2020年06月14日

経ヶ岬灯台訪問レポ日記

27経ヶ岬灯台看板











経ヶ岬にある経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所の探索と合わせ、経ヶ岬灯台を訪問しました。
経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所遺構 探索レポ日記
経ヶ岬灯台は明治31年に初点灯をした灯台で、日本に5つしかない第1等フレネルレンズを使用する保存灯台であり、日本んの灯台50選にも選ばれている灯台です。
26経ヶ岬灯台










経ヶ岬灯台の看板と遠くに見える経ヶ岬灯台。ちなみにここは正門ではありません。
28経ヶ岬灯台付属建物










最初に見える付属建物。
29経ヶ岬灯台付属建物










石造の建物で、倉庫なのですが、貼られているプレートを撮り忘れた・・・
32経ヶ岬灯台レーダー













敷地内にあるレーダーの鉄塔。
43経ヶ岬灯台正門










経ヶ岬灯台の正門。現在もこの正門から下って麓に行けます。
34経ヶ岬灯台










そして、主役の経ヶ岬灯台。
33経ヶ岬灯台










石造の堂々たる白亜の灯台。
35経ヶ岬灯台













海側の右から
36経ヶ岬灯台













左から。
37経ヶ岬灯台













正面から。経ヶ岬灯台に使われている石材は灯台下の海岸から切り出されたものです。
1海軍望楼










前回紹介した明治30年代の経ヶ岬海軍望楼の石材も同じ場所から切り出した石材かと思われます。
37経ヶ岬灯台銘板










灯台の入り口にある銘板。
38経ヶ岬灯台階段










石造倉庫や官舎のあった場所から灯台へと降りる階段。
39経ヶ岬灯台擁壁










経ヶ岬灯台は建物も塀も擁壁も全て石造です。恐らく煉瓦などを輸送する困難さより、海岸の石を切り出す方が効率的だったからだと思います。
40経ヶ岬灯台海










経ヶ岬灯台から望む日本海。
41経ヶ岬灯台海










まるで中世ヨーロッパの城塞か沿岸砲台の要塞のように見えるそんな雰囲気。120年余り日本海の安全を見守り続けてきました。
42経ヶ岬灯台海










経ヶ岬のある海岸は険しい崖がそそり立つリアス式海岸。今でこそ立派な道路がありますが、当時は灯台までの道は大変だったと思います。
経ヶ岬灯台古絵葉書








完成当時の経ヶ岬灯台。現存する灯台と倉庫の他に官舎がありました。この官舎も残されていたらより素晴らしい情景だったと思います。
44経ヶ岬灯台猿










経ヶ岬灯台からの帰り、ニホンザルの群れに出くわしました。
46経ヶ岬灯台猿










ニホンザルの親子。車内から撮影。野生のサルは凶暴なので要注意。餌などをあげてはいけません。

経ヶ岬灯台は毎年11月頃に内部の一般公開があるそうです。経ヶ岬海軍特設見張所の遺構で見逃したものもあるし、そのタイミングで再訪したいと思っています。


besan2005 at 19:10|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | その他近代化遺産

2020年06月08日

経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所遺構 探索レポ日記

25経ヶ岬灯台










京都府京丹後市、丹後半島の最北端にある経ヶ岬にあった海軍望楼と海軍特設見張所の遺構を
探索してきました。経ヶ岬と言えば明治31年築の白亜の石造灯台、経ヶ岬灯台が有名ですが、
明治期と昭和17年に海軍の監視所が造られています。明治期の経ヶ岬海軍望楼と昭和17年の
経ヶ岬海軍特設見張所になりますが、調べていくうちに遺構が現存していることが分かり、
今回探索することにしました。
※経ヶ岬灯台に関しては後日記事にします。この灯台も素晴らしい建物でした。

経ヶ岬海軍望楼・海軍特設見張所遺構配置図







今回探索した経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所の遺構配置図。
まずは明治期の海軍望楼の時期と思われる遺構を紹介します。

経ヶ岬海軍望楼は明治期に全国の沿岸に置かれた海軍望楼の一つで、付近を航行する艦船の監視、気象観測、海難事故の報告などを行った施設です。経ヶ岬海軍望楼の具体的な設置年は分かりませんでしたが、アジア歴史資料センターの公開資料で、明治34年の資料の中に経ヶ岬海軍望楼の記述があるので、少なくともその時期には存在していたことが分かります。恐らくですが、経ヶ岬灯台が完成した明治31年の直後なのではないでしょうか。明治期に設置された各所の海軍望楼は第一次世界大戦後から整理が行われ、大正12年までには全て撤廃されました。経ヶ岬海軍望楼もそれまでに廃止され、以後放置されていたと思われます。
天狗鼻海軍望楼2








※参考・薩摩川内市 天狗鼻海軍望楼(2001年2月管理人撮影)
1海軍望楼










経ヶ岬には当時の海軍望楼が残されています。石造で、経ヶ岬灯台と同じく岬の石を切り出して建築されたと思われます。
1海軍望楼2










斜めから。
2海軍望楼










背面の入り口。
2海軍望楼内部










経ヶ岬海軍望楼の内部は休憩所に改装されてますが、ほとんど使用されていないため荒廃ぶりが目立ちます。あと、落書きが酷い。説明板も何もなく、改めてきちんと整備して説明板などを建てる必要があるのではないでしょうか。先に紹介した天狗鼻海軍望楼や稚内市の大岬海軍望楼は市の指定文化財として保存されているわけですし。
6石塁










経ヶ岬海軍望楼の背後には石塁が残されています。
7階段













石塁の側には荒廃した石段があります。ここを下ると昭和期の海軍特設見張所の遺構のあるエリアに至ります。
3石製構造物










海軍望楼の脇にある石製の構造物。穴が2つ開いてます。用途は不明。
経ヶ岬海軍望楼図面









アジア歴史資料センターの明治36年の公開資料より。信号竿や百葉箱があり、
兵舎の姿も描かれています。

経ヶ岬海軍望楼の廃止後、海軍望楼の施設は恐らく放置されていた可能性があります。
石造の頑丈な海軍望楼は残されましたが、その他の施設は荒廃し朽ちて行ったと思われます。
その経ヶ岬海軍望楼跡地に昭和17年、再び海軍が監視所を設置します。それが経ヶ岬海軍特設見張所です。
舞鶴警備隊管轄の海軍特設見張所は8ヵ所ありましたが、うち京都府内には経ヶ岬・上世屋・冠島の3ヵ所にありました。
※宮津市・上世屋海軍特設見張所探索レポ日記
経ヶ岬海軍特設見張所は、旧海軍望楼の建物をそのまま見張所として再利用。かつて兵舎等があった一段下の敷地を再整理して新たにコンクリート基礎の建物を建設したと思われます。
経ヶ岬海軍特設見張所には電探(レーダー)2基、探照灯1基、聴音機1基が設置されていたそうです。
以下、経ヶ岬海軍特設見張所時代と思われる遺構を紹介します。
1海軍望楼










経ヶ岬海軍望楼の前にあるコンクリートの台座らしきもの。
4観測機器台座か










円柱の台座があります。恐らく観測機か測距儀の台座だったと思われます。
5コンクリート構造物1










詳細不明のコンクリート構造物。何かの台座かなとは思いますが。
8兵舎跡か2










海軍望楼のある位置から1段下の敷地にはコンクリートの基礎群が残されています。
各遺構は上記の遺構配置図をご覧ください。
8兵舎跡か










兵舎跡と思われる基礎。
8兵舎跡か3










雑木で覆われて分かりづらいですが、間仕切りがあります。
8兵舎跡か4










アンカーボルトが残されていました。恐らく建物は木造だったのでしょう。
9カマド










兵舎跡に隣接するカマド。
10便所










コンクリートの腰壁と便所。
10便所2










便所部分。
11貯水槽か










コンクリートの基礎(通路か)の横にある大きなコンクリート構造物。
12貯水槽か










反対側から。コンクリートから鉄製のパイプが延びており、恐らく貯水タンクではと思われます。
というのも、後からこの近くに階段と貯水槽があると教えて頂き、そこから水をこのタンクに送っていたのではとのこと。今回の探索で件の階段と貯水槽は確認できなかったので、再探索する必要が出てきました。
13煉瓦構造物残骸










貯水タンクから遊歩道を挟んだ向かいにあった煉瓦の残骸。恐らく明治期の経ヶ岬海軍望楼の時期の兵舎等の基礎だったものではと思います。海軍特設見張所として再整備する際に元々あった煉瓦の基礎を撤去したのでしょう。
15コンクリート構造物2










海軍望楼と特設見張所の遺構群から経ヶ岬灯台へと至る道を下ると現れるコンクリート構造物。
16コンクリート構造物2










防空監視哨かと思いましたが詳細不明。ただ、コンクリートの感じを見ると昭和戦前期のもので間違いないかと思います。
17コンクリート柵柱










そのコンクリート構造物近く、遊歩道の下に当時のコンクリート柵柱が残されていました。
18コンクリート柵柱













十数本並んでいます。遊歩道を見ると、階段に再利用されたと思われる柵柱も多数見かけました。
19軍道










恐らく海軍望楼時代からの物と思われる軍道らしき道がありました。
20軍道石積










折り返し部分には石積が残されています。どこに至るのか気にはなりましたが、先がかなり荒れていて断念しました。
21山頂展望台










経ヶ岬の最高所には山頂展望台があります。
23山頂展望台土塁










展望台の東屋には円を描くように土塁があります。
22山頂展望台土塁










円形土塁は遊歩道から分岐した旧道の方向に開口部があり、端部は古い石積みがあります。
山頂展望台は最高所にあり、昭和22年の米軍航空写真にも施設らしきものが写っているので、東屋の辺りにあった何らかの施設を囲む土塁だった可能性があります。
IMG_7260










経ヶ岬の西側の海岸に面する麓にかつて兵舎があったと聞き、最後に行ってみました。
遊歩道を歩いていくと広い平坦地が。
IMG_7259










奥にも1段高い平坦地が。
IMG_7256










道沿いに石垣があります。ただ、当初の情報ではもう少し山側に向かった先の様で、航空写真でも怪しげな建物らしきものも写っているので、ここは違うかも。当初想定していた建物らしきものが写る箇所は現在はそういったものは確認できず、もしかすると崩落したのかもしれません。

以上で今回の経ヶ岬海軍望楼・海軍特設見張所の探索となります。後からの情報でまだ未確認の遺構があることが分かり、冬枯れの時期を待って再探索する予定でいます。また、近くの袖志地区にも関連の遺構が残されているようで合わせて探索する予定でおります。
ちなみに現在、航空自衛隊経ヶ岬分遣隊と米軍レーダーのある岳山にもかつて海軍の施設があったようですが、さすがにそちらは無理ですね。


besan2005 at 11:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2020年05月24日

綾部市・旧奥上林小学校木造校舎&近代建築探訪レポ日記

京都府綾部市の奥地に素晴らしい木造校舎が残されているのを知り、探訪に向かいました。
場所は綾部市奥上林地区。国道27号線の山家の交差点からひたすら走って行きます。
そこにあったのは・・・
29旧奥上林小学校 綾部市奥上林 昭和初期〜10年代










立派な木造校舎。旧奥上林小学校校舎。
30旧奥上林小学校










以前探訪した京丹波町の旧須知小学校の木造校舎群を彷彿とさせる見事な建物。
31旧奥上林小学校













玄関部分。
奥上林小学校記念碑













旧校舎前には昭和3年銘の記念碑があり、奥上林小学校の文字もあったことから、この建物は戦前の物だと思われます。昭和12年築の旧須知小学校の木造校舎群と同じく昭和10年代の築かと思われます。
32旧奥上林小学校










裏側も当時の面影が良く残されています。まさに奇跡的。
33旧奥上林小学校













内部の様子。現在はイベント関連に時々使われているようです。
さて、この戦前の旧奥上林小学校の校舎の隣には体育館があり、そこから見下ろす場所に戦後の旧奥上林小学校の校舎が残されているのですが・・・
33旧奥上林小学校渡り廊下










その戦後の校舎と体育館をつなぐ木造の渡り廊下が残されています。
34旧奥上林小学校渡り廊下










まるで跨線橋のような佇まい。
35旧奥上林小学校渡り廊下










廃校・木造校舎ファン、廃墟ファンには有名な物件らしく、色々なサイトやブログで取り上げられています。誰が名付けたか通称「余部鉄橋」。
36旧奥上林小学校渡り廊下













下から見上げると、確かに鉄橋に見えなくもない。
37旧奥上林小学校渡り廊下内部













渡り廊下部分は開放されていて入れるようなので歩いてみました。
38旧奥上林小学校渡り廊下内部













橋脚が木造なので歩くとそれなりに揺れちょっと怖いですw現役の頃、この渡り廊下を走った子供は怒られただろうなぁと。今はまだ大丈夫ですが、今後手入れされず老朽化が進めば危険ですね。
それでもこの渡り廊下は見応えあります。先の旧奥上林小学校の戦前の木造校舎と合わせて訪れる価値は十分あります。

さて、この旧奥上林小学校へ向かう途中、中々良い感じの建物を見かけました。
22中上林診療所 綾部市中上林 昭和初期










中上林診療所。綾部市中上林地区。
23中上林診療所










見るからに戦前の建物。京都府近代化遺産調査報告書には未掲載でしたが、昭和初期の築かと思われます。
24中上林診療所










外観は当時の面影が良く残されています。
25中上林診療所










玄関部分。車寄せの柱も戦前の雰囲気があります。現在も中上林診療所と中上林歯科医院として現役の診療所。内部はさすがに改装されていましたが、こんな近代建築が綾部市の山間部に残っていたのが驚き。この建物、全くノーマークだっただけに走っていて見かけたときは興奮して即引き返しましたw
26中上林公民館か










27中上林公民館か










その中上林診療所から交番を挟んだ場所にある木造建築。地域のコミュニティー場所として使用されている建物ですが、かつては戦前の公民館だったのではと思います。

今回訪問した旧奥上林小学校の木造校舎と渡り廊下は行く価値のある見事なものでした。途中、中上林診療所という予期せぬ収穫もあり、充実した探訪となりました。


besan2005 at 11:32|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 学校建築

南丹市・京丹波町の戦前木造校舎&近代建築探訪レポ日記


前回、京丹波町にある旧須知小学校の木造校舎群を探索しレポ日記に書きましたが、京都府南丹市の奥地と京丹波町には他にもいくつか戦前の旧木造校舎があるので探訪してきました。ちなみに戦後の木造校舎もいくつか残されていますが、ここでは戦前築と思われる木造校舎(一部を除く)と、探訪中に見かけた近代建築も合わせて紹介します。
1旧神吉小学校及時館 南丹市八木町神吉 昭和初期か










国道9号線から八木に入り大堰川を越えてひたすら山道を走り、まず最初に訪れたのは、
南丹市八木町神吉地区にある旧神吉小学校及時館。
2旧神吉小学校及時館










現在は廃校となっている旧神吉小学校の戦前の校舎を記念館として保存したものと思われます。
恐らく昭和初期頃。
3旧神吉小学校及時館










戦前らしい下見板張りのシンプルな外観です。
5旧神吉小学校及時館サイレン










正面玄関の上部にはサイレンが残されていました。覆いがまるで燈籠のようなデザイン。
4旧神吉小学校及時館










内部も昔の姿を留めています。神吉小学校が廃校したあとは神吉診療所として利用されているそうですが、私が見た感じでは使われていないようにも見えました。
6旧内久保小学校 南丹市美山町内久保 明治39年










次に訪れたのは、かやぶきの里に近い南丹市美山町内久保地区にある旧内久保小学校。
7旧内久保小学校










京都府近代化遺産調査報告書によれば明治39年築とのこと。
8旧内久保小学校













正面玄関には城郭風の屋根を設け、屋根の棟上には小さい望楼を設けるなど、まるで五稜郭の箱館奉行所を彷彿とさせる佇まい。
9旧内久保小学校講堂










講堂内部。ほぼ当時のまま残されている感じ。
10旧内久保小学校廊下1










玄関が開いてて入っても良い感じだったので、廊下の部分だけお邪魔。
11旧内久保小学校廊下2










旧内久保小学校は山村の小さな学校だったのでしょうが、明治39年築の木造校舎が今でもほぼオリジナルの状態で残されているのは貴重かと。現在は内久保公民館として使用されています。
12旧五ヶ荘小学校体育館 南丹市日吉町四ツ谷










お次は南丹市日吉町にある旧五ヶ庄小学校体育館。
13旧五ヶ荘小学校体育館










戦後の築に見えますが、気になったので撮影。
14旧五ヶ荘小学校体育館










ただ、戦前でもこういうデザインの体育館があったりするから外観だけでは判断は難しい。
15旧五ヶ荘小学校










体育館の隣には戦後築の古い校舎が。そういえば自分が小学生の頃はこんな感じの校舎だったなぁと懐かしい気分に。
ここから国道9号線へと戻り京都縦貫道みずほIC近くにある京丹波町桧山地区へ。
17旧桧山郵便局 京丹波町桧山 昭和9年










旧桧山郵便局。京丹波町桧山。
18旧桧山郵便局










京都府近代化遺産調査報告書によれば昭和9年築とのこと。改造は大きいけれど2階部分に面影が残ります。
19橋爪橋 京丹波町桧山 昭和11年










旧桧山郵便局の近くにある橋爪橋。欄干のデザインが珍しい。
21橋爪橋













昭和11年3月架橋。
16旧桧山小学校










桧山地区には旧桧山小学校と旧須知高校桧山分校の木造校舎がありますが、いずれも戦後なのでここではスルー。次回、綾部市の山奥にある戦前築の木造校舎を訪ねます。その校舎、別の物でも有名なんですよね。



besan2005 at 10:44|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 学校建築

2020年05月17日

亀岡市内の近代化遺産探索レポ日記

がんこ3










がんこ5










亀岡市の近代建築と言えば旧田中源太郎邸だった明治31年築のがんこ楽々荘が有名ですが、
※がんこ楽々荘訪問日記
その他にも市内にはいくつかの近代化遺産が残されています。今回それらを紹介していきたいと思います。まずは郊外から。
1旧佐伯郵便局 稗田野町 昭和初期










旧佐伯郵便局。稗田野町。京都府近代化遺産調査報告書によれば昭和初期とのこと。
2旧佐伯郵便局










どこか懐かしさを感じる木造建築。
3旧保津郵便局 保津町 明治期










旧保津郵便局。保津町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治期となっています。
4保津郵便局










北から。
5保津郵便局










南から。主屋は和風建築で手前の営業所部分が洋風になっています。
6保津郵便局










正面アップ。屋根瓦には今も郵便マークのある鬼瓦があります。入り口には「旧郵便局」の解説板があり、地域の歴史遺産として認識されているようです。是非活用して欲しいところ。
7保津郵便局










玄関上部のガラス窓には「保津郵便局」の文字が今でもあります。
8旭町自治会館 旭町 明治39年










旧旭小学校。旭町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治39年築。
9旭町自治会館










建物自体の外観は大きく改装されていますが、玄関部分は当時のまま残されています。玄関はまるで武家屋敷のような佇まい。
10旭町自治会館










屋根には桜に同の紋章のある鬼瓦が。
11旭町自治会館










玄関脇には「學」の字入りの鬼瓦が置かれています。
12旭町自治会館










玄関の天井は立派な格天井。
13旭町自治会館










入口には当時の正門も残されています。旧旭小学校は現在は旭町自治会館として使用されています。
12亀岡東別院町荒内の煉瓦倉庫1










昔記事にした東別院町の煉瓦蔵。大正期頃。亀岡市の奥の奥に存在する立派な高石垣のお屋敷跡。
13亀岡東別院町荒内の煉瓦倉庫2










以前、この記事にお祖父さんが住んでいたとコメントがありました。かつては銀行業務もやっていたとか。現在は住んではおられず当時の建物も煉瓦蔵しかありませんが、かつては相当大きなお屋敷があったと思われます。
23大谷鉱山鉱山長旧宅3










大谷鉱山鉱山長官舎。稗田野町鹿谷。大谷鉱山は大正3年にタングステン鉱山として操業開始。軍需材料としての需要もあり終戦まで操業され大いに賑わっていたようです。戦後一時休鉱しましたが昭和26年再開。昭和58年に廃鉱になるまで操業しました。この建物はその大谷鉱山の鉱山長の官舎だった建物。デザイン的に戦前の物と思われもしかすると創業時の大正期の建築かもしれません。
22大谷鉱山鉱山長旧宅 稗田野町鹿谷 










玄関脇の出窓は当初からのもの。中々オシャレ。空き家だった当時に見に来たことがありますが、この出窓から部屋を覗くと戦前らしき鉱山関連の本がたくさん置かれていました。現在は個人の方が買い取り面影を残した感じでリフォームされ住宅にされています。貴重な建物が大切に使用されているのは嬉しいです。
24旧吉川小学校奉安殿1 吉川町













旧吉川小学校奉安殿。吉川町。吉川自治会館の側に移築されています。戦後多くが壊された奉安殿がこうして残されているのは貴重。

ここからは市街地へ。
14旧旅籠郵便局 旅籠町 明治22年










旧旅籠郵便局。旅籠町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治22年築とのこと。大きく改装されていますが、2階窓の鎧戸に面影を残します。ちなみに隣に付属する平屋の建物はかつての丹波亀山城の城門でした。
15天理教亀岡大教会 横町 昭和戦前期か










