2019年01月06日

福知山・旧工兵第十大隊境界石レポ日記

2018年の年末から年明けの旧軍遺構探索レポ日記の最後は、福知山工兵第十大隊の背後の山中にある陸軍境界石のレポ日記といたします。
陸軍省所轄地境界石位置







境界石の位置関係。かつて工兵第十大隊の敷地だった場所にある福知山成美高校の背後の山中に残されていました。ここの山中を探索した理由ですが…・
9福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










以前ツイッターで「工兵の演習陣地」が残されているという情報を知り、この遺構を全く知らなかった私は興味を引かれ、是非探索してみたいと思い工兵の演習陣地なら背後の山中にあるのだろうと想定をして向かったのでした。
・・・結局この工兵の演習陣地はここには無く、全く別の場所にあったわけですか。
改めて情報の発信元の方に凡その場所を教えてもらい、年明け1月2日に無事探索することが出来ました。その時の探索レポ日記を書いてますのでリンクを貼っておきます。

福知山市・陸軍演習陣地跡探索レポ日記

演習陣地は要塞に見立てた煉瓦の壁だけでなく演習用陣地としての土塁や空堀を備えた見事な遺構で貴重なものと思われました。

さて、その演習陣地を求めて福知山成美高校の山中に入ったわけですが、目当ての物は全く別の場所だったので当然見つけられなかったものの、副産物的に陸軍境界石を3つほど確認することが出来ました。
15工兵第十大隊境界石













1つめ。「陸軍省所轄地」の文字が刻まれた境界石。「地」の部分が埋もれています。
16工兵第十大隊境界石













2つめ。こちらも「陸軍省所轄地」の文字。同じタイプ。
17工兵第十大隊境界石










3つめ。こちらも同じタイプ。倒れ掛かってます。
これら3つの境界石はだいたい数十メートル間隔で並んでおり、現位置を保った貴重なものだと思われます。
旧工兵第十大隊の境界石はいつも参考にさせてもらっているサイトによると、この「陸軍省所轄地」の境界石の他に「陸境」の文字のもあるようです。その辺はまたいずれ。

工兵第十大隊は大正14年に宇垣軍縮で岡山に移駐し、工兵大隊跡の建物は長田野に演習に来た部隊の演習廠舎となり大阪の第四師団の管轄下となります。
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祖父の軍人日記(昭和14年9月21日)にも「工兵営から(演習に来ていた)歩兵七十連隊(篠山連隊)が行軍してきた」とあります。
14工兵第十大隊兵舎










戦後、現在の福知山成美高校に払い下げられますが、現在も兵舎の一部や将校集会所と思われる建物が残されています。
工兵第十大隊営門001








かつては福知山成美高校のグラウンドの北側、JR官舎の側に北門と思われる煉瓦の営門の門柱がありました。今回10数年ぶりに確認しましたが、一帯が再整備されたせいか、門柱も失われていました。
実は私が中学生の頃、まだ福知山商業高校時代に受験で入ったことあるのですが、その当時はまだ大隊本部が残されており、内部も階段の手すりや室内がほぼ旧軍時代のままだったのを覚えています。今にして思うと少しでも写真を撮っておけばよかったなと悔やむばかりですね。


besan2005 at 07:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月05日

福知山海軍航空基地(石原飛行場)遺構探訪レポ日記

石原飛行場配置図








※画像は日吉コミセンの説明板より。福知山海軍航空基地の配置図。
去年(2018年)の大晦日に福知山市にかつて存在した海軍福知山航空基地の遺構を探索してきました。
福知山海軍飛行場は戦争末期の昭和19年10月に用地買収が始まり、昭和20年6月にようやく滑走路が完成しました。滑走路は金網で覆った上にコンクリートで舗装をした大規模なもので、戦後に返還され農地へと戻そうとした際、かなり苦労したようです。飛行場の敷地は石原地区と土地区にまたがる広大なものでした。
福知山航空基地米軍写真






※国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。
昭和22年米軍撮影による空撮。長大な滑走路と周りに無蓋掩体壕が見られます。
現在遺構はほとんど残っておらず、一部が移築された搭乗員退避壕と完全な形て残されている飛行場指揮所壕、格納庫と言われている工場の建物が残る程度です。(一部山中に壕があるようですが。)
今回は石原地区の飛行隊指揮所壕と格納庫と言われている建物を訪問してきました。
1福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕










石原地区の竹林の中に大きなコンクリート構造物が見えます。これが福知山航空基地の飛行隊指揮所壕です。
2福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕迷彩跡










コンクリート壁には黒色の迷彩塗料が残されています。
3福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕西入り口










西側入り口。壕の入り口の前には防禦用の壁があります。
6福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕東入り口










東側入り口。西側と同じ造りでシンメトリーとなっています。
4福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕西入り口通路










西側入り口から通路。当然中は真っ暗で、こういうのが苦手な私は最初の一歩を踏み出すのが中々・・・
5福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕内西から










飛行隊指揮所壕内部。西側からの撮影。内部は中々の広さです。かつては福知山航空基地の海軍航空隊の司令施設があったのでしょうが、今ではコウモリの巣になってます(個人的にコウモリも苦手・・・)
それよりも目立つのが壁の落書き・・・。地元の若者というかDQNが肝試しの際に書いたのでしょうが、他の旧軍遺構でも「心霊スポット」という馬鹿げた噂でやって来た価値の分からない輩にこういった貴重な遺構が荒らされるのは許しがたいものがあります。そういえば舞鶴第三火薬廠の成形工場の壁にも落書きがあるらしいし…。
7福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕内東から










東側からの撮影。左上の壁に換気口の穴があります。こういう場所が個人的に1人ではどうも苦手なので奥には入らず。
福知山海軍航空基地飛行場指揮所平面図







飛行隊指揮所壕の平面図。だいたいこんな感じでした。
8福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕土塁










飛行隊指揮所壕の周りには土塁が築かれています。
現在、福知山海軍航空基地の遺構で完全に残されているのはこの飛行隊指揮所壕のみですが、かつては土地区の畑の中にコンクリート造の搭乗員退避壕がありました。
13石原飛行場跡待避所










※2005年頃の撮影。
畑の中にこのような蒲鉾型のコンクリートの壕がぽつんと残されていました。中を覗いたり上に登ったりした遺構でしたが撮影したのは1枚だけ。この後解体されることを知ったらもっと撮影していたのですが・・・。現在入り口の部分だけが日吉コミュニティーセンターの敷地に保存されています。

次にスーパーなどの商業施設が並ぶ一角の背後にある福知山海軍航空基地の格納庫と言われている建物を訪問。
9福知山海軍航空基地格納庫










10福知山海軍航空基地格納庫










11福知山海軍航空基地格納庫










こちらが格納庫と言われている建物ですが詳しくは分かりません。可能性があるという程度。
確かに建物の形はそんな雰囲気に見えますが。
昭和20年9月 引渡目録並要図 福知山航空基地2













※アジア歴史資料センター所蔵「昭和20年9月 引渡目録並要図 福知山航空基地」より引用。
アジア歴史資料センターの資料の引き渡し目録によると、福知山海軍航空基地には海軍の局地戦闘機の紫電一一型と紫電二一型。「白菊」など海軍の練習機。そして陸軍の練習機も配備されていたようです。


besan2005 at 10:23|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月02日

福知山市・陸軍演習陣地跡探索レポ日記

福知山陸軍演習陣地見取り図001









ツイッターでのフォロワーさんより教えていただいた福知山市にある陸軍での演習に使われていたと思われる陣地の遺構群。そこには煉瓦造の城壁に見立てた壁が残されていると聞き、具体的な場所を教えてもらい探索してきました。この遺構に関しては、まず知られていない旧軍遺構であり、私自身初めて知った遺構でありました。上図は帰宅後に記憶を頼りに作図した福知山・陸軍演習陣地跡見取図。思い出しながらの作図なので正確だとは言えませんが、だいたいこんな感じだったと感じていただければと思います。
工兵作業場地図001










昭和3年の地図を見るとこの場所は「旧工兵作業場」と書かれています。
(画像は所有する福知山五万分の一地形図より。)
福知山にはかつて現在の福知山成美高校の場所に工兵第十大隊がありましたが、大正14年に移駐しました。工兵第十大隊が駐屯していた頃は陣地攻略の演習場として利用されていたと思われますが、移駐後の昭和4年の地図には「旧工兵作業場」の表記となっており、昭和戦前期も利用されていたかはわかりません。
1福知山市陸軍演習陣地大穴










当初煉瓦遺構があると想定した場所へ進入すると陣地構築であろういくつかの地形の改変があり、その東側に大きく掘りくぼめた箇所がありました。
2福知山陸軍演習陣地大穴










何の用途で掘られたのかは不明ですが塹壕のようなものだったのでしょうか。
3福知山陸軍演習陣地空堀










先ほどの大穴から東に進むと長細く掘りくぼめた箇所が。いわゆる空堀状になっており、空堀の両脇は土塁となっています。
7福知山陸軍演習陣地空堀










反対側からの撮影。左側が南になります。
4福知山陸軍演習陣地北土塁










北側の土塁。所々切れ込みが入っています。
5福知山陸軍演習陣地南土塁










南側の土塁。道路に面した部分で土塁上から空堀を眺めるとそこそこの高低差があります。
ここの空堀と土塁は日露戦争で悩まされた旅順要塞に見られた要塞や陣地の空堀を想定としたもののような気がします。日露戦争時、突撃により空堀の底に進入して身動きが取れなくなった日本軍に対し、ロシア軍は機関銃を浴びせ次々と倒されていきました。この演習陣地が何時作られたのかは不明ですが、この空堀の底から南側の土塁上に向かって這い上がっていく訓練がされていたのではないでしょうか。
6福知山陸軍演習陣地北通路










空堀の突き当りの端には細い道のような部分がありました。
8福知山陸軍演習陣地通路か










一旦戻り、最初の大穴の西側へ行くと、陣地遺構のある丘陵へ進入できる道がありました。当時の物かは不明ですが、右側の斜面の整地の丁寧さを見るともしかしたら陣地時代に作られたものかもしれません。
9福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










先ほどの空堀のある丘陵一帯に目指す煉瓦の構造物があるのではと探索しましたが見つからず、一旦道路に出て北東に向かって丘陵を眺めながら歩いていると丘陵上に何か構造物が。山中に進入して見ると遠くに煉瓦の壁が。目的の煉瓦の構造物に辿り着くことが出来ました。
11福知山陸軍演習陣地煉瓦壁下土塁










煉瓦の構造物は丘陵の最高所に構築され、煉瓦構造物の正面に当たる位置の麓にはコの字に作られた土塁の陣地がありました。
10福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










高所にある煉瓦壁。
12福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










反対側から。煉瓦壁は南北に2つ並ぶようにに建っています。
14福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁










北側の煉瓦壁。
16福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁銃眼










壁には銃眼と思われる穴が1つあけられていますが、煉瓦の積み方が丁寧な割に銃眼は雑に開けられています。
17福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁穴










何かを取り付けていたらしき4つの穴。
15福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁










南側の煉瓦壁。
18福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁銃眼










こちらは縦長の銃眼が3つ開けられています。
北側の煉瓦壁の銃眼と同じく雑に開けられています。
あと、何かを取り付けていたような貫通しない穴がいくつか開けられています。
13福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁上部










南側の煉瓦壁の上部は屋根のように三角の山型になっており、モルタル塗りになっています。
IMG_0678










煉瓦壁の背後は兵が駐屯できるように周りを削り込み平地に加工した地形になっています。
19福知山陸軍演習陣地個人塹壕か










煉瓦壁のある陣地の前方を守るコの字型の土塁の南には小規模の穴が並ぶ箇所がありました。個人用の塹壕でしょうか?
煉瓦陣地













これらの遺構群をまとめてみると、この演習陣地での攻め手と守り手の位置関係はこんな感じではないでしょうか。青色の攻め手は個人塹壕から飛び出し最初のコの字型の土塁を突破し切岸の斜面を登り切り要塞に見立てた煉瓦壁のある高地を制圧する。オレンジ色の守り手は土塁と高地の煉瓦塀の箇所に兵を配置して攻め手を防ぐ。そんな感じの攻城戦の演習が行われていたのではないでしょうか。
実際に私も麓から最初のコの字型土塁陣地を越え切岸の斜面を登り高地の煉瓦壁の要塞まで攻めてみましたが、二百三高地のミニミニ版みたいに感じました(笑)。ただ、ここが昭和4年の地図では「旧工兵作業場」となっているため、工兵による陣地破壊の演習がされていたのかもしれません。IMG_0689











今回探索した福知山市の煉瓦壁のある演習陣地、ほとんど知られていない遺構で煉瓦の感じから恐らく大正時代までに作られたものと思われますが、昭和4年の地図にこの辺りは「旧工兵作業場」の文字が書かれている以外、使われていた時の記録や実際いつまで使用されていたのかなど具体的な事は分かりません。工兵による陣地破壊の演習はもちろん、長田野演習場にも近いことから、20連隊を初めとした歩兵による攻城戦の演習にも使用されていたのかもしれませんが、記録等は不明でこの遺構に関しての具体的な事は分かりませんし「旧工兵作業場」と書かれているため、昭和に入っても利用されていたかはわかりません。ただ煉瓦壁を始めとした演習陣地の遺構群を見る限り、日露戦争時の旅順要塞の攻略戦を意識したように感じ、当時の要塞への攻城戦に対する軍の考え方を知る貴重な旧軍遺構に思えました。現在は山中に放置された状態とはいえ立地的にも見学しやすい場所ですし、可能なら貴重な旧軍遺構として公園化して保存し説明板等の設置などの整備をして欲しいところですが・・・。

※追記。
国立公文書館アジア歴史資料センターにこの工兵作業場についての資料がありました。
まずは用地買収の件。
福知山工兵隊作業場用地買収の件1













福知山工兵隊作業場用地買収の件2













※アジア歴史資料センター所蔵「福知山工兵隊作業場用地買収の件」より引用。
この資料によれば、明治32年に現在の福知山市長田の民有地を買収したとあります。
となると、この遺構はだいたい明治後期から末期(恐らく日露戦争直後くらい)に作られたと思われますが、この遺構のある場所が買収用地とは少し違うのが気になります。ただ、この資料の買収の土地は次に紹介する「甲地」だった可能性があります。
工兵作業場は大正4年頃に一部が民地と交換となっています。
福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件1













福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件2













福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件3













※アジア歴史資料センター所蔵「福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件」より引用。
この資料によれば工兵作業場は甲乙とに分かれており、甲地は兵営から遠く往復に時間を要し、乙地は敷地が広大で作業場内に民有地が介在し、演習上障害となる上に民間人の出入りがあるので、民有地の買収が必要となるが、比較的重要ではない甲地と乙地内の民有地とを交換する条件を出すことにより、乙地内の民有地を取得したいと書いてあります。このことにより乙地の作業場の価値が増大する期待が持てるとも書いてますので、乙地は陸軍にとってそれなりに利用価値を認めていた場所のようです。
今回探索した演習陣地は昭和4年の地図の「旧工兵作業場」の表記から大正4年の民有地交換後も残された乙地の中にあったものと思われます。大正14年に工兵第十大隊は岡山に移駐し福知山には工兵部隊がいなくなりましたので、工兵作業場は「旧工兵作業場」としてそのまま陸軍の管轄地だったのではないかと思われます。


besan2005 at 13:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2018年11月29日

旧奈良監獄・一般公開見学レポ日記

旧奈良監獄正門










2018年11月23日から25日にかけて開催された旧奈良監獄の最後の一般公開に行ってきました。
旧奈良監獄は明治41年に完成した明治の五大監獄の1つで、設計は司法省営繕課の山下啓次郎。
ジャズピアニスト山下洋輔氏のお爺さんに当たる方です。
私は2日目の24日10時より参加。1時間も早く着いてしまったけど、入場前には凄い列ができ、早く来て正解でした。写真は正門。ロマネスク様式の洒落た煉瓦の門は刑務所というよりテーマパークの門のようです。
旧奈良監獄本館










正門をくぐると目の前に現れる庁舎。華やかな正門と比べて装飾は控えめの威厳のある姿。
シンメトリーで威厳溢れる戦前の官公庁の庁舎って好きなんですよね。私は。
旧奈良監獄付属屋










庁舎の横にある倉庫。
旧奈良監獄庁舎内部













庁舎の入り口部分。
旧奈良監獄庁舎内部










庁舎1階部分。
旧奈良監獄講堂










庁舎2階の講堂。かつてはここで受刑者が映画とかを見ていたようです。
旧奈良監獄独居房舎










庁舎講堂の窓から収容棟を眺める。
旧奈良監獄の展示










展示されている奈良監獄で使われていた道具。
旧奈良監獄サーベル










奈良監獄の典獄(監獄長)や看守長のサーベル。
奈良監獄中央監視所










庁舎を過ぎると収容棟へと至ります。ここは中央監視所。八角形の棟から放射状に収容棟が伸びています。
IMG_0152










中央監視所は吹き抜けとなり、1階も見渡せます。
奈良監獄中央監視所天井










中央監視所の天井。
奈良監獄独居房2階廊下










中央監視所から伸びる収容棟も中央廊下が吹き抜けです。
奈良監獄中央監視所階段










収容棟の階段横の小部屋。
奈良監獄独居房室













収容棟の独居房。
奈良監獄独居房手洗い










手洗いは石製。
奈良監獄独居房扉













独居房の扉。当然ながら分厚く頑丈で外から閉められると中からは開けられない構造になっています。
奈良監獄独居房棟マンホール










収容棟1階廊下のマンホール。
続いて収容棟から地下へ。
この地下部分が見ごたえのあるものでした。
奈良監獄地下










地下の階段を降りたところの部屋。
奈良監獄地下室窓













窓から外を眺める。
奈良監獄中庭










地下からは外の中庭へ出られました。
奈良監獄中庭










奈良監獄中庭










奈良監獄中庭










奈良監獄中庭










奈良監獄中庭










古色蒼然とした煉瓦の壁が聳え立つ中庭の風景はまるで、中世ヨーロッパかファンタジーの異世界の城か要塞か監獄の中に迷い込んだかのような気分に。日本のしかも古都奈良にある建物とは思えないくらい。
奈良監獄地下室










地下の一室。雰囲気が素晴らしすぎる。電灯じゃなくて蝋燭か松明を置いて脇に木の樽や粗末なをテーブルを置いたら、まんま中世ヨーロッパの城の中。粗雑な兵士が飲み食いしている情景が目に浮かぶよう。
奈良監獄地下室落書










この地下室の隣の小部屋の壁に文字が書かれていました。どういった意味か分かりませんが。
奈良監獄棚













再び収容棟へ。小部屋の棚。
奈良監獄独居房棟1階










収容棟1階。
奈良監獄独居房1階扉













収容棟の扉。
奈良監獄独居房棟外観










収容棟の裏側。
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収容棟の裏手には同時期に建設された木造の実習棟がいくつかあり、その中には陸軍歩兵第38連隊の兵舎を移築した建物もあったようですが、悉く解体され更地になってました。
後でフォロワーさんから頂いた内部の写真を見ると、階段の手すりはそのまま残され、、内務班の部屋も兵舎時代の雰囲気が良く残されていました。できれば最後の一般公開の時までは残しておいて公開してほしかった…
奈良監獄裏庭










拘置監や医務所のある裏庭。紅葉が煉瓦の赤と映えてきれいでした。
奈良監獄裏庭










拘置監の建物。拘置監は未決囚や模範囚が収容されていた棟。
奈良監獄裏庭










拘置監と回廊を繋ぐ廊下。
奈良監獄医務所













拘置監と接続する医務所の中央棟。こちらも八角形で、中央監視所のミニ版といった感じです。
奈良監獄隔離棟










隔離棟。精神疾患や集団生活が厳しい受刑者を収容した建物。
奈良監獄隔離棟













この狭く暗い煉瓦の建物に閉じ込められるのはかなりキツイ・・・。さすがに人道的な面から近年は使用されていませんでした。
奈良奉行所独居房













隔離棟の横に保存されている江戸時代の奈良奉行所時代の牢舎。
まるでキリギリスの虫篭のように見えたので通称「ギス監」と呼ばれていました。
近代監獄ができる前は囚人はこのような場所に閉じ込められていました。

旧奈良監獄はこの後、改修を経て2019年に行刑史料館・2021年にはホテルとしての開業が予定されています。改修前の最後の姿を見ることができた一般公開。実習棟や旧歩兵第38連隊の兵舎がすでに失われて見れなかったのは残念でしたが、貴重な体験をすることができました。特に地下室と中庭が素晴らしかったなぁ。

※おまけ。
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旧奈良監獄から少し南に下ったところに小さな古い煉瓦の建物が残されています。
旧奈良市水道計量器室。大正11年築。
IMG_0298










すでに屋根は崩落し、廃墟状態ですが、建物のデザインや雰囲気は中々良く、旧奈良監獄と合わせた煉瓦建築として修復・整備してもらいたいものですねぇ。


besan2005 at 19:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 官公庁・役所

2018年11月23日

伊根町・新井崎砲台跡探索レポ

新井崎







本日は京都府伊根町にある新井崎砲台跡の探索に行ってました。
新井崎砲台は舞鶴港の防衛のため、昭和10年に設置された陸軍の砲台で、21センチ加農砲が4門配備され、周辺には探照灯・弾薬庫・営舎などがあり、海軍の監視所もありました。
砲台のあった新井集落に到着後、やや高台にある新井集会所(この場所には海軍の監視所があったが遺構は無し。)に車を停め探索開始。ただ、着いたのはいいが大雨…
新井崎砲台集会所側基礎










まずは集会所近辺と集落内を散策。新井集会所の近くにあるコンクリートの基礎。詳細不明だが海軍監視所の側だしコンクリートの感じも古いので一応撮影。
新井崎砲台跡防火水槽1










新井崎砲台防火水槽2










新井集会所から集落側へ進むとある防火水槽。こちらも砲台との関連性は不明だがコンクリートの質や打設の感じが古そうなので撮影。
集落内を一通り見て回りましたが、遺構らしきものは確認できず。境界標柱とかあるかなと思ったのですが。
次に向かったのが探照灯格納庫跡。下調べで唯一新井崎砲台の遺構と確認できる場所。
新井崎砲台探照灯格納庫1










新井崎神社の参道から経文岩への道を進むとコンクリートの壁が設置された大きな岩の洞穴に到着。
これは経文岩という古くからある洞穴ですが、ここに新井崎砲台の探照灯が設置されていました。コンクリートの壁はその時に設置されたものです。
IMG_0075













経文岩の説明板。普段は洞穴に探照灯が隠され、その都度引き出されていたようです。
新井崎砲台探照灯格納庫2










内部から。中はそこそこ広いです。
新井崎砲台探照灯格納庫4










探照灯格納庫のコンクリートの壁にあるボルト。
新井崎砲台探照灯格納庫5










壁はこれくらいの厚さ。
新井崎砲台探照灯格納庫3













内部にセメント瓦が1枚ありました。探照灯格納庫に関わる物でしょうか?
新井崎砲台探照灯格納庫6










壁の外側。黒い塗料が残されています。これは防空迷彩でしょう。戦時中は軍の施設はもちろん大型の建物には防空用として外壁を黒く塗られていました。
新井崎砲台見張り台1










探照灯格納庫の先は見晴らし台になってますが、手前の新しいコンクリートの擁壁の外側に古いコンクリートがあります。
新井崎砲台見張り台2










拡大。古いコンクリート擁壁には手摺の支柱らしき跡が残されています。断定はできませんが、コンクリートの古さから新井崎砲台の頃のものかもしれません。場所的に見張り台だったのかも。
新井崎砲台神社下擁壁










探照灯格納庫から見える新井崎神社の崖下にあるコンクリート擁壁。デジカメのズームで撮影し確認しましたが、打設の感じや古さから新井崎砲台の時期のものかもしれません。
新井崎砲台神社上コンクリ













新井崎神社の参道入り口の崖上にあるコンクリート構造物。こちらも古く気になったので撮影。
新井崎砲台コンクリート遺構群遠景










で、次に向かったのが新井集会所から探照灯格納庫へ向かう途中に気になっていた箇所。遠目で見ても明らかに整地をしたような地形が見て取れ、道らしきものが延びているので、この一帯を探索することに。薮の中をしばらく進むと・・・
新井崎砲台建物跡遺構1










なんと、コンクリートの基礎が!
新井崎砲台建物跡遺構2










どうやら建物の基礎のようですが、コンクリートは古く間違いなく新井崎砲台の関連遺構でしょう。
新井崎砲台建物跡遺構3










別アングルから。
新井崎砲台建物跡遺構4










コンクリートは探照灯格納庫と同じ感じの質です。鉄筋の跡が残されています。
昭和10年の時期ならコンクリートの質も戦時中ほど悪くはないでしょう。
新井崎砲台建物跡遺構5










建物の基礎は奥までまだ伸びているようですが何せ笹竹が生い茂っていて確認できず。草刈りしたいw
新井崎砲台建物跡遺構側コンクリート










建物跡遺構の海側にはコンクリートの擁壁らしきものが。同じ時期のものでしょう。
このコンクリート基礎の建物跡の北側辺りが比較的草木も少なく向こう側に回れそうなので、回り込んでみることに。
新井崎砲台推定弾薬庫跡1










目の前に現れたコンクリート構造物!
新井崎砲台推定弾薬庫跡2










これは凄い!見た瞬間鳥肌が・・・
新井崎砲台推定弾薬庫跡3










下の方には穴がいくつか空いてます。
新井崎砲台推定弾薬庫跡9













穴の断面。通風孔っぽいですね。壁の厚さは20cmくらいあったかも。結構分厚い。
新井崎砲台推定弾薬庫跡6










斜めからの俯瞰。コンクリートの壁の上には木造の屋根が乗っかっていたようです。
新井崎砲台推定弾薬庫跡8










正面入り口側からの俯瞰。
弾薬庫プラン












簡単な平面図ですが、入り口は2ヵ所あるようです。

新井崎砲台推定弾薬庫跡5













入り口部分の壁。壁はコンクリートの下地の上に化粧モルタルを塗って整えてます。
中々手が込んでます。
新井崎砲台推定弾薬庫跡7










壁面全体には黒い塗料の跡が残されています。探照灯格納庫跡の壁にもあった防空迷彩の黒塗りの跡かと思われます。
新井崎砲台弾薬庫跡側の建物跡










コンクリート建造物の南側、道側の場所にもコンクリート基礎の建物跡が。
新井崎砲台遺構配置図







関連遺構の位置図(だいたいですが。)コンクリート建造物を囲むようにコンクリート基礎の建物跡が2ヵ所存在していました。コンクリート建造物は構造から弾薬庫、周りの建物は物品庫のように思えますが・・・。
新井崎砲台推定弾薬庫跡9










コンクリート建造物の側には古いガラス瓶や煉瓦片、瓦片、茶碗等が散乱していました。
緑の瓶はウイルキンソン炭酸の瓶。戦前からある清涼飲料水です。手前のはインクの瓶。いずれも瓶の形状やガラスの質・瓶の造りから戦前のもので間違いないと思います。砲台に赴任していた兵士が飲んだり使ったものでしょうか。瓦は一般の黒い瓦とは違う特殊なもの。砲台関連の建物の屋根を葺いていたものかもしれません。ちなみに最初に見たコンクリート基礎の建物跡の側で大日本麦酒の瓶を見つけました。関連の遺構は間違いなく戦前からのものと言えますね。
IMG_0114










先ほどのコンクリート構造物遺構群に隣接する道の脇に露出するコンクリート。
どうやらこの奥にも何かありそうですが、何せ薮で・・・。この日はあいにくの大雨でしたし。
新井崎砲台遺構か










コンクリート構造物の遺構群から北に少し進んだ場所に整地された箇所があります。明らかに建造物か構造物を建てるために整地した跡が見られますが、コンクリートの構造物は見られず断定はできません。
新井崎砲台遺構か2










平坦地へと延びる道の跡もありました。

探照灯格納庫を始めとして新井崎砲台跡の遺構と思われる構造物を多数見つけて大満足でしたが、下調べの参考資料とした文献では「海を見下ろす畑地の中にコンクリートの砲座跡や倉庫跡を見ることが出来る」とあり、ここがそうなのかなぁと思いましたが、なんか違うような感じに思え、別の場所かもと航空写真で気になってた場所へ。
新井崎砲台弾薬庫?










