<あれも聴きたい、これも聴きたい>

2人の写真

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◆酒井康雄君が亡くなってから、時はさらに速さを増し、無情にどんどん過ぎていくような気がする。このところは、今から40数年前、毎日のように二人で2重奏の練習に励んでいた、若かりし頃のことをしきりに思い出してしまうようになった。

◆二人の演奏場面の写真をしっかり撮っておかなかったことが今さらながら悔やまれてしかたがない。
先回のこのブログにアップしたリサイタルの時の写真が唯一のものだと思っていたが、あちこちさがしてみると1枚の小さな写真が出てきた。
場所は名古屋、都心近くの上前津というところに当時あったYMCAの中にあるチャペル。その頃このチャペルを割と自由に使わせてもらえる環境にあったので、我々二人はここで年に何回もコンサートをさせてもらっていた。この写真はその時の1枚。やはり先回同様、向って右が酒井康雄君。当時なかなかのイケメンでしたね。(そのころは「イケメン」などという言葉は影もかたちもなかったけれど)

◆コンサートは3部構成で、1部と3部が二人の2重奏。2部ではそれぞれが何曲かずつソロを受け持った。
今でもその頃のことをよく覚えておられる方がいて、懐かしそうに話をしていただくことがある。
当時は世界的に見ても常設のデュオは有名な「プレスティ&ラゴヤ」くらいしか知られておらず、「いつかはあのように・・・!」と燃えていた。二人が21か22歳の頃だった。

酒井 康雄君

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◆大切な、私にとって最も大切な友、酒井康雄君が亡くなった。
今月、2017年11月24日(金)彼は静かに息を引き取ったそうだ。享年68歳。
26日13時30分からの告別式にはどうしても出席できないため、前日、25日18時からのお通夜に出席し、棺の中に横たわる彼に心からのお別れを告げてきた。
1年半か2年ほど前大腸に癌が見つかり、切除手術もしたがその後他の臓器への転移が発見され、それからはずっと治療に専念していたにもかかわらず、ついに帰らぬ人となってしまった。

◆先月、10月の19日、何度目かの入院、しかもホスピスへ入ったとの報を聞き、まさかと驚いて急遽名古屋の日赤病院へ見舞に行った。その時は思ったより元気な姿を見せてくれたので少しばかり安堵していたのだが、ここ1週間ぐらいの間に容体が急変したとのことであった。
12月8日に予定されていた、テノールの方とのリサイタルをやり遂げるつもりでいただけにさぞかし無念だったろう。

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◆彼とは以前私が録音・編集させてもらったCD(上)の第2弾を制作するという約束があり、病気が発見される以前にすでに何曲かの録音は済ませていたのだが、残念なことにそれは私も彼も納得できるものではなかったため編集には手を付けずそのままにしていた。
そして今月11月の6日午後、電話で「できたらこの病院の空いている場所を借りてでも録音をしたいんだけどいいかなあ?」と言ってきた。その時の彼のくぐもった声からは、そのまま彼の体調の悪さがうかがわれたが、私は「もちろん!1曲ずつでいいから、機材を持って何度でも行くから!」と答えた。「ありがとう、目途がついたらまた電話するよ」と言って彼は電話を切ったが、私が聞いた彼の声はそれが最後だった。

◆初めて彼と会ったのはお互い大学の在学中で、すぐに「一緒に2重奏を組まない?」と言ってくれた時以来の付き合いであった。
私が1st.彼が2ndギターだったが、彼のアンサンブル力はそれは見事なもので、私がどんなに好き放題弾いても、どこまでもぴったりと的確に合わせてくれた。その実力は素晴らしく、彼とならどんな曲でも弾けるような気がしたものだった。

◆彼とのデュオは何年か続いたが、その間、毎年何回もコンサートを開き、1972年4月18日には、二人の集大成として名古屋の中小企業センターホールという、少しばかり大きなホールで「2つのギターによるコンサート」と題してリサイタルを開いた。ある作曲家の方が我々二人のために作曲してくれたオリジナル作品もその時演奏した。(上の写真がその時のもの。向かって右が酒井 康雄君)当時二人はデュオのプロとしてもやっていこうとお互いに話し合っていた。
そのしばらく後、事情があってお互いに別の道を歩むことになってしまったが、彼は初志を貫き、見事に、そして立派にその目標を達成した。

◆音楽、芸術について彼ほど博識、博学、そして文才があり、また頼りがいもある人を私は知らない。彼が毎年書いていた名古屋ギターコンクールの審査評(現代ギター誌)などは、音楽的、技術的な事に関わらず、その的確さと緻密さ、そして優しさにおいて他の追従を許さないほどだったことは多くの人がご存じだろう。
初めて出会った二十歳の頃から人生終盤にさしかかった今日まで、そんな彼とお互いを最大の理解者として変わらずずっと親友でいられたことは、私にとって本当に幸せだった。

