【平成天皇,誰のための「慰霊と平和の祈り」か】

 【従軍慰安婦問題が存在しなかったといいたい安倍晋三であるならば,平成天皇の「慰霊と平和の祈り」も,きっと気に入らない,不要の所業と理解】

   
 ①「きょう終戦の日 陛下,追悼式に」(『朝日新聞』2018年8月15日朝刊1面,左上配置記事)

 73回目の終戦の日となる〔8月〕15日,天皇陛下は皇后さまとともに日本武道館(東京都千代田区)で開かれる全国戦没者追悼式に出席する。来〔2019〕年4月末に退位を控え,お二人にとって最後の臨席となる。国民の象徴として戦没者を悼み,平和を願い続けてきた陛下の「おことば」も注目される。(▼8面=社説,20面「特集」=両陛下,慰霊の歩み)

 陛下は即位以降,毎年欠かさず追悼式に出席しておことばを述べてきた。戦後70年の2015年からは「深い反省」の言葉を盛りこみ,戦争の歴史を継承する大切さを述べた。(以上,前半のみ引用)

 この「深い反省」という一句の追加は,安倍晋三政権になってからというもの,この首相が改憲をはじめ,戦争を盛んにしたいかのような「国家体制造りへの志向(嗜好!)」を,率先して示しつづけてきた事実に抵抗してきた,平成天皇側なりの「抵抗の意思」をこめた表現であった。
◆ 天皇陛下、最後の追悼式で新たな1文
平和への強い願い ◆

  ※「長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」※

 退位を来〔2019〕年4月末に控え、天皇として迎えた最後の終戦の日。「おことば」では「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」の新しい表現が盛りこまれた。戦没者を悼み,平和を願い続けた陛下の思いの表われといえるだろう。
 註記)asahi.com 2018年8月15日12時28分,https://digital.asahi.com/articles/ASL8G5RLDL8GUTIL02N.html?iref=comtop_8_01

 そして,この新しい文句の挿入は,安倍晋三に対する牽制でもある。だが,幼稚で傲慢なこの子ども首相に,平成天皇の思いが届くという保証はない。
 いずれにせよ,「岸 信介の外孫」である安倍晋三はいままで,「安倍 寛の内孫」でもある自分〔政治家として〕の出自に関する事実を忘れたつもりで,しかも,ひたすらネトウヨ水準に留まる思考回路内に閉じこめられたままに,「オモチャの兵隊」がするものが「本物の戦争」だと勘違いしつつ,この子どもなりの痴的水準で想定できる「好戦的な為政」を,「できたら戦争をしたい国家体制造り」めざしておこなってきた。
『毎日新聞』2018年7月8日2019年度防衛予算概算要求

 2019年度防衛予算(軍事費)の概算要求額に触れておく。「防衛費 来年度,過去最大に 概算要求5兆円超か」(『毎日新聞』ウェブ版,2018年7月8日 07時00分,最終更新 7月8日 11時20分)と報道されていたが 註記1),その具体的な金額は1カ月後に明らかになっている。「防衛省は2019年度予算の概算要求で,過去最大の約5兆4千億円を計上する方針を固めた」註記2)
 註記1)https://mainichi.jp/articles/20180708/k00/00m/010/134000c
 註記2)https://digital.asahi.com/articles/ASL894Q4QL89UTFK00D.html
 付記)菅 直人「戦争は自然災害ではなく,人間の意志で起こる」『BLOGOS』2018年08月15日 09:40,http://blogos.com/article/318066/

 安倍晋三が首相であるこの日本は,アメリカ軍需産業のいいなりに,それもいろいろな兵器を,同盟国の立場から「景気よく金を払って買ってくれる」。だから,あちらから観たこの国は,まるでネギを背負ったカモが「籠に入れられて」差し出されたも同然である。国民生活の諸処においては,いくらでも予算をかける余地(課題が山積状態)があるのに,この民生部門のほうは完全にないがしろにしていても(たとえば7月に発生した西日本豪雨災害を想起したい),なんとも感じないのが安倍晋三という総理大臣である。
      『産経ニュース』2016年10月23日閲兵式朝霞訓練場
 出所)こういう行事(観閲式など)が大好きな安倍晋三君,https://www.
   sankei.com/politics/photos/161023/plt1610230011-p8.html

