【戦争中に敵性国家の英語を使うなといった〈おバカ性〉にも劣らぬ〈小バカ性〉を披露する極右的頭脳政権が制作した「道徳教科書」の内容のその愚かさ】


 ① いまの時代,パン屋と和菓子屋の違いにいかほどに意味がありうるのか

 冒頭にこういう事実を記しておきたい。まず「職業分類『菓子店(和菓子)』の登録件数は,この10年で(2015年までで)14,674店から11,442店と減少してい」る統計を図表も添えて紹介しておく。 
和菓子店舗数統計図表
出所)http://tpdb.jp/townpage/order?nid=TP01&gid=&scrid=TPDB_G121

 つぎに「パン屋とはパンの専業店のことで,スーパーなどのパンコーナーはは含まないので注意願いたい」ということで,2012年の統計になるが「全国のパン屋は10,060軒で,人口10万人あたり7.89軒」であり,その「分布図をみると四国や関西を筆頭に西日本にパン屋が多く,関東や東北でパン屋が少ない」とのことである。
パン屋店舗数密度図表
註記・出所)http://todo-ran.com/t/kiji/21116

 和菓子は主食にはなりえないと思うが,パンは菓子パンも含めて主食として摂られる場合が多い。ここではいったん,この食物として相違点はひとまず棚上げしての話題となる。

 先月(3月)25日の新聞夕刊に,つぎの「〈日本人・民族性〉という要素:側面」に関して,ひどく思い入れを強くしたかのような記事が出ていた。まさか,パンを食べていたら(朝食はトーストやクロワッサンなどだという人も多くいるはずだが),日本人・民族らしくないなどと決めつけられるわけなどないにしても,「いまどきに本当に奇妙な〈国家側の意向〉」が,文部科学省を介して,われわれのほうに流出させられてきた。

 ②「道徳教科書 事細かに注文 『国の文化に愛着を」と… パン屋を和菓子屋に」(『日本経済新聞』2017年3月25日夕刊)

 1)記事本文の引用:その1
 この記事がこういっている。のっけから気味の悪い,冗談にもならないような,きわめて単細胞的な話題を聞かされて,だいぶ気分が悪くなったが,それでもガマンをして読んでいる。
    高齢者を尊敬する気持を育むため「消防団のおじさん」が「おじいさん」に,国や郷土を愛する態度を教えるため「パン屋」が「和菓子屋」に。〔3月〕24日に文部科学省が公表した小学校の道徳教科書の検定では,教科書会社が細部にわたって記述を修正するケースがみられた。学習指導要領で示した内容に照らし,申請時の記述が不適切とされたためだ。
 2)補注)としての議論
 1)の段落に関してはまず,以下のように批判する議論を展開していきたい。前段で触れたとおりに,まず,パン屋と和菓子屋(製造・販売をする店舗とみなしておくが)の総数は,それぞれ11,442件(2015年)と10,060軒(2012年)であるから,この店舗の総数を比較してもたいした差(意味)はない。


 日本人の食生活のなかでは,主食である米食のなかにパン食がだいぶ食いこんでいる。パンの種類には菓子パンもあって,このあたりでは若干,話が混同したものになるかもしれないものの,それほど気にしないで議論するとして,道徳教科書のなかで「国や郷土を愛する態度」を教えるための関係では,「パン屋」を「和菓子屋」に変えたというけれども,どう考えてもこの発想じたいに無理がめだっている。

 もしかすると「国や郷土を愛する態度」に関しては,パン屋のほうが和菓子屋よりも劣るという思考回路(ただしこの理屈は没論理である以上に不可解)が働いているのかもしれない。だが,それにしても,ひたすら恣意的な思考が先走っているし,また極端に観念的にのみ考えている様子もうかがえる。ということで,ここでは対照的に,いきなりこういう例を挙げてみる。木村屋のあんパン,これは日本が独自に製作した菓子パンであったはずである。たとえば,こういう説明がみつかる。
◇ クリームパンの元祖は中村屋 ◇