天理教亀岡大教会。横町。大きな和風建築で大正から昭和初期くらいはありそうです。天理教の各支部の建物は結構立派な近代和風建築として現存している例が多いです。
16横町文化住宅 横町 昭和初期










横町文化住宅群。横町。昭和初期。
17横町文化住宅













18横町文化住宅













和風の主屋に洋館が付属する典型的な文化住宅です。この住宅は2棟続きとなっています。現在も個人宅。
19横町文化住宅










すぐ隣にある文化住宅。
21横町文化住宅













こちらは1階が洋風。2階が和風になっています。現在は学習塾。
27愛善みずほ会 北古世町










愛善みずほ会。北古世町。大規模な木造建築。戦後かもしれませんが気になってた建物なので取り上げました。
28愛善みずほ会










背面は割と戦前の雰囲気あります。 側面の円窓も。
29愛善みずほ会










玄関部分。
30愛善みずほ会










扉が開いてたのでちょっと失礼しました。玄関ホールも雰囲気あります。現在は大本教関連の施設として使用されているようです。

亀岡市にはかつてはこれ以上に多くの近代建築が存在しましたが、失われていった建物も数多くあります。ここからは過去に撮影したそれらを紹介します。
亀岡駅 昭和10年








亀岡駅。昭和11年。今となっては懐かしい駅舎です。
亀岡市森林組合1 昭和3年









亀岡市森林組合。横町。昭和3年。市内でも珍しい洋館の事務所ビルでした。
亀岡市森林組合2









取り壊し直前に一度中を見たことがあります。
亀岡市森林組合3









1階事務室。当時の面影がそのまま残されていました。
亀岡市森林組合4









階段も当時のままでした。失われた今、2階も見ておけば良かったと後悔しています。
旧亀岡郵便局001









旧亀岡郵便局。北町。どことなく和風の雰囲気のある木造建築でした。
旧亀岡郵便局003








現在は脇の袖壁だけ残されています。
大道金物店・亀岡









大道金物店。横町。近年まであった看板建築でした。
山金楼・新町 大正期









山金楼。新町。大正期。カフェーの面影を残す元料理屋の建物で、かつては池のある中庭があったそうです。取り壊され駐車場になって久しくなりました。
菱田邸取り壊し寸前 大正11年










旧菱田邸(理想郷社)。横町。大正11年。
菱田邸取り壊し中










取り壊し中の旧菱田邸。亀岡市を代表する戦前の洋風住宅も姿を消して随分経ちました。


besan2005 at 21:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

歩兵第三十三連隊・歩兵第三十旅団司令部・津陸軍病院遺構探索レポ日記。

津連隊配置図







三重県津市久居にあった陸軍歩兵第三十三連隊・第三十旅団司令部・津陸軍病院の現存建物群を陸上自衛隊久居駐屯地の一般公開に合わせて見学してきました。
久居の新兵営にはまず明治41年に歩兵第五十一連隊が駐屯し、大正14年に歩兵第三十三連隊が移駐してきました。この辺りに関してはいつもお世話になっている盡忠報國様のブログが詳しいので、そちらを参照してください。
陸上自衛隊久居駐屯地はかつての歩兵第三十三連隊・歩兵第三十旅団司令部・津陸軍病院の敷地をそのまま使用し、現在も多くの当時の建物が残されています。
3連隊本部










旧連隊本部庁舎。
1連隊本部










西側の妻部には陸軍の星章が今もあります。
6連隊本部東側










反対側。こちらはシンプルですね。
4連隊本部玄関










入口部分。こちらは改装されている気がします。
7連隊本部内部2










玄関から内部。
7連隊本部内部










妻側から内部。当時の姿がほぼ残されています。
8大隊本部










大隊本部と言われている建物。連隊本部庁舎と同じようなデザイン。
9大隊本部東面










反対側。
10厠










連隊本部と大隊本部と言われる建物の間にある厠。
11厠










現在も便所として使用されているようです。この日は表側に行けませんでした。
13将校集会所










将校集会所。大正10年築。さすがに将校集会所の建物は他の兵舎と違い華やかさがあります。
14将校集会所










将校集会所の正面。都城市の歩兵第六十四連隊の将校集会所とよく似ています。
15将校集会所背面










将校集会所背面。
16将校集会所背面










反対側から。背面はシンプルです。
17将校集会所入口













将校集会所入口。この日は音楽隊が練習をしており、居なくなった頃合いを見計らって撮影しました。
17将校集会所付属屋










将校集会所の付属屋。
18歩哨舎










移設された歩哨舎。コンクリート造です。
21木造建物










用途不明の木造建物。当時の物であることは間違いなく、陸軍の星章入りの鬼瓦が今も乗っています。
22弾薬庫










遠くに見える防爆壁の土塁に囲まれた弾薬庫。これも旧軍時代の弾薬庫をそのまま使用しています。
23自転車置場










気になった自転車置き場の小屋。
24自転車置場










小屋組みに使用されている木材に不自然なホゾとかあったり、材も古そうに見えました。
もしかしたら旧軍時代の解体された建物の部材を再利用しているのではと思い撮影しました。
19第三十旅団司令部










歩兵第三十旅団司令部庁舎。明治41年に開設されました。
20第三十旅団司令部解説板










解説板。
20第三十旅団司令部入口













歩兵第三十旅団司令部玄関。旅団司令部の庁舎は多くが画一化されており、正面にペディメント(三角破風)を掲げ、左右とも三間の翼部を延ばすデザインです。多くが連隊本部より小規模です。
25娯楽室










歩兵第三十三連隊の東側には津陸軍病院がありました。現在もいくつかの建物が残されています。この建物は娯楽室だった「愛国寮」。昭和10年に建てられたもので、名前から恐らく愛国婦人会の寄付で建てられたものと思われます。
※参考・古絵葉書・名古屋陸軍病院 豊橋陸軍病院愛国寮竣工記念絵葉書
27隔離病棟










左奥に見えるのは隔離病棟。結核患者を収容していたそうです。左奥には付属屋があるようです。
28食堂・浴室










食堂(右側)と浴室(左側)。
29食堂・浴室










背面。浴室はともかく食堂が倉庫みたいな煉瓦造なのが不思議です。
30井戸










歩兵第三十三連隊の西側、久居駅に面した場所にかつて歩兵砲・通信隊の兵舎がありました。現存していた兵舎の中でも2階建ての最大規模の物でしたが、惜しくも訪問時の1年前に取り壊し…。跡地は駐車場となっていました。しかし、当時の物らしき井戸が残されていました。
31ポンプ










井戸の上にあるポンプ。当時の物かは分かりませんが古そうなのは確かです。
砲兵隊・通信班の兵舎を見ることができなかったのは残念ですが、かつての姿は盡忠報國様のブログにて見ることができます。
IMG_2811










IMG_2787










この日は演習場で訓練展示が行われました。これを見るのも目的の一つ。まぁコンデジではこれが精一杯でしたが・・・
IMG_2930










あと、新装備である16式機動戦闘車を見たかったというのもありますw


besan2005 at 08:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2020年05月08日

舞鶴市北吸地区にある防空監視哨

舞鶴市・防空監視哨1











舞鶴市・東舞鶴の北吸地区、国道27号線を挟んだ赤煉瓦倉庫群の向かいの斜面にコンクリート造の防空監視哨が1つ残されています。
舞鶴市・防空監視哨2










防空監視哨は、来襲する敵機の監視、報告を任務とする施設で、民間人で構成された防空監視隊が任務に付き、将校や下士官が指揮などを取ってました。
舞鶴市・防空監視哨3










反対側の角度から。実寸はしてませんが、そんなに大きくはなかった(幅1.5mくらいかな?改めて実寸してきます。)です。コンクリートの質はあまり良くなく、戦争末期頃の構築に思えます。ちなみにアジア歴史センターで検索しましたが、該当する資料は見当たりませんでした。
監視窓のスリットの上に穴が開いてますが、もしかして機銃掃射の際の弾痕でしょうか・・・?

舞鶴市・防空監視哨4










この防空監視哨は海軍桟橋(現・海上自衛隊北吸桟橋)と舞鶴海軍工廠の方面を向いており、主に舞鶴海軍工廠へ来襲する敵機の監視を目的としていた物と思われます。ちなみに、奥に見える2つの建物も旧海軍時代の建物。向かって右側に赤煉瓦倉庫があります。
舞鶴市・防空監視哨5










内部。かなり狭いです。1人か無理して2人が精一杯かと思います。監視窓のスリットは3方に開いていますがやはり監視のメインは正面側の舞鶴海軍工廠だったのでしょう。
呉市・防空監視哨1










呉市・防空監視哨2










参考として呉市にある防空監視哨。舞鶴市のと比べて大型です。舞鶴市にもかつては複数の防空監視哨があったと思われますが、現在は今回記事にした北吸の物しか知られていません。(もしかしたら舞鶴海軍工廠の裏山か敷地内に残されているかもしれませんが、JMUの敷地内なので確認は不可能。)舞鶴市の広報や赤れんがパークにある案内板には触れられてませんが、現在見ることのできる舞鶴市内の防空監視哨としては唯一の物で貴重な遺構と思われます。


besan2005 at 06:15|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2020年05月06日

歩兵第七十連隊・篠山陸軍病院・篠山陸軍墓地探索レポ日記

兵庫県篠山市には「丹波の山鬼」と称された陸軍歩兵第七十連隊が駐屯していました。現在、篠山市内には第七十連隊の他に多数の旧陸軍の遺構が残されています。今回は第七十連隊・篠山陸軍病院・篠山陸軍墓地の遺構を探索してきました。
篠山連隊・篠山陸軍病院配置図









歩兵第七十連隊及び篠山陸軍病院の遺構配置図。今回もツイッターでいつもお世話になっています盡忠報國様の記事を参考にさせて頂きました。篠山の旧軍遺構については盡忠報國様のブログ記事がかなり詳しいので、より詳細に知りたい方はそちらを参考にされるといいと思います。

まずは陸軍歩兵第七十連隊。
歩兵第七十連隊は明治40年に編成。当初は第4師団隷下の連隊でした。
20171209212645d01








当時の絵葉書の正門。歩兵第七十連隊は連隊の裏山を利用した苛烈な山岳戦の演習を行い、その勇猛ぶりは「丹波の山鬼」と呼ばれました。昭和12年から満州へと派遣され昭和15年に第25師団の隷下へと変更。昭和20年4月に九州で本土防衛の任に就くまで、大陸の各所で戦い抜きました。
201811031350080e2








歩兵第七十連隊は篠山城を利用した演習も行い、攻城戦の演習や
20181103135009c5e








外堀を利用した渡河演習を行っている絵葉書が残されています。

※参考・昭和4年、篠山歩兵第七十連隊軍旗祭の様子。

戦後、歩兵第七十連隊の敷地は篠山産業高校と工場の敷地となっています。
戦後は兵舎等ほとんどの建物が取り壊されましたが、外周を中心にいくつかの遺構と建物が残されています。
9七十連隊正門










歩兵第七十連隊正門。手前の石敷きも当時の物。
20171209212645d01








当時の姿を撮影した絵葉書。
9正門













門柱のアップ。
10土留め










正門の西側にある土塁の土留め。
11将校集会所門










敷地東側にある将校集会所の通用門。奥には中庭に置かれていた円卓と椅子が残されているそうですが、工場敷地内のため見れません。工場内に入るには許可が必要。
12東門










東門。コンクリート造なので昭和期のものかもしれません。
13炊事場










現在の工場の北側敷地には当時の煉瓦造の建物が2棟残されています。こちらは炊事場とのこと。
14煉瓦建物










奥に見える煉瓦建物。当時の物ではありますが詳細不明とのこと。
この写真は高校側のグラウンドの隅から望遠で撮影。実は敷地外から何とか撮影できないかとウロウロしていたら、ちょうどグラウンドで野球の練習をしていた生徒とコーチらしき人が見ていて、思い切って事情を説明したら、グラウンドの端のこの位置からならいいですよと言われ有難く入らせてもらいました。ありがとうございました。

15篠山陸軍病院正門










歩兵第七十連隊の北端の一角は篠山陸軍病院でした。歩兵第七十連隊と同時期に開設された病院でしたが、戦後敷地は工場となり現在は正門他の僅かな遺構しか残されていません。こちらは篠山陸軍病院の正門。
P1110220










正門の側に気になる建物がありました。新しくも見えますがプラン的にもしかしたらと撮影。
改装されている可能性もありますので。戦後すぐ撮影の航空写真で確認しましたが、あるような無いような…
16燃料庫か










篠山陸軍病院跡の敷地の端に気になるコンクリート建築がありました。
17燃料庫か










雰囲気的には当時の建物のように見えます。弾薬庫とは思えないので燃料庫だったかもしれません。

続いて歩兵第七十連隊から離れた篠山城の東にある篠山陸軍墓地へ。
1篠山陸軍墓地忠魂碑













駐車場に建てられている忠魂碑。
2篠山陸軍墓地忠魂碑













元々は篠山城天守に大正4年に建てられたものですが、戦後にGHQによる破壊を恐れ天守台下に埋没。昭和26年に再び掘り出され現在地に再建されました。揮毫は河村景明大将。
3篠山陸軍墓地門柱










篠山陸軍墓地正門。当初の参道の正門で木製の扉が一部残されています。
5境界杭










周囲にはいくつもの「陸軍用地」の境界杭が点在しています。
6境界杭













そのうちの1本。
7篠山陸軍墓地










先ほどの正門を潜り参道を上がっていくと下士官兵の墓地に到達します。陸軍墓地の中では状態はいい方だと思いますが、倒れた竹がそのままになっていたりと手厚い管理は余りされていないのかも。もしくは年1回か2回の管理程度とか。
P1110203










別角度。ここより高い位置に将校の墓があるようですが、今回失念してしまいました。
4遺芳殿










昭和18年、忠霊殿である遺芳殿が建てられました。その際に周辺も整備され、この石段もその時に造られたものです。この時に正式な参道が当初の正門からこのまっすぐ伸びる石段に改められられたと思われます。
4遺芳館










遺芳殿。戦後に忠霊殿から遺芳殿と改称し、現在も遺骨が納められています。
P1110198










遺芳殿から見下ろした様子。段状に整地されています。もしかしたらこの場所にもかつては将兵の墓があったようにも思えます。
P1110207










忠魂碑のある駐車場の下にある篠山遺族会館。和風の建物で古い建物をリニューアルしたものかと思いましたが、昭和61年に建てられたものです。館内には歩兵第七十連隊の軍旗の一部と軍旗日誌が収められています。



besan2005 at 12:43|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 旧軍遺構

舞鶴海軍刑務所遺構探索レポ日記

舞鶴市・東舞鶴市街から国道27号線を東へ少し進んだ交差点を右折し志楽川を渡って少し進むと行き止まりになり目の前に特別養護老人ホームが現れます。この特別養護老人ホームの敷地はかつて舞鶴海軍刑務所でした。
アジア歴史資料センター公開の資料によると、昭和16年11月1日付の舞鶴海軍刑務所設置のための海軍監獄官制中を改正する資料があり、舞鶴海軍刑務所はそれ以降に設置されたものと思われます。
舞鶴海軍刑務所正門









建物は早いうちに失われたようですが、老人ホームが建つ前まではこの場所にはかつての舞鶴海軍刑務所の巨大なコンクリート造の正門と高い塀が存在し、敷地を取り囲んでいました。写真は25年ほど前に出版された資料に載せられたかつての舞鶴海軍刑務所の正門です。(出典・つむぎ出版『京都の「戦争遺跡」をめぐる』1995年)。
老人ホームの建設の際に正門と塀は撤去され現在は失われていますが、敷地の周囲には区画の用水路と境界杭、また正門跡に当時のスロープが残されています。
37舞鶴海軍刑務所正門入口










舞鶴海軍刑務所の正門跡前に残るスロープ。
39舞鶴海軍刑務所区画溝













38舞鶴海軍刑務所区画溝













かつての舞鶴海軍刑務所の敷地を取り囲むコンクリート製の当時の区画溝。
33舞鶴海軍刑務所境界杭













34舞鶴海軍刑務所境界杭













35舞鶴海軍刑務所境界杭













36舞鶴海軍刑務所境界杭













その区画溝の外側には「海境」の文字がある海軍の境界杭が今でも立っています。
今回確認したのは4本のみでしたが、他にも現存している可能性はあります。


besan2005 at 10:25|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

舞鶴陸軍墓地探索レポ日記

舞鶴市の西舞鶴に位置する福来地区の小高い山にかつて陸軍墓地がありました。主に舞鶴市上安久の現・日星高校の敷地にあった舞鶴重砲兵大隊(後に連隊に昇格)の将兵の墓地であり、舞鶴重砲兵大隊設立からしばらく後に作られたものと思われます。舞鶴の軍人墓地としては共楽公園にある海軍墓地が良く知られ、管理も行き届き毎年慰霊祭が行われていますが、この舞鶴陸軍墓地はほとんど知られることもなく荒れ果てた状態になっています。
26舞鶴陸軍墓地










舞鶴陸軍墓地への入口。ぱっと見ではただの山道にしか見えません。
27舞鶴陸軍墓地境界杭













舞鶴陸軍墓地への入口の脇にある境界杭。「十三ノ三陸界」という感じに見えます。
28舞鶴陸軍墓地参道










舞鶴陸軍墓地への参道。
29軍曹墓













暫く参道を歩き尾根上へと上がると墓石が現れます。陸軍砲兵軍曹の方の墓です。
IMG_2606










舞鶴陸軍墓地内の参道。舞鶴陸軍墓地は戦後に集落の墓地とするため一部改変されています。
30境界杭













参道脇にある境界杭。「十三ノ五(?)陸界」の文字があります。場所がおかしいので移設された可能性があります。
31境界杭













境界杭と思われる石柱。
31砲兵中尉墓













陸軍砲兵中尉の方の墓。将校らしく立派な墓石ですが、もはや参拝する人や管理する人もなく笹や雑木に埋もれかけています。
32陸軍墓地










参道らしき道を上がると広い平坦面がありました。25年ほど前に出版されたとある資料には舞鶴陸軍墓地の頂部には「光來寺」の扁額のある廃墟化したお堂があり、舞鶴陸軍墓地の管理をしていた廃寺として紹介されていますが、恐らくこの写真の上の平坦地にあったものと思われます。しかし現在は跡形もありません。(その後出版された増補改訂版には舞鶴陸軍墓地の記載自体が削除されている)
今回は確認できませんでしたが、唯一舞鶴陸軍墓地を取り上げた別のサイトによると、あと数基の墓石が残っているようですが、いくつかは倒壊し散らばっている有様のようです。後日再探索し、確認・追記したいと思います。

共楽公園の舞鶴海軍墓地が整備され、現在も慰霊祭が行われるなど手厚く保護されているのに対して、この舞鶴陸軍墓地の荒廃ぶりを見ると落差に何とも言えない気分になります。舞鶴陸軍墓地自体ほとんど知られていないという事もありますが、せめて現存の墓だけでも整備し祀られればと願うのですが。
このままの状態ですと、さらに山の木々に埋もれ人々の記憶から存在が完全に消え去ることと思います。


besan2005 at 09:07|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2020年05月05日

旧須知小学校探訪レポ日記

京都府京丹波町にある旧須知小学校を訪問してきました。
実は2014年に訪問していますが、今回さらに詳細に探索をしましたので、改めて記事を書き直すことにしました。
須知小学校は明治6年創立の小学校で、明治20年に須知小学校と改称しました。
現在残っている校舎は昭和10年に建てられた校舎で85年経った現在でも当時の姿をそのまま残す貴重な建築物となっています。映画「銀河鉄道の夜」のロケ地にとしても使われました。
7083818a










旧須知小学校本館。堂々たる正面玄関。玄関には校章の額が掲げられています。
須知小学校002







昭和10年の改築記念で作られた須知小学校本館の絵葉書。
85年前の姿そのままです。
関連サイト・古絵葉書 須知小学校
2本館










当時と同じアングルで撮ってみました。建物は竣工時の絵葉書のまま。
周りの木だけ大きく育ち、85年の歳月を感じます。
IMG_6630










建物の中には入れませんが、窓から中を伺うことはできます。
これは本館玄関から中を撮影したもの。内部も当時の姿がよく残されています。
3北校舎










北校舎。
4南校舎










南校舎。本館から広がるように左右に配置されています。
IMG_6624










二宮尊徳像。
IMG_6625













台座には昭和9年に校舎改築記念として建立されたとあります。
台座の上に建つ二宮尊徳像も竣工記念の絵葉書に写るものと同じにも見えますが、だとすると、戦時中の金属供出に合わなかった貴重なものになりますが、どうでしょうか。
6南半地下通路










南側にある半地下式の通路。
7南半地下通路










南校舎と本館をつなぐ渡り廊下を潜る形になっていますが、水の張られた場所を通過する変わった作りになっています。現在は通過できませんが、中庭へは校舎を回り込む形で行くことができます。
8渡り廊下










本館裏側の渡り廊下。こちらも当時のまま。
19下駄箱










渡り廊下にある下駄箱。当時の木製の下駄箱が残っているのは珍しい。
17消火栓













渡り廊下にある消火栓。

18消火栓













消火栓の裏側。かつては渡り廊下側に「消火栓」と書かれた木製の扉があったと思われます。
9南中庭










南中庭。中庭は真ん中の講堂を挟んで南北にあります。
20南中庭










南校舎側方向。
11滑り台










南中庭の滑り台。
12ブランコ










南中庭のブランコ。南中庭には遊具が置かれているため、児童の遊び場だったようです。
かつての子供たちの喧騒が聞こえて来るようですが、今は誰もいない静かな場所。
10中庭から南校舎










