【自分の体験だけを絶対化しない用心】

 ① ピーター・フランクルという人

 もう昔の話である。小学館発行の雑誌『SAPIO』2000年6月14日号が,2000年4月上旬に石原慎太郎都知事が放った「○○人」暴言に関係する記事を掲載していたのを広告でしり,これを購入,読んだ。ところが,そのさい,この雑誌のほかの記事のなかに,まったくデタラメな記述をみつけた。それは,つぎのような事項であった。

 『SAPIO』同号,24頁〔ピーター・フランクル稿〕の記述中で,まったくのデタラメといっていいような文章に接した。率直にいって,いささかならず呆れた。その24頁4段目4行目は,「国公立大学の教員に限らず,国家公務員全般で,日本では外国人を排除している」と書いてあった。

 しかし,これは大間違いであった。当時でも大分以前から,国公立大学では外国人教員を任用するための法律もあり,実際に数多くの外国人教員(いまでは数百人単位〔←これは2000年時点の数字で,ごく最近でいうつ7千人近くになっている〕)が,各大学に採用されていた。それなのに,そのように間違った認識を,平然と語る寄稿者の気持が理解できなかった。ピーター・フランクルは,外国人教員任用法の存在じたいしらなかっただけのことであった。

 現在〔2014年1月〕,国立大学で外国人専任教員(教授・准教授・専任講師)を指導者にして,研究・教育上の指導をうけている日本人学生もたくさんいる。千人・万人単位でいる。それなのに,当時〔2000年6月〕,ばあいによっては物笑いの種になりかねない発言をした当人の指摘が,事実らしく雑誌で語られていた。編集部が裏をとらなかったらしい。それほどの問題でもなかった,という認識だったのか。
 補註)当時,ピーター・フランクルの連絡先が判明していたので,ここに書いたようなことがらを手紙を投函して教えてあげたが,梨のつぶてで,返事なし。

徐龍達表紙 徐 龍達(元桃山学院大学教授)・ほか2名編著『多文化共生社会への展望』(日本評論社,2000年5月)は,文部省調べの資料によれば,1998年7月1日現在,国立大学だけで外国〔籍〕人教員が,662名在籍することを教えていた。その後,徐 龍達は,2001年度になって国公立大学に在籍,勤務する外国人教員は2千名近くになっていると指摘していた(『統一日報』2001年11月20日による)。

 さらに,徐 龍達の単著『多文化共生志向の在日韓朝鮮人 増補』(韓国語,図書出版 ,2012年11月,287頁。右側画像)は,2011年にはその数が6807名に増加し,13年間で10倍に増えている事実を,具体的な統計も付して記している。外国籍人を大学が採用できるとした法律,「国公立大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法」は1982年8月20日に成立・施行されてから,もう22年になる。

 ② ピーター・フランクルの事実誤認(2000年6月時点)

 ピーター・フランクルの記事「日本の大学に横行する『階級主義』を外国人というカンフル剤で破壊せよ」(前掲『SAPIO』2000年6月14日号,24~26頁)は,この日本の大学が「外国人を排除している」というまちがった認識を,ひとつの根拠にもあげるかたちで,「階級主義,官僚体質が横行し,客観的な評価機関をもたない閉鎖的なブラックボックス」が日本の大学である,と断じていた。

 こういう雑誌の記事を読んで,日本の大学に外国人教員を任用するための法律をつくるのに努力してきた,「在日外国人などの構成する教員組織」の存在をしっていた筆者にいわせるならば,この国際的に活躍している数学者だというフランクル,思わぬところで勇み足の発言をしていたようである。研究者・学究の立場にある人が,事実にもとづかない,あるいは事実そのものをしらないで,うかつな断定的発言をすべきではなかった。

 過日(これも2000年ころの実話),小学館の関係会社の者だといって職場(当時の筆者)の研究室にずかずかはいりこみ,一方的にセールス・トークをはじめた御仁がいた。この人にはただちに退散願ったが〔そのときその人は舌打ちをしていたから,余計失礼に感じた……〕。