 ②「『慰安婦の日』,韓国で式典 文氏『外交紛争望まぬ』」(『朝日新聞』2018年815日朝刊3面「総合」)

 日本の首相を先頭にして一般大衆のうちのネトウヨ的な極右思想によれば,旧日本軍における従軍慰安婦問題は「歴史になかった事実だ」と,一刀両断にされている。だが「歴史の事実」を直視できない人たちとは,なにを話しても,「過去の歴史」に関する話題を介してする「創造的な対話」が期待できない。

 安倍晋三は絶対に,従軍慰安婦問題に対する認識を「ゼロ回答」でしか応じない政治家である。この問題(戦時期に関する諸論点)について示しうる安倍の自覚的な歴史認識は,ともかく「ゼロ評価」でみなす選択肢でしか, “想像できない単細胞的な人間” である点を教示する。この人にはなにをいっても,いまでは完全に「▲▲は死ななきゃ治らない」の部類になりはてている,と形容するほかない。

 さて,この ② の記事は冒頭のみ引用する。
 韓国の文 在寅(ムンジェイン)大統領は〔8月〕14日,中西部・忠清南道天安市でおこなわれた「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」(慰安婦の日)の式典で演説し,「この問題が韓日間の外交紛争につながらないよう望む」と述べた。そのうえで,「両国間の外交的な方法で解決される問題だとも考えてはいない」と指摘。2015年12月の日韓合意で「解決済み」とする日本政府の立場とは異なるとの考えをあらためて示した。
 この韓国側の立場として再度示された文 在寅大統領の発言に対して『日本経済新聞』同日朝刊(3面「総合)は,「韓国「慰安婦の日」大統領演説 日韓合意 進む無効化」とつけた見出しの記事で,こう書き出していた。
  韓国の文 在寅大統領は〔8月〕14日,政府が定めた初の「慰安婦の日」の行事に出席した。文氏は日本への直接的な批判は控えつつも,従軍慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決をうたった2015年の日韓合意に否定的な立場を表明。国内の求心力維持に「歴史カード」を使いつづける姿勢をあらためて鮮明にした。日本政府は同日,日韓合意の着実な履行を申し入れた。
 従軍慰安婦問題については,さすがに日本の天皇は直接に言及することはできないままできた。だが,あの戦争の時代における昭和天皇の〈根源的な関与ぶり〉をめぐっては,いまの明仁天皇のみならず,次代の天皇になる予定の皇太子徳仁までも「なんらかの関与」を継続していくことを期待されている。

 ③「慰霊と平和の祈り,次代へ 天皇陛下,在位中最後の終戦記念日」(『朝日新聞』2018年8月15日朝刊20面「特集」)

 この記事を以下に参照するが,適当に段落を選びつつ,最低限にのみ引用しておく。

   --天皇陛下は73回目の終戦記念日となる〔8月〕15日,皇后さまと在位中最後となる全国戦没者追悼式に出席する。11歳で終戦を迎え,国内外で慰霊の旅を続けてきた。その思いは,次代へ受け継がれようとしている。

 1) 戦没者に心寄せ,国内外の旅  原点に疎開体験,列車からみた焼け野原
 しだいに過去の歴史が忘れられてしまう。戦争をしらない世代が増えるなか,天皇陛下は折々に胸に秘めた思いを口にしてきた。その「原点」に,自身の疎開体験がある。皇太子時代から変わらぬ平和希求の旅。美智子さまとともに碑の前で深く頭を下げるその姿は,「象徴天皇」のイメージとして国民のなかに浸透していった。

 なぜ慰霊を続けるのか。両陛下に長く仕えた元側近は「戦争の風化に焦りともいえる思いがあったのだろう」と話す。戦争の爪痕が残る場に赴くことで,多くの命が失われた歴史に光が当たり,現在の平和な日本が築かれた礎をしって欲しい。そんな思いが原動力になっていると推察する。