中庭から見た南校舎。
13講堂










講堂。体育館としても使用されていた建物。校舎の真ん中の位置にあります。 
14講堂










講堂を西側から。体育館としての採光の機能を持たせるため、窓が他の校舎よりかなり多いです。
ここで朝礼や体育、そして入学式や卒業式が行われたんでしょうねぇ。児童たちの思いがたくさん詰まっている場所。
15南側本館裏










本館南側の裏側。正面側とはまた違った姿を見せてくれます。
16南半地下通路










先ほど見た南半地下通路の中庭側。こういうトンネル状の通路って子供たちは好きそう。
21講堂裏










講堂裏側。大きな破風が立派です。
22北中庭










北中庭。
23北中庭










北中庭は遊具の置かれた南中庭と違い、花壇や飼育小屋が置かれています。
24本館北側裏










本館北側の裏側。本館南側の裏側とまんま鏡写しの形。旧須知小学校の校舎群は本館玄関とその裏側の講堂を中心として左右に同じ形で広がるシンメトリーのデザインとなっています。
25北半地下通路










北校舎と本館の間にある北半地下通路。こちらも南側と全く同じ。
IMG_6664










校舎の軒のあちこちにある鉄製の持ち送り。アールデコ調のデザインでしょうか。
旧須知小学校の工事請負人は和久田喜一という人物らしいです。恐らく地元の人だと思いますが、旧須知小学校の建物のデザインを見るに、センスのある方だったと思います。
26白椿










旧須知小学校は現在はひっそりと静まり返ってますが、かつて中庭に植えられていた白椿は今も変わらず花を咲かせていました。
27マーガレット










旧須知小学校を散策していて目に付くのは校内の敷地のあちこちに咲くこの白い花。
6a5c927c










これは2014年5月31日に訪問した際に撮影した時のもの。敷地のいたるところで咲いてました。最初はマーガレットかなと思いましたが、調べるとフランスギクという花で、耐寒性があり強い繁殖力で日本中に広まっているとか。かつては花壇で色とりどりの草花が育てられていたのでしょうが、廃校となり人の姿が消えた今はこのフランスギクと先ほどの白椿や桜が今の旧須知小学校に彩りを与えています。
IMG_6655










IMG_6677










旧須知小学校は本館・講堂・南北校舎が昭和10年当時のまま残り地方の戦前木造校舎として貴重な存在となっています。一応地域のコミュニティ施設として再利用はされていますが、やはり老朽化の進行は否めません。地域の貴重な近代化遺産である旧須知小学校。修復や維持管理は大変ですが、何とか有効な利用をされて末永く残ってほしいと願うばかりですが。

※注意。
旧須知小学校の敷地内は自由に散策出来ますが、建物内への無断進入は厳禁です。校内に建物内への無断進入の発覚の際は警察に通報するという看板が立てられています。当然既存建物や施設への破壊行為や落書きも厳禁。また、危険個所には立ち入り禁止の札があるためその部分には立ち入らないようにしましょう。貴重な近代化遺産である旧須知小学校。節度ある見学をお願いします。


besan2005 at 20:39|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2020年04月12日

宮津市の近代建築探索レポ日記。

先日、宮津市内の近代建築を探索してきました。宮津市は何度も訪ねていますが、しっかりと近代建築の探索をしたことがなく、改めて探索をしようと今回行う事となりました。

今回の記事は宮津市街地内の近代建築となります。宮津市由良地区の近代建築の探索レポ日記は前回記事にしております。
宮津市由良地区の近代建築探索レポ日記
ミップルの側にある道の駅に車を停めて、あとは徒歩で市街地を探索。
1ジッソパルケ 宮津市新浜










ジッソパルケ。宮津市新浜。
2ジッソパルケ










だいぶ改装されていますが、昔見たときは結構古い下見板張りの建物でした。よく見たらオリジナルの姿が残されています。
3旧丹海本社 宮津市新浜 大正12年










旧橋北汽船本社。宮津市新浜。大正12年。
4旧丹海本社










宮津湾内の観光船を運営していた会社の本社事務所。現在は丹海交通の案内所として使用されています。
5新浜遊郭検番所か










宮津市の新浜地区はかつて遊郭街でした。いくつか当時の建物らしい住宅が残されてますが、そのうち気になったのがこれ。もしかしたら門番詰所だった可能性があります。
6新浜会議場 宮津市新浜 昭和初期










新浜会議場。宮津市新浜。昭和初期。古い街並みの中に挟まれるようにあります。
7旧医院 宮津市魚屋町 昭和初期










旧医院。宮津市魚屋町。昭和初期。道路側の外観はだいぶ改造されています。

8旧医院










玄関部分にかろうじて当時の雰囲気が残されています。
9茶六本館 宮津市魚屋町 明治期 昭和10年増築










茶六本館。宮津市魚屋町。明治期・昭和10年増築。国登録有形文化財。宮津市の老舗旅館です。
10旧小川湯 宮津市小川 大正2年










旧小川湯。宮津市小川。大正2年。外観が改修されているのであまり古そうに見えませんが、大正2年築。
11旧小川湯










斜め横から。
12旧小川湯










玄関部分の装飾に大正期の名残がありますね。
13佐藤医院 宮津市京街道 大正15年










佐藤医院。宮津市京街道。大正15年。宮津市内を代表する近代建築。
15佐藤医院










瀟洒で素晴らしい洋館。
14佐藤医院










これほどの建物なのに国登録有形文化財にもなっていないのが不思議。
16宮本会館 宮津市宮本 昭和4年










宮本会館。宮津市宮本。昭和4年。
17宮本会館










外観は当時の姿をよく残しています。
18カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂 宮津市宮本町 明治29年










カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂。宮津市宮本。明治29年。京都府指定文化財。宮津市を代表する近代建築で、宮津市で一番有名な近代建築。何でも日本で2番目に古いカトリック天主堂だとか。
19カトリック宮津教会










内部は畳敷きで知られるカトリック宮津教会ですが、老朽化による痛みが大きく内部には入れず。早々の修復が望まれます。
20カトリック宮津教会










21カトリック宮津教会










側面・背面はまた違った趣があります。カトリック宮津教会は昭和2年の北丹後地震で被害を受け、修復を受けています。
22宮津小学校 自彊館 宮津市字外側 昭和6年










宮津小学校 自彊館。宮津市字外側。昭和6年。宮津小学校の小講堂だった建物を移築したもの。
23中村眼科医院 宮津市魚屋町 昭和初期










中村眼科医院。宮津市魚屋町。昭和初期頃。
24中村眼科医院










玄関部分に趣がありますね。外観も当時の姿を保っています。内部が気になるところ。
25宮津聖アンデレ教会 宮津市島崎 昭和3年










宮津聖アンデレ教会。宮津市島崎。昭和3年。素朴で落ち着いた色合いの下見板張りのレトロ教会。
26宮津聖アンデレ教会










教会堂。
27宮津聖アンデレ教会










牧師館。牧師館は現在は使用されていないようです。
28洋館付き住宅 宮津市島崎 昭和初期か










宮津聖アンデレ教会の近くにある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。塀があるため見づらいですが、付属洋館は中々のレベルです。
29清輝楼 宮津市魚屋町 明治34年










清輝楼。宮津市魚屋町。明治34年・大正13年増築。国登録有形文化財。宮津市最大かつ老舗の旅館。創業は元禄年間で、吉田茂や芦田均といった首相経験者の政治家や、菊池寛・吉川英治・上村松園といった著名人が数多く宿泊した旅館です。
30洋館付き住宅 宮津市島崎 昭和初期か










新大手橋の側にある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。立派な洋館が付属する住宅。
31洋館付き住宅










背面を見ても規模の大きさが分かります。
32中村邸 宮津市島崎 昭和初期か










M邸。宮津市島崎。昭和初期頃か。こちらも大きなお屋敷です。
33冨田屋










さて、一通り探索をした後の宮津での昼食は宮津駅前にある富田屋(とんだや)さん。昭和10年頃創業とのことで、この店舗も恐らく創業当時のもの。宮津で昼食となった際にいつも足を運ぶ富田屋さんですが、理由は店舗がレトロだからと言うわけではなく…
DSC_0632







ここの煮魚定食が本当に旨くてしかも安い!この定食で550円です!
富田屋メニュー







富田屋さんのメニュー。信じられない安さ。
富田屋メニュー













お店で出す料理の魚は地元産のもの。安くて旨い魚料理を出す店のため、お昼時はお客さんでいつもいっぱい。夜も地元の常連客らしき人が地魚料理をつまみに盛り上がってますw
富田屋宿泊代













ちなみに富田屋さん宿泊できます。しかも1泊2食付きで6000円と言う安さ。レトロな部屋で美味しい魚料理を頂ける私の大のお気に入りのオススメのお店です。

以上で宮津市の近代建築探索は終了。建物や古い街並みを見れるし、日本海の幸も楽しめる良い街ですよ。



besan2005 at 10:58|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

宮津市由良地区の近代建築探索レポ日記。

宮津市の由良地区には良質な近代建築がいくつか残されています。今回、由良地区の近代建築を訪ねてきました。宮津市街地の近代建築探索レポ日記はこちら。
宮津市の近代建築探索レポ日記。
由良川橋梁










由良川橋梁。大正13年。全長552mもある鉄橋。
由良川橋梁2










かつては国鉄宮津線の鉄橋でしたが、現在は京都丹後鉄道の鉄橋。
由良川の河口に架かる鉄橋ですが、まるで列車が海の上を走るような姿は有名な撮影スポットとなっています。
1四方医院 昭和6年










旧四方医院。昭和6年。設計施工・中西熊太郎。国道176号線に面して建つ洋館の医院。
2四方医院










中々立派な医院です。かつては由良地区のランドマークだったのでしょう。現在は使われていないようですが、是非活用方法を見出して欲しいです。
3浜野路公民館 昭和2年










浜野路公民館。昭和2年頃。設計施工・中西熊太郎。
5浜野路公民館










下見板張りのレトロな公民館。痛みも少なく大切に使われています。
4浜野路公民館










浜野路公民館の玄関部分の装飾。
6脇公民館 昭和2年










脇公民館。昭和3年。設計施工・中西熊太郎。
7脇公民館










由良地区の近代建築は中西熊太郎という人が手掛けています。地元の大工さんでしょうか。
こちらも最近修復されたようで大切に使われています。
8千軒長者の館(旧農協) 昭和初期か










千軒長者の館。昭和初期頃か。
9千軒長者の館










元農協の建物だったとか。建築年代は不明ですが、建物の様式から浜野路公民館・脇公民館と同じ昭和初期頃かと。設計施工も中西熊太郎かもしれません。現在は北前船資料館や販売店となっています。
10由良小学校正門










由良小学校の正門。由良小学校の建物は失われてますが、正門の門柱と塀は残されています。
由良小学校










外周の塀と正門はほぼ当時のまま。
由良小学校








かつての由良小学校。この校舎が残ってたら、さぞかし見ごたえあったでしょう。
由良神社










近年、ブラウザゲームの「艦隊これくしょん 艦これ」の影響で、軽巡洋艦由良ゆかりの場所(軽巡洋艦由良は由良川から命名)としてファンが訪れるようになりました。ここは由良神社。最近ファンが自主的に掃除をして新聞の記事になってました。
人気ゲーム「艦これ」聖地で清掃交流 キャラ名由来の由良神社にファン、住民と絆 | 京都新聞
IMG_6254










由良地区にある丹後由良駅の駅構内はファンが持ち込んだ由良さんグッズ等でいっぱい。
IMG_6255










IMG_6256










IMG_6257










IMG_6259










地元の人も割と乗り気のようです。
IMG_6258










由良由良してきたwww
艦これと言えば隣の舞鶴で以前から盛り上がってますが、宮津市にも派生して影響を感じますね。由良地区に新たな名所が出来て若い人が訪問するのは良いですな。由良神社の社務所で交流会もあったことですし。
由良さん







ちなみに我が艦隊の由良さん(ケッコン済み)。実家の街が由良川を流れる街で、由良川は昔から親しみのある川だったので、艦これのプレイ当初から手に入る由良さんには思い入れがありましたねぇ。


besan2005 at 08:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2020年04月09日

旧海軍舞鶴鎮守府水道施設遺構群・探索レポ日記。

2020年4月4日、舞鶴市にある与保呂浄水場の一般公開に行ってきました。
与保呂浄水場のある岸谷貯水池と上流の桂貯水池は、旧海軍の舞鶴鎮守府所属の艦艇に補給する用水を確保するために作られた軍用水道施設で、明治33年に桂貯水池、大正10年に軍用水源地増強のため岸谷貯水池が造られました。現在は舞鶴市水道局の管理となっていますが、近代水道施設として貴重な存在であるため、平成15年に桂貯水池・岸谷貯水池とも国指定重要文化財に指定されました。

まずは岸谷貯水池へ。
1岸谷貯水池










岸谷貯水池沈砂池。大正時代当時のもの。
2岸谷貯水池取水口










岸谷貯水池取水隧道。旧海軍時代の姿を良くとどめている遺構。
3岸谷貯水池放水路海軍マーク










隧道のキーストーン(要石)の部分には海軍の二重波マークが。
扁額がありますが、「科」の横の文字が読めないw
ちなみに、堰堤上には当時の取水塔が残されていますが、今回失念してしまいました。来年行けましたら撮影して追記したいと思います。
5岸谷貯水池水飲み場










古そうな水飲み場。蛇口部分は新しくなってますが、コンクリートの本体が古そうにみえます。
当時のものかは分かりませんが。
4岸谷貯水池放水路










岸谷貯水池の東側には放水路があります。これも当時のもの。
この放水路の東側に何やら整地をした区画があり、気になって探索したところ、
6岸谷貯水池貯水槽跡







コンクリートの構造物を発見。ポンプの金具のようなものもあり、貯水槽の跡ではないかと推測。
7岸谷貯水池貯水槽跡鉄蓋










貯水槽跡と思われるコンクリート構造物の側には鉄蓋があるのを確認。ただ、錆が酷く銘文やマークなどは確認できず。よく洗うと判明するかもしれませんが。
IMG_3744










こちらは、かつての舞鶴海軍工廠だったJMU舞鶴事業所の正門前に残された錨マーク入りの海軍工廠時代のマンホール。参考までに。
さらに、貯水槽跡の周囲には。
8岸谷貯水池海界境界杭1













海軍施設の境界杭である「海界」の石柱が。
与保呂浄水場遺構配置図







岸谷貯水池東側の遺構配置図。上の境界杭は番号
9岸谷貯水池海界境界杭2










番号の境界杭。「海界」の「界」が埋もれています。
10岸谷貯水池海界境界杭3













番号い龍界杭。
11岸谷貯水池海界境界杭4













番号イ龍界杭。ここには恐らく後述の桂貯水池へと至ると思われる旧道が残されており、配置からこれら4本の境界杭は道の境界を示すものであったかもしれません。
岸谷貯水池から上流に向かって進むと、最初に作られた軍用水道施設である桂貯水池に至ります。
12桂貯水池堰堤1










桂貯水池堰堤。明治33年に完成した舞鶴の軍港に停泊する艦船へ水を供給する軍用水道の貯水池で、やや下流にある現在は駐車場となっている広場から伸びる旧道を進むと堰堤の下へと至ります。
旧道の法面には当時の石積が残されています。
※桂貯水池の堰堤上は立ち入り禁止となっています。
13桂貯水池堰堤2










桂貯水池堰堤を正面から。丁度クレストゲートから水が越流していました。石張りの堰堤から流れ落ちる3本の水流。美しい姿・・・。
14桂貯水池水門







堰堤の横には取水口隧道が。扁額には海軍中将伊藤雋吉の揮毫による「清徳霊長」の文字が刻まれています。
16桂貯水池水門海軍マーク










取水口隧道のキーストーンには岸谷貯水池と同じく海軍の二重波マークが。
15桂貯水池水門内部







内部は煉瓦造りになっています。
17桂貯水池海界境界杭










桂貯水池の道沿いにあった「海界」の境界杭。

あとから知ったのですが、この桂貯水池の上流に同じく重要文化財に指定されているいくつかの堰堤があるようなので、岸谷貯水池の取水塔と合わせて後々探索したいと思います。



besan2005 at 21:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年12月15日

本野精吾邸一般公開レポ日記。(2017年8月6日探訪)

0本野邸一般公開













※この記事は2017年8月6日に訪問した本野精吾邸一般公開のmixiでの記事を転載&再編集したものです。
今年(2017年当時)の京の夏の旅、文化財特別公開に立命館大学の側にある本野精吾邸が一般公開されると知り、見学に向かいました。
本野精吾は大正から昭和初期にかけて活躍した建築家で、モダニズム建築の先駆者として知られています。
本野精吾の家族は父親が読売新聞創業者、兄が外務大臣、4代目読売新聞社長、京都帝国大学教授というエリート一家でした。
本野精吾は東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、関西の戦前の建築界のボスともいえる武田五一の招きで京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授となりました。
そのため、西陣織物館(現・京都市考古資料館)を除いてほとんどが京都高等工芸学校に関わる建物を設計しており、京都工芸繊維大学3号館・旧鶴巻邸(元京都高等工芸学校学長邸)(※いずれも現存)などが代表作として知られています。
1本野邸外観










2本野邸外観










本野精吾邸外観。
この本野精吾邸は自身の邸宅として大正13年に建てられたもので、当時としては先駆的だった中村鎮式コンクリートブロックにて建てられています。
本野精吾邸は20年前、見に行ったことがあります。当時はほとんど知られておらず迷いに迷ってたどり着いた本野邸は前庭が草木で覆われ門からちらっと建物が見える程度。しかも当時はご子孫が住まわれていたためあまりジロジロ見ることできず写真を何枚か撮影して立ち去りました。
あれから20年ぶりに訪れた本野邸は住まわれなくなった代わりに文化財指定を受けて隣に住むご子孫が大切に保管され、前庭に蔓延っていた草木も取り払われて門からよく見えるようになりました。 
今回初の一般公開ですが、20年前はまず見学できるとは思いもよらなかったこの機会に感慨深いものを感じました。
4本野邸門柱













門の表札。煉瓦の門柱にタイルで「本野」の表札が作られた洒落たもの。当時の物です。
5本野邸玄関













本野邸の玄関。一部煉瓦が使われていますが、建物本体は中村鎮式コンクリートブロックを用いたもの。中村鎮式コンクリートブロック、通称・鎮ブロックはL字型をしたコンクリートブロックで、建築家・中村鎮が考案しました。中村鎮は本野精吾と交流があり、京都事務所を本野邸の隣に建ててます。これに関しては後述します。
6本野邸リビング










本野精吾邸1階内部。大正時代の建物とは思えないモダンさ。
8本野邸窓










1階窓。本野邸の特徴は天井が低いこと。これは2階へ通じる階段を緩やかにするため天井を低く抑えたことによるものですが、逆に部屋に圧迫感を与える弊害も。そこで本野精吾は窓の開口部を広く取り、腰板部分も低くして開放感を与える設計をしました。
9本野邸暖炉










1階の暖炉。暖炉の金属の板には葡萄のデザインがされています。
これも本野精吾のデザイン。本野精吾は客船の内装のデザインもしていたそうで、他にドアノブやネジ式鍵のつまみにも洒落たデザインが施されています。
この暖炉、良く見たら奥に焦げた後や煤がついていて、実際に暖炉として使用されていたようです。
10本野邸階段













階段部分も全く装飾の無いデザイン。
11本野邸2階部屋










12本野邸2階部屋










2階内部。こちらは1階以上に窓の開口部を多く取り、2階からの眺望を考慮されているようです。
13本野邸裏口













一旦外に出て本野邸の裏へ。こちらは南面。勝手口玄関の上にベランダがあります。
14本野邸池










その傍らにある睡蓮池。聞くところによるとこれも当時の物らしいとか。この池も本野精吾の設計でしょうか。
15本野邸背面










本野精吾邸の裏面。20年前ではます見ることが叶わなかった場所。
壁面に植物の痕がついてます。近年の整備で取り払われた跡なのでしょう。
16本野邸便所










その裏手に小さな小屋があります。最初は燃料とか入れてる小屋だったのかなとも思いましたが(昔の小学校とかにはこういう感じのコンクリートブロックの灯油倉庫があった)
17本野邸便所













なんとトイレでした。機能性を重視した本野精吾が、どう考えても不便な外に離れのトイレを作ったのは意外でしたが、トイレの建物も一貫してコンクリートブロックというこだわりを感じます。
3本野邸外観










今回初めて本野精吾邸を見学するという機会に恵まれ、まだまだ装飾的なデザインが多かった大正期において先駆的なモダニズム建築として建てられたこの本野邸は90年以上経っているとは思えないモダンさでした。
18中村鎮建築研究所京都出張所










さて、先ほどの本野精吾邸の南隣に白い洋館があります。最近の建物のようにも見えますが、壁面を良く見ると本野邸と同じサイズのコンクリートブロックとおぼしき目地が。
INAXREPORTの本野精吾の特集には、本野精吾邸の隣にあった中村鎮建築研究所京都出張所の古写真があります。
http://inaxreport.info/data/INAX171_04_14.pdf
※INAXREPORT本野精吾特集(pdf)
この写真を見ると、屋根や南側の増築や窓の改修等の改変はありますが、窓の配置や庇などはまさに古写真と同じで、中村鎮式コンクリートブロックで建てられたこの事務所は、本野精吾が設計した可能性があり、大正13年築の中村建築研究所が現存していることになります。
古城邸