 それはともかく,『SAPIO』2000年6月14日号に掲載された,ピーター・フランクル稿「日本の大学に横行する『階級主義』を外国人というカンフル剤で破壊せよ」のなかにみられた「以上に説明したような誤謬」は,フランクル自身の主張が事実認識からして無知であった《事実》じたいに,出版元の編集担当が気づかなかったらしい。大手の出版社にしては,ずいぶんうかつな始末であった。

 ③ ピーター・フランクルが日本を好きになれた事情

 数学者ピーター・フランクル氏は,その後〔2002年1月12日まで毎週1回〕『日本経済新聞』のコラム:「青春の道標」に,計13回寄稿していた。フランクルは,その13回め最終の寄稿文を「皆でチームワーク,日本人と働く喜び」と題名し,つぎのような記述をおこなった(『日本経済新聞』2002年1月12日,同欄参照)。

 ハンガリーに生まれ育ったユダヤ人であるフランクル氏は,祖国を捨てて日本に骨を埋める気持となった理由を説明する。それは,いまなお現実である「故郷のユダヤ人差別」であったと。フランクル氏にとって「日本の最大の魅力は,日本人との仕事であり」,それによって「日本では数学以外にもいろいろ楽しい仕事ができた」。
 フランクル氏が「数学以外の仕事」のうち,事実をきちんと確認もせず完全な誤認にもとづいて,日本の大学における外国人教員任用の実態,いいかえれば,すでにその大部分がなくなっている「外国人差別」を〈批難:糾弾〉する一文を寄せたのが,までに指摘した『SAPIO』2000年6月14日号であった。

 日本という国はだいたいにおいて,ユダヤ人だろうと誰だろうと,欧米系白人種に属する人びとであれば「優遇され,モテる」国であり,彼らにとってはとても「生きやすい,楽しい国」である。ハンガリーは〔この国だけではないが〕,白人種たちを中心に成立する国ではあっても,同じ白人種の「ユダヤ人」を平然と差別してきた国である。それに比して日本は,フランクルに仕事をたくさん与え,タレント的にも大活躍させてくれるよいところである。だから,フランクルは「骨を埋めたくなる」ほど,この国が大好きになったといっている。

 一言でいえば,ピーター・フランクルは日本において,「ユダヤ人」である点とはなにも関係なく,白人系の人間として特別に待遇されている。もちろん,そうなるまでには,彼の学力や才能,資質,人間性,人格なども大いに貢献してきたことは,誰も否定しない。

 もっとも,日本国内において,ユダヤ人・民族に対する差別,偏見などに「相当する諸問題」がなにもないのかといえば,けっしてそうではない。むしろ,この国でも,目白押し,盛り沢山である。「在日特権を許さない」とかなんとか喚いては,デモのとき「よい○○人も,悪い○○人も殺せ」など叫んでいる某組織は,その代表例である。

 ただし,こちら「日本の諸問題」は,「ピーター・フランクルという人間存在」に限っていえば,まったく無縁たりうるものである。それゆえ,フランクルの目には,「日本社会に固有の差別・偏見問題」が,よく映っていなかったようである。なかんずく,大道芸人としてのパフォーマンスもできる,まことに多才なフランクル氏に対しては,つぎのように申しあげておきたい。
ピーター・フランクル画像1
出所)http://geocities.yahoo.co.jp/gl/peterfrankl2007/view/20070507/1178516454  2007年5月7日(月)。
大道芸を披露するピーター・フランクル。

 つまり,「欧米社会におけるユダヤ人・民族の差別・偏見」に該当するところの「日本国内におけるそうした諸問題」を,これからでもいい,すこしは勉強してほしい,と。

 1) ハンガリーには,ユダヤ人・民族への差別・偏見がある。だが,日本にも,他民族や同じ人間〔→日本(国籍)人〕に対する差別・偏見が〔も〕現実の問題としてあり,しかもそれは,実に多種多様である。

