【「沖縄メッセージ」(1950年6月下旬「追加の別便」をアメリカに送り,琉球(オキナワ)を踏み台にした男】

 【青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』新潮社,2011年5月が暴く,敗戦後日本における裕仁天皇の政治策動】

 ------------------------------
 
 〔※ 断わり〕
  本記述は,旧ブログ 2011年7月13日の再掲である。本日,再録するに当たり,その後において補正・加筆が必要な段落・箇所については,適宜,手をくわえてある。

 ------------------------------

 ① 青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』新潮社,2011年5月

 1) 本書の概要
 本書の解説を http://bookweb.kinokuniya.co.jp に聞こう。--敗戦後の昭和20年代のことであった。「昭和天皇の側近・松平康昌と米国中枢部の接点に位置し,GHQを介さないチャンネルの要にいた,一人の男」がいた。本書の「ノンフィクション」的な執筆構想は,その人物を《赤い糸》にみたてたうえで展開され,「占領下の知られざる『点と線』に迫る」ための論及をおこなっている。
青木冨貴子表紙カバー2011年
註記)新潮社,2011年11月,表紙カバー。
向かって左側の太った人物がパケナム,
右側はハリー・カーンという人物。

 その人物は「流暢な日本語,人懐こい風貌,そして情報を嗅ぎ分ける類い稀な嗅覚」をもち,「戦後歴代宰相の懐に食いこみ,機密情報をワシントンに送りつづけた」。姓名を「C.パケナム」といった。この男には「虚実が錯綜する」が「新発見の日記を手がかりに」「その全貌を追う」ことになったのが,本書である。
青木冨貴子表紙2
 この青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』は,つぎのような目次内容である。本書は,敗戦後史において最重要の日米政治関係史を追及している。

 「皇居からの極秘メッセージはこうして伝えられた!」「GHQを介さない非公式ルートの要にいた謎の人物とは。新発見日記を手がかりに占領期の深層に迫る」。
 註記)右側画像は改題し,文庫判として再版された青木の同上書で,2013年7月発行。

 第1章 鳩山邸を訪ねる英国人
 第2章 マッカーサーに嫌われた男
 第3章 占領された日本へ再入国
 第4章 「昭和天皇の側近」松平康昌
 第5章 フリーメーソンへの誘い
 第6章 「天皇の伝言」パケナム邸での夕食会
 第7章 パケナム追-日本・英国編-
 第8章 鳩山一郎とダレスの秘密会談
 第9章 マッカーサー解任と日本の独立
 第10章 岸政権誕生のシナリオ
 第11章 パケナム追跡-アイルランド・英国・神戸・東京編
 終 章 多磨霊園に眠る
青木冨貴子画像
 著者も紹介する。青木冨貴子[アオキ・フキコ]は,1948年東京生まれ,フリージャーナリスト。1984年に渡米し『ニューズウィーク日本版』ニューヨーク支局長を3年間務める。1987年,作家のピート・ハミル氏と結婚。なお,Pete Hamill〔1935- 〕は,アメリカ合衆国のジャーナリスト・コラムニスト・小説家である。
 出所)画像は青木冨貴子,http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2015/07/r00031344/

 ② 書 評:その1「逢坂 剛」

 『朝日新聞』2011年6月26日朝刊「読書」欄に,推理作家逢坂 剛(おうさか・ごう,1943年生まれ)が「昭和天皇とワシントンを結んだ男 『パケナム日記』が語る日本占領 青木冨貴子著-講和条約の裏で暗躍 赤裸々に-」と題された書評を寄稿していた。本ブログ筆者の関心による直接の引照はあとまわしにして,この書評全文を引用しておく。

