【吉次公介『日米安保体制史』(岩波書店,2018年10月)が「安保体制を内在的に批判する視点に立ち,現在までを射程に収めた安保体制の通史」を論じるなかで,なんども指摘していた「天皇裕仁の本心」】

 【象徴天皇が自分自身の個人的な利害や皇室的な立場を国家の方針に反映させようとしてきた意思は,どのように観察・評価・批判されるべきか】

吉次表紙
 ① 吉次公介『日米安保体制史』岩波書店(新書),2018年10月-出版元の解説など-

 本書の要旨は,こう説明されている。つづいて目次も一覧する。
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 いわゆる「安保体制」はどのように形成され,変容・維持されてきたのか。日本の対米協力,米軍基地の運用,米軍基地問題をめぐる日米関係史の3つの要点を軸に,内在する「非対称性」「不平等性」「不透明性」「危険性」に焦点を当て,その全歴史をたどる。大きな転換点を迎えたいま,今後の方向性を考えるための基本の一冊。
 はじめに

 第1章 講和の代償-日米安保体制の形成 1945~60-

  第1節 日米安保体制の成立
   1 米ソ冷戦の始まりと日本
   2 対日講和と安保条約
   3 安保調印の波紋
  第2節 「独立の完成」をめざして-安保改定への道-
   1 鳩山一郎政権の挫折
   2 安保改定の模索
   3 新安保条約の調印
  第3節 安保体制の「危険性」-米軍基地問題の始まり-
   1 安保体制の成立と米軍基地問題
   2 在日米軍の縮小

 第2章 米国の「イコール・パートナー」として 1960~72

  第1節 「イコール・パートナーシップ」の形成
   1 安保体制の転換点
   2 ベトナム戦争と安保体制
  第2節 沖縄返還と70年安保
   1 「戦後は終わらない」
   2 「核抜き・本土並み」をめぐる相克
   3 70年安保というハードル
  第3節 国民的「十字架」としての米軍基地問題
   1 「基地公害」への批判
   2 核をめぐる不安
   3 基地問題の「暴風信号」

 第3章 日米「同盟」への道 1972~89

  第1節 日米「同盟」への起点
   1 「基本的枠組み」としての安保体制
   2 「日米防衛協力のための指針」の策定-「同盟」への起点-
  第2節 新冷戦と「同盟」路線
   1 新冷戦の幕開け
   2 「同盟」をめぐる迷走
   3 「同盟」関係の強化
  第3節 基地をめぐる本土と沖縄のねじれ
   1 本土における基地問題の後退
   2 核兵器持ち込みへの疑念
   3 沖縄への集中と固定化

 第4章 冷戦後の課題 1990~2000-安保再定義と普天間移設問題-

  第1節 湾岸戦争と安保体制
   1 「湾岸のトラウマ」
   2 自衛隊の海外派遣
   3 日米「同盟」の定着
  第2節 安保再定義とガイドライン
   1 「同盟漂流」への懸念
   2 アジア太平洋地域の「基礎」へ
  第3節 激変する米軍基地問題-普天間移設問題の始まり-
   1 沖縄少女暴行事件の衝撃-顕在化する「危険性」と「不平等性」-
   2 普天間返還の浮上

 第5章 安保体制の「グローバル化」2001-18

  第1節 「テロとの戦い」と「世界の中の日米同盟」
   1 米国同時多発テロとテロ特措法
   2 「戦地」に向かう自衛隊-イラク戦争とイラク特措法-
   3 G・W・ブッシュ政権の世界戦略と日本
  第2節 「安保構造」への挑戦と挫折-民主党政権下の安保体制-
   1 日米の軋轢
   2 普天間移設をめぐる迷走
  第3節 集団的自衛権と安保体制-本格化する「グローバル化」-
   1 集団的自衛権の行使容認
   2 安保体制の「グローバル化」-ガイドラインと安保関連法-
   3 アポリアとしての米軍基地問題

 おわりに
 ② 社会主義・共産主義諸国をひどく恐怖していた昭和天皇

 1)鳩山由紀夫の発言
  『朝日新聞』2018年11月24日朝刊27面「特集」として,「〈平成とは あの時:14〉沖縄と本土,広がる隔たり」が,広告部分なしの紙面全部を充てて記事を編集していた。

 この記事の全文は紹介できないが,自民党政権を倒したあとの2009年9月16日,民主党の首相(第93代内閣総理大臣,任期は2010年6月8日まで)に就いた鳩山由紀夫の発言が載っている。その意見「米軍駐留,一番に望んでいるのは日本」から,つぎの段落を抜粋して引用する。
 普天間飛行場の「最低でも県外」という公約については,民主党のマニフェストに明記されていなかったものを私が踏みこみました。正確には「沖縄の民意があるなら」といういいほうでしたが。沖縄を初めて訪れたとき,ほかの地方とは違う重さを感じ,政治家としてできることはないかと考えたのです。

