【朝鮮戦争のとき,アメリカ側の要請を受けた吉田 茂首相の密命によって結成された日本特別掃海隊の存在はよくしられているが,別にくわえて,2千名もの日本人船員が

 「LST(上陸用舟艇)うちその6割まで」を「操船するための要員」として朝鮮戦争に参戦していた。この事実は今回,初めて日本・日本人側にしらされた事実である】
 

 ① 朝鮮戦争「仁川上陸作戦」

 仁川上陸作戦(インチョンじょうりくさくせん)は,朝鮮戦争中の1950年9月15日,国連軍が大韓民国(韓国)のソウル西方約20キロメートル付近の仁川(インチョン)へ上陸し,朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)よりソウルを奪還した一連の作戦・戦闘である。この史実に関してはだいぶ以前になるが,韓国紙の『東亜日報』2005年8月31日が「〈社説〉仁川上陸作戦を考える」で,こう回想していた。
 註記)http://japanese.donga.com/List/3/all/27/289214/1
 今日は,国連軍が仁川(インチョン)上陸作戦に踏み切って55周年に当たる。この作戦が成功していなかったら,大韓民国は共産化の運命に呑みこまれたことだろう。1950年の今日,国連軍司令官のダグラス・マッカーサー将軍(1880-1964年)は,約200隻の艦艇と7万人余りの兵力を率いて仁川に上陸,洛東江(ナクドンガン)まで進撃していた北朝鮮軍の背後の兵站線を遮断することに成功した。

 一触即発の赤化の危機状況で,一気に大勢を逆転させた国連軍は,ソウルを奪還し,逃げ出した北朝鮮軍を追撃し,鴨緑江(アムノクカン)まで進撃した。しかし,中国共産軍の参戦で後退せざるをえなくなり,戦争は痛恨の分断とともに終焉した。これが仁川上陸作戦であり,朝鮮戦争である。
 この仁川上陸作戦のさい,兵員を載せた上陸用舟艇を操船するための要員として日本人船員が2000人従事していた(動員されていた)事実が,「NHKスペシャル『朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~』」が「総合テレビ;ニュース / 報道特番」として,2019年2月3日(日)午後 9:00~午後 9:50(50分)に放送されていた。
 註記)https://www.youtube.com/watch?v=vDly88AM6-Iで,この番組が視聴できる。

 ② NHKのホームページ上における番組案内・解説の舌足らず

 a) 前掲したこの番組を案内するNHKホームページ内の解説に当たって読んでみたところ,この記述の冒頭で【太字の赤字 で表わした副題】で指摘してみた事実,つまり「2千名もの日本人船員がLST(上陸用舟艇)を操船するために朝鮮戦争に参戦していた事実」について,この解説中の文章には極力出さない,いいかえれば明記(明確に説明しない要領のこと)されていなかった。この点にはいささかならず不審な雰囲気を感得した本ブログ筆者は,NHKはなぜ,そういう番組に対する「解説の仕方」をしたのか関心を抱いた。
 
 最初にみつかるこの「NHKスペシャル『朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~』」の解説は,つぎのように説明していた。
 『詳   細』 2回目の米朝首脳会談の焦点のひとつとなる朝鮮戦争の終結。1953年〔7月〕に休戦協定が結ばれたが,依然として “戦争状態” が続く朝鮮半島。アメリカ・ソ連・中国といった大国の思惑が複雑に絡みあった戦争は,なぜ始まり,なぜ終結できずにいるのか。

 NHKは,その謎を解く手がかりとなる秘密文書を入手。みえてきたのは,当時の権力者たちの野望や謀略が戦争を泥沼化させていく軌跡だった。朝鮮戦争のしられざる歴史をひもとく。

 『番組内容』 2回目の米朝首脳会談の焦点となる朝鮮戦争の終結。大国の思惑が複雑に絡みあった戦争は,なぜ始まり,なぜ終結できずにいるのか。秘録からしられざる歴史をひもとく。
 註記)http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2019-02-03&ch=21&eid=21982&f=46
  この解説中において,仁川上陸作戦のさい上陸用舟艇を操船するための要員として日本人船員が2000人従事していた「事実」は,明記されていない。本ブログ筆者は,この番組「NHKスペシャル」を視聴していて,この相当に重要であるそれも日本との朝鮮戦争の関連問題が,「解説」のなかでは,あえて特筆したり強調したりする方法を採りたくなかったかのように感じられてならない。

