【昭和の天皇から平成の天皇に継承される戦争責任の恒久的な重み】

 【明仁天皇はなぜ沖縄になんども訪問にいったのか】



 ① 沖縄県浦添市立港川中学校3年 相良倫子

◆『沖縄の願い』:平和の詩「生きる」,慰霊の日 2018年 ◆
平和の詩「生きる」” 全文


 私は,生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ,心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け,草の匂いを鼻孔に感じ,遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 私はいま,生きている。私の生きるこの島は,なんと美しい島だろう。青く輝く海,岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波,山羊の嘶き,小川のせせらぎ,畑に続く小道,萌え出づる山の緑,優しい三線の響き,照りつける太陽の光。
琉球新報2018年6月26相良倫子
出所)『琉球新報』2018年6月26日,
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-746561.html

 私はなんと美しい島に,生まれ育ったのだろう。ありったけの私の感覚器で,感受性で,島を感じる。心がじわりと熱くなる。私はこの瞬間を,生きている。この瞬間の素晴らしさがこの瞬間の愛おしさがいまという安らぎとなり私の中に広がりゆく。

 たまらなくこみあげるこの気持ちをどう表現しよう。大切ないまよ かけがえのないいまよ私の生きる,このいまよ。73年前,私の愛する島が,死の島と化したあの日。

 小鳥のさえずりは,恐怖の悲鳴と変わった。優しく響く三線は,爆撃の轟に消えた。青く広がる大空は,鉄の雨にみえなくなった。草の匂いは死臭で濁り,光り輝いていた海の水面は,戦艦で埋め尽くされた。

 火炎放射器から吹き出す炎,幼子の泣き声,燃えつくされた民家,火薬の匂い。着弾に揺れる大地。血に染まった海。魑魅魍魎の如く,姿を変えた人びと。阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 みんな,生きていたのだ。私となにも変わらない,懸命に生きる命だったのだ。彼らの人生を,それぞれの未来を。疑うことなく,思い描いていたんだ。家族がいて,仲間がいて,恋人がいた。仕事があった。生きがいがあった。

 日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた,私と同じ,人間だった。それなのに。壊されて,奪われた。生きた時代が違う。ただ,それだけで。無辜の命を。あたりまえに生きていた,あの日々を。

 摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。悲しくて,忘れることのできない,この島のすべて。私は手を強く握り,誓う。奪われた命に想いを馳せて,心から,誓う。私が生きている限り,こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を,絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと。

 すべての人間が,国境を越え,人種を越え,宗教を越え,あらゆる利害を越えて,平和である世界をめざすこと。生きること,命を大切にできることを,誰からも侵されない世界を創ること。平和を創造する努力を,厭わないことを。

 あなたも,感じるだろう。この島の美しさを。あなたも,知っているだろう。この島の悲しみを。そして,あなたも,私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。いまをいっしょに,生きているのだ。

 だから,きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。頭じゃなくて,その心で。戦力という愚かな力をもつことで,えられる平和など,本当はないことを。平和とは,あたりまえに生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 私は,いまを生きている。みんなといっしょに。そして,これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら,未来は,この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり,未来は,いまなんだ。

 大好きな,私の島。誇り高き,みんなの島。そして,この島に生きる,すべての命。私とともにいまを生きる,私の友。私の家族。これからも,ともに生きてゆこう。

 この青に囲まれた美しい故郷から。真の平和を発進しよう。一人一人が立ち上がって,みんなで未来を歩んでいこう。摩文仁の丘の風に吹かれ,私の命が鳴っている。過去と現在,未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私はいまを,生きていく。 (引用終わり)

 この,沖縄戦における犠牲者に対する,そして反戦の意思を謳った文句を「〈後藤正文の朝からロック〉 沖縄戦,今を生きる少女の詩」(『朝日新聞』2018年6月27日朝刊35面「文化文芸」)は,つぎのように感想を述べていた。
 浦添市の中学3年生,相良倫子さんが「沖縄全戦没者追悼式」のプログラムのなかでおこなった詩の朗読の映像をみた。

 73年前の沖縄戦の風景に言葉が及ぶ直前,相良さんの顔がゆっくりと濁った。詩の内容と連動するように表情が変わってゆく様は,言葉たちがしっかりと相良さんの魂と結びついているように感じられた。

 「生きる」という題名の詩を朗読するあいだ,持参したメモにほとんど目を落とさなかったことも,とても印象深かった。会場全体を見渡しながら,堂々と読み上げる姿に感動した。

