久しぶりに昨日ブログを書いて、、、、動画も良いけど

活字で残して置かなければならい事もあるなと思い連日投稿します。

今日は交通事故の際に必要な自動車の修理【鈑金塗装】の歴史を時代【市場や日本歴史も含めて】の流れと共に

照らし合わせながら辿って行きたいと思います。(皆さん多分、興味無いと思いますがW)

先にお断りしておきますが、このブログは公式な論叢や論文ではありません。

僕がこの業界に入っていつも【なんだこれ?】って感じる不思議な出来事があった時に

今まで調べて来た(図書館へ出向き当時の新聞を読んだり、ネットで調べたり)事を

この僕の(スペック低めw)記憶を元に書いてるので、あまり当てにしないで下さいねw

間違ってる事もあるかも知れませんので
週刊誌レベルだと思って読み流して下さいね

ちなみに記憶・記録を全部書くと著書なみに長くなるので簡単に行きますね(って言いながら長くなる予感)

まず僕たちの仕事である鈑金塗装って自動車の事故を直す仕事って事で、

その自動車があって初めて成り立つ仕事なので自動車の始まりから話しましょうか


まず日本に初めて【自動車】と言う物体が入って来たのは明治31年(1898)の事

フランス人が船で自分の車を持ってきました、車の名前は【パナール・ルバッソール】

ガソリン車です。

当時の日本は人力車や鉄道がメインモビリティーだった為か、あまり大きくメディア【新聞】は

取り上げていなかった様です。【でも地元の人達はさぞ驚いたでしょうねw】

そこから6年後の明治37年(1904)に岡山?だったかな、確か電気屋さんの方が

蒸気自動車を日本初の国産車として完成させます。

日本の自動車産業の発端です。

さらに5年後、明治42年(1909)にスズキが出来て、

大正4年(1915)梁瀬が輸入車販売を始め、続いて三菱

日産、トヨタの順で自動車の産業が一気に加速する【多分・・・】

実はこの頃に同時で毎年、規模の小さい保険会社が誕生しまくってます

例えば、初めて日本で出来た保険会社は今の明治安田(明治22年1889)ですが、

その以前から

明治21年(1888)には東京火災保険(東京海上ではありません)があったり

その明治安田も当時は別々で明治火災と日本火災でした、日本生命ってのもあったかな

その後、明治26年(1893)には日本海陸保険・帝国海上運送保険・大阪保険など

数々の保険会社が誕生しています

この大阪保険は今の三井住友海上火災保険ですね(地元地元♬仲良くしようね)

尼崎海上火災保険ってもあったけど損保ジャパンになったから今は地元じゃな無いか(残念)

そして時代は昭和14年(1939)になって

第二次世界大戦や太平洋戦争が起こり多くの日本人(一般市民)が被害を被り

終戦したのは昭和20年(1946)直後にGHQによって【自動車生産禁止命令】が出される

たしか終戦日が8月15日だったと思うのですが、その前日の14日にトヨタの自動車生産工場は

空襲によって大打撃を受けています(第二次世界大戦 昭和14年9月1日~昭和20年8月15日)

この事から、【日本にはいったん移動制限をかけた方が良い】という思惑があったんじゃ無いかと

勝手に想像してます

その2年後には制限付き(小型車や1500cc以下・年間300台など)ではあるが解除される

その翌年 昭和24年(1948)に本田技研工業 HONDA が自動車産業に参入しています

そして戦後、兵士として出征していた若者が一気に日本に帰国して

第一次ベビーブームが起こる(当時の出産数269万人)ちなみに現在の出産数をネットで調べてみたら

79万人でした。今の3倍以上の数です。


そして昭和30になった頃から世間で言うマイカーブーム(モータリゼーション)

が始まり(当時の総理は鳩山政権)一気に車が日本のモビリティー産業になっていく

制限が無くなり自動車が量産され(初のクラウン発売・初のサニー発売)町中に車が走り出し

交通事故が頻繁に起こる様になりました、当時の資料にありましたが

この時の流行語大賞が【交通戦争】だったそうです(正式な流行語大賞ではありませんw)