 以前から判明している事実として,米軍の要請によって日本側が出さざるをえなかった「掃海艇の出動」については,よくしられている。たとえば,こういう説明がある。
 朝鮮戦争(1950-1953年)のあと,日本海沿岸には機雷が流れ着いた。日本海沿岸では,1950年から1955年にかけて漂着した機雷が自然爆発する事故が計23件発生し,3人の死者が出た。朝鮮戦争が始まる前には,第2次世界大戦中の米国製,1955年以降はソ連製の機雷による被害が発生し,日本国内の船舶の運航の脅威になった。

 「機雷の漂着は,当時の新聞が大きくとりあげたが,いまは忘れられつつある。冬に大陸から日本に吹く季節風や潮流の特徴,そして,朝鮮半島と日本の近さは変わらない。機雷はいまも現役の兵器で,関心を向けるべき問題だ」。この問題を調査した,防衛省防衛研究所の石丸安蔵所員(2等海佐)は,こう語った。

 米軍は朝鮮戦争中,仁川(インチョン)と,元山(ウォンサン)の2カ所で大規模な上陸作戦をおこなった。機雷を除去する掃海作戦は,米海軍だけでは足りなかった。米軍の要請にもとづき,日本の海上保安庁の掃海部隊が出動し,掃海をおこなった。

 当時の日本は連合国による占領中で,非武装化されていたが,掃海艇は残されていた。元山沖では掃海艇1隻が触雷して沈没し,日本人1人が死亡した。占領が終了しても誰も公表せずに,1970年代〔正確には1978年〕まで伏せられていた。平和憲法に抵触する可能性があったためだろう。
 註記)「【朝鮮戦争の暗示 半島激動】 日本も “参戦” していた朝鮮戦争 掃海艇や人的面で米軍を後方支援」『zakzak』2018.3.30,https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180330/soc1803300003-n1.html   〔 〕内補足は引用者。
 1970年代まで,朝鮮戦争へ日本の掃海部隊が出動していた事実は明らかにされなかったというが,いまは2019年であって半世紀近くも前の話題であった。ところが,こんどの話題「仁川上陸作戦」には2千名もの日本人船員が上陸用舟艇の操船要員として「この朝鮮戦争に参加(参戦)」していたとなれば,船員たち1人ひとりが当時どのような歴史状況的な意識をもって操船のための要員として,米軍に雇用されていたのかという点に関心がいく。

 要はいくら報酬(賃金)を受けとっていたのか,雇用されていた期間やその仕事の内容はどうあったのか,犠牲者(戦死者・戦傷者)はいなかったのかなどは,今回放送されたこの番組の「NHKスペシャル『朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~』」では,触れることのなかった諸点であった(犠牲者は多分いなかったと思われるが)。この番組の内容に照らせば,その当たりの未解明である「歴史の事実」は,これからさらに開拓されていく可能性をのこしている。

 b) NHKホームページ内の関連する番組解説。この「NHKスペシャル『朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~』」については,別の場所にも解説がなされていた。こちらの概要を引用しておく。
 去〔2018〕年おこなわれた韓国と北朝鮮の首脳会談で,ようやく「終結」に向けて動き出した朝鮮戦争。1953年に休戦協定が結ばれたが平和条約の締結には至らず,依然として “戦争状態” が続いている。当時,アメリカ・ソ連・中国といった大国の思惑が複雑に絡みあってはじまった戦争は,なぜ長期化し,いまだに終結できずにいるのか。

 NHKは,その謎を解く手がかりとなる秘密文書を独自に入手した。スターリン,毛 沢東,キム・イルソンの間で交わされていた電報や直筆の手紙,そして極秘会談の記録だ。見えてきたのは,スターリンが北朝鮮に韓国への侵攻を決断させ,中国を巻きこんで戦争を泥沼化させていった,指導者たちのあいだのしたたかな “駆け引き” だった。

 さらに今回,アメリカ側からも,朝鮮戦争の未公開映像や機密文書を入手。300万人もの死者を出した凄惨な戦いの現実と,アメリカを主体とする国連軍の後方支援に,日本の船舶も駆り出されていた事実が浮かび上がってきた。朝鮮半島を南北に分断し,冷戦崩壊後も各国の “相互不信” が渦巻き,不安定な状況が続く北東アジア情勢。

