「なんだ八雲か」
彼は立ち上がると不機嫌そうに顔をしかめた。
怒鳴り声をあげたものの、そこまで腹を立てているわけでも無さそうだ。
僕は謝ろうとしたが、何故か喉につっかえるものを感じたので、とりあえず頭だけを下げた。
「ったく。今度からぁ気をつけろよ……ってなんだお前。泣いてんのか?」
三吉のその言葉で初めて自分の異変に気付く。
僕の目からは止めどなく涙が流れていた。
「あぁん? どうしたんだコラ」
彼は怪訝そうに尋ねてくるが、僕にもこの生理現象の意味がわからない。
どちらにせよ喉がひくひくと痙攣して喋れないのだ。
これが嗚咽というものなのだろうか。
「おいおい泣いてちゃわかんねーぜ」
三吉は億劫そうに溜息をつくものの、僕のことを放っておけないのかその場から動こうとはしない。
僕もどうしていいかわからず、ただその場に立ち尽くして声をしゃくり上げ続ける事しか出来なかった。
するとトイレの入り口から新たに誰かが入ってきた気配がした。
涙で滲む視界の中、なんとかその人の輪郭を捉える。
ぼやけた映像では誰かを判別するすることは不可能だったが、「おい! 三吉! 何をしている!」という誠実そうな声で僕はそれが清水さんだとわかった。
きっと僕が三吉に何かされたと誤解したのだろう。
それも致し方ない。
トイレの中、いかにも柄の悪い男の前で子供が泣いているのだ。
「ちょっと待てやコラ。俺何もしてねーよ」
「何もしてないのに八雲が泣くわけないだろ」
「知るかアホ!」
僕は誤解だということを伝えるために、清水さんの袖を泣きながら引っ張った。
「ん、どうした? もう大丈夫だぞ」
優しく掛けてくれた声に対して、僕は涙を拭きながら首を左右に振る。
「ほら見ろ。勘違いだっつうの」
「本当だろうな?」
「かぁーっ。お前なぁ、俺の事なんだと思ってやがる? その辺のチンピラと一緒にすんじゃねぞ。あぁん?」
実際三吉はその辺のチンピラと変わらないが、今回の件に関してはただの濡れ衣だ。
「……ち、違います……僕が、勝手に……」
上手く喋れないが、なんとか声を絞り出した。
「わかったわかった。とりあえず落ち着け。こっちに来い」
そう言って清水さんは僕の腕を取り、そのままトイレから連れ出した。
背中からは、「おいこら清水てめぇ! 謝罪の一つも無しか!?」とがなり声が上がる。
「ああ。悪かったよ」
清水さんのあしらうような弁解に対して、強い不快感を隠そうともしない舌打ちがトイレの中から通路まで響いてきた。
「気にするなよ。それで、どうしたんだ?」
「……あの」
「ああ、こんなところじゃ落ち着けないな。研究室来るか? 主任も居るし」
「でも、これから太田チエのところにいかないと……」
「いや、初顔合わせ自体はもう済んでるんだろ? だから今日はもう良いって部長が仰ってたぞ」
「そうなん、ですか……」
もう今日は、彼女と顔を合わさなくても良い。
そう聞いた瞬間、酷く落胆を覚えたと同時に安堵もした。
僕の思考は未だ激しい濁流の渦に飲み込まれたままだ。
こんな感情のまま、彼女と再び会えば頭がパンクしてしまいかねない。
自分の流す涙の意味を知りたい。
でもそれは、紺野主任に、というよりは、女性に聞いてはいけない気がした。
僕は清水さんに話を聞いてもらうようお願いする。

「なるほどな……」
人気の無い食堂で、対面に座る清水さんが神妙な顔つきで腕を組んで頷く。
僕は正直に全てを話した。
綾小路スミレがAV女優をしていることを知り、その動画を見た事。
そして精通と思わしき現象を経験して、その後何故か涙を流してしまった。
勿論こんな事を相談するのは恥ずかしかったけれど、こんなもやもやした気持ちを一人で抱えるのは嫌だったし、何より清水さんが企業において数少ない、心から信頼出来る誠実な人柄の持ち主というのが大きかった。
男性という条件では唯一無二の存在と言っても良いかもしれない。
「それはまぁ……罪悪感だろうな。八雲。お前は普段から何かと彼女に気を留められていただろう?」
「そう、ですね」
「その恩人の……まぁ、なんだ……秘密というわけじゃないが、見てはいけないものを見てしまったという気持ちが強いんじゃないか?」
「それは当然あるかもしれません」
「ショックもあっただろう?」
「……はい。でもそれだけじゃないような気がします」
納得がいかない僕に対して、清水さんは少し照れくさそうに頬を掻きながら口を開く。
「というかだな、俺も初めて……その……あれだ」
「はい?」
