日記・その他

第48回 ギター音楽大賞

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◆昨日(5月19日)は、48回目となる大阪のギター・コンクール、「ギター音楽大賞」が行われ、私は午前中から丸々一日、若い方々の演奏を堪能させてもらった。大賞部門の第2次予選から始まり、小学生部門、中学生部門、高校生部門などジュニア部門、そして最後の大賞部門本選と続けて全て聴いた。

◆最初の大賞部門に登場したのは8名だったが、おやっ?と思ったのは、殆どの人の音が極端に小さいことであった。もうそれだけで自信なさげで貧相な演奏に聞こえてしまう人が多かった。とりわけ課題曲となったヴィラ=ロボスの練習曲8番については、いかにも‟普段馴染みのない曲”といった印象で、私が知っている同曲とは、およそ異なる、別の曲を聴かされているような印象を受けた。

◆私には大方の出場者の演奏が‟どう弾いていいのか解らない曲”といった、いかにも自信なさそうな演奏に聞こえたのだが、そこのところは、主催の日本ギタリスト会議の議長を務めておられる猪居さんも、「ちょっと聞かせどころの少ない曲だから表現が難しいのだろう」とおっしゃっておられた通り、挑戦者たちも戸惑っていたのかもしれない。私としては、若い頃、全くの現代曲として新鮮な気持ちで弾いていたヴィラ=ロボスさえ、誤解かも知れないが、現代の若者たちには、既に「過去の古い曲、馴染のあまりない曲」という位置づけになってしまったのかと、少し寂しい気持ちになってしまった。

◆しかし、その後続いたジュニア部門を聴いて、私の心配は唯の杞憂に過ぎないことを知ることになった。
特に中学生や高校生の中には、優れた技巧と、光るものを内に秘めた若者が何人も登場したことで、前半感じた私の心配は吹っ飛んだ。

◆結局、大賞部門の本選では、二次予選通過者5人がみな、予選とは別人かと思うほど、音も良く出ていていい演奏を聴かせてくれた。
恐らく来年の第49回には、この日の出場者たちの内の何人かは、さらに大きく成長した姿を見せてくれるのではないだろうか。

村治佳織さんのリサイタルのPA(SR)

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◆7月2日(日)村治佳織さんのリサイタルPA(SR)をやらせていただきました。場所は大阪のザ・シンフォニーホール。いつもながら全席完売の盛況ぶり。
スピーカーはイクリプスのTD712MKⅡS(ショートスタンド)1本のみ。

◆聴衆も、一般の音楽愛好家や佳織ファンの方々が多く、ギター関係者ばかりの一般的なギターのコンサートとはまるで雰囲気が違うように感じられます。

◆皆さん本当に楽しんで帰っていかれます。そしてまた来たいと思われてしまうようです。
それは会場の関係者の方々も同じで、すでに当日1年後のリサイタルも決定したそうです。
そんな村治佳織さんの音楽造り、ステージ造りの一翼を担えることは嬉しいことですね。

◆当日朝10時ころ会場入りして機器のセッティングを行ったのですが、会場の方々がとても親切で、私は機器をしかるべきポイントにセットしただけ。あと配線の始末などは全てその方々が仕上げてくださいました。こんなに楽に機器をセットできたのは初めてのような気がします。これも佳織さんあってのことではなかったかと感謝しています。

◆また係の方々も私のPA(SR)に使用している機器や方法にとても興味があるようで、いろいろな質問をいただきましたが、それらの質問に答えながらセットしていくのも楽しい時間でした。

◆当日の様子が、佳織さんのインスタグラムで、短いですが動画でアップされています。どうぞご覧になってください。

https://www.instagram.com/kaorimurajiofficial/

シンフォニーホール7月2日b


東大寺 二月堂 修二会(お水取り)