 「終戦宣言」をめぐり米朝の駆けひきがつづくいま,朝鮮戦争の知られざる歴史を紐解く。
 註記)https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190203
 c) 仁川上陸作戦のとき「参戦させられた」日本の掃海艇とこの乗組員は,つぎのように参加していた。

 ※-1 「1950年,海上保安庁日本特別掃海隊の朝鮮海域への派遣」。
 「日本特別掃海隊は,占領軍の要請により, 1950年10月初旬から12月中旬にかけ,46 隻の日本掃海艇,1隻の大型試航船」「及び1200名の旧海軍軍人が元山,仁川,鎮南浦,群山の掃海に従事して,327キロメートルの水道と607平方キロメートル以上の泊地を掃海し,機雷27個を処分したものの,掃海艇1隻が触雷・沈没し,死者1名重軽傷者18名を出したものである」。
 註記)元防衛研究所戦史部主任研究官鈴木英隆「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊-その光と影-」,防衛研究所『戦史研究年報(8)』2005年3月,26頁。http://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/004.pdf

 ※-2「特別掃海隊員は,内地出港時から帰投までの間,一時米軍に雇用されたものとみなす。ただし,勤務記録上は,公務員として継続勤務したものとして処理する」。「ウ)  特別掃海隊員には,基本給の外に,航海手当,危険手当,掃海手当及び被攻撃手当を支給する」。「a 危険手当は,北緯36度以南の場合,本俸,扶養手当,勤務地手当及び航海手当の合計額の100%,北緯36度を超した場合は150%」「b 航海手当は,内地支給額の2倍」「c 被攻撃手当は,1航海に5,000円」。
 註記)田尻正司「1950年元山特別掃海の回顧」,http://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/003.pdf この論稿は,こう断われてもいた一文である。
 「元山特別掃海」 「本稿は,海上自衛隊OB田尻正司元海将補が,部内用の資料として昭和55〔1980〕年に纏められたものです。この度,海上自衛隊発足50周年を迎えるにあたり,秘められた戦後史の一端を広く皆様に知って頂くため,ご本人の了解を得て,ここに記載いたしました。平成14〔2002〕年2月 海上自衛隊 掃海隊群司令部」。
 以上,日本側の掃海隊は,1950年10月初旬から12月中旬にかけ1200名の人員をもって,各艦艇が出撃していた。仁川上陸作戦でLSTの乗員となって操船した日本人船員は,この作戦のときだけであったが,2千名の人員が駆り出されていた。双方の作戦に出動した日本人の隊員や船員の任務・仕事は,そう簡単には比較しにくい背景を控えているものの,いままでその関与が明らかにされていたかった事実,仁川上陸作戦のさい上陸用舟艇を操船した日本人が2千名といたという「歴史の意味」は重い。
 ◆ 朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊の概要

 日本を占領下に置いていた連合国軍,とくに国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍の指示により,日本の海上保安庁の掃海部隊からなる「特別掃海隊」も派遣され,死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。

 1950年特別掃海隊の編制および作戦行動は,つぎのとおりであった。

  総指揮官:田村久三(航路啓開本部長,元海軍大佐)

   第1掃海隊指揮官:山上亀三雄運輸事務官
            (第7管区航路啓開部長,元海軍中佐)

   第2次第1掃海隊(11月15日編成)指揮官:花田賢司運輸事務官

   第2掃海隊指揮官:能勢省吾運輸事務官
            (第5管区航路啓開部長,元海軍中佐)

    MS03 艇長:大西慶治
    MS06 艇長:有山幹夫
    MS14 艇長:石井寅蔵
    MS17 艇長:松本嘉七

   第2次第2掃海隊(10月25日編成)指揮官:石野自彊運輸事務官

   第3掃海隊指揮官:石飛矼運輸事務官
            (第9管区航路啓開部長,元海軍中佐)

   第4掃海隊指揮官:萩原旻四運輸事務官
            (第2管区航路啓開部長)

