を中心の題材にとりあげているが,なぜか(それもかなりきわどい論点だということらしいと推察しておくほかないが),この写真の真ん真ん中に写っている「その人物:大室寅之祐」のこと〔つぎの表紙カバーではの文字が頭部にかかっている人物〕には,ほとんど触れないで済ませている。(画面 クリックで 拡大・可)
加治将一暗号表紙
 註記)この画像は祥伝社,平成24〔2012〕年。さらにこの下側にはこの本の巻末に出ていた宣伝の頁(画像)である。(画面 クリックで 拡大・可)
加治将一暗号宣伝頁
 いうまでもなく,その人物こそが,明治天皇(もとの〈本物の睦仁〉)にすり替えられていたのであり,明治の時代において「死ぬまで天皇睦仁」を「演じた別の者」ではなかったかという疑いを〔だがまた,逆さまに本当のことをいえば,実はこの人物こそが「本当の明治天皇だ」というカラクリもありうる〕抱かれてきている。いまだにその疑いは晴れていない。この指摘は,学術研究の世界からは邪説として排除されているけれども,正史=体制側の官許史だけが真実(歴史の事実)を間違いなく語っているわけではないこともたしかである。( ↓  これは参考文献の画像。画面 クリックで 拡大・可)
加治将一・大野芳表紙
註記)左側は学研,2011年発行,右側は祥伝社,2007年発行。

 さて,明治維新史以降,敗戦までの近現代日本史は『勝者(官軍)側の歴史』でしかなく,その裏側に隠された「野史・外史の側面」を完全に無視した表史なのであれば,この「正」史(いわば官軍史)だけが,真実をそのままに語る歴史だとはいいきれない。むしろ,逆にウソを語っている場合がいくらでもある。

 しかし,上の紹介した番組のなかでは,その問題点にまで突っこんでいくことはできていない。また,加治将一を登場させているにもかかわらず,その点にまともに触れていなかった。このことは,そこまで番組のなかで追及することになると,「エライ騒ぎ」=社会問題になるおそれもあるゆえ,その程度の寸止め番組に終始させていた。

 加治将一もこの番組のなかでは,実にかっこうよく現われていたが,そのあたりのきわどい論点まではいわされないで,ガマンする番組作りに終わっていた。この番組が意味する明治維新史の秘密についていえば,そのあたりまで歴史の問題を徹底的に,とことんまで追及していけないにしても,少しでも確実に解明していったとしたら,実は現在の天皇でさえ落ちつき(冷静さ)を喪失しかねない(もしかしたら彼はその真実をしっているかもしれない)ような,ある種の非常に興味ある話題を提供することは間違いない。
 
 --本ブログにおける関連の記述としては,つぎの3件がある。

 ★-1 2014年12月16日,主題「天皇・天皇制と部落問題など-歴史(明治以来の天皇史)の真実に迫る-」
    副題1「明治天皇:睦仁と昭和天皇:裕仁」
    副題2「バーガミニ『天皇の陰謀』1971年(日本語訳1973年)と秦 郁彦」
    副題3「明治以来,操られてきた天皇の歴史」
 
 ★-2 2014年12月17日,主題「明治天皇と西郷隆盛の親密な関係」
    副題1「睦仁と西郷どんはなぜ,親しい仲だったのか?」
    副題2「南北朝問題と部落差別問題が交叉する日本史」
 
 ★-3 2016年11月27日,主題「伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』2009年に関する小考」
    副題1「官許的な学問展開の特徴と限界,そして根本からの疑問」
    副題2「日本帝国の過去:行跡に関する意図的な可視と暗黙の不可視」
 
 --BSジャパンの番組は,該当のホームページをのぞくと,つぎのように宣伝されていた。

 歴史ミステリーロマン 幕末維新の謎を解け! 龍馬! 西郷! 勝 海舟! 志士が勢ぞろい!? 謎の古写真の暗号を解読 (画面 クリックで 拡大・可,より鮮明に写り,文章が読みやすくなる)
BSジャパン2017年1月8日19時歴史ミステリー画像1
 ★お年玉キャンペーン中★ 全ての謎には,それを解き明かす暗号がある…  その暗号を読み解いたとき,歴史は,善と悪,光と闇が入れ替わる。前代未聞の歴史ミステリードラマ  (同 上)
BSジャパン2017年1月8日19時歴史ミステリー画像2
  註記)「このドラマはフィクションである」と断わられて
      いるが,実際はこの表現そのものがフィクション
だというほかない。

 ※-1 番組内容  幕末から明治に撮影された1枚の古写真。この写真には名だたる英雄たちが勢揃いしている,という説がある。しかしこれまで公にならなかったのは,ここに何らかの歴史の闇が隠されているといわれている。この番組は,サスペンスドラマとドキュメント取材を敢行。両論の専門家や現地での取材などを通じて歴史の闇,そして謎を解き明かす!新たなスタイルで展開する歴史ミステリーロマン。

 ※-2 出演者  笹野高史,遠藤 要,田中要次,南 明奈,春田純一,古舘寛治
 註記)http://www.bs-j.co.jp/program/detail/24000_201701081900.html#programContents_ND

 以上の部分については,活字が拾えないので画像で紹介しておいた。以下からは文章の解説部分を引用する。

 幕末の歴史を追う人誰もが耳にしたことのある1枚の写真。通称,フルベッキ群像写真,もしくはフルベッキ写真と呼ばれる。

 一般には,明治1年(1868年)ころ,中央付近に写る外国人・ギドー・フリドリン・フルベッキ(オランダ系アメリカ人。牧師で英語の教師)が佐賀藩の藩校「致遠館」の学生とともに撮った写真とされている(つぎの写真の撮影は,長崎の写真家・上野彦馬)。(画面 クリックで 拡大・可,かなり大きく写り,判読しやすくなる)
フルベッキ集合写真1
出所)http://教えて.jp/1245.html(画面 クリックで 拡大・可)

 しかし,この写真には幕末の英雄,明治維新の主役たちが勢揃いしているという噂がある。坂本龍馬をはじめ,伊藤博文,勝 海舟,木戸孝允,大久保利通,大隈重信,岩倉具視,五代友厚,陸奥宗光,小松帯刀,西郷隆盛などなど,幕末から明治にかけて活躍した英雄たちが一堂に会しているという。

