<あれも聴きたい、これも聴きたい>

クラシック音楽に目覚めたころ

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◆今では小学校低学年でも本格的なクラシック音楽に親しんでいる人は大勢いるが、そのころの私といったら、音楽はきらいではなかったが、毎日の生活の中にクラシック音楽というものはまったくといってよいほど存在していなかった。ましてや自分にとって、それが将来趣味以上のものになるとはこれっぽちも考えていなかった。むしろ物心がつく頃から絵を描くことが好きで、毎日ところかまわず、寝ても覚めても絵ばかり描いていた。

◆学校において、生徒全員で歌を歌うのはきらいではなかったが、時々「〇〇君」一人で歌ってみてください」などと、個人を指名されて歌わされることがあり、これがなんとも苦手で、教室から逃げ出したいような気持になった。

◆そんな状態だったので、楽典などには興味もなく、覚える気もさらさらなかったため、時々行われるテストは大嫌いだった。「アンダンテの意味は?」と問われても答えられるはずもなく、ましてや「この歌や音楽の旋律を五線に書きなさい」などという恐ろしい問題などは、書ける人がいるとは到底思えなかった。

◆音楽のテストでは20点以上(そのころ音楽のテストは50点満点だった)取ったことがなく、やっと取れた15・6点も自信があって取れたわけではなく、いつもマグレとしか言いようのない状態であった。

◆唯一、先ほど述べた生徒全員で歌うことと、もうひとつレコード鑑賞だけは特別いやな気はせず、むしろ「いつもこればっかりだったら音楽の授業もどんなに楽しいことか」と考えていた。

◆そんなレコード鑑賞の時間もほとんどは知らない曲ばかりで、感動とはほど遠い感覚しかなかったが、小学校の5年生のころだったか、たった一度だけゾクッとするほど心に響いた曲を先生がかけてくれたことがある。それはシューベルト作曲の「魔王」と名付けられた歌曲だった。超高速に連打されるピアノの3連符はおどろおどろしく、しかも地の底から響いてくるような低音の旋律は背筋が寒くなるようで、最初から最後までとにかく緊迫した状態が連続する。

◆その演奏の主が誰なのかはまったく記憶にないが、普段ただ退屈に感じていただけのクラシック音楽にも、こんなカッコいい曲があったのかと驚き、「ひょっとしたら他にももっとカッコいい曲があるかもしれない、クラシック音楽もそれほど悪くないかも」と生まれて初めて感じた音楽がこのシューベルトの「魔王」と言う歌曲であった。

◆その時の感覚は、何故だか今でも鮮明に覚えていて、「あの時が僕のクラシック音楽に目覚めた瞬間だった」とはっきり言える。ただ小学校在学中に受けた感動はその時ただ一度限りで、その後は二度とそんな機会に巡り合うことはなかった。

◆次の感動は中学一年の時に突然訪れた。それは近所の知り合いの家で、たまたまドボルザークの交響曲第9番「新世界より」を聴かされ時だった。第2楽章の有名な旋律には胸が締め付けられるほどの感動に襲われ、最終楽章の緊張感と充実感には心底ゾクゾクするほどの衝撃を味わった。

◆当時巷に流れていた音楽といえば、三橋美智也、春日八郎、美空ひばり、だったが、私はそのころから少しづつ小遣いを貯め、一枚一枚クラシックのレコードを購入し、翌年中学の2年になる直前の春休みのころからクラシックギターを弾くようになった。

◆その後中学3年の春だったか、名古屋の愛知文化講堂においてカルロス・モントーヤのフラメンコギターに圧倒され、また同年の秋、初来日したジョン・ウィリアムスのリサイタルが同ホールにおいて行われたが、私はその端正な風貌と完璧な技巧にしびれ、ますますギターにのめり込むようになっていったのだった。

◆今日は久しぶりに、当時大感動した、ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団でドボルザークの交響曲第9番「新世界より」を当時のLPレコードでじっくり聴いてみよう。

忖度判決

◆「国家公務員の業務上の行為によって国民が不利益を被った場合、その結果責任は国が負う」とした判例(最高裁)に基づき、今回の理財局長の責任も不問にされた。真実を本人に問いただす道は閉ざされてしまったわけだ(まだ控訴の道は残されているが)。

