【〔現在の〕天皇制には「ひとつの矛盾があり」「天皇の権力が強大化した明治から昭和初期までの天皇制を否定しつつ,その残滓を受けつぎ,天皇の務めの中核にしている」。

 〔そして〕天皇の「『おことば』をみるかぎり,〔明仁・平成〕天皇自身がこの矛盾に気づいているようにはみえ」ない】
 註記)原 武史『平成の終焉-対位と天皇・皇后-』岩波書店,2019年3月,59頁。


 ①「〈考論〉社会の統合,皇室頼みに危うさ  原 武史・放送大学教授(日本政治思想史)」(『朝日新聞』2019年5月1日朝刊3面「総合」)

 本ブログでの前段の見出し文句(文字)のなかに註記で登場した原 武史は,本日の『朝日新聞』朝刊の記事も他紙と同じに,天皇の代替わり記事で満艦飾になっている諸記事のなかで,いささか雰囲気の異なった批評を与えていた。

 なお,この原の意見紹介に当たっては,彼の最新作・近著として『平成の終焉-対位と天皇・皇后-』2019年3月の1冊のみが挙げられていた。原は,天皇・天皇制問題史に関して数多くの著作を公刊している。

 以下が,① として記事から引用する「原 武史の見解」である。
 代替わりにさいし,社会は「奉祝」一色に近いムードになっている。天皇が戦争責任を清算せずに死去したことなど,批判的な意見がテレビでも平然と放送されていた昭和の終わりに比べると,日本人の皇室観は大きく変わった。

 その理由は,平成の天皇と皇后の実績を否定しにくいことにあるだろう。2人は昭和天皇が手をつけなかった慰霊や被災地訪問を通し,償いや弱者に寄り添う姿勢をアピールしてきた。昭和の時代は天皇は高みに立ち,臣民はそれを仰ぎみるだけだったが,平成皇室は自分たちから国民に近づいた。

 平成を通じて大きな災害が続いたことも,皇室の存在感を増大させた。首相が被災者に立ったまま声をかけていた時代から天皇と皇后は国民の前にひざまずき,1人ひとりに違う言葉をかけた。

 戦後の民主主義とともに歩んだ天皇・皇后という印象も国民に共有され,知識人や歴史学者のあいだにも天皇のシンパが増えた。「君主制が民主主義を強化した」という人さえいる。2人の行動にはイデオロギーが希薄で,おおむね称賛をもって迎えられた。ますます分断する社会を統合しようとしてきた感さえある。

 だが一方で,本来政治が果たすべきその役割が,もはや天皇と皇后にしか期待できなくなっているようにもみえる。そうであれば,ある意味では,昭和初期に武装蜂起した青年将校が抱いた理想に近い。民主主義にとってはきわめて危うい状況なのではないか。

 令和時代の皇室で鍵を握るのは雅子皇后だと考える。体調の回復がむずかしい場合は,ストレスや障がいに苦しむ人を励ます存在となる一方,天皇と皇后そろっての行動ができにくくなり,天皇の存在感が増す。平成から大きく様変わりし,明治や昭和の時代のような権威化が進むことになる。

 逆に体調が回復して外交官としての経験を生かせば,たとえば東アジアでの日本のあるべき姿を追求する姿勢を示すこともできる。良妻賢母を体現したスタイルの美智子皇后とはまったく異なる,新しい皇室像を打ち立てる可能性があるだろう。(聞き手 編集委員・宮代栄一)
 ② 天皇代替わり行事などに観る奇観

 つぎにかかげる画像2点は,本日〔5月1日〕『朝日新聞』朝刊の2面と3面にかかげられていた。
『朝日新聞』2019年5月1日朝刊2面「総合」対位儀式

 この写真は,4月30日午後5時から皇居(宮殿「松の間」)でおこなわれた「退位礼正殿の儀」である。この儀式は約10分間の簡素なものだった。

『朝日新聞』2019年5月1日朝刊3面退位礼当日賢所大前の儀2
 この写真は,同日午前中に皇居内の賢所執りおこなわれていた「退位礼当日賢所大前の儀」を終えて退出する天皇明仁である。

 写真のうち上のものに映っている「男性の服装(着衣)は燕尾服」であり,「女性のそれ」についてはこう説明しておく。明治以後において皇室の女性たちなどは,公式の場では洋装(ローブデコルテなど,これはイギリスを手本にした)を着衣し,内々のことは和装(婚儀の十二単など)となったと思われる。皇室の喪服も欧米に倣い,正式に黒と規定された。

 つまり,もっとも日本の伝統を本格的に継承していると思われていいはずの日本の皇室が,とくに服装の面でその歴史を振り返ってみるに,表向きの儀式などでは完全に「西欧化」(の完全なる真似)を志向してきた。

