<あれも聴きたい、これも聴きたい>

第7回クラシックギターフェスタ in 南港ATC

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展示会場風景(上)と会場の一角で展示楽器を弾く徳永真一郎君(下)

◆21(土)・22(日)と、大阪住之江区にある南港ATCで開催された〝第7回クラシックギターフェスタ”へ行ってきた。
合計33名の製作家の方々が出品されており、内訳としてはプロとして既に名を成しておられる2・3名の方と、その他大半を占めるアマチュア(というかプロ予備軍)の方々の手になる、1本ないし2本のクラシックギターの展示試奏会といったところだろうか。
◆基本的には出品されている製作家の方々のPRの場ということもあろうが、大半はいろいろな人に製作した楽器を弾いてもらった上で忌憚のない意見を聴きたいという趣旨なんだろうと思う。中には自信満々に「私のギターの良さを解らないやつは素人だ」とでもいいたげな製作家の方もおられたようで、そんな方がなぜこんな場に出てこられているのかちょっと不思議な感じもした。

◆ある製作家の方から事前にいただいていたパンフレットには、それぞれ製作家の方々のプロフィールや製作する意図、意気込み、信条、目標などが書かれており、一通り読んでみたが、徳島の井内さん以外、全ての方が目標としてその「音」にしか言及されていないのはいささか残念な思いがした。
◆私はクラシックギターの良し悪しを決める条件の筆頭にくるのは、まずその「弾き易さ」だと考えている。道具というもののあるべき姿を考えた時、扱い易さは全てに優先する。つまりギターの場合、弾き易さが第1に上げられるべき最優先事項であり、そのことが考慮されていないもの、あるいは不足しているものは、その時点で評価対象にならないと私は考えている。
綺麗な音のする楽器はいくらでもある。多少の好みは別れるかもしれないが、製作家の方が精魂込めて作った楽器はどれもみな美しい音がするものだ。しかしいくら音が美しかろうが、いくら音量が大きかろうが、弾きにくければ誰からも選ばれない。少なくとも一流の演奏家がそのような楽器を選ぶことはないだろう。
◆音のみに注目して楽器を選ぼうとすると選択肢はいくらでもある。しかし本当の意味で、つまり個人の好みを越えたところにある、基本的な弾き易さを第1条件にすると、途端に選ぶ楽器がなくなるものだ。当然「弾き易い」とは具体的にはどんなことを意味するのかが問われることになる。
◆また売りに出されている名器といわれる楽器が全て弾き易いわけではないので、ことはそう簡単にはいかない。むしろそうでない場合の方が多いことは、来日する一流演奏家が使用しているそれらの楽器を弾かせてもらうとよく解る。楽器店でたまに見かける通称「名器」と呼ばれているものとは、製作者が同じでもその弾き易さにおいてまるで別物であることが多い。
いつだったかテレビであるヴァイオリニストが、所有するストラディヴァリについてのインタビューに応えて、「ストラディヴァリの真価は、その美しい音のみにあるのではなく、その魅力ある音が簡単に出せること、そして魅力ある表現が苦労せずにいとも易々とできることにあるのです」と語っていたことを思い出す。

◆注意した方が良いのは、よく言われることだが、「この楽器は何年か弾き込んでもらえば良く鳴ってきて素晴らしい楽器になる」という台詞だ。これは裏を返せば「何年も弾き込まないと良い楽器にならない」ということを白状しているに他ならない。しかし、何年か弾き込んだ後は本当に良い楽器になるかというとあまり信用できないと思っておいた方がよい。少なくとも、良くない楽器を何年も弾き続けなくてはならないことになるので、かなりの覚悟と忍耐を要することになる。
ジュリアン・ブリームが新しい製作家の発掘、育成に貢献したことは広く知られているが、その歴史をちょっと調べてみると、ハウザー、メンヒ、ブーシェ、M.ラミレス、ルビオ、ロマニリョス等を使用した録音は、ほとんどが完成後1年未満、あるいはせいぜい2年未満と、日の浅い楽器を採用していることに驚かされる。優れたギターは完成当初から凡庸なものとははっきりと違うのである。
◆2日間共に行われた、徳永真一郎君と井谷光明君の各種展示楽器による演奏はなかなかの聴きものであった。このお二人の演奏を聴くのが目的の半分を占めていたのだが、いずれ劣らず切れの良い聴き応えのある演奏を聴かせてくれたのは幸いであった。両君とも弾き慣れない楽器を持たされて模範演奏をという、ある意味理不尽とも思える要求をものともせず、立派な演奏を聴かせてくれたことには感謝のほかない。