『朝日新聞』2018年11月24日朝刊鳩山由紀夫 くわえて,常時駐留なき日米安保,つまり国難のときのみ米軍に協力を求める安全保障条約を以前から考えていました。外国の軍隊に頼り切るのは,真の意味での独立国ではありません。

 居心地がよく,思いやり予算で日本が経費を負担する沖縄の基地は,米軍も手放したくないでしょう。しかし,彼ら以上に「出ていかないで」と考えているのが日本です。少なくとも首相在任中,オバマ大統領から「普天間の移設先を辺野古に決めて欲しい」と直接いわれたことは一度もなかった。

 私が辺野古やむなしと考える前提となった「基地の65カイリ以内に訓練場が必要」という米軍のマニュアルは,存在しないことが明らかになっています。日本の官僚は偽りのペーパーで私を騙した。つまり日本は,自発的に辺野古に新基地を造っているのです。

 首相辞任については,自身の公約を実現できなかったことで身を引くしかないと考えました。米国の圧力で辞めたのではありません。首相に協力せずに米国の意をくんで動く官僚が日本の側にいたからで,外国の圧力に屈するよりも情けない状況だと思います。このことには首相在任中に早く気づかなければいけなかったのですが,当時は早く移設案をまとめることばかり考えていました。反省しています。

 翁長知事には生前,お会いしたことがある。自分は那覇市長になることが夢で,それをすでにかなえたから無欲なんです,と話していた。沖縄のために無欲に尽くすことから,あの信念が生まれているのだと感じました。
猿田佐世表紙 以上の話をもって鳩山由紀夫は,「日本の国家官僚たち」がアメリカの下僕(部下)であるかのように振るまい,たとえ “自国の首相” に向かってでも,その采配を妨害する集団だと非難した。このあたりの事情については,

 猿田佐世『自発的対米従属-知られざる「ワシントン拡声器」-』(KADOKAWA,2017年)にくわえて,

 アーミテージ,リチャード・L./ ナイ,Jr.,ジョセフ・S./ 春原 剛『日米同盟 vs.中国・北朝鮮-アーミテージ・ナイ緊急提言-』(文藝春秋,2010年),

 副島隆彦監修・中田安彦『ジャパン・ハンドラーズ-日本を操るアメリカの政治・官僚・知識人たち-』(日本文芸社,平成17〔2005年〕)

などを併せて読めば,当該問題の核心部分に迫る「米日間の上下従属的な国際政治関係の実相」が理解できるはずである。
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 自国の首相の意思表示よりも,海の向こう側から聞こえる〈なんらかの声〉に聞き耳を立ていて,細心の注意を怠らない,つまり分かりやすくいういえば「売国的な足場に立っている国家官僚たち」が外務省にはいて,しかも大きな顔をしている。日米関係のあり方に関して,自分たちに意にそぐわない首相の足を引っぱるなど当然も当然だ考え,実際にそのように行動する〈ヤカラたち〉である。

 2)なぜそういった対米追随・従属精神の国家官僚が跋扈跳梁しているのか
 この点を考えるためには,吉次公介『日米安保体制史』(岩波書店,2018年)のなかで,それも本文216頁のほぼ半分のところ(116頁)までの登場となるのだが,6個所にもわたり昭和天皇に関した「ある特定の記述」が出ているので,天皇裕仁が敗戦後史のなかでその記述のように振るまってきた,いうなれば彼の記録してきた「自己中心の政治的な言動」を順にとりあげ,議論してみたい。以下は,a)  から f)  まで6点に関する検討となる。

 a) 1955年8月,重光 葵外相が訪米して,ジョン・フォスター・ダレス国防長官に安保改定を打診しにいったときの話題である。

 当初,重光は在日米軍の最終的な全面撤退を米側に提案するつもりであった。ところが,訪米前に内奏に赴いた重光に対して昭和天皇は「日米協力反共の必要,駐屯軍の撤退は不可なり」と述べた。重光はダレスとの会談で米軍の全面撤退に触れなかったが,外務省の消極姿勢にくわえて,天皇の意向が働いた可能性がある。

