2006年05月10日

今日の「起立!礼!着席!」、Berryzフェスティバルの公開録音を聞いた感想

 http://d.hatena.ne.jp/life_is_bitter/20060505#1146846888
 のような悟った風なことを書いていても、実際にその公開録音の、とても楽しそうな、幸せそうな様子を聞いていれば、そこに自分が行けなかった悔しさが胸にぐっとこみ上げてくるのはどうしようもない。

 今回の公開録音の抽選に当たって、幸せそうな感想を書いている人たちと、外れて、悔しさに震えている人たちをネット上で見てみれば、僕がよくいつも読んでいて、その人の感想をこそ聞きたいという人に限って当選しておらず、そうでもない人(失礼な言い方で申し訳ありません)に限って当選しているような気がしていて、何かそこに作為があるような、裏で参加権のやり取りでもされているんじゃないか、そんな被害妄想さえ湧いてしまう。今、僕はひどく心根の卑しいことを書いているという自覚はあるが、ともかくそんな感情さえ湧いてしまうほど、僕は今回のイベントには参加したかったし、参加できなかったことが悔しい。

 ただ、フォローのためと、自分も以前は恨まれる側だったのだという自戒のために書いておくと、僕は以前、「なんちゅう〜」が発表される前ごろの、60名だけが参加して、文化放送の社内で録られた公開録音には、幸運なことに参加することが出来た。その時の感想を今回にあてはめて言うと、公開録音というのは、ファンにとっては、本当に本当に素晴らしい至福の時間なのである。そして、残念ながら、その空間は観客が一定数以下でなければ成立しない。人が多すぎると、どうしても傍若無人な人間、粗暴な人間も入ってきてしまうということもあるし、その場全体を「Berryzの空気」に染め上げることが出来なくなってしまうからだ。

 だから、「少人数だけを選んで、公開録音や何かのイベントをする」というのは、実に理想的なやり方だし、そこで「選ばれた少数の幸せな人たち」と、「選ばれなかった悔しさに震える多くの人たち」が生じてしまうのも、やむを得ないことなのかなとは思う。

 だから、「少人数だけを招待する、公開録音や何かのイベント」を、今よりも多めの頻度でやるというのは一つのいい手だと思う。そうなれば、見られる人が増えるだろうから。

 とはいえ、今よりも多い頻度でそういうイベントをすることが定期化、恒常化するとなれば、今度は、最初に書いたような、参加権のやり取りが発生してきて、単純に「見られる人が増える」ことにはつながらないかもしれないし、あるいは「イベント参加プロ」みたいな人たちが出てきて、その場限の空気を乱してしまうかもしれない。あの場の空気は、Berryzも、そして参加者も、「今ここでしか味わえないこの瞬間を心から楽しもう」みたいな、ピュアな感覚があるからこそ成立しているものだと思うので、そこに「イベント参加プロ」みたいな人が出てくることはやはり避けるべきことだと思う。

 そう考えると、結局のところ、こういうイベントは定期的にやるわけにもいかないし、人数を増やしてやるわけにもいかないし、たまに突発的にあって、そしてその度に選ばれた人と選ばれない人とが別れて、一方はただただ幸せ、一方はただただ悔しいという格差が発生、それら全てしかたがないことなのかな、と、どうしようもない結論しか出ない。

 ただ何にせよ、人数が少ないにせよ、そこに行った人たちは、もれなく幸せに脳を侵されて、ますますBerryzのことが好きになって帰ってくるようで、そしてそれはいいことなのだという見方に慰めを求めるしかない。Berryzを好きな人が増える、Berryzを好きな人が、それよりもますます好きになる、それはきっといいことだ。


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 あの子たちに触れることができないなら、あの子たちを好きな気持ちを深めることに支えを求めるしかないのかもしれないと、寂しさにまかせて再生した、スピッツの「冷たい頬」を聞きながら思う。

「あなたのことを 深く愛せるかしら」


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 本当に無邪気に、何も警戒せずに、他人に向かって好意を投げかけることはとても素晴らしいことなのだと、Berryzたちの生徒会長立候補の言葉を聞きながらふと思った。

 むろん、それはBerryzたちのイノセンスのためでもあろうし、いつかはあの子たちも、何かのきっかけで、他者への不振や疑心暗鬼を知り、他人に好意を投げかけることをしなくなるかもしれない、あるいはもう実生活の上ではそうなっているのかもしれない、だけどそれは僕には関与できない領域の話だし、僕は祈るしかない。