 しかし彼らは,所属している藩も薩摩,長州,さらに公家であったり,幕府であったり,この時点では敵味方でもあり,一堂に会するなどあまりにも不可思議とされる。 過去,数回にわたってその真偽が取りざたされたが,いつも否定され忘れ去られたいわくつきの写真。

 本当であればなぜ記録に残らなかったのか……。もし記録が残っていないのなら意図的に隠した可能性があるのでは……。それはなぜか……。この写真にはなにか歴史の闇が隠されているのではないか…。

 ありえない…と思うのが自然だ。当然だ。しかし,文献や史料との照合,専門家の取材を重ねていくと,1人また1人と被写体の「正体」が判明してゆく。それは誰なのか。

 そして,この写真に写る外国人・フルベッキとはいったいどんな人間だったのか…。あぶり出される幕末史と明治政府の歪み。この1枚の古写真を読み解くことは,隠された日本の歴史の暗号を読み解くことになる…。
 註記)http://www.bs-j.co.jp/rekishi_mystery/

 ② 大日本帝国明治史の暗闇に位置する人物:フルベッキ

 学術面から本格的に研究するもよし,在野の世界から肉薄するもよしなのであるが,歴史学の領域では天皇・天皇制研究に禁忌がないとはいえず,はっきりいってのければ「それはある」と断定してよい。いまの天皇の存在じたいを疑い,その源泉(皇祖皇宗?)を探るさい,現在から一番近い明治維新のところから問題を吟味しなければならないとすれば,これはもう大問題となる。官許・体制派の学究が恐れて手をふれない歴史研究の課題がそこに伏在している。
       フルベッキ画像1   フルベッキ画像2
  左側画像・出所)http://www.geocities.jp/guuseki/amanahtm/verbeck1.htm
  右側画像・出所)https://ja.wikipedia.org/wiki/グイド・フルベッキ

 フルベッキ集合写真とは前掲したものであるが,問題はフルベッキの前に大刀を立てかかえて座っている人物に向けられている。この男は大室寅之祐である。ネット上においては,この大室寅之祐に関していくらでも記述があり,関心をもてば多くの「ネット情報」に接することができる。

 このあたりの明治維新史に関する勉強を深めていくと,伊藤博文という明治史における偉大な政治家が単なる国家的次元のテロリストであった側面の事実も判明するし,その明治の時代のカラクリを提供した,それも奥座敷において重要な居住者であったフルベッキの実在も教えられる。

 歴史の研究は,専門家・学者でなければできないものではない。市井のわれわれ,ただの素人でもしっかり,まじめに一生懸命に勉強していけば,だんだんと判ってくる「明治史の闇」の存在に気づく。一定限度でも自分なりに,そこに〈歴史の光〉を当てることができるはずである。

 探索の要点は,こういうところにある。明治維新史を創造した重要人物はその後,歴史の裏舞台のほうにみずから引っこんでいったのである。フルベッキが当時受けとった月給は 600円(明治2年に南校教頭としての俸給)であった。この金額は,当時における三条実美の月給800年(明治7年に太政大臣としての俸給)や,岩倉具視600円(同年に右大臣としての俸給),大久保利通500円(同年に参議としての俸給)に匹敵する最高給であった。
 註記)梅溪 昇『お雇い外国人-明治日本の脇役たち-』講談社,2007年,238頁参照。

 フルベッキが死んだとき,明治天皇からは500円(当時の貨幣で)が渡されたという。なにゆえ,そこまで高給を支給されていた「お雇い外国人」が,日本近現代史の表舞台においては,自然に登場してこないのか? それも明治維新史においては枢要な役目を果たしていた人物であった。教科書にもフルベッキはまともに登場していない。つぎのように指摘されるほどにまで登場しないでおり,まったくに影が薄いというよりも,その影すら全然映らないほどに存在感がない。不思議なくらいに後景に引き下がっていた人物がフルベッキである。

 ③ 大学の入試に出題されたフルベッキ

 「2016 慶応大(文)出題。幕末に来日したフルベッキはオランダ出身。解けないといけないの?」(『受験日本史。意外に知られていない合格の秘訣』2016-12-02 23:00:09 )という文章がある。

 --私の勤務する高校の生徒からある噂を聞きました。フルベッキはオランダ人。2016年,慶応大学文学部で出題されており,「ここまで覚えなくてはならないのですか?」と。たしかに,2016年慶応大学文学部で出題されていた。結論からいうと,この問題を解けないのが原因で,不合格になることは絶対にありえない。
 補注)フルベッキはオランダ人であったが,日本に居たときは無国籍になっていた。アメリカ国籍がほしかったらしいが,当時において取得できない結果になっていた。

 もしも,日本史が足を引っ張って不合格になることがあるならば,もっとベーシックなことを落としたのが原因である。こんな重箱の隅をつつくような問題は,教科書に掲載されていても,一度出題すると99%当分出さないし,万が一出題されても,まったく違った奇想天外な角度から出題してくるし,こんなマニアックな事項は早慶上智に上位で合格できる受験生も,ほとんどしっているものがいない事項である。
 補注)明治維新史にとってフルベッキは,総理大臣にも匹敵する月給をもらっていたほどに,その「当時における重要な人物」であった。にもかかわらず,いまでもなお,あくまで明治史のなかの影に隠されてきた「お雇い外国人の1人のまま」である。その片隅岩倉具視画像などには,けっして置いておけない重要人物であったのだが……。
 出所)http://blogs.yahoo.co.jp/atusi_odazima/25441260.html,この画像は500円札の肖像になった岩倉具視であるが,いつも感じることとして,非常に「人相が悪い」。若いときにテロリストだった伊藤博文は,のちにその悪相を消していくことができていたが,こちらの男の顔(人相)は履歴書どおりそのままに,いつも凶相を浮かばせている。

