【あの侵略戦争(加害体験)の戦争犠牲体験・空襲体験(被害体験)】

 【天皇の戦争責任問題,そして,臣民たちにとっての体験的な責任問題)】

「〈声〉息子3人失い,へたりこんだ祖母」
=『朝日新聞』2017年8月15日朝刊 =
※ ファイナンシャルプランナー,
高城和雄(宮城県,79歳)※


 国民学校2年生だった昭和20年夏。7月9~10日未明の仙台空襲では,20数キロ南の宮城県亘理町(わたりちょう)のわが家からも上空が赤くみえた。学校では連日のように出征兵士の遺骨を駅に迎えに出ていた。とうとう,父の遺骨を迎える日が来た。

 祖母は私たち4人の孫にいった。「よーくみておけ。お上のやることは,こういうことだ」。白木の箱の底に紙片に包まれた髪と,爪のようなものがみえた。追い打ちのように父の弟も遺骨で帰還。内地の病院に戻されたもう1人の弟も結局,終戦後に死亡。3人ともフィリピンのミンダナオ島で戦った末だった。

 祖母は虚脱し,夜,近くの砂浜までよく出るようになった。そういう時,母にいわれて見守りにあとを追った。祖母は暗い海に向けてへたりこんでいた。漁で遭難した人の霊を浜から悼む地元の風習があった。祖母も息子たちの霊の声を聞こうとしている,と思った。
 補注)「お上」とは,いったい誰れなのであったか? たった1人に絞るならあの人であった。
 【市民・庶民の生活・感覚とはかけはなれた「米日高級軍人たちの勲章」によるエール交換】

 【人間・他者の生命・財産などなんとも思わぬカーティス・ルメイルメイや源田 実のような人間は,いまの時代にもいくらでもいるのだが……】
まず総理からどうぞ画像
    出所)画像は「まず総理から戦争にどうぞいってください」と勧奨されている様子,https://plaza.rakuten.co.jp/lalameans/diary/201507210015/


 ①「空襲の犠牲者,新たに判明 大阪・阪南,記録上『被害なし』大阪府阪南市」(『山陰中央日報』2017年8月13日)

 1)戦争は日常の生活を破壊する
 第2次大戦(広くは「アジア・太平洋戦争」「十五年戦争)に関する新しい事実の発見は,いまであっても,まだつづいていく様子である。戦争も末期になると社会は混乱し,ろくに記録も残されていない。敗戦時〔8月14日以降〕の公文書焼却処分がその事態に拍車をかけていた。戦争に関する「歴史の事実」がすくいとれないまま,忘却の彼方に追いやられてきたものがたくさんある。それでなくとも,戦争中の事実はなにかと隠蔽されがちである。たとえば,自然災害の方面では,こういう指摘がなされている。
 「1945年の敗戦前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した昭和の4大地震」があった。

   1943年〔9月10日〕の鳥取地震
     〔最大震度6,死者・行方不明1083人〕

   1944年〔12月7日〕の東南海地震
     〔最大震度6(~7?),死者・行方不明1223名〕

   1945年〔1月13日〕の三河地震
     〔最大震度6(~7?),死者・行方不明2306名〕

   1946年〔12月21日〕の南海地震
     〔広い範囲で震度5(最大震度は7?),1443名〕

 以上は『戦中戦後の4大地震』といわれている。

 しかし,これらの地震は戦火と戦後の混乱に埋もれてしまい,震災そのものが十分に伝えられているとはいいがたい。だが,終戦を挟んだ昭和の地震活動とその被害は,今後の日本の防災にとってきわめて重要な教訓をはらんでいる。
  註記)https://matome.naver.jp/odai/2137775333953640001 参照。〔 〕内補足は引用者。
 2011年3月11日に発生した「東日本大震災」の原因となった東北地方太平洋沖地震も,以上のごとき地震発生と同じ理由で発生していた。このときの地震の規模はM9.0を記録し,日本の地震観測史上最大であった。宮城県栗原市で最大震度7,ほかにも東日本の7県で震度6弱以上を観測した。

 とくに,死者・行方不明者約2万2000人(うち災害関連死が約3500人)となり,戦後最悪の震災であった。北海道から関東地方にかけて太平洋沿岸部への巨大津波で甚大な被害は,福島第1原子力発電所事故を招いた。この3月11日以降の数日間に震源域から離れた場所で発生した地震も,誘発させられた可能性が指摘されている。
 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/地震の年表(日本) 参照。

 現代日本が20世紀の時代においてかかわってきた大戦争と大地震について考えるとき特徴的なのは,いずれも過去の歴史からなにも学んでこなかった〔そうしようとしなかった〕ことである。一方は人災(戦争)であり,他方は天災(自然現象)であって,いずれに対処するのも人間存在側の責任である。