 2) 日本に暮らすようになったフランクル,自分だけはもう,〔ユダヤ人・民族への〕差別や偏見から「自由の身」になれた。

 3) そして,フランクルはこの国で仕事に恵まれ,たいへん幸せに生きていける。だから,「それでよし」とするらしい。

 4) ともかく,日本の大学においてもはや,ほとんど実在しなくなったはずの「外国人〔教員〕任用の差別問題」を誤解,仮想したうえで,これを批判する《数学者》がいた。それがピーター・フランクル。この事態を,多才・多芸なる数学研究者の〈専門外的な勇み足〉だとみなして,簡単に許容するわけにもいかない。 

 5) あえていえば,日本社会をみるフランクルの目には霞がかかっており,自覚症状のない意識の混濁がある。

 6) フランクルの日本社会意識に関する認識おいて,決定的に欠けるものがある。〔かつての〕被差別者としての連帯感,その的確な共有感である。日本社会のなかでも,エリート上層寄りに生きていけるようになった「彼の全・生きざま」を観察するとき,なにか物足りなさを感じる。

 要するに,自分だけよければ,他者などどうでもいい。そういう「自己中心主義-孤高-独善の情感」〔この地球上にはまだ被差別に呻吟する人々が大勢いるではないか!〕が,フランクルの脳髄のなかに占拠,蟠踞しだしたのではないか,と懸念する。

 その後,ピーター・フランクルの「日本式氏名」をしった(2004年7月5日,新聞の宣伝欄より)。→ 富蘭平太(「フラン・ヘイタ」と読むのか? ウィキペディアをみると,その読み方で正解。あとで少し異なる表記も あるが)。

  ④ 縫田清二『ユートピアの思想』(世界書院,2000年)から

 1) ユダヤ人ほど,長く,大量に,そして徹底的に苦しめられてきた民族はほかにない。彼らほど言語に絶する差別・迫害のなかで,敢然と戦い,執拗に生きつづけてきた民族もほかにない。

 2) あれだけの迫害にもかかわらず,ユダヤ人として今日あらしめている原動力は,彼らの徹底的にラディカルな生の姿勢そのものにある。

 3) 事実,このラディカルな態度を抜きにしてユダヤ人の解放はありえない。それは,世界史のなかで彼らがなんら差別されるべき理由のないことを実証するばかりでなく,この実証からえた確信を彼らの1人1人が胸の奥にしっかりと堅持するうえに重大な作用をなしている(同書,395頁)。

 --「彼ら〔=ユダヤ人〕の徹底的にラディカルな生の姿勢そのもの」を継承し,「世界史のなかで彼らがなんら差別されるべき理由のないことを実証する」ことを,「日本に安住の地をえられたフランクル氏」の「胸の奥にしっかりと堅持する」ことは,もはや不可能になっていたのか?

 ★ そういえば,私的なことがらだが,筆者のある姪の配偶者がアメリカ国籍のユダヤ人〔白人〕だったことを,このページをここまで書いてきて思いだした。ここに付記しておく。

 ⑤ ピーター・フランクル『世界青春放浪記
      -僕が11カ国語を話す理由(わけ)-』2002年4月


『朝日新聞』2014年1月25日朝刊+1 先日〔2002年のころの話〕購入した図書の1冊に,ピーター・フランクル『世界青春放浪記』(集英社,2002年4月)がある。富蘭平太(フラン・ペータ)なる漢字の日本式姓名を披露したこの著作は,興味ある事実をいくつか告白している。
 出所)右側画像記事は,『朝日新聞』2014年1月25日朝刊+1 より。 