 こうした式典へ児童や生徒たちが参加することに疑問をもつひとがいるかもしれない。「どうして詩の朗読を少女にさせるのか」という問いも分からなくもない。大人たちこそ,平和への願いをみずからの言葉で発するべきだろう。

 相良さんの言葉は,誰かの想(おも)いや願望の代弁ではなかったと,僕は感じた。ステレオタイプな「少女」のイメージを隠れみのにして,大人たちが押し着せたメッセージではなかった。

 「未来は,この瞬間の延長線上にある」という言葉にはっとさせられた。だから,平和を祈っていまを生きるのだと。「過去と現在,未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を,生きていく」

 体が熱くなった。
 相良倫子による「沖縄全戦没者追悼式」のプログラムのなかでの〈詩の朗読〉は,琉球の民はあの戦争のことを絶対に忘れていないぞ,という沖縄県側が黙視させている〈堅い意思表示の宣明〉である。

 だいぶ以前になるが,安室奈美恵が平成天皇即位10周年記念行事のとき君が代を歌わず,あの “サメの脳” しかもたないと酷評されていた森 喜朗(総理大臣体験者)あたりからは,きびしい非難の声も上がっていた。だが,そもそも沖縄の民としての当時までの安室は,この日本の国歌を習っていなかった。なぜか?

 ここでは,沖縄戦においては,県民だけでも4人に1人あたりが犠牲になった事実のみ指摘しておく。「本土」地上戦を予想した当時の日本は,それに備えて沖縄を捨て石にする作戦を立て,実際にそのとおり実行した。

 平成天皇夫婦,なかでも明仁天皇は,今回,この沖縄の少女(相良倫子)が朗読した詩(うた)を聴いて,間違いなくあらためて大きな衝撃を受けたものと推理する。このように,天皇明仁の立場・感情が解釈されていい理由は,② 以下に論じられていく内容のなかに出てくるはずである。

 ②「沖縄14歳少女が読み上げた『平和の詩』の衝撃-壮大な詩にこめられた『生きた言葉』の数々」(岡本純子〔コミュニケーション・ストラテジスト〕稿『東洋経済 ONLINE』2018年06月25日)

 岡本純子は自称「コミュニケーション・ストラテジスト」ということであるが,これを直訳すると「対話技法研究者」とでも日本語で表記したらよいか。

 それはともかくこの識者は,① の相良倫子による「沖縄戦終結,1945年6月23日」の,つまり,大日本帝国が敗戦してから73年後のその日に朗読された「追悼の辞」は,迫力に満ちた光景を作っていたと評価していた。
 熱量と気迫という点では,2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの国連でのスピーチをも彷彿させた。国内外のプレゼン・スピーチウォッチャー〔弁舌観察者?〕自認する筆者ではあるが,これほどのスピーチを日本ではなかなかみかけることがない。

 おじさん政治家たちは「棒読み」。

 たった,14歳の子どもが,渾身の力を振りしぼって,会場や視聴者の魂を揺さぶったのに,彼女の前後に登場したおじさん政治家たちは,「スピーチ」という名の「棒読み」に終わったのが非常に対照的だった。とくに残念だったのは,安倍晋三首相が,彼女のスピーチに対する感想も,コメントもないままに,淡々と下を向いたまま,「原稿を読み上げて」終わったことだ。
       相良倫子・安倍晋三画像
    出所)相良倫子と安倍晋三,
       
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/702.html


 歴代総理のなかでも,コミュニケーションには並々ならぬ努力をしていると一定の評価がある安倍首相。リオデジャネイロ・オリンピック閉会式での演出やアメリカ連邦議会での演説など,海外向けのスピーチやプレゼンでは努力が垣間みられる一方で,国内のオーディエンス向けのコミュニケーションは,なぜか,そうした細やかさが感じられないことが多い。

 相良さんの朗読を目の前でみて,なにも感じ入る所はなかったのだろうか。ああいった場面で,当意即妙にコメントを入れたり,自分の心の言葉を語りかけたりすることができていたら,印象はずいぶん変わっただろう。他人が作った原稿をただ,読むだけのスピーチ,判で押したような紋切り型のスピーチ,「死んだ言葉」の羅列など,人の心をピクリとも動かさないことを政治家も企業経営者も,肝に銘じておくべきである。

 人びとは生の言葉,生きている言葉を求めているのだ。
 註記)https://toyokeizai.net/articles/-/226656?page=3 〔 〕内補足は引用者
 安倍晋三の「母方の祖父・岸 信介」の実弟(祖父母の弟は「大叔父(おおおじ)」)である佐藤栄作は,岸とともに日本の首相まで務めた政治家であった。この栄作に関する話題を,つぎにとりあげる。