この【交通戦争】は皮肉の造語で、日清戦争での日本人の死亡者が2年間で1.7万人だったのに対して

当時の交通事故での死亡者数がその数を上回った事からこういう言い方になったんでしょうね


理由は大きく2つ

①ベビーブームで急激に増えた子供が成人になって車を運転し出したから

②交通インフラが自動車産業に追いついていない


他にもあると思うますが、この要因が大きいと思います


ちょうどその頃に初の映画ゴジラが公開されたり【カミナリ族(つい最近の暴走族)】が誕生したり

そんな事はどうでもいっかw

さて、時代はここから高度成長期(昭和30年~昭和48)(1955~1973)に入り

景気はどんどん復興と共に工場やビルなどガンガン出来て行きます

確か集団就職なんて言葉もこの頃に出来ましたね

その頃道路交通法(公布は昭和26年1951)が強化され自賠責法(強制保険)もスタート

ガソリン車に対するCO濃度規制やマスキー法で昭和版SDG’sですかね?

地球を守ろう(大気汚染から)が始まります


さてさて、やっとここまで自動車産業の歴史をサクッとおさらい出来たって事で

本題の鈑金塗装(車体整備)の始まりについて話していきます

実は日本での板金(鈑金)塗装の先駆者みたいな人物は歴史上に記録は無く

たぶん『俺や俺や』がぞろぞろいる状態で、残念ながらッキリしていません

若い時(暇な時期)に色んな当時の媒体や工業系大学院教授の論叢や論文を読んだけど見当たらなかった

しかし総合的にいえるのは戦後(昭和20年頃)からじゃ無いかな?と想像しています

その以前から板金はあったかも知れませんが、それは多分、、、大工さんです

大工さんがハンマーや当て版・当て木の様な物を使って大破した自動車だけを

何となく走れるようにしていたんじゃ無いかと推測してます(勝手に)

政府の規則認定や法制度の記録を見る限り昭和26年(1951)に

優良自動車整備事業者認定規則(ここで自動車整備をして良いよってお墨付き)

が行政公布されてる事から、まずは一般整備の方が優先的に制度設計されている様子が分かります

もっと言えば最初に車検制度を言い出したのは明治36年(1903)愛知県が発端で

乗合自動車営業取締規則
って名前でした

そして車体番号義務化も明治40年に出来て

法制度の側面から見れば、鈑金塗装に触れられる様な条文や規制のような物も

見当たらないし、昭和40年までどこにもありません。(僕の勉強不足かも知れませんが…)

やっと鈑金塗装に関する法整備が出来たのは昭和40年初期から板金塗装(鈑金塗装)の

複数事業者が集まって団体組織ができ、国土交通省から認定・認証(昭和44年)を受け

事業全体の調査・研究・共同宣伝などを行いはじめている公的記録はありました

翌年の45年に運輸省からわずか14工場だが鈑金塗装の認定工場(車体特殊認定)として

行政のお墨付きを貰い、その後昭和61年(1986)9月に現行制度の車体整備特殊認定工場

(一種・二種)
に移行している。簡単に言えば『認証取ればここで鈑金塗装やっていいよ~』って事で

そして運輸省の工場認定から3年が経った昭和48年(1973)に国家資格である

自動車車体整備士と言う鈑金塗装(車体整備)に関する資格制度が出来る

ちなみにオイル交換や車検整備をしている自動車整備ってのは

整備士資格を持っているがその資格制度は昭和34年(1959)に制定されている

ざっと整備士資格制度から鈑金塗装【車体整備】は14年遅れてって感じですね


とにかく戦後から自動車の交通事故が起こり始めた頃にハンマーや当て版などの

鈑金工具を使って鈑金塗装と言う手法で自動車を修理している業者が都心部を中心ですが

全国各地に板金工場があって(何度も言います勝手な妄想です)各々が当社の神の様に

自分で必要な工具は自分で作って試行錯誤しながら凹みを直していたんだと思う

ちなみに塗装はこの時どうしてたんだろう?と言う疑問がここで出ると思うが

実は塗装用のスプレーガンは大正13年(1924)に日本に初めて輸入されていて

その3年後の昭和2年(1927)には日本製のスプレーガンが開発され

昭和5年(1930)にはスプレーガンとラッカー塗料でのコラボで塗装が流行し始めて

国内のあらゆる業種の生産ラインで活用され、業界内では【ラッカー時代】と言われている

さら塗料の方面で言うともっともっと歴史は深く

安政7年(1860)には初めてイギリスから日本に輸入されている(安政って何?w)