村治奏一 ギターリサイタル

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◆4月12日(木)、兵庫県芸術文化センター小ホールにおける、村治奏一君2回目のリサイタルへ大野先生とご一緒させてもらったが、奏一君は昨年の同ホールでのリサイタルよりもさらに進化していた。
無粋な解説がましいことは何も必要ないだろう。目を閉じ、ただただ彼の奏でる音に身を任せるだけで、イグナシオ・フレータの美しい音色と、時代を超えた香り高い音楽に浸ることができる。大野先生も「今の日本で、これだけの演奏を聴かせてくれるギタリストはめったにいない」とひとこと。これこそ至福の時間というものだ。
溢れる才能に恵まれた若者が、充分な練習と経験を重ね、そして私の知る限り、誰よりも真摯な心をもって私たちの前に登場してくれている。悪かろうはずがない。村治奏一君は、日本において今最も信頼のおけるギタリストであり芸術家だと断言してもよい。

加納木魂、製作60周年

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◆昨日、4月14日(土)、名古屋のミューズ音楽館において、クラシックギター製作家、加納木魂(かのうこだま)さんの製作60周年を記念したイベントが開かれ、私も出席してきた。
◆冒頭、長年加納さんの理解者であり、自らも加納ギターを所有するミューズ音楽館の社長、山下さんによるインタビューから始まった。
◆その山下さんの問いかけに対し、父、木鳴(もくめい)さんの後を継いでギター製作を始めることになった若い頃のお話や、ギター製作における信念など、はるか昔の記憶をたどるように視線を彼方に置き、ときに瞑目し言葉を選びながら、あくまでも控えめにとつとつと語っておられたが、居合わせた私たちは、その姿に本物の、そして偉大な職人の姿を見た。
◆私が名古屋にいた若い頃、毎月のように木魂さんの工房を訪ね、ニスの香りたつ真新しいギターを数多く弾かせてもらったり、自分の楽器の修理をしていただいたりして、計り知れないほどお世話になっていたが、私が大阪に転居してからは、お会いする機会もずっと少なくなり、ご無沙汰ばかりであった。
◆今でもひとつ、心に引っかかっていることがある。それは私がヘスス・ベレサール・ガルシアを手に入れた1975年、それまで使用していた河野 賢 作のギターのフレットの打ち直しを木魂さんにやっていただいたが、その時、代金は?との私の問いに、木魂さんははにかむように笑い、ついにいくらとはお答えにならず、結局その時の代金は払わせていただけなかった。
また私が木魂さんに楽器を見てもらえないかと依頼されて、工房へ通い始めたころ、一度こんなことがあった。いつものように新しい楽器が完成したという報をうけて工房を訪ねたときのこと、まだ若造だった私は差し出されたある楽器を弾いたのち、つい「これはなかなかいいですね」と当たり障りのない感想を述べてしまった。すると木魂さんは、笑顔で「いや、もっと思ったことをはっきり言って。だってあんただったら、本当にこの楽器がいいと思ったら絶対に売ってって言うはずやもん。そう言わんということはなんか気に入らんところがあるはずや。私はそれが聴きたいの」とおっしゃったことがある。その時私は、当たり障りのないいいかげんな感想を言ってしまった自分が恥ずかしくなり、その後は木魂さんの楽器について思ったことははっきりと言うことにした。世の中の製作家の方の中には、作られた楽器に対し良くない点を指摘するとムッとした顔をされる方も多いが、木魂さんにはそんなところは微塵もない。私は木魂さんが人間としての正直さ、真面目さ、限りない本物への探究心や信念と言った面で、他のどの製作家よりも優れた方だということを知っている。
◆所詮楽器の良し悪しは、その楽器を作った製作家ではなく、演奏する人が決めるものだ。木魂さんは確固たる信念のもと60年もの長きに渡って製作を続けながら、そのことを最も理解されている製作家ではないだろうか。
昨日久しぶりにお会いして、食事をしながらも懐かしいお話や、木魂さん自らが気に入っておられる楽器を紹介してもらったりと、嬉しい何時間かを過ごさせていただいた。
今回このようなイベントを企画・開催してくれた山下社長に感謝申し上げるとともに、近々改めて木魂さんの工房を訪ね、もう一度いろいろなお話をお聞きしたいと思っている。

岩永善信ギターリサイタル

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◆2018年3月25日(日)大野ホールにおける岩永善信氏のリサイタル。私として彼の演奏を聴くのは、たしか3度目だと記憶している。まずは当日のプログラムから。

第1部
①M.マレー:スペインのフォリアの主題による変奏曲(*)
②M.T.von・パラディス:シチリアーノ(*)
③F.シューベルト:6つのワルツ(*)

第2部
④M.M.ポンセ:南のソナチネ
 1.カンポ
 2.コプラ
 3.フィエスタ
⑤G.ビゼー:『アルルの女』第2組曲(*)
 1.パストラール
 2.間奏曲
 3.メヌエット
 4.ファランドール

以上、(*)印は岩永氏自身による編曲

全プログラム5作品の内、4作品が岩永氏自身の手になる編曲という、彼としては珍しくもないのだろうが、一般的にはあまり見ることのない異色のコンサートであった。

◆感想は?と問われれば、逆にいろいろなことを演奏者に問うてみたいコンサートであった。私が感じたそんな疑問を順に挙げると...