◆今年8月の7日、名古屋の本山にある彼のレッスン室を訪ね、互いに懐かしいなあと言いながら何十年ぶりかの2重奏を楽しんだことは、私の生涯の中で最も大切な、嬉しくそして楽しい思い出となってしまった。できれば残りの人生、折に触れては2重奏をしながら、彼と楽しく過ごしていきたかった。そう約束したばかりだったのに・・・・。

松田 弦ギターリサイタル 2017年10月29日

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◆2週連続で台風にみまわれるなかの松田 弦ギターリサイタル。場所は大野音楽院コンチェルト。久しぶりにプロの演奏を聴かせてもらった気がした。

◆まず彼の奏でるその音が何物にも増して深く美しい。ときには大きく雄弁に、ときにはひそやかに語りかける。そのフォルテは圧倒されるほど強いが、決して楽器の能力を超えず破たんすることがない。またそのピアノは決して他の音に埋没することなく、時にはより多くを聴衆に語りかけてくるのは見事というほかない。私が今まで知っていた松田 弦よりさらに大きく進化していた。

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◆プログラム1曲目のバッハは、通常用いられるニ長調版ではなく、3弦をファ#に調弦したイ長調版とのことで、佐々木忠氏の手になる版を基にしているとのことであった。ニ長調版では音が高く全体的に音楽が軽過ぎるきらいがあり、この作品の真の姿からはどうしても遠くなってしまうと思っていたが、彼の弾くイ長調版ではそういったことはなく、音域、全体の響き、和声感といったものについては、私が今まで聴いたものの中では最も違和感が少なかった。ただその音域がギターという楽器の魅力を存分に発揮できる音域かというとそうとは言えず、バッハの作品を、しかもチェロの最高峰の作品をギターで演奏することの難しさも露呈していたかのように思う。今後バッハの無伴奏ヴァイオリンやチェロの作品をギターで演奏することが一般の音楽界で市民権を得られるのか、それともただギター界だけのものに終わるのか。現在のところごく一部の作品を除き音楽界全体に受け入れられているとはまだまだ言い難いのではないだろうか。今後それを克服していくためには、その編曲の手腕によるところが小さくはない。

◆順不同にはなってしまうが、第2ステージの日本の作品については、彼がかなり以前から大切に育んできた作品ゆえに、いつ聴いても深々と心に沁み入ってくる。これらの作品における旋律と伴奏、それぞれの音の引き分けが絶妙で、「ギターを歌わせるとはこういうことよ」とでもいうかのように、そこにはギタリストとしては類いまれな「歌」がある。聴かれていた方の中には、胸にこみ上げるものを感じた方もおられたのではないだろうか。

◆①レッド・ファンタジー/K.カラハン
 ②アストラル・フレイクス/渡辺香津美(山下和仁に献呈)
 ③ルイス・アロンソの結婚/J.ヒメネス(山下和仁編曲)

以上3曲については、私は今回初めて聴く作品であり、その点においては充分な収穫ではあったが、中では①のカラハンの作品が彼には最も合っていると私は感じた。ちょっと野性的でリズミックで、そしてジャジーなこの作品は、3曲の中では最も彼の感性に響く作品なのではないだろうか。

◆さて、②と③についてはどうであったろうか。まず②の渡辺香津美さんが山下和仁氏のために作曲したというアストラル・フレイクスなる作品だが、渡辺さんには失礼だとは知りつつも辛辣なことを言ってしまえば、なぜこの作品がクラシックギターの世界に存在するのか意味が解らない。何を言いたいのか、あるいは何も言いたくないのか、音の響きを楽しめば良いのか、リズムを楽しむべきなのか、芸術を求めたものなのか、あるいは芸術など求めていないのか、聴衆を喜ばせたいのか、あるいは献呈した山下和仁氏だけが喜べば良いのか、つまるところ私には何も解らない。この作品の存在価値そのものが理解できないのだ。この日の彼の演奏には私は何の不満もない。この不可思議な作品を充分に弾きこなしていたと思う。しかしこの作品を誰が弾こうが、今後多くの人がまた聴きたいと思うかどうかということになると、あまり多くは望めないのではないかと感じるのだが。