 だが,過去における大戦争の歴史も大地震の記録もすべてないがしろにしてきた結果,とくに21世紀になって「3・11」の「甚大な人災の,および物的な被害」をも発生させてしまった。「アメリカの原爆」に負け,「アメリカの原発」に敗けてきたのが,敗戦前後とその後における日本の戦後史だったとすれば,「歴史になにも学ぼうとしなかった日本・日本人・日本民族」の「歴史観(?)」が,あらためて問われねばならない。われわれは,そういった「現在」にいるとしかいいようがない。

 2)空襲の記録,追加すべき事実がみつかった- ① 記事の引用-
山陰中央日報2017年8月13日空襲記事 太平洋戦争中,空襲の死傷者数が0人とされてきた大阪府阪南市で,小型機の機銃掃射で犠牲者が出ていたことが〔8月〕12日,目撃した男性への取材で分かった。戦後70年以上を経て新事実が明らかになったことに,専門家は「国による空襲の実態調査が進まず,見落とされてきた被害の一例だ」と指摘する。

 男性は阪南市鳥取の元船員辻本久さん(82歳)。終戦前の1945年夏,海岸近くの自宅から,米軍のものとみられる銀色の小型機2,3機が低空で飛来し,沖合約100メートルにいた船を襲撃するのをみた。その後,修理のため沖に停泊していた木造船の船長の遺体が近所の造船所に運ばれるのを目撃した。(共同通信社 2017年8月13日)
 註記)http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1502557380456/

              


 ②「8・14空襲,2度延期の末 大阪や熊谷など 2200人犠牲 米兵が日記」(『朝日新聞』2017年8月14日夕刊)


 1)1945年8月14・15日の空襲
 ここに言及する空襲の記録は,1945年8月15日「敗戦の日」の朝までに,つまりその最後の空襲による被害(戦災)を被った事実についてのものである。

  8月14日  熊谷空襲 B29・82機。死傷者 687人。
  8月14日  岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
  8月14日  山口県光市 光海軍工廠空襲 死者 738人。
  8月14~15日 小田原空襲 死者 30~50人。
  8月14~15日 土崎大空襲 B29・132機。死傷者 300~400人。これが最後の空襲。

 2)記事引用
 1945年8月14日。米軍の「最後の空襲」が,大阪市や埼玉県熊谷市など複数の都市であった。太平洋戦争に終わりを告げる玉音放送の前日だ。米軍の爆撃隊員が書き残した日記には,降伏の先延ばしがさらなる犠牲者を生んだ模様が記録されていた。

 1945年8月10日付の日記。「早く寝る。大阪行きのミッションは中止。日本が和平を申し入れ!」 書いたのはウィリアム・グリーンさん(91歳)=米ノースカロライナ州。日本への空襲を重ねた「第500爆撃群団」の元技能軍曹だ。関係者のジェームズ・ボウマンさん(69歳)=米メリーランド州=が,団の資料などとともにインターネット上で公開している。
『朝日新聞』2017年8月14日夕刊空襲記事
 群団の拠点・サイパン島は,第1次世界大戦後に日本統治下に置かれたが,激戦のすえ,1944年7月に米軍の手に落ちていた。爆撃機B29で,敵機の攻撃に対抗する銃手(じゅうしゅ)を担当したグリーンさん。空襲はいつも死と隣りあわせだ。

 とくに1945年5月に参加した東京空襲では群団の2機が戻らず,「昨晩仲間を失った。いいやつらだった」と書いている。和平を祈るため,教会になんども通った。帰国のノルマは「爆撃に30回出撃」。戦争が長引いて35回に増えたが,35回目となるはずだった8月11日の出撃も延びた。12日付の日記。「昨晩,作戦はまた延期! 日本は天皇維持を求めた。今日は教会へいった」。

 宮内庁がまとめた『昭和天皇実録』によると,日本政府は8月10日午前9時,天皇の地位存続を条件に,日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を受諾すると,連合国側に伝達した。12日に届いた連合国の回答は,天皇の地位の解釈でさまざまな議論を生じさせたが,日本政府は14日,午前の御前会議を経て,午後の閣議で降伏を決定。同日午後11時に中立国の駐スイス公使に打電し,連合国側に伝わったのは15日だった。
 補注)こういう事実が有名である。昭和20〔1945〕年2月,近衛文麿は天皇に向かい,「このまま戦争を継続すれば敗北は必至」である。だが「米英は国体改革まで至らず。恐るべきは共産革命」との上奏文を提出していた。しかし天皇は,戦争終結には「もう1度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しい」と答え,戦争を続行させた。もし,このとき天皇の決断で戦争終結していれば,その後の本土空襲も沖縄戦も広島と長崎への原爆投下も避けられた。だが,そうしなかった。なぜか?