そして建築・船・汽車・鉄道などに日本ですでに使われており明治14年(1881)には

光明塗料(現在の日本ペイント)が日本版塗料の開発に熱心に取り組み、イギリスからの

塗料の輸入はほとんど日本ペイントの塗料が代替されていった様です

今でも立派な会社ですもんね、やっぱり歴史を見ればわかりますね

この流れから見ても、もしかしたら戦争前に『車の凹みを直してって言う人が稀に

いたかも知れないけど、多分『変わった人だな・・・』当時はそんな感じじゃ無いかな・・・

戦争中なんて、おそらく自動車の凹みなんて気にしてる場合じゃ無いし

やはり戦後から少なからず何年か自動車産業が大きくなり始めて人口が増え

交通インフラ(モータリゼーション)が始まった頃から財閥や富裕層が表れ始め

ベンツやゼネラルモーターズもすでに輸入が始まっていた事を考えると

その辺りから専門職として『職人業』みたいな(カルチャーとして?)

鈑金塗装が出来て来たのかなと予想している


そして、ここでもう1つ触れておきたいのが板金塗装の工賃

現在の鈑金塗装の事業者のほとんどが

板金塗装の工賃の計算方式は保険会社による

時間(指数工数)と金額(対応単価)で決められている

一方で自社の※アワーレートで換算して見積・請求している工場もあり

※(アワーレートの算出方法は、年間を通して直接作業時間あたりの人件費に間接費比率を掛けた値です。間接費比率は、間接費を直接人件費で割った値)

世の中に大きく分けて2パターン存在します

ま、素人の方はわかり難いかも知れませんが、簡単に言うと

『これ位の時間で出来るよね?』×『これ位の金額だよね?』=工賃 これが指数×対応単価

もう1つは

『これ位の仕事量になります』×『経費と利益でこれだけ頂きます』=工賃 これが自社工数×自社レート
一般的なのはアワーレートで年間支出を把握して工賃を算出して見積もりします。
当社も年間支出に利益計上して毎年、色々な事柄を改善・改良しています
(例えばレートだったり次年度の設備投資の予算など)

昔から今も鈑金塗装業界では

この指数工数とか対応単価って単語が業界内でよく使われます(一般の方はわかり難いでしょうが)

これも鈑金塗装の歴史からみればすぐに分かりました

この摩訶不思議な単語が出来たのはおそらく昭和20年(1948)代初期の頃

これもほぼ終戦直後です

1人の交通事故の鑑定人?みたいな仕事をしている人が業界内で言う『指数表』

と言うものを密かに研修していた

ある記録を見ると昭和23年頃からその研究に没頭していたようです(ここでは名前は伏せます)

その方は鑑定人でもあり鈑金塗装工場の創設者でもあり、その方はとにかく鈑金塗装の

平均作業時間(正味作業時間)を作るのに日々の時間を費やしました。

そうこうしてると同業者の(この方も鈑金塗装工場の創設者)1人が加わり

ディーラーや自動車保険料率算定会(当時こんな会があった様です)

そして第三者機関同士【研究者・ディーラー・保険会社の三者】が

この計算方式で工賃が払われれば、翌年の保険料を考えても

保険の支払いの方も大丈夫だろう、ディーラーもそこに助言しながら最終的に保険会社も

認める指数表
と言うものが完成していく。戦後からこんな会合していたんですね

ちなみにこの2人の工場は埼玉と富山で会社自体は今も健在していますが

(多分もう3代目とかじゃないかな・・・)

言い出しっぺの方は外車系のディーラーになってましたw一抜けしたな!賢い!