☆ 昭和天皇とワシントンを結んだ男 「パケナム日記」
が語る日本占領-講和条約の裏で暗躍,赤裸々に- ☆

 太平洋戦争史,占領史の主要な史料はほぼ出つくしたと思ったが,どっこいまだ残っていた。本書の骨格をなすコンプトン・パケナムの日記も,そのひとつといえよう。パケナムは日本生まれのイギリス人で,しかもニューズウィーク(アメリカ)の東京支局長という変わり種のジャーナリストである。この日記は,ときおりニューズウィーク本社の外信部長ハリー・カーンに宛てた手紙という形式をとりながら,書きつがれていた。

 著者は,1970年代の末にダグラス・グラマン事件にかかわったカーンの消息を追ううち,その息子からパケナムの日記を託される。そこには占領期の日本に駐在したパケナムが,上司のカーンと連絡をとりあいながら,講和条約締結の裏で暗躍した事実が,赤裸々に記録されていた。パケナムは占領軍の政策に批判的で,総司令官のマッカーサーの不興を買った。天皇の側近だった松平康昌と親しくしており,松平を通じて天皇の意向を探り,いろいろな裏工作をおこなった形跡がある。

逢坂剛 たとえば,当時の首相吉田 茂を飛び越して,講和条約締結の立役者J・F・ダレスと昭和天皇を結びつけようとした。まだ,公職追放を解除されていなかった鳩山一郎が次期首相になるとにらんで,ダレスと密会させたりもした。

 さらに,岸 信介がいずれ首相になると予測し,その後押しもしている。パケナムの活動が,単なるジャーナリストの枠内にとどまらず,当時の日本の外交政策を左右する大きな影響力をもっていたことが鮮明に分かる。
 出所)左上側画像は逢坂 剛。http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_458/yurin5.html

 主題と関連して,本書の最後にとりあげられたパケナムの出自に関する追跡調査の過程は,ミステリーの犯人捜しにも似て,興味深いものがある。綿密な史料読みこみにくわえ,手間のかかる取材調査をいとわぬ著者の面目がよく表れている。現代史の隙間を埋める好著である。

 ここで,本ブログ筆者がさきまわりして寸評しておく。--逢坂のこのような好評価はさておいても,青木冨美子がフィクション作家としてする〈歴史の追究〉は,本書の帯にも書かれているように「新発見の日記を手がかりに占領下の知られざる『点と線』に迫る」ものだとされてはいても,いささかならず〈焦点のしぼりかた〉が甘く,雑駁な印象を受ける。

 歴史を追跡していくその作風・筆致とでもいうべき実質そのものについては,とやかくいうつもりはない。だが,もう少し「歴史=時間の流れ」に即して書くだけではない「まとめ的な分析」,いいかれば「総括となる考察」も欲しかったと感じる。あまりにもジャーナリスティクに流れるかのようん筆法のせいか,論旨を絞りこんでいく構成,いいかえれば「起承転結を付ける」ための工夫:盛りあがりがほとんどないように思われた。

 読み物としてはいい。しかし,歴史〔日本敗戦後史〕を追跡し,これを立体的に描くことにおいて不満が残る。というのは,逢坂「書評」の表現を借りていうと,その「綿密な史料読みこみにくわえ,手間のかかる取材調査をいとわぬ著者の面目」の裏側に隠れてしまっているものが大きい,と感じられるからである。青木自身が,その「歴史の流れ」を,どの地点・時点からどのように観察・分析し,評価・判断するのかという問題意識が十全とは思えず,希薄なのである。

 ③ 書 評:その2『波』(新潮社,2011年6月号掲載)

 青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』(新潮社,2011年5月)は,新潮社が自社製「読書情報誌」として,1967年1月から季刊誌,1972年3月からは月刊誌として発行してきた小冊子『 波 』の,2011年6月に書評としてとりあげられている。その同月号は「『昭和天皇とワシントンを結んだ男』刊行記念特集」という企画であった。保阪正康(ほさか・まさやす,ノンフィクション作家)が「正史の蔭に,ひとかどの人物あり」という題目で,まずこう解説している。