 文明開化の音が鹿鳴館から鳴り響いてきたというわけでもあるまいが,古式ゆかしき日本の伝統「衣服の格式」は,そのあまりにも古すぎるゆえか,東京の皇居(この敷地内の宮殿や社殿などの建物も明治に建造されていた)のなかで,ほぼ「明治謹製」になる皇室神道の諸儀式をおこなうときはさておき,ふだんの表向きの行事では完全に欧米の様式にしたがっていた。

 ということで,本日の論題のなかでは,皇室の宗教行事としては『「四方拝」と「新嘗祭」以外の大部分は明治に創られた』事実(原 武史の指摘)をかかげる文句にしておいた。別の表現をすれば,江戸時代が終わり東京(江戸)に引っ越してきた天皇家は,明治時代に入ってからは「近代へと新しく出発しなおすために必要な脱皮」を試みた。

 近代国家体制を出立させた日本(のちに大日本帝国を自称)が押し出した「追いつけ・追い越せ」路線,いいかえれば「富国強兵・殖産興業」による「近代化への道を進んでいった国家思想」は,,わざわざ神道的に国家を統合するために神格的な天皇を置くことにしていた。その君主天皇を家長にいただく国家体制を作ったうえで,国家があたかも一家単位でありうるかのように,その体制を構成しようとしてきた。そこでは,天皇が神格的な存在に祭り上げられた。

 その結果が明治維新の77年後にどのようになっていたかといえば,敗戦(完敗)。しかし,アメリカは日本をお取り潰しにはせず,つまり天皇家はそのまま残しておいた。そうしたほうが,アメリカにとってみれば日本を占領・支配するために好都合だと判断されたからであった。

 この占領・支配のために採られた基本の方針は,たとえばエドウィン・ライシャワーがすでに1942年の時点で「天皇をパペットの座に据える」戦後体制を建議していた。敗戦直後,その方向性の定座までにはこまかな紆余曲折があったものの,「押しつけ憲法」たる基本性格をもった日本国憲法における「天皇の地位」は「象徴の位置づけ」をもって規定されていた。

 いわば「明治に創られた天皇制」は,敗戦を機にいまいちど「敗戦後にも創られた天皇制」として再生したことになる。しかし,昭和天皇の時代は「敗戦をはさんで,同一人物」が天皇の地位を占めていたため,またアメリカの占領・支配政策の観点もからまって,天皇・天皇制の存廃そのものが本格的に議論されることはなかった。

 というしだいで,明治以降ひとまず近代化に成功した日本であったものの,敗戦という憂き目に遭った経験をうまく生かせない「戦後史」を経てきた。天皇・天皇制を戴く国家体制であるかぎり,本当の民主主義が根づくかどうか大きな疑念がいだかれるのは,当然であった。

 ただし,ヨーロッパなどには王室がまだ多くあるではないかなどというなかれ,いまどきにもなってまだ,「女性天皇」(女王)がいけないなどと真顔で熱心に主張できる,まさしく「本物ではありえない,まがいものの〈国粋・右翼・保守・反動〉」の人びとが,現に大勢いる。これでは,21世紀におけるこの国をまともに『現代化』させることは不可能事である。
 
 ③ 天皇・天皇制問題の吟味


 1)その「正史の舞台」と「裏史の風景」
 明治維新から今日まで日本の天皇・天皇制を,「帝国日本のために意図的に制作された創造物」とみなす観点は,保守であれ革新であれ拒否できない「歴史の事実」に関する基本的な立場でありうる。

 日本社会のそれも19世紀後半に創作された天皇・天皇制が今日まで歩んできた「歴史の実像」,いわば,そこにしこまれた「カラクリ」は以下の4点に分けて考えることができる。

   イ)その理念〔作られた架空の宗教的信条〕
   ロ)意 図 〔隠されたどす黒い欲望〕
   ハ)目 標 〔帝国主義路線の積極的達成〕
   ニ)具 体 像 〔天皇個人と天皇制組織のしくみ〕

 日本帝国において3代目の天皇に即位した裕仁は,「自分を天照大神の子孫:裔」だと本気で正気に思いこめる国家精神の持ち主であった。彼のその思いこみが「架空に近い〈想像の産物〉」ではあっても,それを無視も軽視もせずに,究明の対象にしておく価値がある。

 ところが,現代の政治理念に照らして判定すれば「奇想天外」な,そうした昭和天皇の「天子」意識,しかも時代錯誤であると同時に歴史概念的にも倒錯した彼のその意識を,まっとうに批判する政治学者があまりいない。日本国憲法の核心に位置する人間の問題=天皇制の問題をないがしろにされていい理由はない。