③のJ.ヒメネスの作品だが、これはもう「ギターでもそんなことができるのォ!」という受けを狙った、いかにも山下氏がやりそうなシンフォニックな曲。これはもうシャブリエやリムスキー・コルサコフのようにド派手なオーケストラやピアノで演奏すべきものであって、それらの作品同様、芸術的価値を求めるに値する作品とはあまり思えないが、コンサートの最後を飾る一種のファンサービスとして、彼はそのテクニックとエンターテイメントぶりを存分に発揮し、私たちは大いに盛り上がり楽しむことができた。

◆この日、全てのプログラムが終了した時、私は松田 弦という一人のギタリストが、ギタリストの枠にとどまらず、一歩、優れた音楽家、秀でた芸術家に近づきつつあるのを知った。
(写真は昨年11月、兵庫県芸術文化センターでのリハーサル)

猪居亜美&深澤太一ジョイント・リイサイタル

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◆昨日(10月7日)豊中の大野ホールで行われた猪居亜美&深澤太一ジョイント・コンサートへ行った。しかしジョイント・コンサートとうたわれてはいるが、結果的には猪居亜美さんの良いところばかりを再確認するコンサートになってしまった。二人の実力には歴然とした差があるようだ。残念だが、深澤君はそのことをもっとしっかり認識する必要がある。

◆深澤君は昨年度のギター音楽大賞(大阪)の優勝者である。私はそのコンクールを聴きに行っていたが、出場者全員を聴き終わった後でも、彼の演奏したソルの幻想曲はピカイチに素晴らしかった。久しぶりにギターの古典を聴いて心から感動させられた。まったくコンクール向きとは思えない、地味で内省的な作品を立派な芸術作品として仕上げ、私たちの前に披露したくれたのだ。
しかしその時の興奮、感動を抱きながら聴いた今年3月の彼のリサイタル(吹田メイシアター)では、コンクールにおける完成度にはほど遠く、明らかに準備不足が感じられ、少なからず落胆したことを覚えている。演奏された作品すべてにおいて、明らかに練習が不足しているのである。

◆第1ステージ、彼の演奏した「イーライの肖像」というアサドの作品について、新しい作品に挑戦する姿勢は買いたいが、残念ながら技巧的なミスが多過ぎて、はたして一体どういう骨格の作品なのか、全体像がさっぱり解らないまま終ってしまった。また第2ステージでのソルの1楽章のソナタ 作品15については、あまりコンサートで演奏される機会のないこの作品に挑戦する姿勢は立派だが、いかんせん古典の音楽になっていない。最も気になるところはフォルテの音が割れて汚すぎること。当然芸術には個性も求めたいが、古典の作品にはやはりそれなりの品格が求められるものだ。

◆プログラムのなかで重要なファクターを占める亜美さんとの2重奏については、涼しい顔で楽々弾きこなす亜美さんの横で、自分の弾くべき音符がまだまだ十分に手中に収まっていないのであろう、曲の途中で左手が指板の上をうろうろと泳いでしまうことが多々見受けられたのは、やはり練習不足を問われても甘んじて受けるしかないだろう。これでは自身のリサイタルはおろか、亜美さんとの2重奏をステージにあげること自体が無謀と言わざるをえない。ましてや、最後のプティの作品を除いたすべてがギターのオリジナル作品ではなく、ドヴュッシーやブラームスといった、ギターとはまったく関連性のない編曲作品ということになると、よほどの音楽的造詣とテクニックがなければ、ただ書かれた楽譜を弾いてみましたというだけに終わってしまい、音楽が「ゲテモノ」になってしまう。第一、ドヴュッシーの月の光やパスピエといった、ピアノならではな作品を、わざわざギターで聴きたいという音楽愛好家がいるのだろうか。編曲ものはよほど選曲から注意をしなければいけない。ただここでも亜美さんの技術が光っていたのはさすがであるとともに大きな救いであった。

◆昨年のコンクールで古典の音楽に素晴らしいものを見せ、未来の大器を予感させてくれた深澤太一君なのだが、いまのところ聴く度にその評価を下げざるを得なくなっている。コンクールに優勝し、その後プロとなっているのであろうが、プロとしての責任感や使命感といったものが、その技量とともにどれほど必要か、今少し考え直す必要があるのではないか。
今はもう亡くなった私の母が昔、「将来はプロのギタリストになる!」と言った私にこう言った。「バカなことを言っちゃあかん。そんなことお前が自分で決められると思ったら大間違いや。お前にプロになれるだけの器量が本当に備わっていたら世間の方が放っておかんわ!」
そう言いながらも、母は私がギターの道に進むことについて一度も反対したことはなかった。

