カテゴリ: 天皇(皇室)論


 【天皇は農事に直接たずさわらない,けれども,いかにも「農業も象徴している」と表現したがり,演技しはじめたのは,昭和2〔1927〕年に天皇裕仁自身が創案し,実行した『創られた天皇制』の一幕としての「田植え作業」からであった】



 ① 「天皇陛下が田植え,即位後初」(『朝日新聞』2019年5月21日朝刊30面「社会」)

 天皇陛下は〔5月〕20日,皇居内の生物学研究所わきの水田で田植えをした。皇居での稲作は昭和天皇の時代から受けつがれてきた。陛下にとって即位後初の取り組みとなった。
『朝日新聞』2019年5月21日朝刊30面天皇徳仁田植え

 陛下は長袖のシャツに灰色のズボン姿。うるち米のニホンマサリと,もち米のマンゲツモチの苗計100株を植えた。これらの苗は,上皇さまが代替わり前の4月にまいた種もみを栽培したもので,長さ約20センチに育っていた。(引用終わり)

 皇居内に田んぼをしつらえ,昭和の天皇「裕仁」がみずから田植えをはじめたのは昭和2:1927年のことであった。それまでにおいて,神話の世界における天皇たちをはじめ,歴代の天皇が自分の身体を動かして田植えをしたという実例は,寡聞にして聞いたことがない。ましてや,天皇は貴なる人であるとされる立場上,その人がみずから田植えをして土・水で身体が汚れる作業をすることなどありえなかった。

 大正天皇が死んだのは1926:大正15年12月25日であって,1週間後には翌年の1927年に替わっていた。新しく天皇になった裕仁が考えたことは,自身がいかに日本の天皇であるかを意義づける方法(手段)であり,そのひとつが「稲作に従事する自分の姿」を「国民(戦前は臣民)」(当時において農業人口はほぼ50%前後)の立場との対比を念頭にも置きつつ「概念創りをする」ことであった。

 敗戦前においてその昭和天皇の田植え姿が国民に対して映像(画像)として公開されるよりも,軍人大元帥としての神格像が前面に出ていた。しかし,敗戦後になると「平和な時代」における新憲法内の象徴天皇として,いろいろと研究好きであり,さらに田植えもする “よき裕仁天皇像”の形成が意図された。

 昭和天皇から平成天皇,そして令和天皇にかけて3代に継承されてきた『昭和謹製』に発した「古(いにしえ)の田植え儀式」に関しては,前者2人の姿も紹介しておく。なかんずく,この3人が田植えする姿からは,なにがうかがえるか? 要は “キレイごとの田植え” になっていたと受けとるしかない。あくまで象徴的にその作業を,それもそれこそ「ほんの少しだけ,チョコッとだけ」おこなっているに過ぎない。
 天皇たちがいままで,皇居でわずかばかりの稲を初夏に植え,秋に刈りいれる姿をみせられた庶民の側は「なにか大きな勘違い」をさせられているのではないか? 天皇は古代において『その立場』から,たしかに「五穀豊穣を祈ってきた」かもしれない。だが,自分自身は田に足を入れることはなかった。
   昭和天皇田植え
   201105241829時事ドットコム
  註記)昭和天皇と平成天皇(2011年5月)の田植え姿。

 足下に注目。ゴム長靴を履いているけれども,これで田んぼのなかに本格的に入るつもりはない格好にみえる。いうなれば「田植えとしての農事に対する象徴的(?)な行為」でしかない。

 ほかにも同類・同質の写真はいくらでも,インターネット上にはみつかる。また2人ともワイシャツを着ている。袖口に注意したい。まくってはいない。台所の洗いもの仕事で,袖をまくらないことはない。ましてや田んぼで泥に手をつっこむ作業である。

 そこで,とても対照的な風景なのであるが,つぎの画像が本当の田植えの様子である。半世紀以上も以前,たとえば敗戦直後であれば,耕運機(田植機)はない時代であったから,こういったかっこうで田植えの作業をおこなっていた。
 本当の田植え体験
    昔の田植え風景を再現2010年
  出所)上の画像は,http://uaion.blog.fc2.com/
  出所)下の画像は,mhttp://blogs.yahoo.co.jp/iizuna_nousei/50454041.html 
この画像には「昔の田植えの様子を再現(協力:だんどりの会)」との説明が添えられていた。 

 ということで,昭和天皇が自分で「始〔初〕めて」「創った」のが,この皇室の伝統としての「田植え」行事であった。すなわち,昭和2〔1927〕年以来のものでしかない彼らの仕事(ほんのちょっぴりだけの農事)が,この「天皇自身がする田植えと刈りいれ」(など)であって,それも東京市内の皇居において『創られた光景』なのである。

 このように近現代天皇史においては,意図して創られてきた「本当の史実」が数多く提供されていた。つまり『明治謹製』がほとんどであったが,『大正謹製』や『昭和謹製』,さらには『令和謹製』のそれもさらに積み重ねられていくのである。
 最近,NHKのテレビ番組で『チコちゃんに叱られる』(NHK総合テレビ,毎週金曜午後7時57分開始)のチコちゃんにいわせれば,こうした写真に写っている皇室風の田植え姿は,きっと怒られるはずである。「それで田植えするかっこうかよ!」って。
  NHKチコちゃん画像
   出所)http://tmbi-joho.com/2018/04/13/chikochan-reg01/
 これら3代の天皇の田植え風景に共通する姿はなにか? よくみるまでもなくすぐに気づく。

  ※-1 田んぼのなかにまで入って,本格的に田植えをするわけではなく,あくまで真似ゴトである。

  ※-2 ゴム長靴を履いている(徳仁は地下足袋風:仕立てのゴム長靴であった)が,田んぼのなかまで入らない。

 ②「即位後初,天皇陛下が田植え=上皇さまから引き継ぐ-皇居」(『nippon.com』2019.05.20,https://www.nippon.com/ja/news/yjj2019052000817/

 天皇陛下は〔5月〕20日午後,皇居内の生物学研究所脇にある水田で,即位後初となる田植えをされた。昭和天皇が始めた皇居での稲作は,上皇さまを経て陛下へと引きつがれた。陛下は水色の長袖シャツにグレーのズボン姿。黒い長靴で水田に入ると,苗が風で倒れないよう念入りに植えていった。
令和天皇田植え2019年5月20日『毎日新聞』画像
 補注)いうまでもないことがらであるが,このかっこうが田植えするのにふさわしいかどうかは説明不要である。手前以外(目の前の部分)の田んぼから,さらに進んでなかにまでいって,田植えをしていたかどうかは分からない。

 毎年公表されるこの種の写真は,いつも同じ構図であった。したがって,これ以上に田植えの作業はしていないと断定されてよい。結局,いかにも象徴的な行為としての『歴代天皇による田植え』の風景である。
 陛下が今回植えたもち米のマンゲツモチとうるち米のニホンマサリの苗は,上皇さまが退位前の4月にまいた種もみを栽培したもの。陛下は今後上皇さまと同様に,種もみまきから田植え,刈り取りまでの作業を毎年続けていくという。(引用終わり)
 
 ともかく,1927〔昭和2〕年に「昭和天皇が始めた皇居での稲作は,上皇さまを経て陛下へと引きつがれた」のだから,これは『昭和謹製』になる天皇家の農事に関した行事であった。歴代の皇后たちが明治天皇の時代から養蚕をはじめたという,また別口での『明治謹製』の物語もあったが,米作に関する田植え行事は,それよりもずっとあとに創られた『昭和謹製』であった。

 かくして「伝統と格式」を誇る皇室・天皇家の『古(いにしえ)的な歴史』は,徐々に創られてきたことである。ただし,つぎの ③ に紹介する内容は,古代史からの連続性を認めてもよい行事であった。そちらでは,農民(農業従事者)に作らせた,それもよいお米を献上させる関係(もちろん上下関係のそれである)になってもいた。

 宮内庁御用達ということばもあった。この宮内庁御用達という言葉は「上質で高級な品物が揃っている」というイメージがある。実際にもそのとおりあり,日本全国のモノづくりの最高レベルのものばかりが揃えられているという。そして,天皇みずから田植えをすれば,この「米というもの」に添えられるイメージそのものについても,なんらか特定の高い価値が表象されるかもしれない。

 ③「『選ばれ光栄』『名誉なこと』大嘗祭の米 栃木,京都両知事が歓迎」(『毎日新聞』2019年5月13日 19時11分,最終更新 5月13日 20時01分,https://mainichi.jp/articles/20190513/k00/00m/040/161000c

   皇位継承に伴って11月にある皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」で,供える米の収穫地域を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が〔5月〕13日,皇居であり,東日本と西日本から栃木県,京都府がそれぞれ選ばれた。明治以降,この2府県が選ばれたのは初めて。
 補注)この「初めて」という点であるが,後段に出ているように「大嘗祭の米を栽培した地域」を国体(国民体育大会)の開催地選定ではないが,順繰りに配慮して選択していると受けとめることもできなくはない。国体ほど開催する回数は少ない大嘗祭に関係する事項であるが,そう説明しても大きな間違いはない。もっとも次段でも説明されているように,その産地は「占いで決められた」という。

 しかし,話がここまで来ると,天皇家の内的行事が「天皇の代替わり行事」である大嘗祭だからといって,しかも大々的に国民たちに伝えれているとなれば,憲法に定められている「天皇(一族?)の国事行為」や,その他の「公的行為」,そして「私的行為」などにもまたがって関連する問題となっており,一筋縄ではいかない「解釈の問題」も登場させられていた。

 このような問題に対面しつつ,こちら(「主権者である国民の立場」)の観点(問題意識)から論じようとする専門家がいないわけではない。なお,参考にまで触れると,原 武史・吉田 裕編『天皇・皇室辞典』(岩波書店,2005年)は,天皇の田植えに関して1項を設けてとりあげていない。

 〔記事に戻る→〕 斎田点定の儀は,アオウミガメの甲羅を将棋の駒の形(縦約24センチ,横約15センチ,厚さ約1ミリ)に加工したものを火であぶり,亀裂の形を基に占う「亀卜(きぼく)」をおこなう儀式。

 午前10時ごろ,皇居・宮中三殿の敷地内に設けられた「斎舎(さいしゃ)」と呼ばれる天幕の中に,天皇家の私的職員である掌典(しょうてん)4人が入った。儀式は非公開で,約40分で終了。宮内庁は,どのような亀裂が入って2府県が選ばれたか明らかにしていない。
 補注)この「どのような亀裂が入って2府県が選ばれたか明らかにしていない」という宮内庁側の態度(秘密主義)は,笑止千万というべきか,占い業の「当たるも八卦当たらぬも八卦」の世界にこだわった精神構造をうかがわせる。その亀裂の模様に関しては,いうにいえないような特別の秘密(秘中の秘?)が秘められているとでもいいたいのか。

 それともそれでこそ,天皇家の「伝統と儀式」の秘儀性にこめられた神秘性も高められることになる,とでも考えているのか。ここまで話を聞いていると,そういった「皇室内の行事は内部でのみ密かにやればいい」であって,国民の立場に向けて,しかももったいつけて部分的にのみ公表する材料ではない。

 どれほど興味深い占いの儀式かしらぬが,日本社会に向けて公表できない内容が部分的にでもあるならば,ともかく皇室の内部でのみ秘密裏にやればいいことである。大嘗祭にさいして,宮内庁側が「供える米の収穫地域を決める」ことじたいは自由だが,その決定過程を秘密なのだと気どったところで,これは宮内庁流のスノビズム(snobbism,俗物根性)の発露でしかない。

 〔記事に戻る→〕 結果は同庁の山本信一郎長官が天皇陛下に報告。西村泰彦次長が2府県の知事に電話で伝えた。今後,同庁が2府県などと協議し,どの田んぼを使うかを決める。収穫した米は同庁が買いとる。

 大嘗祭で使う米の産地は,古代から占いで決めてきたという。平成の大嘗祭は秋田,大分両県が選ばれ,昭和は滋賀,福岡両県,大正は愛知,香川両県,明治は甲斐(山梨県)と安房(千葉県)が選ばれた。

 栃木県の福田富一知事は〔5月〕13日の定例記者会見で「令和の時代の始まりに選定され,光栄」と歓迎した。「水がおいしく優良な水田が広がり,律義な県民性の農家の方々が誠意を持って勤勉に生産しているので,どこにもっていっても自慢できる」と話した。

 また,京都府の西脇隆俊知事は府庁内で取材に応じ「府内の農業振興を図る上でも大変うれしく,名誉なこと」と喜んだ。「農業者の皆さまと秋には滞りなく納めることができるようにしっかり取り組みたい」と述べた。
      ◆ 大嘗祭の米を栽培した地域 ◆
 = ただし,明治以降の「実施年 米の栽培地」である =
     
   明治天皇 1871年 山梨県・千葉県

   大正天皇 1915年 愛知県・香川県

   昭和天皇 1928年 滋賀県・福岡県

   平成天皇 1990年 秋田県・大分県

   現・天皇 2019年 栃木県・京都府 
 なお「大嘗祭(だいじょうさい)」とは,新天皇が皇室の祖とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)や神々に新穀を供え,みずからも食べることで五穀豊穣(ほうじょう)や国の安寧などを祈る儀式。宮内庁によると,飛鳥時代の天武天皇の即位に伴っておこなわれたのが初めての例。

 今回,中心的な儀式の「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は,11月14,15日に皇居・東御苑でおこなわれる。宗教的性格が強いため,国事行為の儀式とは位置づけず,前回と同じく,皇室行事とされた。ただ,政府は「伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」として宮内庁予算から費用を支出する。
 補注)これは「?」である説明になっている。「皇室行事=天皇・天皇家の私的行為である」が,「伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」とみなし,「宮内庁予算から費用を支出する」という説明は,なんらまともな説明になっていない。強引もいいところの「論理性のむなしい」「ヘリクツ的なむすびつけ」である。

 「私的」のなかに「公的」が入りこんでもいいあつかいが許されるならば,その関係については,なんとでも理由を付けていい「論理の仕組」が提供されたことになる。要は,説明になりえない説明が正々堂々と新聞記事に,当然のごとく書かれている。実に不思議な記事の報道であった。

 ④ 田んぼに入った天皇はいたのか? 一般の農事者が昔,田植えをしていたときゴム長靴を履ていたか

 以下は,中尾聡史・宮川愛由・藤井 聡「日本における土木に対する否定的意識に関する民俗学的研究」(『実践政策学』第1巻1号,2015年秋号)からの引用である。天皇家の伝統と格式がそれこそ大昔,古代から本式に継承されているとしたら,このような天皇家に関しても〈穢れの問題〉にも触れておく必要がある。

 まず,天皇・天皇制が被差別社会集団の対極(頂上)に位置していた歴史を踏まえて,つぎの2個所の引用をする。
 日本人の精神に古くから胚胎してきたと考えられる「土木に対するケガレ意識」が,呪術をもった河原者などの被差別民が土木事業にたずさわったという歴史,ならびに,土木に対する「不浄」という精神的忌避の民俗を形成し,現在の日本特有の土木バッシングの民俗学的理由を形作っている,との解釈に複数の歴史事実が整合している。
 註記)前掲稿,50頁左段。

 日本におけるいわゆる「土木バッシング」の背景には,日本の歴史風土に特有の問題が存在しているとの仮説のもと,本研究では,土木に対する否定的意識についての,過去から現在に至る日本民族の「歴史的実践の総体」の諸相を,各種の歴史的記述から概観し,再解釈することを通じて,現在の土木バッシングの基底にある日本人の潜在意識を探索した。

 その結果,日本人の精神に胚胎した「土木に対するケガレ意識」が,日本特有の土木バッシングの民俗学的理由をかたちづくっている,との解釈と整合する歴史的記述が存在することが示された。

 すなわち,この日本人の精神に古くから胚胎してきたと考えられる「土木に対するケガレ意識」が,呪術をもった河原者などの被差別民が土木事業に携わったという歴史,ならびに,土木に対する「不浄」という精神的忌避の民俗を形成し,現在の日本特有の土木バッシングの民俗学的理由をかたちづくっている,との解釈に複数の歴史事実が整合していることが示された。
 註記)同稿,37頁,「要約」
 現在においても皇室神道の総本山といえる〔とはいっても明治維新以降に建造されていたが〕皇居内の「賢所」に使える巫女たちが,21世紀の現在にあってもどれほどに〈穢れ〉の忌避に徹底しているかをしっておく必要がある。

 その意味では天皇が,昭和天皇の代からであったが,田んぼに入り(ほんのわずかに,それも小さい出島のような足場も用意させて),田植えをするという光景は,天皇家の歴史に照らしてみれば,まさしく度外れの「奇想天外の舞台設営」であった。問題はなぜ,昭和天皇がそういった行為を,それも皇居内に造った田んぼを使い,はじめたかにあった。

 彼は「自分が天皇になったときに多分,思いついた創意(アイデア,イメージ)」を,天皇家の皇民(帝国臣民)受けを狙って「田植え」をはじめており,そうやって,天皇一族にとっての「また新しい伝統のひとつ」を創っていたわけである。

 そこには『創られた天皇制』と呼称されるゆえんの一因が,正直に表現されていた。西田哲学流に表現すれば,「作られたるものが作るものを作る」という筋道のなかで,昭和天皇が稲作という農事に関する田植え行事(など,その関連する一連の行為)を「作る(創る)初代の天皇」になっていた。
 過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり,

 未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり,

 現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し,時というものが成立するのである。

 而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に,時は過去から未来へ,作られたものから作るものへと,無限に動いて行くのである。
  註記)『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波書店(文庫版),1989(昭和64)年12月18日,第1刷発行。「絶対矛盾的自己同一」から。
 平成天皇の代からは「作られたるものが作るものを作る」といった前後の関係性が,より一体的に意味を形成しはじめた。いまの令和天皇の代に至っては,その「作られたるものが作るものを作る」といった形式論理の構造は,より円滑に全体的にも機能しだしたというふうにみなし,位置づけることもできる。

 そこで,以上に論じた「天皇の田植え」に関する事実を論じるさい,いったい,いつの時点になったら,「天皇の田植え」という皇室内の個人的な行為が「古(いにしえ)性」のある伝統行事なのだ,といえるような日が来るのか(?),といった設問も意識しておく必要が出てくるはずである。

 伝統だとか格式だとかいっても,これが創始された「時・事」がいつかにおいて,必らずあったはずである。だから,その点「いつか創られていた事実性」を否定できる者は,誰1人としているはずもない。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には Amazon 広告へのリンクあり ※

            

        

            

        


 【カメラの角度(アングル)から当人たちの姿勢(かっこう)まで同一】


 本ブログはだいぶ前だったが(というのは,その原文が初めて公表されていた日付は2010年5月24日であった),これをあらためて2017年1月17日に,つぎの題目で記述していた。植木 等(1926~2007年)が,まだいまに生きていたら,そう気安く「オレといっしょにするなよ」などといわれそうな,昭和天皇の話題に関する論題を付けていた。
 主題「こんな日本に誰がした:米軍基地と天皇裕仁」

  副題1「昭和無責任男=『天皇裕仁の遺産』」としての沖縄問題」
  副題2「沖縄は捨て石であり要石である(鹿野政直)」

 ※ リンク ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1063802387.html
 さて,本ブログの筆者が古本で,それも本当に古い本だといえそうな,藤樫(とがし)準二『陛下の人間宣言-旋風裡の天皇を描く-』(同和書房,昭和21年9月10日発行)を入手したとき,この本のなかに偶然はさまれていたスクラップの現物を,画像資料としてつぎにかかげておく。

 これは『毎日新聞』1947年5月3日(この日に日本国憲法が施行された)の1面に掲載された,それも「新憲法に署名される天皇陛下」という説明(見出しではない “説明の文句” )が付されていた記事のスクラップであった。この記事の冒頭には「1日午後新緑の吹上御所苑近く……」と記述されているので,1947年5月3日の新聞記事である点は間違いないと思われる。
   毎日新聞昭和22年5月3日推定記事
    付記)これはクリックで少し拡大・可。
 筆者手持ちのこのスクラップ資料だけでは完全には確認できないが,『毎日新聞』1947年5月3日の「東京版」(1面)に使用された写真と同じである。ただし,この写真じたいが撮影されたのは,前年の1946年11月3日であった。

 そして,つぎの画像資料は,『毎日新聞』同日の「大阪版」(1面)の当該記事と画像である。こちらの画像は右側部分が数行分だけ落ちているが,みて分かるとおり同じ記事と画像である。しかし,見出しの文句は異なったものが付けられていた。
『毎日新聞』1974年5月3日大坂版昭和天皇画像1
 
 また,その「東京版」のほうの記事の末尾には「藤樫準二本社記者記」と付記されていた。
 出所・補注) 「大阪版」の 『毎日新聞』1947年5月3日は, https://kenpouq.exblog.jp/23682279/  から。このブログがかかげている原画像のあつかいでは右側が切れており,その分が写っていないが,同一の記事と画像である。

 前記した本ブログ「2017年1月の記述」は,そのスクラップ(⇒2010年5月ですでに手持ちだった)を議論の材料にとりあげていたので,その内容についてはそちら(リンク先は前掲だが  ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1063802387.html)をあわせて読んでもらえば好都合である。

 本日〔2019年5月12日〕における記述は,元号「令和」の新天皇となった徳仁が執務する姿を,宮内庁が用意した写真をもって,新聞社が紹介していたことに注目する。
 『日本経済新聞』2019年5月8日朝刊34面徳仁画像
 
 以下に,この画像をかかげていた『日本経済新聞』2019年5月8日朝刊の記事「陛下の公務,本格スタート」を引用しておく。

 皇位継承後初の平日となった〔5月〕7日,天皇陛下は皇居・宮殿で公務に臨まれた。お住まいの赤坂御所(東京・港)から皇居(同・千代田)へ車で向かい,内閣から届いた閣議に関わる書類などに署名・押印された。陛下の天皇としての公務が本格的にスタートした。

 陛下は午後3時15分ごろ,皇居・半蔵門に車で到着し,窓を開けて沿道の人たちに手を振られた。宮殿「菊の間」で書類に目を通したあと,印章を押したり,「徳仁」と署名したりされた。
 このように,2019年5月8日朝刊の記事のなかで前日の5月7日に,天皇徳仁が「内閣から届いた書類の押印する天皇陛下」として紹介されていた。「こちらの写真(徳仁)」と「前掲の写真(裕仁)」とは,写真に撮られたそれぞれの構図(カメラのアングルなど)が「いかにもそっくり」だったので,なんとはなしに「このように似ているのは当然である」かもしれないけれども,「いかにも・いかにもだ」といった印象も抱かせる写真2葉であった。

 ともかくも,1947年5月3日(および1946年11月3日)に公表されていた「天皇裕仁」の写真のほうは,敗戦以前における大元帥「軍服像」の面影をいかにして払拭し,イメージ(天皇に関する全体的な印象)を根本から徹底的に変身させるかに重点が置かれていた。

 その点は,前掲の画像資料のなかでも判読できる本文の調子(筆致・論調)をうかがえば,すぐに感知・理解できる点であった。「素朴さむき出し 気どらぬ天皇陛下」「炭礦にもゆきたい 陛下・記者らにお話し」といった,天皇裕仁の記事における見出しは,それまでの大元帥「像」を必死になって打ち消そうとする「藤樫準二記者(毎日新聞社)の懸命な努力」がにじみ出ていた。
  『朝日新聞』
 出所)「昭和天皇の戦後巡幸,記録映画を上映 〔3月〕22日に東大で」,asahi.com  2019年3月21日09時27分,https://digital.asahi.com/articles/ASM3B7X5XM3BUTIL01Z.html
 藤樫(とがし)準二記者は,長年にわたり宮内庁(旧宮内省)の担当記者として皇室関係の報道,それも多分とくに「敗戦後政治史的な昭和天皇の脱皮過程」に関して誠心誠意,深くたずさわった努力・貢献を認められた結果,つぎの勲章を授けられていた。
 「昭和49〔1974〕年春の叙勲にあたり,はからずも宮内記者55年という老生に対し,報道功労の理由で『日本国天皇は藤樫準二を勲三等に叙し瑞宝章を授与する」の勲章を勲記が授けられた」。
 註記)藤樫準二『天皇とともに五十年-宮内記者の目-』毎日新聞社,1977年,158頁。
 ------------------------------
     ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        藤樫準二陛下の人間宣言表紙
  


 【平成から令和に移ったといって,皇室神道・宮中三殿における皇室内の宗教儀式を華やかに伝える報道ぶり】

 【天皇・天皇制を再考してみたい現段階の話題】



 ①「〈ニュースQ3〉平安絵巻?  両陛下の衣装の由来は」(『朝日新聞』2019年5月9日朝刊25面「社会」)

『朝日新聞』2019年5月9日朝刊25面皇后衣装

 1)明治維新政府は古代史的な扮装をまとって出場
       -そのゾンビ的な発現形態で近代史に臨んだ-

  この解説記事は見出しのなかには,なぜか「?」が入っていた。「古式ゆかしき」皇室内の諸伝統のなかでも,視覚面に強く印象を与えうる衣装の問題である。しかし,ともかくこのように「?」(疑問符)付きで語らねばならないひとつの対象でもある。

 「いにしえ(古)」の由来にまでさかのぼれると語られる天皇家の諸伝統のことゆえ,なんでもかんでもその大昔に源泉を有するのがその諸伝統かと思ったらいけない。それでは,必らずしも正確な理解はえられない。

 伝統とはいっても「いつかの,あるとき」に,しかもそれがいつごろの昔にまでさかぼれるかはさておいて(不詳なことが多い),その伝統のひとつひとつは,間違いなくきっと「特定の時期」に「一定の事情」があって,そのもとで「創られてきた」。そう理解しておくのが,ひとまずもっともまともであり,妥当性ある「抽象的な解釈にもなる」はずである。

 ところが,明治以来においては,それもごくかすかな古代史に対する記憶(古い文献・史料も含めてのその対象)を必死に思い出し,探し出したつもりになって,新しく「天皇制を創ってきた」。そのなかでも,天皇家(明治政府)が東京に引っ越して来てから,皇居(宮城)のなかに造営した宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の「新しい舞台」で,天皇が中心になって演じてきた,まさしく「明治謹製」の皇室神道になる新しい儀式の遂行にさいしては,そのとき身にまとう衣装についてもあれこれと,明治以来の創造性が大いに発揮・加味されてきた。

 しかしながら,その「新たに加味された形式と中身」に関して宮内庁側は,けっして本気でつまびらかに公表してきたとはいえない。もちろん,専門の研究者が皇室・天皇家における衣装(儀式用)については研究を重ねており,だいぶその史実も解明されてはいるものの,皇室側としてはなるべく,その衣服の面でも「いにしえ(古式)性」を格別に強調したいがゆえか,説明をしてくれるにしても「現代的な視点」にかたよった解釈でしか応えていない。

 明治以降の関連しかとりあげていないが,青木淳子『近代皇族妃のファッション』(中央公論新社,2017年2月)は,特定の皇族女性に関してだが,洋装の問題を考察している。本書の「内容説明」は,宣伝・広告用であるが,こうなされている。
 日本人の洋装化,生活文化の近代化をリードした皇族妃たち。現在,海外から国賓を迎えて催される宮中晩餐会で,皇族女性たちの正装は西洋のドレス姿である。

 日本には「きもの」という伝統的衣装があるにもかかわらず,国を代表するこの場面において,なぜ洋装なのか。

 本書は,「アール・ヌーヴォーのファッションを伝えた」梨本宮伊都子妃,「アール・デコのファッションを伝えた」朝香宮允子妃の例を詳細に検討することで,その問いに答える。
 そもそも明治以降,日本でも喪服の色を欧米に真似て「黒色」にしたのは,けっして日本の伝統でもなんでもなかった。ただ「文明開化」の証しのひとつして「欧米に追いつき追いこさねばならない」国是の関係上,さらには「富国強兵」「殖産興業」路線を邁進しなければならなかった旧日本帝国にとってみれば,ある種の「急性の西洋かぶれ現象」だったといえなくはない。

 もっとも,現在的にいえば,そのように評価するのはいいすぎだと感じる人もいるかもしれない。しかし,近くの国々ではまだ喪服に関しては日本よりもずっと古い,その「いにしえ性(古式・伝統)」を守っているところがある。

 ただ,日本の場合は本当はかなり新しい形式に変えてきた伝統であっても,これがとても古い(大昔の「いにしえ」からの)ものだと自称しており,いささかならず眉ツバ的に「古代史的な古式ゆかしき『性』」が演出されてきた。実質的には,そのほとんどが明治以来にしつらえられた「その伝統性」であったけれども,皇室・天皇家の諸伝統を権威づける(箔づけ)ために,人為的=政治的に構築されてきた。

 天皇の代替わりにさいして変更された元号の「令和」もそうであって,実はもとをたどれば中国の漢詩に語源があっても,日本の万葉集から摂ったものだと,それも盛んに「国民たちに教えこもうと洗脳するマスコミの報道」が,いまもなおつづけてなされている。こうなると,元号(さえ,もとは中国由来そのもの)すらも,本当はもとから「日本固有の時間支配の観念」だと誤解されかねない。

 1890〔明治23〕年に大日本帝国憲法が公布されていた。この憲法の本文の前に提示されていた告文(前文)などに表現されている「大日本帝国:天皇制度」の神秘性・宗教性は,近代史のなかで出立したはずの明治政府の時代錯誤「性」を,もののみごとに端的に表現していた。

 以上に若干触れた「日本の伝統文化」に関する純粋・固有説の立場は,この明治謹製の天皇・天皇制の価値を高揚させるために,必要不可欠とされた具体的な表象である。

 2)記事本文の引用
 天皇,皇后両陛下が平安朝以来の古式装束をまとい,初めての宮中祭祀(さいし)に臨んだ。なかでも皇后雅子さまの衣装は10キロを超えるといわれる。装束はどんな由来をもつのか。
 補注)ここでの記事には「衣装は10キロを超えるといわれる」と書かれているが,その重さが具体的に計量されたことはないのか,などと考えてみたくもなる。別にその正確な重量を公表したところでなにも支障はないはずだから,これもまた皇室ネタとして宮内庁あたりが公表してもいいなどと勝手にに想像してみるが,庶民のほうでも大いに興味ありといえそうである。

 宮内庁はことが皇室・天皇家の関連情報になると,国民たちに対していろいろあれこれと,それも一方的に教えたがる。この衣装の重さなどは,国民向けに公表するには格好の対象たりうるはずである。だが,その重さは実際に量ったことなど多分ないと思われる。

 とはいっても,しょせんはおもしろ半分に興味の対象である。ともかくミーハー的にであっても,その点に関心を向けたところで,なにもおかしいことはない。むしろ,取材する記者のほうが調べて教えてほしかった,われわれ側の興味対象であるといえなくもない。

 a) 文様は王者の象徴
 天皇陛下は〔5月〕8日午前,皇居の森の奥深くにある「宮中三殿」をまわり拝礼した。しばらくして皇后さまも続いた。宮内庁によると,両陛下の装束は今回の代替わりのために新調した。天皇陛下の束帯は,「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と呼ばれ,ウルシ科のハゼノキから採れた染料などで染めたもので,淡く赤みがかった茶色が特徴。平安時代以降,天皇が着用する色とされているという。浮き上がる文様は,鳳凰(ほうおう),桐(きり),竹,麒麟(きりん)がモチーフで,王者を象徴するものだという。

 有職(ゆうそく)文化研究所を主宰する仙石宗久氏(73歳)によると,天皇陛下の「黄櫨染御袍」が即位儀式に用いられるようになったのは明治天皇から。それ以前は長い間,中国風の装束が用いられていたという。陛下が手にした細長い薄板は「笏(しゃく)」。もともとは複雑な作法を忘れないように記した紙を貼る板だったともいわれている。これらの装束一式は,今秋,国内外の賓客を招いて国事行為としておこなわれる「即位礼正殿の儀」でも身につける。
 補注)この「文様は王者の象徴」は,古くも遠くは西アジア・ペルシャからシルクロードを経て中国に伝わり日本にも来たものであった。だから,この記事では故意になのか,「明治天皇からは……」というふうに,「明治謹製」的である点に意識して触れていた。

 いずれにせよ,その「王者のしるし」をあしらった衣装の起源は,一番近い中国に倣うことによって創られていた。もっとも,民主主義の日本国憲法内における天皇が「皇室神道」内の宗教行事でまとう衣装についての話題であった。それゆえ,奇妙な方向にこの話題がズレこむ雰囲気がないとはいえない。

 b) 上皇后さまを踏襲
 一方,皇后さまの装束には色や文様の厳格な取り決めはない。この日は五衣(いつつぎぬ)の上に小袿(こうちぎ)を羽織り,長袴(ながばかま)をはいた装いだ。小袿は落ち着いた緑色の「萌葱(もえぎ)色」で,亀甲の地紋が浮き出た生地に,鶴と松の白い丸紋がちりばめられている。

 宮内庁の担当者によると,即位礼正殿の儀の衣装は,小袿ではなく唐衣(からぎぬ)と裳(も)を着け,さらに格が高いものになる。京都風俗博物館によると,一般的にこうした装束の重さは15キロ前後にもなる。
 補注)こちら皇后の衣装になると,これはまったくにおいて,現在にあって決めているらしい「古代史風のまといもの」だ,という解釈が可能である。ただし,なぜか「皇后さまの装束には色や文様の厳格な取り決めはない」についての突っこんだ説明はない。

 なぜ,ないのか? きっとこの疑問に答えられる「女王の象徴」となるべき「衣装に関する歴史や伝統」は,宮内庁:皇室のなかでも確かなものはもちあわせていない。そしてまた,そうであっても,追々「新しい伝統として取り決めていけばいいものだ」といえなくもない。そう説明しておき逃げることはたやすい。

 いいかえれば,明治以来やってきたように,令和のこのさいもそれ以降に倣っていけばよく,それなりに「21世紀風に古代史的な皇室神道」の「現代的(モダーン)な宗教儀式」が執りおこなわれうる,ということにあいなる。

 側近によると,皇后さまの装束や色は,皇后さまと宮内庁で決めたという。平成の同じ儀式では,当時の皇后美智子さまが「三重襷(みえだすき)」と呼ばれる地紋に鶴の文様があしらわれた小袿をまとった。仙石氏は「雅子さまは美智子さまの装束をほぼ踏襲したといえるのでは。いずれも縁起の良い柄だ」。
 補注)ここまで話を聞くと,これはほとんど天皇家内の私的行事としておこなえばよいのであり,ここまで話が進むとなれば,皇室行事の「古式ゆかしきはずの儀式」の「現在的な意味」がだんだんと,ますますアイマイ化してくる。

 「大垂髪(おすべらかし)」と呼ばれる独特の髪形は江戸時代末期からのものだ。左右の側頭部のびんを大きく膨らませているのが特徴で,民間の女性の髪形にヒントをえたという。仙石氏は「装いに古い部分と新しい部分が入り交じるのは時代に合わせ少しずつ変化してきたから。長い歴史の表われです」と話す。
 補注)この段落の話「古い部分〔衣装のこと〕」に「新しい部分〔髪形のこと〕が入り交じる」点は,なにも髪形や衣装だけの問題ではなかった。天皇・天皇制の場合は,この存在じたい「全体」が「明治謹製」であったと形容しうるほどに,実は明治維新前後から創造されてきた制度や儀式が多い。

 c) 少ない和装の行事
 皇室の歴史に詳しい所 功・京都産業大名誉教授は「実は,近代の皇室行事に和装を残すのは必らずしも簡単ではなかった」という。
 宮中では,明治時代に洋装が採り入れられた。歌会始や宮中晩餐(ばんさん)会など多くの皇室行事は洋装。

 即位関連の儀式でも,〔2019年5月〕1日に国事行為として宮殿でおこなわれた「即位後朝見の儀」などでは天皇陛下をはじめ男性は燕尾(えんび)服。皇后さまら女性皇族はローブ・デコルテと呼ばれるロングドレスだ。

 日々の宮中祭祀以外で古式装束が用いられているのは,即位を内外に示す即位礼正殿の儀などごく一部だ。
 所氏は「明治以来,各国王室の例も参考にされ,即位など重要な行事に伝統衣装を用いてきた。染色や織物の技術など伝統的な文化が伝わっている背景には皇室が装束を守っていることも大きい」と述べた。(引用終わり)

 この所 功の評言はだいぶズレた指摘をおこなっている。つまり,明治以来において日本の「染色や織物の技術など伝統的な文化が伝わっている背景」には,「皇室の装束」を準備・提供する必要性があったからだといっている。肝心の話題(「歴史の問題側面」)に対してはなにも触れていない。

 本ブログ筆者が以前から疑問を抱いていたのが,なぜ,明治維新以後の皇室・天皇家は「衣・食・住」の生活全般のなかに,米欧の様式を実質的に採りいれてきたのかという点であった。

 なかでも,日本古来の伝統だとか格式だとか強調したかったのであれば,室内の家具調度は机や椅子は使わず座卓や畳みで暮らし,衣装は洋装にせず和装で過ごし,スプーンやフォークを使わず箸で食事を摂り……などなど,と思いこんでみた。

 もしかすると,もっとずーと古い時代の生活に関することがらだから,とうてい考証など不可能な事情に関して,本ブログ筆者は発言しているのかもしれない。

 だが,それでも現実には,ともかくも「日本の伝統,古式ゆかしき,なんとか……」を守ってウンヌンという割りには,皇室行事の全体が「衣・食・住」のすべてにわたって,ほとんどが洋式である。ただ,宮中三殿における祭祀だけは,どうやら古式らしき衣装をまとってやっている。それにしても,なにか変な感じだという印象を避けえない。
 補注)男性歌手の千 昌夫は,白人金髪女性(もちろん美人)が大好きであった。だから,持ち歌のなかにはこういう歌詞のものがあった。皇室問題に対してなにか示唆できる内容もあると思い,ここに引いてみた。
         ★『味噌汁の詩』★
   = 千 昌夫・歌,中山大三郎・作詞 / 作曲 =

 (セリフ)しばれるねぇ  冬は寒いから味噌汁がうまいんだよね
うまい味噌汁  あったかい味噌汁  これがおふくろの味なんだねえ
 
あの人  この人 大 臣だってみんないるのさ
おふくろが  いつか大人になった時
なぜかえらそな顔するが  あつい味噌汁  飲む度に
思い出すのさ  おふくろを
わすれちゃならねえ  男意気
 
(セリフ)へぇーそうか  おまえさんも東北の生まれか
気持ちはわかるが  あせらねえ方がいいな
やめろ!  あんなあまったるいもの好きな女なんか

何がポタージュだい  味噌汁の好きな女じゃなくちゃ !!
寝るのはふとん  下着はふんどし  ごはんのことを
ライスだなんて言うんじゃないよ。

田園調布?  家を建てるんなら岩手県  それも陸前高田がいいね
金髪?  き・・・  金髪だけはいいんじゃないべかねえ
それにしても近頃の人は  何か忘れてるね
これでも日本人なんだべかねぇ
 
日本人なら忘れちゃこまる  生まれ故郷と味噌汁を
何だかんだと世の中は  腹が立つやら  泣けるやら
どこへいたか親孝行  まるで人情  紙風船  忘れちゃならねぇ  男意気
 
(セリフ)ふるさと出てから16年  いつもおふくろさんの
ふところ夢見ておりました  思い出すたびに
子の胸がキューッと痛くなるんです

思わず涙が出てくるんだなあ  それにしても今夜はしばれるねぇ
このぶんだと雪になるんでねえべか
おふくろさんの味噌汁が食いたいなあ・・・  かあちゃーん !!
  註記)https://www.uta-net.com/song/4337/
 明治の鹿鳴館時代に関しては,それも米欧から来た人びとのなかでも衣装にくわしい者が,日本の婦人がまとうドレスについて違和感を述べていた場合もあった。要は,西欧のその流行ファッションからみるとずいぶんズレているほかない「女性たちの衣装」もあったという事情らしい。ところで,千 昌夫はふだんから褌をしていたか?(ウソだろう……) 女房をとりかえるよりも簡単なことだたはずだが。

 ②「古式ゆかしく 勅使発遣の儀」(『朝日新聞』2019年5月9日朝刊27面「社会」)
『朝日新聞』2019年5月9日朝刊27面直視発遣の義

 天皇即位に伴い,秋に行われる「即位の礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」の期日を,伊勢神宮などに報告するための使いを派遣する「勅使(ちょくし)発遣の儀」が8日,皇居・宮殿「竹の間」でおこなわれ,天皇陛下が古式装束姿で臨んだ。これに先立ち,宮中三殿では即位後初めての宮中祭祀(さいし)があり,陛下と皇后さまが殿上で拝礼した。

 「勅使発遣の儀」では,即位礼正殿の儀が10月22日に,大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀が11月14,15日にそれぞれおこなわれることを,伊勢神宮のほか,神武,孝明,明治,大正,昭和の各天皇陵に報告するため,天皇陛下の使い「勅使」を派遣する儀式。陛下は御引直衣(おひきのうし)と呼ばれる装束姿で,山本信一郎宮内庁長官を介し勅使に「御祭文(ごさいもん)」を授けた。

 午前には,陛下が即位礼正殿の儀と大嘗宮の儀の期日を宮中三殿に報告する宮中祭祀「期日奉告の儀」が行われた。皇后さまが賢所(かしこどころ),皇霊殿,神殿の三つで拝礼する祭祀に臨んだのは,療養に入る前の2002年12月以来。(引用終わり)

 伊勢神宮が一挙に天皇家とのつながりを,しかも特別に深めるようになったのも,明治以来である。それまで,天皇が伊勢神宮に参拝したことはほとんどなかった。明治維新以降,国策としてだったが,一方で伊勢神宮は天皇家を神道精神をもって権威づけるために利用され,他方で逆に伊勢神宮は皇室によって政治宗教的な威信を付与されていった。いいかえれば,双方の相乗効果が期待されるなかで「国家神道の大本としての伊勢神宮」も,また「政治の核心に置かれた皇室神道」も,神道宗教的な威厳を高めあい,いわば共存的に高める効果を大いに生んできた。

 21世紀の問題として観るとき,日本国憲法のなかでの「政教分離の原則」の貫徹にはどだい無理であった。それを可能にしようにも結局は,「錯綜的に入りくんだ関係」にしかなりえない。これからもほぐしえないこの「国民主権と象徴天皇」の根本矛盾は,「天皇・天皇制」×「皇室とこの神道」をもって,象徴的にという意味でも明白に露呈している。

 ③ 天皇・天皇制のなにが問題なのか

 最近作の大塚英志『感情天皇論』(筑摩書房,2019年4月10日発行)が,皇室・天皇家の日本的な「バチカン市国」化を提唱している。この提唱はほかの表現に意訳すると「天皇はん,京都へお戻りやす……」といった “京都人の発想” に通じるかもしれない。

 「明治 ⇒ 大正 ⇒ 和戦前(→敗戦) ⇒ 昭和戦後 ⇒ 平成 ⇒ 令和」という具合に進んできた,明治「維新」以後の「古代史的な日本の再生・復活後における天皇・天皇制」の歴史は,皇室神道における儀式に使用されている衣装だどうだこうだといった話題をはるかに超えて,「今日における日本の民主主義」をもっとまともに再考する必要性を示教している。

 大塚『感情天皇論』に対するアマゾンの書評(ブックレビュー)は,本日〔2019年5月8日〕の時点で2点投稿されているが,いずれも長文の感想文である。そのうち1点の投稿者は「再投稿したレビュー」の末尾で,こう怒ってのべていた。
【補 記】(2019年4月28日)

 本稿は,2019年4月25日に投稿され,翌26日に反映されたものであるが,本日2019年4月28日に削除されたので,再度アップした。匿名者の誣告による,自動削除と思われる。

 本稿に,なにか間違ったところがあるというのであれば,ぜひ正々堂々と,当レビューのコメント欄で反論して欲しい。あるいは,そのご意見をレビューとしてアップし,私を名指しにして反論してもらいたい。
 日本の社会のなかでは天皇・天皇制の問題になると,まだまだこのように〔多分〕陰湿な反応が無名(匿名)のもとに横行しがちである。

 大塚英志の『感情天皇論』は最終・末尾の部分になってなのだが,もう1点のアマゾン・ブックレビューの表現(「天皇制廃止論ではない」2019年4月22日投稿)を借りるとすれば,以下のごとき事情のなかで,皇室・天皇家の「バチカン市国」化を,それもかなり唐突気味にかつまた婉曲に述べていたことになる
 読了後真っ先に思ったのは,なぜ題名が「感情天皇論」なのかということだ。確かに読めば分る話だが,それはあくまで主題に届くまでの過程・経緯だ。

 けっして『天皇制廃止論』ではない大塚の自説,主題そのものである,『天皇制断念論』,あるいは『天皇開放論』のようなタイトルを据えればいいではないか。

 理由は分る。大多数の国民が象徴天皇を支持する平成末期の今,上記のタイトルを据えることは難しいからだ。大方筑摩書房にも自主規制されて無難なタイトルになったのだろう。
 本ブログ筆者の場合,大塚英志『感情天皇論』を読みながら途中で奇妙に感じて読んでいたところ,結論部になるや急に搬入されたかのようにも感じた「天皇制」「廃止・断念・解放論」については,日本の社会全体のなかでは不可避に「天皇論」にまつわりついている「特定で特殊な感情論」を排除できない困難(問題性)も感じた。

 本来,「天皇論は日本人論でもある部分」をもつ。だが「戦後レジームからの脱却」でもって,いまの天皇・天皇制が創出された明治の時代に戻りたいと切望する政治家が,現にこの国の首相を務めている。まさにトンデモ国家体制,それも「対米従属国家体制としての日本」だけは健在である。いずれにせよ,それでこそまた実在しうる天皇家であった。

 平成天皇が日米安保関連法体制に反対するそぶりは,みじんもみせない。これは父ゆずりである「皇室戦略」にとって「基本方策」であった。その子もまた大差ない生き方をしていく。大塚英志『感情天皇論』は実は「論理天皇論」であったが,あえて反語的にその書名を選んでいた。

 いまだに対米従属国家体制にある日本にあって,敗戦後的な政治社会を創るのに貢献した人間としては,令和天皇の祖父が確実に介在していた歴史の事実があったとなれば,なんとも名状しがたい「21世紀的な天皇制国家である日本が存在している」といえなくもない。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        

            


 【「完全なる女性差別」(「女性への差別」は「人間全体への差別」に直結する)を,明治以来の「150年にわたる古来的な伝統(?)」だと妄想できる「エセ国粋・保守・反動の政治家・人びと」の観念世界】

 【彼らが妄想し,虚構する「神国日本」の,天皇・天皇制に関した時代錯誤の政治理念は,民主主義の根本理想を破壊する「現代における狂気の沙汰」的な思いこみ・独善】

 
 ① 安倍晋三「忖度・国営放送局」であるNHKが,たまには意義のある特番を制作している

 
 1)「NHKスペシャル 日本人と天皇」(初回放送,2019年4月30日午後8時00分~8時54分,解説は https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586150/index.html などから)
 補注)この特番は即座にユーチューブに動画として上げられていた。まだ視聴していない人も鑑賞できる。NHK受信契約の有無とは,むろんなんら関係なしに「視聴可能」である……。この動画が削除されても,ほかからも追って,きっと何編も上げられるはずと予想しておく。
NHKスペシャル2019年4月30日日本人と天皇




 
 ※-1「解説:1」
 私たち日本人にとって天皇とはなにか。歴史をひもときながら考える。皇位継承に伴う一世に一度の儀式「大嘗祭」。その内容は長くベールに包まれてきた。私たちは徹底取材をもとに「大嘗祭」を再現。天皇と神々との関係に迫る。

 さらに,皇位継承を男系に限るという伝統についてもとりあげる。これまでの議論を発掘資料やスクープ証言を交えて検証。新時代,主権者の私たちはこの問題にどう向きあえばよいか。そのヒントを探っていく。

 ※-2「解説:2」
 まもなく元号が変わろうとする〔4月〕30日夜8時からは,私たち日本人にとって “天皇” とはなにかを,歴史をひもときながら考えます。今〔2019〕年11月におこなわれる予定の「大嘗祭」。

 古来より伝わる皇室の伝統で,皇位継承にともなう一世に一度の重要な儀式ですが,その詳しい内容は長くベールに包まれてきました。今回,私たちは「大嘗祭」など皇室関連の儀式を徹底取材。受けつがれてきた皇室の伝統とはなにか(?)に迫ります。
 補注)ここでは「古来より伝わる皇室の伝統」として大嘗祭が挙げられているが,実は戦国時代から江戸時代にかけての2百年ほど,この天皇家の儀式は途絶していた。すなわち,当時における天皇家はとても貧しくて,大嘗祭をとりおこなうための経済的な余裕などなかった。

 京都にある「御寺」の泉涌寺には「合計で25の陵と9つの墓がある」。だが,江戸時代末期に造営された「後月輪東山陵が孝明天皇陵」が巨大な墳墓であるほかは,ほとんどがきわめて質素な墓地の様子である。
泉涌寺航空写真

 上の画像(衛星写真)は,泉涌寺境内にあるその「合計で25の陵と9つの墓」のほとんどの部分を写している。この画像は,孝明天皇の陵(墓)が立派な墳基として造営される以前,いいかえると当時までのかなり長い期間,天皇家がいかに質素な実生活を強いられていたかを,間接的ながらも確実に教えている。

 要は,明治時代に入る寸前(文久の時期からとなるが)に,孝明天皇の陵からは再び,古代史におけるのと同じく,天皇のために巨大な墳墓を建造しだすといった,ある意味では奇想天外:時代錯誤の埋葬様式をとりはじめた。つぎの画像は,明治天皇夫婦の墓所(墳墓)である。孝明天皇の陵につづき巨大な規模になっていた。
伏見桃山陵衛星写真

 〔補注がつづく→〕 したがって,伝統だと形容されていてもその中身について本当のところ,実は分からない点だらけであった。そのため,明治維新以降に皇室の制度や行事,儀式などを「再現(再興)させる」に当たっては,古い文献を必死に探し出したりして勉強しなおしたうえで,相当に苦労して「古式らしいその儀式」を「新しく創造してきた事実」があった。

 この新しく付加されてきた事実を無視したまま「現在の皇室の儀式」全般」を「いにしえ(古)」からなどと表現するのは,その「古い時期」をまともに特定すらできないだけでなく,それこそただちに「神話創造的な明治謹製」の儀式そのものの展開だったと受けとるほかない。

 〔記事の「解説:本文」に戻る→〕   番組では,「皇位の安定的継承」についても取り上げます。平成の次の時代になると,皇位継承者は秋篠宮さま,悠仁さま,常陸宮さまの男性皇族3名となります。男系男子に限られている皇位の継承をどう考えていけばよいか。

 戦後,現憲法の下で2度にわたっておこなわれた政府の議論を,発掘資料やスクープ証言を交えて詳細に検証。「皇位継承」をめぐってなにが話しあわれたのか? 新しい時代,主権者である私たちはこの問題とどう向きあえばよいのか? そのヒントを探っていきます。

 ②「NHKスペシャル『日本人と天皇』を見るべし」(小林よしのり『BLOG あのな教えたろか。』2019年05月01日 14:06,https://yoshinori-kobayashi.com/17999/ ⇒ https://blogos.com/article/374506/ にも転載されている

 実はわしは,令和の世になったからといって,素直に喜ぶ気分になれない。昨日のNHKスペシャル『日本人と天皇』をみたか? この番組は再放送を必らずみたほうがいい。長い天皇の歴史で,側室で生まれた男子が半分もいたのだ。男系の嫡出子は,ここ400年では,3人しかいないといっていた。

 〔しかし大正天皇が産んだ〕昭和天皇から,奇跡が続いていたのだ。奇跡はそろそろ終わるのではないか? 男系男子に限った皇位継承法では,天皇制の自然消滅はもう避けられない。手遅れなのかもしれない。女系にも拡大すれば単純に2倍になるが,狂信的な男系固執派が,それを阻む。

 そのうえ,皇室には基本的人権が認められていないのに,あまりにマスコミが皇室の人びとをデマで誹謗中傷しすぎるから,男系だろうが,女系だろうが,もう結婚相手がみつからない恐れもある。

 〔とくに〕番組中の,男系に固執する平沼赳夫の言葉が衝撃だった。「悠仁親王に将来男の子が沢山お生まれになることが望ましい」「信じながら待つしかない」。思考停止の男系固執主義者,いずれ天皇制を自然消滅させた逆賊の1人として,歴史に名を残すことになるのか?

 天皇制が自然消滅すれば,国民の分断がいちじるしく進み,独裁制がたちまち出現するだろう。(引用終わり)

 この最後の結論,「天皇制なしの日本」には「国民の分断」が発生してしまい「独裁制の出現」になるという理屈は,短絡そのものである。小林よしのり先生は,ときどき,いうことが極端になり過ぎる。外国にはもちろん,「天皇・天皇制」に相当する王族階級(家族)がいない国々がたくさん存在するけれども,だからといって,それらの国々で必らず(たちまち?)「独裁国の出現」するのだという「必然性の予測」を聞かされると,こちらの頭のなかがクラクラしてくる。

 論理を逆走させて考えてみたい。天皇・天皇制みたいな特別な制度:存在が,特定の某国にもあるとしたら,「独裁制の出現」はありえないという推理になるのか? いやはや,ここまで類推が進展させうる小林よしのり先生の「発想」は,だから奇想天外ではないと指摘しておく。尊皇主義者である小林よしのり先生のことであって,この立場からなにをいおうと自由だが,聞く者をして説得力ガタ落ちになる理屈には一驚させられた。

 その理屈には,普遍性や妥当性に相当する部分や,ましてや真理性や法則性に読みとれそうな断片すら感じられない。ともかく「日本はこうなのだ!!」といったたぐいの確信的ないいぶんが独走気味であって,ともかく本当にびっくりさせられた。

 ③「改元特番でNHKだけが伝えた “不都合な真実” 」(水島宏明・上智大学教授・元日本テレビ〈NNNドキュメント〉」ディレクター稿『YAHOO! JAPAN ニュース』2019年5月1日 17:22,https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190501-00124418/

 以下にかなり長く引用するが,この水島宏明の指摘(議論)は,いまのところ「NHKスペシャル『日本人と天皇』」に関して,もっとも適切に,しかも包括的に解説している。ということで,つぎにこれをくわしく紹介することで,「日本の天皇問題」を考えるための勉強の材料にしてみたい。なお,文章そのものは文意を崩さない配慮をしつつ,補正した。
 
 ◆ 基本命題 ◆   2019年4月30日夜8時に放送された「NHKスペシャル『日本人と象徴』」での識者の提言〔は〕「日本の象徴天皇制は自然消滅する」であった。

 a) ショッキングな表現でそう語っているのは,改元の前夜に放送された「NHKスペシャル」に登場した古川貞二郎・元官房副長官だ。いまのままでは象徴天皇制は存続していくかどうか分からないと警告する。

 番組を観ると,象徴天皇制で初めてとなる「生前退位・即位」という大きな出来事を前にして,政権の中枢にいた人物でさえ強い危機感を露わにしていることが分かる。その危機感が国民の間であまりしられていない。

 この「NHKスペシャル」が問いかけた内容はあとでくわしく述べるが,他の番組は「お祝いムード」一色で,肝心な “不都合な真実” がまったくといっていいほど報道されていない。
 
 b)「5,4,3,2,1・・・令和,おめでとう!」  2019年4月30日から翌日となる2019年5月1日にかけて,テレビ番組は “改元” の話題一色である。連休中の人びとがあちこちに集まって,再び正月がやってきたようなお祝い騒ぎを繰り返している。テレビはこうしたお祭りが本当に好きで便乗して盛り上げているような感じさえある。

 〔4月〕30日は「平成」の時代を,節目となる事件や災害,トピックスの映像とともに振り返り,そこに前天皇・皇后(現上皇・上皇后)がいかに被災地の人びとらに寄り添い,「象徴としての天皇」のあり方を模索して来たのかなどについて時間をさいて伝えていた。

 筆者(引用されている原文の)は,〔4月〕30日夕方,テレビ各社が中継した前天皇の退位のセレモニー「退位礼正殿の儀」の様子を観ていた。最後まで「象徴としての私」という言葉で「象徴」としての天皇のあり方に最後まで向きあってきた思いをにじませていたのが強く印象に残った。立場は違っても同じ時代を生きてきた「人間の思い」が通じたように感じられて,心を揺さぶられた。

 c) 翌〔5月〕1日昼,皇太子から天皇に即位したばかりの新しい天皇が「即位後朝見の儀」でおことばで「象徴としての責務を果たす」と決意を述べた。一連の儀式や改元にあたっては「象徴」こそ〔が〕鍵となる言葉である。

 この両日,「ニュース番組」でも通常よりも番組時間を拡大して特別編成の態勢になっていた。当然,「象徴」としての天皇のあり方についても視聴者に示唆を与えたり,現状の問題を提起したりするような報道がおこなわれるだろうと想像していた。天皇を中心とする皇室の行儀がこれほど連続して,生中継というかたちで長時間報道されることは,かつてないからだ。

 冷静に考えれば,前天皇がこれほど強調され,それを引きついだいまの天皇も口にされた「象徴」としての天皇の役割について,突っこんで議論することがニュースなどの報道番組には求められているはずだ。ところがこの点で「象徴」に正面から切りこむ番組は民放にはなかった。

 各局のテレビ番組を観ていると,役割・機能としての「天皇」や「皇后」と,現存する前「天皇」や前「皇后」があまり明確に区別されず,丁寧な言葉づかいばかり意識して不必要な敬語が乱用されている印象を受けた。一方で,ほとんどの民放局の報道番組が触れていなかったのが,皇位継承での「女性天皇」や「女系天皇」の可能性をめぐる議論である。

 d) 「象徴」とはなにをする仕事なのかを真正面から追求して取材力を発揮したのが,NHKスペシャル「日本人と天皇」だ。「天皇」も役割としての天皇としての意味で大半をつかっていた。冒頭のナレーションはこう始まる。
 「東京の光の海に囲まれた夜の皇居。いまから4時間後に新たな天皇が即位します。これからおこなわわれる一連の儀式。天皇のしられざる伝統の姿が現われます。それは神と向きあい祈る姿です」。
 鎌倉時代から江戸時代までの即位の時におこなわれてきた神道と仏教の儀式も明らかにされる。そこには天皇と神と仏を一体にするサンスクリット語の呪文「ボロン」も明らかにされる。

 e) 4月30日放送のNHKスペシャル「日本人と天皇」というこの番組は,天皇がおこなう宗教的な儀式などを撮影した映像をふんだんに使って,天皇の宗教行事の歴史的や経緯や変化などを伝えていた。そのうえで,番組の圧巻な部分は「皇位継承」についての取材である。

 戦前の皇室典範も戦後の皇室典範も「男系男子」(男親の系譜で生まれる男子)を天皇継承の条件と定めている。これまでの歴史では女性の天皇がいた時も,「男系」(父親か祖父などが男性)の天皇であって女系はいなかった。この問題をめぐる取材が非常に深い。

 戦後に新しい憲法が発布されて,天皇は「象徴」という立場になり,宮家も11が廃止されて51人が皇族から民間人に身分が変わった。この取材班は,新憲法が発布された日に三笠宮崇仁親王(昭和天皇の末弟)が皇室典範の草案を審議していた枢密院に提出した皇室典範改正をめぐる意見書を掘り起こしたが,そこで三笠宮は以下のように書いている。
 「いまや婦人代議士も出るし,将来,女の大臣が出るのは必定であって,その時代になればいま一度,女帝の問題も再検討」するのは当然だと。
 進歩的な思考の持ち主だった三笠宮は,天皇にも基本的人権を認めて,場合によって「譲位」という選択肢を与えるべきとも書き残していた。結局,三笠宮の意見書は枢密院で検討された形跡がなかったが,その後,小泉政権で「女性天皇」「女系天皇」の問題が検討の対象になる。

 f) 2001年,当時の皇太子夫妻(現天皇皇后)に女子(愛子)が生まれたことで2005年,小泉政権で皇室典範に関する有識者会議が発足して10ヶ月間,委員はいろいろな資料をもとにして議論を進めたという。そのなかで委員がしった意外な事実があったという。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち,約半分が「側室」(第2夫人,第3夫人など)の子と判断されているという。戦後は「側室」という制度はない。過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇,124代の昭和天皇,125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで,側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持はむずかしいという声が多くの委員が認識したという。
 補注)なぜこれほどまで,過去400年間の天皇たちは「生命じたいの生産力(生産性?)」において不利があったのか。明治からの表現でいえば,皇族と華族という限られた社会集団のなかで主に,婚姻関係をむすびつづけた遺伝的・血統的な不都合が結果だったと解釈すればよいのか。

 昭和天皇の妻は,息子明仁が迎えた妻のことを「平民から東宮妃はけしからぬ」と反発していた。ともかく,大正天皇・昭和天皇からはひとまず置くとしても,平成天皇の代からは配偶者は民間人になっている。すでにその子息たちの配偶者もそうであった。もちろん側室など置いていない。

 平成天皇の孫の世代になると,この孫たちが配偶者をもち,子どもを儲けるようになったら,明治から敗戦ころまでならば非常にこだわってきた点,すなわち,天皇家の成員たちが配偶者を求める場合,

   イ) 「五摂家」(摂政関白の家柄のことで,藤原氏北家道長の流れを組むとされる近衛家,九条家,鷹司家,一条家,二条家の5家)関係者と,これにくわえて

   ロ) 江戸時代の有力藩大名一族関係者から選ぶという方法は,遺伝的・血統的な諸要因が影響しているせいか,男子の誕生「期待」に苦労する歴史を記録してきた。

   ハ) そしてその対策が,当然のようにして側室を置く方法であった。

 しかし,戦前までならばともかく,いまの時代に第2夫人,第3夫人もあるまい。彼女ら「側室」の存在は,男系の天皇系譜を維持するために必要不可欠の貯水池(日常的に活躍する予備軍)であるかのように用意されてきた。もっとも,それでも正室(第1夫人)からの嫡子として男子をうることが,ずいぶん劣化してきた様子が現象していた。

 つまり,「過去400年間」「側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇,124代の昭和天皇,125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみ」だったという事実は,とても重い事情になる。

 なぜ,そうなっていたのか? 本ブログは他日の記述でも触れておいたが,昭和戦後の時代になると,皇族たちにおける現実的な繁殖力(人間としてのその能力)に関しては,なんらか問題があるのではないかと疑わせるほど,「生命の生産性」に関して「天皇一族」は低い様相を記録していた。

 ところが,明仁が民間人美智子を嫁に迎えてからは “子どもじたいができない” という事態は,その息子2人(徳仁と秋篠宮)に関しては生じていなかった。ただし,娘の黒田清子は子どもを儲けていない。年齢的にももう儲けないとみる。

 〔NHKスペシャルの記事に戻る→〕 結局,この有識者会議では男女の区別なく「直系の長子(天皇の最初の子ども)を優先する」という最終報告を出し,翌年(2006年),政府は「女性天皇」「女系天皇」の容認に舵を切った。ところがこの動きに猛反発したのが男系の伝統を重視する人たちだった。

 g) 2006年3月に日本会議がおこなった「皇室の伝統を守る1万人大会」 この大会の映像が登場するが,日本会議の関係者の映像がNHKスペシャルのような正統派ドキュメンタリー枠で登場するのはかなり珍しい。NHKのスタッフは今回,番組制作にあたってこうした団体も正面から取材して放送している。