「だからだな、うん……所謂、自慰、というやつを初めてしたときは、すごく落ち込んだというか怖かったぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。それは世の中の男性が共通して経験する不安だ」
「清水さんにもあったんですか?」
「そりゃそうさ。とんでもないことをしてしまった……って感じだな」
「最初は皆そうなんでしょうか?」
「流石に泣くまではいかなかったがな。しかしお前の場合は身近の、それも親しい人間のそういう姿を見ながらだったんだから、尚更ショックが大きかったんだろう」
「今僕は、尋常ではないくらい彼女に申し訳なく思っています」
「それが当然だ。でもそのうち慣れていくさ」
「そういうものなのでしょうか?」
「ああ。俺だって、いや、世界中の男がそうだよ。好きだったり身近な女性で自慰をしたら多少の罪悪感に苛まれるものさ」
「だからああいうものが世の中に蔓延しているんでしょうか?」
「ああいうもの?」
「アダルトビデオや風俗です。自分と関係の無い女性なら、気兼ね無く性欲が処理出来るということなんでしょうか?」
「まぁ大きな意味での気軽さ、というのはあるだろうな」
「罪悪感の軽減が重要目的ではないのですか?」
「言っただろう? 慣れるものさ」
「……そうですか」
とても信じられない。
自分の動揺の意味はそれなりに納得が出来た。
男として必然の通過儀礼ということならば、甘んじて受け入れるしかない。
しかしこの胸の痛みや、大きな罪を犯してしまったかのような肩の重さが慣れる事などありえないように思えた。
その要因の一つとして、当然だが射精には大きな快楽が伴う事にあると推測する。
快楽を求め、自己の為に他者の淫らな姿を利用する。
そんな自分が汚らわしく思えて仕方が無い。
「それにな、射精後には倦怠感を伴うものなんだ。それが余計に自己嫌悪に拍車を掛けるんだろうな。『何やってんだろう……俺』っていつも思ってるよ」
「清水さんもですか?」
「お、おう。そりゃな。俺も男だからな」
彼は一瞬躊躇したが、開き直るように胸を張った。
そんな彼に僕はさらに問いかける。
こんな事を聞くのは憚れるが、どうしても知りたかった。
こんな悩みを抱えているのが自分一人だけだとは思いたくはなかった。
僕はどんどん変わっていってしまっている。
弱く、脆くなっていっている。
でも不思議とそれが嫌じゃない。
「あの、清水さんも自慰をするんですか?」
「あ、当たり前だろ」
平静を装ってはいるが、視線が少し泳いでいる。
「どういうモノで?」
「俺は……その、あれだ……あーっと」
不躾な質問をしているのはわかっている。
彼は怒るなり、はぐらかすなりの権利を当然有している。
しかし僕は大真面目だ。
そして彼も常に大真面目だ。
真面目な気持ちには真面目で返すことを美徳としている。
だから答えてくる。
頬を染めながら咳払いを一つ。
「最近は……そうだな。俺も、そういうビデオを観たりしている」
目を瞑りながら、胸を張ってそう言った。
そうか。
清水さんのような人でさえそういうものなのか、と感心する前に、僕の視線が彼の背後にひっそり立つ人物を捉えて、同時に背中に悪寒が走る。
「ビデオを観て何をしているの?」
「だから自慰……はっ!」
彼が慌てて振り返る。
僕達は会話に集中しすぎていた。
近くに忍び寄るその気配に気付けない程に。
清水さんの目は限界まで見開き、彼女の笑顔を驚愕の表情で見上げていた。
紺野主任はニコニコと、とても朗らかな笑顔を浮かべている。
とても穏やかで、まるで小春日和のような微笑み。
しかし何故か、とうに泣き止んだ僕の喉が、再びきゅうっと縮まる。
「あはっ。もう少し、詳しく聞かせてもらってもいいかな?」
「……いや、その」
「ね?」
ニコニコしたまま小首を傾げる。
「……すいません、でした」
「なんで謝るの?」
優しげな口調が逆に不気味だ。
清水さんはもはや狼狽えることすら出来ない。
捕食される寸前の虫のように、残された手段はただ息を潜めて奇跡を祈るばかり。
「あはっ。まぁいいや。清水君。ちょっと実験の手伝いしてもらっていいかな? スライム使って今色々としてるんだけど、是非男性の感想が聞きたいんだ」
「……わかりました」
清水さんはそっと立ち上がると、諦観めいた表情で僕に向き直り、「……まぁ、色々……あるからな……人生は」とだけ言い残して去って行った。
紺野主任はその背中を鼻歌交じりに両手でぐいぐいと押しながら、僕の方へ振り返ると「今からしばらくは研究室に立ち入り禁止ね?」と心底楽しそうな満面の笑みを浮かべる。
新しい玩具を買い与えられた無邪気な子供のような笑顔。
なのに何故だろう。
清水さんには憐憫の念しか浮かばない。