 梅溪『お雇い外国人』はこうも理解している。「岩倉〔具視〕らが彼に寄せた絶大な信頼もフルベッキの人がらにもよるが,一面では彼が無国籍人であり,アメリカ政府とは無関係の立場にあったこともあずかって力があろう」。
 註記)梅溪『お雇い外国人』248頁。

 もちろん,こういうことは上位合格者でさえも正答が少ないことを前提に出題する。だから,同じネタは99%の確率で,今後10年間出題してこない。また,これから受験勉強を始める高2生も,2016年にこのことを慶応大学が出題したからといって覚えても,大きな効果は期待できない。
 註記)以上「黒字」の本文部分は,http://ameblo.jp/kyoshinosakebi/entry-12180605304.html 参照,文章は若干補修正。

 前述のように,このフルベッキを囲むあの集合写真の真ん真ん中に写っていた人物が「本物の明治天皇:睦仁」(その前代の孝明天皇の息子の睦仁とは入れ替わったとされている「別の人物:大室寅之祐」とされるのだが)だとしたら,日本の近現代史の真相は,どうみなおされるべきか? これこそが,大学の入試のなかで,それも入試最難関校である私立大学において出題された〈難問中の難問〉,しかもごくたまに出題されてそれとなっていたゆえんかもしれない。

 「フルベッキが以上の建白書」--フルベッキが明治政府に進言した方策のうちで,もっとも重要な建白書は遣外使節派遣の問題であった--にもりこんだプランは,すべて岩倉具視の発案によることとし,彼は重要文書から姿を没している。そこがフルベッキの明治政府に重んぜられた点である。
 註記)次記の文献 ◆-2の「フルベッキ略伝」13頁。
 
        ◆ 参考文献 ◆  (フルベッキ関連のつぎの2著のみ挙げておく)

 ◆-1   W・E・グリフィス,松浦 玲監修・村瀬寿代訳編『新訳考証 日本のフルベッキ-無国籍の宣教師フルベッキの生涯-』洋学堂書店,平成15〔2003〕年。

 ◆-2  高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』新教出版社,1978年。


 【大日本帝国の従軍慰安婦問題,その本質は「性的奴隷」制】

 【安倍晋三政権の内弁慶性にもとづく対米従属性外交は,日本国民たちをないがしろにした内政をもたらしている】

 
 ①「釜山少女像,新たな火種 『死に体』政権,収拾困難 韓国」(『朝日新聞』2017年1月1日朝刊3面)

 韓国南部・釜山の日本総領事館前に慰安婦問題を象徴する「少女像」を設置した大学生や市民団体は〔2016年12月〕31日夜,像の除幕式をおこなった。日本政府は像が設置された30日以降も重ねて撤去を要請しているが,韓国政府は撤去に反対する世論を意識し,設置を事実上黙認するかたちになっている。日韓は新たな問題を抱えて2017年を迎えた。

 総領事館前で31日夜に開かれた除幕式には約3500人(警察推計)が集まった。少女像にかけられた白い布が下ろされ,参加者が「国民の勝利。少女像を守ろう」と書かれたプラカードをかかげた。「日韓合意の最終的な破棄まで闘おう」「正しい歴史認識を持つべきだ」といった声が上がった。
『朝日新聞』2017年1月1日朝刊3面慰安婦少女像2
 韓国政府は撤去など明確な対応方針を示さず,態度を保留しつづけている。道路の管理権限をもつ釜山市東区は30日午前から,日本側の連絡に応答していない。外交関係に関するウィーン条約にもとづき,韓国は日本の在外公館の安寧や威厳を守る責務を負う。2015年12月28日の慰安婦問題の日韓合意では,ソウルの日本大使館近くの少女像の問題で,日本側の懸念を韓国も認知するとしている。

 韓国外交省は30日夜,「外国公館への国際儀礼や慣行を考える必要がある。わが政府や当該機関が慰安婦問題の歴史の教訓を記憶する適切な場所について知恵を絞ることを期待する」とのコメントを発表。「日韓合意を着実に履行するというわが政府の立場に変わりはない」とした。
『朝日新聞』2017年1月1日朝刊3面慰安婦少女像
 韓国政府関係者は「外国政府の主権の象徴である在外公館と,慰安婦問題の歴史的な価値の双方を尊重するという意味」と説明。別の政府関係者は「外交を考えた場合,市民団体には別の場所をみつけてほしいが,中央政府が道路の管理権限をもつ地方自治体に介入できない」とも語る。

 だが,韓国政府元高官は「地方自治体に外交をめぐる判断能力はない。大統領府や外交省が地方自治体に対し,水面下で撤去を働きかける気がないのだろう」と話す。大統領府関係者の一人は「市民団体との話しあいを通じて解決したい」と語り,事実上撤去は難しいとの見方を示した。

 朴 槿恵(パク・クネ)大統領は12月9日に国会で弾劾(だんがい)訴追されて職務が停止された。大統領府は「死に体」の状態で,問題解決を主導する力は残っていないとみられる。朴政権は慰安婦問題の日韓合意を演出したが,世論調査では6割近くが合意の継続に反対している。朴政権の政策への批判が強まり,日韓関係も政治利用される事態になっている。

 与党セヌリ党から離党した議員らでつくる改革保守新党(仮称)は28日,「韓日合意は国家対国家の協定や条約ではないので,追加の交渉が必要だ」とのコメントを出した。野党は日韓合意の破棄や再交渉を求めている。今〔2017〕年春にも発足する韓国の新政権下で,慰安婦問題が再燃する可能性もある。(釜山=牧野愛博)

 ※ 日本「両国合意,重い約束」※  日本政府は31日,韓国側にあらためて撤去を要求した。日韓合意で韓国政府が「適切に解決されるよう努力する」とされたソウル・日本大使館近くの少女像移転が進展しないなかでの設置劇に,日本側の不満は強まっている。「日韓合意は両国外相が交わした重い約束。(新たな少女像設置を)地方自治体の責任にすることはできない」。外務省幹部はクギを刺す。同省関係者も31日,「粘り強く撤去を求めていく」と話した。