 〔本文引用に戻る→〕 8月14日朝,第500爆撃群団は陸軍の兵器工場「大阪砲兵工廠(こうしょう)」を狙い,サイパンを発った。和平成立に備え,「UTAH(ユタ)」という攻撃中止の暗号が用意されていたが,使われなかった。翌15日の日記。「午前9時08分,日本が和平受け入れとトルーマンが声明。戦争は終わった」。

 グリーンさんはメールでの取材にこう振り返る。「大阪の高射砲は正確で,仲間のB29に命中した。墜落しなかったのは幸運だった。第2次大戦は長くて残酷だった。戦争は二度とやるべきじゃない」。この時,国鉄京橋駅に爆弾が直撃し,工場と合わせて計500~600人が死亡したとされる。そのことを聞くと「標的は武器工場だった。標的に当たったと願っている。あの時まだ,戦争は続いていた」と答えた。

 米軍の報告書は,8月14日の空襲が大阪市にくわえ,秋田市,群馬県伊勢崎市,埼玉県熊谷市,山口県岩国市,同県光市の計6都市を標的にしたと伝える。各市史などによると,この日だけで少なくとも,計約2200人が亡くなった。

 「暗号聞かず」他の隊員も。1945年8月14日深夜から翌15日未明にかけて空襲の被害に遭った埼玉県熊谷市の市立熊谷図書館に,空襲に参加した航空士の「手書きメモ」の写しが所蔵されている。11歳で空襲に遭った新井賢二郎さん(故人)が爆撃機B29の機長とインターネット上でしりあって交流するなかで入手し,図書館に寄贈した。航空士は航空日誌の裏に手書きでメモ。

 「われわれが攻撃目標に向かっているのに,ニューヨークでは戦勝を祝っているとラジオで聞いた」「UTAHが攻撃中止の暗号だったが,ついに聞かなかった」。同館の学芸員,大井教寛(のりひろ)さん(43歳)は「この空襲の意味を,B29の搭乗員自身が疑問に思っていたのではないか」とみている。

 ③「最後の空襲 祖母犠牲に 悔しさ72年後の今も 戦争あと半日早く終われば… 埼玉・熊谷の男性」(『日本経済新聞』2017年8月14日夕刊)

 終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけて,秋田市土崎地区や埼玉県熊谷市,群馬県伊勢崎市で米軍による「最後の空襲」があった。「あと半日でも早く戦争が終わっていたら……」。熊谷市の空襲で祖母を失った松井貞夫さん(80歳,左側画像)は72年たったいまも悔『日本経済新聞』2017年8月14日夕刊熊谷空襲松井貞夫しい思いを抱いている。

 松井さんは当時8歳。自宅は熊谷市中心部にあったが,出征していた父親を除く家族5人で,10日ほど前から約3キロ離れた郊外の親戚宅に疎開していた。8月14日深夜,空襲を知らせるサイレンで目が覚めた。すぐ防空壕(ごう)に逃げたが,あたり一面を明るく照らす照明弾に「このままでは殺される」と感じた。焼夷弾を避けるため,集落から離れた約100メートル先の通りをめざして母親や姉,弟と走った。

 祖母,だいさんは逃げ遅れたのか,姿がなかった。親戚宅があった場所は既に炎に包まれており,助けに戻ろうとした母親は,周りの大人たちに止められた。通りに出て,4人で側溝に身を潜めた。「ヒュー,サー」。焼夷弾が花火のような音を立て屋根瓦に落ちると,「ガーン,ガラガラ」と轟音が鳴り響いた。「なにもみたくない」。恐怖で小便が漏れた。しばらくして気がつくと,爆撃は終わっていた。

 熊谷空襲では200人以上が命を落とした。だいさんの遺体は15日,親戚宅の近くでみつかった。日本が戦争に負けたことは,大人たちの口づてにしった。「もう空襲はなく,夜もちゃんと寝られる。命を奪われることはない」。子供心にほっとした。母親と自宅をみにいくと,焼け野原に焦げた庭の柿の木が残っているだけだった。「徹底抗戦」と書かれたビラが落ちていたのを覚えている。

 こうした「最後の空襲」をめぐっては,米軍司令官がぎりぎりまで作戦中止を模索していたことが,米公文書から明らかになっている。あれから72年。「米国はなぜ作戦を止められなかったのか」「日本がポツダム宣言受諾を少しでも早く発表していれば」。自問自答を繰り返してきたが,気持の整理はついていない。「戦争はなんの罪もない人が軽々しく殺される。とにかくやってはいけない」。

  ※ 戦災者慰霊之女神像 ※
 熊谷市の星川いこいの広場に建てられている「戦災者慰霊之女神像」を画像で紹介する。この像は,昭和20年8月14日の熊谷空襲で亡くなった260名余りの犠牲者を追悼し平和を祈念するために,被災30周年を迎えた昭和〔1975〕年8月に慰霊碑建立奉賛会により建てられた。製作は,長崎の平和祈念像作者の北村西望氏(1884-1987)の作によるものである。以下に同じ写真を2葉かかげるが,同じに近い角度でも少し違った風景・様子に写っている。
熊谷市空襲被災医記念碑
註記・出所)http://kumagayasibunkazai.blog.so-net.ne.jp/archive/201512-1
熊谷市戦災者慰霊碑
出所)http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kumagaya.htm