車で北へ少し向かった先にある高台の畑にあった古そうなコンクリートの小さな倉庫。
新井崎砲台弾薬庫?










民家の側の空き地にある同じ形のコンクリートの倉庫。
新井崎砲台水槽?










横倒しで放置されているコンクリートの水槽。
いずれも古そうですが、何とも判断しづらい感じ。一応畑の中だしここなのかなぁと思いましたが、海を見下ろすには遠いし砲座らしきものも見当たらないし。一応参考程度で撮影。
下調べでいつも参考にしている昭和22年撮影の米軍航空写真を見ても新井崎砲台の付近は不鮮明過ぎて判別困難だったし…。

新井崎砲台の遺構探索は以上で終了。探索した日は止み間もありましたが雨が強く足元も悪くて行けなかった場所もあったことや文献に書かれていた箇所を特定できなかった面もありましたが、思った以上の遺構に出会うことが出来て、結果的に満足した形となりました。またいずれ再訪しようかな。


besan2005 at 23:46|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2018年10月20日

阿部定ゆかりの大正楼がある遊郭跡・篠山市京口新地を訪ねて

篠山市にかつて「京口遊郭」という遊郭街がありました。明治41年、後に「丹波の鬼」と呼ばれた精強の連隊、陸軍歩兵第七十連隊の移駐に際して、その連隊の兵士を目当てにした遊郭が池上地区に設立。これが「京口新地」でした。
無題






京口新地の範囲。昭和23年の航空写真をもとに囲むとこんな感じ。周囲の地区とは違い碁盤の目のような区割り。そして遊郭街特有の周りを囲む堀状の川。京口新地はかなり狭い範囲でした。
京口新地は上記の通り歩兵第七十連隊の兵士を目当てに設立された遊郭街でしたが、客質は良くなかったそうです。
京口新地は全国にあった他の遊郭街と同じく昭和33年の売春防止法により幕を閉じ現在は住宅街となってますが、当時の建物がいくつか残されています。
P1120972










その一つが「大正楼」というこの妓楼の建物。空き家となり老朽化してますが、れっきとした京口新地時代の遊郭の建物。そしてこの建物はある有名な人物ゆかりの妓楼でした。
その人物は「阿部定」。あの阿部定事件を起こした人物です。
wikipedia「阿部定事件」
P1120977













阿部定は飛田新地などで売れっ子の娼妓でしたが、様々なトラブルで店を転々とし次第に転落。昭和6年に最後に娼妓として働いたのがこの大正楼でした。
大正楼は
京口新地でも下等の遊郭でした。ここでの仕事は相当きつかったようで、わずか6ヶ月で逃げ出してしまいます。大正楼を去った阿部定は再び各地を転々とし、昭和11年に事件を起こします。
その大正楼は京口新地が無くなり住宅街へと変わっても変わらぬ姿でひっそりと存在し続けました。私が最初に訪ねた2015年より以前からすでに廃墟同然の空き家になってましたが、今年の台風で大きな被害を受けたらしく、年内に取り壊されるとの情報をツイッターで知り、見納めという形で訪問することにしました。
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大正楼は正面からは特に被害を受けているようには見えませんでした。しかし、右側の路地にはバリケードが。そちらには行けないので回り込む形で反対側の住宅辺りから確認することに。
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屋根が半壊して崩壊しています・・・。
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もう少しだけ接近。表側からは分からないけど反対側を見たら被害は甚大なことが分かります。
確かにこれでは・・・。
大正楼2015年










こちらは2015年に訪問した時の写真。3年前は形を保っていた屋根が今は完全に崩壊。
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表の通りから崩壊部分を望遠で撮影。屋根が崩壊し建物内部が丸見えに。
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意匠の残る表側は無傷だったことは幸いなのかもしれません。
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玄関のガラス窓にある大正楼の屋号紋。
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格子窓。
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瓢箪型の塗り残し窓。細かい格子の細工はさすがです。
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多くの客や娼妓達、そして阿部定が見たであろう風景。
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大正楼は年内に姿を消します。それを知り見に来た人が私以外にもいました。それだけ知られた大正楼。地元では保存の声もあったらしいですが、これだけ被害があるといつ倒壊してもおかしくない状態で危険な上に保存・修復するにしても費用の捻出の問題もありますし文化財指定されていないため補助金もない。台風さえなければもう少し長らえたかもしれませんが、遅かれ早かれ消え去る運命だったのでしょう。
今回何とか取り壊し前に会うことが出来ました。ここにかつて阿部定がいた遊郭建築があったという記憶を残すためなるべく写真を収めることにしました。
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京口新地の遊郭建築は多くが取り壊されましたが、今でもわずかながら当時の建物が残されています。こちらも空き家ですが大正楼の近くにあるこのカフェー風の建物もその一つ。
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洋風のハイカラな店構えは、昭和初期のモダンな姿を伝えています。
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控え壁。
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郵便受けのある縦窓。
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玄関のガラス戸越しに中を撮影すると、凝った内装の玄関内部が見れました。受付や階段親柱と手すりの彫り物は圧巻。
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奥にはステンドグラスの窓まで。この建物は京口新地内でも上等の店だったんでしょうね。
店内には蓄音機からの音楽が流れ、着飾った客でにぎわい、受付や玄関には艶やかな女給さんや娼妓が出迎える。奥ではもしかしたらダンスなんかも行われていたかもしれません。
池上季実子や浅野温子が出演した映画「陽暉楼」に出てきたカフェーを思い出します。
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カフェー風建物から大正楼を眺める。外観・内装が当時のまま残り、しかも意匠の凝らしたレベルの高い建物。貴重な京口遊郭時代の建物で、京都府八幡市の橋本遊郭の多津美旅館のように何とかリノベーションして再利用されればとも思いますが、大通りに近いとはいえ住宅街の中、ここで店を開いても客は期待できないしリフォーム代や修繕費もかなりかかるでしょうし。大正楼と同じくかつての賑わいを記憶に留めたまま消えていく運命なのかもしれません。
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京口新地内には他にも当時の遺構があります。これは遊郭を囲む堀の小川に架かる橋。
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名前は「よしだ橋」昭和8年8月架橋。夢と現の境を渡す小さな橋。
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京口新地の北西角の石垣。
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改装されていますが元遊郭だったのではと思われる建物。
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裏側。普通の民家とは違う造りで、窓から見える室内はそれっぽい。
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こちらも元は遊郭の建物だったんじゃないかなと。
こちらのレポ記事を読むと6年前までは置屋か揚屋ではないかと思われる大型の妓楼建築や洋館も残されていたようですが、残念ながら取り壊されて現存せず。もう少し早く訪ねていたら…
京口新地跡は完全に住宅街となり大正楼やカフェー風建築を始めとしてわずかに遊郭時代の遺構が残るのみです。その大正楼もあと少しで姿を消します。この元遊郭街も次第に人々からの記憶から消えていくことでしょうね。


besan2005 at 22:55|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 近代化遺産 | 兵庫県

2018年09月04日

鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記

旧鈴鹿海軍工廠範囲









鈴鹿海軍工廠は太平洋戦争中の昭和18年に完成した海軍工廠で、主に機銃や機銃弾や爆弾の信管を製造する軍需工場でした。工廠本体の敷地は現在のイオンモール鈴鹿から本田技研鈴鹿工場の南端に至る広大なもので、最盛期は1万人あまりが働いていました。さらには周囲に工廠職員の官舎や職員用の海軍共済病院、工員養成所などが建ち並んでいました。
鈴鹿海軍工廠昭和22年












※昭和22年米軍撮影の航空写真。国土地理院HPより。鈴鹿海軍工廠を撮影したもの。
鈴鹿海軍工廠はその規模の大きさから当然米軍の攻撃対象になっており、昭和20年7月24日に鈴鹿海軍工廠を狙ったと思われる空襲が開始。しかし目標は逸れ、工廠の東にある算所町に爆弾が投下されました。以後、鈴鹿海軍工廠は大きな被害もなく終戦。跡地はイオンモール鈴鹿や本田技研、旭化成鈴鹿工場の敷地となり、官舎街はそのまま住宅街となりました。
鈴鹿海軍工廠の建物はほとんど失われましたが、わずかに当時の建物や施設が残されています。
今回、それらの旧軍遺構を訪ねてみました。

まずは、海軍工廠の北側にあった平田町の官舎街。
ここは真北に対して45度くらいの傾きで枡目状の区画がされ、そこに甲号官舎と乙号官舎が建てられました。事前の下調べで現在の航空写真と昭和22年の米軍撮影の航空写真とを見比べていると、おそらく当時の官舎であろう住宅が複数現存しているのを確認。
平田町官舎群






平田町の現在の航空写真と昭和22年の米軍撮影の航空写真。区画は当時のままです。向きやプランを比べるとA〜Dの官舎は現存で間違いないと思います。
P1120707










平田町官舎A。門は後からのものと思います。現地では生垣であまり確認できませんでしたが、一部増築がある以外は官舎の建物をそのまま利用していると思います。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎2-3










平田町官舎B。この官舎はほぼ当時のままの姿だと思います。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎2-2










但し、現在は空き家でだいぶ傷んでいます。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎2-1










敷地の庭も荒れており、いずれ姿を消すのではと思います。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎1-1










平田町官舎C。こちらは現在も使われており、改修されてますが、建物自体は当時のままと思われます。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎1-2










裏側は比較的当時の姿を残している感じ。基礎のコンクリートは古いです。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎1-3










付属屋。当時のままっぽいです。何に使われていたかは不明。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎3-1










平田町官舎D。官舎Cの東隣にあります。近年のリフォームで綺麗になってますが、建物のプランを見ると、元官舎の建物だと思います。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎3-2










建物のそばには官舎Cにあるものと同じ付属屋があります。官舎Cと同じく米軍の航空写真にも写っています。
とりあえず、元官舎で間違いないだろうと思われる建物は4つでしたが、他にももしかしたら大幅な改造を受けてはいるがそのまま使われている元官舎はあるかもしれません。
鈴鹿海軍工廠平田町官舎4










鈴鹿海軍工廠平田町官舎6










鈴鹿海軍工廠平田町官舎7










鈴鹿海軍工廠平田町官舎8










その他、近辺に気になる建物をいくつか確認。古いコンクリートの基礎に同じようなプランの切妻屋根の平屋。さらにはセメント瓦でもしかしたらと撮影しましたが、帰宅後に米軍の航空写真で確認したところ、これらの建物のある場所には何もありませんでした。ただ、建物自体は古そうなので後に移築して再利用した可能性も考えられますが、その辺は分かりませんので保留にしています。

平田町官舎街を後にして、鈴鹿海軍工廠の本体部分の敷地へ。
鈴鹿海軍工廠銘板







鈴鹿海軍工廠の正門にあった銘板。現在はイオンモールと旭化成の南、大池三丁目交差点の東に移設されています。

次に本多技研工場の北端の道を西に進み海軍工廠時代の建物が残る平野町へ。
その本田技研工場の北端の道路に面した部分には土塁状の盛土に囲まれた堀のような部分が延々と敷地の西端まで続いています。
本多







赤線の部分です。
米軍の航空写真にも同じ個所に堀のようなものが確認できます。結構な規模で後からこんな堀を掘る意味もないですし、海軍工廠時代のものではないかと思われます。
P1120741










堀は弓道場になっていたり池になっていたり放置されていたり様々。一か所、水路のようなコンクリートの構造物が見えたので撮影しました。

本多技研工場の敷地を過ぎ、平野町へ。ここは鈴鹿海軍工廠の敷地内でしたが、小さな工場や住宅街になったおかげで、工廠時代の建物が多く残されています。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場棟1-1










鈴鹿海軍工廠火管圧填工場棟。火薬に高い圧力をかけて固体の爆薬を作っていた場所で、砲弾や弾薬や爆弾に火薬を充填していました。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場棟1-2










鈴鹿海軍工廠跡で数少ない当時の建物の一つ。現在はアパートのようですが、いつ失われてもおかしくない危うい状況。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場棟2-3










先ほどの建物から南に下った場所にある別の火管圧填工場棟。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場棟2-2










一見当時の建物には見えませんが、横のコンクリートの分厚い壁を見たら納得。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場棟2-1










この建物もアパートとして使われていますが、先ほどの建物と同じく予断は許されない感じ。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫1-1










火管圧填工場棟の周囲には火薬庫が3棟残されています。こちらは煉瓦造の火薬庫。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫1-2










町工場の敷地にあり、保存状態は良く大切にされているっぽいです。
煉瓦の壁面には防空用の墨塗りっぽい痕が残ってます。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫2-1










煉瓦の火薬庫の道から一本西の細い路地にある火薬庫。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫2-2










民家の物置になってます。こちらはセメント煉瓦っぽい作りです。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫3-1










上記の火薬庫から北上したところにある火薬庫。先ほどと同じ作りです。
鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫3-2










20mほど離れた形で並んでいます。

平野町を後にし、製造した弾薬の試射場だった場所へと向かいます。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場着弾場1










鈴鹿海軍工廠山の手発射場着弾場。現在、鈴鹿リサイクルセンターの敷地内に残された巨大なコンクリート構造物。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場着弾場2










鈴鹿海軍工廠時代はここで製造された弾薬類の試射が行われました。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場着弾場3










かつては内部に土を詰め、それに向かって射撃していたようです。巨大で頑丈なコンクリートの構造物なので、撤去できずに残されたのでしょう。リサイクルセンターになる前は機銃弾の薬莢が多数転がっていたそうです。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫1-1










試射場の東の奈良池北側には試射に使う火薬庫がありました。地下式の巨大なコンクリートの火薬庫が2か所残されています。こちらは西側の火薬庫。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫1-2










鉄扉が残されていました。こういった金属のものは戦後に真っ先に盗られたので旧軍遺構で残されているのは珍しいです。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫1-3










扉は開いてました。中が気になりましたが手前の草が激しく生い茂っており断念。草刈りしたいw
(一応、刈払い機の資格は持ってるので使えるしw)
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫1-4










東側のコンクリート壁。この火薬庫は覆土式でしょうか。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫2-1










東側にあるもう一つの火薬庫。こちらは住吉神社のある丘の地下に作られている感じ。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫2-2










工事用のバリケードで前が塞がれていたようですが、何故か破壊されていて、東端は普通に開いていました。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫2-3










なので、ちょっとお邪魔して近くまで。こちらも鉄扉が残されています。鉄扉は閉じられ鍵がかけられているので入れませんが、ダイヤル式の鍵の跡?らしき穴があり、そこにカメラのレンズを入れてみました。
鈴鹿海軍工廠山の手射撃場火薬庫2-4










鉄扉の穴から撮影した火薬庫内部。流石に殺風景&不気味・・・ですが、火薬庫という性格かコンクリートの壁や柱は頑丈ですね。奥に光が見えますが、これは上に伸びてる通気口。煉瓦積みの通気口が丘の上に出ていて住吉神社の境内から行けるようですが、この時さんざん歩いていて疲れが来ていたのでヘタれて行かず・・・。内部の撮影をした後、そのまま立ち去りました。
ちなみに、ここの南にある有名な鈴鹿サーキットもかつては鈴鹿海軍工廠の射撃場跡だったそうで。
名称未設定-1













鈴鹿海軍工廠の遺構は広範囲に点在しているので、探索は車かバイク、せめて自転車があった方がいいかと思います。地図に今回巡った遺構とルートを示してみましたが、再び加佐登駅に戻るまで4時間。(出張先の宿舎の最寄り駅がJR線なので。)測ってみたら13km余りの行程となりました。
加佐登駅の北側には旧亀山陸軍病院や旧第一航空軍教育隊の遺構があるけれど、断念。
またの機会とします。できれば出張中の間に(笑)


besan2005 at 11:28|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 三重県

2018年08月05日

某所に残る忠魂碑と乃木大将石像について。

※今回はやや批判的要素も含まれていますので、今回紹介する遺構の具体的な場所は伏せておきます。
旧保津小学校忠魂碑1













京都府某市の某地区の自治会館の脇に忠魂碑が残されています。
忠魂碑本体や台座、周りの玉垣など、ほぼオリジナルを保っています。
旧保津小学校忠魂碑2













建立は大正十五年十二月。
旧保津小学校忠魂碑3













請負人の銘。
さて、この忠魂碑、正面に新たに「平和塔」というプレートが付けられています。
戦後に軍国主義的という理由で本来刻まれていた「忠魂碑」の文字を覆い隠したのだと思われます。
戦後、陸海軍や国粋主義・軍国主義を連想させる記念碑や像は悉く撤去され、地名なども名称変更されました。例えば師団通と呼ばれていた道が平和通となり、陸軍墓地が平和墓地となり、かつての軍の敷地が平和公園となる。戦後、平和を願う気持ちから名称を変えた気持ちは分からなくはないですが、果たしてそれは本当に正しいのでしょうか。名称や地名というのは必ずそのものを表す意味があるものです。そしてそれはその街のその地区の歴史を伝えるものでもあります。安易に「平和」という名前に変更すれば、それがかつてはどういうものだったのか、どういう理由で名付けられたものかが分からなくなってしまい断絶してしまいます。実際、私の地元にある「平和墓地」は小学校の頃の遠足の場所になってましたが、子供心に「墓地なのに平和ってどういうこと?」と疑問を持ってました。これが旧称の「陸軍墓地」なら、連隊があったことは知ってたので「ああ、軍隊のお墓だったのね」とすぐ理解できたはずです。同様に「平和通」ではなく「師団通」、「平和公園」ではなく「旧〇〇工廠跡公園」とかだったら、かつてここがどういう場所でこの街に師団や連隊があったんだなと誰しも理解できるはずです。安易な「平和」という名称の変更は、その土地の歴史の繋がりを断絶する結果を招いていると私は思います。
この「平和塔」とされた忠魂碑も都合の悪いものに蓋をし覆い隠すことで、結果としてその地区の歴史の一つを抹消してしまう形になったように思えます。
旧保津小学校乃木大将像1













そしてもう一つ、この「平和塔」の背後の木にひっそりと打ち捨てられたように立てかけられている石像があります。
旧保津小学校乃木大将像2













石像は乃木希典大将。昭和14年に忠魂碑の向かいにある小学校の敷地に建てれたもので、かつては立派な台座に据えられていたそうです。
旧保津小学校乃木大将像3













しかし終戦後、軍国主義的として恐らく自主的に撤去してここに放置されたのでしょう。以来70年余り去られたかのように放置されています。
旧保津小学校乃木大将像5













かつては小学校の敷地に立派な台座に据えられ、児童たちや教職員、地区の人達の崇敬を受けていたはずであろう乃木大将の石像。それが戦後の価値観の変化で今まで崇敬し大切に扱ってきた人たちが、手のひらを返したかのように台座から引きずりおろし「平和塔」と名を変えた忠魂碑の裏にまるで隠すかのように人目の付かない場所に放置。人々の急激な態度の豹変にこの乃木大将の石像は何を思うのでしょうか。終戦当時ならまだしも、戦後70年経った今はせめて忠魂碑の脇に再び安置して由来を記した説明板を置いてもいいのではないでしょうか。この乃木大将の石像を見ていたら、人々の無慈悲な扱いに石像の顔が悲しげな表情に見えてきました。


besan2005 at 12:25|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前・戦中の記念碑

2018年07月22日

舞鶴海軍工廠旧本館見学レポ日記

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画像は私の古写真・古絵葉書ブログより舞鶴海軍工廠の古絵葉書
舞鶴海軍工廠は明治34年に舞鶴造船廠として設立したのを始めとして、明治36年に舞鶴海軍工廠に改編しました。大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府が舞鶴要港部に格下げされたのに伴い、舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部に格下げされましたが、昭和11年に再び舞鶴海軍工廠に昇格。以後戦後まで海軍工廠として存続しました。
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現在、舞鶴海軍工廠の敷地や諸施設を引き継いでいるジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所には現在も旧海軍工廠時代の建物がいくつか残されそのまま使用されていますが、この明治35年に建てられた舞鶴館もかつて舞鶴海軍工廠の本館だった建物の玄関と主要部分のみ移築して記念館として保存したものです。
今回、舞鶴サマーフェスタのイベントの一つとして一般公開されたもので、普段めったに入れないだけに絶好のチャンスであり、見学に赴きました。
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舞鶴海軍工廠旧本館前に置かれている装甲巡洋艦八雲の主錨。
八雲は明治33年に竣工した装甲巡洋艦で、日露戦争に参加。太平洋戦争も参加し戦争末期には対空砲を搭載。特別輸送艦としても働き終戦時も無事でしたが、昭和21年舞鶴海軍工廠を引き継いだ飯野産業により解体されました。
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八雲主錨の横に置かれた発電所やクレーンの銘板や1号ドックの設備。
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御紋章の鬼瓦。木造なんですね。
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まずは工廠長室へ。
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楕円形の大きなテーブルと工廠長の机が置かれています。旧本館で一番当時の面影を残す部屋。
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部屋の隅にある小さなテーブル。
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工廠長の机とZ旗。
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天覧双眼鏡。
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一旦戻り舞鶴海軍工廠時代に使用されていた道具等の展示室へ。これはボイラーの銘板。
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・・・何かの機械(忘れた)
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鋳物用のヘラ。
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カナダ製発動機の銘板等。
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鋲打ち工具。いわゆるリベット。
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鋲打ちやその他の作業に使われたハンマー。
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望遠鏡。
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カンテラや蝋燭の照明器具とカッターの刃。
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精分器。
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熱交チューブ拡管器。
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鋳物尺などの計測道具。
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空気ハンマーとエアードリル。
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リベット打ち用の道具。
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電気溶接の道具。
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気圧計。昭和10年のもの。
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蒸気タービンの部品とモンキーレンチ。
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論文と薬品。
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舞鶴設計のディーゼルエンジンのピストン。
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燃料弁とピストン。
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鍛造用金敷。明治36年のもの。
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鋲止めと電気溶接のフランジ。
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グラビティ溶接器
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鋲焼きコークス炉。リベットはこういった炉で熱して打っていました。
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次の展示室には海軍工廠時代の工員作業服。手前の濃い色の作業服は上級工員。奥は一般工員。
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旧海軍艦艇で使われていた時鐘。(何の艦艇かは不明)
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引き揚げられた戦艦陸奥の鋼板。昭和18年に原因不明の爆発事故を起こして沈没した陸奥は戦後にいくつかが引き上げられ、記念館に展示されたり鋼材を再利用されたりしました。
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舞鶴海軍工廠で建造された駆逐艦の進水記念絵葉書。
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廊下に展示されていた明治42年作成の舞鶴海軍工廠と周辺の配置図。建物施設がかなり詳細に記されており、資料的にかなり重要なもの。この配置図で今回判明したものがあり、裏付けを取る成果を得ることが出来ました。
※旧舞鶴海軍特一号官舎・特二号官舎(高級将校用か)
この配置図、複製して販売して欲しいなぁ。
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今回の見学では構内の自由行動は不許可で、シャトルバスで一気に旧本館のある高台にまで移動したため、旧舞鶴海軍工廠の建物群を見ることは出来ませんでしたが、(バス移動の途中で幾つか見れたけど、席の位置の関係で撮影できず)それでもわずかに工廠時代のものらしい構造物を見ることは出来ました。これは正門近くにあるコンクリートの貯水槽。
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正門から見える工場棟。
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これは私の古絵葉書ブログのものですが、絵葉書の右側に写る建物と同一と思われます。
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北吸桟橋から旧舞鶴海軍工廠の煉瓦建物を望む。舞鶴海軍工廠旧本館だけでなく、工場棟の建物も見れるかもと期待してましたが、残念ながら無理でしたね。
それでも中々見学出来ないJMU内と一度は見て見たかった舞鶴海軍工廠旧本館。貴重な体験をすることが出来ました。また来年のサマーフェスタでも一般公開して欲しいです。