①なぜあれほど細かいミスが多く雑な演奏をするのか?当日コンディションが良くなかったのか、あるいは練習不足だったのか。さもなくば基本的にテクニックが不足しているのか。
②10弦ギターの低音と高音の音量バランスがまったく取れていないと感じたが、それは楽器の責任かあるいはご本人の意思なのか。(低音ばかりがむやみに強調されているように聞こえた)
③ロマニリョスの美しい音色はどこへ行ってしまったのか。
そして最後は
④なぜこれほどまでご自身の編曲にこだわるのか?
そこが演奏者の「売り」にしているところであろうことは理解するが、音楽愛好家としては、ビゼーの管弦楽作品をオリジナル同様の芸術作品としてギターで聴きたいと思う人がはたしているのだろうか?と疑問を抱かざるを得ない。またいかに立派な編曲を行ったとしても、音楽として原曲を越えられるとは到底思えないだけでなく同列に並ぶことすら難しい。(ファリャの「粉屋の踊り」などは数少ない成功例だろう)
編曲は、選曲を誤ると音楽を趣味の悪いゲテモノにしてしまう。ギター愛好家だけでなく、一般の音楽愛好家にこそ「その曲、ギターで聴くのもなかなかいいねえ」と言わせるような選曲と編曲、そして演奏を聴かせてもらいたいと考えるのは私だけではないだろう。

◆プロのギタリストとしての経験と実績は、誰よりも豊富な岩永氏であるにもかかわらず、充分音楽を堪能できたとは言い難い今回のリサイタルであった。

メトロノーム

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◆メトロノームが使えなくなってしまったので、新しいものを購入することにした。ネットであれこれ調べてみると、あるわあるわ、有名・無名を問わずいろいろなメーカーが出てきた。これまではヤマハなどのお店へ行って、そこに置いてあるものを買うものだと思っていたが、便利な世の中になったものだ。

◆メトロノームといえば、最近では音とLEDランプの点滅でリズムを表示する電子式のものがほとんどのようだが、メトロノームは従来通りの針式、機械式のものに限る。正しいリズム感を身に付けるためには、あの針のアナログな動きが重要なのだ。

◆およそ2千円台のものから3万円代くらいのものまで、かなりの種類が見つかった。ただ、有名なウィットナーやセイコー、ヤマハといったメジャーなメーカー以外は、なんだかあやしいメーカーも多く、注意して見ていくと、唯一国内製造をうたう日工精機(商標:ニッコー)という専門メーカーがあることがわかった。

◆いろいろな型式のものがあるが、自宅で使うのだから矢鱈と大きな音が出るのもかなわないので(どのメーカーも商品紹介のところを見ると「音が大きい」ということを売りにしている商品が多い)、写真のような手のひらに乗るほどの小さなものを購入することにした。しかもボディーが高級感のあるしっかりとした木製で、使ってみるとその音もなかなか心地よい。ついている蓋は上下に小さいマグネットが埋め込まれており、被せるとぴたりと気持ちよく収まる。税込4320円。運賃と代引き手数料入れて5千円弱。なかなか良い買い物だった。

◆ところで私の周囲を見渡してみると、練習の時にメトロノームを使用している人をあまり見ることがないが、一体どんな練習をしているのだろうか。
音感に「絶対音感」「相対音感」といったものがあるように、速度感覚にも「絶対速度感またはリズム感」「相対速度感またはリズム感」というものがある。
楽器を弾く限り「絶対速度感」とはいわないが、せめて「相対速度感」は身に付けておかなければならない。
ギターで2重奏、3重奏をやってみると、演奏がどんどん速くなってしまう人は多いが、そんな人は、普段この「相対速度感」が身に付くような練習をしっかりやらなくてはいけない。以前、プロと称するギター奏者の2重奏の録音を頼まれたことがあるが、このときなど、どちらの奏者もこの「相対速度感」が見に付いていないようで、演奏の速さがどんどん変化してしまう。編集のとき、いうなれば「切り貼り」ができずほとほと困ったことがある。