また、20年前に本野邸を見るためこの場所を訪れた際に偶然見つけた古い洋館。
本野邸・中村事務所の1件飛んだ南の十字路の角にあったものですが、当時は京都の建築に詳しい人から中村鎮建築事務所と聞かされていました。
しかし、ツイッターでの指摘や本野邸でのスタッフさんの話やINAXREPORTでこの建物の正体が判明。古城鴻一という京都高等工芸学校の教授の邸宅だった建物で、やはり中村鎮式コンクリートブロックによる本野精吾が設計した可能性があるという建築。大正13年12月完成という本野邸・中村事務所とともに同時に建てられた形となります。
この旧古城邸は恐らく2000年前後に取り壊されて現存してませんが、かつてはこの狭い通り沿いに3つの中村鎮式コンクリートブロックのモダニズム建築が並んでいたことになります。建築時期も同年に3件一度に建てられたことから、本野精吾は自邸を含め自身が進めていた中村鎮式コンクリートブロックでのモダニズム建築住宅による新たな街並みをも実験的に造ろうとしていたような気がしました。
19藤井厚二設計住宅










20藤井厚二設計住宅










余談ですが、本野精吾邸のすぐ近くに藤井厚二設計と言われる住宅が残されています。
藤井厚二は日本の風土に適した住宅を目指した建築家で、重要文化財に指定されている大山崎町の聴竹居をはじめいくつかの作品が残されており、京都市内にも何件か現存しています。


besan2005 at 09:40|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 住宅建築

2019年11月27日

京都市・二条〜西院〜壬生・大宮界隈の近代建築探索レポ日記

7月に京都市内の二条から西院・壬生・大宮界隈の近代建築を探索してきました。
探索ルート








今回の探索ルート。サムネでは表示がおかしいですが、クリックして拡大するとちゃんと表示されるはず。地図上の番号は探索した以下の建物の番号と付随。年代の記載のある物件は「京都市近代化遺産調査報告書」掲載の物件です。
探索は二条駅からスタートし、まずは北へ。
1洋風住宅 西ノ京内畑町










\哨竜内畑町の町屋に洋館が付いた感じの住宅。
2西植司法書士事務所 西ノ京内畑町










△垢斡瓩の事務所建物。
ここから西へと向かいます。
3田村製作所 西ノ京東中合町










E賃疾什扈蝓西ノ京東中合町。大通りに近いめっちゃ街中にこんな古い木造の工場事務所建築があるとは…
4田村製作所










門も当時のものが残されていますが、結構古く感じます。戦前くらいはあるでしょうか?
さらに西へ。
5島津製作所E31棟 西ノ京西中合町 昭和12年










づ臘点什扈E31棟。西ノ京西中合町。昭和12年。
島津製作所三条工場は大正8年に開設されましたが、昭和9年の室戸台風で壊滅的な被害を受け、昭和12年に近代的な鉄筋コンクリート造の社屋等が建てられ、以後島津製作所の中心地となりました。その建物もここ最近次々と建て替えられていき、わすが現存しているものはわずかとなりました。このE31棟は数少なくなった昭和12年築の戦前の建物。
6島津製作所E31棟










ただ、現在は空き家状態に見えます。かつては研究棟だったらしい・・・
7島津製作所E31棟










玄関部分。
島津製作所三条工場1










10年ほど前までは本社屋はじめ戦前築の社屋が数多くありましたが、ほとんど建て替えられてしまいました。この写真の社屋も現存していません。
8砂原邸 西ノ京月輪町










ヅ臘点什扈E31棟の西にある黒壁の洋館。
9砂原邸










表札が分からなかったのでどなたが住まわれているかは分かりませんでしたが、大切に住まわれているようで建物の状態は非常に良いです。
ここから西院方面へ向かうため南下していきます。
10永巧舎 壬生西大竹町 昭和初期










Ρ聞舎。壬生西大竹町。昭和初期頃か。洋風の外観の民家が2棟並ぶ箇所。現在は民泊施設になってますが、かつては戦前の分譲住宅だったようです。
11永巧舎










検索すると内部も当時の雰囲気を残した感じでリノベーションされており、どことなく懐かしさを感じる良い雰囲気です。
12永巧舎向かいの洋風住宅










永巧舎の向かいには似たような建物があり、恐らくこの一帯は戦前の建売住宅の分譲地だったように思えます。
12秋山邸 壬生西大竹町 昭和初期










A邸。壬生西大竹町。昭和初期。まるで「うろこの家」のような洋館。
13秋山邸










棟続きですが門柱と玄関がそれぞれ2つあるため、本来は2世帯の長屋みたいな感じだったようですね。今も世帯が違うのかも。
14松浦邸 壬生西大竹町 昭和初期










M邸。壬生西大竹町。昭和初期。下見板張りのシンプルな洋館です。
15宮本邸 壬生西大竹町 昭和初期










M邸。壬生西大竹町。昭和初期。┐M邸とは名字が異なります。こちらも下見板張りのシンプルな洋館。
壬生西大竹町の洋館群を見た後、東へと向かいます。
16芥川医院 壬生森町 大正から昭和初期










芥川医院。壬生森町。大正から昭和初期。今回の探索で一番見たかった建物。
17芥川医院













当時の姿が良好に残されている洋館医院。素敵な外観です。
18芥川医院










国登録有形文化財になってもおかしくない建物だよなぁ。
さらに東へ。
19芋松温泉 壬生森町










芋松温泉。壬生森町。住宅街の中にこんな趣のある銭湯があるとは。
20芋松温泉










確実に戦前はありそうな雰囲気。
21芋松温泉










堂々たる玄関の唐破風屋根。銭湯ファン界隈では有名なようで、検索したらレポートが結構出てきました。ただ、具体的な建築年が載ってないのが残念。
22三川邸










M邸。壬生森町。Googleの航空写真を眺めていて気になった建物。ただし、ストビューの見れない箇所だったため実際に行ってようやく判明。
21三川邸 壬生森町










確実に戦前物件かとは思います。目を引くのは2階にある、まるで手水鉢みたいなベランダ(多分)。なんでこんなデザインにしたのか分かりませんが、何というか見た目が重々しいw
奥の丸窓の建物も気になりましたが、庭木で良く見えませんでした。
このM邸のすぐ隣に明治期の洋館の旧本館や煉瓦の工場棟群がある旧京都綿ネル・日本写真印刷がありますが、今回はスルーしそのまま南へ。
23京都リベラルアーツ 壬生森町










京都リベラルアート。壬生土居ノ内町。大正から昭和初期。
擬石洗い出しモルタルの外壁の洋館。
25西大路アパート










西大路アパート。西院平町。昭和13年。今となっては数少ない戦前のアパート建築。
24西大路アパート 西院平町 昭和13年










反対側から。現在はアパートとして使われていないようで、貸倉庫の看板が掲げられていました。
東へ向かいます。
26小谷与染工場 中堂町庄ノ内町 昭和初期













小谷与染工。中堂寺庄ノ内町。
この近くに大型の洋館を見つけたのですが、かなり奥まった場所にあり撮影できる隙間がほどんどないため写真は断念。
南下し五条通に出た後、JR丹波口駅方面へ。
27中央湯 中堂寺北町 昭和2年










庵羆湯。中堂寺北町。昭和2年。現在は廃業していますが、数年前までは営業していたようです。
28中央湯










外観はリニューアルされてますが、側面は当時の面影を残していました。
29中央湯













奥にはコンクリート造の建物が。ボイラー室でしょうか。中央湯は近くの中央卸売市場で働く人たち用の銭湯だったと京都市近代化遺産調査報告書に書かれていました。
北上していきます。

35末松邸 壬生椰ノ宮町 大正から昭和初期










S邸。壬生椰ノ宮町。新選組で有名な八木邸の近くにある洋館付き住宅。
36末松邸










付属の洋館は2階建ての大型のもの。どことなく和風っぽい雰囲気も感じます。
37末松邸













昭和初期頃でしょうか。戦前であるのは間違いないかと。
30末松工務店 壬生椰ノ宮町 大正期










暇松工務店。壬生椰ノ宮町。洋風事務所建築。軒周りの雷文とデンテルの装飾がオシャレ。
31末松工務店










玄関部分。玄関の庇にも装飾があり中々凝っています。
32 末松工務店邸宅 壬生椰ノ宮町 大正期か










海修遼松工務店の背後に、末松工務店の住宅棟と思われる豪奢な洋館が建っています。
33 末松工務店邸宅か










今回の探索で一番豪華な洋館かもしれません。
34 末松工務店邸宅ステンドグラス













丸窓にはステンドグラスがありました。他の窓にもステンドグラスらしきものが。スクラッチタイルの外壁・建物外観の意匠から昭和初期頃でしょうか。外観だけでこの雰囲気ですから内部はさらに立派でしょう。
壬生を離れ東に向かいます。
38梅鉢医院 風早町 大正から昭和初期










看瀏医院。風早町。大正から昭和初期。まさに戦前の町病院といったたたずまい。
40梅鉢医院










奥行きはそこそこありますね。
39梅鉢医院










開発の相次ぐ京都の市街中心部に未だこういう戦前の洋風医院が残されているのは嬉しいですね。
42美髪館










21.美髪館。石井筒町。昭和2年。近代建築界隈では有名な建物。
41美髪館 石井筒町 昭和2年










実は20年前の学生だった頃に見かけて写真を撮った記憶がありますが、当時はほとんど知られていない無名の建物でした。当時はそれ以上に名建築と呼ばれる戦前の近代建築が京都市内にはたくさんありましたからねぇ。
43美髪館










あれから20年あまり。京都市内の各所にあった多数の大型の近代名建築は次々と姿を消し、美髪館のような小さな近代建築も貴重な存在となっていきました。
44美髪館










この美髪館は今でも理容室として営業されています。ずっと残ってほしいものです。
ここから二条駅方面へ向け北西に進んでいきます。
45星華通商 畳屋町 昭和初期










22.innk。畳屋町。昭和初期。元々は商店だった建物。軒周りなどに装飾があります。現在は宿泊施設になっているようで、内部はだいぶ改装されています。
46太田医院 壬生朱雀町 昭和初期










23.太田医院。壬生朱雀町。昭和初期。洋館の個人医院。今回探索した戦前の医院、芥川医院・梅鉢医院・そして太田医院とも洋風の外観ですね。やはり洋館の病院というのは一種のステータスみたいなものだったんでしょうか。
47太田医院










現在は廃業されていますが、個人宅として使われているのか荒れた感じには見えませんでした。

今回の探索はここまで。今回も多くの良質な近代建築に出会えました。今回出会った建物がこの先もずっと残っていれば良いのですが、最近は気が付いたら取り壊されていて消滅(訪問して2か月後には消滅ということも)することがしばしばあるので油断できない状況ですね。



besan2005 at 11:41|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2019年11月19日

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構探索レポ日記(地下工場編)

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












先日探索した鈴鹿海軍工廠関分工場の地下工場編です。
関分工場は空襲の激しくなりつつあった昭和20年1月に鈴鹿海軍工廠の工場機能のいくつかを5か所に疎開させることに決定。そのうちの1つが三重県亀山市関の関分工場です。
関分工場は観音山に掘られた地下壕に工場機能を移した地下工場で、地下壕を構築した鈴鹿海軍工廠の疎開工場は関分工場と高山分工場でした。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
※鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記
前回は関分工場の遺構のうち、地上部分に残る遺構群の探索レポ日記を紹介しましたが、
※鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地上遺構編)
今回は有名な地下工場の地下壕群のレポ日記です。
なお、今回の探索にあたっていつもお世話になっている藎忠報國様(ブログ・大日本者神國也)からの情報と提供された資料を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
関分工場地下壕配置図











鈴鹿海軍工廠関分工場地下壕配置図。今回私が確認した地下壕です。藎忠報國様の資料やほかの方のレポを見ると確認できてない地下壕もあり、特に西側の谷へと抜けている反対側の入り口はほぼ確認できず。草ボーボーでしたからねぇ。あと、各地下壕は横穴で繋がっているようですが、入って確認したわけじゃないので(入口から確認できたものもあり)今回は明記していません。
40地下壕群遠景










地下壕群は観音山テニスコートの北の道路から東へ進んだ交差点の北へ延びる道の両側にあります。
41地下壕1










地下壕 J頂燭気譴晋園の裏にある地下壕。入口はコンクリートで固められています。公園自体がフェンスで囲まれてしまっているため入口にすら近寄れず。
42地下壕2入口










地下壕入口。
43地下壕2内部










地下壕内部。地下壕自体は厳重に封鎖されているので中には入れませんが、入り口から内部の様子は伺えます。この時のために用意した3500ルーメンのライトが役に立つww
地下壕△呂靴辰りしたコンクリート造で崩落もなし。恐らく地下壕,汎韻犬最初期に造られた壕だと思います。
44地下壕3入口










地下壕F口。ここから入口部分が素掘りに・・・
45地下壕3内部










内部は手前側の腰部のみコンクリートが残されています。奥は素掘りです。コンクリートの瓦礫が見当たらないので奥は最初から素掘りだったのかもしれません。支保工無しとは危険すぎる…
46地下壕4入口










地下壕て口。地下壕0聞漾入り口は全て素掘りです。
47地下壕4内部










地下壕て睇堯こちらは奥の方は天井までコンクリートが残されていますが、手前側は腰部しかありません。崩落してしまったようです。
48地下壕5入口










地下壕テ口。
49地下壕5内部1










地下壕テ睇堯手前の鉄柵扉のせいで光が奥まで届かない…。コンクリートは巻いてたようですが崩落しています。それにしてもコンクリートが薄い。物資不足の戦争末期とはいえこんなお粗末なコンクリート巻きではアーチにしても持たないでしょう。コンクリートの質も悪かっただろうしそりゃ崩落しますわ。内部に入ってのレポをされているサイトを見たことありますが、危険極まりない行為かと。
51地下壕6入口










地下壕ζ口。やや斜めになっている入口です。
52地下壕6内部










地下壕ζ睇堯こちらも同様にコンクリート巻きの崩落が激しい。
53地下壕7入口










地下壕入口。
54地下壕7コンクリート










地下壕Г瞭り口手前には大きなコンクリートの残骸がありました。
55地下壕7内部










地下壕内部。手前側の崩落がひどいですが、奥の方は比較的保たれています。
56地下壕8










地下壕入口。かなり上の方にあり足場的に危険と判断したため道路からの遠景のみ。
57地下壕9入口










地下壕入口。
58地下壕9内部










地下壕内部。ここはコンクリートは巻かれておらず素掘りのままでした。しかしコンクリート巻きの他の壕より崩落が少ないのは皮肉。
59地下壕10入口










地下壕入口。
60地下壕10内部










地下壕内部。こちらも素掘りですが崩落はほとんどなく、両側の排水溝も確認できるくらい状態が良いです。岩盤の質にもよるでしょうけど質の悪いコンクリートをく薄くり巻くより丈夫なのかも。それでも支保工無しは怖い…
61地下壕11










地下壕入口。ここも結構上にあり登るのは危険と判断し道路からの遠景撮影。恐らく地下壕・と同じく素掘りと思われます。
62地下壕A










次に西側の谷の道路へ。地下壕A入口。恐らく地下壕の西口かと。このほかにも東側に入口を開けている地下壕の西口がいくつもあるようですが、前述の通り草で覆われ確認できず。
63未成地下壕1










地下壕Aのある道路の崖下には作りかけの地下壕が3つあります。これは未成地下壕 
64未成地下壕2










未成地下壕
65未成地下壕3入口










未成地下壕F口
66未成地下壕3内部










未成地下壕F睇堯A之,蠅覇口から4~5mまで掘られていました。

鈴鹿海軍工廠関分工場の地下工場は掘られた15本の地下壕のうち2本の地下壕で機銃を生産し2本に旋盤が置かれたとのことで、ほとんどが未完成もしくは使われなかったようです。高山分工場の地下壕もですが、工事が開始されたときはもう遅かったんでしょうね・・・。



besan2005 at 19:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年11月17日

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地上遺構編)

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












戦争末期の昭和20年になると空襲も激しくなり、同年1月に鈴鹿市にあった鈴鹿海軍工廠は工場機能のいくつかを疎開させることが決定。疎開先の5か所が選定されそれぞれ工事が開始されました。うち岐阜県高山市の高山分工場と三重県亀山市関町の関分工場は山の麓に横穴を掘って作られた地下工場でした。
しかし、関分工場は一部のみ稼働。高山分工場は地上の仮工場のみ稼働し地下工場は未完成で終わりました。

※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
※鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記

今回は三重県亀山市にある関分工場の遺構群を探索してきました。
地下工場編のレポ日記はこちら。
※鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地下工場編)
44地下壕3入口










関分工場と言えば観音山麓の地下壕が有名ですが、実は地上にもいくつか遺構が残されています。まぁ、ずっとモグラみたいに過ごすわけもいかないわけですしね。なのでレポ日記は地上遺構編と地下壕編の2つに分け、今回は地上遺構編としていきます。

なお、今回の探索にあたっていつもお世話になっている藎忠報國様(ブログ・大日本者神國也)からの情報と提供された資料を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












なお文中の各遺構の番号は作成した位置図に従っております。

1第四寄宿舎遠景










´第四寄宿舎。寄宿舎ということは動員学徒が生活していた建物でしょうか。横長の長屋のような建物が2棟残されています。
2第四寄宿舎










奥の建物(番号)は昭和21年の航空写真を見る限り、規模・位置とも当時のままと思われます。
3第四寄宿舎










別角度から。
4第四寄宿舎










右奥側は当時の外観を良く残しているようです。しかし言っちゃ悪いですが粗末なつくりですね。戦争末期だから仕方ないとはいえ。
5第四寄宿舎










手前側の短い棟(番号)ですが、昭和21年の航空写真にはその場所には建物が存在していませんが、建物の造りが酷似しているので、恐らくどこかの工員宿舎を切り詰めて移築したものと思われます。 
6第四寄宿舎井戸か










寄宿舎の建物の前には井戸がありました。コンクリートの感じから当時のものと思われます。

12第八工員宿舎遠景










ぢ菷工員宿舎。こちらも現存している建物でしたが・・・訪れた時はフェンスが。なんと取り壊し中。
13第八工員宿舎










手前の工員宿舎(番号)は昭和21年の航空写真を見ると位置は当時のままのようですが切り詰められ短くなっています。
奥の建物(番号)は航空写真にはその位置に建物はなく、第四寄宿舎の手前の建物()と同様別の宿舎の建物を移築してきたものと思われます。
15第八工員宿舎










移築されたと思われる宿舎建物()。
14第八工員宿舎近景










アップ。
16第八工員宿舎










別角度から。どうも火事を起こし一部が焼失したようで梁や柱が焼け焦げていました。老朽化もあり取り壊されることになったのでしょう。
IMG_4820










積み上げられた廃材…。
17第八工員宿舎井戸










工員宿舎のそばには井戸がありました。
18第八工員宿舎井戸










ポンプは当時のもののようです。
19第八工員宿舎ベタ基礎










これは当時の宿舎のベタ基礎でしょうか。

7移築官舎か










先ほどの第八工員宿舎から西へ進むと見える古い木造建物(番号)。
昭和21年の航空写真にはこの場所に建物は存在していませんが、一般の住宅とは違うように見えるどうも気になる作り。いわば「カタギの建物じゃない」建物といった感じでしょうか。
8移築官舎か










右側から。
9移築官舎か










左側から。
10移築官舎か










側面。これまで鈴鹿海軍工廠や舞鶴市の朝来第三火薬廠・宮津市の第三十一海軍航空廠など色々な官舎・宿舎を見てきましたが、それによく似た感じなんですよねぇ。切妻屋根の玄関・寄棟屋根・庭側に作られた庇など。ちなみにここから真っ直ぐ上った突き当りに関分工場の診療所があったようです。
決定的な裏付け資料がないので断定できませんが、移築されてきた建物ではという可能性も考えて紹介。
11移築宿舎か










先ほどの建物Гら登った先に移築されてきた可能性のある建物┃があります。規模的に工員宿舎の長屋にも見えるんですよね。あくまで可能性として紹介。
20移築事務所か










さらに西へ進み、関神社御旅所の隣に古い木造建物(番号)があります。
21移築事務所か










番号の建物東面は当時と思われる外観が良く残されていますが
22移築事務所か










西面は大破しており廃屋となってます。
23移築建物か










奥にある番号の建物。
この辺りには事務所建物があったようで位置的にはこの建物とだいたい同じ個所にあったようですが、建物の向きと規模が異なります。全くの推測ですが、事務所建物を再利用し民家として使用していたのでは。
27事務所基礎か










建物の西側の空き地には当時の事務所の基礎の一部と思われるコンクリートがあります。
25浴場跡










番号の建物の北側には浴場跡(番号)があります。
24浴場跡










別角度から。
26浴場跡小便器










傍らには小便器も残されていました。そういえばトイレっぽい間仕切りのある一画もありました。
この周辺には炊事場や浄水場もあったようですが、雑草に覆われまくり確認不可でした。この浴場跡だけ雑草が無く、遺構という認識で手入れされているのかも。だとするとありがたいですが。