 昭和天皇はまるで,国家元首とみまごうどころか,まさに元首自身であるかのように政府首脳陣に対して自分の考えを指示しており,実際においても多大な影響を与えてきた。
 「天皇は,この後も日米関係の安定化に尽力した。〔19〕56年2月,天皇は谷 正之駐米大使に,米国の支援に『深く感謝』し,『日米関係が緊密であることを望み,それが両国にとってもつ意義を十分に認識している』ことを米政府要人に伝えるように命じた。谷から天皇のメッセージを聞いたダレスは,それを大統領に伝えると確約し,『将来の日本と,良好な二国間関係において,天皇影響力は重要である』と応じたのであった。
 註記)以上,吉次公介『日米安保体制史』23-24頁。
  日本国憲法に関してはいうまでもないと思うが,天皇の地位について「第3条」は「天皇の国事に関するすべての行為には,内閣の助言と承認を必要とし,内閣が,その責任を負ふ。」と明記している。これは,天皇が内閣の助言と承認にしたがってのみ政治の舞台では言動すべき点を規定している。

 ところが,前段に記述された天皇の行動は,完全にその真逆をいっていた。敗戦後もだいぶ時代が流れてきたのちになってからであったが,彼はようやく,そうした自分の言動が憲法違反である事実(とはいっても当人にその認識はほとんどなかったのだが)を,否応なしにしぶしぶ受けいれるほかなくなっていた。また,そのように彼自身が時代の変遷に対応するほかなくなった国際政治史の転換も生まれていたこともあり,くわえてまた,彼自身が高齢となるにしたがい,わざわざ持論の政治思想を全面に出す必要性も消滅させていく時代の流れにもなっていった。

 以上の議論に関連して本ブログは,つぎの記述をおこなっていたので,途中であるが紹介しておく。
 2016年08月16日の記述 ※

  主題「新憲法のイロハを理解もせずに無視した裕仁天皇」

   副題1「君主天皇から象徴天皇になってからも,戦後国際政治関係史に直接介入した昭和天皇」

   副題2「 戦争責任・敗戦責任・戦後責任のなにも負わずに逃げた男の『内奏』好き -沖縄も日本も全部を不幸にした『永遠の罪』-」

   リンク ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1060251872.html 
 b) キューバ危機 補注1)をめぐっては,昭和天皇も日米関係の強化に一役買った。その危機がいちおうの終息を迎えた直後であったが,1962年10月30日に開かれた園遊会で天皇は,ジェイコブ・E・スマート在日米軍司令官に対して「日本における米軍のプレゼンスと日本の安全保障への米国の貢献に個人的な謝意を示した」うえで,「米国の力と,〔キューバ危機で〕米国がその力を平和に使った事実に対して個人的に大いに称賛し,尊敬している」と述べた。スマートはもとより,ライシャワー 補注2)も「米国の確固たる対ソ政策を責任ある日本人が強く支持している」こと重視した。
 註記)吉次『日米安保体制史』52-53頁。
 補注1)キューバ危機とは,1962年10月から11月にかけて,キューバにソ連の核ミサイルを配備した基地が建設され,これに抗議するアメリカがキューバを封鎖し,米ソの対立して核戦争の危機となった事件である。最終的には両国首脳の直接交渉でソ連がミサイルを撤去し,危機が回避される結末になった。
 補注2)エドウィン・オールドファザー・ライシャワーは,アメリカ合衆国の東洋史研究者で,ハーバード大学教授。1955年から1963年までハーバード燕京研究所所長,1961年から1966年まで駐日アメリカ合衆国大使を務めていたので,ここに登場している。戦争中すでにこのライシャワーは,敗戦させた日本を占領し支配していくうえで,天皇を操り人形にして利用していくことが肝要だとする文書を作成・報告していた。


 上述のなかに描かれている昭和天皇の姿は,敗戦以前の彼の感覚(大元帥の立場)そのままであり,実質でなにも変わっていない。変わっていたのはむろん,彼が生きている時代とその国際政治環境のほうであった。敗戦が「天皇の立場」を根幹から変えていたはずであった。ところが,この天皇が敗戦後史において対面させられていた日米安保体制史においては,これに直接に影響を与える発言を,しかも直接的にアメリカ側の関係者(前述では軍人「在日米軍司令官」)に対して放っていた。

 すなわち,日米関係に対する天皇自身の “政治的な発言” が,日本国憲法などそっちのけにした体裁で,天皇家が主催する園遊会の場であえて伝達されていた。その光景・場面は,日本国憲法など完全にどこ吹く風といった風情であった。もちろん,そうした天皇の政治的な言動を許してきた「政府側の基本姿勢」が,なによりも一番に問題であった。