 ④「〈熊谷空襲 戦後70年の証言〉終戦前夜を襲った焼夷弾の雨」(『産経ニュース』埼玉版,2015年8月13日 07:04 更新)

  「いまの熊谷と同じで,あの日もすごく暑い日でしたね」。昭和20年8月14日。山崎 晃さん(83歳)=熊谷市玉井=の記憶のなかの「あの日」は猛暑だった。熊谷地方気象台の記録によると,最高気温は28度。それでも夜はなかなか寝つけず,午後11時を過ぎても弟と縁側で涼んでいた。日中は母方のおじがもち米や小豆をもってきてくれて,大人たちは盆の準備に忙しかった。「明日は久々にぼたもちが食べられるな」。翌日が楽しみだった。

東武熊谷線概略図 町並みを縫うように,星川が流れていた。夏にはここで野菜やスイカを冷やしたり,主婦が洗濯をしたりと,川は生活の中心だった。戦時下の日常はこの日の夜に突然破られ,星川には大勢の人びとが火に追われて逃げこみ,100人近くが命を落とすことになる。熊谷は江戸時代から,中山道の宿場町として発展してきた。昭和18〔1943〕年ごろには,中島飛行機工場(群馬県)に勤務する工員輸送のために使用された東武熊谷線の営業が開始され,市内には同工場の子会社や下請け工場が複数あった。
 補注)東武〔鉄道〕の熊谷線とは,埼玉県の熊谷と妻沼間約10kmを結んでいたローカル線である。1943年12月5日に熊谷-妻沼間が開通し,1983年6月1日に全線が廃止された。
 出所)右上画像は,http://haisentetsudouryou.travel.coocan.jp/057kumagaya1.html
東武熊谷線妻沼駅顔図
出所)https://umemado.blogspot.jp/2011/01/blog-post_24.html

 「そういう町だったからか,米軍の飛行機が毎日のように偵察に来ていたのを覚えています」と山崎さん。旧制中学2年だったが,学徒動員で日中は工場で働いており,「ジュラルミンの部品にやすりをかけたりしていました。ただ,それがどこにどう使われるかも分かりませんでした」という。

 戦況が厳しさを増してくると,住民たちは防空壕を作り,空襲を想定した防空訓練などが盛んにおこなわれるようになった。小学3年だった長野順一さん(79歳)=同市万平町=は,大人たちがバケツリレーの消火訓練や,敵の襲来に備えた竹やり訓練をしていた姿をよく覚えている。

 「あのころ,食事は麦ご飯に水っぽいサツマイモや川原に生えている草ばかり。こんなに貧しくても日本の兵隊は強いんだと信じていたし,日本のために大人たちはがんばっているんだと思っていました」。ただ,銀色に光る米軍の偵察機が縦横無尽に上空を飛び回る様子をみて,「なぜ日本の飛行機は来ないのか」と子供心に疑問に思っていたという。「8月6日に広島,9日に長崎に新型爆弾(原爆)の投下があったことをラジオで聞いて,日本の兵力ももうないのかなと,不安な気持ちでした」。

 そんな矢先,14日には「明日は天皇陛下から重大な発表があるらしい」という噂が広まっていた。当時21歳だった藤間豊子さん(91歳)=同市桜町=は,翌日の盆のためにお昼にぼたもちを作り終えると,風通しのいい防空壕の上に置いた。この日は技術将校として東京・立川の陸軍技術研究所に勤務していた夫が帰省し,久しぶりに夕食は一家だんらんを楽しみ床についた。

 「母は商売をしていた父から戦争が終わるらしいと聞いていたようです。それで母はこの日,いつもはいていたモンペを寝間着に着替えて寝ていたんですよ」。午後11時半ごろ,縁側にいた山崎さんは,町の上空が急に昼間のように明るくなるのを見た。少し間を置いて,空から雨のように焼夷弾が降ってきた。約80分にわたって8千発の焼夷弾が町と人びとを焼いた熊谷空襲の始まりだった。

 266人の命を奪い,県内最大の被害をもたらした熊谷空襲。70年後のいま,生存者の証言から再現する。
 註記)http://www.sankei.com/region/news/150813/rgn1508130027-n1.html
熊谷市空襲被害統計
 出所)熊谷市の空襲犠牲者数など(画面 クリックで 拡大・可),http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_05.html

   ⑤ 上林貞治郎『大阪商大事件の真相;大阪市大で何が起こったか』日本機関紙出版センター,1986年

 この ⑤ の話題については,先行研究(学術的な成果公表)として,広川禎秀「大阪商大事件の覚え書き」『大阪市立大学大学院文学研究科紀要 人文研究』(第27巻第7号,1975年11月,1-38頁)がある。
 註記)http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0270701.pdf
 