 僕が、他人に向かって警戒せずに好意を投げかけることをやめてしまったのはいつごろだろう。何のきっかけがあってだろう。ただ何にせよ、それは最終的には良くないことだと。むろん、大人になってまで誰にでも警戒なく好意を投げかけるような人はむしろ怪しまれたり気持ち悪がられるだろうけれども、最終的には、やはり他者へ好意を投げかけることは必要なことなのだろうと思う。そしてこれは僕自身の課題の一つだ。  

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2006年05月04日

「にょきにょきチャンピオン」中野最終公演の感想

 Berryzの春ツアー、「にょきにょきチャンピオン」の最終公演を見に、中野サンプラザまで行ってきた。

 僕はこれ以前に、戸田での公演と、新宿厚生年金会館での公演の2回を見ていて、その時に感じたことの大部分は、ごく大雑把に言ってしまえば「感動した」とか「泣いた」とかそういう言葉で言える気がした。

 そして、今回の最終公演、僕は、「感動したい」「きっと泣ける」とかそういう気持ちをできる限りなくして、ただ、そこにいるBerryzと、そこにあるBerryzのパフォーマンスを虚心に見ようと思って臨んだ。もう少し正確に表すなら、その場で感じたことをすぐ言葉に直してしまおうとする自分の癖を押さえて、言語以前のレベルでただBerryzを感じたいと思って臨んだ。

 そうして僕がコンサートを見た後で一つだけ浮かんだのは、「楽しかった」、ただその一言だけだった。ただ楽しかった。本当に楽しかった。

 Berryzのみんな、とても楽しいライブをありがとう。


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 コンサートが終わってから、僕は、これからまたBerryzがどんなふうに活動していくのか、そのことを考えることが出来ない。すでに3rdアルバムや夏ライブの情報も入ってきているが、今の僕にはそれも現実味のある話として感じられない。

 にょきにょきチャンピオンが終わっても、Berryzは存続しているし、活動を続けていく。ただ、その事実とは別に、僕は、今回のツアーで、Berryzがいったん全て終わってしまったような、そんな感覚を抱えている。たぶん、次に出される曲を実際に聞いたりするか、その他何かのきっかけがあるまで、この茫漠とした感覚は続くんだろう。  
Posted by berryzverypop at 12:25Comments(0)TrackBack(0)Berryz工房

2006年05月01日

「秘密のウ・タ・ヒ・メ」の感想

「21時までのシンデレラ」のカップリングの「秘密のウ・タ・ヒ・メ」を、最近、今までよりもよく聞くようになった。

この曲の歌詞は、暗喩的だと言うのではないけれども、どこか、歌詞の背景に、歌詞に描かれている以上のものがあることを思わせるような、そんな感じがする。

むろん、そういう歌詞の描き方は、この曲に限ったことじゃない、僕がBerryz以外でよく聞いている、スピッツやキリンジの歌詞の同じようなものがある。だけど、スピッツやキリンジの歌詞は、男性が書いたものであることもあってか、やや情欲を匂わせるところがある。そして、僕自身も男なので、そういう歌詞の方が取っ付きやすいのは事実である。

しかし、「秘密のウ・タ・ヒ・メ」の歌詞が連想させるものは、もちろん情欲などではなくて、何かもっと別のものだ。「笑える噂なら ×××」と、言葉が途切れてしまったあとに漂う、女の子の感情。「夢から覚めてもあなた 手を握っていてほしいの」という意味深な言葉が連想させること。「映画を選ぶジャンケン いつもチョキで負けてくれる」という情景の背景にある、二人の関係。

それらが何なのか、男である僕には、到底わかりはしない。わかりはしないのだけれども、そこになにか、とても―――奇麗なとか、美しいとか、純粋だとか、そういう言葉でも言い足りない気がするからこの言葉を使うが―――ポップなものが溢れているらしいことは、僕にもかろうじて感じられる。そして、そこにポップなものがあるらしいことに思いをはせるだけで、なんだか僕は泣きそうになってしまう。

あの子たちは、あの子たち以外には誰も知らない「秘密のウタ」を持っている。  
Posted by berryzverypop at 22:30Comments(0)TrackBack(0)Berryz工房