28取水塔遠景










国道25号線を渡り、焼肉びっくりや(結構有名な店らしい)の裏手の川の中に円筒形のコンクリート構造物があります。これは関分工場時代の取水口(番号)とのこと。
29取水塔










望遠でアップ写真を撮影。この背後にポンプ場があったようです。

30鍛錬工場跡










観音山公園へ向かい、テニスコートへ。その背後に整地した平坦地があります。ここは鍛錬工場(番号)があった場所。
31鍛錬工場コンクリート基礎










わずかに基礎と思われるコンクリートの構造物が残されています。
32汽缶場跡煙突











その隣には汽缶場(番号)があり、煙突(番号)が残されています。
33汽缶場跡煙突










正面から
34汽缶場跡コンクリート基礎










汽缶場の基礎と思われるコンクリート構造物。
IMG_4910













煙突の手前には長方形の大きな穴があります。これも汽缶場の遺構と思われますが、何せ周りが草に覆われていて分かりづらく足を踏み外す可能性があるので注意!
35汽缶場跡煙突










汽缶場の番号の煙突の上にも煙突の遺構(番号)があります。
36汽缶場跡煙突










正面より。耐火煉瓦らしき煉瓦で作られています。
37汽缶場跡煙突土管










付近には陶製の土管の破片が散乱しています。恐らく常滑焼。
39貯水槽跡










汽缶場跡から東に道を進んだ先の崖の上の公園に貯水槽跡(番号)があります。頑丈なコンクリート製たものと思われますが破壊され一部のみ残されています。恐らく公園整備の際に危険なので破壊したのでしょう。
40地下壕群遠景










汽缶場と貯水槽との間に交差点がありますが、その交差点の北に向かう道の両側の崖面に地下工場として掘られた地下壕が複数(管理人は11本確認。どうやら14本あるらしい)存在しています。
41地下壕1










交差点角の公園に一番近い側にある地下壕 残念ながらこの地下壕は道側まで厳重に柵がされており、入り口にすら近寄れませんでした。
42地下壕2入口










43地下壕2内部










しかしそれ以外の地下壕は(一部を除き)入口まで近寄ることができ、柵がされていたので入口からのみでしたが内部を観察することができました。次回は地下壕編として鈴鹿海軍工廠関分工場地下工場の地下壕を紹介していこうと思います。



besan2005 at 21:10|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年11月13日

JR嵯峨野線・八木駅舎&千代川駅探訪レポ日記。

3八木駅舎正面











京都府南丹市にあるJR嵯峨野線・八木駅は昭和9年に建てられた戦前の木造駅舎です。
嵯峨駅舎









10年ほど前までは明治30年築の嵯峨嵐山駅(当時JR西日本管内で最古の現役駅舎だった )や
旧亀岡駅2








旧亀岡駅1









昭和11年築の亀岡駅がありましたが、いずれも姿を消し(明治37年築の二条駅舎は梅小路に移築され現存。)JR嵯峨野線管内で現役の戦前駅舎は昭和10年築の千代川駅と昭和9年築の八木駅のみとなりました。
その八木駅も建て替えが決まり、2019年の9月には姿を消すと聞き、同年7月に訪問してきました。
合わせて同じく戦前の昭和10年築である千代川駅にも訪問してきました。
1八木駅舎外観










八木駅外観。
2八木駅舎外観










八木駅外観その2。昔懐かしいレトロな木造駅舎です。
4八木駅舎玄関










八木駅の正面入り口。丸窓が特徴的です。
5八木駅舎待合室










待合室内。
6八木駅舎待合室










改装されてはいますが昔懐かしい雰囲気が残されていますね。
7八木駅舎ホーム










駅舎側ホーム。
9八木駅舎ホーム










反対方向。
10八木駅舎ホーム古レール










ホームの骨組みには昔の駅らしく古レールが再利用されています。
IMG_3668













古レールを観察すると銘があるのが分かり、「1910」や「1881」の西暦があるのを確認しましたが、厚く塗られた塗装で判読しきれませんでした。
11八木駅舎跨線橋










跨線橋も駅舎と同じころの物と思われる古いもの。
12八木駅舎跨線橋看板













跨線橋の壁に付けられた古い看板。国鉄時代の物でしょうかね。
14八木駅舎跨線橋内部階段










跨線橋の階段。
13八木駅舎跨線橋内部










跨線橋の連絡通路。トラスの鉄骨もリベット打ちの古いものですね。
15八木駅舎跨線橋内部階段










跨線橋の階段2。
16八木駅舎反対ホームより










反対側ホームから駅舎を望む。
17八木駅舎反対側ホームより










別角度から。
18八木駅舎ホーム待合










反対側のホームにある待合室。
19八木駅舎ホーム待合










ホーム上屋側から。結構モダンな造りで戦後の物かなと思いましたが、
20八木駅舎ホーム待合管理表










貼られていた建物財産標には昭和18年9月の文字がありました。意外と戦前の建物でした。
IMG_3684










撮影中、ちょうど電車が入ってきました。もうこの姿を見ることは出来ませんね。

IMG_3688










八木駅から1駅京都方面に向かった側の亀岡市にある千代川駅にも行ってきました。
千代川駅は昭和10年に建てられた小さな無人駅です。
IMG_3687










駅舎の入り口側。
IMG_3689










駅舎内の待合室。
IMG_3691










ホーム側。
IMG_3690










一部増築部分はありますが、駅舎に付属している屋根は当時のもの。
規模は小さいですが八木駅が建て替えとなる中、JR嵯峨野線管内では唯一の貴重な戦前の駅舎となります。この千代川駅の駅舎もいつまであるか分かりませんし。



besan2005 at 20:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索レポ日記

IMG_4557










9月17日より1ヶ月半余り出張で岐阜県の高山市に滞在して休日に高山市内の近代建築を探索していましたが、
※高山市の近代建築探索レポ日記 - BESANの歴史探訪
滞在中に隣町の飛騨市の飛騨古川町でちょうど新そば祭りが行われたため、そば祭りと合わせて飛騨古川の近代建築探索をしてきました。飛騨古川町も範囲は狭いですが古い街並みの残る観光地で、街中にはいくつもの近代建築が存在していました。

1旧河合療院 古川町弐之町 昭和3年










〇旧河合療院。古川町弐之町。昭和3年。
2旧河合療院










飛騨古川町を代表する洋館ですね。いかにも戦前の町の医院と言った佇まい。
3旧河合療院













外観も良く保たれてますが、現在は向かいの場所に河合療院の新たな建物が建てられこちらは使用されていないようです。内部を見てみたいものです。国登録有形文化財。

4渡邉家住宅土蔵別館 古川町壱之町 昭和9年













〇渡邉家住宅土蔵別館。古川町壱之町。昭和9年。
造り酒屋の大きな商家の裏手に建つ洋館。何故かこの建物だけ洋風。
5渡邉家住宅土蔵別館










裏手の様子。いい雰囲気ですね。
渡邉家










表側の主屋も含めて国登録有形文化財。

6加藤邸 古川町壱之町 昭和初期か










K邸。古川町壱之町。昭和初期か。
街中を歩いていて見かけた住宅。何となく洋風の雰囲気を漂わせる感じだったので開いてたガレージになっている部分を拝見すると…
7加藤邸内部洋室










タイル張りの床に洋風の窓。そして壁に作り付けの机(元は暖炉?)と中々良い雰囲気のスペースが。元は応接室だったんでしょうかね。

7洋風商店 古川町壱之町 昭和初期か










古川町壱之町の元洋風商店。昭和初期頃でしょうか。1階は完全にガレージとなってますが、2階はオリジナルの姿が残されていました。

8馬場のかどや 古川町殿町 昭和初期か










〇馬場のかどや。古川町殿町。昭和初期か。
9馬場のかどや










2階は伝統的な商家ですが、1階はまるでカフェーのような洋風のデザイン。現在は居酒屋ですがふさわしい用途かも。

10由布衣工房 古川町壱之町 昭和初期か










〇由布衣工房離れ。古川町壱之町。昭和初期。
元は河合家別邸だった建物。大きなお屋敷です。離れのこの建物は2階部分に洋風の意匠がありますね。表門の写真を撮るのを忘れました。国登録有形文化財。

11飛騨古川駅 古川町金森町 昭和9年










〇飛騨古川駅。古川町金森町。昭和9年。
12飛騨古川駅










JR高山本線開業時からの駅舎です。10数年前までは地方都市のあちこちにこういった洋風の平屋建てのレトロな木造駅舎がありましたが、ずいぶん数が減りました。
八木駅舎










もうすぐ建て替えになるため、建て替え前に訪問した京都府南丹市の八木駅舎を思わせる昔懐かしい駅舎です。※八木駅舎の記事は後日作成予定。
13飛騨古川駅










車寄せ部分。天井部分に若干の装飾が。
14飛騨古川駅










15飛騨古川駅










待合室内部。そうそう。昔の駅舎はこんな感じでした。懐かしいですね。
16飛騨古川駅










駅のホームの上屋。できればこのまま使われ続けて欲しいです。

IMG_4579










この日、飛騨古川駅の裏の駐車場では飛騨そば祭りが開催されていました。10時の開場直後の様子なのでまだお客さんは少ないですが、11時になるとお客さんで一杯になり列が出来ました。
DSC_0048







会場では地元の蕎麦屋さんの手打ちの実演も。
IMG_4582













私も新蕎麦を頂きました。
DSC_0049







地元産の天然キノコを使ったきのこ蕎麦。山で採れた天然のキノコは味が濃く旨みや歯ごたえもあり絶品。蕎麦は新蕎麦の十割蕎麦で香り良くコシがあり旨かったです。
DSC_0050







1杯じゃ足りず、盛り蕎麦も注文w
IMG_4585










地元産のイワナの炭火焼も美味しかったです。
IMG_4546










飛騨古川町はさすが観光地だけあって、高山市と同じく古い町並みが良く残されてました。蕎麦も旨かったし、こちらに旅行するなら高山市と飛騨古川はセットで巡りたいところですね。
ちなみに飛騨市内には他にも飛騨神岡町にいくつか良い感じの近代建築があるようですが、距離と時間の都合で行けませんでした。ママチャリじゃなぁ・・・

君のそば













※おまけ。お蕎麦屋さんの店先にあった「君のそば」www
飛騨古川は映画「君の名は」の舞台になった町で、ヒロインの三葉ちゃんの住む糸守町のモデルですね。で、この「君のそば」・・・

君→温泉卵黄身
三葉ちゃん→三つ葉。
瀧くん→しらたき
結び→結び揚げ湯葉
赤い組み紐→飛騨の漬物

よく考えてますねw


besan2005 at 08:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

2019年11月11日

高山市の近代建築探索レポ日記

IMG_4346










先月まで岐阜県の高山市に出張に行ってました。1ヶ月半に及ぶ長い出張で忙しさもあり大変でしたが、おかげで観光名所や市内の近代建築をくまなく探索することが出来ました。
また、出張中に隣町の飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索も行いました。
飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索レポ日記 - BESANの歴史探訪

以下、私が探索した高山市の近代建築を紹介していきます。
1かみなか旅館 花岡町 明治21年 元遊郭










〇かみなか旅館。花岡町。明治21年。
2かみなか旅館










国登録有形文化財の元遊郭の建物。

3かみなか旅館










今はちょっとお高めの旅館となっています。中が気になるなぁ。


4柚原邸 花岡町 大正〜昭和初期










〇柚原邸。花岡町。大正〜昭和初期。
5柚原邸










下見板張りのシンプルな建物。1階部分の窓がオシャレ。
6柚原邸










反対側の窓は改装されてますね。

7遊廓の検番所か 花岡町










8遊廓の検番所か










花岡町にあった何となく気になった建物。遊郭関連だった建物?

10旧村田医院










〇村田医院。本町4丁目。昭和27年。
9旧村田医院 本町4丁目 昭和27年










戦前かと思いましたが、戦後らしいです。(高山市の近代建築リストの本より)
11旧村田医院










戦後の建物ですが建物自体は良い雰囲気です。新たな用途になるのか改装中でした。
12上野家具店 花川町 昭和初期か










〇上野家具店。花川町。昭和初期。
軒周りの飾りが素敵な看板建築。

13高山信用金庫川西支店 朝日町 昭和戦前か










〇高山信用金庫川西支店。朝日町。
昭和戦前期か。何となく古そうです。
14うつほ人形店 朝日町 昭和戦前か










高山信用金庫の向かいにある戦前っぽい看板建築。

15飛騨高山中華そば鍛冶橋 本町3丁目 昭和初期か










〇飛騨高山中華そば鍛冶橋。本町3丁目。昭和初期。
16飛騨高山中華そば鍛冶橋










軒周りの装飾が凝ってます。今はラーメン店ですが、かつては何の建物だったんでしょうね。

18三之町倶楽部 上一之町 昭和23年










〇三之町倶楽部。上一之町。昭和23年。
19三之町倶楽部










戦前の建物に見えましたが、資料では昭和23年らしいです。
20三之町倶楽部










かつては商店だったようですが、現在はイベント関連の建物になってるようです。

17たま井や 下一之町 昭和初期か










〇たま井や。下一之町。昭和初期の看板建築。

21旧山桜神社火の見櫓 本町2丁目 明治14年 昭和11年移築










〇旧山桜神社火の見櫓。本町2丁目。明治14年築。昭和11年移築。
割とランドマーク的な存在の火の見櫓です。

22天狗総本店 本町1丁目 昭和11年










〇天狗総本店。本町1丁目。昭和11年。
高山市の近代建築で一番有名な建物ではないでしょうか。
IMG_4600










西から。
IMG_4599










北から。
23天狗総本店










お肉屋さんなので「精肉」の看板があります。
24天狗総本店










屋号でもある天狗の装飾。本格的な洋風建築とバラエティーに富んだ装飾は見ていて飽きません。
国登録有形文化財です。


25駿河屋(旧北陸銀行) 本町2丁目 昭和18年










〇駿河屋本店(旧北陸銀行)。本町2丁目。昭和18年。
戦時中の建物ですが、ちゃんと列柱を施した古典様式となっています。

28旧スミ時計店










〇旧スミ時計店。本町2丁目。昭和9年。
26旧スミ時計店 本町2丁目 昭和9年










天狗総本店の向かいにある建物。
27旧スミ時計店










こちらも高山市を代表する近代建築です。

29ル・ミディ 本町2丁目 昭和初期










〇ル・ミディ。本町2丁目。昭和初期。
現在は飛騨牛レストラン。天狗総本店の斜め向かいにあり、
天狗総本店・旧スミ時計店と並んでこの一角は近代建築が集中しています。

30バグパイプ 片原町 昭和初期










〇バグ・パイプ。片原町。昭和初期。
31バグパイプ










こちらも高山市を代表する近代建築の一つ。
32バグパイプ










内部は喫茶店です。レトロな良い雰囲気。
33バグパイプ










京アニ作品の「氷菓」にも登場し、ファンの聖地となっています。
34バグパイプ













階段の親柱。店主の方に聞くと建物は昭和初期とのこと。

35旧瀬古写真館 馬場町2丁目 昭和初期










〇旧瀬古写真館。馬場町2丁目。昭和初期。
36旧瀬古写真館










高山市図書館「煥章館」の近くにある建物。割とシンプルな外観。現在は廃業。


37山岸写真館 馬場町1丁目 大正7年










〇山岸写真館。馬場町1丁目。大正7年。
38山岸写真館










飛騨護国神社の近くにある華やかな外観の写真館。
39山岸写真館










玄関の「山岸写真館」の額も当時の物かな?国登録有形文化財です。

40旧日下部味噌醤油煉瓦蔵 上一之町 大正10年










〇旧日下部味噌醤油煉瓦蔵。上一之町。大正10年。
41旧日下部味噌醤油煉瓦蔵










近代建築が豊富な高山市ですが、煉瓦建築は非常に少ないです
(もう1か所あった煉瓦建築は取り壊された)。国登録有形文化財。

42旧高山町役場 神明町 明治28年










〇旧高山町役場。神明町。明治28年。
43旧高山町役場










堂々たる近代和風建築です。
44旧高山町役場










現在は資料館となっています。なんと無料。
45旧高山町役場










こちらの和室に置かれている高山市の近代建築の資料が大変参考になりました。
今回紹介している近代建築の年代はここで判明しました。
46旧高山町役場講堂










2階の講堂。大空間に広がる格天井は迫力あります。

47洋館付き住宅 堀端町 昭和初期か










〇堀端町の洋館付き住宅。昭和初期か。
城山に向かう途中で見つけた住宅。

48旧押上森蔵陸軍中将邸主屋 堀端町 大正2年










〇旧押上森蔵陸軍中将邸主屋。堀端町。大正2年。
50旧押上森蔵陸軍中将邸主屋










現在は移築され照蓮寺の庫裏となっていますが、かつては街中の西之一色町にあり、書斎や豪奢な洋館が付属していました。
49旧押上森蔵陸軍中将邸主屋  移築され照蓮寺の庫裏として使用










表玄関には式台がある格式高いもの。主屋は照蓮寺に書斎は飛騨国分寺の境内に移築されました。
51照蓮寺煉瓦蔵 押上邸の関連か










奥には煉瓦造の倉もありました。これも移築されたものでしょうか。
押上森蔵陸軍中将は陸軍兵器本廠を勤めた方で、退役後は火藥製造株式会社の社長を務め、また高山市の郷土史研究もされていた地元の名士。
65旧押上森蔵陸軍中将邸書斎 総和町 大正2年

 








で、こちらが飛騨国分寺境内に移築された旧押上森蔵陸軍中将邸の書斎。大正2年。
書斎と言っても一軒家です。
唯一残された洋館は取り壊しの危機に遭いましたが、地元の左官業の方の尽力で自邸に移築されたようです。詳しくはこちら
この方、なんと大河ドラマ「真田丸」の題字を書いた人だそうで、有名人だったんですね。
IMG_4393













飛騨国分寺三重塔。江戸時代後期・文政年間の築造。

53旧三星製糸事務所 神明町 明治21年










〇旧三星製糸事務所。神明町。明治21年。
54旧三星製糸事務所










明治前期の貴重な擬洋風建築。大切に使われています。

55サロン花里 花里町 昭和初期か










〇サロン花里。花里町。昭和初期か。
56サロン花里










小さな洋館付き住宅です。洋館もですが横の庭園も素敵。現在はカフェっぽいですね。

57旧須田医院 桜町 大正末期










〇旧須田医院。桜町。大正末期。
当時の外観が良く保たれており大切に使われています。
58旧須田医院










ただ、庭木がちょっと邪魔・・・

59旧高山測候所 西之一色町 明治36年










〇山岳資料館(旧高山測候所)。西之一色町。明治36年。
60旧高山測候所










高山市街地からやや離れた「飛騨の里」内に移築された建物。
国登録有形文化財ですが、やや傷みが目立ちます。 
61旧高山測候所










内部は登山や山岳関係の資料館になっています。
62旧高山測候所










入館料は無料。
63旧高山測候所










それにしても誰もいない。管理の人すらいない・・・

64旧藤井医院










旧藤井医院。上三之町。大正期か。
63旧藤井医院 上三之町 大正期か










かつて診療所だったと思われる洋館の方に目が行きますが、
横のかつて邸宅だった美術館の方が有名ですね。

66旧広瀬医院 上二之町 昭和22年










〇旧広瀬医院。上二之町。昭和22年。
67旧広瀬医院










小さい洋館付きの住宅。戦前かと思ったら戦後の建物でした。

IMG_4506










〇JR上枝駅。下切町。昭和9年。
上枝と書いて「ほずえ」と読みます。難読駅名ですね。
高山本線開業時からのレトロな木造駅舎。これを撮影した時、一応撮影した感じだったので、内部までは撮影せず、後から開業時の駅舎と知ってもっと撮影しておけばとガッカリ。

67戦前の発電所か 国府町村山










飛騨古川町へ向かう途中に見つけた古い水門。国府町村山。
68戦前の発電所か










吐き口は石積みで、
69戦前の発電所か










呑み口は古いコンクリート。何の施設かは分かりませんが戦前はありそうな古さです。
大正から昭和初期?