そんな二人を見送ると、食堂でまた一人きりになる。
清水さんの安否も気になるが、今は自分のことだけで精一杯だ。
それでも少しは自分の気持ちが整理出来た気がする。
僕は手帳を開くと『射精』と書いて、そこから矢印を引くと『激しい倦怠感と罪悪感を伴う危険性有り』と記した。
手帳を閉じる。
一度小さく深呼吸をして立ち上がろうとした。
その刹那、食堂の扉が乱暴に開かれる。
ばたん、と乾いた音が閑散とした食堂に響く。
三吉だ。
視線が合う。
彼はつかつかと僕の方へ黙って歩いてくる。
両手をスカジャンのポケットに入れて、少々がに股で歩くその姿は粗雑で横暴な若者にしか見えない。
僕の目の前に立つと、ポケットに仕舞い込んでいた片手を出してそれを僕に差し出した。
その手の中にはスマートフォンが握られている。
「これ、さっきのトイレに落ちてたぜ」
憮然とした口調でそう言うと、ひょいと投げ渡してくる。
いつの間にか落としていたのだろう。
紛失していた事にすら気付いてなかったとは。
非常に動揺していたとはいえ反省しなければならない。
「ありがとうございます」
「別に。ただオナニーした後は、オカズに使ったブラウザの履歴くらいは消しとけや」
彼は度の強いサングラスのブリッジ部分をくいっと指で上げると、にやりと口端を持ち上げた。
顔がかぁっと熱くなり、視線を外してしまう。
「ま、今度からは気ぃつけるこったな。けっけっけ」
それだけ言うと、彼は背中を向けて離れていく。
ただ本当に親切で落とし物を届けにきただけらしい。
恥ずかしくて穴があったら入りたいという慣用句の意味を身をもって理解した。
身体が硬直する。
しかし口が勝手に開いた。
食堂を出て行こうとする彼の背中に言葉を投げかける。
六郎さんや清水さんへ質問を投げかけた時もそうだったけれど、どうにも僕には時々自分の好奇心を抑えきれなくなる事がある。
これも僕の欠陥……いや、個性なのだろうか。
「……あの、どうして綾小路スミレはあんな事をしているんですか?」
三吉は立ち止まり、顎を突き出すように首だけで振り返る。
「は? なんでそんな事聞くんだ?」
「あなたが彼女の代理人だったんでしょ?」
そう。
三吉が彼女を魔法少女にした張本人。
彼のような品性の欠片も無い人間が、もしかすると彼女の処女を奪ったのかもしれないと考えると、胸が焼き付くような思いに囚われる。
「そういう意味じゃねえよ。聞かなくてもわかるだろって事だよ坊ちゃん」
「……わかりません」
「あのな。AV女優になるなんて女はセックスが好きか金が欲しいかのどっちかに決まってんだろ。それかただ流され続けた馬鹿のどれかだ。あの女はどれだと思う?」
「……お金、ですか?」
「正解。あいつは天然だが馬鹿じゃねぇ。セックスが好きなら七雄の野郎のセフレにでもなるだろうがそれも無い。まぁ、感度は俺が開発してやったから、乱れ具合はお前も知ってる通りだけどな」
そう言って彼は「ひっひっ」と愉快そうに笑った。
僕には気恥ずかしさと同時に、その口ぶりに対して苛立ちを覚える。
「あいつさ、婚約者とも結婚するまで身体を許さないって決めてたみたいでな。今でも思い出すだけで勃起もんだぜ。高飛車なお嬢さんの処女をさ、林の中で停めたハイエースの中で奪ってやったんだよ。超軽蔑するような冷めた目で睨んでくるんだけどあの肝っ玉だろ? 悔しそうな顔一つしやがらねぇからつまんねぇっちゃつまんねぇんだけどさ」
僕は彼女の事情が知りたかった。
何か手助けが出来るかもしれない、などと甘いことを考えていた。
しかし三吉はそんな想いをぶち壊すような下劣な言葉を並び立てる。
この目の前の男とこれ以上言葉を交わしたくはない。
僕は黙って俯く。
三吉はさらに何か二言三言口にして食堂から去って行ったが、もう僕は耳を傾けてはいなかった。
机に突っ伏すと、初めての射精と嗚咽による疲労感で瞼が落ちていく。
もう考えるのが億劫でならない。

どれほど居眠りをしていたのだろうか。
目を擦りながら顔を上げようとするが、自分を包むとても優しい匂いが、寝起きの頭を余計にぼんやりとさせる。
僕の背中にはカーディガンが掛けられていた。
それは暖かくて柔らかくて、心の奥まで安心させてくれる。
「あら、お目覚め?」
その声にしゃんと顔を上げると、対面には綾小路スミレが座っていた。
頬杖をつき、僕を真っ直ぐ見つめている。
「疲れているのかしら? 早退したら?」
静かな水面のような表情はいつも通りの彼女だ。
しかし僕は無意識にあの『スミレ』をオーバーラップさせてしまう。
普段の様子からは想像も出来ない甘く切ない声。表情。巧みに奉仕する姿。