 日本政府としては米国でトランプ政権が始動するのを控え,対北朝鮮政策で足並みを乱したくない。日韓合意そのものが壊れないよう慎重に対応する方針だ。ただソウルの少女像移転のメドが立たないまま,日韓合意にもとづき10億円支払うなどしてきた日本政府の対応には,足元からも「まるで『振りこめ詐欺』だ」(首相側近)との不満もくすぶる。こうした批判に押され,韓国側の求めで合意した「通貨スワップ協定」の再締結協議が停滞する可能性もある。

 ② その後における関連の報道

 『朝日新聞』と『日本経済新聞』に ① の記述内容に記事する続報を紹介しておく。ただし,見出しだけとしておく。

  1)「菅〔義偉〕氏,少女像に『遺憾』」(『朝日新聞』2017年1月5日朝刊)

  2)「歴史問題『断固対応』 韓国外交省『少女像』言及避ける」(同上)

  3)「日韓合意に逆行-〔安倍晋三〕首相,米副大統領に説明」(『日本経済新聞』2017年1月6日夕刊)

  4)「駐韓大使,一時帰国 官房長官発表 少女像で対抗措置」(『朝日新聞』2017年1月6日夕刊)

  5)「日韓関係,再び岐路 駐韓大使帰国へ 日本,少女像に対抗」「『大統領不在』が逆風」(『日本経済新聞』2017年1月7日朝刊)

  6)「日韓合意 着実な実施求める 岸田外相」(『日本経済新聞』2017年1月7日夕刊)

 ③「〈時時刻刻〉少女像,にらみ合う日韓 駐韓大使ら一時帰国へ」(『朝日新聞』2017年1月7日朝刊2面)

 韓国・釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦問題を象徴する少女像が,もろさをはらむ日韓関係を揺さぶっている。日本側は強い不満から対抗措置に踏み切ったが,韓国側は国民の反発が必至の像撤去には後ろ向きだ。両国を仲介した米政権も移行期にあり,解決の見通しは立っていない。(▼1面参照→これは,② の 4)の記事のこと)

『朝日新聞』2017年1月7日朝刊2面慰安婦問題少女像 1)日本 憤りの裏,にじむ配慮
 「国と国として約束したことは実行してほしい,そういう強い思いだ」。〔2017年1月〕6日午前,首相官邸。韓国への対抗措置を発表した記者会見で,菅 義偉官房長官は厳しい表情でこう語った。昨〔2016〕年末の「少女像」設置から1週間。対抗措置を決めた背景には,「このままでは日本国内からも『日韓合意破棄』の要求が高まり,両国関係が修復不能になりかねない」(外務省幹部)との危機感があった。

 複数の日韓関係筋によると,正月休み明けの4日から両国は外交ルートで交渉を本格化。日本側は対抗措置の実施も示唆しながら,像の即時撤去を繰り返し求めた。韓国側が応じないまま,決裂した。

 そもそも日韓合意じたい,安倍晋三首相にとって外交的な「勝負」だった。日本政府が軍の関与や責任を認め,韓国政府が元慰安婦を支援するため設立する財団に日本政府が10億円を拠出する内容。首相を支える保守層には不満も強く,日本側が合意の根幹と位置づけたソウルの日本大使館近くの少女像移転について,首相は「移転できなかったら,俺だって厳しい」と周囲に漏らしていた。
 補注)この慰安婦問題はそもそも「論」からいえば,安倍晋三自身が従軍慰安婦問題を歴史的に認めない〔より正確にいえば認めたくない立場〕の「日本の政治家」であるために,かえってこみいるような格好になってもきた。安倍晋三の正直な気持でいえば,日本国の歴史の記録にとって「あってはならない」→「あってほしくない」のが,旧大日本帝国軍が関与・運営してきた従軍慰安婦制度である。このあたりの論点について本ブログはすでに,つぎの記述などをおこなっていた。

  ◆-1 2014年09月12日,主題「『慰安婦問題』と〈日本の名誉〉に関する『幼稚と傲慢の首相』安倍晋三の『すり替え発言』」
    
  副題1 吉田清治『朝鮮人女性:従軍慰安婦』『強制連行』物語の創作話
      に〈日本の名誉〉を短絡させうる安倍晋三の浅薄さは,ともかく
      慰安婦問題は否定したい立場に淵源している

  副題2 歴史の上に記録されており実在してきた慰安婦問題であっても,
        否定したくてしようがないのが,安倍晋三の立場:価値観である

  副題3 朝日新聞の『慰安婦』誤報の問題になんでも直結させたがる安倍
      晋三の短慮

  ◆-2 2015年05月07日,主題「従軍慰安婦の問題を再考する-無理に否定しても否定できるような歴史の問題ではない-」
       
   副題 旧大日本帝国の従軍慰安婦問題を否定できないとなったら,外国にも
      その問題はあるといってまぎらし,ボカす論法の,その「貧困の哲学」
      即「哲学の貧困」的な発想の脆弱さ


 〔記事本文へ戻る→〕 だが合意から1年,ソウルの少女像移転のメドが立たないまま,新たな像が釜山の日本総領事館前に設置された。首相周辺は「首相は腹に据えかねたんだろう」。対抗措置カードは切られた。首相を支える自民党からは「毅然(きぜん)とした対応だ」(首相に近い閣僚経験者),「一定の措置は必要」(日韓議員連盟の額賀福志郎会長)といった評価の声が上がった。野党も「毅然とした対応は必要だ」(民進党の細野豪志代表代行)など理解が広がる。

 ただ日本側は対抗措置を発表する一方で,対北朝鮮政策で協力が不可欠な韓国側への配慮ものぞかせた。通貨スワップ協定の再締結協議は「中止」ではなく「中断」とし,駐韓大使も任務を停止する「召還」ではなく「一時帰国」。首相側近は「実効性はない。けじめだ」と明かし,外務省幹部も「日韓関係を壊すものではない。対話の窓はいつでも開いている」と語った。それでも韓国の政治情勢が不安定さを増すなか,両国世論の動きは見通せない。首相と距離のある自民ベテランは「これは出口がないぞ」と漏らした。