◆3月の6日(月)、12年ぶりに奈良東大寺二月堂のお水取り(修二会)に行ってきた。以前のように昼過ぎ、駐車場に車を停めて、主に近鉄奈良駅周辺をぶらぶら。
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◆以前は奈良に行くたびに訪れていた中華料理屋さん。このお店の麻婆豆腐のランチが絶品だったのだが、今回は随分味が落ちてしまっていて残念。
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◆最近ではテレビでもお馴染みになった「つきたて餅」の中谷堂。有名な超高速餅つきの実演中。周りで見ている人の半分は外国の人達。
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◆猿沢の池のほとりから興福寺の五重塔を望む。
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◆2018年に復興された興福寺の中金堂。思っていたよりはるかに大きくて驚きます。
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◆中金堂越しに国宝の五重塔を望む。興福寺は藤原氏に最も所縁のあるお寺です。
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◆奈良の鹿は、観光客が売店で鹿せんべいを買うかどうか、近くからしっかりうかがっています。そして観光客が店に近づくやいなや一斉に寄ってきます。
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◆東大寺南大門の下に立っている、これも国宝の仁王像。その高さは8.4mもあり、初めて見た時はその大きさが信じられないほどでした。そして見る度に「こんなに大きかったっけ」と驚かされます。
そろそろ陽が落ちて暗くなり始めました。
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◆この坂を上り切ると、すぐ左側に修二会が行われる二月堂が見えてきます。
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◆そろそろ二月堂の下に人が集まってきています。
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◆午後7時きっかりに始まります。1200年以上の続いている、枯れかれに乾いているはずの木造の二月堂の回廊を、でっかい竹の松明を肩に担いだ人が駆け抜けます。大人の火遊びとも見えるのですが、よくこれまで火事が起きなかったものだと感心します。この日は運よく満月が・・・・。
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◆回廊を駆け抜けるお松明のアップ。(写真をクリックすれば拡大して見られます)
今は不可になっていますが、コロナ前は、この回廊に腰かけて、駆け抜ける大きなお松明を目の前で見ることも可能でした。この行が始まるまでに二月堂へ上がっていた人は、降りて帰るのもそこに残るのも自由なのです。堂の中では多くの僧が一心に経を唱えているのが扉の格子越しにうかがえます。

ワクチン接種3回目終了

◆一昨日(2月19日 土)3回目のコロナワクチン接種をした。

◆1回目と2回目は昨年の6月でどちらもファイザー社のものだった。前回と同じ医院であれば同様にファイザーなのだが、予約がいっぱいで3月5日になるという。それでも確実に打てるので、まあ一応予約を入れておいた

◆が、しばらくする内オミクロン株のコロナ感染者がどんどん増えてきたため、もう少し早く打つ方法はと考えているうち、混んでいるかも知れないとは思いつつ市のワクチン接種の係へ電話をしてみると、何のことはない、あっさりと電話が繋がり、かみさんの分も含めて2月19日に予約が取れてしまった。

◆そこで一昨日、指定された時間に会場へ行き、待たされることもなくすんなりと接種終了。会場に控えておられる各係の方や接種担当の医師の方々も随分親切で気分よく終了の運びととなった。

◆接種したのが夕方17時ころだったが、打った箇所がインフルエンザのワクチンと同程度に少し痛むくらいでその日は何事もなく就寝。

◆翌日朝起きた時も前日とそれほどの変化もなく、打った箇所がもう少し痛むようになったのと痛いと感じる部分が少し広がった程度だった。

◆しかし朝食を済ませたころから段々と熱っぽくなり頭もボーッとしてきた。それと同時に体中の皮膚の表面がひりひりと痛くなってきた。熱を測ってみると37.1度。大した熱じゃないなと思ってみるが、それにしては体表面のひりひりと頭のボーッとした感じは38度並み。時間が経つにつれてその症状が段々と強くなり、夕方ころになると、少し辛くなってきた。

◆それでもその日は1日中パソコンに向かったりテレビを観たりと通常通り過ごせたし、食欲がなくなるということはまったくなかった。

◆その日(昨日)はなるべく早く寝ようと9時にはベッドに入り、いつも通り少し本を読んだが、そのころから結構な寒気が襲ってきた。布団に入っていてもちっとも温かくならないので、もうこれは早く寝てしまうに限るとアンカを入れて電気を消した。頭もボーッとしているためかかえってぐっすり眠ることができた。