その全てが今となっては幻のようで、しかし皮肉なことに全身に溢れる気品が、目の前の女性があの女優と同一人物だという現実を突きつける。
僕は彼女と見つめ合いながらも、ああ、この人が、本当に、AV女優としてセックスをしていたんだ、と認識した。
無表情ながらも、どことなく僕を心配しているかのような瞳。
ふわふわと再び眠気を誘うカーディガンの優しい匂い。
不思議なことにその全てが、あの『AV女優スミレ』と一致する。
あれには確かに僕が知らない綾小路スミレの一面もあった。
しかし彼女はあくまで彼女だった。
誇り高く、淡泊で、それでいて慈愛深い、五人囃子の綾小路スミレなのだ。
先ほどまでの僕には、出来ることなら彼女に謝りたいという気持ちがあった。
しかし今となってはそれがむしろ彼女にとって失礼であるということがわかる。
多少のどぎまぎした鼓動を感じながらも、僕は躊躇無くその事実を伝える。
「僕、観ました。貴女が出演しているビデオを」
彼女は眉一つ動かさず、頬杖をつきながら、「そう」と答えると、「どうだったかしら?」と逆に尋ね返してきた。
「綺麗でした」
「当然ね」
彼女の表情には羞恥はおろか驚愕も無い。
僕の目をじっとのぞき込みながら、頬杖している別の方の手の平を自身の胸元に当てる。
「この綾小路スミレ。世間に晒して恥じるような身体を持っていると思って?」
一切の負い目など無く、ただただエレガントに胸を張る。
「いいえ」
そうだ。
これこそが、僕が尊敬する綾小路スミレ。
「でも、貴方にはまだ早いわね。もう少し大人になってから視聴しなさい」
「わかりました。ただ、理由を教えて下さい」
「どうして?」
「知りたいからです」
彼女の口元が微かに微笑んだ。
「成る程。わかりやすいわね。わかりやすいのは嫌いじゃなくてよ。そうね。強いて言うなら婚約者の為、という事になるのかしら」
「お金……ですか?」
「そういう事」
「その為に、あんな事を?」
「そうよ」
「魔女になったのも給金目当てですか?」
「勿論」
「魔女の給金など微々たるものだと聞いていますが」
「私には特別手当が出てるの」
「特別手当?」
「私がどうしていつもヤヨイと一緒に居ると思う?」
「それは……友人だからではないのですか?」
「腹立だしいことにそれもあるわね。でもこれは企業からの要請でもあるの」
「というと?」
「あの子の能力を知っている?」
「はい」
「じゃあ『入玉』の事も?」
「『入玉』……たしか発動したら第一種警戒態勢が敷かれるという……」
「そう。万が一その時が来たら、私が命を賭してあの子を止める契約になっている」
入玉。
東雲ヤヨイの奥の手、というのは少々語弊がある。
彼女の絶命という条件の下、強制発動してしまうという特殊能力。
一度発動してしまえば、東雲ヤヨイの命は蘇生されるものの理性は失われ、ただ破壊の限りをつくす巨人型の怪異と化す。
制御不能の望まれない最終手段。
第一種警戒態勢は企業と政府が総力を上げて事態の沈静化に臨むのは勿論の事、連盟からも無条件で武力行使による干渉が行われる規模の大事だ。
それを、綾小路スミレの命で止める?
「可能なのですか?」
「私一人じゃ勝算は薄いわ。でも佐倉ショウコが居るでしょう? なんだったら彼女一人でもなんとかなるかもしれないわね」
確かに歩く大量破壊魔法兵器との呼び声が高い佐倉ショウコならば、入玉した東雲ヤヨイとも渡り合えるのかもしれない。
しかしその戦闘区域周辺は、都市壊滅レベルでの惨状は免れないだろう。
勝負の天秤がどちらに傾くにせよ、彼女達が衝突した跡は根無し草一本残らない焼け野原になることは間違い無い。
「だから私はあくまでおまけ。主たる保険は佐倉ショウコよ。それでもそれなりに高額の特別手当が毎月支給されているわ」
「それも全て、婚約者の方への為ですか?」
「家庭の為でもあるけれど。こう見えて稼ぎ頭なのよ?」
「淫らな姿を世間に晒すのも」
「ええ」
「来たるべき危機に命を賭けるのも、全て他人の為というのですか?」
「その通りよ」
彼女はやはり力強く僕と視線を合わせたまま頬杖を解き、その手を先ほどから胸元を押さえていた手の平の上に重ねる。
「愛する人のため。そして家を守るためであれば、どこぞの馬の骨ともわからない男の性器を口に含もうと、そしてこの命を投げ出すことになろうとも、それは私の誉れよ。綾小路家の長女として、一切合切の迷いも無ければ憂いも無いわ」
いつもと変わらぬ高飛車にも映る澄ました表情と口調。
その芯にはどのような困難と相対しようが揺らぎもしない、誇り高さと慈愛が詰まっている。
独自に孤高の美しさを保ったままの湖畔を想像した。