 2)韓国 合意と像,分離を提案
 複数の日韓関係筋によると,〔2017年1月〕6日に韓国外交省に長嶺安政駐韓大使を呼んだ尹 炳世(ユン・ビョンセ)外相は,1時間にわたった面会の席でも,釜山の日本総領事館前に設置された少女像の撤去を確約しなかった。終了後,記者団の前に現われた長嶺氏の表情は硬く,一言も発しなかった。

 韓国側はここ数日のやりとりで,日韓慰安婦合意と少女像の問題を切り離した対応策を提案していた。背景として,釜山市が一時的に少女像を撤去したさいに世論が強く反発したことや,朴 槿恵(パク・クネ)大統領が職務執行権限を停止された状況である点を強調。日韓合意を尊重することで日本側に配慮する姿勢を示しながら,像を設置した市民団体と話しあう考えを伝えた。日韓合意は否定できない一方,像の問題を解決する見通しももてない苦しい説明だ。

 韓国政府元高官はこの提案について「像の設置は韓日合意に不満があるから。合意を尊重しつつ像の撤去を求めても,世論が納得するわけがない」と語る。韓国政府が像の強制撤去に動き出せないことについて,政府関係者は「大統領権限を代行する黄 教安(ファン・ギョアン)首相は選挙で選ばれた人ではない。国会の意見に影響されるのは仕方がない」と語る。

 国会では,今〔2017〕年春にもおこなわれる次期大統領選をにらみ,世論の支持が離れた朴大統領の政策を軒並み否定する傾向が強まっている。日本が発表した対抗措置で,韓国の反日感情がさらに高まるのは避けられない。最大野党「共に民主党」は6日,「みずからの正当性ばかり主張する日本政府は,人権と世界正義と争うつもりか」と日本側を非難。日韓合意の破棄と日本政府の謝罪を要求した。

 国会で日韓合意を支持するのは与党セヌリ党だけ。合意の破棄や追加交渉を求める勢力は,300義席のうち201議席を占める。元高官は「韓国の次期政権は少なくとも慰安婦問題の追加交渉を求めることになる」との見通しを示した。

 3)米新政権,読めぬ出方
 ワシントンで5日,韓国の林 聖男(イム・ソンナム)第1外務次官は杉山晋輔外務次官との会談後,ブリンケン米国務副長官とも会い,こう訴えた。「釜山の少女像問題は,政治的に困難な状況にある。世論の反発が強すぎてわれわれも悩んでいる。米国からも日本にわれわれの事情を伝えてもらえないか」。

 オバマ米政権は不仲が続いた日韓の関係改善に心を砕いてきた。2014年にはオランダ・ハーグで日米韓首脳会談を開き,安倍首相と朴大統領を初めて公式の会談で引きあわせた。6日もバイデン副大統領が安倍首相と電話で協議したさい,「米国政府として慰安婦問題に関する日韓合意を支持しており,双方によって着実に履行されることを強く期待する」と伝えた。

 だが,米国では1月20日にトランプ新政権が発足し,オバマ政権の政策を大きく変える可能性がある。日韓両政府は,トランプ氏は北朝鮮の核問題に関心をもつ一方,地域の同盟国である日韓に安全保障面でさらなる負担を求める可能性もあると予測する。韓国では,南シナ海問題などで対立する米国と中国のあいだで難しい選択を迫られるとの声もある。中国は米軍の高高度ミサイル迎撃システム(THAAD)の韓国配備に反対し,韓国にさまざまな圧力をかけている。

 米新政権の出方が不透明ないま,日韓の連携が弱まれば,対北朝鮮,対中国の政策に影響することは避けられない。

 4)「キーワード」
 〈慰安婦問題の日韓合意〉  2015年12月28日に日韓両政府が合意。日本政府は責任を痛感しているとして,安倍晋三首相がおわびと反省の気持ちを表明。元慰安婦を支援するために韓国政府が新たに設立する財団に,日本政府の予算で10億円を拠出し,問題が「最終的かつ不可逆的に解決される」ことを確認した。ソウルの日本大使館近くの少女像について,韓国政府が「適切に解決されるよう努力する」とした。

 ④ 『朝日新聞』2017年1月7日夕刊〈素粒子〉の発言など

  ★-1 旅人の上着を脱がせるのに北風を吹かす。駐韓大使を一時帰国。真珠湾で掲げた「和解の力」をここでは使わぬか。

  ★-2 このこらえ性のなさよ。言いたい放題のトランプ砲。ウォッカの杯を上げるロシア情報機関員の姿が目に浮かぶ。

  ★-3 歴代の酉(とり)年解散に注意を促す安倍首相。「今年はまったく考えていない」とも。永田町を困惑させるそこつ発言。

 ★-1が主に,本日の記述本論に関連する寸評であるが,さらに関連する記事を引用する。見出しだけで紹介し,あとは筆者の寸評である。

 a)「米軍,オスプレイの空中給油訓練再開『問題なく終了』」(THE ASAHI SIMBUN DIGITAL,2017年1月7日02時29分)。 ……この記事はこのままでは分かりにくい記事であるが,要するに,在日米軍がオスプレイの運用を再開したけれども,「再開してからあとに,日本政府に連絡を入れた」という時系列の関係になっていた。いうまでもなく,在日米軍の行動は完全に治外法権に属する事項である。日本国の領土(空域・海域も当然に含めて)内において米軍は,好き勝ってのし放題に軍事的な諸行動を展開している。

 「日米安保→日米地位協定→日米合同委員会」という日本とアメリカの「国際条約とこれにもとづく運営機構」が,そうした在日米軍の自由な軍事行動を日本国内で許す背景にあって,つまり,その法的な根拠から実際に動かしている仕組にまで幅広く関与している。

 b)「オスプレイ空中給油きょう再開『米軍優先』沖縄反発」(『朝日新聞』2017年1月6日朝刊)との見出しの記事は,翁長雄志オキナワ県知事が「県民に寄り添うといいながら米軍の要求を最優先する政府の姿勢に強い憤りを感じている」と伝えていた。

 c) そして『朝日新聞』朝刊の投書「声」欄には,つぎのような意見(批判)が寄せられていた。

 1)「米軍脅威から国民の命守れ」(2017年1月3日,無職 村山起久子,京都府 56歳)
 なめられている。馬鹿にされている。沖縄だけではない。日本は主権国家か。沖縄で墜落事故を起こした輸送機オスプレイの運航を事故後わずか6日で在日米軍が再開。日本政府は容認した。オスプレイが爆音を響かせ,住宅地の上を飛ぶのは恐怖だ。事故原因の究明もされないうちに,運航を認めた日本政府はいったいどこの国の政府なのだろう。