 1) 本書は,フランクル〔および一族〕がユダヤ人・民族であるがゆえに,過酷で悲惨な差別・偏見をうけてきた歴史的事実を教えている。「ユダヤ人」ということばじたいが差別用語である(19頁)という指摘は,日本社会における「部落」「アイヌ」「朝鮮人」「第3国人」ということばにも妥当するものである。

 2) 現在のフランクルは,フランス国籍の持ち主である(10頁)。

 3)  「日本人のように完璧主義者」(48頁)というお褒めのことばは,日本人へのゴマスリに感じられる修辞である。もちろん,そういわれたほうでは気分を悪くする人などいないが……。

 4) フランクルの父の教訓,「われわれユダヤ人の財産は心と頭にある」(55頁)。「弱い者は宗教に頼る。強い者は自分に頼る」(63頁)。けだし,名言である。ただし,歴史的に連綿とつづいてきた不幸な境遇のなかで生まれた教訓であるから,すこし複雑な気持で聞くべきものである。

 5) フランクルにも,ユダヤ民族としてうけたPTSD( Post-traumatic Stress Disorder:「外傷後ストレス障害」)が残されている。7歳のとき「あんたはバカなユダヤっ子よ」といわれ,その後「ドイツ兵がきて,ぼくを連れ出して射殺する夢」をときどきみるようになった,という(79頁)。

 フランクルは,日本にきてからはきっと「いい夢」をみつづけられてきたので,この地に骨を埋める気持になったものと思う。だが,日本というこの国においては,同じ日本人・日本民族でありながらいまもなお,「あんたはバカな ○ ○ ッ子」と差別のことばを投げかられている〈子供たちが各人各様にいること〉をしっての発言か,と尋ねたい。在日外国人の子供たちに至っては,それ以上に「なにをかいわんや」である。

 6) 「アメリカに住めばユダヤ人であることに恥じる必要がない。それどころか自分がユダヤ人であると主張してもいいのだということをはじめてしった」(80頁)と述べるくだりもある。

 だが,そのアメリカという合衆国がいまだ,多種多様の人種差別を克服しなければならない課題としてかかえている。このことを理解したうえでの話なのだろうか。アメリカにおけるユダヤ人は基本的に,白人の1範疇に分類される。

 ちなみに,さきほど,筆者の姪のユダヤ人配偶者(前出)も,みまがうことなく欧米系白人にみえる。

 途中になるが,ここで今日の『日本経済新聞』2014年1月31日夕刊「生活・ひと」に,先日死去したネルソン・マンデラ大統領に関する記事が出ていたので,これを紹介しておき,《比較の材料》にしてみたい。

 ☆ ネルソン・マンデラさん(黒人初の南アフリカ大統領) 差別との闘い 融和貫く ☆

 南アフリカ共和国のヨハネスブルクで昨 〔2013〕年12月10日に営まれた追悼式は,各国の首脳級約140人が集う国際社会の一大イベントと化した。オバマ米大統領は「もっとも大きな影響力と勇気をもつ人物を失った」と惜しみ,歴史的つながりの深い英国では追悼式の一部をロンドンに誘致するアイデアまでとりざたされた。

ネルソン・マンデラ22 人間がもつべき強さと優しさを兼ね備え,逆境でも誇りを失わない。だからこそ世界中の人びとから敬われ,愛された。「人類に対する犯罪」と呼ばれた南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策と闘い,1994年に同国初の黒人大統領になったマンデラ氏は国際社会の英雄だった。

 少数派の白人が黒人を徹底的に差別する,アパルトヘイトの打破に半生をささげた。「すべての人びとが公平な機会をもち,協調して暮らせる民主的で自由な社会が私の理想だ。この理想を実現するために生きてきたが,必要とあらば命を投げ出す覚悟はできている」。1964年,国家反逆罪で終身刑を宣告された裁判の公判で,そういい放った。

 獄中生活は27年間に及んだが,不屈の闘志は揺らがなかった。ケープタウン沖の収監先,ロベン島から妻に宛てた手紙には「困難にくじける人もいれば,困難で成長する人もいる。挑戦を続け,最後の瞬間まで希望という武器を振りかざす『罪人』の魂は,どんなに鋭いおのでも切り裂くことはできない」と記した。

