【地位と肩書で人の価値を判断するなかれ,眉ツバものの法律学者であった田中耕太郎】

      田中耕太郎人と業績有斐閣  
出所)鈴木竹雄編『田中耕太郎-人と業績』有斐閣,昭和52年,口絵。
 【戦時体制期に起きた東京帝国大学「経済学部紛争事件」に対して,当時の法学部長田中耕太郎が披露した見苦しかった国家全体・軍国主義への協力ぶりは,

 敗戦後になってみれば,アメリカの占領地に実質等しくなっていたこの日本国の「最高裁長官の立場」から,アメリカのための『砂川判決』を下していた汚点にまで連続していた】


 ① 本ブログがとりあげ論述してきた田中耕太郎関係の諸稿一覧

 以下に列記する田中耕太郎に関する諸記述は,安保関連法が国会で議論・審議され,成立・施行されたころにかけて公表されたものである。これらをいちいち読んでもらってはキリがないゆえ,題目のみ(字面)をざっと斜めにでも目を通してもらってから,② のほうへ進んでもらえればよい。それぞれに “リンクの住所” も貼りつけておくので,興味ある人はまたの機会に読んでもらえれば幸いである。

 ※-1 2014年02月21日
  主題「最高裁長官田中耕太郎の非行『解釈指示論』」
  副題「1950年から10年間,最高裁長官を務めた田中耕太郎の無法ぶり」
    ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/3682646.html

 ※-2 2014年04月02日
  主題「日本の自衛隊と集団的自衛権・個別的自衛権の議論」
  副題1「日本国憲法第9条の素性と限界,その化けの皮〈性〉」
  副題2「日米安保条約の歴史と本性」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1001164576.html

 ※-3 2014年06月19日
  主題「集団的自衛権問題の本題,その敗戦後史的な軌跡,田中耕太郎の『闇からの屈辱』裏工作」
  副題「歴史は夜創られるというが,昼間でも闇のなかで創られる。米日安保条約の裏舞台で国民を裏切ってきた最高裁長官の行跡」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1004663959.html

 ※-4 2015年04月08日
  主題「安倍晋三流の右折改憲か,それとも,池澤夏樹流の左折改憲か?」
  副題1「日本国憲法を改正(改定)するといっても,天皇・天皇制をどうするのか?」
  副題2「日本知識人に特有である知的陥穽にはまらないで,憲法を改めようとするには,どうしたらよいのか?」
  副題3「安倍晋三風の傲慢・頑迷・旧守(?)・反動的な憲法改悪よりも,池澤夏樹流の開明・先取・革新(!)・民主的な憲法改正への道」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1023811327.html

 ※-5 2015年06月11日
  主題「21世紀の日本を対米属国ファシズムへ導く者は安倍晋三・高村正彦,集団的自衛権とは無縁の砂川判決を悪用する自家撞着,その暗愚の狡猾的な骨頂」
  副題1「自民党の副総裁で弁護士資格をもつ高村正彦が,田中耕太郎の売国的な最高裁判決を,いまごろになってまたもや,集団的自衛権問題と関係づける牽強付会ぶりを披露」
  副題2「アメリカに忠実な隷属意識を抱くシンゾウやマサヒコたちが対米追随・従属路線の総仕上げ」
  副題3「日出ズル国ノ『亡国的ナ指導者タチ』ノ蒙昧的愚行」
  副題4「公明党の存在意義はいずこにありや」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1030465772.html

 ※-6 2015年09月07日
  主題「朝日新聞連載『新聞と9条』の記事に観る『田中耕太郎最高裁長官の対米隷属』的な司法精神史(その1)」
  副題1「その褒美に国際司法裁判所判事にしてもらった『反国民的法哲学者』『対米隷属者:田中耕太郎』の人生模様」
  副題2「いまも日本国民・沖縄県民を苦しめる米軍基地の存在を,すすんで深化・固着させた最高裁判所長官:田中耕太郎,その経歴をめぐる若干の省察」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1039338757.html

 ※-7 2015年09月08日
  主題「朝日新聞連載『新聞と9条』の記事に観る『田中耕太郎最高裁長官の対米隷属』的な司法精神史(その2)」
  副題1「同上」
  副題2「同上」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1039441089.html