 ③ 佐藤栄作と沖縄返還「密約」(「みんな知ってる「密約」って何?」『内田 樹の研究室-みんなまとめて,面倒みよう』2009年12月26日)

 1969年11月,沖縄返還の交渉過程で,当時の佐藤栄作首相とニクソンアメリカ大統領のあいだで交わされた「沖縄への有事のさいの核もちこみ」を認める密約文書を,元首相の遺族が公開した。沖縄返還は公式には「核抜き」での合意であったが,同時に密約で沖縄への核兵器再もちこみが許容されていた。核もちこみは事前協議の対象案件だが,これについても「遅滞なく必要を満たす」とあり,事前協議が事実上空洞化していたことが明らかになった。

 この佐藤元首相は「核兵器をもたず,作らず,もちこませず」といういわゆる「非核三原則」をかかげて世界平和に貢献したという理由で1974年にノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞のときにはびっくりしたが,密約があったと聴いても別に驚かない。というのも,「そういう密約があるに決まっている」と当時の日本人のほとんどは(少なくとも多少とでも論理的に推論できる日本人は)思っていたからである。

 もちろん,歴代自民党政府はそのような密約の存在を否定し,「沖縄に核はありません」と白々とした嘘をいいつづけてきた。だが,国民は誰もそんな話を信じてはいなかった。保守の人びとは「密約の手形くらい出しておかなきゃ,沖縄は返ってこない」ということを「現実的に」しっていた。左翼の人びとは「自民党政権なら,これくらいの嘘は平気でつくだろう」と「現実的に」推論していた。

 「現実的には」みんなが「核抜きというのは嘘だ」と思っていた。しっていながら,表向きは「密約は存在せず,沖縄に核兵器は存在しない」という嘘を国際社会に向けてはアナウンスしていた。これはよく考えると実に「日本人的」なふるまいだと思う。

  (中 略)

 〔内田が〕『日本辺境論』に書いたとおり,私たちは「無知のふりをする」ことができる。「バカなので,狡猾な政治家たちに,いいように騙されてしまう純良な庶民」のふりをすることができる。それが私たちの「国民的特技」なのである。非核三原則が「嘘」だということを私たちはしっていた。しっていながら「騙されたふり」をしていた。

 それどころか,「騙した」当の本人である佐藤栄作はノーベル平和賞の受賞に喜色満面であった。もちろん,佐藤栄作には「受賞辞退」というオプションもあった。別に密約の存在をカミングアウトしなくても,「私ごとき非力な政治家が世界平和に貢献したなどと・・・とても,恥ずかしくてお受けできません」とポライトリーにお断りすることは可能だったはずである。

 でも,彼はそうしなかった。受賞の報に満面喜悦で応じたのである。自分が嘘をついており,それに選考委員会が騙されて平和賞を出したことをしっていて,なお「喜色満面」でいられるというのは,やはり「たいしたこと」である。それは佐藤栄作自身がこの欺瞞を「例外的な悪徳」だとは考えていなかったことを意味している。

 彼は愚鈍な人間ではなかったから,国民の過半が「非核三原則は空語である」ことをしっているということをしっていたはずである。だから,国民が「ノーベル平和賞選考委員会はバカだ」と思っていたことも(ある程度は)推察していたはずである。そのうえでのあの笑顔は,「日本人のこの『無知のふりをして実をとる』という戦略は,けっこういけるな」という会心の笑みであったのではないかと私は怪しむのである。
 註記)http://blog.tatsuru.com/2009/12/26_0816.php

 こうした内田 樹の記述方法は,事後におけるそれもかなり恣意的なものだとみなされるほかない解釈論を,ふんだんに盛っている。それゆえ,誤解を生む論調も含み,要注意である。ある種の「建前と本音の」使い分け論を便利に応用した記述になっているのだが,その度合が過ぎると「それでもいいじゃないか,同じ日本人同士なのだから〈判るよネ!〉」といった,よくある「なあなあ主義」をみだりに横行させる危険性がある。 

 どうだろうか? いまの安倍晋三政権といまの日本の国民(市民・庶民)たちの関係にも,前段に言及されたごとき〈政治的な事象〉に酷似する中身がないとはいえまい。その関係を代表的に突出させえた「安倍自民党政権の奢り」は,この首相による政治の私物化を恥じらいもなく日本の政治社会のなかに浸潤させ,具体的には「もりかけ両学園問題」に突出的に具現されてきた。