 天皇家にまつわる南北朝問題は,これを専門とする歴史研究家でなければよくなしえない研究領域ではある。ところが,たとえば瀧川政次郎が密教的に韜晦しつつも意図的に漏らしてもいたように,天皇・天皇制の政治的有用性は,空想的次元での「万世一系」など成立しなくてもよい。また,神話的な道具の問題である「三種の神器」が贋物であっても,いっこうに構わない。

 肝心な問題はむしろ,革命的に幕開けされた明治の時代を推進させるために実際に使える,つまり「支配者にとって都合のよい天皇像」が,使い勝手のよい「用具:玉」として準備・調達・活用できれていればよく,それで満足せよということであった。
 
 2)ドナルド・キーン『明治天皇 上・下巻』(新潮社,2001年)や伊藤之雄『明治天皇』(ミネルヴァ書房,2006年)
 この2人に代表される正史的な「明治天皇の研究」は,天皇という人間個人の心理的葛藤や天皇一族〔天皇制〕内部での,おどろおどろしい利害状況などの真相を掬いとることとは,無縁であった。

 古事記・日本書紀を書いたのは,当時の支配者であり権力者である。彼らに都合の悪いことは書かれていないだけでなく,「歴史の架空的=創造的捏造」を必然的な筆法・編集の方法として駆使してもいる。したがって,その統治者の頂点に発する歴史の展開からほとんど漏れてしまい,埋没していくほかなかった底辺の歴史現象は,なにも記録を残せていない。

 ところが,明治以降になるとその様相はだいぶ異なってくる。裏史や野史に関する史料や文書など,関連資料・情報が入手できるようになった。治安警察法(1900年)⇒ 治安維持法(1925年)下の強圧的な支配体制であっても,支配者・権力者に都合のよい正史的な研究ばかりとはかぎらなくなった。

 正統派の学究としての研究作法を遵守し,尊重するであれば結局,明治天皇の研究をしたキーンや伊藤のように,「明治天皇はすばらしく,偉大な人物であった」というような筆致に向かい回遊しがちになる。このことは,学術的な冒険を回避した研究者に必然的な限界である。

 しかし,そうした研究の構図をもってしては,「より真実に迫った全体像」の解明が円滑に進展するとは思えない。明治維新以後における「人間としての明治天皇や昭和天皇」に対する究明は,正史からは多少離れてでも,裏史や野史から冒険の領域まで踏みこんでおこなったほうが,歴史の真相に接近できる可能性はより高まる。

 正史的な研究のきまじめさはかえって,真実への接近を妨げるだけでなく,事実の把捉力を弱めてもいる。そうであればこそむしろ,裏史や野史の接近方法に関しては不可避である「学術性が弛緩する危険性」をいとわず,天皇・天皇制の解明に向かうための「現実的に挑戦する視座」が必要である。

 どういうことか? 正史の立場から裏史や野史を,絶えず,相互連関・前後循環的にとらえなおしていく視座がほしい。それでは, 歴史部門を担当する学問・理論の領域において踏まえるべき要件は,なにか?

  一般論でいえばまず,「学問としての『歴史』が成立するためには,どうしても,既知の事実のなかから,一定の観点からみて重要だと思われる事実だけが選択され,その他の事実は意識的に捨象され,前者の事実が一定の統一的な認識にもたらされなければならない」。
 註記)世良晃志郎『歴史学方法論の諸問題』木鐸社,昭和50年,29頁。

 しかしながら,「コモン・センスとしての〈民衆思想〉と頂点的思想および支配的思想との構造連関は,各時代・社会に即して解明されるべき問題である」ゆえ,さらには「その根本原理に『かつて民衆思想の中になかったなにものも,頂点的思想・支配的思想のなかにない』をおきたい」註記)のであれば,皇室にせよ庶民にせよその日常生活のなかにいくらでも登場する,それも生臭い現実問題をないがしろにはできない。
 註記)日本倫理学会編『思想史の意義と方法』以文社,1982年,〔川本隆史「民衆思想史の可能性-対象・方法・意義をめぐって-」〕177頁。

 前段の文意は分かりにくいので,主旨に即した別の引用もしておく。

 すなわち,「民衆のあいだで語り伝えられた建国神話は,かつては存在したかもしれないが,『古事記』『日本書紀』を主とする古典のなかには,そのままのかたちでこれを求めることはできない」。「文部省の執心する建国神話には……政治的な事情から朝廷の貴族・知識人によって付加・造作された部分が非常に多い」いうことである。
 註記)直木孝次郎『神話と歴史』吉川弘文館,2006年,109頁。