 闘争と忍耐の姿にも増してきわ立つのが,人類史上まれにみる無血の権力移行を成し遂げた融和の精神だろう。1980年代後半,冷戦後の国際情勢の変化と経済制裁で,白人政権は追いこまれつつあった。黒人社会の過激派には白人打倒論も渦巻いたが,「傷を癒やすときが来た。我々を隔てる溝を埋めるときが来た」(1994年の大統領就任演説)と人種間の融和を繰り返し訴えた。

 マンデラ氏の釈放を決めて,1993年に同氏とともにノーベル平和賞を受賞した白人のデクラーク元大統領は「権力移行に向けた交渉の難局で,政敵でも彼とはつねに協力でき た」と,のちに述懐した。白人政権からも信頼され,黒人社会をまとめ上げるカリスマがいたからこそ,差別の歴史に終止符を打つことができた。

  自伝「自由への長い道のり」には,こう書いている。「肌の色や出自,信仰の違いなどを理由にして,他人を憎むよう生まれつく人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。ならば,愛することだって学べる。愛は憎しみよりも自然に人間の心に届くはずだ」。治安や格差が改善せず,経常赤字体質や通貨安に苦しむいまの南アフリカを,マンデラ氏ならどう導くだろうか。

 =2013年12月5日没,95歳。 
 7) フランクルは,ある「筆記試験のときは服のなかに解答をしるした紙きれをかくしておいた」ことがある(125頁)。この天才的人物でも,不得意科目というか勉強しなかった授業では,カンニングしておりましたというわけである。正直でよろしい。

 8) 「フランスの大学教員の制度は日本によく似ている。研究成果は給料とはまったく関係ない。いったん大学に就職すると国家公務員になるので,たとえ一つも論文を書かなくても食いっぱぐれることはない。それに論文や本を書くよりも,偉い教授と親しくなったり教員組合で活躍するほうが出世の役に立つのだ」(167頁)。

 あるホームページをのぞいたら,ピーター・フランクルは,現職はパリ大学教授・ベル研究所コンサルタント・慶応大学講師など,と記されていた。
 註記)http://www.ffortune.net/social/people/seiyo-today/frankl-peter.htm このアドレスは現在も閲覧できるページ。
 
 9) フランスにおけるユダヤ人差別の歴史については,ドレフィス大尉事件が有名であるが,いまでは,フランス国籍のハンガリー人であるフンラクル教授にとっては,居心地のよい国であるように映る。また日本は,それ以上にすばらしい待遇をくれる国なのだろうか。永住している。

 フランクルはいちおう白人にみえるが,スウェーデンにいったとき,この「女性が美しく,性の解放のすすんだ国」だと思っていたが,「しかし実際のスウェーデンにはがっかりさせられた。ぼくはこの国であらわな人種差別をうけたのだ」(266頁)と述べ,深い屈辱を感じたようすである。

 なぜ,そういう差別を北欧の国で受けたかというと,彼が「黒い髪の毛・黒い瞳」だったからである。しかし,この人が日本にくると,同じ生物学的な特性を有していても,その彼が〈白人としての優遇〉をうけることができる。

インド人男性モデル そのフランクルも,かつてインドを訪問した当初は,インド人に対して「自分が人種に対して偏見をもっているとは思ってもいなかった」(274頁)と告白している。
 
 しかし,結局彼は,人間全般に関してまっとうな認識を獲得できている。こういう。「人間を人種によって差別するのはまちがっている。人と人を区別するのは国や民族や人種でなく,生きかたや考えかただ」(289頁)と。筆者もこの規定には同感である。
 出所)右側画像はインド人男性(かなりのイケメンの「見本」),http://netasite.net/archives/22114910.html