 日本の3大菓子パンといわれる “あんぱん”  “ジャムパン” “クリームパン” 。

木村屋のあんパン あんぱんの元祖が木村屋さん(明治7〔1874〕年発売)ということはよくしられていますが,クリームパンについてはあまりしられていないようです。実はクリームパンの元祖は中村屋なのです。
 出所)右側画像は,https://plaza.rakuten.co.jp/suitengufp/diary/200803170000/

 創業者夫妻はある日,初めてシュークリームを食べてその美味しさに驚きます。そしてこのクリームをあんぱんの餡のかわりに用いたら,一種新鮮な風味がくわわって,あんぱんよりも少し高級なものになると考えたのです。また,子供にとっては,小豆と砂糖だけの餡よりも,乳製品を使ったクリームのほうが栄養価の面で良いのではないかという考えもありました。

 早速作って店に出してみるとこれが大好評。明治37〔1904〕年のことでした。また同じく,そのクリームをジャムのかわりに用いたワッフルも発売しました。ちなみにジャムパンの元祖はこれも木村屋さんで明治33〔1900〕年に発売されました。
 註記)https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_005.html
 3)みな〈明治の産物〉です,いわば「食いものの〈坂の上の雲〉」です
   ちなみに「日本の天皇制」は,その制度的な中身の99%が明治期以降に新しく創造されてきたものであって,またいえば,安倍晋三君たちが郷愁する「昔・チィックなニッポンという国家のイメージ」は,明治期に建造された国家体制でしかない事実( “ヴィバ! 教育勅語” ,明治23〔1890〕年)なのであった。

 だから,なんといっても,あの「あんパン・ジャムパン・クリームパン」などは,その時期からとはいえすでに「相当に固有の歴史を誇っている」。いいかえれば,純ジャパ的創作パン製品としての「歴史と伝統」を誇りながら,いつもパン屋さんの店頭に並べられ売られている。
アンパンマン画像
出所)説明不要の画像,http://sugoitokyo.com/20131016/376

 もちろん和菓子屋は,それよりももっと古い歴史と伝統もあるが,日本の歴史,それも天皇・天皇制の,つまり安倍晋三たちが郷愁しえている時代区分に限って議論するとしたら,パン屋も和菓子屋も本質論的に〈たいした違い〉はなく,同等・同価にみなすべき存在物であった。

 ともかく,国や郷土を愛する態度を教えるための例示としては,なにゆえ「パン屋」であるよりも「和菓子屋」であるほうが好ましいのか。われわれの側においては,その肝心なところが無理なく自然に入ってくるように,すなわち十分に納得できるかたちで伝わってこない。

 どうやら話題(むろん安倍晋三政権的なそれであるが)は,極端にばかり走りがちな例示を,あえて要求している。しかも事前に,その固定観念に対してのみ適合した〈特定の価値基準〉が披露されていた。道徳教育の方法論としてみるに,きわめて異様な雰囲気を感じさせる「道徳教科書」が登場している。「なぜ・それなのか」ではなく,「ともかく・それなのだ」,文句などいわずにこれを「受けとめよ」といいたいだけの,つまり,一方的な独善・専横でしかない,それも非常に偏った価値観(自民党極右路線の道徳「感」)が,国民たちに押しつけられている。

 安倍晋三君たちは,現憲法のことを『押しつけられた』のだとか非難し,極端に毛嫌いしてきた。だが,自分たちが為政者になってから,子どもたちに示したこのたびの道徳教科は,初めからとてもタチの悪い内容物を,メチャクチャ強引に「押しつけ」ようとしている。つぎにとりあげる消防団の話題になると,こちらの視線がどうしても「やぶにらみ的」になりそうになる。結局,安倍晋三政権のその視座には呆れはてるほかないながらも,しかし,けっこう笑える内容を提供してくれてもいる。