 そうであるならば,「私たちは,完成された体系だけでなしに,形成途上の,いわばまだムード段階にある未発の思想をもみのがさないようにしたい。それから,思想を自己完結的なものとしてではなしに,それが社会において機能した結果に着目して,そこからさかのぼって思想を考えてゆきたい。したがって当然,思想なり意識なりを,生活の土台から切りはなさずに,たえず還元操作をほどこしながら思想をあつかってゆきたい」と考えても,なんら不思議はないはずである。
 註記)伊藤 整・家永三郎・小田切秀雄・ほか8名編『近代日本思想史講座1』筑摩書房,昭和34年,〔竹内功文責「講座をはじめるに当って 講座の意図-研究の出発点-」〕9頁。

 3)いまの天皇家に関する歴史の実体は「明治以後」に創られた
 天皇・天皇制の古代史や日本神道史との関連で解明されるべき「天皇家の虚像史」が,明治以降に『創られた天皇制』を暗箱のように悪用されつつ,明治-大正-昭和-平成と時代が進展するなかでその実像化への換骨奪胎が,特定の意図のもとで謀られてきた。そうであれば,その暗箱に閉じこめられていた,例の「明治天皇すり替え」説は,〈仮説〉としての待遇を受けて議論されてよいはずである。

 明治天皇は「大室寅之祐」だという説は,学究的な見地から判断すれば括弧にくくってとりあつかうべき論説である。ところが,この議論の方途は,明治維新以来における日本の天皇・天皇制を解明するさい,より納得性のある道筋を開拓させうる。昭和天皇はなぜか,虚説でしかない「万世一系」の血統的な連綿性に非常にこだわり,これまた神話でなければ説明できない「天照大神の子孫・裔である自分」に強く執着していた。

 敗戦後になると,生物学者=自然科学者としての映像を日本社会に訴求してきた人物(天皇裕仁)が,それ以前までは,科学的な検証には耐ええない「奇妙奇天烈な自己認定(アイデンティティ)」に条件づけられていた。

 4)万邦無比・八紘一宇という神国思想はいまだに信仰されているのか
 しかも,そうした天子様を戴いた大日本帝国はかつて,世界に冠たる「万邦無比」の立場から「八紘一宇」を周囲に光被させえるし,「一君万民」での「一視同仁」を実行できるとも妄信していた。

 だが,はたして,敗戦を契機にこのように空疎でしかなかった国家精神の夢想性が一掃されたかといえば,結果は未達成,いまだに払拭できていない。GHQは,占領・支配した日本に対する統治政策のためであれば,もともと明治維新にさいして利用された〈封建遺制〉的な制度要因である「天皇・天皇制」を,敗戦後においても伝統として延命させておいた。

 アメリカ国務省およびGHQのマッカーサーからの示教にしたがい,東京裁判では戦争責任をもっぱらA級戦犯の東條英機らに,ゴミ掃除当番よろしく押しつけた天皇裕仁は,紆余曲折もあったものの,敗戦後をうまく生きのびてきた。

 アメリカは,日本資本主義体制に関する「講座派」および「労農派」双方の経済思想を総括的に活かす占領政策を上手に達成した。その結果,敗戦後の日本は,軍事同盟関係に注目して観察すれば,21世紀のいまもなお実質的に,アメリカ合衆国の属国的地位に置かれている。

 沖縄県を代表格にして日本全国に散在する治外法権的なアメリカ軍基地が,いつ撤退するのかまったく展望すらおぼつかない。現状の,そうした日米の軍事同盟関係の構築に関して違法にも最大の貢献をしたのが,ほかならぬ昭和天皇であった。

 彼は,GHQが日本国を占領していた昭和20年代,新憲法の精神を平然と無視し,意識的かつ無意識的に踏みつけながら,アメリカとの秘密交渉を裏舞台で成就させていた。それというのも,彼自身の個人的な利害や政治的な関心を主軸に工作してきたのだから,「人間宣言」をしたのちの,そのみぐるしい自己保身のための行動は,真に迫るものがあった。

 前段に述べた中身は,日本の政治学者が専門的にすでに解明してきた「歴史の事実」でもある。

 5)沖縄県は戦争中も敗戦後も捨て石だった
 ともかくその同じ人物が同時に,敗戦後の「平和の時代」を「生物科学好きの好々爺」であるかのように生きていった。

 大東亜〔太平洋〕戦争末期,沖縄県民は,当時予想された本土決戦の捨て石にされた。戦後において沖縄はさらに,敗戦した大日本帝国の本土4島を「日本国」として生存させるための〈犠牲の島〉にされた。

 戦後日本に登場したある首相は,日本全体を「アメリカのための不沈空母とする」とまでいいきったくらいだから,沖縄の1島くらい,日本全体というか,天皇のために人身御供にすることなど,なんとも思わなかったわけである。