このあと、護衛艦の一般公開が行われている北吸桟橋へ。
みょうこう・ひゅうが・ましゅうを見学。
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会場には師匠を始めとしたイラストや看板がw配布されていた団扇にも師匠がw
まぁ、そうなるな。




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2018年07月16日

豊岡市・旧中江種造別邸(現・豊岡カトリック教会)レポ日記

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5月の連休の際に兵庫県豊岡市の近代建築巡りをしたのですが、数多く残る近代建築の中でも特に素晴らしかったのが、現在豊岡カトリック教会となっている旧中江種造別邸でした。
中江種造は古河財閥の礎となった人物であり、古河財閥の創立者・古河市兵衛の顧問技師として足尾銅山などの経営に関わり、「鉱山王」の異名を持ちました。
この旧中江種造別邸は大正11年に生まれ故郷の豊岡市に建てたもので、昭和25年に豊岡市に譲渡。翌昭和26年に豊岡カトリック教会が購入し今に至ります。
P1110794










ちなみに京都の邸宅も現存しており、寿山荘と呼ばれています。(非公開)
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旧中江種造別邸の側面。
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玄関部分。
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玄関内部。扉が開いていたので覗いてみましたが人の気配はなし。横の呼び鈴を押すと奥から神父さんが出てきました。建物を見せて欲しいというと快くOK。増築部分の居住区域はお断りでしたが、増築部分は戦後のものでオリジナルではないので入る理由もありませんし、有難く洋館内を見学させていただきました。
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玄関を入って左手にある会議室の洋間。シックな落ち着いた感じです。シャンデリアも当時の物かもしれません。
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階段部分。
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階段親柱の装飾。
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2階階段室。
無題










1階と2階の間の踊り場には。ステンドグラスがはめられています。
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2階の洋間。天井部分がアールデコっぽいです。
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2階の大広間は和室になっており、床の間・付書院・違い棚・天袋のある書院造となっています。
18畳敷きの広間で、襖を外すと隣の部屋と合わせて広い空間となり、恐らく来客たちと宴会などを行っていた部屋なのかもしれません。
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広間の横は内縁となり、そこにも畳が敷かれています。
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再び1階へ。かつてのサンルームらしき部屋がありました。
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サンルームと思われる部屋にあるモザイクタイル。
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サンルームから応接室へ。
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応接室の天井。
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旧中江種造別邸は戦後の礼拝堂と居住棟の増築のため壁が2ヵ所開けられている以外はオリジナルを良く保っていると思います。この日は私以外の来客は0。神父さんも洋館部分のみなら自由に見て回って良いとおっしゃり、居住棟へ戻られたので、貸し切り状態で1人静かな洋館内を堪能しまくりました。兵庫県の北端、地方都市の豊岡市にこれほどの西洋館が残されているのは貴重。帰り際に神父さんと文化財指定の予定は無いのかと尋ねたら、増築で穴を開けているから無理じゃないかと。私は洋館自体はオリジナルが良く保たれているからそんなことは無いと思いましたが。是非、文化財指定されて末永く保存されてもらいたいものです。

あと、突然の訪問にもかかわらず、親切に対応していただいた神父さんには厚くお礼を申し上げます。
私1人ということもあり、素晴らしい洋館をおよそ1時間余り十分堪能できました。







besan2005 at 08:50|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 住宅建築

2018年07月15日

船岡山公園に残る近代化遺産

無題








京都市北区にある船岡山は古くは室町時代に応仁の乱の際の西軍の本陣が置かれたり、船岡山合戦が行われた歴史的な場所であり、織田信長を祀る建勲神社も存在します。
その船岡山ですが、昭和10年に船岡山公園として整備され開園しました。現在も船岡山公園には当時の構造物が多く残されています。
各構造物の場所は上記の地図を参照してください。
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最初に訪れたのは船岡山公園北門。
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右側の門柱。
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左側の門柱。かつては電灯が設置されていたと思われます。
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北門の奥にある噴水跡。
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あまり装飾はないですが、かつては水を噴き上げていた噴水。目を引いたことと思います。
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北門から西のエリアに登った箇所にある街灯。大徳寺に近く建勲神社もあることから、燈籠型の和風のデザインとなってます。これと同じデザインの街灯は船岡山公園一帯にいくつも存在します。
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上記の街灯の近くにある構造物。はっきりとはわかりませんが、構造的に噴水か水飲み場・手洗い場、もしくは池だった気がします。
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船岡山公園西門。北門と同じデザインですが、電灯部分にスクリーンが残されています。北門にもかつてはあったのでしょう。
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西門からグラウンドに入った所の突き当りにある構造物。京都市近代化遺産調査報告書では「旧電灯台座」となっていますが、形状からこれは壁から水が出てくる造園施設「壁泉」ではないでしょうか。
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真ん中に水が出ると思われる穴があります。その手前には水を溜める池と思われる低い区画が造られています。
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※参考写真・イギリスの庭園の壁泉。KOMERI.COMより。
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壁泉の両脇には階段があります。これも当時の物。
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階段を上がった場所、ちょうど壁泉の真上にはラジオ塔が残されています。
ラジオ塔とはまだまだラジオが高価だった昭和初期頃にラジオの普及を目的として公園などに設置されたもので、格子になっている場所にラジオが設置され、人々が集まると鳴らされました。
京都市内には船岡山公園のラジオ塔を含め7か所現存しています。
小松原公園の記念塔1













※参考1・京都市北区、小松原児童公園内のラジオ塔。
萩児童公園のラジオ塔1













※参考2・京都市左京区萩児童公園内のラジオ塔。
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※参考3・京都市北区紫野柳公園内のラジオ塔。
その他、円山公園・八瀬公園・橘公園に現存しています。
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ラジオ塔と野外音楽堂(昭和34年建設)から船岡山山頂へ登るとひときわ目立つ建造物があります。
これはサイレン塔と呼ばれるもので、公園完成時のものかはわかりませんが、戦前のものであるのは確かで、戦時中は空襲警報を鳴らし(船岡山公園近くの西陣地区で空襲があった)戦後は正午のサイレンを鳴らしていたそうです。
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サイレン塔のアップ。
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サイレン塔の内部。現在は使われておらず何もありませんが、サイレンの機材類があったと思われる箇所が左側に残されています。
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サイレン塔の側にある街灯。最初に見たものと同じデザインです。
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街灯の横にある戦前のものと思われる方位盤ですが、すり減っていて判読不可能です。
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サイレン塔から建勲神社方面に向かうとある構造物。これは国旗掲揚台だったものです。
正面部分がつぶされてますが、かつては国威宣揚的な文字が刻まれていて、戦後に潰したのだろうと思われます。
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国旗掲揚台の背面。くぼみが付けられ、かつてはここに国旗を掲揚するためのポールがあったと思われます。船岡山は心霊スポットとしても知られ、正体の知らない人はこの国旗掲揚台を得体のしれない不気味な曰くつきのものとして紹介してますが、正体を知ればなんてことはないものです。
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国旗掲揚台近くの街灯。これまでのものと同じデザインのものですが、ここで面白いものを見つけました。
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地面に露出した配線。
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その配線が街灯に向かって伸びています。かつてはこの街灯は電灯だったことが伺えます。

船岡山公園内は戦前の公園施設が良好に多数残る箇所で、戦前の公園施設を実際に見学できる恰好の場所であります。可能なら残る噴水や壁泉や街灯等を復活させてほしい気もありますが、中々厳しいでしょうね。せめてこれらの構造物を船岡山公園の歴史として末永く保存して欲しいです。


besan2005 at 12:16|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | その他近代化遺産

2018年07月14日

舞鶴市・下安久弾薬庫跡遺構レポ日記

無題








舞鶴市下安久地区には、かつて陸軍所轄の舞鶴要塞の各砲台へ弾薬を供給するための弾薬庫がありました。弾薬庫は匂崎公園(ここもかつて演習用の砲台だった)を過ぎた府道565号線沿いの向かって右手にある山一帯にあり、今でもいくつか遺構が残されています。
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弾薬庫のあった山の手前の海岸に先端が崩れかけた古い石積みの桟橋があります。これはかつて弾薬庫から弾薬を積みだすための桟橋でした。
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先の方には、係留ロープを結ぶための石製ボラードが2つ残されています。
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旧桟橋は下安久弾薬庫遺構の中で現在、一番分かりやすく良く残されている遺構かと思われます。
よくこの桟橋で釣りをしている人を見かけますね。
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旧桟橋の向かい側、府道を挟んだ場所に民家がありますが、ここが下安久弾薬庫の正門でした。
山側と田んぼ側の石の擁壁、スロープ、そして正門の門柱は当時の物。
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コンクリート製のかつての正門の門柱。現在はテレビアンテナが付けられていました。
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弾薬庫のあった山の道路沿いの裾には弾薬庫時代の石垣の擁壁が残されています。
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石垣の隅部分。
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石垣には切れ目があり、そこから弾薬庫のある山に入れたようですが、今では荒れ果て近寄れない。
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石が柱状に加工され、側面に穴の開けられた石製のもの。資料では立ち入り禁止のための鉄柵の石柱とあります。
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別の石垣の擁壁の切れ目を覗くと奥に建物が見えました。
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当時の物と思われる石垣上には古い廃屋がありました。資料には道路沿いのW氏邸の主屋は、当時の軍の営舎だったとありますが、それがこの廃屋の可能性がありますが、何せ雑草や雑木が生い茂り、近づいて確認することが出来ませんでした。また、先ほど紹介した正門跡の奥に立つ民家も当時の軍の建物の可能性を疑いましたが、個人宅なので近寄るのは遠慮しました。

弾薬庫のあった山中には、軍の境界石柱や門柱等の遺構が残されていると資料にはあり、恐らく弾薬庫の基礎等や防爆壁の土塁もまだ残されている可能性がありますが、草木が生い茂る状態でこの時は探索不可でした。また機会を見て追加調査しに行きたいと思います。



besan2005 at 09:45|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2018年06月23日

亀岡市・大井神社境内の昭和大礼式典建物

亀岡市大井町にある大井神社には隣の大井小学校から移築された忠魂碑があり、それを目的に見に行きました。
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大井神社の鳥居をくぐった脇にある忠魂碑。
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揮毫は陸軍元帥の上原勇作。陸軍大臣・教育総監・参謀総長を歴任した偉い方。
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台座には何か文字が刻まれていたようですが、削られています。忠魂碑は大正15年に日清・日露戦争の戦没者の供養のために大井小学校のグラウンドに建てられましたが、平成25年に現在の大井神社境内に移築されました。
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その大井神社の境内内に一つの記念碑があります。記念碑には「昭和大礼用材御下賜 昭和四年九月」と刻まれています。
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裏面には「昭和大礼紀念 絵馬舎建築費」と刻まれています。
つまりは昭和大礼記念の式典で建てられた建物の用材の下賜を受けて、その用材を用いて絵馬舎を建築したということのようです。
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大井神社絵馬舎。当時のものとすれば、この建物の部材は昭和大礼の際の建物だったものとなります。
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私が所有する京都府における昭和大礼記念式典を詳細に記録した「昭和大礼京都府記録」上巻に下賜建物の下賜先が記録されたページがあり、そこに春興殿の用材を休憩所兼絵馬舎として大井神社に下賜した記述があります。住宅地の一角に昭和史を物語る貴重な建物が現存しているわけで、この絵馬舎に関して何らかの説明板があっても良いのではと感じました。


besan2005 at 10:23|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | その他近代化遺産

2018年06月16日

街中で見かけた戦時中の記念碑(随時更新)

近代建築等の探索中に見かけた戦時中の記念碑を取り上げていきます。主に紀元二千六百年記念碑や国威宣揚的なスローガンが刻まれた戦時色の強い記念碑を主に取り上げるため、区画整理とか竣工記念等の記念碑は除外します。戦時色・軍国主義的な記念碑は戦後にGHQの指導により破壊されたり、むしろ日本人側が官民問わず進んで撤去や破壊を行いましたので、こうして現在も残されているものは戦時中の様子を伝える貴重な存在となります。
※まだ数は少ないですが、随時更新していきます。
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皇紀二千六百年紀念碑。京都市伏見区善導寺町。「昭和十六年吉春」

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紀元二千六百年記念碑 京都市北区船岡山建勲神社内。紫野青年団による建立。

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皇紀二千六百年記念碑(建勲神社碑)。京都市北区建勲神社参道。正親学区による建立。

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「貯蓄報国」シンガポール陥落記念碑。京都市北区紫竹牛若町。「シンガポール陥落記念」部分は削られている。

小松原公園の記念塔1













小松原公園の記念塔の銘板













紀元二千六百年記念建設「心身練成」。京都市北区小松原公園内。
燈籠型の街灯?の竿部に大理石の銘板をはめる。

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紀元二千六百年記念林碑。京都府福知山市猪崎城跡内。

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皇紀二千六百年記念碑。大阪府東大阪市神劔神社前。

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日支事変記念碑。兵庫県豊岡市出石町。

南丹市園部町小麦山八紘一宇碑 紀元二千六百年記念1













南丹市園部町小麦山八紘一宇碑 紀元二千六百年記念2













紀元二千六百年記念「八紘一宇」碑。船井郡教育会。
京都府南丹市園部町小麦山山頂。

橿原神宮 紀元二千六百年記念 大阪市1













橿原神宮 紀元二千六百年記念 大阪市2













橿原神宮社名碑。紀元二千六百年記念・大阪市。
奈良県橿原市橿原神宮。

橿原神宮燈籠 紀元二千六百年記念 市長会1













橿原神宮燈籠 紀元二千六百年記念 市長会2













橿原神宮燈籠。紀元二千六百年記念・全国市長会。

橿原神宮燈籠 紀元二千六百年記念 全国産業組合員一同1













橿原神宮燈籠 紀元二千六百年記念 全国産業組合員一同2










橿原神宮燈籠。紀元二千六百年記念・全国産業組合員一同。
※紀元二千六百年記念行事において聖地ともいえる橿原神宮の境内には紀元二千六百年記念碑が大量にあると思い調べて回ったことがありますが、確認した感じでは記事にあげているごく少数しかありませんでした。無制限に建てられるのを憂慮して最初から断っていたのか、かつては多く建てられていたのを戦後に撤去したのか理由は分かりません。







besan2005 at 06:54|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 戦時中の記念碑 | 軍事ネタ

2018年04月14日

東舞鶴の近代建築・宮津市三枚橋橋梁レポ日記

4月11日に舞鶴に予定があり、そのついでに東舞鶴地区でまだ未見だった近代建築の洋館住宅を探索してきました。舞鶴はしょっちゅう行ってますが、ある時見た近代建築を取り上げた某ブログでまだ見たことが無い質の高い洋館が紹介されているのを見て、是非見に行きたいと思っていました。
場所は市役所より東の東舞鶴の市街地。

野村邸2













N邸。舞鶴市市場。大正から昭和初期と推定される立派な洋館です。
2階にはベランダの跡らしきものが見えます。
野村邸3













背面から撮影。表側はタイル張りで装飾的ですが、裏側はタイルは張られず簡素になってます。
野村邸4










玄関部分。洋館に付属する形で同じ様式で造られています。
N邸洋館は割と分かりやすい場所に建ってますが、舞鶴市発行の「舞鶴の近代化遺産」にも「京都府近代化遺産調査報告書」にも記載されておらず、具体的な建築年は不明ですが、どう見ても戦前の洋館。これだけの建物がリストに記載されていないのが不思議。

市場の洋館1










先ほどのN邸のすぐ近くにある建物。外観はだいぶ改造され最近の建物に見えますが、
市場の洋館2










軒周り部分はオリジナルの形で残され、それを見ると結構古そうに見えます。

高橋邸1・舞鶴市溝尻













T邸。舞鶴市溝尻。こちらも大正から昭和初期と思われます。
高橋邸2










横から撮影。
高橋邸3













反対側から。童話に出てきそうな洋館です。この建物もリストに記載はなし。

上島邸1・舞鶴市浜













U邸。舞鶴市浜。この洋館もリストに記載はないですが、大正〜昭和初期の建物に見えます。
上島邸













割と背の高い洋館。
これらの洋館は上記の通り近代化遺産調査報告書に掲載がされておらず、今まで知らずにいた結果となってました。何故取り上げられてないんだろう。リストには個人宅も載せられているからプライバシー云々が理由ではないと思うが。でも、どう見ても戦前物件にしか見えないしなぁ。

舞鶴市溝尻の元銀行










千歳橋の側にある古い建物。舞鶴市溝尻。この建物は20年近く前に見かけた記憶があるんですが、その頃から廃墟だった記憶があり、まさかまだ残っていたとは思いませんでした。窓に分銅のマークが付けられているので、かつては銀行だったみたいです。

三枚橋橋梁1













舞鶴を離れ、宮津市へ。向かった先は宮津市由良地区と栗田地区の間にある「三枚橋橋梁」
三枚橋橋梁2













大正13年開業の際のもので、切石積みの高い橋脚が目を引きます。
三枚橋橋梁3










鉄橋部分も恐らく当時の物。
三枚橋橋梁001













この鉄橋を見に来たのは、最近、大正末期から昭和初期に作られたこの鉄橋の絵葉書を入手したため。
100年近く前に写された絵葉書の鉄橋と変わらぬ姿で実際に見れる感動。
三枚橋橋梁の記事は、私が運営するブログ「まちかどの西洋館・古写真・古絵葉書展示室」の
古絵葉書・宮津 三枚橋橋梁
にて書いてますので、良ければ。

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今回、舞鶴に来た理由は、北吸桟橋に停泊している練習艦隊のレセプションパーティーに招待されたため。会場となる練習艦かしま。
レセプション船盛







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舞鶴スイカ







会場に置かれた料理は思った以上に豪華でした。これらは全て、かしまの給養員による手作りのもの。
かしま夜景1







かしま夜景2







電飾された「かしま」は美しいものでした。日没後は桟橋に入れないから、間近で電飾された艦を見れるのはこういう機会しか。
赤煉瓦倉庫夜景1










ライトアップされた舞鶴赤レンガ倉庫は幻想的な美しさでした。この度は招待いただきありがとうございました。



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2018年04月08日

京都市伏見区・宇治市木幡界隈の近代建築探索レポート

去年12月24日に探索した伏見区と宇治市木幡の近代建築の探索レポートです。

コースは近鉄伏見駅から南下し中書島から京阪で宇治市木幡へ向かい、さらに深草駅から本町通を東福寺まで北上しました。

まずは近鉄伏見駅から京阪中書島までのルート。
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M邸。伏見区京町北8丁目。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
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タイル張りの洋館で、隅の柱頭飾りや軒周りの装飾が凝ってますね。
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洋館部分を見上げ。
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実は20年くらい前に同じ洋館を訪ねていました。当時は洋館の右側に日本家屋と門がありましたが今は失われています。それでも家主は洋館の方は愛着があったのでしょう。残していただけたことに感謝です。

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ローズ美容院。伏見区両替町13丁目。京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、戦前の可能性はあります。レトロな美容院。

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Y邸。伏見区銀座町2丁目。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。

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O邸。伏見区鍋島町。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
ハーフティンバーのドイツ風洋館です。門や庭木で全体が見えませんが、こちらに洋館の全体を見ることができます。一度実際に見てみたいですけどね。
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洋館の左は駐車場になってて、スパッと切られた感じになってます。不自然すぎる形なので、後にこんな形で切り詰められたのかもしれません。

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さらに南下して酒処へ。月桂冠大倉記念館の界隈は良い雰囲気の街並みです。

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蓬莱橋。伏見区南浜町。昭和5年。
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RCアーチ橋です。
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蓬莱橋の側に昭和5年に建てられた「御大典記念埋立工事竣工記念」の記念碑があります。
蓬莱橋を渡り南下して中書島へ。
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新地湯。伏見区南新地。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
中書島駅近くにある銭湯。名前の「新地」は遊郭街のことで、戦前まではこの新地湯のある中書島一帯は遊郭街でした。
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その遊郭時代の建物が1件だけ残されています。
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花柳という建物で、今は居酒屋として使用されています。
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2階建ての和風建築と松をかたどった窓、透かし彫りの欄間が遊郭時代の姿を伝えます。
中書島から京阪宇治線に乗り、宇治市木幡へ。以前から気になる洋館があったので改めて見に行くことに。
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I邸。宇治市木幡。大正時代後期。京都府近代化遺産調査報告書掲載。
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京アニショップの斜め向かいにある大きなお屋敷の裏手にある洋館で、外壁はさほどでもないけど軒周りの装飾や柱頭飾りが凝ってて以前から気になってました。
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表側から撮影。ん???2階の窓に何か・・・?
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ギャァアアアアア!!Σ(゚д゚lll) 誰かがこっち見てる!!
・・・良く見たらマネキンの頭でした。本気でビビったぞこの時は。
ともあれ、木幡の洋館を確認したので、そのまま京阪に乗り深草へ。

16師団







聖母女学院本館(旧陸軍第十六師団司令部)。明治41年。
国登録文化財になっている有名な建物。厳めしい煉瓦の司令部庁舎は素敵ですが、門の前に復元された歩哨舎にまさに立哨警備員が立ってて、近づくとめちゃ睨まれる…
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20年前に撮影した十六師団司令部。この時はまだ築山がありました。

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井上治療院。伏見区深草直違町。昭和2年。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
昔見たときは薬局で外壁も白かったなぁ。個人的には今の外壁の色の方が好きですね。
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JR稲荷駅ランプ小屋。伏見区深草稲荷御前町。明治13年。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
京都市内では最古級の煉瓦建築。準鉄道記念物に指定されています。

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食の企画室(M邸)。伏見区深草稲荷榎木橋町。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
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会社の元事務所にも見えますが、個人宅として建てられたものです。
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玄関を見上げ。
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郵便ポスト。現在もM邸として使用されているのと同時に、企画会社「食の企画室」の事務所としても使用されているようです。

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長谷川工務店倉庫。東山区本町。大正初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
伏見区を過ぎて東山区に入りましたが一緒に報告。レトロな門構えの向こうに古そうな建物が見えたので、回り込んで敷地外から撮影。
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窓の無い建物で報告書には倉庫となってますが、軒周りに凝った装飾があります。

大黒ラーメン







深草から伏見街道を北上し東福寺駅で終了。丁度昼だったので駅前の大黒ラーメンでお昼にしました。
以上でレポートは終わりますが、伏見区の探索はまだまだ足りないので、また別のエリアを探索したいと思います。


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2018年03月10日

亀岡・がんこ楽々荘

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亀岡市にある「がんこ楽々荘」へ食事をしに行ってきました。
楽々荘は京都鉄道(現・嵯峨野線)創始者であり京都電燈や京都銀行の前身である亀岡銀行の創始者、そして衆議院議員も務めた名士・田中源太郎の邸宅として明治31年に建てられたもので、京都鉄道の工事の際に余剰となった煉瓦を用いた煉瓦造りの洋館と和館、そして七代目小川治兵衛の作となる庭園のある御屋敷であり、国登録有形文化財になっています。
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楽々荘は戦後すぐの昭和23年から保津川観光ホテル楽々荘として長らく営業してきましたが、今年の3月7日よりがんこブースが取得し、「がんこ楽々荘」としてオープンしました。
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がんこ楽々荘のオープンに際して改修されましたが、登録有形文化財になっている歴史的建造物はオリジナルのまま生かされる配慮がされています。
がんこは戦前の文化財のお屋敷を積極的に生かし利用しており、和歌山市の六三園(旧松井家別邸)・岸和田市五風荘(寺田財閥当主家別邸)・大阪市平野郷屋敷(旧辻元家住宅)・立川市立川屋敷・京都市高瀬川二条苑(旧山縣有朋別邸・第二無鄰菴)など古いお屋敷の保護をしつつ積極的に生かしている姿勢は素晴らしく応援したくなります。
※がんこのお屋敷店舗
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まずは洋館の内部を拝見させてもらいました。
お客さんがいると見学は厳しいですが、この時はまだ予約のお客さんが来られる前で運良く見せてもらえることに。
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1階の部屋。
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天井に明治の面影が。
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大理石製の暖炉。
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この棚は当時の物だったはず。
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階段部分。写真が斜めになってしまった…
がんこ10







