座席の肘掛けに置いていた僕の手の甲を、ユカさんは不意に握り締めてきた。


暗がりの中、僕は彼女の方を向いたが、その表情は窺い知れなかった。


握る手を少し緩め、深呼吸をひとつしてからユカさんが言葉を続ける。


「さっき東京の話したよね?」

僕は静かに相槌を打つ。

「あの時花クン、一緒に暮らそうって言ってくれたじゃない?」

表情は判らないが、握り締めてくる掌の強弱から、ユカさんの感情の起伏が伝わる。


「ああ、まぁ…勢いってのもあるけど、何かふとそんな気がしたんだ」…とか、何だか今ひとつ気の利いた返事を出来ない自分に少し腹が立つ。


「今度は私から提案というか…花クンこっちで暮らす気は無いかな?」


う〜む…


う〜〜〜〜〜む…


ナンダロウ……一瞬そんな妄想をしていたのを見透かされていたのかどうか判らないけど、自分のなかで「ソレは無いな」と勝手に自己完結させてた事を、相手側から切り出されるとえらい返事に困る。


とはいえ、結構シリアスな空気な手前もあるし、お茶を濁すような返事も出来ない。


「少し考えさせてくれないかな?」


その空気の中から逃げたかったのもあって、僕は手を振り解いて車から降りた。


表でタバコに火を点ける。


ここの外気は、海沿いのそれとは違って少し涼しく、何処かに秋の気配をも感じさせた。


ふと空を見上げると、無数の星が輝いていた。


いつの間にか傍らに来ていたユカさんに向かって話しかける。


「凄い星空だなぁ…標高が高いせいもあってか星がかなり近く見えるねぇ」

「うん。私はずっとこの星空を観て育ってきて…でも東京では殆ど見えなくて…それが一番寂しかったのかもしれない」

「特に夏場はスモッグのせいか、金星以外の星は殆ど一等星くらいしか見えないからなぁ」

「意外と星座とか詳しい人?w」

「ガキの頃色々調べててねw むかし取った杵柄っつーかw とはいえ…東京じゃ殆ど冬場くらいしか天球儀とかプラネタリウムで観てた星を確認することは出来なかったんだよなぁ(´・ω・`)」

「冬の大三角形とか、理科でやったの覚えてるw」

「そうそうw 今は夏なので…こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルを結んだ夏の大三角形だな。ホラ、この上にあるのがベガだから…そっから見た目左が…」


何でこういう展開になるのかよー判らない (´・ω・`)

とはいえ、童心に返って僕等は星空を見つめていた。


出来れば、マユたんにも教えてあげたかったが、さっきから爆睡しまくりーので車から出てくる気配すらない。


「冬と夏では観える星は違うよね?」

「違うね。冬はオリオン座とかが代表的な星座だわ」

「オリオン座知ってるw ベテルギウスがある星座だよね!w」

「そうそうw 何か妙にそこだけ詳しくない?w」

「何故かそれだけ頑張って覚えたんだよなぁ…なんでだろう?w」

「ちなみに、それとおおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンで冬の大三角」

「おーー! 花クンすげーwww 見かけによらないっていうかwww」

「シリウスというのは、太陽系外では一番明るく見える星で(以下略」


その時は、ホント何気ない、他愛無い会話だと思いつつも…同時にこの時間がいつまでも続いてくれたら幸せなのかも知れないとも心の何処かで感じていた。


この星空そのものは、何億年もの間繰り返し繰り返しては広がってきたものなのに、僕等が共有し、共に目に焼き付けた瞬間はこの時だけのものなのだ。


「そんなに星が好きなら、ここに住みなよ」

「う〜ん…まぁそれも悪くないかなとは思うのだけど、俺にも地元はあるし、まだやり切れてない事とか相応にあるから、とりあえずこの旅を終えて帰京してから考えるって事でいいかな?」


よー考えると互いにかなり勝手な事言ってる気もするのだが、一つの方向に向かって流れ始めた勢いというのはそうそう理性的に片付けられるモノでもなく、それが時折人間関係の軋轢の元にも繋がったりするわけでなかなかにややこしい。


そもそも、この旅を始めたきっかけは、学生時代のうちにしか出来ないような事をしておきたかったという所から始まったように思う。


学生とはいえ、相応にしがらみみたいのもあるし、未熟とはいえ小さなコミュニティの中に僕もいて、一度そこらから全て離れた所で色んな事を振り返ったり考えたりする時間がとにかく欲しかったのだ。


思えば、一番身勝手なのは僕なんだよね(´・ω・`)


仮に、りさと自分の立場を入れ替えて考えてみたら…


旅立つのを果たして許していたのか疑問である。


何故一人で行くのか? 

いつ帰ってくるのか?

そもそも何をしに行くのか?


その真意を明白に語らないまま、振り払うようにして僕は旅立ち、そしてここでどう考えても浮気まがいの事をしてるアホを他人はどう思うのかって話だ。


そんな感じで自虐思考モードに再突入していた僕にユカさんが語りかける。


「まぁ…私も思いつきで言っただけだから、気にしないでね。何となく、花クンは東京の人って感じがしないっていうか…本質的には自然の中で生きてくのが好きな人なんじゃないかなって直感みたいなのがあって、そんで聞いてみたんだ」


「う〜む。。。まぁ確かに、僕は本当に自分が帰るべきところは何処なのかってのをいつも探してる気はするので、それも選択肢の一つかなとか思い始めてはいるのだけどね」


「そういうのって、ある意味一生モノの選択だろうしね。じっくり悩んでベストな答えが出せればいいね…まぁ、彼女さんのコトなんかもあるだろうし」


「ん〜〜…その件なんだけど、東京帰ったら別れ話するつもりなんだわ」


それまで思ってもいなかったようなコトを、僕は口に出してしまった。


いや、それは心の何処かでそう思っていたのだろう。


思っていながらも、そうするには様々な葛藤があって、それが今話していた中で段々と固まってきただけなのかも知れない。


どういう形でか、僕は自らの罪を認めないといけないし、それに応じたケジメをどこかで付けていかなくてはならないように思えた。


何故人は時として他人を傷つけないと生きて行けない瞬間に遭遇するのだろう?


ありふれててもいい、ささやかでもいい、何となくホンワカとした幸せな時間の中で本当は生きていたい気がした。


旅立つ前に、りさが語っていたような世界とも換言できるだろう。


だがそこは、簡単に辿り着けそうに見えて…


実は一番遠い世界だった。


少なくとも、この時の僕にとっては。


【つづく】


BGM:Spitz 「ありふれた人生」