 両陛下は来年4月末の退位後,一切の公的活動から退く意向だ。だが私的に再び,戦没者が眠る地に足を運ぶことはあるかもしれない。
 補注)ここではついでにいわせてもらう。筆者の姉は疎開経験あり,父母と兄は1945年3月10日未明からの東京下町大空襲の被災者である(不幸中の幸いで1人も犠牲者にはならなかったが,兄は大やけどを負い,一生残る傷となった)。

 当時,東京の下町にはいろいろな人間集団が暮らしていた事実を忘れてはいけない。いろいろ因縁がある地域でもあった。当時であれば,下町の人びとは関東大震災にもさかのぼる記憶がまだたしかにあったと思われる。

 2) 両陛下の務め,継承望む声皇太子さま,ご一家で戦争体験聞く
 皇太子さまは戦後70年にあたる2015年の会見で,歴史を語りつぐことの重要性を訴えた。愛子さまも両陛下から直接戦争の話を聞く機会をもってきた。この年の8月にはご一家で,戦中・戦後の暮らしぶりを学ぶ特別展に足を運んだ。
 補注)ここで指摘されている「歴史を語りつぐことの重要性」とは,いったいなにを意味するのか? 天皇家の「戦中・戦後の暮らしぶりを学ぶ」ことが,一般庶民のそれをしるうえで参考にはなりそうだとはいえなくはないにせよ,まだ「別次元における話題」ではなかったか?

 なぜか,この種の「天皇と国民たち」の関係問題になると,「天皇家と庶民の家庭の事情」とが同じ水準で語られる論調になりがちである。しかし,敗戦をはさんで「日本の政治・経済」をしろうとするに当たっては,はたしてどれほど有効な理解たりうるか疑問があった。

 1945年敗戦の以前は「生き神様」だとまでいわれていた天皇が,その以後は「人間天皇」(深く考えてみるまでもなく当たりまえだが)になっていった推移のなかでも,天皇家と一般庶民の立場は「そう簡単に比較できる」存在同士ではありえかった。

 戦争の最中,天皇の名のもとに日本人だけでも310万人の軍人・民間人が死んだし,殺された。アジア諸国にまでその範囲を拡げて計算すると2千万人(以上?)にもなる犠牲者が,旧日本軍のアジア侵略戦争のせいで,出ていた。

 昭和天皇はいったん置いても,その息子の平成天皇がなにゆえ,そこまで「慰霊と平和の祈り」を皇室神道的な信仰(その立場・思想)に拠りながら,いままでおこなってきたのか? この論点をおおまじめに討究する日本人研究者がいないわけではないが,みな中途半端に終わっている。


 3) 陛下のメッセージ,戦争の風化防ぐ-元侍従長・渡辺 允さん

 全国戦没者追悼式への出席は今回で最後となります。私の侍従長時代,式典に臨む陛下の表情,事前に所作を確認するお姿から,毎回気を入れてなさっていることが伝わってきました。これまでのことを思い出されながら,いままでと変わらず,心を込めて追悼なさることでしょう。 
 ※ 人物紹介 ※ 「わたなべ・まこと」は1959年に外務省入省,儀典長など歴任。1995年に宮内庁に入り,1996年12月から2007年6月まで侍従長を務めた。
 昭和天皇が敗戦を境にして,そして次代の平成天皇はとくに「慰霊と平和のための旅」を,それぞれおこないつづけてきたといわれている。けれども,敗戦までの昭和天皇の「(死んだ兵士のための)慰霊と(侵略を遂行する)戦争のための『大元帥の立場』」とは,いったいなにを,どのように意味していたのか?

