僕は自分が産まれた時のことを何も憶えていない。
気がついたらいつの間にか紺野主任から代理人としての心構や任務についてレクチャーを受けていた。
それをぼんやりとした意識の中で聞きながら、いつの間に自分というものが存在していたのかが不思議で仕方が無かった。
同時に産まれたはずの九郞太に聞いたら、「そんなの当たり前だろ」と笑われた。
その後、紺野主任や清水さんに相談したら「誰でもそんなものなんだよ」と穏やかに諭された。
どうして皆はその事に対して無頓着でいられるのだろう。
もっともっと色々な人の意見を聞きたかったが上手くはいかなかった。
周りには魔女と呼ばれる女性魔術師が沢山居たが、そういった相談を持ちかけるには気が引けた。
あくまで僕は彼女達のいわばマネージャーであり、僕の悩みを彼女達にケアさせているようでは本末転倒だ。
中には斑鳩トモエのように代理人という存在そのものを異常なほどに毛嫌いしていて、激しい敵意を隠そうともしない魔女も居た。
流石に子供である僕や九郞太に対しては露骨にそんな態度を取りはしなかったが、それでもやはりまともに言葉を交わした事は無い。
思いの外フレンドリーに接してくれたのは綾小路スミレだ。
彼女から漂う孤高な貴族という雰囲気からは意外だったが、彼女は産まれたばかりで何も知らない赤子同然だった僕に対して、服装の乱れなどを指摘しては慣れた手つきで直し、そして素っ気ない言葉ではあったが簡単な礼儀作法を教えてくれたりもした。
聞いたところによると彼女には多くの弟や妹が居るらしい。
そんな彼らと僕が重なって見えたのだろうか。
「男子たるもの常に堂々と背筋を伸ばして歩きなさい。ウォーキングなだけにね」
ある日そんな言葉を掛けられたのだがその場では意味がわからず、後日改めて説明を受けに行くと「堂々と歩くが王様を連想させるから、ウォーキングのキングと言葉が掛かっているのよ」と澄ました顔で説明された。
人間がよくやる言葉遊びというものらしい。
彼女はどこか得意気にそう語っていたが、しかしそれならきちんと王様という言句をつけないと理解が出来ないと進言すると、「成る程。それもそうね」と真面目な顔で頷いていた。それを横で聞いていた東雲ヤヨイがお腹を抱えて笑っていたが、何が可笑しかったのかは未だによくわからない。
人間に関してはよくわからない事が多い。
単純な戦闘能力では魔女の中でも佐倉ショウコと並んで最強と名高い二人はとても仲が良い。このコンビは企業内でもあの七雄タクヤですら、指すら触れることが出来ない魔女としても噂されている。
傍目で観察している限りでは二人が会話で盛り上がっているところなど見たことなどないが、それでも一緒に居ることが多い。
特に戦闘任務の際には傍に居ることが多い気がする。
友人、というものはそんなものなのだろうか、と納得するしかない。
わからない事だらけだが、それでも僕は出来れば人間の意見が聞きたかった。
最も身近な存在で、相談も持ち掛けやすいはずの他の代理人の面々は、皆どこかおかしいと思っていたから。
やたら暴力的だったり、自虐的だったり、自意識過剰だったり。
人間もそんなものだと皆は言うが、それでもやはり彼らの情緒にはどこか病的だと言わざるを得ない捻れがあるように思える。
とにかく僕はそんな彼らを欠陥品だと見下していた。
しかしその中だからこそ一際輝いて見える存在が居た。
六郎さんだ。
完璧な、そして理想的な代理人だった。
彼が世界で現存する唯一の純正ホムンクルスだと聞いた時から、僕は彼に対して尊敬の眼差しを向け続けた。
僕らのような紛い物とは違う、本物の作り物。
僕らは所詮ただの人間とそう相違ない。
魔術的に品種改良され、魔術師の命令に逆らえない、そして生殖能力を持たないというだけの都合の良い存在。
成長もすれば老化もする。
食事を取れば排泄もする。
僕にはまだ訪れてはいないが、思春期というものを体験すれば、異性にも欲情するようになるのだろう。
九郞太は先にそれを経験し、初恋と呼べるようなものも経験したらしい。
羨ましいとは思わない。
彼が身振り手振りを交えて、どのように女性を絶頂に導いたという自慢話をする度に、僕は少し悲しくもなった。
僕達は性行為を必要とせずに、魔法少女を量産出来る存在。
企業の新しい試み。
それを誇りに思うべきだろう。
なのに繁殖という目的も無いのに劣情に任せてそのような行為に及ぶのはとても下品な事に思えた。
そういった経験が精神性に深みを増すなどという説もあるそうだが僕には理解し難い。
男女の営みについてそれほど興味が持てない、というよりは嫌悪していると表現しても差し支えない。
その原因の一端は七雄タクヤの所為でもあるだろう。
初めて会った時から、彼の前だと僕の胸は焼けるようにざわついた。
この件に関しても清水さんに相談をしたら、「それが正常な反応だ」と嬉しそうに肩を叩かれた。
彼も七雄タクヤのことが嫌いなのだろうか。
しかし何故僕が彼に対してそう思うのかがわからない。
人間だったらその感情に対して明確に理由付けが出来るのだろうか。
僕は人間ではないが、人形でもない。
とても中途半端。
それがもどかしい。
しかし六郎さんは違う。
何も欲さずただ淡々と業務を遂行していく。