階段の手すり。
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2階から階段を見下ろす。
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2階の部屋。昔見たときと壁紙が変わったような…
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2階の別室。
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2階の暖炉は1階よりも装飾に富んでました
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2階のサンルーム。恐らく当初はベランダだったのを改造したのでしょう。
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2階窓ガラスは当時の物。そのことを案内の女性店員さんに伝えると気を付けなきゃ・・・とつぶやいてました。
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1階階段下の小部屋。ここは初めて入りました。
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天井は小屋組みと煉瓦がむき出しでした。今は待合に使っているようですが、当時はただの物置だったんでしょう。
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一旦外に出て洋館のテラスへ。
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洋館は奥にある和館と接続しています。
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洋館テラスのモザイク。これだけ見ても贅を尽くした建物であることが分かります。
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庭園は七代目小川治兵衛の作庭。七代植治は山縣有朋別邸の岡崎の無鄰菴・同じくがんこが所有する高瀬川源流庭園・第二無鄰菴・平安神宮の神苑・野村碧雲荘・対龍山荘など近代日本の庭園を数多く手掛けた名庭師です。
七代植治の庭園は伝統的な池泉回遊式を主体としながら洋館のあったお屋敷にも調和するよう芝張りをしたことが特徴的で、無鄰菴と同じくこの楽々荘も芝を張っています。
楽々荘ランチ





お料理はチェーン店ということもあり比較的リーズナブル。1000円ちょい出せば食えます。以前の楽々荘より気軽に入れます。
楽々荘コーヒー





七代植治の庭を眺めながら食後のコーヒーを頂く。なんと贅沢。
この日のお客の入りはそこそこでしたが、洋館と和館の方は予約がされていて、聞くと結構予約が詰まっていて人気だとか。恐らく5000円くらい出せば洋館の中で懐石料理を食えそうだし亀岡まで出向くという必要はありますが、オフ会などでちょっとし贅沢を堪能できるかも。
さらに夜はライトアップしてますので雰囲気もありますし。
次は夜に立ち寄って、楽々荘の夜景を楽しみたいと思います。


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2018年03月04日

東山区界隈の近代建築探索レポート

今回は京都市東山区界隈の近代建築のレポート記事です。
ルートは鳥羽街道から四条まで。
岡田邸1 本町15丁目 昭和初期










まずは鳥羽街道の東福寺近くの近代建築から。
O邸。東山区本町15丁目。昭和初期。
岡田邸2










玄関は大通り側ではなく脇の小道にあります。
岡田邸3










門も当時の物っぽいですね。

平井邸1 本町15丁目










H邸。東山区本町15丁目。
京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、建物や門の造りから戦前かと。
平井邸2










平井邸3










近代数寄屋建築といった感じでしょうか。

竹〇荘 本町15丁目










先ほどのH邸の隣にある洋館付き住宅。こちらも京都市近代化遺産調査報告書には掲載されていませんが、戦前の住宅ではないでしょうか。

本町通りに入り北上。
九条跨線橋1 昭和12年










九条跨線橋。昭和8年。九条通りから東大路通へと至る鴨川とJR線を跨ぐ橋です。
かなり大規模な橋で、戦前のものでこれだけ大規模なのは珍しいかも。
九条跨線橋2










橋の上に至る階段。中々いい味出してます。かつては橋の上を市電が走っており、もしかしたら市電の利用者がこの階段を上り下りしていたのかもしれません。
橋の上には市電の架線柱が今でも残されています。

商店1 今熊野













東大路通りにある洋風の看板建築のお店。
アーケードが邪魔ですが、軒周りの装飾等確認できます。

URAGNO1 本瓦町 昭和初期










URAGRO。東山区本瓦町。昭和初期。
URAGNO3










URAGNO2













京都市近代化遺産調査報告書では無表札となっており、10年ほど前は空きビルだったようですが、現在はアパレル関係の会社が利用しています。
URAGNO4










玄関の窓越しに中を撮影。内部もオリジナルの姿を良く残されており、良い所有者に巡り合えたようです。

旧高山製陶所2










旧高山製陶所。東山区上梅屋町。明治39年。数少ない明治期の近代建築。
旧高山製陶所1 上梅屋町 明治39年













さすが明治期の建物だけあり、他の昭和期の建物と違い意匠的です。
1階のアーチ窓の装飾など凝ってます。
旧高山製陶所3










この煉瓦の装飾的な積み方が目を引きました。

旧熊倉工務店本社1 下新シ町 昭和初期













旧熊倉工務店本社屋。東山区下新シ町。昭和初期。
戦前の京都にて多くの住宅建築を手掛けた会社の本社屋だった建物です。
町屋建築の正面を洋風のデザインに仕上げたどちらかというと看板建築の建物。
熊倉工務店設計の戦前住宅は北山の住宅街を中心に多く作られ現在も多数現存しており、中には国登録有形文化財になっている建物もあります。
旧熊倉工務店2













京都の近代建築を語る上で重要な存在の一つの熊倉工務店。その記念碑的な旧本社屋ですが、宿泊施設になるという旨の看板がありました。しかしこの旧本社屋は国登録有形文化財に申請中らしく、とりあえず建物は維持されるようです。

錦華殿










続いて京都女子大学方面へ。錦華殿。大谷光瑞夫妻の新居として明治32年に建てられた洋館を平成12年に復元した建物です。忠実に復元されており、新しいですが良い建物。オリジナルが残されていたら間違いなく文化財指定されていたことでしょう。

三宅邸1 今熊野北日吉町 昭和初期










M邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。錦華殿から奥に入った所にある洋館。
三宅邸2










何となくあめりか屋っぽいデザインの住宅。
三宅邸4










玄関にはアールデコ調のステンドグラスがありました。

平尾邸1 今熊野北日吉町










H邸。東山区今熊野北日吉町。京都市近代化遺産調査報告書には該当の所有者の名前は載ってませんが、恐らく持ち主が変わったのでしょう。大正から昭和初期と思われる洋館付きの住宅です。
平尾邸2













洋館の窓には装飾がありました。ステンドグラスではなさそうですが。

林・岡宮邸1 今熊野北日吉町










H・O邸。東山区今熊野北日吉町。先ほどのM邸の向かいの洋館。こちらも該当の所有者名がリストには無かったですが、持ち主が変わったと思います。2世帯の方が住まわれているようです。
林・岡宮邸2










結構モダンな建物です。

大林邸 今熊野北日吉町 昭和初期










O邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。
中々素敵な洋館ですが、門から奥の方に位置しているため近くに行けないのが残念。

京都女子大学生活デザイン研究所2










京都女子大学生活デザイン研究所。東山区今熊野北日吉町。
京都女子大学生活デザイン研究所1 今熊野北日吉町










現在は京都女子大学の施設ですが、元は住宅だったのでしょう。
京都女子大学生活デザイン研究所3










門は昔の雰囲気を残しています。
京都女子大学生活デザイン研究所4













窓には装飾がありました。オリジナルかは分かりませんが。
建物は戦前のもののような気がします。

萩山邸1 上馬町 大正から昭和初期










H邸。東山区上馬町。大正から昭和初期。大学の学生寮の向かいにある洋館。1階は和風のデザインになってます。庭木のせいで良く見えない…

京都女子大学界隈を離れ四条方面へ。
吉田邸2










Y邸。東山区池殿町。大正から昭和初期。
吉田邸1 池殿町 大正から昭和初期













元商店だったのでしょうか。アーチ窓と軒周りの装飾が素敵です。

新道小学校1 小松町 昭和12年










旧新道小学校。東山区小松町。昭和12年。
新道小学校2










京都市内のいわゆる番組小学校は次々と廃校になって行ってますね…
この旧新道小学校は現在はコミュニティーセンターとして再利用されているようです。

手越医院1 小松町 大正から昭和初期










手越医院。東山区小松町。大正から昭和初期。ドイツスタイルの洒落た洋館医院。
手越医院2










戦前の個人医院ってオシャレな洋館が多いですよね。

西村邸1 博多町 大正から昭和初期













N邸。東山区博多町。大正から昭和初期。背後のタイル張りの建物はどうやら倉庫だったようですが結構大きな建物です。元々は何のお店だったんだろう。

旧ぎおん梅村1 博多町 大正から昭和初期













旧ぎおん梅村。東山区博多町。大正から昭和初期。
旧ぎおん梅村3













洋館部分はタイル張りとテラコッタの装飾が施され、3階バルコニーの手すりも装飾的で凝ってます。
元は旅館だったようで、和館部分は確かにその雰囲気を伺わせる造りです。
旧ぎおん梅村2










元は旅館だったものを元力士の方が買い取りちゃんこ料理を出す料理旅館として経営していたようです。京都市近代化遺産調査報告書には「ぎおん梅村」として掲載されており、昔の京都の旅館を紹介した本にぎおん梅村の経緯が書かれていました。10年前までは営業していたようですがいつの頃から廃業され、現在は売り物件になってます。
またレストランや宿泊施設などに再利用されればよいのですが。

高松邸2










T邸。東山区博多町。大正から昭和初期。
高松邸1 博多町 大正から昭和初期










和館よりも大きめの洋館が付属しています。この辺りから人も車も増えてきました…

弥栄会館1










弥栄会館。昭和12年。国登録有形文化財。
弥栄会館2










有名な建物ですね。とにかく大きい。姫路城の意匠を取り入れたという建物は日本趣味建築といったところでしょうか。帝冠様式とも言えなくもないけどあまりそういう形では紹介されていませんね。
弥栄会館門







門も当時の物。弥栄会館が完成したころは自動車が普及し始めた頃で自動車が通れるくらいの幅と高さがあります。なので現在からみても大きな門です。

東山ホテル1 祇園町南側 昭和初期










旅館東山ホテル。東山区祇園町南側。昭和初期。
背後は洋館の造りになってます。
東山ホテル2










場所は八坂神社のすぐ近くという好立地。しかも素泊まりですが1泊5500円からという安さ。
観光地からも近く、料金もお手頃でしかも近代建築のホテル。ただ、予約は多いでしょうね。

祇園













以上で東山区界隈の近代建築探索レポートを終わります。
実は見逃した建物があることが後から分かりまた機会を見て訪問しようかと思います。
それにしても祇園辺りはさすがに観光客でいっぱいだったなぁ。
次回はいよいよ熊倉工務店設計の住宅が多く残る北山か北大路あたりの探索結果をレポート予定にしております。



besan2005 at 20:26|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

衣笠界隈の近代建築探訪

今回は京都市北区の衣笠界隈の近代建築を探索した時のレポートです。
ルートは花園駅から立命館大学方面を経由し金閣寺近辺まで。
櫻谷文庫1










まずは櫻谷文庫洋館。大正2年に建てられたもので、元々は日本画家・木島桜谷の住宅でした。
櫻谷文庫2










側面から。構造は木骨煉瓦造りで外壁はモルタル塗りです。
櫻谷文庫3










洋館の玄関部分は凝った装飾が。
櫻谷文庫は和館・洋館・画室が国登録有形文化財になっています。

小松原公園の記念塔1













櫻谷文庫から北上した所にある記念塔。
小松原公園の記念塔の銘板













「紀元二千六百年記念 心身錬成」の文字が刻まれた大理石の銘板があります。
昭和15年の紀元二千六百年の記念碑等は全国で建てられ現存数も割とあるので
調べるのも面白いかもしれません。

西川邸1 昭和8年熊倉工務店










北区衣笠総門町にある洋館。N邸。昭和8年に増岡建築事務所設計・熊倉工務店の施工により建てられたもので、国登録有形文化財の住宅です。
西川邸2 昭和8年熊倉工務店










丸窓を多用した住宅で、京都の戦前洋館住宅で良く見られるスタイル。ベランダの燈籠のような照明が目を引きます。
西川邸のステンドグラス1 昭和8年熊倉工務店










正面2階の丸窓とアーチ窓にはステンドグラスがあります。
西川邸のステンドグラス2 昭和8年熊倉工務店













丸窓には三日月とフクロウをデザインした可愛いステンドグラスが。
こういうオシャレさいいですよね。

長嶋邸2 昭和12年










N邸。北区小山花ノ木町。昭和12年。大きなお屋敷です。
長嶋邸洋館 昭和12年










敷地内には洋館があります。
長嶋邸洋館2 昭和12年













モルタル塗りで荒く仕上げた感じの外壁。塀で見えませんが玄関部分は装飾が施されてました。

北山文庫1










北山文庫。北区衣笠馬場町。金閣寺の南隣にある元は加藤伍兵衛という方のお屋敷で、あめりか屋の設計・施工。広い敷地でこの正門から洋館までの長さは結構あります。
北山文庫3










北山文庫2










庭木越しに何とか見えるスパニッシュの洋館。大きな洋館でステンドグラスも確認できます。
kinkakujiyoukan1-3










kinkakujiyoukan1-2










20年くらい前に撮影した北山文庫の洋館。この頃は建物が見える場所まで行けました・・・。

小西邸1 昭和初期あめりか屋










金閣寺を過ぎ東方面へ。K邸。北区衣笠東尊上院町。昭和初期。あめりか屋設計の住宅です。
小西邸2 昭和初期あめりか屋










丸窓にはモザイク模様のステンドグラスがあります。

糸井邸1 昭和初期あめりか屋 










I邸。北区衣笠天神森町。昭和初期。わら天神の北隣にある洋館で、あめりか屋の設計・施工です。
糸井邸2 昭和初期あめりか屋










煉瓦塀が敷地を囲んでいます。
糸井邸の丸窓 昭和初期あめりか屋










アールデコ調の丸窓。
糸井邸の表札 昭和初期あめりか屋










名前が出てしまいますが、当時の物と思われる表札が良いデザインだったので。
この界隈は、あめりか屋設計の住宅に何件も出会いました。

島津一郎邸1 昭和17年か










先ほどのK邸の近くにあるかなりの大きなお屋敷。
島津一郎邸2










広い敷地には和風の建物が何件か建っています。
島津一郎邸3










表札を見たら「島津一郎」の文字が。
もしかしたらというか、間違いなく島津製作所の創業者のお屋敷ですよねぇ。

若狭邸1 昭和初期










W邸。北区衣笠北天神森町。昭和初期。
若狭邸2 昭和初期










典型的な洋館付き住宅です。

北本邸1 大正から昭和初期










K邸。北区衣笠高橋町。大正から昭和初期。
北本邸2










洋館付き住宅ですが、洋館部分が大きめです。
北本邸3










洋館の3階部分は戦後の増築っぽく見えますね。

妙心寺通の洋館2













南へ下った妙心寺道にある洋館付き住宅。しかしおまけ程度についているような洋館ではなく、立派なものです。
妙心寺通りの洋館1










タイル張りの外壁にベランダ付きの2階建ての洋館はかつては応接用だったのでしょうか。

衣笠界隈の近代建築探索はこれで終了。
次回も京都市内の近代建築探索レポートの記事を書く予定です。












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2018年02月12日

円町・花園・仁和寺・太秦界隈の近代建築

前回の花園界隈の近代建築に続いて、円町・花園・仁和寺・太秦界隈で探索した近代建築を紹介していきます。※年代は京都市近代化遺産調査報告書を参照しています。
弁天湯1 西ノ京藤ノ木町










まずは円町界隈から。弁天湯。西ノ京藤ノ木町。大正から昭和初期。
奥に見える洋館が弁天湯。手前の建物が邪魔をしていますが、手前の建物も近代建築。
弁天湯2













弁天湯3













中々洒落たお風呂屋さんです。ちなみに今でも現役。

前田邸1 太秦安井東裏町










M邸。太秦安井東裏町。
前田邸2










京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、戦前だとは思います。
主屋に付属する小さな洋館が可愛らしいです。

谷口邸1 太秦安井北御所町 昭和初期










T邸。太秦安井北御所町。昭和初期。門の奥に大き目の洋館が見えます。
谷口邸2










洋館部分をズーム。庭木で塞がれ良く見えない…
谷口邸3










別角度から。このお宅に来た時、家からクラシックの音楽が・・・
古い洋館にクラシック。優雅な朝だなぁ・・・

太秦安井東裏町の洋館1










太秦安井東裏町にある洋館。恐らく元商店でしょう。
京都市近代化遺産調査報告書には未掲載。
太秦安井東裏町の洋館2










今は商店としては使われていないようですが、住まわれてはいるのかも。

続いて北上して花園方面へ。
伊藤邸1 花園伊町










I邸。花園伊町。大正から昭和初期。
洋館付き住宅ですが、洋館の方もほぼ同じ大きさ。
伊藤邸2










別角度から。
伊藤邸3










洋館部分の窓には薔薇と思われるステンドグラスがあります。
近代建築でステンドグラスの窓を見つけると何となく得をしたような気分で嬉しいw

ヘヤーサロンイノウエ2 










ヘアーサロンイノウエ。花園天授ヶ岡町。大正から昭和初期。
看板建築っぽい散髪屋さん。
ヘヤーサロンイノウエ1 花園天授ケ岡町 













1階部分の装飾が凝ってます。窓には今では懐かしいガラスブロックを多用してますが、当時は珍しかったことでしょう。店主の自慢だったかも。
花園土堂町の洋館2










S邸。花園土堂町。京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、戦前かと。
花園土堂町の洋館1










かなり老朽化しており廃屋かなと思って玄関へ回ると玄関に大きな看板のような表札が。
もしかしたらよく廃屋と間違われるので大きな表札を掲げたのかも。

楠邸1 花園土堂町










K邸。花園土堂町。大正から昭和初期。ベランダ付きの小さな洋館の付く住宅。
楠邸 花園土堂町










小さいですが中々凝ってます。

花園大薮町の洋館1










花園大薮町の洋館付き住宅群。
花園大薮町の洋館2










この一帯にはこういった同じ感じの住宅が何件かあります。
いわゆる規格化された建売住宅だったのでしょうか。
奥野邸2










O邸。花園円成寺町。大正から昭和初期。
奥野邸3










主屋の前に洋館が付くよくあるスタイルですが、主屋自体も洋風な感じでいわゆる文化住宅でしょうか。主屋の脇の棚も当時のものかも。
伊吹邸1 花園天授ケ岡町 熊倉工務店 昭和初期










I邸。花園天授ヶ岡町。昭和初期。熊倉工務店設計の洋館で、今回最大規模のもの。
スパニッシュの洋館は大きく、門も立派なもの。
伊吹邸2










別角度から。
伊吹邸3










別角度から。玄関周りのデザインも素晴らしいものでしたが、奥まっているのでうまく撮れず。
伊吹邸4










同じ敷地内にはもう1棟、同じデザインの洋館が。同時期だと思います。
これほどの規模とレベルの洋館、文化財クラスのものと思いますが…。
熊倉工務店は戦前の京都で多くの住宅建築を手掛けた会社で、今後、熊倉工務店設計の戦前住宅が多く登場します。ちなみにこのI邸の近くに同じ熊倉工務店設計の京都帝国大学教授・山内得立の邸宅があったようですが、現存はしていないようです。
龍安寺西ノ川町の洋館1










I邸の北にある洋館付き住宅。龍安寺西ノ川町。

花園を後にし仁和寺方面へ。
宇多野柴橋町の洋館2










宇多野柴橋町の洋館。表札が見当たらなかったのでお名前が分かりませんでしたが、京都市近代化遺産調査報告書に掲載されている物件のうちの1つだと思います。
宇多野柴橋町の洋館1










中々素敵な洋館です。去る際に宅急便が来て配達員が入っていきましたので、現役ですね。
仁和寺界隈はこの1件しか見当たらず。オムロン記念館の方へは向かわずに太秦へ。

清水邸2










S邸。太秦堀ヶ内町。昭和初期。最初見たときは戦後物件と思い一応撮影したものですが、帰宅後に京都市近代化遺産調査報告書を確認したら掲載されていました。
清水邸1 太秦堀ヶ内町










玄関周りは確かに戦前っぽいと言われればそうかも。

山田邸1 太秦石垣町










Y邸。太秦石垣町。大正から昭和初期。
山田邸2










1階と中2階部分が町屋風の日本建築でその上に洋風の建物が乗る珍しい形。
増築したのでしょうか。

石田邸 太秦組石町










I邸。太秦組石町。大正から昭和初期。和館部分より洋館部分大きい住宅。
中々良い感じの建物なのでもう少し撮影したかったけど、住人の方が洗車をしていたので1枚だけ撮って退散。

藤島邸1 太秦組石町










F邸。太秦組石町。京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、ストビューで見つけて気になった建物。
藤島邸2










側面の様子を見て戦前じゃないかなぁと思わせられました。
徳力邸1










ギャラリー工房チェリ(徳力邸)。太秦組石町。昭和12年。国登録有形文化財になっている洋館。
徳力邸2










ハーフティンバーのイギリス・チューダー様式の洋館はさすがに見ごたえあります。
有名物件だけに多くのサイトや書籍で紹介されてますね。
徳力邸4










この洋館は施主の徳力さん自ら設計した建物。イギリスの古い客船の部材を再利用し建てられたため、完成当時でも古く見えたとか。内部も素晴らしく特に2階正面にあるステンドグラスの窓は必見とか。
申し込めば見学できるようですね。
ちなみにこの洋館は小学校の向かいにあり、子供達から「お化け屋敷」と呼ばれていたとか・・・

以上で円町・花園・仁和寺・太秦界隈の近代建築探索の報告は終わり。
次は衣笠から金閣寺・北野界隈の近代建築を紹介予定。

仁和寺五重塔の雪













ちなみにこの日は雪が降り積もる日で、探索中も雪が降ってきたりと寒い日でした。
仁和寺の五重塔もこの通り・・・


besan2005 at 22:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 住宅建築

京都市花園界隈の近代建築探訪

京都市内には現在も数多くの戦前からの洋館住宅が現存しています。
特に北山から北大路の間の一帯は大正から昭和初期にかけて住宅地として開発されたため、戦前の洋館住宅が密集して残されています。
今年に入り京都市西部の花園・太秦から北西部の衣笠・御室そして北部の北山から鞍馬口・出町柳を探索し、100件以上の戦前の洋館住宅を確認しました。今回それらの成果を順を追って報告します。
※年代等は京都市近代化遺産調査報告書を参照しています。
まずは、円町駅から花園駅までの花園界隈の近代建築を紹介。

ぱんぷきんハウス西の洋館1










ぱんぷきんハウス西の洋館2










ぱんぷきんはうす西の洋館付き住宅。右京区花園木辻南町。
京都市近代化遺産調査報告書には掲載されてませんが、戦前の住宅に違いないかと。
主屋の和館に洋館が付属するよく見かけるスタイルです。門も当時の物のようです。
ぱんぷきんハウス西の洋館3










通風孔が中々良いデザインでした。

瀧野邸3










瀧野邸2










瀧野邸1 大正から昭和初期










瀧野邸6










T邸。右京区花園巽南町。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
一見新しい建物に見えましたが、よく観察すると軒周りに装飾があり、基礎は煉瓦という古さを感じさせる建物。帰宅して調査報告書を確認したらやはり戦前の建物でした。
主屋に付属した洋館ですが、洋館自体が戸建てかと思うくらいの大きさです。
瀧野邸4










瀧野邸5










軒周りには地味ですがモルタルで作られた装飾があり、アクセントとなっています。

宝光井邸2










宝光井邸3










H邸。右京区花園木辻南町。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
生垣と庭木の奥に見える洋館。見づらいですが中々の規模でした。裏へ回ると屋根の部分が少しだけ確認できました。

藤井邸2 










藤井邸1 大正から昭和初期













F邸。右京区西ノ京中保町。大正から昭和初期。京都市近代化遺産調査報告書掲載。
細い路地の奥にあった下見板張りの洋館。ほぼ当時のままで改装されていないせいか古く見えます。
1階のアーチ窓が特徴的です。
藤井邸3










玄関にはレトロな照明付きの表札がありました。
花園界隈の近代建築探索はここまで。次は太秦・円町・御室界隈の近代建築を紹介します。



besan2005 at 06:32|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 住宅建築

2018年02月02日

城跡探索記録・攻城レポ日記のリンク集

元々城好きが高じて2013年くらいから中世山城跡を中心に探訪を続けてます。

攻城レポ日記という名の訪城レポートを書きだしたのは2014年頃から。以来訪城した城跡はこまめに日記を書いてます。

ただ、書いている日記はmixiの日記。「みんなの日記」というmixiに登録しなくても誰でも閲覧できる公開にしてますが、ライブドアのこちらでも公開したいと思うようになりました。
ただ、これまで書いた攻城レポ日記は割と量が溜まっており、こちらへの転載も結構手間なのでこのたびmixiにて書いたこれまでの攻城レポ日記のリンクを張ることにしました。

今後、mixi内で書いたレポ日記はこちらにもリンクを張ることにしますのでよろしくお願いいします。

※mixiの日記ではありますが閲覧だけなら登録していなくても誰でも見ることができます。ただし、コメントは登録していないとつけることはできませんので、何か気になることがありましたらこちらのコメント欄にお願いします。
色の違う城名をクリックしたら、レポ日記が開きます。リンクの無いものは訪城はしたが日記は書いてないものです。
但馬八木城










※2014年
〇6月14日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇9月14日 兵庫県丹波市 黒井城跡
〇11月23日 兵庫県養父市 但馬八木城跡
有子山城雲海










※2015年
〇2月20日 京都府京都市右京区 周山城跡
〇3月26日 京都府南丹市 小山城跡
〇4月21日 滋賀県愛荘町 金剛輪寺
〇4月25日 兵庫県篠山市 丹波八上城跡
〇5月6日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡
〇12月30日 京都府綾部市 位田城跡・京都府福知山市 石原城跡
〇12月31日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡(再訪)