◆「公文書改ざん」という違法行為を部下に命令しても、それは業務の範囲内であるため、当人はその責任を負うことはないのだという。

◆つまり、国家公務員が行った業務上の行為は、それが例え違法な行為だったとしても、その責任は全て国家が負い賠償に応じるというのだ。しかし、いくら業務上とはいえ、意識的に違法行為を行った者が責任を負わなくて良いというのはいかにも行き過ぎだろう。しかも国が賠償するお金は全て国民からの税金だ。政治家の懐はまったく痛まないわけだから、結局誰も責任を取ったことにならないではないか。

◆これではまったく今後の抑止にならない。今回の大阪地裁の政治家への忖度判決は明らかに間違いだ。このままで良いはずは絶対にない!

嘘つきは泥棒の始まり

◆このところやたらと政治家(特に自民党)や官僚の「嘘」が目立つ。
「知らない」「記憶にない」「やった覚えはない」「聴いていない」。
明らかに嘘と判るのにも関わらず、平気(ではないかも知れないが)で嘘を重ねる輩が後を絶たない。

◆「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉があるが、なるほど、これだけ嘘をつく人間が多いわけだから、政治家や官僚の収賄という泥棒行為も後を絶たないわけである。

◆では「噓つきは泥棒の始まり」とはどういうことなのか。何故「嘘をつくことが泥棒の始まり」になるのか。はっきりと答えられる人がどれほどいるだろうか。

◆嘘をつくことはその人にとってひとつの「成功体験」となる。例えば簡単な小さい「嘘」をひとつつくことによって得をした、儲かった、あるいは窮地に陥らなかった、という「都合の良い成功体験」が脳に刻み込まれる。

◆そういった「都合の良い成功体験」を一度経験してしまうことによって、その後何かある度、「誰も見ていなければ・・・、誰にも気づかれさえしなければ・・・」という思いがつい脳裏をよぎる。

◆政治家や官僚は一種の権力者である。権力者には、その権力にあやかろう、利用しようという輩が必ず寄ってくる。そんなとき、脳の奥にあるかつての「成功体験」がささやくのだ。「今なら誰も見ていない、誰も気がついていない、こんなことは誰にも分らないはず・・・この前もそうだった」と。

◆しかし、人間長いお付き合いの中でそういった嘘をつき通すことはなかなか難しい。例えば知人に一度嘘をついてしまうと、その知人と付き合いが続く限り、自分のついた嘘をいつまでも覚えていなければならなくなる。でないといつ何時、昔ついた自分の嘘を忘れて、おかしなことを口走ってしまわないとも限らない。だから嘘をついたら必ずその場で嘘の内容を手帳に書いておかなければ、なんてことにもなりかねない。

◆「あれ、この人、今言ってること、以前言ってたこととまるで違うなあ」というようなことを経験したことはないだろうか。得てして人間は、自分の言ったことは忘れがちだが、聴いたことはなかなか忘れないものだ。

◆そんな嘘つき人間を平気で政府の別の要職に任命してしまう輩も出てきたが、自身も同様「平気で嘘をつける側の人間」だからか、そんなことはあまり気にならないようだ。

菅沼聖隆ギターリサイタル

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◆9月の11日(日)、豊中の大野ホールにおいて、菅沼聖隆君のリサイタルが開かれた。上の写真はリハーサルを終えてくつろぐ菅沼君。
当日は菅沼君の後援者でもある、SIE会長の林さんも来られ、私も久しくお会いしていなかったこともあって、あれやこれやと話に花が咲いた。

◆林さんは、私の開発したイクリプス・スピーカーを使ったクラシック・ギター用のPAシステムがギター界に広まるきっかけを作ってくれた大恩人。SIEでデモ装置を揃えいろいろな方々にPRしていただいたという経緯がある。人間性も素晴らしく、亡くなられた名古屋の荒井貿易㈱の創設者、荒井史郎さんと共に私が尊敬してやまない方なのである。写真のCDも、後日、林さんがわざわざ送ってくれたものだ。

◆さて当の菅沼君は、小さいころから長く村治先生に師事していたため、私には彼が小学生のころから馴染みがあった。毎年2回、村治先生の教室の発表会で彼の演奏を聴いていたし、その他にも、彼は名古屋のミューズ音楽館のイベントに、毎年村治先生と一緒に来ていたので、その時も彼の演奏を聴いていた。ある時は村治先生と一緒に彼のお家にもお邪魔したこともある。