   第5掃海隊(10月29日編成)指揮官:大賀良平運輸事務官(元海軍大尉)
海上保安庁朝鮮戦争掃海隊記録

 以上を通して,46隻の日本掃海艇,1隻の大型試航船,そして1200名の旧海軍軍人が元山,仁川,鎮南浦,群山の掃海に従事した。327キロメートルの水道と607平方キロメートル以上の泊地を日本の国旗をかかげることもなく掃海した。
  註記)ここでは「朝鮮戦争、日本特別掃海隊員の死とキチガイ李承晩大統領」『Ibuki』2018/01/09 17:15,http://blender2.blog.fc2.com/blog-entry-61.html 参照。
 補注)関連させて分かりやすく説明した記事もある。つぎを参照されたい。 「マッカーサーの密命を受け朝鮮戦争に『参戦』した日本男児」『NEWSポストセブン』2015.08.22 16:00,https://www.news-postseven.com/archives/20150822_340519.html
 ③「仁川上陸作戦に参加した日本人船員」に言及のある『goo テレビ番組』の案内  

 この『goo テレビ番組』は「テレビ番組→番組情報→NHK総合→NHKスペシャル」というリンクの段階を経て,「NHKスペシャル『朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~』」をこう解説していた。これはこの番組の粗筋をほぼ網羅した説明になっていた〔ので,文章で理解するには好都合〕。
 註記)https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/1009/1235086/

 東京の横田基地の一角にある在日アメリカ軍司令部に常駐しているのは,朝鮮戦争に参戦した国連軍の将校たち。1950年に始まり,300人以上が犠牲となった朝鮮戦争はいまも休戦状態のため,半島の有事に備えつづけている。

 番組取材班は4000点もの外交資料を入手し,渉猟したところ,朝鮮半島の武力統一をもくろむ北朝鮮とその背後にいたソビエトや中国のしたたかな思惑などがみえてきた。対するアメリカは無差別ともいえる空爆で対抗し,大規模な核攻撃を計画していたという。そして,軍需により戦後復興が進んだ日本では2000人がアメリカの軍事作戦に従事させられていた状況も明らかになった(出典:「goo Wikipedia」)

 ※「朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~
          (バラエティ/情報)」21:04~ ※

 中国・北京郊外にある高級住宅地に朝鮮戦争を主導した権力者たちの資料が所蔵されている。沈 志華氏が収集した資料のなかには当時30代だった金 日成,中国で強大な権限を有した毛 沢東,ソビエトのスターリンがそれぞれ交わしていた電報や直筆の書簡があった。

 1948年,朝鮮半島南部で大韓民国〔8月〕,北部で朝鮮民主主義人民共和国〔9月〕が建国した。翌年3月,金 日成はスターリンのもとを訪ね,韓国へ進撃するための支援を求めた。朝鮮半島の制圧には長くとも3ヵ月以内で可能と訴えるも,スターリンは首肯しなかった。だが,その後,ソビエトは北朝鮮に大量の兵器をひそかに提供しはじめた。

 1949年8月,ソビエトは原爆実験に成功し,アメリカに次ぐ核保有国となった。アメリカに対抗する自信を深めたスターリンは実験映像を毛 沢東にみせたとされる。その後,中国とソビエトは軍事協定を結んだが,スターリンは「両国が戦争に巻きこまれそうになった場合,ソビエトは旅順港を引きつぐき使用できる」という条項を盛りこんだ。沈 志華氏いわく,北朝鮮が戦争をけしかけて緊張状態が高まれば,スターリンにとっては太平洋に繋がる戦略上の要衝,旅順港を使用できるという思惑があったという。

 アメリカは,GHQの占領下にあった日本を資本主義陣営の最前線と位置づけ,防衛ラインから朝鮮半島は除いていた。そうしたなか,多くの在日韓国・朝鮮人が暮らす山口県では朝鮮半島で戦争が勃発すると懸念し,当時の知事は日本政府に伝えた。だが,首相の吉田 茂はけんもほろろだったという。

 1950年6月25日,朝鮮戦争が開戦。北朝鮮軍は3日で首都のソウルを制圧し,南へと進軍した。元韓国軍兵士のキム・ウンジュン氏によると小さな銃に対して,北朝鮮軍は戦車を投入し,なす術がなかったという。翌月,スターリンは北朝鮮に送った電報で,さらなる攻撃を促していた。元北朝鮮軍のヤン・ウォンジン氏は「釜山の攻略まであと一歩で,戦争の終結は近いと信じていた」と話す。日本では動揺が広がり,山口県では韓国政府が亡命政権を山口県につくることを希望しているという一報が舞いこんだという。