 かつての大日本帝国は,立憲君主の神格的な天皇が「八紘一宇」の立場に立って,「万邦無比」的に「一視同仁」を采配しうる聖国家である,と狂信していた。けれども敗戦を機に,そうした国家理念が臣民支配のために創作された口先三寸のきれいごと,虚言でしかなかったことがあらためて実証された。

 6)明治謹製の天皇・天皇制-「一世一元」の元号制発足-
 明治という元号の時代になったとき,天皇の詔勅で一世一元制を宣言した。敗戦後もだいぶ経過した1979年,旧皇室典範も廃止されている関係もあって,「元号法」という法律で制定したのが「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める」という決まりであった。

 1868年9月8日に元号の「慶応」を「明治」に改元し,一世一元制にしたのは,ときの明治天皇の命令である詔勅によってであった。日本の皇室神道における伝統的な儀礼は3つ,「新嘗祭とその大祭である大嘗祭」「新年にやる祈年祭」「賢所御神楽」しかなかった。「あとはぜんぶ明治になってつくった」し,「それが伝統であるといってやったのは,伝統回帰とか何とかではなくて,見事につくった」のである。
 註記)三上 治・富岡幸一郎・大窪一志『靖国問題の核心』講談社,2006年,88頁。この指摘は,冒頭に触れた原 武史の説明よりもひとつが多いが,その点については,つぎのように関説しておきたい。
 現行御神楽の原形である〈内侍所(ないしどころ)の御神楽〉は,《江家次第》《公事根源》などによれば,一条天皇の時代(986-1011)に始まり,最初は隔年,白河天皇の承保年間(1074-1077)からは毎年おこなわわれるようになったという。
 註記)https://kotobank.jp/word/賢所御神楽-462042
 皇族として天皇家は,皇室神道の儀式内容だけにかぎらず,皇室お手製の「新しい〈伝統〉」も,明治・大正・昭和・平成の時代をとおして,あれこれ創ろうとしてきた。したがって,テレビに組まれた皇室番組などで,いかにも古式の伝統であるかのように放映される皇族たちの宗教的行為や皇室行事は,宮内庁が秘密の帳のなかに秘めておきたがっている,例の「いまだに天皇陵として比定できないものが多い古墳群」ほど,けっして古くはないのである。

 その「天皇陵と治定されるべき古墳群」に関していえば,これが科学的な調査・研究の対象にとりあげれら解明されていけば,現在の天皇家における「伝統なるものの〈歴史的な真価〉」も,あらためて問われることになる。天皇家の歴史と伝統と格式に歴然とした確証があるならば,天皇陵の学術的な発掘作業に関して,宮内庁がわが躊躇する理由はない。ところが,宮内庁はなぜかそれを妨害するかのように対応するばかりであって,極力,古墳にまつわる真実を闇のなかに閉じこめておこうとしている。

 7)文化勲章や文化功労賞を断わった気骨ある知識人
 日本政府は,1994年にノーベル文学賞を授賞された大江健三郎に対して文化勲章と文化功労者称号の授与を,慣例として決定した。文化勲章の受賞打診があった段階で,非常にたくみ婉曲に断わったのが丸山眞男や都留重人である。ところが,それを公然と断わってしまい「あいつは不敬にあたるから殺す」と,真っ昼間に脅迫されたのが大江健三郎である。
 註記)『思想の科学』五十年史の会『『思想の科学』ダイジェスト 1946~1996』思想の科学社,2009年,458頁下段。

 大江は「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と主張,その受賞を拒否したのである。そうしたところ,不敬罪などない時代であるのに,国粋右翼という思想的に無粋な連中が,政府や皇室から頼まれたわけもあるまいに,その代言人を仰せつかったかのように妄動した。この日本国は,いつになっても共和国に変身できるきっかけをつかめないでいる。この国の人びとは,天皇・天皇制抜きでする憲法改正のための論議を恐怖しているのか?

 ④ 皇統の連綿性に伏在していた断絶性

 日本史における「外史的な通説」にしたがっていうと,すなわち,1866〔慶応2〕年12月に孝明天皇が弑逆され,1867〔慶応3〕年7月にはその息子の睦仁も本当は殺されていた。だから,その替わりに明治天皇となった睦仁は「〔南朝の血統を引くが〕別人の大室寅之祐」である。

 この歴史理解は「明治天皇の行動様式」を分析するうえで有用な基盤を提供している。正史的な討究をくわえるばあいでは,完全に無視されるか,すべてが「?」で留保されたまま放置されるかしていた論点が,あたかも謎解きができたかのように筋道がとおっていくのだから,不思議である。