彼からは社会の秩序を守ろうという大義すら感じられない。
ただ企業の駒として命令された仕事をこなしているだけ。
僕はそんな彼の一挙一動を見逃さずに模倣しようとした。
何をするにも無表情に、そして無感情で振る舞った。
僕は代理人という中途半端な自分の存在に劣等感を覚えていたのかもしれない。
だからこそ自分が産まれた瞬間の記憶が無いことに対して不安のような感情を抱いていた。
どうせなら、彼のように完全な人形になりたかったのだ。
それを紺野主任に咎められたことがある。
個性が失われる、との事だった。
そんなものは代理人としての業務に支障が出るだけだと反論をしたかったが、ただでさえ魔術師には逆らえない僕らにとって、僕を作り出した紺野主任の言葉は絶対に疑うことの出来ない正典のような物でもあった。
なにより彼女達企業が与えてくれる使命は、僕が求めるアイデンティティの一つであることは確かな事実だ。
それが善か悪かどうかなど関係が無い。
僕がこの世界に存在する理由。
それを失いたくは無い。
「多様性を保つことも組織を維持するには重要な要素なんだよ」
その言葉に対しては素直に納得できたが、それでも僕は六郎さんに憧れることを止めることは出来なかったし、紺野主任も「ま、それはそれで一つの個性なのかな」と微笑みを浮かべて僕の思想を縛ることはしなかった。
一度だけ思い切って尋ねたことがある。
「六郎さんは自分が産まれた時のことを憶えていますか?」と。
彼は「ああ」とだけ簡潔な返事をした。
僕の胸は高鳴った。
やはり彼は特別なんだと、彼への心酔はさらに加速を進めた。
「どうでした?」
「どう、とは?」
「何かを感じたり、考えたり」
「何も無い。マスターが悲痛な表情を浮かべて泣いていた映像だけが記憶されている」
「泣いていた? 何故でしょうか?」
「わからない」
「尋ねなかったのですか?」
「当然尋ねた。彼女の精神衛生に問題があるならば、それを解決するのも私の仕事だ」
「マスターはなんと?」
「寝ていた私の胸に顔を押しつけ、『ごめんなさい』とだけ謝罪をされた。意味はわからなかったし、説明を求めてもそれ以上は答えてはくれなかった」
「その他には?」
「何も無い。マスターに仕えるという使命感に従い立ち上がり、そして今に至るだけだ」
僕は六郎さんを作成したという魔法使いについても興味をそそられた。
人類史上最高と謳われる大魔法使い。
ライカ・オーフェルス・イルル。
「よく泣かれる方だったのでしょうか?」
「いや。彼女の涙を見たのはそれが最初で最後だった。明朗活発かつ天真爛漫な人柄で悲哀とは縁の無い性格をしていたからな。そのうえ向こう見ずで思慮が浅く、よくその場の思いつきで行動をしていた。性に対しても奔放で、現代日本の言葉でいうと、ヤリマン、という種類の女性に分類されるだろう」
話を聞くかぎりではとても大魔法使いとは思えないが、しかし魔術師には変わった人間が多いというのは周知の事実でもあるので、そう驚くには値しない。
「では異性から言い寄られるような優れた容姿をしていたのでしょうか?」
何故こんな事を聞いているのか自分でもわからなかった。
好奇心というものなのだろうか。
六郎さんに憧れ、彼のことを少しでも知りたいと思いつつも、自分がやっていることは彼からは真逆の世俗的な行動で、その矛盾に失望しながらも僕はその欲求を抑えることが出来なかった。
「神崎アカリという魔法少女を知っているか?」
「資料で拝見したことはあります」
「容姿についてはほぼ彼女そのままだ。髪は短かったがな」
「神崎アカリは貞操観念が人一倍強く、また尋常では無いほどに落ち着き払った人柄であると六郎さん自身が報告書に記していますが」
「そうだ。……は無駄では無かったという事だろう」
その時館内放送が鳴り、重要な部分を聞き損ねたが、聞き直すつもりにはならなかった。
僕にとっては彼との会話そのものが重要だったから。
その後もどうでも良い会話を続けた。
少しでも彼の本質に触れたかった。
彼は何でも答えたくれた。
普段は誰もが彼の存在を訝しみながらも、深い質問は避けるべきという不文律が企業には漂っているらしいが僕には関係無い。
そして意を決して尋ねた。
「僕は六郎さんのようになれるでしょうか?」
しかし返答はあっさりとしたものだった。
「無理だ」
不思議と落胆は無かった。
本当は自分でもわかっていたのだろう。
「私は作り物だ。そして君は人間だ」
「僕は自分が人間だとは思えません」
「君がどう思おうが生物学的には人間そのものだ。なにより今の君は好奇心に駆られて私に対して問答を仕掛けている。君には確かな感情がある。私とは違う」
「……僕は、九郞太とは……いや。他の代理人とは違います。ただ企業の為の歯車になれればそれでいいのです」
「そう思うのならばそうすれば良い。他者に対してわざわざ宣言する必要などない」
その言葉に僕は喉を詰まらせた。
散々人形のようになりたいと思っていても、自己を主張する自意識が当然のように顔を出した事に対して恥ずかしくて仕方が無かった。
やはり僕は人間なのだろうか。
黙りこくっていた僕に六郎さんが声を掛ける。