IMG_4290










〇高山市図書館「煥章館」。
2004年に開館した図書館ですが、外観は明治9年に完成した煥章学校(現・高山市立東小学校)を再現しています。
IMG_4291










映画「君の名は」にも登場した図書館としても知られていますね。

IMG_4275










高山市と言えば、和風の古い街並みが有名で、この界隈はいつも観光客でにぎわってましたが、少し足を延ばすと様々な洋風建築に出会えた素敵な街でした。

※余談
IMG_4328










高山市到着初日にホムセで買った安いママチャリ。
1ヶ月半の間、仕事場も買い物も街中の探索も山の上の松倉城跡へも隣町の飛騨市へもこのママチャリを漕いで走り回ってました。
最後の方は後輪のブレーキが不具合を起こしはじめ悲鳴を上げてましたが、よく頑張ってくれました。
チャリは地元の一緒に仕事をした方に贈呈。
IMG_4243










IMG_4245










1ヶ月半過ごしたアパートの部屋。1ヶ月半とはいえずっと過ごしているとそれなりの愛着も湧くもので。何せ自宅に帰ったのは1度だけでしたからね。1ヶ月半お世話になった部屋。2度とこの部屋に住むことは無いだろうけど思い出には残りました。


besan2005 at 21:03|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

2019年11月04日

舞鶴市・旧海軍水交社社営住宅群と海光会建物(推定)探索レポ日記

水交社社営住宅位置図









舞鶴市・東舞鶴の浜地区航空写真を眺めていて同じ規格の建物が同じ向きに整然と並んでいるのを発見。官舎ではと思い調べてみました。
無題2







国土地理院HPより米軍撮影の航空写真。同場所に整然と並ぶ建物群。
水交社住宅配置図










昭和11年の「新舞鶴市街図」を見てみると、「水交社社営住宅」となっています。
水交社は旧海軍の将校向けの親睦団体で、福利厚生なども行っていましたが、住宅の供給もしていたのは知りませんでした。
アジア歴史資料センターの昭和3年の資料によれば
「機関学校常設と共に益々住宅難となり、水交社を経営主体として京都府より資金を借り入れ尉官向けの住宅を建設する」とあります。
舞鶴の海軍将校向けの官舎は所謂「官舎山」の麓に明治32年から35年にかけて造られました。
舞鶴市浜地区・旧海軍官舎群
しかしそれだけでは足りなくなったようです。
現在5棟の住宅が残されているのを確認しました。
11住宅群










現在の旧水交社社営住宅群。昭和11年の市街図によれば手前左が住宅九。手前右が住宅一二。左奥が住宅八。右奥が住宅一一。その他に住宅九の西側に住宅三があります。
7住宅九










住宅九。当時の塀が残されており一番オリジナルを保っています。
IMG_4689










正門部分。現在は空き家になっています。
10住宅一二










住宅一二。塀はブロック塀となってますが、主屋は当時のものです。
9住宅一一










住宅一一。こちらも塀と門は建て替えられてますが、主屋は当時のもの。
8住宅九










主屋部分。
住宅八






住宅八。(迂闊にも写真を取り忘れていたので、Googleのストリートビューより拝借。後日差し替えます。)
6住宅三










住宅三。手前に新たに建物が建っており主屋が見難いですが、航空写真で確認することができます。
これら水交社社営住宅群はアジア歴史資料センターの資料と昭和11年の市街図より、昭和4年頃から昭和10年頃にかけて建てられたものと思われます。

この水交社社営住宅群から南西の位置に舞鶴東遺族会館という建物があります。
1海光会正面










舞鶴東遺族会館の正面。
2海光会妻部













妻部には鎧窓と装飾のある破風があり、古さを感じます。
3海光会側面










舞鶴東遺族会館全景。
4海光会背部










舞鶴東遺族会館背面。モルタル塗されてない壁面は板張りの古風な感じ。
内部は和室となっています。
5海光会基礎部










基礎のコンクリートは川砂利の古いもの。
5海光会塀










正面のブロック塀には舞鶴市の市章があります。これは昭和19年に制定されたものです。
ただしこのブロック塀は戦後の可能性があります。
昭和11年の市街図には「海光会」という建物となっています。アジア歴史資料センターの資料「海光会設立の件」によれば、海軍判任文官の親睦団体だったようです。
この建物が海光会の建物であったかどうかは断定できませんが、建物や基礎のコンクリートの感じから戦前の建物の可能性があります。引き続き調査を続行していきます。




besan2005 at 20:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年11月03日

舞鶴市・旧海軍東山防空指揮所地下壕見学会レポ日記

旧海軍特設防空指揮所壕位置図












舞鶴市の旧海軍東山防空指揮所は昭和16年頃に東山山頂に鉄筋コンクリート造2階建ての見張所を備えた防空指揮所が建てられたのが始まりですが、昭和18年末から昭和19年にかけて東山の地下に巨大な地下壕が建設されました。これは空襲の危険性を回避するために計画されたもので、内部は指揮室・作戦室・電信室・電話交換室やさらには鎮守府長官室・参謀室なども設けられ、寝室や食堂も備えられていました。コンクリートの壕は爆弾の直撃にも耐え、更には毒ガス攻撃に備えて空調も完備しており、鎮守府機能を丸ごとこの東山の防空指揮所壕に移転する予定だったようです。

戦後、占領軍が爆破作業を行いましたが、余りに頑丈なため断念。そのため現在も多くが残される形となりました。
現在は落盤の恐れがあるため普段は立ち入り禁止ですが、今回、日本遺産WEEKの一環として見学会が企画。またとない機会なので応募して本日参加してきました。
1旧海軍東山特設防空指揮所壕遠景










東山遠景。この山の地下に巨大な地下壕の遺構が残されています。
1東山特設防空指揮所壕スタート










まずは東山山頂まで登っていきます。
2麓の地下壕入り口










ゲートのすぐそばにほとんど埋もれたコンクリート造の地下壕入り口を発見。
3麓の地下壕入り口近景










僅かな隙間を照らしてみました。どうやら土砂は入り込んでいますが地下壕の躯体自体は無事のようです。
4東山山頂










東山山頂。かつては2階建ての防空指揮所の建物がありましたが、戦後の前島ふ頭建設のための埋め立て工事による土砂採取で山頂が削られてしまい消失しました。
5地下壕入り口遠景










今回の地下壕への入り口は山頂からしばらく下った先にあります。
6地下壕入り口










地下壕入り口。意外なことに開口部は岩盤の素掘りでした。
7地下壕素掘り部分










入口からしばらく素掘りの状態が続きます。支保工も無い本当に素掘りの状態。落盤が怖い。
8地下壕コンクリート造部分










しばらく進むとコンクリートで巻いた状態に。
9地下壕コンクリート造部分










入口付近が素掘りなのは工期と予算の関係でしょうか。
10地下ドーム










通路を抜けるとドーム型の巨大な空間に出ます。
11地下ドーム奥壁から










反対側からの撮影。参加者との対比で大きさが分かりますでしょうか。
旧海軍東山特設防空指揮所壕内部配置図








案内の方が見せてくれた当時の内部の各部屋の配置図。この巨大なドームの内部には2階建ての木造建築が建てられており、1階に送信機室・電話交換室・砲台指揮室・情報室・先任伍長室があり、2階は長官室・参謀室・作戦室・暗号室・電信室があり、さらには生活空間としての食堂や寝室があったようです。2階の作戦室には大きな日本地図が壁に掛けられ、電球の点滅で敵機の来襲を知らしていたとのこと。
東山防空指揮所壕には軍人77人と軍属135人が働いていましたが、それだけでなく女子挺身隊の女学生も働いていました。その女学生は京都などから呼ばれた良家の子女だったらしく、やはり親のコネで安全で快適な部署に配置させてもらったのでしょうね。まるでジャブロー・・・
12コンクリート配管










コンクリート製の配管が残されていました。
12コンクリート配管2













用途の方は不明です。

戦後に占領軍が木造建物を解体し焼却したため、堅牢なコンクリートのドームだけ残された形となりました。現在も焼け焦げた木材があちこちに点在していました。
このドーム内からはいくつか開口部があります。上記の配置図に番号を追記しました。
13非常口










“鷯鏝。今回進入した箇所とこの開口部は当時は非常口であり、正規の入り口の通路は反対の壁側にありました。こちらは奥が崩落し進めません。
14碍子










非常口上部の碍子。
13扉部分の金属と鉄筋













扉部分。扉の基部の鉄やコンクリートの鉄筋はずっと地下の湿った環境に74年間も晒されていたにもかかわらずほとんど劣化していません。
15発電機室への入り口










発電機室への開口部。本来ならこの奥に発電機室の広い空間があるはずですが、残念ながら崩落により塞がれています。
16開口部










G枌嵜泙砲鷲舛れていない開口部。どこに通じているかは不明。こちらは入り口まで塞がれています。
17二階との通路か










2階部分から通じていたと思われる開口部。本来はこの下に正規の入り口へと通じる開口部があったはずですが、2階部分まで大量の土砂で埋もれてしまい開口部すら確認不可能です。
18ガラス片










残された遺物は大変少なく、このガラス瓶の破片を見つけた程度です。終戦後にあらかた片づけたのでしょうか。
IMG_4762










74年もの間地下に放置されたコンクリートの地下壕は染み出した地下水がコンクリートを溶かし鍾乳石のように床面に柱状のコンクリートが出来てました。舞鶴市内の戦時中のコンクリート地下壕ではこのような状態の物は見たことありません。他の地下壕は割と風通しがあったり地下水の染み込みが少なかったからでしょうか。

旧海軍東山防空指揮所壕の見学会は今回でまだ3回目。実際に見学した人はまだ100人にも満たないのではと思います。普段見学できない旧軍遺構を実際に見ることができたのは貴重な体験となり得ました。来年機会があったら是非もう一度参加したいです。





besan2005 at 20:19|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年11月02日

鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記


観光地として著名な岐阜県高山市の市街地の北側にある北山に戦争末期、鈴鹿海軍工廠の疎開工場としての地下工場の建設が行われました。それが鈴鹿海軍工廠高山地下工場です。

鈴鹿海軍工廠は三重県鈴鹿市に昭和18年に建設された海軍工廠で、主に機銃弾や爆弾・砲弾の信管を製造していました。工廠本体の敷地は現在のイオンモール鈴鹿から本田技研鈴鹿工場の南端に至る広大なもので、最盛期は1万人あまりが働いていました。さらには周囲に工廠職員の官舎や職員用の海軍共済病院、工員養成所などが建ち並んでいました。

※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記


鈴鹿海軍工廠の疎開工場としては三重県亀山市の関地下工場が有名ですが、高山市の疎開工場はあまり知られていません。
実は高山市には1ヶ月余りの出張で滞在していたのですが、滞在中にツイッターでいつもお世話になっている祐実総軍三等兵様からの情報でその存在を知り、探索をすることとしました
しかし具体的な場所が分からず、地元の郷土資料室で聞いても分からず、資料室の高山市史の記述と
IMG_4404










飛騨護国神社で教えていただいた情報を元に遺構の場所を特定できました。
鈴鹿海軍工廠高山地下工場位置図








※鈴鹿海軍工廠高山地下工場位置図。
北山公園の東側麓に3ヵ所(うち1つは推定)のコンクリート造の地下壕入り口を確認しました。
IMG_4601










地下壕群遠景。住宅街の背後の擁壁の裏に2ヵ所存在します。
IMG_4501










地下壕 ブルーシートの下にあります。ブルーシートは劣化してビリビリになっており、破れた部分から 撮影。地下壕入り口は最近作られた鉄製の頑丈な扉が付けられています。
IMG_4504










地下壕◆C浪執茘,留にあります。同じ造りのコンクリート造の地下壕で、こちらも頑丈な扉が付けられています。
実はこの一帯の擁壁は平成27年に作られたというプレートがあり、最近整備されたものですが、コンクリート地下壕部分は崖面を擁壁で塞がず手前に擁壁を作り新たに鉄製の扉を付けられています。詳しく聞いたわけではありませんが、これらの地下壕の保存を意図したものではないかと思われます。
IMG_4495










2つの地下壕入り口の南側の元旅館の敷地内に地下壕ではと思われるコンクリート造の横穴が残されています。
IMG_4488










形は違いますが大きさ的に先ほどの2ヵ所の地下壕と同じくらいです。
IMG_4490













コンクリートは川砂利を使用し、背後のコンクリート擁壁と比べ古さを感じます。また、躯体のコンクリートにモルタルを化粧塗りしている造りは戦前戦中の海軍のコンクリート造構造物に多く見られます。
ここは推測ですが、かつては崖面がもう少し手前にあり、その崖面が崩落したか削られ、地下壕の躯体の一部が露出したのではとも考えられます。
祐実総軍三等兵様が以前探索された際には、素掘りの壕や崩落したコンクリート造の壕もあったようですが、それらは確認できなかったので、擁壁工事の際に塞がれ保存状態の良い地下壕だけ残されたようです。
また、これは時間が無く確認できませんでしたが、後日地元の方から「勝久寺の背後の畑の中に防空壕がある」という話を聞き、北山の西側部分の地下壕の可能性もあります。
高山市の郷土資料室で閲覧した高山市史の記述によれば、鈴鹿海軍工廠高山地下工場は昭和20年2月に航空機用機銃生産の疎開工場としてこの北山で地下工場の工事が始められましたが、完成するまでの間は同市内の江名子町と下岡本町の山林に仮工場が作られたとあります。(仮工場の遺構は現存しているか未確認)
造られた仮工場は、
〇間口三間・奥行十七間。平屋建ての片屋根で波トタン葺き。外壁は緑色に塗装し周囲の雑木林と同じように見せるため偽装。
〇建築は地元の高山木工組合員が担当。用材は統制会社の地方木材株式会社が軍需品として供出。
〇仮工場開設に際し、全国から600人の若手の徴用工が集められ近隣の寺院などに宿泊。
〇1日の食事は白米2合・味噌汁1杯・煮付1皿。食事の不味さと少なさに工員が近隣の畑から作物を盗む事態が相次いだ。
〇高山分工場長は奥田益造海軍大佐。江名子工場主任は貞良三海軍中尉。
とのことです。
鈴鹿海軍工廠高山地下工場は結局未完成のまま終戦を迎え放棄されました。高山地下工場に関しては資料が乏しく調査もされていませんのでどれくらい工事が進んでいたのか、内部がどうなっているのか不明です。しかし、新たに鉄製扉が造られ、擁壁で塞がれることなく保存されているため、いずれ詳細な調査が行われるのかもしれません。その際の調査結果に期待したいところです。


besan2005 at 21:19|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 旧軍遺構

2019年08月25日

舞鶴憲兵分隊遺構探訪レポ日記

舞鶴憲兵分隊001








舞鶴市にある現在の中舞鶴交番の場所にはかつて舞鶴憲兵分隊がありました。
当初は紺屋町にありましたが、明治33年に現在の中舞鶴交番の場所に移転しました。
舞鶴憲兵分隊は京都の陸軍第16師団管轄下の京都憲兵隊の指揮下にありました。
画像の絵葉書は大正期頃と思われる舞鶴憲兵分隊の建物。かつては庁舎・官舎の他に憲兵が乗る馬術場と馬小屋、さらには武道場があったそうです。
舞鶴は軍港でありその軍港を守る陸軍の舞鶴重砲兵連隊が管轄する各砲台が舞鶴湾を囲むように配置された要地であり、要塞地帯法の適用地でした。そのため、舞鶴要塞地帯内での間諜(スパイ)行為を取り締まる役目などをこの舞鶴憲兵分隊が担当しました。
舞鶴憲兵分隊の建物は一切残されていませんが、門柱や建物の基礎等が残されています。
IMG_3978










舞鶴憲兵分隊の門柱。中舞鶴交番の正面両脇に残されています。
IMG_3979










南側の門柱。荒石積で変わった形をしてます。
IMG_3980










北側の門柱。当時の絵葉書にはこの門柱は写されていません。デザイン的に昭和期に入ってから作られたもののように思います。
IMG_3983










中舞鶴交番の背後、マンションの裏には当時の石積基礎が残ります。
IMG_3981










さらに道を挟んだ向かいには現在公園となっている古い基礎が残されています。
IMG_3986










反対側から。通風孔が確認できます。
IMG_3982










恐らく入り口だったと思われる場所。親柱部分に装飾があります。
「アジア歴史資料センター」公開の資料には、大正8年に官舎を増築したという記述があり、もしかするとその際のものかもしれません。
IMG_3985










背後にはコンクリート製の柵柱が残されており、ここまでが敷地だったと思われます。
当時のボルトが残されており、かつてはこの柵柱に固定された板塀が舞鶴憲兵分隊の敷地を囲っていたものと思われます。高さは2m近くあり、当時は敷地内の姿は全く見えなかったことでしょう。
まぁ、覗いたところで捕まるでしょうけど(笑)


besan2005 at 20:53|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

舞鶴市・白杉弾丸本庫補助施設遺構探索レポ日記

白杉弾薬本庫配置図













舞鶴市の西舞鶴にある「とれとれ市場」から海岸沿いに北上し、白杉地区を過ぎた槇山砲台・金岬砲台へと至る槇山公園への登山道入り口の麓の集落に明治期の陸軍が設置した施設の遺構群が残されています。ここには明治34年に完成した白杉弾丸本庫という舞鶴要塞地帯西部の砲台群(槇山・金岬・建部山等)へ弾薬を供給する施設がありました。舞鶴要塞地帯内には白杉弾丸本庫と下安久弾丸本庫の2ヵ所があり、白杉は西舞鶴側の砲台、下安久は東舞鶴側の砲台へと弾薬を提供していました。
※下安久弾丸本庫は今年の5月に再探索を行い、多数の遺構を確認しました。以下のレポ日記の記事をご覧ください。
舞鶴市・下安久弾丸本庫(再探索)+匂崎演習砲台探索レポ日記
また、今回の探索にあたりkanレポート様のブログ記事を参考にさせていただきました。本文中の各遺構の名称は一部を除きkanレポート様の記事に準拠しています。
なお、kanレポート様の記事では「舞鶴要塞 白杉補助建築物」とされていますが、白杉弾丸本庫が白杉地区の北方谷地に建設されたという情報もあり、当ブログの記事では「白杉弾丸本庫補助施設群」としました。
IMG_3954










白杉地区を過ぎて最初に見える木造建物。これは糧秣支庫ではないかとのこと。
IMG_3956










反対側。基礎は縁石製です。「アジア歴史資料センター」公開資料によれば、明治34年2月に「舞鶴要塞白杉糧秣支庫外3棟敷地買収の件」という資料があります。
IMG_3968










横から。
IMG_3969










窓部分も当時のままの状態で残されているようです。
IMG_3955










糧秣支庫の道を挟んで向かいにある同じ造りの木造建築。砲具庫ではとのこと。
IMG_3971










こちらも保存状態は良好です。前述のアジ歴の資料に従うなら、糧秣支庫と同時に用地買収され建てられたものになります。
IMG_3966










砲具庫背後を流れる用水路は古い石積みと煉瓦が使われています。
12下安久弾薬本庫煉瓦基礎土台










※参考・下安久弾丸本庫弾薬庫。
下安久弾丸本庫の弾薬庫は煉瓦積みの基礎が良好に残されています。白杉弾丸本庫の弾薬庫も同じ造りだとすれば、この用水路にある煉瓦は破壊された遺構の一部かもしれません。
IMG_3962










糧秣支庫の近くにある気になった古いコンクリートの土管状のもの。
 IMG_3961










少し北上した箇所にある、現在は民家となっている看守衛舎ではないかとされる建物。基礎は糧秣支庫・砲具庫と同じ石製の縁石。
IMG_3973










更に少し北に進んだ先の空き地の隅にあるコンクリート建造物。看守衛舎の弾薬庫ではと言われています。その奥にも何かありそうなんですが、この弾薬庫も含め蔦や雑草が凄まじく確認できず。冬に再チャレンジですな。
IMG_3975










その弾薬庫の隣の槇山への登山道と隣接する空き地にはコンクリート基礎の建物跡が残されています。
IMG_3977










結構大きいプランになっています。コンクリートの感じから白杉弾丸本庫時代のもので間違いないかと。
IMG_3957













先ほどのコンクリート基礎建物跡からしばらく北上すると海岸側に林があり、その道路側に門柱が1本れています。恐らく白杉弾丸本庫の営門ではないかと思われます。ちなみにこの門柱の奥の林の中を覗くと怪しい平坦地が確認できましたが、立ち入り禁止となっており断念しました。
白杉弾丸本庫の主要部は、集落の西の槇山麓の谷辺りにあったのではと思われ、次回以降の探索の課題といたします。


besan2005 at 12:12|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年08月18日

敦賀市の近代建築探索レポ日記

IMG_3798










2019年7月15日に敦賀港へ「護衛艦かが」の寄港による一般公開に合わせ、敦賀市へ行った際にフォロワーさんと敦賀市内の近代建築探索をしました。
2敦賀連隊歩哨舎










ちなみに同日、祖父が下士官時代を過ごした敦賀連隊跡も訪問してきましたが、そちらは別記事にしております。
※敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)
敦賀市は昭和20年7月12日の空襲で壊滅的被害を受けてますが、今回探索しましたら意外と戦前の建物が残されていることが分かりました。
1旧紐育スタンダード石油会社倉庫 明治38年










まずは護衛艦かがが停泊していた桟橋の近くにある旧紐育スタンダード石油会社倉庫。明治38年。国登録有形文化財。
2旧紐育スタンダード石油会社倉庫










現在は敦賀赤煉瓦館という観光施設となっています。内部にある敦賀港のジオラマ展示は必見。
3ガソリン倉庫










赤煉瓦倉庫の近くにあるコンクリート建造物。路駐の車が邪魔!
4ガソリン倉庫










正面から。草ぼうぼうでよく見えませんが、先ほどの道路側からの姿を見たら戦前はありそうな古さに見えたので。
5ガソリン倉庫2










近隣の方がいたので聞くと、元々はガソリンの保管庫だったそうです。
24敦賀港駅ランプ小屋 明治15年










敦賀港駅ランプ小屋。明治15年頃。
25敦賀港駅ランプ小屋










現在は展示施設になっていました。ちなみにすぐそばの敦賀港駅も明治15年築だそうですが、非公開です。活用してもらいたいですが。
5敦賀倉庫 昭和8年










敦賀倉庫。昭和8年。赤煉瓦倉庫と共に商業港としての敦賀港の繁栄を伝える建物。
6敦賀倉庫










出窓のデザインが可愛らしい。
7敦賀倉庫事務所  昭和8年










敦賀倉庫事務所。昭和8年。リフォームされてますが、当時の面影は良く残されています。
8汐谷鉄工所










汐谷鉄工所。昭和初期頃?当時の姿をそのまま残す下見板張りの建物。
9汐谷鉄工所










よく空襲で焼けなかったものです。
9敦賀の建物










気になる建物もいくつかありました。
10旧大和田銀行 明治25年頃










旧大和田銀行。明治25年。敦賀市立博物館となっている旧大和田銀行本店の前身の建物。
路駐の車が邪魔…。この日は前述のとおり護衛艦かがの一般公開が行われた日であり、市内の各所にこういった路駐の車で溢れていました。
11旧大和田銀行 明治25年頃