 当時の平岩赳夫衆議院議員(日本会議国会議員懇談会会長=当時)は,演説で以下のように語っている。
 「連帯と125代万世一系で,男系を守ってこられたご家系というのは日本のご皇室をおいてほかにはありません。守らなければならない伝統や文化は断固守っていかねばならない」。
 補注)既述のように皇室の「生命力の弱さ」は,「第1夫人」以外に「第2夫人」以下の協力を不可欠にしていた。〈皇統の連綿性〉を男子の誕生に期する皇室の方法は,民間においてであれば「息子がいなければ婿ととる」という方法を採れない。それゆえ,つまり「男系天皇の考え方」は,男子の誕生が実現しないとただちに,その困難に遭遇させられる。
 さらに,國學院大學名誉教授の大原康男さんもインタビューで「女系はいまだかつてない,まったく別の王朝が生まれること」などと説明するが,けっきょく2006年秋に秋篠宮夫妻に長男の悠仁が誕生すると議論は棚上げとなり,みおくられた。
 補注)「別の王朝」ウンヌンの話題は,大いに「笑える」。古代史における天皇問題を少しはしっている者であれば,このような単純国粋・右翼ゴリゴリの識者による発言は,笑止千万であるどころか,いまどき「王朝」がどうだこうだなどとは,『日本昔話』のほうだけでオダを挙げてほしい〈発想〉であった。

 h) だが,有識者会議の委員の1人だった元官房副長官の古川貞二郎は,以下のような言葉を述べるのである。
 「私はね,不本意ながら,本当に日本の象徴天皇制は自然消滅するのね,そういう言葉は使いたくないけれど,そういう可能性が高いんじゃないかというふうに心配しますですね。これは。というのはお1人。いずれ悠仁親王殿下おひとりになられる」。

 「本当に国民が理解し支持するという案で,この象徴天皇制を継承する議論をし,取り組みをしないと,私は後生に非常に悔いを残すことになりはしないだろうか,というふうに思いますね」。
 確かに,これまで125代の天皇のうち,側室から生まれていない天皇が3人しかないのであれば,側室という制度がなくなった以上,「女性天皇」を認めて「女系天皇」を認めないかぎりは,古川氏のいうとおりで「自然消滅」してしまう可能性が高い。
 補注)ヨーロッパの王室事情はさておいても,なぜ日本がここまで男系の天皇に執心するのか,まことに不可解である。万邦無比のこのニッポンだからこそ,そうしたY染色体に依拠する皇統の連綿性を堅持する必要性があるといったところで,民主主義の基本精神をまともに理解している者にいわせれば,理解不能な主張になるほかない。

 「男系」を維持すべきと訴えてきた(日本会議系の)人たちは「ある案」に期待を寄せていると,番組で紹介している。それは旧宮家の子孫を皇族に復帰させることで,男系が続く家の男子が女性皇族と結婚するか,皇族の養子になってもらう,という案だという。

 いずれにせよ,本人にその意思がなければ実現できないため,NHKの番組取材班は旧宮家の人たちに「質問状」を送って,皇族に復帰する気持があるかどうかを尋ねたところ,全員が「この件はコメントをさし控えたい」という反応だった。
 補注)JOC会長であった竹田恒和のように,明治時代に創設された皇族の末裔として(敗戦後に生まれた彼自身が皇族であった時期はなかったが)の立場を最大限に活かす人生を過ごした人物であればともかく,「華族の歴史は遠くになりにけり」であって,いまさら「今世紀にも残る遺物:日本の天皇・天皇制」のなかに戻りたいと,それも明確に意思表示する元皇族たちの子孫がいなかったという報告であった。

 i) 番組では「仮に復帰する意思があったとしても皇室典範の改正は必要」とナレーションで説明。「女系」に反対する急先鋒だった平沼赳夫元衆議院議員にもインタビューしている。

 ◆平沼赳夫元議員 「やっぱり悠仁親王に男の子がたくさん将来お生まれになることが望ましい」。

  ◇ディレクター 「一般のわれわれにしても,女の子がずっと生まれるというのはある。天皇家だけ例外があるのかというとそれも・・・」。
 補注)この発言は言外に「側室がいれば男子を産ませることができるのだが」とでも,いいたげな口調であった。

 ◆(平沼,しばらく無言で考えたあとで) 「誰も結論は出ないでしょうけどじっと待つしかないな。それを信じながら」。

 右派の大物議員で現政権にも少なからぬ影響力を与える人物でさえ「じっと待つ」「信じる」という他にこれという妙案がないという。そうであればこそ,100年先,200年先でも継続するような仕組を国民全体でどうやってつくるのか議論することが必要なテーマであるはずだ。
 補注)天皇によって “象徴されているという国民全体” の立場があると想定されているけれども,天皇・天皇制というものは,本当にどうしても「欠くべからざる人・存在」であるのか。こうした問題意識を突きつめて考えぬくための論理的な操作が,「日本における民主主義の状態・水準」を再考し,判断するさい,不可欠の条件になるはずである。

 それらの関連性のなかに含まれている諸論点が,いい加減にあつかわれてはいけない。ところが,そこに伏在する基本的な問題点の決着をつけようとする努力が回避されている。それゆえか,女性・女系天皇の話題が浮かんではまた沈むという経過をたどってきた。

 j) この番組の最後は,戦後すぐに皇室典範に「女性天皇」「女系天皇」の余地を検討すべきだと提言していた三笠宮崇仁親王の晩年の声が登場する。2004年にNHKのラジオ番組に出演した時の肉声だ。
 「女帝じたいも大変だし,けれどもこんどは一般の人が配偶者になるということはこれは大変で,戦後,華族制度がなくなりまして,華族制度をなくすということは,いわば,天皇制の外堀を埋められたようなこと……。いまになって考えますとね,だから女帝になっても,配偶者になる方がいないんじゃないかと思うんですね」。

 「いまの日本人では……。いまはマスコミが騒ぎすぎますねえ。あれだと本当に将来もそういう立場になるという人もおじけづくだろうし……。理屈では当然,女帝であってもしかるべきだけれども,現実問題としては,はたしてそれがどうなるのか。女帝おひとりで終わっちゃうのも困りますしね,これはともかく大きな問題だと思いますね」。
 補注)まず「明仁と美智子の組みあわせ」でもって,いわゆる皇族系統の血筋は2分の1になった。

 次代の「徳仁と雅子の組みあわせ」と「秋篠宮と紀子の組みあわせ」とで,その血筋は4分の1になった。これがさらに,もしも悠仁がまた民間人と結婚することになったら,8分の1になる。

 「皇統の連綿性」という表現に充填させられていた「日本の,もしかすると高貴な純血性」は,そうした分割の進展によって,相当に薄められてきた(そうなっていく?)と理解できなくもない。


 しかし,それが「8分の1」になってもまだ,アメリカにおける黒人差別の歴史に鑑みていうと,こちらでは黒人の世代が白人と3代つづけて結婚し,子どもを儲けていても,まだ黒人だとみなすという「ある種の特定の差別観」を参考にもして,前段のごとき皇統の血統性の薄まりを,こちら側に都合よくだけ解釈できないことはない。

 それにしても,ずいぶん奇怪な議論になってしまった。

 三笠宮は皇室のゆくすえを案じながら,3年前に100歳でこの世を去った。この部分の音声には,前天皇一家の家族写真の映像が挿入されている。現天皇の長女・愛子さまの他に秋篠宮夫妻(現皇嗣・皇嗣妃夫妻)の長女眞子や次女の佳子も写っている写真である。

 眞子とかつて婚約を発表した小室 圭さんをめぐる報道を思い出してみても,確かに将来,女帝が誕生するにしても,その配偶者になる人が現われるものだろうかと想像してみる。あらためて三笠宮の慧眼には恐れ入るほかない。

 三笠宮が考えていた「持続可能性がある象徴天皇制」ということを考えると,現状ではあまりに課題が多いということをこの番組で突きつけられた気がする。

 k)「お祝いムード」一色に染まったテレビ番組が圧倒的に多いなかで,このNHKスペシャルは長い目で観た「象徴天皇」のあり方を国民に訴える非常にすぐれたドキュメンタリー番組だったと思う。番組の最後のナレーションはこう終わっている。筆者自身の経験でも番組の最後のナレーションは制作者がそれこそ全身全霊をかけて書き上げるものだ。
 「長い歴史のなかで,伝統を受けつぐそれぞれの時代の日本人の姿を反映した天皇をめぐる課題に,主権者である私たちはどう向きあっていくのか。新たな天皇になにを期待し,どのような時代をともに作っていくのか。その問いとともに,令和がまもなく始まります」。
 生前退位の儀式のあとにNHKが放送したドキュメンタリーが突きつける課題は,とても重い。お祝いムードに浮かれてばかりいるのではいけない。象徴天皇制をどうつくっていくかは,私たち1人ひとりの国民の意識なのだと訴えている言葉だ。日本人が「象徴天皇」について考えるこの数日,どうあるのが望ましいのかじっくり考えるべきだろう。(引用終わり)

 以上による問題提起の仕方は「どうあるのが望ましいのかじっくり考えるべきだ」といいきっていた。だが,それ以外の問題意識のもち方:構え方もあっていいはずである。たとえば,現状のごとき皇室や皇族の「存在そのものが望ましいのかじっくり考えるべきだ」といえなくもない。

 現在にまで至っている「天皇・天皇制」の問題は,右翼と左翼(保守か革新)だといった “思想・立場の色分け” によって考えるのではなく,日本における民主主義に対して「その歴史が残してきた足跡」を的確に踏まえたうえで,現在において必要な本質的な議論に入り,さらには政策的な思考をめぐらす必要がある。

 もっとも,女性天皇・女系天皇を置けばひとまず,以上のごとき議論が指示した困難の大部分は消滅する。この点は,ヨーロッパの王室事情を対置させて考えてみるまでもなく,自明に過ぎる「論理の到着駅」である。男系にこだわる国粋・右翼・保守・反動の政治思想は,男女差別を公然と是認する社会思想でもあるゆえ,どたい時代遅れで倒錯した観念を保持している。

 ところが,この21世紀になってもまだ,皇室のなかに「女性差別に関する橋頭堡」を維持しておきたい頑迷固陋の人間たちが大勢いる。しかも現政権は,そうした化石化した脳細胞の持主が中枢を占めている。

 ④「〈1条 憲法を考える:3〉家父長制の影,縛られる女性」(『朝日新聞』2019年5月3日朝刊3面「総合」)

 この記事は前半の段落から5分の2ほどを引用する。いまどき少子高齢化した日本社会のなかで,この記事に指摘されているごときこの国の「女性観」がいかに時代遅れであって,それだからこそ,人口減少の大波に押し流されようとしている現状に対して,歯止めさえかけられないでいる「安倍晋三政権の無力的な体たらくさ加減」も対照的に鮮明となっていた。

 「戦後レジームからの脱却」を唱えた安倍晋三であった。だが,そこに描かれている「戦前像」(美しい国?)が本当に恋しいのだとしたら,この首相は「自国の歴史」をしらない,トンデモない日本の最高指導者である。天皇代替わりにさいは,必要もないのに前面に踊り出ては,この皇室行事までも「私物化」した安倍晋三の醜態は,非常にみぐるしかった。つぎの段落から記事を引用する。

 --天皇は戦前,「国民の父」と位置づけられた。日本国憲法の制定をめぐる73年前の議会では,この関係を1条に残そうという議論もあった。天皇家が注目されるのは,日本の家族の象徴という背景もある。

 天皇が国民(臣民)の父と明確に位置づけられたのは明治期だ。1898年,明治政府は主に男性を戸主(家長)として他の家族を支配する「家制度」を民法に導入。その頂点が天皇家で,天皇を臣民の父とし,日本全体を「家族国家」とする物語がつくられた。

 横浜国立大学の加藤千香子教授(日本近現代史)によると,20世紀初頭,西欧の個人主義に対抗して,家父長制による家を中心とする家族は「日本の強み」とされたという。

 1920年代から都市化の波が押し寄せ,家制度が崩れはじめる。そこで旧内務省は新しい女性像として,家を守って子育てをすることで社会的な役割を果たす「良妻賢母」を推奨。欧米で増えていた高等教育を受けた独身女性は良妻賢母のアンチモデルとされ,日本の女性像は「母」に特化されていく。「母」は「家族」を通して,戦時下の国家総動員体制を支えた。
 補注)しかし,この戦争中の国家総動員法は「女性を家庭から解放する」背景を意図せずして提供してきた。男性が戦争の現場に大勢動員された職場などには,女性たちが代替要員として駆り出されたのである。

 以前であれば考えられなかった,男性の仕事・職場だとみなされていた現場に女性たちが進出していった。その意味で戦争は「良妻賢母」という女性向けの理想像を,二律背反であった国家的要請のもとで,いわば板挟み状態にさせた。

 敗戦を経て新憲法の制定を議論した議会では,象徴天皇制と国民主権を共存させた1条について双方の関係をめぐる論争が起きた。1946年年9月の貴族院では「天皇と国民との関係は個人的な象徴関係のみにとどまらず家長と家族との間の象徴的関係にも相当する」との考えが示された。

 これに対し,憲法担当の金森徳次郎・国務相は「そういう貴重なる天皇の御特質は,憲法以外の国民の広い精神生活のなかに残して」と応じた。1条で天皇と国民との家族関係を明確にするよう求める意見まで飛び出した。

 新憲法では男女平等がうたわれ,家制度は廃止されたが,加藤教授は「家制度がなくなっても天皇制は残り,国民のなかに内面化され,いまも女性を縛りつづけている」という一面を指摘する。とりわけ「良妻賢母」の考えは戦後,専業主婦世帯がモデルとされるなかで生き残り,現在も女性へのプレッシャーとなっている。(引用終わり)

 いまの時代は,「良妻賢母」をやりたくても,また専業主婦になりたくても,とてもではないが「産業社会・企業社会」の側がそうはさせてくれない。そのように高邁であり,また優雅が実際の生活を享受できている女性は,もはや少数派である。

 ところが,この国の極度に頑迷なる「エセ国粋・保守・右翼の者たち」は,もとよりできもしないし,そのための現実的な条件も与えられていない日本の女性たちに向けて,ヤマト国家理想風の『家族の絆』となる主婦の役目を指示しようとしてきた。

 実際問題として,2016年2月15日のことであったが,匿名ダイアリーに投稿された「保育園落ちた日本死ね!!! 」という子持ち女性の投じた発言は,『家族の絆』を結ばせ守る役割を女性の側にだけ私的次元で要求する,しかも旧態依然の時代感覚がいかほどにまで「21世紀的にも浮世離れ」しているかに,まったく無知な「それらの者たち」の本質を暴露していた。

 ⑥「『象徴』,依存する日本人 法哲学者・井上達夫さんに聞く」(『朝日新聞』2019年5月3日19面「文化・文芸」)から

 改元後初めての憲法記念日を迎えた。日本国憲法が明記した天皇の地位「象徴」の具体像は,平成を通じて大きく変わった。独自のリベラリズム論を展開してきた法哲学者の井上達夫・東大教授は,天皇に依存しつづける日本のいまのあり方にリベラルな理念の欠如が読みとれるという。どういうことなのか。(なお,以下では◆は記者,◇が井上である)
      ※「われら」のため利用,リベラリズムと相反

 ◆ 日本国憲法で2度目の代替わりになりました。

  ◇ 「昭和から平成の時とは大きな違いを感じます。昭和天皇の体調が悪化してから社会に蔓延(まんえん)したのは『自粛』という名の同調圧力ですが,今回は穏やかな歓迎ムード。死去と生前退位の違いはありますが,天皇の存在の変化もあるでしょう」。

  「日本国憲法は天皇の地位が『主権の存する日本国民の総意に基く』と定めます。明仁天皇はこの憲法下即位した初めての天皇です。みずからの地位の正統性の根拠である『国民の総意』による支持を日々調達しないといけない。その自覚ゆえに国事行為を超え,慰霊の旅などを繰り返した」。

  「とくに強く印象に残っているのはハンセン病患者への慰問です。家族とも切り離された人たちのもとに足を運ぶ。こうした『忘れ去られた』人たちを社会的に包摂しようとした振るまいの蓄積ゆえに,天皇制への高い支持を可能にし,暗さのない代替わりにつながった」。

 ◆ 象徴天皇制が多様な人の生を社会に包摂していく。つまり平成を通じてリベラルな社会になっていった,と。
 
  ◇「私はリベラリズムを『異質な他者との共生』の思想としてとらえています。確かに天皇個人はリベラルな人物だったと思います。都教育委員(当時)で将棋棋士の米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を掲げ,国歌を斉唱させることが私の仕事』と園遊会でいうと,強制にならないように,と答えた。憲法上明記された天皇の国事行為以外に踏みこむ言動はリスクを伴う。政治的な行為・発言は禁じられ,生前退位の意思を明らかにした『おことば』には批判の声も上がった。それでもリスクをとったのはリベラルな考えゆえでしょう」。

  「ただ天皇個人と天皇制は区別して考えないといけない。私は象徴天皇制を,日本に残った最後の『奴隷制』だと考えます」。

 ◆ 奴隷制,ですか。

  ◇「民主主義とは『われら人民』による自己統治です。統治者たる『われら人民』を一体化させるシンボル(記号)として,特定の血統をもった天皇・皇族を利用しているのが『象徴天皇制』です。記号的存在にされた天皇・皇族は政治権力どころか人権まで剥奪され,表現の自由や職業選択の自由もない」。

  「皇位継承が男性に限られ,女性の皇族だけが民間人と結婚したら自動的に皇族離脱するのはひどい女性差別で,法の下の平等を定めた憲法14条違反ですが,問題視する声はかつてより小さくなっている。主権者国民が一体化できるための結節点として天皇・皇族が利用され『人権なき記号』と扱われることに違和感がないのです」。
 さて,白井新平『奴隷制としての天皇制』(三一書房,1977年)という本があった。この本は,つぎのようなことを述べていた。

 まず,敗戦後における日本の政治体制について,これは「三度目」に外国軍に占領された「マッカーサーの象徴天皇制だ」といいきり(163頁),「天皇制の問題に関していえば」「民主主義と天皇制とは絶対に両立しない」のは,「天皇制とは支配政治機能のもっとも原始的なるものそして典型的なる制度であるから」だ(262頁)とも断定していた。

 白井新平は併せて,こうもいっていた。「奈良の大仏と同じに,千五百年の歴史的な化石である(160頁)」のが,天皇制だと指摘していた。となれば,女性天皇・女系天皇を絶対に認めないエセ国粋・保守・右翼の者たちは,安倍晋三の呪文であった「戦後レジームからの脱却」などからもはるかに越えて,一気に「古代史の世界」にまで飛翔している。これすなわち,すでに漫画物語でなければ,ただ風刺絵にされるだけの対象。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        


 【「令和」騒ぎのなかで,日常生活に関するニュース(NEWS),ふだんの「東西南北」に関する報道が排除,追放されている】

 【国民たちに「寄り添う」という新天皇の考えは,いかほどに「実現可能性」がありうるか】



 ①「天声人語」(『朝日新聞』2019年5月2日朝刊1面)が忌野
清志郎(いまわの・きよしろう)をとりあげていた

 この天声人語の執筆者は「平成から令和へと元号が替わる」ときに,大声で指摘するわけにはいかないけれども,なにか一言いいたいことがあったと推察する。

 だが,そのいいたいことがなんであったのか,この天声人語を読んだだけではよく察知できない。深読みすらできない。ただここでは,つぎのツイートなどを介して「忌野清志郎の発言」を紹介しておく。
 註記)以下の引用は「規制だらけの世の中で。グサッとくる忌野清志郎の名言34選」『ViRATES 毎日,オモシロイ』2015/02/16,https://virates.com/society/1590845 から「3件の発言」を拾っておく。
 ※-1 この国の憲法九条を知っているかい。戦争はしない。戦争に加担しない。愛と平和なんだ。まるでジョン・レノンの歌みたいじゃないか。
 註記)忌野清志郎 @kiyoshiro_bot,138   22:17 - 2013年7月14日。
       忌野清志郎画像
      出所)https://dic.nicovideo.jp/a/忌野清志郎 

 ※-2 この国は島国だから,なかなか人間の本当の痛みは伝わってこない。それで,ふぬけのパッパラパーのおぼっちゃんが総理大臣やら国会議員になって何か勘違いしながら,重要法案なんかが決定されてしまう。
 註記)忌野清志郎 瀕死の語録問屋 @kiyoshirogoroku, 63   0:49 - 2015年1月15日。ぼくの自転車のうしろに乗りなよ / 第76回 / TV Bros / 2004年5月29日号。
 
 ※-3 地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる。国民をバカにして戦争にかり立てる。自分は安全なところで偉そうにしてるだけ。
 註記)忌野清志郎 @kiyoshiro_bot,65 17:26 - 2012年11月23日。http://bit.ly/wCIUpz(この住所のリンク先は現在不詳)
 ② 2019年5月1日『朝日新聞』と『日本経済新聞』の夕刊には「メーデー」の文字がみつからなかった

 1)メーデーの起源と意味
 5月1日とは May Day であるが,その行事がなされていたはずなのに,朝日新聞と日経の夕刊をみたかぎり,なにも関連する記事がなかった。ベタ記事すらみつからなかった。

 連合(日本労働組合総連合会)のホームページに「『メーデー』ってなに?」という解説があるので,これを引用しておく。
  註記)引用は,https://www.jtuc-rengo.or.jp/column/column005.html
 ゴールデンウィークのころになると,毎年ニュースでとりあ上げられる「メーデー」。全国で10万人以上が参加する大イベントだが,その起源は意外にしられていない。このメーデーは,英語で書くと “May  Day” 。古くからヨーロッパでは「夏の訪れを祝う日」とされ祝日とされてきた。

 その始まりは1886年の5月1日,アメリカのシカゴで,1日12~14時間勤務が当たりまえだった労働環境の改善を求めて労働者がゼネラルストライキ(全国的な規模でおこなわれる労働争議)を起こし,8時間労働の実現を要求したことに由来する。以降,労働者たちが集まり権利を主張する日として,ヨーロッパをはじめ各地に広がったのがメーデーである。

 いまでは5月1日を「労働者の祭典」として祝日とする国も多く,この日は世界中で労働者たちのイベントや,デモ行進などがおこなわれている。日本も例外ではなく,連合では毎年この時期に,東京での中央大会にくわえ,各地でも地方大会が開かれ,大規模なイベントを実施している。

 日本では1920年5月2日に第1回メーデーが東京・上野公園で開かれた。 第2次世界大戦中は政府により開催が禁止されたが,戦後,労働組合の活動再開とともに再び開かれるようになり,日本の労働者の地位や労働条件の向上,権利拡大をはじめ,人権・労働基本権の確立,民主主義の発展,恒久平和の希求に深く貢献し,その役割を果たしてきた。

 メーデーには各産業別に組織される産業別労働組合組織(産別)や産別を構成している単位労働組合(単組)から組合員が結集し,労働者の地位や労働条件の向上にとどまらず,人権や労働基本権の確立,民主主義の発展,恒久平和の希求など,社会に向けてメッセージを発信している。 (後略)  
 註記)https://www.jtuc-rengo.or.jp/column/column005.html
 2)いまも『男尊女卑の国』:「明治謹製」になる
        「近代的な伝統」が『皇室内の女性を差別』
 戦前・戦中における治安維持法が労働者たちの「メーデー的な意志・活動」を真っ向から抑圧する法律であったことはいうまでもない。治安維持法は当初,1925年に(大正14年4月22日法律第46号)として制定されたのち,1941年(昭和16年3月10日法律第54号)に全部改正されてもいたが,その目的は「国体(皇室)や私有財産制を否定する運動」を取り締まることであった。

 要は,普通選挙法が帝国臣民の男性のみに適用され,選挙権は満25歳以上の男子,被選挙権は満30歳以上の男子のみに与えられていた。その意味で当時の女性は,選挙権に関して人間としての基本的な権利を与えられていなかった。

 そのころの時代背景には,大正デモクラシーの要望に譲歩して1925〔大正14〕年3月に普通選挙法を成立させたものの,これに反対する枢密院工作として治安維持法を同時に成立させたという経緯があった。
 補注)枢密院(すうみついん)とは,国王・皇帝(日本では天皇)の諮問機関である。大統領が元首を務める共和制国家にはこのような機関はなく,「枢密」とは機密や政治上の重要な秘密を指している。敗戦後にはなくなった。

 21世紀になっても日本の皇室では,女性天皇を認めない「明治謹製」の旧皇室典範の〈伝統〉をそのまま継承している。戦前・戦中における女性に参政権がなかった事実と並べてみるとき,実に意味深長である。敗戦後,新憲法(日本国憲法)が1946年(昭和21年)11月3日公布され,1947年(昭和22年)5月3日施行されて,ようやく女性の参政権が認められた。

 3)女性天皇
問題
 しかし,皇室典範は新憲法下でも,旧憲法(大日本帝国憲法)との整合性に難がある条項をのぞいたり修正したりした以外は,そのまま女性天皇を認めずに現在も使用されている。ということで,21世紀の冒頭における一時期,それも小泉純一郎内閣のときであったが,つぎのような議論がなされていた。

 日本政府は1997年から2004年まで,皇位継承の有資格者を女性皇族にまで拡大できるかどうかについて,極秘の検討会を開いていた。政府の内部文書や証言で確認できたのは,女性・女系天皇を認める皇室典範の早期改正方針が記されていた点である。この検討会開始の背景には,天皇陛下の孫の世代に当時,継承資格者がいないという危機感があった。

 小泉純一郎首相が設置した有識者会議の結論(2005年)を受け,小泉は皇室典範の改正に乗り出そうとしたが,2006年に秋篠宮夫婦長男悠仁(ひさひと)が生まれたので,断念することにした。しかし,現在のところ,悠仁以外に同世代の継承資格者はおらず,課題は残ったままとされる。

 以上  2)の話題をまとめてみると,ひとまずこうなる。

    戦前・戦中の帝国臣民の参政権:男性のみ ⇒ 戦後の日本国民のそれは「男女平等」

    戦前・戦中の皇位継承は「男子のみ」 ⇒ 戦後のそれも依然「男子のみ」

 参考にまで紹介しておくが,本日〔5月2日〕『朝日新聞』朝刊2面「総合」の記事「〈1条 憲法を考える:2〉『皇室に親しみ』,ふわっとした国民統合」は,最初にこう書き出していた。
  憲法1条は天皇について,「日本国の象徴」であるとともに「国民統合の象徴」とも定める。平成の30年間,全国を駆けまわり,被災者らに寄り添って平和の大切さを伝えてきた上皇ご夫妻の姿を通じて,国民の間には好感が広がった。これは,象徴天皇制や「国民統合」の理想モデルなのか。
 そして,この記事は最後の段落をこうまとめていた。
 「裏返せば,国民は不満をある程度解消され,議論や思考を深めてぶつけ合わずに済んだ。天皇のおかげで良い意味でも悪い意味でも,ぬるくて快適な日本の社会機構を続けられたともいえる」。

 「価値観やルーツの多様化が加速していく令和の時代に,このまま天皇に頼る『統合』のモデルは今後も通用するのだろうか。私たち国民も考えなければならない時を迎えている」。
 ③ 大日本帝国憲法と日本国憲法の共通性

 a) 明治謹製の天皇・天皇制が21世紀の現段階において,はたしていかほど妥当性がありうるか。この疑問点をどのような立場・思想からであれ,まともに議論する雰囲気が希薄になっている。

 そもそも憲法の第1条で「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と断わられてはいるものの,

 この憲法が準備されたとき,「日本国民の総意」なんぞは,直接的にという意味でいえば「まったく介在しておらず,完全に無視されていた」。これは事実である。一部の政治家がGHQやマッカーサーとウンヌンしたたぐいの問題は,ひとまず埒外。

 旧憲法(大日本帝国憲法)と抱きあわせというか,むしろその冠の位置に定置されていた「皇室典範の政治的な価値体系」は,敗戦後のなかに実質的にそのままもちこまれた。男系天皇しか認めないという明治以来の『新しく「創られた天皇・天皇制」』の根本的に不可避の矛盾は,いまだに元気に生きながらえているわけである。

 市川房枝がこういっていた。日本の「近代国家は女性の政治的権利を奪って成立した」と。

 皇室内における女性天皇禁止(しかもこれはけっして古来からの伝統ではないもの)も,明治の時代において近代国家とともにはじまっていたのだから,これをいまとなっても,まだ修正(是正)できていない日本という国家は,現在的にという意味でも,その民主主義としての『基幹に潜む問題性(痼疾)』がきびしく問われてつづけている。

 b) したがって,『朝日新聞』朝刊が3面「特集」の冒頭記事は,「皇族減少,対策不可避 皇位継承権,男系男子3人のみに 女性・女系議論,先送り続く」との見出しをかかげてつぎのように伝えた皇室事情は,いったいどのように受けとめればいいのか。複雑な気持をもって受けとめられるはずである。
   『朝日新聞』2019年5月2日朝刊剣璽等承継の儀
 1日午前の「剣璽(けんじ)等承継の儀」。皇位のしるしとされる神器などを引きつぐ儀式には皇位継承資格のある成人しか立ち会えないため,陪席は53歳の秋篠宮さま,83歳の常陸宮さまの2人だった。皇統を担えるのは,12歳の悠仁さまをくわえた3人しかいない。
 日本の皇室はいまどき,ここまでとことん,女性を差別している。観方にもよるが,ある意味では “風刺されるべきかっこうの対象” にもなる。そのようにとりあげられて当然の「日本皇室事情の一環」が,国内外に向けて常時晒されている。ヨーロッパの王室事情には触れるまでもあるまい。この国が本当に先進国であるつもりならば,「恥」とみなされるほかない皇室事情が放置されていていいわけがない。

 また『朝日新聞』朝刊が4面「特集」は,「〈憲法を考える〉敗戦が生んだ条文はいま  日本・ドイツ・イタリア,根幹の理念に」との見出しで,「憲法を考える〔ための〕視点・論点・注目点」として,「1条・象徴天皇制 / 9条・戦争放棄 不可分の一対,受け入れ」「自衛隊の役割拡大,欠ける国民合意」「『国民主権』考えるとき」「ドイツ『人間の尊厳』 イタリア『社会権』 虐殺・ファシズム,反省」などの項目を立てて議論している。
『朝日新聞』2019年5月2日朝刊4面日独伊敗戦比較
 
 この特集記事に添えられていた上の表は「敗戦後」における「日独伊3国の憲法比較」であるが,これをのぞいてみただけでも,日本の新憲法の「押しつけ」性はすぐに感知できる。「押しつけられた」のは9条だけでなく,その前の条文に置かれた第1条以下の「天皇関連条項」でもあった。

 ④「平成から令和への元号変更」で大騒ぎするマスコミは,メーデーを極力無視する紙面構成(報道姿勢・編集方針)を採ったが,これがのちの歴史のなかでなんと形容されるか承知だと推察する

 この ④ は最初に「【社会】『きょうは労働者の日』全労連メーデー」(『東京新聞』2019年5月1日夕刊,https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019050102000223.html)を引用する。

 これは,2019年5月1日「夕刊」の段階での指摘となる。毎年恒例であり,この日にも開催されていた「労働者のお祭りの日:メーデー」の行事を,新聞社として報道していたのは,本ブログ筆者がしりえた範囲内でいうと,この『東京新聞』夕刊の報道があった。記事を引用する。
 全労連の第90回中央メーデー式典が〔5月〕1日,東京都渋谷区の代々木公園で開かれ2万8千人(主催者発表)が参加した。あいさつに立った小田川義和議長は「元号が変われば富の偏在は改まり,過労死するまでの働き方でも賃金低下する異常は解消されるか」と祝賀ムードにくぎを刺した。

 中央のステージには「なくせ貧困・格差」「8時間働けば暮らせる社会を!」などのスローガンがかかげられ,労働組合の代表者らが長時間労働の是正などを訴えた。

 参加した目黒区の木村新一さん(85歳)は「天皇が代わっても,われわれ庶民の暮らしは苦しいままだ」と指摘。豊島区の野本祐一さん(75歳)は「今日は労働者の日。開催できて良かった」と話した。

 全国労働組合連絡協議会(全労協)もこの日,日比谷野外音楽堂(千代田区)でメーデー式典を開催した。
 全労協という労働組合の上部組織の名前が出ていたので,つぎには,関係する記事の2点を組みあわせて引用してみたい。ただし,5月1日以前の日に開催されたメーデーの行事に関する報道もある。

 1)「連合がメーデー中央大会『過労死・自殺根絶を』」,『共同通信』2019/4/27 11:52 配信,引用は『YAHOO! JAPAN ニュース』https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190427-00000059-kyodonews-soci

連合がメーデー中央大会 「過労死・自殺根絶を」★

 連合は〔4月〕27日,第90回メーデー中央大会を東京都渋谷区の代々木公園で開き,約3万7千人が参加した(主催者発表)。神津里季生会長は「長時間労働を是正し,過労死・過労自殺を根絶することが先決だ。働く仲間が生き生きと働くことのできる世の中にしないといけない」と訴えた。

 冒頭で日本のメーデーは大正時代から始まったと触れ,「令和につないでいく記念すべき大会」と述べた。ジェンダーの平等で日本が世界的に後れをとっていると指摘し,「あらゆるハラスメントの撲滅は大きな課題。しっかりと取り組まなければいけない」と強調した。
 補注)なお,メーデーの開催日に関しては,このような期日(4月27日など)に設定がなされている。つまり,メーデーの「5月1日」が連休の真ん中あたりに位置する関係上,メーデーをその先頭の日付に写して開催するようになっていた。

 2)「全労連がメーデー式典」(「ゆがんだ政治を正せ」『共同通信』2019/5/1 18:46,https://this.kiji.is/496234621765682273)

全労連がメーデー式典 ★

 全労連系の第90回中央メーデー式典が〔5月〕1日,東京都渋谷区の代々木公園で開かれ,主催者発表で約2万8千人が参加した。小田川義和議長は,政府が進める働き方改革について「安価な労働力として女性や高齢者,外国人を調達するためのものだ」と批判し,「ゆがんだ政治を正すため力を合わせよう」と訴えた。

 小田川氏は,平成の30年間で平均賃金は低下したにもかかわらず,大企業の内部留保が5倍になったと指摘し,「元号が変われば,富の偏在や賃金低下は解消されるのか」と訴えた。共産党の志位和夫委員長は「8時間働けば普通に暮らせる社会をいっしょにつくりましょう」と呼びかけた。

 3)「全労連が中央メーデー」(『NHK NEWS WEB』〔首都圏 NEWS WEB〕2005月01日  12時34分,https://www3.nhk.or.jp/lnews/shutoken/20190501/1000029149.html)にも聞いておきたい。

 元号が平成から令和に変わった5月1日はメーデーで,各地で労働組合の集会が開かれ,元号が変わっても貧困や格差をなくし,雇用を安定させるよう訴えていくことを確認しました。このうち,東京・渋谷区の代々木公園で開かれた全労連の中央メーデーには,主催者の発表でおよそ2万8千人が参加しました。

 全労連の小田川義和議長は「元号が変わっても,富の偏在や賃金の低下が解消することはない。労働者は,どの時代にも人間らしく働ける社会や,貧困の恐怖のない未来をめざして闘いつづける存在であることを確認しよう」と訴えました。

 このあと,集会では「貧困や格差,ハラスメントが深刻になっている」として,8時間働いて普通に暮らせる賃金や働くルールの確立をめざすことなどを盛りこんだメーデー宣言を採択しました。

 出版社で営業を担当しているという40歳の男性は「平成は長時間労働が厳しく,大変な時代だった。新しい時代は働きやすく,平和な時代であってほしい」と話していました。

 労働組合の役員を務めているという58歳の男性は「企業の思うがままに首を切られるなど,悲惨な相談が労働組合に寄せられている。働き方をこれからの時代で変えてほしい」と話していました。(引用終わり)

 この話題,労働者の賃金や労働条件に関する現実の問題というものが,はたして「平成」だとか「令和」だとかいった「元号による時期の区切り」をもって,一定の特別な意味をそれぞれの時期内においてもちうるのかと問われて,まともに返答できる人はいない。

 ただ「そうだからそうなのだ」「そう思えば思えないこともない」という程度にしか考えるほかない。その意味があると考えたい人についていえば,自分なりに十分に,しかも問答無用的にも「先験的に得心したつもりの観念」を抱きつつ,元号の変更による時期の区分には “なにか格別に意味がある” と受けとっている場合,この意識まで否定することはあるまい。それほどにまで「主観的な次元における問題」でありうるのが「元号の意識」であった。
   
 4)「待遇改善の訴え,外国人労働者も メーデー大会」(『朝日新聞』2019年4月28日朝刊2面)

 5月1日のメーデーを前に,労働組合の中央組織・連合が〔4月〕27日,90回目の「メーデー中央大会」を東京・代々木で開いた。4月から新たな在留資格「特定技能」が設けられたことを受け,外国人労働者でつくる労働組合の幹部らも参加して待遇改善を訴えた。
 
 「在日ビルマ市民労働組合」(東京)のミンスイ会長(58歳)が岐阜県で働く技能実習生3人とステージに立ち,「(3人は)以前,人権侵害に悩まされていた」と紹介。「これから増える外国人労働者のために,皆さんの力を貸してください」と,集まった約3万7千人(主催者発表)に訴えた。

 2002年に結成されたこの労組には約130人が加入し,日本で働くミャンマー人から相談を受けている。主に技能実習生から「3カ月間無給で働かされている」「1カ月に休日がまったくない」といった声が月に7,8件寄せられるという。ミンスイ会長は「人手不足のなかで外国人労働者が働く環境をよくしていくことは,日本の未来のためにもなるはず」と話した。

 特定技能をめぐっては大会前日の〔4月〕26日,カンボジア国籍の女性技能実習生2人が初めて,特定技能での在留資格の取得を認められている。

 大会はさらに「(時間外労働について労使で結ぶ)36協定 註記)の順守など,真に働く者のための働き方改革を確実に遂行していかなければならない」とのメーデー宣言を採択した。働き方改革の関連法が施行され,まず大企業に残業時間の罰則つき上限規制が4月から導入されている。連合の神津里季生(りきお)会長は「長時間労働を是正して過労死,過労自殺を根絶していく」とあいさつした。
 註記)36協定とは, 従業員に残業や休日労働をおこなわせるさいに必らず締結しておかなくてはいけない協定である。この協定が労働基準法36条に定められていることから,通称「36協定」と呼んでいる。 正式名称を「 時間外・休日労働に関する協定届」という。

 ⑤ 申しわけ程度に「反対集会」を報道する記事


 『朝日新聞』朝刊20面「社会」に,つぎの記事が掲載されていた。
代替わり儀式,「違憲」と批判 都内で講演会やデモ ◆

 天皇制を批判する講演会やデモ行進が〔5月〕1日,都内であった。

 明治学院大(東京都港区)では,「天皇の代替わりを考える講演会」があり,教職員や学生ら約100人が参加。小森陽一・同大客員教授(日本近代文学)は,代替わりで「三種の神器」が引きつがれたことを挙げ,「近代の国家権力と結びついた万世一系の天皇神話を実体化するための儀式。憲法違反の宗教儀式だった」と批判した。

 東京・銀座周辺では,デモ隊が天皇制に反対して行進。多くの警察官が警戒に当たる中,デモ隊は「元号を押しつけるな」「代替わりしても,天皇の戦争責任は終わっていない」などと声を張り上げた。
 昨日〔5月1日〕の記事でも『朝日新聞』は,キリスト教関係の組織・団体が集まって,天皇代替わりの儀式そのものに反対する集会を開催した,とのニュースを小さく伝えていた。

 ⑥ 皇室の女性たちは大昔から養蚕にたずさわってきた〔かのように〕語るのは「事実に反した確たる歴史の証拠のない俗説」

 本日〔5月2日〕の,いま参照している『朝日新聞』朝刊は,奇妙な記事も載せていた。19面「文化・文芸」に「〈令和に寄せて〉)平成は終わる,うやうやしく 小説家・金井美恵子」という題名で皇室問題を語るこの寄稿は,このなかで歴史的に確たる根拠のみいだせない “仮りの話” にも触れていた。

 まずは,その点を示唆させようとする内容を含んだ段落のみ引用する。
 「私たち日本国民はなんという優雅で深切(しんせつ)な国母をもち,皇室を持っていることか,と幸福な思いに満たされ」(高橋睦郎),

 もう1人の詩人は,女たちが蚕のそばで暮らしてきた何千年もの歴史をふまえて「蚕の命にまで耳を澄ませ」「万物の立てる響きにお心をお寄せになる皇后陛下の詩心はとても深い」(吉増剛造)と讃美(さんび)する。

 それは詩人の言語的批評意識をこえた存在なのだろう。
 いずれにせよ,すごい讃頌ぶりである。多分,この作家の記述(形容)がまったく期していなかった伏線かもしれないが,同じ朝刊の21面「社会」の記事,「〈新天皇と新皇后〉令和,笑顔晴れやか 皇后さま,東北の若者にエール」のなかには,つぎのような「小見出し」を付した記事も登場していた。
★ ヘビもイモリも,きちんとお世話

 蚕を育て,繭をつくる「養蚕(ようさん)」。文化継承などのため歴代皇后が担ってきた伝統を,新皇后の雅子さまも引きつぐ。実は,幼少時から小さい生物に関心があったという。

 皇后さまは田園調布雙葉学園小学校(東京)時代,生物クラブに所属していた。顧問だった日本蛾類学会の岸田泰則会長(69歳)は「小さなヘビやイモリ,ハムスター,メダカなどを可愛がっていたのをよく覚えています。触れることも嫌がらず,きちんとお世話をしていました」。

 結婚後,お住まいの敷地内に迷いこんだ犬を保護して世話をしたり,ノコギリクワガタのメスを拾って育て,繁殖させたりした話も皇后さまから聞いた。愛子さまも生物に興味があるという。「上皇ご夫妻が大切にされてきた生物や自然を大切にする気持ちは,両陛下にもしっかり引きつがれるでしょう」。
 この記事のなかでは,「文化継承などのため歴代皇后が担ってきた伝統を,新皇后の雅子さまも引きつぐ」のが「 蚕を育て,繭をつくる「養蚕(ようさん)」という農事である,と説明されている。だが,この記事では「歴代皇后」という単語がミソとなって,いかにも大昔から「皇后=養蚕」という想像(国民側に抱かせる「イメージ」)を,いまの時代にあって固めておきたいかのような印象操作がなされている。

 歴代皇后が養蚕にたずさわるという「伝統」も,実は明治天皇の妻:一条美子に発してからの「それ」であって,明治に『創られた天皇制』のなかでも,もっとも典型的・代表的な「天皇家のための新しい伝統作り」の一環であった。
 
 ⑥「天皇陛下『象徴の責務果たす』 皇位継承の儀式 『国民を思い 寄り添う』」(『日本経済新聞』2019年5月2日朝刊1面冒頭記事)


 『日本経済新聞』朝刊1面のほぼ全体を充てたこの記事であった。だが,新しく天皇となった徳仁がこれからの「令和の時期」,それもアベノミクス(アホノミックス)のために,よりいっそう目茶苦茶にされてきた「国民生活」の実態・実情というものに対面しながら,いったいなにかを具体的に改善・向上させることができるのか。そう問われて,まともに答えを出せる人はいない。

 『日本経済新聞』朝刊2面「〈社説〉「令和のニッポン(2)人口危機の克服に総動員で臨もう」は,本ブログ筆者もすでに話題にしてきた論点であったが,とくにこう言及していた。  
 各種世論調査は,子供を2人以上持ちたいと願う夫婦が少なくないことを示している。まずはこの希望をかなえるための環境を整えることに力を注ぐべきだ。最近,驚くべき調査結果が明らかになった。

 1992年からの23年間に,18~39歳の日本人のうち性交渉の経験がない男性が20%から26%に,女性は22%から25%に増えた。東大大学院とスウェーデンの研究所の共同研究だ。この割合は主要国のなかで高く,男性は無職者や非正規社員に多い。

 これが本人の意思なら問題はない。だが「失われた20年」「就職氷河期」と呼ばれた長期停滞期に重なったのをどうみるべきか。雇用の不安定さから結婚に二の足を踏む若者が増え,結果として子供が減っている。不本意な非正規雇用に甘んじている若者を安定雇用に導く労働市場改革に,官民あげて取り組むときである。

 もうひとつ欠かせないのが,社会保障の改革だ。たとえば日本の年金制度は負担・受益に関する世代間の格差が大きい。高齢層ほど受益超過になり,若い層やこれから生まれてくる世代は負担超過,つまり生涯収支が赤字になる。
 こうした日本における経済社会の全体状況のなかに存在する難題に対して,天皇自身が『国民を思い 寄り添う』と発言したところで,はたしていかなる程度にまで “可能性のある含意” を発揚しうるのか? しかし,このことばが「国およびこの民を統合するための象徴である(新)天皇」が発した総論部分であるとひとまず解釈できたとしても,あとの各論部分に関してはすべて,日本国総理大臣の安倍晋三君の出番だ,責任だとなる。

 しかし,アベノミクスのサギノミクス性の魂胆は,すでに十二分にバレバレであって,なんら具体的な効果を上げえていないどころか,安倍政権によるこれまで為政(6年間以上)は「国民たちの生活全般」を悪化の一路に追いこんできた。

 要は「天皇のことば」があれば,日本の経済・社会が今後に向かい,とくにどうにかこうにかなるわけではないし,また,天皇があれこれ口を挟める政治・経済の問題があったとしても,具体的な効果が上げられわけでもない。そうとしかいいようがない。

 日本国憲法は天皇条項をどのように規定していたか。それでもなお,いやそうではなくて,「天皇様の〈寄り添う〉気持が日本の国民」にはどうしても必要だといいたいのであれば,その点に関して実証的な解明が要請される。指摘するまでもないが,「天皇のおことば」で日本経済の景気がよくなったことはなく,またそれによって「安倍晋三政治のデタラメさ加減」が少しでも匡正されたこともなかった。

 安倍晋三政権がこれからさき,どのくらいつづくかしらぬが,新天皇に対してもまた「国とこの民を統合する象徴であるその立場」をめぐって,きわめて恣意的な態度で接していく。この点は,天皇代替わりにかかわってきた彼の態度・行動に照らしても,容易に類推できる自明の事情である。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        

            

            


 【〔現在の〕天皇制には「ひとつの矛盾があり」「天皇の権力が強大化した明治から昭和初期までの天皇制を否定しつつ,その残滓を受けつぎ,天皇の務めの中核にしている」。

 〔そして〕天皇の「『おことば』をみるかぎり,〔明仁・平成〕天皇自身がこの矛盾に気づいているようにはみえ」ない】
 註記)原 武史『平成の終焉-対位と天皇・皇后-』岩波書店,2019年3月,59頁。


 ①「〈考論〉社会の統合,皇室頼みに危うさ  原 武史・放送大学教授(日本政治思想史)」(『朝日新聞』2019年5月1日朝刊3面「総合」)

 本ブログでの前段の見出し文句(文字)のなかに註記で登場した原 武史は,本日の『朝日新聞』朝刊の記事も他紙と同じに,天皇の代替わり記事で満艦飾になっている諸記事のなかで,いささか雰囲気の異なった批評を与えていた。

 なお,この原の意見紹介に当たっては,彼の最新作・近著として『平成の終焉-対位と天皇・皇后-』2019年3月の1冊のみが挙げられていた。原は,天皇・天皇制問題史に関して数多くの著作を公刊している。

 以下が,① として記事から引用する「原 武史の見解」である。
 代替わりにさいし,社会は「奉祝」一色に近いムードになっている。天皇が戦争責任を清算せずに死去したことなど,批判的な意見がテレビでも平然と放送されていた昭和の終わりに比べると,日本人の皇室観は大きく変わった。

 その理由は,平成の天皇と皇后の実績を否定しにくいことにあるだろう。2人は昭和天皇が手をつけなかった慰霊や被災地訪問を通し,償いや弱者に寄り添う姿勢をアピールしてきた。昭和の時代は天皇は高みに立ち,臣民はそれを仰ぎみるだけだったが,平成皇室は自分たちから国民に近づいた。

 平成を通じて大きな災害が続いたことも,皇室の存在感を増大させた。首相が被災者に立ったまま声をかけていた時代から天皇と皇后は国民の前にひざまずき,1人ひとりに違う言葉をかけた。

 戦後の民主主義とともに歩んだ天皇・皇后という印象も国民に共有され,知識人や歴史学者のあいだにも天皇のシンパが増えた。「君主制が民主主義を強化した」という人さえいる。2人の行動にはイデオロギーが希薄で,おおむね称賛をもって迎えられた。ますます分断する社会を統合しようとしてきた感さえある。

 だが一方で,本来政治が果たすべきその役割が,もはや天皇と皇后にしか期待できなくなっているようにもみえる。そうであれば,ある意味では,昭和初期に武装蜂起した青年将校が抱いた理想に近い。民主主義にとってはきわめて危うい状況なのではないか。

 令和時代の皇室で鍵を握るのは雅子皇后だと考える。体調の回復がむずかしい場合は,ストレスや障がいに苦しむ人を励ます存在となる一方,天皇と皇后そろっての行動ができにくくなり,天皇の存在感が増す。平成から大きく様変わりし,明治や昭和の時代のような権威化が進むことになる。

 逆に体調が回復して外交官としての経験を生かせば,たとえば東アジアでの日本のあるべき姿を追求する姿勢を示すこともできる。良妻賢母を体現したスタイルの美智子皇后とはまったく異なる,新しい皇室像を打ち立てる可能性があるだろう。(聞き手 編集委員・宮代栄一)
 ② 天皇代替わり行事などに観る奇観

 つぎにかかげる画像2点は,本日〔5月1日〕『朝日新聞』朝刊の2面と3面にかかげられていた。
『朝日新聞』2019年5月1日朝刊2面「総合」対位儀式

 この写真は,4月30日午後5時から皇居(宮殿「松の間」)でおこなわれた「退位礼正殿の儀」である。この儀式は約10分間の簡素なものだった。

『朝日新聞』2019年5月1日朝刊3面退位礼当日賢所大前の儀2
 この写真は,同日午前中に皇居内の賢所執りおこなわれていた「退位礼当日賢所大前の儀」を終えて退出する天皇明仁である。

 写真のうち上のものに映っている「男性の服装(着衣)は燕尾服」であり,「女性のそれ」についてはこう説明しておく。明治以後において皇室の女性たちなどは,公式の場では洋装(ローブデコルテなど,これはイギリスを手本にした)を着衣し,内々のことは和装(婚儀の十二単など)となったと思われる。皇室の喪服も欧米に倣い,正式に黒と規定された。

 つまり,もっとも日本の伝統を本格的に継承していると思われていいはずの日本の皇室が,とくに服装の面でその歴史を振り返ってみるに,表向きの儀式などでは完全に「西欧化」(の完全なる真似)を志向してきた。

 文明開化の音が鹿鳴館から鳴り響いてきたというわけでもあるまいが,古式ゆかしき日本の伝統「衣服の格式」は,そのあまりにも古すぎるゆえか,東京の皇居(この敷地内の宮殿や社殿などの建物も明治に建造されていた)のなかで,ほぼ「明治謹製」になる皇室神道の諸儀式をおこなうときはさておき,ふだんの表向きの行事では完全に欧米の様式にしたがっていた。

 ということで,本日の論題のなかでは,皇室の宗教行事としては『「四方拝」と「新嘗祭」以外の大部分は明治に創られた』事実(原 武史の指摘)をかかげる文句にしておいた。別の表現をすれば,江戸時代が終わり東京(江戸)に引っ越してきた天皇家は,明治時代に入ってからは「近代へと新しく出発しなおすために必要な脱皮」を試みた。

 近代国家体制を出立させた日本(のちに大日本帝国を自称)が押し出した「追いつけ・追い越せ」路線,いいかえれば「富国強兵・殖産興業」による「近代化への道を進んでいった国家思想」は,,わざわざ神道的に国家を統合するために神格的な天皇を置くことにしていた。その君主天皇を家長にいただく国家体制を作ったうえで,国家があたかも一家単位でありうるかのように,その体制を構成しようとしてきた。そこでは,天皇が神格的な存在に祭り上げられた。

 その結果が明治維新の77年後にどのようになっていたかといえば,敗戦(完敗)。しかし,アメリカは日本をお取り潰しにはせず,つまり天皇家はそのまま残しておいた。そうしたほうが,アメリカにとってみれば日本を占領・支配するために好都合だと判断されたからであった。

 この占領・支配のために採られた基本の方針は,たとえばエドウィン・ライシャワーがすでに1942年の時点で「天皇をパペットの座に据える」戦後体制を建議していた。敗戦直後,その方向性の定座までにはこまかな紆余曲折があったものの,「押しつけ憲法」たる基本性格をもった日本国憲法における「天皇の地位」は「象徴の位置づけ」をもって規定されていた。

 いわば「明治に創られた天皇制」は,敗戦を機にいまいちど「敗戦後にも創られた天皇制」として再生したことになる。しかし,昭和天皇の時代は「敗戦をはさんで,同一人物」が天皇の地位を占めていたため,またアメリカの占領・支配政策の観点もからまって,天皇・天皇制の存廃そのものが本格的に議論されることはなかった。

 というしだいで,明治以降ひとまず近代化に成功した日本であったものの,敗戦という憂き目に遭った経験をうまく生かせない「戦後史」を経てきた。天皇・天皇制を戴く国家体制であるかぎり,本当の民主主義が根づくかどうか大きな疑念がいだかれるのは,当然であった。

 ただし,ヨーロッパなどには王室がまだ多くあるではないかなどというなかれ,いまどきにもなってまだ,「女性天皇」(女王)がいけないなどと真顔で熱心に主張できる,まさしく「本物ではありえない,まがいものの〈国粋・右翼・保守・反動〉」の人びとが,現に大勢いる。これでは,21世紀におけるこの国をまともに『現代化』させることは不可能事である。
 
 ③ 天皇・天皇制問題の吟味


 1)その「正史の舞台」と「裏史の風景」
 明治維新から今日まで日本の天皇・天皇制を,「帝国日本のために意図的に制作された創造物」とみなす観点は,保守であれ革新であれ拒否できない「歴史の事実」に関する基本的な立場でありうる。

 日本社会のそれも19世紀後半に創作された天皇・天皇制が今日まで歩んできた「歴史の実像」,いわば,そこにしこまれた「カラクリ」は以下の4点に分けて考えることができる。

   イ)その理念〔作られた架空の宗教的信条〕
   ロ)意 図 〔隠されたどす黒い欲望〕
   ハ)目 標 〔帝国主義路線の積極的達成〕
   ニ)具 体 像 〔天皇個人と天皇制組織のしくみ〕

 日本帝国において3代目の天皇に即位した裕仁は,「自分を天照大神の子孫:裔」だと本気で正気に思いこめる国家精神の持ち主であった。彼のその思いこみが「架空に近い〈想像の産物〉」ではあっても,それを無視も軽視もせずに,究明の対象にしておく価値がある。

 ところが,現代の政治理念に照らして判定すれば「奇想天外」な,そうした昭和天皇の「天子」意識,しかも時代錯誤であると同時に歴史概念的にも倒錯した彼のその意識を,まっとうに批判する政治学者があまりいない。日本国憲法の核心に位置する人間の問題=天皇制の問題をないがしろにされていい理由はない。

 天皇家にまつわる南北朝問題は,これを専門とする歴史研究家でなければよくなしえない研究領域ではある。ところが,たとえば瀧川政次郎が密教的に韜晦しつつも意図的に漏らしてもいたように,天皇・天皇制の政治的有用性は,空想的次元での「万世一系」など成立しなくてもよい。また,神話的な道具の問題である「三種の神器」が贋物であっても,いっこうに構わない。

 肝心な問題はむしろ,革命的に幕開けされた明治の時代を推進させるために実際に使える,つまり「支配者にとって都合のよい天皇像」が,使い勝手のよい「用具:玉」として準備・調達・活用できれていればよく,それで満足せよということであった。
 
 2)ドナルド・キーン『明治天皇 上・下巻』(新潮社,2001年)や伊藤之雄『明治天皇』(ミネルヴァ書房,2006年)
 この2人に代表される正史的な「明治天皇の研究」は,天皇という人間個人の心理的葛藤や天皇一族〔天皇制〕内部での,おどろおどろしい利害状況などの真相を掬いとることとは,無縁であった。

 古事記・日本書紀を書いたのは,当時の支配者であり権力者である。彼らに都合の悪いことは書かれていないだけでなく,「歴史の架空的=創造的捏造」を必然的な筆法・編集の方法として駆使してもいる。したがって,その統治者の頂点に発する歴史の展開からほとんど漏れてしまい,埋没していくほかなかった底辺の歴史現象は,なにも記録を残せていない。

 ところが,明治以降になるとその様相はだいぶ異なってくる。裏史や野史に関する史料や文書など,関連資料・情報が入手できるようになった。治安警察法(1900年)⇒ 治安維持法(1925年)下の強圧的な支配体制であっても,支配者・権力者に都合のよい正史的な研究ばかりとはかぎらなくなった。

 正統派の学究としての研究作法を遵守し,尊重するであれば結局,明治天皇の研究をしたキーンや伊藤のように,「明治天皇はすばらしく,偉大な人物であった」というような筆致に向かい回遊しがちになる。このことは,学術的な冒険を回避した研究者に必然的な限界である。

 しかし,そうした研究の構図をもってしては,「より真実に迫った全体像」の解明が円滑に進展するとは思えない。明治維新以後における「人間としての明治天皇や昭和天皇」に対する究明は,正史からは多少離れてでも,裏史や野史から冒険の領域まで踏みこんでおこなったほうが,歴史の真相に接近できる可能性はより高まる。

 正史的な研究のきまじめさはかえって,真実への接近を妨げるだけでなく,事実の把捉力を弱めてもいる。そうであればこそむしろ,裏史や野史の接近方法に関しては不可避である「学術性が弛緩する危険性」をいとわず,天皇・天皇制の解明に向かうための「現実的に挑戦する視座」が必要である。

 どういうことか? 正史の立場から裏史や野史を,絶えず,相互連関・前後循環的にとらえなおしていく視座がほしい。それでは, 歴史部門を担当する学問・理論の領域において踏まえるべき要件は,なにか?

  一般論でいえばまず,「学問としての『歴史』が成立するためには,どうしても,既知の事実のなかから,一定の観点からみて重要だと思われる事実だけが選択され,その他の事実は意識的に捨象され,前者の事実が一定の統一的な認識にもたらされなければならない」。
 註記)世良晃志郎『歴史学方法論の諸問題』木鐸社,昭和50年,29頁。

 しかしながら,「コモン・センスとしての〈民衆思想〉と頂点的思想および支配的思想との構造連関は,各時代・社会に即して解明されるべき問題である」ゆえ,さらには「その根本原理に『かつて民衆思想の中になかったなにものも,頂点的思想・支配的思想のなかにない』をおきたい」註記)のであれば,皇室にせよ庶民にせよその日常生活のなかにいくらでも登場する,それも生臭い現実問題をないがしろにはできない。
 註記)日本倫理学会編『思想史の意義と方法』以文社,1982年,〔川本隆史「民衆思想史の可能性-対象・方法・意義をめぐって-」〕177頁。

 前段の文意は分かりにくいので,主旨に即した別の引用もしておく。

 すなわち,「民衆のあいだで語り伝えられた建国神話は,かつては存在したかもしれないが,『古事記』『日本書紀』を主とする古典のなかには,そのままのかたちでこれを求めることはできない」。「文部省の執心する建国神話には……政治的な事情から朝廷の貴族・知識人によって付加・造作された部分が非常に多い」いうことである。
 註記)直木孝次郎『神話と歴史』吉川弘文館,2006年,109頁。

 そうであるならば,「私たちは,完成された体系だけでなしに,形成途上の,いわばまだムード段階にある未発の思想をもみのがさないようにしたい。それから,思想を自己完結的なものとしてではなしに,それが社会において機能した結果に着目して,そこからさかのぼって思想を考えてゆきたい。したがって当然,思想なり意識なりを,生活の土台から切りはなさずに,たえず還元操作をほどこしながら思想をあつかってゆきたい」と考えても,なんら不思議はないはずである。
 註記)伊藤 整・家永三郎・小田切秀雄・ほか8名編『近代日本思想史講座1』筑摩書房,昭和34年,〔竹内功文責「講座をはじめるに当って 講座の意図-研究の出発点-」〕9頁。

 3)いまの天皇家に関する歴史の実体は「明治以後」に創られた
 天皇・天皇制の古代史や日本神道史との関連で解明されるべき「天皇家の虚像史」が,明治以降に『創られた天皇制』を暗箱のように悪用されつつ,明治-大正-昭和-平成と時代が進展するなかでその実像化への換骨奪胎が,特定の意図のもとで謀られてきた。そうであれば,その暗箱に閉じこめられていた,例の「明治天皇すり替え」説は,〈仮説〉としての待遇を受けて議論されてよいはずである。

 明治天皇は「大室寅之祐」だという説は,学究的な見地から判断すれば括弧にくくってとりあつかうべき論説である。ところが,この議論の方途は,明治維新以来における日本の天皇・天皇制を解明するさい,より納得性のある道筋を開拓させうる。昭和天皇はなぜか,虚説でしかない「万世一系」の血統的な連綿性に非常にこだわり,これまた神話でなければ説明できない「天照大神の子孫・裔である自分」に強く執着していた。

 敗戦後になると,生物学者=自然科学者としての映像を日本社会に訴求してきた人物(天皇裕仁)が,それ以前までは,科学的な検証には耐ええない「奇妙奇天烈な自己認定(アイデンティティ)」に条件づけられていた。

 4)万邦無比・八紘一宇という神国思想はいまだに信仰されているのか
 しかも,そうした天子様を戴いた大日本帝国はかつて,世界に冠たる「万邦無比」の立場から「八紘一宇」を周囲に光被させえるし,「一君万民」での「一視同仁」を実行できるとも妄信していた。

 だが,はたして,敗戦を契機にこのように空疎でしかなかった国家精神の夢想性が一掃されたかといえば,結果は未達成,いまだに払拭できていない。GHQは,占領・支配した日本に対する統治政策のためであれば,もともと明治維新にさいして利用された〈封建遺制〉的な制度要因である「天皇・天皇制」を,敗戦後においても伝統として延命させておいた。

 アメリカ国務省およびGHQのマッカーサーからの示教にしたがい,東京裁判では戦争責任をもっぱらA級戦犯の東條英機らに,ゴミ掃除当番よろしく押しつけた天皇裕仁は,紆余曲折もあったものの,敗戦後をうまく生きのびてきた。

 アメリカは,日本資本主義体制に関する「講座派」および「労農派」双方の経済思想を総括的に活かす占領政策を上手に達成した。その結果,敗戦後の日本は,軍事同盟関係に注目して観察すれば,21世紀のいまもなお実質的に,アメリカ合衆国の属国的地位に置かれている。

 沖縄県を代表格にして日本全国に散在する治外法権的なアメリカ軍基地が,いつ撤退するのかまったく展望すらおぼつかない。現状の,そうした日米の軍事同盟関係の構築に関して違法にも最大の貢献をしたのが,ほかならぬ昭和天皇であった。

 彼は,GHQが日本国を占領していた昭和20年代,新憲法の精神を平然と無視し,意識的かつ無意識的に踏みつけながら,アメリカとの秘密交渉を裏舞台で成就させていた。それというのも,彼自身の個人的な利害や政治的な関心を主軸に工作してきたのだから,「人間宣言」をしたのちの,そのみぐるしい自己保身のための行動は,真に迫るものがあった。

 前段に述べた中身は,日本の政治学者が専門的にすでに解明してきた「歴史の事実」でもある。

 5)沖縄県は戦争中も敗戦後も捨て石だった
 ともかくその同じ人物が同時に,敗戦後の「平和の時代」を「生物科学好きの好々爺」であるかのように生きていった。

 大東亜〔太平洋〕戦争末期,沖縄県民は,当時予想された本土決戦の捨て石にされた。戦後において沖縄はさらに,敗戦した大日本帝国の本土4島を「日本国」として生存させるための〈犠牲の島〉にされた。

 戦後日本に登場したある首相は,日本全体を「アメリカのための不沈空母とする」とまでいいきったくらいだから,沖縄の1島くらい,日本全体というか,天皇のために人身御供にすることなど,なんとも思わなかったわけである。

 かつての大日本帝国は,立憲君主の神格的な天皇が「八紘一宇」の立場に立って,「万邦無比」的に「一視同仁」を采配しうる聖国家である,と狂信していた。けれども敗戦を機に,そうした国家理念が臣民支配のために創作された口先三寸のきれいごと,虚言でしかなかったことがあらためて実証された。

 6)明治謹製の天皇・天皇制-「一世一元」の元号制発足-
 明治という元号の時代になったとき,天皇の詔勅で一世一元制を宣言した。敗戦後もだいぶ経過した1979年,旧皇室典範も廃止されている関係もあって,「元号法」という法律で制定したのが「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める」という決まりであった。

 1868年9月8日に元号の「慶応」を「明治」に改元し,一世一元制にしたのは,ときの明治天皇の命令である詔勅によってであった。日本の皇室神道における伝統的な儀礼は3つ,「新嘗祭とその大祭である大嘗祭」「新年にやる祈年祭」「賢所御神楽」しかなかった。「あとはぜんぶ明治になってつくった」し,「それが伝統であるといってやったのは,伝統回帰とか何とかではなくて,見事につくった」のである。
 註記)三上 治・富岡幸一郎・大窪一志『靖国問題の核心』講談社,2006年,88頁。この指摘は,冒頭に触れた原 武史の説明よりもひとつが多いが,その点については,つぎのように関説しておきたい。
 現行御神楽の原形である〈内侍所(ないしどころ)の御神楽〉は,《江家次第》《公事根源》などによれば,一条天皇の時代(986-1011)に始まり,最初は隔年,白河天皇の承保年間(1074-1077)からは毎年おこなわわれるようになったという。
 註記)https://kotobank.jp/word/賢所御神楽-462042
 皇族として天皇家は,皇室神道の儀式内容だけにかぎらず,皇室お手製の「新しい〈伝統〉」も,明治・大正・昭和・平成の時代をとおして,あれこれ創ろうとしてきた。したがって,テレビに組まれた皇室番組などで,いかにも古式の伝統であるかのように放映される皇族たちの宗教的行為や皇室行事は,宮内庁が秘密の帳のなかに秘めておきたがっている,例の「いまだに天皇陵として比定できないものが多い古墳群」ほど,けっして古くはないのである。

 その「天皇陵と治定されるべき古墳群」に関していえば,これが科学的な調査・研究の対象にとりあげれら解明されていけば,現在の天皇家における「伝統なるものの〈歴史的な真価〉」も,あらためて問われることになる。天皇家の歴史と伝統と格式に歴然とした確証があるならば,天皇陵の学術的な発掘作業に関して,宮内庁がわが躊躇する理由はない。ところが,宮内庁はなぜかそれを妨害するかのように対応するばかりであって,極力,古墳にまつわる真実を闇のなかに閉じこめておこうとしている。

 7)文化勲章や文化功労賞を断わった気骨ある知識人
 日本政府は,1994年にノーベル文学賞を授賞された大江健三郎に対して文化勲章と文化功労者称号の授与を,慣例として決定した。文化勲章の受賞打診があった段階で,非常にたくみ婉曲に断わったのが丸山眞男や都留重人である。ところが,それを公然と断わってしまい「あいつは不敬にあたるから殺す」と,真っ昼間に脅迫されたのが大江健三郎である。
 註記)『思想の科学』五十年史の会『『思想の科学』ダイジェスト 1946~1996』思想の科学社,2009年,458頁下段。

 大江は「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と主張,その受賞を拒否したのである。そうしたところ,不敬罪などない時代であるのに,国粋右翼という思想的に無粋な連中が,政府や皇室から頼まれたわけもあるまいに,その代言人を仰せつかったかのように妄動した。この日本国は,いつになっても共和国に変身できるきっかけをつかめないでいる。この国の人びとは,天皇・天皇制抜きでする憲法改正のための論議を恐怖しているのか?