 政府のもっとも重要な役割は日本の民の命を守ることなのに,米国か米軍の下請け機関のようだ。安倍晋三首相ら政治家は「日本をとり戻す」などといい,憲法改定を求めるが,日本国民の命がないがしろにされているいま,主権を制限する日米地位協定をなぜ変えようとしないのか。

 北朝鮮や中国の脅威がいわれるが沖縄など基地周辺で命を脅かすのは米軍。まずこの現実的な危険を除くべきだろう。オスプレイも基地も日本全体の問題だ。安心して暮らすために皆で抗議し,日米政府首脳が姿勢を変えるよう求めたい。

 2)「沖縄についてもっと議論しよう」(2017年1月3日,大学教授 久保田力,静岡県 58歳)
 懇意にしている沖縄県名護市辺野古の保育園長から,メールが届いた。「沖縄には『絶対に大丈夫!』という生活はない」。温厚な彼には珍しく,強い怒りを前面に出した文面だった。沖縄は昨〔2016〕年も大きく揺れた。10月にはヘリパッド移設工事に抗議する県民に大阪府警の機動隊員が「土人」と発言。さらにこれを鶴保庸介沖縄・北方相が「差別だとは断定できない」と評した。

 年末のオスプレイの事故では,在沖米軍トップが「パイロットは住民に被害を与えなかった。感謝されるべきだ」と発言。県民の不安をよそに,事故からわずか6日後に飛行が再開された。いずれもなんたる言い草だろう。

 保育園長も現場の間近で,幼い子どもたちの命を預かる身として,穏やかな気持ではいられないのだろう。メールには「平和に勝る福祉なし」「福祉とは国や社会全体の幸福の意味だ」とあった。もちろん,いまの沖縄には本当の福祉がないという意味だろう。この園長の言葉は,いまの政治に対する沖縄の多くの人々のやるせない気持を代弁していると思う。

 沖縄は日本の一部であり,沖縄の人びとはわれわれ本土の人間と同じ日本人だ。われわれも永田町の政治家も,同じ国民として沖縄について,もっと大声で真摯な議論をしなければならない。

 --この 2)の意見については,本ブログ内で筆者はなんども素材にとりあげ,議論の題材にしてきたところであるが,こういう歴史の事実をあらためて指摘しておく。
    米国による沖縄の軍事占領に関しては,つぎの天皇の見解をまとめたメモがあった。内容は,以下のとおりであった。

☆ 天皇メッセージ ☆

  (1) 米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。

  (2) 上記(1)の占領は,日本の主権を残したままで長期租借によるべき。

  (3) 上記 (1) の手続は,米国と日本の二国間条約によるべき。

 このメモは,天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同もえられるなどとしていた。とくに日米間で防衛条約が結べなかったのは,日本の憲法が戦力保持を禁じたことが一因である。

 つぎの画像資料は沖縄県公文書館に掲載されている文書である。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
天皇メッセージ沖縄県公文書館
 米国が攻撃されたさいに日本が軍事力を発動できない以上,相互防衛条約の締結は不可能だ。だからといって,米国が一方的に日本を防衛する義務を負うなどという,虫のよい条約はありえない。

 そこで結ばれたのは,1952年4月に米軍の日本占領が終結した後も,米軍の駐留継続を保障した「安保条約」だった。当時は朝鮮戦争の最中で,米軍にとって後方基地としての日本は不可欠だった。米国が日本を守るという条約ではないが,米軍が駐留していれば結果的に日本への侵攻抑止になるだろう,という性格のものだった。

 ここで留意すべきなのは,米軍にとって日本は最前線ではなく,アジア全域に展開する後方基地だったことである。在日米軍の中心は海軍と空軍であり,最重要なのは空母の母港となっている横須賀である。冷戦終結後は,その活動範囲は中東まで広がった。安保条約は,米軍の世界展開に後方基地を提供する条約であるのが実態といえる。

 註記)http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html 参照。

 3)「地位協定見直し独伊を参考に」(2017年1月6日,無職 高村広昭,神奈川県 74歳)
 日米両政府は,日米地位協定で米側に優先的に裁判権を認めている米軍属の範囲を縮小することで実質合意した。日本側の裁判権の対象が広がる見通しで,一定の前進とはいえよう。だが,オスプレイ事故で,日本が調査に手出しできないことからも分かるように,地位協定をめぐる課題は山積している。

 同じ敗戦国のドイツやイタリアにも,米軍を柱とするNATO軍との同様の協定などがある。だが沖縄県の調査や報道によれば,内情はかなり違う。日本では,飛行禁止区域設定が米軍機には適用されない。しかし,ドイツはNATO軍の演習にも国内法を適用。イタリアでも米軍機の事故後に,低空飛行の規制が進んだという。

 また日米地位協定では,環境面の規制が弱いとして,沖縄県はかねて規制強化を要望している。一方,ドイツではNATO軍側に施設の環境アセスメントの義務があり,汚染があれば回復措置をとるといった規制を定めている。政府は今年こそドイツやイタリアにならい,地位協定の抜本的な見直しに臨むべきだ。

 4)「今年こそ 日本の政治に求める正直と品格」(2017年1月1日,団体職員 山田英樹,神奈川県 51歳)
 笑われかねないが,あえてこの国の政治に「正直と品格」を求めたい。たとえば,年金制度改革法。与党は年金の「確保」を,野党は「カット」を強調していたが不毛だった。与党は「将来の年金を確保するためいまの年金を抑制する」といえばいい。野党は将来の年金をどう確保するかを具体的に語らねば正直とはいえない。