アップ。洋風建築に見えますが、背後は町屋造りです。
12旧大和田銀行本店 昭和2年 重要文化財










旧大和田銀行本店。昭和2年。国指定重要文化財。
13旧大和田銀行本店










規模・質共に敦賀市で一番の近代建築。現在は敦賀市立博物館。
14旧大和田銀行本店


















玄関部分。
15旧大和田銀行本店営業室










営業室。当時の姿が復元されています。
16旧大和田銀行本店階段










階段も豪華な造り。
17旧大和田銀行本店金庫室










金庫室。
18旧大和田銀行本店会議室













2階貴賓室。重役会議も開かれていたと思います。流石に格式高い造りです。
19旧大和田銀行本店講堂










3階講堂。旧大和田銀行本店は銀行の店舗としてだけでなく、敦賀市民向けに講堂や地下の食堂を開放しており、講堂は市民の催し物や講演会などのイベントにも利用されたようです。
20旧大和田銀行本店エレベーター










3階講堂に展示されているエレベーター。大正14年製の国産最初期のエレベーターだとか。
21日本聖公会 敦賀キリスト教会  2階・明治後期 1階・昭和8年










日本聖公会敦賀基督教会。この教会ちょっと変わっていて、2階が明治後期築。1階が昭和8年築というもの。元々平屋だったのが昭和8年に1階部分を持ち上げ2階にすることで1階を増築する形になっています。
22敦賀市の街並み










敦賀市内にはこういった伝統的な町屋のある街並みも残されています。
22敦賀市の建物










擬洋風っぽい住宅。
23敦賀市の洋館付き住宅










洋館付き住宅。腰壁部分は石張りになっている割と手の込んだ建物。敦賀市内にはまだこういった戦前の洋館付き住宅が残されていそうです。
26東洋紡クラブハウス 昭和10年










市街地の南へ。東洋紡敦賀工場クラブハウス。昭和10年。
27東洋紡敦賀工場クラブハウス










ハーフチンバーの洒落た洋館です。
28東洋紡敦賀工場クラブハウス










かつてはこのクラブハウスの周りには沢山の東洋紡敦賀工場の社宅が建ち並んでいました。この洋館はその唯一の名残。
29東洋紡敦賀工場










東洋紡敦賀工場の敷地内には戦前当時の建物も残されています。
30東洋紡敦賀工場通用門










敷地南端に残る通用門と思われる門柱。
31東洋紡敦賀工場塀










当時の物と思われる塀。
東洋紡績敦賀工場001








昭和初期頃の東洋紡敦賀工場を撮影した絵葉書。現在残る塀と同じ物が写されています。
32敦賀の事務所建築 昭和初期か










今回の敦賀市の近代建築探索で一番の成果だった建物。事前の下調べでも敦賀市の近代建築を扱ったサイトのどこにも取り上げられていなかった知られていない物件。
33敦賀市の事務所建築










玄関部分。この玄関の梁の形は昭和初期の建物によくみられるもの。
34敦賀市の事務所建築










内部を窓から撮らせてもらいました。建物の平面プランは戦前の事務所建築そのままに思えます。
35敦賀市の事務所建築










個室部分。現在リフォーム工事中でした。戦前の近代建築が再再利用されるのは嬉しいこと。どんな建物に生まれ変わるのか楽しみです。
今回の探索は市街地の中心部をメインに探索したので、空襲を受けた市街地でも思った以上に
戦前の建物が残されていたので、比較的空襲被害の少なかったであろう西側の気比の松原あたりの一帯はまだまだ多くの近代建築が残されていそうなため、次回以降の課題にしたいと思います。







besan2005 at 09:31|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 福井県 | 近代化遺産

2019年08月17日

鹿児島・天狗鼻海軍望楼台

天狗鼻海軍望楼所006








20年ほど前、まだ鹿児島にいた頃に訪問した鹿児島県薩摩川内市にある天狗鼻海軍望楼台です。
天狗鼻海軍望楼台は明治28年の日清戦争後に設置した監視所で、当時海軍が沿岸の要所の監視のために設置した望楼台の1つでした。望楼台の多くは日露戦争の終結とともに廃止され、現在国内で残っているのはこの天狗鼻海軍望楼台と北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台の2ヶ所のみです。
この天狗鼻海軍望楼台も明治38年に廃止されました。
天狗鼻海軍望楼所005








鹿児島にいた当時、この天狗鼻海軍望楼台の存在を知り、一度行ってみたいと思い行った際に撮影した写真が当記事の写真となります。当時はまだ一眼のアナログカメラで(AFではありました)、画像はネガからスキャンしたものです。
天狗鼻海軍望楼所002








天狗鼻海軍望楼台の入り口。実はここに至るまでに兵舎跡と思われる平坦地があったのを覚えてるのですが、当時はこの煉瓦造りの遺構にしか興味がなく写真を取らずに立ち去ってしまいました…
天狗鼻海軍望楼所003








反対側から入り口を撮影。かつては恐らく木造の屋根があったと思われますが、現在は煉瓦の壁のみ残されています。
天狗鼻海軍望楼所004








海側から。監視のための窓が海に向かって開いてます。
天狗鼻海軍望楼所007









側面から。
天狗鼻海軍望楼所009








上部から監視窓を撮影。一部欠損していますが保存状態は良好です。
天狗鼻海軍望楼所008








天狗鼻海軍望楼台から眺めた天狗鼻の岬。まさに天狗の鼻の形をしています。見晴らしは最高で、航行する艦船は良く見えたことでしょう。現在、天狗鼻海軍望楼台は内部の土砂の除去などこの時よりも多少整備されているようです。


besan2005 at 11:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 鹿児島県 | 旧軍遺構

2019年08月12日

敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)

福井県敦賀市にある敦賀連隊の跡地を訪ねてきました。敦賀市にはかつて陸軍歩兵第19連隊が駐屯し、昭和15年には留守連隊の歩兵第119連隊が、戦争末期の昭和20年には本土防衛部隊の歩兵第441連隊が編成されます。この敦賀連隊は祖父が下士官として終戦まで赴任した縁の連隊であり、仙台陸軍教導学校卒業後の伍長から軍曹までは歩兵第119連隊に、昭和20年の曹長からは本土防衛部隊の歩兵第441連隊の連隊付下士官として渥美半島へ赴任し終戦を迎えました。

この度、その祖父ゆかりの敦賀連隊の跡地を訪問し、祖父の足跡をたどることにしました。
1敦賀連隊










敦賀連隊跡地。かつて営門があった場所には歩哨舎が残されています。
2敦賀連隊歩哨舎










歩哨舎正面。
3敦賀連隊境界石柱













その脇には移設された「陸軍省」の境界石柱が保存されています。
5敦賀連隊塀










営門前の県道225号線前には敦賀連隊当時の塀がそのまま残されています。
敦賀連隊001









祖父のアルバムにあったほぼ同じアングルの連隊前の写真。現在残る塀は当時のままで残されていることが分かります。
6敦賀連隊塀










営門から少し離れた場所にも塀が残されています。
7金山橋










営門から西へ進んだ井の口川に架かる金山橋。昭和8年竣工。
8金山橋










恐らく敦賀連隊の兵士たちも渡っていたでしょうね。
9敦賀連隊碑










現在、敦賀連隊の敷地は団地となっており、建物等の遺構は何も残されていません。敷地内には昭和39に敦賀連隊史蹟碑保存会により建立された記念碑があります。
10敦賀連隊碑










敦賀連隊史蹟碑。
敦賀連隊002









祖父のアルバムにあった恐らく連隊本部と思われる建物。
敦賀連隊003









軍旗を掲げる連隊旗手。連隊旗に痛みがなく新しいので、昭和15年に編成された歩兵第119連隊の連隊旗と思われます。
敦賀連隊004









検閲行進の1枚。他にも数枚あります。奥に兵舎が見えますね。馬が引いているのは連隊砲(四一式山砲)でしょうか。
坂田写真館













営門の向かいには坂田写真館という写真館がありました。明治33年創業の老舗の写真館で、敦賀連隊の兵士たちの御用達の写真館であり、多くの兵隊さんの記念写真を撮影されました。
現在手元にある祖父の軍人アルバムの写真はまさにこの坂田写真館で撮られたものでした。
陸軍曹長時代と祖母













曹長に任官し祖母と結婚した際の記念写真。以前別の記事にて紹介していましたら、2代目の次男の方からコメントがあり、床の模様や祖母が座る椅子は紛れもなくかつて坂田写真館にあったものと教えていただきました。
現在写真館はその次男の方の甥に当たる方が継がれ、谷写真館と名を変えて営業されています。
※谷写真館様公式HP
突然の訪問にも関わらず、快く対応していただき、当時の貴重な写真を見せていただきました。
軍人アルバム









特に祖父の遺した軍人アルバムと全く同じものが谷写真館様にも残されていたのには感動しました。
見せていただいた写真群の中には残念ながら祖父の姿はありませんでしたが、このアルバムと同じ物が出てきたときは確かにこの地との繋がりを感じ取ることが出来ました。
13谷写真館写真機













谷写真館様に置かれている写真機。かつて使われていた写真機で、敦賀連隊の多くの兵隊さんを撮影したであろうこの写真機。私の祖父も撮影したことでしょう。
11旧郵便局










営門後から東に進んだ場所にかつての旧郵便局の建物が残されています。
13旧郵便局










敦賀連隊の兵隊さんもよく利用した郵便局。残されている祖父母宛の葉書もここから配達されたり、相手に手紙を出したりしたことでしょう。
葉書001













連隊近くの下宿に居住していた時の祖父母宛の葉書。昭和20年3月8日の消印があります。
連隊旗









昭和20年1月20日、本土防衛のための歩兵第441連隊が編成。根こそぎ動員で編成されたこの連隊は渥美半島に配備され、沿岸の防衛にあたりました。祖父はこの441連隊の連隊本部付下士官として配属され終戦を迎えました。
葉書002













祖父宛の葉書。「護京第二二六五三部隊」は歩兵第441連隊。その部隊本部宛になっています。
Dszvjn5V4AQjUmq













この時の祖父の軍装品一式が今も実家に残されています。以下のリンク先に軍装品一式を記録した記事を書いております。
※祖父の遺品である軍装品の記録
また、敦賀赴任前の仙台陸軍教導学校への入校前までの日記となりますが、祖父の
軍隊時代の日記を紹介した記事もここに紹介しておきます。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)



besan2005 at 11:29|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 福井県 | 旧軍遺構

2019年08月11日

姫路海軍航空基地跡遺構探索レポ日記

兵庫県加西市に姫路海軍航空隊が駐屯していた姫路海軍航空基地がありました。
昭和18年より工事が開始され昭和19年に完成。川西航空機姫路製作所の専用飛行場でしたが、姫路海軍航空隊や筑波海軍航空隊文献体も駐屯し訓練基地や特攻基地として使用。アジ歴所有の引渡目録には
九三式中間練習機や九七式艦上攻撃機、艦上爆撃機「彗星」、陸上攻撃機「銀河」そして局地戦闘機の紫電改が配備されていました。姫路海軍航空基地は戦後に陸上自衛隊が滑走路跡を中心に訓練施設として使用していましたが、2016年に加西市へと払い下げられました。現在も一帯には姫路海軍航空基地の遺構が点在し、隣接の神戸大学農学部構内の敷地内にも多数遺構が残されています。
姫路海軍航空基地は地元では地名を取って「鶉野飛行場跡」と呼ばれており、滑走路跡北端に復元された格納庫と原寸大に復元された紫電改が展示され、観光地としての再整備がされはじめています。
今回(6月)、復元された紫電改を見に行くのと合わせて、姫路海軍航空基地の遺構群も探索してきました。
姫路海軍航空隊位置













今回探索した遺構群の配置図。今回の探索に当たっていつもお世話になっている盡忠報國様のブログ「大日本者神國也」内の記事を大いに参考にさせていただきました。ちなみに盡忠報國様のレポのほうが詳細な上に今回の私の探索では見られなかった内部や遺構、すでに失われた遺構などの写真もあり、そちらの方がずっと参考になりますので、当記事は紀行文的な感じで初心者の方でも分かりやすく平滑に書きたいと思います。
1姫路海軍航空隊正門










紫電改が展示されている復元格納庫から直線距離で1.5kmの位置に姫路海軍航空隊の門柱と衛兵詰所があり、現在門柱や衛兵詰所・付属建物が復元され駐車場を伴った小公園として整備されています。
2姫路海軍航空隊守衛所










復元された衛兵詰所。
2門柱













姫路海軍航空隊の看板が掲げられた復元門柱。
9門柱基礎










整備の際に発掘された門柱の基礎。
3姫路海軍航空隊退避壕










復元された衛兵詰所の南隣にはコの字型のコンクリート製の覆土式地下壕があります。
4姫路海軍航空隊退避壕










北側入り口。
5姫路海軍航空隊退避壕










南側入り口。残念ながら扉が設置され入ることが出来ません。
7姫路海軍航空隊退避壕内部










扉の隙間から内部を撮影。恐らく隣接する衛兵詰所等の退避壕ではと言われています。
8守衛所向かいの竹林内の不明遺構










衛兵詰所の向かいの竹林にはコンクリート構造物がありました。何かの施設があったようです。
10地下壕










コの字型のコンクリート退避壕の南に素掘りの地下壕がありました。
11地下壕










柵はされてますが隙間から入れますので入り口を撮影。個人的にこういう洞窟は一人で入る勇気はないのでここまでw
12弾薬庫










先ほどの素掘りの地下壕からさらに南、協和ロジスティクスの敷地北側にコンクリート製の覆土式弾薬庫壕があります。
13弾薬庫










弾薬庫壕だけあってコンクリートはかなりの分厚さがあります。
14弾薬庫内部










ここも柵があり中に入れませんが、入り口に近づくと照明がともりました。中々の親切さですw
内部に入れないのは残念ですが、落書きとかされることを考えたらこの方が良いのかも。
15コンクリート基礎建物跡










一旦衛兵詰所まで戻り、そこから北上した畑の中にコンクリートの構造物があります。何かの建物の基礎のようですが何だったかは不明です。
17貯水槽










コンクリート基礎の遺構の北側に貯水槽が残されています。結構大きなもので今でも貯水しています。
18ドラム缶残骸










貯水槽の側に放置されているドラム缶の残骸。姫路海軍航空隊時代のものかは分かりませんが古そうだし一応撮影。
16医務室壕










コンクリート基礎遺構の南の竹林には覆土式のコンクリート地下壕があります。この辺りにあった医務室の地下壕ということらしいです。
16医務室壕内部










入口から内部を撮影。L字状に折れています。この時も勇気が出ずここまでしか入れませんでしたが、ここは入ればよかったと後から後悔。後に紹介する地下壕は入りましたし、この手の壕は舞鶴でも結構入ってたし…。次回行く機会があれば入りたいと思います。
盡忠報國様のレポではこの近くにもう一つコンクリート製の覆土式地下壕があるはずなのですが、見つけることは出来ず…
IMG_3512










近くにあった不自然な盛土がそうだったかもしれませんが、入り口が見つからなかったんですよね。
IMG_3514










竹林内は当時の物と思われる小道が残ります。
IMG_3513










小道の先のやや開けた場所に残るコンクリート構造物。
IMG_3520










散策路まで戻り、再び北上して2つある池の北側にある東笠原機銃座へ。
19東笠原機銃座










こちらは整備されていました。
20東笠原機銃座内部










地下弾薬庫への階段。扉か設置されており内部へは入れませんでした。整備された遺構は悉く内部進入不可になってますね・・・。問い合わせたら入れるようですが、日時指定があったりと中々難しいようです。
21東笠原機銃座










機銃座。ここに25mm連装機銃が据え付けられ、対空防備を行ってました。
22耐弾壕










東笠原機銃座から西へと延びる小道へ入ると建設会社の側にコンクリート製の耐弾壕があります。
23耐弾壕内部










内部。蒲鉾型の屋根になっています。内部は資材が置かれ進入不可。
24地下壕










先ほどの耐弾壕から西へと池沿いに延びる道沿いには3か所のコンクリート製の覆土式地下壕が残ります。これらは整備地区から外れており現在も中に入れます。最初に現れる覆土式地下壕。
25地下壕入り口










入口部分。入り口は2重になっています。
26地下壕内部










内部。長さはかなりあり、まっすぐ伸びています。
IMG_3530










2つ目のコンクリート製覆土式地下壕。残念ながら入り口手前から浸水が酷く近寄れませんでしたが、最初に見た覆土式地下壕と同じ構造かと思います。
27地下壕










3つ目のコンクリート製覆土式地下壕。
28地下壕入り口










こちらも入り口部分は2重構造になっています。
29地下壕内部










内部。状態はかなり良いです。
30地下壕内部










内部はL字状になっており、折れた先は長く伸びています。
ちなみにこの壕の周辺は開発が行われており、整備地区から外れていることもあり今後が心配です。
31柵列か










覆土式地下壕群の近くにあった気になるもの。コンクリート製の柱。柵柱かなぁと思い一応撮影。
IMG_3546










コンクリート製の構造物。神戸大学農学部の構内なので近寄れないため遠望から。
航空写真を見ると貯水槽のようです。当時のものかは分からないため保留ですが、コンクリート自体は古そうです。あと、奥にコンクリート製の耐弾壕らしきものが見えます。
36大型地下壕遠景










再び散策路へと戻り北上。東側に大きなコンクリートの構造物が見えます。
35大型地下壕










姫路海軍航空基地の遺構で最大と言われるコンクリート製の地下壕。
34大型地下壕










かつてはコンクリート部分は土で覆われていたようです。入り口は閉じられてますが、地下へと降りる階段となっており、地下はかなりの広い空間のようです。用途不明らしいですが、重要施設であったことには変わらないと思います。
32地下壕










先ほどの大型地下壕から北に向かった先にあるコンクリート製の地下壕。
33地下壕内部










こちらも地下へと階段が続いてますが、扉が設置されており内部へは入れず。散策路沿いの地下壕遺構は悉く整備され、進入不可となっています。
37戦闘指揮所壕










キョーリン物流センター前から散策路は西へと向かいその先には以前から有名だった戦闘指揮所の耐弾壕が残されています。個人所有で地下壕内は展示施設となってますが、見学には事前予約が必要であるため、この日は見られず…。かつてはこの近くにも耐弾壕があったようですが、隣接する民家もろとも更地にされていました。
38発動機調整所跡










再びキョーリン物流センターの位置まで戻り、今度は鶉野飛行場方面へと向かう道を進むとコンクリートの遺構が残る箇所へ。ここは発動機調整所という施設があった場所とのこと。
39発動機調整所跡










何かの台座だったように見えるコンクリートの遺構。
43滑走路跡










そのまま進むと、鶉野飛行場のメインの遺構である滑走路跡があります。全長1.2kmにも及ぶ長大なものです。かつては南側は陸上自衛隊の敷地で立ち入り禁止でした。
滑走路は姫路海軍航空隊のものではなく、川西航空機の滑走路だったとのこと。まぁでも航空隊も使用していたはずでしょうけど。以前はコンクリート舗装されてましたが、何故かはがされてしまいました。そのまま残して遊歩道にすればよかったのに。
40姫路海軍航空隊記念碑










姫路海軍航空隊の記念碑。この辺りから観光客の数が増えてきました。
41整備用ローラー










そばに置かれた転圧ローラー。
42整備台










整備台。かつては小学校の朝礼台に転用されていたとのこと。
44駐機場










復元紫電改は後回しにして遺構を巡ります。滑走路の側にある駐機場跡。コンクリート舗装が残ります。
45駐機場水路










駐機場の側にあるコンクリートの水路。
46コンクリート構造物










その側にあるコンクリートの建築物。
47コンクリート構造物










用途不明ですが、コンクリートの感じやアンカーボルトを見ると結構古そうに見えるのですが。かつてはこの上に木造の屋根が乗っかっていたと思われます。
48道










先ほどのコンクリート建造物の前には当時のものらしい小道が延びています。
49暗渠













その小道にはコンクリート製の暗渠の蓋が残されていました。この暗渠の蓋、京丹後市の峯山海軍航空基地跡でも見たのと同じ感じで姫路海軍航空基地当時の物と思われます。
50無蓋掩体壕