☆ 県内女性消防団員10年で 2.3倍 全体は 1.6%減 ☆
=『徳島新聞』2017年1月10日 =            
    
 2016年4月1日時点の徳島県内の消防団員のうち,女性は188人で,10年前の2006年に比べて2.3倍に増えていることが,徳島新聞の調査で分かった。全団員の数は1万886人で,1.6%(172人)減っていた。少子高齢化の進行や日中の火災出動などに参加できない勤め人が増えていることが原因とみられる。団員のなり手不足や女性の社会進出に伴い,女性が増加しているようだ。

 県内の消防団は市町村や広域行政の枠組にもとづいて22あり,団員数などは《別表》(←省略)のとおり。女性団員は2016年度,那賀町など12消防団におり,最多は海陽町の26人。次いで那賀町の21人,三好市の20人だった。上勝,牟岐,海陽の3町は全団員に対する割合が5%を超えていた。2006年度は9消防団の83人だった。増加幅は,三好市と那賀町の20人がもっと多く,阿南市と阿波市の16人が続いた。

 昨〔2016〕年4月に発生した熊本地震では,避難所の運営に従事した女性団員が,女性や高齢者ら災害弱者に対して困りごとの聴きとりや間仕切りの設置などをおこない評価された。2006年度にゼロだった外国人団員は,2016年度には神山町と美波町に1人ずついた。

 全団員の数は,12消防団で減少していた。もっとも減っていたのは那賀町の95人で,次いで海陽町の50人,東みよし町の49人。理由として各消防団は「少子高齢化」「人口減」「勤め人の増加」などを挙げた。団員の平均年齢は上昇している。2006年度に40歳を上回っていたのは13消防団だったが,2016年度は16に増えた。最高は上勝町の47.8歳,最低は板野町の37.7歳だった。

 各消防団の定員に対する団員数の割合を示す充足率は,県全体で94.5%。100%は勝浦町だけだった。今後の業務量については,19消防団が「増える」と回答した。南海トラフ巨大地震に備えた訓練や住民啓発,ゲリラ豪雨等の異常気象による水害・土砂災害対応のほか,徘徊する認知症高齢者の捜索などが増加することを理由に挙げ,団員の確保が不可欠である実情がうかがえた。(記事引用終わり)
    
 以前の話であれば,女性が地元の消防団員になるといった事態は考えられなかった。だが,いまでは周知のとおり高齢社会(さらにプラスして,過疎化と若者不足がある)のなかで団員不足となっており,それこそ背に腹は変えられぬ「消防団員の要員化(女性も活用)」が,実際におこなわれている。この話題を紹介したあとで,さらに引用中の記事(後段の 4)で引用の内容)にまで進んでいくと,実に奇怪な文章(内容)であるといわざるをえない。これでは,事実からどんどん離れていくほかない説明になっている。

 高齢になった男性であればどうしても消防団を辞めざるをえないことは,説明するまでもない事情の推移である。しかし,この記事の文章では,現役である消防団員の「おじいさん」という設定になっている。もう一度指摘すると,道徳教科書は,現実の様相に対面したうえでこれを反映させた記述ではなくて,安倍晋三極右政権が「想像妊娠」したいと願望している「日本社会にかかわる道徳観念」の事象(対象:相手)を,その教科書に書きこむべき〈欲望〉を隠しもっている。これは,現実に対面しして直視すべき道徳問題に関した認識ではなくて,安倍晋三君らが「こうであったら,いいな」と想像したものを対象としてとりあげ,一生懸命に作文したものである。

 4)記事本文の引用:その2 -消防団のおじいさんとは現実的な概念なのか-
 ある教科書会社が小4の教科書に載せたのは,男児に毎朝あいさつするおじさんが,休日や夜間は地域の消防団員として活動するエピソード。「人との関わり」を学ぶ狙いでとりあげた。ただ検定ではこれ以外も含む教科書全体の内容が「高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接する」という要素が不十分とされた。このため同社は消防団員を「おじいさん」に変更し,イラストも書き換えた。
 補注)全国各地にたくさんある消防団には定年の規定がある。「消防団員=おじいさん」ではないけれども,「おじいさんの消防団員」を「尊敬と感謝の気持ちをもって接する」対象にしたいのであれば,消防団員を定年で辞めたあとのおじいさん〔たち〕は,その対象からはずれるのか? おじいさん全体が高齢者として「尊敬と感謝の気持ちをもって接する」必要性のほうも間違いなくあると思われるが,いかに……。