 上林貞治郎『大阪商大事件の真相;大阪市大で何が起こったか』(日本機関紙出版センター,1986年)が単行本として,いまから30年も前に公刊されていた。戦争中において学問弾圧に関する「歴史の事実」,しかもそのひとつでしかないが,回顧されている。(画面 クリックで 拡大・可,「帯び」の小さい文字も読める)。
上林貞治郎表紙
 
太平洋戦争(大東亜戦争),広くは戦時体制期における出来事であった。日中戦争の始まった1937年以降,大阪商科大学〔いまの大阪市立大学〕では,戦時下にもかかわらずマルクス経済学についての研究会活動が活発となった。この背景には,河田嗣郎学長のもとリベラルな学風が強かったことにくわえ,1937年から1941年にかけて商大において岩波書店版『経済学辞典』の編集がおこなわれ,その執筆陣として多数のマルクス経済学者が参加したことがあげられる。
 補注)現在は品切れと断われているが,大阪市立大学経済研究所編『経済学辞典 第3版』(岩波書店,1992年,菊判 1534頁)が,同書の後継書である。

 
また同じ時期,進歩的な予科講師として人気のあった立野保男の退職処分に反対する運動(1941年)が展開された。この運動をきっかけに商大では上林貞治郎教授ら教員・学生により「帝国主義戦争に反対し,マルクス経済学を研究する」非公然の「文化研究会」が発足し,「工業研究会」「国際研究会」など公然の研究会と提携しつつ数十名の学生を組織するに至った。

 関連の経緯。1943年3月15日,内田穣吉を初めとする大阪の「貿易研究所」のメンバー5名(内田を除く4名が商大卒業生)が検挙され,また満鉄調査部事件の関連で名和統一商大教授が検挙された。商大における非公然研究会の存在は,これらの検挙を通じて警察に発覚したと考えられている。

 その結果,名和のグループに関与していた卒業生3名,非公然研究会に参加した上林および学生32名,商大経済研究所嘱託の坂井豊一,さらに1942年春に東北帝国大学法文学部講師に転じていた立野保男が,同年3月30日から11月にかけていずれも治安維持法違反により検挙された。12月には学生約40名が短期拘留ないし不拘束のまま特高の取り調べを受け,1945年1月にはさらに2名が検挙された。

 上記の被検挙者約50名のうち約30名が起訴され3名が実刑判決を受けた(うち若干名は執行猶予により釈放された)。起訴されなかった者もそのまま未決囚として拘置所・刑務所に拘留された。このため拷問,栄養失調などにより3名が獄死,数名が精神に異常をきたす結果となった。この事件の被告・拘留者は,1945年10月のGHQ / SCAPによる政治犯釈放指令をまって初めて解放された。
 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/大阪商大事件 参照。

 前記,上林貞治郎の著書『大阪商大事件の真相-戦時下の大阪市立大で何が起こったか-』(日本機関紙センター,1986年)のなかでは,1945年8月14日以前における空襲の記憶を,つぎのように回顧していた。
   1945年7月9日の夜がふけて,7月10日の午前1時前後から,アメリカ空軍B29の 100機が堺を大空襲した。1時間ほどの空襲で,堺の中心地であった旧堺市街は,すっかり消失してしまった。その空襲の最後に,当時兵舎になっていた堺中学校からこの刑務所にかけて,幅 100メートル,長さ1㎞にわたって,焼夷弾の雨が落とされた。この時に,私の家も焼失した。

 刑務所のなかにも,多くの焼夷弾が落ちてきた。そのなかの木造倉庫や材木置き場などが全焼した。木造倉庫には,多数の囚人の所持品が保管されていたが,すっかり焼失した。材木置き場の火事の煙が,私たちの棟のなかにも流れこんできた。私たちの獄舎の棟の上にも焼夷弾がたくさん落ちたが,煉瓦建てのため,火事にならなかった。幸いにも間もなく消された。その弾は,北川宗蔵の独房の前に落ちた。その火焔と煙が独房のなか入ってきて,北川は,ここで焼死するのかと思ったそうであった。幸いにも,火は消しとめられた。

 しかし,この火事は,実は大きな危険と惨事の可能性をはらんでいた。当時,この獄棟には1千人ほどの囚人がいた。その各室は二重に施錠されていた。空襲で電灯がつかなくなったので広い獄棟はすべて真っ暗であった。もし焼夷弾の火が消されずに,火事になれば,全員が焼死するところであった。各室に共通の鍵は,少ししかなかった。あっても真っ暗の中では,どうしようもなかった。私たちは,あやうく焼死するところであった。

 翌日から,囚人たちの要求で,手でする木錠だけが閉められるだけで,鍵でする金錠はしないようになった。木錠だけなら,外から手で開けられた。また万一の時には,内からも食器口を破って,そこから手を延ばすと開けられたのである。この空襲の日から,敗戦はもう時間の問題となっていることが感じられた。もう「請願作業」もなくなった。