 「その慰霊」は主に「靖国神社で祭祀」されていたのに対して,「その戦争」は主に東アジア地域への「侵略戦争」として継続されてきた。その総決算が1945年8月15日についていた。つづく9月2日には,日本の無条件降伏を認める「降伏文書の署名」が,東京湾内に浮かんだアメリカ戦艦ミズーリの甲板でなされた。

 昭和天皇は,アメリカ(正確には連合軍)が日本を占領するに当たって,この支配・統治のために大いに役立つ人物だということで,戦争の時代に関連する政治責任はすべてを免罪されていた。「帝国だった日本」の時代史に関する「もろもろの問題」を議論するとき,この昭和天皇自身の負うべきだった戦責問題が免除されたがために,21世紀のいまに至っても,なにやらすっきりしない天皇問題に向ける議論がなされる場面も多々生じてい。

 ④「〈消された戦争 記録と記憶:2〉シベリア抑留,いまなお闇」(『朝日新聞』2018年8月15日朝刊23面「社会」)

 73年前の8月15日を過ぎても,終戦を迎えられない人たちがいた。旧満州(中国東北部)や朝鮮半島に侵攻してきたソ連によって,日本兵ら約60万人がシベリアに抑留された。冷戦後に明らかになった犠牲者は少なくとも5万5千人。歴史のはざまでいまも,肉親の「最期」にたどり着けない人たちがいる。

 この記事も以下に部分的に引用してみる。

 1) 父の最期,70年経て届いた資料
 「1946年3月6日 第944病院で死亡」「ウエノ ヨフネジロ」。〔シベリア〕抑留でどれだけの人が,いつどこで亡くなったのか。その解明は東西陣営が対立した冷戦によって長く阻まれてきた。遺骨収集や名簿の提供が動き出したのは,ソ連が崩壊する直前の1991年4月以降だった。

 カルテや捕虜となった前後の状況など詳細な記述がある個人資料は,2005年までに3万8千人分がロシアから厚労省に引きわたされた。氏名や死亡年月日を記した名簿はいまも提供が続く。厚労省は日本側の資料と照合することで,抑留死亡者5万5千人のうち約3万7千人の遺族に情報提供を続けてきた。

 2) 「日本人」として収容,祖国は分断
 植民地支配の被害者から抑留者となった人たちにとって,記録はさらに遠い。「韓国のなかでも私たちの存在をしる人はほとんどいない」。釜山に住む朴 定毅(パク・チョンイ)さん(93歳)は日本語で話した。

 1944年春,就職のため向かった旧満州で召集された。腹に爆弾を抱えてソ連軍の戦車に潜りこむ訓練をした。終戦後は,クラスノヤルスクの収容所に送られた。零下50度のなか,厚底の靴をはいて建設現場で働かされた。食事は黒パンと漬物ばかりだったという。
  シベリア抑留画像
 出所)この画像に馬はいない,人間がそりを曳いている,http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Sengoshori.html
 1948年に帰国した祖国は南北に分断され,2年後に朝鮮戦争が起きた。休戦後は軍事独裁政権が続き,韓国がソ連と国交を結ぶ1990年ごろまで,「シベリア帰り」とは口にできなかった。

 抑留体験者らと「韓国シベリア朔風(さくふう)会」を結成。1993年に日本の体験者に教えられ,ロシアから「労働証明書」を入手した。「新井清雄」として「3年4カ月」収容されたことが示されていた。

 終戦時,日本軍により旧満州で動員されていた朝鮮半島出身者は約1万5千人。少なくとも3千人はシベリアに抑留され,70人前後が死亡した。そうした記録を積み上げたのは,朔風会や韓国の報道機関だ。厚労省はこうした実態を「把握していない」という。

 「戦争も植民地支配も終わったはずなのに,私たちを『日本人』として送り出した日本。なのに,謝罪はおろか紙一枚,送られてきたことはない」。10年前に約40人いた朔風会の朴さんの仲間は,あと1人しかいない。(引用終わり)

 さて,昭和天皇はもちろんのこと,平成天皇も,このシベリア抑留という戦後体験をさせられた朝鮮人(韓国人)に関する〈歴史の事実〉に対して,はたしていかほど「慰霊と平和の祈り」を捧げていたかについては,しりようもない点である。
小熊英二生きて帰ってきた男表紙
 小熊英二『生きて帰ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後-』(岩波書店,2015年)は,父の謙二が敗戦後,満洲にいた日本兵として例のごとくシベリアに抑留された経験のなかで出会った,こういう事実に触れていた。それは朝鮮人兵士であった呉 雄根の存在であり,敗戦後にも韓国に戻れていた呉とは手紙のやりとりをしていた。
 註記)小熊英二,同書,350頁以下参照。
 付記)右側画像には「Amazon 広告」へのリンクあり。