その水面には波紋の一つも見られない。
ただあるがままに、美しい。
これは強さなのだろうか。
いや違う。
彼女は別次元の強度を持っている。
自分を誇り、愛し、そして他人を愛している。
自分が生きる世界を愛している。
そんな彼女に感化される。
僕もこうありたい、と。
彼女のように誇り高くありたい、と。
僕は思わず宣言していた。
「僕も、好きな人がいます」
紺野主任や清水さんにすら言えなかったこの想い。
「そう」
彼女は微かに顎を引く。
「僕も、彼女のために、戦いたいです。彼女を守りたいです」
「それでいいのよ。使命だとか、社会の為だとか、そのようなものは二の次で結構。男子たるもの惚れた女の為に世界を敵に回すくらいの気概を示しなさいな」
その言葉が直接胸に響く。
同時にこみ上げてきた想いに僕は確信する。
僕が生まれ、そして生きていく理由。
「はい。あの、これで失礼します」
居ても立ってもいられなくなった僕は、カーディガンを彼女に返し、一礼をすると食堂の出口へと向かう。
その際背中に「ご機嫌よう」と相も変わらず澄まし声が聞こえた。
僕はもう一度振り返り頭を下げた。



抑えきれない情熱を動力源に、足早に去って行く八雲の背中を見送るとスミレは毛先を指で弄りながら呆れるように口を開いた。
「盗み聞きとは趣味が悪いんじゃなくて?」
八雲が出ていった別の扉から東雲ヤヨイが顔を出す。
「えっへっへ。だってなんか入りづらかったんだもん」
舌を出しておどけると、とことことスミレの隣まで足を運んで腰を下ろした。
「しっかしあれだね。男子三日会わざるば、って感じだね」
「ええ。将来素敵な紳士に成長してくれるでしょうね」
「おや。スミレちゃんってばショタコン?」
「貴女にお奨めしてるのよ。変態の恋人なんかじゃなくてね」
「意地悪言わないでよ。僕には彼しかいないんだからさ」
「……ええ。そうだったわね」
相づちを打つスミレの表情に、珍しく影が落ちる。
そんな陰鬱な空気を払拭するように東雲ヤヨイが無理矢理笑顔を作った。
「あ~あ。でも僕もAVの一つも出てみようかな。きっと喜ぶと思うんだよね。あいつ。目を覚ましたら考えてやってもいいんだけどさ」
「存外大変なものよ」
「やっぱあれ? ぶっかけとか髪ガビガビになる?」
「あれは最悪ね。私の美しい髪を一体なんだと思っているのかしら」
「いやぁでも綺麗だったよ。ザーメン塗れのスミレちゃん」
「そういえば貴女。新作が出る度に細かいレビューを書いてはメールで寄越すのやめてくださらない?」
「いや~、やっぱり同性同世代の意見をだね……」
そう言ってからからと笑うと会話が途切れる。
数秒の静寂が流れた。
ふと東雲ヤヨイが寂しげな微笑みを浮かべながら口を開く。
「あのさ……もしもの時は、ちゃんと僕を止めてくれるかい?」
スミレは指で作った巻き髪を眺めながら、億劫そうに「私を誰だと思っているのかしら? ぬかりなくぶっ殺してさしあげますわ」平然とそう答えた。
「……うん。ありがとう」
「礼など結構。それよりもお茶を汲んできて下さらない?」
「はいはい。人使いが荒いお嬢様だこと」
「気の利かない給仕係ね。クビにするわよ。メイドなだけに」
「え? ああ、首切られて冥土送りとかそういう事? だからわかりづらいんだっての……」
どちらも笑顔など浮かべてはいない。
しかしその空間は親愛の情に満たされていた。



食堂を出た僕は部長の部屋へと向かう。
初顔合わせはもう必要無いと聞いていたが、少しでも早く太田チエに再会したかった。
欠陥品でも良い。
六郎さんのようになれなくても良い。
綾小路スミレのようにもなれないだろう。
それでも彼女に恋をする自分を誇りたい。
彼女を守りたいというこの気持ちに感謝したい。
僕は生まれて初めて、自分が生きているんだと実感した。
産まれてきた瞬間など最早どうでもいい。
僕の頭は、これからどう生きていくかだけを考える。
自分の存在を、ようやく確立できたのだ。
部長室の扉の前で一度深呼吸をしてノックをする。
「誰だ?」
中から重鎮な声が返ってくる。
「八雲です」
「おおそうか。入ってこい」
扉を開けて部屋に入る。
立派な机に腰掛ける部長の前で、どこか不安そうに佇む太田チエが僕の方を振り返った。
その顔を見るだけで僕の鼓動はばくばくと暴れ、頭の中は脳みその代わりにマシュマロが詰め込まれたかのように甘い至福が沸き起こる。
一瞬足が竦んだが、僕はそれでも真っ直ぐと彼女の元へ足を運び手を差し出した。
「改めて初めまして。八雲です。よろしく」
彼女の大きな瞳の光は不安げに揺れている。
「ど、どうも」