 つぎにカジノ解禁法。正直も品格も,かけらもない。海外の失敗事例に照らして本当に経済効果がみこめるか,依存症や治安悪化への有効な対策があるのか,正直に語られていない。そもそも不幸を生む賭けごとを成長戦略とすることじたいが,下品きわまりない。

 そして原発だ。「絶対安全」はない原発が巨大地震や破局的噴火に見舞われるリスクは,正直に語られていない。使用済み核燃料の最終処分を将来世代に押しつけて,目先の豊かさを享受するのも品格に欠ける。こうした政治を許すわれわれ国民の品格も,今年こそみずから問わなければならない。

 最後のこの 4)は,まったく,安倍晋三の国会におけるふだんの下品な言動に対する非難・批判として適切である。こうした自民党(プラス公明党の与党)の政治を許す日本国民側の品格じたいも,きびしく問われている。そのとおりなのである。だが,こうした問いかけそのものが,国民・市民・住民・庶民の立場から「安倍晋三の一族郎党的な政治体制」に向けて投じられていない。まだ甘いのであり,そのきびしさにおいてゆるく,かなりヌルいのである。

 外交官であった『天木直人の BLoG』からときおり引用するが,以上に関連する記述もなされているので,これを紹介したい。これを併せて読んでもらえたら,どう感じるか?

 5)「慰安婦不可逆合意の白紙撤回は当然だ。再交渉するしかない」(2017年1月7日)
 韓国政府が慰安婦像の新設を黙認したことがきっかけで,2015年12月28日に合意された慰安婦問題に関する不可逆合意があっさり反故にされようとしている。韓国政府の弱腰対応に安倍・菅政権は怒り狂って,外交的圧力をかけようとしている。

 まったくピント外れな外交だ。そもそも1年前の不可逆合意は,米国の圧力に屈した朴 槿恵大統領と,米国の圧力を利用してごまかそうとした安倍首相が,韓国の世論を無視して合意したものだ。朴 槿恵大統領の失脚と共に韓国世論が白紙に戻そうとするのは当然だ。

 ただでさえ政策決定の過程が不透明,不明朗だったことで批判されている朴 槿恵大統領だ。今後の追及で米国の圧力に屈したことが明らかになれば,世論の怒りはさらに火がつく。あの時のオバマはもうすぐいなくなる。トランプがどのような態度をとるかはまったくあてにならないことは,すでに明らかだ。

 米国に頼ることはもはやできない。自分の頭で考えるしかないのだ。安倍・菅政権が,いくら政権不在の韓国に圧力をかけても意味はない。むしろ逆効果だ。今度の慰安婦像の新設に,韓国の地方行政府は当初は反対して撤去した。しかし住民の反発にあって,戻さざるをえなかった。

 いまの死に体の韓国政府がそのような世論を敵に回すことなどできるはずがない。そんな死に体の韓国政府に圧力をかけるようでは,韓国世論の怒りは安倍・菅政権に一挙に向かうだろう。怒っているのは韓国の若い世代だ。若い世代を怒らせては日韓関係に未来はない。

 安倍・菅政権がなすべきことは,韓国の新政権と慰安婦問題について,歴史に耐えうる永続的で公正な合意をおこなうことだ。そしてそれは簡単なことだ。日本政府の予算を使って10億円の賠償金はすでに支払い済みだ。あとは,それを日本政府の補償だといえばいいだけの話だ。そしてひとこと,日本軍の誤りを認めて謝罪すればいいのだ。

 それでも韓国世論が慰安婦像の撤去に応じなければ,その時こそ世界の非難は韓国に向かう。歴史的和解を拒む韓国は時代の流れに逆行するのかと。すべては安倍首相の歴史認識にかかっている。慰安婦像をつくらせた最大の責任は,安倍首相の間違った歴史認識にあるのだ。

 このままいけば,慰安婦像は,撤去できないどころか永久に世界遺産として遺る。日本の恥を世界遺産にさせた噴飯物の総理として安倍首相は歴史に名を遺す事になる。間違いをあらためるにはばかるなかれだ。あのいい加減な小泉純一郎元首相も,そう繰り返しているではないか。不勉強な安倍首相も最後ぐらいは師匠のいうことを聞いたらどうか。
 註記)http://天木直人.com/2017/01/07/post-5865/

 従軍慰安婦問題(戦時性的奴隷の問題)の「要の位置」にいるのが安倍晋三であり,またこの問題をこじらせているのも,このいまの首相であることが,天木直人の発言から理解できるはずである。前段でも若干再利用した本ブログの関連する記述からも,この点は理解される。
 
 6)「年早々再開されるオスプレイ空中給油訓練とそれを許す日本」(『天木直人の BLoG』2017年1月5日)
 今日1月5日の各紙が当然のように書いている。在日米軍は明日6日にもオスプレイの空中給油訓練を再開する方針を固めたと。私が驚いたのは,そのことを「日本政府関係者が4日,明らかにした」と書かれているところだ。在日米軍が一方的に日本政府に伝え,それをそのまま日本政府関係者がメディアに流して書かせる。

 メディアは米軍に取材することなく,日本政府の対応を追及することなく,そのまま,日本政府の代弁者のように,それを報道する。その間,野党の代表は誰1人として反対行動に立ち上がらず,国会で止めさせようとしない。沖縄が見捨てられるはずだ。あの衝撃的な事故が起きてからまだ1か月もたっていないというのに。安全性についての検証や改善措置について,なにひとつ日本国民はしらされていないというのに。

 それよりも,なによりも,これは給油訓練だ。給油訓練中に起きた事故を,そのまま繰り返す。まさしく危険な訓練を日本本土を使っておこなっているということだ。訓練のどこにそれほど急がなくてはならない理由があるというのか。ここまで在日米軍の日本支配が白日のもとに明らかになっても,なにひとつ日本は米軍に文句をいわない。

 こんな国が世界にあるか。メディアは一言もその不条理を糾弾しない。そんなメディアが世界にあるか。なにかも異常だ。屈辱的だ。すべては政治が機能していないからである。安倍・菅対米従属,暴政コンビはもとより,反対行動を起こさない野党ももまた,国民を裏切っている。
 註記)http://天木直人.com/2017/01/05/post-5858/