 1) 正史よりも裏面史に注目せよ
 太平洋戦争後の占領日本を含めて,戦後日本の政治史をみていくとき,GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のGS(民政局)やGⅡ(参謀第2部)の動きをつぶさに解剖することが,第1次作業である。この第1次作業を進めていくと,そこには必らず奇妙な動きをする何人かのジャーナリストや教育者が浮かびあがる。だいたいが戦後の裏面史と称されるのであるが,実際にはこの裏面史が意外に正史そのものより真実を伝えていることがある。

保阪正康画像3 本書の主人公は “ニューズウィーク” の東京支局長コンプトン・パケナムであるが,あえて副主人公として上司のハリー・カーンを挙げねばならない。なにしろふたりは「諜報とジャーナリズムの世界の境界線にいたことはまちがいない」。だが,その主人公の動きがこれほど明確に描きだされたことはこれまでなかった。
 出所)右側画像は保阪正康,http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/44288

 私〔保阪〕自身,吉田 茂の評伝を著そうと調べたり,東京裁判について関係者の話を聞いていて,戦後史のなかでカーンとパケナムが動いていたのを,ときに目にし,耳にすることはあった。ありていにいえば,胡散くさいとの思いが消えなかった。ところが本書を読んで,根本から認識を新たにした。正史の蔭にひとかどの人物あり,ということである。

 2) 歴史の裏側に潜む事実を想像し,解剖し,構成する
 むろんこのばあいの「ひとかど」には,さまざまな意味がこめられている。著者青木は,カーンの子息からたまたまパケナムの手書きの日記(1948年12月21日に日本に再入国してから始まる)を入手する。

 この日記に著者が目を通していくうちに,占領日本の裏側に触れ,そこに書かれていることを各種の資料と照合しながら,あるいは著者自身の独自の視点で確認していく。そのさいとくに,実際に関係する「場」に立ち,パケナムにかかわりをもつ人たちを訪ね,適確に証言を積み重ねていく手法で史実に近づく。

 パケナムと密かに連携をとっていた宮内府式部官長の松平康昌,あるいは鳩山一郎や岸 信介ら,そこからは,これまでのみかたを破る新事実や新視点がつぎつぎと紹介されていく。頁をめくっていくうちに,しだいにスリリングになるのは,この作品が単に歴史的事実の真偽をたしかめるだけでなく,イギリス人ジャーナリストの挫折と怒り,そして虚無を徹底して解剖していくことにより,きわめて人間味のあるノンフィクションになっているからである。いってみれば著者自身の歴史への想像力が秀れているからと気づかされる。

 3) マッカーサーも吉田 茂も無視してアメリカ国務省と交渉していた昭和天皇の「自己のよりよき生存のための政治的策略」
 パケナムはマッカーサーが現実の占領政策の息吹を理解していないとの視点から反マッカーサー報道を遠慮しない。そのために厭がらせを受けるが屈しない。意外なのは,松平はそういう事実をしっていて,皇太子(明仁天皇)の留学問題から,東京裁判での天皇訴追免除,さらには開戦時のルーズベルトの親電問題で内大臣木戸幸一の責任が重いことなどを,パケナムと意を通じて動いていた節がある。

 著者は実は,このあたりの描写を伏線に用いている。木戸に責任があるとの論は,実は宮中筋からパケナムらに伝えられ,ルーズベルトの親電を天皇に伝えることは妨害されていた,との囁きがパケナムには届いていたのである。つまり,パケナムは松平にうまく使われていたともいえる。マッカーサーの退任,帰国のときには,マッカーサー司令部の要請を松平は拒否するが,その実,天皇とその側近はパケナムやダレスなどアメリカに直結するルートをもっていた。そのことをマッカーサーたちはしらなかったとの分析は的確である。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
青木冨貴子口絵
    (出所)青木冨貴子『占領史追跡-ニューズウィーク東京支局長パケナム記者
         の諜報日記-』新潮社〔文庫版〕,平成25〔2013〕年,口絵