「私が見てきた幾多の人間と同様に君には揺らぎがある。その揺らぎはいずれ明確な悩みとなるだろう。悩みは停滞を生み出す壁にも、成長を促す種にもなり得る。それのいずれも私には無いものだ」
あくまで彼が僕を見る目には何の色も伴ってはいない。
同僚への気遣いでも、後輩への助言でも無い。
ただ彼の中に記憶されている経験談を、僕の会話に合わせて答えてくれただけに過ぎない。
なんの味も匂いもしない会話。
しかし僕はそれに憧れた。
表情など無くて良い。
感情など無くて良い。
誰も好きにならず、嫌いにもならず、喜ぶこともなく、苛立つこともなく、ただ無感情に任務を遂行していく自分でありたい。
そう思っていた。
それは六郎さんのようになりたいという憧れと同時に、他の代理人のようにはなりたくない、という思いも強かった。
特にやはり七雄タクヤだ。
彼は僕らとは違い、完全に人間であるにも関わらず、その性格にはどう考えても大きな欠陥があるとしか思えなかった。
短所の無い人間は居ない。
それを理解しつつも、やはり彼の行動には問題が多すぎる。
今もそうだ。
夫婦というシステムは改善点こそ多いものの、生殖の権利を明確にするという点においては、非常に効率的だと思われる。
雄同士の無益な争いを避けることを目的とした文明の理知とも言える仕組みだ。
それをいとも容易く破る。
今まさに、彼は他人の生殖相手と性行為をしている。
しかもあろうことか、相手のお腹には既に七雄の子供が居るという。
僕はその見張りをさせられている。
当然こんな仕事などしたくはない。
しかし同じ代理人という立場とはいえ、七雄はれっきとした魔術師でもある。
僕は彼に逆らうことは出来ない。
外れくじを引いたと思い我慢するしかない。
しかし僕の胸の中では、七雄に対する軽蔑がふつふつと沸き上がり続ける。
これが倫理観というものなのだろうか。
こんな風に憤りを感じている時点で、六郎さんには程遠いのだろう。
振り向けば見慣れたマンション。
とはいっても六郎さんや七雄が根城としている、企業御用達の高級マンションでは無い。
外見も部屋割りも、一家庭が持つにはごく平均的なそれは、僕も何度か部屋の中に入ったことがある。
今思えばその時の経験があまりに不可思議だったので、性行為に対して興味を持てない理由の一端になっている気もする。
「やぁ。誰かと思ったら八雲君じゃないか」
声を掛けられる前から、遠方から歩いてくる彼の姿には気付いていた。
僕は上着のポケットの中で握りしめていた携帯電話の通話ボタンを押す。
それが即時撤退の合図代わり。
今頃慌てて情交を中断して後片付けをしているのだろう。
僕の任務は見張りから時間稼ぎというフェイズに移行する。
「お久しぶりです」
「どうしたんだい?」
「奥様のその後のご様子を一度伺おうと思いまして」
これは嘘ではない。
浄化を終了した魔法少女の経過観察は義務づけられている。
それは純粋に彼女達の体調を慮ったり、または魔女として勧誘するという企業にとっての利益を得る意図もあるが、『動向を監視』する意味も兼ねていた。
「ああそうなんだ。でも大丈夫だよ。特に問題も無い。お腹の子も順調だよ」
目の前の男性は幸せそうにはにかみながらそう言った。
胸が少し疼く。
この感情はなんだろうか。
おそらくは良心の呵責というものだろう。
しかし僕が彼にしてあげられることは何も無い。
強いていうならば、幸せな日常を根本から覆す絶望的な事実から遠ざけてあげることくらいだろうか。
そう自分に言い訳をして、七雄の悪事に加担する。
「そうですか。それは何よりです」
「それにしてもナイスタイミングだったよ。あの後仕事の関係で一回引っ越したんだよね。でもまたこの街に戻ってくることになってさ。そしたら住んでた部屋がそのまま空いてたから、どうせなら住み慣れたところが良いだろうって思って舞い戻ってきたってわけ」
当然その程度の情報は諜報部門を通じて知らされている。
ポケットの中の携帯が震えた。
撤退完了の合図。
長居は無用。
彼の幸福に満ちた笑顔を見ていると、僕の胸はずきずきと痛んで仕方が無い。
だから人間は嫌だった。
人形になりたい。
何も感じずに居られる人形が良い。
「とりあえず問題は無いとのことですので、これで失礼させて頂きます」
僕は一礼すると、逃げるように背中を向けて、早足でその場を去ろうとする。
「あ、八雲君」
全力で走り去りたい衝動を何とか抑えて首だけで振り返る。
「いつかはありがとうな」
気恥ずかしそうに頬を掻く彼は、やはり幸せそうだった。
かつての困難を乗り切り、伴侶と新たな道を歩んでいこうとする気概に満ちた男の顔だった。
僕は何も言葉を返すことが出来ず、そのまま彼の前から姿を消した。
彼に教えるべきだったのだろうか。
今からあなたを出迎える妻は、つい先ほどまで別の男に抱かれていたのです、と。
あなたが愛でるそのお腹に居るのは、あなたの子供ではないのです、と。
判らない。
そもそもそんな事は出来ないし、誰にも相談すら出来ない。
七雄からは、『誰にも内緒な』という指示を受けているから。
しかし彼は彼で不思議な人間だった。
目の前で他人に抱かれている生殖相手を見て興奮していた。
寝取らせ、というものらしい。
東雲ヤヨイがやけに詳しく教えてくれた。
紺野主任も妙に興味津々だった。