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※2016年
〇1月2日 京都府福知山市三和町 経ヶ端城跡
〇1月9日 奈良県大和郡山市 大和郡山城
〇1月10日 京都府亀岡市宮前町 神尾山城跡 
〇2月13日 京都府南丹市宍人 宍人城跡 
〇2月19日 京都府亀岡市 丹波亀山城惣構遺構
〇2月25日・26日 奈良県宇陀松山市 宇陀松山城跡
〇2月27日 京都府南丹市日吉町 塩貝城跡
〇3月11日 京都府亀岡市宮前町 中世金輪寺跡石垣群
〇3月11日 京都府亀岡市西別院町 笑路城跡
〇3月20日 滋賀県東近江市 観音寺城跡 
〇4月16日 京丹波町須知 須知城跡 
〇5月1日 京都府福知山市 医王寺跡・新庄城跡
〇5月2日 京都府福知山市 鬼ヶ城跡 
〇5月3日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡
〇5月21日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡再踏査
〇6月4日 京都府綾部市 上林城跡
〇京都府綾部市 山家陣屋跡・甲ヶ峯城跡
〇6月11日 京都市一乗寺・渡辺館 
〇6月18日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇6月25日 兵庫県丹波市柏原町 柏原陣屋跡
〇8月20日 京都府京丹波町 上野城跡
〇8月27日 京都府南丹市美山町 島城跡
〇9月16日 滋賀県多賀町 敏満寺城跡
〇9月24日 滋賀県彦根市 佐和山城跡・彦根城
〇10月29日 京都府南丹市美山町 旧歓楽寺跡
〇11月4日 高槻市芥川山城
〇11月5日 京都府南丹市 黒田城跡
〇11月12日 兵庫県丹波市春日町 黒井城の雲海
〇12月3日 兵庫県篠山市 籾井城跡
〇12月16日 滋賀県愛荘町 目賀田城
〇12月24日 滋賀県近江八幡市安土町 安土城跡
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※2017年

〇1月1日 京都府福知山市山崎 山崎城跡
〇1月7日 京都府南丹市園部町 埴生城跡
〇2月4日 京都府京丹波町 中畑城跡
〇2月4日 京都府南丹市日吉町 亀田城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 東胡麻城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 野化館跡
〇3月12日 京都府亀岡市 保津城跡
〇3月18日 京都府亀岡市 千軒寺跡(数掛山城跡下)
〇3月19日 京都府亀岡市 余部城(丸岡城)跡
〇3月20日 京都府亀岡市 穴太城跡
〇4月3日 京都府亀岡市 猪倉城跡
〇4月8日 京都府南丹市 丹波八木城西支城・内藤法雲曲輪
〇5月2日 京都府綾部市 高津八幡山城跡 段山城跡  将監城跡






besan2005 at 11:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 城郭 | 遺跡

2017年10月15日

京丹後市峰山町市街地の戦前鉄筋コンクリート橋

昭和2年に発生した北丹後地震は丹後半島一帯の町を壊滅させる被害を与えました。
震災後、壊滅状態だった峰山町は震災復興に向けて耐震性のある鉄筋コンクリート建築が造られていきました。(峰山町の耐震震災復興建築に関しては次回のレポ日記にて記述。)

峰山町市街地の真ん中には小西川という川が流れていますが、その川にも鉄筋コンクリート造の橋(以下RC橋)がいくつか架けられました。
現在でも昭和初期当時のRC橋がいくつか残され使用されています。それらの橋を東から順に紹介します。
1樋田橋1










2樋田橋23樋田橋3













樋田橋。昭和9年3月架設。
欄干のアーチが可愛らしい橋。
4橋名なし15橋名なし2










橋名不明。親柱の銘は失われており架橋年ともに不明。ただ、昭和10年代までであることは確か。
欄干には金属の欄間があり、何かのマークの意匠があります。
6朝日橋1










7朝日橋28朝日橋3













朝日橋。昭和10年9月架設。
全体に白いペンキが塗られているが橋名・架設年ともに判読できます。
欄干はシンプルなデザイン。
9大橋1










10大橋211大橋3 (1)













大橋。昭和3年8月架設。現存する戦前のRC橋の中で最古。
現在の府道17号線を通る橋で当時のメインストリートの橋。
そのためか橋の幅も広く親柱も立派。
12御旅橋1










13御旅橋214御旅橋3










御旅橋。昭和4年架設。
御旅市場の前に架かる橋。昭和4年にしてはモダンなデザイン。
15御旅橋4










親柱の上にはかつての街灯の基礎と思われるものが残されてました。
16千歳橋1










17千歳橋218千歳橋3













千歳橋。昭和10年9月架設。
一番西に架かる戦前のRC橋。親柱には球状の飾り等、意匠的な橋。

昭和3年から10年まで造られたこの橋はどれも一様ではなく様々なデザインに富んでいます。
震災復興として架けられてから80年余り。現在も峰山町民の通行を支える現役の橋として使用されています。




besan2005 at 11:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 古い橋

京丹後市峰山町の古い工場建築群

26旧工場事務所1










京丹後市峰山町の府道17号線沿いにある古い木造洋館。
峰山の市街地へと向かう途中で見かけ、帰りに寄ることに。
27旧工場事務所2










下見板張りの2階建ての洋館は、典型的な村役場建築に見えました。
28旧工場事務所3










窓越しから1階内部を撮影。奥の階段の親柱含め当時の姿が保たれている感じ。
29旧工場事務所4










屋根瓦は昔懐かしいセメント瓦。その正面には「福」の字が。
役場建築でこの文字は?と疑問に思ってましたが…
35旧工場正門6










上記の洋館の隣に別の入り口を発見。正門らしき奥にこれまた古い建物が。
30旧工場本館1










下見板張りの建物が。基礎は煉瓦積み。
31旧工場本館2










正面玄関もほぼ当時のままかと。
32旧工場本館3










窓枠も正面以外は当時のままっぽい。
33旧工場本館4










先ほどの建物の背後には鋸屋根のまんま工場の建物が。
屋根に日本瓦が葺かれているのは珍しい気がするけど、
当時からなのか後からなのか。
34旧工場本館5










工場棟に付属する木造建物も同じ時期に建てられたように見えます。
旧工場棟航空写真













帰宅して一連の工場群について調べたところ、現在でも吉村機業という織物会社が所有していて使用されていたことが分かりました。
吉村機業は峰山町の老舗会社吉村商店から昭和29年に独立した会社で、吉村商店は江戸時代の天保元年創業、大正9年に株式会社化した企業で、これら一連の工場群は戦前に工場として建てられたものかと思われます。訪ねたときは誰もおらず話を聞くことはできませんでしたが、最初の2階建ての洋館は事務所棟、奥の建物は本館棟ではないかと推測します。GoogleMAPの航空写真には南側に大型の建物が写されており、現在は取り壊されて跡形もありませんが、こちらも現存する施設と同時期の昭和初期頃の建物だったのではないかと思います。


besan2005 at 09:45|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 商業施設

2017年10月08日

峯山海軍航空隊遺構 探訪レポート

峯山海軍航空隊地図













京都府京丹後市の大宮町と峰山町にまたがる一帯に戦時中、峯山海軍航空隊(峰山ではない)が存在していました。元々は昭和16年辺りに造られた河辺海軍飛行場でしたが、戦争後半の昭和19年に予科練の訓練隊が移駐し峯山分遣隊が発足。以後、峯山海軍航空隊は予科練の訓練基地として日夜特訓を繰り返しました。
戦後は再び農地となり、近年は郊外の商業地区として再開発が行われていますが、それでも峯山海軍航空隊時代の貴重な遺構が残されており、当時の姿を今に伝えています。
今回、その残された峯山海軍航空隊の遺構を訪ねてきました。
訪ねた各遺構の位置は上記の地図を参照してください。
旧弾薬庫3










最初に訪ねたのは、ジュンテンドーのすぐそばにある旧弾薬庫の廃墟。
畑の側の荒れ地にぽつんと残されています。
旧弾薬庫1










建物の構造は煉瓦造。基本的に煉瓦造は昭和初期には一度廃れていますが、戦時中の軍の施設で復活していたりします。(出水海軍航空隊観測所とか舞鶴朝来第三火薬廠とか)これは物資不足によりコンクリートの供給が不足していたという理由もあったと聞いたことがあります。
あとは、後に紹介する旧油脂倉庫も煉瓦造ですが、もしかしたら湿気を防ぐ理由もあったのかもしれません。
旧弾薬庫2










この旧弾薬庫は昭和20年7月30日の空襲で米軍艦載機の機銃掃射及びロケット弾の攻撃を受け大破し今のような姿になりました。弾薬庫正面左の壁に機銃掃射の跡が残ります。
周辺は大型の商業施設が建ち、この旧弾薬庫もジュンテンドーのすぐそばにあるため、この場所が買収され開発の手が入れば取り壊される危機があります。今に伝える(※私が思う正しい意味での)戦争遺跡として開発の手が入ってもこの建物は遺構として保存してもらいたいものです。
※私が思う「戦争遺跡」は実際に空襲被害を受けた遺構(軍施設・民間施設問わず)を指し、ただ単に軍の施設だった遺構は「旧軍遺構」と呼称しています。全ての旧軍の施設・遺構を「戦争遺跡」と総称し、実際の戦闘が行われていない施設・建物でも旧日本軍に関わるものという理由で全て加害者的に扱おうとする「自虐史観的呼称」に異議を唱えるためであります。
旧燃料倉庫










旧弾薬庫から南東に向かうと民家の中に古い煉瓦造の建物。
旧油脂倉庫と言われている建物です。
この倉庫にも機銃掃射の跡があるそうなのですが、個人宅の敷地内なので、脇の農道からの見学に留めました。
旧格納庫遠景










さらに南東に向かうと巨大な建築物が。これがかつての格納庫でした。
旧格納庫










外観は練習機の出し入れをした開口部を塞ぐなど改変されてますが、木造の骨組み等は当時のまま。
70年以上前の木造の巨大建築が良く残されていたものだ。
現・所有者の会社はこの建物が貴重な旧軍時代の遺構であるとの認識をお持ちで、大切に管理されているようだが、やはり維持費の問題があるようで・・・。
旧格納庫近くの擁壁










旧格納庫の南側にあるコンクリートの擁壁。
航空隊の敷地と民間の敷地を区分けした境界とのこと。
暗渠入り口










旧格納庫の脇には川が流れ、コンクリートの擁壁で護岸されていますが、これも当時からあったもので、格納庫の手前辺りから暗渠化されています。
暗渠道













コンクリートで蓋をされ暗渠化された道は峯山海軍航空隊当時のまま。南西に向かって竹野川の合流まで500mもの長さで現存しています(国道部分は除く)。峯山海軍航空隊は戦後に農地に復旧するため滑走路等の舗装は剥がされましたが、この暗渠道はそのままの方が便利だったのでしょう、撤去されずに残されています。
暗渠道のコンクリートの上にはアスファルトが所々残されており、かつてはアスファルト舗装されていたのが分かります。
旧格納庫近くのマンホール1













そしてその暗渠の上には今でも峯山海軍航空隊時代のマンホールが残されています。
旧格納庫近くのマンホール2










マンホールには海軍の錨マークがあります。
戦後、こういった金属の物は真っ先に盗まれていっただけに、軍のマンホールが現存している例は極めて珍しいです。
峯山海軍航空隊の跡地には今でも当時のマンホールが4つ現地に残されています。
ワークマン近くのマンホール1













国道312号線を挟んだ西側、ワークマンの角を入った住宅地の中の暗渠上にあります。
暗渠は先ほどの旧格納庫前から伸びる暗渠と同じ路線。
ワークマン近くのマンホール2










当然同じデザインですが、こちらは取っ手が無くなってます。今でも開けられることがあるんだろうか。現役で使用されているマンホールは、旧格納庫近くのとこれの2つ。
新町公民館のマンホール










こちらはショッピングモール・マインの北にある新町公民館に展示されているマンホール。

厚みを見たら4cmくらいありました。
マンホール厚さ










残る1つは峯空園にありますが、それは後程。
防火水槽か










住宅街にあるマンホールから暗渠を辿って進んだ先の廃屋の裏にあった貯水槽。航空隊当時の物かは不明だが気になったので撮影。
峯空園のRC橋1










次は峯山海軍航空隊の元隊員が記念に開園した「峯空園」へ。
これまでの遺構は峰山町側にありましたが、この峯空園は大宮町側にあります。
峯空園の入り口には当時のRC橋が現存。
峯空園のRC橋2










橋自体は今でもしっかりしてますが、欄干はクラックが入ったり欠けていたりと痛みが目立ちます。
親柱には銘板がありませんでした。元々取りつける場所もなく、海軍の施設内の橋という理由で最初から橋名を付ける必要は無かったのかもしれません。
峯空園記念碑










橋を渡った先にマンホールを使用した記念碑がありました。先に紹介した暗渠には残された2つのマンホール以外に穴は無かったため、別の暗渠から持ってきたのでしょうか。
水路1













その他、暗渠横の畑の中を通るコンクリートの水路や格納庫前からジュンテンドー背後まで伸びている水路も当時の物。

※峯山海軍航空隊との関連は不明だが気になったもの。
日本通運










峯空園そばの日本通運の入り口にあるコンクリートの門柱か塀の一部らしきもの。コンクリートが古く見えて一応撮影したが、航空隊のものではないだろうなぁ。
ローラー










新町公民館の南、マイン駐車場の北側にある公園にあったコンクリートの整地ローラー(コンダラ)。
コンクリートが古いもので戦後のものや最近のは全部鉄製では?という判断からもしかしたら滑走路整地や飛行場の整備の際に使われたものでは?と思い撮影。ただしあくまで私個人の判断なので違うかも。
煉瓦煙突










峯山海軍航空隊とは無関係だが、すぐ近くに煉瓦の煙突があったので撮影。
もちろん戦前のものでしょう。

峯山海軍航空隊の跡地はショッピングモールやホームセンター、ビジネスホテルも建ち道も拡幅等郊外の商業地区として再開発が進んでいます。その中で峯山海軍航空隊時代の遺構がこれだけ残されているのは奇跡であり、同時に現代の施設と戦時中の遺構が同居するこの場所は不思議な感覚を覚えました。

再開発で常にこれらの遺構は消滅の危機にさらされていますが、峯山海軍航空隊を伝えるものとして、空襲の後を伝える「戦争遺跡」として貴重な存在だけに何とか官民挙げて保存・再整備に取り組んでもらいたいと願うばかりです。








besan2005 at 09:12|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2017年08月27日

綾部市内の近代建築探索+旧福知山医師会館探訪日記。

2017年8/26と8/27、綾部市内にある近代建築をいくつか探索してきました。
綾部市は実家の隣町で現在でも舞鶴へ行く際に通過する馴染みある街なのですが、
市内にある古い建物をそういえばしっかり見て回ってないなということに気付きまして。
あと、15年くらい前に訪問して現在どうなっているのか気になっている建物もあり、
改めて探索することにしました。
ちなみに今回はグンゼ関連の近代建築はスルーです。有名すぎるし保存も図られているから取り壊される危険も今の所なさそうだし。

まずは土曜日の8/26。
丹陽教会2










大本教本部の隣にある丹陽教会。大正13年の築だそうです。
丹陽教会1










塔屋が特徴的な教会。地方の小都市の境界としてはなかなか立派。
外壁はモルタルで覆われていました。構造はなんでしょう。
旧堀文具店










保壽堂(旧堀文具店)明治8年築。明治初期の擬洋風建築。土蔵建築の応用的な感じですが、地方小都市に明治初期の擬洋風建築が残っているのは貴重かと思います。
ここで市内中心部を離れ、福知山市との境に近い小貝地区へ。
荒賀自動車1










荒賀自動車。旧綾部市農協連絡所。大正期。
15年前、私市丸山古墳を見に行こうとして通りかかったこの小貝地区で偶然見つけて驚いた建物。
小さな田舎の集落にこんな本格的な古い西洋館があるなんて。
あれから15年。どうなっているだろうと再び訪ねましたら無事健在していてホッとしました。
荒賀自動車2













荒賀自動車の建物は老朽化はしていますが、軒周りや窓回りやドアなど外観はほぼ当時のままで、大切に使われていることが分かります。このまま末永く残ってほしいものです。
旧佐賀村役場1










そして、荒賀自動車のすぐ近くにある旧佐賀村役場。大正5年。
旧佐賀村役場2










この建物を最初に見たときも驚きました。先ほども書きましたがこんな小さな集落の中にこれほどの洋館が2つもあるなんて。
旧佐賀村役場3










窓枠はアルミサッシに変えられていますが、全体の外観の姿はほぼ完全に維持されています。
旧佐賀村役場4













玄関部分もドアも当時のまま。
旧佐賀村役場5










車寄せの梁と柱は石製で、梁の部分に「佐賀村役場」の文字が刻まれています。
元々は福知山市側の佐賀地区にあったようですが、戦後に綾部市側のこの場所に移築されたとか。
旧佐賀村役場6










内部は多少改変があるようですが、それでも状態は良く、地方の貴重な役場建築として今後も大切に保存してもらいたいですね。
旧福知山医師会館1










綾部市を離れ向かったのは福知山市の旧福知山医師会館。
この建物、以前から背後の伯耆丸にあった旧陸軍福知山衛戍病院の建物の1つではないかと推定している建物で、もしそうなら唯一残る貴重な衛戍病院時代の建物ではないかと思っているものなのですが、今年4月に福知山医師会館がこの建物から移転すると知り、この建物の動向が気になって訪ねた次第です。
旧福知山医師会館2










背後から。とりあえずまだ取り壊しなどは行われていませんでした。
旧福知山医師会館3










正面にある看板。福知山医師会館の「福知山」の文字が外されましたが、その下に「天田郡」の文字が見え、この建物が戦前から医師会館として使用されていた可能性が出てきました。
まぁ、戦前に建てられた天田郡医師会館の看板を転用した可能性もありますが。
古絵葉書・天田郡医師会館落成記念
旧福知山医師会館4










ガラス越しに内部を撮影。内部もほぼオリジナルを保っているようです。
旧福知山医師会館5










旧福知山医師会館6










旧福知山市医師会館の本館と付属屋の基礎にある通風孔。
陸軍の星章があり、これがかつて陸軍の建物だった可能性を伺わせる証拠のものです。
また、背後には陸軍の境界石があります。
12年前の訪問時のレポ。
ただし、大正12年に発行された福知山衛戍病院の写真帖には現存するこれらの建物らしいものは撮影されていません。陸軍の建物には間違いないはずですが、そういった理由で断定はできない感じです。
昭和初期には税務署となっており、もしかすると大正期に払い下げられた可能性もあります。
古書籍・福知山衛戍病院写真帖(大正13年)
どちらにしろ旧陸軍時代の建物として、とくに付属屋は煉瓦基礎に下見板張りの明治期を思わせるオリジナルの外観が保たれており貴重な存在だと思いますが、医師会館の移転により空き家となり、取り壊しの可能性が出てきた状態。中庭部分は雑草で覆われかなり荒れていましたし。もし取り壊しになってもできれば建物の調査と通風孔の保存はしてもらいたいですが…。

日曜日の8/27。
綾部市の近代建築探索は昨日で終わる予定だったのですが、綾部市に移築されたという旧舞鶴海軍航空隊の格納庫が別の建物と勘違いしてしまい、改めて見に行くことに。
旧舞鶴海軍航空隊格納庫1










綾部市市民センター。
かつて宮津市栗田にあった水上機基地である旧舞鶴海軍航空隊の格納庫を昭和33年に移築し再利用したもの。格納庫だったという経緯もあってかなり大きい建物でした。
旧舞鶴海軍航空隊格納庫1










古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)

古写真・古絵葉書ブログである拙ブログに旧海軍航空隊時代の絵葉書を記事にしてますが、絵葉書に写る格納庫と現在の移築後の建物とでは形が変わっています。話では躯体である鉄骨を払い下げられ建てられたようなので、躯体はそのままでも外観は改変されたようです。
旧舞鶴海軍航空隊格納庫3










ただ、一部のみ古い木枠の窓枠が残されていました。
旧舞鶴海軍航空隊時代の物かは分かりませんが、もしかするとと思い撮影。
この市民センターも別の場所に武道館と統合した新市民センターの建設の計画があり、
今年度から別の場所にて建築が始まるようです。
新市民センター完成後はそちらに移りますので、この建物は空き家になり取り壊しの可能性が出てきます。貴重な旧海軍時代の建物、見学は早いうちがいいかもしれません。
熊野新宮会館










綾部市市民センターの近くにあった洋館。熊野新宮会館(旧京都府養蚕同業組合連合会事務所) 
大正7年。一応使用されているようですが、こちらもだいぶ老朽化しており今後が心配な建物。
由良川大橋1










市民センターの背後には由良川が流れており、青色の鉄橋が架かってます。
由良川大橋2










綾部大橋というトラス橋で、昭和4年の完成。
洪水により幾度も流された由良川の橋。そこに架けられた鉄骨製の重厚なトラス橋はまさに永久橋と呼べる橋で、竣工時は市民の歓喜の声で沸いたと言います。
以後78年間、由良川の増水に耐え続け現在も現役で使用されています。
由良川大橋3










2005年、綾部大橋は国指定登録有形文化財に指定されました。
文化財になった綾部大橋は綾部のシンボルの一つとして存在し続けることでしょう。

2日に渡る綾部市と旧福知山医師会館の探訪を終えました。
今回はグンゼ関連の建物群はスルーしましたが、次回改めて訪問しようかと思ってます。
綾部市と言えばグンゼの建築群が有名ですが、それ以外にも近代建築が数多く残っているのを
知っていただきたいものですね。













besan2005 at 10:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 近代化遺産 | 京都府

2017年07月01日

宮津市にある近代化遺産の浄水場・滝上浄水場

滝上浄水場古絵葉書









先日、メインで運営している「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」にて使用する宮津町浄水場という昭和初期頃の古絵葉書資料を入手し、この浄水場の場所や情報を調べていますと、絵葉書に写る浄水場施設が現存していることを知り、絵葉書と現在の様子を比較するため探索に向かいました。
※古絵葉書の記事はこちら。 「古絵葉書・宮津町浄水場(現・宮津市滝上浄水場)」
今回訪問した滝上浄水場は、宮津市の西側の山中にあり、浄水場の麓には滝上公園があります。
1宮津市滝上浄水場ろ過池










滝上浄水場に入り最初に目にするのがろ過池の施設。
宮津滝上浄水場001








古絵葉書にあるろ過池です。現地で見比べましたら、90年前とほぼ同じ姿。
説明板










ろ過池の入り口にある説明版。滝上浄水場は一地方都市としては珍しく明治45年完成という上水施設としては最初期と言えるもの。しかも、戦前の施設がそのまま残されており、地方の戦前の上水設備を知る貴重な近代化遺産となっています。
2宮津市滝上浄水場ろ過装置










ろ過池の隣にある半地下の施設。見るからに古そう。
宮津滝上浄水場002







反対側になってますが、絵葉書にも写されており、戦前の施設であることが分かります。
奥に写っている建物は現存していません。
ろ過槽










半地下の施設の上部には空気抜きのようなものが並んでいます。これも当時のままなのでしょうか。
3宮津市滝上浄水場ろ過池取水桝










ろ過池の隅にある取水用の桝のようなもの。
宮津滝上浄水場003









こちらも絵葉書に写されており、見る限り当時のままのようです。
5宮津市滝上浄水場取水桝1










ろ過池のフェンスの外には先の取水桝に繋がっていると思われる取水口らしきものがあります。
雰囲気的に戦前当時のままでしょう。
4宮津市滝上浄水場橋










ろ過池へ取水していた川には当時の橋もあり、かつては公園になっていたようです。
ただし現在は公園として管理されず放置されています。
6宮津市滝上浄水場貯水池堰堤










ろ過池から林道を登っていくと貯水池の堰堤があります。
宮津滝上浄水場004








この貯水池堰堤は古絵葉書にもあるものですが、現在の姿はだいぶ変わっています。
後で出会った管理の人の話を聞くと、補強のため戦後に石張りだった堰堤をコンクリートで覆ったとのこと。コンクリートの外壁の中には石張りの当時の外壁が眠っているようです。
7宮津市滝上浄水場貯水池通水路










堰堤の脇には通水路があります。こちらは石張りが見えるため当時のままの姿のようです。
堰堤の周りはフェンスが張られ立ち入りできなかったので、再び林道に戻り登っていくと、川側の斜面に降りていく古い道が。その旧道を辿り降りていくと。
13宮津市滝上浄水場取水口通水路










貯水池へと続くであろうかつての管理道と通水路にたどり着きました。
貯水池方面は立ち入りできなかったのでそちらへは向かわず山側へ向かう方向へ。
8宮津市滝上浄水場取水口堰堤1










すると、アーチを持つ石張りの堰堤にたどり着きました。
宮津滝上浄水場005








この堰堤は古絵葉書にもある取水口堰堤。真ん中のアーチが取水口になります。
9宮津市滝上浄水場取水口堰堤2










取水口のアップ。現在も水門があります。
堰堤の下は岩盤を削ったと思われる川になっています。滝上浄水場は常願寺川をそのまま利用して取水していたと説明にあり、恐らく元々あった常願寺川を堰堤でせき止め貯水池を作り、また川を掘削し拡張したのかもしれません。
10宮津市滝上浄水場取水口堰堤上部










取水口堰堤の上部。石張りの堰堤は絵葉書が撮影された90年前の昭和初期当時のままの姿のようです。
下流側にある貯水池堰堤もかつてはこのような姿だったのでしょう。ただ、あちらは規模が大きくそのままでは強度に不安があるため、貯水池堰堤だけコンクリートで覆う補強をしたのでしょう。
取水口堰堤は現在、堰堤の左半分が土砂に埋もれてしまっています。
11宮津市滝上浄水場取水口通水桝