 むろん,学問研究はジグゾー・パズルではなく,学術的な手順に則って真実探求に向かわねばならない。しかし,今昔を問わず支配体制側は,歴史の真実はむろんのこと,日常的な体験すら都合の悪いものは隠そうとする。だから,読書界では「一般向けノンフィクション」本が,その隙間を狙って数多く公刊されてもいる。学術研究書は,専門家のおこなう厳密で正確な討究が期待されているがゆえに,かえって歴史の真相やその日常的な出来事の把握において疎漏も多い。

 しかし,学問の論理が研究を展開する手法として採らねばならない厳密性や正確性を確保しておこうとするあまり,「世間の常識」や「ごく通常の感覚」をみのがしやすい。いわば,論理と体験を突きあわせても,その真価を決められえないような命題は「にせの命題」というほかなく,現実的に意味のないものである。論理が体験を軽視・無視するのであれば,この論理を組みたてて作られた理論は,空中楼閣的な観念のお遊びに堕する。体験とはかけはなれた先験の世界に舞いあがる始末となる。

 いつであったか,大室寅之祐=明治天皇の血縁を引く有名な某政治家〔寅之祐の弟である庄吉の娘を祖母とする人物〕が,こんどは自分の孫を「現在の皇太子徳仁」の「息子,お世継ぎ」としてもぐりこませようとした画策が失敗した,という風評が世間に流れた。この話が単なる噂に止まらないで本当だったとすれば,その間2世紀も飛んだこの平成の時代に「明治天皇→大室寅之祐」劇が再演されたかもしれない。

 大室寅之祐=明治天皇であれば,めぐりめぐって〈血縁,近親のよしみ〉が,そこには表現されてもいる。いずれにせよ,その真相は闇のなかであるが,「歴史は繰りかえされる」とでも形容したらいい現象が起こされようとした。

 前後して皇太子の妻「雅子」の侍医が,この妻の妊娠を確認するために腹部の超音波検査をしたけれども,その兆候がまったくみられないと公表した。ところが,その侍医は間もなく宮内庁病院から辞去した。その時期には,ちょうど「女帝問題」の議論が進捗していた。このIT時代である,インターネット上には,ありとあらゆる,それこそ玉石混淆などという以上の水準で,関連情報が氾濫している。

  ⑤ 歴史科学-その学問の姿勢-

 われわれが採るべき歴史研究の方法は,正統派的な立場の学問を必要かつ十分に前提したうえで,さらに重ねてなおかつ,理論の体系だとか定義された概念だとかにとらわれないで,歴史現象の究明作業にとりくまねばならない。こういうことではないか?
 「思想の歴史哲学的研究は精神史とならざるをえない」というある論者は,「分析と綜合とは,学問研究においていつも不可欠のものであり,また相互に依存し前提しあうものである。だから或る時代の思想を精神として,言い換えるならば,ひとつの統一的なる作用連関(ディルタイ)として把握しようとするときにも,この作用連関はそのもろもろのファクターに,特殊的部分的な作用連関に分析せられることが必要である」と主張する。
 註記)金子武蔵・大塚久雄編『講座近代思想史Ⅰ 近代人の誕生(1)』弘文堂,昭和33年,〔金子武蔵,序「思想史方法論」A「歴史哲学的方法-古代と近代-」〕8頁。
  すなわち,「〈民衆思想史〉が」「もつ意義は」「『とうに知られていること』および『諸々の記憶』をコモン・センスとしての〈民衆思想〉につなげて読むことによっても明らかになってくるものと思われる」。
 註記)日本倫理学会編『思想史の意義と方法』〔川本「民衆思想史の可能性-対象・方法・意義をめぐって-」〕186-187頁。

 伊藤之雄・川田 稔編『二〇世紀日本の天皇と君主制-国際比較の視点から1867から1947年-』(吉川弘文館,2004年),伊藤之雄『明治天皇』(ミネルヴァ書房,2006年),伊藤之雄・李 盛煥編著『伊藤博文と韓国統治』(ミネルヴァ書房,2009年)などの討究は,明治期政治社会史問題の上澄み層しか観察できていない。

 その上澄み=表層を内部から醸成させ,底部において支持する,いわばその暗部が社会底辺に存在している。そこに控えている種々雑多な一般政治の生活的な現象を「構造連関」的に取捨選択しつつも,同時に,本質把握への「還元操作を施しながら」「一定の統一的な認識枠組」を,いかにして再構築させていくのか,という問題意識が希薄である。

 「明治維新史は,利害関係者への気がねなしには書けないという官学アカデミズムの研究者の実感」が,旧帝大系の京都大学出身でこの大学の教員でもある伊藤之雄の執筆物においてもまだ,意識的にも無意識的にも現実的に作用しているのか。