そういう性癖はそう珍しい事でもないという事を教えられたが、それでもやはり僕には納得が出来ない。
それでは愛というものはなんなのだろうか。
性行為とはなんなのだろうか。
わからない。
そんな事を考えながら支部に帰還しようと歩いていると、前方に七雄が街路樹に背を預けて立っているのが見えた。
僕の姿を確認すると無邪気な笑顔を浮かべた。
なぜそんな風に笑える。
ついさっきまで、自分がしていたことに対して何の罪悪感も抱いていないかの振るまいに、僕の拳は強く握りしめられた。
「よぉ八雲。助かったぜ。ほら。これ報酬な」
缶ジュースを投げつけてくる。
僕は黙ってそれを受け取る。
「いきなり帰ってくんだもんな。まぁ一発やった後だったからまだ良かったけどさ。でも折角パイズリの練習中だったのにぁ……」
彼は不満そうに唇を尖らせる。
「あいつ結構上手くなったんだぜ。やっぱり妊娠中だからさ、シャーリーもびっくりな爆乳になってるからよ。余裕で挟めるんだよな。『うぜえ』なんて言いながらでもしっかりちんこ扱いてきてさ、時々吹き出る母乳が良いローション代わりなんだよ。はは。でもやっぱりお腹つかえてちょっとやり辛そうだったかな。とにかく出産後も胸があのままな事に期待だな。そういえば八雲もやっぱり巨乳好き? いや九郞太がそうだからさ。あいつはガキの癖にませてやがんだよなぁ。少しは八雲を見習えってんだよ。な?」
そう言って親しげに肩を組んでくる。
僕は露骨に顔をしかめて彼を遠ざけようとするが、六郎さんのようになりたいという気持ちがそれを邪魔をする。
僕は誰も好きならないし嫌いにもならない。
罪悪感に胸を痛めたり、倫理観で怒りを覚える必要も無い。
人形になるんだ。
「八雲もやりたい女とか居たらいつでも言えよ。お兄さんに任せとけ!」
彼は自分の胸を叩いてそう言った。
「……あの」
「ん?」
「今日のは……治療、ですよね?」
七雄をフォローするためではなく、自分を誤魔化すための言葉。
「ああ……。うん。まぁそうだな。あいつ結構重度な魔法少女症候群だからな。一応そういう口実で押しかけたよ。『このままじゃ困るでしょ?』って。でも多分あいつは治らないんじゃないかなぁ。でも心配すんな。ちゃんと俺が飽きるまで可愛がってやるしさ。適当にあと二、三人孕ましたら子育てに忙しくて夫婦の営みどころじゃなくなるだろうし」
見当違いな激励をすると、僕の肩を叩いて爽やかな笑顔を浮かべる。
「それより来週からの本部での仕事頼むぞ。企業にとっても重要な案件だからな」
「わかっています」
「お前が頼みなんだからな。対象の資料はきちんと目を通したか?」
「はい」
「可愛いだろ?」
「わかりません」
「なんだよ。わからないってこたぁないだろ」
「個人情報は細かやかに記載されてましたが、写真が貼られてなかったもので、容姿についてはまだ確認出来ていません」
「あ、そうなの? なんかの手違いか。まぁいいけどさ。実は俺その子超好みなんだよなぁ。あ、俺も帯同するからよろしく。くぅ。今からテンション上がるぜぇ」
「え?」
「いや、流石にお前一人じゃ色々大変だろ? 俺もサポート役ってことで協力するから」
「その役は紺野主任と聞いてましたが」
「いいじゃんいいじゃん。男二人で東京出張楽しもうぜ! 来週は先にお前がその子と一緒に東京行ってから、遅れて俺も行くからさ。そういえば今から帰るとこか?」
「……はい」
「例の子も今日説明受けに支部に来るらしいぞ。ちゃんと初顔合わせしとけよ。それじゃあな」
一方的に会話を打ち切ると彼はスキップ交じりの歩調でどこかへ行ってしまった。
その後ろ姿が完全に見えなくなると、僕は彼から渡された缶ジュースをそのまま手つかずでゴミ箱に投げ捨てた。
七雄タクヤがあんな風に屈託無く笑うのが許せない。
何故他人の恋人を、伴侶を、ゲーム感覚のようにいとも容易く奪う?
そして玩具のように捨てる?
僕は再び歩き出す。
苛つきが足取りに出る。
地面に八つ当たりするように歩く。
やはり駄目なのだろうか。
僕は人形にはなれないのだろうか。
憂鬱になりながらも企業支部である県庁の前まで辿り着く。
これから例のパートナーとの初顔合わせらしいが、このままでは業務に差し支えが出そうなほど冷静さを失っている。
とはいえ逃げることなど許されない。
僕は一度大きく深呼吸をした。
たった一度横隔膜を慰めたところで何も変わりはしない。
一体何のために、僕は産まれてきたのだろう。
答えが出るはずもない問いが再び顔を出そうとするが、僕はそれを強引に押し留めて身体に命令した。
とりあえず、目の前の歩道橋を渡ろう。
階段の最初の段差に足を掛ける。
すると僕の後ろを小さな幼児が何人か走りすぎていった。
道端で鬼ごっこでもしていたのだろうか。
皆夢中で先頭の男の子を全力疾走で追っている。
その男の子が勢い余って車道に出た。
クラクションが鳴る。
迫るのは巨大なトラック。
男の子は道路の真ん中ですくみ上がって動けない。
トラックもハンドルを大きく切ったが間に合わないだろう。
僕からは距離も遠すぎる。
轢かれる前に子供に辿り着くことが出来ても、それ以上のことが出来る時間の余裕が無いのは明白だ。
それでも僕は、僕の足は、駆け寄ろうとする。
僕の身体は無意識に彼を助けようとした。