 だが,それにしてもまるで,天皇の諸行為・諸活動を支援する宮内庁が,戦前・戦中の宮内省にタイムス・スリップ(先祖還り)した状態になってもいた。いいかえれば,明治帝政時代の亡霊が「敗戦後の昭和天皇」に乗りうつったかようにして,その種の「天皇の発言」を平然と発させる雰囲気ができていた。

 c)「佐藤〔栄作首相〕は,沖縄返還が大きな話題になった〔19〕67年11月の〔リンドン〕ジョンソン大統領との会談でも,『今回の訪米の前に天皇陛下に拝謁したところ,陛下も日本の安全確保ということを心配されていた』と天皇の意向に言及しつつ,あらためて米国の『核の傘』を確認した。天皇は,沖縄返還で日本防衛に対する米国の関与が低下することを懸念した」という記録が残されている。
 註記)吉次『日米安保体制史』58頁。

 敗戦後の間もないころ,昭和天皇がひそかにいわゆる『沖縄メッセージ』をアメリカ側に送達したことは,いまでは有名な事実である。関連する資料を日本語訳で紹介しておく。この『沖縄メッセージ』とは,昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた「米軍による長期沖縄占領継続を依頼するメッセージ」である。

 ※-1『沖縄メッセージ-昭和天皇のマッカーサー元帥に宛てた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させる」ことを依頼するメッセージ-』

 1947年9月,昭和天皇は米軍が沖縄や琉球列島のその他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する天皇の考えを示し,当時,天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて考えを伝え,ワシントンのマッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼した。この文章による記録が残されている。

 しかし,1946年11月には日本国憲法が公布され,すでに象徴天皇が確定し,天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたにもかかわらず,それも政府を通さずに,個人の利益のために直接アメリカ側に政策要望を出していた。

 ※-2 ワシントンで公文章の公開となったものが沖縄県の公文書館にコピーとして保存されている。その内容はつぎのようなものである(以下は意訳で概要を説明)。
 つぎの画像資料が沖縄県公文書館に掲載されている文書である。(画面 クリックで 拡大・可  ↓  )
天皇メッセージ沖縄県公文書館
 1947年9月20日付けのシーボルトからマッカーサー元帥宛の文章を,シーボルトがワシントンの国務長官宛に「将来の琉球列島に関する天皇の考え」と題して,1947年9月22日付けで至急の封書に同封して送られている。

 なお,この後に寺崎が10月3日にシーボルトに会ったさい,シーボルトは陸軍省の意見として,沖縄をアメリカが自由にするとし,国務省の意見は定まっていないことを伝えている内容が書かれている。(寺崎英成 = マリコ・テラサキ・ミラー著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋,1991年)

 ※-3 シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙の内容。
   1947年9月22日
   標題『将来の琉球列島に関する天皇の考え』
   米国務長官 宛

 拝 啓

 私は,1947年9月20日付けのマッカーサー元帥に宛てた,私の説明のコピーを同封致しております。そのコピーの内容は,天皇のアドバイザーである寺崎が彼〔天皇〕の要望で私のオフィスを訪れてきて,彼と話した内容の要旨を記録したものです。

 その内容は,日本の天皇が沖縄や琉球列島のその他の島嶼へのアメリカ合衆国による軍事的占領を継続することを希望していて,その要望は疑うべくもなく,天皇自身にとって大いに利することを理由にしたことが分かる。

 天皇はまた,それらの島嶼の米軍による占領の継続が長期間の賃借契約の方式によることを思い描いている。天皇の意見によると,それによって日本国民はきっと,アメリカ合衆国には下心がないと納得するようになり,アメリカ合衆国が軍事の目的のために占領することを喜んで受け容れることになるということである。

  敬 具  W.J.シーボルト           
 ※-4 シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙に同封したメモ内容。)
   1947年9月20日
   マッカーサー元帥宛のメモ

 天皇の顧問の寺崎英成が,将来の沖縄に関しての天皇の構想を私(シーボルト)に伝えるため訪れた。寺崎は,天皇が米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していると述べた。

 天皇の考えでは,そのような占領は米国にとっても有益であり,日本にも防護をもたらすことになる。天皇は,そのような行動は広く日本国民に受け入れられると感じている。

 国民の間ではロシアの脅威があり,また占領が終わったのちは左翼や右翼のグループの台頭もあり,彼らが事変を起こしかねない。それをロシアが日本の内政干渉のために利用する可能性もある。

 天皇がさらに考えるのは,沖縄の占領(他の島の占領も必要かもしれない)が,日本の主権は残した状態で,25年や50年間,否,さらに長期間の賃借の形態にもとづくものになるということである。

 天皇は,このような占領政策によって日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図がないように思わせ,他の国,たとえばとくにソ連や中国が同様な権利を要求することを,それによって止めさせることになるというのである。

 その手続に関して寺崎が思うには,沖縄や琉球列島内の他の島嶼における軍事基地の権利獲得については,日本と連合国の講和条約の一部にする方法よりも,むしろ日米間の二国間の条約によるべきであるとする。