 4) なにが誇らしいのか?
 本書で紹介されている新事実として,パケナムは吉田時代にすでにつぎは鳩山一郎とみて,鳩山や野村吉三郎,石橋湛山,石井光次郎などと会合を開き,講和交渉で吉田と波長の合わないダレスにどのような意見書を手わたすか,その内容などが指摘される。これも今後は資料として欠かせない。

 最後に近い章,終章で著者はイギリスを始め各所を尋ね歩き,パケナムの出生,名門とされる家系,出身学校,父親など経歴の偽りを明かしていく。多磨霊園でも偽りのひとつをみいだすという末尾の表現に驚かされる。こういうノンフィクションが日本人の手で書かれる時代,そのことになにか誇らしげな感情がわいてくる。

 --以上,ノンフィクション作家保阪正康が青木冨貴子の著作に対して与えた書評である。最後部で保阪が「こういうノンフィクションが日本人の手で書かれる時代,そのことになにか誇らしげな感情がわいてくる」と語った点については,大きな疑問符を付さねばならない。

 というのは,昭和天皇の敗戦後史についてそのように誇れる探究をおこなった青木の著作が,昭和20年代からいままでの日本政治史に甚大な影響をもたらすことになった『「天皇裕仁」の政治行動』を,いったいどのように評価するのか皆目不詳であるからである。

 要は,青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』が解明したのは,敗戦後の「裏面・秘史」そのものであった。しかも,その中核にいたのは昭和天皇であった。すでに象徴天皇に変身していたはずの「彼自身」が,この立場をわきまえるどころか,許されえない越権の政治的謀略を意図的に実行していた。

 けれども保阪の書評は,こうした〈歴史の事実〉にかかわる「核心の意味」問題に関しては,あえて一言も触れようとしていない,そういう論評であった。

 ④ 青木冨美子自身による『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』の解説 -『波』新潮社,2011年5月-

 青木冨貴子は『波』2011年5月号に「日本独立から六十年の『歪み』」と称する1稿を寄せていた。自著を出版した会社が発行する,それも伝統ある『小冊子』での論述である。これも全文を引照する。

 1) 歴史を直視してこなかった日本国・日本人
 2011年「3月12日,福島第1原子力発電所で起こった爆発以来,広島・長崎を経験した唯一の被爆国が,なぜ,これほどひどい原発事故に見舞われてしまったのか,ということをずっと考えている。こんな悪夢がなぜ現実になってしまったのだろうか」。

 「今〔2011〕年はサンフランシスコで講和条約が調印されてから60年を数える。連合国軍による占領というくびきから解放された日本が独立を手に入れ,国際社会に復帰した1951年。あの年から振り返ってみると,がむしゃらに働いてきた日本人の努力の果てにあったものが,福島に立つ大破した原発であったとしたら,これほど皮肉なこともない」。

 「そう考えてみると,あの1945年の夏以来,われわれのDNAに埋めこまれたはずの大切なものが,いつの間にか失われてしまったのであろうかと問いかけたくなる。とはいえ,この60年のあいだに生まれた歪みがどこから始まったのか,どこに線を引くことができるのか,はっきりした答えが出せるものではない。しかし,ひとつ明らかなことは,われわれは歴史を正面からみようとせず,過去の出来事に関するきちんとした検証もしないまま,ここまで来てしまったのではないかという悔恨である」。

 2) 『パケナム日記』の歴史的意味 
 「とくに,マッカーサーの君臨した占領時代については不透明なまま表面の出来事しかしらされていないように思える。自分の生まれたあの時代がどんな時代であったか,私は長いあいだ問いつづけてきた。連合国軍による占領時代という特異な6年8ヵ月に,水面下で起こっていた知られざる駆け引きや抗争,パワーゲーム」。