 ④ 皇統の連綿性に伏在していた断絶性

 日本史における「外史的な通説」にしたがっていうと,すなわち,1866〔慶応2〕年12月に孝明天皇が弑逆され,1867〔慶応3〕年7月にはその息子の睦仁も本当は殺されていた。だから,その替わりに明治天皇となった睦仁は「〔南朝の血統を引くが〕別人の大室寅之祐」である。

 この歴史理解は「明治天皇の行動様式」を分析するうえで有用な基盤を提供している。正史的な討究をくわえるばあいでは,完全に無視されるか,すべてが「?」で留保されたまま放置されるかしていた論点が,あたかも謎解きができたかのように筋道がとおっていくのだから,不思議である。

 むろん,学問研究はジグゾー・パズルではなく,学術的な手順に則って真実探求に向かわねばならない。しかし,今昔を問わず支配体制側は,歴史の真実はむろんのこと,日常的な体験すら都合の悪いものは隠そうとする。だから,読書界では「一般向けノンフィクション」本が,その隙間を狙って数多く公刊されてもいる。学術研究書は,専門家のおこなう厳密で正確な討究が期待されているがゆえに,かえって歴史の真相やその日常的な出来事の把握において疎漏も多い。

 しかし,学問の論理が研究を展開する手法として採らねばならない厳密性や正確性を確保しておこうとするあまり,「世間の常識」や「ごく通常の感覚」をみのがしやすい。いわば,論理と体験を突きあわせても,その真価を決められえないような命題は「にせの命題」というほかなく,現実的に意味のないものである。論理が体験を軽視・無視するのであれば,この論理を組みたてて作られた理論は,空中楼閣的な観念のお遊びに堕する。体験とはかけはなれた先験の世界に舞いあがる始末となる。

 いつであったか,大室寅之祐=明治天皇の血縁を引く有名な某政治家〔寅之祐の弟である庄吉の娘を祖母とする人物〕が,こんどは自分の孫を「現在の皇太子徳仁」の「息子,お世継ぎ」としてもぐりこませようとした画策が失敗した,という風評が世間に流れた。この話が単なる噂に止まらないで本当だったとすれば,その間2世紀も飛んだこの平成の時代に「明治天皇→大室寅之祐」劇が再演されたかもしれない。

 大室寅之祐=明治天皇であれば,めぐりめぐって〈血縁,近親のよしみ〉が,そこには表現されてもいる。いずれにせよ,その真相は闇のなかであるが,「歴史は繰りかえされる」とでも形容したらいい現象が起こされようとした。

 前後して皇太子の妻「雅子」の侍医が,この妻の妊娠を確認するために腹部の超音波検査をしたけれども,その兆候がまったくみられないと公表した。ところが,その侍医は間もなく宮内庁病院から辞去した。その時期には,ちょうど「女帝問題」の議論が進捗していた。このIT時代である,インターネット上には,ありとあらゆる,それこそ玉石混淆などという以上の水準で,関連情報が氾濫している。

  ⑤ 歴史科学-その学問の姿勢-

 われわれが採るべき歴史研究の方法は,正統派的な立場の学問を必要かつ十分に前提したうえで,さらに重ねてなおかつ,理論の体系だとか定義された概念だとかにとらわれないで,歴史現象の究明作業にとりくまねばならない。こういうことではないか?
 「思想の歴史哲学的研究は精神史とならざるをえない」というある論者は,「分析と綜合とは,学問研究においていつも不可欠のものであり,また相互に依存し前提しあうものである。だから或る時代の思想を精神として,言い換えるならば,ひとつの統一的なる作用連関(ディルタイ)として把握しようとするときにも,この作用連関はそのもろもろのファクターに,特殊的部分的な作用連関に分析せられることが必要である」と主張する。
 註記)金子武蔵・大塚久雄編『講座近代思想史Ⅰ 近代人の誕生(1)』弘文堂,昭和33年,〔金子武蔵,序「思想史方法論」A「歴史哲学的方法-古代と近代-」〕8頁。
  すなわち,「〈民衆思想史〉が」「もつ意義は」「『とうに知られていること』および『諸々の記憶』をコモン・センスとしての〈民衆思想〉につなげて読むことによっても明らかになってくるものと思われる」。
 註記)日本倫理学会編『思想史の意義と方法』〔川本「民衆思想史の可能性-対象・方法・意義をめぐって-」〕186-187頁。

 伊藤之雄・川田 稔編『二〇世紀日本の天皇と君主制-国際比較の視点から1867から1947年-』(吉川弘文館,2004年),伊藤之雄『明治天皇』(ミネルヴァ書房,2006年),伊藤之雄・李 盛煥編著『伊藤博文と韓国統治』(ミネルヴァ書房,2009年)などの討究は,明治期政治社会史問題の上澄み層しか観察できていない。

 その上澄み=表層を内部から醸成させ,底部において支持する,いわばその暗部が社会底辺に存在している。そこに控えている種々雑多な一般政治の生活的な現象を「構造連関」的に取捨選択しつつも,同時に,本質把握への「還元操作を施しながら」「一定の統一的な認識枠組」を,いかにして再構築させていくのか,という問題意識が希薄である。

 「明治維新史は,利害関係者への気がねなしには書けないという官学アカデミズムの研究者の実感」が,旧帝大系の京都大学出身でこの大学の教員でもある伊藤之雄の執筆物においてもまだ,意識的にも無意識的にも現実的に作用しているのか。

 「明治維新において,人民がめざした課題は,過去の解決ずみの問題ではない。百〔五十〕年前とはことなった形態と内容においてではあるが,第2次大戦後にいよいよ現実的意義を加えている民主主義と民族独立と平和の問題,帝国主義に対決する問題として,私たちの手中にうけつがれている」。
 註記)遠山茂樹『明治維新と現代』岩波書店,1968年,18頁,231頁。〔 〕内補足は引用者。

 ⑥ 明治維新の歴史的な基層がそのまま21世紀に残存する国家

 a) 明治維新は,19世紀後半の世界史のなかで「近代国家成立のひとつの型」を示した。それが東アジアにおいて,侵略性と民衆への専制を烙印づけた「近代天皇制」と呼ばれる日本資本主義成立の起点になったところに,その最大の特質があった 註記)。その「近代天皇制」が21世紀の現段階にまで,「現代天皇制」へと変質しつつ延命してきた。
 註記)田中 彰『長州藩と明治維新』吉川弘文館,1998年,311頁。

 「平成の天皇であった明仁」は,自身が背負っている皇室の未来戦略強く意識し,実際にそのための生き残り戦術を実践してきた。「民主主義と平和」の憲法といわれる「日本国憲法」は,天皇条項を残置したままであった。冒頭赤字の文句で紹介したように,原 武史が指摘した日本の天皇問題において最大の論点がそれであった。

 隣国への侵略,自国民衆への専制を大前提とした過去の「天皇・天皇制」的規範の尻尾をもつ「獅子身中の虫」は,いまもまだ,この国の民主主義的憲法体制のなかに生存している。これはもはや,アメリカ国務省やマッカーサー元帥のせいにできる問題ではなく,日本に生きる人びと全員が共有させられている政治的な課題である。

 21世紀に入って早20年近くにもなる時期であるが,旧日本帝国の立場が日本国に変身させられてからもなお,国政に関与する天皇・天皇制の問題が,現在日本の重大論点として指摘されねばならない。平成天皇は日本国憲法を遵守すると誓っていた。ところが,この天皇が演じる国事行為や公的行為などに明白なように,民主主義の基本理念を舞台に天皇一族が生活していくかぎり,天皇制それじたいに固有である自己矛盾を永久に解消できない。

 元首ではない人物が,いかにも元首であるかのように振るまっていながら,実は元首ではないといいわけされる。皇室は,民主主義の番外地か,それとも別天地に立地している。天皇家の人びとは,通常の市民権,そして参政権をもたない特権階級である。こうした別格の皇室一族がいつから登場したかといえば,それは明治維新を契機にしていた。

 いまとなって,天皇制が存在しなければ,日本というこの国がよく成立しえないとか,民主主義の政治体制はさておき,天皇という象徴がなければ,この国の人びとの生活がよく維持も発展もしえないとか本気で考える人がいたら,これは現実に目をつむった世の中の観察しかしていない。

 b) こういうことである。1945年以後,日本は10年で戦前なみの経済水準に復旧し,さらに20年ほど経つと高度経済成長の時代に突入した。その30~40年後,日本経済が達成した業績・成果は,世界経済においてこの国の工業生産力の存在感をいやというほど高めた。ところが,敗戦後45年ほど経つと日本の経済は,すでに峠にさしかかっていた。バブル経済の破綻は高度経済成長時代への弔鐘であった。

 21世紀の現在に立つ日本は,経済社会の総合的かつ体系的な質性を落とさない方途で,はやりのことばでいえば「持続可能な体制維持」を保ちつつ,いかにして均衡のとれた縮小再生産をもって生活構造を円滑に改変していくのか,という課題に直面している。ところが,あの国難の首相たる評判の高い「世襲3代目のボクちん政治家」がやることとみれば,この日本を「美しい国」へ導くどころか,遊び半分にも似たかっこうでもって「虚偽と汚濁に満ちた」醜怪な容貌へと変質させつつある。

 敗戦後における日本経済の栄枯盛衰の軌跡を観察するさい,もしも天皇・天皇制がそれに関与し影響したとする経緯を,客観的に,それも「栄・盛の局面」のみならず,「枯・衰の局面」にもかかわらしめて分析・評価しえた者がいたら,ぜひとも教えてほしい。この論点を突きつめていけば,天皇・天皇制の存在意義に関する議論もまっとうに展開できるはずである。

 ところが,そのような発想を当てはめて天皇・天皇制の問題を検討することは,これまでこの国のなかでは躊躇されてきた。というよりは,それを検討しようにもどだい不適だとされたのが,その種の課題設定であったからであった。

 1945年以前における天皇・天皇制は,日本帝国のなかで「侵すべからざる絶対的な神聖性」を保持していたがゆえに,臣民たちに〈敗戦〉の悲惨と不幸をもたらす政治制度となった。「天皇陛下の命令」が集約された結果が敗戦であったけれども,当人の天皇裕仁はけっして敗北の境地に徹底していなかった。今日の問題は過去の問題であり,過去の問題が今日までを方向づけていた。

 こうした現状は思えば,日本国の異様な政情である。明治以来,この国家の体制のなかに埋めこまれてきた天皇・天皇制,その「創られた性格,劇場・芝居的性格」は,いまいちど覚醒した学的態度を構えて批判的に歴史分析をくわえられ,事実の解明をおこない,その変革のための方途を探らねばならない。

 住井すゑは,こう喝破していた。
 天皇制というのは古いのかというと,古いんじゃない。明治になってからのものです。それまでの天皇というのは,京都にいたときには惨めな暮らしだったんです。
 註記)住井すゑ『21世紀へ託す-『橋のない川』断想-』解放出版社,1992年,116頁。
 天皇一族がいまさら京都に還る気にはなれないほど,明治以来の彼らの生活はすべからく “無条件に優雅でいられる” 高い水準を保障されてきた。もちろんその途中で,世紀の戦争では大日本帝国が中・米・英などの敵国に敗北するといった大失敗もあった。

 だが,敗戦後の日本を占領した軍隊がアメリカ合衆国(および一部は大英帝国)であったことは,「不幸中の幸い」を意味した。さて,そのころから70年以上も経った現時点で,こんどは「平成→令和」の元号変更に大騒ぎするこの国の「動き」が,はたしてどのように「意味を転換」させられていくか見物である。

 c)  本日(2019年5月1日)朝刊から雑相を抽出すると,『朝日新聞』朝刊「オピニオン」欄の(かたえくぼ)は,こう茶化していた。

    “安倍首相殿,菅官房長官殿
      「丁寧な説明」  冷話にならないように,国民”
         (長野・心配症)

 d)  本日『日本経済新聞』朝刊1面は,こう,新元号「令和」に関する抱負を語っていた。

    “「新しい日本」を創ろう”    編集局長 井口哲也

 e)  日経「社説」の題名は「令和のニッポン(1)社会の多様性によりそう皇室に」。

 f)  同上,12面の広告には矢沢永吉(元・在日韓国人)が登場していて,自分「営業」用の「令和に便乗した」全面広告。
『日本経済新聞』2019年5月1日朝刊12面矢沢永吉広告

 g)  同上,21面のスポーツ欄には,「ゴルフ〔の〕石川 遼『令和で記録を塗り替えたい』 あす国内初戦」。

 h)  同上,30・31面の社会欄には「平成の30年に万感」「令和 温かな時代に」との大見出しが出ている。

 --以上の関連事項は多分,ほとんどおまじないか,神社で売っているおみくじのたぐい。要は実力しだいのことがらであるが……。

 i) 『朝日新聞』朝刊34面の社会欄には,「代替わり儀式『憲法に違反』 キリスト教団体」という見出しの記事が報道されていた。
 プロテスタントやカトリックなど国内のキリスト教の教団や教派団体が〔4月〕30日,東京都新宿区で記者会見し,天皇代替わりの一連の儀式を国事行為・公的行事としておこなうことは「憲法上,国民主権の基本原理や政教分離原則に違反し,国家神道の復活につながる」と主張した。

 各団体は,5月1日にある「剣璽(けんじ)等承継の儀」は神道神話にもとづく神器を受けつぐ儀式と指摘。10月の「即位礼正殿の儀」で新天皇が「高御座(たかみくら)」に立つことは,天孫降臨神話に基づき天皇が生き神の性格を帯びる意味をもつと述べ,両儀式が国事行為としておこなわれることは「政教分離原則に違反する」と主張した。

 11月に新天皇が臨む大嘗祭(だいじょうさい)についても,「皇室の私的宗教行事」だとし,国費の支出に異議を唱えた。
 自家製になる明治以来の皇室神道がそれこそ,「〈雀の子〉(帝国臣民?)そこのけそこのけお馬が通る」存在になっていなかったとはいえず,現実は本当にそのとおりになってきた。天皇家内(自家製)の宗教行事を止めろとまでは要求する必要はないものの,「明治維新に生まれ(明治謹製)」て,「敗戦で廃止にせず」に「21世紀まで引きずってきた」「『創られた天皇制』の本質・含意」は,いったいなんであったのか?

 日本の民主主義の根幹にかかわらざるをえない論点が,皇室をめぐって,不可避の検討課題として残されたままである。この論点は,天皇・天皇制を擁護するとか,それに反対であるとかを問わず,あらためて根本的に再考されるべき「価値がある」。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        


 【今日の主な登場人物は大宅壮一,瀬島龍三,ケネス・ルオフ,原 武史,高村 薫,そして平成の天皇明仁など】

 【平成の時期とはバブルがはじけて以後,「失われた10年」が3度も反復された時代のこと】

 【この平成という元号の期間を締めることになった「自民党政権・内閣の不名誉さ」に気づかない安倍晋三君の浮かれ加減】



 ①「〈平成最後の日〉変わり続けた暮らし・経済」(『朝日新聞』2019年4月30日朝刊4面「経済」)

 この記事は,「バブルとともに幕を開け,いくど度もの危機を経験した。『失われた』」と呼ばれた時代でも,わたしたちの生活は変わりつづけてきた。平成の日本経済と暮らしを,象徴的な数字で振り返る」と冒頭で断わっている。だが,「失われるモノ」などすら,ろくにもちあわせていない貧しい本ブログ筆者は,以下に抜き書きするこの記事の項目(小見出し)のみを「聞いておけば」いいような感じも抱いている。

 1)日経平均,3万8915円→2万2258円 非正規労働者,800万人→2100万人

 この項目からはつぎの点を聞いておきたい。

 「多くの中小企業には後継者難という『崖』が迫る。経済産業省は2025年までに,日本企業の3分の1にあたる約127万社が後継者のいない問題に直面する,と推計している」が,その「背景には,日本経済に一貫して重くのしかかってきた少子高齢化の問題がある。2018年に生まれた子どもの数は推計92万1千人で,1989年の4分の3以下になった」。
 補注)ちなみに,関連させては「出生数及び合計特殊出生率の年次推移」に関した,こういう説明も聞いておく余地がある。

 日本における年間の出生数は,敗戦後の第1次ベビーブーム期に約270万人,第2次ベビーブーム期に約210万人であった。だが,1975年には200万人を割りこみ,それ以降,毎年減少しつづけた。

 1984年には150万人を割りこみ,1991年以降は増加と減少を繰り返しながら,緩やかに減少していく傾向を示してきた。2016年の出生数は,97万6978人となり,1899年の統計開始以来,初めて100万人を割った。

 合計特殊出生率は第1次ベビーブーム期に4.3を超えていたが,1950年以降急激に低下した。その後,第2次ベビーブーム期を含め,ほぼ2.1台で推移していたが,1975年に2.0を下回ってからは,再び低下傾向となった。

 1989年にはそれまで最低であった1966年(この年は丙午:ひのえうまであった)の数値を下回る1.57を記録し,さらに,2005年には過去最低である1.26まで落ちこんだ。
 註記)内閣府ホームページ,https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/data/shusshou.html

 その間,とくに1989年は,1966年(丙午の年)の数値1.58をも下回る1.57にまで落ちこんだため,社会的関心が高まったなかで1.57ショックと呼ばれ,少子化問題が深刻化した。その後も徐々に数値は減少していき,2005年には1.26にまで減少していた。

 ところが,政府・内閣(国家政権)側は,この国家的な統計の推移(出生率の減少傾向)に対して根本的な対策を講じる気配はいっこうにみせなかった。

 21世紀に入ってより明白になったのは,いわゆる1990年以降においては「失われた10年」がそれこそ再三にわたり繰り返えされてきた。その間における「就職難」の発生や「結婚や出産適齢期である層が経済的に不安定」化した現実のなかで,出生率は確実に低下傾向をたどってきた。

 半世紀も以前から出生率が減少している兆候を明らかに示しはじめていたにもかかわらず,日本政府(もっぱら自民政権)はまともに,「そのような問題(近い将来において急激に人口統計が減少しだす事態)」を予定し(予測ではなく),備えるための計画を立てていなかった。

 筆者は昨日〔2019年4月29日:月曜日休日〕,ひさしぶりに地元のある単立の「百貨店」に出むく機会があったが,このデパートメント・ストアはまだつぶれずにがんばって営業していた様子がうかがえたもの,この「百貨店の店内」には老人の客層が圧倒的に多く,若者層は若干名という程度にしか姿をみなかった。

 もっとも,若者層(さらに壮年層も)は買い物に出むくにしても,車を利用して,ほかの商業施設(ショッピングモールなど)に出かける場合が多いとは思うが,それにしても少子高齢化した日本社会の実相をあらためて感じさせる機会であった。

 2)携帯契約数,49万台→1億7000万台  世帯の被服費,30万円→13万8000円

 私たちの暮らしを大きく変えたキーワードが「デジタル」であり,お金の使い方さえもデジタルシフトが鮮明である。とりわけ,パソコンと携帯電話が急速に広まった反面で,紙の本や雑誌は激減した。1996年に2兆6563億円の売り上げがあったものが,2018年には半分以下。書店調査会社のアルメディア(東京)によると,書店数は2000年の2万1654軒から2018年には1万2026軒に減った。

 総務省の家計調査によると,2人以上の世帯の携帯電話料は,調査開始の2000年に2万8千円ほどだったが,2018年は12万6千円を超えた。そのなかで生活は,楽になったとはいいがたい。2016年の世帯1人あたりの平均所得は,ピークの1996年より6万円ほど少ない219万円だった。

 政府は1月,2012年12月から続く景気拡大が6年2カ月に達し,「戦後最長になった可能性が高い」と宣言。だが,高度成長時代の「岩戸景気」や「いざなぎ景気」に比べると,平成の景気拡大は,バブル期をのぞくときわめて低成長で,「実感がない」との声がいつもつきまとった。(引用終わり)

 この最後の段落に引用した記事(文章)を読んだところで,この内容がどうにもおかしくて一気に「吹き出した」。2012年12月にはこの26日に第2次安倍晋三政権が発足した。このときからいままで「景気拡大」(?)が続いてきた,それは「戦後最長になった可能性が高い」(!)などと形容されたとなれば,それこそ「どの面下げて」「そのような妄想」を騙れるのかと,軽侮されての大笑いの対象になる。

 とりわけ日本銀行や財務省,経済産業省の幹部たちは,いったいどういう神経でもってその「可能性が高い」などと,安倍晋三「国難」政権のもとで,しかも懸命に「忖度」しながら定義したかはしらない。だが,高度な専門知識を要する者たちがそのような「馬鹿さ加減を吐露した」にしても,この種の「目茶苦茶をいってのけた」にしても,「最低限だけは禁欲してモノをいえ」と叱責できる程度の経済認識は,昨今は庶民の側でも用意ができている。

 安倍晋三政権の「ウソのウソによるウソのための為政」が,いままでまかり通ってきた。この首相のただ「やってる感」(だからその実体などもともとない)による内政と外交が,まともに成果を上げたことなどなかった。それでも,この総理大臣にこれからも騙されつづける「国民たち側の知的水準」だとしたら,どっちもどっちだという間柄ができあがっていることになる。国民たち側は独自にもっと勉強が必要である。

 3)昔,大宅壮一という「ジャーナリスト・ノンフィクション作家・評論家」がいて,自国民をことを「1億総白痴化」状態にあると批評したことがあった。こういったのである。
 「テレビに至っては,紙芝居同様,否,紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ,テレビというもっとも進歩したマスコミ機関によって,『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い」(『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」より)。
 安倍晋三が生まれたのは,1954年9月21日(現在の年齢 64歳)であったから,ほぼ近い時期に大宅壮一がそのように喝破していたことになる。けれども,大宅はまさか「そのままに似せて」21世紀になっても,これほどにもひどく「白痴的な国家指導者」が日本という国家を忖度的に牛耳ることになるとは,予想だにしていなかったかもしれない。自国民が総白痴化した状態であるにしても,最高指導者だけは,せめて白痴化してほしくないものである。ところが,その先頭に立っているのがあの人ときているから,始末に悪い。

 ②「世界の軍事費,最高水準に」(『朝日新聞』2019年4月30日朝刊7面「国際」)

『朝日新聞』2019年4月30日朝刊7面軍事費記事 a) スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は〔4月〕29日,2018年の世界の軍事費が前年比2.6%増の1兆8220億ドル(約203兆円)だったと発表した。米国と中国の軍事費の増加が全体を押し上げており,統計を始めた1988年以降,最高水準に達した。

 上位は,米国,中国,サウジアラビア,インド,フランスの順で,この5カ国で世界の軍事費の6割を占める。米国は,オバマ前政権時代に国防費を抑制してきたが,米軍再建をうたうトランプ大統領になり,2010年以降で初めて増加に転じた。

 日本の軍事費(防衛予算)は2019年度予算として,どのような方向になっていたか。「【図解・行政】2019年度予算案・防衛費の推移(2018年12月)」(『時事通信』https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_yosanzaisei20181221j-03-w430)は,安倍晋三政権が自国民の生活不安などそっちのけで,とくにアメリカから数年先まで兵器を購入(調達)することを決めている。添えられていた図表は,日本の軍事費が「その2012年末」に発足した第2次安倍晋三になってから “順調に増大” してきた事実を教えている。
 ◆ 防衛費の推移,「空母」調査に7000万円:
防衛費過去最高,5年連続更新-2019年度予算案 ◆
=『時事通信』2018年12月21日 =

 2019年度の防衛予算案は2018年度当初比1.3%増の5兆2574億円となり,5年連続で過去最高を更新した。新防衛大綱の目玉となった,海上自衛隊最大の「いずも」型護衛艦2隻を事実上の航空母艦に改修するのに必要な調査費として,7000万円が計上された。同じく大綱に明記された陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の関連経費は,総額1757億円(契約ベース)となった。
      時事通信2018年12月21日防衛費推移

 改修対象の護衛艦は「いずも」と「かが」の2隻。防衛省によると,短距離離陸・垂直着陸能力をもつ米最新鋭ステルス戦闘機F35Bの着艦時に発生する高熱に対応するための甲板塗料の耐熱性試験や,発着時の騒音が艦内の居住空間に与える影響について調査をおこなうという。

 イージス・アショアについて,概算要求時点では総額2352億円を計上していた。試験費用を次年度以降に先送りし,構成品の見直しなどをおこなって経費を圧縮した。

 米政府からの有償軍事援助(FMS)による調達経費は7013億円。イージス・アショアのほか,F35A6機(681億円)や早期警戒機E2D9機(1940億円)などが含まれる。2019年度の新規契約に伴う装備品の後年度負担は,今年度より2割増の2兆5781億円をみこむ。

 在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)は1987億円で,今年度より10億円増える。
 b)「いずも」と「かが」という海上自衛軍の「護衛艦と名のヘリ空母」を本格型空母に改修したり,「イージス・アショア」をいまさら整備・配置したりしてしても,本当に役に立つのか疑問が大きい。このことは,軍事専門家でないわれわれであっても,生半可な知識しかもたないながらも,おそらく「ドブに金を捨てる」ことになるが,「アメリカ側の軍需産業は大儲けする」ことくらいしっている。

 また「F35墜落と断定。2月に国会で何回も故障を起こす欠陥機だと指摘されていた。」(『薄荷らぼ。』2019年04月10日,http://hakka-pan.blog.jp/archives/16740163.html)という記述は,とくにF35という最新鋭のステルス戦闘機が,まだ初期不良の段階を抜け出せない〈欠陥兵器〉である事実について,こう記述していた。
 昨〔2019年4月9日〕晩から大騒ぎになっている,消息を絶った空自のF35Aステルス戦闘機なのですが,海に墜落と断定されました。(このあいだに,CNNの報道が挿入・紹介されているが,割愛)  パイロットの安否が気になるところです。

 記事にもあるようにF35Aというのは,アベ政権がトランプのいいなりに105機の購入を決めた戦闘機です(アホかと)。それでふと思い出しました。確か共産党が,このF35がとんでもないポンコツであると国会で追求してましたよ~。
 補注)ここで参照してほしいリンク先が「これこれ→2月19日【必見!】爆買いするF35戦闘機が実は欠陥機だった!(; ꒪֊꒪)」であった(『薄荷らぼ。』2019年02月19日)。こちらでは,つぎのように記述されていた。

 「なんと,安倍政権が爆買いするF35戦闘機が,パイロットが酸欠状態になるような欠陥機だというのです。アメリカは欠陥についてのリストを公表してるのですが,防衛省はそれを持ってないと!」

 「そんな欠陥品をトランプに押し付けられて,嬉しそうに購入してんのか,アベは!💢」「防衛大臣もたいがいにしろよ。いままで事故は起きてないって,起きてからじゃ遅いんだよ。墜落したら,大惨事になる可能性だって有るゾ!」

 もう1度上げておきましょう。米国が公開した未解決の欠陥は966項目,けれど防衛省はそのリストさえ保有してない。どんだけ無能なのよ,防衛省。もし,今回の事故が欠陥によるものだったら,アベ政権は責任重大ですね。

 そもそも,そんな欠陥戦闘機をいわれるままホイホイ購入しちゃうバカ政府は,世界中探してもアベ政権くらいだろ。人命と血税。両方とも大切にしてません。(`ヘ´#) 💢
 以上の指摘・批判に対しては 「しかりだ」といえる。だから「アベノミクスのウソノミクス性」など,安倍晋三流の本式になるウソ性の発動に比較してみたら,「お茶子再々」のウソ事情であった。軍事費の増大なども,ただ無節操に「トランプのいいなり」になってしまい,数年先まで予約済みにする意欲過剰ぶりを披露していた。

 ③「〈インタビュー 平成から令和へ〉これからの天皇と日本 米ポートランド州立大学教授 ケネス・ルオフさん」(『朝日新聞』2019年4月30日朝刊9面「オピニオン」)の意見を拾いながら
『朝日新聞』2019年4月30日朝刊9面オピニオンルオフ記事

 「日本の天皇は,他の国の王や女王とどう違うのか。「国民統合の象徴」とは,いったいなにか。そもそも,民主主義と君主制は矛盾しないのか。これからの世界とこの国で,天皇制が存続する意味はどこにあるのか。退位と改元を機に,来日した,米国を拠点に活動する現代天皇制研究の第1人者〔ケネス・ルオフ〕に聞いた」。

 この “問い” にルオフがどう答えたかついて,これを全文引用することは長すぎてできないので,以下は任意に選んで紹介し,関連する議論を批判的にくわえてみたい。

 1)『問い』「平成の天皇の歩みを,どのように評価しますか」について,ルオフはこう答えた。

 とくに「災害の被災者に接する姿は,あらゆる国民が記憶するでしょう。皇太子時代から,障害者など社会の弱者に配慮し,離島などを訪れ,周辺にいる人々に手を差しのべ続けたことも特徴でした」。(ルオフからの引用は,いったん,ここまで)

 だが,本ブログが昨日〔4月29日〕に触れた天皇(裕仁)の戦責問題のうち,とくにシベリア抑留問題(日本人兵士だけでもほぼ60万人が強制収容所に送りこまれ,そのうち1割もが命を落としていた事実)について,息子の天皇(明仁)がなにかを具体的に発言したという話題は,筆者は寡聞にしてしらない。

 それはそうであった。ここでの話題を明確にしておく。「『国体護持(天皇制を守ること)』のために,日本政府がソ連と取り引きして,私たちを生けにえにした」とまで,その被害者たちに批判されている “シベリア抑留の問題” は,いまだに生々しく残されたままであった。

 前後する記述における話題の運びのなかでは,多少筋がぶれるかもしれないが,おそらくつぎのような背景を控えた問題であっただけに,天皇の問題に関連していた事項としても,けっして正面に出せるようなものではなかった。
 瀬島龍三を佐々淳行がみずからの証言をも踏まえて,「黒幕は伊藤 忠の瀬島龍三氏であり,なんらかの政治的社会的制裁をくわえるべし」と直属の上司である後藤田正晴内閣官房長官に意見具申したという。佐々氏の証言は重い。

 「私はKGB捜査の現場の係長もやった元外事課長ですよ。瀬島がシベリア抑留中最後までKGBに屈しなかった大本営参謀だったというのは事実でありません。彼は,『帰国したら反ソ反共を装い,ソ連の批判を慎み,日本共産党とも接触せず,保守派として成長し,大きな影響力をもつようになれ,そのときKGBが肩を叩くからソ連のために働け』,

 つまりスリーパーとしてソ連に協力することを約束した,いわゆる『誓約引揚者』です」と言明したのだ。さらに,佐々氏は,警視庁外事課ソ連欧米担当の第一係長(警視)という現場の任についていたときの話として,……」(佐々淳行の証言はここまで)。
 
  〔上に登場していた瀬島龍三とは〕 大東亜戦争のほぼ全期間,大本営陸軍参謀として戦争の立案・遂行の中枢にいた帝国陸軍のエリート中のエリートであった。敗戦を満州で迎え,ソ連軍の捕虜としてシベリアに11年間抑留されたのち,

 1956年釈放され帰国し,1958年以降伊藤 忠商事に勤務しはじめた。そのキャリアは羨望の的であり,最終的には伊藤忠の会長として頂点をきわめた人物である。その間,政界・財界に広く深く人脈を培い,天木直人にいわせれば,「日本のブレーンとしての瀬島龍三である」(www.amakiblog.com/archives/2007/09/post_309.html)。
 註記)「誰が瀬島龍三を護ってきたのか。」『hojorohnin's diary』2013-10-26,http://hojorohnin.hatenablog.com/entry/2013/10/26/173640

 以上の言及を踏まえていうのだが,しかも完全に推理で臨むほかない論理ともなるが,こう推断しておく。

 同じ11年に及ぶシベリア抑留であっても,昨日とりあげた斎藤貴男の父,こちらは庶民出身の兵士であった父親が,同じく11年間もシベリア抑留された場合(死ぬまで赤あつかいされ監視されつづけた)とはまったく異なっていて,帰国後も超エリートの地位を,こんどは民間企業のなかで与えられていたのが,瀬島龍三であった。

 ということで,瀬島龍三が日本に戻ってきたあともその11年間の空白期をものともせずに,人生行路においてエリート路線のなかにただちに現役復帰できた事情には,なんらかの説明しがたい深い因縁があったと疑われて当然である。

 おそらく,敗戦直後ソ連に日本兵など60数万人の旧大日本帝国軍人を提供したのが,直接には瀬島龍三であったとしても,この瀬島に対してさらに背後から指令を出していた「特定の人物」が実在したと観ていいのである。ここではあえてその名を提示しないが,誰でもおのずと理解できそうな人物である。             

 〔ここで,ルオフのインタビュー記事に戻る ↓ 〕
 2)『問い』「とくに印象に残っている出来事は,ありますか」について,ルオフはこう答えた。

 「一番興味深く感じたのは,明仁天皇の2001年の誕生日にあたっての記者会見です。『桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています』と述べました。『純粋な日本民族』や『万世一系』を重視する人びとは,衝撃を受けたでしょう」。……「まるで国民に歴史の授業をしているかのように語りました」。

 平成天皇が当時,この桓武天皇の話題を出したとき,とくに「日本の言論界」からの反応はきわめて冷たく,もともとだいぶ鈍かった。なにか,けっして「聞きたくもない話題」を聞かされた気分にでもなったのか,そう疑いたくなるその反応の仕方であった。いわば,ネトウヨ的に単細胞の「嫌韓」的な気持がそのころからすでに,潜在的に機能していたのかなどと解釈してみたくもなる。

 3)「『問い』「天皇制はユニークだと考える日本人は,多いです」について,ルオフはこう答えた。

 「天皇制があるかぎり,日本から差別はなくならないといった主張をする人もいます。私はどちらの立場からも批判を受けることがありますが,天皇制は,世界の君主制と多くの共通点があり,近現代の象徴君主制のひとつと考えて良いと思います」。

 ここでは,この答えを聞けた範囲内でいうが,ルオフは「天皇制があるかぎり,日本から差別はなくならないといった主張」に対して,さらに突っこんだ見解を語ってはいない。肝心な論点から上手に逃げる対論をしている。したがって,たとえばこうも答えていた。

 「日本は民主主義国でないというのは間違いです。イギリスもスペインもベルギーもオランダも,それぞれが欠点や問題を抱えているけれども,象徴君主がいるのと同時に,民主主義国です」。「ユートピアを追い求めるように,完璧な民主主義の制度を求めるのは危険です。君主がいようといまいと,民主主義は制度さえつくれば,それで安心してはよいものではありません」。

 ルオフがここに示した論法にあっては,「君主制度の問題」と「民主主義制度の問題」を故意に遊離・別置させておきつつも,同時にまた併存できるモノ同士だとしておきたい,ルオフ流の “詭弁的なものいい” が特徴的である。困難度の高い,いいかえれば解決可能の度合において難易性が増す問題に関しては,さらりと身をかわすかのような便法がなんども重ねて駆使されている。肝心の聞きたい問題点ははぐらかしておきたい意図がありそうだとも勘ぐれる。

 4)「『問い』「天皇が世界のためにも,果たせる役割がありますか」について,ルオフはこう答えた。

 「これからも皇室が存続するならば,意義のある役割を果たすことが求められるでしょう。多様化する日本と世界で,積極的で大きなインパクトを与えることができる分野は,数多くあるのは間違いありません」(聞き手・池田伸壹)(引用終わり)

 ここでは,日本の「皇室が世界のためにも,果たせる役割がありますか」といった設問じたいに対して,はじめから疑問すら抱こうとしない態度である「ルオフの基本思考」があった。ルオフ『国民の天皇-戦後日本の民主主義と天皇制-』(高橋 絃監修,木村剛久・福島睦男訳,岩波書店,2009年。初版は共同通信社,2003年)は,こういう記述をしていた。敗戦に関する話題であった。
 何百万人という日本人が天皇の肉声を聞いたのは,このときが初めてである。ラジオに耳を傾けた日本人にこの日の経験は深く刻みこまれ,報道があらためて戦後の天皇増をかたちづくる第1歩となった。

 それから1年も経たないうちに7000万人の日本人が慣れ親しんでいた明治体制,とりわけ明治憲法は占領軍の改革によって一掃されることになる(63-64頁)。
 敗戦前後の日本本土には6千3百万人ほどの日本人がいて,それにくわえてさらに,2百万人ほどの朝鮮人・中国人(台湾人)もいたはずである。ところが,ルオフの発言の念頭には「後者の集団は」置かれておらず,不在だとみなされていた。というよりは,ともかく考慮されておらず飛んでいた。

 この点は,ルオフ『国民の天皇-戦後日本の民主主義と天皇制』(岩波書店,2009年)の「解説」を書いた原 武史が,戦前・戦中の皇室事情から戦後における平成天皇までを視野に入れたかたちで,つぎのように問題を指摘していた。これは,「ルオフの側におけるある種の問題意識の不足・欠落」にも関連する事情を強調していた。
 戦前の祝祭日と同じ日に祭服に着替え,皇祖皇宗に向かって祈る「お堀の内側」の現〔平成〕天皇の姿は,本書〔ルオフの〕が指摘する「戦後を終わらせ,社会の周辺に追いやられている人びとの支えになろうと務めている」「お堀の外側」の言々天皇とはどうしても噛みあわない(原 武史「解説」502頁)。
 天皇研究者としてのルオフの限界は,はっきりしている。最終的に『寸止めの天皇論』が迫力に欠けるのは,いたしかたない点であった。その程度の分析に留め置かれた天皇論であって,それなりに制約のあった価値前提を用意していたからこそ,日本における天皇問題をどこまで本格的に追及できるかについては,当初からその可能性は狭められていたというほかない。要は,ルオフの立場は,日本・日本人に嫌われない範囲内に議論を禁欲している。

 ④「〈社説〉退位の日に『象徴』『統合』模索は続く」(『朝日新聞』2019年4月30日朝刊)

 この社説は全文を引用しないで,文中にしめされた見出し2点のみ出しておく。その文句は「判断するのは主権者」と「政治が機能してこそ」であった。日本国民という主権者の上方に「〈象徴〉であると定義された天皇」が鎮座する。これが,この国を憲法的に構成する「基本的な政治構造」である。

 しかも,安倍晋三政権のように,なんでもかんでも秘密主義で手前勝手にとりあつかい,民主主義の基本原則に対しても「▲ソ喰らえの要領」でもって,国家の運営を恣意的におこなっている現実のなかでは,「天皇制度と民主主義制度」との間に残されたままである矛盾そのものに関する問題は,これからも反永久的に詰めた議論がなされえない様子をうかがわせている。

 本日の『朝日新聞』朝刊は「30面・社会」に「〈平成最後の日〉思考停止,変える力を  作家・高村 薫さん寄稿」という文章を載せていた。高村の意見は,うしろから3分の1ほどの段落部分で,つぎのように論じていた。
 思えば,この30年間に世界経済は激変し,中国のGDP(国内総生産)はいまや日本の3倍である。日本のお家芸だった製造業の多くは苦境にあり,次世代の5G技術でも米中に遠く及ばない。

 世界が猛烈なスピードで変わりつづける一方,この国は産業構造の転換に失敗し,財政と経済の方向性を見誤ったまま,なおも経済成長の夢にしがみついているのだが,老いてゆく国家とはこういうものかもしれない。自民党の一党支配に逆戻りして久しい政治がそうであるように,この国にはもはや変化するエネルギーが残っていないのだ。

 その一方で深刻な少子高齢化も,企業の多くに賃上げの体力がないまま進む貧困と格差の拡大も,とうの昔に破綻している原子力政策も,平成の30年間に私たちがみてみぬふりをしつづけた結果の危機でもある。

 平成が終わって令和が始まるいま,なによりも変わる意思と力をもった新しい日本人が求められる。どんな困難が伴おうとも,役目を終えたシステムと組織をここで順次退場させなければ,この国に新しい芽は吹かない。常識を打ち破る者,理想を追い求める者,未知の領域に突き進む者のゆく手を阻んではならない。
 高村 薫いわく「どんな困難が伴おうとも,役目を終えたシステムと組織をここで順次退場させなければ,この国に新しい芽は吹かない」と。本来であれば,はじめから役目(出番)などなかったはずの「世襲3代目の政治家,安倍晋三」が,いまもなお大きな顔をしてのさばりつづける,この日本の政治社会であった。末世の感すら抱かせる。

 高村 薫は,『朝日新聞』の社会面において以上のごとき意見を披露した。だが,元号が変わるこの時だからといってとくに,そのように持論を発信しておくべき〈特定の理由になる因果関係〉がみつかるわけではない。それはさておき,本日のオピニオン欄に別途「投書されていた読者の指摘」は,つぎのように最近における庶民の生活を観察していた。
◆ 令和へ 270円の弁当,デフレの世に
= 会社顧問 穴原精二郎(愛知県,70歳)=

 会社の昼食時,珍しく弁当を買ったところ,あまりの安さに驚きました。税込み270円です。小ぶりのサバの半身焼きと唐揚げ3個がレタスに載り,レンコンとゴボウのきんぴら,そしてキュウリの漬物が枠にきれいに収められていました。小梅つきのご飯は冷めてもおいしく,焼きサバも唐揚げもちょうど良い塩加減でした。

 でも私は悲しくなります。会社経営に携わってきた者として,この弁当の製造販売でどれだけ儲けられるのかを考えてしまいます。なんという時代かと思います。

 関東地方の私大生への仕送り額が1994(平成6)年度から昨春までに33%も減ったと記事にありました。30~40代の世帯の23%が貯蓄ゼロというアンケート結果も目にしました。一方,家計の金融資産の総計は平成元年の約980兆円から,昨年末には1830兆円に増えたそうです。

 総中流の時代は霧散し,この弁当が格差社会に生きる人びとを支えています。目の前の「平成」に泣けてきます。
 アベノミクス? 別名はアホノミクス,ダメノミクス,ウソノミクス。本名のそれはサギノミクス。そして,その本性はアベノクライシス,アベノリスク。うーん,だからこそ『朝日新聞』の,この本日朝刊16-17面に「国民の統合へ,織り成し続けた平成流   天皇,皇后両陛下の歩み」と題した特別記事が編まれた,といえるかもしれない。

 本ブログのここまで記述してきた内容に対面するとき,どうしても齟齬を感じるほかない文句を並べていたのが,この特別記事であった。この記事については,上段に出されている「小見出し」の文句のみを拾い,考えてみる材料としたい。また,この記事は岩井克己・本社皇室担当特別嘱託が書いていた。

  ※-1 つながる「信頼と敬愛」
   ※-2 時も国境も越え広がる
    ※-3 担い手や制度に「宿題」
     ※-4 国民も問われる時代に

 結局,ともかく問題だらけだったというべき平成の時期に関した結論になっている。そのさい「天皇・天皇制をどうしていくのか」という課題は,微温的にしか語られていない。そういった意味でも問題は,なお山積状態。天皇・天皇制の問題は「国民も〔客体として〕問われる」関係の立場に立っているのではなく,主体(主権者)である「国民がその問題を問うべき」立場にあるはずである。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        


 【女性差別の絶えない日本に対して平成の天皇「夫婦」は,日本国・民を統合する象徴として,その解消・解決のためになにかを関与できたのか?】

 【「平成の天皇史」といえども「天皇(貴族:皇族)と国民(平民:庶民)」の間に厳在する「絶対的な格差(差別」)を撤去させえないままである】

 【平成天皇「夫婦」による皇室戦略の30年の戦術集大成は,武蔵野陵にすでに用意されている彼らの墓が,なにも語らずして的確に表現している】



 ①「円滑な皇位継承を重視 宮内庁,側近人事スライド 皇室日程,来春まで過密」(『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊2面「総合1」)

 1)古代史を夢想しながら息をしてるつもりの日本の政治社会
 本日〔4月24日〕から,あとちょうど1週間で平成と呼んできた時期が終わり,令和と名づけられた時期が始められる。だが,庶民のわれわれにとって実体的に,どのよう意味あいがありうるかといえば,千差万別である。ずいぶんと感じ入ってしまい,かしこまって令和という元号を受けとる人もいれば,こんな不便なものをなぜいつまでも喜んで使いつづけるのかと,いぶかしく感じている人もいる。

 本ブログは記述のさい引照する文章・記述のなかに,たとえば昨日〔4月23日〕の場合だと,いきなり08年という「年数」が出てきたところで,一瞬とまどった。ネットの時代なので,5月1日のことを05月01日(あるいは今年なら 2018.05.01)などと表記されるのは,ざらである。

 それゆえ,その08年とは「はたして,西暦の2008年なのか平成の08年なのか?」と,まよってしまった。前後関係をよく見直してこれは2008年のことであると「判定(判読?)」する始末となれば,元号がまた変わって,これからは “令和の何年” を使用するというしだいでは,日常生活ではなにかと非常に不便を感じる。

 天皇家の「私的な年号」としてのみ内輪で使ってくれるのが,一番ありがたいのである。この元号「制」は,1979年6月6日の第87回国会で「元号法」が成立し,同月12日に公布・即日施行(附則第1項)されていたが,この法律の条文じたいが,かなり興味深い文章になっていた。ウィキペディアの解説は,つぎのように説明している。
 本則は次の2項をもって構成される。第2項は一世一元の制と呼ばれる。附則も2項あり。

    第1項:元号は,政令で定める。
    第2項:元号は,皇位の継承があった場合に限り改める。

 附則
  第1項:この法律は,公布の日から施行する。
  第2項:昭和の元号は,本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

 本則は,項番号を除き,31字である。これは,「記名ノ国債ヲ目的トスル質権ノ設定ニ関スル法律(明治37年法律第17号)」の26字につぐ短いものである。
 元号法はこのようにともかく短い条文であるが,これにはそれなりの事情・理由があった。というのも,なぜ「元号を政令で定める」のかに関する説明が「なにも書かれていない」法律でもあったからである。

 もっとも,近現代史のなかで日本という国が,明治以来「一世一元の元号制」を決めて使い出した歴史的な解説,それも大昔における国際政治の背景をもちだして語りはじめるといった専門家の理屈は,ある意味では笑止千万どころか,コッケイの域にしか収まりえない「アクロバット的な解釈」になっていた。

 宮瀧交二(みやたき・こうじ,大東文化大学文学部歴史文化学科教授)も例に漏れず,こう説明していた。
 7世紀の朝鮮半島では高句麗(こうくり),新羅(しらぎ),百済(くだら)の三国が分かれて戦っていた。やがて新羅が「白村江(はくすきのえ)の戦い」で百済と日本に勝利し,高句麗も滅ぼして,朝鮮半島を統一する。

宮瀧交二画像 その新羅はかつては独自の元号を使っていたのだが,唐から「なぜ唐の元号を使わないのか?」と問いつめられてしまった。結局,新羅は忠告に従い,唐の年号を使うことになった。
 出所)画像は宮瀧交二,https://gunosy.com/articles/aDIGE

 その点,日本は島国で,中国とは海を隔てていたこともあり,すぐに襲われることもないと考えたのか,唐の年号を使わずに独自の元号を使いつづけた。そういう意味では,中国の文化圏に入っている国のなかでも,日本は例外だったのだ。

 朝貢国として唐の元号を使わなければいけないという認識はあったと思うのだが,あえて使わなかったというのは,聖徳太子以来の自主独立の道を歩みたい,そういう国家としてのプライドがあったのではないだろうか。
 註記)「日本人が『元号』を使い始めた意外な理由 聖徳太子以来の『自主独立の道』」(『PRESIDENT Online』2019.3.13,https://president.jp/articles/-/27915?page=3)
 以上の元号に関する説明は “分かるといえば分かる” のだが,こちらもまた,それではなぜ日本だけが21世紀のいまどきになってもまだ,この元号制を「法律で決めてまで使用する理由はなんであるのか」に関する説明にはなっていない。

 ましてや,「元号の将来は,国民が選択を!」(「【間もなく発表!-平成から新元号へ-最終回】新元号を大胆予想!」『グノシー』2019/03/27https://gunosy.com/articles/aDIGE)などと主張するのは,一見,政治的には聞こえないような発言であるとともに,これを反転させていえばひとまず民主主義的に映るけれども,実は政治まみれである意見でしかあえりず,しかも説明をするという点に関しては「逃げの発言」になっている。

 「日本は例外」「自主独立の道」=「国家としてのプライド」のために日本独自である元号を,いまの時代であっても使用するのだというこの1点に関した「適切かつ納得のいく説明」にはなっていない。古代史における話題をそのまま,21世紀にもちこむような論法は,学究の提示すべき作法としてはいちじるしく不自然である。

 それならば,なぜ本家本元の中国や地政学的にこの文化圏に入っていた韓国(北朝鮮)などは,現在,元号を使用していないのかに関する諸事情が,うまく理解でないままに放置されてしまうことになる。

 そのうち,どこかの「お▲鹿な単細胞的頭脳の持ち主」であるほかない「ネトウヨ的嫌中・嫌韓の者たち」が,日本こそ元号をいまでも「例外的に・自主独立路線」でもって「国家」の「プライド」を堅固に保持するために使っているのだなどと,奇想天外のド・ヘリクツまで誇示しかねない。そこまでも,日本の世論の一部であっても逸脱していったら,世界中から笑われ者になりかねない。

 実際,前段のごとき元号をめぐる歴史理解に関していうと,「歴史にまつわる論点」については,完全に見当違いである「元号を足場とした〈国家意識の高揚〉(自慰的な自己満足感)」が,現実に展示されていないとはいえない。

 だが,前段においてその条文を紹介しておいたが,『元号法』がその制定する理由・根拠を,法律の内容として具体的にはなにも示しめせなかった事情は,いったいなんであったのか。元号そのものにこめられた期待というものの本性は,実際のところ,完全に「時代錯誤的であってもなにかを本気になって信じこみたい精神構造」を,恥ずかしげもなく吐露していたといえる。

 それゆえ,ここにおける議論のように,元号に対する疑問や批判が提示されると,だいたいにおいてその支持者は,いきなり感情的に反発することしかできない。アジアの国々のなかで,それも大昔の中華帝国式の古風な時間観念である「元号」を使用するというのであるから,どのように解釈するにしてもそれを使用するという理由は,正面から明示しえるわけがない。というのも,元号そのものに由来する時代錯誤性は,当事者であってもよく承知している前提条件であったからである。

 結局は「本当の理由などいえません,そういうものが元号です」と応えるほかないのであった。元号というものが本当に,日本がそこまでこだわる程度に “イイモノである” ならば,中国も韓国も,もしかしたらあの金 正恩君が支配する国(北朝鮮)であっても,絶対に使用していないとおかしい。そういった筋書きで理解してもいい。だが,なぜか日本だけがいまだに「元号」「元号」……。

 おまけに,日本こそは「天皇・天皇制をいただくスゴイ国:ニッポン」なのだといったふうに,それも「現代的な社会意識としての “虚偽のイデオロギー” が保持されたまま,盛んに誇示する材料になっている。

 元号の問題は,天皇・天皇制に関して明治時代(19世紀末)に新しく決められた「一世一元の元号制」によっていたが,21世紀になってからすでに20年近くも経過してきた「地球全体の世界史」のなかでの自慢話とされていた。しかし,日本はとてつもなく素晴らしい「伝統と歴史」(いずれも明治謹製だが)がある国なのだといった『空虚なナルシズム』に浸りこんだ状態をつづけて,これからの21世紀も生きていくつもりである。

 2)この ① の日経記事の引用
 〔2019年〕5月1日の天皇の代替わりに伴い,新天皇を補佐する侍従長に小田野展丈東宮大夫(71歳)を,上皇となられる天皇陛下を補佐する上皇侍従長に河相周夫侍従長(66歳)を充てる人事が〔4月〕23日,閣議で決まった。現在の側近トップをそのままスライドさせ,新皇室の安定的なスタートを狙った。

 皇室典範特例法は退位した天皇陛下の敬称を「上皇陛下」,皇后さまは「上皇后陛下」と呼ぶよう定める。政府は皇位継承順位1位となる秋篠宮さまの正式な敬称を「秋篠宮皇嗣殿下」とした。23日に閣議決定された宮内庁幹部人事はいずれも1日付。新天皇に即位した皇太子さまが即位関連の儀式を終えた後,小田野氏と河相氏の認証式に臨まれる。
  『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊2面天皇記事1 『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊2面天皇記事2

 小田野氏は昭和45〔1970〕年,外務省入省。ミャンマー大使や欧州連合(EU)政府代表部大使などを歴任した。2016年5月から皇太子さまの側近部局である東宮職の長,東宮大夫に就き皇太子ご夫妻の公務や代替わりの準備などに携わってきた。
 補注)この段落における「記事の年代表記」がおもしろい。最初は昭和45年,あとは2016年である。なぜこのように年号を違えて,しかも同じ段落のごく近い文章のなかで,「元号の昭和」と「西暦(西紀)の年数」とが順に出ているのか。「?」としか受けとれない。

 侍従長は過去2代,同省事務次官OBが続いてきたが,小田野氏は次官を経験していない。一方で,上皇侍従長となる河相氏は昭和50年入省の外務次官経験者だ。また,小田野氏はすでに71歳と,宮内庁幹部の勇退のひとつの目安とされる70歳を超えている。

 それでも,新たな象徴として多くの公務を担われることになる皇太子さまの最側近として引き続き侍従長に登用されたのは,「前例よりも,円滑な皇位継承がおこなわれることが最優先」(宮内庁幹部)との考え方が大きい。とくに代替わりの1年間は諸行事が多く,皇室のスケジュールが過密になる。

 実際,今回の代替わりに伴う各部局の宮内庁幹部の顔ぶれをみると,侍従職では,ナンバー2の侍従次長に加地正人・東宮侍従長(65歳)が就き,その他の7人の侍従もいずれも東宮侍従からのスライド人事だ。

 上皇職も同様に幹部クラスはいずれも侍従職OB。皇位継承順位1位の皇嗣となる秋篠宮さまとご一家を補佐する最側近の皇嗣職大夫には,これまで同家を支えてきた加地隆治宮務主管(66歳)が就く。このほか部課長級の幹部には,定年延長をしてポストにとどめたり,他省庁との交流人事では宮内庁での在籍期間を延ばしたりして対応するケースも目立つ。

 皇位継承の儀式は〔20〕20年春に秋篠宮さまが皇嗣となったことを内外に明らかにされる「立皇嗣の礼」まで続く。スライド人事は一連の儀式・行事を乗り切るための暫定措置の側面が強く,「諸行事が落ち着いた段階で,外務省OBから将来の侍従長候補がやってくるのではないか」(宮内庁関係者)という見方も多い。
 補注)ここでの年数表記は,2020年を20年と書いている。この段落では「平成20年のこと」かと間違えることはなさそうである。だが,2020年と書いてなにか不都合でもあるのかと感じる。「20」(半角文字2つで1字分)を書き足せばそれで済む話。

 以上,宮内庁関連の人事移動が天皇交代にともなって発令されているという話題であった。皇室(王室)の運営のためにこれだけの人事がかかわっている事実,そして,このためにかかる国家予算などがいくらであるかについては,宮内庁ホームページに情報が公開されている(http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan-ichiran.html)が,平成31〔2019〕年度の総額は次表のとおりである。

 平成がかかっている時期のみ参照しておくが,平成30・31〔2018・2019〕年において増加している費目は,天皇の代替わりに備えた予算措置だと解釈できる。
宮内庁予算平成の時期一覧

 ②「両陛下,労災慰霊施設で供花」(『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊38面「社会1」)

 天皇,皇后両陛下は〔4月〕23日,労働災害で亡くなった人びとを慰霊するため,高尾みころも霊堂(東京都八王子市)を訪問された。霊堂最上階の11階に上がり,約26万人の御霊(みたま)を祭る拝殿で供花された。

 その後,労災による年間死亡者数の推移の説明を受けた天皇陛下は「ずいぶん少なくなりましたね」と感想を述べ,死亡者を減らすには「どういう努力が必要ですか」と質問されていた。

 これに先立ち,両陛下は昭和天皇の武蔵野陵(同市)を参拝し,30日に控える陛下の退位を報告された。退位に関連した儀式のひとつである「昭和天皇山陵に親謁の儀」で,残すは30日当日の儀式のみとなった。この日は両陛下の姿を見ようと,沿道に多くの市民が詰めかけた。(引用終わり)

 この記事(『日本経済新聞』)に該当する『朝日新聞』の報道もつぎの ④ に紹介するが,ここで確認しておきたいのは,まず最初に「両陛下は昭和天皇の武蔵野陵(同市)を参拝し」てから,このつぎに「労働災害で亡くなった人々を慰霊する」行為を披露する予定をこなしていたのであって,この順序が逆ではない点(事実)があった。事実だけの指摘であっても,このもつ意味がどこにあるかはいうまでもない。

 また,つぎの ④ に紹介する当該の記事を掲載していた『朝日新聞』は,『日本経済新聞』とまったく同じ配置(レイアウト)の要領を示していた。どういうことかというと,両紙ともに「社会面2面分を見開き」をみたとき,その記事を「右側の頁(面)の左下」に配置していたのである。

 つまり,『日本経済新聞』も『朝日新聞』もまったく記事の場所(配置)まで同じあつかい方になっていた。ただし,日経と朝日とでは見出しの付け方がまったく異なっていた。日経は事実の半分に相当する見出しにだしていなかったが,朝日は事実どおりにその全体を反映させる見出しを出していた。なぜ,このような質的に異なる実質があるともとらえれる「見出しの表現」の違いが生じていたのか? いろいろ解釈の余地があるが,ここでは論じない。

 ③「昭和天皇陵で退位報告 労災犠牲者慰霊施設も訪問」(『朝日新聞』2019年4月24日朝刊30面「社会」)
『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊38面武蔵野陵
出所)この画像は『日本経済新聞』同日から。

 天皇,皇后両陛下は〔4月〕23日,東京都八王子市の武蔵陵墓地で,退位に向けた儀式の一つ「昭和天皇山陵に親謁(しんえつ)の儀」に臨み,昭和天皇が埋葬された武蔵野陵(むさしののみささぎ)に参拝し,30日に退位することを報告した。モーニング姿の天皇陛下と参拝服姿の皇后さまはそれぞれ陵の前に進み出て玉串を手にし,深々と拝礼した。

 その後,労働災害で亡くなった人びとを慰霊する同市の「高尾みころも霊堂」を訪問。拝殿で供花した。両陛下は皇太子ご夫妻時代からこれまでに同霊堂を6回訪問。この日,天皇陛下は,労働災害による死者の減少には「どういう努力が必要なんですか」などと質問。帰りぎわ,関係者に「遺族の方々にしっかり対応をお願いします」という趣旨の言葉をかけたという。(引用終わり)

 この天皇の発言「遺族の方々にしっかり対応をお願い」というものは,はたして,行政のありようにまで絶対に影響を与えないものとは思えない。が,しかし,天皇がそのような政治的な発言としてしか受けとりようのない発言を,彼の信念である「国民に寄り添う姿勢」のなかで,いいかえれば「皇室戦略の具体的な一環(戦術)」となって発揮していた点は,単なる〈象徴の存在である人のおことば〉だとしても,各種各様になる疑念を惹起させるほかない。

 ところで,武蔵陵墓地には平成天皇のための墓所がすでに準備され造成中である。つぎの画像はグーグルマップで武蔵野陵部分を切りとったものであるが,平成天皇夫婦のための陵(墓)が造成中である様子は,地肌がみえていて手にとるように分かる。

 少しみにくいが,真ん中には大正天皇夫婦,右側には昭和天皇夫婦の陵が配置されている。これらの各陵が占めている面積は,後段に出ている資料によれば「昭和天皇夫婦の敷地」約4300平方メートル,「平成天皇夫婦の敷地分」約3500平方メートルとされている。

 ただし,大正天皇夫婦の分」のその面期は不分明であるが,この衛星写真で判断しようとするかぎり,一番小さい(狭い)と観られるような印象をもつ〔とだけ付言しておく〕。
武蔵野陵画像2019年






 
 武蔵野陵については本ブログ,主題 2014年10月09日「王様(天皇)の墓と人民(庶民)の墓-1人1基が一家1基に変わったのは明治時代から-」,副題「天皇の陵墓は1人ひとり建造し,夫婦をいっしょに埋葬しないけれども,庶民の墓は,家族全員でいっしょに埋葬するものを造れといってきた,明治憲法下における墓所造営に対する政府指導の事跡」(リンク ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1011066484.html )を参照してほしい。

 ここでは,平成天皇の陵(墓)がだいたいどのように設計されているか,その見取り図を再度かかげておく。
平成天皇陵予定図

 明治天皇の陵は関東にはなく関西にあるが,こちら武蔵野陵に墓所が置かれている「大正天皇,昭和天皇,平成天皇(予定)の各陵」は,これをみればすぐに気づくことだが,画像に写っている聡和天皇夫婦の陵と平成天皇夫婦の陵は,いわば「メオト茶碗」の要領でそれぞれ大きさに差がつけられている。むろん「男のほうが大きく」,これにくらべて「女のほうは小さい」。

 それをしったとしたら,和田アキ子(身長 174センチ,配偶者あり)やミッツ・マングース(徳光修平,同 182センチ,配偶者の有無は不詳),マツコ・デラックス(松井貴博,178センチ,同上)らが,はたしてなんというか(いわないか)はさておいても,日本政府も推進しているはずの「男女共同参画社会」という理念・目的に適切に沿いうる「天皇家の墓所」の建造方式だといえるか?