 寺崎が思うには,連合国との講和条約の一部にする場合は,かなり強制的な平和条約の様相になることが察せられ,将来,日本人のことを同情的に解するなど危機的になると思われる。

   W.J.シーボルト              
 以上,昭和天皇『沖縄メッセージ』の効果は,なかでも「25年や50年間,否,さらに長期間の賃借の形態にもとづくものになるであろうということ」に関してみれば,いまもなおみごとなまでに発揮されつづけている。沖縄県民にとっては苦痛と憤激の存在でありつづけている米軍基地は,現にオキナワに居座わりつづけたままであり,いったい,いつになったら撤退するのかすら,皆目見当すらつかないでいる。
  ロマノフ王朝一家
 出所)https://jp.rbth.com/multimedia/pictures/2016/05/23/596495
 補注)ロマノフ王朝でロシア最後の皇帝となったニコライ2世とその家族,妻のアレクサンドラ皇后,娘のマリア皇女,オリガ皇女,タチアナ皇女とアナスタシア皇女,そして息子のアレクセイ皇太子。(原版は白黒だが,天然色に加工された写真)

 それらのすべてと一緒に彼らの使用人,専属医のエフゲニー・ボトキン,メイドのアンナ・デミドヴァ,従僕のアロイス・トルップ,料理人のイヴァン・ハリトーノフは,1918〔大正7〕年7月16〜17日の未明,エカテリンブルクでボリシェヴィキ兵によって殺害された。
 昭和天皇にとっての敗戦後史は,いわゆる “皇統の連綿性” を必死に維持する『守りの立場』に置かれたところから開始していた。いいかえれば,旧ロシアのロマノフ王朝が断絶したあの風景が「頭の隅から去ることのなかった」彼の固有である歴史理解にとって,敗戦後において日本をとりかこんだ国際政治情勢は,社会主義・共産主義諸国が存在しているかぎり,自家(皇室)存続に関する “異常なまでの危機感” も抱きつづけていくほかないものであった。

 要は,敗戦後のオキナワは人身御供のようにアメリカに差し出されていたといってよく,沖縄の米軍基地が全面的に返還される見通し,展望を的確に説明してくれるような政治学者がいたら,ぜひともその御説を拝聴したいものである。

 もっとも,天皇裕仁であってもいくらかは,「太平洋戦争末期」には捨て石にした「沖縄県に対する贖罪感」を心中では抱かざるをえないでいた。だが(だから?),生前中に沖縄県を訪問することはできなかった。

 米欧(の他国)は訪問しえたけれでも,自国の沖縄県にはいけなかった。その理由・事情は『沖縄メッセージ』が雄弁に物語っていた。だから,その代わりに息子が明仁がなんども沖縄県を訪問しては,実質「許しを乞う」行脚をおこなってきた。

 たとえば,『毎日新聞』2018年3月27日「社説」は,論題を〔平成の〕「天皇陛下の沖縄訪問 寄せ続けた深いお気持ち」と付けて,つぎのように察する文章を書いていた。けれども,このような作文では天皇問題に関する議論としては,しょせん “画竜点睛を欠く” 論調であることに変わりない。
 退位する前にもう一度,沖縄を訪れておきたいという強いお気持ちが表われている。天皇,皇后両陛下はきょうから沖縄県を訪問される。太平洋戦争の戦没者を慰霊するのをはじめ,日本最西端の与那国島を初めて訪れる。

 両陛下の沖縄訪問は,米潜水艦に疎開船が撃沈された対馬丸事件から70年にあたる2014年6月以来で,皇太子時代を含めて今回が11回目となる。陛下の在位中,最後の訪問となる見通しだ。陛下が皇太子の時に初めて訪れた1975年7月,過激派から火炎瓶を投げつけられる事件があった。その夜,つぎの談話が発表された。

 「(沖縄戦などで)払われた多くの尊い犠牲は,一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく,人びとが長い年月をかけて,これを記憶し,1人ひとり,深い内省のうちにあって,この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」。陛下の思いがにじんでいる。
 補注)この1人ひとりのなかに昭和天皇も,もちろんくわえられているはずである。だが,その1人・ひとりと形容されたみたところで,この人の1人「性」だけは,飛び抜けて大きかった。

 それゆえ,息子がいくら背伸びをしてがんばってみたところで,比較になりえないほど大きい問題が「歴史の背後」にはまだ控えている。だから,明仁の立場としては,半世紀近くも時間をかけてなんども沖縄県を訪問してきた。