◆微妙なテンポやリズムの変化は、実際の演奏では絶えず頻繁に出てくる。むしろずっと同じテンポ、リズムで弾き続けるケースの方がはるかに少ない。しかしこれを自在にやれるようになるためには、反対に自分のなかに機械のように正確なリズムを刻む時計をもっていなければいけない。何だかおかしなテンポの揺らし方をする人を見かけることが多いが、これなども正確な相対速度(リズム)感が身に付いていないことが原因。必ずメトロノームを使って練習すことをお勧めする。

アリス・アーツ

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◆酒井康雄君から託されたLPレコードの中に、アメリカ出身の女性ギタリスト、アリス・アーツのレコードが2枚含まれていたが、私は現在活躍中の女性ギタリスト、シャロン・イスビンより13歳ほど年長にあたるこの演奏家のLPを、すべて輸入盤だが、これまでに3枚ほど入手していた。しかし酒井君から託されたLPがそれらとまったく被っていなかったのはちょっと不思議な気がして仕方がない。世に出ている彼女の録音は、私が調べた限りではあと2・3種ほどしかないので、これですべてのLPのうちの5種類が揃ったことになる。(何故かCD化されたものを見たことがない)

◆私は生の演奏を聴くことはできなかったが、酒井君が持っていたこのLPのジャケットには、彼女が来日した1979年の日付とともに実際のサインが書かれている。おそらくリサイタルが開かれた名古屋のヤマハホールにおいて、コンサート終了後、酒井君のために書かれたものだろう。(その時酒井君は28歳だったはずだ)

◆このLPレコードは裏表すべてソルの作品ばかりで占められている。
 ①悲歌的幻想曲 作品59
 ②ソナタ 作品15b
 ③幻想曲 作品7
 ④練習曲 作品6の12
 ⑤幻想曲 作品40(スコットランド民謡≪小川の岸辺≫による)

◆あまりポピュラーではなかったこれらの作品を(現在ではそうでもないが)これだけまとめてレコードにしたのは当時としてはかなり珍しいことではなかっただろうか。演奏は充分なテクニックと音楽性で、今でも飽きることなく最後まで聴き通すことができる。
勿論、現在活躍中の若手ギタリスト達に比べれば、格別優れた技巧を誇っているわけではなく、かといって際立つような個性の持ち主でもないが、それでも鼻について仕方がない機械の様なテクニックと、他のギタリストと区別がつかない画一的な表現しかできない、いまどきのギタリストたちとは一線を画しており、今日そんな彼女の演奏を久しぶりに聴いてみると、私としては珍しくも、ギターもなかなか捨てたもんじゃないな、と思えてくる。

酒井康雄君が私に託していったLPレコード

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◆酒井康雄君が亡くなって早や4か月になろうとしている。

◆彼は亡くなる前、「もらってくれたら嬉しいんだけど」といって、若い頃から買いためたLPレコードの内、数百枚を私に託していった。今日はその中の1枚、言わずと知れた名盤中の名盤、若きフィッシャー・ディースカウとフルトヴェングラー指揮によるマーラーの管弦楽伴奏付歌曲集①「さすらう若人の歌」と、同じくフィッシャー・ディースカウ独唱で指揮がルドルフ・ケンペによる②「亡き児をしのぶ歌」を聴いてみようと思った。

◆学生のころギターの他に声楽もやっていたということもあり、声楽は私の中で大きなウエイトを占めている。中でもシューベルトとマーラーの歌曲は私にとって特別な意味をもっている。
このレコードに収められている演奏は、①はフィルハーモニア管弦楽団で録音は1952年、②はベルリン・フィルで録音は1955年。
フィーッシャー・ディースカウは1925年生まれなので、このレコードにある演奏は27歳と30歳になる年の録音ということになる。幸いなことに①②とも初期ではあるがステレオ録音であり、この曲については、演奏、録音ともに他のものはもはや必要ないとすら思えるほどに美しい。

◆「さすらう若人の歌」を聴くと、私が20代の前半、これから自分はどこに向かってどう進めばいいのか思い悩んでいた頃のことがまざまざと映像と共に浮かんでくる。今の自分はそのころ目指したものに成れているであろうか。反省することばかりのような気がする。
「亡き児をしのぶ歌」を聴けば、どうしても若い頃の酒井君のことが、これまた映像として繰り返し繰り返し脳裏に浮かんでくる。

◆酒井君とは長く、一見ギターを通じての付き合いであったが、会えばギターのことよりもそれ以外の音楽の話題の方が多かった。彼の生前の言葉を借りれば、二人とも「間違ってギターを選んでしまった者同士」だった。お互いがギターだけでなく、広くそれ以外の音楽についての話ができる唯一の、掛け替えのない友であった。
今日は「亡き児をしのぶ歌」を聴きながら、亡き酒井康雄君をしのぶ1日となった。
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