 このような疑問までを抱いてもなんら不思議でないだけでなく,当然も当然だと誰もが感じるはずである。

 ④ 先進国を自称する国々のなかでは「最低水準に着けている」日本の女性に対する差別状況(男女格差)

 1)「男女格差,日本なお110位
世界経済フォーラム報告書」(『朝日新聞』2018年12月18日夕刊)

『朝日新聞』2018年12月18日夕刊男女格差記事から 世界の政財界の指導者が集うダボス会議の主催でしられる世界経済フォーラム(WEF)が〔2018年12月〕18日に発表した2018年の男女格差(ジェンダーギャップ)報告書によると,男女平等度で日本は149カ国中110位だった。

 昨〔2017〕年の114位から3年ぶりに順位を上げたが,主要7カ国(G7)では引きつづき,最下位だった。1位はアイスランドで「男女平等のもっとも進んだ国」の地位を10年連続で保った。

 報告書は経済,教育,健康,政治の4分野14項目でどれだけ格差が縮まったかを指数化し,国別に順位をつける。100%を完全な平等とすると,今回,世界の格差は平均で68.0%。日本は前年の65.7%から66.2%に改善した。

 日本は,女性の国会議員数が依然として少ないことが響き,政治分野で,前年の123位から2つ順位を下げた。経済分野では,労働人口における女性の比率や男女間の所得格差などすべての項目で指数は改善されたものの,調査対象の国が増えた影響もあって,前年の114位から3つ下がった。

 調査責任者サーディア・ザヒディ氏は,女子を不利に扱う医学部の不適切入試に言及。「あるべき姿に逆行する動き」と指摘した。

 同じ話題をとりあげた『日本経済新聞』(2018年12月18日夕刊)のほうでは,こう伝えていた。部分的に引用しておく。

 「調査対象149カ国のうち,日本は110位で前年から4つ順位を上げた。所得格差の縮小など職場環境がやや改善した。ただ,日本は主要7カ国(G7)で最下位で,女性が経済や政治の第一線で活躍する環境の整備など課題は多い」。

 「指数は女性の地位を経済,政治,教育,保健・医療の4分野で分析する。WEFは世界全体では依然,女性の労働市場や政治への参加は少なく,男女の格差縮小は足踏みしていると評価。このままいけば完全に格差を解消するには108年かかると試算した」。

   この「順位は中国やインドを下回る。とくに女性の国会議員が少なく,政治参画は125位と極端に低い」。

 2) 1)の報道を受けて思う日本の問題
 『朝日新聞』の翌日(2018年12月19日)朝刊は「地方議員も『多様性もっと』 政治の男女格差 日本125位 思い」という見出しの記事を掲載していた。『朝日新聞』のさらにその翌日(12月20日)朝刊は「〈男女格差 ジェンダーギャップ〉女性経営者の壁 壊そう」という解説記事の「上」編を組んでいた。

 前者の解説記事は「政治分野における日本の点数と順位」,後者のそれは「経済分野における日本の点数と順位」に関する図表を,それぞれかかげられていた。これらの記事本文を引用するかわりに,図表だけを順に引用しておく。
  『朝日新聞』2018年12月19日朝刊政治の男女格差表
     『朝日新聞』2018年12月20日朝刊男女格差表

 ⑤「〈大機小機〉経済再興に向けて」(『日本経済新聞』2019年3月27日朝刊)

 平成がもうすぐ終わりになるという時期でもあるせいか,なにかにつけては「平成の時期はどうであった」とか「平成が終わるから……」という具合に「時期を区切った」,いうなれば「平成であるという一定の期間(内)」という事実の1点にのみこだわった発言が非常に多く披露されている。

 ここに引用する『日本経済新聞』のコラム「大機小機」も同じ要領になっているのだが,平成の時期の終末期には,安倍晋三政権の自堕落な政治・経済に関する,とりわけ道徳・倫理も欠落させてきた為政の結果,この時期がいかにひどい顛末を示したまま幕を降ろすハメになったかを,うまくまとめている。
 まもなく平成の時代に幕が下りる。平成はわが国が戦争を経験せずに済んだ大変貴重な時期だった一方で,経済が停滞した時代でもあった。平成に入ってからの具体的な経済指標をみてみよう。

 まず,経済のバロメーターとされる株価はどうか。30年前の1989年3月末は,日経平均株価が3万2838円だった。個々の企業はともかく全体としては長期低迷が続いている。主要国の株価指数が30年で大幅に上昇したのとは対照的だ。1990年には世界の時価総額上位に数多くの日本企業が並んでいたが,いまではトヨタ自動車だけになった。

 稼ぐ力も劣化した。国際通貨基金(IMF)が公表する1人あたり国内総生産(GDP)は,2000年には世界2位だったが,2010年には18位に後退。最新の2017年データでは25位となり,アジアでもシンガポール,香港の後じんを拝するに至っている。

 スイスのビジネススクールIMDが毎年公表する世界競争力ランキングでも,1989年にはわが国が世界トップの評価であった。自動車や家電が世界をリードし日本的経営が称賛されたが,2000年以降は20位台が定着している。日本企業の存在感は低下し,残念ながら世界をリードする企業はごくわずかである。

 このように,経済という視点でみると,平成の30年間は世界との比較では競争力も稼ぐ力も劣化した時代だった。その結果が株価の長期低迷であり,国家財政の悪化である。国債の格付けもトリプルAからシングルAに下落した。

 また,アベノミクスの一環として注力したコーポレートガバナンス改革についても,ACGA(アジア企業統治協会)の調査ではアジアで7位に順位を落とし,アジアのリーダーといえる状況ではない。戦後一貫して評価の高かった日本の経済力は,平成時代に輝きを失っている。

 日本経済の再興に向け最優先で取り組むべきなのは,問題先送りとの決別だろう。年功序列賃金や終身雇用,社会保障といった戦後につくり上げた仕組に無理が生じているのは明らかだ。わが国のリーダーには,解きやすい問題から手を着け,難問は後回しにすることにたけた人材が多い。難題に挑戦するには組織依存を超える強い自立心が必要だ。ポスト平成は目先の課題を越えて問題の本質に切りこまねばならない。(自律)
 安倍晋三政権は,この最後の段落で強調されている日本の経済に関する諸課題,すなわち「問題先送りとの決別」を実際なしえたり,また「解きやすい問題から手を着け,難問は後回しにする」姿勢をあらためたり,

 そして「難題に挑戦するには組織依存を超える強い自立心」が要求されていることや「目先の課題を越えて問題の本質に切りこまねばならない」仕事などに対しては,そのほとんどすべてに関してぐずるだけで,サボってきた。ところが,政治の問題領域になると対米従属国家体制の推進・深化をさせることだけは,熱心に取り組み,確実に実現させてきた。

 それはさておきこのコラム〈大機小機〉は,安倍晋三政権がいままで重ねてきた「経済運営でのまずさ」がもたらしてきた「実質的な体たらく」の一方においてとなるが,それでは「平成天皇の存在」によって「象徴される側に位置した人びと」に対して,この「彼(明仁夫婦)の〈国民たちに寄り添う治世〉」が本当に機能しえているとしたら,確実にありうるはずのその特定の政治的な意味について,一言も語るところがない。

 もしかしたら,平成,平成,平成……という割りには,この平成という元号の介在は,日本国の運営(政治と経済)にとって,それほど大きな意義(関連性としての位置づけ)を与えられていなかったのではないか。だが,それでもなお「平成という元号」のなかには,なにかのマジック(魔術)を起こさせる符牒でも隠されていたかのように,終始一貫とりあつかわれてきた。

 「いまの時期」「平成が1週間後に終わる」ころだからこそ,これまでわれわれがさんざんが聴かされてきた「〈天皇の存在〉から発揚されている」はずの「善い効用」に関したその実際的な様相(成果の機能発揮)を,誰でもよい,ぜひとも具体的に教えてほしいものである。たいそうやかましいマスコミ(報道・放送)による「平成の終わりぶり」に関する多種多様な喧伝模様は,実に奇妙に感じられる世相となって,われわれの目前に繰り広げられている。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        

            

        


 【昭和天皇の世代前後における天皇家の人びとは,なぜ子なしの家庭が多かったのか】

 【女がいなければ男も生まれないのに,男系ばかりが偉く尊いとする明治以来の天皇・天皇制に関した時代遅れの錯誤観念が,21世紀のいまを闊歩するこの〈スゴイ〉国ニッポン】

   

 ① 明治天皇夫婦が儲けた子どもたちの話題

 以下はとりあえず,「明治天皇の側室は何人?  寵愛されたのは柳原愛子?  園 祥子?」(『武者ブログ』2018年3月31日,https://musha-blog.com/?p=189)を参照しながら記述しているが,全体の論調(における基調)はほとんど無視した参照になっている。というよりは,こちらとしては採用しえない意見が多々開陳されている記述であったので,その部分はいっさい切り捨てておき,ただ中身としてとりあげられている素材を再利用させてもらう便法を使い,参照してみた。

 1)明治天皇:睦仁の妻
 明治天皇は,皇后の一条美子(いちじょう・はるこ)のほか,5人の側室(蓄妾)を備えもっていた。大正天皇はその側室の1人,柳原愛子の子であった。

 皇后の美子は死後,不思議にも「天皇の妻」であるにもかかわらず,「自分の夫」である睦仁といっしょに夫妻として呼称されるとき,「明治天皇と〈昭憲皇太后〉」,つまり明治天皇の「妻であるはずの女性」が実は『天皇睦仁の母』なのだといった具合に,実に奇怪な組みあわせのかたちで呼称されている。

 この明治の天皇夫婦が,大正時代の末期に建造された明治神宮の祭神とされている。なぜ,そのように明治天皇の夫婦が呼称されているかについては,それなりに思いあたる史実の展開が背景にあるけれども,ここでは触れないでおく。

 ともかく,明治天皇と皇后美子(美子は20歳のとき1869〔明治1〕年,皇后となっていた)のあいだには子供が生まれていなかった。もしかすると,夫婦間における男女としての性交渉があったどうかまで疑う歴史研究家がいないわけではない。このあたりは,「皇后に懐妊の兆候がないことをしった宮中では,着々と側室をむかえる準備がなされ」たといったふうに,明治維新において近代化の道を選んだ日本ではあったけれども,そのように皇統の連綿性を確保するための対応が工夫されていた。

 だが,この明治天皇夫婦のあいだには,皇后に懐妊の兆候がみられなかった。一条美子はもともと病弱であったせいか,その人生の最後まで実子を儲けることはなかった。ただし,そのあたりの事情になると,この夫婦間においてはもともと男女としての性交渉がなかったとしたら,子どもはできなかったのは当然であって,なんら不思議ではないともいえた。

 2)明治天皇睦仁の側室:その1
 明治天皇は最初,2名の側室を迎えていた。葉室光子(はむろ・みつこ)と橋本夏子(はしもと・なつこ)である。皇室が側室となるこの2名を迎え入れたのは,一条美子が皇后となった3年後,1872年のことであった。ともかく,跡継ぎの誕生が強く望まれていたのである。

 公家の出身の葉室光子は19歳で睦仁の側室となってから,翌年1873年9月には第1皇子として男児を出産するが,この子は間もなく死亡する。光子自身も産後の肥立ちが悪く,出産の4日後,死亡した。

 橋本夏子も1872年に側室として迎えられていた。夏子も公家の出身であったが,側室になったとき16歳であった。夏子は順調に妊娠したものの,1873年11月に女児を死産し,翌日,夏子本人も死亡した。

 3)明治天皇睦仁の側室:その2
 柳原愛子(やなぎはら・なるこ)が側室になったのは,葉室光子と橋本夏子が相次いで急逝した1873年であった。愛子はその後2男1女を出産したが,この3人のなかで成人できたのは,2目の息子として生まれた嘉仁(のちに大正天皇)だけであった。

 柳原愛子は,自分が産んだ息子が大正天皇になっていたけれども,皇后の位につくことはなく,その長い生涯を側室として終えていた。愛子は昭和43〔1968〕年,享年84歳をもって死去した。

 園 祥子(その・さちこ)は,わずか13歳で側室になった。幼くして側室となった彼女は,19歳で初めて女子を出産をするが,この子は1歳で死去していた。その後も祥子は2男6女を儲けたが,そのうち2人の息子と1人の娘は,幼くして死亡していた。

 成人するまで生き残った子どもは5人いたが,しかし,すべて女子であったため,どの子も皇太子となれなかった。なかでは,この園 祥子の産んだ2番目の娘(昌子)が,のちの1908年に陸軍少将・竹田宮恒久と結婚している。
 補注)竹田宮(たけだのみや)は,明治後期に北白川宮能久親王の第1王子(長子),恒久(つねひさ)のために創設された宮家である。この宮家は,皇族が明治の時代に創家されていた実例である。「竹田恒久 → 竹田恒徳(以上,故人)」→「竹田恒和 → 竹田恒泰」の「系譜」(このうちとくに生者の2人)は最近,善くも悪くも世間を騒がせており,露出度の高い状態にある。

 4)明治天皇睦仁の側室:その3
 千種任子(ちぐさ・ことこ)がさらに睦仁の側室として迎えられ,2女を出産していた。しかし,この2人の子は幼くして亡くなっていた。この女性に関しては謎の部分が多い。事実上,子どもがいなかった様子などもあって,注目されていなかったともいえる。

 千種任子が不幸だったのは,1人目の娘が2歳まで育っていたが,この子が死んだその翌々日に,まだ3ヵ月だった2人目の娘も死んだことである。しかも,この2人の娘の死は,たった3日を空けての出来事であった。

 さらに明治天皇には6人目の側室がいた。その姓名を小倉文子(おぐら・ふみこ)というが,子どもを儲けなかった都合でもあったのか,明治天皇との関係は公式の記録は残されていない。

 5)皇后と側室(蓄妾)の関係
 側室たちが皇后を「ライバル」視する関係という感覚は,もともとなかったと思われている。当時において皇后や側室は「女官たちの地位」を表現しており,なかでも皇后は圧倒的に高い地位を誇っていた。すなわち,皇后は女官の最高位であってこれを頂点として,典侍(てんじ)や権典侍(ごんてんじ)という女性たちの地位もあった。

 たとえていえば皇后(一条美子)は,天皇のそばにいる女性たちをとり仕切る女性たちの上司のような役割をしていたともいえる。明治天皇が自分の意志で女性を選び,その女性と一緒に過ごすことは許されていなかったともいわれている。

 なぜ,天皇がどの側室と同衾するかを選ぶのが皇后であったかといえば,1人の女性にのみ天皇の寵愛が注がれるのをふせぐ目的もあった。明治天皇の皇后は聡明な女性であったと思われ,一部の女性だけに負担がかかるのを防ぐ配慮をしていたらしいのである。

 別言するならば,明治天皇が1人の女性だけを寵愛しつづけた場合,その女性に子供ができなかったなら,結局家系は途絶えてしまうので,これをふせぐために皇后が,その日その日で公平に側室を選んで天皇をかよわせた可能性もあったといえなくもない。

 皇后は自身の還暦のお祝いのときに,側室の柳原愛子に女官の代表としてその場を務めさせていた。この点は,正室と側室の間柄においてライバル関係などなかったことの証明となるかもしれない。皇后と側室たちはあくまでも上司と部下のように,そして家族のように天皇に仕えつづけたことになる。
 補注)以上において素材に借りたもとの記述は,明治期の皇室内部に関して憶測的に偏った,これをいいかえて今風に表現すれば,週刊誌的に脱線する観察方法を採っていた。それゆえ,話半分にしか信頼性の置けない筆致も多々見受けた。なかでも,かなり勝手な解釈が自由になされていると受けとるほかない個所が目立っていた。この点は続く引照のなかで自然に露呈されているが,本ブログ筆者なりに矯正させたつもりで書いている。

 6)明治天皇の側室の子は何人
いたか
 明治天皇は5人の息子と10人の娘を儲けていた。だが,4人の息子と6人の娘は5歳にまで成長する前にみな死んでおり,無事に成人できたのは5人だけであった。さらにいうと,生き残った5人のうち息子はただ1人で,他の4人は娘であって,このただ1人残った,息子がのちの大正天皇になった(前述のとおり,側室の柳原愛子が産んだ男子)。

 明治天皇の子どもたちがあまりにも小さいうちに亡くなった理由や死因は,それほど明らかになっていない。当時はまだ医療技術が発展していなかった事情にも原因にはあると思われるが,明治天皇自身も病弱だったため,それが遺伝したかもしれない。
 補注)このあたりの記述はかなりデタラメ風だという印象が否めない。明治期全体に関する「死産率と新生児の死亡率」に関する統計資料はないが,20世紀に入った時期〔明治33年〕からは整備されており,だいたい70~80‰であった。
 註記)村越一哲「明治後期における死産統計の信頼性と死産率の推計」,駿河台大学『人口学研究』第49号(第36巻第1号),2013年6月。

 ここで,乳児死亡率(出生数 / 千人:‰)の推移をみておく。1939〔戦前の昭和14〕年までは100以上,すなわち,生まれたこどものおよそ10人に1人が1年以内に死亡していた。だが,敗戦をはさんで比較すると,1967年に新生児死亡率,そして1976年には乳児死亡率がそれぞれ10を下まわっていた。現在の乳児死亡は250人に1人(4‰),新生児死亡は500人に1人(2‰)の割合にまで減っている。

 前段で印象としてデタラメ風だと指摘したのは,明治天皇の資質(肉体的・身体的な健康状態)について「明治天皇自身も病弱だったため,それが遺伝したかもしれ」ないとかいったごとき,当てずっぽうの記述がみられたからである。明治天皇が病弱であったかについては確証からしてない作り話であって,若いころはとくに乗馬が好きであり健康体そのものであって,けっして不健康的な体質とは思われず頑強であったともいえる。ましてや「病弱が遺伝する」といって決めつけた話法はほとんど噴飯モノ。

 7)明治期の平均寿命ではなく
余命の問題
 またつぎに言及する話題は,前述までの説明とは矛盾する始末になっていた。つまり,本妻(正室)の一条美子が皇室の閨房を手中に収めていたがごとき記述をしていながら,このようにも説明していた。

 「明治天皇が特別に寵愛したのはどの側室(?)」かと問うたところでは,「明治天皇は柳原愛子,園祥子を特別に寵愛したといわれてい」る。さらに「明治天皇が若いころには,柳原愛子を寵愛し,ある程度の年齢になってからは園 祥子を愛したといわれてい」るとも述べていた。だから「実際に,園 祥子は2男6女と8人もの子供を産んでい」た,という経過になったいたと……。

 以上のように記述された内容同士は,前段にあった記述の方法,「皇后と側室たちはあくまでも上司と部下のように,そして家族のように天皇に仕えつづけた」という筆法とは,どうしてもうまく折りあえなかったはずである。

 明治天皇は5人の男子と10人の女子を側室に儲けさせていたが,4人の息子と6人の娘は5歳のあいだに死んでいた。成人できたのは5人だけであって,生き残った5人のうち息子はただ1人のみ(大正天皇),他の4人は娘であった。

 新生児・乳児の死亡率を明治天皇に関係する範囲内で観るとしたら,とくに異常に高いことになる。この事実を承知していれば,「明治天皇は60歳ほどで亡くなっていることを考えれば,ストレスの多い人生だった」と指摘することで納得できたかのように説明するのは,明治天皇史の終焉期に関してもかなり奇妙な理解である。もとより,以上は,理解というよりは素人的に自由過ぎる解釈であった。
 ひとつ,具体的に説明しておく。明治42-大正2年(1909-1913年)における平均余命は,

   0歳で44.25年,  20歳で41.06年, 40歳で26.82年,

   65歳で10.58年,  80歳で  4.70年
 
であった。
 註記)「完全生命表における平均余命の年次推移」(厚生労働省ホームページ),https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html
 59歳のとき死んだ〔とされる〕明治天皇(1852年11月3日~1912年〔明治45年〕7月30日)は,若いときはけっこう頑健な身体の持主だったと伝わっているが,壮年期には大酒飲みでなっていて,侍従たちを相手にして大いに酒精に馴染んでいた。そのために,晩年はかなり肥満(いまでいう生活習慣病)になっていた。とはいえ,60歳(還暦)寸前まで明治天皇が生きたのは,天皇に対する医療環境が当時なりに最良の条件を与えられていたはずだからである。

 ここではつづけて,当時の平均「余命」のほうではなく,平均寿命をしっておく必要がある。明治天皇は,平均寿命より16年を長生きしていた〈計算〉になる。
 明治時代・大正時代は,男性の平均寿命は43才前後でほとんど変動がなかった。それが敗戦直後の1947年から徐々に延びはじめこの年で50才,1951年に60才,1971 年に70才,2013年に80才までなった。

 伸びた理由は,乳幼児の死亡率の低下,結核などへの医療の進歩,生活環境の改善,などが挙げられる。とりわけ乳幼児の死亡率は,現在では3%程度であるが,大正期までは15%程度はあった
 註記)「定年制と平均寿命」立命館大学『社会法資料集』,http://www.ritsumei.ac.jp/~satokei/sociallaw/compulsoryretirement.html
 ここではつぎの図表を参考にまで挙げておく。出所は同上「註記」になる。
定年と平均寿命図表

 8)皇統の連綿性という明治的に創られた慣習
 天皇・天皇制の長い歴史のなかでは女性天皇が存在した。だが,明治維新以後になって創作された『皇室典範』は,明治憲法(旧大日本帝国憲法)の上に冠として置かれた法規となっていた。「創られた明治」の時代における基本的な立場は,この時期における「天皇・天皇制」の政治的な意味を全面的に書きかえていった。

 その結果,敗戦という出来事もはさんで21世紀のいまの時期になってもまだ,新しい日本国憲法のなかに象徴天皇として残続された「天皇・天皇制」であったせいか,あくまでも明治謹製になる女性「差別」を基本方針としていて,しかも従前に「皇統の連綿性」を誇っていて憚らるところをしらない,しかも本当は「歴史のきわめて浅い〈いにしえ〉らしき擬似的な伝統(?)」が,異様にも誇示されてきた。

 その結果が ② にとりあげる本日〔『朝日新聞』2019年4月23日朝刊〕の「平成回顧記事」のなかにも,明確に強く反映されているので,こちらに移動して議論する。

 ②「〈平成と天皇〉第9部・令和への課題:中  女性・女系,立ち消えた議論」(『朝日新聞』2019年4月23日朝刊3面「総合」)

『朝日新聞』2019年4月23日朝刊3面総合皇位継承順位

 1)新元号「令和」が発表された4月1日。
 夕方,安倍晋三首相は報道番組に生出演していた。皇族数の減少について「先延ばしをすることはできない重要な課題」と語りながら,安定的な皇位継承の維持については「男系継承が古来,例外なく維持されてきたということの重みを踏まえながら,慎重かつ丁寧な検討をおこなっていく必要がある」と慎重なものいいに終始した。

 安倍首相は男系の皇統維持を主張し,女性・女系天皇や女性宮家の創設には否定的とされる。小泉政権時代,女性・女系天皇を認める報告書をまとめた有識者会議で座長代理を務めた元最高裁判事の園部逸夫さん(90歳)には,印象的な記憶がある。

 2006年1月,小泉純一郎首相(当時)が公邸に有識者メンバーを招いた会食の席上,首相が「3月に女性・女系天皇を認める皇室典範改正案を国会に提出します」と明言すると,同席していた安倍氏(当時は官房長官)の表情が曇ったようにみえたという。

 だが,改正案の国会提出を目前に控えた同年2月,秋篠宮妃紀子さまの第3子懐妊が明らかになり,改正案の国会提出は見送りになった。皇室典範改正への機運は一気にしぼんだ。

 第2次安倍政権下では皇族数の減少対策として「女性皇族が結婚して皇族の身分を離れたあとも公的な立場を保持し,皇室の活動を支援する」(政府関係者)という閣議決定案が極秘にまとめられたが,安定的な皇位継承についての議論は深まらないままだ。

 5月の代替わり後,皇位継承資格者は83歳と高齢の常陸宮さまを除き,秋篠宮さまと12歳の悠仁さまだけになる。園部さんは「あの時,議論を止めるべきではなかった」と悔やむ。
 補注)日本における天皇・天皇制問題に議論に関しては,その大前提に天皇制度の絶対的な維持が置かれている印象が回避できない。日本国憲法は象徴となった天皇をいただく〈一種独特というか奇妙な東洋の端に位置する現代国家〉である。

 イギリスなど欧州ではまだ王室制度が残っている国々であっても,正式には女王も置いているなかで,日本では男系天皇という「明治以来に確立された皇室の制度」を墨守していて,おまけにこの事実じたいのなかに〈なにかの世界に冠たる〉優美な価値でもあるかのように勘違いしている。

 なぜ,この制度に固執しなければいけないかという論点について,ここではくわしく議論できないが,そうした政治意識が日本に独特である〈神国観念〉にとりつかれてきた事情に鑑みていえば(「現人神」という言葉もあった),その選民思想的な宗教意識の観念のなかに特異的に控えている「極度に特殊・畸型である国家神道的な宗教精神」が問題にならざるをえない。

 2)「第1子優先」「旧皇族復帰」
 安定的に皇位を継承するには,どのような方法があるのか。

 ひとつは,小泉政権下で有識者会議が報告書で提言した女性・女系天皇を認める案だ。側室制度のない現代で男系男子の安定的な皇位継承はきわめて困難。そこで有識者会議は皇位継承順位について,天皇の直系子孫を優先し,天皇の子である兄弟姉妹のあいだでは男女を区別しない年齢順の「第1子(長子)優先」が「適当」と結論づけた。

 これを今回の代替わり後の皇室にあてはめると,皇位継承順位第1位は愛子さま,第2位は秋篠宮さま,第3位は眞子さま,第4位は佳子さま,第5位は悠仁さまとなる。朝日新聞が今年実施した世論調査では,女性天皇は76%,女系天皇は74%が,それぞれ認めてもよいと回答した。
 補注)明治以来,日本の政府は国民たち側にあるこうした意見・希望にまともに耳を傾けたことがない。21世紀の現在的な判断でいえば,一部の極右・保守・反動の政治勢力の影響を受けて「国民たち側の総意」など,それこそそっちのけにした「天皇・天皇制」に対する恣意的なとりあつかいを重ねてきた。

 有識者会議では,直系子孫優先としたうえで「兄弟姉妹間で男子優先」とする案や,直系子孫より男子を優先する案なども検討された。だが「親から子への継承がもっとも自然」で,男女の出生順しだいで皇位継承順位が変わりうるのは「養育方針が定まりにくい」などとして採用されなかった。
 補注)ところで,「養育方針が定まりにくい」のは「男女の出生順しだいで皇位継承順位が変わりうる」からだという主張は,欧州にある王室で実際に女王が多くいる現実を対置させてみるとき,実に奇怪な気分にもさせられる。そこには,外部に向けて客観的に説明しきれない〈なにか〉が隠されているとしかいいようがない。

 一方,有識者会議の報告書では「採用することはきわめて困難」とされたが,一部保守層の中には,戦後,1947年に皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰案がある。たとえば旧皇族やその男系男子子孫を皇族とする案のほか,現女性皇族との結婚や,旧皇族の子孫を養子に迎え入れて現皇族と養子縁組する案などだ。

 保守層関係者によると,養子として迎え入れる場合,皇族としての教育が必要となるため就学中の未成年の男子が想定され,「旧宮家のなかに対象になりうる者が複数いる」という。ただ,朝日新聞の世論調査(2017年)では,旧皇族の皇室への復帰については,反対が67%で,賛成の20%を大きく上回った。

 当事者も消極的だ。久邇家当主の久邇邦昭氏は自著で,皇籍に戻すべきだとの意見に「『なにをいまさら』というのが正直なところ本心だ」と記している。2005年ごろに取材したノンフィクション作家の保阪正康氏は「当時,皇籍復帰したいという旧皇族やその男系男子子孫はほぼ確認できなかった。一般の生活者の視点をもち,社会との関係性からも皇族に戻る気にはなれないようだ」と話す。

 国学院大学の高森明勅(あきのり)講師(神道学)は「今後どんな継承の制度を作ろうとも,当事者の意思に配慮し,憲法が保障する国民の権利や自由は守らなければならない」と指摘。「旧皇族の子孫らへの押しつけなど『強制の影』がわずかでも感じられれば,皇室に対する国民の敬愛や信頼は損なわれる」と警鐘を鳴らす。(引用終わり)

 明治の時代がはじまって(1868年)から敗戦(1945年)まで,77年が経過してきた。そして,その敗戦から今年(2019年)までとなると,すでに74年の歳月が経過してきた。「男系天皇」にこだわりつづけるかぎり,日本の天皇・天皇制は消滅の可能性を完全に解消できない。なにゆえ「男の天皇・天皇制」に執拗なまでこだわっているのか?

 前段にその氏名が出ていた高森明勅は,「秋篠宮殿下 ご即位辞退?」(『ゴー宣伝ネット道場』2019. 4. 22 10:48  皇室,https://www.gosen-dojo.com/blog/21989/)かという題目で文章を書いていたが(興味ある人はみずからもこの記述〔  ↑  リンクあり 〕を読んでほしい),いくらかまわりくどい(つまり多少分かりにくい)修辞を駆使しつつ,こう語っていた。初めと終わりの段落のみ引用する。これはなにをいっているのか?
 朝日新聞が以下のような報道(4月21日付)。

 『兄が80歳のとき,私は70代半ば。それからはできないです』。一昨〔2017〕年6月,天皇陛下の退位を実現する特例法が成立したあと,秋篠宮さまが皇位継承についてこう語るのを聞いた。当事者として,高齢で即位するむずかしさを指摘したかたちだ。

 代替わり後,秋篠宮さまは皇位継承順位1位の『皇嗣(こうし)』となる。『天皇になることを強く意識している』という皇室研究者の見方が報じられると,『そんなこと思ったことがない』と打ち消す発言もあったという。

 この報道に驚いた人がいるかもしれない。だが,当然予想できたことだ。記事中の秋篠宮殿下のご発言にもあるように,まずご年齢が近い。皇太子殿下が今上陛下と同じ85歳まで在位された場合,79または80歳でご即位という話になる。常識的に判断して,……

   --中略--

 「皇嗣に…重大な事故があるときは,皇室会議の議により…皇位継承の順序を変えることができる」と。これについては,すでにつぎのような解釈がなされている。

 「皇嗣が皇位の継承を拒否するという意思表示を公(おおやけ)の場でおこなった場合が『重大な事故』に当たると解することが可能であれば,皇嗣はみずからの意思により皇位を継承しないという選択をおこなうことが可能になると解されることになる」(園部逸夫氏『皇室法概論』57頁)。

 皇室を敬う国民的心情に照らしても,人道上の観点からも,それはやはり「重大な事故」と解する以外にないだろう。なお,「国事行為の臨時代行に関する法律」の「事故があるとき」(第2条)について, “(天皇の)外国訪問” なども想定されているように,条文での「事故」は,必らずしも価値的なマイナス評価に当たる事態ばかりを指すものではない。

 念の為。
 以上,少しわかりにくい文面であったが,いずれにせよ,現在「まだ天皇である」明仁の長男:「皇太子の徳仁」が,妻雅子とのあいだに男子は儲けず,娘の1人だけを家族にくわえていた事実については,皇族たちに関するつぎのような基本情報も参考にしておく余地がある。

 3)「Y染色体」がいかほど尊いのか
 男系天皇制にこだわるためには必須だと信じられている「Y染色体」の継承が,かなりきびしい状況に置かれつづけてきた事実は,周知であった。昭和天皇とこれ以下の世代付近における “一定数の皇族たち夫婦” は,なぜかは分からぬが,夫婦のあいだで子なしである場合がほぼ半数も占めていた。

 通常,「10組の夫婦の1組」だ(最近では「7組に1組」)と計算されていた「子どものない夫婦の現状」に比較してみると,皇族関連の家族構成に関する事情に関しては,なんらか非常に有意な差が潜在していたと判断してよいほど子どものいない夫婦が多かった。

 なお,一般論として不妊の原因が男女間で五分五分である事実は,最近あらためて医学的にも確認されている。
「裕仁・昭和天皇」:大正天皇の第1男子……息子2人,娘5人。

「秩 父 宮」  :大正天皇の第2男子……子どもなし。

「高 松 宮」  :大正天皇の第3男子……子どもなし。

「三 笠 宮」  :大正天皇の第4男子……息子3人,娘2人。

「明仁・平成天皇」:昭和天皇の第1男子……息子2人,娘1人。
 
「常 陸 宮」  :昭和天皇の第2男子……子どもなし。
 昭和天皇の妻:良子〔ながこ〕は 「民間」人として息子の明仁に嫁いできた正田美智子に対して,「平民から迎えた嫁」である点をとらえて「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示しつづけ,認知症でボケるまでは終始一貫,息子の嫁をイジメ抜いてきた。これは,敗戦後の1954年時点以後において発生していた実話であった。この事実に関しては,日本国憲法など「かまわない,なんでいいから▲▲喰らえ!」〔とでも良子はいいたかったのか?〕という印象をもつほかない。

 そうはいったところで,以下はおおよその話の中身となるが,良子の孫に当たる男子たち(徳仁や秋篠宮)自身までも,彼女の息子明仁と同じように「民間の平民から嫁とりをしていた」というか,「恋愛結婚」をしてメオトになった事実は,彼女の観念で理解しうる範疇に収まりきらなかった「事態の発展」といえる。

 こちらの「孫の世代」では,ただし「子なしである夫婦の場合」(2組の息子夫婦で)は,1組もなかった。付言しておくが,民間人の男性と結婚した黒田清子(1969年生まれで満50歳だが,婚期は2005年で36歳になる年であったから,子作りに間に合わない時期ではなかったが)に子どもはいない。

 別の意味でいえば昭和天皇の配偶者はいわば,歴史の法則的な流れに対して実際においては,ほとんど抗えなかった。要するに,敗戦後に生成されてきた『皇室を囲む事情の変質』を,少しでも冷静に認識するどころか感知さえできていなかった。とはいえ「昭和天皇の奥様:良子」の「皇族の1人としての〈並々ならぬエリート意識〉」は,敗戦後がたどっていった時代の流れから大きくとり残されていったのである。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        


 【戦前だったらおそらく「なにか」については,「タイヘンなコトだった」かも?】

 【これまでの金鳥の広告・宣伝に比べたら意味不詳のキンチョールの「2面全面を使った広告」】

 【民主主義の根本体制をこれまでさんざん溶融されてきた日本の政治のなかでの元号の変更,安倍晋三為政の腐敗臭】



 ①『日本経済新聞』2019年4月1日朝刊20-21面「キンチョール」の「新元号に対するパロディ(?)的な新聞広告は象徴天皇の時代だからこそか

 1)まず『朝日新聞』2019年4月1日夕刊1面の「令和」記事から
『朝日新聞』2019年4月1日夕刊令和報道写真

 2)つぎに『日本経済新聞』2019年4月1日夕刊1面の「令和」記事から
『日本経済新聞』2019年4月1日夕刊1面令和

 いずれにも “気色が悪い官房長官の表情” が写っているが,とりあえずここでは「文字」のほうにだけ注視してほしい。

 3)『日本経済新聞』2019年4月1日朝刊20-21面を充てた「キンチョールの全面広告」
『日本経済新聞』2019年4月1日朝刊20-21面キンチョール広告

 元号「令和」を毛筆で書き入れてある『額』を右側にかかげている「構図」である。この 3)をパロディーと観るかどうかは,読者の主観的な判断に任せておく。そこで,てっとり早くは,② のごとき解析も登場するわけである。

 ② 「『令和』フィーチャーに見るすごい “発想力” ,ゴールデンボンバーから大企業広告まで」(伊藤 有稿『Business Insider Japan』 Apr. 02, 2019, 07:00,https://www.businessinsider.jp/post-188362)から

 1)2019年5月1日に改元を迎える,平成に代わる新元号「令和」
 4月1日11時40分ごろ,生中継で菅 義偉官房長官が発表したあと,SNSでは瞬く間に新元号の話題がバイラル的に広がった。発表翌日になってもその勢いは落ち着きそうにない。
 補注)バイラル(viral)とは,Web マーケティングにおいて「情報が口コミで徐々に拡散していく」さまを形容する語である。

 Twitter Japan によると,11時30分から13時30分までの2時間で,「#令和」に関するツイートは述べ450万ツイートあったという。 Twitter や Facebook といったSNSを眺めているかぎり,「令和」に賛否はあるものの,おおむね好意的に受けとめている人が多い印象だ。
BusinessInsiderJapan20190402令和関連ツイート

  口コミ分析ツールを展開するユーザーローカルの「Social Insight」による分析でも,「好意的」であることがデータに表われている。新元号発表後,数時間経過以降,深夜0時までの「令和」」を含むツ250万ツイート(4月1日22時時点)を対象にポジネガ分析をおこなったところ,「ポジティブ」と判定されたツイートは約13%。対して「ネガティブ」判定のツイートは約3%かなかった。

 2)「令和」フィーチャーにみる,SNS時代の音楽ビジネスの稼ぎ方
 1989年の「平成」と2019年の「令和」新元号発表時の大きな違いは,インターネットとソーシャルメディアの有無だ。おそらく,多くの企業やマーケター,広告担当者はこの改元の祝賀ムードになんとか美しく,かつソーシャル波及効果の高い「仕かけ」を狙ったはずだ。実際,4月1日,新元号合わせ「企画」はいくつも登場した。そのなかでもフットワーク軽く「令和」フィーチャーをしてみせたのは2組のミュージシャンだった。

 もっとも驚かされたのは,ビジュアル系バンド・ゴールデンボンバーの新元号ソング「令和」だ。さらに,サビの歌詞では「令和」を連呼するほか,ミュージックビデオのエンディングでは,タイムマシンにのったゴールデンボンバーのメンバーらが「令和」の未来へと消えていくという演出まで入っている。

 もちろん,事前に大半を作っておいたうえでの差しかえとはいえ,新元号発表から間髪入れずにこのレベルでミュージックビデオを作りこんで来るのは,プロ根性を感じる。一方,同じく「令和」フィーチャーを仕かけてきたもう1組のグループが,YouTuber としてもしられるレペゼン地球だ。

 ゴールデンボンバーと同様,ミュージックビデオが用意され,タイトル,歌詞,歌ともに「令和」が盛りこんである。ゴールデンボンバーの「令和」,レペゼン地球の「令和」はともに,4月2日午前3時時点で再生回数100万回を突破している。さらに,4月2日時点では,複数のアーティストが「令和」フィーチャーの楽曲を発表している。

 2つのバンドがここまで「令和」「改元当日」にこだわったリリースをしたのは,音楽ビジネスの収益構造において,サブスクリプションと YouTube など動画の再生数による収入が無視できない規模になってきていることと無関係ではないはずだ。
 補注)「サブスクリプション」とはビジネスモデルの一種で,顧客がサービスや商品の利用期間に応じて料金を支払う方式を指す。

 3)4月1日朝刊の新聞広告
で「新元号」
 4月1日は,多くの企業にとって「新しい会計年度が始まる時期」で,学生たちの「新生活が始まる時期」でもある。その時期と新元号発表の祝賀ムードに,「キレイに合わせよう」とした企業もいくつかあった。4月1日の朝刊で「仕掛けた」のは,キンチョールでおなじみの大日本除虫菊。
Business Insider Japan20190402伊藤有

 『日本経済新聞』のセンター見開き全面を使った〔この〕広告は,キンチョールのCMでおなじみ,「カマキリ先生」こと俳優の香川照之さんを起用し,「平成」を発表した小渕官房長官(当時)をパロディーにしたものだった。
【参考画像】
 『日本経済新聞』2018年1月5日nikkei.comから
  出所)1989年1月7日。nikkei.com 2018/1/5 12:30,https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25201590Y7A221C1709E00/
 香川照之が「キンチョール」と書いた額縁をもっている。どこにも新元号を表現するものはないが,マイクの位置,かかげた額縁の向きはそのまま,「社会の教科書に載っているあのポーズ」にしかみえない。

 とはいうものの,4月1日の朝刊は新元号「発表直前」ということもあり,クリエイティブの難易度は相当高かったようにみえる。実際,朝日,読売,毎日,産経,日経の大手5紙すべての新聞広告のなかで,朝刊で「新元号に絡むネタ」を仕掛けたのは大日本除虫菊ただ1社だけだった。(引用終わり)

 皇室関係のネタを広告の素材にじかに活用した事実に関する政治・社会の側からの関心は,戦前と戦後とのあいだでは大きく異なっている。戦前ならばこのような広告はありえないと,一刀両断的に触れておくだけで十分である。

 そのあたりの問題はいまのところ,日本の社会の表層にあってはいっさいうるさくは浮上してはいないものの,戦前体制(ただし明治時代移行から敗戦時までに限定しておくが)への回帰を “必死に妄想する企図” を,それも水面下で陰湿にしかもしゃかりきになって推進させてきた「特定の勢力」があった。

 その政治的な勢力は,街頭に黒塗り基調の街宣車を繰り出し,やかましく騒音を振りまきながら自分たちの存在を,国民・市民たちに対して暴圧的に訴えてきた勢力とはまた別の意味で指摘されるべき,今日的に存在する極右国粋の政治志向集団である。

 当面する問題に関する配慮としては,安倍晋三首相が,その「戦前体制への回帰」を狙っている特定の政治的な勢力とは,きわめて近しい間柄にある事実が看過できない。その点を「改元騒ぎ」に関連させて具体的に報じた記事が ③ である。

 ③「〈平成から令和へ 退位改元:2〉空白の11分 政権,保守派を意識」(『朝日新聞』2019年4月3日朝刊2面


 最初に「『令和』閣議決定後の流れ」の図表を挙げておく。
『朝日新聞』2019年4月3日朝刊2面空白の11分保守派意識

 a) 菅 義偉官房長官による元号発表の予定時間だった〔4月〕1日午前11時半。

 首相官邸の記者会見場には各社の記者が詰めていたが,予定時刻を過ぎても菅氏は姿をみせなかった。元号を「令和」にあらためる政令を閣議決定した臨時閣議は,5分前には終わっていた。

 このころNHKは,政令をもつ職員を乗せた黒塗りの車が,首相官邸から皇居に向かう様子を空撮した映像を流しつづけた。車は11時36分に皇居内の御所に到着。菅氏の会見は,予定より11分遅い11事41分から始まり,「新しい元号は『令和』であります」と発表した。この「空白の11分」が,今回の改元で,ひとつの象徴的な場面となりそうだ。

 政府関係者によると,臨時閣議の前におこなった全閣僚会議で,新元号に対する意見が相次いだために,日程は全体的に当初予定より遅れていたという。そうしたなか菅氏は,閣議決定のあと,天皇陛下と皇太子さまに新元号が伝えられるのを待っていた。

 まず,閣議終了直後の11時26分,宮内庁長官室の電話が鳴った。杉田和博官房副長官が宮内庁の山本信一郎長官に「元号は『令和』,典拠は『万葉集』である。陛下と皇太子殿下にお伝え願いたい」と伝えた。

 山本長官は,皇太子さまのいる東宮御所で控えていた西村泰彦次長に電話で連絡。その後,山本長官から天皇陛下へ,西村次長から新天皇に即位する皇太子さまへ,「令和」が対面で伝えられ,11時40分までに山本長官と西村次長は杉田副長官に伝達の事実を電話で報告。菅氏はその1分後に,会見場で「令和」と墨書した額をかかげた。

 b) 国民に発表する前に,天皇陛下と皇太子さまに新元号を伝えなければならない。綿密なシミュレーションに沿った運びだった。

 元号は,天皇が時をも支配することを象徴した「天皇の元号」。保守派には,こうした主張が根強く残っている。戦後に象徴天皇となり,元号選定の手続からも天皇は切り離されたはずだが,保守層から強い支持を受ける安倍政権にとって,一連の手続で天皇に対する配慮は欠くことのできないものだった。
 補注)平成天皇は天皇の地位に就くとき,自分は日本国憲法を守ると明言していた。ある意味では奇妙に聞こえることばであったけれども,ここではその発言どおりに受けとっておき,いま引用している記事の内容にかかわって “必然的に惹起” されているその『空白の11分間』に注視したい。

 〔記事に戻る→〕 2月22日,東宮御所。首相は前日の天皇陛下に続いて,皇太子さまに面会した。天皇への面会は「内奏」と呼ばれ,首相や閣僚が定期的におこなっているが,皇太子に対する面会は異例だ。5月に迫る即位を見越した「プレ内奏」ともいうべき面会だった。

 こうした行動は首相に近い保守系議員の期待感を膨らませた。「元号の候補を10~20案に絞ったというくらいはいったかもしれない。4月1日に向けた地ならしではないか」。産経新聞は3月27日付朝刊で「複数の元号案 29日提示へ / 首相,皇太子さまに」と1面トップで報じ,首相は29日に天皇陛下と皇太子さまに面会した。
 補注)現行の日本国憲法において「内奏」なる政治家(政権幹部)側の行為そのものが,はたして妥当でありうるか否かについて「なにも議論がない」といったら,間違いになる。しかも,この内奏に相当する(類似するないしは準ずる)と推理(解説)されている「今回における安倍晋三自身の行為」は,その内奏という天皇に対する行為じたいにかかわっては,以前から問題になっている「政治的な難題としての論点」を,さらに複雑に捻転させる結果をわざわざ招来(追加)させている。

 〔記事に戻る→〕 実際に首相がなにを伝えたかは公式には分からない仕組になっている。内奏の内容を漏らすことは,天皇の政治利用を避ける観点からも厳禁とされる。1973年の田中角栄内閣当時,増原恵吉防衛庁長官が昭和天皇の発言とされる内容を記者に説明したとして,更迭されたケースもある。
 補注)「内奏」という天皇と政権幹部とのやりとりが,敗戦後における政治問題として徹頭徹尾「秘密あつかい」どころか,その事実じたいが表面に絶対に出ないように細心の注意をしてきた。それでもごくまれに,調子に乗ってその内容を口外してしまう政治家もいた。

 今回は元号をあらためる機会をとらえて,安倍晋三が首相の立場に乗ってなんらかの「元号のあつかい」に関する「戦前回帰」(とはいってもまともにはありえないものだが)を企んで,しかも実行したらしい様子が推測されている。安倍晋三は,内奏の問題がこの内奏じたいに淵源する政治的な難点を,さらに錯綜的に問題化させる事態を好んで引き入れた。

 〔記事に戻る→〕 首相の行動は臆測を招いた。政府関係者は「事前に元号案をみせるなんてありえない」と語るが,別の首相官邸幹部は「元号案をみせたかどうかは分からない。首相が自身で判断することだ」と事前に伝えた可能性を否定しない

 c) 改元めぐり支持基盤と〔の〕あつれき〔がある〕

 天皇に対する配慮が必要な一方で,憲法違反の疑いを指摘される事態は避けなければならない。政権が微妙なバランスをとろうとしたのは,政府と保守派のあつれきを投影している。

 神社本庁で2017年8月に開かれた研究会。神道政治連盟や日本会議の政策委員を務める百地 章・国士舘大特任教授は,元号決定前に天皇の「聴許(ちょうきょ)」(許可)をうるべきだとした。「次の御代(みよ)替わりにおきましては,何とか事前にご聴許をいただくような方策を期待したい」。
 補注)いまどき(21世紀の時代)に「このような用語・用法」を使える神経が理解不能(いわばひどく難解)である。天皇神格化を否定しえない憲法学者が,こうしてまだ化石的に実在している。だが,彼らとて本当は,「表向きにはけっしてできない〈隠蔽された意図〉」,つまり「天皇自身を〈玉〉あつかいする」基本的な態度を,心底においては常時堅く抱いている。

 「日本の近現代史」における天皇処遇をめぐる,そのように「彼らの思想的に偏った立場」であっても,これがまた日本における「歴史のある一面」を構成する。このことは,たしかに否定できない事実である。しかも,現在でも依然,そうした政治意識を捨てられない「特定の極右の政治集団」が残存している,ここには,この国じたいの立場にとってみれば,「21世紀的に悲しい性(さが)」だと形容されていい。

 かつて元号の決定は「天皇大権」で,明治憲法時代の旧皇室典範では明確にうたわれていたが,戦後,国民主権の新憲法で天皇が「国民統合の象徴」となり,天皇の政治関与は禁じられた。旧元号制も廃止された。
 補注)つまり,安倍晋三も大好きである「戦前回帰」へ向かうための〈最大限の傾注〉は,現行の日本国憲法の規定などを吹っ飛ばしておきたい特定の勢力の支援を,体裁よく反映させる方向で発揚されようとしてきた。

 元号存続を危ぶんだ神社界など保守派は,戦後に元号法制化運動を展開。1979年に元号法制定にこぎ着けたが,憲法にのっとるかたちで,法律は「元号は政令で定める」と規定した。天皇大権が存在しないことは明確になっている。元号について天皇の許しをうることはありえない。
 補注)この「ありえない」ことを「ありうる」ことにしたい「神社界の保守派」とは,日本会議を称する政治的な勢力にも代表されている。だが,彼らの念頭に前提されている観念的な実物は,あくまで明治以来の国家神道に由来する中身であって,古来から存在してきた日本に固有の,いいかえれば古代史から継承されてきたそれ(⇒日本の神道史全体を反映させたもの)では,全然ない。つまり『明治謹製』にとどまるだけの “しろもの” であった。

 要は,「明治〈維新〉」以後に登場していた,ある意味では正当派の民俗的な神道諸派の伝統からはかけ離れた,つまり政治志向という意味では,国家全体主義の政治思想を背負った宗教としてである,それも極右主義的な国家神道が,21世紀のいまごろに日本の政治社会のなかに,まさしくゾンビまがいに横行している。

 「政治と宗教」の関係性は,歴史の進展を通して絶えず回避できない現実問題になっていた。とはいえ,明治以来における皇室神道が形成させようと努力してきた「亜流帝国主義的な基本性格」の完全なる蹉跌(大日本帝国の完敗:敗戦)が実際に発生していた。

 その種の決定的な「歴史の事実」の介在にもめげず,なお,国家神道の本性としては「明治的に偏向した〈エセ政治的な宗教〉」,換言すれば,それに固有の提唱であった『皇統連綿性に関する偽装路線』,すなわち,その明治帝政志向的である〈政治イデオロギーのオカルト〉性は,みのがせないほどに大きな問題でありつづけてきた。

 〔記事に戻る→〕 象徴としての務めが果たせなくなるのを避けたいという天皇陛下の退位自体も,保守派の天皇観に反するものだった。特例法制定や新元号決定をめぐる一連の過程で,保守派の反発は続いた。百地氏は今〔2019〕年1月,朝日新聞のインタビューで「今回は安倍首相が新元号を正式決定する臨時閣議前に宮中に参内し,天皇陛下だけでなく,新天皇に即位する皇太子さまにもお伝えすべきだ」とあらためて訴えた。

 いずれも憲法違反につながりかねない主張だった。それでも,安倍政権は支持基盤の訴えを完全に無視することはできない。政権の宿命ともいえる構図のなかで対処してきた菅氏は〔4月忌避1日,一連の日程を終え,ほっとしたように周囲に漏らした。「ようやく終わりました」。(引用終わり)

 国民主権? 一部の極右国粋勢力のための天皇制であるならば,「国民・市民の立場」は二の次以下とされる。つまり,そこでは民主主義の基本理念は放逐されるほかない。いまは,天皇の地位に仮託した「国家主義政治路線の敷設」があからさまに開始されている。いまや日本国の民主主義は「隅の親石」となるべき核心部分が,彼らの手によって破壊されはじめている。

 なかんずくその意図は,日本国憲法じたいがもとから抱えている内部矛盾をテコにした「民主主義国家体制に対する破壊行為:叛逆」である。したがって,彼らによる政治行動は,「民主主義のカケラ」さえみいだせない「中世期への想像妊娠的な回帰志向」の政治現象である。その点では「戦前回帰」にも,もとより失敗していたはずの《醜相》を剥き出しにしてもいる。21世紀における日本の政治:アベノポリティックスは,必然的に凶相を定着させはじめている。

 しかしそうであったとしても,つまり,それがまず「アベノミクスのウソノミクス性」のなれのはてであり,なおかつ「アベノポリティックスの目的地」に向かうべき「アベノリスクの国家路線」にとって必然の陥穽であったとしても,『彼』たちの政治信念としては “もっとも好ましい選択肢” たりうる。いずれにせよ,現在の日本は,民主主義の破壊者たちが大手を振ってまかり通る時代になっている。

 このごろにおける日本の政治は,「〈玉〉としての天皇中心主義」を志向する「一部の極右国粋勢力」によって,「国家ファシズム」がひそかに増長させられつつある。実に険悪かつ不吉な状況が植えつけられようとしている。まさに「国家日本は危機的な状況にある」と形容されていい段階に置かれている。安倍風の『忖度の政治』が実際に演じてきたのは,民主主義の国家体制を崩壊していく姿であった。

 ④【付   論】「〈ここがおかしい 小林 節が斬る!〉元号の使用強制だけはやめるべきだ!」(『日刊ゲンダイ』公開日:2019/04/07 05:59,更新日:2019/04/07 05:59)

 新元号「令和」が発表された。私は,冬から春になり事態が好転する趣旨ととらえて,平成の閉塞感を破る新展開に期待したい。

 〔4月〕3日,官房長官は元号について,「国民は西暦と自由に使い分けてよい」が「公的機関は元号を使いつづけるべきだ」と語った。しかしこれは矛盾している。つまり,元号を使う使わないは各人の自由だ……といっておきながら,役所では元号を使いつづけろ……としたのでは,国民はあらゆる手続で元号の使用を間接的に強制されることになる。

 私は元号の強制には反対で,理由はつぎのとおりである。

 まず,すでに国際社会のなかで生活している私たちにとって,西暦と元号の換算は面倒でときどき誤りが生じてしまうし,そして,なによりも時間の無駄である。

 そして第2が,本質的な疑問である。元号は,中国の皇帝が「この世の支配者」として「時」にも自分で名を付けた先例に由来する。それに倣ってわが国でも天皇が時に命名した時代があった。

 しかし,歴史の流れのなかで,諸国の王制はつぎつぎに廃止され,少数残っている王制もいわゆる「立憲君主制」である。そこでの国王は,かつての権力者から,単に形式的に国を代表する象徴に変化してきた。これは歴史的必然である。

 原始に近い時代では,武器の使用が許されていたために,一部の豪族が武力を用いて国の支配者になることは当然視されていた。しかし,現代では,教育もゆきとどき,国民全員で情報を共有し,皆の勤労の成果で国を支え,国民には平等な投票権と表現の自由が保障されている。

 だから,このような国民主権国家においては,「時の支配者」たる君主制に由来する元号制を維持しつづける理由はもはや存在しないのではあるまいか? このような考え方は,理論的に突きつめていくと,天皇制の否定にまでたどり着くものである。

 しかし,「法の下の平等」(貴族制度の禁止)が確立された現代国家において,王制存続の是非は主権者国民の責任として不断に検討されるべき課題であろう。改元のこの機会に天皇制のあり方について,あらためて広く公論にかけてみたらよい。
 註記)https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/251377
    https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/251377/2

 この小林 節の議論は,とくに ③ の記事の内容とこれをめぐる議論に比較するとき,それこそ “隔世の感” がある「この国における元号の使用」の問題性を,真正面からまともに指摘・批判している。

 それでもこの元号のまわりをウロウロしながら,天皇・天皇制のすばらしさを,それも自分たちの抱く政治思想に利用する(我田引水する)かたちで “万歳する” 極右国粋の政治思想は,時代遅れもはなはだしい錯誤と妄想に満ちているだけでなく,なんといっても,天皇家の人びとが迷惑に感じている点に鈍感である。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

           

        


 【安倍晋三の私物化に harmony している政権じたいが,元号までも私物化し,英語でその意味を beautiful とまでいいだした元気さ(狂気の沙汰)かげん】

 【きっと,安倍晋三著『美しい国へ』(本当は「▲ない国へ」)に引っかけているつもりか,あるいはその程度にふさわしい「品のなさ」】

 【そもそも汚濁にまみれた現政権下で,「令」にも「和」にも,そのような意味を,しかも英語としてかぶせる語彙など皆無】



 ①「令和は『beautiful harmony』(YOMIURI ONLINE 2019/04/04,https://www.yomiuri.co.jp/world/-OYT1T50131/

 外務省は,新元号「令和」の英語の意味について「beautiful harmony(美しい調和)」と説明する方針を決めた。海外の一部の報道が政府見解と異なっていたためで,〔4月〕1日深夜,すべての在外公館に公電で指示した。
 補注)驚いていい。日本政府というか首相官邸などは事前に,こんど天皇になる徳仁のために用意した元号の名称「令和」について,英語「訳」やその解説を準備していなかったというのである。いまの時代に「世界ではまれに日本にだけみる貴重な元号」(といいたいらしい気分を醸して)を使用するこの国なのだと自慢していながら,

 実は,世界に向けてこの新しい元号を説明しようとする “外交上の配慮” が,事前には完全に欠落していた。そのようなしだいであったとすれば,元号という年号の形式をめぐる思考方式ににじみ出ていた「鎖国的な政治意識」,このなかに潜在していると捕捉するほかない,この国に独自である〈時代遅れの精神構造〉に関しては,あらためて呆れる。

 〔記事に戻る→〕 同省によると,英BBC(電子版)は「『令』と『和』は『 order(命令)』と『 peace(平和)』または『 harmony(調和)』を意味する」と報道。英紙インデペンデント(電子版)も「1文字目は『 order 』または『 command(指令)』を意味する」と伝えた。

 首相談話の英訳は,〔4月〕2日午後に首相官邸のホームページに掲載され,外務省は掲載後に海外メディアの在京特派員に英訳全文をメールで送信した。(引用終わり)

 その程度をもって翻訳されて伝わった「令和」に対する解釈がごくふつうであり,妥当であるといわざるをえない。本ブログ筆者も元号の問題は多少勉強はしているつもりであるが,今回の元号名「令和」に接したとき,安倍晋三の私物化政権の命「令」に「和」して(「忖度」して)したがうのが,日本に生きている人びとの義務だみたいな印象を,最初になによりも強く受けた。

 しかも「令」という漢字は,法律関係は「何々令」としてよく使用されている。軍隊用語となればその指揮系統では「命令」が使用され,消防署ではその指揮系統では「指令」が使用される。

 そこでいまさらのように「令」という漢字をネットで引いてみると,初めに出てきたパソコンの画面には,つぎのような説明が出てきた。
 イ)「令(りょう)」とは「古代において,律と共に根本をなしたおきて」。

 ロ)「令(れい,レイ, リョウ:リヤウ)

     1.  いいつけ,いいつける。
     「令旨(れいし,りょうじ)・令状・号令・命令・辞令・司令
                  ・指令・伝令・発令」。
       公布された制度上の規程。「法令・政令・勅令・省令・条令
                  ・訓令・禁令・布令・大赦令」。
           律と共に国の根本をなした法典。「リョウ」と読む。「令を定める」

     2.  相手に関係ある人を尊敬していう語。
         「令兄・令姉・令弟・令妹・令夫人・令閨(れいけい)
                  ・令室・令息・令嬢・令孫」

     3.  よい。ほめことばとしても用いる。
         「令名・巧言令色」

     4.  長官。
         「県令」

     5.  もし。たとい。
         「仮令(けりょう)」。させる。使役の意を表す語。
            漢文訓読で,使役の助字。「しむ」
 令和という元号のなかでもとくに「令」という漢字については,以上のように《通常の語意》が説明されている。この程度になる「字義に関する解説」などに関しては,当然のこと,事前によく承知のうえで新しい元号を決めたのかと思いきや,4月1日正午前の発表後においてみせた政府側の対応を観ていると,必らずしもそうではなかった。ある意味,みっともないかっこうになった「直後におけるドタバタ劇的な対応」が展開されていた。

 ②「令和の令,政府『命令を意図せず』海外の報道を否定」(asahi.com 2019年4月3日19時48分,https://digital.asahi.com/articles/ASM43577PM43UTFK01C.html

 この ② の記事本文はじかに引用しないが,海外から新元号「令和」に対して起きた反応に日本政府側が接してからあわてて,それも「『令」の字が『命令』を意味すると複数の海外メディアが報道したが,『命令を意図していない』と否定している」と反論したところで,これこそ “あとの祭り” であった。

 中国語ではなくて,ひとまず「日本語そのもののとして漢字の意味」をもたせたつもりであった2文字の漢字:「令和」のうち,とくに「令」の字義は前述に説明したとおり,21世紀の現段階に差し向けるものとしては,まことに芳しくない中身がほとんどであった。
     