 そのさい,配偶者の美智子もともなわせて共演させるかたちをとりつつ,実質的に「沖縄への謝罪の旅」を継続していなければならなかった。

 だが,沖縄県の米軍基地がいつになった完全になくなるかは,むろん平成天皇にも分からないし,彼の立場からはなにもいえない。いままでこの天皇にできたことといえば,その謝罪の積み重ねがいくら尊くて貴重な努力であっても,彼の父の天皇が残した負の遺産は消えないままに,いまも〈沖縄県〉は「在日米軍基地の島」として存在しつづけている。

 観方によっては「オヤジがアメリカに貸す」といった沖縄のことだから,その息子が「そろそろ返せ」といってもいいなどと思いたいが,そうは問屋が卸さすわけもなく,ましてや彼はそうことをいえる立場にない。


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 陛下は現地の人びととの交流を通じて沖縄の歴史や文化にも触れてきた。関連する蔵書も多いという。沖縄伝統の琉歌についても琉球王国の王が詠んだ歌を手本に知識を深め,専門家を驚かせるほどだった。今回,初訪問となる与那国島でも地元の伝統芸能を鑑賞する。

 これほど深いお気持を寄せるのは,苦難の歴史を考えつづけてきたからだろう。記者会見でも「沖縄の歴史を深く認識することが,復帰に努力した沖縄の人びとに対する本土の人びとの務めであると思っています」と述べている。

 琉球王国は薩摩藩に征服され,幕府の影響下に置かれる。明治期に入ると政府の琉球処分で沖縄県が設置され,王国の歴史に幕を閉じた。太平洋戦争では唯一の地上戦を経験し,戦後は72年まで本土復帰がかなわず,復帰後も過重な基地負担にあえいできた。

 戦後の保守政権はこうした歴史を踏まえて沖縄と向きあってきたが,現〔安倍晋三〕政権は冷淡といわざるをえない。一部の政治家らも沖縄を中傷する発言をして,沖縄県民の感情をさかなでしている。本土との溝が深まるなかでの両陛下の訪問は,国民統合の象徴としての存在をより強く感じさせられる。
 ここに出てきた文句「国民統合の象徴」である人物が天皇自身であったが,その「地位:位置づけ⇒自分の存在様式」を利用するかたちで,つまり「沖縄県民の感情をさかなで」するような『沖縄メッセージ」を,いまから70年も前にアメリカ側に送達してきた。それも天皇家をみずから守ろうとする利害のためこそ,そういう言動を憲法を蹂躙する関係のなかでおこなっていた。

 その「父:天皇」の代理代行者として,この「息子:天皇」が沖縄県行脚をつづけてきた精神は,大事に尊重され敬意も払われるべきだとしても,父のほうが絶対的に記録してきた「敗戦後史における言動の記録」が,それで白紙(チャラ)に戻せるわけはない。

 d) 「ニクソン・ショックは,昭和天皇にも不安を与えたようだ。〔19〕72年3月の会見で,アーミン・H・マイヤー駐日大使が『米中接近と世界の緊張緩和にかかわらず,米政府はアジアの平和にとって日米関係ほど重要なものはないと考えている』と発言すると,天皇は『目にみえて感動』し,謝意をしめした。日米関係が動揺するなか,米国の日本に対する関与を確認して,天皇は安堵したのであろう」。
 註記)吉次『日米安保体制史』92頁。

 ニクソン・ショックとは,1971年7月15日に起きた出来事であった。当時,アメリカのリチャード・ニクソン大統領がおこなった訪中発表(第1次)と,同年8月15日の金・ドルの交換停止,10%の輸入課徴金を含む8項目の経済政策の変更(第2次)により,世界および日本が衝撃を受けた事件である。

 それでは昭和天皇がなぜ,この歴史の出来事にまで非常に気にしていて,前段のごとき反応を示したかといえば,その問題は「社会主義・共産主義国である中国の問題(動向)」がいつも念頭にあったからである。

 日本にとって敗戦以前における戦争過程は「太平洋戦争」(主に米軍との戦い)であると同時に,それ以上に「大東亜戦争」(もっぱら中国軍との戦い)を実体としていた。ところが,その中国が戦後は中華人民共和国となり,日本の天皇・天皇制が戦前・戦中における歴史の経過のなかで果たしてきた役目を,けっして忘れられない国のまま存在してきた。この事実は,昭和天皇自身の抱く歴史観にとってみれば,ソ連邦の存在と併せて特定の恐怖を与えつづけてきた国際政治の現実的な様相であった。