 旧日本軍朝鮮人兵士だった呉 雄根には,もちろん,その後において軍人恩給など与えられていなかった。元帝国臣民であって兵士に駆り出され,シベリア抑留といった ”九死に一生をえる” ような体験を,天皇陛下のためにさせられていた。だが,敗戦後の日本国はいっさいしらんぷりであった。

 そうであったとなれば,いまの平成天皇の「慰霊と平和の祈り」は,いったいどこの誰たちに向けられてきたものかと,ひとまず最初から疑問を提示されるほかなくなる。けっして,21世紀における日本という国家に無関係だとみなせる〈疑問の提示〉ではない。

 敗戦後,主に満洲に配属されていた日本軍将兵などは,陸軍参謀だった瀬島龍三などの計略もあって,シベリアに抑留されるはめに遭わされていた。この抑留の問題については,最近になりより本格的な研究書が公刊されている。

 長瀬了治『シベリア抑留全史』(原書房,2013年)はその代表格であるが,特定の偏向した歴史観が混入されていて,たとえば韓国・朝鮮側には受けいれがたい学問観を忍ばせている。

 それはともかく,白井久也『検証シベリア抑留』(平凡社;新書,2010年)は,つぎに画像資料で紹介するように(ここでは106-107頁),シベリア抑留では日本人将兵だけでなく,中国人や朝鮮人(韓国人)も万人単位で混在していた事実に論及していた。この画像のなかで文章の部分がなにを書いているかといえば,敗戦以前における「大元帥と兵士たちとの上下の規律関係」であった。(画面 クリックで 拡大・可)
白井久也検証シベリア抑留106-107頁

 繰り返す。平成天皇がその「慰霊と平和の祈り」を捧げるべき対象には「日本人」だけしか入っていないとしたら,これを問題なしと断定できる「日本人」は,いないはずである。

 ⑤「強制動員の朝鮮人捕虜2千人がシベリアで強制労働」(『中央日報』日本語版,2010年12月28日10時27分)

 第2次世界大戦当時に日本の中国侵略のために強制動員され,終戦後にシベリアや中央アジア一帯の捕虜収容所に抑留された朝鮮人が,最低でも2000人余りに上ると公式に確認された。また,抑留され現地で死亡した60人余りの名簿も公開された。

 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会は〔2010年12月〕27日,「シベリア抑留朝鮮人捕虜問題真相調査」報告書をまとめ,「1945年の終戦後に,強制徴用された朝鮮人2万人余りのうち半分が捕虜として抑留され,彼らのうちシベリアや中央アジア一帯まで移され3年以上長期労役した人は最低でも2000人余り」と明らかにした。

 これはロシア文書保管署の資料,朝鮮人捕虜名簿,ロシア政府が発給した労働証明書などを通じてえた数値だ。

 報告書によると終戦後に日本軍捕虜60万人余りが2000カ所余りの捕虜収容所に収容されたが,朝鮮人も日本軍と区分されずに抑留された。日本軍指揮官がソ連側に軍人名簿を渡すさいに,韓国人の日本式の名前をそのまま記載したため,よりわけることができなかったとみられる。

 当初捕虜として抑留された1万人のうち7000人余りは朝鮮人の身分が明らかになったり,健康が悪化するなどで比較的早い時期の1948年末に解放された。60人余りは現地で死亡したことが確認されたが,1991年にソ連が日本政府に渡した抑留死亡者4万人余りの名簿から発見された。
 註記)http://japanese.joins.com/article/151/136151.html

 この旧日本軍に所属していた朝鮮人たちもシベリアに強制抑留されていた経過に関して,こういう事実があった。日本の氏名(創始改名の結果)を使用していたために,日本人兵士と同じに処遇されてしまった朝鮮人兵士の一群もいた。この場合,釈放されてよかった朝鮮人兵士がそのまま収容されていき,その因果によって日本人兵士と同じように死者(犠牲者)を出していた。そういった「歴史の事実」も記録されていた。

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