◆深澤太一君には、世間から「ぜひまたその演奏を聴きたい」と言われるような、本物のプロのギタリストになってほしいと願っている。優れた演奏家には必ずファンができる。従ってリサイタルも回を追うごとに聴衆が増えていくはずだ。しかし、回を追うごとに聴衆の数が減っていくギタリストが日本には数多くいるのはどうしたことであろうか。このことはクラシックギターの演奏会へ行く度に考えさせられる。

フォルクスワーゲン・ゴルフ・ヴァリアント

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◆昨日(10/5)、長年(11年)乗り慣れたアベンシス・ワゴン(2000cc)と別れを告げ、その代りに新しくマイカーとなるゴルフ・ヴァリアント(ワゴン)が我が家にやって来た。

◆アベンシス・ワゴンは結局13万キロ走ったが、そのうち7・8万キロくらいまでは、あたかもパワーステアリングが効いていないかのごとくハンドルが重く、特に車庫入れや町中を走るにはまったく疲れて仕方のない車だった。しかし不思議なことに、10万キロを過ぎたあたりから徐々にハンドルも扱い易く、エンジンの吹き上がりも軽快になり、今まさに車の調子は絶好調。

◆元々燃費が特別良いわけではなく、スタイルにしても今どきの車のような派手さもなく、これといってあまり特徴のない車だったが、後席シートを倒したときの荷室は広大で完全フラット。かなりの荷物も楽に詰め込むことができる。また英国設計、英国生産だからなのか(主に欧州市場向け車種といわれている)、なんといっても走行安定性というか操縦安定性は他のどのトヨタ車よりも優れており、乗っていてこれほど安心感、安定感のある車は見当たらない。元々はもっと早く買い替えるつもりでいたのだが、年々愛着がわいてきただけでなく、ほかに気に入った車がまったく見当たらなかったこともあり、ついつい11年、13万キロも乗り続けることになってしまった。
買い替えるに当たり、これほど手放し難い車は初めてだった。できればずっと手元に置いておきたいと思うほどだったが、それもならずついに手放すことになった。

◆外国車を崇拝するつもりはまったくないが、先ほども書いた通り、現在の国産車には私はまったく失望している。見ればどのメーカーの車も内容は決して悪くない。むしろあらゆる意味で今や世界をリードしているといっても良い。しかし、残念ながらトヨタを始め、今国産車のデザインは一様にでたらめだ。カーグラフィック誌の5月号にもあったが、現在の国産車のデザインは日本の自動車史上最悪といってよいほど不恰好だ。私の年齢からいって、いくら性能が良かろうと、いくら燃費が良かろうと、そしていくら使い勝手が良かろうが、今から自分の美的感覚にそぐわない車には絶対に乗りたくない。こんなことを私が言っても「何をバカなことを!」とお叱りを受けるかもしれないと知りつつも、「今国内自動車メーカーには、まともなデザイナーは皆無!」とさえ言いたいくらいだ。

◆もう一つは、車の構造や性能、そして品質の安定性では世界でもっとも優れた国産車ではあるが、つまりその評価を数字で表せるようなスペックに関しては今や世界でもトップクラスなのは理解しているつもりだが、数字で表すことのできないような内容、言い換えれば、人の感性に訴えるような仕様となると、国産車のそれらはまだまだ思いつきやアイデアのレベルに留まっていると言わざるをえない。例えば使い勝手に関する部分などでも、設計段階での検証がしっかりされておらず、室内装備にしても、何でこんなものをこんなところに付けたんだ?というようなものが多々ある。従って国産車の場合、マイナーチェンジどころかモデルチェンジしても良い方向に進化しているとは限らないことが多い。当然「これまでの車はとても使い易かったのに、今度のモデルになってやたらに使い難くなった」という話はいくらでもある。これなども「車としての使い勝手」に関する部分での実際の検証が十分なされていないことの証だろう。

◆数字で表し難いスペックといえば、ステアリングの操舵感覚(程よいステアリング)、自立直進性(車が放っておいても真っ直ぐに走ろうとする)、あらゆる路面状況での乗り心地、疲れず違和感のないシート形状、シートの適度(これが難しい)なクッション性と見せかけではない正しいホールド性、各スイッチ類の配置とその形状、真に意味のある便利機能、本物の上質感、等々。数え上げればいくらでもあるが、これらの事柄について、超高級と言われる車種も含め国産車はまだまだ発展途上と言わざるをえない。

◆そんなこんなで結局いろいろな車に試乗した結果、今回はもっともオーソドックスな結論かもしれないが、私はフォルクスワーゲンのゴルフ・ヴァリアントに決定した。この車には何回も試乗させてもらったが、さきほど述べたような数字に表せるスペックだけでなく、数字には表し難い性能、機能が、やはりかなり高いレベルで検証、熟成されたものになっていると感心させられた。国産車がこのレベルに到達するにはあと何年もかかるのではないかと思うほどの違いがあった。これが自動車というものの歴史が長い国とそうでない国との差なのかもしれない。