 ということであるせいか,その「『令和以外の5つはケチのつけようがない』〔といって〕東大教授が指摘する『令』が抱える3つの問題」があるのであって,「中世の人に読ませると『人に命令して仲良くさせる』となる」註記)などと,関連分野における歴史研究の専門家に指摘・批判されていた。
 註記)これは『HUFFPOST』2019年04月03日 12時40分 JST(https://www.huffingtonpost.jp/entry/reiwa-hantai_jp_5ca41654e4b07982402401f6 )の題名を借りた記述である。つぎの図解もここから。
『HUFFPOST』2019年4月3日元号令和図解
 
 この『HUFFPOST』の記事は,本郷和人によるつぎのような解説を紹介していた。

 歴史学者で東京大学史料編纂所の本郷和人教授は「『令和』以外の5つはケチのつけようがない」と指摘している。令和の「令」の字には「ケチがつけられる」理由があるとして,3つの点を説明する。

 a)「『令』は上から下に何か『命令』するときに使う字。国民1人ひとりが自発的に活躍するという説明の趣旨とは異なるのではないかというのが,まずひとつ批判の対象にならざるをえない。

 b) もうひとつは,『巧言令色鮮し仁』という故事。 “口先がうまく,顔色がやわらげて,人を喜ばせ,媚びへつらうことは,仁の心に欠けている” という意味で,この『仁』は儒教でもっとも大切な概念。いまでいう『愛』を意味し,それに一番遠いのが巧言令色だといっている。そこが引っかかる。

 c) 皇太子殿下は日本中世史の研究者で,当然『令旨』という言葉もご存知だと思う。これは皇太子殿下の命令という意味で,天皇の命令ではない。つまり,『令』という字は皇太子と密接な結びつきがあるもので,天皇の密接な関係があるのは『勅』『宣』などの字。(天皇の生前退位で定める)新元号とは少しずれている」。

 本郷和人はこれらの理解を踏まえ,「普通に使うと使役表現となり,中世の人に読ませると『人に命令して仲良くさせる』となる。日本の古典からとることはなんの問題もないと思っているが,どうも自発的な感覚ではなくなってしまう」とあらためて述べていた。(引用終わり)

 ここでもう一度,冒頭のニュースに戻って考えてみたい。外務省が,新しい元号「令和」に対する「海外の一部の報道が政府見解と異なっていたため」に,4月「1日深夜,すべての在外公館に公電で指示し」,「新元号『令和』の英語の意味について「 beautiful harmony(美しい調和)」と説明する方針を決めた」という経緯になっていた。

 だが,外国側が英語圏の国々であるとないとにかかわらず,とくに「令」という「漢字」に対する意味(字義)が前述のように「命令・指令」の基本線で解釈されることは,自然ななりゆきである。

 それでも,日本政府・外務省側がそのように,「令」という〈漢字〉を「 beautiful 」だと海外に国々に対して,それも「解釈のお手本:基準」であるかのように指示を出したところで,あくまで,こちら側だけにおける「為政者」が唱えた主張(思いこみ)に過ぎない。

 実際のところ,英語に解釈する方法としては,「和」につけてみた英語である “harmony” に対する整合性を欠いたまま,ただこじつけて一方的に,「令」は “「 beautiful 」” に相当するという解釈を,国外に披露していた。

 逆に考えてみる余地がある。とって返しての説明にもなるわけであるが,この beautiful の「日本語」の意味を,あらためて引いてみたらどうなるか? 「令」夫人などとして使用される字義は,どうみても二の次であって,なんといっても「命令の令」のための文字だという点が,前面に置かれている。ということで,「令」という漢字の解釈については,かえって苦しまぎれのいいわけが開陳される始末になっていた。

 ③「新元号の令和はフランス語やポルトガル語だと「へいわ」と聞こえるようである」(『togetter』2019年4月1日,
https://togetter.com/li/1333795

 この ③ の議論となると,日本国内だけで自慰(ナルシス)的にあつかっていればいいはずだった「元号問題」が,国際化が高度に進展しているいまの時代なりに,あれこれ議論が交叉するほかない一物になっていた。そのために,次段にとりあげられるようにも議論されていた。

 「元号」本来の話題に関して直接にはなんの関係もない「外国側の発言」は,勝手に話題にとりあげているものゆえ,相手にする必要などないといって逃げることはできない。21世紀の国際化した世界環境のなかで,そのような閉鎖的な意識は,まったく通用しない。なんとでもいわれかねない事情は,事前に覚悟しておくべきであった。この ③ におけるつぎの話題を聞こう。     
   
 --フランス語のH音は,無音(シランス;silence)のH(無音の子音:アッシュ)と呼ばれており,存在しない発音とされてきた。しかし,フランス人の喋るR音が実は,ハ行のHの音に近いことに気づかされることがある。喉の奥を震わせる音ということでハ行音(若しくはガ行音)に聞こえるのである。

 フランス語圏の人が発音するとヘイワかゲワ(ヘヴァ / ゲヴァ)とかになる模様である。そこでフランス人にしてみたら,発音しやすいようにR音をL音にしてみたり,母音が続くので reïwa で書いたほうが良いのではという指摘もある。

 ポルトガル語のR音は語頭に来るとH音となることはしられている。ハファエル,ホナウド,ホイス,みな名前はR綴りから始まる。(引用終わり)

 明治維新よりも以前の時代に皇室内で元号の改元をおこなっていたぶんには,それほどたいした問題でなかったものが,明治時代に入ると維新政府は「オレたちの国」はこのように「すばらしいモノ」があると誇りたく(虚勢を張りたく)なったのか,それもわざわざ以前とは違えて「一世一元」の制度を新たに置いた。それ以来,大正天皇→昭和天皇→平成天皇と即位するたびに,この元号がなにに決められるかで大騒ぎすることで,そしてそれも敗戦後であればその国家象徴的な権威「性」を演出してきた。

 なにせ,天皇が「臣民の時間を支配する時代の区分」を元号でもって律しうる,司っているかのように振るまう姿に応じていてこそ,日本の政治社会は生息できているがごとき様相:虚制が,大手を振って闊歩してきた。

 明治維新が近代国家として大日本帝国を創ったにせよ,民主主義の国家体制が21世紀になっても,いまだに「天皇・天皇制」を冠にいただく地点に留まっているこの国である。もしも「民主制政治の神様」がいたとしたら,この日本のいまもなお “半ば生き神” でもありつづける天皇のための元号「制」には,怒り心頭に発するに違いあるまい。

 ④「『令和』大元は中国古典で作者は安倍政権そっくりの腐敗を告発,安倍首相『令和は国書典拠」自慢の間抜け! 大元は中国古典で作者の張衡は安倍政権そっくりの忖度政治を批判」(『リテラ』2019.04.03 11:40,住所:アドレスは末尾にあり

 1)新元号発表の “政治パフォーマンス” が成功したとみたか,意気揚々の安倍首相
 とりわけ「令和」の出典が『万葉集』だと強調し,「初めて国書を典拠とした」と触れまわっている姿は,この宰相の中身がどれほど阿呆かを満天下にしらしめている。発表当日の〔4月〕1日に生出演した『ニュースウオッチ9』(NHK)ではこう宣った。

 「『令和』というのは,いままで中国の漢籍を典拠としたものと違ってですね,自然のひとつの情景が目に浮かびますね。厳しい寒さを越えて花を咲かせた梅の花の状況。それがいままでと違う。そして,その花がそれぞれ咲き誇っていくという印象を受けまして,私としては大変,新鮮でなにか明るい時代につながるようなそういう印象を受けました」。
 補注)ここの話は「印象」論であり,それも安倍晋三個人ののたまったそれであって,学術的な裏づけや信頼性はない。

 「中国の漢籍を典拠としたものと違って情景が目に浮かぶ」って……コレ,ヘイトじみた “日本すごい” 言説という批判以前に,めちゃくちゃ頭が悪い発言だろう。そもそも「令和」の二文字の並びだけみれば,情景もクソもない。政府の説明によれば「令和」は『万葉集』の梅花の歌の序文を典拠としたというが,それだって中国由来の漢文調で書かれたものだ。

 しかも,すでに各専門家や多くのメディアも指摘しているように,「令和」にはより古い中国古典からの影響がみてとれる。たとえば岩波書店文庫編集部の Twitter アカウントは〔4月〕1日,その “大元ネタ” についてこう投稿していた。
 新元号「令和」の出典,万葉集「初春の令月,気淑しく風和らぐ」ですが,『文選』の句を踏まえていることが,新日本古典文学大系『萬葉集(一)』の補注に指摘されています。 「『令月』は『仲春令月,時和し気清らかなり』(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五」)とある」。
張衡の漢語画像資料 張 衡(78〜139年)は後漢の役人・学者だ。本サイトも確認したが,その張 衡が残した「帰田賦」(きでんのふ)は6世紀の『文選』に収録されており,そこにはたしかに「於是仲春令月,時和気清」とある。万葉集の成立は8世紀とされるが,当時は漢文・漢詩の教養が当たりまえであり,「帰田賦」を参考にしたのは確定的だろう。
 出所)右側画像資料は,https://matomame.jp/user/FrenchToast/4e69447a2e42ea73801e

  “新元号の大元” である「帰田賦」はこのあと「原隰鬱茂。百草滋榮。王雎鼓翼,倉庚哀鳴…」と続いてゆく。『新釈漢文大系』(81巻,「文選(賦篇)下」明治書院)がつけている通釈はこうだ。

 「さて,仲春の佳い時節ともなれば,気候は穏やか,大気は清々しい。野原や湿原に植物は生い茂り,多くの草が一面に花をつける。ミサゴは羽ばたき,コウライウグイスは悲しげに鳴く…」

 なんのことはない。大元になっている漢籍そのものが,自然の情景を描いているのだ。それを「中国の漢籍を典拠としたものと違って情景が目に浮かぶ」などとのたまうとは……。漢文の教養なんてなにもないくせに,しったかぶりをして恥をさらす。まったくこの総理大臣は救いがたい。
 補注)この首相自身が「救いがたい」事実じたいは,ひとまずいい(論外)にできてたとしても,この暗愚の総理大臣がこの国を「救いがたい」状況に追いこんできた,まさしく「国難」そのものである「世襲3代目の政治家」であった点が,いの一番の「救いがたい」「日本国内の最難題」になっている。

 2)安倍首相は自分への皮肉がこめられた元号をしらずに自慢していた!
 いや,それだけではない。ネット上ではいま,「令和」の大元が張 衡の「帰田賦」であることが確定的になったことから,「張衡の『帰田賦』は安帝の政治腐敗に嫌気がさして田舎に帰ろうとしている役人の心情を綴ったもの」「安の字をもつ帝の腐敗に役人が嫌気をさす,というのは安倍政権で起きている構図そのものじゃないか」といったツッコミを浴びせられている。要するに,安倍首相は自分への皮肉がこめられた元号をしらずに自慢しているというのだ。

 本当だとしたら,こんな間抜けな話はないので,本サイトも検証してみた。すると,細部では解釈が間違っているところがあるものの,「帰田賦」の作者である張 衡が,権力の腐敗に嫌気がさして田舎に引っ込んだ役人であるのは事実だった。
 補注)ここで指摘されている「細部の解釈」の間違いとは,「安帝」という具合に “安の字” が入っていたかどうかについては,そうではなかったという指摘である。後述されている。

 『後漢書』の「張衡列伝」によれば,張 衡は現在の河南省南部に生まれた。年少から文才に秀で,天文,陰陽,暦算などに通じた学者肌の役人となった(実際,科学者としても評価されている)。「才は世に高しと雖も,而れども矯尚の情無し。常に従容として淡静,俗人と交わり接することを好まず」との評に従えば,いつも落ち着きを払い,けっししておごることのない人物だったらしい。

 だが,張 衡の清廉な精神は腐敗した権力によって阻まれてしまう。当時は,宦官勢力が外戚勢力との権力闘争に勝利しており,張 衡は皇帝に意見書を提出するなどしてその腐敗した宦官専横の体制を是正しようとした。だが,そうした抵抗は失敗に終わり,張 衡はみずからの立場を危くしてしまった。

 ただし,相手は,ネットでいわれているような「安」の字をもつ安帝ではなさそうだ。『後漢書』によれば,張 衡は安帝(6代皇帝)のときに都・洛陽に呼ばれて大史令という官僚知識人の地位をあたえられる。順帝(8代皇帝)のころに再び大史令となる。前述の意見書を上奏した相手は順帝であり,「帰田賦」もその時代に書かれたものだ。

 3)「令和」の大元の作者が「法を遵守する者が災難に遭う」と批判
 それはともかく,張衡は実権力者であった宦官勢力に睨らまれ,136年に首都・洛陽から河間(現在の河北省あたり)へ移り,行政官を務めた。『後漢書』によれば,2年後に辞職願いを上書するも徴され,再び都の官職に就いたのち引退する。139年,62歳で没。そのころに書かれた隠居の書が「帰田賦」だ。張 衡はこのなかでその心情をこう語っている。
 まことに天道は微かで見定めがたいものである以上,いっそかの漁夫を追って隠棲し,彼の楽しみを見習おうと思う。塵の如き俗界を離れて遠く立ち去り,世間の雑事とは永久に別れることにしよう(『新釈漢文体系』通釈より,以下同じ)。
 さらに,地方転出の前年にあたる135年に書いた「思玄賦」には,朝廷の腐敗やそれに媚びる役人を厳しく糾弾する記述がある。こちらも『文選』におさめられているので,紹介しよう。
 世の風俗は次第に変化し,規範に順う正しい行為を消し去ってしまった。ヨモギを大切そうに宝箱にしまうくせに,蘭やヨロイグサは香りが良くないと言う。美女の西施を捨てて愛さず,駿馬に荷車を引かせたりする。邪な行為をするものが志を得て,法を遵守する者が災難に遭うご時世である。

 天地は無窮で永遠だが,それに比べて人の世は,何と無原則であることか。しかし私は,志を低くして,とりあえず認められようとは思わない。舟無くして黄河を渡ろうとするような状態だ。巧みな笑顔で媚びへつらうようなやり方は,私の願い下げとすることだ。
 安倍首相のために平気で法や文書をねじ曲げる官僚だけが出世する,いまの安倍政権の姿と重なる。そして,張 衡はこの腐敗と忖度にまみれた朝廷で官吏として働くことの苦悩をこう書いている。
 人々に邪悪な行為が多いのを見るにつけても,自分だけ法に従うことが,かえって身を危うくするのではないかと恐れるのだ。心中にこのような煩悶を重ね,我が心は乱れる。ああ誰に向かって,この思いを告げたらよいのか。
 これも,良心が残っている官僚たちがいまの安倍政権下で抱えている苦悩そのものだろう。

 4)「令和」考案者・中西 進氏は護憲運動にもかかわっていた
 要するに「おれは国書を典拠とする元号をつけた初めての総理だ」と悦に入っている安倍首相だが,実際は,みずからの政権とそっくりな不正と忖度官僚の跋扈を嘆いた中国の役人の言葉を元ネタとする元号をつけてしまっていたのである。

 そんなところから,この「令和」という元号名が実は「安倍首相への皮肉とをこめて提案されたものではないか」などという憶測まで飛びかっている。「令和」の考案者が護憲運動にもかかわったことのある文学者・中西 進氏であったと報じられていることも,この説の拡散に拍車をかけている。

 まあ,さすがにそれはありえないだろうが,しかし,今回の新元号制定であらためてはっきりしたことがある。それは,安倍首相が押し出すナショナリズムがいかに浅薄でインチキなシロモノであるか,ということだ。

 「令和」の大元ネタがどうという以前に,そもそも日本の古典文学は,基本的に中国や朝鮮の影響下でつくられているものであり,いくら「国書典拠」を強調したところで,日本固有の文化,中国排除などできるはずがないのである。それを,皇室の伝統を排して「国書典拠」などというのは,無教養とバカのきわみといっていい。

 しかし,そのバカ丸出しのインチキがなんの問題にもならずに,正論として通用してしまうのが,いまの日本の状況なのである。新元号「令和」の大元ネタの作者・張衡の「思玄賦」にはこんな一節がある。
 折り合わないことなどは,本当の憂いではない。真に悲しいのは,多くの偽りが,真実を覆い隠してしまうことである。
 ※ 主な参考文献 ※

   『新釈漢文大系』81巻(明治書院)
   『後漢書』列伝7(岩波書店)
  鈴木宗義「張衡「帰田賦」小考」(『国学院中国学会報』2005年12月号所収)
  富永一登「張衡の「思玄賦」について」(『大阪教育大学紀要』1986年8月号所収)

 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4640.html
    https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_2.html
    https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_3.html
    https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_4.html

 ⑤ 安倍晋三風「元号選定」騒ぎのなかでは,皮肉にもふさわしかった不埒副大臣の不注意,「忖度政治」を「合理化」した発言

   
 本日〔2019年4月5日〕早朝に報道された記事が「『忖度』副大臣,自民内『辞めれば助かる』野党攻勢に」(asahi.com 2019年4月5日03時30分,https://digital.asahi.com/articles/ASM444K1HM44UTFK00H.html?iref=comtop_8_01)である。

 塚田一郎国土交通副大臣(自民党)の「忖度」発言について,野党は〔4月〕4日の参院決算委員会で「利益誘導」「予算の私物化だ」と追及を続けた。安倍政権の本質が表われた発言だとして照準を合わせるが,安倍晋三首相は塚田氏の更迭をあらためて否定。早期の幕引きを図る姿勢を崩していない。

「忖度」麻生派副大臣,かばう首相  選挙控え辞任論も ◆

 塚田氏は〔4月〕1日に北九州市で開かれた集会で,本州と九州を新たに結ぶ道路事業の調査を「国直轄に引き上げた」と発言。安倍首相と麻生太郎副総理の意向を「私が忖度した」とも語った。3日に「事実と異なる発言をした」と陳謝して,発言を撤回した。

 4日の決算委で,立憲民主党の小川敏夫氏は塚田氏の発言を「自民党型の利益誘導政治を,実に如実に表わした貴重な証言だ」と皮肉った。国民民主党の礒崎哲史氏も「政治家が支持を集めるためにウソをついていいのか」と批判した。

 塚田氏は謝罪の言葉を繰り返し,「職責をまっとうしたい」と辞任を否定した。

 安倍,麻生両氏の名前が挙がったことに着目したのは,共産党の仁比聡平氏。道路沿線にゆかりのある与党議員有志が2016年3月に国交相あてに提出した道路の早期実現を求める要望書をとりあげ,「その筆頭に安倍首相の名前がある」と指摘。「首相なのに国交相に要望するのは異様だ。こうやって忖度させてきたのか。まさに安倍麻生道路ではないか」とただした。

 安倍首相は「メンバーではあるが,そういう要望書が出されたことはいま拝見するまでしらなかった。そもそも首相として陳情する立場にない」と答弁。塚田氏が所属する麻生派を率いる麻生氏は「これ(要望書)に限らず,地元選出の国会議員としていろいろ名前は載る」とはぐらかした。

 野党はこの日〔4月4日〕,これまで政権の不祥事を追及してきた「合同ヒアリング」を国会内で開催。事業が国直轄に引き上げられた経緯などを国交省に問いただし,追及のボルテージを上げた。

 ただ,政権はいまのところ塚田氏を「辞めさせるわけにはいかない」(官邸幹部)と罷免(ひめん)しない考えだ。罷免したところで事態が収束に向かうとは限らず,統一地方選や夏の参院選を控え,逆に野党を勢いづかせる可能性すらあるからだ。

 首相はこの日の決算委でも「まず本人からしっかり説明すべきで,そのことを肝に銘じて職責を果たしてもらいたい」と続投させる考えを強調した。だが国会開会中は野党の追及が続き,どんな新事実が浮かぶかもわからない。ある自民国対関係者は「自分で辞めてくれると助かる」と漏らす。(引用終わり)

 安倍晋三が,私物化政治の藪のなかからなにか疑念が飛び出てくるたびに必らず,常套句でもって「しっかり・テイネイに説明する」といってきた。だが,実際はその反対にしか応えたことがない。いまどきの日本の政治は,完全に「ウソのウソによるウソのための安倍流私物化政治」になりはてており,いうなれば「国会付近が安倍家の私有地になった」かの様相を呈している。

 平成天皇の退位につづく最近ににおける「新元号騒ぎ」は,「明治時代に新しく創られた」現代的な遺物である「一世一元」の元号制問題をめぐるものであった。さすがにイギリスは,王国制度を代表する国だけあって,けっして元号の問題に批評をすることはないものの,そのほか王国制度のない国々にとってみれば,いまどき古代史から贈り物である元号を後生大事にしているこの日本は,「スゴイ(!)」ともちあげるよりは,単に「おかしな国」にしか映らない。

 いまでは,こういう意見を述べる人もいる。
 「元号使用は伝統的で,西暦だと進歩的」などと分けることに意味はなくなり,元号が良くも悪くも権威を失ってカジュアルになり,廃止する動機もさほどない。1979年に元号法が成立してから40年近くが過ぎた。このため,いまにいたって,わざわざ「元号を廃止する」と主張したとしても,その根拠となるものが見当たらない。

 強いて挙げるとするなら,「西暦の方が便利だから」だ。しかし,それが理由だとしても,行政文書等での元号使用を強制しなければ済む話であって,あらためて「元号を廃止する」きっかけにはならない。裏を返せば,元号法によって法的根拠が与えられている以上,使う場面や頻度は減るとはいえ,日本は元号を使いつづけるほかない。

 あえて廃止するきっかけや根拠もないがゆえに,いまもそしてこれからも日本は世界で唯一元号を使う国として存続していく。少なくとも筆者にはそうとしかいいようがない。
 註記)「世界で日本だけが『元号』に固執し続ける理由 このガラパゴスな慣習はいつまで続くのか?」(鈴木洋仁・社会学者『東洋経済 ONLINE』2018/07/26 6:00,https://toyokeizai.net/articles/-/230509?page=4
 この鈴木洋仁の意見は,元号法を無条件に受け入れたかのような立場を披露している点で,問題がある。元号法の廃止に実質反対する立場である。だが,廃止に反対だとはいえないままに,元号法を絶対視するかにも聞こえる意見を陳述している。この態度は,学究としては偏倚した「理解しがたい思想の控え」を示唆している。廃止していけない法律などない。現在ある法律だから「使いつづけるほかない」という理屈を導出するのは,学究の立場からいわれる意見とも思えない。

 ⑥ 「令和」という元号は呪術

 つぎに引用するのは,本日〔4月5日〕『日本経済新聞』朝刊の記事から拾った,コラムなど2つの記事である。これを読んでみてはたして,「令和」という新元号で当てて時代(特定の期間)をくくったうえで,語らねばならない “合理的な理由” かつ “必然的な事情” を,確実にみいだせる人はいるか?

 1)「首相『デフレ脱却果たす』令和時代へ決意」(『日本経済新聞』2019年4月5日朝刊4面「政治」)
政治

 安倍晋三首相は〔4月〕4日の参院決算委員会で,新元号「令和」に関し「国民からもいろんな調査でも好感をもって受けとめられ,大変うれしい」と述べた。「平成から令和時代へ『三本の矢』の政策を継続し,デフレ脱却を果たす」との考えも示した。平成の経済状況では「バブル崩壊以降,停滞の20年を経験してきた」と振り返った。

 自民党内の各派の総会でも新元号に関する発言が相次いだ。細田派の細田博之会長は「国民の皆さんの評判も良いようだから,この勢いで地方選挙を勝って参院選に結びつけたい」と強調した。竹下派会長代行の茂木敏充経済財政・再生相は「非常に良い響きだ。新しい時代を良い時代にするのはわれわれの責任であり,国民自らが勝ちとっていくものだ」と語った。(引用終わり)

 ところで,アベノミクスの『三本の矢』はどうなっていたか? どこかに落ちてしまい,しかも折れているはずの「その3本の矢」をわざわざ拾いあげることにしてから,いったい「令和の何年」になったら「再び射れることになる」というのか? 悪い冗談にもなっていない,ほどほどにすべき,完全にオメデタイだけの発言。

 2)「〈大機小機〉令和日本は光る小国に学ぼう」(『日本経済新聞』2019年4月5日朝刊19面「マーケット総合2」)

 経済に限れば,平成は凋落の時代だった。平成の入り口で日本の国内総生産(GDP)は世界の15%を占めていた。それが,6%に縮んだ。1人当たりGDPも主要7カ国(G7)の首位から6位に落ちた。「世界第2の経済大国」を中国に譲り,遠からずインドにも抜かれよう。

 世界に占める日本の人口シェアが最大だったのは,元禄のころとされる。絶対数でも人口が減りはじめたこの先,量で競っては勝ち目がない。「令和」改元を機に「経済大国」という自己認識をきっぱり捨てて,新しいモデルに挑んでみてはどうだろう。

 1人当たりで日本より豊かな国のリストを前にヒントを探し,2国が目に留まった。スイスとスウェーデンだ。人口は日本の1割に満たない小国だが,ともに国際競争力ランキングでつねに上位にいる。狭い国内市場のハンディを乗り越え,グローバルな需要のとりこみに成功した。

 食品のネスレ,医薬のノバルティス,金融のUBS〔銀行〕,高級時計のロレックスなどは世界にしられたスイス企業だ。スウェーデンが生んだのは通信機器のエリクソン,アパレルのH&M,家具のイケア,音楽配信のスポティファイなど。同国はユニコーン(評価額10億ドル以上の未上場企業)の多さでもしられる。

 日本と同じころバブルが崩れ,金融・財政危機に陥り,看板の高福祉の維持も危ぶまれたが,果敢な構造改革で成長と福祉を両立させた。世界が顧客の両国だが「和して同ぜず」の気風がある。欧州にあって,スイスは欧州連合(EU)に入らず,スウェーデンは加盟国だが,通貨クローナを堅持する。

 小国なのに,両国とも世界への発信力で秀でている。毎年,1月はダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)に,12月はストックホルムのノーベル賞授賞式に,世界中のメディアが押し寄せる。共通項がまだある。「平和」だ。スイスは永世中立国でしられ,スウェーデンも戦争に巻きこまれないできた期間が,200年を超えた。

 「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵しています」と昨年の天皇誕生日を前に,陛下が話された。かけがえのない平成の遺産「平和」はしっかり引きついで,量より質で存在感のある国をめざしたい。(手毬)(引用終わり)

 この大機小機の意見は,ちょっとは出來のいい中学生が述べくれた “新年の抱負” みたいに聞こえる。

 ところで,安倍晋三君の軍国主義路線をしらないわけがないこの「手毬」さんという寄稿者は,この安倍政権が対米従属国家体制のもと,「平成の遺産『平和』はしっかり引きつ」ぐどころか,それとは正反対の方途に精一杯,それもアメリカのお尻に張り着いたかのようにして,アクセルを踏みつづけてきた「平成時代の好戦的な事実史」を,まさか全然しらないわけではあるまい。

 それでも「新元号:令和」が与えられたなると,このように脳天気な発言がアドバルーン的に一時でも揚げられるのだとしたら,これほどオメデタイことはない。そうたしかにオメデタイのである。

 「平成の時代」において日本は,本当に平和の国「そのもの」でありえていたのか? アメリカが1989年1月7日以降に起こしてきた,世界各地における戦争・紛争に出撃するさい使用された在日米軍基地は,アメリカにとって必要不可欠の役割を果たしており,非常に重要な分担をしていた。

 日本国という天皇を戴く国の内側にあっては,二重三重の自己欺瞞がとぐろを巻いている。「令和」という元号「も」,その欺瞞から生じてこざるえない “苦痛の症状” を,少しでも鎮めるための役目を発揮させようとしている。
     沖縄県米軍基地地図
  出所)https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/sugata/begunkichi.html
 要は,沖縄県の「米軍基地」的な現況をみれば,すぐに理解できることがらである。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        


 【「閉所・鎖国的な独善性の観念」に囚われている「元号に関する浅薄な理解」】

 【このような改元大騒ぎをしている国は,いまではアジアのなかでも日本だけ】

 【元号「令和」の話題から関連して,瓢箪から駒のようにして出てきた話が「大昔における中国の《愚昧な時の皇帝》」が「今の日本では誰か?」という分かりきった比喩】



 ①「『令和可』,万葉集に光 書店に注文殺到,はや増刷」(『朝日新聞』2019年4月2日夕刊1面「冒頭記事」)

   私はこうみる

 1)「世界に誇れる文化」-『万葉集』に詳しい漫画家・里中満智子さんの話-
 万葉集を典拠にしたというのがすごくうれしい。1千年以上前に成立したのに,天皇や皇族のみならず庶民の歌もあり,女性の歌もある。日本が世界に誇ることができる文化資産だ。

 「令」「和」が登場するのは,梅花の歌三十二首の序。大伴旅人が開いたうたげで,そうそうたる顔ぶれが集まって梅の花をめでながら歌を詠んださいに,書いたもの。和歌が豊かな創作性をもち,わが国独自の文化として花開いた時期であることがよくわかる。若い世代が過去の文化をふまえつつ新時代を生きていこうと思える元号だと思う。
 補注)だが,はたして田中満智子がこう称賛したところで,本ブログでは昨日〔4月2日〕の記述なかで指摘した点でもあったが,すでに,小林よしのりを初め,何人もの識者が言及していた事実はこういう点であった。すなわち『万葉集』からの出典であっても,しょせんは中国の漢詩にその語源がみいだされると。

 2)「安倍政権下ならでは」-コラムニストの辛酸
なめ子さんの話-
 元号が上から授かるものから,みんなで参加,交流して楽しむ対象に変わった。前回は昭和天皇がお亡くなりになったのちで,大騒ぎできる雰囲気もなかった。でもSNS時代の今回は,著名人も一般の人もAIも予想しまくった。
 補注)この段落の解釈が合っているかといえば,完全に間違えている。元号について「皆で予想しまくった」といっても,その決定者は安倍晋三を中心に布陣していた。現実を正確にとらえない独自の説明は要注意である。

 中国の古典ではなく万葉集に依拠した点も「日本をとり戻す」ことを大事にする安倍政権下ならでは。ただ,「春の訪れを告げる梅の花のように」という安倍首相の談話を聞いて,いまでは冬の時代だったのですか,と聞き返したくなった。
 補注)前項 1)への批評と同じ点は反復しないが,安倍晋三流の「春の訪れ」とは,本格的な「安倍1強〔狂・凶〕」にとってのそれの到来なのであって,辛酸なめ子や庶民のわれわれにとっては逆に「冬が来襲中である現在の状況」を意味する。辛酸をナメてきたといいたいらしい筆名であるこの彼女は,けっこうモノが分かっていないのか。もしかすると,かえって「現実の事態」を「舐めて観ているのか」と思うと,まことに残念。

 ついでに挙げておくと,『日本経済新聞』2018年12月25日( Xmas の日だったが)朝刊1面のコラム「春秋」が,以下のように語っていた。なめ子は,まず女性である立場から,つぎに「平民でいる立場」から,女系・女性天皇を認めない日本の天皇制度をどう思うのか訊いてみたいところである。

 元号についてあれこれ軽めの感想を述べるのもいいけれども,日本の女性たちにとってみれば,安倍晋三「反動形成」政権の意味と,いったいどのように対峙させられている(「辛酸を舐めさせられている」)かも “あわせて考えてほしい” ところであった。
 付記)ここでいったん途切れるが,以上の 1)と  2)につづく 3)は,つぎの ② のあとに離して,飛び地的に,連番の体裁は保って挿入されている。

 ②「春  秋」(『日本経済新聞』2018年12月25日朝刊)の引用

 歴女,鉄女あるいは鉄子,仏像ガール,山ガール,刀剣女子。日本の女性たちが関心と活動をかつてなく広げていることを示す言葉が近年,増えている。ことさら女性であると強調するのはまだまだ珍しいことの表われでもあるが,大きな時代の変化は明らかだろう。

  ▼ このところ日本女性の活躍が目覚ましい,と耳にしたのは国連などの国際機関である。日本人職員全体ではいまや女性の方が多く,幹部クラスでもほぼ半分を女性が占めるようになったのだという。たしかに,2017年に国連事務次長に就いた中満 泉氏はじめ,水鳥真美氏や岡井朝子氏らが相次いで要職に就任してきた。

  ▼ ああ,それなのに,と大むかしの流行歌を口にしたくなる。世界経済フォーラムがさきごろ発表したところによると,男女平等の度合いを示す「ジェンダー・ギャップ指数」で,わが国は149カ国のうち110位なのである。下から数えた方がずっとはやい。ふたたび古くさい表現をもち出すなら,国辱ものではないか。

  ▼ 医学部の入試不正で明らかになった教育面の差別や,経済面の格差もさることながら,調査項目のなかでとくに成績が悪いのは女性の政治参加である。なんと125位。下位の20%に含まれている。「女性活躍」を看板にかかげた第2次安倍晋三政権が発足してから,明日で満6年。ああ,それなのに,の体たらくである。(引用終わり)
 補注)本ブログはたびたび指摘してきた。安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を提唱しているのであり,「戦前体制への回帰」(「大日本病」再発)を強く願っている。この世襲3代目の政治家」のその希望どおりになったら,もしかすると,

 日本の女性たちから選挙権(参政権)がとりあげられてしまい,女性たちが半人前にしか人間あつかいされなかった「敗戦前の旧大日本帝国」に祖先がえりするかもしれない。もっとも,さすがに参政権についてはそのようにはなりえないと考えるが,ほかの「女性の立場や権利」についていうと,破壊的な打撃がくわえられないという絶対の保証はない。いまでも,まだ不足・不備だらけである女性を囲む社会事情であるのに,である。

 前段の『日本経済新聞』コラム「春秋」のなかには,「古くさい表現」という文句が出ていた。元号とはこの “古くさい年号表示の典型例” ではなかったか? 先進国であっても,ひどく「女性差別の国:ニッポン」=「元号を使いたがる古くさい日本」という連想が,どうしても否定できない。

 なんといっても,日本は先進国ではなかったか? 元号は伝統であり歴史であるといいたいにしても,あの「一世一元の元号制」は明治半ば以来の実績しかないのだから,そのように口はばったく「1千年以上もの」「古(いにしえ)さ」を誇ることはできない。なによりも,その根拠(典拠)に欠落がある主張を軽々しくおこなのはまずい。

 〔ここで ① の『朝日新聞』夕刊の記事の  1) 2)の続きとなって,この 3)に戻る  ↓  〕
 3)ひらがなでもよかった-放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんの話-
 「令和」は悪くはないけど,響きはよくない。令は命令の令だし,「冷」の字を想像させ,冷たい雰囲気がまずある。しかも,「平和に従え」みたいに読める。上から目線が,安倍政権っぽい感じ。

 中国の古典ではなく,万葉集からとったのもなにか意図があるのかと推測してしまう。漢字はどうしたって中国のもの。日本にこだわるのなら,ひらがなにしてもよかったのでは? 西暦の方が便利だけど,だからこそ元号は残してほしい。なにもかも世界標準にして文化をなくすとつまらなくなるでしょう。(引用終わり)
 補注)そうである,「日本の文化」としての元号を残しておくのもいい(そうしてほしい)といったこのスペクターの意見は,たいそうもっともらしく聞こえる。だが,東アジアの諸国は,元号に相当する年号をとうの昔にお蔵入りさせていた。

 新しい元号「令和」の出処が『万葉集』であるといったうんぬん〔デンデン〕の話題も,既述のとおり,格別に強調してとりあげられるほど価値があるとは思えない。もともと,中国の詩に片足を突っこんでいる(引っぱられている)字なのであって,中国と縁切りのできない深い関係がある。

 大昔の日本では,平仮名で書かれたものは私的な性格が強い文書に使われ,地位が低くみられていた時期があった。そもそも小学生水準の「漢」字すら書けず,どだい,自分の就学していた年数の全部を過ごしてきた学校(小学校から大学まで)の名称に入っているある一字の「『漢』字」すら,〔現在も?〕まともに書けない安倍晋三「首相」が,なぜか,新元号(「漢」字)選びで大はしゃぎであった。これでは,4月1日午後からの元号騒ぎの様子は,ほとんど漫画絵にもなりえないような「▲▼騒ぎ」であったと形容するほかない。

 なかんずく「令和」などいった漢字をみた瞬間,安倍晋三の命令に従え,政府のいうことには無条件に「和せよ」としか読めなかった人も,大勢いたはずである。ともかく,4月1日の夕刊から2日朝刊までの新聞報道をみると,ふだんであれば「報道されるべきだったニュースの材料」が,なにもなかったかのように消されていた報道体制になっていた。

 それにしても,元号問題でそれほど浮かれて喜べるような「この国の現在」か? このような疑問を抱く人もまた大勢いるはずである。『万葉集』だといってこの “大和性” を歓迎したがる人びともいる。だが,つぎの ③ のような解説を読んでみたら,そのような〈感慨〉に対して「水を差された」気分になるに違いあるまい。

 ③ 内弁慶である元号だが,それは当然であって,あくまで国内専用

 1)「外務省『西暦』使用,外相トーンダウン  官邸・与党から異論」(2019年4月3日朝刊4面「総合」)

 河野太郎外相は〔4月〕2日の記者会見で,外務省内の文書での西暦表記について「なにか大きくルール変更をするというわけではない」と述べた。外務省は原則として元号を使った和暦ではなく,西暦を使う方向で検討していたが,首相官邸や与党から異論が出てトーンダウンした。

 外務省の文書は,外交交渉に西暦を使う一方,省内向けには元号を併記するなど表記が混在している。河野氏は元号からの読み替えの煩雑さを理由に西暦表記の検討を指示していた。

 これに対し,菅 義偉官房長官は2日の記者会見で「外務省がそのような方針を固めた事実は聞いていない」と真っ向から否定。自民党の萩生田光一幹事長代行も同日の会見で「元号も大切にする役所であってほしい」と苦言を呈した。

 河野氏は会見で「外国とのやりとりは西暦での表記を徹底する」と強調した。ただ,同省関係者によると,外交上のやりとりについては内部文書に西暦のまま記すことなどで収まる見通しだという。(引用終わり)

 世界に向けては通用しないが,日本国内向けであるならば「理屈もへちまもない」まま,ともかく元号を使うのだという主意だけは恣意的にであっても,まことに力強く主張されている。まあ,せいぜい身内だけで使えばいいという程度でしかありえない「元号」であったにもかかわらず,なにゆえここまでこだわりつづけているのか,不思議・不可解である。

 2)「〈声〉新元号と国民主権との間には」(『朝日新聞』2019年4月3日朝刊10面「オピニオン」)

 この声欄への投書主は「府川恵美子,主婦 神奈川県 67歳)である。
 新元号「令和」は,万葉集巻五に載る梅花の歌32首の序からとられたという。序を書いた歌人の大伴旅人(おおとものたびと)は,東国などから徴発した防人(さきもり)を所管する大宰府の長官であった。

 万葉集の防人の歌は,農民たちが出征途上で防人にとられていく悲しみを切々と歌ったものだ。東歌(あずまうた)で,素朴な東国方言を用いておおらかに生活を歌ったのも農民たちである。「今日よりは顧みなくて大君(おおきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出(い)で立つわれは」という防人の歌は,アジア・太平洋戦争で戦意高揚に利用された。

 「令」には,令室,令嬢のように,良いとか美しいという意味がある。「令和」は「美しい和」を祈念するのだろう。だが,私は「令」の字に使役の意味がまず浮かび,仰天した。憲法がかかげる平和主義は,国民が主権者として構築するものだ。誰かから命令されるものではない。

 「和」には「昭和」への郷愁もみえ隠れする。同時に,安倍晋三首相の「積極的平和主義」をも連想させられる。考えすぎだろうか。元号法がある以上,時の政権が制定に関与するのはやむをえないが,必らずや政治的な意図がにじむ。私はやはり,西暦を使うことにする。
 この投書の意見は,デーブ・スペクターがいったと同じこと,つまり,本ブログ筆者だけでなく,ネット上にも数多く指摘されている点であるが,この元号名の「令和」は “「命」に「」する=服従” という意味の連鎖を,不可避にかかえこんでいる。さきの日経コラム〈春秋〉の表現を借りていえば,安倍晋三政権の考えていることはせいぜいお里がしれていた。まさしく,ただ「古くさい表現をもち出すなら,国辱ものではないか」とか「体たらく」といった帰結(周囲からの判定)を,「令和」という元号は示唆(誘引)したといえる。

 3) 「『令和』公的文書は?   戸籍・出生届は元号原則  許出願は西暦表記」(『日本経済新聞』2019年4月3日朝刊34面「社会」)

 この記事については引用する前に,こういう疑問を提示しておく。たとえばいまから100年後,その戸籍を観て仕事をする役所の職員は,きっと元号に関する「西暦との換算年表」をわきに置いていて,これを参照しつつ確認を入れながら事務をとっているはずである。ここまで「西暦」と「元号」との相互対照をつねに配慮していなければならないという実務態勢というものは,深く考えてみるまでもなく,実に煩瑣(面倒)というか無駄(余計)である。

 そもそも世界には通用してもいない元号が,日本国内だけでは世界に誇れる元号だと自慢されがちでありながらも,本当のところ,世界のほうからはたいして注目を受けていないどころか,基本的にはもともと相手にもされていないできた「元号」(の存在・問題)であった。それでは,元号をもっていたアジア諸国はどう観ているか? その意味でも完全に「ひとり芝居」。

 以下において,この 3)の「記事の本文」を引用する。

 新元号「令和」が〔4月〕1日に公表され,5月の改元以降,日常生活のさまざまな場面で新たな元号に触れることとなる。各種登記など市民みずからが記載することもある公的文書は多岐にわたり,元号と西暦のどちらを使用するかは書類によって異なる。元号『日本経済新聞』2019年4月3日朝刊34面元号記事が主流ではあるが,婚姻届などでは西暦表記も事実上容認している。国際標準に合わせて西暦を正式採用している書類もある。
 
 法務省によると,戸籍法にもとづく各種の書類には元号を使うよう通達で規定。昭和から平成に変わったさいも通達を出したといい,今回も平成から令和への変更を求める通達を各自治体などに向けて出す予定だ。

 このため戸籍法にもとづく出生届や婚姻届も元号での提出が原則となる。ただし同法施行規則が指定している標準的な様式には「年月日」との記載しかない。窓口で提出する市民にとっては西暦,元号のどちらでも記入ができるようにみえる。
 補注)この「同法施行規則が指定している標準的な様式には『年月日』との記載しかない』という事実は,理解に苦しむ。窓口では元号の使用(記入)を強要ないしは半強制してきている現状に鑑みても,そうだとしかいいようがない。「あいまい」のなかにこそ「国家側が正直に規定しない恣意的な立場」を強制しようとする意思が貫徹しているとすれば,民主主義国家体制の仕組そのもののあり方について疑いが抱かれて当然である。その「あいまい」性が「ゴマカシのための温床」を提供しているのである。

 法務省担当者は「西暦で提出を受けた場合,窓口で修正をお願いするのがむずかしければ,元号に変換して事務処理することもある」。せっかく提出した婚姻届が受理されない,といった事態は心配いらないようだ。
 補注)この段落の内容は奇怪である。西暦で届けたら「何年であること」が分からないのだとでも,いいたげな法務省の口吻である。西暦を「元号に換算」する(?)という表現が,もっとも奇怪である。通常であればその反対なのであって,いまの「時代」であれば「元号が西暦に換算される」と表現したほうが,「年数」に関してはしごく自然な理解になりうる。

 不動産登記や法人登記などの登記記録も元号だけしか使用できない。ただコンピューター処理の都合で「元年」は「1年」と入力。登記簿をプリントするさいも「1年」と印刷される仕組になっている。
 補注)「元号に関する年数の数え方」のうち「元年」は,コンピュータが受けつけないから「1年」にすると指摘されているが,ここまで話が進むとなれば,これまた実に奇怪な「事実の指摘」になっている。それならば,逆に数字も「漢」字で書いたらどうかといって,混ぜっかえしたくもなる。だが,ホントのところ実に,ここまでクダラなくも聞こえる議論をしていると,発言しているこちら側自身がしらけてくる。

 住民票交付や転居届など住民基本台帳に関する届け出では「年の表記に特段の規定はない」(総務省)。慣例で主に元号を使う自治体が多いとみられるが,元号に不慣れな外国人などは西暦を使うことができる。住基ネットワークも元号と西暦の両方で管理している。
 補注)「元号に不慣れな外国人などは西暦を使うことができる」と書かれているが,これは正確とはいえない説明である。在日・定住外国人は3世や4世になっても「日本国籍」を取得しないかぎり,役所から交付される関係書類の日付は「西暦」である場合がある。「不慣れである・ない」の問題の次元おける事項ではない。それゆえ,ここでもち出されている説明は,日本の役所における業務全般に関していうとき「普遍的に通用し妥当するか」いう意味においては,一貫性が保持されていない。

 総務省が普及を進めるマイナンバーカードでは,生年月日は元号なのに有効期限は西暦で表記され,混在している。「約10年先の未来の日付の表記には西暦の方が適している,との判断ではないか」(同省の担当者)。
 補注)ここの説明も興味深い。「約10年先の未来の日付の表記には西暦のほうが適している,との判断ではないか」という指摘については,これに対してもまた,つぎのように混ぜっかえしていうほかなくなる。現時点の「10年前からでも十分に,日付の表記には西暦のほうが適していた」と。こちらの思考方式のほうが,より不当でもより非合理でもない点は,これまでの経緯に照らして判断すれば,ただちに了承してもらえるはずである。

 公立学校の卒業証書などは自治体によって対応がマチマチだ。元号で統一している自治体もあれば,要望に応じて元号と西暦を使い分ける自治体もある。東京都教育委員会では「慣行として元号表記を原則としているが,外国人生徒などが希望すれば校長の判断で西暦の併記も可能」という。
 補注)東京都立の学校においては,日本人は希望しても卒業証書に西暦では書いてくれないのか? 外国に留学するときとか,そのほか仕事の関係で卒業証明書のなかに記入する年は,元号でしか書かないのか? いまの時代にあってそのような年号の表示方法など押し通せるわけがない。

 例外的に西暦を正式採用しているのは特許庁所管の特許出願番号。2000年1月から元号ではなく西暦を使う。知的財産をめぐる国際標準に合わせる必要性があったためという。ほかに旅券なども海外での利用を想定して西暦を記載している。(引用終わり)

 ここまで書いてくるともはや,なんとも「呆れる」としかいいようがない。よくいわれる文句に「日本の常識は世界の非常識」という常套句(?)があった。これと同じで,「例外的に西暦を正式採用しているのは特許庁」といったふうに,諸官庁「以下」が存在している日本のほうが,どちらかといえば,自分たちの立場のほうを「国際標準に合わせる必要性」を完全に無視しており,しかもその線から大きく外れているに過ぎない。

 ここまでさらに書いてくるといやはや,「年数の数え方」に関しては「世界の常識」すら逆に,非常識にしかねない「日本の非常識」の高度さには皮肉をもって,大いに感心する。つまり「元号」問題については「感心するやら」「▲▼にするやら」で,結局は単に「噴飯モノだ」と批判するよりは,そこには処置なしの思考方式が控えていると批評しておくだけである。

 そして,つぎの ③ に引用する『日本経済新聞』本日(4月3日)朝刊1面に掲載された記事となるや,ほとんど理解不能になる内容が含まれている。相手側の「国連側の立場」からすれば,ただ「ああ,そうですか……」程度に応えるほかない話題であった。

 ④「政府,改元へ準備加速 自治体に円滑移行促す / 国連などに新元号通知」(『日本経済新聞』2019年4月3日朝刊1面)

 政府は,皇太子さまの新天皇即位に伴う新元号を「令和」に決めたことを受け,5月1日の改元に向けた準備を加速する。総務省は〔4月〕2日,全国の地方自治体に「令和」になったことを通知し,システム改修などの対応を急ぐよう促した。〔4月〕1日に閣議決定した新元号を定めた政令や首相談話など5つの文書を付けた。(関連記事総合1,政治面,社会2面に)
 
 石田真敏総務相は〔4月〕2日の記者会見で「円滑に対応がおこなわれるよう,必要な情報を提供する」と述べた。通知の宛先は全国47都道府県と20の政令指定都市。都道府県には政令市を除く市区町村にも周知するよう求めた。

 外務省は諸外国への周知に乗りだし,西暦と和暦の使用が混乱しないよう注意を呼びかける。1日,日本が国交をもつ195カ国と国連などの国際機関に「令和」の決定を通知した。河野太郎外相は同日,外務省内でハガティ駐日米大使と会い新元号が「令和」に決まったと紹介。「新しい時代の始まりに日米関係をさらに深めていく」と伝えた。
 補注)この記事は,日本の外相が「新しい時代の始まりに日米関係をさらに深めていく」と伝えたと報道しているが,これに対してアメリカ側の反応が具体的にあったのかに関する報道には,まだ接しえていないでいる。この「日本側に特有である〈新時代の開始〉」に関する『時間の観念』がアメリカ側に伝えられたところで,はたしてどれほど意味(その反応が外交辞令の範囲内であっても)がありうるのかは,まったく未知数。はたして,アメリカ側においてそもそも「西暦と和暦の使用が混乱しないよう注意」する必要があったのか?

 一方,河野氏は〔4月〕2日の記者会見で,公電をはじめ外国とやりとりする文書では西暦の使用を省内で徹底する考えを示した。「公電などは先方と西暦を使って話したものを文書化する。わざわざ和暦にする必要はない」と語った。閣議など各省庁が共通して保有する文書は和暦の使用をつづける。
 補注)この文句:「公電などは先方と西暦を使って話したものを文書化する。わざわざ和暦にする必要はない」といわれた点は,ここまでの記述内容に絡めて “厳密にいう” としたら,ほとんど意味が不明というか,いったいどう解釈したらいいのかについても,ただ困惑させられるだけである。

 日本に向けて公電を送信してくる相手国(他国)がその日付を元号で書いてくるはずなど,おそらく百%ない。そもそも,この種の「事実」に関した「発言」の内容じたいが「?」であるほかない。ある意味でもほかのいかなる意味でも,つまり「ひとり芝居」であり,場合によっては猿芝居にみえなくもない。

 さて,ブログ『ノーネクタイの My Way』は,2018年12月6日の記述「平成が終わる。パスポートは西暦なのに『元号』をナゼ欲しがるのか」(https://www.gunjix.com/entry/2018/12/06/210522)は,こう書いていた。
 平成30年のあいだに,「 元号」派が減少し「西暦」派が増加した……。キャッシュカードで求められる生年月日の年号は「西暦」,パスポートの表示も「西暦」と世の中の表示が「西暦」表記へと変わりつつあるという時代に,なぜ「元号」表記が必要なのか。

 そもそも「元号」が新天皇即位に合わせてあらためられるようになったのは明治時代以降からのことで,それ以前は天皇の代替わりのさいだけでなく大きな吉事や厄災があるたびに改元したり,民衆は「干支」を年号変わりにしていたというように年号は実にいい加減な「定まりごと」であった……。

 たかだか150年前の明治以降に定められた年号の「しきたり」を大事にしたいのか西暦で十分だとするのか,あなたはどっち派ですか?
 あなたは「どっち派」(?)と問われているぶんにはいいのだが,国家側がこの古代史に由来する「年号である元号」を,正式の制度「名」として実質的には国民たちに「強要している」ゆえ,関連する事情はそう簡単ではなくなっていた。

 ⑤ 「新元号『令和』の隠された意味がヤバい! 真の原典は暗愚な時の権力者を批判する漢詩」(『論壇 net』特集「日本国紀」2019. 04. 02,https://rondan.net/19271

 この記事から適宜に摘出する。なお「目次」の全体は以下のようであるが,引用は3までの参照となる。ここまで議論を引っぱってくると,4月1日午後からの「令和」騒ぎを,なんとか冷静に振り返って観ることができそうである。
  1 国書から引いてくるハズだった新元号の理想と現実
  2 新元号は日中両国の古典に由来する折衷案?
  3 「帰田賦」は時の皇帝権力を批判する漢詩だった!?
  4 新元号「令和」考案者は漢詩にも精通する比較文学者
  5 「小室親子は “死神” で “疫病神”  ! お母さんはヤバい人」竹田恒泰氏が断言
 1)国書から引いてくるハズだった新元号の理想と現実
 「大化」(645年)から「平成」まで計247ある日本の元号は,これまですべて中国の古典に由来してきたのですが,新元号は安倍首相の強い要望で,国書から引用する初の元号となる「はず」でした。そして,新元号「令和」が発表された直後には,日本の古典万葉集由来の新元号にネトウヨ評論家の皆様方は大喜び。

 ですが,実は万葉集からとったというこの「令和」の新元号。どうやらさらに遡ると中国古典の漢詩「帰田賦(きでんのふ)」にまで遡れるようです。日本の古典の多くは,漢籍をもとにしており,どうやら純粋に日本の古典作品から出典を求めるのはむずかしいようです。

 2)新元号は日中両国の古典に由来する折衷案?
 結局,新元号はこのように日中両国の古典に由来する妥協的な折衷案となったのですが,このあたりの意思決定プロセスには皇室が深くかかわっていたのではないかと噂されています。

  a)〔ところで〕日テレの報道に〔は〕,注目させられた。こう報道していた。「政府関係者によると,安倍首相はかねて『元号の出典は日本で書かれた書物がいい』と話しているということだが,日本の古典は,中国の古典を引用しているものが多いことから,日本と中国の古典の両方を出典とすることも検討しているという」とある。

 これが事実なら状況が少し変わったことに気づく。(中略) なぜ,安倍晋三氏は方針を変え,本命を変えたのか。理由として考えられるのは,東宮(皇室)の抵抗しかない。皇太子(と両陛下)が,日本会議的なイデオロギーに染まった元号になることを快く思わず,拒否の内意を内閣に伝えたのだろう。

    b) 「新元号,皇室の反対で本命封印か。安倍首相の方針転換と,マスコミによる「安」の刷りこみ」(『MONEY  VOICE』)。どうやら,反中国的なイデオロギーから漢籍を排して,純粋な日本の古典由来の元号にしたいという安倍首相の思惑と,過去からの伝統を守り,急進的な国粋主義的思想を敬遠する皇室との対立があったのではないかと噂されているのです。

 さらに付けくわえると先に説明したように,中国の古典に由来しない純粋に日本の古典からの引用をみつけるのが現実的にむずかしい,という事情もあったのかもしれません。ともあれ,結果的に漢籍と日本の古典両方に由来を求められる折衷案が採用されることとなりました。

 3)「帰田賦」は時の皇帝権力を批判する漢詩だった!?
 ところで非常に面白いのが,実は新元号「令和」のもっとも古い出典であるとされる「帰田賦」ですが,なんとどうやら当時地方出身の役人であった張 衡(ちょう・こう)が “愚昧な時の皇帝であった帝” に愛想を尽かせて失望して田舎に帰るという内容であったそうです。
 補注)大昔の「中国での〈愚昧な時の皇帝〉」=「現在の日本での〈傲慢で幼稚な今の首相〉」だと読みかえても,なんら間違いではないのが,正真正銘,「この国の現・風景」。

    “愚昧な時の皇帝であった安帝” については,「4月3日」である今日の朝になった時点ですでに,いろいろと関連するネット記事が飛びかっている。「冗談にもなりえない冗談」みたいで,それでも「冗談ではないよね」と念押ししておかねばならないほどに本格的な「冗談的でありうる話」のオチ。

 それにしても,今回における元号問題では個人プレー本位で動いていた安倍晋三の関与,これに対する皇室側(皇太子と平成天皇)の応答(やりとり)が本当に介在していたとしたら,日本国憲法のあり方に関して疑念が生じないとは限らない。今回における改元騒動においては宮内庁の存在がほとんど不可視であった点が「目立つ」。

 ⑥【参考記事】

  「安倍首相『令和は国書典拠』自慢の間抜け!  大元は中国古典で作者の張衡は安倍政権そっくりの忖度政治を批判」(『リテラ』2019.04.03 11:40)から,つぎの2段落を引用しておく。

  ※-1 ただし,相手は,ネットでいわれているような「安」の字をもつ安帝ではなさそうだ。『後漢書』によれば,張衡は安帝(6代皇帝)のときに都・洛陽に呼ばれて大史令という官僚知識人の地位を与えられる。順帝(8代皇帝)のころに再び大史令となる。前述の意見書を上奏した相手は順帝であり,「帰田賦」もその時代に書かれたものだ。
 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_2.html

  ※-2 今回の新元号制定であらためてはっきりしたことがある。それは,安倍首相が押し出すナショナリズムがいかに浅薄でインチキなシロモノであるか,ということだ。「令和」の大元ネタがどうという以前に,そもそも日本の古典文学は,基本的に中国や朝鮮の影響下で作られているものであり,いくら「国書典拠」を強調したところで,日本固有の文化,中国排除などできるはずがないのである。それを,皇室の伝統を排して「国書典拠」などというのは,無教養とバカのきわみといっていい。
 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_4.html

 なお,「令和」のとくに「令」という漢字について政治学者のなかには,英語で該当する文字を引っぱり出し,この「令」という漢字を説明している者がいた。はたして,適切な比較政治学的な議論になっているか疑問あり,であった。「漢字」での議論,「漢の字」に関する議論が最優先されるべきである。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

       

           

          

            

        


 【まだ「平成」の時期であるうちに〔2019年4月1日のエイプリルフール当日〕,つぎの年号は「令和」だと発表され大はしゃぎする〈オメデタサ〉,現在「世界幸福度58位」のこの国が「安倍1強」忖度政権のもとで,これからわずかでも改善されるみこみはあるのか】

 【安倍晋三独裁志向政権への忖度を,国民が「令」と受けとめ,「和」する〈臣民像〉がほしい元号か】

 【現在の一世一元制はもとはそもそも明治謹製】

 【「元号とは,呪術だ」(劇作家・朝倉 薫)

 【早速,午後には「令和まんじゅう」が発売されたとか……】



  ①「早稲田大学の水島です。bccで送信しています。新元号について,『直言号外』を出しました。取り急ぎ。水島朝穂」
 補注)http://www.asaho.com/jpn/bkno/2019/0401.html

 水島朝穂いわく,「本日〔4月1日〕午後,国会売店で売り出された『令和まんじゅう』の写真を出しました。
 註記)http://www.asaho.com/jpn/img/2019/0401/1.jpg   この水島のメールマガジンを受信したすぎあと,この住所(リンク)に出ているという画像李陵を求めてクリックしてみたが,指示の中身が出でこない( ⇒「ファイルが見つかりません  リクエストされた URL は,このサーバ上には見つかりません」となっていた)。

 早速,便乗商法によって製造販売されている『令和まんじゅう』などが,多種出回っているとか……。この事実は,インターネット上でもすぐに分かるが,はたしてそれぞれお味のほうがどうか?

 ②「書家 石川九楊さんが揮ごう『「令」は女性の名前に似合う』」(『NHK NEWS WEB』2019年4月1日 17時27分,https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190401/k10011869591000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002

 このニュースのとおりだととなると,「令子」「和子」(?)やこの2文字を入れて活かした名前が男女問わず,今後しばらくは,はやりはじめるということになるのか。たわいもないけれども,それなりにもっともらしい現象だからとくに実害はない。どこまでも人びとの好みの問題。

 ③ 便乗商法をしらせるメール広告の着信


 早速であったが,2019年4月1日20時56分(送信日時)に「便乗商法」に読めるメール広告が,本ブログ筆者のパソコンに送信されてきた。その宣伝文句を一部だけだが,以下に紹介しておく。
 あきばお~ 【特価情報!】 <tokka-send@akibaoo.co.jp>

 ★あきばお~★「平成」から「令和」へ,新年度・新生活のスタートにぜひ選んでほしいアイテム特集 ♪

 ★NEWS あきばお~★お得情報!  