 「あるいは,占領を終わらせ,独立を手に入れるために支払った代価によって,わたしたちは思いもしない状況に投げこまれていたのではなかろうか。自分の生まれた時代を問うことは,深い闇のように隠されたまま姿をあらわそうとしない戦後史を掘り起こす作業であった」。

 「4年前,コンプトン・パケナムという日本生まれの英国人記者が記した日記を発見したことは,わたしのこの問いかけに対するひとつの回答を提供してくれることになった。『パケナム日記』は占領期にニューズウィーク東京支局長だったパケナムが,ニューヨーク本社の上司であるハリー・カーン宛に記した日記であり,手紙である」。

 「手書きの英文の日記には,占領時代の特派員生活が細部に至るまで記されているばかりでなく,日本語を話すこの外国人記者の人脈が新旧体制の指導部にも,米国や占領下のGHQ高官のあいだにもどれほど広がっていたか,日記に出てくる姓名を見るだけで頷ける。そのディテールは手に汗握るような緊張感とともに,占領下の政治の舞台裏とあの時代の匂いや色合いまで伝えてくれる」。

 3) パケナムの履歴詐称・改竄
 「一方,コンプトン・パケナムの足どりをたどってみると,ニューズウィーク誌に紹介された彼の経歴がみごとにもほころびていくのには驚いた。追跡の旅は,連合国軍総司令部のあった第一生命ビルにはじまり,渋谷区松濤町,目黒区平町など都内各所,横浜,神戸ばかりでなく,私の住むニューヨーク,ワシントン,ペンシルベニア,さらにはアイルランド,英国にまで及んだ」。

 「途中でいくども取材はいきづまったが,そのたびにふとした偶然や思わぬ符合から,つぎの新事実が顔をみせてくれた。まるでパケナムが墓のなかからわたしの手を引いているようにすら思えたものである」。

 「この日記をつうじてパケナムはなにを後世に遺したかったのであろうか。私にとってみれば,冷戦の最前線に立たされたあの1950年代,日本の独立にはスタート以来の歪みが埋めこまれていった様子が,パケナムの日記と彼のその後の動きから推測できることである」。

 「われわれの想像を超えた占領時代とあの60年前の時代。そこに埋めこまれた歪み。福島第1原発の4基の原子炉をみつめながら,戦後史を振り返り,われわれが置き忘れてしまったものを思い出すことこそ,現在,もっとも求められることではないかと思えるのである。
 注記)http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/373206.html

 以上,青木冨美子自身による『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』の解説は,隔靴掻痒である。これは,いうところの「われわれが置き忘れてしまった」かのような「われわれの想像を超えた占領時代とあの60年前の時代」「に埋めこまれた歪み」とは,いったいなんであったのかという点に集中して向けられる。

 さらにいえば「福島第1原発の4基の原子炉をみつめながら,戦後史を振り返り」というさい,なかんずく『昭和天皇が能動的に披露した』『戦後史への無法な容喙ぶり』は,百も承知のうえで,あえて「奥歯にモノがはさまった」かのような口調でしか記述していない。事実は懸命に綴るが,それを評価することはしない。ノンフィクションの意味が問われる

 ⑤ 本ブログ筆者の批評

 1) 昭和天皇の敗戦史-関連文献の紹介-
 本ブログ(「旧ブログ」のことであり,リンク先はないので,後日復活させる予定)はたとえば,「2010.1.27」の主題「日本国憲法に天皇制が残された事情」,副題1「闇取引的な裏交渉がマック(アメリカ)と裕仁(個人)とのあいだでなされていた歴史の事実を論じる」,副題2「自己保身に長けた昭和天皇の記録:かつての臣民・赤子を踏みつけにし,自分ばかりがうまく生き延びてきたつもりの男の,バレてしまった悪あがき的な画策」という記述は,昭和天皇のエゴがまるだしにされていた「敗戦後史」の見苦しさを論及した。

 その日のブログは, 豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』(岩波書店,1996年),同『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店,2008年),進藤榮一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』(岩波書店,2002年)などを,関連する文献として枚挙していた。今日はその後さらに公表されていた,つぎの文献も列挙しておく。