 ウソでウソを語り(騙り?),そのウソをウソではないと,堂々と重箱を積む要領でもってさらにウソをつきまくるのが,この日本国の最高責任者の「政治家としてお決まりの言動様式」であった。大叔父(おおおじ)に当たる佐藤栄作もいまごろは草場の陰から,この晋三が吐いていきたことばのひとつひとつに,きっといちいちニンマリしていたのではないか。

 さて,前段に引用したブログ,『内田 樹の研究室-みんなまとめて,面倒みよう-』のなかに出てきた内田の著作『日本辺境論』(新潮社,2009年)は,「日本人とは辺境人である」と定義しつつ,「日本人とは何者か」という大きな問いに対して「つねにどこかに『世界の中心』を必要とする辺境の民,それが日本人なのだ」と論じている。

 となると,いまの日本人のその「世界の中心」は,最近における安倍晋三君にとってもそうであると思うが,やはりU.S.A. である。そう観て間違いあるまい。また,日本じたいが「世界ではなく日本の中心そのもの」になっていた--あの戦争の時代に大日本帝国はまさに「そういった〈支配の地政〉」を誇っていた--とき,その「辺境の〔地の〕民」に位置づけられたのが『沖縄(琉球)』であった。この理解は,今日におけるこの記述にとってもつ含意として重要な要点である。

 ④ 沖縄戦-1945年3月26日から6月23日まで-

 a) 黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』(講談社,2004年)には,藤田尚徳『侍従長の回想』(講談社,1961年,改版 2015年)からであるが,昭和天皇が 1945年2月14日に吐いていた,かなり有名な文句を収録している。

 「もう一度,戦果をあげてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」。この発言に対しては,話の相手をしていた近衛文麿は,「そういう戦果が挙がれば,誠にけっこうに思われますが,そういう時期がございましょうか」と答えていた。近衛はともかく「和平にもっていってはという意見を述べた」のであったが,昭和天皇は応じなかった。

 さて「沖縄戦の実相」を解説した文章は,こうまとめている。
 沖縄戦は,太平洋戦争末期の1945年,南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍とのあいだでおこなわれた戦いであった。沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり,主要な戦闘は沖縄本島でおこなわれた。(画面 クリックで 拡大・可 ↓  )
  沖縄戦本島分断図解  

 沖縄守備軍(第32軍)の任務は,南西諸島を本土として守りぬくことではなく,出血消耗によって米軍を沖縄に釘づけし,国体護持・本土決戦に備えることでありった。
 補注)1945年2月にも至った段階,すなわち「大東亜戦争(太平洋戦争)」もその大勢(たいせい)が決まっていた時期に至っても,昭和天皇は「沖縄を捨て石にする覚悟」を決めて,戦争をつづけることにした。ということで,少しでも戦局を有利に転換したかった彼は,その戦争をいつまでも止められないまま,自身の判断によって沖縄に〈甚大な犠牲〉を強いた。

 引用した解説の文章はつづいて,「米軍本島上陸・本島分断・日本軍主戦力の8割を失う・牛島司令官自決・6月23日以降もなお続く戦闘」という見出しを付けた記述をしていた。
 註記)「沖縄戦の実相」,沖縄市役所平和・男女共同課『沖縄市民平和の日 9/7』年月日不詳,https://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2524/2526
平成天皇の都道府県別訪問回数図表 ところで,平成天皇の都道府県別訪問回数をとりまとめた『東京新聞』によれば,こう説明されている。

 「行事の多い東京を中心に関東への訪問が多いが,関東を除くと,かつて皇居があった京都,あるいは被爆地の広島,長崎,あるいは沖縄戦が戦われた沖縄への訪問が多いことにも気がつく。

 3大都市圏のなかで愛知は人口規模の割にはやや少ない。そしてまた全国都道府県すべに足を運ばれたこともよく分かる。大地震被災地への訪問も国民にとって印象的である」。「被災地への慰問や戦没者の慰霊にも力を尽くしてきた」。
 出所・註記)http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7229.html

 b) 上江洲智克『天皇制下の沖縄』(三一書房,1996年)は,沖縄戦に関してつぎのように批判している。
 戦況を敗戦必至とみこした重臣近衛文麿は,戦争終結の要請を文書で昭和天皇に上奏した。陸海軍大元帥で,陸海の最高統帥者の天皇が,断固として戦争の終結を命じたら,軍はとうていこれを拒否できなかったはずだ。

 (中 略)