まぁそんな感じで料金設定に関わった人間は団体や組合の初代会長などになったり

同じ名前の人間があちゃこちゃの団体や組織の会報や資料に

出来てきて目がチカチカしたのを覚えています

ここで大切な事はいつも僕が動画でもブログでも言ってる【下請け気質】は

この時代から始まっていて、これは少ないが数人の研究論者の論文にも同じ事が明記されていた


それは

【当時(昭和初期)から鈑金塗装事業者は元受け(ディーラー・整備事業者)に自分の技術の単価決定を依存していて自分で自分の工賃(技術の対価・価値)を決める風潮に無く、工賃は元受け頼りの状態であった】


賢者は歴史に学ぶでは無いが

僕はその論文をこの業界に入った10代の頃から見ていました

そんな馬鹿な話し無いでしょって、自分の技術をお客さんなら。。。まだしも

業者に決めて貰うなんてあり得ないし、そんな人から仕事は必要ありません

自分の技術は直接お客さんに必要として貰えるので『大丈夫です!』って思ってました


さぁ、ブログ書き始めて1時間経ったのでそろそろ締めたいですが


このネタ喋り出すと朝まで語れますからね、野球は興味が無いんで語れませんがw

さて、この辺りから保険会社の動きに注目しましょうか

損保は動きが早いですよ~、もっと以前から団体組織を編成しようとしていました

実は損保保険会社が集まった組織【損保協会】が出来たのは昭和23年(1946)の事で

どこかの鈑金塗装事業者の創設者が【指数表】って言い始めたのが同じ年(あれ?)

その後10数年遅れで各地域で鈑金塗装事業者の集り【組合】が出来き始め

その小さな鈑金塗装業者関係の組織【組合】が時間をかけて合併を繰り返し

損保協会が出来てすでに21年も経った頃ですが

昭和44年(1969)全国鈑金塗装事業者の集り【全国の団体組織】になりましたが、しかし!

その4年後。。。。

昭和48年(1973)には各保険会社が出資して【自研センター】と言う会社が設立

またこれが、鈑金塗装事業者の工賃を決める?研究する?利益法人なんですよ

【ここで『何で株式やねん!そこは社団でしょ』って団体でツッコミ講義する所だった思うが・・・】

この頃にもし僕が団体に所属していたら、ピンでも思いっきり講義やっていたと思う

終わった事は良いとしてさらに

同年 ㈱損保リサーチ(各保険会社出資で)設立 そしてこの

損保リサーチに『鈑金塗装事業者に支払う金額は私達が決めます!』と堂々と宣言されます

翌年 昭和49年(1974) コグニビジョンと言うこれまた各保険会社が出資している会社で

保険会社用の鈑金塗装の見積もりソフトが開発され

『あなた達の技術の工賃は、この見積ソフトが基準になりまーす』と宣言され

さらには【コグニ会】と言う、もはや保険会社主導の組織集団まで作ります

どこかの資料に

【コグニ会は自研センターを中心に各保険会社が出資しているコグニビジョンの見積もりソフトを使用している車体整備事業者が集まり作られた】

と明記されてる・・・あれ?

鈑金塗装の事業者の大半は【自研センター】の基準を否定していたような?気のせい?

でも、やっぱ保険会社は賢い人の集りですね!

(嫌味じゃ無くて本当に)

『はい!こっちが仕事やるし、見積もりの仕方教えるから集まれ~』って一声で

多くの鈑金塗装事業者が全国から集まりますから、本当に凄い

翌年、昭和50年(1975)には【全国アジャスター協会】なる社団法人も出てきて

『私たちは第三者です!公平・中立な評価をいたします!

なので金額は私達の見積もりで決まります!』とまた宣言される・・・


ちなみにその後の流れはこうです

昭和56年(1981) 保険会社(自研センター)による【指数テーブル(脱着交換など)】完成
昭和60年(1985) 保険会社による(自研センター)【指数テーブル(板金塗装修理)】研究開始
あ!⇧ここでバブル時代突入!!この頃もしかしたら鈑金塗装事業者は浮かれてたんかな…w
昭和63年(1988) 保険会社による(自研センター)【指数テーブル(鈑金塗装編)】発表!!


誰に向けて・・・w


この頃、各都道府県で板金塗装の工場や事業組合は保険会社に対して

『こんな指数は実数とはかけ離れているんだよ!もっと工賃払え!上げろ!』と

損保協会に対して講義や交渉はやっていたそうですが・・・


すでに外堀を完全に埋められていた事に気付く事無く時は経って行く

バブルでホワホワしてのかな?