 「内政では内弁慶」だが「外交では空ぶかし」の音ばかりを大きいだけの安倍晋三首相,「問題ない・問題ない……」の得意文句ばかりを反芻するしか能のない菅 義偉官房長官。

 なにゆえ,このような最高幹部をかかえた自民党政府が存在しているのか。それこそ「21世紀のいま」ごろにおける〈世界七不思議〉の1件ではないか? 隣国では大統領が死に体状態であるが,こちらでは「生ける亡霊」のような首相が “ゾンビ” のごとく遊弋するしだい。

 ともかく早く,衆議院解散総選挙をせよ。それでも安倍晋三が首相にそのまま居座れる結果であるならば,もう完全に,この「日本国民・有権者(主権者)」側の問題・責任になっている。

 ⑤『天木直人の BLoG』追信

 1)「事後報告で幕が下りた米軍オスプレイ空中給油
訓練のドタバタ劇」(『天木直人の BLoG』2017年1月8日,その1)

 くどいようだが,日本の対米従属ぶりをこれほど象徴している出来事はないので,最後まで見届けることにする。今日〔1月8日〕の各紙が,「在日米軍によるオスプレイ空中給油訓練が6日におこなわれた」と断定的に書いた。

 米国から教えてもらえないのだから,さては目でみて訓練飛行を確認したに違いないと思って読み進めた。そうしたら,なんと稲田防衛大臣が,外遊先のパリで記者団に訓練終了を報告したのだ。

 それでは,稲田大臣はなんといったか。米軍から日本政府に「問題なく終了した」という報告があったと記者に語ったのだ。事後報告を,さもありがたく,一日遅れで記者に語ったのだ。それを報じたきょう1月8日の新聞はなんと書いたか。

 「通常は米軍が訓練時間などを伝えることはないが,今回は日本側の懸念を踏まえて連絡があったという」。なんということか。事後通告でも,教えてくれただけ今回は特別の配慮をしてくれた,そう稲田大臣はいったということだ。

 そんなことを得意げに語る稲田防衛相も稲田防衛相だが,それをそのまま書いてしまう新聞記者も新聞記者だ。日本全体が対米従属を当たりまえのように受け入れているということだ。これでは,日本が米軍の占領状態から抜け出すのは,夢のまた夢である。
 註記)http://天木直人.com/2017/01/08/post-5871/ 下線と太字は引用者。

 2)「オバマ大統領に呼びつけられていた安倍首相の真珠湾慰霊訪問」(『天木直人の BLoG』2017年1月8日,その2)

 情報月刊誌『エルネオス』新年号を読んで驚いた。そこには,昨年12月末に安倍首相が真珠湾慰霊訪問をおこなったのは,安倍首相がしかけたのではなく,オバマ大統領に呼びつけられたからだという記事が掲載されていたからだ。きっかけは,オバマ政権をコケにして安倍首相が就任前のトランプ氏と会談を急いだからだという。

 そもそもオバマ大統領は,みずからの実績をすべて否定するトランプ氏を許せなかった。だからオバマ大統領はトランプ氏をホワイトハウスに呼びつけて,大統領はまだ俺だと世界に誇示したのだ。トランプ氏も恭順の意を表して応じるしかなかった。そんなトランプ氏との会談を,安倍首相は急いだのだ。

 激怒したオバマ大統領は,それなら自分のレガシ―(遺産)作りに協力しろと安倍首相に迫ったというのだ。本当だろうか。てっきり安倍首相が解散・総選挙目当てに真珠湾のサプライズ訪問をしたのかと思っていた。しかし,そうではないと「エルネオス」のその記事は書いている。
『日本経済新聞』2017年1月5日朝刊20・21面宝島社広告3
註記)『日本経済新聞』2017年1月5日朝刊20・21面。
宝島社の2面分で見開きの全面広告。(画面 クリックで 拡大・可)

 安倍首相は最初は真珠湾訪問に消極的だった。なぜなら真珠湾攻撃と広島原爆を同列において和解するのでは,安倍首相を支持する保守派が黙っていないからだ。だから真珠湾訪問は昭恵夫人がいったことで終わらせようとした。ところがオバマ大統領を怒らせた安倍首相は,申しわけないと思ったら,真珠湾に来て自分の遺産づくりに協力せよと,APECのさいの立ち話で安倍首相に迫られ,断われなかったのだ。

 そうだったのか。唐突な真珠湾訪問発表は,そのような舞台裏があったのだ。たしかにそう考えれば,あの唐突な真珠湾訪問発表の舞台裏がつじつまが合う。12月27日はクリスマス休暇の真っ最中だ。そんな時に,いくら安倍首相から真珠湾訪問をもちかけられても,オバマ大統領がへいこらと応じるはずがない。

 あれはオバマ大統領が,「クリスマス休暇でハワイに滞在しているから,その時に自分の最後のレガシー作りに来てくれ」と安倍首相に迫ったのだ。それにしても,「エルネオス」の記事はどこまで本当なのだろうか。そう思っていたら,発売されたばかりの『週刊アエラ』(1月16日号)に,ホノルル滞在のフリージャーナリストである津山恵子という記者が,見事にその事を証明する特集記事を書いている。

 真珠湾訪問はオバマ大統領のトランプ包囲網だったと。安倍首相はそれに付きあわされたのだと。間違いなくこれが真相だろう。津山記者はその記事をつぎのように締めくくっている。「・・・オバマ氏が,真珠湾と安倍首相,さらには日米関係を巻きこんで,『平和』と,『和解』を訴えたことは,トランプ氏に侵されない『レガシー(遺産)』作りととらえて間違いない。真珠湾の合同訪問は,『オバマの世界』のクライマックスでもあり,終幕でもある」と。

 オバマ大統領のひとり舞台に付きあわされた安倍首相は,単に付きあわされたばかりではなく,オバマ大統領とプーチン大統領のせめぎあいの股裂きにあって翻弄されたということだ。そして,安倍首相とオバマ大統領広島・真珠湾相互訪問の偉業を手放しで称えた日本のメディアや国民は,馬鹿をみたということである。
 註記)http://天木直人.com/2017/01/08/post-5873/

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