面喰らったような表情で弱々しく返事をしながら手を握り返してくる。
彼女の手は僕と同じくらい小さかった。
背も僕より低い。
大丈夫。
きっと僕が、君を一人前の魔法少女にするから。
僕がきっと守るから。
そう心の中で約束しながら握手を続ける。
そして僕は尋ねる。
「君は、何のために戦うの?」
それはきっと唐突な質問に違いなかった。
しかし聞かずにはいられない。
僕の手を握る手からすっと力が抜ける。
そして彼女は、「……よく、わかんないっす」と寂しげに笑った。
ああ。
あの時見た笑顔だ。
自らの死を目前にした時、彼女が見せた虚無感を貼ったような表情。
どこかで見覚えがあると思った。
これは以前の僕だ。
生きる意味を求めることに恐れ、人形になろうとしていた時の僕。
懐かしさすら覚える。
やはり僕はそんな彼女の傍にいてあげたいと思った。
綾小路スミレがそうしてくれたように。



主任研究室。
手足を拘束されて椅子に座る清水は全裸だ。
はちきれんばかりに屹立する男性器には、赤い透明の粘液がまとわりつき、自らの意志を有するようにぐねぐねと蠢いている。
「あはっ。どう? このスライムちゃんすごいでしょ? 分泌液には媚薬効果もあるんだよ」
「は、はい……あの、もう……勘弁してください」
「だーめ。その子の主食は精液なんだもん。ちゃんとぴゅっぴゅってして、ご飯あげてね?」
「う、うぅぅ」
むず痒くて堪らないといった様子で全身をばたばたと震わせる清水の口端からは涎が垂れる。
「あらあら。はしたないなぁ」
ユカリが顔を寄せると、顎まで垂れたその雫をぺろりと舐めあげると膝の上に乗る。
「それにしてもショックだったな。清水君ってばあたしでオナニーしてくれてないんだ?」
「す、すいません」
「あたしが『オナニー』する時は、いつも清水君の事考えながらしてるのにな」
「そ、そんな」
清水の顔が快楽とも苦悶ともつかない表情を浮かべる。
「あはっ。清水君。おちんちんパンパンだよ? 出したい?」
「……は、はい」
「良いよ。はい。べ~ってして?」
「ふぁ、ふぁい」
清水が言うとおりに舌を出すと、ユカリはそれを咥えて、そして吸う。
ちゅぷ、ちゅぷ、ちゅぷ、とフェラチオのような音が響く。
その甘美な感触に清水はすぐさま絶頂した。
赤い粘液に白い精液が混じっていく。
ユカリはまるで叱られた子犬のように顔を歪ませながら射精する清水と目を合わせながら舌をしゃぶり続ける。
(あぁ。もう……反則。清水君のその顔可愛すぎだよ)
そんな事を考えながらも、自制を促すよう溜息をついて清水から離れる。
まだ射精の余韻に浸る恋人の姿を愛おしそうに眺めながら、「そういえば、八雲君って多分チエちゃんの事好きなんだよね?」と問いかける。
清水に返事をする余裕はない。
陰部を包み蠢く粘液は、さらなる食料を求めて彼の陰茎を貪っていた。
「ひゃ、だめ、ちょ、主任……はうっZ!」
くすぐったそうな声を上げる清水をよそに、ユカリの顔は研究者のそれになる。
顎に指を添えて、神妙で面持ちで思考を巡らす。
「八雲君と九郞太君の二人が、明らかに他の代理人と一線を画すのは、どうも純粋な恋愛感情を持ち始めているってところだね。ということは繁殖欲求とかも出てくるのかな? そうなったら是非願いを叶えてあげたいところなんだけれど」
「あっ、そこ、すごいっ……いやあああ!」
ユカリの独り言の背後で、清水の喘ぎ声が木霊する。



第一話 「僕が、あたしが、戦う理由」 おわり
第二話 「本部の秘密」に続く





おまけ



「そんじゃ。旦那さんによろしく」
「うるせえっ! とっとと帰れ! あと人目につくんじゃねぇぞ!」
「わーってるって」
七雄の背中に拳を突き立てて追い払った後、アンナはどすどすと足音を立てて、冷蔵庫に向かうと作りかけのハンバーグを取り出した。
苛つきを発散させるような勢いでボウルの中の挽肉を混ぜ込んでいく。
その瞬間自らの過ちに気付く。
手を洗っていない。
つい先ほどまで、七雄と優しく交わり合わせていた身体。
その掌も当然七雄の頬を、胸を、そして男根を撫で、そして手を握りあい、睾丸を弄び、全てが終わった後、亀頭から垂れる精液を拭った。
「……何やってんだアタシ……」
彼女は手の甲で額を押さえてその場で腰を下ろす。
「ったく……あ~あ。勿体ねぇ」
溜息まじりにすぐさま立ち上がると、ボウルの中身を捨てると新しいタネを作り始める。
料理を開始する前に手を洗う事など当たり前の作法。
それを怠ったのはまだ罪悪感による動揺からくる失態と言い訳が出来る。