 ◆◇◇◆ ☆今週の特価商品☆ ◆◇◇◆

 あきばお~&プレミアムあきばお~限定特価!
  【4月1日 24:00~4月4日 23:59】 同時開催★
 ④ 小林よしのりの『BLOG あのな教えたろか。』(2019.04.01,https://yoshinori-kobayashi.com/17833/)の,単なるイチャモンではないという「元号:令和」に対する批評

 この ④ にとりあげる「小林よしのりのブログ,4月1日」の題名は「『令和』に浮かんだ疑問」であった。その本文を以下に引用する。
 イチャモンつけるつもりはないが,「令和」という文字をみたとき,ちょっとした疑問が浮かんだので,勉強した。

 万葉集の「初春月,気淑風」の一節は,支那の詩文集「文選」の「仲春月,時気清」と同じであり,安倍首相は国書から採ってきたつもりでも,実は漢書の由来でしたということになる。

 平安時代の基礎教養が「文選」だったのだから仕方がない。万葉集の和歌は「万葉仮名」であり,漢字は当て字で意味はない。和歌の序文が漢文で書かれており,万葉集の「梅花の歌」の序文は,支那の詩文集「文選」に収録されている詩の一部というわけだ。

 そもそも漢字が漢族の文字なのだから,本当に日本にこだわるなら,元号をひらがなにしなければならない。さらにいうなら「令」は王冠のもとに人が跪いている図だから,やっぱり君主か支配者の命令の意味である。

 君主の命令だから,清らかで美しいという観念に結びつくのだろう。「令和」をみて,なんとなく冷たい感じがするのはやむをえないのだ。

 けれどもわしは元号が好きである。時代の記憶を封じこめて区切りを付けられる。

 西暦じゃだらだら時が過ぎるばかりで終末まで区切りが来ない。キリストの支配する時間枠に慣らされる必要もなかろう。国書からの選出ではないが,「令和」を受容しよう。
 さて,小林よしのりの受け止め方とはまた別に,こう考えてみることもできるはずである。小林よしのりのこの寸評を読む前に,本ブログ筆者は,こう感じる点があった。
 
 元号は「令和」に決まったが,安倍晋三の命「令」に,国民たちは「和」して従えという意味か(?),という具合にである。安倍晋三仕様でもって,この「忖度」政治のために必要な元号であったか? 昭和の和が入っている点にも引っかかりがある。

 昭和の時代は「昭」でも「和」でもありえなかった(少なくとも敗戦までは)。「令和」となっていくこの先の時期に関しても,不安がないわけではないが,いずれにしても,不安というものは「元号のある・なしにかかわらず」やってくる。

 すなわち,やってくるものは「やってくる」。元号,元号……と叫んで,はしゃぎまわっているごとき,前日4月1日の新聞夕刊から本日4月2日の新聞朝刊までの各面を開いて読むと,まるで紙面全体が「改元」に関する『号外』の趣であった。

 ⑤ 明治帝政時代からの謹製であった〈一世一元の元号〉が,どれほどありがたいと観念しうるのか


 1)「明治謹製」である事実から
みなおす視点
 「〈はぐくむ 日本の文化〉「伝統」うのみにせずに」(『朝日新聞』2018年11月8日朝刊24面「第2埼玉」)というスクラップを保存してあった。元号の問題,それも明治の時期においてとくに規定されたこの問題もとりあげている記事であった。以下に引用しつつ議論する。
    
 大学の生涯学習センターの講座で「日本の伝統を見直す」というテーマで授業をおこなっている。初日の授業で,つぎの質問をした。
  (1) 寺社を参拝した時の拝礼は,寺院では合掌,神社は二礼二拍手一礼が一般的だが,このような方法がおこなわれるようになったのはいつごろからか。

  (2) 天皇家の信仰が神道に限定されたのはいつごろからか。

  (3) 行司が今日のようなえぼしをかぶって直垂を着用するようになるのはいつごろか。

  (4)
「夫婦同姓」が法律に定められたのはいつごろか。
 これら  (1)  から  (4)  の正解は,すべて明治以降。ひとつひとつ詳細に説明する余地はないが,およそつぎのようになる。

  (1) 奈良から江戸時代までは神道と仏教とが緊密な関係にあった神仏習合の時代である。神社の境内に寺(神宮寺)が出現するのが8世紀初頭。神前読経もおこなわれた。こうした神仏習合は1868(明治1)年の神仏分離令が出されるまで1千年以上続いた。礼拝は寺社ともに合掌であった。二礼二拍手一礼は戦後になってからのこと。
 補注)ここで「戦後」とは「敗戦後」と受けとっておくが,ともかくこの説明によれば,「二礼二拍手一礼」という “神社での参拝の仕方” が登場した時期は,通常のイメージ(おそらく1千年も前からだと誤解されている点)とは異なっていて,戦後からのものである事実,つまり神道宗教に関して,かなり新しく創られた礼式だと指摘している。

  (2) 天皇家の信仰が神道になるのも明治になってからで,葬儀は江戸時代まで仏式。明治天皇の父,孝明天皇も仏式であった。
 補注)天皇家と仏教との歴史的に深い関係は,寺名でいえば泉涌寺が有名である。本ブログ内でもとりあげている記述がある。興味ある人は適宜に検索されたし。

  (3) 行司のいでたちが今日になるのは明治末から。江戸時代の相撲絵に描かれている行司は,ちょんまげにかみしも。

  (4) 夫婦同姓となるのは,1898(明治31)年の民法制度以来のことで,ドイツに倣ったものである。
 補注)お墓も同理であった。個人を個別に埋葬する墓から,家族ごとに集団でまとめる墓のかたちになったのは,明治時代に入ってからの出来事であった。もちろん,そのように墓の型式を変えるための動きが,明治の社会のなかで意図的に起こされていた。

 こうした「伝統」といわれているもののなかには,近代になってからのものが多いことが分かる。
 補注)というよりも,あくまで国家政策として「神武創業」のもとに敢行された結果として,「明治謹製」になる「新式の伝統」のあれこれが,数多く生まれていた。

 2)「江戸しぐさ」の
虚構
 伝統には深さも厚みもあるとはいえ,同時に怖さもあることが指摘されている。たとえば「江戸しぐさ」が該当する概念として挙げられ,批判されている。1980~90年代,芝 三光氏が創作していたこの「江戸しぐさ」に対しては,歴史家の原田 実が厳格な批判をくわえている。

 にもかかわらず,文部科学省作成の『私たちの道徳 小学校5・6年』は,「三百年もの長い間,平和が続いた江戸時代にいろいろな生活習慣が生み出され,これを『江戸しぐさ』と呼び……」とみなして,江戸しぐさを史実に格上げしていた。要は「史料の裏づけ」も「科学的根拠」もないままに,しかも教材に利用する方法には看過しえない問題があった。(『朝日新聞』「第2埼玉」からの本文引用は,いったんここで終える)

 歴史研究家 / 偽史・偽書専門家である原田 実は『江戸しぐさの終焉』(星海社新書,2016年2月)を公刊していたが,「偽史『江戸しぐさ』」を推進する問題点とは何か」という一文のなかで,捏造にまみれた「江戸しぐさ」について,今後はつぎのように推移すると予測していた。
 江戸しぐさの虚偽が明らかになったいまもなお,文科省や教科書の版元からは,誤りを認める公式の発言は出ていません。「江戸しぐさ」は歴史的事実ではなく,芝 三光という人物が作り出した現代人のマナーに過ぎないことを明記すれば済むだけなのですが,それすらむずかしいようです。
 註記)http://www.d3b.jp/media/6478
 この江戸しぐさの虚構性にも似た問題性が元号についても存在する。一世一元の元号制が替わったのをきっかけに,あたかも,時代の流れのなかに「なにか基本的な変化」が期待されるかのような気分が,意図的に醸成されてきた。おまけに,それがなかば確信していてもよいかのようにも信じこまれてきた。とはいえ,肝心の点では “ほとんど錯覚” でなければ, “単なる誤解” とでも形容すべき《虚構》が,堂々とまかり通ってきたに過ぎない。

 「言霊観念」的にしかも無条件的に,つまり問題意識など皆無の精神状態のなかで,「改元」するとただちに「時代の一新」が期待できるのかとまでの思わせぶりが,簡潔にいえばマスコミによっても喧伝されている。ところが,平成の時期を回想しただけでも「そうではなかった史実」ならば,盛りだくさんある。昭和の時代でも似たような時期が長いあいだあったではないか。「令和」の時期になったら,多分もっときびしいが到来する。

 3) 元号ずくめの本日朝刊の紙面
『朝日新聞』2019年4月2日朝刊1面令和報道 本日〔2019年4月2日〕の朝刊を開いてみればいい。まるで「日本になにか革命でも起きたか」とみまごう論調である。1面には,ふだんであれば絶対に使わない大きな活字で「令和」が印刷されている。

 元号にしたがい区切られる時代が,歴史の流れのなかにおいて,それなりの意味を区画されるかどうかは,まったく保証のかぎりではない。けれども,その種の特別な観念を信じこめる意識があってこそ,期待しうるなにかがありうるかのようにも幻想できる。

 日本国内で生きている日本人であっても元号に反発する人はいるし,嫌う人もいくらでもいる。時代の推移を元号の区切りでもって,それこそ逆さま的に歴史の流れに関する観念が〈構想〉できるのであれば,これはこれで特定の時期におけるなんらかの「想定像」を描けないのではない。

 そうはいっても,それは「完全なる主観的な観念論」であって,それが世界の誰に対してでも通用する「時代の区分に関する確実な方法」ではない。この1点だけはみずから肝に銘じておき,しかと自覚しておく必要がある。

 〔ここで
『朝日新聞』「第2埼玉」の記事本文で,最後に残されていた段落を引用する  ↓  日本人には,伝統といわれるとなんとなく納得してしまう傾向はないか。「伝統」をうのみにせず,事実はどうなのか確認することが必要だろう。 昨今,「伝統」や「文化」がことさら強調される言説が広がっており,なおさらそう思っている。(文教大学生涯学習センター講師早川明夫)

 ⑥【読書感想】「平成の通信簿 106のデータでみる30年」

 吉野太喜『平成の通信簿 106のデータでみる30年』(文春新書,2019/03/20)という本が発行されていた。ところで,ネット記事としていろいろな発言を収録している『BLOGOS』が,2019年04月01日 09:38,fujipon(https://blogos.com/article/367810/)の記事として,この本をとりあげ,つぎのように議論していた。少し長いが,全文を参照する。

 なかんずく「一世一元の元号制」が替わったからといって,マスコミが大騒ぎして報道するほどに〈本当の価値〉が元号にあるのかという疑問を投じる内容である。
   
 1)「内容紹介」
 平成元年。消費税が施行され,衛星放送が始まり,日経平均株価は史上最高値をつけました。それから30年,日本の「実力」はどれくらい変わったのか?

     ※-1 1人あたりGDPは2位から25位に
     ※-2 外国人流入数はOECD第4位
     ※-3 こづかいは約7割ダウン
     ※-4 「ものづくり」から「投資」で儲ける国へ
     ※-5 女性の細さは世界第2位

 そのほか,家電の世界シェア,医療費,ごみの量,体格,外国人の数,時間の使い方など,さまざまアングルで,平成の30年間の推移を調査。平成日本人のありのままの姿を浮き彫りにします。未来を見通すために,私たちが歩んできた30年を客観的に振り返ってみませんか。表やグラフなどのデータ類も豊富なので,ビジネスやレポート作成にも役立ちます。
 補注)ここでは「平成の30年間の推移」と表現されているが,いったん「私たちが歩んできた30年」と表現しておくことで「平成」という元号をとりのぞいてみても,特別に違和感が生じることもない「過去の30年」であった。

 ただし,それでもなんらかの違和感が生じるという人がいるとしたら,その人はそう感じるような「平成の気分」をもちあわせているからであって,誰にあっても普遍的に共有(通有)しうる気分のそれではないと,あえて排斥しておくほかない。

 「平成の30年」といっても「過去の30年」といっても,実質としてはなにも違いはありえない。平成でくくってみるかくくらないかにかかわらず,この点は「その人なりに別々に抱いている〈時代観念〉」によって違ってくる。それだけのことであった。

 〔記事に戻る→〕 「平成」の30年間は,阪神淡路大震災,東日本大震災という大きな災害に見舞われ,経済的にも,世界のなかでの日本が占める位置がどんどん下がってくる,という,停滞の時代でした。その一方で,紆余曲折がありながらも,他国との戦争での戦死者が出ない,対外的には平和な時代でもあったのです。

 この時代をずっと生きてきた僕にも個人的な思い出はたくさんあるのですが,さまざまなデータから,「平成」という時代を客観的にみてみよう,というのが,この本の趣旨なのです。
 補注)ここでも同断であって,「平成」といおうが「過去30年」といおうが,たいした相違はない。そうではなくて,相違が「ある」と思いたい人の観念にしたがうとしたら,「ある」といえば「ある」のであった。ともかく,それだけの話題であった。

 それ以上にいくら詮索したところで,結局は「平成頼み」になる観念的な理屈のいいあいになるほかなく,いうなれば,初めから堂々めぐりにもなりえない,いいかえれば,ことば遊びにもなりえない〈やりとり〉の応酬に帰着する可能性が大である。

 2)「世界における日本の位置・地位」の
相対的な低下ぶり
 さきほど,「停滞の時代」という「平成」への僕のイメージを述べたのですが,著者は,日本の高齢化や途上国型から先進国型への構造転換が遅れていることなどを挙げつつ,この時代を,こんなふうに総括しています。

  〔結局〕それ以上に,筆者が本書で伝えたいことは,この30年で〔日本の比較してみると〕世界〔の各国のほう〕はとても良くなったということである。最近出版されて話題を呼んでいる『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』という本がある。そこでのメッセージは「データをありのままにみると,先進国に住んでいるあなたが思っているよりも,ずっと世界は良くなっている」というものである。

 まさにそうで,経済は成長し,貧困は減った。ITも医療も,あらゆる技術が進歩して,農業や漁業を含むあらゆる産業で生産性が高まった。人口問題も環境問題もエネルギー問題も解決に向かっている。世界中で人びとの生活が豊かになり,買い物を楽しみ,ネットにつながり,スマートフォンを手にし,いろんな所に出かけるようになった。

 もちろん日本も例外ではない。世界における日本の相対的な位置が下がったことよりも,それ以上のペースで世界全体が良くなったことのほうが,ずっと大きい。

 僕はこの本をみつけたときに,ベストセラーになっている『FACTFULLNESS』みたいだな,と思ったのですが,著者もみずから,『FACTFULLNESS』について言及しているのです。多くの人が,自分にみえる世界について,悲観的になっているけれど,実際は,世界はどんどん良くなっている。

 とはいえ,日本人としては,周囲がどんどん豊かになっているのに,自分たちはあまり変わらない(ようにみえる)ことに,もどかしさを感じずにはいられないのも事実なのです。「平成」に至るまでは,高度成長だバブルだと,「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代もありましたし。

 日本は,1人あたりのGDPが2000年には2位だったのが,どんどん順位を下げ,2017年には25位となりました。企業の株式の時価総額ランキングでも,1989年の世界第1位はNTT出版で,2位が日本興業銀行,3位が住友銀行,4位が富士銀行,5位が第一勧業銀行で,ベスト10のなかに,日本企業が7社も入っていたのが,2018年には,ベスト30のなかに1社も入っていません(日本で最高位はトヨタ自動車の32位)。

 2018年の世界第1位はアップル,2位がアマゾン,3位がアルファベット,4位がマイクロソフト,5位にフェイスブック,6位アリババと,IT企業が上位を占めるようになり,時価総額そのものも,1989年1位のNTTが1639億ドルだったのに対して,2018年の1位のアップルは9269億円となっています。

 既存の日本企業がダメになった,というよりは,この30年間の劇的な産業構造の変化に対応し,新しく勃興した日本企業が無かった,ということなのでしょうね。ちなみに,2018年の30位のマスターカードが2019億ドルですから,この30年間で,企業の規模そのものが大きくなっている,ともいえるのです。

 3) 日本のGDPの相対的な低下ぶり
 1989年(平成1)年当時,日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位であった。世界経済全体に占める日本のシェアは15.3%で,3位から5位のドイツ・フランス・イギリスを合わせたのと同じくらいあった。ニューヨーク・ロンドン・東京が世界の三大証券市場であり,米国・欧州・日本が世界経済を考えるうえでの三本柱であった。

 最新のランキングはどうなったか。2017年の日本のGDPは,米国,中国に次ぐ世界第3位となり,世界経済におけるシェアは6.5%にまで低下した。日本のGDP〔そのもの〕は,1989年から2017年のあいだに1.6倍に増えている。これだけをみると,「失われた30年」とはいえ,なかなか増えているものだと思われるかもしれない。しかし世界のなかでみると,日本はこの30年間でもっとも成長しなかった国のひとつである。
 補注)新元号「令和」を大喜び(大歓迎)するかのように報道した新聞などマスコミであるが,いままで30年間:「平成の時期」の推移(とくにその深刻さ)を踏まえてする議論(記事)は,ほとんどみつからない。要は,平成天皇退位にともなって新しく登場した元号「令和」に “験かつぎ” したい雰囲気だけは,濃厚に漂よわせている。

 そうならばそうで,平成の時期にあってもその「験かつぎ」のために,途中であってもほかの元号に替えてみたらよかったのでは,などとも考えてみるしだい。もっとも,それでは「神武創業」にとって不可欠の制度的な一環であった「一世一元の元号制」の意味は,吹っ飛んでしまう。

 もしかしたら,いまではあの世にいるが,その昔はテロリストの役目も果敢に果たしていた伊藤博文が血相を変えて怒り出し,「オレの創った一世一元の元号制」に勝手に手をつけるなと怒鳴り出すかもしれない。

 〔記事に戻る→〕 世界全体のGDPは,この間に4.0倍になった。中国は26.1倍,インドは8.7倍,韓国は6.3倍,米国は3.5倍。ヨーロッパの国々は世界平均よりは低いが,それでもドイツ3.0倍,フランス2.5倍,イタリア2.1倍となっている。日本のGDPの伸び率は,データの存在する139ヵ国中134位。下から数えて6番目である。

 ちなみに,日本よりも下位は,中央アフリカ(1.3倍),リビア(1.1倍),イラン(1.1倍),コンゴ民主共和国(1.0倍)となっている。なお戦争のあったシリアやイラク,アフガニスタン,あるいは北朝鮮など,データには含まれていない国もある。

 日本の2017年のGDPは,円表示では546億〔兆〕円である。しかし,もし平成の間,世界平均のペースで増加していれば,1370兆円になっていたことになる。いまだにそれなりの経済規模,人口をもつ「大国」ではあるけれど,世界の成長速度についていけない日本。
 補注)ここでの「時期区分である平成」についてであるが,はたして本当に意味がありえたといいうるか? 2019年以前の四半世紀(25年間分)でも,以上のごとき内容をひとまずとりあげ論じることはできる。それだけのことである。平成である時代は「バブル経済破綻」後の〔25年から〕30年になった,ということに過ぎないともいえる。

 4) 平成の時期に関する意外な各種のデータ
 これからの高齢化,人口の減少も考えると,悲観的にならざるをえない感じではありますね。この本では,僕の先入観とは異なる,けっこう「意外な」データも少なからず紹介されています。

 1990年以来の移民の増加は,世界的な傾向である。国際的には,国籍や永住権や在留資格の有無を重視せず,単純に外国生まれの人口を移民人口として定義することが多い。日本における外国人比率の増加は,先進国全体への移民の流入数の増加傾向とほぼ一致している。

 移民流入数でみると,日本の2016年の流入数は年間42万人であり,OECD(経済協力開発機構)加盟国のなかで第4位となった。シリア難民を大量に受け入れているドイツ,伝統的に移民の多い米国は別格として,イギリスとはそれほど変わらない。なお,OECDの統計は流入数であって純増数ではないので,日本で暮らす外国人がこれだけ増加したというわけではない。2017年の在留外国人の純増数は18万人である。

 1989年と2017年とを比較して,もっとも減っている項目は「こづかい」,なんと68%の減少である。「交際費」も大きく減っている。なんともわびしい事態である。もっとも,家計調査の「こづかい」には使途不明金も含まれるので,お金のことをちゃんと把握する人が増えたということかもしれない。あるいは,本来の意味でのこづかいの必要な子どもをもつ世帯が減っていることが影響しているのかもしれない。

 ほかに目立って減少しているのは,被服費である。洋服代は一世帯あたり年10万円から5万円までに減った。ほかには家電などの家庭用耐久財や,教育費も大きく減少している。穀類と魚介類の減少も目立つ。魚介類が減ったぶんだけ,肉類への支出が増えたのかというとそういうわけでもなく,つまり食費を削っている。
 補注)「例の」エンゲル係数の話題になっているが,最近,安倍晋三政権がこの係数をゴマカした事実も記録されている。すなわち,国家指導者による国家統計の捏造行為であった。

 逆に増えたのは,通信費,自動車等関係費,光熱・水道費(電気代・水道代が増え,ガス代は横ばい),医薬品,保健医療サービス(診察代,マッサージ代など),教養娯楽サービス(宿泊料・スポーツクラブ・習い事の月謝・テレビ受信料・インターネット接続料など)等である。全体としてみると,平成の日本における消費支出の変化は,生活者にとって厳しい方向であったようだ。

 最後に「仕送り金」がある。これは仕送りが必要な子どものいる世帯が減少した影響もあるが,それ以上に,仕送り額じたいの減少を反映している。1990年の東京の私大生への仕送り額の平均は,月に12万円を超えていた。それが年々低下し,2017年は8万6000円と3割以上減少している。そのいっぽうで,家賃は1990年の4万8300円から2017年は6万1600円とむしろ上昇している。仕送りから家賃を差し引いて残る1日あたりの生活費は,1990年の2460円から2017年では817円と激減している。
 補注)このあたりに指摘・説明されている経済状況の悪化要因は,平成天皇の立場に直接結びつけられたら,明仁氏も迷惑に感じるかもしれない。だが,このような天皇に対する心配は無用であった。元号というものはそういうモノだといえなくもないからである。仮に,平成の時期の途中でこの元号を替えてみた〔とした〕ところで,日本経済の進行過程に特別の影響はなかった(皆無!)と断言できる。そうだとしたら,前段で触れた「験かつぎ」で元号を替えても「意味がない」ということになる。 

 日本は移民の受け入れが少ない,排他的だ,というイメージがあったのですが,実際は,かなりの数の移民を受け入れている国なのです。そして,最近の若者は……と言われがちだけれど,こんなに生活が厳しいなかで,がんばっているのです。そりゃ,奨学金もなかなか返せないよね……。
 補注)日本における奨学金制度の問題は「なかなか返せないよね」「それで困っているだよね」,といった次元の問題ではなくなっている。もしかしたら,日本が平成の時期30年間にその制度を根本から変更できないせいで,いまのような国全体の様相にまで落ちこんでいる一因を,教育制度面から提供しているといえなくもないからである。

 「世界はどんどん良くなっている」のは頭では理解できても,結局,ひとりひとりの人間にとっては「自分のまわりの状況」がすべてでもあり,日本人にとっての平成は「もどかしい時代」ではあったようです。隣の芝が青くみえているだけに,なおさら,ね。客観的にみれば,インターネットも普及していなかった30年前に比べれば,いろんな生き方や可能性もある時代になった,とは思うのですけど。(引用終わり)

 テレビの番組で「百円ショップの品物」を海外(主に欧米になっているが)にもちだし,紹介する内容の企画があるが,円の価値が相対的にそうとう低下してきた事実は,「¥100の製品」に対面させられたそれら外国の人が「安い,安い,安くてすばらしい……」と驚いて反応する意味のなかには,日本経済が世界経済のなかでその占める地位を,いわば相対的にもかつ絶対的にも落ちこんできた経緯を,正直に反映させた場面だと解釈もできる。

 歴史社会学者・小熊英二稿「〈論壇時評〉この30年の日本 世界の変化になぜ遅れたか」(『朝日新聞』2019年3月28日朝刊17面「オピニオン」)が,平成の時期を総括するまとめ的な議論をしていた。全文は引用できないゆえ,この記述の前後につながりそうな段落のみを任意に参照する。

  「この30年は,元号が『平成』だった時代だ。『昭和』が終わった1989年以降,冷戦期の東西両陣営の壁が崩れて世界が統一市場となり,ヒト・モノ・カネ・情報の移動が急増した。アマゾンのオンライン書店創業は1995年,中国のWTO(世界貿易機関)加盟は2001年だ。そうして世界は激変し,日本はその変化に遅れた」。

 それでは「なぜ日本の変化は遅れたのか。〔その〕一つの答えは,国内市場が大きいからだ」。さらに「その表われの〔もう〕一つは語学力だ」。「他のアジア諸国では語学力が高所得につながる。だが日本は国内市場依存の程度が強く,日本語だけで就職できる」。「これは政治にも影響する」重要な要素になっていた。。

 「動乱と民主化に揺れた敗戦後の社会はもっと多様だった。30年前の経団連には敗戦後に自分で起業した副会長もいた。昔は高等小卒の田中角栄のような首相もいたが,1996年以降に就任した首相はほとんど世襲政治家だ。政財界の同質性はこの30年で高まったともいえる」。

 「共感と寛容という世界の若者共通の傾向が,日本では現状維持に働くのだろうか。批判しても変わらないという無力感,現状でそこそこやっていくしかないという諦念もあるのかもしれない」。

 「それでも変化は静かに,だが確実に進んでいる。縮んでいく国内市場に頼ってそこそこやっていける状態は,そう長く続けられない。東京オリンピックと大阪万博という『昭和の亡霊』が終わるころには,新しい動きが出てくるだろう。どのみち,いまの政財界のトップの多くは,つぎの30年後はこの世にいないのだから」。

 ⑦ 平成の「最後」をさらに悪化させた「世襲政治家3代目」のとくにあの2人

 1)最近みつけた安倍晋三パロディー画像
いかがわしい国へパロディ画像
出所)https://search.yahoo.co.jp/realtime/search?・・・

 2) 『東京新聞』2019年3月21日・記事画像資料
『東京新聞』2019年3月21日「ゴーマイニング・マイウェイ!野田秀樹
  出所)https://eisaigakuin.com/blog/64360987654567.html

 3)『東京新聞』2019年4月2日朝刊26面・関連記事
『東京新聞』2019年4月2日朝刊26面内田樹元号見解

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            


 【天皇が政治の場に出過ぎた明治以来の日本(旧大日本帝国)の紆余曲折は,「坂の上の雲」に乗れた気分になってしまったあげく,「敗戦の憂き目」に遭ってしまい墜落したのちも,その帰結させうるべき地点をみうしなっている】

 【21世紀の時代に天皇が日本の政治(民主主義)に対して「象徴の立場」であれなんであれ,直接に関与する意味が,本当に国民たちに理解されているかといえば疑問】


 
 ① 江戸時代末期(幕末期)の天皇2人

 1)「光格天皇」(第119代天皇)
 この「こうかく・てんのう」(1771年-1840年)は,江戸時代の1780年から1817年まで在位した。とくに傍系の閑院宮家から即位した天皇であったためか,中世以来絶えていた「朝儀の再興,朝権の回復」に熱心であり,朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。

 2)「孝明天皇」(第121代天皇)
 この「こうめいてんのう」(1831年-1867年)は,江戸時代最後の天皇であり,1846年から1867年に在位した。仁孝天皇(第120代天皇)の実子であり,明治天皇の父であった。

 孝明天皇について少しくわしく説明しておく。先代の仁孝天皇の第4皇子として生まれ,第121代の天皇となった。生母は正親町実光(おおぎまち・さねみつ)の娘雅子(なおこ) ,養母は皇太后藤原〔鷹司〕祺子(やすこ)であった。在位の期間は,内外きわめて多事多難であり,日米和親条約は許したが,通商条約(→安政五ヵ国条約)勅許の幕府要請を退け,攘夷の決意を表明した。

 しかし,安藤信正らによる皇妹和宮の降嫁に同意して公武合体をはかった (→和宮降嫁問題) 。1862年からこの翌年にかけて起こった尊攘過激派の堂上独占に対しては批判的で,急進過激な国策を戒めた。そのため,三条実美以下がいわゆる七卿の都落ちとなった  。

 孝明天皇の死去後,尊攘派の公家が復活し,岩倉具視が入京を許され,尊攘派に属した中山忠能の娘慶子と天皇とのあいだに生れた明治天皇が即位した。皇后夙子(あさこ) は英照皇太后と称された。陵墓は京都市東山区今熊野の後月輪東山陵。
 註記)https://kotobank.jp/word/孝明天皇-16349 参照。

 3)明治天皇と大正天皇
  江戸時代における幕府は, “天皇および公家に対する関係” について『禁中並公家諸法度』(きんちゅうならびにくげしょはっと)という規則を置き,天皇家とこれを囲む京都の公家たちを管理・抑制してきた。

 しかし,幕末期,米欧からの開国要求の圧力を受けて混乱した日本の政治に対して,孝明天皇が特定の関与をはじめ,介入する事態に変化していた。孝明天皇の最期については「暗殺説」が有名な主張としてある。この説が「単なる俗説」して無視できないほど,幕末の政治史はひどく混乱していた。

 孝明天皇の息子睦仁が明治天皇になったが,この睦仁が別人にすり替えられていたという「説」もある。古代史においてすらすでに,天皇の系譜に関する「万世一系」の伝説は保証されえない点は,まともな専門研究者であれば見解が一致する。ところが,明治天皇のすり替え説になると,1世紀半前もの時期に関する〈出来事〉であるがために,なかなかまともには信じられない〈俗説〉とみなされがちである。

 明治天皇の写真(実像の画像)がいかにも少なく,肖像画であれば特定のものが広く流通させられているものの,実際には,彼の姿を「本当に写した画像」はほとんどない。睦仁自身は写真嫌いだといわれ,明治初期以外は「行幸」する行為をしたがらず,国民に対して姿をみせようとはしなかった。そのあたりの事情は「明治天皇すり替え説」を匂わせており,単に彼が写真嫌いだったという理由だけでは完全に塞ぐことができない〈なにか〉を示唆している。

 いわば「明治史」は,この時代なりにあった「坂の上の雲」的な幻想を,明治天皇においてこそ集約的に反映されるかたちを創っていた。明治天皇は,帝国臣民たちの意識のなかに共有させられるべき「専制的立憲君主」像となって存在していた。

 明治天皇が側室に産ませたただ1人の男子「嘉仁」は,大正天皇に即位してからの話題となるが,彼自身が備えていた人間としての奔放さやその後に出てきた健康上の問題もあって,自分の長男でのちに昭和天皇となる「裕仁」に摂政役を演じさせる経緯となっていた。大正天皇は,あたかも不遇をかこつ生涯を送ったかのごときに解釈されてもいるが,これは正確な歴史認識とはいえない。

 いずれにせよ,明治以来における「3人の天皇」の生涯は,東京(「東の」京都)に睦仁が移動してきたあとは,こちら(東京の皇居)を本拠地として過ごすことになった。

 ②「釜本邦茂氏『陛下は東京に長い出張中』が京都人の感覚」(『週刊ポスト』2017.02.22 16:00〔『週刊ポスト』2017年3月3日号〕,https://www.news-postseven.com/archives/20170222_494921.html

 「2019年1月1日に皇太子が新天皇に即位」 政府の検討が進み,今上天皇の生前退位が現実のシナリオになりつつある。それを受け,「退位後は京都にお戻りいただこう」という提案がもちあがっている。

 天皇がみずからの退位後の居所について言及したことはないが,象徴天皇のあり方を模索してきた今上天皇だからこそ,「伝統文化の京都がよい」と宮中祭祀に詳しい国際日本文化研究センターの山折哲雄・名誉教授はいう。 
 戦前への反省から学ぶことに大変苦労されてきた陛下は,皇太子時代の1981年,平安時代の嵯峨天皇(9世紀)に象徴される “文化天皇” こそが戦後の象徴天皇のあり方だろうと発言されたこともありました。重責から解放されるわけですから,今度は皇室の文化の “ふるさと” をゆっくり味わっていただきたい。
 補注)新天皇が即位する日付は2019年5月1日。退位後の天皇夫婦は,JR品川駅からほど近い閑静な住宅街にある「高輪皇族邸」(旧高松宮邸)に移るという。
 さらに山折氏は「皇室に対する国民の感覚も変わってくる」と続ける。
 現在の皇居は周囲に深いお濠があり,敷地は森に覆われている。自然と国民が天皇を仰ぎみるかたちになり,どうしても一神教的な趣があります。これに対し京都御所にはお濠はなく,本願寺など多数の仏閣や,安倍晴明の墓のような道教の史跡も近辺にあり,多神教的な空間になっている。庶民の生活の場とも “地続き” です。だからこそ京都人は長く,親しみをこめて『天皇さん,天皇さん』と呼んできました。警備が厳重になったのは,東京に移ってからです。
 そうした国民との距離感は,皇室にとっても大切な意味をもつという。昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王は生前,こう述べたという。
 皇族というのは国民に守ってもらっているんだから過剰な警備なんかいらない。大々的に警護しなければならないような皇室なら何百年も前に滅んでいるよ(『文藝春秋』1998年8月号,喜久子宣仁親王妃の証言)。
 京都人からも,この構想には賛同の声が強い。京都市右京区で生まれ育ち,京都府立山城高校時代に輝かしい実績を残した日本サッカー協会元副会長・釜本邦茂氏はこういう。
 昔,京都出身の大先輩方に聞いた話では,明治天皇が江戸に出発するさいに『ちょっといってきますわ』とおっしゃったというんです。関西弁だったかは分かりませんが,そういう逸話が地元に広がるくらいですから,“ 天皇陛下はいま,東京へのちょっと長い出張中” というのが京都の人たちの感覚です。首都・東京の歴史はたかだか 150年,京の都は1000年の歴史がある。戻ってきていただければ,とても嬉しいことです。
 天皇が行幸先から帰ることは「還幸」と表現される。 “150年間の江戸行幸” からの還幸で,新時代の皇室像が描かれていくのか。(引用終わり)

 ③ 法律学者の意見

  長尾龍一『思想としての日本国憲法史』(信山社,1997年)は,天皇制度について,以下のような提言をしていた。

     1 天皇は京都に戻る。
     2 その主要な任務は,古来の文化的伝統の継承とする。
     3 国事行為は廃止するか大幅に縮限する。
     4 退位の規定を設け,ほぼ10年間ぐらい在位する。
     5 明治の国家神道の残滓のいっさいを消去するとともに,その以前の神道的な習俗は,
     文化財として保護する。
    註記) 長尾『思想としての日本国憲法史』210頁。

 長尾龍一は,関連する著作『日本憲法思想史』(講談社,1996年)でもさらにホームページでも,あれこれ関連する自説の諸論を披露している。こちらの参照も求めておきたいが,ここでは,天皇・天皇制のあり方に関した前記5項目の提言が,現実にかなった主張であることを認める。
 註記)http://book.geocities.jp/ruichi_nagao/index.html

 ④「天皇・天皇制と民主主義」に対する小考

 1) 天皇・天皇制というものの矛盾性
 ③ に前記した項目のうち「2」や「5」に提示されていた,いわば天皇・天皇制に関する「伝統・無形文化財」「化」案は,明治維新のときと似た現象を,21世紀の〈現在〉において再び繰りかえすような危険性がないとは限らない。それゆえ,その提言項目には特定の歯止めが必要である。だが,それでもなお,大丈夫なのかというさらなる懸念が残っている。

 「神話史としての古代史」における天皇問題の詮索はさておき,現状のごときに肥大化した天皇制度を撤去するための現憲法の大改正が要請されている。大日本帝国のなかに古代復活的に,異様に「神聖視した天皇・天皇制」を設計したことじたいが,そもそも歴史の歯車を逆まわしにした無謀であった。

 その結末が間違いなく1945年8月15日に出ていたではないか。それから74年もの歳月が流れてきても,封建遺制という以前の時期,「古代‐中世時代の化石的な遺制」が,21世紀のいまどきにまだ亡霊のように再生させられている。

 それでも,前掲のうちの「2」や「5」の「古代史・志向の還帰」は,一部の神社神道界をはじめ国粋・右翼・保守陣営から激越な反対を惹起させる提案である。「神武創業」とされた明治維新にかかわる「古代史側からの歴史的な含蓄・識別」などに関した論点があるものの,その方面の人びとにとってみれば,いまさら天皇一家を京都に移管させるという文化制度的な変更論は,なかなか承服しがたい皇室政策だと思われる。

 さらに「4」は,天皇の世代を10年ごとに新しく創ることになる。これは,明治期以前に天皇・天皇制を復旧させて,天皇位に就く者を大量生産させる案なのか? この案は,「1」 や「2」 に指示される天皇制度のあり方に対して矛盾をはらませている。

 いずれにせよ,長尾龍一の主張は,天皇家に関するより具体的な「京都引っ越し」計画として立案される余地がある。しかしながら,こうした計画が実現するに当たっては,天皇・天皇制そのものが基本からみなおされ,本格的な再構築の作業が事前に完遂されていなければなるまい。

 たとえば,2014年4月23日から25日まで,アメリカ合衆国第44代大統領バラク・フセイン・オバマが,国賓として日本国を訪問したとき,日本国側の公式組織の一環である天皇家の役割は,あくまで憲法上の規定に則して果たされていたもののと観察できる。

 だが,民主主義である〔と概念規定されているはずの〕国家体制の頂上に,古来の封建遺制であるとみなされるこの「〈特別〉の一家」が,この日本国の冠となって乗っかっている。この種の「古代政治風になる現代の構図」は,民主制の進化・徹底という観点からすれば,けっして尋常な形態ではない。

 2)  幕末以前に戻っただけ
 民主主義国家体制にあるからこそ,開放的な議論も十分な批判もすべき問題の対象が,天皇・天皇制である。これを定めている憲法じたいに,もともと矛盾が含まれていた。「押しつけられた」という憲法だと神経質になってこだわるのであれば,まず最初にこちらの根本の矛盾に目を向けて,批判的に吟味しなければいけない。

 現状の宮内庁は実質的に「昔の宮内省に劣らず,今風に古風な皇室行政を執りしきっている。こうした日本政治のあり方に関して「2千年ものの歴史」だとか,神話史的は「二千六百……年」もの過去を有するなどと誇示するのは,あまりにも真実に関する歴史認識をないがしろにした羊頭狗肉である。

 明治以来からの「古(いにしえ)」の伝統と格式だというには,あまりにも古代志向への郷愁が過ぎていて,そのどれもこれもが「19世紀後半の創作物」である事実に照らしても,21世紀における現代政治の中身に使うには,異常・異様・異物であるといった違和感を否めない。

 ところで,大東亜〔太平洋〕戦争に敗戦した直後,天皇家のゆくすえを不安視する気運が高じていたなか,九条家出身の貞明皇后(大正天皇の妻)は毅然と,こういいはなった。「幕末以前に戻るだけだ,心配するな」。「彼女の一言はことの本質を言い当てていた」。
 註記)今谷 明『象徴天皇の発見』文藝春秋,平成11年,207頁。

 3)三笠宮の発言
 三笠宮崇仁(1915年12月2日生まれ,2016年10月満100歳で死去)は,敗戦の翌年(1946年)2月27日,宮内省で開催された枢密院本会議において,つぎのような発言をしていた。
 補注)三笠宮は大正天皇の第4皇子で,昭和天皇の末弟。1945年までは陸軍軍人であったが,敗戦後は古代オリエント史を専攻する歴史学者として活躍した時期があった。

 その会議では「MacArthur の指令になる公職排除の内容を勅令として発布する件を討議した」が,「それが終わると三笠宮が起上って紙片を披(ひら)かれた。問題は皇族の立場についてであった。現在天皇の問題について,又皇族の問題について,種々の議論が行はれてゐる,今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔ゐを後に残す虞ありと思ふ,旧来の考へに支配されて不徹底な措置をとる事は極めて不幸である,との意味であった」。
 註記)芦田 均『芦田 均日記 第1巻』岩波書店,1986年,82頁。

 三笠宮崇仁は敗戦後から昭和30年代まで,「赤い宮様」と呼称されるくらい自族のあり方についてきびしい見解を披露しつづけてきた。だが,彼のこの試図はそっくりそのまま,21世紀の現在にまで繰りこされてきた。ただし実質において,それがまともに継承されたとはいえない。

 三笠宮崇仁編『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』(光文社,1959〔昭和34〕年)「はじめに」の冒頭では,「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ,真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を,私は経験してきた」と述べ 註記),とくに敗戦までの時代を回顧していた。皇族であれ誰であれ,「赤の思想傾向」でなければ,皇室・皇族の存否を批判的に論じえないのだという思考方式じたい,閉所狭隘な議論しか許さない短慮であり,いかにも帝国日本的に国粋風で反動的な視野狭窄である。
 註記)三笠宮『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』3頁。

 明治維新を契機に突如「神格化された天皇の時代」は終わりを告げたといわれ,1945年8月の敗戦以降は,国政を担わない天皇へと回帰したとも説明されている。日本国憲法下の歴代天皇が本当に「国政を担わない天皇」(それもとくに裕仁天皇の場合)であったかといえば,完全な間違いであり,事実誤認である。

 そのあたりに関する真相は,昭和天皇が敗戦後に経てきた生きざまが,おのずと明らかにしてきたところでもあった。1945年8月までの「神格天皇の時代」は終わっていても,敗戦後になるや裏舞台では早速,それもとくに昭和20年代の被占領時代,まるで専制君主であったかのように,しかも軍部の掣肘がなくなった好条件にも恵まれて,思う存分に,政治的に行為してきた「実務に有能であった天皇:裕仁の姿容」を観過するわけにはいかない。

 以上の話題に関連させては,よく引きあいに出される見解があり,こういわれていた。

 象徴天皇制は,日本の歴史のなかで実質では断続的に続いてきた。そうではなかったとみなせる例外の時期が「明治期から昭和初期まで」である。敗戦後,GHQから与えられた『日本国憲法』の「象徴天皇制」は,その日本の歴史に照らして観察するに,ただ「前史(全史?)における伝統」を成文化したに過ぎない,というのである。

 しかし,この説明の方法は,もっとも現代社会史的であるはずの政治概念が有する含意を,あえて古代史にまで強引に遡及させ,極度に曖昧にさせている。そのためにかえって,天皇・天皇制に関する歴史の解釈問題となるや,これをなんでもかんでも敗戦後における新憲法の「象徴天皇制という用語」に牽強付会させたがる流儀を披露している。

 あくまで「今日的な気分」を踏まえていう批判になるが,ともかく,「旧明治憲法時代」における「結局執政天皇制の失敗」は視野の外に追放しておきたい。それよりも,大昔から確実に「あったらしい」と解釈された「天皇の地位:象徴性」だけが格別に注目されている。
 註記)今谷『象徴天皇の発見』213頁。

 ⑤ 幕末維新と敗戦した大日本帝国


 1)安藤優一郎『幕末維新
消された歴史-武士の言い分に江戸っ子の言い分-』(日本経済新聞社,2014年)は,こう論じていた。

 江戸時代の260年余の長期間,将軍のお膝元で暮らしてきた江戸っ子にとって,江戸城が明治天皇の皇居(宮城)として奪われ,薩長出身者が徳川家に代わって政権の座に就いた事実を,そう簡単には受け入れられなかった。この感情は,よくよく考えてみれば自然な感情で,江戸っ子から東京市民に変身させられた鬱憤が尾を引き,再度,徳川家の再登板すら期待するような,明治政府にとっては黙視できない市民の会話もあったという。
 註記)安藤優一郎『幕末維新 消された歴史-武士の言い分に江戸っ子の言い分-』213頁。本書の内容に近い別著として,安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』講談社,2008年。

 明治「維新」が,東京市民になった江戸っ子へもたらしたそうした影響に比較して,明治に元号がかわってから77年目に,大日本帝国が世界規模の本格的な大戦争に敗戦したとき,東京市民となっていた江戸っ子の気分は,いったいどういう状態にあったのか。このことはもちろん,その1945年8月のときにおける,日本帝国臣民全員の気分のもち方に関しても問われるべき設問である。

 江戸時代の260余年は,ともかくも国内の統一性をもって持続してきた一国体制のことがらゆえ,明治の時代に移行する政変のさい,徳川将軍が江戸から身を引き,京都から下ってきた天皇睦仁が最高統治者に就いた。

  大政奉還(1867年11月9日:慶応3年10月14日),
  王政復古(1868年1月3日 :慶応3年12月9日),
  版籍奉還(1869年7月25日:明治2年6月17日),
  廃藩置県(1871年8月29日:明治4年7月14日)

といった一連の措置は,当時における国内体制改革の政治過程を表現していた。

 そしてそのころは,米欧諸国から外圧・干渉が各種各様にあった歴史を記録していたものの,明治維新の激動はあくまでも国内における政変であった。だから,薩長盟約側は,公家側の策士岩倉具視などと仕組んでは,倒幕のための偽勅を捏造・行使したり,幕末の内戦においては錦の御旗を勝手に偽造・準備して,幕府勢力に攻勢をかけるための象徴として活用できる次元を打開できていた。

 2)1945年敗戦と昭和
天皇:その1
 だが,日本が敗戦したときはそれこそ,独・伊以外の主要大国を敵にまわした世界的大戦争の結末であった。それゆえ,国際政治問題となった戦後における敗戦国家日本の戦後処理は,江戸時代が内乱状態を経て,明治時代に変遷していく場合とは比較にならないほどの大激動を迫られた。時代の急変ぶりの度合をそれぞれに量ってみれば,明治維新時までの動乱よりも大東亜〔太平洋戦〕争での敗戦の打撃のほうが,量的にも質的にもはるかに甚大・深刻であった。

 しかしながら,江戸幕府最後の将軍徳川慶喜がみずから静岡に隠棲し,謹慎する生涯を過ごしたのに対して,敗戦の将となっていた大日本帝国大元帥陛下の天皇裕仁は,占領軍に自分の利用価値を認められ,延命されたのを大いに逆用しつつ,その後における生涯を要領よく乗り切ってきた。

 江戸時代の260年余に対する,明治維新から大日本帝国の大敗北までが77年,この年からまた21世紀の今年〔2019年〕まで74年であった。片や国内・地方同士における争乱,片や国際各国間における戦争であって,19世紀の内乱による政権の移行と20世紀の国際戦争における大敗北とであったのだから,そこで敗者となった側の最高責任者の責任のとり方にも,それ相応に顕著に異なってよかったはずである。

 ところが,明治維新後における徳川慶喜の自身に対する処し方と,1945年8月後における天皇裕仁の処世術とでは,雲泥の差があった。元将軍の慶喜は,自分の生命が地上に残れることの意味をよく心えていた。これに比して,元大元帥の裕仁は,やはり自分の地位がその後に新憲法のなかに〈象徴〉として長らえる状況を的確に踏まえたうえで,実は,戦前・戦中の立憲君主の立脚点などもはるかに超えた地平まで,それも天皇家の利害得失を判断基準にしながら,日米安保条約体制を「天皇一族を守る」ための「揺りカゴ」のように利用してきた。

 以上,⑤ の 1)で参照された安藤優一郎『幕末維新 消された歴史-武士の言い分に江戸っ子の言い分-』のなかの論及を手がかりにした議論である。③ でとりあげた長尾龍一『思想としての日本国憲法史』は,「天皇は京都に還れ」という提言であった。徳川「幕府」が260年余もの歴史を誇りながらも,最後の代の将軍は幕末の動乱の顛末を踏まえ,自省するための余生を過ごしてきた。

 だが,それとは対照的に,明治天皇の孫である天皇裕仁は,「神聖にして侵すべからず」立場を海外の軍勢に破砕され降伏していながら,1945年8月以後も「象徴としての権威ある地位」に執心してきた。この昭和天皇のそうした生きざま=実績を観るにつけ,いまの天皇一族は1868年以前の居住地京都に還れと唱える声に説得力を感じる。

 3)1945年敗戦と昭和
天皇:その2
 天皇史の研究者は,こういっていたのではなかったか。明治以来,敗戦までの天皇・天皇制のあり方は,それまで千三百年の歴史のなかでは「例外的な形態の期間」であったと。武人だと定義された明治天皇以下の3代にかけての天皇は,天皇史の事実においては,それまででもごく少数派に属するものであった。これら天皇3人は「武器を手にとった」神格的な天皇であって,また,東アジア侵略路線を導くための「国家の武威」として存在した統帥であった。

 しかし,明治維新から77年後には,その国家政策の大失敗が実証された。しかも,敗戦後からいままで,昭和天皇以後の天皇2人が旧江戸城の敷地を専有し,「東京の天皇」という役回りを演じてきた。明治以降における「東京の天皇」は,近代国民国家体制の古代天皇性による復興思想に依拠して,政治に権威を与えるという錯誤を犯していた。この近代史における過ちを反省し,天皇史の消しがたい汚点を回顧しつづけるためには,天皇一族は京都に帰郷するのが最上策である。

 安藤優一郎『幕末維新 消された歴史-武士の言い分に江戸っ子の言い分-』は,「敗者の言い分を抹殺し,歴史の表舞台から消してしまうことで,歴史の非常識が常識となり,常識が非常識となる」と指摘していた。ところが,昭和天皇史において敗戦を挟んだ事実史は,裕仁の非常識が日本国の常識であるかのように描かれてきた。この歴史に関する事実の展開は,本書の本巻を問わず一貫して追究している肝心な論点であった。
 註記)安藤『幕末維新 消された歴史』283頁。

 敗戦後の占領時代は,GHQ監視のもと宮内庁を作戦本部にして,敗者となった天皇裕仁にとって都合のいいぶんだけは,皇室用に供される国家政策を使いこなしながら歴史の表層に流布させてきても,その都合の悪い過去の履歴や,とりわけ新憲法(日本国憲法)を蚕食していた彼の諸行為は,歴史の深層のなかに溶かしこむかのように処分,隠蔽していた。

 「歴史を書くなら公平に」ということばは,昔,参議院議長を務めていた松平恒雄(会津藩主松平容保の息子)が,大久保利謙(としあき,大久保利通の孫)に語ったことばだといわれている。
 註記)安藤,289頁。

 ⑥ 最高裁第2代長官田中耕太郎における尊皇心

 「日本では,最高裁判事の全室が皇居に向いている」。ここの議論は,山本祐治『最高裁物語 上-秘密主義と謀略の時代-』(講談社,1997年)から田中耕太郎最高裁長官の存在(1950年3月-1960年10月)を論点に抜きだし,考えてみたい。

 同書は,1959年12月16日,最高裁大法廷の下した「砂川判決」が15名の最高裁判事全員一致の判決であったと記述している。だが,1997年の時点では,この判決が田中耕太郎によってアメリカとの密議を重ねた政治謀略的な結末であった事実は,まだしられていなかった。

 布川玲子・新原昭治編著『砂川事件と田中最高裁長官-米解禁文書が明らかにした日本の司法-』(日本評論社,2013年11月)などは,田中がアメリカ側に積極に迎合しながら創作した,その〈歴史の暗部〉を解明している。

 田中耕太郎が掉尾を飾る法廷となったこの砂川事件は,国際法の大家にふさわしく,駐留米軍が憲法に違反するかどうかという重要裁判であった。憲法第9条「戦争放棄,軍備および交戦権の否認」が争点となり,裁判所が初めて判断を打ちだした9条裁判であった。

 だが,日本に駐留する米軍について最高裁は,この砂川事件を「純司法裁判所の審査にはなじまない」と判断し,日本が安保体制に組みこまれている軍事体制を裁かない「裁判」として,裁いたのである。当時はまだ,田中耕太郎がアメリカ政府側の裏工作を受けたうえで,そのように日本の裁判を展開させると請け負った事実は,まったく感知されていなかった。だから,この「日本の進路に大きな影響をもたらした」砂川事件を,当時の経過に鑑みて「最大の裁判」という指摘する人もいる。
 註記)山本祐治『最高裁物語 上-秘密主義と謀略の時代-』講談社,1997年,258頁,316頁。

 しかし,その最大の裁判だといわれた砂川判決の意義は,敗戦後の日本政治史のなかで秘密裏に大きく関与してきた,ある人物の存在の影響を無視することができない。その人物とはいうまでもなく,昭和天皇自身であった。

 戦後体制において米軍基地が保持していた,対社会主義(共産主義)国家体制に対する「日本国防衛」,この客観的機能としての軍事的な必要性については,その昭和天皇がもっとも高く評価し,認知した。そればかりか,事前にこの軍事体制の構築・維持に少なからぬ関与をし,それも裏舞台での政治工作をも敢行していた。

 それゆえ,最高裁が砂川事件に対する判決を,当時の日米安保条約体制の枠組において下すとすれば,田中耕太郎が最高裁長官として指揮した「その結論」にならざるをえなかった。だが,この田中は,実質宗主国であるかのようにみなしたアメリカの意向を受けてから,最高裁の「身の振り方」を決めていた。その意味では,独立したのちの日本国内での出来事であった砂川判決は,ひどく反民族的かつ売国的な意味あいを露骨に有していた。
田中耕太郎人と業績有斐閣
   出所)鈴木竹雄編『田中耕太郎-人と業績』有斐閣,昭和52年,口絵。
 山本『最高裁物語 上-秘密主義と謀略の時代-』は,こう語っていた。田中耕太郎が第2代最高裁長官になったが,この人物がいかに純粋に反共主義者であったかは,裁判官としては異常と思えるほどにヒステリックなことばの羅列をしていた発言からも判る。

 最高裁長官に赴任するとき田中は「国家の番犬になる」といったが,その番犬ぶりは「共産主義という妖怪」に対する警戒のためであった。田中はファシズムにはみずからの体験から容認しなかったが,共産主義もカトリックの信者である田中が合うはずがなかった。

 日本が敗戦後に独立する昭和27〔1952〕年の元旦,全裁判官に送った「新年の辞」のなかで,田中はこういう文句を吐いていた。「似而非哲学,偽科学によって粉飾された権力主義と独裁主義は,人間の奴隷化においてファシズムに勝るとも劣らない。赤色インペリアリズムは世界制覇の野望をあらわしはじめた」。
 註記)山本祐治『最高裁物語 上』168-169頁。

 かつて,在日米軍のことを番犬と表現した自民党の幹部もいた。そして,1952年当時,「白色インペリアリズム」側の「世界制覇の野望」に奉仕するように,日本の司法全体を率いる役割を果たしていたのが,この田中耕太郎であった。当時の「彼が天皇に仕えたアメリカの忠犬」(対米従属国家体制「日本」の立役者の1人)であった事実は,いまとなっては誰も否定できない記録である。

 ⑦ む す び(短言)

 現在の安倍晋三政権もいずれはしりぞく時期を迎えるが,そのとき日本の政治は大きく変わりうる可能性がある。だが,天皇が京都に帰らない状態がつづけば,天皇・天皇制の本質は,いつまでも変わりえないかもしれない。現状のごとき対米従属国家体制は,裕仁天皇の生き残り問題と,不可離である歴史的な因果をもちつづけてきた。
 【参考記事】

      ◇ 両陛下,京都御所で茶会 即位30年・結婚60年祝う ◇
    =『日本経済新聞』2019年3月28日朝刊46面「社会1」=

 京都府に滞在中の天皇,皇后両陛下は〔3月〕27日夕,京都御所で,天皇陛下の即位30年と両陛下の結婚60年を祝う茶会に出席された。西日本で勤務する宮内庁職員が主催した。陛下は「桜の美しい季節のこのたびの訪問で,これまでの皆の協力を喜ぶ私どもの気持ちを伝えることができ,うれしく思っています」と述べられた。その後,両陛下は約30分間,職員らと歓談された。
 【補  説】

 「天皇『脱出の権利』,改めて考える」(『朝日新聞』2019年3月28日朝刊35面「文化・文芸」)

 天皇にはその地位を離脱して普通の人になる「脱出の権利」が保障されねばならない。 “天皇に人権はあるか” をめぐって14年前,著名な憲法学者が著書でこう提起した。退位が実現するいま,あらためて考えたい。

 1)「皇室は身分制の
飛び地」
 憲法学者の奥平康弘・東大名誉教授(2015年死去)が,2005年の著書『「萬世一系」の研究』(岩波書店)で提起した。

 万人に適用されるべき権利保障の体系が天皇にはまともに適用されていないと指摘。すべての人に保障されているはずの権利や自由が構造的に奪われている場合には,「窮極の『人権』」として,その制度の枠組から逃れて普通の人間になる「脱出の権利」が保障されるべきだと説いた。

 「象徴の務め」を果たせなくなると案じ,退位の意向をにじませた「おことば」の表明は11年後の2016年8月。岩波書店は翌2017年3月,『「萬世一系」の研究』を岩波現代文庫としてあらためて世に送り出した。

 憲法学者の長谷部恭男・早大教授は共編著『憲法の尊厳』(同5月)で,「脱出の権利」論のもつ「ラディカルさに着目」すべきだと記した。天皇の人権をどう考えるのか。長谷部さんは取材に対し今回こう語った。

 「私は『人権』ではなく『基本権』という言葉を使いますが,すべての人びとに平等に保障された権利としての基本権が天皇や皇族にあるのかと問われれば,私の答えは『ない』です」。

 「中世の身分制秩序を解体して作られた,すべての個人が平等に権利を享有する近代国家。日本国憲法も基本的にはそうした近代国家像を反映していますが,一部に身分制秩序の『飛び地』を残してもいます。それが天皇制です。飛び地に住む人には身分特有の特権と義務があるだけで,基本権はないと私は考えます」。

 天皇に脱出する権利があるとする議論は,憲法学的にみてどうなのだろう。

 「天皇制を制度として位置づける日本国憲法と,制度メンバーに『脱出の権利』があることは両立するのか。判断は分かれるでしょう。ポイントは,メンバーが離脱してしまうとの懸念を払拭できるかどうかです。払拭できない場合は天皇制がなりたたなくなるので,両立は不可能です」。

 「私自身は,払拭しうると考えます。日本国憲法が天皇制の存在を支えるこの仕組はそもそも,皇室メンバーに『この制度を守っていこう』とする真摯な心がけがあることを前提にしていると考えるからです。そうだとすれば,仮に脱出の権利があっても,メンバーがつぎつぎに出ていってしまう事態は起きません」。

 象徴天皇制がいかに皇室メンバーの心がけに支えられているか。その構造をあぶり出したことが奥平さんの「脱出の権利」議論の意義だと長谷部さんはみる。「心がけが失われてしまうリスクにどう対応するか。課題はそれだと思います。もし心がけがなくなれば,脱出の権利を認めなくても天皇制は枯死します」。
         
    ※ 以上の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※
  2)「共和制に移行し自由を」
 天皇の人権という難題に大胆な解決案を提示した人がいる。社会学者の橋爪大三郎・東工大名誉教授だ。奥平さんも生前,その構想に関心を寄せていた。本人の自由意思が認められない世襲制。職業選択も婚姻も不自由。

 そんな不合理に皇族を縛りつける国は,人権と民主主義の国ではない。橋爪さんはそう批判したうえで,本当に皇室を敬うのなら象徴天皇制に幕を引き,共和制に移行すべきだと論じてきた。「尊皇共和制です」。橋爪さんは今回そう語った。

 「皇室は戦前より特権が減り義務は重くなった。我慢と犠牲の人生だ。私は,皇室には国家機関であることをやめ,無形文化財として自由にお過ごしいただけばよいと思う。国民の拠出する寄付金で財団を設立すれば経済的基盤になる」。

 「象徴としては民間出身の大統領を置けばいい。政治に関与せず選挙で選ばれることもない大統領だ」。

 天皇の退位は今回実現するが,不自由さを問う議論は少なかった。なぜ人権の議論は広がらないのか。「国民が考えたくないからだ。だがその議論を避けている以上,日本には皇室制度への敬意も天皇個人への共感もないと私は思う」。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            


 【明治以来,天皇の本拠地は「東京」の皇居に移り,京都とは疎遠になった】

 【明治になってから近代的に再編成される方途で,天皇・天皇制は創造されてきた。それゆえ,われわれがふだん見聞きする天皇家関連の私的行事は「99%が19世紀後半以降の産物」】

 【古代史の遺物のような天皇陵(孝明天皇用)の復活的な建造も19世紀後半】

 【敗戦後になっても,天皇・天皇制は新しい伝統を創りあげてきた,昭和天皇はなかば不承不承と,そして平成天皇は意欲的・積極的にその構築に努力していた】


 
 ① 小島 毅『天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-』光文社,2018年5月は「明治謹製」であった天皇・天皇制を明確に説明している


 光文社がこの本を宣伝するために,つぎの 3)のような内容紹介をしていた。前後に順逆しているが,簡単に「章」単位の目次も 2)に添えてある。著者の略歴をさきに 1)に紹介しておく。

 1)  小島 毅(こじま・つよし,1962年生まれ)は,東京大学文学部卒業,東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了,東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。東アジアからみ小島毅画像た日本の歴史についての著作も数多くある。
 出所)右側画像は,https://toyokeizai.net/articles/-/3586

 著書は以下のものがある。

  『増補靖国史観-日本思想を読みなおす』

  『朱子学と陽明学』(以上,ちくま学芸文庫)

  『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)

  『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上,トランスビュー)

  『「歴史」を動かす 東アジアのなかの日本史』(亜紀書房)

  『足利義満  消された日本国王』(光文社新書)

  『儒教の歴史』(山川出版社)など。

 監修したシリーズに『東アジア海域に漕ぎだす 全六巻』(東京大学出版会)がある。

 2)『天皇と儒教思想』の目次と概要

 「目次」は,こうである。

   はじめに  第1章  お田植えとご養蚕  第2章  山稜  第3章  祭祀
   第4章  皇統  第5章  暦  第6章  元号  おわりに
 
 「概要紹介」
 8世紀の日本で,律令制定や歴史書編纂がおこなわれたのは,中国を模倣したからだ。中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。つまり,「日本」も「天皇」も,儒教を思想資源としていたといってよい。その後も儒教は,日本の政治文化にいろいろと作用してきた。8世紀以来太平洋戦争の敗戦まで,天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが,その内実は変容してきた。

 江戸時代末期から明治の初期,いわゆる幕末維新期には,天皇という存在の意味やそのありかたについて,従来とは異なる見解が提起され,それらが採用されて天皇制が変化している。そして,ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。本書は,その諸相をとりあげていく。(内容紹介終わり)

 さて,いきなりする話となる。極論していってのける。現在の天皇家に関する歴史は,その「伝統・格式・行事」のほとんどが「明治に入ってから」「創られ,ととのえられ,くわえられてきた」のである。

 だから,ましてや,1872〔明治5〕年に決めていたのだが,「神武天皇即位の年」(=西暦紀元前660年)を皇紀元年とした「当時に決めておいた事実」などは,いわせる人にいわせれば神話物語における,それも相当に荒唐無稽なる「歴史に関する時間観念」だと断言される。

 西暦紀元前660年に始まったとされるその「皇紀」で数えると,今年〔2019年〕はなんと2679年目に当たる。もっとも,神武天皇にもお父さんとお母さんが “きっといた” はずだから,この2679年という年数はさらに長くなる可能性もあっていい。この点,すなわち「神武天皇にも父母はいたはずだ」という指摘は,以前,国会のなかで自民党議員の中山正暉(1932年生まれ)が,つぎのように発言・指摘していた。
 歴代天皇,今まで125代の天皇がおられます。私は,昔,建国記念日をやるときに神社本庁35団体に呼ばれまして,なんとしても2月11日に建国記念日をやるのならば,ここで神武天皇をいえ,それから天皇陛下万歳をやれといわれましたので,私はそのときいいました。神武天皇にはお父さんもおられたでしょうし,おじいさんもおられたから,神武天皇で切るわけにはいきませんと。

 大分県の国東半島から出た「ウエツフミ」の話を聞いたことがありますが,その「ウエツフミ」のなかには,神武天皇以前の72代の天皇の名前が隠されているという話も聞いたことがございました。いまから2660年前に橿原宮で神武天皇が即位されたということですが,確かにそれまでの先祖がいらっしゃるはずでございますから。

 しかし,やっぱり英国とかフランスに明治維新は影響されたようで,伊藤博文はドイツに憲法を習いにいっているようでございますが,そのとき,ウィッテに明治維新後の日本をどうして統一したらいいだろうということを相談しております。そうしたら,ドイツの人が,あなた方のところには氏神様というのがあるじゃないか,その氏神様の集中した中心が天皇だといったらどうだと。これが大きな間違いにつながった。
 註記)『第147回国会 国土・環境委員会』第17号,平成12年5月18日(木曜日)午前10時3分開会。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/147/0013/14705180013017a.html
 つぎの ② に引用・紹介する,本日『朝日新聞』朝刊の「平成の問題」特集記事の題名は「皇居の森深き宮中祭祀」ということで,まことに意味深長であった。

 前段の引用した中山正暉の発言のなかには,伊藤博文が登場していた。この明治時代において大活躍した政治家が,実は,「近現代史としての天皇・天皇制(もとは古式の政治制度)」を復活(?)させ,新しく別様にも創るために大きな貢献をした人物であった。この事実は,日本史の研究家であれば周知に属する知識であるが,天皇問題に関して世間においては必らずしも十分にはしられていない。とくに庶民のあいだでは,そこまでよくしられていない。

 「明治時代」において日本が帝国主義的な国家体制を構築していくために利用した「天皇・天皇制の仕組」に関した究明をおこなっている本書,小島 毅『天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-』2018年5月は,一般教養書として新書判の体裁をもって発行されていたとはいえ,「天皇家の再構築的な新創設」であった「明治謹製の天皇・天皇制」に関する専門的な研究書である。

 本書がわれわれに教えようとする「歴史の事実」は,いったいなんであるのか。ここでは,個々の内容をいちいち引用できないゆえ,小島が同書の冒頭で「天皇をめぐる諸制度は明治時代に改変された」と断わったうえで,こう指摘していた点のみ引用しておく。
 天皇をめぐる諸制度の多くは,実は明治維新の前後に新たに創られたものである。本書はこれらのなかから,農耕と養蚕,陵墓(皇族の墓。みささぎ),宮中再試,皇統譜,一世一元をとりあげる。また,新しい制度だとすでに認識されている太陽暦の採用についてもあつかう(8頁)
 本当のところ,天皇・天皇制に関するくわしい中身などなにもしらない庶民の立場からすると,いきなりこのような知識をあらためて教えられたりすると,かなりびっくりさせられる。

 というのは,冒頭でも触れておいたように,なにせ日本の天皇制度の歴史・伝統は,はるか昔の「いにしえ:古」から連綿と受けつがれてきた貴重な制度(慣習・手順?)であったし,これが有する「世界に冠たる」「万世一系」性も,日本国が唯一有する正当性・妥当性(八紘一宇性)であると説明されてきたからである。

 もっとも,明治以来に徐々に蓄積させられてきた旧大日本帝国時代におけるそうした天皇・天皇制の形成史は,敗戦の憂き目に遭遇していた。天皇・天皇制をかついで「近代風に神国でありうる帝国日本を形成させてきた,すなわちその『明治謹製になる「1868~1945年(77年間)」の歴史』は,ひとまず幕を引かれていた。

 しかし,その不幸中でも幸いなことに,「天皇家」がマッカーサーの手によってお取り潰しになることはなく,むしろ戦後の日本を占領・統治したアメリカ側が,この日本とこの民たちを都合よく支配をしやすくするための装置として,そのまま天皇・天皇制を利用(活用それとも悪用)してきた。