取水口堰堤の左端にある桝。その下には通水路があり、絵葉書にも写っているため当時のままのようです。
12宮津市滝上浄水場取水口滝













取水口堰堤の上には小さいながらも滝があり、滝の水も堰堤の下を流れる水も綺麗でこの滝上浄水場の水はきっと美味しいのでしょう。
滝上浄水場は絵葉書が撮影された90年前の昭和初期に比べて木々が生い茂り深い森となってます。
かつては散策できたであろう道は所々雑木等に埋もれ見通しも効かなくなり絵葉書と同じアングルでの撮影は不可能になっていました。
さらに、取水口堰堤は半分が土砂に埋もれるなど90年の歳月を感じる状態でした。
しかし、戦前の上水施設がそのまま残されている貴重な近代化遺産を目にすることができ、また、昭和初期の絵葉書に写る堰堤や、ろ過池の変わらない姿を現地で見比べることができる等、まるで90年の歳月を超えたかのような気分を味わうことができる訪問となりました。






besan2005 at 19:06|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ダム・堰堤 | 京都府

2017年01月04日

福知山市・山崎城跡

あけましておめでとうございます。本年も城好きの方もそうでない方もよろしくお願いします。
さて、2017年最初の攻城レポ日記は京都府福知山市山崎にある山崎城跡。
実は私の故郷の村にある城跡で、まだ実家に住んでた頃に1度探索したことあるのですが、それ以来行ったことなくていい機会だししっかり探索しようと試みまして。
1山崎城遠景








山崎城跡遠景。
山崎城跡は山崎地区にある山の麓の丘陵にある小さな中世城郭。
地元では古くから城跡と言い伝えられており、城跡の下の民家の辺りに殿さまの屋敷があったと伝えられてます。(真偽は別として)
中世の城跡はほぼ現在の村落単位に存在し、室町期の頃に村落の土豪が住まう城と治める村落といった1単位のグループが形成しそれが現在も続く村落の原型になったと思われます。
この山崎城跡も山崎地区の村落とそれを治める土豪の城のセットと考えていいかもしれません。
福知山市山崎城縄張図001










山崎城跡は周知の城跡で福知山遺跡地図にも山崎城跡として記載されています。しかし、近年発行された京都府中世城館跡調査報告書には城郭類似遺構とされ城跡と認知されていません。
今回、城内を散策し拙い図ですが縄張図を描いていきましたが、誰の目に見ても明らかに城跡の遺構が存在するのですが。地元での伝承、現地に残されている城郭遺構などから中世城郭として認知されるべきだとは思うのですが…
というわけで、縄張図が作成されていない現状であるため、私が現地で書いた図を基に紹介していきます。
2山崎城帯曲輪か1








山崎城跡帯曲輪(推定)。縄張図,硫媾蝓山崎城跡の南端は府道109号線に面しており、また道路の工事により一部削り取られています。この削られた崖面の箇所に帯曲輪のような段が見受けられますが、もしかしたら後世の改変による可能性も考えられます。
3山崎城南曲輪2








山崎城跡南曲輪。縄張図△硫媾蝓B啅蔑悄平篦蝓砲両紊寮擺澆鯏个辰討いと広めの平坦地が。ここは明らかに曲輪と思われます。ただ、東西部分がどうも削られて失われているようにも見えます。本来はもう少し広かったのかも。
4山崎城南曲輪切岸3








山崎城跡南曲輪とその上の曲輪の切岸。縄張図の箇所。
高さは低いですが、しっかりとした切岸が残されています。
5山崎城南曲輪切岸








反対側から撮影。
6山崎城南曲輪北から








南曲輪の上の曲輪から南曲輪方面を撮影。縄張図い硫媾蝓
8山崎城堀切・主郭切岸








同じ曲輪から堀切・主郭(推定)の切岸を望む。
9山崎城堀切








主郭(推定)の南にしっかりとした堀切が残されています。縄張図イ硫媾蝓
9山崎城堀切5








反対側から。堀切の南、曲輪い遼銘爾膨磴瓩療變櫃残されており、主郭(推定)への進入を土塁と堀切、3mくらいの高さの切岸で防御しています。山崎城跡で最大の防御であり一番の見所かと思われます。
10山崎城主郭6








堀切の北、山崎城跡主要部で一番高めの箇所に当たるところに広い平坦地があります。
縄張図Δ硫媾蝓0銘崚に山崎城跡の中心に位置し周りの曲輪より高所にあることや南に大き目の堀切を設けていることから、山崎城跡の主郭ではと推測されます。
面積は結構広く、建物なら余裕で建てられます。
11山崎城主郭北曲輪7








その主郭推定曲輪の北側に一段低い平坦地があり、主郭推定曲輪に次ぐ広さがあります。
縄張図Г硫媾蝓4兇古に主郭推定曲輪のΔ龍蔑悗良郭と思われます。しかし、近年まで畑地としての利用がされていたようで、後世の改変が大きいようです。
12山崎城北曲輪8








副郭と推測されるГ硫媾蠅ら山の稜線が一気に急傾斜となっていきます。それを登っていくとちょうど主郭群を見下ろす形で小曲輪が2つ存在します。写真は下段のやや広めの曲輪で縄張図┐硫媾蝓
恐らく上から主郭群を防御する曲輪だったのでしょう。
13山崎城北曲輪堀切9








┐龍蔑悗療貘Δ砲話擦瓩遼拈擇氾變櫃残されています。縄張図の箇所。
この曲輪のすぐ上に小さい曲輪が存在します。
故郷の山崎地区は今でも全員が同じ姓で、村の共有文書である江戸初期作成の家系図や共同墓地の江戸期の墓石や先祖供養塔にも同じ姓を名乗ってます。
村共有文書の家系図には永正5年(1508年)から江戸時代初期の寛文まで事細かに書かれた先祖の系図があり(次男三男の養子先や娘の嫁ぎ先まで記載)全て鵜呑みにはできませんが、戦国期には山崎地区に先祖が存在しこの小さな村に小さな城を構えて治めていたようにも思います。
(江戸初期に先祖が大先祖を供養するために建てた供養塔には延徳3年・明応4年という永正より10年古い年号が刻まれている)
先祖は江戸中期に3系統に分岐し現在の血縁関係としての株講として存続しています。
この山崎城跡が私の先祖の城とするには短絡的なのかもしれませんが、先祖の存在した時期や今と同じ姓を名乗っていたことなどそう考えてもいいのではないでしょうか。
なんせ、戦国時代は半農半士が普通で江戸時代でいう庄屋クラスの身分が戦国時代当時の小土豪だったのでしょうし。
そんな先祖も弱小がゆえに時代の流れには乗れず、江戸時代には帰農しています。ただし、先祖から受け継いだ姓はそのまま村内に限り名乗り続け現在に至ってます。
ちなみに山崎城跡は山の麓の小高い箇所に造られており、同じ尾根続きの本体の山の山頂には曲輪と思われる削平地は認められるものの、しっかりとした防御施設はあまり確認できず、今回探索した山崎城跡はいわゆる麓の居館跡で有事には山頂の簡素な城にこもったいわゆる詰めの城があったのではと考えられます。


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2016年11月27日

丹波国天田郡福知山藩領十二村(現・福知山市十二)古文書群一括(暫定版)

丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群1








現在の福知山市十二地区である丹波国天田郡福知山藩領十二村の近世文書群、いわゆる村方文書群です。
あまりに大量の古文書群のため全く整理しきれていませんが、総重量は7kgあり恐らく300通以上はあるものと思われます。
十二村は近隣の村落とともに山陰街道に面し宿場町に設定されさらに山役や夫米が徴収されており、その代わり他の夫役は一切免除されていたそうで、その免状が多く残されています。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群2








大量のため半分も確認できてませんが、古文書の中で一番古い年号は元禄4年(1691)の物のようです。
ただし、これから調べていくうちにさらに古い年号の古文書が出てくる可能性があります。
十二村の古文書群は元禄期の古文書10数点から明治初期にかけて江戸時代全般に渡っています。
ほとんどが借用証文や免状や譲り渡し状等の証文類ですが、古記録類も含まれていました。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群5








「福知山米〇〇記録」元禄9年(1696)
年貢米等の記録でしょうか。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群4










「新開名寄帳」享保12年(1727)
新たに造られた田んぼの所有者を記した不動産記録。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群6










「五人組御改帳」寛政4年(1792)
江戸時代の村落の隣保制度。どの家がどの組に属していたかを記録したもの。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群3










「重仁(十二)邑今高名寄 丹波国天田郡川口庄」文政9年(1826)
十二村にある全ての田畑の不動産記録。かなり厚さのある写本です。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群7










「郷諸日記帳」文政13年(1830)
十二村のことを記した日記。証文類や名寄帳がほとんどの十二村古文書群において、当時の十二村の様子を知ることのできる貴重な記録かと思います。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群8










「牧村御神様御社建替奉加帳」天保13年(1842)
牧村(現・福知山市牧)にある神社の社殿の建て替えによる奉納品の帳面。
牧地区には現在も存在する一宮神社があり、当社は十二村を含めた立原・野花・上天津・下天津・夷・上大内・下大内の総社で、一宮神社の社殿建て替えに際しての奉納についての記録でしょう。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群9




これは福知山藩領十二村ではなく京都府の船井郡にある大谷村の文書ですが、慶安4年(1651)の年号があり一番古い年号があります。ただし、後年に写された可能性もあります。
船井郡大谷村の者が行うべき神社への儀式について記録したもののようです。

丹波国天田郡福知山藩領十二村の古文書群について、十二村だけでなく近隣の牧村や立原村についても触れている文書も見受けられます。
大量のため確認も整理も中々進まずまた長年折りたたまれて保管されていたため虫害により固着し広げるのもままならない文書も多いですが、近世文書群とは言え福知山市内において数少ない古文書として十二地区の歴史を物語る歴史資料として貴重であることは変わりなく、いずれしかるべき機関にて調査を依頼することも検討しています。
こちらとしても今後確認・整理作業を行い、新たな情報が得られましたらこの記事を随時更新していく予定です。


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2016年09月07日

福知山市・天照玉命神社の氏子札(明治5年発行)

天照玉命神社氏子札モザイク表天照玉命神社氏子札モザイク裏











福知山市今安にある「天照玉命神社」の氏子札です。

明治5年に発行されたもので、表に「丹波國天田郡榎原村父(個人名)次女」「今安天照玉命神社氏子」
「(個人名)」「慶応四戊辰年四月廿四日生」
裏に「(個人名)」「明治五年壬申年三月廿一日」と書かれ、表には天照玉命神社の社印が押されています。

これは、明治4年に明治政府により制定された「氏子調」による札で、太政官布告により江戸時代までの戸籍制度だった寺請制度に代わるもので、それまで寺が行っていたものを神社が代わりに請け負った制度です。
※wikipedia「氏子調」
制度としてはまず戸長に届けてその証書を地区の郷社へ持参し、そこで神社から氏子札を発行してもらい、それが個人の証明書になり同時にその郷社の氏子に登録されました。
氏子札を発行していたのは郷社格の神社のみだったようです。
郷社は今でいう学区単位くらいにあった神社で、府県社以上だと規模が大きすぎ、村社以下だと無住も多く規模が小さすぎるため、郷社が担当したのかもしれません。いわゆる村役場的な役割だったのでしょう。
戸籍制度が寺院の寺請制度から神社の氏子調へと移行した背景には、政府の神道国教化、長年にわたる寺院および仏教界の権力集中の打破等の目的があったようです。
しかし、氏子調はわずか2年後の明治6年に廃止。その後は役場が担当することになりました。

天照玉命神社







※Googleストリートビューより画像引用。
さて、この氏子札を発行した今安地区の天照玉命神社ですが、平安時代の延喜式にも記載されている式内社であり歴史のある神社です。遠目からも鎮守の杜が目立つ神社で地区の人は大人も子供も「今安のてんしょうさん」と親しみを込めて呼んでました。
私も子供の頃、同じ学区内にあり通学路の途中にあったこの神社で下校時はよく同級生と境内で遊んだりしました。天照玉命神社の前は高校卒業まで毎日通過し、本当に身近な神社でした。
そんな馴染み深く思い出深い神社の150年前の歴史資料を手にしたのは一種の感慨深さを感じました。
この氏子札に書かれている人物は私とは全く縁のない方ですし、榎原村も私の実家の村から割と離れた村で私とは直接関わりがあるわけではありませんが、それでも馴染みのある神社の郷土資料を手に出来たのは意義深く、大切に保管し伝えていく責任を負ったことになります。


besan2005 at 20:34|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 郷土史

2016年05月22日

福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院跡・中世観瀧寺跡(&幻の滝山城跡か)の再踏査


記事の画像および文章の無断転載は一切禁止します。
前回5/3についに発見した福知山市奥榎原の中世観瀧寺跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54643859.html
※前回の踏査レポ日記。
しかし前回天候の急変と初めて到達した場所ということもあり十分な探索もできぬまま撤退する羽目に。そこで、梅雨に入るまでに徹底した再踏査を試みることにしました。
1中世観瀧寺跡遠景








中世観瀧寺跡遠景。山の中腹に広がる不自然な平坦な地形。
昔から実家から見えるこの風景を眺めては言い伝えでしか知らなかった古の寺院跡に思いを馳せていました。
今回の再踏査に当たって目標としたもの。
〇前回未踏査だった箇所の悉皆調査。
〇GPS観測による位置確認。事前に推定していた箇所との照合。
〇石塔類の存在の確認。
〇遺物の確認による時代の裏付け。
これらを念頭に置き再び中世観瀧寺跡へ。
中世観瀧寺跡位置図




現地に到着し、スマホのGPS機能付き登山ナビアプリで位置計測をしたら、最初の踏査前から推定していた位置とドンピシャ。あの実家から見えていた山の平坦地そのものの場所でした。
標高は300m奥榎原集落からの比高差は200m余り。
画像は国土地理院の地形図を引用して中世観瀧寺跡の位置を示しました。
中世観瀧寺跡縄張図







中世観瀧寺跡縄張図番号入り







その国土地理院が公開する地形図を利用してそれに乗せる形で中世観瀧寺跡の縄張図を作成。
今回初踏査した箇所と前回踏査した箇所も含め新たに判明した点を書き加えながら順に紹介していきます。
2中世観瀧寺跡石垣1








下の不動尊の滝からわずかに残る古道を登り切った箇所にある石垣。縄張図1の箇所。
中世観瀧寺跡において唯一しっかり残された石垣。この石垣の下には比較的しっかりした古道も残り、石段らしきものが見え、中世観瀧寺跡の正面に当たる箇所かと思われます。
3中世観瀧寺跡石組基壇2








1の石垣のある平坦地に残る方形石組の基礎らしきもの。縄張図2の箇所。
堂宇にしては小さいので祠か何かだったのでしょうか。もしくは古墓。
4中世観瀧寺跡曲輪3








その2の方形石組みのある平坦地。縄張図3の箇所。
4中世観瀧寺跡最上段曲輪石垣








3の平坦地の切岸には石垣らしき跡があります。1の石垣のある切岸と同じ箇所にありかつてはこの切岸を石垣が巡っていた可能性があります。
5中世観瀧寺跡最上段曲輪4








石垣の巡る切岸の上の平坦地。縄張図4の箇所。
この一帯では最高所となり、石垣もあることから、中世観瀧寺跡において何か象徴的な建物があったように思います。石垣を積むことで威厳を見せていたようにも。
この平坦地は途中で東に土塁状の形となって伸びています。
6中世観瀧寺跡石列虎口5








3の平坦地の北側にある虎口。縄張図5の箇所。石列もありしっかりとしています。
7中世観瀧寺跡石列虎口下石段跡6








5の虎口の下にはいくつか石が並び、石段があった可能性があります。縄張図6の箇所。
下の平坦地へと降りる石段だったのでしょう。
8中世観瀧寺跡最上段曲輪下北曲輪7








一旦戻り虎口5の東にある平坦地へ。縄張図7の箇所。平坦地4から伸びる縄張図21の土塁によって守られた形で、平坦地内には石垣の石材らしき石が多数散乱しています。
10中世観瀧寺跡7曲輪西から








西から撮影。
9中世観瀧寺跡7曲輪崩落石垣








平坦地7から土塁方面を撮影。石垣が崩落したように見えます。
しかし、自然崩落にしてはあまりに崩壊が大きく、意図的に崩されたのではないかとも思いました。観瀧寺の寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとありますが、もし寺院側の反乱だとしたら滅んだ後に城として使えないよう石垣を崩す破城されたのかもしれません。
ただ、南側の石垣のみ残されたのが不思議ですが。
11中世観瀧寺跡北曲輪8








虎口5を降りたところにある平坦地。縄張図8の箇所。
ここも石材が散乱し、石垣があったのかもしれません。
中世観瀧寺跡採集遺物1








この平坦地では初の遺物を確認。これは珠洲焼の壺の破片。
珠洲焼は平安時代より生産され戦国期にに突如姿を消した幻の焼き物。
それを見つけたのは大きな成果でした。つまり、この珠洲焼が落ちているということは確かにこの遺跡が室町期まで寺院として機能していた証となるものです。
中世観瀧寺跡採集遺物2








この珠洲焼の発見で改めて付近を探索したら、室町期と思われる備前焼や信楽焼きの甕の破片を多数発見。またここだけでなく、寺院跡一帯でもいくつか同時期の遺物を確認。時代の裏付けをとることが出来ました。しかし、瓦片は一切見つけられませんでした。
石垣があり広い平坦地を持ち礎石らしきものもあるので瓦葺きの建物があってもよさそうに思いましたが、瓦片が一切見つからなかったので中世観瀧寺跡の諸堂は杮葺きだったのでしょうか。
12中世観瀧寺跡曲輪9








平坦地8から西に向かうとさらに広い平坦地へ。縄張図9の箇所。
13中世観瀧寺跡西土塁10








そして平坦地9から西に延びる土塁。縄張図10の箇所。
この土塁は防御というより区画を分けるためのものだったようにも見えます。
14中世観瀧寺跡曲輪11








土塁10の北側の2段の曲輪。縄張図11の箇所。
15中世観瀧寺跡曲輪12








土塁10の南側の平坦地。縄張図12の箇所。
16中世観瀧寺跡西土塁端13








土塁10の西端の部分。縄張図13の箇所。
13の箇所から北側の平坦地へ向かえるようになってます。
17中世観瀧寺跡西曲輪14








縄張図14の平坦地。
18中世観瀧寺跡西櫓台跡15








平坦地14の西端には櫓台のような高まりがあります。縄張図15の箇所。
西側は麓に方向に当たります。麓側を監視する施設だったのでしょうか。
19中世観瀧寺跡西端曲輪16








櫓台15の下にも平坦地がありました。縄張図16の箇所。今回初確認の遺構です。
この下は自然地形の緩斜面が続きしばらく下りましたが、遺構らしきものは確認できませんでした。
20中世観瀧寺跡曲輪17








縄張図17の平坦地。中世観瀧寺跡の遺構はほぼ尾根上とその一段下の範囲で広がり、尾根から大きく外れて遺構は広がってはいないようです。
21中世観瀧寺跡南曲輪18








東へと戻り最初に上ってきた箇所へ。その東側に帯曲輪状に広がる平坦地。縄張図18の箇所。
写真左の切岸は21の土塁です。
22中世観瀧寺跡東土塁東端19








さらに東へ進むと大きな堀切に当たりました。縄張図19の箇所。今回初確認の遺構で、正面に見えるのは土塁に思えましたが、登ってみるとどちらかというと櫓台にも見える遺構でした。
23中世観瀧寺跡東土塁櫓台20








登ってみると、堀切に沿って低い櫓台のような高まりがあり、その西側に小さい平坦地がありました。縄張図20の箇所。ここから堀切を上って来る敵を迎え撃ったのでしょうか。
24中世観瀧寺跡東土塁21








平坦地4から西に伸びる土塁の西端から撮影。縄張図21の箇所。
25中世観瀧寺跡堀切22








その東側に堀切があります。縄張図22の箇所。
22中世観瀧寺跡東土塁堀切








東側の平坦地20から撮影。正面の高まりは土塁21の東端部分。
26中世観瀧寺跡土塁堀切23








東に進むとさらに土塁と堀切が。縄張図23の箇所。
19の堀切と土塁を挟んで2連となっています。
27中世観瀧寺跡東曲輪24








堀切の東側から斜面が上がっていきますが、まるで中世城郭のように段状の平坦地が連なります。縄張図24の箇所。
28中世観瀧寺跡東曲輪25








平坦地24の上には縄張図25の平坦地があります。これらの平坦地は上の本堂跡かと思われる大規模な平坦地への接続する平坦地と思われますが、それぞれの規模は大きく十分建物も建てられそうです。各平坦地の虎口も良く残されスロープ状の上り坂もあります。切岸も高い。
29中世観瀧寺跡東曲輪石段26








平坦地25と上の平坦地の間に石段があるのを発見。縄張図26の箇所。
明瞭に残された石段はその上の平坦地が寺院の中心となる重要な個所だったことをうかがわせます。
30中世観瀧寺跡東曲輪本堂跡推定27








石段26を登った先に広がる平坦地。縄張図27の箇所。
P1040779








かなりの広さで中世観瀧寺跡でも最大規模を誇る平坦地。
31中世観瀧寺跡東曲輪虎口28








平坦地27の北側に明瞭に残る虎口。縄張図28の箇所。
虎口28からは古道が延び、下っていくと平坦地25につながります。
32中世観瀧寺跡東曲輪礎石29










平坦地27で等間隔に並ぶ石を発見。縄張図29の箇所。礎石に見えるこの石列は規模からして相当な大きさの建物があったように思えます。
麓から一番離れた山側の寺院跡でも最高所であり最大規模を誇るこの平坦地は中世観瀧寺跡でも最重要な施設、本堂とかがあったのではないでしょうか。
礎石らしき石列や西側の石段などを見てもそんな雰囲気がしますし、本堂跡と思われる平坦地27に至るまでの3つの堀切や2つの曲輪みたいな平坦地など防御を意識した施設を配置していますし。
33中世観瀧寺跡東曲輪切岸








山側の東側の切岸。かなりの高さです。
34中世観瀧寺跡東端曲輪30








本堂跡と推定される平坦地27の上にもう一つ平坦地がありました。縄張図30の箇所。
きぼはさほどではありませんが、平坦地27を見下ろすこの平坦地は、かつて建っていた本堂などの重要施設を防御する役目だったのでしょうか。
今回の探索で新たに確認できた東側の遺構も相当な規模を持ち、本堂跡と推定される大規模平坦地、残された石段の跡そして土塁や堀切などを確認でき大きな成果となりました。
また、前回は確認できなかった堀切を新たに確認でき、城としての性格も持つ防御性のある寺院だったこともわかりました。目標の一つだった石塔類は見つかりませんでしたが、室町期に遡る遺物を多数発見し、間違いなく中世観瀧寺跡が少なくとも室町期までは存在し戦国末期に兵火で焼亡したという言い伝えの裏付けとなりました。
寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとのことですが、その年はすでに豊臣秀吉が天下を統一した時代。丹波天田郡地域での兵火と言えば真っ先に明智光秀や丹波国人の赤井直正が思い浮かびますが、天正3年ならともかく天正13年でも戦はあったのでしょうか。
天正3年の間違いだった可能性も考えられるのですが、寺伝を信じれば残された国人たちが観瀧寺と呼応して籠城したかもしくは対立して結果焼亡したとも考えられますが、詳しい記録や古文書は一切ないため今となっては不明です。
ただ、遺構を確認したら明らかに城としての機能を持たせた防御施設があり、中世の多くの寺院でもあったように城も兼ねた寺院だったことは間違いなさそうです。
今回の探索でほぼ中世観瀧寺跡の寺域は確認できたかと思います。あとは尾根続きのの下って行った西側の麓に近い箇所の尾根が地形的に怪しい形をしており、中世観瀧寺跡の子院のあった可能性も捨てきれないので機会を見て踏査したいと思っています。
それにしても福知山市内でも最大規模とも思える有数の中世寺院跡、いや中世城郭と考えても市内有数の規模と思われる中世観瀧寺跡。この遺構が市教委や府教委に周知されておらず遺跡地図にも記載されていないのが。詳細な調査をして遺跡として認知されることを願っています。


※11/1追記
中世観瀧寺跡踏査後、丹波・丹後の中世山城や郷土史を踏査・研究している方々にレポートを報告し見ていただいた結果、もしかすると丹波志に記載のある未だ所在不明の「滝山城」でもあるのではないかとの一致した意見を頂きました。
寛政6(1794)年に編纂された「丹波志」の中に観瀧寺について以下の記載があります。
「瀧山 観瀧寺 真言宗 榎原村
高野山谷ノ上宝城院末寺 開山法道仙人 中興成遍法印 境内三十間ニ六十間除地 山林東西二丁半南北二丁半 千手観音堂三間ニ三間半 方丈五間七間 庫裡四間七間半 門二宇 郡巡礼十一番札所 薬師堂 地蔵堂 鎮守 土蔵 
古へ奥榎原ノ上ヘ滝山城ノ脇ノ地ニ在 後口榎原地移スト云」
丹波志にはかつての観瀧寺の脇には滝山城があったと記載されています。
滝山城については丹波志による記載はあるものの、どこにあったか具体的な場所は分かっていません。
ただ、今回探索し確認した中世観瀧寺跡の縄張を見ていると、堀切を境にして西側一帯は確かに城郭としての性格を持ち、東側一帯は礎石の残る広い平坦地と石段が残されています。
つまり、堀切を境にして東西の縄張にやや性格の違いがみられ、もしかすると東側一帯の区域が寺院、西側の一帯が城郭ではと考えることができます。
縄張図で説明いたしますと、
56816d14