 付言しておくが,全国各地のそれぞれ消防団の規定には定年に関した条項もある。こうなると,いっていることが「教育勅語の内容」とはどう関連するのか,つじつまが合わない論点が生じてくるのではないか。この種のの疑問も浮上してくる。

 5)記事本文の用:その3 -パン屋と和菓子屋-
 小1の教科書では散歩中に友達の家のパン屋をみつけた話をとりあげた。こちらも全体として「我が国や郷土の文化と生活に親しみ,愛着をもつ」点が足りず不適切とされ,パン屋を「和菓子屋」に修正した。文科省は道徳の学習指導要領をもとに「節度,節制」「礼儀」「家族愛,家庭生活の充実」など19~22の内容項目を学年ごとに示し,すべてを教科書で扱うよう求めている。内容を修正した教科書には,これらの項目が網羅されていないとの理由で意見をつけたという。同省の担当者は「教科書全体で項目すべてを扱ってほしいとの意図で,どこを修正するかは教科書会社の判断」と話す。
 補注)国会における安倍晋三首相や麻生太郎副首相(財務相)のふだんにおける態度・しぐさをみていると,上に網羅されているような「エチケット」や「愛情」などに関していえば,そのひとかけらもない人間であるかのように感じられるが,読者はいかに?

 教科書会社の担当者は「低学年に『我が国』は難しく,身近なパン屋で『郷土に愛着を持つ』は問題ないと考えたが,『国』も満たす必要があると指摘されたので,和菓子屋に修正した」と説明している。
 補注)結局,安倍晋三たちのいいたいことがらのなかには,ファッシズム(全体主義)の発想が色濃くにじみ出ている。全体主義はひとつの価値観しか認めない。民主主義の基本理念とは正反対の価値観であるゆえ,特定の価値を押しつけるだけで,これ以外のものはいっさい認めない立場を,独裁強権的に政治暴力をもって強制する。要は立場に幅などなく,思考に柔軟性もない。思想に寛容がなく,政治に譲歩がない。すなわち「これか・あれか」でしかなく,自分たちの価値基準に合わない者は排斥し,迫害する(から,ときには平気で「殺しもする」)。

 ここで,本ブログ筆者が先日,JR某日本の電車に乗っていたときの話をしたい。それもだいぶ混んできた社内での出来事であったが,屈強な30代の男子とうら若き20代の女性が優先席(シート3人がけ席で,車輌内前後のはしの位置にある)に並んで座っているところへ,途中の駅から,80歳も後半と思われる老婆が娘らしき(こちらは50代にみえた)女性といっしょに乗ってきた。だが,優先席に座っている彼らはその優先席に座っていても無頓着であって,席を譲るなどといった気配などみせないどころか,そのような礼儀作法などいっさい無関係の者たちであった。

 あまりにひどい〔日本人・民族「本来?」の道徳観念とは無縁であるような〕目前の光景にガマンできなかった本ブログ筆者は,こういった。「あなたがたここは優先席なのだから,お年寄りに席を譲りなさい」と。すると,この言葉に応じて立ったのが女性のほうであった。筆者はこの女性を制止して,「あなたは立たなくてもいい,男性のほうが立ちなさい」と注意して,そのようにさせた。安倍晋三君が用意させて道徳教科書があれば,このようないくらでも街中に溢れかえっている現象が,少しでもなくすことができるのか?