 ※-8 2015年09月09日
  主題「朝日新聞連載『新聞と9条』の記事に観る『田中耕太郎最高裁長官の対米隷属』的な司法精神史(その3)」
  副題1「同上」
  副題2「同上」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1039530605.html

 ※-9 2015年09月10日
  主題「朝日新聞連載「新聞と9条」の記事に観る「田中耕太郎最高裁長官の対米隷属」的な司法精神史(その4・完)
  副題1「同上」
  副題2「同上」
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1039628791.html

 これだけ記述してきた対象の田中耕太郎であるが,戦時体制期(戦前・戦中)において東京帝国大学経済学部に起きた騒動のなかで,田中が法学部長として関与し対処したその態度・行動の意味が,いまさらにように問題視され,あらためて「議論・批判されるべき余地」が大いにある。

 この事実:問題意識は,昨年(2017:平成29年)月に公刊されていた湯浅 博『全体主義と闘った男 河合栄治郎』(産経新聞出版)が,再度追究する問題ともなっていた。

 湯浅は,田中耕太郎「個人」のことをとくに詳細に論じているわけではない。だが,いわゆる戦時体制中の東京帝国大学経済学部内部をめぐって起きていた事件,通称を『平賀粛学』と名づけられた事件には,論旨の展開上,当然に言及していた。その『平賀粛学』じたいについては,とりあえずつぎの表を参照してもらい,その概要を理解してほしい。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
 平賀粛学進行日程整理
  出所)堀之内敏恵「平賀粛学と大学人-東京帝国大学「評議会記録」からの考察-」『Proceedings(格差センシティブな人間発達科学の創成)』第20巻(http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/51519/2/Proceedings20_16Horinouchi.pdf)153頁。
 ② 湯浅 博『全体主義と闘った男 河合栄治郎』2017年2月に登場した「田中耕太郎の単に世俗的であった」だけの醜悪さ

 a)  東京帝国大学経済学部(1919:大正8年4月に設置)。「当時の大学は広く人材を外に求めていた。大学卒業後に官庁や民間企業に入り,のちに学会へ転身すうることは珍しくなかった。

 経済学部の大内兵衛(大蔵省),江原萬里(住友総本店),法学部の田中耕太郎(内務省),南原 繁(内務省),高木八尺(大蔵省)など,いずれも社会人からの転身組である」。

 「矢作〔栄蔵〕や小野塚〔喜平次〕の売りこみもあり,〔本庄〕栄治郎を経済学部の助教授に推薦する案件は,矢内原忠雄とともに教授会ではかられ,2人の任命が可決された」(105頁)。

 b)『平賀粛学( ひらがしゅくがく)』  この「平賀粛学」に関する経過事情については,前掲した堀之内敏恵「平賀粛学と大学人-東京帝国大学「評議会記録」からの考察-」の表をみてもらい,ここではごく簡約につぎのように解説しておく。

 平賀粛学とは,1939年(昭和14)東大経済学部に起きた粛清事件であった。同学部教授河合栄治郎の著書発禁事件を契機に学部内に対立が生ずるや,総長平賀 譲が両派の中心であった河合・土方成美両教授を休職処分とし,それを不服とする両派の教授多数が辞表を提出した事件。
 註記)https://www.weblio.jp/content/平賀粛学 発禁処分を受けたという河合栄治郎の4著は,以下の書名であった。

    『社会政策原理』日本評論社,昭和6年。
    『時局と自由主義』日本評論社,昭和12年。
    『第二学生生活』日本評論社,昭和12年。
    『ファッシズム批判』日本評論社,昭和12年。

 b)  平賀粛学の「概要」はこう展開していた。当時の東京帝国大学経済学部では,自由主義派(純理派)の河合栄治郎と国家主義派(革新派)の土方成美の派閥抗争が激しく,また河合については著書の発禁処分により文部省から処分を迫られていたところであった。

 平賀は喧嘩両成敗の立場から,経済学部教授会に諮ることなく,独断で両教授の休職を文部大臣(荒木貞夫)に具申した。河合については「学説表現の欠格」,土方については「綱紀の紊乱」がその理由であった。