 10) しかしまた,みずから理系的な人間だと称する:フランクルにおいては,全然みえていない日本社会の真実がある。筆者が読んだ「彼の著書」をとおして判断するかぎり,たとえば〈日本の天皇制と部落差別〉〔およびそのほかの差別〕問題の所在に気づいている様子はない(2014年の現在では,もういい加減気づいたころと思いたいが……)。

 フランクルは,第2次世界大戦時,スイスとならんで中立国の立場を守ったデンマークがドイツに侵略され,ナチスがデンマーク国内のユダヤ人にも,目印の黄色い星をつけさせようとしたときの話をする(269-270頁)。

 すなわち,それを聞いたデンマークの国王は,みずから黄色い星を服につけて国民のまえに現われ,やがてデンマーク国民全員が黄色い星をつけるようになった。デンマークに住む人間はみんな平等だと,国王はいいたかったのだろう,と。

 ここでは,問題点がふたつある。そのひとつは,日本社会における天皇制のありかたをヨーロッパの王室のそれと比較考察する余地があることであり,もうひとつは,この国:日本では,「黄色い星」を自身の服につけるような行動規範に似たしぐさを,国民〔臣民?〕しめしえた「皇室関係者」が皆無だったことである。

 11)  要は,いまでは日本において多分,自由で優雅な生活を存分に堪能・享受しえているフランス国籍でユダヤ系ハンガリー人:ピーターフランクルは,いまだ日本社会の表層しか観察できていない。

 そもそもこの欄は,フランクル氏における,日本の大学における外国〔籍〕人教員採用問題に関する「事実無根というか勉強不足の記述〔のまちがい〕」を指摘するところからはじまったが,日本という国総体に対する認識における彼のそうした限界は,今回読ませてもらった著書『世界青春放浪記』によっても,再確認できた。

 最後に,ハンガリー〔国籍〕人としての兵役を回避するために,絶えず懸命に画策してきたフランクル氏の姿〔→ようやく25歳になってから半年ほど入営しただけで済んだというのだが(238頁参照)〕は,見苦しく感じたことをいっておきたい。もっとも,筆者は,兵役がいいものだと考える者ではないので,念のため断わっておく。

 ⑥ む  す  び

 1) 最新の記事
 以上は,2002年の6月から8月に記述した古物再生品であるが,最近,『朝日新聞』2014年1月25日朝刊「+1」の,「〈食の履歴書〉ピーター・フランクル 丸ごと1羽 母の鶏スープ,家族で囲んだ手料理,幸せの原点」という記事を観たので,までに記述した材料をみつけだして,ここに再利用してみたしだいである。

 いまの日本社会では,街中ではむろんのことテレビを視聴する範囲内でも,肌の色を問わず外国人がたくさん登場する時代になっている。まさか,最近日本に来た外国人たち,それも白人系の人びとが単純に,フランクルのような知識水準に留まっているとは思いたくないが,用心のためこのような一文をあえて再公表してみた。

 2) 「ピーターフランクルが箕面に! 」(2009年1月30日 報)
  “人権”  という問題について,生徒1人ひとりが自分のこととしてとらえ,考えてもらうために,本校では毎年,人権同和研修を開催しています。今年は12月2日,本校講堂において,ピーター・フランクル氏をお招きして開催いたしました。

  ピーター・フランクル画像2 ハンガリー出身の数学者であるピーター・フランクル氏は,国際数学オリンピックで金メダルを獲得し,早稲田大学や東京大学,フランス国立科学研究センターなどで教鞭をとっておられます。また,大道芸人としても人気を博しており,TV番組をはじめ様々な場面で活躍されています。今回の研修は「21世紀は人権の世紀になるか」という講演テーマのもと,本校中学生,高校生を対象におこなわれました。

