(開演40分前の兵庫県芸術センター大ホールの様子)
◆音楽には自作自演という表現方法がある。ベートーベンは自身の交響曲やピアノ作品を自ら指揮をし演奏をした。マーラーやリヒャルト・シュトラウスも自作の交響曲や交響詩の棒を振った。
そしてそういう形態が最もその作品にふさわしいベストな表現方法と思われている方も多くおられるかもしれない。当然作曲した本人(その作品の内容や意図を最も理解しているはず)が演奏するのだから、とそう考えてしまうのも当然だ。
しかし実際には、必ずしもそれが理想的な演奏になるとは限らず、意外と飛びぬけた表現のない無難なものになっていることが多く、むしろその後、再現芸術のプロである演奏家によって、自作自演のものよりさらに感動的な演奏を生み出している、ということは歴史が証明している。
◆3月5日、兵庫県芸術文化センター大ホールにおいて行われた“Toshiba Grand Concert”における村治佳織さんは、明らかに作曲者であるロドリーゴの意図を超えたアランフェス協奏曲を私たちに聴かせてくれた。その日私たちは、まさに作曲者ロドリーゴさえ予想もしなかったであろう高みにある表現を目の当たりにした。
◆白眉は第2楽章。特にギターのソロに入り、次にカデンツァ、そしてオーケストラによるクライマックスに至る表現は、息苦しいほど聴く者の心に迫り、無音の間(ま)も深遠な意味をもつ尊いものに思え、私は思わず息を呑んだ。
これほどの深い表現を、数ある同曲のレコード、CD、実演の中に私は聴いたことがない。(3小節に渡るギターの激しいラスゲアードの後、オケがフォルテッシモで入るタイミングが若干遅れ、無駄な間(ま)ができてしまったことは残念だった・・・・これは指揮者の責任、経験不足)
◆村治佳織さんは、数多のアランフェス協奏曲史上、初めて作曲者の意図した範囲を超える素晴らしい表現を生み出すことに成功した、と私は思う。それほどその時の演奏は心に強く響き、なにか別の曲を聴いているかのような強い感動を受けた。まさにアランフェス協奏曲という作品の芸術的価値がワンランクアップしたようだった。
◆オーケストラはジャパン・ナショナル・オーケストラといって、当日のもう一人のソリスト、ピアノの反田恭平氏がプロデュース・編成した若いオーケストラなのだが、こちらも「アランフェスについては」終始溌溂として緊張感あふれるとても良い演奏をした。
◆今「アランフェスについては」と断わったのは、次に続くメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」と反田恭平氏のピアノソロによるショパンのピアノ協奏曲第1番に少なからず失望させられたからだ。
2曲ともあまりにもヒステリックな第1ヴァイオリン軍の音が私の耳を襲った。あれほどに耳をつんざくような音で弾くのであれば、せめてもう少し全体の音量を絞ってほしいと私は思った。
◆おそらく若いオーケストラだけに、あまり良い楽器が揃っていないのかもしれない。しかし音量と音色はどちらもコントロールされなければならないのは当然のこと。聞くに堪えない音で、かまわずがなりたてるのはなんとも頷けない。これも奏者の責任であり最終的には指揮者の責任だ。
◆ショパンのコンチェルトをあれほどの大音響で演奏する必要はあるのだろうか、と私の中の常識では思う。少なくともショパンが生きた時代のピアノには、今聴いたほどの大音響を出すだけの能力はなかったはずだし、それに合わせてバックのオーケストラももう少し控えめであったはずだ。
◆時代と共に楽器の改良が進み、より大きな音を出せるようになったとしても、聴かされる方としては汚い、ヒステリック、と感じさせるような大音響はご免被りたい。
それらはオーケストラの責任でもあるが、最終的には指揮者の責任だ。とにかく私は会場の1階席だったが、ピアノコンチェルトが終わった瞬間は一時的に難聴のような状態になった。またピアノの音がなぜだか判らないのだが、妙に機械的な電子音のように聴こえたのも不思議だった。
◆ショパンのピアノ協奏曲という作品については、私はあまりにも多くの超の付く名演を聴きすぎている。ルビンシュタインしかり、バシャーリしかり、ツィマーマンしかり、そのほか幾多の名演といわれてきた演奏どれもが今回の演奏ほどがなり立ててはいない。生意気な言い方になってしまうが、作品の芸術的な重さからいって、演奏者が皆、まだ若過ぎた、ということであろうか。