 刑務所全体の機能や仕事も,ほとんど休止の様子であった。それまで既決囚の幾十人かは毎日新聞社,堺の工場地帯などの労働の手伝いに出ていっていたが,それもなくなった。私たちは,独房にじっと座っているだけであった。本を読むこと以外のことはなくなった。一日中,独房のなかに座っていると,いままでのこと,これからのこと--いろいろのことが,走馬燈のように,頭のなかで回転していた。前途に光明を見出しながら。
 註記)上林貞治郎『大阪商大事件の真相-戦時下の大阪市立大で何が起こったか-』73-75頁。
 ⑥「堺空襲」の解説

 昭和20〔1945〕年3月13日深夜,堺市上空に米軍機が来襲して焼夷弾を投下,第2次・第3次と続く波状攻撃により,広範囲に大きな被害を受けた。その後も,6月15日,6月26日,7月10日,8月10日と五回にわたって空襲を受け,なかでも7月10日の空襲は激しく,堺市外に壊滅的な被害を与えた。

 昭和20年7月10日。 ……7月9日のラジオ放送は「和歌山方面を攻撃した米軍機が南方洋上に退去しつつある」旨を報じ,市民の多くはほっとして眠りについた。しかし,翌10日部に浸入,約1時間半にわたり油脂爆弾・黄燐焼夷弾を投下,大浜・龍神・宿院一帯が猛火に包まれ,市の中心部は一夜にして焼野原となった。

 当時,南海本線「堺駅」付近で交差していた阪堺軌道「龍神駅」のガード下では,猛火に逃げ場を失った地元住民と電車の乗客とでひしめき,そこへ炎と煙が風に煽られ煙突のように吹きぬけ,一瞬にして300人以上の人が焼死した。死者・行方不明者,約1860人,焼失家屋,約1万9000戸。
 註記)http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-sakai.htm

 ⑦ 戦争屋軍人-カーティス・ルメイと源田 実の仲むつまじい関係-

 1)カーティス・ルメイ大将の叙勲について
 日本政府は,航空幕僚長を務め,参議院議員にもなった源田 実と,小泉純一郎元首相の父である小泉純也の強い推薦で,アメリカ空軍のカーティス・ルメイ大将に日本最高の勲一等旭日大綬章を贈っている。これは,どのような経緯によってなされたのか。共同推薦者のうち,源田 実については,特攻戦術の責任不問との交換などと書かれているが,小泉純也はどのような利害関係をもっていたのか。

 昭和天皇が親授を拒否するほどの人物を強く推薦するのは,それ相応の理由があったと推測される。すなわち,ルメイ大将とは,東京大空襲をはじめ無差別焼夷弾爆撃を立案,命令し,数十万人の民間人を大量虐殺した。ベトナム戦争では,「ベトナムを石器時代に戻してやる」と「枯れ葉作戦」を推進した。昭和天皇は,ルメイに対する勲章の親授も面会も拒否した。
 註記)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1268145112  参照。

 2)カーティス・ルメイへの勲章授与-源田 実の非情なる身勝手-
 このルメイは多くの日本人を虐殺した人物である。ところが,戦後日本政府から勲一等旭日大綬章を受けている。理由は航空自衛隊の育成に貢献したためであるという。敗戦後,自衛隊の育成に貢献したからとはいえ,いくらなんでも日本人のしかも民間人の虐殺にかかわった人物(司令官)への叙勲には反対の意見も多く,左翼や反米保守側も反発した。
ルメイ叙勲賞状顔図
出所)http://blog.livedoor.jp/matrix_zero1/archives/2094117.html

 当時の首相佐藤栄作(安倍晋三の母方の叔父)は,こういった。「いまはアメリカと友好関係にあり,功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然,大国の民とはいつまでもとらわれず,今後の関係,功績を考えて処置していくべきもの」だといってのけた。ということで,ルメイに対する叙勲は妥当とされ,日本政府は1964年に授賞した。

勲一等旭日桐花大綬章 親米保守側はアメリカとの関係のためどうしてもあげたかったらしく,泥棒に追い銭というか,卑屈というか,中韓のように70年〔以上も〕粘着しないぶん,立派というか……。ただ,通常勲一等旭日大綬章は天皇陛下が「親授する」ということだが,そこは日本人の矜持があったのか,さすがに親授はおこなわれなかった。
  補注)なお「勲一等旭日桐花大綬章(くんいっとう きょくじつ とうか だいじゅしょう)は,日本の勲章のひとつで,1888〔明治21〕年1月4日に旭日章の最上位として追加制定された。日本における高位勲章のひとつである。
 出所)左側画像が「勲一等旭日桐花大綬章」http://blog.canpan.info/fukiura/archive/3307 この画像実例は古物商の売り物として宣伝されたものである。