 「明治維新において,人民がめざした課題は,過去の解決ずみの問題ではない。百〔五十〕年前とはことなった形態と内容においてではあるが,第2次大戦後にいよいよ現実的意義を加えている民主主義と民族独立と平和の問題,帝国主義に対決する問題として,私たちの手中にうけつがれている」。
 註記)遠山茂樹『明治維新と現代』岩波書店,1968年,18頁,231頁。〔 〕内補足は引用者。

 ⑥ 明治維新の歴史的な基層がそのまま21世紀に残存する国家

 a) 明治維新は,19世紀後半の世界史のなかで「近代国家成立のひとつの型」を示した。それが東アジアにおいて,侵略性と民衆への専制を烙印づけた「近代天皇制」と呼ばれる日本資本主義成立の起点になったところに,その最大の特質があった 註記)。その「近代天皇制」が21世紀の現段階にまで,「現代天皇制」へと変質しつつ延命してきた。
 註記)田中 彰『長州藩と明治維新』吉川弘文館,1998年,311頁。

 「平成の天皇であった明仁」は,自身が背負っている皇室の未来戦略強く意識し,実際にそのための生き残り戦術を実践してきた。「民主主義と平和」の憲法といわれる「日本国憲法」は,天皇条項を残置したままであった。冒頭赤字の文句で紹介したように,原 武史が指摘した日本の天皇問題において最大の論点がそれであった。

 隣国への侵略,自国民衆への専制を大前提とした過去の「天皇・天皇制」的規範の尻尾をもつ「獅子身中の虫」は,いまもまだ,この国の民主主義的憲法体制のなかに生存している。これはもはや,アメリカ国務省やマッカーサー元帥のせいにできる問題ではなく,日本に生きる人びと全員が共有させられている政治的な課題である。

 21世紀に入って早20年近くにもなる時期であるが,旧日本帝国の立場が日本国に変身させられてからもなお,国政に関与する天皇・天皇制の問題が,現在日本の重大論点として指摘されねばならない。平成天皇は日本国憲法を遵守すると誓っていた。ところが,この天皇が演じる国事行為や公的行為などに明白なように,民主主義の基本理念を舞台に天皇一族が生活していくかぎり,天皇制それじたいに固有である自己矛盾を永久に解消できない。

 元首ではない人物が,いかにも元首であるかのように振るまっていながら,実は元首ではないといいわけされる。皇室は,民主主義の番外地か,それとも別天地に立地している。天皇家の人びとは,通常の市民権,そして参政権をもたない特権階級である。こうした別格の皇室一族がいつから登場したかといえば,それは明治維新を契機にしていた。

 いまとなって,天皇制が存在しなければ,日本というこの国がよく成立しえないとか,民主主義の政治体制はさておき,天皇という象徴がなければ,この国の人びとの生活がよく維持も発展もしえないとか本気で考える人がいたら,これは現実に目をつむった世の中の観察しかしていない。

 b) こういうことである。1945年以後,日本は10年で戦前なみの経済水準に復旧し,さらに20年ほど経つと高度経済成長の時代に突入した。その30~40年後,日本経済が達成した業績・成果は,世界経済においてこの国の工業生産力の存在感をいやというほど高めた。ところが,敗戦後45年ほど経つと日本の経済は,すでに峠にさしかかっていた。バブル経済の破綻は高度経済成長時代への弔鐘であった。

 21世紀の現在に立つ日本は,経済社会の総合的かつ体系的な質性を落とさない方途で,はやりのことばでいえば「持続可能な体制維持」を保ちつつ,いかにして均衡のとれた縮小再生産をもって生活構造を円滑に改変していくのか,という課題に直面している。ところが,あの国難の首相たる評判の高い「世襲3代目のボクちん政治家」がやることとみれば,この日本を「美しい国」へ導くどころか,遊び半分にも似たかっこうでもって「虚偽と汚濁に満ちた」醜怪な容貌へと変質させつつある。

 敗戦後における日本経済の栄枯盛衰の軌跡を観察するさい,もしも天皇・天皇制がそれに関与し影響したとする経緯を,客観的に,それも「栄・盛の局面」のみならず,「枯・衰の局面」にもかかわらしめて分析・評価しえた者がいたら,ぜひとも教えてほしい。この論点を突きつめていけば,天皇・天皇制の存在意義に関する議論もまっとうに展開できるはずである。

 ところが,そのような発想を当てはめて天皇・天皇制の問題を検討することは,これまでこの国のなかでは躊躇されてきた。というよりは,それを検討しようにもどだい不適だとされたのが,その種の課題設定であったからであった。