◆そして今朝起きた時は何事もなかったようにすっきり!
かみさんに聞くと、熱は少し出たが、しんどいとか苦しいとかいうことはまったくなく、家事洗濯もいつも通りできたとのことであった。

義母

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◆11月2日(月)、同居していた義母が亡くなりました。満99歳でした。あと2か月ほどで満100歳を向かえることになっていました。

◆10月の始め、38度を超える発熱があったため、かかりつけの医師が来られ、翌日、検査結果から誤嚥性肺炎の疑いがあると連絡がありました。そのとき医師から「抗生剤の点滴を始めますが、現在のおばあちゃんの状態では、残念だけれどもってもあと1・2週間でしょう。今後自宅看護にするか入院するか決めないといけない」。また「入院の場合は、運良く退院できることになったとしても、おそらく寝たきりの状態で帰ってくることになる。その上今はお見舞いが許可されないから、ひょっとしたらこれで見納めになることも覚悟する必要がある」と告げられました。

◆私たちは本人の希望通り自宅で看護、看取る覚悟を決め、早速抗生剤の点滴と酸素吸入を始めてもらいました。それからは昼夜を問わず、毎日のように医師と訪問看護の看護婦さんが来てくれましたので、幸いにも数日後には熱も下がった上に血液検査の結果も正常範囲に戻り、希望が見えてきたかに思えました。しかし、僅かな食事さえも摂れない状態まで体力が衰えてしまっていたため、その後はさらに少しづつ弱りはじめ、食べ物だけでなく、水さえも呑み込むのが困難な状態になっていきました。

◆そのころでしょうか、昼夜を問わず大変な看護が続くのを気に病み、義母は「入院しようか」とまで言うようになりました。私たちに別れを告げ、病院で亡くなることを覚悟したのでしょう。
しかし入院したとしても、もはや特別なことは何もできないことは判っていましたので、最後まで私たちが頑張って看護すると決め入院はしませんでした。

◆点滴も連続では負担がかかるとして、1日おきくらいにしたのですが、細くなってしまった両腕には、もはや針を刺せる場所もなくなり、内出血の跡も痛々しく、見るに忍びない状態になっていました。

◆また本人と看護のための両面から、床ずれし難く、自由に上下・傾斜することのできるベッドに取り換え、私たちも夜中何度も起きて看護しましたが、今月11月2日(月)の夜中2時過ぎ、見に行ったときはすでに義母は息をしていませんでした。額に手をあてるとまだ温かく、ほんの少し前まで生きていたことがうかがえました。

◆2011年、愛知県知多市にある、昔からの古い家に独りで住んでいた90歳の義母を私のマンションの1室に引き取り、以来9年間、3人で本当に仲良く過ごしてきました。

◆義母はいつもひとのことばかりで、自分のことは少しも考えない人でした。寝たきりになっていてさえも勝手なことは一切言いませんでした。どんなときも優しく、まったくわがままを言わない、私から見れば仏様のような人でした。私は、どんな人に対してもあれほど謙虚で、あれほど優しい人には会ったことがありません。いつも私に対し「迷惑ばかりかけて悪い、申し訳ない」と口癖のように言っていたそうです。

◆亡くなった2日と葬儀の4日には、義母が90年間済んでいた古い自宅のある知多市から、長くお付き合いのあったお寺の和尚さんが、わざわざご夫婦そろってお越しになり葬儀を行ってくださいました。その和尚さんのお話では、義母が亡くなったと連絡したとき、3人の娘さんがみな声を上げて泣いてしまったそうです。義母は、それほどその和尚さんの娘さんやお孫さんにも愛され、そして慕われてていたのです。

◆すでに父も母も亡くしている私にとって、義母がいてくれた9年間は、とても楽しく、心も穏やかに過ごせる日々でした。その義母が亡くなってしまった今、住んでいるマンションが無駄に広く感じるようになりました。そして朝起きたとき、そして夜寝る前、義母の寝ていた部屋の前を通るたびに、一瞬ですが「あっ、おばあちゃんは?」と振り向いてしまう日が続いています。
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