 6)時代錯誤である「安倍晋三政権の意味」
 安倍晋三極右政権の道徳政治は「教育勅語」を肯定する教科を新しく作った。教育勅語のあった時代は女性に参政権はなかった。つまり,女性は基本的に差別されていた時代であった。前段からの話題に関連していうなら,消防団(員)をヨイショして励ますのであれば,それはむしろ,最近になってくわわりはじめている「女性の消防団員」に対してではないのか?
   ここでは,本ブログ2017年3月22日から,関連する一部分を再掲しておきたい。

 「教育勅語」は  (1)  親孝行しろ,(2)  兄弟仲良く,(3)  夫婦も仲良く,(4)  友達は信じあえなどと,12項目にわたって「徳目」を説教する。これらの徳目は,時代背景を考えればまあ常識的な内容であり,当時の感覚では当たりまえの道徳といっていいものである。実際,同じような内容は江戸幕府も諸国に高札を立てて説教していたし,寺子屋でも社会生活上の常識として教えられていた。

 下村博文が,教育勅語には「しごくまっとうなこと」が書かれているというのも,このあたりの内容を意識してのことである。だが,教育勅語においては,これらの「まっとうな」徳目は,たとえてみれば毒薬を包む糖衣のようなものでしかない。教育勅語がなんとしても「臣民」の頭に植えつけたかったのは,

 それらの徳目の最後に置かれた「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」なのだ。お上がいったん戦争を始めたら,それがどのような戦争であれ,天皇(を頂点にいただく支配階級)の利益のために命を投げ出して戦え,ということだ。これに先立つ11項目は,これを「まっとうなこと」と錯覚させるために置かれているといってもいい。
 補注)安倍晋三政権がいままで安保関連法でもって,日本国の軍事・防衛問題を引きずってきた方向は,このまさしく「天皇(を頂点にいただく支配階級)の利益のために命を投げ出して戦え,ということ」を,再現するためであった。ただし,いまの時代であるから「天皇」の文字のところは,ひとまず「安倍晋三政権」と書き換えておく必要がある。

 もちろん,自民党をはじめとする極右勢力が教育勅語を復活させたがるのも,この最後の「徳目」があればこそのことだ。教育というものの威力は実に恐ろしい。この「勅語」がすべての学校に「下賜」され,無謬の道徳規範として強制されるようになってからアジア太平洋戦争の敗戦による破滅まで,たった55年しかかからなかったのだ。
 補注)森友学園の小学校新設申請に対して,安倍晋三政権がこぞって支援・助力してきた全体の構図は,いまでは事件化してしまい,当面ではポシャってしまった,あの「元・安倍晋三記念小学校」(事後は「瑞穂の國記念小學院」)の新設計画において,みごとなまで端的に描写されていた。しかも,政治次元での疑獄事件すらも示唆するようなその構図の内容(奥行き)になってもいた。

  ※-1 教育勅語は,天皇が臣民に守るべき「徳目」を教え,臣民はありがたくそれを押しいただく,という構造をもっている。「天皇の赤子」が理想のあり方とされる臣民には,みずからなにを守るべき道徳とすべきかを考え,議論し,選びとる自由はない。一見もっともらしい内容を含んでいようと,教育勅語はせいぜい,主人から与えられる奴隷の道徳でしかないのだ。

 ※-2 教育勅語は睦仁(明治天皇)が臣民に与えたわけだが,ここで徳目として「夫婦相和シ」を説教している睦仁自身はといえば,正妻の他に側室(臣民であれば当時「妾」と呼ばれていた存在)を5人ももち,計15人の子を産ませている。なにが「夫婦相和シ」か。とんだお笑い種なのである

  ※-3 教育と自由に関する羽仁五郎氏の鋭い指摘を貼っておく。氏のいうとおり,「道徳」の中身を権力者が定め,その遵守を臣民(=市民-自由)に命じる教育勅語は “反教育の最たるもの” であり,絶対にこんなものを教育の指針になどしてはならないのである。
 註記)以上,http://vergil.hateblo.jp/entry/20140507/1399469208 参照。