 1945年以前における天皇・天皇制は,日本帝国のなかで「侵すべからざる絶対的な神聖性」を保持していたがゆえに,臣民たちに〈敗戦〉の悲惨と不幸をもたらす政治制度となった。「天皇陛下の命令」が集約された結果が敗戦であったけれども,当人の天皇裕仁はけっして敗北の境地に徹底していなかった。今日の問題は過去の問題であり,過去の問題が今日までを方向づけていた。

 こうした現状は思えば,日本国の異様な政情である。明治以来,この国家の体制のなかに埋めこまれてきた天皇・天皇制,その「創られた性格,劇場・芝居的性格」は,いまいちど覚醒した学的態度を構えて批判的に歴史分析をくわえられ,事実の解明をおこない,その変革のための方途を探らねばならない。

 住井すゑは,こう喝破していた。
 天皇制というのは古いのかというと,古いんじゃない。明治になってからのものです。それまでの天皇というのは,京都にいたときには惨めな暮らしだったんです。
 註記)住井すゑ『21世紀へ託す-『橋のない川』断想-』解放出版社,1992年,116頁。
 天皇一族がいまさら京都に還る気にはなれないほど,明治以来の彼らの生活はすべからく “無条件に優雅でいられる” 高い水準を保障されてきた。もちろんその途中で,世紀の戦争では大日本帝国が中・米・英などの敵国に敗北するといった大失敗もあった。

 だが,敗戦後の日本を占領した軍隊がアメリカ合衆国(および一部は大英帝国)であったことは,「不幸中の幸い」を意味した。さて,そのころから70年以上も経った現時点で,こんどは「平成→令和」の元号変更に大騒ぎするこの国の「動き」が,はたしてどのように「意味を転換」させられていくか見物である。

 c)  本日(2019年5月1日)朝刊から雑相を抽出すると,『朝日新聞』朝刊「オピニオン」欄の(かたえくぼ)は,こう茶化していた。

    “安倍首相殿,菅官房長官殿
      「丁寧な説明」  冷話にならないように,国民”
         (長野・心配症)

 d)  本日『日本経済新聞』朝刊1面は,こう,新元号「令和」に関する抱負を語っていた。

    “「新しい日本」を創ろう”    編集局長 井口哲也

 e)  日経「社説」の題名は「令和のニッポン(1)社会の多様性によりそう皇室に」。

 f)  同上,12面の広告には矢沢永吉(元・在日韓国人)が登場していて,自分「営業」用の「令和に便乗した」全面広告。
『日本経済新聞』2019年5月1日朝刊12面矢沢永吉広告

 g)  同上,21面のスポーツ欄には,「ゴルフ〔の〕石川 遼『令和で記録を塗り替えたい』 あす国内初戦」。

 h)  同上,30・31面の社会欄には「平成の30年に万感」「令和 温かな時代に」との大見出しが出ている。

 --以上の関連事項は多分,ほとんどおまじないか,神社で売っているおみくじのたぐい。要は実力しだいのことがらであるが……。

 i) 『朝日新聞』朝刊34面の社会欄には,「代替わり儀式『憲法に違反』 キリスト教団体」という見出しの記事が報道されていた。
 プロテスタントやカトリックなど国内のキリスト教の教団や教派団体が〔4月〕30日,東京都新宿区で記者会見し,天皇代替わりの一連の儀式を国事行為・公的行事としておこなうことは「憲法上,国民主権の基本原理や政教分離原則に違反し,国家神道の復活につながる」と主張した。

 各団体は,5月1日にある「剣璽(けんじ)等承継の儀」は神道神話にもとづく神器を受けつぐ儀式と指摘。10月の「即位礼正殿の儀」で新天皇が「高御座(たかみくら)」に立つことは,天孫降臨神話に基づき天皇が生き神の性格を帯びる意味をもつと述べ,両儀式が国事行為としておこなわれることは「政教分離原則に違反する」と主張した。

 11月に新天皇が臨む大嘗祭(だいじょうさい)についても,「皇室の私的宗教行事」だとし,国費の支出に異議を唱えた。
 自家製になる明治以来の皇室神道がそれこそ,「〈雀の子〉(帝国臣民?)そこのけそこのけお馬が通る」存在になっていなかったとはいえず,現実は本当にそのとおりになってきた。天皇家内(自家製)の宗教行事を止めろとまでは要求する必要はないものの,「明治維新に生まれ(明治謹製)」て,「敗戦で廃止にせず」に「21世紀まで引きずってきた」「『創られた天皇制』の本質・含意」は,いったいなんであったのか?

 日本の民主主義の根幹にかかわらざるをえない論点が,皇室をめぐって,不可避の検討課題として残されたままである。この論点は,天皇・天皇制を擁護するとか,それに反対であるとかを問わず,あらためて根本的に再考されるべき「価値がある」。

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