2006年04月25日

茉麻の写真

あったか茉麻



あったかそうな服を着ている女の子に惹かれるのです。


たぶん、その服の上から抱きつきたいと
心の底で思ってしまうからだと思います。




あったか桃子


これも。  
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2006年04月22日

土曜日/「にょきにょきチャンピオン」の感想

 土曜日。たまった衣服をアパートに備え付けのコインランドリーで洗濯し、つじあやの「BALANCO」を聞きながら干す。つけっぱなしのパソコンの画面には、スクリーンセイバーのスライドショーで、ハロー!プロジェクトキッズのみんなの画像が、クロスフェードしながら次々に映り変わっていく。僕はそれを時々眺め、ふと手を止めてその可愛さに見入ってしまったりする。

 最近、Berryzの映像、つまりPVとかメイキング映像とかテレビ出演時の映像とかをほとんど見なくなった。起立!礼!着席!もリアルタイム以外の時に聞き返すことはほとんどなくなった。あぷろだを巡って画像を保存していくのもおっくうでならない。そして、そんな自分は、Berryzを好きな人間として矛盾しているのではないかという思いもいつもある。だけど、土曜で休み気分なら、そんなこともどうでもよくなる。

 今回の「にょきにょきチャンピオン」を見て僕が感じたことは、Berryzは、本当に僕の手の届かない領域の人間なんだということだった。もちろんそれはいつでも僕らファンと彼女らのあいだにある、ほぼ100%の事実なんだけれども、今回のツアーを見て、僕は本当にそのことを実感した。より正確に言うなら、友理ちゃんがあの映像の中で、振り返り僕らに手を振った瞬間に、僕はそのことを悟らざるを得なかった。Berryzのみんなは、決して僕らの手が届かない、彼岸にいる人間なんだと。

 その、触れられないという事実に思い苦しんでいる友人がいることも、僕は知っている。ただ、僕個人については、その事実はそれほど深刻な苦しみではない。それは、今回のツアーで、彼女らが見せてくれたもう一つの真実があるからだ。

 今回のツアーで僕にとって印象的だったことは、セットリストに、「ファイティングポーズはダテじゃない!」も、「恋はひっぱりだこ」も、「蝉」も、「パッション E-CHA E-CHA」もなかったことだ。それらキラーチューンをやらないでいながら、あんなに素晴らしいコンサートだったということだ。ファイポーをこのリストに入れるのは僕個人の思い入れのためではあるが、残り3曲を除いたことは、本当にすごいことだと思うし、僕はそれを、今回のコンサートを、以前のコンサートと明確に違うものに仕上げようとする、演出側の意図なのだと感じた。

 そして、何よりBerryzのみんなが成長したのだ。歌とダンスの向上、そして何よりも、「演者のオーラ」とでも言うべきものをみんなが一段と発揮するようになってきた。そして、あんなに素晴らしいコンサートを見せてくれた。努力し、成長し、今この瞬間に出来うる限りのものを、僕らの前に見せてくれた。僕はそれを何より素晴らしく、尊いことだと思う。

 以前何回も書いたけれども、僕はBerryzのみんなに理想を見いだすことに常に疑問に抱いていた。あの子たちが持つ無垢な希望や笑顔は、すでに自分を無垢ではないと自覚してしまった僕にとっては、決して僕自身を歩ませる理想にはなりえない。「僕もそうありたい」という思いをそこに抱くことは出来ない。その点で僕はいつもつまづいていた。

 だけど、努力し、能力をつけ、そして今この瞬間にできる最高のことをするということ、これには「僕もそうありたい」と思える。それは僕の理想となりうる。

 いろんな人が折に触れて、「自分の卑近な日常のことなんかより、彼女らのことを語っていた方がずっと楽しい」というのを、以前から何度か耳にしてきた。僕らは、ステージの上で輝いているあの子たちのことを語りながら、その一方に必ず「ぱっとしない日常を送る自分たち」があったのではないか。

 だけど、今まさにこれから、自分の食い扶持は自分で稼ぐ大人にならなければいけない僕、自分の日常を自分で作っていかなければならない僕にとって、どうしても「ぱっとしない日常を送る自分」という像だけは受け入れられなかった。どんなにそれがつまらなくても、僕はいつも「自分の成長」という問題にかかずらわなければならなかったし、これからもかかずらわなくてはならない。

 努力し、能力をつけ、今この瞬間に出来る最高のことをする。言うのはとても単純で、それをやるのはどれほど難しいかわからない。本当のことってのはいつもそうなんだろう。僕が、彼女らから受け取ることができたメッセージはそういうことだった。年齢の上では幼い、自分よりも年下の子たちからでも、教わることはある。