こう推定できるのではないでしょうか。
ただ、滝山城推定地とした西側の一帯の縄張がもし本当に所在不明の滝山城だとすると、中世観瀧寺を防御するための砦、もしくは本来ここも中世観瀧寺の敷地ではあったが戦乱の時代に対応するため一部を城砦化したようにも感じられます。いずれにせよ、中世観瀧寺と無縁ではなかったはずです。
そのことは、この一帯の遺跡について地元では古寺跡との言い伝えはあるものの城跡との言い伝えは残されておりません。
中世観瀧寺は時代の流れとは言え、寺院の一角を城砦化もしくは寺院を防衛するための城砦を築き武装したがために攻められ滅ぼされたのではないでしょうか。
もし、この遺跡が中世観瀧寺跡並びに滝山城跡と確定、特に滝山城跡が確定されれば丹波志の記載以来200年あまり所在不明だった場所の発見という大きな成果と成りうるのですが。

※2017年5月2日に再踏査をし、新たな遺構を確認しましたので報告いたします。

中世観瀧寺跡縄張図2001









※今回初確認の遺構の位置。(前回踏査時に作成した縄張図に加筆。)
1年ぶりの訪問ではすでに確認済みの遺構の再確認とともに、新たな遺構が無いかを探索。
去年よりどことなく見通しが良くなったような感じの受ける中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)内にて、いくつかの大きな発見がありました。

曲輪7土塁側残存石垣1










まずは,鵬媾蠅砲導稜Г靴神仞僂漾わずかですが石積みであることが分かります。
この場所は去年確認した大土塁の北側の曲輪の土塁側の箇所。この箇所は南側の推定大手口に残る石積みやその周囲に散乱してる多数の石材を見るからに、かつては中央櫓台と思われる箇所とその周囲の曲輪は総石垣とまでは言えずともかなりの範囲に石積みが施されていた可能性が高いと思われます。

曲輪8残存石垣2










中央櫓台北の下への曲輪へと続く虎口の下にて確認した石積み。縄張図△硫媾蝓
こちらもわずかですが、明確な石積みです。
かつての中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)は中世から戦国期の福知山市内でも類を見ないくらいの範囲で石積みがされた城跡だったようです。しかし、この崩れ方を見るに自然崩落というより人為的に崩されたように見え、残念ながらかつての迫力ある姿は南側推定大手口の石積みにしか見られません。
当時は中世観瀧寺も含めた相当な勢力を誇っていたのでしょうが、この地に侵攻した明智光秀やその後を継いだ豊臣秀吉の配下により落城し大規模な破城が行われたのでしょう。

曲輪8北側曲輪(新確認)










△寮仞僂澆魍稜Г靴晋弩のある曲輪から何気なく下を覗いていると、規模の大きい曲輪を新たに発見。斜面がかなり急で下って行くことは困難な上に単独行動での無理な探索は危険を伴うと判断し上からの確認にとどめましたが、上からでも明らかに分かる平坦な地形と散乱する多くの石材。写真では写ってませんが、さらに奥にはもう1段曲輪らしき平坦地も確認できました。
さらに、写真は撮れませんでしたが、城域の西端の北面にも平坦地を確認。以上のことから、中世観瀧寺跡の範囲は当初確認したよりもさらに北方に城域が広がる可能性が高まってきました。まだまだ未確認の遺構が眠っていることに期待が高まってきました。
いずれ、複数人の専門の方とともに悉皆踏査を行いたいと思ってたり。

尾根上石積み










帰路は不動の滝側からではなく、西端の土塁から尾根を下る感じで帰還。
途中、尾根上に低い石積みが数か所あることを確認。中世観瀧寺跡との関連は不明ですが、一応報告しておきます。



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2016年05月07日

福知山市・榎原鉱山跡遺構レポ日記

※mixi日記に書いたものの転載です。無断での画像や文章の引用は禁止いたします。

先日レポ日記に書いた中世観瀧寺跡の探索途中に発見した榎原鉱山跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/cat_50101861.html
※中世観瀧寺跡レポ日記。
実は最初ここが目指す中世観瀧寺跡と思い込んでました。
しかし、現地での踏査や改めて調べたりしてみるとどうやら鉱山跡だと確信。
目当ての中世観瀧寺跡ではなくその時は落胆しましたが、こちらもほとんど知られていない鉱山跡で、福知山市における貴重な近代化遺産としても重要と判断したことから、レポ日記を書くことに決めました。
榎原鉱山に関して、福知山市史第1巻によれば、明治40年を中心に前後10年間稼業し、最盛期は鉱員約200人職員約100人を有し黄銅鉱を産し銀や亜鉛も産したが、大正時代に入ると振るわなくなったとあります。
私自身榎原鉱山のことは知らず、初めて斜面に広がる平坦地や石垣等の遺構を見たときにここが中世観瀧寺跡かと勘違いしたくらいです。まぁ現地に散らばる新しい瓦や茶碗片や鉱滓を見て疑うようになったわけですが。
1榎原鉱山遠景








中世観瀧寺跡のレポ日記でも書いたように、榎原公民館の駐車場の近くの畑で作業をしていた老夫婦に中世観瀧寺跡の場所の手掛かりとなる不動尊の滝の場所を聞き山の中へ。
この写真の左の道をずっと進めば不動尊の滝に到着しますが、榎原鉱山跡の遺構は道に挟まれた正面の斜面一帯に広がります。
2榎原鉱山作業道








斜面に入ると斜面を掘り込んで作られた道が延びています。
鉱山施設を作る際の作業道で、その後も鉱員の行き来や作業道として使用されたと思われます。
3榎原鉱山飯場跡








このような平坦地が段状に斜面一杯に広がります。
中世寺院跡の僧坊跡も似た良ような形でこういった平坦地を作るため、てっきり中世観瀧寺跡と思い込んでしまいました(笑)
ここはかつての飯場跡かと思われます。
4榎原鉱山石垣








一部崩落しているとはいえしっかりと残る石垣にテンションが上がりましたが、どうにも違和感が。
積み方が比較的新しい谷積みに近い。それに何だか積み方が荒い。
5榎原鉱山石垣








低い石垣もありこれなど一見中世の石垣に見えなくはないですが、その周りに散らばる遺物が明治以降のコバルトの染付だったり新しい瓦だったり近代の遺物ばかりで肝心の中世までの遺物が全く見つからない。それにいわゆる鉱滓という鉱石の精錬後に出る残滓があちこちに。
この辺りからもしかしたら中世観瀧寺跡と違うのでは?鉱山の跡なのではと疑うように。
6榎原鉱山作業道








上に向かってさらに伸びる作業道。これを登っていくと。
7榎原鉱山石垣








なかなか立派な石垣が。
8榎原鉱山石垣








いい感じの石垣なんですが、その背後にそびえる山を見てもう疑いから確信に変わりました。
9榎原鉱山鉱滓山








大量の鉱滓の山。鉱滓はスラグとも言い、つまりは鉱石を精錬し目当ての金属を取り出した後に出る残滓で当然ですが精錬すると大量に出て廃棄されます。
現在では不法投棄になるんでしょうけど戦前まではこんな感じでその場に捨てられていたんですね。
ここで持ってたスマホで検索すると文章だけの表記で実際のレポではなかったですが、榎原鉱山に少し触れたサイトが見つかり、ここがその榎原鉱山だと確定。
10榎原鉱山鉱滓








落ちていた鉱滓を観察。見た目よりかなり重く叩くと金属音が。
榎原鉱山は銅鉱山だったようです。
ただ、鉱山としては鉱滓の量が少ないような。他にも捨てられた場所があったのかもしれませんが、もしここだけなら鉱滓の量から見て稼働時期はそんなに長くなかったのかも。
11榎原鉱山選鉱所








この場所から少しそれた場所を探索してみると規模の大きい石垣が。
見た感じは中世山城か中世寺院の石垣遺構。
12榎原鉱山選鉱所








ただ石垣に近寄るとやはり違和感が。これだけ立派な石垣なのに建物を建てるような意思の無い立地。石垣のわりにスペースが狭すぎるんですよね。
13榎原鉱山選鉱所








さらに近寄ってみると城でも寺でもない石垣と分かります。このような造りはしませんしね。
おそらく選鉱所の跡なのかなぁとも思います。
ここで採掘した鉱石を選別し別の精錬所で銅を取り出し鉱滓を先ほどの場所に捨てる。
そして作業員は麓に近い飯場で生活。
榎原鉱山がいつから操業を開始しいつ頃閉山になったのか操業者は誰なのか資料も何もないため全く分かりません。分かることはここにかつて鉱山があったこと、実際に操業していたこと。散らばる食器の破片や瓦などから割としっかりした造りの飯場があったことくらいでしょうか。
環境に対する配慮の無かった時代、戦前までの鉱山では付き物の鉱毒問題や煙害問題もあった気がするのですが、地元民でもそういった話を全く聞かないということは公害問題が起きる以前に採算が合わないと判断して早々に操業停止したからでしょうか。
ともあれ、これら榎原鉱山の遺構群は福知山市における鉱山業の歴史を物語る貴重な近代化遺産の一つだと私は思います。


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2016年05月03日

福知山市・中世観瀧寺跡 言い伝えの寺院跡の遺跡を初確認。

※mixiにて書いた日記をこちらに転載したものです。
レポートに書かれている内容や画像の転載は一切禁止します。

※5/21に再踏査をし、さらなる成果を得ました。詳細なレポはこちらをご覧ください。
福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院・中世観瀧寺跡の再踏査

福知山市奥榎原地区に観瀧寺という寺院があります。
福知山でも有数の古刹で福知山城の旧城門を移築していることでも知られていますが、
元々は瀧山という山の山中にあり戦国時代の兵火により全山焼失したため麓に下ったのが現在の観瀧寺と伝えられています。
私が中学生くらいの頃、今は亡き祖父が老人会で貰ってきた福知山市内の古老が書いた言い伝えなんかをまとめた一冊の本の中に中世観瀧寺跡の記載がありました。
地元の古老の話では奥榎原の山奥に不動尊を祀る滝があり、そこから登ったところにかつての寺の跡があり、今でも広い敷地が残っているという。
その記述を読んで別の集落ではありましたが実家からでもよく見える瀧山の高い山を眺め、その山中に眠るであろう言い伝えの寺院跡の遺跡に思いを馳せていました。
あれから20数年、中世山城跡巡りをするようになり、その中世観瀧寺跡への思いも強くなっていきました。
そして今回のGWを利用して確認の踏査にチャレンジしてみようと思い立ったわけです。

3中世観瀧寺跡遠景








中世観瀧寺跡の遠景。といっても大体の方向。
というのも、中世観瀧寺跡は地元の古老の言い伝えでしか情報がなく、市教委も府教委も遺跡を把握していません。
1中世観瀧寺跡観周辺図





京都府が公開している遺跡分布図。赤丸の範囲が中世観瀧寺跡の大体の位置ですが、(多分切れている尾根上の辺りが寺院跡の箇所。)そこには遺跡の記載がありません。
当然ネットで調べても具体的な情報なんて出てきません。
2中世観瀧寺跡天田郡誌資料










所有している昭和11年版の天田郡誌資料に観瀧寺の記載があります。
それによれば、開基は奈良時代の養老年間。奈良時代の宝亀元年(770)に勅願所となり以降は多くの僧坊や尼寺が建ち並び栄えたが、天正13年に兵火により全山焼失し現在の場所に下ったとあります。
中世観瀧寺跡へは前出の本と観瀧寺の寺伝のみ。あとは地元の古老への聞きこみくらいしか手掛かりは無し。
とりあえず目安となる不動尊の滝の場所を特定すべく奥榎原へ。公民館の駐車場をお借りして畑仕事をしていた老夫婦に声をかける。
「不動尊の滝ってどこですか?」「ああ、それなら・・・」「その近くに観瀧寺の跡があると聞いたのですが。」「あるよ。」「滝から50mくらい登ったところかな。」
これで、今まで伝聞でしか分からず実在が半信半疑だった中世観瀧寺跡が実在していることが確定しました。ありがとうございました。
4中世観瀧寺跡への道








教えられた道を進み山に入ると二差路にぶつかります。不動尊の滝と中世観瀧寺跡へは矢印の左方面へ進みます。ちなみに正面の斜面にはかつて存在した榎原鉱山の遺構や精錬後の鋼滓の山が残されていますがそれはまた別の機会に。
5中世観瀧寺跡への道








先ほどの分かれ道を進むと「不動尊の滝」と書かれた古い看板があり、その先の道をさらに進みますが、どんどん山の奥へと進んでいくので動物除けのベルやラジオは必須です。実際、向かっている最中に熊には会いませんでしたが鹿の群れには出会いました。また、途中写真のような沢を超えたりしますのでそれなりの装備は必要となります。
6中世観瀧寺跡への道








先ほどの沢を超えて細くなった道を進むと鎖の手すりがあります。ここまで来れば不動尊の滝まではもうすぐです。
7中世観瀧寺跡不動尊瀧








ようやく不動尊の滝に到着。思った以上に山の奥にあり、徒歩30分近くかかった気がします。
最初の案内板からここまで一切の看板も無くしかも途中道が荒れていたりして不安になりますが。
8中世観瀧寺跡説明版








置かれた古びた説明版。
話ではこの滝からずっと登ると寺院跡があると聞いたのですが、周りは切り立った急斜面で道のようなものは見当たらない。左の斜面を見るとうっすらと道らしき跡が。
・・・これを登るのか。
9中世観瀧寺跡下の急斜面








慎重に道を選びながら必死の思いで這うように斜面を登る。一歩間違えば10数mはありそうな斜面を転落することに。
10中世観瀧寺跡1








死にそうな思いで何とか登っていくと途中から多少道と呼べる跡が。それを辿って登り切ると、そこには思いもよらぬ広大な平坦地が。
2中世観瀧寺跡縄張図番号入り










念願の中世観瀧寺跡に到達したと確信しました。今まで伝聞という存在でしかなかった寺院跡の遺跡を実際に目の当たりにした時の感動。マジで鳥肌が立ちました。まさにパズーの「すごいや!ラピュタは本当にあったんだ!」状態。
ここからは私の拙い見取り図をもとにレポをしていきます。なんせ周知の遺跡ではないし遺跡として認識できる人はほぼ訪れてないので縄張図なんてありませんし。
中世観瀧寺跡縄張図







※5/21の再踏査により縄張図を描き直しました。
写真は縄張図1の箇所。やや広めの曲輪のようになっていて、東側から細くなり土塁状となります。
11中世観瀧寺跡土塁前曲輪2








縄張図2の箇所から東方面を撮影。途中から細くなり土塁となっているのが分かります。
12中世観瀧寺跡基壇3








方形に作られた石組を発見。縄張図3の箇所。大きさ的に祠でしょうか。もしくは古墓。
13中世観瀧寺跡曲輪4








方形石組みのある平坦地を西の端から撮影。縄張図4の箇所。かなり広いです。
14中世観瀧寺跡西方面の曲輪を望む








4の地点から西方面の平坦地を望む。段状に平坦地が続きます。
15中世観瀧寺跡曲輪5








縄張図5の箇所の平坦地。こちらもかなりの規模があります。奥にこれから向かう土塁がうっすら見えています。
16中世観瀧寺跡曲輪切岸6








縄張図6の箇所の切岸。高低差は結構あり今でも鋭く切り立っています。
17中世観瀧寺跡曲輪東方面








6の切岸を下の平坦地から望む。
18中世観瀧寺跡大土塁7








その平坦地内にある大土塁。縄張図7の箇所。かなりの大きさを誇ります。幅と言い高さと言い福知山市内の周知の中世城郭でも見かけないくらいの規模です。
19中世観瀧寺跡大土塁下曲輪8








大土塁の下には平坦地が続きます。縄張図8の箇所。土塁に沿って延びる平坦地は長く広い。
20中世観瀧寺跡大土塁








大土塁の別カット。長く続く土塁がお判りでしょうか。
21中世観瀧寺跡礎石か








平坦地には礎石らしき石もありました。他の平坦地でもいくつか見つけたのでまだ埋もれていることでしょう。
22中世観瀧寺跡大土塁東方面








同じ大土塁を逆の東方面を望む形で撮影。
23中世観瀧寺跡土壇曲輪








縄張図9の箇所の土壇状の平坦地。
24中世観瀧寺跡土壇曲輪9








9の平坦地の上から撮影。周りより高くなっており、お堂か何かがあったのでしょうか。
25中世観瀧寺跡土壇曲輪東方面








9の平坦地から東方面を撮影。
26中世観瀧寺跡西端曲輪








寺院跡の西端の平坦地。縄張図10の箇所。奥には土塁状の高まりがあります。
27中世観瀧寺跡西端土塁か








西端の土塁状の高まりは岩盤が露出していました。縄張図11の箇所。
28中世観瀧寺跡腰曲輪12








戻って9の平坦地の北側の腰曲輪のような平坦地を観察。縄張図12の箇所。
北側にはいくつかの小さい平坦地を確認しました。
29中世観瀧寺跡虎口石列13








方形石組みのある3の平坦地の北側に虎口のようなくぼみがありました。縄張図13の箇所。
寺院跡側には石列もあり、出入り口だったのは間違いありません。
30中世観瀧寺跡北側下段腰曲輪14








写真がブレていて申し訳ないですが、13の虎口の下に広い平坦地がありました。縄張図14の箇所。というのもこの辺りから天候が怪しくなり風も強くなってきてろくに道もない場所への初到達ということもあり不安になってきたのもあって焦ってました。
本当はこの下の平坦地も踏査したかったのですが、そういった事情で見送ることに。
どうやら北側一帯には他にも遺構がある可能性があります。
31中世観瀧寺跡崩落石垣15








中世観瀧寺跡は石垣が多用されていたようで、所々崩落した跡があります。縄張図15の箇所。
32中世観瀧寺跡崩落石垣








崩落石垣のアップ。裏込めらしき礫も見えます。
33中世観瀧寺跡土塁北側曲輪散乱石材16








石垣らしき石材が散乱している平坦地。縄張図16の箇所。右に見える切岸は2の大土塁。
この土塁は先までは踏査してませんがずっと東まで伸びてました。
34中世観瀧寺跡土塁北側曲輪17








石材が散乱している平坦地。縄張図17の箇所。こちらもかなりの規模があります。
35中世観瀧寺跡南側石垣








中世観瀧寺跡が石垣を持つ寺院だったことを証明する遺構。戻るときに見つけたものですが、立派な石垣が残されていて驚きました。縄張図18の箇所。中世以前の福知山市内の遺跡でここまでの規模の石垣を持つ遺跡は見たことがありません。
今回初到達ということと、天候の悪化で確認できなかった箇所や写真もしっかり撮れなかった十分な踏査とは言えない結果になりましたが、今まで地元の人からの伝聞でしか存在を知らず、市教委も府教委も周知していない自分の中では伝説の存在だったある意味幻と言ってもいい寺院跡の大規模な遺跡を発見することができ、感動いたしました。しかし、福知山市内でも有数ともいえる中世寺院の遺跡、これほどの遺跡が公的機関が周知していないのは驚きです。いずれしかるべき機関に報告はしようかと思います。そして、改めて悉皆踏査を試みたいと思っております。
次は他の石垣や石塔類の残欠や古墓が見つかれば大きな成果となるでしょう。


besan2005 at 22:21|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 遺跡

2014年05月31日

丹波笠次病院 京丹波町須知地区

旧須知小学校のある須知地区は旧山陰道の街道沿いの町として
発展してきた町でした。
現在は集落の前を拡張された国道9号線を通り、そちらが本通りとなっていますが、
かつては須知地区を通る道がかつての街道でした。
現在もかつての旧須知町の中心だった面影が残されています。
その中で戦前の洋館の医院が現在も残されています。
須知1








丹波笠次病院の旧館。典型的な昭和初期の地方の木造病院建築。
須知2








だいぶ老朽化はしているものの、当時の面影は良く残されています。
須知3








裏手はペンキも無くかなり傷んでいる様子が。
丹波笠次病院はこの旧館のそばに新館が建てられておりますが、
老朽化しているとはいえ、よく残していただいていると思えます。
須知4








街道沿いには古い町屋もいくつも残され、
かつての旧山陰道の面影を伝えています。

besan2005 at 20:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 医療機関 | 京都府

旧須知小学校

京都府京丹波町にある旧須知小学校を訪問してきました。
須知小学校は明治6年創立の小学校で、明治20年に須知小学校と改称しました。
現在残っている校舎は昭和10年に改築された校舎で80年経った現在でも
当時の姿をよく残しています。
須知小学校1








旧須知小学校本館。典型的な地方の戦前の木造校舎です。
須知小学校002







昭和10年の改築記念で作られた須知小学校本館の絵葉書。
80年前の姿そのままです。
関連サイト・古絵葉書 須知小学校
須知小学校3








建物の中には入れませんが、窓から中を伺うことはできます。
これは本館玄関から中を撮影したもの。
内部も当時の姿がよく残されています。
須知小学校4








教室棟。本館から広がるように左右に配置されています。
須知小学校2








二宮金次郎像。古絵葉書に写っているのと同じものです。
須知小学校5








台座には昭和9年に校舎改築記念として建立されたとあります。
須知小学校6








校舎のそばにはたくさんの花が咲いていました。
かつて花壇に植えられていた花たちの子孫でしょうか。

旧須知小学校は本館・講堂・教室棟が昭和10年当時のまま残り
地方の戦前木造校舎として貴重な存在となっています。
今後の有効活用に期待したいものです。

besan2005 at 13:41|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2014年05月07日

舞鶴市浜地区 旧海軍官舎群

舞鶴市浜地区通称「官舎山」と呼ばれた丘の麓には
北吸官舎と呼ばれた街並みが作られ、海軍軍人用の官舎が建ち並んでいました。
官舎の建築は明治32年から始められ、明治35年に終了し65棟建てられました。
海軍官舎配置図










図1
※舞鶴市教育委員会社会教育課「舞鶴の民家 旧市長公舎」のHPより引用。
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/modules/kyoikup/index.php?content_id=197
上記のHPから引用した北吸官舎の配置図。

今回浜地区の旧海軍官舎街を探索した結果、官舎と思われる建物を
10棟確認しました。
現存官舎位置










図2
※上記の図を参照し現存している官舎の位置を赤で塗りつぶしたもの。
(位置に関して差異があるかもしれません。間違ってましたらご指摘ください。)
半分になっている官舎もありました。

以下探索で確認した旧海軍官舎です。

海軍丁号官舎1








丁号官舎(図2)第1期工事のもの。
棟は半分だけ残されています。
門扉は交換されていますが門柱は当時のもの。
海軍丁号官舎2








丁号官舎(図2)第1期工事のもの
こちらは完存。門扉だけは交換されています。
門が2つあるので1棟に2世帯住んでいたと言うことでしょうか。
海軍丁号官舎3








丁号官舎(図2)第1期工事のもの。
棟は半分のみ残存。門扉と門柱は当時のものか。
塀はブロック塀に変えられてますが、塀の支え柱はオリジナルと思われます。
海軍丁号官舎4








丁号官舎(図2)第1期工事のもの。
こちらも半分のみ残存。門柱と塀の支え柱は当時のもの。
海軍丁号官舎5








丁号官舎(図2)第3期工事のもの
建物の外観は改装されています。
海軍丁号官舎6








丁号官舎(図2)第2期工事のもの。
空き家になってて塀も一部失われているため、官舎の姿が一番よく確認できます。
外観は当時のままのようですが、やはり棟の半分が失われているようです。
棟が半分にされているのは、丁号官舎△里茲Δ烹韻弔療錣烹伽ぢ喟験茲靴討い燭燭
所有者が異なり、住み続けられている部分だけ残された可能性があります。
長らく空き家だったためか老朽化が進み管理会社の管理下に置かれているようで
近いうちに取り壊される可能性があります。
海軍丁号官舎7








丁号官舎(図2)第2期工事のもの。
外観は改装されています。門柱と塀の支え柱は当時のものと思われます。
海軍丁号官舎8








丁号官舎(図2)第2期工事のもの。
建物の外観は改装され塀も建て替えられていますが、
建物自体は当時のものと思われます。
海軍丙号官舎9








丙号官舎(図2)第2期工事のもの。
塀はブロック塀に建て替えられていますが、門柱と母屋の建物は当時のままのようです。
海軍丙号官舎10








この丙号官舎の敷地の隅に木造の小さな付属屋がありました。
当時のものでしょうか。
海軍乙号官舎旧市長公舎1








乙号官舎(図2)旧市長公舎 第3期工事のもの。
旧市長公舎として使用されていた旧官舎で、この官舎だけ門が枡形のようになってました。
海軍乙号官舎旧市長公舎2








街路の角から。最近左側の塀が修復されたようです。
海軍乙号官舎旧市長公舎3








母屋は当時の状態がよく保たれていると思われます。

北吸官舎街の旧海軍官舎は全て和風平屋建てで寄せ棟の屋根となっており、
門や塀も含めてデザインが画一化されています。
また、旧鎮守府長官舎近くの海軍官舎のように洋館は併設されておりません。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54136401.html
※記事・東郷邸近くの旧海軍官舎

旧鎮守府長官舎近くの官舎が鎮守府付き副官や艦隊司令官等の将官クラスの
高級将校用の官舎としたら、北吸官舎街の官舎は中級〜下級の所帯持ち将校用の
官舎だったのでしょうか。