  ◇-1森山尚美・ピーター・ウェッツラー『ゆがめられた昭和天皇像-欧米と日本の誤解と誤訳-』原書房,2006年。

  ◇-2 高橋 絃『昭和天皇 1945-1948年』岩波書店,2008年。

  ◇-3 ケネス・フオフ,高橋 絃監修 木村剛久・福島睦男訳『国民の天皇』岩波書店,2009年。 

  ◇-4 吉田拓二『天皇財閥-皇室による経済支配の構造-』学研パブリッシング,2011年。同『天皇家の経済学-あなたの知らない「天皇系」お金の秘密-』洋泉社,2016年。

  ◇-5 白井 聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』太田出版,2013年。

  ◇-6 矢部宏治『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル,2014年。同『日本はなぜ,「戦争ができる国」になったのか』集英社インターナショナル,2016年。

  ◇-7 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』岩波書店,2015年。
豊下楢彦表紙画像

 2)「属国日本の誕生」に天皇裕仁が果たした重大な役割-日本国沖縄県をアメリカに売りつけ,自分だけがよく生きてきた天皇とその一家-
 青木冨美子『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』が語り教える「敗戦後史」の核心問題を抽出する。要は,こういう歴史の事実を昭和天皇が記録してきた,ということにつきる。
 
   a) 『パケナム日記』には「頻繁に登場する宮内符式部官長の松平康昌」「とパケナムの親交がこと細かに記されている」。「松平は独自外交を積極的にすすめた昭和天皇の信頼があつく,天皇-松平-パケナム-ハリー・カーン-ワシントンという1本の非公式チャンネルが機能していたことが日記から読みとれる」。「つまり,パケナムはこの占領期に,昭和天皇とワシントンを密かに結ぶ重要な役割を果たしていた(〔あとがき」305頁)。

 昭和天皇は敗戦後,自分の政治的な地位が《象徴天皇に変更された》のちも,与党政治家たちからの「内奏」を通じて「日本の政治全般に口出ししていた」事実は,いまでは誰も否定できない「歴史の記録」である。

 前段に登場した人物,松平康昌(まつだいら・ やすまさ,1893:明治26年-1957:昭和32年〔当時,式部官長在任のまま死亡〕)は,ウィキペディアを観ると,こう解説する部分もあった。
   1936年6月内大臣秘書官長に就任,1945年11月退任。昭和天皇の側近・宮中グループの中心人物の1人であった。敗戦直後から連合国軍最高司令官総司令部と接触をはかって〔天皇を免罪させるために〕東京裁判の対策に当たった。1946年3月から4月にかけて,松平慶民・寺崎英成・稲田周一・木下道雄と「五人の会」を結成して天皇から聞き取りをおこない,「昭和天皇独白録」の作成に当たった。
松平容保画像
 出所)向かって左側に立っているいる人物が松平泰昌,http://omugio.exblog.jp/17563189/
 b) 青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』から,重要箇所を引用しておく。

 ☆-1 「松平〔康昌〕は天皇が戦争責任を問われないよう,占領軍高官を自宅へ招待して必死の工作に努めたため,マッカーサーの副官『バンカー』,法務局長の『カーペンター』,検事『キーナン』など,重要な高官名が並んでいる」。「パケナムによってもたらされる果実は予想以上に大きいと天皇の側近としての勘を働かせていた」(90頁,91頁)。

 ☆-2 「折りしも朝鮮半島では北朝鮮軍が韓国軍を圧倒する快進撃をつづけていた。そこで,口頭のメッセージというかたちで〔ジョン・フォスター〕ダレスへ私信を伝達することにした。つまり,吉田〔茂〕もマッカーサーも通り越して,昭和天皇はついに独自外交の1歩を踏み出したのである」(140頁)。