 講演がはじまると,フランクル氏は,ピエロを連想させる色鮮やかな出で立ちであらわれ,得意のジャグリングが披露されると,会場内は一斉に歓喜と驚嘆の声に包まれました。その後,フランクル氏の講演は,時には壇上から降りて生徒に質問をするなど,親しみを込め,語りかけるような口調で進んでいきました。
 註記)http://www.chikushi.ac.jp/gakuen67/high-junior/ 画像も『筑紫女学園報』2009年1月40日,第67号。
 
 以上,ピーター・フランクルという人物をなるべく多角的に考えてみるための記述をおこなってみたつもりである。ネルソン・マンデラに比較したら気の毒かもしれないが,1人ひとりの絶対的価値を尊重して,それぞれをとりあげたということにすれば,それもよしである。

 ⑦ 追 記:「強制収容所で死んだ祖父の遺品 ピーター・フランクル(1)」(『日本経済新聞』2012年3月19日夕刊〈こころの玉手箱〉から)

 ピーター・フランクル『世界青春放浪記-僕が11カ国語を話す理由(わけ)-』(集英社,2002年)をとりだしてみたところ,この標題の日本経済新聞のスクラップがはさんであった。題名は「ユダヤ人差別,無念さ尽きず」である。既述部分と重複する箇所もあるが,以下に「全文」を引用する。

 高校生の時,父が古ぼけた小さな紙片をみせてくれた。僕の祖父アーロン・フランクルの名前が書いてある。彼が極貧の医学生だった若いころ,慈善団体の貧民食堂でご飯を食べられるように発行してもらった許可証だ。その後,祖父は開業医になって活躍した。だが第2次世界大戦中,ナチスの強制収容所で殺された。

 故郷ハンガリーで,僕らユダヤ人はずっと差別されてきた。大戦中は父も母もナチスの強制収容所に入れられ,銃殺寸前の恐怖を味わった。戦後,結婚し,僕が生まれたとき,父は僕に祖父と同じ名前をつけたがったが,母は猛反対した。名前だけでユダヤ人とわからないように平凡な「ピーター」にしたそうだ。

 両親は医師で,僕は “箱入り息子” だった。幼いころ,祖父らの悲劇はしらされていなかった。だが7歳の時,しりあいに「ばかなユダヤっ子」と罵られた。母に話したら「差別はなくならないのね」と泣かれてびっくりした。「私たちはユダヤ人だから,あなたにはおじいちゃんもおばあちゃんもいない。殺されたのよ」。そう説明され,しばらくはショックで銃殺される夢ばかりみたものだ。

 あるとき,親戚の女性と市場に買い物に行ったら,いかにもユダヤ人らしい顔つきの彼女に,店の人が「ユダヤ人?」と聞いた。彼女は否定した。あとで「この国ではユダヤ人だという勇気がない。もしニューヨークにいたら堂々といい返せるのに」とつぶやいた。僕が亡命を望むようになった出発点はこの体験にある。

 大学で数学を専攻し,フランスに留学してからは当時の西側諸国の人がまぶしくみえた。政府の許可がなくても国を行き来できる自由が僕もほしかった。だが西側へ亡命すると両親が失職する恐れもある。2人が退職したのちに実行した。

 日本に定住を決めたのは1988年だった。特定の宗教などが絶対視され,信じない人が差別されるような理不尽は日本ではない。仏教も神道もキリスト教も受け入れてしまうこの国の寛容さに救われる思いがした。父も母も,亡くなるまでに何度か来日し,日本を好きになってくれた。

 父はよく「もし神がいたら,あんな残酷なことを許していない」と言い,無神論者で通した。この紙片を手にすると祖父の無念,父の悲しみが伝わってきて,今も胸を締めつけられる。

 --すでに長文〔いつものように〕になっているゆえ,一言だけいわせてもらう。赤字にした段落は正しくなく,日本の宗教に関するごく常識的な理解である。フランクルの神道理解は表相でしかない。筆者がこう断定する理由は,本ブログ全体のなかで〔とくに「天皇論」〕あれこれ関説している。