 安倍晋三も下村博文なども,こうした批判をもって指摘されている「教育勅語の反時代性:反動性」は完璧に無視したうえで,なおも「教育勅語」にはいい面があると固執し,推奨している。この勅語(天皇から臣民に下賜するお言葉)の基本性質そのものからして,民主主義の根本理念に真っ向から刃向かっている。にもかかわらず,21世紀にいまにも教育勅語が通用するかのように唱えるのは,時代錯誤であるなどと形容される以上に,いまにおける時代精神としてもつべき基本姿勢じたいが,まったく逆立ち的に錯誤している。
 註記)http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1065103044.html 
 安倍晋三たちが道徳教科書の「制作:編集」をもって狙いを定めている「想像妊娠したい時代」,つまり,彼らが「郷愁する時代」(「戦後レジームからの脱却」する先の時代?)の実現が仮になされたとしよう。だが,こんどはこんどでまた,そこにおいて別様に間違いなく待ちかまえているのが,以上のような「現実の社会側における変容」ぶりである。この変容ぶりにまともに着いていけない自民極右の政治家たちは,自分たちのやっていること・やりたいことは,いつものように時代錯誤の反復としてしか対応できないでいある。

 ③ まがいものの政権と3流官庁の二重唱

 以上のように議論し批判してきた,安倍晋三政権による時代錯誤もはなはだしい「政治思想:教育理念の展示物」の,まさしく具体的な事例である「道徳教科書」については,その間,新聞紙上でもあれこれきびしく批評されている。

 1)「春秋」(『日本経済新聞』2017年3月28日朝刊)
 文部科学省は不思議な役所である。職員の再就職をめぐっては,ルールを大胆に破って天下りのあっせんに余念がない。その同じ官庁が,こと教科書検定となるとにわかにルール墨守の石部金吉と化すのだ。小中高校,どの科目にも杓子定規な注文をつけてばかりいる。

 ▼ こんど公表された,道徳教科書の初の検定はその最たるものだろう。「消防団のおじさん」が登場する話は,学習指導要領が高齢者への尊敬と感謝を求めているとして「おじいさん」に修正された。町でパン屋をみつけたという記述は「我が国や郷土の文化と生活に親しみ,愛着を持つ」との観点から和菓子屋に変わった。

 ▼ 道徳の教科化は,長年の論争のすえに実現した経緯がある。「心の教育」は大事だが,かえって道徳心を型にはめる恐れはないか。子どもが評価を気にするようにならないか。そんな指摘が少なくなかったから,中央教育審議会も画一化を避けるよう念を押していた。それがふたを開けてみれば案の定,いつもの文科省流だ。

 ▼ この調子だと現場の先生たちは指導要領からの逸脱を恐れ,杓子定規の度合いがどんどん進むかもしれない。そういえば杓子定規というのはもともと,杓子の曲がった柄,つまりゆがんだ基準をあてはめることをいうそうだ。自分たちだけのルールを作っていた天下りあっせんのほうも,まさに杓子定規だったわけである。

 この日経コラム「春秋」の指摘は,文部科学省から安倍晋三政権じたいにまで妥当する意見を吐いている。いうまでもないことであるが,このような不細工な政権と文部科学省である。迷惑するのは国民たちばかりである。

 2)「〈天声人語〉パン屋でなく和菓子屋」(『朝日新聞』2017年3月29日朝刊)
 天ぷらといえば,すしと並んで和食の代表選手であり,海外でも人気のメニューである。もっとも,その起源には諸説があり,ポルトガルから伝来したとの説がかなり有力だと,原田信男著『和食と日本文化』で学んだ。

 ▼ どうも17世紀ごろ伝わったようで,語源もスペイン語系の tempora だとする説を紹介している。日本は早くから,よその国の料理をとりいれ,食文化を豊かにしてきた。

 ▼ パン食も定着し,近所にお気に入りのパン屋をおもちの方もおられよう。ところがそんなパン屋が教科書からはじき出されたのだという。小学校道徳の教科書検定の結果,「にちようびのさんぽみち」との教材に登場していた「パン屋」が「和菓子屋」に変更された。
 