ネルソン・フレイレのヴィラ=ロボス

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◆悪い癖だと解ってはいるのだが、どうしても見過ごすことができず手を出してしまう。
写真のLPとCDは全て同じもの。中央のLPが昔レコード屋さんで見つけて購入したもの。左が一年ほど前、中古レコード店で見つけ即座に購入したもの(傷もなく極上でなんと300円)。そして右のCDが2・3日前にHMVから届いたもの。
これら全てヴィラ=ロボスのピアノ作品で、演奏者はネルソン・フレイレ。先回書いた「野生の詩」が含まれている。
CDが手に入ったので、もうこれ以上同じものを購入してしまうことはないと思うが、CDが手に入らない限り気に入った演奏のLPは、どうしても予備の・・・、という気持ちが働いて、買わずにはいられなくなってしまう。どういうわけだかこういうときだけほとんど迷わない。

◆随分以前にこのLPを購入したのち、いろいろなピアニストでこの「野生の詩」を聴いてきたが、フレイレの演奏がテクニック、ダイナミズム、野性味、どれをとっても抜群で、他の演奏が寝ているかのようというか、まったく生気のない眠たい演奏に聞こえてしまう。
今回届いたCDも聴いてみたところ、ソニー・ジャパンがいつもやるようなおかしなマスタリングもしておらず大変良好。これで心置きなく何回でもかけられるというものだ。

◆ヴィラ=ロボスのピアノ作品のCD、今となってはあらゆる種類の演奏が手に入るが、私の中ではこのブラジル出身のフレイレの演奏がピカイチ。他のピアニストと比べると、同国人だから当たり前、とは言っておれない雲泥の差がある。
フレイレはショパンなども得意としており、2番、3番のソナタのほか、24の練習曲なども数ある演奏の内でも私としては最右翼に挙げたい。しかしショパンとなると現役ではアルゲリッチやポリーニ、古くはルビンシュタインやアラウなども多くの名演を残している。できればフレイレにはヴィラ=ロボスのピアノ作品集の第2弾を出してもらいたいとずっと長く願っているのだけれど・・・。

バスーンと弦楽のためのハ調7音による舞曲

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◆永年、ずっと欲しいと思っていたCDがやっと手に入った。

◆以前このブログに、ヴィラ=ロボス作曲の「バスーンと弦楽のためのハ調7音のよる舞曲」という作品のLPを紹介し、永年そのCDをさがしているけど見当たらない、と書いたのだが、ある日私の友人が「これのことじゃないですか?」とネットのURLを教えてくれた。早速手配してみると、なんとこれが大当たり。単に私が見落としていただけで、しっかりCDは出ていたのであった。
私の持っているLPをCD化したものではなかったが、作品自体は大正解であった。
商品が自宅に届き、封を切るのももどかしくプレーヤーにセット。新しい録音だけあって音も素晴らしい。もちろん演奏も大満足できるものであった。

◆ここ最近ヴィラ=ロボスの作品はいくらでもCDで手に入るようになり、私が先ほど述べたLPを購入した4・50年前とは状況はまったく違う。こんな曲もあったのか、とびっくりするようなものまでが容易に購入できる時代だ。しかし、今回手に入れた作品がヴィラ=ロボスの作品の中ではよほどマイナーなのか、なかなか簡単には見つけることができずにずっときた。今でもネット上でその存在を確認できるものは今回のものを入れて2・3種類に限られる。

◆ヴィラ=ロボスの作品は多岐に渡りその数も膨大だが、その中でも私が特に気に入っているのは、この①「バスーンと弦楽のためのハ調7音による舞曲」とピアノ独奏の②「野生の詩」の2曲。①は力みなくさらりと書かれた心に沁み入るような佳品であり、②の方はルビンシュタインの友情に応えたヴィラ=ロボス渾身の名作。ヴィラ=ロボスには広く知られた名曲がたくさんあるが、私にとっていつまでも聴き続けたい作品はこの2曲に留めをさす。このCDをわざわざ探して教えてくれた友人に心から感謝。
ギャラリー
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  • 酒井 康雄君
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  • 松田 弦ギターリサイタル 2017年10月29日
  • 松田 弦ギターリサイタル 2017年10月29日
  • 猪居亜美&深澤太一ジョイント・リイサイタル
  • フォルクスワーゲン・ゴルフ・ヴァリアント
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