 ☆-3 その天皇の「極秘メッセージと正反対の発言をおこない,基地問題について誤った論争を起こしている吉田には,講和問題を任せておけない,という天皇の怒りはしごく当然であった」(144頁)。

 ☆-4 「新憲法によって国家の象徴になった天皇は表立って外交に口が出せる立場にあるわけではない。もし,間違って,天皇のメッセージが露顕したとしても,この〔天皇(松平)からパケナム,カーン,ダレスと繋がる〕 “非公式なチャネル” なら,いつでも天皇側が否定できるという,またとない利点がある」。「しかし,天皇はダレスへの個人的なメッセージを伝えることによって,なぜマッカーサーをバイパスすることに踏み切ったの」か?
(145頁)。

 ☆-5 マッカーサーとの「会見を重ねるたびに天皇は,この時代がかった将軍の巨大な自己顕示欲に内心,辟易したばかりか,元帥とワシントンとの関係もかなりみぬいていたに違いない」。「第1回会見から5年の歳月を経て,ますます話のくどくなる老人の限界をある程度,推測することもできたのではないか」。

 「朝鮮戦争も予見するほどの先見性と見識を備えた48歳の壮年裕仁天皇は,元帥が最後の花道にしたかった講和条約がダレスにゆだねられたことをしると,元帥をバイパスして,ダレスと直接連絡をとれる方法を模索したことは間違いない」。

 ☆-6 「第1回ダレス・吉田階段の不満,その後マッカーサーに従属する吉田の振るまいをみて,講和条約を安全保障をマッカーサーと吉田には任せておけないと天皇は判断したのである」。「たとえ戦犯容疑から救ってくれた命の恩人の元帥とはいえピーター・ウエッツラー表紙,戦後日本の進路を決定的にする講和条約ためには,天皇はマッカーサーを切り捨てる冷静な判断を下したということではないか」。
 出所)写真(左下側)は占領期の昭和天皇,http://hohoeminokikoushi.yoka-yoka.jp/e56126.html。アメリカ人が彼に向けたカメラに対して笑顔を作った裕仁の表情である。戦前・戦中はもちろんのこと,占領期以外にはなかなかお目にかかれなかった素顔である。前掲,森山尚笑顔の昭和天皇画像美・ピーター・ウェッツラー『ゆがめられた昭和天皇像-欧米と日本の誤解と誤訳-』原書房,2006年,口絵。
昭和天皇三井三池鉱訪問1949年5月29日
 出所)写真(右側)は,敗戦後の地方巡幸で1949年5月29日,福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川坑の切り羽を訪れた昭和天皇,http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/cat662/cat2/ 

 さて,裕仁が当時一番恐怖していたことは,こういうことであった。「共産主義による革命で天皇制が脅かされることをなによりも恐れた天皇は,アメリカ軍の駐留が必要であることを誰より痛感していた。もとより,天皇のとってみずからの命より,天皇制存続こそが最重要」であった(以上,150頁)。

 ☆-7 以上のような昭和20年代「日本敗戦後史」のなかで「パケナムをいかに利用するか計画を練ったのは,松平の一存だったというよりは,実は裕仁天皇だったのではないか」。なぜなら「松平が天皇の意を受けずに動くことなど考えられないからである」(151頁)。

 ⑥ 結 論


 1) 沖縄を生贄に生き延びた昭和天皇
 以上 ⑤ までの記述によって「やっぱり昭和天皇は偉かった」などと思いこんではいけない。誤解してはならない。広島・長崎への原爆投下があっても,日本全国がB29の焼土作戦によって「3・11」でこのたび被害を受けた東北地域の沿岸都市のようになっても,天皇ヒロヒト氏の個人的気持にとって最重要であった関心事は,自家=天皇制の維持・繁栄,そして自分の命乞い:存命であった。