 ちなみに,昭和天皇が気嫌いしていた田中角栄が首相を務めていた時期であったが,1972年9月に日中国交正常化が実現し,日中共同声明が発表されて,日本国と中華人民共和国が国交を結んだ。しかし,昭和天皇は生存中に中国を訪問していない。さらに一番近い隣国である韓国も訪問できていない。

 e) 「〔19〕75年9月からの〔昭和〕天皇訪米も,日米関係の好転に寄与した。天皇にとって,訪米は『私の深く悲しみとする,あの不幸な戦争』の終結後における米国の『温かい好意と援助』に謝意を表明する『巡礼の旅』であった。キッシンジャーによれば,天皇訪米は『日米関係が占領から緊密なパートナーに変化したその頂点をなす』との『高度に政治的な含意』をもっていた。
 註記)吉次『日米安保体制史』100頁。

 以上のなかで昭和天皇が『私の深く悲しみとする,あの不幸な戦争』とは,なにも「太平洋戦争」の場面だけを意識していわれるべき文句ではなく,「大東亜戦争」の場面も同じに意識していわれるべき文句であった。この点を否定できる人はいないはずである。

 だが,昭和天皇にせよ平成天皇にせよ,中国や韓国への訪問を〈象徴天皇〉の立場からであっても実行するのは,非常に複雑な歴史的背景を絡ませる外交問題を惹起させやすい。もっとも,平成天皇夫妻は中国政府から招請を受け,1992年10月23~28日の日程でが訪中した。

 明治以来の歴代天皇で初めてとなった平成天皇の中国訪問は,「政治利用」との批判も受けたが,当時の宮沢喜一首相(当時)は談話で,訪問目的を「友好親善」と強調した。天皇は歓迎晩餐会で,「わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました」と日中戦争に触れ,「私の深く悲しみとするところ」と述べていた。

 このように平成天皇の中国訪問はだいぶ遅くになっていたが,米欧に対する訪問はもっと早い時期に実現していた。前段のように昭和天皇は1975年9月に訪米していた。それ以前にも昭和天皇夫婦は,1971年9月27日から10月14日にかけて訪欧し,7か国をまわっていた。

 しかし,昭和天皇が訪欧したときはイギリスやオランダでは歓迎されずに,怒れる人びとのデモに遭遇させられていた。大衆紙には「戦争犯罪人」とも「ヒロヒトラー」とも書きたてられた。この記憶が響いたのかもしれないが,1975年9月の訪米から帰国後にもたれた記者会見の場で,昭和天皇は例の「有名な戦争責任に関する発言」を口にした。

 1975年10月31日であった。訪米から帰った昭和天皇は日米記者クラブで,初の公式記者会見をした。記者から「戦争責任についてどのようにお考えですか」という質問に対して,「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから,そういう問題についてはお答えができかねます」と答えた。
 ◆-1 アジアで2千万人を超える人間を殺し,自国民にも多大なる犠牲を強いた軍国主義国家の最高責任者だった男の言葉がこれです。戦争責任を「言葉のアヤ」としたところに,幾千万の戦争犠牲者たちの命を軽んずる感覚をみることができます。実に恥ずかしいことです。

 日本史上最大の責任から自分は逃れたい・自分だけは逃れるのが当然だというような傲慢さがうかがえます。なんと恥しらずなことでしょう。詔書をクルクルと巻き,筒状にしてそのなかをのぞき「みえるぞみえるぞ」といった(といわれている)大正天皇の奇行(の噂)のほうが,まだまともに思えます。昭和天皇こそ,日本史上最大の無責任男です。

 日本人は,なぜ昭和天皇を裁かなかったのでしょう。明治憲法の「天皇は神聖にして侵すべからず」が国民の意識のなかでずっと続いていたのでしょうか。いずれにせよ現代に生きる私たちは,昭和天皇のような人物に今後強権を与えたりしないように注意を払うべきだと思います。そのためにはまず,昭和天皇を断罪しなければなりません。
 註記)「昭和天皇の戦争責任=日本史上最大の無責任男 (8)」『沙羅双樹』2005年05月23日,https://plaza.rakuten.co.jp/kouzen/diary/200505200000/

 ◆-2 アジア太平洋戦争の最高責任者でありながら自分には責任はない,と死ぬまで嘘を吐きつづけたという点では嘘付き「歴代ナンバーワン」いや,世界「ナンバーワン」かも……,こんな「開き直りワード歴代ナンバーワン」,嘘付き「歴代ナンバーワン」,世界「ナンバーワン」に拝跪し続けた日本国民……。
  註記)「みや ‏ @3gtTGktbiRjE4nB」2018年5月8日,返信先:@hayakawa2600さん https://twitter.com/hayakawa2600/status/993723917737996288
 昭和天皇はもちろん息子の平成天皇も,韓国(北朝鮮はひとまず想定外)を訪問していない。なぜか? この「歴史的な問題」は,安倍晋三が従軍慰安婦問題を歴史の事実として認めたがらない次元とはまったく異相であり,昭和天皇の代からもうすぐ引退(退位)する平成天皇へ,そして孫の次代天皇までもちこされていく。