しかしそもそも男と身体を交えた後に身体を清めたいという気持ち自体が無かったのは、七雄に対して様々な壁が崩れていっていることに他ならない。
それをアンナ自身も感じており、それについて苛立ちを隠せないでいた。
何より先ほど七雄を送り出す時、『二度と来んな!』と言えなかった事に後悔がよぎる。
言うべきだった。
たとえ意味が無い悪態だったとしても、自分のそんな気持ちを表明すべきだった。
勿論そう思っていた。
アンナはもう夫以外と身体を交えたくはない。

それは本音。
純然たる事実。
しかしそれと並行するように、矛盾した別の気持ちが芽生えつつあるのが彼女をやきもきさせる。
(……あの時と同じだ)
アンナは苦い思い出を呼び起こす。
身体を重ねることを軽視して、心まで重ねそうになってしまった過ち。
目を逸らしたい過去。
しかし彼女の強さがそれを許さない。
彼女の意志が強制的に反省を促す。
向き合わせる。
鮮明に、明瞭に、山本と抱き合っていた自分を。
そうすると嫌が応にもあの極太の男根の事まで思い出してしまう。
中をみっちりと隙間無く埋めるどころか、押し広げていくあの感覚。
乱暴なほどに雄々しく、犯す雌を自分の形に作り替えようとする巨根。
先ほどまで優しく膣内の浅いところばかりを擦られたアンナの下腹部は、それを思い出すとどこか悩ましげに疼く。
「あーもう! 何考えてんだアホ!」
彼女は自責する怒鳴り声を上げて手を洗おうとする。
「いやいやそうじゃねえって」
手だけじゃない。
身体を清めなければ。
夫以外の男に抱かれたこの身体を、汚れたものだと認識しなければ。
そんな意識が希薄になっている自分に更に落胆する。
頬を両手でバンバンと叩き、「気合入れろボケ! あんなカス相手に……」とそこまで言葉を紡ぐと途中で打ち切る。
ふ、と自らの膨らんだお腹に手をやり、まるでお腹の子供に言い訳するよう、「いや、まぁ……ごめんな? そんな悪いところばっかりでもねぇ……よ。多分」と語りかける。
父親の悪口を子供に聞かすべきではないという、彼女の隠れた深い母性愛が七雄を邪険にすることを妨げる。
そんな思考の流れに自らも気がつき、「はぁ……本当何やってんだか」と苦笑いを浮かべた。
「ま、確かにお腹の子を気遣ってシテくれてんのは事実か」と呟きながらシャワーの用意をする。
すると再び呼び鈴が鳴った。
「よく呼び出される日だな。学生時代思い出しちまうよ」
今度こそ荷物の配達が何かだと玄関に向かう。
扉を開けると、「げっ」と声をあげた。
そこには再び山本が立っていた。
「ちょ、っと。何?」
流石に警戒心を露わにする。
先ほど追い払ったばかりなのに。
山本との関係は夫も知るところ。
なので万が一過去の関係を持ち出されても恐れることは無い。
ただ再び記憶が消えるまで、拒絶しつづければいいだけ。
しかし彼のにやけた口からは、思いも寄らぬ言葉が出た。
「おいアンナぁ。さっきの男は誰だよ?」
アンナは絶句する。
(もしかして、こいつ……ずっと外に居てストーカーみたいな事してたのか? ていうかあのアホ! 人目を気にしろって何度も何度も言ったのに!)
そんな彼女を尻目に山本は言葉を続ける。
「お前、俺以外にセフレが居たのか? もしかしてその子供あいつの種か? えぇ?」
「違う。これは旦那の、だ」
その問い掛けにだけは、ほぼ無意識に、そして瞬時に答えていた。
当の七雄には誤魔化すことは出来ないまでも、あくまで対外的にはそうであってほしかったという彼女の願望も交じり、反射的にそう口にせざるをえなかった。
胸を張って、愛する夫の子供を孕んでいると言える。
それこそが彼女のささやかな夢だったから。
しかし結果的にはそれが仇となる。
その返答ではまるで七雄がセフレであることは、暗に認めてしまったと同義ではないか。
アンナは(……不味い。下手打った)と内心で自らの過失を嘆く。
適当に友人だとか誤魔化しておけば良かったのだ。
もしそれを信じてもらえなくて脅迫されても、夫には『七雄がその後の様子を見に来た』と言えば納得してくれたはずだ。
しかしそれはもう叶わない。
七雄と密会していることをネタに脅迫されるのは不味い。
今では徐々に何かが変わりつつあるが、あくまで七雄との逢瀬を始めた当初の目的は、夫との今後を考えた上での『治療』だったが、それは夫の知るところではない。
「そうかそうか。それは何よりだな。まぁとにかく、そんなお盛んなら、俺ともまた仲良くしてくれても良いだろ?」
「それ……は」
彼女の頭は必死でこの場だけではなく、全てを穏便に済ます抜け道を探す。
一つだけ見つかった。
苦肉の案。
「……わかった。でもこの子が産まれてからな」