そしてXデーは突然来た

はいドン!

平成6年(1994)いきなり交渉窓口になっていた損保協会の方へ公正取引委員会から


公取『独占禁止法に抵触してるから鈑金塗装屋さんの集団組織と交渉も含め金額決めたらダメよ』


と指導される、、、、される、、、された?させた?

(ちなみに公取は誰かからの根拠のある通報が無い限り動きません)

誰なんでしょうね、このタイミングで通報するのは

というより通報して得するのは誰でしょうね?深く考えなくても分かりますよね

自研センターが出来た昭和48年(1973)から平成6年(1994)まで

この・・・・21年間・・・あれ?

なんかいい感じっすね・・・

たまたまですよね、うん!たまたまに違いない!(そう言い聞かせるしかない)

では簡単に直前の歴史を振り返ってみましょうか

この平成6年(1994)に公取の指導が入る前年

平成5年(1993)には先ほど言った保険会社による

【各保険会社が出資している自研センター主導のコグニ仲良し下請クラブ】が出来て

翌年の平成7年(1994)に各保険会社による下請制度(DRS)が損保協会によって正式に

始められたのも・・・

5年前(昭和63年)に各保険会社が出資している自研センターが【鈑金塗装の指数】を完成させたのも

その3年前に研究し始めたのも、そのちょっと前に【指数テーブル】が完成したのも

ぜ~んぶたまたまですよね!

僕がアジャスターの立場で鈑金塗装事業者に

『これってたまたま?』と質問されたらこう答えます

『お、おそらくたまたま時期が重なっただけですね!💦』ってね

さて、勝手な妄想はこの辺にして業界の動向を市場も混ぜて見てみましょうか

その後平成12年(2000)から平成16年(2004)にかけて

日本火災海上保険と興亜火災海上が合併し

その後太陽火災海上と合併して日本興亜損害保険が誕生

住友海上と三井海上火災が合併してた三井住友海上火災保険が誕生

安田火災と日産火災が合併し損保ジャパンになり(最近話題ですね・・・)

東京海上火災と日動火災保険が合併して東京海上日動火災保険になったのが2004年

そして㈱翼システムっていう、ふざけた会社が鈑金塗装業者にカーコンビニ俱楽部って言う

看板を法外な金額で板金塗装の工場に契約させまくり(平成11年38億の所得隠しで幹部全員逮捕)

営業スキルや市場の流れを知らない・勉強もしない職人上がりの鈑金塗装の経営者は

『これで一般客を集客するぞ~!』と意気込むも、現実はそうもいかず

大半のフランチャイズ加盟店はあっけなく看板だけが残り

結局は下請けを継続、もしくは廃業

この時の㈱翼システムが集めた金の大半は、板金塗装の職人が汗水流して得たお金です

僕が10代でこの業界に入った時に、このシステム(スーパーフロントマン・ヤマト車検・カーコン・)

が巷でも同業者の日常の会話の中に出て来るようになり、当時の鈑金塗装の経営者は

ECや営業知識は無いものの【直需の客は喉から手が出るほど欲しい】と言う願望だけは強かったので

希望願望が前に出過ぎて盲目になってしまい多額の契約金とソフト使用料だけ払わされ

それに見合った客は当然来ず、結構な数が廃業に追いやられました

それを見ていた10代の僕は【この職業にフランチャイズは向いて無いな】と気づきます

コンビニやラーメン屋なら向いてるんでしょうけどね(立地条件と人材教育さえ整えば)

そして鈑金塗装業界が右往左往してる、そんな頃

中古者販売・買取業者が時代の流れに乗って活気が出てきます

大型中古車買取店ガリバーが誕生(平成6年)、ユーポス誕生(平成9年)、ネクステージ誕生(平成10年)

YANASE『アウディも売りまーす!』(平成13年)
YANASE『外車の保険下請制度は私達が仕切りまーす!』thebodyShopnetwork設立(平成13年)