 学部の自治と思想の自由に介入したこの処分に抗議し,両派の教授らも辞表を提出。13名が経済学部に辞表を提出するという事態に発展した。助教授以下の辞職撤回と教官の補充などにより,事態は昭和15〔1940〕年にいちおうの収拾をみた。
 註記)https://www.weblio.jp/wkpja/content/平賀粛学_平賀粛学の概要

 湯浅『全体主義と闘った男 河合栄治郎』は,第8章「名著『学生に与う』誕生」のなかに「休職処分 道義なき平賀粛学」を設けて,つぎのように論述していた。
   平賀は熟慮のすえ,再び栄治郎を総長室に呼び,総長の職権で休職処分にするとの決定を文部大臣に報告すると伝えた。平賀総長の周辺では,経済額部長の舞出長五郎と法学部長の田中耕太郎が補佐してていた(269-270頁)。
 この文章のあとにつづく項目「田中耕太郎の演出」が,つぎのように記述してもいる。
  イ) 他方,法学部長の田中は,大学の自治を守るために強い信念と権力意思をもって現実的対処を考えていた。河合追放が避けられない道であるなら,革新派を率いる土方成美も同時追放して,一気に経済学部の内部抗争を鎮静化する方針を編み出した。つまりは「喧嘩両成敗」という陳腐な粛正方法である。

 田中は緊急事態を乗り切るために,評議会の議決という手続を採らず,法学部長からの建言というかたちで決着をつけた。栄治郎が生涯をかけて闘ってきた「大学の自治原則」を,いま総長みずからの手によって破壊し,教授会に諮ることなく放逐を決めたのである。

 栄治郎は〔昭和15年〕1月28日,再び検事局に出頭して長時間の取調べを受けたあと,自宅で待ち受けていた記者の求めに応じて声明を出した。彼はそのなかで,教授会が自分を欠格者であるというなら辞職するが,その理由が「思想,学説は欠格ではないが,表現が欠格」であるというのは納得できないと述べた。(中略)

 思想で裁かれるならともかく,派閥抗争の責任については身に覚えがない。しかし田中の選択は,1人を犠牲にすることで,全体を守るための使命を果たしたいという考えであった(270-271頁)。

  ロ) 総長の平賀や法学部長の田中耕太郎らが,帝大追放の思想以外の低劣な処分理由を付けたことのほうが許せない。田中耕太郎は文部省の圧力で「河合追放」がやむをえないのなら,土方成美ら「革新派」を巻きこんで喧嘩両成敗に仕立てあげ,大学の運営を守る姑息な道を選んだ。

 今回の検事局による起訴は,そうした姑息な手段とは違って正面から栄治郎の自由主義に挑んできた。彼にとり起訴は,みずからの思想を表明するかっこうの機会をえたにひとしい(278頁)。
 c)  田中耕太郎委が当時,法学部長として平賀 譲総長のかたわらで強力に画策した「河合栄治郎・処分」は,「学問・思想・言論の自由」や「大学の自治」を,戦時体制中の困難な時期とはいえ,当時の国家全体主義体制側に〈自由主義者〉の河合を生け贄に捧げる役目(法学部長の立場)を,田中みずからが進んで果たすかっこうでなされていた。

 とりわけ,敗戦後期におけるこうした田中耕太郎の活躍ぶりは,実は,① に列記した「本ブログの諸記述」が詳細に検討・批判したつもりである。

 田中耕太郎が最高裁長官のときこんどは,「日米安保体制」(現在での「日米安保関連法」体制)に関する,彼の無法かつ不埒な采配ぶりが発揮された。すなわち,田中は当時,駐日米国大使の要望(アメリカ側の要求)に応える方向で,『砂川判決』(1959〔昭和34〕年12月16日)を,最高裁長官の立場から「指揮をとり,操作していく用意:予定があること」を事前に,アメリカ側に対して示唆していた。
         田中耕太郎8
    出所)田中耕太郎,http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/582_1.html
       『現代随想全集27 田中耕太郎・恒藤 恭・向坂逸郎集』創元社,昭和30年。