 アメリカのトルーマン大統領は反撃体制を整え,16ヵ国からなる国連軍を結成して共産主義陣営との戦争に踏み切った。総司令官に抜擢されたのはダグラス・マッカーサー元帥で,残った韓国の拠点からとインチョン〔仁川〕に上陸させた部隊による挟撃作戦を提案。2週間足らずでソウルを奪還した。上陸作戦には朝鮮半島の地形を熟知する日本人が大きく寄与したといい,戦車揚陸艦に搭乗したという村山文治氏(90歳)が取材に応じた。GHQはアメリカ海軍を通じて日本の商船や船員を管理し,作戦に動員していた。

 朝鮮戦争で苦境に陥った金 日成は毛 沢東に援軍を求めたが,毛 沢東は金 日成ではなくスターリンに参戦はむずかしいと回答した。すると,スターリンは戦争が長引けば日本がアメリカの同盟国として軍事力をもち,中国大陸に進出してくると指摘。毛 沢東に参戦を決意させた。

 スターリンはアメリカを戦争に釘づけにし,ヨーロッパでの覇権争いを優位に進めようという思惑があったという。朝鮮戦争の最中,中国の兵士や各地から集まった人びとが鴨緑江に集結した。その後,波濤のように押し寄せる兵士たちの数に国連軍は圧倒された。結局,中国軍の人海戦術で泥沼の様相を呈していった。

 アメリカは大規模な空爆をしかけ,戦地は酸鼻をきわめた。アメリカ国立公文書館には無差別ともいえる空爆のカラーフィルムが所蔵されている。空軍の元パイロット,ロバート・ヴィージー氏は72回に渡る出撃で,数百発の爆弾を投下したという。資料によると朝鮮戦争では太平洋戦争で日本に投下された爆弾の約4倍が使用されたという。

 激烈な空爆で国土は焦土と化したなか,アメリカは朝鮮戦争で原子爆弾の使用を検討していた。共産主義陣営の26ヵ所をターゲットに定めていたという。だが,トルーマンは使用を思いとどまり,ダグラス・マッカーサーを解任した。その後,戦況は膠着状態に陥り,1951年7月から休戦に向けた交渉が始まった。金 日成は休戦を望んでいたが,毛 沢東,スターリンにはとりつく島もなかった。そんななかでも否応なしに命を落とす人びとの姿があった。

 朝鮮戦争でアメリカ軍の作戦に従事していた日本人にも死者が出た。その数は今回の取材で判明しているだけでも57人にのぼる。

 1953年3月にスターリンが死去したなか,同年7月に朝鮮戦争の休戦協定が調印された。南北が38度線で分断されたたま,対立は66年に及ぶことになった。いま,北朝鮮は北東アジア情勢の不安定要因となっている。対するアメリカは日本と韓国の基地を維持し,北朝鮮と対峙してきた。そうしたなか,北朝鮮はアメリカ兵の遺骨返還に応じるようになり,今月下旬には米朝首脳会談がおこなわれる。(引用終わり)

 ④『朝鮮特需」

 朝鮮戦争の勃発によって日本の受注が急増し,戦後不況を脱した。この朝鮮戦争の勃発は,アメリカ軍からの日本国内の各種企業に対する発注が急増した。この受注によって輸出が伸び,日本経済は戦後の不況から脱することができた。このことを「特需」(Special Procurement)という。

 1) 特需の内容と規模
 1950年6月25日に勃発し,3年間に及んだ朝鮮戦争でのアメリカ軍を主体とした国連軍からの派兵は,最高時50万を超え,その使用した弾薬の量は,アメリカが太平洋戦争で日本軍に対して使用したそれを超えるという大規模な戦争であった。この朝鮮に出動した国連軍の軍事基地・補給基地となった日本に対し,アメリカ軍から多量の物資・サービスの需要が発生した。

 その特需の内容は,約7割が物資調達で,当初は土嚢用麻袋・軍用毛布および綿布・トラック・航空機用タンク・砲弾・有刺鉄線などが多かったが,1951年7月10日の休戦会談開始以降は,鋼材・セメントなど韓国復興用資材の調達が増大した。サービスでは,トラック・戦車・艦艇の修理,基地の建設・整備,輸送通信などが過半を占めていた。それらの調達額は,3年間の累計で約10億ドルにのぼった。

 そのほか,在日国連軍将兵の消費や,外国関係機関からの発注などの間接特需があり,これらをふくめると,特需の総額は1953年までに24億ドル,1955年までの累計で36億ドルに達した。ちなみに1950年から1953年にかけての1年間の通常貿易による輸出額は10億ドル程度であったから,特需の規模がいかに大きかったかが解る。