 それにもかかわらず ,昭和天皇はあくまで国体(天皇制)の護持に執着し,近衛文麿の情報をにべもなく拒否して沖縄戦を誘発し,前途ある多くの将兵と,老若男女の多数の沖縄県民の非戦闘員を,悲惨な犠牲に供してしまった(169頁)。 
 さらに関連する記事としては,千田夏光『ドキュメント 明仁天皇-新天皇はどう育てられたか-』(講談社,1989年)の第6章「敗戦体験」から,画像資料にしてつぎの見開き頁(138-139頁)を紹介しておく。(画面 クリックで 拡大・可 ↓  )
千田夏光明仁天皇138-139頁

 最後に,古川隆久『昭和天皇』(中央公論新社,2011年)から引用する。

 なおこの文献から引用をする前に,こう註記しておく。前後する記述をもって総合的に判断すれば,明仁天皇が平成の時代における象徴天皇として,あたかも「父:裕仁天皇が作った歴史的な大きな負債」を,それこそ一生を賭けてつぐなっていくほかない人生を歩まされた事由が汲みとれる。

 なお,以下は,1945年2月時点における記述である。前述の内容とは重複する部分があるが,そうした歴史的な因果をさらに説明するために引用する。
 近衛〔文麿〕のみが明確に早期終戦を主張した。いわゆる「近衛上奏文」である。近衛は,このまま戦争をつづけると国内の不満が高まって共産主義革命が起きることと,アメリカが皇室の維持を認めていることを理由として早期終戦を主張した。しかし,昭和天皇は,「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話しは難しい」と,なお一撃講和論を主張した(『木戸文書』)。

 つまり昭和天皇は,この時点になってもなお「条件は皇統維持を主とし,戦争責任者の処断,武装解除を避けがたき」(『重光葵手記』)と条件付講話の意向だったのである。なお,「国体護持」ではなく,「皇室の存続」が条件とされていることは注意しておきたい(291-292頁)。
 補注)注記するまでもないと思われるが,「国体護持」のなかには “臣民(赤子:せきし)が含まれていた” が,「皇室の存続」のほうはそうではなかった。こうなると昭和天皇も,ちまたの,どこにでもいる私利我欲(御身大事・家族最優先)をしっかり抱いていたオジサンだった事実が把握できる。
 c) ここまで説明してくれば,いまの明仁天皇が沖縄県をなんども訪問してきたその本当の意図が,どのあたりにあったか歴然としている。

 それは,古いことばでいえば「皇統連綿」としての「皇室安泰(弥栄)」であり,現在では「象徴となっている天皇」家の一族が,よりいっそう安心して生きて・安定的に暮らしていける「日本の政治社会」を維持していくためであった。

 皇室がより安定した地位を獲得するための “一連の行為” において相当に重要な位置を占めるものが,沖縄県訪問であった。しかし,裕仁天皇は一度も沖縄県にいく機会がなかった。

 長生きした彼にも,沖縄を訪問したい気持は十分あったらしいが,戦争にかかわる歴史的に複雑な事情もあっただけに,そう簡単には実現しなかった。その代役を務めたのが,息子:平成の天皇であった。
昭和天皇死去マンガハンギョレ紙
   出所)『ハンギョレ』(韓国紙)1989年1月8日。昭和天皇は同年
      1月7日に死去した。

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 例の「天皇メッセージ」(1947年9月20日)を再度紹介しておく。昭和天皇はこのメッセージを,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じて,シーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えていた。沖縄県公文書館が公開する資料である。

 それは,米国による沖縄の軍事占領に関して,つぎのように「天皇の見解」をまとめたメモである。内容は以下のとおりであった。

          天皇メッセージ

  (1) 米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。

  (2) 上記(1)の占領は,日本の主権を残したままで長期租借によるべき。

  (3) 上記  (1)  の手続は,米国と日本の二国間条約によるべき。

 このメモは,天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同もえられるなどとしていた。とくに日米間で防衛条約が結べなかったのは,日本の憲法が戦力保持を禁じたことが一因である。

 つぎの画像資料は沖縄県公文書館に掲載されている文書である。(画面 クリックで 拡大・可 ↓  )
天皇メッセージ沖縄県公文書館
 2018年6月23日,沖縄県浦添市立港川中学校3年生の相良倫子が,「沖縄戦が終結したその日」の記念式典のなかで読み上げた「『沖縄の願い』:平和の詩「生きる」,慰霊の日 2018年」は,天皇家に対して,沖縄県から発せられた「執念の《抗議の表明》」であった。もちろん,安倍晋三の立場(感性?)にとっては,まったく聴きたくもないその《沖縄の叫び》であった。

 いまは墓場のなかにその老骨を休ませているはずの岸 信介や佐藤栄作は,この6月23日に相良倫子が朗読した沖縄戦「鎮魂歌」の叫びに対しては,おそらく「耳を塞ぐ思いで反応した」ものと推察しておく。

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