(予定日まではまだ数ヶ月ある。その間に記憶の再消去とやらは済むだろう。それまで大人しくしててくれよ)
アンナは夫と今後の人生をどうするのかを決めるのも出産後と決めている。
今はとにかく子供を無事に産む事を最優先。
その間に、万が一にも荒事を起こして欲しくは無い。
「その様子だと安定期だろ? 臨月ってほどでもないし。なぁに。こう見えても妊婦の扱いには慣れてんだ。勿論ベッドの中でのな」
ぐふふ、と笑う山本にアンナは背筋が凍る。
(なんでこんな奴に情を移しかけてたんだアタシは……そんなにあのデカチンが気持ち良かったってか? 自分の事ながら失望するぜ全く…………まぁ確かに……すごかったけどよ)
「だ、駄目だっつうの。……ほ、ほら。お腹の父親以外とはしたくないんだよ」
咄嗟に出た言い訳が、彼女の胸にブーメランのように刺さった。
夫の事を想うとやりきれない痛みに包まれる。
愛しているのに、拒絶してしまうほどに身体が受け付けない。
そして実際『パパ』と呼ばれるに値する唯一の男と肌を重ねている現状を自ら強調するとは、一体なんの責め苦だと彼女は奥歯を食いしばる。
「じゃあさっきの男は何しに来てたんだ?」
「……ぐ。その……ほら、あれだ…………口だけで済ました」
「じゃあ俺もそれで頼むわ」
(いや帰れよ! どんだけアグレッシブなんだよこいつ!)
「とにかくここじゃ人目につくぞ? 中に入らせてくれ」
「あ、ちょっと……」
山本はぐいぐいと固太りの身体で強引にアンナを押して玄関の中に入る。
身重のアンナはお腹のことを案じて無理に抵抗出来ない。
「久しぶりだな。こうしてこの部屋で二人っきりってのも」
「……何もしねぇからな。今日は帰れって」
「そう冷たくするなよ。良いだろ? な?」
アンナの顎を掴んであげた。
しかしその手を即座に張り手で叩き落す。
そして気迫を込めた表情で山本を真正面から睨みつけた。
「悪いけど、今はマジで無理。この子の前で浮気なんて絶対できねぇ」
山本はその確固たる意志が伴った視線にたじろぐと、「……っち。わかったよ。でも産まれてからなら良いんだな?」と不満を隠し切れない口調で確認する。
「……ああ。約束する。だからそれまでは会いに来るのも止めてくれ」
「わかった。約束だからな?」
その口調には、破ったらどうなるかわかってるな? という意味が露骨なまでに含まれていた。
アンナは悪寒で鳥肌が立ちながらも、山本を睨んだまま黙って頷いた。
今はこうするしかない。
「キスくらい良いだろ?」
「無理」
再び近付こうとする山本をはっきりと拒絶する。
表情で、口調で、態度で。
「ぜってー、無理」
一言一句区切るように言い切った。
山本は一瞬黙り込み、そして落胆と微かな怒りを表情に出す。
しかしアンナは一歩も引かない。
気合の勝負なら男相手だろうが負けることはない。
あくまでベッドの外ならば、だが。
するとようやく諦めたように、「ふん。それじゃ、産まれたらまた来るからな。その時は前みたいに可愛がってやる」と背中を向けた。
「ああ。楽しみにしてるよ」
そう言いながら、山本の背中に対して舌を出す。
がちゃりと扉が閉まると急いで鍵を閉める。
「…くそ」
その場から逃げるように浴室へと入った。
そして服を脱ぐとシャワーを浴びる。
温かいお湯を頭から浴びながら、彼女はほろりと涙を流した。
自分が無意識に、そして高らかに宣言した言葉を反芻する。
『この子の前で浮気なんて絶対できねぇ』
きっと自分は、暗示の副作用による激痛が無かったとしても、妊娠している間は夫を拒否していたんではないかと考えてしまう。
夫を受け入れる時に感じた痛みは肉体だけではなく、心の痛みもあったことを今になって思い知る。
それは夫への罪悪感だけでなく、子供に対するそれも含まれていたのだ。
この子を産んだ後、副作用が癒えた後、以前のように夫と繋がることが出来るのだろうか。
愛し合うことは出来るのだろうか。
愛することは出来る。
愛している。
それは確か。
しかし愛される資格は……多分無い。
アンナはお腹を摩りながら問い掛ける。
「やっぱり本当のパパと暮らしたいか? でもあいつ、そんな風に責任取ってくれるわけないしな……。それにママはやっぱりおじさんが一番好きなんだ。どうしたら良いんだろうな。ごめんな。ママが馬鹿でさ。もっとちゃんと勉強してたら良かったな。いっつもバイクばっかり乗って……たから……さ」
途中からその声には気丈さが失われていく。
縋り付くように浴室の壁に両手をつくと、ゆっくりと膝が崩れていった。
彼女のむせび泣く声を、暖かく降り注ぐシャワーが掻き消していく。



おまけおわり