 ルメイは1964年12月7日,日本に返還されたばかりの入間基地(旧・ジョンソン基地)で,勲一等旭日大綬章を,浦 茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。このことは,12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定されていた。

 しかもこの叙勲は,浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査,審査にもとづく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名でおこなわれた。防衛庁から首相佐藤栄作,賞勲局へ叙勲が適当であるという説明もあった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例にもとづいたものである。
 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/カーチス・ルメイ 参照。
 補注)ここでは「慣例」にもとづき「叙勲が適当」だと説明されているが,日本本土空襲でいかほどに多数の臣民(植民地出身者の朝鮮人や台湾人も含めて当時の日本国民全体)が犠牲になったかなど,完全に放置・無視しての「ルメイへの勲章授賞」であった。空襲の犠牲者数についてさらにくわしくはつぎの図表をみたい。(画面 クリックで 拡大・可)
空襲犠牲者数図表
出所・註記)http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226d.html(← リンクあり)
 
 3)勲章交換ゴッコの愚
 カーティス・ルメイへ勲章を推薦したのは,旧帝国海軍大佐で,真珠湾奇襲作戦を立案し,戦後は航空自衛隊の初代航空総隊司令や,航空幕僚長を務めたことのある自民党の参議院議員「源田 実」であった。また「源田 実」は自民党内の国防族のリーダーであり,当時の防衛庁長官「小泉純也」氏も,源田氏に同調してカーチス・ルメイへの勲章の授与に協力した。

 その「源田 実」がカーティス・ルメイへ勲章の授与を推薦したのは,航空自衛隊の育成に多大な貢献をしてくれたことがその理由となっていた。しかし,実はその2年前に「源田 実」は,アメリカから「勲功章」を授与されており,その返礼にカーチス・ルメイを推薦したとも指摘されている。

 いわばまた,真珠湾奇襲作戦の立案者である「源田 実」にアメリカが勲章を授与したのは,アメリカは真珠湾攻撃について,もはや過ぎ去った過去として終わりにするという意思表示であり,日本がカーティス・ルメイに勲章を授与したのも,東京大空襲については終わりにするという意思表示であり,おたがいにこの問題について決着をつけたということを示すための授与だったともいわれている。
 註記)https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3003055.html
 補注)しかし,このように勲章交換日記みたいな源田とルメイの将軍同士における,それこそ自分たちだけがいい気な「一将功なりて万骨枯る」の「正式版(ルメイのこと)およびゾンビ版(源田のこと)」に接して,怒らないでいられる日本国民(空襲戦災の被災者)など,1人もいるわけがない。

 米・日軍人高官のこの2人が,庶民の戦争体験とは別世界の時空のなかで,オモチャのごとき意味しかもちえない「勲章交換ゴッコ」を,自分たちだけは本気〔 HIGH!〕になってやっていた。まさに,日本国側において非国民と指称される人間がいたのであれば,まずこの源田 実こそがその最適人物であった。


 〔記事に戻る→〕 半藤一利と保阪正康の「昭和の名将と愚将」〔半藤一利『昭和の名将と愚将』文藝春秋,2008年〕には「特攻作戦生みの親大西瀧次郎の神話」という表題で,いくつかの疑問点を提示しながら,2人はつぎのように対話していた。
   特攻をいい出した責任者として暗に源田 実の名前を挙げている。大西は敗戦とともに腹を切って死んでしまったので,死人に口なしとなり,彼にすべての責任がおっかぶせられてしまったというのである。

 この半藤と保阪の本を読むかぎり,本当の責任をとるべき愚将たちが,戦後もおめおめと生きながらえ,さらには源田もそうだが,そういう連中の何人かは政治家になって威張っていたわけで,はらわた煮えくりかえる思いである。
 註記)http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-43.html

 生出 寿『一筆啓上 瀬島中佐殿』(徳間書店,1998年)は,つぎのように推定していた。

 私は源田 実が海軍航空特攻推進の黒幕だと判断している。昭和19年10月,第1航空隊指令長官大西中将(40期)が爆戦の神風特別攻撃隊を編成し,初出撃させたが,その準備を秘密裏にすすめたのが軍令部航空主務部員の源田だった。

 楼花の製作,桜花搭乗員の募集,桜花専用の特攻航空部隊の編成をすすめたのも,源田とみてまちがいないと思う(130頁)。
 ⑧「〈社説〉わだかまりなく戦没者を追悼したい」(『日本経済新聞』2017年8月15日朝刊)

 以下では,本日のこの日経社説の後半を引用する。

 --昨〔2016〕年,現職の米大統領が初めて被爆地ヒロシマを訪れた。罵声を浴びせられるのではないか,との米側の懸念は杞憂(きゆう)に終わった。謝罪を望む被爆者がいなかったわけではないが,勝者ぶらないオバマ氏の振るまいは広く歓迎された。
 補注)今〔2017〕年8月9日,長崎原爆の日,被曝者代表に会った安倍晋三首相は「あなたはどこの国の総理ですか。私たちをあなたは見捨てるのですか」と詰問されていた(8月10日報道)。源田 実の姿が重なる思いがする。