◆子供の頃から尋常ならざる才能を見せていたが、当時は最初から最後まで、やたらとでかい音で、しかも緩急のみならず強弱自在とは真反対、一言でいうととにかく「うるさい」演奏をしていた。そのようなことを私の感想としていつも彼には話していたのだが、とにかくその素晴らしい才能は当時から隠しようもなく、内心、いつその才能が開花するのかずっと楽しみにしていた。

◆何年か前、スペインへ留学してからは、折に触れその活躍ぶりを村治先生からうかがっていたが、この9月11日のコンサートでは、もう以前のようなデカい音しか出せないギタリストではなく、比類ないダイナミクスと歌心を兼ね備えた、立派なギタリスト、そして芸術家としての成長ぶりを存分に見せてくれた。

◆当日のプログラムは
  ①タレガ:前奏曲第5番
  ②ヒナステラ:ギターのためのソナタ
  ③タレガ:アデリータ
  ④コントラダンサ:作者不詳
  ⑤M.M.ポンセ:ソナタ第3番
  ⑥ウォルトン:5つのバガテル
  ⑦A.ドミンゲス:Feria
  ⑧タレガ:ラグリマ
  ⑨ソル:3つの社交的商品より第1番
  ⑩A.ラウロ:ベネズエラ組曲

◆プログラムの途中、①③⑧と3曲のタレガ作品を敢えてはさんだ意図を訊くつもりだったのだが、それはついうっかり・・・・
しかしどの作品にも彼の個性が存分に発揮されており、久しぶりに満足感の味わえる充実したコンサートだった。大野先生はじめ、会場いっぱいの聴衆からも、ため息まじりの大きな歓声と拍手があがっていた。

ロベール・カサドシュのベートーベン

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◆このところの猛暑にやられてゆっくり音楽を聴こうという気にならなかったのだが、ここ一両日は雨も降ったせいか暑さも少し和らいだので、久しぶりの盤に針を降ろしてみた。

◆ベートーベンのピアノ協奏曲第1番と第4番。演奏はフランスのピアニスト、ロベール・カサドシュ、指揮はオランダの指揮者、エドゥアルド・ヴァン・ベイヌム。オーケストラはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。録音は1959年。

◆このLPを購入したのは1970年(ジャケットの裏に日付を書いていた)。名古屋、納屋橋にあるヤマハ楽器にて。
CDの方は割と最近手に入れた同じ演奏の国内盤で、ソニーミュージック・ジャパンからの発売。ひょっとしたらとは思ったが、思い切って購入してみると、いつもの通り、ソニー・ジャパンのマスタリングが出鱈目で、オリジナルの録音とは雲泥の差がある。高音がキーキーシャーシャーととても聴けたものではない。一応かけてはみたのだが、1分も聴けず、すぐにLPに交換した。

◆LPの方はしっとりと落ち着いた響きで、とても聴き易い録音がなされている。どうして日本のソニーはわざわざこんなひどい音にしてしまうのか、一度編集技師をとっ捕まえて問いただしたいと思うくらいだ。しばらく前のソニー製のスピーカーはモコモコに曇った音だったので、それに合わせてマスタリングをしているのではと私はにらんでいるのだが。

◆ベートーベンの5つのピアノ協奏曲の中では、若いころからずっと第1番に心惹かれてきた。(作曲の順序としては2番の方が先なのだが、楽譜出版の順が逆になってしまったため、こちらの方に1番という番号がふられることになった)
1番2番ともにハイドンやモーツァルトの影響は強く残ってはいるが、2番に比べてこの1番の方が全体の構成はしっかりしており、ベートーベンとしての個性もより発揮されている。

◆そんなことでベートーベンのピアノ協奏曲1番のレコード、CDは結構な種類を持ってはいるのだが、未だこのカサドシュ+ベイヌムの演奏を超えるものは見つかっていない。

◆そういえば、あのマルタ・アルゲリッチはこの1番が大そうお気に入りのようで、いろいろな指揮者との共演を残している。
ベートーベンのそのほかの協奏曲はあまり録音していないのに、この1番に限って何種類も残しているところをみると、この曲には何か特別な思い入れがあるのかもしれない。