 当時すでに「象徴天皇」の地位に変身させられていたはず彼が,違法・不法・非法であるほかない《自分1人だけのための,それも秘密裏の国事的な行動》に走っていた。戦後の敗戦史に刻まれたこの明確な記録は,いったいどのように評価され,また批判されねばならないのか。われわれは〈今〉,それをあらためて,なしうる立場にある。この天皇たちを本当にまだ尊崇する日本国民がいることは,驚きを超え出た現象であり,摩訶不思議の世界である。

 沖縄県の人びとは「天皇を尊崇する気持」をもたない。なぜか? 敗戦後において裕仁天皇は,自分だけがうまく生き延びていくことを画策し,成功した。だが,その結果,琉球は在日米軍基地の約75%が集中する現実に苦しめられてきている。つまり,日本がアメリカの属国である事実を尖鋭的に表現するのが,沖縄県という地理的な存在であった。

 太平洋〔大東亜〕戦争の末期,沖縄は,アメリカ軍の進撃をしばし食いとめるための「捨て石」にされた。しかし,戦争が終わってひとまず戦争責任の問題から解放された昭和天皇がつぎに心配したのは,第2次大戦後に登場した近隣アジア諸国の共産主義体制であった。昭和20年代,共産主義諸国の拡大・侵攻をひどく恐怖していた「天皇」は,太平洋戦争のときに沖縄を踏みつけにしたときと同じように,こんどは沖縄県をアメリカ軍に生贄に捧げたのである。

 ⑤ まで記述してきた論点は,昭和天皇がダレスに『沖縄メッセージ』(下記)を伝えていた「歴史的事実」に関するものであった。
    敗戦後に沖縄県が追いこまれた運命にダメを押し,そのための力添えをしたのが,アメリカへ発信・伝達された昭和天皇のこの「沖縄メッセージ」(1947年9月20日)であった。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
天皇メッセージ1947年9月20日画像資料
 註記)天皇メッセージ1947年9月20日画像資料,http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/images/Empero%27s%20Message.jpg

 沖縄県公文書館によるこの資料の公開は,つぎのような解説を付している(リンクあり ↓  )。

☆「米国国立公文書館から収集した “天皇メッセージ” を
公開しました。(平成20年3月25日)」☆


 同文書は,1947年9月,米国による沖縄の軍事占領に関して,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】
 この昭和天皇の見解はこのように,寺崎英成宮内庁御用掛により対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトに伝えられ,その後シーボルトはマッカーサーと国務長官マーシャルにも伝えた。こういう内容であった(上掲画像資料の日本語訳)。
    米国が沖繩その他の琉球諸島の軍事占領をつづけるよう昭和天皇は希望する。天皇は長期租借による,これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしている。天皇の見解では,日本国民は長期租借によって米国に下心がないことを納得し,軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろう。

 さらに天皇は,沖繩(および必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は,日本に主権を残したままでの長期租借(25年ないし50年あるいはそれ以上)の擬制(主権の実態は米国)にもとづくべきであると考えている。

 天皇によると,このような占領方法は,米国が琉球諸島に対して永続的野心をもたないことを日本国民に納得させ,これにより他の諸国,とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。
 寺崎からこのメッセージを受け取ったシーボルトの感想は「疑いもなく〔天皇裕仁の〕私利に大きくもとづいているであった。

 なお,本ブログ(旧ブログのこと)は,天皇の「命乞い」が敗戦直後の政治過程において明らかになる「別のある様子」を,「2009.7.29」の主題「昭和天皇延命工作」,副題1「安藤 明がヒロヒトを救ったのか」,副題2「敗戦混乱期における世相史の一コマ」(この記述も後日復活させる予定)で触れた。こちらの出来事は,本日記述した〈前史の部分〉に起きていた。

 最後に付言しておく。上丸洋一『『諸君!』『正論』の研究-保守言論はどう変容してきたか-』(岩波書店,2011年6月)は,昭和天皇が戦争責任の〈せ〉の字も意識しようとしなかった事実を,繰りかえし指摘する著作である。