 田中耕太郎はその働きによって,その後から今日までにおける『日本国の対米従属体制の構築』の維持に決定的な貢献をおこなった。この「田中に対する〈歴史的評価〉」がいまとなって,どのようになされるべきかは,贅言を要しない論点になっている。

 d)  敗戦以前は,当時のファシズム(国家全体主義体制)のもとで戦時体制下の東大内紛争に向けては「平賀粛学」(解決策として)を発想させていたが,戦後になるとつづいては,20世紀後半期において世界最強の現代風帝国主義国家アメリカに対しては,下僕の立場であったと見下されるほかない関係をもって,「日本国の最高裁長官」の任務をとどこおりなく遂行していた。

 それでも,田中耕太郎は「私の履歴書」(『日本経済新聞』1961年1月朝刊に連載して執筆)のなかでは,つぎのように表白していた。2カ所のみ引用する。
 註記)なお単行本として,上記の連載を収録した,日本経済新聞社編『私の履歴書 第13集』(日本経済新聞社,昭和36年)があるので,以下ではこれを参照する。最初の イ)は戦時体制期における話であり,つぎの ロ)  は敗戦後における話である。

  イ) 法学部の反総長の気勢は,総長自身よりも,総長を補佐した法学部長である私に向けられた。私は教授会で袋だたきにあったようなものである。しかし私は総長の仕事をみとどけた以上は,安んじて部長を辞任することできた。東大法学部で部長が健康上の理由ではなくて任期中に辞職したのはこれが唯一の事例だと思う(364頁)。
 補注)しかし「平賀粛学」事件のときは東大総長のために尽力した田中耕太郎であっても,「砂川判決」のときのこの田中は,アメリカのために隠密に奔走していた。そしておまけに,彼自身が貢献していたその目的はと問えば,いずれも「上層部のため」であった点で共通する。
 
 とはいえ,戦時体制期における前者の目的は,あくまでも「国内:自国の問題〈解決〉」のためのものであったのに対して,後者の目的はどこまでも「海外:米国の利益〈擁護〉」のためのものであって,それも秘密裏に奉仕する役割を果たしていた。

 そうした田中自身による〈ヌエ的な諸行為〉,それも「戦前の国内限定版」と「戦後の海外貢献版」とは,いずれも「同じに権力志向の強い人間の行跡(業績?)」の披瀝であったにせよ,いまとなってみれば,その双方の履歴(成果!)を併せるかたちとなって,どこにも隠すことができなくなった本当の「彼の素顔」が正直に表象させられている。


  ロ) 私がやりがいがある重要な仕事だと思ったのは,民主政治のもとでとくに司法権の独立を強化する必要があると感じたからである。裁判官は正義を実現し,基本的人権を擁護することを使命とするが,この使命の遂行に関しては,裁判官は政府や国会に対してのみでなく,ジャーナリズム,労働組合,その他あらゆる社会的勢力に対しても独立でなければならない(380頁)。

 なんということもない,田中耕太郎は日本版『ジキル法学博士とハイド氏』の代表的な見本であったに過ぎない。21世紀にもなっている「いまの時点」において,この田中の真価をしろうとする者にとってみれば,もう二の句がつげられなくなるほどにひどく「不正直でしかなかった」「政治理念の二面性(ヤーヌス性)」を,彼はさらけ出している。われわれはいまでは,彼に関するその「歴史の事実」を嫌というほど思いしらされてしまった。

 田中耕太郎の立場・利害・関心にとって前段にいわれていた「その〈使命の遂行〉」とは,戦時体制期の大日本帝国時代にあっては「東大法学部長としてのファシズム(平賀総長を補助して)への協調」であったし,敗戦後における対米従属時代の〈それ〉は「U.S.A.(現代風の帝国主義実践国)へひたすら盲従」するだけとなっていた「最高裁長官としての〈無様な采配〉」であった。

 田中耕太郎が『私の履歴書』1961年のなかで回想していた点,それも「自分史的に粉飾しつくした記録」の中身は,これをあらためてひっくり返して,その奥底をのぞいてみると,いままでにでも判明している〈田中の行動様式に関する真相:核心〉は,「権勢の所在」や「時流の方向」にただひたすら敏感に反応するための行為能力だけは非常に長けていた彼の事実,いいかえれば,処世術に関する運用力においてとりわけ秀でていた彼的な特性を,的確に教示している。
竹内洋大学という病表紙
註記)中央公論新社,2001年。文庫版は以下の広告中にある。

 ------------------------------