現在現存している官舎は空き家を除いて個人宅として使用されています。
個人名が判明するものは画像の加工処理を施しました。



besan2005 at 11:24|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2014年05月04日

亀岡市 旧大谷鉱山鉱長社宅

京都府亀岡市稗田野町鹿谷地区はかつて大谷鉱山があった場所で、
鉱山の街として栄えていました。
鉱山の採掘はタングステン。大正3年から採掘がおこなわれました。
しかし、昭和58年閉山。現在は静かな集落ですが、
今でも鉱山町時代の遺構が残されています。

鉱長の社宅もその一つで良好な状態で現存しています。
大谷鉱山鉱山長旧宅3








鉱長社宅。平屋建ての和風建築。
大谷鉱山鉱山長旧宅2








一部出窓を設けています。中は洋室のようです。
しばらく空き家でしたが現在はリニューアルされ個人宅となってます。
出窓は元からあったもののようです。
建築年代は戦前であることは間違いないと思われます。
昭和初期ごろでしょうか。
大谷鉱山








鹿谷地区内には他にも鉱山時代の建物がいくつか残されてますが、
ほとんどが廃墟と化しています。

besan2005 at 12:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 鉱山施設 | 京都府

舞鶴旧北吸浄水施設&舞鶴旧鎮守府水道施設(桂貯水池・岸谷貯水池)

2013年7月7日に一般公開された旧北吸浄水場のレポです。
旧北吸浄水場は舞鶴湾に停泊する艦艇に給水するために
設けられた施設で、明治34年に建設されました。
第一配水池と第二配水池の2棟が現存し、
国指定重要文化財に指定されています。
北吸浄水場1








旧北吸浄水場の正門。こちらも国指定重要文化財。
北吸浄水場2








配水池上屋は煉瓦造りで、大正15年に建設されたもの。
北吸浄水場3








配水池上屋の間。

公開されたのは奥側の第一配水池。
北吸浄水場4








内部も煉瓦造りで荘厳な雰囲気。
このようなスペースが5つくらいあり、
つづら折れのようになっています。
北吸浄水場5








地下の配水池は明治34年築。
北吸浄水場6








まるで神殿のよう。
北吸浄水場7








上屋の屋根は鉄骨組のトタン張り。
鉄骨も上屋の煉瓦壁と同じ大正15年のもの。

海軍の軍用水道施設は別の場所に設けられ、
舞鶴の外れの与保呂川上流に貯水池が作られました。
明治33年完成の桂貯水池と大正10年完成の岸谷貯水池があり、
両方とも国指定重要文化財となっています。
与保呂堰堤1








桂貯水池。明治33年建築。
石張りの堰堤は欧州の古城のよう。
与保呂堰堤2








水門には扁額とMを2つ重ねた海軍のマークが。
このマークは朝来地区の第三火薬廠跡に残る消火栓にもあります。

岸谷貯水池1








岸谷貯水池。大正10年。
桂貯水池の下流側にある貯水池。軍港拡張により新たに建設されたもの。
これは放水路。
岸谷貯水池水路橋











放水路をまたぐ導水橋。コンクリート製と思われます。

besan2005 at 11:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院 中舞鶴分院跡

旧舞鶴鎮守府庁舎のあった丘の麓には、
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院の中舞鶴分院がありました。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院1








現在はコンクリート製の塀と門柱が残されています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院2








角部分には石製の柱が据えられています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院3








正門部分。敷地内はかさ上げされて駐車場として使用されています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院4








門柱の照明部分。凝った装飾が施されています。
コンクリート製ということとすだれ状の装飾から昭和初期のものでしょうか。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院5








旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院中舞鶴分院跡の隣には明らかに戦前の建物と思われる
平屋の住宅とコンクリート製の門柱が残されています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院6








和風の平屋住宅です。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院7








舞鶴市浜地区にある将校用の海軍官舎だった旧市長公舎によく似ており、
この建物も海軍官舎かと思いましたが、隣の中舞鶴分院との関係上、
中舞鶴分院関係の建物の可能性もあります。

また、この一帯には戦前のものと思われる古い建物が他にもいくつか残されています。
舞鶴の洋館1








明治36年建築の旧高田商会の事務所だった建物。
高田商会は軍関係の商社で、鎮守府庁舎のそばにあることから
舞鶴鎮守府のお抱え商社だったのでしょうか。
後に医院として使用。現在は個人宅です。
平屋の洋館部分がいかにも明治といった趣。
一部戦時中に施された迷彩の跡が残ります。
舞鶴の洋館2








旧高田商会近くの住宅。戦前の建物かと思われます。
舞鶴の洋館3








伝統的な町屋建築に洋館が付属する建物。
写真には写ってないですが木造の洋館部分に煉瓦造りの壁があります。
コンクリート製の門柱や木製の門扉も戦前っぽい。
舞鶴の洋館4








外観が新しくリフォームされているが、恐らく戦前の建築。

besan2005 at 08:17|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2014年05月03日

旧舞鶴海軍特一号官舎・特二号官舎(高級将校用か)

旧舞鶴鎮守府長官官舎(東郷邸)近くに、旧海軍時代の特一号・特二号官舎が
2棟残されています。
※東郷邸一般公開レポ記事
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54136392.html

無題








GoogleMapによる官舎位置。
官舎位置










旧舞鶴海軍工廠本館(JMU舞鶴事業所記念館)の見学の際に見た明治42年作成の舞鶴海軍工廠と周辺の配置図により、この2棟の官舎が特一号と特二号という海軍官舎だったという裏付けを取ることが出来ました。(2018年7月21日)
旧海軍官舎1








特一号官舎と特二号官舎は細い小路に並ぶように建てられており、東郷邸と同じ和風の母屋に洋館併設された住宅建築です。
旧海軍官舎2








特一号官舎の洋館部分。軒下の装飾等、東郷邸の洋館部分と酷似しています。
また、鬼瓦には東郷邸と同じく錨の紋が入れられています。
特一号官舎は現在、舞鶴地方総監の官舎として使用されています。
東郷邸2








こちらは東郷邸の洋館。妻側の装飾がほぼ同じです。
旧海軍官舎と思われる建物の洋館は鎮守府長官の官舎である東郷邸の洋館を
一回り小さくした感じでしょうか。
P1000072










特二号官舎から特一号官舎方向を撮影。建物の規模や造り、配置は特一号官舎と同じです。
旧海軍官舎3








特二号官舎の母屋部分。東郷邸と同じ平屋の和風建築です。
並ぶ2棟は全く同じプランで建てられているようです。
舞鶴には浜地区に将校用の官舎だった旧海軍官舎の建物が残されていますが、
その建物は和風の平屋。
この2棟は洋館併設の住宅建築でさすがに鎮守府長官の邸宅ほどではないですが
中々の規模と豪勢さを誇ります。
洋館のデザインが鎮守府長官官舎と酷似していること、洋館併設の豪華さ等から考察するに
鎮守府長官官舎とほぼ同時期に建てられた鎮守府付きの副官や艦隊司令官といった
将官クラスの人たちが暮らす高級将校用の官舎ではないかと思います。

besan2005 at 21:38|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

旧舞鶴鎮守府長官官舎(東郷邸)

かなり久しぶりの更新となります。
2013年5月27日に公開された旧舞鶴鎮守府長官官舎(東郷邸)のレポです。

東郷邸1








旧舞鶴鎮守府長官官舎は、舞鶴鎮守府が開庁した明治34年に鎮守府長官の邸宅として
同年建てられました。
初代舞鶴鎮守府長官であった東郷平八郎もここで2年間過ごしています。
すぐ近くにあった鎮守府庁舎は現存していませんが、長官官舎は海上自衛隊に移管され
東郷邸として保存されています。
東郷邸2








洋館部分。
長官官舎は明治期らしい和風の母屋に洋館が併設された建物です。
東郷邸11








洋館の基礎の一部は布積みではなく吹き抜け上になっています。
ここは後から改築されたものでしょうか。
東郷邸10








通風孔。
東郷邸3








裏庭部分。洋館と和風の母屋が接続されています。
東郷邸4








洋館内部。玄関にも近いため応接室として使用されていたと思われます。
東郷邸5








洋館部分のサンルーム。
東郷邸7








母屋の廊下。
東郷邸6








母屋内部。書院造の純和風建築です。
東郷邸8








奥の書斎へ通じる廊下。
東郷邸9








官舎の一番奥にある書斎。ごくシンプルな和風建築で
歴代の鎮守府長官がくつろいだ私室だったと思われます。
東郷邸12








書斎からは庭園が望めます。




besan2005 at 21:18|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2011年09月18日

福知山陸軍衛戍病院関連と思われる建物。

fukuchiyamaishi2
福知山市の市役所裏にある伯耆丸公園には、かつて陸軍の衛戍病院がありました。
遺構としては、当時の石垣と名盤が残っていますが、それとは別に伯耆丸の登り口に
衛戍病院時代と推測される古い建物が現存しています。
fukuchiyamaishi3
その証拠となるのがこの通風口で、写真に写る真ん中の平屋の建物にあるものですが、
通風口のデザインが陸軍の☆マークになっています。
また、基礎がレンガ造りという明治期特有の作りになっていることも挙げられます。

これまではこの登り口からの観察しかしておりませんでしたが、
今回中庭部分に回ってもう少し調査致しました。
P1030495
まず古いと思われていた建物は、真ん中の棟の陸軍の☆マークの建物だけかと思いましたが、
その左隣の伯耆丸側の建物も煉瓦基礎を持つ下見板張りの古い建物であることがわかりました。
ただ、通風口は☆マークではありませんでしたが、衛戍病院時代とさほど時期差の無い建物かと思われます。
新しく見えたのは、道路側の面だけ改修していたからのようです。
P1030502
中庭跡と思われる位置からの撮影です。
上記の下見板張りの建物は2階建てです。
衛戍病院時代と思われる建物は、中庭跡から見ると結構規模のある建物のように見えます。
福知山衛戍病院 病室
衛戍病院時代の絵葉書。
どことなく面影が無いこともないかな?
P1030498
中庭の左端にある建物。
衛戍病院時代の建物かはわかりませんが、
戦前の建物の可能性は十分ありそう。
P1030500
小口面から。
当初の面影がそのまま残されている気がします。
この建物もモルタルで塗られて入るものの、
基礎は煉瓦のようです。

最初に説明した2階建ての木造建築もですが、
現在同じ市内の旧20連隊の敷地跡に残されている陸軍時代の建物と
外観がよく似ています。
旧演武場
こちらは旧演舞場。
明治31年の建物です。
その他に、旧軍属宿舎の建物が残ってますが、
特に旧軍属宿舎と上記の平屋の建物がよく似ております。

※参考サイトhttp://kanreport.blog58.fc2.com/blog-entry-53.html#cm

これらの建物はもしかすると全て旧衛戍病院時代のむ建物であった可能性があります。
さらに言えば、一番手前の旧福知山医師会館の建物も改修されているだけで
元は旧衛戍病院時代の建物であった可能性も十分ありえます。

※福知山医師会のサイトによると、「福知山医師会」と改称したのは昭和22年。
http://www.fukuchiyama.kyoto.med.or.jp/syoukai/syoukai-1.html
医師会が戦後まもなく旧衛戍病院の建物を払い下げられた可能性がある。

P1030496
建物の背後の伯耆丸登り口下には、当時のものらしき布積みの石垣があります。
ところどころ小さなレンガ積みがありますが、不明です。
P1030493
建物の近くの登り口脇に軍の境界石が残されています。
「陸境・・・」と刻まれているので、陸軍の境界石のようです。
このすぐ横にあと2本石柱がありますが、埋もれていて文字はわかりませんでした。
しかし、恐らく陸軍の境界石かと思われます。

besan2005 at 14:45|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2010年11月29日

福知山衛戍病院の石垣遺構

かつて福知山城の曲輪の一つであった伯耆丸台地は、明治に入り陸軍の衛戍病院が駐屯することになります。

福知山衛戍病院 病室明治期の福知山衛戍病院を撮影した当時の絵葉書。





現在、伯耆丸は公園となり、衛戍病院時代の建物は残っていませんが、衛戍病院を建設するにあたり築かれたと思われる石垣が残されています。

福知山衛戍病院跡5こちらは市役所側の石垣。整然とした落し積みの石垣で、福知山城の頃の戦国〜江戸期の石垣ではないことは一目瞭然です。




福知山衛戍病院跡1切通し側の石垣。
一番下の石垣はより新しい石垣で、近年のもの。明治期の石垣は草に覆われた部分で、最近崩落があり修復されています。
実はここに石垣が築かれた時代を証明する資料が残されています。

福知山衛戍病院跡3石垣の一部に銘板が嵌めこまれており、石垣工事の請負人や施工者、石工の名前が刻まれ、「明治三十五年」の年号も書かれています。




ちなみに、伯耆丸へ上がる坂のふもとに古い洋館が建っています。

fukuchiyamaishi2この建物の基礎部分に重要な資料が隠されています。






fukuchiyamaishi3煉瓦の基礎に嵌めこまれている鉄の通風口の模様が陸軍の星マークで、陸軍の建物だったことは間違いありません。断定は出来ませんが、衛戍病院関連の建物だった可能性があります。

besan2005 at 08:23|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

篠山市の近代化遺産

城下町である篠山市は現在も古い町並みが残りますが、明治以降の近代化遺産も数多く残っています。
今回は篠山市に残る戦前の洋館の数々を紹介いたします。

大正ロマン館
大正ロマン館。元は大正12年に建てられた篠山町役場で、現在は改修され観光施設として利用されています。





旧篠山区裁判所外観篠山市歴史美術館。
明治24年築の旧篠山地方裁判所の建物で、現存する最古の木造裁判所です。
貴重な近代和風建築として保存活用されています。


旧篠山区裁判所法廷旧法廷。規模は小さいですが、内装や机など凝った作りになってます。






篠山市のその他の近代化遺産建築。

味処 一超味処 一超。

大正期〜昭和初期の建築か?




篠山の洋館2結構レベルの高い洋館。
大正期か?





井塚歯科医院井塚歯科医院。

窓まわりに改装が見られますが、
概ね旧態はとどめてます。
大正期〜昭和初期か?


篠山の洋館1下見板張りの小さな洋館。
2階部分の窓は当時のまま。

昭和初期か?



篠山の洋館3日本風の入母屋屋根を持つ洋館。
1階はガレージに改造されてますが、
2階は窓を含め当時のままのよう。
大正期か?

besan2005 at 07:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 官公庁・役所 | 兵庫県

2010年06月06日

亀岡市東別院町の煉瓦倉庫。

亀岡東別院町の煉瓦倉庫1京都府の亀岡市街から茨木市へと抜ける府道46号線を走っていると亀岡市東別院町へと入りますが、東別院町荒内という地区に煉瓦造の蔵らしき建物が残っている民家がありました。
現在は戦後建築の平屋建物と、この煉瓦蔵しか残ってませんが、写真のお城のような高石垣から分かるとおり、かつては相当なお屋敷だったのではと思われます。
亀岡東別院町の煉瓦倉庫2煉瓦蔵のアップ。煉瓦はイギリス積みで、明治末期から大正期の建築かなと推定されます。
建物のデザインはまんま和風の蔵。
しかし、当時は煉瓦自体が高級な建築資材だったはずで、このような田舎に煉瓦建築が建られること自体珍しく、かつては地主クラスの屋敷だったのではないでしょうか。
現在平屋が建てられている敷地には豪勢なお屋敷やもしかしたら洋館もあったのではと思いますが、今となっては煉瓦蔵と高石垣のみ当時の面影を残しています。
ただ、敷地内に庭園が残されている可能性もありますが、現在も個人の敷地なので確認することは出来ませんでした。

煉瓦蔵も含めて、このお屋敷の素性は全くもって不明です。
現在亀岡市内には、楽々荘とこの東別院の煉瓦蔵の2件しか
煉瓦建築はないと思われ、貴重な存在ですので、
何かご存じの方はご連絡ください。

大きな地図で見る

besan2005 at 19:09|PermalinkComments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 煉瓦 | 京都府

2010年04月12日

豊郷小学校旧校舎群

豊郷小学校正門滋賀県豊郷町にある豊郷小学校の旧校舎群です。
昭和12年にヴォーリズの設計により建てられた校舎で、鉄筋コンクリート造の建物は当時「東洋一」と呼ばれました。
2002年に解体問題が浮上し、保存運動が起きた結果、旧校舎は耐震工事を行った上に保存。背後に新校舎を建てることで決着しました。
その後旧校舎は町の施設として使用されていますが、2009年に放送されたテレビアニメ「けいおん!」の学校のモデルとされたことから、けいおん!ファンが訪れるようになり、「聖地」として賑わうようになりました。
校舎外観旧校舎外観。外観はすっきりとしたモダンデザイン。




ウサギとカメの手すり1階段の手摺には「ウサギとカメ」のブロンズ像。
豊郷小学校のシンボルとも言える存在。






部室前階段階段を上がりきった3階には旧音楽室があります。




P1000540旧音楽室。昇華を歌うための演壇が設けられています。




部室旧音楽室の隣にある準備室は「けいおん!」の主人公たちが軽音楽部の部活を行う「部室」のモデルになった部屋で、ファンによるセットや小物が置かれています。


P1000511部室に置かれたホワイトボードには、
ファンが張ったイラストなどが多数。




P1000516黒板は書き込み自由で、ファンによる
コメントやイラストで埋まっています。




P1000507「部室」に置かれたティーセットとお菓子。
作中で主人公たちがティータイムを過ごす
シーンを再現しています。





講堂外観別棟の旧講堂。





講堂内部旧講堂内部。
入口側から奥に向かうにつれて
高さが下がっていき、奥からでも
壇上が見えるようになってます。


図書館外観別棟の旧図書室。





図書館内部旧図書室内部。
アールデコ調のデザインでまとめられ、
豊郷小学校内で一番装飾的な建物です。
こちらは現在観光案内所として使われ、
特に「けいおん!」関連のものが
たくさん展示されています。

P1000522展示されているグッズの数々。





P1000529こちらが「けいおん!」のポスター。
今年4月から2期が放送開始となり、
ますます見学者で賑わうことでしょう。



http://besankosyashin.blog56.fc2.com/blog-entry-441.html
こちらに、建設当時の竣工記念絵葉書を紹介しています。
すべて揃っていないのが残念ではありますが、ほぼ現在の姿と変わっていないことがわかります。

※今回紹介した豊郷小学校旧校舎群の画像は時系列に差があります。

besan2005 at 06:52|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 学校建築 | 滋賀県

2010年03月28日

ポストモダン建築の夜景。

ひさしぶりに夜景でも
道の駅 夜景2
とある道の駅。
道の駅 夜景3
いわゆる「ポストモダン建築」の部類に
入る建物。
道の駅 夜景
壁面はほぼ全面ガラス張りで、透明感を出し、
支えの鉄骨の柱もデザインを考慮されています。
道の駅 夜景4
ポストモダン建築は賛否両論がありますが、
私は好きです。近未来的なデザインに惹かれます。
ただ、機能的でないことも多いですけどね。

besan2005 at 07:33|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック (旧版)夜景散影 

2010年03月15日

舞鶴要塞・金岬砲台跡再訪

2009年の9月に舞鶴要塞ツアーとして、各砲台跡を巡った中に
金岬砲台跡がありました。そこは山の奥に位置し、当時の広い旧軍道が残っているので歩きやすいとは言え、中々たどり着きにくい砲台でしたが、そのおかげで、他の砲台跡の中でも極めて保存状態の良い砲台でした。

この金岬砲台へはどうしても再訪したいと願っており、
今回、再び見学に向かう機会が出来ました。
前回は到着したのが夕方4時近くであり、9月とは言え末に近く、
時間も殆どない状態で、十分見学出来なかったのですが、
それでも保存状態の良さと規模の大きさに圧倒された記憶があります。

今回は朝から向かうことが出き、時間もありましたので
前回見ることの出来なかった地点も踏査してみたのですが、
さらに多くの遺構が残されており、舞鶴要塞の中でも1番ではないかと思えるくらいの砲台跡のように思われました。

前回訪問時に見た遺構は前回のレポートを見ていただくとして、
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/51308179.html
今回は前回確認出来なかった遺構を紹介します。

金岬砲台最奥弾薬庫1まず、1番砲座に近い半地下式の弾薬庫の
1番奥の地点。前回藪で先に進めなかった地点。
やはり、同じような半地下式の弾薬庫がありました。突き当たりは石積みの擁壁になっており、
横に石の階段があります。
ここから、上の砲座に向かったのでしょう。

金岬砲台最奥弾薬庫3壁側から撮影。
この場所にはこれで、同じような作りの半地下式の弾薬庫が4つ並んでいることがわかりました。



金岬砲台煉瓦指揮所1その最奥の弾薬庫の上にあがると、このような煉瓦の通路が。




金岬砲台煉瓦指揮所2先に進むと円形の煉瓦構造物となっており、
恐らく砲座の指揮所だったのではと思われます。




金岬砲台高射砲座階段半地下式の弾薬庫の地点から正門側へと戻り、
正門側から入って2番目に見えてくる弾薬庫群の
上部にこのような石積みの擁壁と階段がありました。
壁に開いている半円の窪みは用途不明です。



金岬砲台高射砲座1上がると砲座があったのですが、ここだけコンクリートで補強されている上、砲座ののような出っ張りが・・・



金岬砲台高射砲座2間違いなく大砲を据えていた台と思われるのですが、艦船を狙う榴弾砲にしては小さすぎる。
これは、高射砲の台座ではないだろうか・・・
だとすると、昭和9年に廃止されたと言われている金岬砲台は、実は他の明治の要塞と同じく
対空砲台として利用されていたと言うことになります。
ちなみに、コンクリートで補強され、台座の置かれた場所は、現時点でここだけでした。

金岬砲台砲座横煉瓦その砲座の近くには、指揮所と思われる煉瓦構造物があります。脇に階段がありますが、これも煉瓦製です。



金岬砲台北端弾薬庫正門から1番目の弾薬庫群(4つ)と、さきほど書きました2番目に見えてくる弾薬庫群との間の通路は二手に分かれていて、上へ上がる道は2番目の弾薬庫群へと通じるのですが、したへずっと下っていくと、もう一つ半地下式弾薬庫がありました。こちらは煉瓦の擁壁になっています。

金岬砲台最北端煉瓦構造物1さらに進んで行くと、かなり広い平坦地に出ます。その海側には大規模な煉瓦壁と言うべき遺構が残されていました。



金岬砲台最北端煉瓦構造物2広大な平坦地を守るかのように煉瓦壁は作られているため、この煉瓦構造物もかなりの規模です。
推定ですが、この平坦地は兵舎もしくは砲台の司令室のような施設があり、それかを海側から守るために巨大な煉瓦の壁で防御しているのではと
思いました。

金岬砲台排水口1今回、砲台の各所に石積みの排水口がいくつも設けられているのが確認出来ました。他の砲台にもあったと思いますが、ここ金岬砲台みたいに立派で目立つものはありませんでした。




今回の再訪で、さらに大規模な砲台跡であることが確認できた
金岬砲台跡。しかし、今回の探索でもまだ全部は確認出来ていないと思われます。(砲台のさらに下にも平坦地や軍道があるのを確認しているので、その先に付属施設や付属の小砲台がある可能性あり。)もう一度探索する必要がありそうです。

金岬砲台ガラス瓶余談ですが、金岬砲台の敷地内を探索していると、当時のビール瓶やサイダー瓶などのガラス瓶が多数見つかりました。当時の兵士たちが飲んで捨ててたものでしょうが、砲台の規模、敷地全体に敷かれている玉砂利、そして散乱する陶磁器やガラス瓶。さらには葺かれていた瓦の大きさ(落ちていた瓦は本瓦でした。本瓦葺きは、通常の桟瓦と違い重量があるので、城や寺院と言った大規模な建物にしか使われません。)など、他の砲台跡とは一線を画す、ただの砲台には見えません。それこそ司令部があったかのような。
こんな別格に近い金岬砲台がなぜ昭和9年に廃止になったのか。
今のところ理由は不明です。



besan2005 at 15:39|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年12月01日

福知山・旧陸軍歩兵第二十連隊関連遺構

正門門柱29日は陸自福知山駐屯地内でイベントがあり、一般開放されていたので、旧陸軍時代の建物や遺構がどれだけ現存しているか調べるために訪問。もちろん、装備品の展示物や模擬戦闘訓練の公開も目当てでしたけどw

写真は、旧二十連隊の営門の門柱。煉瓦製。

続きを読むで、他の写真へ。続きを読む

besan2005 at 00:04|PermalinkComments(4) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年11月30日

竹田城の雲海2009.11.29

竹田城遠景2「天空の城」として有名な竹田城。
山城ファンにとっての聖地だけでなく、写真家にとっても有名な場所。
私自身5回も訪れているまさに「聖地」です。
しかし、今まで有名な「雲海に浮かぶ竹田城」の姿を見たことはなかった。季節が晩秋から初冬に限られるうえ、さまざまな気候の要素が重なり合わないといけないから。
しかし、昨日11/29の日曜日早朝、ようやく雲海を見ることができた。それも濃く厚い雲海を。
上の写真は、竹田城の向かいにある「立雲峡」という山からの撮影。雲の上に浮かぶ石垣の古城はまさに天空の城の名にふさわしい。

つづきから、竹田城からの雲海の写真を紹介します。

続きを読む

besan2005 at 23:04|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 城郭 | 兵庫県
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