 ▼ 学習指導要領が求める「我が国や郷土の文化と生活に親しみ,愛着をもつ」との点が不足すると文部科学省が指摘し,出版社が修正した。パン屋では日本らしさが欠けるということか。同様の理由で,公園の遊具が和楽器の店に差し替えられた。

 ▼ もう50年以上前だが,評論家の加藤周一が仏教伝来や洋服などを例に,日本は雑種文化であると論じた。「日本精神や純日本風の文学芸術を説く人はあるが,同じ人が純日本風の電車や選挙を説くことはない」と書き,偏狭な日本主義者を批判した。

 ▼ 和菓子や和楽器にすがって国や郷土への愛を説くとすれば,滑稽というほかない。本質よりも体裁にこだわる大人たちの姿である。まさか反面教師としての教育の一環ではあるまい。

 この天声人語はコッケイだと,安倍晋三政権・文部科学省の道徳教科書を酷評している。しかし,このコッケイを強いられているわれわれ庶民の立場はやりきれない。われわれにとって「尊敬に値しない一国の首相」たちが,自分たちよりも国民たちが “ヨリ愚か(バカ)” ではないかと,1人勝手に信じこんでいる様子がうかがえる。いま,安倍晋三の不幸が国民たちの災厄になってしまっている。

 3)「〈声〉文科省の検定,失笑買うだけ」(『朝日新聞』2017年4月1日朝刊,無職 田辺龍郎,東京都・90歳)
 小学校の教科書に対する文部科学省の検定が,年ごとに厳しくなっているような印象を受ける。先ごろ出そろった道徳の教科書検定についても,朝日新聞紙上で「教科書作りに積極的に関与しようとする姿勢」と指摘されている。本来,国家の関与などというものは,何事においてもできるだけ控えめであることが望ましい。しかるに,報道された文科省の姿勢は,箸の上げ下ろしにまで細かく口を差しはさむという感じだ。

 たとえば,小1の道徳教科書で,申請段階のパン屋が和菓子屋に差し替えられたのが話題になっている。だが,普通の小1にとっては,和菓子屋よりパン屋のほうがはるかに身近に感じられるだろう。アスレチックの遊具で遊ぶ公園が,和楽器を売る店に差し替えられた例もある。しかし,和楽器店に出入りする小1などほとんどいないのではないか。

 文科省は厳しい検定によって権威を誇示したいのかもしれない。だが,あまりにこせこせと細部にこだわった今回のような検定は,世間の失笑を買うだけだ。もっと大所高所からの視点で検定をおこなうべきであろう。(引用終わり)

 なんといっても「あまりにこせこせと細部にこだわった」政治姿勢が,いわずもがなかもしれないにせよ,安倍晋三政権の一大特性である。この声欄の投書が掲載されていた同じ日の『朝日新聞』朝刊には,「教材に教育勅語否定せず」という記事も掲載されていた。それも「憲法の反しない形で」といっているのだが,安倍晋三政権の「その形そのもの」がすでに完全に,憲法の精神をないがしろしている。

 この記事に意見を寄せた島薗 進(上智大学教授,日本宗教史)は「使われ方懸念 」ということで,こう批判していた。
    問題は「教育の唯一の根本」かどうかではない。臣民である国民に天皇の命ずる教えに従うことを強いたことが問題。権威に従う態度を強い,神聖な天皇に命を捧げるということまで含む。個々人の命が軽んじられた歴史を学ぶためなら必要かもしれないが,教育現場で一方的に教えこむ権威主義的な使い方をされかねない。日本の未来にかかわる判断であり,時の政府の都合で閣議決定などすべきものではない。
 4)教育勅語?
 本ブログの2017年3月22日の記述から,つぎの段落(以上の記述に関係の深い段落)を再掲しておく。
 
 「教育勅語」は 
(1)  親孝行しろ,(2)  兄弟仲良く,(3)  夫婦も仲良く,(4)  友達は信じあえなどと,12項目にわたって「徳目」を説教する。これらの徳目は,時代背景を考えればまあ常識的な内容であり,当時の感覚では当たりまえの道徳といっていいものである。実際,同じような内容は江戸幕府も諸国に高札を立てて説教していたし,寺子屋でも社会生活上の常識として教えられていた。