ああ、やっぱり僕は六郎さんの様にはなれないんだ。
目の前の、何の関わりも無い子供一人見過ごす事すら出来ない。
気がつけば僕は道路に飛び出していた。
同時に、僕よりさらに小柄な少女が併走していた。
しかしその瞳には僕のような迷いや自分勝手な葛藤は無い。
真っ直ぐと道路の真ん中で縮こまっている弱者に向けられていた。
ふと彼女と視線が合う。
僕らは掛けながら無言で頷き合った。
男の子の右腕を僕が、左腕を彼女が掴むと、一息に彼を車道脇へと放り飛ばした。
しかし僕らはもうどうしようもない。
子供を全力で投げ飛ばした崩れた体勢から視界に映る、目の前まで迫ったバンパーを避ける時間の余地の有無など火を見るよりも明らかだった。
遠くからは悲鳴が重なり、近くからはタイヤが滑る音が轟く。
その全てが生を諦めさせるには充分すぎるほどに絶望的だった。
その刹那の間、僕はその少女と再び顔を合わせた。
こんな状況にもかかわらず、彼女は照れくさそうに、笑った。
少し寂しそうに、でも確かに笑顔を浮かべた。
大きな瞳が瞼に隠れる。
僕より小柄で、まるで小動物のような愛くるしさ。
胸が鷲づかみにされる。
同時に脳天に電流が直撃したかと錯覚するほどの衝撃。
死への恐怖が無いでも無かったが、このまま死ぬのも悪くは無いと思った。
僕が人形になりきれないことを知り、そして他の代理人と同様に、自らが欠陥品であることを知ったから。
僕は数瞬だけで、彼女に恋をした。
名も知らぬ、ただ一緒に人助けをしただけの少女に。
死を間際にして、笑顔を浮かべた彼女に胸をときめかせた。
産まれてきて良かった。
たった瞬き数回分の逢瀬だったが、そう思えるに不足は無いほど気分が高揚した。
ああ。
だから人間は皆恋愛をするんだ。
だってこんなに幸せなんだから。
産まれた瞬間を記憶しておらず、自身の存在意義に悩んだことなど今は馬鹿らしい。
初恋の人と子供を助けて死ぬこの瞬間を、心に焼き付ければ、それはきっと上等な人生だったに違い無い。
僕は目を瞑った。
……。
……。
……。
悲鳴も、車の排気音も聞こえない。
風の音だけ。
痛みも無い。
それどころか、両頬が左右から柔らかく暖かい感触に挟まれている。
弾力に溢れ、それでいて飲みこまれそうな不思議な感触。
ここはきっと天国だろう。
こんなふわふわした幸せな感触はきっとそうに違いない。
そっと目を開けると、僕は街をビルの屋上から見下ろしていた。
「……え?」
顔を上げると、見知った顔が安堵の息を吐いていた。
「ふぇ……間に合ったぁ……」
僕は彼女の名を呼ぶ。
「シャー……リー?」
「えへへ……八雲君、頑張ったね」
そう言って彼女は僕の頭を撫でる。
瞬時に理解した。
僕は彼女に助けられたのだろう。
元々事故が起きそうになった道路は支部である県庁の目の前だ。
彼女が偶然居合わせたとしても不思議ではない。
と、すると、この右頬に押しつけられているのは、僕を抱きかかえているシャーリーの乳房だろう。
するとあの少女はどうなったのだろうか? などという疑問が沸く前に僕は彼女の所在を推測する。
僕の右頬を圧迫するのはシャーリーの乳房。
同様のボリューム感と柔らかさを有する感触は、僕の頬左右両方から挟みこんでいる。
つまり、左の頬に押しつけられているのは……。
恐る恐る顔を上げる。
あの少女が僕と同様にシャーリーに抱えられていた。
彼女も僕と同様に死を覚悟したのか、ぎゅっと目を瞑ったまま。
つまり僕の顔は二人の女性の胸の間に挟まっていた。
シャーリーは僕と彼女をしっかり抱きかかえていたし、彼女も無意識にシャーリーの身体に抱きついていたから、その間に埋まっていた僕の身体は彼女達と強く密着していた。
そのふわふわとした心地良さに思わず涎が垂れそうになる。
その誘惑を振り切って幸せな谷間から逃れた。
未練が無いわけではなかったが、それ以上に彼女達に対して失礼だと思ったから。
それでも顔を引っこ抜くと、頬には寒々しいほどの寂しさが襲う。
何故世の中の男性が女性の乳房に執着するのか存分に理解した。
「……あ、あれ?」
彼女も目を開ける。
「……ここ、は?」
不思議そうに目を丸くしている。
「えっと……」
どう説明すればいいものか。
そこで僕はある事実に気がつく。
彼女はおそらく企業によって記憶を消されるだろう。
何が起こったかは理解出来ていないだろうが、それでも魔術を目の当たりにしたのは間違い無い。
そうしたら僕との出会いも一緒に忘れてしまうかもしれない。
それでも僕は、自分の名を教えずにはいられなかった。
記憶の片隅でも良い。
僕の名前が残ることを期待して。
「あの……僕は……僕は、八雲」
「え? あ? え?」
彼女は混乱している。
それはそうだろう。
悠長に自己紹介をしている場合ではない。
それでも彼女は返答してくれた。
「あ、あたしはチエ……太田チエ……だけど」
その言葉に僕は腰を抜かしそうになる。
名に聞き覚えがある、などというレベルの話ではない。
ようやく実践段階に入った、量産型魔法少女の最初の試用人材に選ばれた少女の名前。
僕と一緒に東京の本部へと行き、実験の最終段階を共にする予定のパートナー。
その太田チエは状況を掴みきれずに、周りをきょろきょろと不思議そうに見渡している。