 最初のほうに書いたように、僕は今、ほとんどBerryzの映像を見たりはしなくなったし、画像集めもしなくなった。僕は今、彼女らに触れることをあまり求めてはいないのかもしれないと自分で思う。だけど、Berryzが、勉強したり、遊んだり、Berryzの活動で頑張ったりしているのと同じこの世界の中で、僕も僕なりに何か頑張らないといけないのだと思う。「何か」としか言えずないのが今の僕のダメさなのだろうけれど、頑張らないといけない。  
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2006年03月09日

梨沙子の写真、それと今年のハロコンでのBerryzについて

06年ハロコン梨沙子1  06年ハロコン梨沙子2


 最近発売された、ハロコン衣装の梨沙子の写真と、実際にその衣装で歌い踊っていた時のライブ写真。左の写真、この写真の表情はどんな言葉で表したらいいだろうか。いたずらっぽい笑いとか、そんな言葉だけでは言い切れない気がする。ある人は、「剽軽な表情」と言った。そして、左の写真だけじゃなく、実際のライブの時にもそういう表情をしていたことは、右の写真が表している。

 僕は、ハロコンでスクリーンを通して梨沙子のこの表情を見たときに、「お前はなんで、ライブ中にそんなのほほんとした表情をしてるんだよ」と思った。実際、梨沙子はその目線だけで人の心をいくらでも打ち抜ける能力があるのに、それがどうしてそんなにのほほんとした顔をしているんだ、僕はその時そう思った。

 また、それとは別に、いつになく、そのリラックスした、ナチュラルな魅力を発していた、友理ちゃんのことも印象に残った。

 今回この写真を見て、ハロコンのことを思い返して考えついたことなのだけれど、Berryzのみんなは、ハロコンという大所帯において、年相応の子供として振る舞うことを身につけてきたのではないだろうか。だからこそ、梨沙子はあんなにのほほんとし、友理ちゃんはあんなにリラックスした雰囲気を出していたのではないだろうか。

 Berryzが初めて出たハロコン、つまり2年前の夏のハロコン、「ファイティングポーズはダテじゃない!」などをやったハロコンのことを僕は思い出す。あの時のBerryzのパフォーマンスは、あまり良いものとは言えなかった。みんなガチガチに緊張していて、パフォーマンスが縮こまってしまっていた。その時に比べると、Berryzのみんなは、年相応の子供として振る舞うことを覚え、その結果リラックスして歌ったり踊ったりできるようになった、そういうことが言えるんじゃないだろうか。

 僕はBerryzと他のハロプロのメンバーがどんな人間関係にあるのかは知らないし、ハロコンを欠かさず見てきたわけでもないので、ハロコンにおけるBerryzのパフォーマンスがどんなふうに変わってきたのかはわからない。だけどともかく、今回のハロコンでのことから、Berryzは、ハロプロという大所帯のなかでリラックスして居られるようになったのではないかと思ったし、それは良いことだと思った。

 ついでに言うなら、そのリラックスという点が、Berryzの中でも年少の、つまり甘えたりふざけたりできるであろうポジションの2人に現れたことはいろんなことを示唆しているように思った。「お姉さんズ」こと年上の佐紀ちゃんと桃子には、「リラックス」という雰囲気はあまり見受けられなかったという点も含めて。

 何にせよ、梨沙子のこの表情の写真は、そんなハロコンのことを思い出させてくれるものとして、とても大切なものになりそうだ。  
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2006年03月06日

誕生日おめでとう

 Berryz工房が結成されたのが3月3日で、そして桃子の誕生日がそれと3日しか違わない3月6日であることは、僕には偶然とは思われない。

 いつだってBerryz工房の自己アピールの先端を突っ走っていたのは桃子だった。ハピネスの頃だったか、僕は桃子が、明確に僕たちを「落とす」ための目線になっているのに気づいた。それ以来いつだって、桃子は、叩かれたり冷やかされたりするのもかまわずに、私はかわいいでしょ、私は目立つでしょとアピールし続けてきた。そして、そうやって桃子が自己アピールの先端を突っ走ることによって、他のメンバーも、もっと自分を出してもいいんだとか、または自分はそんなにアピールしなくてもいいんだとか思ったりして、それぞれの自己アピールや、立ち位置を知っていったりしたようなところがあると思う。Berryzのメンバーそれぞれの個性化が進む過程において、桃子が果たした役割は大きいと思うし、そういう意味で、桃子がBerryz工房を作り上げてきたみたいな面も確実にある。

 桃子、誕生日おめでとう。これからも、そのうざったいくらいの目線で多くの人間を落としてください。


  
Posted by berryzverypop at 02:04Comments(0)TrackBack(0)Berryz工房