◆カサドシュはモーツァルトに最も高い評価があるのだが(ジョージ・セルと共演したモーツァルトのコンチェルトはあまりにも有名)、このベートーベンに関してもそれに負けず劣らず超の付く名演を残している。長年クラシックギターに関わってきた私にとっても、カサドシュの演奏は、聴く度に「古典」とはどうあるべきかという命題に対する一つの回答を示してくれている。

村治教室、第50回祝賀コンサート

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◆7月10日(日)は村治先生の教室の第50回記念コンサートでした。10年以上、毎年お手伝いに伺っていた私は、コロナ禍で丸2年行けなかったのですが、今年やっとお仕事をさせていただくことができました。

◆村治先生は、つい先ごろ腰の手術を受けられ、退院からそれほど日が経っていないにも関わらず、長年指導してこられた生徒さんたちを前に、1日中、気丈にまた本当に嬉しそうに発表会の進行をつとめておられました。

◆今回生徒さんたちの演奏は重奏が主になっていましたが、現在海外留学中の生徒さんたちも大勢加わり、コンサートは最早プロのレベルを超えるような素晴らしい演奏ばかりでした。
こんな人たちがどんどんギター界の表舞台に登場するようになると、現在プロとして活躍している人たちはどうなっていくのだろうと、老婆心ながら心配にもなります。

◆現在、日本のギター界も世界のレベルに追いついた、と言われるようになって久しいのですが、それでも時折来日する海外のギタリストと比較するとまだまだのように思います。
今回の発表会に登場してくれた若い人たちが、きっとこれから日本のギター界のレベルを世界的な水準にまで引き上げていくのでしょう。

*写真には村治佳織さん、奏一君のほかに、菅沼聖隆君、秋田勇魚君、原田斗生君、横村嘉乃・福音姉妹のように、最早一流のプロにも負けない技量を備えた人たちの顔が見えます。(パーティーにおいてアルハンブラの想い出を演奏したのですが、全員の音がきれいにそろって聞こえたのはまさに圧巻でした)

トーレンスのベルト交換

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◆ちょっと贅沢だとは思うが、私はアナログ・プレーヤーを4台使用している。イクリプス・スピーカーを代理店として販売しているため、イクリプスの機種ごとにプレーヤーを用意しているのでそうなってしまうのだが、2台は国産のダイレクト・ドライブ方式で、残り2台は海外品。当然海外品はベルト・ドライブ方式のものだ(海外品でダイレクト・ドライブ方式のものはない)。その内の1台が写真にあるスイスのトーレンス社製のもの。

◆しかしこのトーレンスのプレーヤーがなんとも曲者で、ベルトを新しいものに交換しても、1年を過ぎるあたりから、テーブルを回そうとスイッチをONにすると、ベルトが滑ってプーリーからはずれ、ターンテーブルは止まってしまう。そうなってくると、手でターンテーブルを回しながらスイッチをONしてやらないと回らないようになり、その後だましだまし使っても、1年半か2年すると目に見えてベルトが伸び、ついにはテーブルを回せなくなる。

◆そこでしぶしぶ新品のベルトを購入して付け替えるのだが、この純正のベルトがオーディオ専門店で3千数百円もする。「たかだかゴムのベルトじゃないか」とは思うのだが、それしかないので仕方がない。

◆ところが悪いことに、今現在はこのトーレンスの製品を扱う輸入元が扱いをやめてしまったようで、調べてみると、純正のベルトは、各お店がダイレクトに輸入することになるため、安いお店で1本8千数百円、高いお店になると1本1万円以上している。あまりにもばかばかしいので、やむをえずあれこれ調査開始。するとありましたありました。充分代替えの効くベルトが国産でありました。純正ベルトの、しかも正規価格の半額以下。1本購入してみて使えることが判ったので、もう2本追加で頼みました。劣化しないように注意して保管すれば、この先何年かは安泰というもの。

◆「そこまでして何で海外製品を、しかもトーレンスなどという使い難いプレーヤーを」、とは思うのだが、そこは趣味の面白さといったらよいのか、めんどくさくなければ趣味は成り立たない。それと取り付けているSMEのアームの使い心地と音の良さでしょうか。
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