 また,この d) のなかでいわれたところの米国の『温かい好意と援助』というものに対する,日本側からの「なんらかの返答物」とはなにかも考えておく必要があった。21世紀の現在になっても,『それ』に対する「尽くせない返答」にするつもりかどうかは分からないけれども,日本全国に点在する米軍基地を見渡しながらつくづく考えてみるに,もしかすると,これからもさらに1世紀以上はつづけて,この国に対する「クビキとなっている〈在日米軍基地〉」が存在していくのか,などといわざるをえない。このことまでもいまから予想していなければならないのかということである。

 f) 「中曽根〈不沈空母〉発言」。1978年1月に訪米した中曽根康弘首相が,米紙ワシントン・ポスト社主との朝食会で「日本列島を〈不沈空母〉のように強力に防衛する」と述べたと記録されていた。ポスト紙の報道後,中曽根氏は発言の有無に関する説明を変え,後年のインタビューなどでは,実際は「高い防壁をももった大きな船」と表現し,それを通訳の村松増美が意訳したと語っていた。

 この f)  の発言は,吉次『日米安保体制史』の116-117頁に記述されている。中曽根は「百万言費やすよりも即座に覿面に効いた。ともかく,あれを機に日本に対する見方がガラリと変わりましたね」と発言の効果を誇っていた。だが日本国内での反発はすさまじく,内閣支持率は下落した。

 だが,日米関係を重視する昭和天皇は,中曽根の姿勢を評価した。中曽根自身は「『不沈空母』でがんがんやられていた時です。陛下は,雑音という言葉をつかわれたかどうだったか,とにかく『世の中にはいろいろな考えがあるようだが,対米関係を改善してよくやってきた。体を大事にしてシッカリやりなさい』とほめてくれましたね」と自慢していた。

 そのように昭和天皇が中曽根を励ましたのは,日米関係の悪化を懸念したからで,中曽根自身は「天皇は前内閣末期の日米関係を非常に心配していたようでした」と証言していた。また天皇は,アフガニスタンに侵攻したソ連への警戒感を強めていた。天羽民雄元外務相情報文化局長によれば,天皇は「ソ連は結局(アフガニスタンをとってしまうハラなんだろう」とよく語り,「ソ連はけしからん」,「ソ連という国はしたたかで,一度食いついたら離さない」と考えていた。

 要は,昭和天皇はソ連を警戒するあまり,自由主義陣営の敗北を恐れていたわけで,晩年まで冷戦や日本の安全保障に強い関心をもっていた。1989年1月,冷戦終結をみととどけることなく,1987年の生涯を閉じた。
 註記)以上,吉次『日米安保体制史』の116-117頁

 昭和天皇の目線が主にどこへ向けられていたかは,説明の要もないくらい明白であった。いずれにせよ,その基本線は皇室の安泰であり,いいかえればその安全「保障」の確保であった。戦前・戦中であれば自国の軍事力でもって成立・守護されていた天皇の地位が,「敗戦」後は米軍に依存する政治体制になった。それゆえに,彼はいつも米国を中心に置き,これに頼る観点から世界情勢に強い関心をもちつづけた。

 日本国憲法は第1条から第8までに天皇関連条項を置いているが,第9条はそれらとの抱きあわせで,敗戦後の日本の押しつけられていた。この第9条に覆いかぶさっている固い皮膜が在日米軍基地である。安倍晋三がいくら安保関連法を施行させたうえで,自国なりに防衛力を発揮するのだとはいっても,しょせんは「コップ(米軍)のなかの水滴群」が日本国防衛省自衛隊3軍の位置づけである。昭和天皇が沖縄県をアメリカへの人身御供にした歴史的な要因は,そこ(憲法第1条から第8条に対する第9条の真義)にこそ,明確に表現されている。

 昭和天皇が生涯を終えたところで,結局は,訪中も訪韓もなしえていなかった。この事実はこれを反転させていえば,アジア軽視というよりは蔑視に近い歴史的な感性を抱いていたといえなくもない。明治天皇を深く尊敬する昭和天皇の立場に固有であった歴史意識には,もとより看過しえない問題があって,さらにこの息子の代になってもまだ未解決・未解消であった。さらに孫の代にはどうなるのか?

 「日本の歴史のこれからの道筋」に関する問題意識は,はたして「日本国民じたいの民主主義」の立場にとって,天皇・天皇制という政治制度が本当に好都合なのかどうかを再考するよう迫っているはずである。

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