さすがYANASEさん、保険会社のやる事を自社でやってしまうから男前

そして今話題の。。。

ビッグモーター『ハナテン(近畿で有名な買取店)買い取りまーす』(平成17年)


また外資系保険会社も国内保険業に参入して来て、鈑金塗装業界にスルっと入りこんで来ます

ソニー損保『仕事欲しけりゃここに集まってね~』即日安心365下請制度 開始
翌年『即日365はやり過ぎたな・・・』って事で【S.male(スマイル)工房】へ名称変更

続いて損保ジャパンも日本興亜と合併を機に
   『仕事欲しけりゃここに集まれ!』下請制度AIRオートクラブ設立
   (日本興亜の下請集団NKオートクラブと損保者パンの下請集団AIRジャパンが合併)
   おいおいニッセイ『仕事欲しいか~』下請制度 まごころ工場 開始

AIGも『私達も結構事故の客を渡せまっせ!』下請ネットワーク 設立

鈑金塗装業界って保険会社ゼネコン?もしくはBPゼネコンになってますね

構図が完全に大手によって構築されてるので工賃を圧縮されるのは不可避です

少なからず当社もその恩恵は受けてますw(これは皮肉です)

はぁ・・・そろそろ疲れて来た、(ここまで読んでる人おんなかな?w)

ま、僕にとってはこの頃はライブドア事件や姉歯事件に村上ファンド

つぶやき会見の船場吉兆などこの頃、毎年どこかの業界が叩かれてるイメージでしたから

こんな感じでいつかこの構図【下請制度】【事故車を指定工場へ誘導】【提携工場システム】

はいずれ、何かしらの問題を起して時の人ならぬ【時の業種】になるだろうなって思っていました

また、ちょうどこの頃なんですよ僕が板金塗装の会社で独立したのがw

以上、見て分かる通り、時代の流れに乗ってない板金塗装の業界。。。。

指定工場の誘導システムがもたらすユーザーのリスク、そして保険会社も何かあれば

巻き込まれ金融庁からリーソクで改善命令が出る事がビッグモーター事件で分かった

指定工場システムは市場の流通をコントロールしていた事実であり

ビッグモーターの損保ホールディングスに対するブランディングだけは完璧だった

コンプライアンス順守【第三者機関の認証】・最新設備・値引き【対価の寄与】

(保険会社からビッグモーターに誘導されていた事故の保険修理は1年で4万件以上)

誘導システムによって主語から【お客さん】が無くなり、挙句の果てには

預かった車のヘッドライトを割る、靴下ゴルフボールで凹ます、大袈裟な修理画像を偽装。。。

最近の若い世代の言葉で言うと『しんどいしんどい・・・w』

指定工場が悪いとは言いませんが

保険会社向けのブランディングに必死になり、BPゼネコンの頂点にフロンティアを

見出して『あそこの工場よりうちの工場の方がイケてる』みたいな

頭の中から【お客さん】と言う言葉が無くなってしまうこのシステムは業界にとって麻薬です

自動車事故の修理は2つとして同じ修理は無く、毎回が技術者の腕の見せ所です

その腕の見せ所を作ってあげて欲しい、自分達の技術力がブランドであり

本来はその技術力が一般市場に出て自由競争が働いて活性化されるものである事を

保険会社さんにも、、、、もう少しだけ理解して欲しいと思います(素直に)

(当社に普段、立ち合いで来るアジャスターは理解してくれてますが)

以上、歴史から見ても論文にあった通り『下請け根性丸出し歴史』は今も健在です

思えば需要があるからこんな、くだらない下請制度【指定工場制度】が一気に広がる訳で

お客さんはユーザーでは無く保険会社!

板金塗装経営者Aさん『安定した仕事を下さい!何でもやります!』え?

いかに保険会社に従うか、『代車は無料で用意しとけよ』『レッカーで無料で取りに行けよ』『見積や洗車なんかはサービスな』『俺らの顔建てろよ』後は修理が終わったら値段はこっちが決めるから

『よろしくな!』で通るなら

そっか!

BICチャンネルBP下請network作ればいいやん!

お客さんはこっちで用意するんで『後は頼んどくな!』『安く早く綺麗にな!』

アホか。

終わり