 戦後になって駐日アメリカ大使を務めたことのあるエドウィン・ライシャワーは,太平洋戦争が始まるやすぐに,アメリカがこの戦争に勝って日本を支配することになるが,そのときは天皇を “puppet” として使うようにすべきだと,政府に対して書簡(意見)を送付していた。結局,その期待どおりに敗戦した日本はなっていた。

 在日米軍基地の存在は最近,沖縄県の普天間基地を辺野古地域に移転させる問題をもって,格別に強調されている。日本は実質的には「アメリカには軍事的に服従させられている」国家体制に置かれている。敗戦後しばらくは,昭和天皇がアメリカ側に対して「自分の希望:米軍基地の存在意義を認める意思」を,個人的に伝えていた事実があった。このことは,日本国憲法の「第1条から第8条まで」と「第9条」の関連において吟味すべき「歴史の事実」の問題であった。

 アメリカと日本との国際政治的な相互関係は,実質では『対米従属国:日本』という1点の認識に帰着するほかない。敗戦後における昭和天皇が,いったいどのようにアメリカとの関係のなかで,それも裏舞台で個人的に言動していたか。あるいは息子の平成天皇が「国民の立場」に「寄り添う」皇室戦略行動をもって,その「治世(!)30年」を妻美智子とともに生きてきたか。

 以上の問題は,われわれがあらためて冷静に分析しておくべき「昭和史・平成史」の論点を提供している。

 ②「〈平成とは  あの時:18〉皇居の森深き宮中祭祀」(編集局・喜園尚史稿『朝日新聞』2019年3月21日朝刊36面「特集」)

 なお,この特集記事「『平成とは あの時』シリーズはこれ〔18回連載〕で終わります」と,末尾に断わられていた。以下は本文の紹介である。

 --平成という時代が4月末に終わる。国民が目にしてきた天皇陛下は,被災地のお見舞いや慰霊の旅をする「象徴」としての姿だった。だが天皇には,皇居の森深く,日々,祭祀をつかさどるもうひとつの姿もある。

 戦後,宮中祭祀は皇室の私的行事とされたが,秋の新嘗祭(にいなめさい)には三権の長が参列する。〔2019年〕11月,29年ぶりに営まれる大嘗祭でも,前回同様に公費が使われる。「みえない祭祀」に,戦後も断ち切れていない国とのつながりが透けてみえる。

 1)  政教分離,実態あいまい  公務員が代拝
 平成に入って2年目の1990年11月22日夕,皇居・東御苑に造営された大嘗宮(だいじょうきゅう)で,大嘗宮の儀が始まった。

 宮内庁担当だった29年前,深夜の現場にいたが,暗闇に揺れる炎しかみえなかった。大嘗祭は公的性格があるとして公費が支出されたが,参列者からも儀式の中身をうかがいしることはできなかった。これが象徴天皇の即位儀式なのか。違和感だけが残った。

 皇居の森に,入り母屋(もや)造りの建物が三つ並んでいる。宮中祭祀がおこなわれる賢所(かしこどころ),皇霊殿(こうれいでん),神殿で,宮中三殿と呼ばれる。その脇に新嘗祭(にいなめさい)がおこなわれる神嘉殿(しんかでん)がある。

 元日早朝の四方拝(しほうはい)に始まり,年間約20の祭祀がある。宮中祭祀は皇室の伝統とされるが,新嘗祭などを除いて大半は明治以降に始まった。しかし戦後,新憲法の政教分離規定によって,宮中祭祀は皇室の私的行事となり,祭祀を具体的に定めていた皇室祭祀令も廃止された。宮内庁職員ら公務員は関与できない建前になった。
『朝日新聞』2019年3月21日朝刊36面天皇特集祭祀一覧

 だが,実態はあいまいだ。大嘗祭当日,ある掌典補しょうてんほ)は,夕刻から本番を迎える大嘗宮の儀でのお供えの準備に追われた。掌典補は,宮内庁に所属する公務員である。戦後,宮中祭祀を担当する掌典職は,宮内庁の組織から外れ,掌典長,掌典,内掌典(ないしょうてん)などはいずれも天皇の私的使用人に変わった。ところが,掌典補は宮内庁に残り,祭祀の補助にもたずさわることになった。

 宮中三殿にいる時は白衣白袴(はくいはっこ)姿,宮内庁庁舎に戻る時は背広に着替えるが,仕事の大半は祭祀関連だった。女性が務める内掌典が,宮中言葉で「まけ」と呼ばれる月経になると,祭祀にかかわれない。その時は手伝った。

 すでに退職した元掌典補はいった。「日々の祭祀が,つつがなくおこなわれることだけを考えてきました。公務員だからこれはできないとか,意識したことはありません」。〔だが〕国家公務員が,直接的にかかわっているものもある。

 「問題の毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由」。1975年8月16日,昭和天皇の侍従だった卜部亮吾の日記にこんな記述がある。国会で政教分離問題が議論になっていた時期だった。

 従来,侍従による朝の代拝は浄衣(じょうえ)姿で殿内でおこなわれていた。しかし,服装や形式が変わっても公務員である侍従の代拝じたいは続いている。この代拝について,宮内庁は国会でこう答弁した。「宮中三殿は,家の神棚みたいなもの」「侍従という職務からみても憲法違反とまで考えてはいない」。
 補注)この答弁は詭弁である。この理屈にしたがえば,「日本という国家」の「神棚みたいなもの」という形容じたいが「政教分離の原則」に抵触している。日本人・日本民族〔以外の在住外国人たちすべても含めて〕は,全員が神道教徒(より正確にいうと「国家神道」でも「皇室神道」の信者)ではない。また神棚を設置しているわけでもない。

 仏教徒・キリスト教徒・イスラム教徒がいる事実を無視した話し方は,それこそ論外の弁法である。そもそも,神棚という神道的な宗教道具とは無縁で生きている日本人・日本民族がいないのではなく,いくらでもいる。

 日本国とこの民の統合する象徴の地位にいる天皇(その家)の “神棚の話題” である。その話題を日本人・日本民族・日本に暮らす全員にあてはめうる性質の話題について,前段のように「憲法違反にならない」というのはきわめて恣意的であり,どこまでも勝手な解釈である。

 〔記事に戻る→〕 そもそも憲法制定当時,政府は宮中祭祀をどう考えていたのだろう。宮内府(現宮内庁)法が施行される直前の1947年3月,吉田 茂首相が昭和天皇との面会に用意したとみられるメモが,国立国会図書館の憲政資料室に残されている。当時の入江俊郎・法制局長官の関係文書にあるもので,昭和天皇実録にも,同じ日に首相が天皇に報告に来た旨の記述がある。

 「宮内府に関する奏上(そうじょう)」と題されたメモは,皇室には,憲法上認められた公的事項と私的事項があるとしたうえで,私的事項でも,象徴の地位の保持に影響が深い場合には,国がお世話することは当然だ,としている。ただ,それに続けてこうも書かれている。

 「祭祀の事務は,皇室の私的事項であり,これは政教分離の日本国憲法の建前からも,宮内府で扱わぬことが穏当であると存じます」。同じ入江文書のなかにある「皇室関係の事務」というメモにも「祭祀の事務は純然たる私事で,これには宮内府の職員も,たとえ補助であっても関与せぬがよかろう」との記載がある。

 皇室に詳しい瀬畑 源・長野県短期大准教授は「国として関与するのは,皇室にかかわる国家事務と規定しつつも,皇室の性質上明確に切り分けられないというあいまいな実態があった」としたうえで「それでも,当時は宮中祭祀については関与すべきではないと,少なくとも政府レベルでは考えていたことが読みとれる」と指摘する。

 2)  新嘗祭に三権の長,国家との関係いまも
 昨〔2018〕年11月23日夕から,平成最後の新嘗祭がおこなわれた。新嘗祭は,宮中祭祀のなかでもっとも重要とされる。その晩,首相官邸の公式ツイッターが安倍晋三首相の写真付きで更新された。「凜(りん)とした空気のなか,宮中において厳かにおこなわれた新嘗祭神嘉殿の儀に参列いたしました。五穀豊穣に感謝の念を捧げ,そして,皇室の弥栄(いやさか)と国家の安寧をお祈りいたしました」。
 補注)ここで紹介されている安倍晋三のことばは「皇室⇒国家」だけであり,国民たちに関する直接の表現はない。

 宮中祭祀は皇室の私的行事になったが,三権の長らの参列が恒例となっているその風景は,政府の公式行事を思わせる。

 終戦から4カ月後の1945年12月15日,連合国軍総司令部(GHQ)による神道指令が出された。国家神道を解体し,宗教と国家を分離させる狙いだ。宮中祭祀はいったい,どうなるのか。政府関係者らの不安をよそに,そのまま残った。あくまでも天皇の私的信仰だというGHQの判断だった。

 終戦〔敗戦〕当時の宮内次官だった大金益次郎氏は,のちに国会の憲法調査会に呼ばれて当時の思いをこう語っている。「天皇のお祭りが,天皇個人の私的信仰かという点は深い疑問をもった」「幸いにして個人の信仰は保障されている」。宮中祭祀が生き延びた安堵の一方で,私的信仰に落としこまれた憤りも強くにじんでいる。

 天皇の行為は,(1)  国事行為,(2)象徴としての公的行為,(3)その他の行為,に3分類できるというのが政府見解だ。さらに (3)  については,公的性格のある行為と純然たる私的行為に分かれるとしている。
 補注)この天皇の行為「問題」については,すでになんどか紹介してきたが,園部逸夫が作製した関連の図解があるので,ここでも参照しておく。これは,園部逸夫『皇室制度を考える』(中央公論新社,2007年)が提示した関連の図解である。概念的にうまく整理:図示されている。(画面 クリックで 拡大・可)
園部72頁。
 公費支出が政教分離に抵触すると指摘されている大嘗祭は,(3)  のうちの「公的性格がある行為」としているが,宮中祭祀は,大相撲観戦などと同様に「純然たる私的行為」に区分し,内廷費を支出している。しかし,皇室の伝統である宮中祭祀の重要性を指摘する声は根強い。とくに皇室への思いが強い保守層に目立つ。

 朝日新聞が昨年実施した世論調査では,新天皇に一番期待する役割について,「宮中祭祀など伝統を守る」は「被災地訪問などで国民を励ます」「外国訪問,外国要人との面会」に続いて3番目に多かった。

 退位をめぐる有識者会議では,こんな意見が出た。「(天皇は)祭り主として存在することに最大の意義がある」「宮中祭祀は久しく私的行為とされてきたが,国民統合の精神的基盤をなす公的行為のひとつと考えられる」「もっとも重要なことは,祭祀を大切にしてくださるという御心(みこころ)の一点」。

 大嘗祭への公費支出,新嘗祭への三権の長参列……。祭祀と国は,なお結びついている。

 3)「公的行事化」強まる動き  島薗 進さん(上智大教授〈宗教学〉)
 明治以降,欧米のキリスト教国家に対抗できる近代国家を構築するための土台として利用されたのが皇室祭祀だった。そのため祭祀が大幅に創り出され,とくに神武天皇祭をはじめ万世一系を裏打ちするような先祖祭が目立った。国民生活に直接影響する祝日も,紀元節など皇室祭祀にかかわるものばかりで,国民の意識に国家神道を根づかせる狙いがあった。

 その国家神道は,戦後のGHQによる神道指令で,神社と国家の分離という点では歯止めがかかった。しかし,天皇の祭祀は棚上げ,容認され,それに公的地位を与えようとする政治勢力が影響力を強めてきた。戦後の皇室祭祀は天皇の私的信仰のはずだが,個人的な信仰ではなくその地位についてくるものだ。

 国家主義的な立場からこれを公的行事にする動きが繰り返し生じてきた。神聖な天皇が皇室祭祀をすることで「美しい国柄」が護持されるという主張だ。しかし,天皇の祈りは,あくまでも2016年のお言葉にあったように,国民への深い信頼と敬愛をもって人として祈るということ,それこそが象徴天皇にふさわしい。(談)
 ※ 人物紹介 ※ 「しまぞの・すすむ」は1948年生まれ。東京大名誉教授。著書に『国家神道と日本人』など。
 4)  私と平成  編集局(皇室担当)・喜園尚史(よしぞの・ひさし)(59歳)
 「やはり真実に生きるということができる社会を,みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました」。天皇陛下は2013年10月,皇后さまとともに初めて熊本県水俣市を訪問した。水俣病の患者らとの懇談で,こう語りかけた。38歳まで病気の認定申請をためらってきたという男性の思いを聞いてのことだった。

 「今後の日本が,自分が正しくあることができる社会になっていく,そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています」。象徴を生きる,というのは,どういうことなのだろう。

 「ぼくは天皇になるだろう」。天皇陛下は高校1年の時,家庭教師のバイニング夫人が将来の希望を書かせたところ,こう記した。「やはり私人として過ごす時にも,自分たちの立場を完全に離れることはできません」(2001年の誕生日会見)。その発言には,絶えず地位に伴う制約がつきまとう。

 「天皇は憲法に従って務めをはたす立場にあるので,憲法に関する論議については言を慎みたい」「(即位の礼,大嘗祭の政教分離について)この問題につきましては,内閣が慎重にいろいろな角度から,検討をおこなっていると思います」(1989年8月,即位後初めての会見)。その発言が,大きく踏み出された。

 2016年8月,退位の意向をにじませた思いを,国民に語った。「私が個人として,これまで考えてきたことを話したいと思います」。驚いた。天皇が「個人として」と断って発言するとは。「現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」「天皇は国政に関する権能を有しません」。政府との調整をうかがわせる言葉が続いた。

 それでも,最初に聞いた時は一線を越えたのでは,と思った。憲法学者から疑義も出た。ただ,こうも感じた。天皇も1人の人間だ。加齢に伴う身体の衰えを感じるなかで,今後の不安を表明した。それも許されないのだろうか。

 天皇という運命。退位という選択。それは「自分が正しくあることができる社会」に向けて,象徴としてのぎりぎりの決断にも思えた。憲法は,生身の人間に象徴という地位を与えた。天皇の発言はどこまで許されるのか。政教分離は守られているのか。問うべき課題は,そのまま次代に先送りされる。(特集記事引用終わり)

 ところで,昨年(2018年)12月23日平成天皇の誕生日に,猪瀬直樹(作家・元東京都知事)がつぎの発言をしていた。
 A級戦犯東條英機ら7名の絞首刑が執行されたのは昭和23年12月23日だった。皇太子明仁の誕生日を祝う予定は急遽と取りやめとなった。極東軍事裁判は,昭和21年4月29日の昭和天皇誕生日にA級戦犯が起訴され,5月3日(翌年新憲法施行,以後憲法記念日)に開廷した。

 やがて昭和が終わり新天皇が即位すれば,戦犯が処刑された日は天皇誕生日として祝日となり,日本人は否が応でも歴史的事実に向かいあわなければならないはずだった。しかし日米安保体制下,ディズニーランド化した日本人はすっかり戦争の記憶を忘れ,昭和の時代も思いのほか長くつづき,GHQが刻印した死の暗号は読み解かれず意味を失った。それを忘れることができないたった1人を除いて。
 註記)https://newspicks.com/news/3551871/
 この猪瀬直樹の指摘は,エドウィン・ライシャワーが太平洋戦争の開始を受けて,戦争で日本帝国を負かしたあとは「天皇を puppet に位置づけて」おき,戦後の日本を支配・統治していく路線を推奨していた。ところが,21世紀の現在もいまだにその路線は堅持されている。

 昭和天皇は,大日本帝国大元帥の立場をもって「大東亜・太平洋戦争」に敗北した。その屈辱は,敗戦後も天皇の地位を保持しながらも味わってきた。 “敗戦の将は兵を語らず” とはいうものの,そのまま日本国憲法のなかで象徴天皇の地位に横滑りできた彼の生涯は,けっして後味のよいものではなかった。自身に関する戦争責任の問題は完全に棚上げしてきた。
 1975年10月31日,訪米から帰国したさいにおこなわれた日本記者クラブ主催の記者会見で,記者からの質問に対して昭和天皇は,つぎのように返答していた。

 問い   陛下は,ホワイトハウスの晩餐会の席上,「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが,このことは,陛下が,開戦を含めて,戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は,いわゆる戦争責任について,どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)

 天皇  そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究していないので,よく分かりませんから,そういう問題についてはお答えできかねます。
 
 問い  戦争終結にあたって,広島に原爆が投下されたことを,どのように受けとめられましたか? (中国放送記者秋信利彦)

 天皇  原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが,こういう戦争中であることですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないことと私は思っております。  1975年10月31日,訪米から帰国したさいにおこなわれた日本記者クラブ主催の記者会見で,記者からの質問に対して昭和天皇は,つぎのように返答していた。

 問い  陛下は,ホワイトハウスの晩餐会の席上,「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが,このことは,陛下が,開戦を含めて,戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は,いわゆる戦争責任について,どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)

 天皇  そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究していないので,よく分かりませんから,そういう問題についてはお答えできかねます。
 
 問い  戦争終結にあたって,広島に原爆が投下されたことを,どのように受けとめられましたか? (中国放送記者秋信利彦)

 天皇  原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが,こういう戦争中であることですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないことと私は思っております。
 現在,在日米軍基地に実質的に統括・支配される国家となっているこの日本については,敗戦後における政治過程のなかでアメリカ側に対して「そのような自国の状態になってもいい」と希望を伝えたことのある昭和天皇であった。昭和20年代史からの「日本の政治と経済」は,基本的にはアメリカ好みの国家を形成していく方途となっていた。

 平成天皇は,昭和天皇が自分の父親として「敗戦後の昭和時代」をどのように生き抜いてきたか,一番よくしっている立場にいた。だから平成天皇は,沖縄県をはじめとして日本だけでなく,国外の地にまで「慰霊の旅」に出かけていった。

 この「父と子」の歴史的な組みあわせによって描かれてもきた「現代日本史の展開模様」は,日本の政治史のなかで有する意味についていえば,その解釈を分岐させる論点を提示していた。いずれにせよ,そうした事実じたいは,けっしてないがしろにできない「天皇家」の歴史に生じていた経歴:記録であった。

 最近,安倍晋三が自分を第3者からはみえないように隠しながら,平成天皇をいい気になって物陰からいじめているという情報も流れている。

 そこで,最後につぎの ③ の指摘も聞いておきたい。ごく粗っぽく断わっておくが,歴史のなかに発生していた「安倍晋三⇔天皇明仁⇔天皇裕仁」間の「乱流的な政治関係」も意識しつつ,聞いておきたい批評である。

 敗戦から74年が経った21世紀の現在でもなお,その「敗戦」問題にまで遡れる因果中の「肝心な系列の問題」が,以下の論述のなかには表現されている。

 ③「安倍政権が3億円の寄付をした米シンクタンクの正体! アーミテージレポートで日本属国化を進めるジャパンハンドラー」(『リテラ』2019.03.17 12:06,https://lite-ra.com/2019/03/post-4610.html〔全3頁のうち1頁目を引用〕

 トランプ大統領におねだりされて戦闘機やミサイルなどを爆買いし,普天間返還の見通しも立たぬまま辺野古新基地建設を強行,そしてトランプのノーベル平和賞推挙……。

 “対米隷属” が甚だしい安倍首相だが,ここにきて,さらなるえげつない “アメリカへの貢物” が判明した。あのジャパンハンドラーたちの巣窟である米シンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)に,日本政府が巨額の寄付金をつぎこんでいたというのだ。
ジャパン・ハンドラー
出所)http://amesei.exblog.jp/10537195/
 〔3月〕14日付の『しんぶん赤旗』によれば,第2次安倍政権の2013年度からの6年間で,日本政府がCSISへ寄付した金額はなんと2億9900万円にのぼるという。共産党の宮本徹衆院議員の追及によって外務省が明らかにしたもので,外務省は「国際情勢に関する情報の収集および分析」「海外事情についての国内広報その他啓発のための措置および日本事情についての海外広報」などを寄付の理由にあげている。

 だがいうまもなく,寄付の原資は税金だ。国民の血税を米国の一民間シンクタンクに勝手に寄付するなんてことが許されるのか。しかも,問題は寄付した相手の正体だ。「戦略国際問題研究所」(CSIS)は前述したようにワシントンに本部を置く民間シンクタンクだが,アメリカの政財界の意向を受けて,日本をコントロールする “任務” を帯びた知日派「ジャパンハンドラー」の巣窟といわれているのだ。
 補注)すでに氏名の出ていたエドウィン・ライシャワーも広い意味では,戦前からもともとジャパンハンドラーズに似た存在であったといえなくはない。

 実際,このシンクタンクが,日本の政治家や官僚を「客員研究員」や「ゲスト」として大量に招き入れ, “親米保守”  “米国の利害代弁者” にとりこんでいるのは有名な話。

 さらに,CSISの日本政府への影響力を象徴するのが,同研究所が定期的に発表するリチャード・リー・アーミテージ米元国務副長官とジョセフ・ナイ元米国防次官補による「アーミテージ・ナイレポート」だ。同報告書には日本の安全保障政策や諜報政策などのプロトプランが含まれており,日本政府はその提言のことごとくを実現してきた。

 たとえば,2012年の第3次アーミテージ・ナイレポートでは,〈平時から戦争まで,米軍と自衛隊が全面協力するための法制化を行うべきだ〉 〈集団的自衛権の禁止は日米同盟の障害だ〉などとして,集団的自衛権の行使容認や自衛隊の活動を飛躍的に拡大させる安保法制策定が “指示” されていた。

 また 〈日米間の機密情報を保護するため,防衛省の法的能力を向上させるべき〉 〈日本の防衛技術の輸出が米国の防衛産業にとって脅威となる時代ではなくなった〉などとされている部分は,読んでのとおり,安倍政権下での特定秘密保護法の成立や武器輸出三原則の見直しにつながっている。

 第3次報告書では,ほかにも〈原子力発電の慎重な再開が正しく責任ある第一歩だ〉 〈女性の職場進出が増大すれば,日本のGDPはいちじるしく成長する〉などとあり,第2次安倍政権は原発再稼働政策や「女性活躍推進法」によってこうした “対日要求” を叶えてきた。

 そんなところから,CSISとアーミテージ・ナイリポートが日本の政策をすべて決めているなどという陰謀論めいた見方さえ,ささやかれるようになった。(引用終わり)

 「因果」ということばを使ってみたが,安倍晋三のいじめを受けている平成天皇でさえ,とくに対米従属関係といった日本の政治における基本問題には,元来いっさい口出しすることなどできていない。この点は,父親である昭和天皇の生き様を息子の立場から観てきた平成天皇の考え方としては,絶対に自身が守るべき「天皇家にとっては越えてはいけない一線」として認識されている。

 平成天皇が日本国憲法を守ると数回にもわたり告白してきた事情の裏には,父の代から骨身に染みて自覚させられてきた「戦争責任問題」へのこだわりがある。しかし,安倍晋三が米日安全保障関連法案を成立・施行(2016年3月下旬)させてからは,第9条の裏張りがあってこそ,その存在意義がみいだせていた第1条から第8条にも,なんらかに顕著な異常現象が発生している

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※  
  創られた明治,創られれる明治   明治150年に学んではいけないこと表紙    創られた天皇制表紙画像
            

        

            

        


【江戸時代までの天皇家とは天地の差があるのは,岩倉具視・伊藤博文などによる明治維新=「天皇神格化」のおかげ】

 【2020年からは2月23日も「国民の祝日」になる「天皇の誕生日」,この調子でこの種の祝日(天皇関連の)が増えていったら,2千6百年後における日本のカレンダーは〈祝日〉だらけ……(?)】

 【過去にもまだ祝日に利用されていない「過去の天皇は100名以上いる」から(実在したと思われる天皇にかぎっても),これらも天皇の分も「国民の祝日」化に利用したら,1年のうちは平日よりも祝日が多くなるかも……】

 ------------------------------

  【本稿(その1)】 へのリンクは,こちらへ( ↓ )
      ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1074037588.html

 ------------------------------


 ⑤「陛下ゆかりの色枠で…ダムカードを無料配布 在位三十周年記念」(『産経新聞』2019.2.22 17:40,「ライフ皇室」,https://www.sankei.com/life/news/190222/lif1902220048-n1.html
『産経ニュース』2019年2月23日天皇陛下在位30周年記念ダムカード

 天皇陛下の御在位三十周年を記念し,国土交通省は記念式典が行われる〔2月〕24日から陛下ゆかりの色枠を配したダムカードを製作,全国のダムで無料配布する。東北では岩手の胆沢(いさわ)ダム(奥州市)や福島の摺上川(すりかみがわ)ダム(福島市)など23のダムで配布する。

 ダムカードは名刺サイズのカラー刷りで,表に当該ダムの全景写真,裏にダムの情報を記載。無料だが,そのダムにいかないと手に入らない希少性から,ファンの間で人気が高い。国交省摺上川ダム管理所によると,全国で配布しているダムは民間を含め約600あるが,陛下の御在位記念カードを配布するのは169カ所という。

 記念カードに配された陛下ゆかりの色枠は, (1)  陛下が宮中祭祀で召される束帯装束を元にした黄,(2)  神事の際の御衣の白,(3)  宝物をイメージした黒,(4)  天皇,皇后両陛下のお召し列車の茶(小豆色)の4種類。

 東北6県は大川ダム(福島県会津若松市)と横川ダム(山形県小国町)が  (2) ,ほかの21ダムは  (4)  。いずれも午前9時から午後4時半まで配布する。希望者が多い場合には増刷して対応する予定だ。期間は5月31日まで。同管理所では「いまはまだ寒いけれど,暖かくなってからでいいので,ダムまで出かけて入手してほしい」と話している。(引用終わり)

 平成30年間の「天皇治世」を記念する便乗商法というものがある。新聞などの広告にあれこれ宣伝されているが,いずれにせよ「金儲け」のために “貴なる皇族・天皇家の存在” にかこつけて,いろいろと工夫したうえで営利目的のよりよい実現を狙っている。

 前段において記事から引用したのは,国家じたいの関係省庁のひとつである国土交通省が発行した,「天皇陛下の御在位三十周年を記念」を「祝して」「陛下ゆかりの色枠を配したダムカードを製作,全国のダムで無料配布する」という趣旨であった。こちらは金儲けとは無縁の,そのものとしては純粋な企画であった。

 だが,同じく国家関連による「三十周年記念」のための企画のなかには,造幣局が提供したこういう実例もあった。つぎの記述(※)が語る点を聞いてみたい。
   平成天皇在位30周年記念金貨画像

 (※)「【記念コインの話題】 高っ!!   販売価格13万8千円。天皇在位30年記念貨幣1万円金貨5万枚を発行。ざっと64億円のもうけですな!!」
 (『おやなみ通信』2018年8月7日,2018年11月5日,http://おなやみ.com/news/8734/)
 これは「独立行政法人造幣局」が提供した話題であった。「財務省は〔2018年11月〕7日,天皇在位30年記念貨幣の図柄を発表した。1万円金貨は,表に鳳凰とキリ,シラカバを,裏に菊の紋章をデザインした。5万枚発行する予定」であり,「11月1日から購入の申込を」「通信販売」で「受け付け」る。「販売価格は金貨単品で13万8千円」とのことであった。

  ※-1「金貨単体セット 13万8,000円(消費税・送料込)20,000個限定」

  ※-2「2点セット 14万円(消費税・送料込)30,000個限定」

 「1万円金貨は純金製で重さ20グラム,直径28ミリ。製造費用が1万円を超えるため,政府が額面を上回る価格で販売する『プレミアム型』の記念貨幣になる」。「500円の銅貨も500万枚発行し,図柄は表が,ご成婚の際にパレードで使用した儀装馬車とキリ,シラカバで,裏は菊の紋章。来〔2019〕年2月ごろから金融機関の窓口で現金と引きかえる」。

 以上の話題は「プレミアム(型)の記念硬貨発行」であり,つまり国家側が儲かる,実質は「13万8千円以下の金の価値」しかない「1万円の硬貨:金貨」を鋳造して販売するというのだから,たとえて比較するとしたら,福沢諭吉さんが肖像画に登場する「なんらかの特徴を備えた1万札」を「1万2千円で売る」のとはわけが違うことは,即座に理解できる。諭吉さんが生きていたらなんというかは,ここでは全然分かりえないことなので,ひとまずこの話題はおしまいにする。

 ⑥「新たな時代へ,人々と共に  皇太子さま,きょう59歳の誕生日 記者会見要旨」(『朝日新聞』2019年2月23日朝刊36面〔の全面を宛てた特別の記事〕)
 皇太子さまが59歳の誕生日を前に記者会見し,5月に即位を控えた現在の心境や,次代の象徴天皇としての決意を語った。天皇,皇后両陛下に対する思いや,ご家族についても言及した。これまでも折に触れ,理想とする皇室像のほか,警備のあり方や政治とのかかわりなどについて,踏みこんだ発言をしていた皇太子さま。過去の発言や歩みとともに,会見の内容を紹介する。
 ◆-1 即位前の心境や将来像

 昭和から平成の移り変わりを,皇居の吹上御所で迎えました。深い悲しみの中に,一つの時代が終わったという感慨が頭の中を駆け巡ったことを記憶しています。皇太子となって,その役割に対する自覚が,より根付いてきたように思います。

 国民の幸せを願い,国民と共にありたいと思っておられる陛下をお助けすべく,何ができるかを常に考えながら一つ一つの公務に取り組んでまいりました。国民の中に入り,国民に少しでも寄り添うことを目指し,行く先々では多くの方々のお話を聴き,皇室が何をすべきか的確に感じ取れるように,国民と接する機会を広く持つよう心掛けてまいりました。こうしたことは,今後も活動の大きな柱として大切にしたいと思います。

 国際親善と交流も皇室の重要な公務の一つだと思います。

 平成28〔2016〕年8月8日の天皇陛下のおことば以来,これから担う重責について,改めて思いを巡らせる機会も増えてきました。両陛下から,様々な機会に多くのお話を伺ったことも,大きな道標(しるべ)となるものであり,大変ありがたいと思っております。これからのことを思うと,とても厳粛な気持ちになりますが,引き続き自己研鑽(けんさん)に努めながら,過去の天皇のなさりようを心にとどめ,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しみながら,象徴としての務めを果たしたいと思います。

 長年携わってきた水問題を切り口に,豊かさや防災など,国民生活の安定と発展に考えを巡らせることもできると思います。取り組みで得られた知見も,防災・減災の重要性を考えていく上で大切にいかしていきたいと思います。

 男性皇族の割合減少や高齢化,女性皇族の結婚による皇籍離脱は将来の皇室の在り方とも関係する問題です。ただ,制度に関わる事項についてこの場での言及は控えたいと思います。
 補注)ここでは「制度に関わる事項についてこの場での言及は控えたい」といっているが,このことばは裏返しにして聞いておけば,その意味がよく伝わってくる。

 国民と心を共にし,苦楽を共にする皇室ということが基本であり,これは時代を超えて受け継がれているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と,日本国憲法の規定に思いを致し,国民と苦楽を共にしながら,国民の幸せを願い,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けることが大切との考えは今も変わっておりません。

 同時に,その時代時代で新しい風が吹くように,皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。過去から様々なことを学び,伝統を引き継ぐとともに,時代に応じた皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。

 ◆-2 温かい家庭・得難い経験,糧に

 a)『両陛下への思い』
 天皇陛下は長年にわたり,常に国民の幸せを願い,国民に寄り添い,苦楽を共にしながら象徴天皇としてのお務めを果たされ,そのあるべき姿について全身全霊をもって模索をしてこられました。皇后陛下は陛下のお気持ちを心から共有され,常に陛下を支えてこられました。陛下は皇后陛下を敬愛され,ご一緒に歩みを進めてこられました。両陛下のこれまでの歩みに思いを致す度に,両陛下に対して,深い感謝と敬意の念を覚えております。

 私自身,両陛下のお手許(もと)で温かい家庭において慈しみを受けながらお育ていただき,また音楽やスポーツの楽しみを教えていただいたり,留学といった得難い経験をさせていただいたりしたことが,大きな糧となっていることに深く感謝をしております。

 ご退位については,陛下が「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないか」と,ご案じになられていることにとても心を揺さぶられましたが,お考えに至られた背景については十分にお察し申し上げます。

 「オリンピック・パラリンピック,大変楽しみ」〔です〕

 b)『雅子さまについて』
 この1年も体調に気を付けながら,できる限りの務めを果たそうと,一生懸命に努力を積み重ねております。活動の幅が少しずつではありますが,着実に広がってきていることを,本人も私もうれしく思います。

 体調には波もありますので,引き続き焦ることなく,少しずつ活動の幅を広げていってほしいと願っております。今後は,立場が変わることで公務も多くなる中,一朝一夕に全てをこなせるようになるわけではないと思いますが,皆さまには引き続き温かく見守っていただければと思います。私もできる限り力になり,雅子を支えていきたいと思っております。

 海外での経験もありますし,グローバル化の時代にあって,本人だからできるような取り組みというのが今後出てくると思いますが,今具体的にはお答えできないです。何かいい取り組みに将来出会うことができれば大変うれしく思います。

 c)『愛子さまについて』
 この1年,英国イートン・カレッジでのサマースクールや秋の関西地方への修学旅行などを経て,一段と成長を遂げたように感じています。

 ◆-3 即位に関わる皇室行事の在り方について

 平成の前例を踏まえ,政府において十分な検討を行った上で決定したものと理解をしております。私も折々に説明を受けてきており,この場で何か述べることは控えたいと思います。

 d)『平成という時代は』
 平成の始まりというときに,ベルリンの壁の崩壊を思い起こします。壁が崩壊し,東西のベルリン市民が壁を登っている姿に,新たな時代の到来を感じました。

 また人々の生活様式や価値観が多様化した時代とも言えると思います。今後は多様性をおのおのが寛容の精神をもって受け入れ,お互いを高め合い,発展させていくことが大切になっていくものと思います。

 ◆-4 昨〔2018〕年6月,視覚障害者女子マラソンの道下美里選手の伴走をした感想

 どのように声を掛けてリードしたらいいか,事前に書物を読んだり動画を見たりして研究しました。最初は少し緊張しましたが,いい経験をしたと思います。三重県で(障害者スポーツの)ボッチャを見て,ボールを投げてみました。来年のオリンピック・パラリンピックを大変楽しみにしております。(引用終わり)

 新天皇の地位に就く予定である徳仁皇太子は,このように次代の「国とこの民を統合する象徴」となる人間として,とくに父親の軌跡を主に想起しながら自分が天皇になってからどのように「生きていくのか」について率直に述べている。

 とはいえ,1人の人間が皇族に生まれたがゆえにこのようなことを考え,しかもその決意を自身の抱負(見解:努力目標に当たるもの)として国民たちに向けて語らねばならないといった「日本政治における構図の一部分」は,必らずしも人びとの胸中に(簡単に百%で)ストンと入りこめるものとはいえまい。
 
 したがって,そのあたりの問題「人間としての天皇」が「国とこの民を統合する象徴」になるということは,日本国憲法のなかに「平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界」として規定されている,つぎの条項に抵触するとみなしても,けっして不自然な解釈でないどころか,しごく当たりまえの解釈である。
 第十四条 すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。

 2 華族その他の貴族の制度は,これを認めない。
 ⑦「〈新天皇と新皇后 即位を前に:上)ともに悩んだプロポーズ 『ずっとお守りできるか』心動かす」(『朝日新聞』2019年2月23日朝刊39面「社会」)

 「実はとても迷いました」 1992年12月初め,皇太子さまはプロポーズをしていた雅子さまにそう切り出し,「ずっとお守りすることが,本当に自分にはできるのか。そんな力があるのかどうか,悩んだからです」と続けた。その年の10月3日,皇太子さまは宮内庁新浜鴨(かも)場(千葉県市川市)で「私と結婚していただけますか」とプロポーズしていた。

 だが,雅子さまが受諾の意思を伝えたのは2カ月が過ぎた12月12日。思い悩んでいた雅子さまの心を動かしたのは,この間,ともに悩んでいたと率直に明かした皇太子さまの誠実さだった。結婚が正式決定した後,雅子さまから直接,その時のやりとりを明かされた友人女性が取材に明かした。皇太子さまのプロポーズの言葉としては「全力でお守りします」がしられるが,雅子さまはこのエピソードを,ほおを染めながらうれしそうに話したという。

 お二人の最初の出会いは1986年10月,東宮御所でのスペイン王女歓迎茶会だった。その後も友人らが数回にわたり引きあわせたが,雅子さまの祖父が水俣病を起こしたチッソ社長だったことが問題視され,いったんはお妃(きさき)候補から外れた。「小和田さんではだめでしょうか」。皇太子さまはあきらめず,なんど度も周囲に伝えた。友人は,英オックスフォード大学での留学(1983~1985年)経験が関係しているのでは,とみる。

 同じ時期に同大に留学した大阪大学微生物病研究所の松浦善治所長(63歳)によると,皇太子さまは自由に街を歩き,パブでビールを飲むなど「のびのびと楽しい時間を過ごされた」。大学で男子学生と活発に議論する女子学生に感心した様子で,のちに会見で理想のお妃像を問われたさいには「自分自身の意見をしっかりもっていること」と語った。「殿下は皇室にもグローバルな視点が必要と話していた。留学を通じ,自分の意見を発信できる人が妃にふさわしいと思い定めたようだ」と友人は話す。
 補注)皇太子も父と同じ体験を,それも時代を違えてヨーロッパに滞在しているときにしたといえる。日本国内ではそのように「のびのびと楽しい時間を過ごされた」と形容できる機会がほどんどありえない事実は,東宮御所といういわば〈御殿〉に暮らす彼にとってみれば,ある意味ではいかんとしがたい「日本の皇族」を囲む生活環境の現実模様である。

 先日,テレビの映像に出ていた東宮御所の表門には,そのときは安倍晋三首相が訪問していたときだけに,警察官たち(皇宮警察の)が厳重に警備していた。彼らの存在(天皇家の人びと)は,日本の国民たちにとっていかなる〈政治的かつ日常的な〉意味を有しているのか,あらためて考えなおす機会があっていいはずである。

 〔記事に戻る ↓  〕
 ※ 不調のときも寄り添って ※

 1993年6月に結婚したが,雅子さまの歩みは順風満帆ではなかった。「皇位継承権のある男子を」との重圧を背負い,外交官だったキャリアが生かせると期待した外国訪問の機会は限られ,皇室行事では存在を否定されるような体験もあったという。徐々に体調を崩し,2003年に適応障害の療養に入った。

 この病では,つらい体験をした場所にいけなくなることがある。皇室行事に出られず,公務から遠ざかった。主治医は気分転換を勧めたが,街に出たり,家族でスキーにいったりすると「公務をせずに遊んでいる」と批判を浴びた。

 皇太子さまは,雅子さまが批判記事に触れないよう新聞や雑誌を遠ざけた。2004年5月には記者会見で「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」と語った。体調を崩した背景への理解を求めたが,逆に,刺激の強い発言として批判されることもあった。

 それから15年。雅子さまの体調は上向き,活動の幅は広がりつつある。即位が近づき,お二人で今後の活動について話し合う機会も増えた。皇太子さまは誕生日を前にした〔2月〕21日の会見で「できる限り力になり,雅子を支えていきたいと思っております」と語るとともに,「引きつづき快復を温かく見守っていただければ」と国民に理解を求めた。

 昨〔2018〕年11月の園遊会。雅子さまは療養に入る直前の2003年秋以来,15年ぶりに全行程を歩いた。招待客1人ひとり人と話しこむあまり,前を歩く天皇,皇后両陛下との距離が空く場面もあったが,皇太子さまは急(せ)かすことなく,その様子を見守った。(引用終わり)

 なお,日本国憲法は,第7条「天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の(下の)国事に関する行為を行ふ。」(以下に引用・列記)という具合に「天皇個人」に関してのみ定めているが,この点については天皇家の一族たちにまで,いつの間にか不文律的にそれもとても大幅に拡大解釈されたかっこうで,その行為が「その国事に関する天皇の公務」である範囲内から,各皇族たち全員の「公務」や「私的行為」にまでわたるかっこうで,現実には非常な広範囲にまで既定事実としておこなわれてきた。
一 憲法改正,法律,政令及び条約を公布すること。

二 国会を召集すること。

三 衆議院を解散すること。

四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

六 大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を認証すること。

七 栄典を授与すること。

八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

九 外国の大使及び公使を接受すること。

十 儀式を行ふこと。
 これらの憲法第7条が規定(定義)する「天皇の公務としての行為」は,天皇に支障があってその任務に当たれないときは,皇太子がそれを代行できる規則は用意されている。

 しかしながら,皇族たちが広い範囲・領域にまで各種・各様に登場し,頻繁に活躍している諸行為(諸活動)の様相は,これを慣習的なものであるという以上に,より厳密な次元・水準において,しかも学術的とみなせる要領・体裁の次元に乗せて究明している学者の業績がないわけではないものの,学問的に定説となりうる解釈はまだ提供されていない。

 いずれにせよ,そうした皇族たち全員の憲法第7条との整合性を突きつめていくと,どのような論点が困難として生じてこざるをえないかまで,さらに厳密な議論をそれも第3者に対して納得のいく説明が必要かつ十分になされていない。

 ⑧ 最後に-昭和天皇と平成天皇と新天皇

 この記述の日付は,2019年2月24日のものであるが,実際に公表できたのは翌日の25日の午前中であった。この25日朝刊のトップ・ニュースは『朝日新聞』の場合,こう報道されていた。この記事の冒頭段落のみ引用する。関係する他の記事の掲載面も付記されている。
辺野古「反対」72%  玉城氏「工事中止を」
知事選の得票超す  投票率52.48%  沖縄県民投票


 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設計画をめぐり,名護市辺野古沿岸部の埋め立ての是非を問う県民投票が〔2月〕24日,投開票され,「反対」が72.15%の43万4273票だった。玉城デニー氏が昨〔2018〕年9月の知事選でえた過去最多の39万6632票を超えた。
    『朝日新聞』2019年2月25日朝刊辺野古埋め立て沖縄県民投票

 「埋め立て反対」の県民の強い民意が示され,移設工事を強行してきた安倍政権の対応が問われることになる。投票率は焦点だった50%を超え52.48%だった。(▼2面=明確な「NO」,▼4面=出口調査分析,▼10面=社説,▼28面=写真特集,▼31面=重い意思示した)
 以上の沖縄県民投票の件に関して安倍晋三政権はまえもって,菅 義偉官房長官につぎのように政府の立場を表明させていた。
 菅 義偉官房長官は〔2月〕14日の記者会見で,米軍普天間飛行場移設をめぐる沖縄県民投票の告示を受け,投票結果にかかわらず名護市辺野古移設を進める方針を表明した。「どういう結果でも移設を進めるか」との問いに「基本的にはそういう考えだ」と述べた。「問題の原点は普天間の危険除去と返還だ」とも強調した。

 県民投票に関しては「地方自治体がおこなうものであり,政府としてはコメントは差し控えたい」とした。西村康稔官房副長官は会見で「丁寧に説明しながら,理解を得て辺野古への移設を進めていきたい」と述べた。
 すなわち,政府はこの「沖縄県民投票」の結果は無視する態度を鮮明にしていた。もっとも,その結果が安倍首相の好みに合うものとして出てくれば,これは大いに利用させてもらうはずだったと思われたが,その結果は現政権にとってお気に召さないものとして出た。

 安倍晋三による平成天皇への嫌がらせには定評があるが,2013年4月28日のつぎの出来事は,天皇明仁の気持にとってみれば “最大の我慢” を強いられた場面を意味していた。

 「なぜ『天皇陛下万歳か-大いなる疑問と違和感-」(『テルヤ寛徳 衆議院議員沖縄2区 ウチナーの未来は,ウチナーンチュが決める』2013年5月1日,https://terukan.ti-da.net/e4715522.html)が,その付近に関する事情を説明している。
 さて,沖縄ではいまだに〔2013年〕4・28「主権回復の日」政府式典と4・28「屈辱の日」沖縄大会が対比して,興奮ぎみに語られている。1万人余の県民が「がってぃんならん」と怒りの拳を突き上げた沖縄大会と「天皇陛下万歳」を唱和した政府式典,どちらが歴史の真実に向きあった大会か,日を追うごとにはっきりした。

 4・28「主権回復の日」政府式典で「天皇陛下万歳」三唱があった。政府式典に仲井眞知事の代理として出席した高良倉吉副知事は,「式典の趣旨がぶち壊しになった」と不快感を示し,「なぜそうなるのか理解できない。アジアや沖縄への戦争責任に向きあえない,柔軟性を欠く日本社会を表わしている」と,沖縄県民が「天皇陛下万歳」に強い違和感を抱いていることを代弁するかの如き発言をしている。

 沖縄国際大学の石原昌家教授も「4・28は沖縄戦の結果を反映したもの。式典での『天皇陛下万歳』に,体験者や遺族は脳天を殴られた気持だったのではないか」「為政者は既成事実の積み重ねのパワーを熟知している。安倍晋三首相はみずから天皇・皇后の前で万歳し,戦争国家に向けて最初のくいを打ちこんだ」と語っている(2013年5月1日付『沖縄タイムス』)。
 平成天皇の正直な気持は,父の昭和天皇が大東亜・太平洋戦争に関して「大元帥の立場」から背負っていた「戦責問題」に対して,できるかぎりにおいて彼なりに誠実に答えてきた基本姿勢じたいは,平成の期間内に11回も沖縄県を訪問してきた記録にみてとれる。天皇明仁はその種の問題を深刻の受けとめたうえで「天皇としてのその行為」を,沖縄県に向けて誠意をもって反復してきた。

 沖縄県が敗戦後「在日米軍基地の島」になってしまったのは,昭和政治史においていったい誰の責任であったかを思えば,天皇明仁がそのように頻繁に「ほぼ3年に1度」の間隔で沖縄県訪問を果たしてきた事実の有する意味が,いったいどこにあったかはなんの困難もなくただちに理解できる。

 ところが,いまの安倍晋三という首相は,そうしたもうすぐ退位する予定である平成天皇の気持など平然と踏みにじる「権力者としての采配」を振るってきた。昭和天皇は生存中,一度も沖縄県を訪問できなかった。太平洋戦争中の末期,いわゆる〈捨て石作戦〉の犠牲に供された「沖縄戦の顛末」に対して,彼がどのように関与して(指揮をして)きたかを想起するまでもない。息子の明仁もその沖縄戦史についてはよくしっている。

 ともかく,敗戦後史における昭和天皇によるいわば「沖縄処分」の問題を知悉していたはずの平成天皇が,事後,必死になって沖縄県に「寄り添う」ためにであれば,あらゆる方法を使ってでも自分の意志を行動をもって具現させようとしてきた。それは11回にも及ぶ沖縄県訪問の正直に表現されていた。

 ところが,いまからは6年前であったが,2013年4月28日の「主権回復の日」政府式典が,沖縄県・民にとってみれば「4・28『屈辱の日』」に逆回転させられたのが,現状のごとき「在日米軍基地の島」のままをもって執りおこなわれた “政府式典で,安倍晋三側からゲリラ的に発せられた「天皇陛下万歳」三唱” であった。

2013年4月28日沖縄返還記念式典万歳三唱
この構図では左側端に安倍晋三,右側端に菅 義偉。
出所)http://bunshun.jp/articles/-/5922

 今日,『日本経済新聞』2019年2月25日朝刊35面「社会」の冒頭記事「沖縄に関心もって 辺野古移設で県民投票 『基地,国全体で考えて』3択投票,反対が多数」という記事は,つぎの3点を見出し(小見出し)に立てていた。

  ※-1「〈反対〉 基地,国全体で考えて」

  ※-2「〈賛成〉 やむをえない選択肢」       

  ※-3「〈どちらでもない〉 さまざまな立場の人いる」

 平成天皇は,現実的にはきわめて強度に政治的な実在であり,現実には政治に対して大きなもろもろの影響力を発揮している「象徴天皇」である。日本の天皇を君主天皇に変えろという意見も強くがるが,あながち的外れとはいえず,現実に即した部分もある。

 だが,実際の政治にかかわる天皇の行為・行動は,極力憲法の規定に則した言動しかおこなわないように努力しているはずである。彼は,内政・外交の問題について「政治的な発言」を具体的かつ直接的にすることなど,絶対にしない。

 しかし,それでいてこそまた,高度に「政治的な関与」をするほかない制度的な存在でもある特徴が,日本の天皇・天皇制にもともとしこまれていた《根本の矛盾》であった。2013年4月28日の「主権回復の日」政府式典ではおそらく,安倍晋三が事前にしくんだと受けとるほかない,それも小賢しい策謀が,あの「天皇陛下万歳」三唱” であった。

 平成天皇はその三唱はなされないことを前提にその式典に出席していたのだから,内心においては「怒り心頭に発する思い」を抱いていたものの,この感情をどこにも表明できていなかった。そういった種類の苦衷の立場に置かれていた。天皇明仁はきっと,一般的な国民たちと同じに『安倍晋三のことを大嫌い』ではないかと拝察する。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

        


 【江戸時代までの天皇家とは天地の差があるのは,岩倉具視・伊藤博文などによる明治維新=「天皇神格化」のおかげ】

 【2020年からは2月23日も「国民の祝日」になる「天皇の誕生日」,この調子でこの種の祝日(天皇関連の)が増えていったら,2千6百年後における日本のカレンダーは〈祝日〉だらけ……(?)】

 【過去にもまだ祝日に利用されていない「過去の天皇は100名以上いる」から(実在したと思われる天皇にかぎっても),これらも天皇の分も「国民の祝日」化に利用したら,1年のうちは平日よりも祝日が多くなるかも……】


 ①「『平成の多様性,寛容の精神で発展を」 皇太子さま,きょう59歳」(『朝日新聞』『朝日新聞』2019年2月23日朝刊1面)

 昨日〔2019年2月22日〕夕刻に歯医者にいき,待合室で診療の順番待ちをしている間であったが,待合室にあるテレビを視聴していると,安倍晋三首相が皇太子に対して「新年号」に関することがらを説明するために東宮御所に直接出向いていた,というニュースが放送されていた。

 この事実は『朝日新聞』の場合,「首相と皇太子さま,異例の一対一で面会」(4面「総合」の左下に配置された記事で「首相動静」22日の記事の真上に置かれてもいた)という〈横組みの記事〉で報道されていた。この異例という語感は「現天皇抜きでいきなり皇太子のところへいった」安倍晋三の行動を指してもいたはずである。
 安倍晋三首相は〔2月〕22日,東宮御所で皇太子さまと面会し,約30分間「ご説明」をした。首相は天皇陛下に一対一で面会する「内奏」を不定期におこなっているが,皇太子さまと一対一で会うのはきわめて異例。

 政府は内容を明らかにしていないが,5月1日の新天皇即位を控え,国内外の情勢について報告したとみられる。政府は平成に代わる新元号について,4月1日の閣議決定直前,現在の天皇陛下とともに皇太子さまに伝達する方向で検討しているが,憲法との整合性を問う声が出ている。
 この記事に報道されている内容じたいからして,あれこれと問題を発散させている中身であるが,ここではいちいち議論はせず,この朝刊の4面に掲載されていたこの記事を,ひとまずさきに引用しておいた。安倍晋三が首相として,このような “異例の行動” を採ったという点が,今後においてなんらかの問題の展開につながる可能性もなきにしにあらずである。

 それもとくに「宮内庁の関係性」をすっ飛ばした(蹴飛ばした)みたいな「安倍によるこの行動」は,いわせる者にいわせれば,大いに問題含みでありうる。というしだいで,さらに天皇問題研究者の見解を訊きたい出来事でもある。つまり,今回は安倍個人による「首相としての個人プレー」を敢行したという解釈もでき,対する宮内庁から一言も発言がないままであれば,結局,この宮内庁も安倍に「忖度する」官庁組織のひとつになったのかという疑問が浮かぶ。
 補注)参考になる記事としてつぎを挙げておく。「秋篠宮さま苦言…山本宮内庁長官は官邸子飼いのヒラメ官僚」『日刊ゲンダイ』2018/12/01 15:00,更新日:2018/12/01 15:00,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/242869

 さて,以下からの記述が,① の記事の引用と関連する議論となる。

『朝日新聞』2019年2月23日朝刊1面徳仁皇太子 皇太子さまは〔2月〕23日,59歳の誕生日を迎えた。この日に報道されることを前提に21日,東京・元赤坂の東宮御所で記者会見に臨んだ。平成という時代を「人びとの生活様式や価値観が多様化した時代」と回顧し,「この多様性を寛容の精神で受け入れ,おたがいを高め合い,さらにに発展させていくことが大切」と述べた。(▼36面=皇太子さまの歩み,39面=連載「新天皇と新皇后」)
 付記)画像は,誕生日を前に記者会見する皇太子さま(2月21日),東京・元赤坂の東宮御所,代表撮影。

 皇太子としては最後の会見。5月1日に即位を控え「これからのことを思うと,とても厳粛な気持」と心境を明かした。「国民につねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しみながら象徴としての務めを果たしてまいりたい」と新天皇になる決意も語った。
 補注)この発言の意味はより本格的に掘り下げて考えてみる価値がある。本当にこのとおりに「国とこの民を統合する象徴である天皇」が,国民に対して「つねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しみながら象徴としての務め」る仕事・任務とは,いったいどのようなものたりうるか,真剣に考えてみるべきだからである。

 政治家=首相としての安倍晋三は,前段のごとき課題を,それも本当にまじめに考えてきた政治家であったか? 安倍にかぎっていえば「完膚なきまでに〈否〉」であった。もっとも,天皇のほうで,それではなにが・どこまでできるかと問われたとき,ただちにこれに適切に答えられる人はいない。

 天皇をとくに象徴の問題として研究する学究(政治学者)もいるが,小田原評定みたいな議論は意欲的に展開できても,天皇の問題として厳正に学問的な討究をおこなったり,真っ向からの批判をくわえられないでいる。

 〔記事に戻る→〕 天皇陛下がビデオメッセージで退位の意向をにじませた2016年8月以来,自身が担う重責に思いをめぐらせる機会が増えたという。天皇,皇后両陛下からさまざまな機会に話を聞いていることが「大きな道標(しるべ)となる」とし,過去の天皇の歩みと,天皇は象徴であるとの憲法の規定に思いをいたし「国民と苦楽をともにしながら国民の幸せを願い,象徴とはどうあるべきか,望ましいあり方を求め続けることが大切」と述べた。
 補注)この段落は「国民⇒天皇」の方向性でもって,天皇のあり方を考えていきたいとする皇太子の希望である。「国民と苦楽をともに」というとき,なにを・どのくらい・どこまで「していくのか・やっていけるのか」といったふうな問われ方をさらに具体的されたら,天皇や皇太子であっても返答に詰まってしまい,困るはずである。平成の天皇が実際におこなってきて残された行跡は,端的にいってのければ「父・天皇の戦争責任」として残置されていた「大きな懺悔」問題に関連する「ひとつの行動録」であった。

 しかし,日本のマスコミにせよ多くの天皇研究者にせよ,「そこまで突っこんだ分析や解明」までは,ほとんど手を着けたがらない。そのあたりは,同じ日本人(民族?)であれば,いいかえると “阿吽の呼吸” でいけば,きっと,いわないくとも分かってもらえはずだと信じこんでいる。

 つまり,日本国内における「過去の歴史問題」に対して向けられるこの種の「解釈の仕方」は,どこまでの内政向けのものでしかありえず,外交面にかかわるより大きな「戦責問題」には届いていないし,もちろんまったく通用しない手法であった。前後に引用している皇太子誕生日関連の記事は,そうした問題意識とも絡めて読んでおく必要があった。

 〔記事に戻る→〕 一方,「その時代時代で新しい風が吹くように」「時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたい」とも語り,長年の水問題の研究でえた知見も,防災・減災を考えるさいに活かしたいと意欲をみせた。皇太子として活動するにあたり,皇室がなすべきことを的確に感じとれるよう,広く国民と接するようにしてきたといい,「今後も活動の大きな柱として大切にしていきたい」と語った。
 補注)この段落は「時代が(⇒)天皇へ」という “歴史の脈絡関係” に沿って考えているらしい皇太子の意見である。しかし,この意見をあえて敷衍・拡延させていくとなれば必然的に,「天皇から(⇒)時代へ」という意識的な政治性が,逆には「歴史からの操作」として,過去においてどのような問題を惹起させてきたかという「歴史の事実」に関する議論を不可避にする。

 はたして,「国とこの民を統合する象徴である天皇」がこの概念の枠内に,いつまでもうまく収まりうる存在として留まっていられるかという点を,具体的に説明できている政治家も研究者もいなかった。つまり,理論的に厳密な問題意識を用意するまでもなく,そこにはきわめて曖昧かつ茫漠とした問題領域が潜在している。

 〔記事に戻る→〕 療養中の雅子さまについては「快復の途上」とし,新皇后として公務が増えても「一朝一夕にすべてをこなせるようになるわけではない」と述べつつ,海外での経験をいかした国際的な活動への期待もにじませた。
 補注)この「回復の途上」という表現が興味深い。皇太子の妻である雅子は,だいぶ以前から(結婚したのは1993年6月),この「途上」ということばを当てて表現された「〈精神的な疾患〉と思われる症状に関する治療」が必要だといわれつづけてきたが,いまもなお,まったく同じ状態にでもあるかのように,それも夫:皇太子の口からじかに指摘されていた。

 最近,テレビのニュースに登場する雅子の姿は,その様子を観るかぎりでは “心身ともにきわめて健康的” に映っているが,そうではなくて「まだ病的な因子」を完全に退治(根治)できていない,ということになるのか。正直な感想をいえば,どう観ても不可解だという印象は避けえない。

 皇室に入った雅子は十数年間もかけても,「お世継ぎ問題(男子を誕生させねばならないという課題)に応えることができなかった。この事情を主軸にしつつ,実際には「皇居や東宮御所」のなかをのぞけない庶民の立場からは,いろいろとミーハー的な観察をするほかなく,これがまた「あちら」側のほうへ反響する関係性が生まれていた。

 最近,こういう記事が最近書かれていた。「皇太子さまが再び立ち上がる日 雅子さま人格否定会見から15年」(『@nifty ニュース』2019年01月24日 16時00分 女性自身,https://news.nifty.com/article/domestic/society/12268-172846/)から後半部分を引用する。
 雅子さまが適応障害と診断されて長期ご療養に入られたのは,2003年12月のこと。その半年後,皇太子さまが行動を起こされたことがある。雅子さまのお出ましが完全に途絶え,国民から心配の声が上がるなか,翌〔2004〕年5月の会見でこのように発言されたのだ。「雅子のキャリアや,そのことにもとづいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」。

  “お世継ぎ” となる男子を産めなかったのに,海外訪問ばかりを望み,公務を休み続けている。そうしたバッシングに心を痛めていた雅子さまを守るためになさった “人格否定発言” だった。しかし,このご発言は国民に衝撃を与えたばかりか,両陛下も困惑を示されることになった。秋篠宮さまは「せめて陛下と内容について話をして,そのうえでの話であるべきではなかったか」と皇太子さまに苦言を呈された。

 それから皇太子さまは論争を呼ぶような発言は控えられるようになり,雅子さまのご体調は「東宮職医師団」が毎年1回,文書で発表するだけになった。

 「宮内庁はこの15年間,体調には波がおありだと繰り返し発表しましたが,もう少し具体的な説明があってもよかったでしょう。雅子さまには,ご自身が国民の前でご症状について語られるには,少なからず恐怖があったはずです。一度でいいので,皇太子さまが国民の前でその説明をなさってもいいと思います」(香山リカさん)。

 2月23日に59歳の誕生日を迎えられる皇太子さまは,例年のように会見に臨まれる。お代替わり前の会見は,この1回きりだ。 “最後のチャンス” に,皇太子さまが再び立ち上がるのではと語るのは皇室ジャーナリスト。

 「現在は毎月,天皇陛下,秋篠宮さまとの “三者会談” が開かれています。お代替わりに向けた話しあいのなかで,皇太子さまは雅子さまのご体調についてもしっかり説明なさっていると思われます。今回は15年前とは異なり,お二方からの後押しもあるでしょうから,きっと雅子さまの不安をとり除く結果になるはずです」。
 安倍晋三政権のなかでは,女性差別「発言」が隠然と平然とを問わず放ちつづけられてきた。しかもこの現象は,男性議員と女性議員とを問わず頻発するかたちで発生してきた。だが,まずこの種の現在的な問題と,つぎに「男系天皇制」といった “明治以来において旧・皇室典範(と明治憲法)” をもって確定された「〈女性差別〉のための政治社会的価値観」とが,相たずさえたかっこうで,21世紀における現在に日本においても連綿と継承されている。

 ちなみに,昨年(2018年)12月に話題のニュースとなったのが,「世界における男女平等ランキング2018」で日本は110位,G7中ダントツ最下位」という事実であった。この事実が「天皇・天皇制」とはまったく “関係ありません” というわけにはいかまい。
 日本の評価は,項目ごとに優劣がはっきりしている。読み書き能力,初等教育,中等教育(中学校・高校),出生率の分野では,男女間に不平等はみられないという評価で,昨〔2017〕年同様世界1位のランク。

 一方,労働所得,政治家・経営管理職,教授・専門職,高等教育(大学・大学院),国会議員数では,男女間に差が大きいとの評価で世界ランクがいずれも100位以下。そのなかでも,もっとも低いのが国会議員数で世界130位(昨年は129位)。その他の項目でも50位を超えるランクは,男女賃金格差のみ。
 註記)武田雄治「世界『男女平等ランキング2018』 日本は110位でG7ダントツ最下位」『BLOGOS』2018年12月19日 13:47,https://blogos.com/article/346250/

 天皇・天皇制の問題は王族・貴族制度の残っている諸国に固有の政治問題となるが,こうしたランキングのなかで比較し,順位づける対象とはしにくい。だが,いずれせよ,以上のごとき「男女ランキング」をさらに引き下げる要因となって,「日本の天皇・天皇制」が効いていることは確かである。
 〔記事に戻る→〕 秋篠宮さまが公費支出に疑問を呈した「大嘗祭(だいじょうさい)」については,「前例を踏まえ,政府で十分な検討をおこなったうえで決定したものと理解をしている」と述べた。(引用終わり)

 この最後に出てきた「秋篠宮」「が公費支出に疑問を呈した」「大嘗祭」の問題は,実は安倍晋三政権側からは完全に無視された “皇室側の希望” に終わっていた。この日本という国家における「民主主義の状態」の真価が問われる機会は,そうした体裁をとりながら皇族側からも「問題として提起されていた」ことになる。

 秋篠宮の発言はもちろん「兄と父の立場」をまとめて代弁していたから,いうなれば皇族側の基本的な関心事であり,とりわけ彼らにとって非常に大事な利害状況を改善させるためのものであった。

 ②「〈真相深層〉韓国,収め所なき『反日』 知日派議長,天皇陛下に謝罪要求」(『日本経済新聞』2019年2月日朝刊2面「総合1」)

『日本経済新聞』2019年2月21 日朝刊文喜相 日韓関係が泥沼に陥っている。韓国国会の文 喜相(ムン・ヒサン)議長が従軍慰安婦問題で天皇陛下の謝罪を要求し,撤回を求める日本に「盗っ人たけだけしい」とも反発した。なぜここまでこじれるのか。背景には韓国の日本軽視が潜み,関係修復の意欲も乏しい。

 「なぜあんなバカげたことをいったのか。日本をまったくしらない人ではないのに……」。韓国のある知日派知識人は文議長の発言にあきれる。文議長は米ブルームバーグとのインタビューで天皇陛下を「戦犯の主犯の息子」と表現。「そんな方が(元慰安婦の)おばあさんの手を握り『本当に済まなかった』と一言あれば(問題は)解決する」と語った。

 2004年から4年間,韓日議員連盟の韓国側会長を務めた文議長。2017年に革新系の文 在寅(ムン・ジェイン)政権が発足すると,特使として日本を訪問した。文政権では代表的な日本とのパイプ役の1人だ。

 元徴用工らへの損害賠償判決,自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射,慰安婦合意にもとづき設立した財団の解散。昨〔2018〕年来,日韓関係は悪化の一途だ。ここまで問題がこじれるのは,北朝鮮との南北融和を最優先する文 在寅政権にとって,日本の存在感が急速に低下していることがある。

 1)「私たちが主役」
 「私たちが朝鮮半島問題の主役になった」。文 在寅氏は〔2019〕1月の新年記者会見で胸を張った。北朝鮮の金 正恩(キム・ジョンウン)委員長を外交の舞台に引っぱりだし,米国との非核化交渉のテーブルに座らせたのは韓国だとの強い自負がある。

 「南北と米国が休戦協定や非核化を話しあっており,日本の役割はなくならざるをえない」。『朝鮮日報』によると,文氏の外交ブレーンである文 正仁(ムン・ジョンイン)大統領統一外交安保特別補佐官は2月9日,東京でのシンポジウムで語った。「ジャパン・パッシング(日本外し)ではない」と否定したが,現政権の対日観を象徴する。

 経済面でも日本に部品・素材を依存する構造は変わらないものの,輸出先としての日本は2000年2位から2018年には5位に低下。代わって中国の存在感が高まっている。文政権が日本に意図的にケンカを吹っかけているとは思えない。ただ日本への関心が下がっているために関係悪化を食い止めようとせず,収めどころを考えない対日批判になっている。

 2013年までの保守系の李 明博(イ・ミョンバク)政権で駐日韓国大使を務めた申 珏秀(シン・ガクス)氏は「かつては関係が悪化しても水面下では改善に動いたが,いまはその努力がみられない。それが怖い」と語る。大統領府には日本通がほとんどいない。数少ない知日派だった金 顕哲(キム・ヒョンチョル)経済補佐官が1月,経済政策をめぐる失言が問題視されて辞表を提出。文氏はかばうこともなくあっさり受理した。
 李明博と朴槿恵画像 申 珏秀画像
 出所:左側)朴 槿恵と李 明博,https://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150409/frn1504091550002-n1.htm
 出所:右側)申 珏秀,http://jciadmin.joins.com/gb/article.do?method=detail&art_id=137102
 外務省で花形だった「ジャパンスクール」の退潮もささやかれる。『中央日報』によると,対日外交を担う東北アジア局から中国を切り出して「局」に格上げする一方,日本をインド,オーストラリアと統合する組織改編の検討が進む。苦労の割りに処遇されないと,在日大使館は不人気職場だ。

『朝日新聞』2019年2月23日朝刊2面3・1解説 2)「節目」目白押し
 日本政府は島根県が〔1月〕22日に松江市で開く「竹島の日」記念式典に内閣府政務官を派遣する。式典出席は7年連続で,韓国は毎回抗議している。今〔2019〕年は「反日」の世論が高まりやすい節目が相次ぐ。3月1日は日本統治下で起きた最大の抗日独立運動「三・一運動」から100年となる。韓国政府は大規模な行事を計画中で,北朝鮮にも参加を呼びかける。

 続く4月には韓国が日本統治時代に中国につくった「大韓民国臨時政府」の樹立100年も控える。韓国の外交筋は「今年は対日外交で安易な妥協は許されない」と語る。日本との関係改善を「口にしようものなら『積弊(積み重なった弊害)清算』の対象になりかねない。ものいえば唇寒しだ」。ある政府関係者は肩をすくめる。(引用終わり)

 この『日本経済新聞』の解説記事は,日本側にいるはずの韓国通(?)の国会議員(主に自民党)の存在に明確には触れていない。日本のこちらの政治家たちがどのような姿勢で対応しようとするか,以上のごとき韓国側の動きをどうとらえているのか,ほとんど分からない。韓国側の動きが以上のように急展開をみせているのに,日本側がただ「指をくわえて」ただ傍観者的に放置しておくわけにはいくまい。
  
 ③「韓日外務大臣『真実』巡り論争,文 喜相議長の『天皇謝罪発言』波紋」(『統一日報』2019年02月20日)

 ※ 意図的に問題を引き起こし,揉め事を誘発か ※

 韓日関係が悪化の一途をたどるなか,文 喜相国会議長の「天皇謝罪発言」が韓日政府間の距離をさらに広げてしまった。発言の主は,過去に韓日議員連盟の韓国側会長まで務めている,日本に対して一定の理解がある人物としてしられてきた政治家の発言ということもあり,波紋は広がりをみせ,事態は長期化の様相を呈している。

 韓日の外交トップが〔2月〕15日,ドイツ・ミュンヘンで会談した。文議長の発言も議題に上った。しかし,席を同じくしていたにもかかわらず,外務当局の発表は両国でまったく異なるものだった。日本の外務省は会談直後,河野太郎外務大臣が文議長の発言に対する日本の立場を伝えたと明らかにした。

 しかし,韓国外交部は「『日本政府として謝罪と撤回を求めた』という日本のメディア報道について,会談では同件に対する日本側の言及はなかった」と反駁した。康 京和長官も同じく,河野外務大臣による抗議の有無を問う韓国記者に対し「なかった」と断言した。

 まるでピンポンゲームかのごとく,日本側は再び反論した。河野外務大臣は17日,「(康長官に)大変驚き,残念に思うと伝え,韓国外交部にはしっかり対応するよう申し入れた」と語った。つづいて河野大臣は「韓国側はよく聞いてくれていたし,しっかりとメッセージは伝わっている。『しらない』ということにはならない」と述べた。

 韓日の外交トップによるミュンヘン会談は,非公開で約50分間にわたりおこなわれた。当初予定していた30分を大幅に上回った。韓国最高裁判所の徴用工賠償問題,韓国の駆逐艦と日本の哨戒機との攻防など,最近火種が大きくなっている韓日の諸問題を考慮すると,50分でも短いだろう。それにくわえ「天皇タブー」を抱える日本の実情を無視した文議長の発言は火に油を注ぐものにほかならない。
 補注)日本国側には「天皇タブー」が控えているからといって,外交関係上この問題にはいっさい触れないほうがいいという論法は一理ある。だが,日韓関係の間柄においては,この天皇・天皇制問題が禁忌視されつづけていたら,永遠に解決できない「なにか,プラス・アルファー以上」の論点が両国間には残っていくほかない,と考えるほうにも一理ある。注意したいのは,日本国のタブーが他国でもタブーになあるべき絶対的な事由はないことである。

 両国の外交当局による「真実ゲーム」の様相は,現在の韓日政府間の関係をそのまま映し出している。問題をかかげ,たがいの立場の違いを確認し,それぞれいいたいことだけを説明するとの見方だ。相手がなにをいおうとはなから考慮の余地はなく,きわめて形式的な会談といえる。
 補注)アベノポリティックスにおける最大の特徴は,「相手のいいぶんは完全に無視したまま」「いいたいことだけを説明する」政治技法(?)にみいだせる。日本の国会のなかでいままで安倍晋三という政治家が浸透させてきた「野党に対する不躾・不誠実な答弁の方法」が,こんどは外交関係面で伸してきたと受けとめるほかない。他国の政治内情への口出しができないこちら側の事情にも目線を向けた議論とする余地もある。

 〔2月〕8日,ブルームバーグ通信とのインタビューで,文議長が天皇に対し慰安婦問題に関する謝罪を求めたことを訝しむ声は韓国国内でも多い。「議長はいうべきことをいった」と評価するメディアもある。しかし,2012年に当時の李 明博大統領が言及した「天皇謝罪発言」よりも,文議長の発言をより深刻に受けとめる見方もある。

 文議長は韓日議員連盟会長などを務め,日本の議員とも交流のある政治家だ。ある程度は日本の事情を理解しているという点を考慮すると,意図的に天皇問題をもち出し,もめごとを誘発したのではないかとの疑いがもたれている。

 一方,文議長は騒動に対し「私が謝罪する案件ではない。10年前から変わらない私の持論だ。(戦犯の息子という表現については)戦争当時,日本国王の息子だったという意味であり,指導者として誠意ある謝罪を強調するという趣旨で出た表現」と述べた。(引用終わり)

 ④「〈いちからわかる!〉朝鮮半島で起きた3・1独立運動って?」(『朝日新聞』2019年2月23日朝刊2面)
  
 ★ 日本統治下の100年前,学生の「独立宣言」から全土に拡大 ★

 アウルさん  島根県などが〔2月忌避22日,「竹島の日」記念式典を開いたんだね。

  A  2006年から毎年開いているけど,今年は韓国が特に反発している。

 ア  どうして?