 2) 日本経済,戦前水準を上回る
 日本経済は敗戦直後,生産の極度の低下と悪性インフレによって混乱をきわめていたが,1949年にアメリカの特使ドッジ(デトロイト銀行頭取)によって実施された強力な引きしめ策によってインフレは収束した。その一方で不況が深刻化したが,まさにその時に朝鮮戦争が起こった。

 鉱工業生産は1950年後半から急上昇に転じ,同年平均でも,前年比22%増,1951年は35%増,1952年は10%増,1953年には22%増と高成長を続け,1951年には戦前の水準を回復した。実質でみたGNP(国民総生産)や個人消費も,総額で1951年度に戦前水準をこえ,1953年には1人あたりで戦前水準を突破した。

 3) 特需経済の底の浅さ
 1953年度の『経済白書』は「特需あるがために日本の経済水準は上昇したのだが,特需にすがりつかなければ立ってゆけないような歪んだ経済の姿に陥ったことは,むしろ特需の罪に数えなければならなぬ」と述べている。実際,特需への依存は,日本経済にさまざまなゆがみをつくりだした。

 たとえば,特需ブームは,ドッジ=プランの実施で収まっていたインフレを再燃させ,卸売物価は朝鮮戦争勃発後の1年間に52%も上昇した。その結果,日本の国内物価は国際的に割高になり,輸出の停滞を招いた。

 とくに特需への依存は,日本経済のアメリカへの従属・依存を強める結果をもたらした。朝鮮戦争の休戦によって特需が先細りすると,産業界はアメリカの軍備拡張や東南アジアの開発援助の増大にともなう,新たな特需に依存しようという,安易な期待が生まれた。この戦争によって,日本は戦前最大の貿易相手であった中国市場と遮断され,通常貿易そのものも,アメリカ及びアメリカの援助に依存する東南アジア諸国に傾斜を深めなければならない状況となった。
 註記)以上,柴垣和夫『昭和の歴史9 講和から高度成長へ』小学館,1989年,61-66頁参照。(※)

 つまり,朝鮮戦争での特需を契機に日本経済は,アメリカおよび東南アジア向けの輸出に依存するという体質が定着し,それが高度経済成長を支えた,ということであろう。1970年代の日中国交回復によって中国との経済関係も再開され,そのような体質からの転換がなされたが,2012年の日本政府の尖閣諸島国有化による日中関係の悪化は,TPP交渉参加とともに日本経済の対米従属を強め,特需時代の偏った貿易関係に逆戻りする危険があるといえるかもしれない。
 註記)以上(※)も含め全体は『世界史の窓』「世界史用語解説 授業と学習のヒント」「朝鮮特需」,https://www.y-history.net/appendix/wh1602-013.html 参照。

 1956年度『経済白書』はその序文に「もはや戦後ではない」と書いた一節があった。それは,敗戦後における日本の復興の終了を宣言した象徴的な言葉として,流行語にもなった。しかし,隣国の内戦(不幸)を糧(踏み台)にしてこそ,そうして文句が吐かれていた関係も忘れてはいけない。

 「仁川上陸作戦には朝鮮半島の地形を熟知する日本人が大きく寄与した」という事実とともに「敗戦後における日本経済の復興過程にも役だった事実」も,現代日本史の展開としてしかと記憶されるべきである。朝鮮戦争直前の日本経済は青息吐息そのものであり,あと何週間かしたら大企業すらバタバタと倒産するほかない苦境に追いこまれていた。

 そこへ,日本にとっては千載一遇といえ,起死回生のための好機となった隣国の内乱が発生した。その結果,日本に対する朝鮮特需が突如生まれた。隣国の不幸が日本の苦境脱出のために大いに役だったのである。それにしても,NHKが「NHKスペシャル『朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~』」のなかで,

 この番組を放送するさい “目玉のひとつ” になっていはずの「仁川上陸作戦のさい上陸用舟艇乗員」として,「日本人船員の関与(参戦・参加)があった事実」を,この番組に関する情報をしらせようとする「解説」のなかでは,あえて触れず前面に出さないようにしていた。この姿勢が気になる。

 まさか,このような場面(番組)にまで,誰かを「忖度」しているNHK(かぎりなく国営放送に近い放送局)ではあるまいや。

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