 両国民が70年かけて築いた友好の土台があったからだろう。日米同盟は安保の損得勘定だけでなりたっているわけではない。少々の不協和音では,揺らぎようのない仲である。
 補注)この理解はおかしい。損得勘定が経済的という意味以上に軍事的な含意をもっていわれている事実は否定できないゆえ……。『日本経済新聞』の論説の限界が露骨に表出されている意見である。

 中韓ともこんな関係を築ける日が来るのだろうか。公明党の山口那津男代表は先日,広島で原爆死没者慰霊碑だけでなく,韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも献花した。原爆で亡くなった14万人のうち,朝鮮半島出身者は2万人もいた。にもかかわらず,政府・与党首脳がこの碑にお参りしたのは初めてだったそうだ。こうした小さな積み重ねの先に真の和解はあるはずだ。
 補注)公明党には在日韓国人関係の信者(その縁者の票が馬鹿にならないほどある)も多い。この背景への考慮もあって,聞くべき山口那津男のいいぶんである。なお「原爆で亡くなった14万人のうち,朝鮮半島出身者は2万人もいた」という説明は,万単位でしかあつかいえない “概略での理解” にもとづく。

 ※ 戦争指導者と一線を ※  いちばんよいのは,靖国神社をめぐる問題を解決することだ。赤紙で召集された兵隊さんのために参拝した。鎮霊社で中韓の犠牲者にも手を合わせた。そう釈明しても,参拝すれば合祀されている東京裁判のA級戦犯を肯定したと受けと止められても仕方がない。

 政府は過去,(1)  無宗教の新施設を建設する,(2)  身元不明者の遺骨を納めた千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充するなどを検討したが,国民的な支持はえられていない。追悼にもっともふさわしい場所はやはり靖国である。そこを戦前日本の復活を企図する一部の国粋主義者の牙城にしてはなるまい。
 補注)「戦前日本の復活を企図する」ために必死になって,いままで努力を傾注してきたのは,まさしく安倍晋三首相ではなかったか? 例の森友学園の小学校新設申請「問題」とも深く関連する「実話」であったはずである。当初は,この学校法人を「戦前日本の復活を企図する一部の国粋主義者の牙城に」(として利用)するために,安倍晋三夫婦は支援していたはずである。

 「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」。昭和天皇の御製である。富田メモによれば,東条英機らの合祀に憤り,参拝をやめたとされる。同じような認識の遺族はかなりいるとも聞く。分祀と呼ぶのが適当かどうかはともかく,靖国と戦争指導者の間に一線を引く。そうすれば,周辺国との関係改善に資するし,なによりも遺族がわだかまりなく参拝できるようになる。(引用終わり)

 この論説で不思議に思うのは,天皇裕仁が戦争指導者の「1人であった事実」に関してなのであるが,最高のその立場にいた人物ではなかったとみなすかのごとき考え方が汲みとれることである。それでいて「靖国と戦争指導者の間に一線を引く。そうすれば,周辺国との関係改善に資するし,なによりも遺族がわだかまりなく参拝できるようになる」とまで主張するのは,二重に奇怪な意見である。

 すなわち,その「一線」とはまず,昭和天皇の身体と精神のなかでは引けないモノであったし,靖国神社に「わだかまりなく参拝できるようになる」ことを一番期待しているのは,実は,ほかならぬその天皇とこの天皇の息子たちであるからである(いまもそう思っている)。なにが問題(=戦争責任や靖国神社)の核心に控えているのかをよく踏まえずに,しかも朦朧とした意識状態のままで,おまけにそれでも,特定のなにかを意図的に語りたいかのような論説である。要は,靖国神社が無条件に大喜びするだけの論旨を開陳しており,とてもいただけない議論がなされている。

 最後に断わっておくが,靖国神社側はA級戦犯「英霊」の分祀を絶対に不可能だと頑固に拒んでいる。そうであれば,天皇たち一族全員がこの元国営神社の参拝にそろって出向くことはありえない。仮に,天皇たちが再びこの神社に1人も欠けることなく参拝しにいくときには,実質「国営化された事態」を認める結果を結果させる可能性がある。この意味で日経「社説」は,限りなく極右に近い立場:主張を明示した。

 もう一言。靖国神社内のあの惨めな祠,鎮霊社に言及したこの日経「社説」も,詳言はないゆえそう簡単には論評しにくいが,食い足りない言及であった。

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  ※ 源田 実は「塵芥(ちり・あくた)に類する著書」を数多く公表しているが,
    紹介するに値しないことは,本日の記述からおのずと判断できるはずである。

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 なお,本ブログ内でカーティス・ルメイについて既述しているのは,以下の日付においてである。

  2014年2月27日  2015年3月8日  2016年3月10日  

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