  A  元徴用工らへの損害賠償問題などで日韓関係が悪化しているからだ。なにより今年は「3・1独立運動」から100年に当たる。それが大きいよ。

 ア  なぜ独立なの?

  A  大陸への進出を考えていた日本は1910年に大韓帝国を併合した。当時,朝鮮の人たちは言論や出版,集会の自由などの権利をうばわれていたんだ。

 ア  なにが起きたの?

  A  1919年3月1日,いまのソウル中心部にある公園で,集まっていた群衆のなかから1人の学生が「独立宣言」を読みあげはじめ,呼応して人びとが「独立万歳」をさけんだ。その後,約2カ月間にわたって朝鮮半島全土で抗議活動が起き,日本側の取りしまりも激しかった。朝鮮側の記録によると,約7500人の犠牲者が出たとされる。

 ア  韓国では3月1日は重要な日なんだね。

  A  そもそも元徴用工や元慰安婦の問題は,日本の統治がなければ起きなかったこと。当時を韓国では「日帝時代」と呼んで学校でしっかり教える。日本にとっては過去のことかもしれないけど,韓国の人たちはいまに続くことととらえる傾向が強い。韓国政府は全国で330余りの行事を計画し,文 在寅(ムン・ジェイン)大統領も3月1日午前に演説するよ。

 ア  日本への批判は,さらに高まりそうなの?

  A  釜山(プサン)では日本総領事館のそばで市民団体が徴用工像をもちこんで集会を開き,ソウルでも慰安婦問題をめぐる集会がある予定だ。日本批判が燃えさかる様子は両国のメディアなどで伝えられ,日韓関係はまた悪化に向かうとのイメージが強く出ることになりそうだ。(ソウル=牧野愛博)

 ------------------------------

 【『未 完』】  つづく「本稿・2」はできしだい,ここにリンクを貼る予定。

 ------------------------------
     ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

           


 【元号やら天皇位やら,なにやら古代の遺物が舞台の正面でうごめきながら,安倍晋三「極右・反動・エセ保守政権」の半封建遺制的な本性がまるみえ】


 ①「〈耕論〉元号使っていますか? 内田 樹さん,坪井秀人さん,楠 正憲さん」(『朝日新聞』2019年1月22日朝刊「オピニオン」11面)

 元号の切り替えまであと約3カ月。天皇主権から国民主権になった現憲法下で2度目の改元です。グローバル化で西暦の影響力が増す時代。元号の「使い方」,考えてみました。
 補注)国民主権のもとで「天皇主権のなごり」どころか「そのものの〈象徴:符牒〉でもある元号」がそのまま使用されている点が,21世紀の日本国「民主主義」に固有の難点を意味している。この程度の基礎知識は “政治学のいろは” を勉強しだすと同時に,ただちに理解できるはずの前提問題である。ところが,日本における憲法学者たちはその事実を明確に語らないか,あるいは語れないでいる。これは摩訶不思議な学問状況とみなすべき状況である。

 1)「西暦と併用,文化的豊かさ」内田 樹さん(思想家)
 元号とは「時間の区切り方」のひとつです。いま日本では西暦と元号の両方が使われていますが,ふだん私が使うのは圧倒的に西暦です。先の戦争が終わって何年たったのか。昭和と平成に区切られた元号で考えていては,計算が困難です。

 ある事件が日本で起きたとき,世界でなにが起きていたのかをしるにも元号は不向き。だから僕にとって西暦は大事な道具です。ただ,元号は不便だから西暦だけあればよいという意見にはくみしません。むしろ複数の時間軸を持っていることは,文化的に豊かなことなのではないかと考えます。
 補注)内田 樹はここで,元号の問題を政治の問題ではなく,文化の問題に引き寄せて(あるいは押しやって)議論したいらしいが,政治と文化の双方の問題に関連するとともにその相互間の均衡が具体的に,どのような状態をもちつつ内的に成立しあっているかという問題性はわきに置いたまま,このように「元号が単に文化の問題」を意識していればいいみたいな意見は,異様に感じるほかない珍説である。「時間の支配」をめぐる重大な問題が元号にはしこまれている。まさに政治の問題である。これを黙過したままであるかのように発言し,元号は文化だというのは,奇怪なる独自の見解である。

 世界では,さまざまな国々がさまざまなかたち時間の区切りを活用しています。英国には王朝に即してエリザベス様式やビクトリア様式という時代区分があり,それぞれの時代に独特の文化や精神があると考えられています。米国では10年(decade〈ディケイド〉)を基準に,50年代ファッションとか60年代ポップスと使っています。
 補注)ここにもちだされている「エリザベス様式」「ビクトリア様式」という時代区分,10年(decade〈ディケイド〉)基準である「50年代ファッション」とか「60年代ポップス」とかも,日本というかアジア(中国中心)における関心事であるはずの「元号の問題史」に突きつける論法は,無理を強いる説法である。元号というものは,「時間を支配する立場」を立つ者が,その「支配の力(権力・権威)」を誇示し,浸透させるための「時間の単位の区切り」である。

 その基本性格を有する元号は前段の様式やファッション,ポップスと同格・同類に並べて論じるのは,議論の共通基盤を忘れた思考にしかなりえない。内田 樹ほどの知識人がなぜ,この程度に粗雑「以前」の議論を突如はじめたのか不可解である。内田に対するこれまでの評価を根本より変更する必要を感じさせる。


 日本には元号があり,明治45〔1902〕年生まれだった僕の父は「私は明治人だ」といいつづけました。わずか半年あとに生まれれば大正生まれになっていたはずなのに,明治を自身のアイデンティティーの支えにした。人間は特定の時代に自分を帰属させることで安心感をうるのかもしれません。ある元号を口にすると,その時代イメージをありありと思い浮かべられる。そういう元号は明治以外にもあり,一種の文化資産といえます。
 補注)ここでも内田 樹は「元号=文化」といったふうな,上部構造的な視点にのみこだわった議論(にはつながりにくい発想)にこだわっている。議論の前提そのものに関する問題意識が希薄なのか,それとも父の口癖「私は明治人だ」(本当はズレた時代感)を当然視する感性で発言しているのか。元号が以前からの文化資産だという場合,その歴史的な意味あいは普遍的な概念としてまで自信をもって語りうるのか。きわめて極限的な時代の意味しかもちえない「明治の精神」的な発言ではないのか? 

 平成も明確な時代イメージをもつ元号として記憶されるでしょう。それは,落ち目の時代として,です。日本の国運が頂点から低落へと一変した時代が,平成でした。平成が始まった1989年には,日本は米国を超え世界一の経済大国になるという夢がありました。しかしそのわずか30年後のいま,主要先進国の座から滑り落ちようとしている。短期間に驚くほど大きく国力が下がったのです。
 補注)平成の時代が「陽が沈んでいく日本」を区切れる時期だとはいえても,一定限度においては確かにそのとおりであるのだが,これから〔次代の象徴天皇の時代になって〕も,日本がさらに落ちこんでいく展望しかなしえないでいる。

 つまり「平成の時代」でもって,歴史の時期をひとまず区切ることができたとしても,これは「平成ということば:元号」のほうに引きずりこんでくくってみた「該当する時期の範囲」に意味が与えられたのであって,

 単に「歴史の時間(ともかく西暦)」全体の流れのなかにあっては,そのひとつの期間でしかありえない,それも〈任意になる時間の範囲〉だといって済ますこともできる。

 もっと簡単にいえば「そうもいえる」し「いえない」といった程度の「日本側における歴史の刻み」でしかありえない。議論の内容そのものにおいて “世界史的な普遍性” に通じうる実体が確実にあるのかとあえて問えば,そのあたりの確信は日本側においてだけ勝手にできる発想に頼っていた。

 世の中が変わったことを集団的に合意するための伝統的な装置。それが時間の区切りなのでしょう。日本にだけあるのではない,味のある文化的なしかけだと思います。人間には,世界共通の時間ではなく,民族や集団に固有の刻み目が入った時間の中で生きたい,という欲望があるのではないでしょうか。たとえば西暦も,キリスト教という一宗教の世界観が投影された時間の区切りです。
 補注)内田 樹は早速このように「世界中の時間の区切り」を話題にもちだし,さらに「世界共通の時間ではなく,民族や集団に固有の刻み目が入った時間」ももちだしては,「民族・集団ごとの時間に対する欲望」の介在を指摘する。だが,西暦と元号の関連性に関する意見は,内田だけの話し方ではないけれども,あえて同等・同質的に並べる議論の仕方となっている。この議論の方法に関する好き嫌いはさておきほかないが,西暦側がこれまで絶対的に強い普遍性を獲得してきた状態を,なんとはなしにでも,少しは遠くに置いておきたいかのような欲求が正直に表現されている。

 元号と西暦の併用は確かに複雑で面倒です。しかし,世の中はとかく面倒なものです。それぞれの社会集団にそれぞれの時間の区切り方がある。だから,いくつもの異なる物語がある世界でそれらをなんとか編み上げて,それなりに使い勝手のよい社会をつくっていく以外に方法がない。話はハナから複雑なのです。(聞き手 編集委員・塩倉裕)(引用終わり)

 内田 樹はこうして,「面倒なもの」があっても「元号と西暦の併用」もいいではないかと結論している。元号が時間の表記を面倒にしている事実はよく理解し,事前に認めたうえで,そういっている。だが,これはかなり苦しい理屈である。ともかく,元号については「それなりに使い勝手のよい社会をつくっていく以外に方法がない」と主張しているようだが,この程度の説明では説得力はない。

 すなわち,内田 樹の意見は,単なる感想的な発言の吐露に終始している。逆に考えてみよう。「そのように面倒なもの:元号」は使わないでいいのではないか,実生活において使用しなくとも,なんら不便は生じていない。こう指摘されたら,これに対して相手を説きふせるだけの “合理的な論旨” を用意したうえで,確実に反論できるのか。

 天皇・天皇制の問題がからむとこのように内田 樹だけの態度にかぎらず,なぜか,知識人の立論として展示する論旨が “穴だらけの構成になる” 。この種の提唱はしばしば起きている。

 天皇制度を政治思想的に否定しえない知識人の立場であるかぎり,そうならざるをえない。庶民のなかに浸透している天皇尊崇という政治意識を,そのまま是認する議論しか展開できていない。知識人としての迫力が足りないのであり,なにかに対してモジモジした語り口に終わっている。

 知識人の基本的な使命・役割はなんであったかを,あらためてここで内田に問うても詮ないことである。もとより知識人としての〈特定の限界〉を有していたゆえ,その点をつついてみたところで,なにか新味のある論点が出てくるはずもない。天皇・天皇制の現実を目前にすると,知識人であってもだいたいが足をすくませるほかないとしたら,本格的な議論以前の地平を彷徨するばかりであって,本質に迫る討議は期待できない。

 内田が「天皇主義者」を宣言するのは,あくまで当人の自由である。だが,それは知識人に与えられた基本命題からの逃避・脱落を意味し,いうなれば戦闘放棄である。戦わずして白旗を揚げたも同然である。天皇・天皇制を議論するためのあらゆる可能性を,みずから封印・排除したのである。「負けている」のである。

 いいかえれば,内田 樹はもしかすると,「どこかの誰か」を意識した〈構え〉をとったともみなせる。そして,この〈構え〉じたいがそもそも知識人に関した話なのだから,限定された「特定の分野」に関するものであっても,必然的に「思考停止」を意味するほかない。それも「学問の思想が左だ・右だ,前だ・後ろだ」といった次元の話題とは別の場所にある,もっと《初歩の論点》に関した話題である。
 ※ 人物紹介 ※ 「うちだ・たつる」は1950年生まれ。神戸女学院大学名誉教授(フランス現代思想)。2017年には「天皇主義者」宣言で話題に。
 2)「天皇制・戦争,スルーするな」坪井秀人さん(国際日本文化研究センター教授)
 私の専門の近代日本文学の世界では,明治・大正・昭和と元号で時代を区切って考える人がいまだに多いです。しかし私は,元号を極力使わないようにしています。パスポートなど避けられない公的な文書をのぞき,元号で記入する形式の文書でも元号に二重線を引き,西暦で書きます。

 元号を使うのをやめようと思ったのは,「平成」が発表された瞬間です。自分が選んだわけでもない言葉が上から勝手に降りてきたと感じました。「昭和」は生まれた時から存在していたので適当に使っていましたが,平成を使わない選択はみずからできました。

 「平成」というのがまた,いかにも薄っぺらく陳腐な言葉で,昭和末期の世相をみて白々しく思っていた私はこれをみて力が抜けてしまったのを覚えています。昭和天皇の病状が連日,ことこま細かに報道されるなか,1人の人間の身体が国民生活にここまで大きな影響を与えるものかと驚きました。当時は自分の周辺でも,天皇制や元号の是非,昭和天皇の戦争責任の議論が割合に活発でした。しかし結局,昭和天皇は戦争責任について多くを語らず亡くなり,天皇制が昭和で終わることもなく,徒労感を覚えていました。
 補注)昭和天皇の戦争責任問題は政治学・憲法学にとって,これからも大きな話題・論題でありつづけていくに違いない。大日本帝国の敗北にもかかわらず,その最高責任者がそのまま居座りつづけたゆえ,これを問題として座視するほうがおかしい。とくに知識人の立場から〔前項に登場した〕内田 樹のように「天皇主義者」を宣言したぶんには,天皇・天皇制問題にかぎってはみずからが「三猿の領域」を聖域として設けたことになる。その「天皇主義者」の立場から天皇・天皇制の問題を議論するといったところで,おのずと自縄自縛にならざるをえない必然性を用意した。

 自分が使う時間をみずから決められないのは,時間に関する主権がないということです。それは,国民主権といいながら,天皇を押し戴(いただ)いた国のかたちと密接に結びついています。西暦も自分たちで選んだ時間ではないですが,近代を研究していると,明治以降の天皇制や元号は,政府が国民国家をつくるために天皇を利用して作り上げた恣意的なシステムだと感じます。それに縛られたくはありません。
 補注)「一世一元」制は,明治維新以後,いまさらのように古代史からの元号制のなかから選んで決めた「時間を支配する天皇」のために据えられた,政治的な「時間の観念」であった。しかし,大日本帝国が滅亡したあとも昭和天皇がそのまま敗戦をはさんで生き伸び,ついでに「昭和の時期」も漫然と経過していった。「平成の時期」が到来したとき,初めて日本の人びとはいまさらのように「元号の意味」を自覚的に勉強せざるをえなくなった。

 平成の天皇となった明仁は,ほぼ30年間にわたる「象徴天皇としての〈治世〉」を,父親が残した『負の遺産:戦争責任関連』の行跡を訪ねてまわり,そこの人びと〔とその子孫〕を慰撫し,「ともに寄り添うための旅」を延々と続けてきた。政治的には父:天皇は「負」しか残せなかった実績を,息子:天皇がその「負」を必死になって穴埋めし,少しでも解消させるための長旅をつづけてきた。

 その間における日本の政治・経済は,昭和天皇の敗戦後が高度経済成長期をたどってきたものの,ちょうどバブル経済が弾けた時期にはじまった平成天皇の時代は,後半にもなると人口まで減少しだす始末となっていた。いまやこの国は「あらゆる側面」において衰退・弱化の社会過程を確実に進むほかない実情にある。


 私は元号反対の運動をしているわけではありません。あくまで生き方のスタイルや思想信条の問題です。他の人が元号を使うかどうかはどうでもいいし,死んでも元号を使わないということではありません。元号を理由に書類を書きなおさせられることの方が,よほどばかばかしいです。

 30年前と違い,今回は天皇制をめぐる議論がほぼありません。天皇の言動が左翼からさえも支持され,大きなシステムへの批判が見事に封じられています。皇室からは今回,生前退位や大嘗祭の費用など新しい問題提起がありました。しかし日本社会の側は,それにも反応できず,なし崩しで物事を進めています。天皇制や元号の問題なんてもうどうでもいい,とスルーされているのです。

 元号を使うことは本来,天皇制や戦争とのかかわりといった歴史性をもつ行為です。しかしその歴史の地層が忘れられ,失われていく。平成の2文字が別の2文字に変換されるだけ。何事もないかのように新しい元号に慣れていく風景はみたくありません。(聞き手・高重治香)(引用終わり)

 坪井秀人のこの議論は,元号に関する「本来の意味」が遠ざけられている現状を批判している。現政権は「戦後レジームからの脱却」を大声で唱えてきた割りには,実はその戻っていきたい地平に待ち構えている「天皇制や戦争とのかかわり」や,その「歴史性をもつ行為」「歴史の地層」をまともに意識できていない。

 明治の時代が安倍晋三の網膜にはバラ色に写っていたらしいが,この非現実的な明治「時代観」は,大日本帝国時代の崩落現象によって完璧にまで否定されていた。それでも「坂の上の雲」が21世紀のいまにあっても,われわれの空の上を流れているかのように空想できるこの首相の頭のなかは,いわゆるお花畑そのものであった。

 アベノミクスがウソとまやかしに充満していた経済政策だとすれば,「美しい国へ」と念仏を唱えた安倍晋三の政治(アベノポリティクス)は,在日米軍基地という鎖のつながれたこの国の現状のなかでは白日夢である。冗談にもならない「子ども宰相」の絵空事であった。
 ※ 人物紹介 ※ 「つぼい・ひでと」は1959年生まれ,文学と戦争や時代とのかかわりを研究。昨〔2018〕年「僕が元号を使わない理由」という文章を発表。
 3)「過剰な重視,使う人減らす」楠 正憲さん(国際大学 GLOCOM 客員研究員)
 元号がいいか,西暦がいいか。そのとき注目されるのは「利便性」でしょう。役所で申請をするとき西暦がないと不便だとの声はよく聞きます。逆に年配の方々には元号の方がなじみやすい,といった事情もあるでしょう。

 元号や西暦といった社会的な道具について考えるとき,便利であることは確かに「望ましい」ことですが,「必須」ではありません。留意すべきは「便利でないこと」ではなく「使えない人がいること」でしょう。ユニバーサル(普遍的)かどうかです。いま自治体で西暦表記が広がっている一因も,外国人が使えないことへの配慮です。
 補注)本ブログは先日,運転免許証が「西暦を主記する年月日の表記」に変更されている事実に言及したことがあるが,このあたりの事実は十分配慮に入っていない議論に聞こえる。その関係でいうと,次段の議論は準備不足。インタビュー記事をとりまとめた記者のほうも同じ。

 たとえば今回,政府は免許証の有効期限で西暦表記も併記する決定をしました。しかし米国で働く私の友人は「生年月日を西暦にしてほしい」といいます。米国では日本の免許証がIDカードとして使える場面があるのですが,元号だといつ生まれたのかを米国人が理解できず,証明に使えないというのです。

 日本が経済大国だった時代は遠く去りました。日本人は今後,いままで以上に世界中の人びとに助けてもらったり,世界中のさまざまな場所を舞台に成長させてもらったりしなければいけなくなるのです。

 その際さい増えるのは,日本で発行された公的文書を外国で提出する機会です。海外の機関に自分の業績を証明するとき元号は,外国人に分かってもらうさいの障壁になる。外国人に提示する可能性のある公的な文書には西暦を併記すべきだと私は考えます。

 それでも今後,元号の存在感が薄まっていくばかりになるとは限りません。グローバル化が深まり,中国の台頭などで周辺環境も変わっていきます。日本の文化的な独自性を表すものとして,元号を自身のアイデンティティーの支えとして再評価する意識が台頭するかもしれません。
 補注)ここでもいわれているのは「元号の文化的な独自性」であった。普遍性としては「相対的にではあっても絶対性をもつ」ような西暦の実績に,元号の日本における固有性:文化的な意味あいだけをもって,ただちに攻守交代させることなどできるわけがない。そもそも,議論の方向性に関してからして無理がある。

 今回,日本の伝統を大事にする立場から,新元号の発表を早めるなとの声が出ました。同じく元号重視の視点から,新元号への瞬時の整然とした移行を求める声もあります。双方の要請を同時に満たそうとすれば,改元に要する負担は過重になります。結果的に「西暦を使う方がいい」と考える人を増やし,元号離れをも促しかねません。

 もとより,改元の初日から日本全国で官民すべてのITシステムの画面や印刷などを新元号に対応させることは,物理的に不可能なのです。大事なのは,平成31年という表記がしばらく残ってしまう混乱を許容する柔軟な進め方なのではないでしょうか。
 補注)「新元号に」「残ってしまう混乱を許容する柔軟な進め方」といったふうな,天皇・天皇制の存在じたいから派生してくる「元号にまつわる不便・不都合」が,このような論調をたずさえてなにやかや話されているという事態に関していえば,なにか不審に感じ,疑問が抱かれていい論点がある。しかし,議論の方途はそこには向かっていない。

 次段で触れている「元号はそもそも『突然変わるもの』」という「歴史の事実」は,もちろん明治以前の話であって,それ以降では人為的に「一世一元」に固定されてきた。これを「実は異例」と把握しているが,単に議論に関するひとつの前提が指示されたに過ぎない。なにか堂々めぐりにも聞こえる話になっている。

 元号の問題に関していままで歴史的に蓄積されてきた学問・理論における成果・業績が,まるで存在しないかのように語られている。まさか,その点をよくしらないことはないと思いたいが,どうやら核心の問題はあまり詳しくない人士であるようにも感じる。

 元号はそもそも「突然変わるもの」として想定されてきているはずです。改元がいつごろ起きるかがスケジュール的に分かっている今回の方が,実は異例なのですから。(聞き手 編集委員・塩倉裕)(引用終わり)
 ※ 人物紹介 ※ 「くすのき・まさのり」は1977年生まれ,行政情報システムに詳しい。金融IT企業の技術責任者や,閣情報通信政策監補佐官も。
 ②「〈社説〉皇位継承儀式『女性排除』の時代錯誤」(『朝日新聞』2019年1月23日朝刊)
  -明治以来,敗戦を経ても「明治謹製:皇室典範」風に
    女性差別がまかり通る皇室事情に対する批判-

 議論を疎んじ,憲法の理念をないがしろにする。都合の悪い話から逃げる。そんな姿勢がここにもあらわれている。

 天皇の代替わりに伴う式典のあり方を検討している政府が,その一部について正式に概要を決めた。このうち,皇位のしるしとされる神器を新天皇に引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」に関しては,釈然としない思いを抱く人が多いのではないか。

 式じたいは,侍従が剣と璽(勾玉〈まがたま〉)を新天皇の前に安置するという10分間程度の短いものだ。だが神話に由来し,宗教的色彩の濃い儀式が,政教分離を定める憲法のもと,なぜ国事行為としておこなわれるのかという根源的な疑問は解消されていない。

 くわえて,皇族で立ち会うのは成年の男子だけで,女性皇族は排除される。前例にならったというが,それは明治末期に制定され,現憲法の施行に伴って廃止になった「登極令」にある定めだ。平成の代替わりのさいは,昭和天皇の逝去後ただちに執りおこなわれたため,ほとんど議論のないまま援用された。

 国会でも問題視された方式を今回もそのまま実施する背景には,女性皇族の参列によって女性・女系天皇の議論が起きるのを避けたいという,政府の思惑があるとの見方が強い。

 女性・女系天皇を認めるか否かをめぐっては長年の論争があり,慎重な姿勢をとるのはわからなくはない。だがその話と参列を許さないこととは次元の異なる話だ。政権の支持層である右派の意向に気を使うあまり,社会常識と乖離・逆行する方向に進んではいないか。

 政府は昨〔2018〕年,皇室制度に詳しい識者4人から意見を聞いた。いずれも総論としては前例踏襲を支持しつつ,同時に

  「国内外の通念とも調和しうるあり方とする。剣璽等承継の儀式などには未成年の男女皇族も参列するのが望ましい」(所 功・京都産業大名誉教授),

  「伝統の継承とは,歴史と先例を踏まえたうえで,時勢にあわせて最適・実現可能な方法を採用することを意味する」(本郷恵子・東大史料編纂所教授)

といった,もっともな見解が示された。

 だがその後の政府の対応をみると,なんのためのヒアリングだったのかとの疑問を抱く。

 この先も秋篠宮さまが問題提起した大嘗祭を含め,儀式の細部を詰める作業が続く。「国民の総意」にもとづく天皇であるために,憲法原則にかない,多くが納得できる姿をめざして議論を深めなければならない。政府の勝手にさせず,国会はチェック機能を適切に果たすべきだ。(引用終わり)

 以上の社説に批判されている問題,「剣璽(けんじ)等承継の儀」における女性排除は,安倍晋三政権の意向であるかぎり,男尊女卑の基本観念が背景に控えている。これが「戦後レジームからの脱却」の一環だとしたら,笑止千万どころか,「先進国の一員」であるつもりだけはあるこの国であっても,世界中から笑いものにされること請けあいである。

 天皇家の大昔における儀式として定着していたかさえ不確かであって,確かなのは明治以来に創ったつもりのその儀式のことである。だから男尊女卑を当然視し,「戦後レジームからの脱却」を明治時代までさかのぼってならば,これを限定的におこないうるつもりらしい。だが,この明治的な思考方式にまつわるコッケイ性は,先進国にあるまじき演技を裏づけており,民主主義の基本原理からはかけ離れている。

 もっとも,皇室の実在じたいが「民主主義の基本理念」と相容れない政治的要因になっている点は,政治学者・憲法学者に教えてもらうまでもなく,自明であった。いわばここまでも「天皇・天皇制の問題」が天皇の代替わり儀式の挙行方法に関して発生せざるをえない事実そのものが,日本における「民主主義の状態」の真価を問うている。 

 ③「神器承継への陪席,女性皇族は認めず  皇位継承,式典の概要決定」(『朝日新聞』2019年1月18日朝刊4面「総合」)

 これは,② の社説で問題にされていた「剣璽(けんじ)等承継の儀」などに関する記事である。関連する諸事情を理解するために引用しておく。

 --天皇陛下の退位に伴い,〔2019年〕4月30日から5月1日にかけておこなう皇位継承儀式の概要が正式に決まった。新天皇が神器などを引き継ぐ儀式では,皇位継承権のない女性皇族の陪席を認めない方針も,議論のないまま「前例踏襲」となった。
『朝日新聞』2019年1月18日朝刊4面即位儀式
 憲政史上初の天皇退位に伴う「退位礼正殿(せいでん)の儀」は4月30日夕方,皇太子さまの即位に伴う「剣璽(けんじ)等承継の儀」と「即位後朝見の儀」は5月1日午前,いずれも憲法の定める天皇の国事行為として執りおこなう。17日の式典委員会(委員長=安倍晋三首相)で決定した。
 補注)ここでは「いずれも憲法の定める天皇の国事行為として執りおこなう」と報道(解説)されているが,天皇問題研究者の立場によっては,この儀式じたいが「国事行為」に当たらないとみなす見解もある。天皇家が私事的におこなえばよい儀式を,国税を充てて大々的に国家的な行事として執行させるところが,まさしく問題の焦点になっている。憲法が定めるのだとはいっても,国事行為があまりにも肥大化させられ,なんでもかんでも放りこまれているのが現状である。

 雅子さまをはじめとする女性皇族に「剣璽等承継の儀」への陪席を認めない方針は,昨〔2018〕年3月の式典準備委員会で,事務局が既定のものとして説明し,異論も出なかったという。

 政府が議論を避けたのは女性・女系天皇の是非論に飛び火するのを避けるためだ。一般の参列者については性別で区別せず,5月1日にいまのまま閣僚らに女性がいれば女性初の参列となるが,「皇位継承権とは関係がない女性閣僚らの出席は問題ない」(政府関係者)ということに過ぎない。

 退位の儀式では,皇位のしるしとされる三種の神器のうち,剣と璽(じ)(まが玉)を会場に置くことも決めた。三種の神器は神話上,皇室の祖である天照大神から授かったと伝えられるもので,政教分離の観点から憲法との整合性を問う声が根強くある。

 これに対し横畠裕介・内閣法制局長官は委員会で,皇室経済法が「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の継承を定めていることを踏まえ,「剣璽等承継の儀と同様,剣璽などを安置することにも憲法上の問題はない」と強調したという。(二階堂友紀,田嶋慶彦)(引用終わり)

 「政教分離の原則」問題は実質,完全に骨抜き状態にある。内閣法制局長官に向かい, “安倍晋三に忖度するな” といったところで無理難題であって,するはずも・できるはずもない。総体としては,安倍首相と法制局長官がグルになって仕組んでいるとしかいいようがない。

 男女共同参画社会とか女性も大いに活躍してもらう労働社会を構築するなどといってはいるもの,すでに人口統計が少子高齢社会のなかで急激に進行するなかで「女性を大事にしない日本社会の基本特性」を変えられないまま,

 「国・民を統合する象徴」が家長である天皇家のなかで,天皇の代替わり儀式が “女性差別” を,しごく当たりまえに正々堂々と決行している。これでまるで,漫画だなどといった水準以上(以下?)のカリカチュア的な日本社会における実相である。日本社会における女性差別というものが,皇居のなかでは典型的に例示されており,いまだに除去できない状況をより明確になっている。

 以上,女系・女性天皇の議論にだけかかわる「狭い領域に関した論点」には留まりえない問題・背景の広がりが,皇居の二重橋の向こう側にはみえているのではないか。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には,「Amazon 広告」へのリンクあり ※

            

        

            

        

            

          
 【明治天皇の〈娘・婿の子孫だ〉といって特別あつかいされる「明治謹製の旧皇族」が,わが物顔に立ち振るまえる日本オリンピック商業界】

 【日本国の私物化は安倍晋三が,JOCの私物化は竹田恒和がおこなったが,いまの NISSAN は誰のものか? フランスとルノー側が怒るのは当然の経緯】



 ①「竹田氏事情聴取は昨〔2018〕年8月に決定 JOC会長,五輪招致疑惑で」(『共同通信』2019/1/13 18:57,https://www.47news.jp/news/3167757.html

『共同通信』2019年1月13日竹田恒和画像 2020年東京五輪招致疑惑をめぐり,フランス捜査当局が日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長に対して,昨〔2018〕年12月に実施した事情聴取の日程が,同年8月の時点で決まっていたことが〔2019年1月〕13日,関係者への取材で分かった。フランス当局は贈賄容疑で正式捜査を開始した。

 日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告による一連の捜査に対する「報復か」と指摘する見方も一部でとりざたされたが,ゴーン被告が逮捕される約3カ月前から「捜査における協力」として事情聴取が決定。竹田会長が国際オリンピック委員会(IOC)の会議などで渡欧するタイミングで日程が調整されていたという。(引用終わり)

 この報道がなされる前にすでに,竹田恒和の「▼▼息子」である竹田恒泰が早々と,関連する妄言を吐いていた。「竹田恒泰氏,父親への捜査はフランス側の報復と主張。それを妄信する氏子たちの祝詞」(『論壇 net 』2019年1月12日,https://rondan.net/12058)と題した記述が,さっさと,そのデタラメぶりを先制的に批判していた。
       竹田恒泰画像3
 出所)慶應義塾大学講師の肩書きは以前のもの,https://snjpn.net/archives/25097
 竹田恒泰は一時期,慶應義塾大学法学部の講師(非常勤)を委嘱されていたが,その招聘者であった小林 節は事後,この恒泰のデタラメぶり(単なるネトウヨ的なエセ知識人ぶり)にたいそう呆れてしまい,数年で講師職を解いていた。前段の『論壇 net 』の記事は,恒泰の暴論とも受けとれる “幼稚なネトウヨ的な戯れ言” (まともな発想など皆無でそのの場かぎりの思いつき)を,以下のように批判していた。

 --保守論壇のプリンス〔?〕竹田恒泰の父である「JOC竹田恆和氏の贈賄容疑の取り調べが本格した」というニュースが流れた瞬間に,その息子・竹田恒泰が,条件反射的にカルロス・ゴーンの逮捕に対する報復を主張しだした。しかし,JOC会長竹田氏への捜査はだいぶ前から始まっていたのだから,いきなりそう関係づけて断定するのは笑止千万というか,単なるデマにしかなりえない無知・無恥であった。結局は〈与太の発言〉であった。

 おまけに恒泰は「フランスの民度」などというヘイト表現を使っていたが,フランス大統領のマクロンが現在,追いつめられている政治的な状況があるとはいえ,なんの因果があって竹田パパを操作する必要があるのか。これがまさに典型的な陰謀論。

 しかし,竹田恒泰の「▼▼氏子たちの信心」はまったく揺らない。あげくになにをいうと思ったら,恒和が2020東京五輪招致のために「たとえ贈賄してても感謝するよ説」まで飛びでてくるとなれば,これは常識以前・以外の発想というよりは,完全に子どもの知的水準にすら達しえない「大人のヘリクツ(?)」であり,弁護のためであってもまったく使えないしろもの的な放言であった。

 竹田のパパがもしも贈賄を認めたらこういう主張,つまり「〔単細胞的な極右・反動〕保守の根底に隠されている「愛国無罪」がもち出されるかもしれない。なんといっても「フランスは=中国・韓国に相当する説」が強力に信心されており,それゆえ「気に喰わない者はすべて特亜三国と重なって〈みえる病〉」の患者であった。
 補注)「特亜三国」とは「反日教育を推進している」とみなされている「中国・韓国・北朝鮮の3ヵ国」を指している。この三国は,国家的に日本を敵視し,反日教育を推進しているとされる。もっとも,この逆の関係性(?)も事実である点(!)も,このさい併せて認識しておいたほうが,より賢明でありうるかもしれない。

 ともかく「愛国無罪」(これは一昔も前に中華人民共和国内ではやったことばであって,よりくわしく説明すると,中国における反政府運動のさいに用いられてきた文句であった。2005年4月に中国で起きた反日デモで大々的にかかげられ,日本でも注目された)が,日本のほうに輸入されて使われるとなぜか神道的な意味に応用され,“「無罪!」って断言してれよ言霊説” に成長した。しかし「断言したら無罪になるか」といわれて,いまどき同意する人などいない。

 「フランスが植民地を失った恨み説」が唱えられている。今回の報道によって明らかになった「東京五輪招致疑惑でフランス捜査当局がJOC竹田恒和会長に事情聴取」(2018年12月)という事実を,よく考えもしないで:考え過ぎたあげく,以上のごとき「珍・迷・怪の3拍子」揃った速攻コメントの連発となっていた。

 そうであるからには,ネット界における馬鹿さ加減は並みたいていではない。いまや竹田恒泰の「お▼▼さ加減」は急成長しており,百田尚樹の次元にまでむかいつつあるとまで,評価される始末であった。
 註記)以上,「竹田恒泰氏,父親への捜査はフランス側の報復と主張。それを妄信する氏子たちの祝詞」『論壇net』2019年1月12日,https://rondan.net/12058 を参照したが,論旨を尊重したかたちで大幅に補正。

 いずれにせよ,この竹田恒和の「▼▼息子:恒泰」が自分の父親を擁護した妄言は,この▼▼さ加減を馬鹿正直に丸出ししただけのことであった。

 ②「竹田JOC会長を贈賄容疑でフランス当局が訴追。息子は「仮に百歩譲って意図的にお金を賄賂のつもりで渡していたとしても合法」とTVで発言・・・・この親にしてこの子あり!!」(『くろねこの短語』2019年1月12日,http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-559d.html)の毒舌風批評を,以下に引用する

 いかれた息子がTVで御用コメンテーターとして活動中の竹田JOC会長が,東京五輪招致をめぐる贈賄容疑でフランス当局から訴追されそうだってね。これって,2016年にさんざん話題になったスキャンダルなんだけど,てっきりうやむやみになっちまったかと思ってた。でも,実際はコツコツと捜査してたってことなんだろうね。

 ゴーン逮捕への仕返しなんて声もあるようだけど,事件そのものは3年も前から噂されていたわけで,その可能性は低いかも。もっとも,仕返しだとしたら,それはそれで面白い展開にはなるんだろうけど・・・。それはともかく,メディアによっては「事情聴取に協力した」なんて表現してるようだけど,それは違うだろう。明らかに被疑者として取調べを受けたってことだ。ゴーンのように逮捕されなかっただけでもラッキーだったんじゃないの。

 コンサルタント料を支払ったとされるシンガポールのコンサルタント会社は,いまやペーパーカンパニーの疑いがあるようで,かなり胡散臭い錬途中〔連中?〕に金が渡っているのは事実なんだよね。それだけ重大な局面だってのに,当の本人は木で鼻をくくったようなコメント出しただけで雲隠れ。なに寝言をぬかしてるんだろうね。記者会見して説明責任を果たすのが,JOC会長という重い役職に就く者の務めだろう。元皇室の肩書きが泣くというものだ。

 でもって,笑っちまうのが,いかれた息子が関西のTV番組で「仮に百歩譲って意図的にお金を賄賂のつもりで渡していたとしても合法。違法ではない」って発言したそうだ。この親にしてこの子ありとはよくいったものだ。初老の小学生・ペテン総理の「アンダー・コントロール」という大嘘で恥かいたあげくに,「金で買ったオリンピック」として後世に語りつがれることになるかもしれない東京オリンピクなんか,いっそのこと返上しちゃった方がいいんじゃないか……。(引用終わり)

 ここで触れておくが,本ブログがほぼ1年と1カ月ほど前の2017年12月11日書いていた,つぎの文章に対する閲覧がここ数日増えていたのは,自然ななりゆきであった。
主題「日本オリンピック委員会会長職は竹田恒和のための指定席か,明治謹製の王侯・貴族(元皇族)の末裔が,いまも大いに顔を利かすスポーツ界がある,

 副題1「日本の皇族・華族の制度は,明治時代に新しくも特別に創られていたが,21世紀のいまにおいても,どこまでも使っていくつもりか」
 副題2「貴なる者,必ずしも尊ならずの実例」

 リンク ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1069147362.html
 ③「フランス司法当局による竹田JOC会長贈賄容疑捜査の衝撃」(『天木直人のブログ』2019-01-12,http://kenpo9.com/archives/4802

 元外交官であった天木直人によるこの分析・観測は,だいぶ視角の異なる地平から批評をくわえている。通常のネット界における観察とは質的に局面を変えた指摘もある。これなりに聴いておく価値がありそうである。

 --ゴーン事件が新たな展開をみせた。仏紙『ルモンド』などが,竹田JOC会長を東京五輪招致の際の贈賄容疑で捜査していると報道したからだ。政府関係者は,ゴーン事件とは無関係だ・単なる偶然だなどと冷静を装っているが,明らかにゴーン事件に対する日本の司法当局への圧力だ。司法当局の背後にある安倍政権に対するメッセージだ。

 いよいよ日本はゴーン事件で窮地に立たされることになる。竹田会長の贈賄容疑捜査報道の衝撃はふたつある。ひとつは,贈賄そのものの有無だ。竹田会長が贈賄していたなら,それは日本政府が贈賄していたことになる。その場合はもちろん東京五輪は吹っ飛び,安倍政権は総辞職せざるをえない。

 しかし,この問題は,すでに2年前にコンサルタント契約にもとづいた正当な対価として政治決着している。そもそも,オリンピックの招致が買収されることは周知の事実だ。そんなことを認めてしまえば,オリンピックじたいがなりたたなくなる。だから,竹田会長に関する贈賄容疑は政治的になりたたない〔ものだと処理されていた〕。

 それをしっていながら,いまになってフランス司法当局が捜査を続けていると突然報道されたということは,明らかにゴーン事件に対する仏側の報復的脅しなのである。ただでさえ,日本の捜査の人権軽視について外国の批判が高まりはじめたときだ。いよいよ検察は追いこまれることになる。

 そこで問題になるのが,安倍政権とゴーン事件のかかわりである。安倍政権がゴーン逮捕を指揮し,積極的に動いたということは,さすがにありえないだろう。もしそんなことをしていたら,それがばれた時点で安倍政権は即,終わりだ。問題は,安倍政権が今回の検察の一連の捜査について,事前通報を受け,それを明示的あるいは黙示的に承認していたかどうかだ。
 補注)「ゴーン前会長が再逮捕されたさい,この特捜部による無理筋逮捕の裏に,安倍政権幹部や政府の影がちらついていることを指摘し」ている一例は,ネット新聞『リテラ』の記事にみられる。「ゴーン前会長出廷で改めて露呈した特捜部の無理スジ捜査! 国策捜査の背後に安倍政権幹部と経産省の影」(『リテラ』2019年1月8日,https://lite-ra.com/2019/01/post-4478.html〔~〕)が,くわしくとりあげ論評している。

 ゴーンに関しては,事件発生の当初から日本側にちらついていた薄暗さに向こう側には,安倍晋三や菅 義偉,今井尚哉政務秘書官たちの姿が透けてみえるといっても過言ではない。この「事実」が背景として控えている点が露呈したら,安倍晋三政権は空中分解する。あるいは,その裏舞台にはさらにアメリカ政府や軍部の意向もみえかくれしないわけでもなく,世界経済・国際経営の問題次元にまで通貫する「現実的な政治問題」である点まで示唆されている

 〔記事に戻る→〕 そして,これまでの日本の政権と検察の関係から考えれれば,検察が政府にいっさい連絡せずに独断でおこなったとは考えられない。ましてや,いまの安倍・菅政権のもとでは,検察・警察・司法は完全に安倍政権の顔色をうかがって動いている。もしこんどのゴーン事件に安倍政権が,たとえ暗黙的にせよ関与していることが判れば,そのときこそ安倍政権は国際批判の矢面に立たされることになる。                                                                         

 そして,その背後に米国の影がちらつけば,国際問題にまで発展する。いよいよ検察は追いこまれて来たということだ。その深刻さを,今日〔1月12日〕の朝日新聞が見事に認めている。

 つまり,検察から情報をもらってスクープ報道し,以来,一貫してゴーンを悪者にして検察寄りの記事ばかり書いてきた朝日が,今日1月12日の一面トップで,検察捜査の独善性を批判しはじめたのだ。この朝日の手のひら返しの裏切りこそ,ゴーン事件が世界から批判の目でみられはじめたことへの危機感の表われなのだ。

 しかし,検察はいまさらゴーン追及の手を緩めるわけにはいかない。そんなことをすれば安倍政権からやめろと指示があったことを認めることになる。検察は進むも地獄,退くも地獄だ。そして,それはとりもなおさずゴーン事件で安倍政権が置かれている苦境でもある。折からあらゆる外交のゆきづまりが表面化してきた。それにくわえてゴーン事件だ。待ったなしに外交の安倍の真価が問われている。(引用終わり)

 『天木直人のブログ』の披露する見解は,竹田恒和の「▼▼息子」が単純素朴に唱えた説,「父親への捜査はフランス側の報復と主張」とは,基本から質的に次元を別にした中身である。また『リテラ』は2019年1月11日に,別の記事「仏司法当局が東京五輪誘致汚職で竹田恒和JOC会長を捜査開始!  ゴーンの報復じゃない,マスコミが報じなかった黒い疑惑」( ⇒ https://lite-ra.com/2019/01/post-4484.html)も報じていた。

 ④「竹田会長『訴追』で東京五輪の危機を招いた政府・JOCの『無策』」(『郷原信郎が斬る』2019年1月11日https://nobuogohara.com/2019/01/11/竹田会長「訴追」で東京五輪の危機を招いた政/

 この郷原信郎の文章は長いので,最後のほうからのみ引用する。

 --以上のような経過〔については郷原の原文をぜひ一読されたい〕からすると,今回,フランス当局の竹田会長の刑事訴追に向けての動きが本格化したのは当然のことといえる。東京五輪招致をめぐる疑惑についてフランス当局の捜査開始の声明が出されても,まったく同じ構図のリオ五輪招致をめぐる事件でBOC会長が逮捕されても,およそ調査とはいえない「第三者調査」の結果だけで,「臭いものに蓋」で済ましてきた日本政府とJOCの「無策」が,東京五輪まで1年半余と迫ったいまになって,JOC会長訴追の動きの本格化するという,抜き差しならない深刻な事態を招いたといえよう。
 補注)BOCとは Brazilian Olympic Committee,JOCとは Japanese Olympic Committee の略称。後段に出てくるIOCとはInternational Olympic Committee の略称。

 今日,竹田会長は,訴追に関する報道を受けて,「去〔2018〕年12月に聴取を受けたのは事実だが,聴取に対して内容は否定した」とするコメントを発表したとのことだが,問題は,フランス司法当局の竹田会長の贈賄事件についての予審手続が,どのように展開するかだ。

 フランスでの予審手続は,警察官・検察官による予備捜査の結果を踏まえて,予審判事みずからが,被疑者の取調べなどの捜査をおこない,訴追するかどうかを判断する手続であり,被疑者の身柄拘束をおこなうこともできる。昨年12月におこなわれた竹田会長の聴取も,予審判事によるものと竹田会長が認めているようなので,予審手続は最終段階に入り,起訴の可能性が高まったことで,フランス当局が事実を公にしたとみるべきであろう。

 ということは,今後,フランスの予審判事が竹田会長の身柄拘束が必要と判断し,日本に身柄の引き渡しを求めてくることもありうる。この場合,フランス当局が捜査の対象としている事実が日本で犯罪に該当するのかどうかが問題になる。犯罪捜査を要請する国と,要請される国の双方で犯罪とされる行為についてのみ捜査協力をするという「双方可罰性の原則」があり,日本で犯罪に該当しない行為については犯罪人引渡しの対象とはならない。

 今回,フランス当局が捜査の対象としている「IOCの委員の買収」は,公務員に対する贈賄ではなく,日本の刑法の贈賄罪には該当しないが,「外国の公務員等」に対する贈賄として外国公務員贈賄罪に該当する可能性はあるし,招致委員会の理事長が資金を不正の目的で支出したということであれば,背任等の犯罪が成立する可能性もあり,なんらかのかたちで双罰性が充たされるものと考えられる。

 いずれにせよ,フランスの裁判所で訴追されることになれば,旧皇族の竹田宮の家系に生まれた明治天皇の血を受けつぐ竹田氏が「犯罪者」とされ,JOC会長職を継続できなくなるだけでなく,開催前の東京五輪招致の正当性が問われるという危機的な事態になることは避けられない。(引用終わり)
◆ 私が「検察の正義」を疑う理由 ◆
=『郷原信郎が斬る』2019年1月13日 =

 1月11日,フランスの司法当局が,日本オリンピック委員会(JOC)竹田恒和会長を,東京2020オリンピック・パラリンピック(以下,「東京五輪」)招致に絡む贈賄容疑での訴追に向けての予審手続を開始したと報じられた。

 そのタイミングが,日本検察当局が日産・三菱自動車の前会長で,現在もフランスのルノーの会長のカルロス・ゴーン氏を特別背任等で追起訴し,保釈請求に対する裁判所の判断を示される段階になったのと一致したことで,ゴーン氏が逮捕され,長期間にわたって身柄拘束されていることに対するフランスの「報復」「意趣返し」ではないかという見方が出ている。

 フランス当局の捜査は3年前から続けられていたもので,捜査開始はゴーン事件とはまったく関係ない。しかし,このタイミングで,続けられていた捜査が予審手続の開始という「訴追」に向けての正式の手続であると公表されたことは,ゴーン氏の事件とは無関係ではないように思える。

 しかし,それを「報復」とか「意趣返し」のような感情的なものとみるべきではない。日本の検察当局が日産・ルノー・三菱自動車の経営トップのゴーン氏におこなったことに対して,日本のオリンピック委員会のトップである竹田会長に,フランス司法当局としてどのような対応をとるかを示し,問題提起をする趣旨と受けとめるべきであろう。
 註記)https://nobuogohara.com/2019/01/13/検察の正義を疑う/
 雛壇にじっとお飾り的に座っていればいいJOC会長職であればよかったのだが,以前は無給であったこの職位を,自分が会長の地位に就いてからは有給にするなどした竹田恒和は,自分が皇族の血統である地位を最大限に活用する『オリンピック貴族の立場』を享受してきた。

 また,フランス司法当局による竹田JOC会長贈賄容疑捜査に関連しては,日本側がこれまで,この会長の出自を「無闇に忖度したがごとき処理」に済ますことにしてきたために,当事者であるJOCが「その場しのぎ」的に第三者委員会を設置しただけで,その報告書による根拠もない「お墨付き」を与えるに終わっていた(郷原信郎の指摘)。

 すなわち,この「竹田問題」は日本側において体よく先送りしされてきた。だが,今回,日産のゴーン問題と符牒を通じさせたと受けとられるほかない「フランス側からの事件喚起」(問題提起)は,もともと時限爆弾である性格をかかえていた。

 ⑤「東京五輪招致の裏金問題で “厚顔” 答弁 … JOC竹田恆和会長に自動車事故で女性を轢き殺した過去が!」(『リテラ』2016.05.18,https://lite-ra.com/2016/05/post-2254.html〔~〕

 「竹田氏は40年ちょっと前」の〔いまからだと45年前の〕1974年10月22日,「若い女性を轢き殺す交通事故を起こした」。「竹田選手の事故責任をとり,東京都チームは23日朝,この日以降の全馬術競技の出場を辞退することを決定,大会本部に連絡した」。「40年以上前の話とはいえ,こんな重大事故を引き起こした人物が,いま,日本の五輪組織のトップに君臨している」。とくに「問題だと思うのはこの事故の後の竹田氏の身の処し方だった」。

 「明らかに竹田氏側の過失だと思われるが,竹田氏は重い刑事責任を問われることもなく,ほどなく馬術競技に復帰。事故から2年も経っていない1976年に開かれたモントリオールオリンピックに出場している」。「通常の会社勤務なら,死亡事故を起こすと解雇になるケースも多いし,スポーツ選手では最近,バトミントン五輪代表選手が違法カジノに出入りしていただけで,無期限の競技会出場停止になり,リオ五輪の出場権を剥奪された。それらと較べれば,雲泥の差だろう」。

 「被害者と示談が成立したというのもある」「が,竹田氏の場合はやはり宮家の威光というのが大きかったようで」「周辺の政界人脈が動いて,事故の影響を小さくし,すぐに復帰できるようにお膳立てした」。「復帰したとき時もほとんどマスコミには叩かれなかった」(スポーツ関係者)。
 註記)https://lite-ra.com/2016/05/post-2254_2.html

 「もちろん,交通事故は過失であり,人を死なせた人間にも人生をやり直すチャンスは与えられるべきだ。しかし,これだけの大事故を引き起こしていたら,やはり五輪のような華々しい表舞台からは身を引くのが普通の神経だろう。ましてや,竹田氏の場合は,事故の影響で東京チームが連帯責任をとって,国体の出場をとりやめているのだ。それが,本人がすぐに五輪出場とは……」。

 「しかも,竹田氏はこの後,1984年のロサンゼルス五輪で日本選手団コーチ,1992年のバルセロナ五輪で日本選手団監督と,JOC内部でどんどん出世していくのだ。そして,2001年にはとうとう日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任し,以来,16年〔19年目〕という長い期間にわたって,JOCトップに君臨しつづけている」。

 「JOCでの力は完全にコネですね。竹田さんの父である竹田宮恒徳王が戦後,JOC会長,IOC委員を務めており,JOCは以前から竹田家と縁が深かったんです。それで,父君の時代の側近たちがお膳立てして,息子の恆和さんのJOC会長への道筋をつけたんです」(前出・スポーツ関係者)。

 「つまり,竹田恆和という人物は,どんな不祥事を起こしても周りがカバーしてくれて,出世の段どりをしてくれるという環境のなかで生きてきたのだ。そして,本人も無自覚にそれに乗っかっていく」。

 「そういえば,2020年のオリンピックの開催地を決めるIOC総会前の会見で,外国人記者から福島原発の影響を聞かれて,竹田会長は『福島は東京から250キロ離れており,皆さんが想像する危険性は東京にない』と発言。まるで福島を切り捨てるような,あまりに他人事な発言に批判が殺到した(といっても,海外メディアとネットだけで,国内マスコミはほとんど批判しなかったが)」。

 「要するに,こういう人物だから,今回のような贈収賄に問われる重大事態が起きても,まったく当事者意識がなく,問題解決ができないのだろう。いや,今回のことだけでなく,これまで起きた国立競技場やエンブレム問題などもそうだ。竹田会長の当事者意識のない無責任な姿勢が森 喜朗氏や電通の暴走を許し,さまざまなトラブル,不祥事を誘発してきたともいえるだろう」。
 註記)https://lite-ra.com/2016/05/post-2254_3.html

 前段の『リテラ』の記事は,最後に「こんな人物がトップにいるかぎり,東京五輪の混乱がまだまだ続くであろうことは間違いない」と断言していた。このように批判されていた竹田恒和が,こんどは,

 「竹田会長『訴追』で東京五輪の危機を招いた政府・JOCの『無策』」(郷原信郎)とか,「フランス司法当局による竹田JOC会長贈賄容疑捜査の衝撃」(天木直人)とか批判・表現される事態を招来させているのだから,いまさらながらとはいえ “罪作りなこと” このうえない。
 
 安倍晋三は東電福島第1原発事故現場のことを,嘘つき同然に “under control” だと語っていたが,竹田恒和も同類・同質のまやかし発言を犯していた。福島県民,とくに被災地の国民たちの生活・健康・生命を無視し,愚弄する「決めつけ」を,無情にも放っていた。
   安倍晋三と竹田恒和アンダーコントロール発言
   出所)安倍晋三と竹田恒和,https://twitter.com/ogawabfp/status/376667360033124352

  【ブエノスアイレス=共同】 安倍晋三首相は,東京電力福島第1原発の汚染水問題について「汚染水の影響は完全にブロックされている。世界でもっとも厳しい安全基準がある。日本にやってくるアスリートに責任をもつ」と述べた。(引用終わり)
 註記)「安倍首相『汚染水は完全にブロック』IOC総会で」(nikkei.com 2013/9/7,https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK07016_X00C13A9000000/)

 もっとも,日本に原発問題に関して「世界でもっとも厳しい安全基準がある」かすら疑問があった。「汚染水の影響は完全にブロックされている」保障もいまだ確保されていない。それゆえ「日本にやってくるアスリートに責任をもつ」というのは,安倍晋三に特有である “いつものウソ” のひとつに過ぎない。竹田も安部のウソに口裏をそろえていた。
 日本でわざわざ絶対的に開催する必要などない五輪大会である。それも2020年の盛夏に東京で,もっぱらオリンピック貴族たちための栄華とミエのために,庶民たちが「感動詐欺」で騙されながら,酷暑のなか大汗をかきボランティアに励む姿が,いまから目に浮かぶ。1人でも熱死者が出なければいいが……。

 ------------------------------
    ※ 以下の画像には「Amazon 広告」へのリンクあり ※