 下村博文が,教育勅語には「しごくまっとうなこと」が書かれているというのも,このあたりの内容を意識してのことである。だが,教育勅語においては,これらの「まっとうな」徳目は,たとえてみれば毒薬を包む糖衣のようなものでしかない。教育勅語がなんとしても「臣民」の頭に植えつけたかったのは,

 それらの徳目の最後に置かれた「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」なのだ。お上がいったん戦争を始めたら,それがどのような戦争であれ,天皇(を頂点にいただく支配階級)の利益のために命を投げ出して戦え,ということだ。これに先立つ11項目は,これを「まっとうなこと」と錯覚させるために置かれているといってもいい。
 補注)安倍晋三政権がいままで安保関連法でもって,日本国の軍事・防衛問題を引きずってきた方向は,このまさしく「天皇(を頂点にいただく支配階級)の利益のために命を投げ出して戦え,ということ」を,再現するためであった。ただし,いまの時代であるから「天皇」の文字のところは,ひとまず「安倍晋三政権」と書き換えておく必要がある。

 もちろん,自民党をはじめとする極右勢力が教育勅語を復活させたがるのも,この最後の「徳目」があればこそのことだ。教育というものの威力は実に恐ろしい。この「勅語」がすべての学校に「下賜」され,無謬の道徳規範として強制されるようになってからアジア太平洋戦争の敗戦による破滅まで,たった55年しかかからなかったのだ。
 補注)森友学園の小学校新設申請に対して,安倍晋三政権がこぞって支援・助力してきた全体の構図は,いまでは事件化してしまい,当面ではポシャってしまった,あの「元・安倍晋三記念小学校」(事後は「瑞穂の國記念小學院」)の新設計画において,みごとなまで端的に描写されていた。しかも,政治次元での疑獄事件すらも示唆するようなその構図の内容(奥行き)になってもいた。

  【2015/6/20 追記】 教育勅語は,天皇が臣民に守るべき「徳目」を教え,臣民はありがたくそれを押しいただく,という構造をもっている。「天皇の赤子」が理想のあり方とされる臣民には,みずからなにを守るべき道徳とすべきかを考え,議論し,選びとる自由はない。一見もっともらしい内容を含んでいようと,教育勅語はせいぜい,主人から与えられる奴隷の道徳でしかないのだ。

 【2015/10/11 追記】 教育勅語は睦仁(明治天皇)が臣民に与えた わけだが,ここで徳目として「夫婦相和シ」を説教している睦仁自身はといえば,正妻の他に側室(臣民であれば当時「妾」と呼ばれていた存在)を5人ももち,計15人の子を産ませている。なにが「夫婦相和シ」か。とんだお笑い種なのである
明治天皇死亡記事
出所)『名古屋新聞』(現中日新聞)1912年7月30日,
http://www.nagoya-rekishi.com/taisho/1912/

 【2017/3/5 追記】 教育と自由に関する羽仁五郎氏の鋭い指摘を貼っておく。氏のいうとおり,「道徳」の中身を権力者が定め,その遵守を臣民(=市民-自由)に命じる教育勅語は “反教育の最たるもの” であり,絶対にこんなものを教育の指針になどしてはならないのである。
 註記)以上,http://vergil.hateblo.jp/entry/20140507/1399469208

 安倍晋三も下村博文なども,こうした批判をもって指摘されている「教育勅語の反時代性:反動性」は完璧に無視したうえで,なおも「教育勅語」にはいい面があると固執し,推奨している。この勅語(天皇から臣民に下賜するお言葉)の基本性質そのものからして,民主主義の根本理念に真っ向から刃向かっている。にもかかわらず,21世紀にいまにも教育勅語が通用するかのように唱えるのは,時代錯誤であるなどと形容される以上に,今日における時代精神としてもつべき基本姿勢じたいが,まったく逆立ち的に錯誤・狂想している。