シャーリーは「……また怒られちゃう」と肩を落として溜息をついていた。
一般人を助けたと誤解しているのだろう。
僕は両人に対して、なんと説明をしたら良いのかわからず途方に暮れる。
しかし胸は相変わらずドキドキと甘いリズムを打ち出しているのは、死への恐怖の余韻やここから見下ろす街が絶景などという理由ではないのは確かだった。



続く










おまけ




「よお。調子はどうだ?」
「おかえり。急にどした?」
「いやぁ。営業先に寄ったついでにな。やっぱついつい気になっちゃって」
「そっか。お疲れさん」
「なんかちょっと顔赤くないか? 熱でもあるのか?」
「そう? 全然元気だよ」
「本当に大丈夫か?」
顔を近づけると彼女も仰いで目を瞑る。
阿吽の呼吸で唇を重ねると、ちゅ、と短い音が鳴った。
「心配しすぎだっつうの」
肩を竦めて呆れるように笑うと、「ま、嬉しいけどさ」と今度は向こうから抱きつきキスをしてくる。
その際につっかえる張ったお腹から、新しい命の脈動が伝わるのが幸せで堪らない。
あの夏を乗り越えてから、俺とアンナの絆はより深まった事は間違い無い。
俺は彼女をどんな事があっても傍で守ると決意をし、そして彼女もそんな俺に対して見る目を変化させた。
それは以前には無かった甲斐甲斐しさだったり、母性だったりを感じさせる視線。
「それじゃ仕事に戻るな」
「ああ。頑張ってな。今夜は特製ハンバーグだぜ」
彼女特有の快活な笑みを浮かべて、二の腕で力こぶを作る仕草をした。
男勝りな言動は以前と変わらないが、笑顔や口調の節々には微かな変化だが柔らかさが見られるようになった。
その全てが俺を癒やしてくれる。
もう一度キスをすると俺はマンションを出て仕事へ戻った。

夫を見送るとソファに腰を下ろして背もたれに全体重を預けた。
一気に脱力すると同時に襲いくるのは罪悪感。
前髪を手の甲で掻き上げながら溜息を漏らす。
天井をぼうっと見上げながら、「……まいったね……どうも」と声を漏らした。
彼女が夫に対してやや過剰なほどに愛情を向けるようになったのは、そこに憐憫の念が交じるからに他ならない。
本当のことを言って別れるべきなんだろうか。
彼女が本気でそう悩み始めたのはここ最近のことだ。
この街を離れて、全ての過去を振り切ったつもりだった。
自分の中で割り切ったつもりだった。
夫の為に闘い、そして夫の子をお腹に宿したと納得していた。
性行為をたかが身体だけの結びつきと侮り、快楽に堕ちる恐怖を知り、もう二度と夫以外に身体を許すまいと心に誓った。
しかし今もお腹を蹴る子が、夫の子ではないという事実からは逃れられなくなったのはここ数日。
まるで頃合いを見計らったかのように七雄が現れ、『治療』を持ち掛けてきたことが発端。
実際時折求めてくる夫と交わることは、最早彼女の肉体にとっては苦痛でしかなかった。
精神的には安らぎを与えてはくれるものの、夫の男根が侵入する度に、彼女は必死に痛痒を隠してやり過ごししか術は無かった。
ついには、出産に支障が出るかもしれないと遠回しに仄めかし、夜の営みをやんわりと拒否するようになったのは、彼女にとっても非常に心苦しいものだった。
それを当然のように受け入れる、彼女の心身を慈くしむ夫の愛情も、彼女にとっては純粋に喜べない。
もしかしたら出産後もこのままではないかという危機意識や、何より彼女自身、あのような出来事の際中や後でも、自分を見守ってくれた夫に対して全てを捧げたいという愛情は増すばかりだ。
妊娠中特有の性欲上昇とは別に、純粋に夫に抱かれたいという淡い恋情は燻り続けてはいた。
しかしその想いを凌駕するほどに、その激痛は彼女を苦しめた。
ともすれば、本当に出産に悪影響を及ぼすのではないかと思わせるほどに。
そして夫とはただ手を繋いで寝るようになって、更には再び七雄と『治療』という名目で性行為に及ぶ羽目になってしまった理不尽な現状に対して彼女は憂いを隠せない。
何より腹立たしいのは……。
またお腹を蹴る。
彼女は「はは」と力無く笑うと、そのお腹を優しく撫でた。
母性愛に溢れた手つき。
そして同様の優しさに充ち満ちた声を掛ける。
「わかってる。お前は悪く無いよ。胸張って元気に産まれてこい」
彼女はお腹の子を心から愛していた。
母親として当然の事。
誰の種であろうが、自身のお腹に宿した命に愛着を持つことは至極当然だった。
以前はその父親を最も愛する人だと誤魔化そうとしていたが、もうそれはどうしても叶わない。
七雄と『治療』で交わる度に、彼の男根を受け入れる度に、膣が、子宮が、身体が、心が、彼を父親だと認める。
自分を孕ませたのは、この男だ、と。
そして愛する子供の父親を、どうして心から憎むことが出来るだろうか。
彼女にとって七雄はあくまで嫌悪の対象だ。
少なくとも表面的な意識上では確かにそう思っている。
しかし、憎みきることが出来ない。
それは微塵も彼自身に惹かれている事ではないことを彼女も理解している。
愛する我が子の父親。
それだけで特別な情が付加される。
それだけで、愛する夫と肩を並べる特別な存在になってしまう。
それが悔しくて堪らない。
長い年月を掛けて二人で積み重ねてきた確固たる絆の重さが、たった一つの既成事実で同等の価値を持ち得てしまう。
「自分がそんな母性に溢れた女だなんてな……冗談きついぜ神様」
そう溜息交じりに呟く彼女の願いは二つ。
愛する夫と人生を共にしたい。
愛する我が子をしっかりと産み、そして我が手で育てたい。
その願いを両立させることは、事ここに至ってはそれほど困難でもない。
ただ彼女が黙っていれば良いだけ。
しかしその秘匿が、彼女を苦しめる。
しかしそれを打ち明けたとして、夫はどうなるのだろうか。
わからない。
とりあえず今は、この子を無事に産もう。
その後の事は、それから考えよう。
彼女はそう決めた。
問題の先送りではあるが、出産を数ヶ月後に控えた現状においては、その案以外に選択肢が無いことは疑いの余地は無い。
それにしても、と彼女は思い返さずにはいられない。
一体どこで何を間違ってしまったのだろうか。
元々はただの不運。
自分が魔法少女に選ばれた事は誰の責任でもない。
運命の悪戯だった。
夫の為に戦えるのであれば、むしろ誇りとすら思っていた。
それからたかが性行為と侮り、別の男と身体を重ねる度に情が移りつつあることに不安を覚えた。
そこでその不安を断ち切る為に、無理矢理夫と性交したのが結果として失敗だった。
あんな暗示さえ使用しなければ、と後悔はするが、しかしその選択を自責することは出来ずにいた。
ただ黙って夫以外と夜を過ごし続けろと言われるには、彼女は夫のことを愛しすぎていた。
そして妊娠についてもただの不運だった。
父親が誰かと気がついてしまったのも不運だった。
それでも彼女は不運に嘆くことはしない。
考えるべきは、お腹の子供と夫。
愛する二人を幸せにしたい。
その為にはどうするべきかを考える。
呼び鈴が鳴った。
また夫だろうか? 忘れ物でもしたのだろうか? と彼女の胸は再び淡い幸福感に満たされる。
自分のお腹を眺めては頬を緩ませる夫の顔を見るのは辛くもあるが、同時に安心感も与えてくれる。
しかしすぐに、夫ならわざわざ呼び鈴を鳴らす必要が無いことに気付き落胆した。
「はいはい~っと」
身重の身体を気遣うようにゆっくりと立ち上がり玄関へと向かう。
「どちらさま~?」
チェーンを掛けたまま扉を開けた。
すると思いも寄らない顔がそこにはあった。
「よお。久しぶりだな」
「なっ……」
彼女は絶句する」
「今日は休みでな。久しぶりに会いにきてやったぞ。アンナ」
「……なん……で」
「なんで? 昔の愛人につれないじゃねーか。ん? お前妊娠したのか?」
「あ、ああ」
彼は口端を下劣に歪める。
「もしかして俺の子か?」
「ば、馬鹿言え! 旦那の子に……」
決まってる、とは啖呵が続かなかった。
「わっはっは。冗談だ。そう怒るな。まぁ積もる話もあるだろ。中に入れてくれよ。旦那は仕事だろ?」
アンナは黙って扉を閉める。
「おい。どうした? 開けろよ」
外からは軽く扉を叩く音と、不満そうにしゃがれた声。
その扉に背を預け、ずるずると腰を下ろしていく。
「はっはー……勘弁してくれよ」
扉の外の男に聞かすでもなく、ぼそりと一人そう呟く。
ちっ、と舌打ちが聞こえると、「まぁ急に来てもアレだな。また連絡するからな。昔みたいに先生と仲良くしてくれや」と捨て台詞を残して足音が去って行った。
彼女は玄関で腰を下ろしたまま昔の記憶を反芻する。
やはり嫌悪の対象であった男でも、肌を重ねて快楽を貪り合った結果、情を移しだしてしまった相手。
手の平で額をぺちぺちと叩く。
「あんの野郎……記憶消したんじゃねーのかよ」
彼女の脳裏には、今の生活に波風を立てられるのではないかという不安がよぎる。
しかしよくよく考えれば、彼との『補給』自体は旦那も知るところなので、万が一脅迫などされたとしても何ら恐れることはない。
七雄との『治療』や『妊娠』とは訳が違う。
それにしても出来れば向こうにも忘れていてもらった方が良い過去なのは間違いが無い。
彼女は玄関に背を預けたまま携帯を取り出すと、そらで憶えてしまった七雄の携帯番号を押して通話ボタンを押す。
『もしもし? どした? さっき途中で終わって欲求不満だった?』
「アホか! てめぇ、さっきあいつが来たぞ」
『あいつって?』
「山本だよ! 全然記憶消えてねーじゃねーか」
『あ、マジで? めんごめんご。また今度消しとくわ。それよりさ、旦那もう行った?』
「もう切るぞ」
『わー待て待て。そうじゃなくてさ、ほら、山本の記憶消すにしたって、綿密な話し合いってのが必要じゃん?』
「要らねーだろそんなもん。そっちで勝手に対処しとけよ」
『要る要る。再消去ってなると書いてもらわないといけない書類とかあるし』
「……マジだろうな?」
『マジマジ。早いほうがいいだろ? 今からまた戻って良い?』
「……勝手にしろ」
彼女は電話を切ると玄関先に座ったままお腹を撫でながら、「またパパが会いに来るってさ……」と自虐的に笑った。

数十分後。
リビングのテーブルにはアンナの署名が記された、七雄が即席で作った『記憶再消去要請書』なるものが置かれていた。
当然そんな書類は企業には存在しない。
一度消去した記憶が戻った場合、『補修』するしか手立ては無い。
ただ再訪問をアンナに納得させる為だけの、偽りの小道具。
「今度は見張り居ないけど多分もう大丈夫だよな?」
「……知るか。それより早く……んっ、あ…………終わらせろ」
「記憶消去のこと?」
「ばっ、ちが……あっ、やっ…………それも、だけど…………あっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
七雄は大きく膨らんだアンナの横腹を、愛でるように撫でながら、優しく腰を前後させる。
カリで膣道をほぐすように、労るように擦りつけていく。
「あっ、はあっ、んっ、それ、いい…………あんっ、あんっ、はぁっ、うっ」
寝室で、互いに全裸で、身重の身体を後背位から突き立てる七雄のピストンは本当の夫と見紛うほどに穏やか。
それに合わせて艶やかな吐息を漏らし、ぬちゅぬちゃと淫靡な音を立てては男根を甘受しては、表情を蕩けさせるアンナとは一対の夫婦そのもの。
「こう?」
「あっ! だめっ、そんな奥!」
「っと。悪い悪い。これくらい?」
にゅるんと音を立てて、七雄の反り返った亀頭が膣に収まる程度に男根を引き抜く。
「はぁ……ん……そこ……そこが、いい」
「でも浅いとこばっかじゃ辛くない?」
「で、でも……あっ、あっ、あっ、べ、別に……良い」
喘ぎながらも確かにその声は切なさに溢れている。
「もうちょっとくらいなら奥大丈夫だろ?」
「やっ、あっ、わかっ……ない」
ぬぷ、と白濁液が泡を立てて、ほんの数cm彼らがさらに深くまで交じる。
「ほら、これくらいなら?」
「んっ、あ……だ、だい、じょうぶ……はぁっ、はっ、んっ、はっ」
身体と相談しながら、快楽を探り合う様子は夫婦の寝室に似つかわしい。
「産んだらさ、気兼ねなくガンガン奥突いてやるからな」
「う、うるさ……あっ、あっ、あっ、いっ、あっ」
「ママは奥が好きだもんな」
「くっ、う、うぅ……」
その言葉に歯を食いしばり、両手は拳を作ってシーツを握りしめる。
優しげなセックスによる、徐々に押し寄せる穏やかな絶頂に意識が埋没しながらも、アンナはいつからだろうと思いを寄せる。
七雄から「ママ」と呼ばれることにそれほど抵抗が無くなってきたのは。
夫から同じように言われると心苦しくなったきたのは。
同様に夫に対して、「パパ」と呼びたくても呼べないのは、最初から。
なのに……。
「ああ駄目。もうイキそう」
七雄の腰は加速を始めるが、あくまでアンナの浅いところを執拗に責める。
陰唇が亀頭を飲み込んでは吐き出して形を変える度に、くちゅくちゅと音が響く。
「あっ!あっ!あっ!それ、だめっ!やっ、だっ……!!!」
声に帯びていた切なさがさらに強まる。
「奥突いてほしい?」
「……だ、め……だっつうの!」
「産んだら突いて欲しい?」
七雄の両手が横腹から胸に伸びて、大きく膨らんだ乳房に指を埋めるように揉みしだく。
搾られるように、勢いよく母乳が吹き出た。
「はぅ……あ」
「な?」
アンナは堪らないといった様子でこくこくと首を前後させる。
それを見届けると満足げに「それじゃ出すな」と七雄の両手は彼女の腰を掴んだ。
「あっいっ!あっあっあっ!イクっ!イク!アッ、アタシ……も」
「どこで出せばいい?」
「中は、駄目……あっあっあっだめ、もう、本当、ガマン、できなっ」
「言えよ。どこに出してほしいか」
「しら……ない…………パパの好きなとこで、出して…………あっ、いっ……いく…………イクイクイク! あああああっ!!!」
七雄は膣から自身を引き抜くと、腰を突き出したままぶるぶると震えるアンナをゆっくりと仰向けに寝かせる。
そしてアンナの愛液で真っ白に染まった男根を自ら扱きながら、そのお腹の上に塗りたくるように射精していった。
「あ~。挿入れる前にしてくれたママのパイズリ上手かったから一杯出るわ」
五月蠅い。
黙れ。
アンナはそう怒鳴ってやりたかったが口が言うことを聞かない。
「ふぁ……あ……あ」
七雄の射精を見届けながら、だらしなく開かれた口から舌が覗かせている。
その蕩けきった顔に七雄が唇を重ねにいく。
するとアンナもぐっと唇を結って、突き出すと啄むようにキスをした。
そのまま七雄が離れると、再度口を開けて「はっ……はっ……はっ……」と浅い息遣いで呼吸を整える。
表面にはうっすら浮かんだ汗と白い精液が飛び散った大きなお腹が上下する。
乳頭からは母乳が垂れた白い筋跡がいくつかに別れて残っていた。
七雄はそんな絶頂の余韻に浸るアンナに背を向けてベッドから離れると、充足感に浸るように一度大きく伸びをすると、全裸のままダイニングに向かう。
その途中でリビングに置かれた嘘の書類を目にする。
(どうしよっかな。面倒臭いから放置でも良いんだけど佐倉にバレたら五月蠅いしな。ナオちゃんじゃ補修無理みたいだし、魔力強いやつにやってもらうしかないか。でも東雲や綾小路が俺の言う事聞くわけないし、トモちゃんなんて論外だよなぁ。シャーリーも最近冷たいし……お。良い事思いついた)
ふむふむと一人で頷きながら冷蔵庫を開けて勝手に飲み物を漁る。
その中に挽肉が混ぜられたボウルが見つかったので、今日はハンバーグなのかな、と彼は推測すると、(奥さんの手料理食べて頑張って働いて下さいね。俺の子供養うために。おなしゃーっす!)と感慨深そうに両手を合わせて拝んだ。



おまけおわり