さらに北に進むと土盛りの無蓋掩体壕がありました。伐採されて見やすくなっており有難いです。
51鶉野機銃座










その無蓋掩体壕の近くに鶉野機銃座があります。
52鶉野機銃座内部










地下弾薬庫への階段。当然扉がされており進入できませんでしたが、それ以前に浸水が酷い。
53鶉野機銃座復元機銃










機銃座部分には25mm三連装機銃のレプリカが置かれていました。
姫路海軍航空基地の遺構探索はここまで。次に話題の紫電改を見に向かいます。
54復元格納庫










復元された格納庫と紫電改。流石に観光客が多い。
57格納庫内部










格納庫内。このトラスの骨組みは当時のままの復元?ボルトはまぁ仕方ない。
55紫電改










復元された紫電改。なかなかよくできています。
56紫電改










正面から。年配の男性や子供たちははしゃいでましたね。姫路海軍航空基地が鶉野飛行場として観光地化していることに軍跡界隈では賛否あるようですが、とかくマイナーでちょっと前までは負の遺産として忌み嫌われていた旧軍遺構にこうした形でも理解が進んでいることは私は良い方向だと思います。旧軍遺構が負の遺産としての戦争遺跡という認識から近代化遺産という文化財としての認識へと変わりつつあるのも。今では舞鶴を代表する観光地になり重要文化財にも指定されている旧海軍の赤煉瓦倉庫群も市民団体が再評価し整備される前は負の遺産的な扱いで邪魔者扱いされてましたしね。
57鶉野少尉










マスコットの「ウズラノ少尉」。可愛いw
20年くらい前、いやほんの10年位前まではこんなマスコットや復元紫電改なんかを置いてたら、共産党系団体から「戦争賛美だ!」とか言われて叩かれまくってたはずなので、とてもこんな展示なんてできなかったと思いますよ。


besan2005 at 23:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 旧軍遺構

2019年07月21日

京都アニメーション第一スタジオ放火事件について

※すいませんが公開限定記事となっています。続きを読む

besan2005 at 21:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

京都アニメーション第一スタジオ放火事件について

すいませんが公開限定記事です。続きを読む

besan2005 at 20:59|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2019年07月13日

魚にも感情はあるのか?・・・今朝のムギツクの不思議な行動。

IMG_3703










以前記事にした通り、私は自宅で近所の川で採った川魚を飼ってます。
水槽は35cm水槽1つと30cm水槽1つ25cmキューブ水槽1つの計3つ置いているのですが、毎週行っているろ過槽の掃除などの水槽のメンテナンスで35cm水槽で飼っている魚のうちの1匹のムギツクを驚かせてしまったのかどこかにぶつけたようで怪我をしてしまい仰向けになったり自力で泳ぐことが出来ず漂ったりとかなり弱った感じでした。
もうダメかなと思いつつも回復してくれることを祈りつつ観察してましたが、徐々に回復し何とか体制を保てるようになりました。ただ、まだ弱っている感じで濾過槽の下のスペースに潜ってじっとしていました。
IMG_3701










その時、気になる出来事が起きました。傷つき弱って濾過槽のある隅の方でじっとしているムギツクの傍らにまるで寄り添うかのように1匹のムギツクがずっと離れずにいました。時々他の魚がこのスペースに入って来た時は2匹とも追われる感じで出ていきましたが、他の魚がいなくなるとまた傷ついたムギツクが入ってきて、少し後にまた先ほどと同じムギツクが入ってきてぴったりと寄り添ってるのです。

このような姿は初めて見ました。

ムギツクは普段こんな狭いスペースに入らず水槽内を自由に泳いでいます。また、あまり群れるという事もしないようで、一緒に泳いだりといった感じは見受けられません。

では、この行動は何なのか…

以前読んだことのあるサイトでこんな記述があります。
「不思議館〜魚にも心がある?」
このサイトによれば、筆者の方が飼っていたタナゴが傷ついた際、おびえて隅の方でじっとしていた傷ついた雄のタナゴの側に1匹の雌のタナゴがずっと寄り添っていたそうです。
また、こんな記事もあります。
「魚にも感情があった!障害を持った金魚が生き延びられた理由とは・・・」

「魚だって仲間を思う気持ちがある?網に捕らわれたフグのそばから片時も離れず、救助を待ち続けたフグ」
また、最近の研究では魚も怒ると感情的発熱を起こし、失恋すると悲観する行動をとると言った研究発表がされています。
 魚は声を出しませんし表情も表しません。ずっと飼ってて餌をやり続けると慣れてきて顔を近づけただけで寄ってくるようになりますが、それは「餌を与えてくれる対象」という認識だけで、喜びや怒りや悲しみといった高度な感情は無いと思われてきました。

となると、この我が家のムギツクの行動やリンク先の記事は何なのでしょうか。
これらの事例を目の当たりにすると魚も他の動物や我々と同じく感情や思考を持っているように思えてきます。それを目に見える形で表現しにくいだけで…

そう考えると、もし魚に感情があるならガラスの向こうで泳いでいる魚たちは私のことをどう思っているのか気になってきますw 決まった時間に餌をくれるただの都合のいいヲッサンとしか見ていないのか感謝しているのか鬱陶しく思っているのか、それとも勝手に住んでた川から拉致られて恨んでるのか…まあ、最近は懐いているので負の感情は持っていないと思いたいですがw

IMG_3705










件の負傷したムギツクは多少怪我の痕は残っているものの、すっかり回復しいつも通り水槽内を泳ぎ回り晩御飯の餌をせっせとパクついてます。と同時に寄り添っていたムギツクも離れいつも通りの行動をしています。

ちなみに毎朝この魚たちを起こすのは私の役目ですw 起床し電気をつけると底の方で沈んで寝ていた魚たちが驚き慌てて起き始めます。その様子は心なしかだいぶ不満そうにしているように見えますw




besan2005 at 21:47|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 日本産淡水魚 | 水槽観察記録

2019年06月02日

昨日採集の日本産淡水魚

昨日の早朝、いつもの近所の川へガサガサに行きました。先週行った際は上流の工事のせいか水がせき止められていて完全に川底が干上がり僅かな水たまりに取り残された魚たちがかろうじて生きてた状態。昨日は水量が復活しいつもの川に戻ってました。川の生き物にとっては良かったわけですが、捕獲に関しては厳しくなったかな。川が干上がっていたおかげでアカザを取れたわけだし。DSC_0245








それでも川岸の澱みをガサるとアブラボテ(多分)が4匹網に。
アブラボテは京都府のレッドデータブックで準絶滅危惧種。
ここでは比較的良く取れるヤリタナゴも準絶滅危惧種です。
DSC_0246







先週に続いてギギも。これらはもう飼えないのでリリース。
DSC_0247







でかいドンコ。これもリリース。

いつもの川を後にし、本流の新たな地点へと向かうことに。
本流の近くにはかなりよさげな止水域が。ここは来週仕掛けを投げ込んでみよう。
で、本流の澱み部分の砂地をガサると・・・
D77kI_YUwAAjyBA







スジシマドジョウが十数匹取れました。あとシマドジョウも2匹ほど。
恐らく「チュウガタスジシマドジョウ」と思われる個体。京都府のレッドデータブックでは絶滅寸前種。しかし、地元の川ではそこそこ採れるんですよね。ほんとに絶滅寸前種?
まぁ、希少種であることには変わりないのでスジシマドジョウは撮影後全てリリース。
IMG_3467










シマドジョウ1匹だけ連れて帰りました。体長10cmの大き目の個体。シマドジョウは京都府のレッドデータブックには掲載無しで絶滅危惧種ではないようですが、絶滅寸前種のスジシマドジョウとの差は何でしょうか。
IMG_3469










シマドジョウはアカザ水槽に入ってもらいました。活発に泳いでますが時々アカザが引きこもっている石組の部屋に入り込んだりしてますねwアカザはあまり気にしてない様子。 


besan2005 at 09:14|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ガサガサ採集記録 | 水槽観察記録

2019年05月28日

アクアリウム再開と初めてのアカザ捕獲


IMG_3455     










IMG_3457










IMG_3456










過去の記事を見ていただいたら分かりますが、10年前は当ブログはアクアリウム専門のブログでした。その後、アクアリウム趣味から離れて近代建築・旧軍遺構探索レポを中心としたブログとなりましたが、最近またアクアリウム趣味を再開。以前のように川へガサガサに行く機会も出て来ました。
D5buvrwUUAEXtF6










D5buvscU8AA51Zr










D7VnFEnVsAAKXCu










現在35竸總紂30竸總紂25僖ューブ水槽の3つを設置してます。地元産の日淡はフナ・スジシマドジョウ・カマツカ・ヨシノボリ・ウキゴリ・カジカ・ヤリタナゴ・ギギ・アカザ・メダカ・ミナミヌマエビ・スジエビを飼育。他に購入したいくつかの日淡を入れてます。
DCkXoWxVwAAHxSl










94471f52










10年前は60竸總紊2つ、45竸總紊1つ置いてましたね。さすがに現在は無理ですが。
さて、アクアリウム趣味復活にあわせて、以前よくガサガサに行ってた川にも足を運ぶようになり、先日も川へと向かったのですが、なんと川が干上がってました。恐らく上流を何らかの理由で塞き止めたからだと思いますが、所々小さな水溜まりがある程度という有り様。そのうちの1つはもう1日も持たない状態で、そこには数十匹のヨシノボリが。見るに忍びなく救出をしていたら...
IMG_3450










なんとアカザがいました。アカザはナマズの仲間の日本固有種で京都府のレッドデータブックでは絶滅危惧種になっている希少種。実は本格的に日淡趣味をしていた10年前でも1度も見かけたことがなかっただけに驚きました。
IMG_3451










ついでにギギも。それにしてもよくあんな場所で生きていられたものだ。
IMG_3456










アカザとギギは当初稚魚用に設置した25cmキューブ水槽で飼うことにしました。夜行性なので中々姿を見せませんが、お互い喧嘩をせず仲良くやってるようです。
一度止めてしまっていたアクアリウム趣味ですが、こうして再開したので以前ほどではないですが時々水槽観察記録の記事を書きたいと思います。
IMG_3453










ところで、この魚は何ですかね?カジカ

besan2005 at 07:12|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ガサガサ採集記録 | 水槽観察記録

2019年05月06日

舞鶴市・下安久弾薬本庫(再探索)+匂崎演習砲台探索レポ日記

P1120400










去年の7/18に舞鶴要塞の各砲台などに弾薬を供給していた下安久弾薬本庫の探索を行い、当時の桟橋や石積擁壁等の遺構を確認しましたが、

※前回の探索レポ日記

昭和22年の米軍航空写真を見ていると山の南側の裾に大型の建物があるのを確認。石製の柵柱や石積の擁壁があるのは知っていたので、4/27に舞鶴のフォロワーさんと一緒に探索することにしました。
無題







今回の探索範囲。
下安久弾薬本庫配置図






確認した各遺構の配置図。
IMG_3011










海岸の桟橋から府道565号線を渡った向かいの民家の入り口に当時の正門がありそこから今回探索したエリアまで至る道が残されており(現在は笹竹の薮化で探索は不可)おそらく当時は南の山裾にあった弾薬庫からこの道を使って運搬していたと思われます。写真に写る石積擁壁は今回探索した地点までずっと続いてます。また写真の民家は資料によれば当時の営舎とのこと。
1下安久弾薬本庫遠景










山裾の軍道跡の石積擁壁。
2下安久弾薬本庫擁壁










石積擁壁は途中で折れており、
3下安久弾薬本庫門柱










分かりづらいですがこの場所には門柱が残されており、そこから先は広いエリアになっています。
そのエリア内に建物跡の遺構が残されています。
4下安久弾薬本庫擁壁と石製柵柱










建物跡のあるエリアの擁壁上には石製の柵柱が数本残されています。
今回はここから進入しました。
5下安久弾薬本庫大型建物階段










生い茂る笹竹をかき分けていくとコンクリート製の階段を発見。
6下安久弾薬本庫大型建物基礎










階段を越えるとコンクリート基礎の大型建物跡が。配置図を見ていただくと分かりますが、長辺の両側に2つずつ階段のある建物で、恐らく昭和22年の米軍撮影の航空写真に写る大型建物と思われます。
兵舎か庁舎でしょうか。
7下安久弾薬本庫水槽1










この大型建物跡の脇には水槽も残されています。
IMG_2974










大型建物跡の北側には立派な石積擁壁が。
9下安久弾薬本庫石積擁壁土塁










回り込むと土塁になってました。建物側の壁は崩落防止と見映えを考え石積擁壁にしたようです。
13下安久弾薬本庫煉瓦基礎土台










その土塁の内側には煉瓦積みの基礎が。
12下安久弾薬本庫煉瓦基礎土台










かなり立派な煉瓦基礎す。低い部分はセメントか何かで床を貼ってます。
14下安久弾薬本庫煉瓦基礎土台階段










低い部分には階段があり、煉瓦基礎の上に上がれます。
15下安久弾薬本庫煉瓦基礎土台アーチ










煉瓦基礎の外側にはアーチがあります。開口部だとは思いますが、だいぶ埋もれてますので詳細は不明です。
10下安久弾薬本庫水槽2










煉瓦基礎の手前にはコンクリートの水槽が2つあり、シンメトリーになってます。
16下安久弾薬本庫土塁










煉瓦基礎の遺構は山側の北側と東側は山裾を削り込んだ崖。南側は長大な石積擁壁のある土塁。西側も短いですが土塁があります(戦後に崩された可能性もある。)崖と土塁で四方を囲むような区画にあるこの煉瓦基礎の遺構は弾薬の保管庫だったと思われます。
17下安久弾薬本庫スロープ










煉瓦基礎遺構の西側は一段低くなっており、スロープで降りられるようになっています。
18下安久弾薬本庫コンクリート基礎建物










西側の低いエリアにもコンクリート基礎の建物跡があります。
19下安久弾薬本庫水槽4










コンクリート基礎建物跡の近くにある水槽。弾薬を保管していた施設という事もあるのか、水槽がいくつかあります。
このまま西側のエリアに向かい外側の石積擁壁の折れ辺りまで到達しましたが、笹竹の繁茂が酷くこれ以上進めず断念。
20下安久弾薬本庫建物跡階段










一旦引き返し、今度は山側の方へ。相変わらず笹竹が酷かったですが、コンクリートの階段を確認。コンクリートの基礎も延びているのを確認し、建物跡であったことを確認しました。
他にも建物跡の遺構が残されているように思われますが、何せ笹竹の繁茂がひどく確認が困難。あと、石積擁壁の残骸と思われる石が散乱している箇所もあり、戦後にいくつかの遺構は破壊された可能性もあります。
23下安久弾薬本庫階段1










建物跡のエリアを後にし、次は国際埠頭への道路を越えた東側の部分へ。古い階段を確認。下安久弾薬本庫と関連あるかは分かりませんが、使われているコンクリートは戦前の物と思われる古さで可能性はあるかもしれません。
21下安久弾薬本庫石製柵柱群










階段の脇には山の上までずっと伸びる石製の柵柱が。
22下安久弾薬本庫境界石柱1













さらにその側には陸軍の境界石柱が。ここが下安久弾薬本庫の境界の東端だったようです。
24下安久弾薬本庫階段2













階段は石製の柵柱に沿って3か所あり、山の上へ続いています。当時の階段だとしたら山頂に何かあったのでしょうか。
25下安久弾薬本庫境界石柱2













2つ目の陸軍境界石柱。
下安久弾薬本庫の山の尾根は現在国際埠頭線の道路による切通しで分断され、この場所から下安久弾薬本庫の背後の山へは行けなくなってますが、米軍撮影の航空写真を見ると山頂に何か施設らしきものが写っており、そちらへと向かうルートの1つだった可能性があります。
今回ほぼ知られていない多くの遺構を確認という成果を得ることが出来ましたが、まだまだ遺構が良好に残されていると思われるだけに進むことも困難な状態になっている薮化は惜しいですね。
匂崎演習砲台遺構配置図






下安久弾薬本庫の南には陸軍の演習砲台だった匂崎演習砲台があり、そちらにも行ってみました。
匂崎演習砲台の跡地は現在匂崎公園として整備されたため演習砲台の遺構はほぼ残されてませんが、探索して見ると僅かに遺構が残されてました。
IMG_2956










匂崎公園の丘陵中間にある管理棟の側に残された煉瓦構造物。詳細不明ですが、この煉瓦構造物から当時の道と思われる痕跡が麓に向かって伸びてました。
IMG_2961










匂崎公園の丘陵南側の広場に残された煉瓦の擁壁と思われる遺構。
IMG_2960










外側はコンクリートで補強されていました。
丘陵上の主要部分は公園整備で破壊され上記の遺構しか残されていませんでしたが、中腹や山裾周りにはまだ下草等で埋もれた遺構が残されている可能性があります。


besan2005 at 22:02|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年04月29日

宮津市・上世屋海軍特設見張所探索レポ日記

無題







宮津市の上世屋地区の山中に、海軍の特設見張所がありました。
特設見張所というのは海軍が敵艦船や敵航空機を監視し知らせる施設で、舞鶴警備隊管内では東舞鶴の東山(東山防空指揮所壕)・経ヶ岬・弾崎・冠島・和田山・そして宮津市の上世屋に設置されました。
いつも参考にしています「高射砲陣地と防空砲台」のサイトによれば、特設見張所には「甲・乙・丙・丁・戌・辛」の6種類に分別され、今回探索した上世屋海軍特設見張所は探照灯と聴音機と電波探信儀を備えた照射見張所の丁種だったようです。
上記サイトによれば、上世屋海軍特設見張所は昭和17年より工事開始。昭和18年に完成し聴音機・探照灯・発電機・兵舎があったようです。
上世屋海軍特設見張所に関して数年前に山中の伐採の際に発見され、京都新聞にて報道されたのを知り、上記リンク先のサイトや航空写真等で調べると他にもいくつか遺構が残されていると思われ、今回尋ねてみることにしました。
上世屋海軍特設見張所位置図













上世屋海軍特設見張所の配置図。上世屋海軍特設見張所へは上世屋地区を過ぎ府道75号線と府道618号線の分岐をそのまま75号線の方に向かってしばらく行った場所から西に延びている細い林道から向かうことができ、丘陵へ向かうまでの道筋にも遺構が残されています。
1上世屋海軍特設見張所倉庫










最初に見えてくるコンクリートの建物。道沿いに建っています。
2上世屋海軍特設見張所倉庫










躯体はコンクリートで、窓はありません。燃料庫などの倉庫だったと思われます。
4上世屋海軍特設見張所兵舎跡










さらに進むと熊笹の薮の中にコンクリートの基礎が。
IMG_3051










熊笹の茂り具合が酷く全体の姿を撮影できませんでしたが、大体10m×5mくらいの長方形のプランでした。恐らく兵舎かと思われます。
5上世屋海軍特設見張所兵舎跡台座










兵舎跡の中にあるコンクリートの台座。詳細は不明です。
6上世屋海軍特設見張所水槽










兵舎跡の背後にある大きな水槽。今でも水を湛えています。
3上世屋海軍特設見張所水槽










兵舎跡の道を挟んで向かい側にも小規模な水槽がありました。
IMG_3023










さらに林道を進み、途中で丘陵へと入ります。そして遠くの丘に見える建物が…
7上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所










京都新聞に報じられていた遺構です。
8上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所










背後。
9上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所










正面。この建物の屋上にかつては探照灯があり、湾を照射していたようです。
13上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所梯子













入口脇には屋上へ上がる梯子の跡が残されています。
10上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所










内部。入り口周りは煉瓦になってますが、全体の構造はコンクリートで、入り口部分のみ煉瓦になってます。理由は不明ですが。
11上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所










入口から内部。監視用と思われる窓が1つだけ開いてます。
12上世屋海軍特設見張所探照灯兼指揮所発電機台座










窓の下にはコンクリートの台座があります。固定していたボルトの跡や排水溝があることから、発電機の台座と思われます。屋上の探照灯への電力を供給していたのでしょう。引渡目録にもディーゼル交流発電機と記されています。しかし、付近にあるはずの冷却用の水槽が見当たりませんでした。どこかに埋もれているのかもしれません。
この建物は探照灯と聴音施設を備えた指揮所と思われます。
15上世屋海軍特設見張所平坦地










探照灯施設を後にし、反対の北側の尾根へと向かいました。こちらにも米軍撮影の昭和22年の航空写真には何か施設が写っているのですが、何せ熊笹の茂り具合が酷く進むのも難儀するくらい。何とか丘陵上へと登ると、そこは掘りくぼめて整地した平坦地となっていました。
14上世屋海軍特設見張所切通し










平坦地の南側は大きな切通しとなっており、そのまま下の平坦地らしき一画に続いていました。(その下へ続く平坦地も熊笹で覆われており探索は不可)
丘陵を掘りくぼめ周りを土塁状にして防御している施設は砲台等で良く見られますが、上世屋海軍特設見張所には砲台は無かったはずなので何が置かれていたか分かりませんが、何か防御する必要のある重要な施設があったのかもしれません。

上世屋海軍特設見張所は今回の探索でも複数の遺構が良好に残されているのを確認できましたが、何せ熊笹などの下草に覆われている箇所や伐採して放置された樹木が転がってる状態。まだまだ埋もれている遺構は多数あると思われます。伐採などを行い未確認の遺構の詳細な調査がなされることを希望します。



besan2005 at 21:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年04月22日

舞鶴市・愛宕山防空砲台探索レポ日記

1愛宕山防空砲台遠景










東舞鶴の海上自衛隊舞鶴教育隊の東に標高282m比高差270mの愛宕山があります。中世(室町期)に山頂に泉源寺城が築かれましたが、戦時中に海軍の防空砲台が築かれました。山城関連のブログに泉源寺城跡を取り上げたサイトがあり、そちらのレポを拝見すると山頂の砲台施設は中世の泉源寺城の曲輪を再利用したような感じで、砲台跡やコンクリートの構造物が見られ、どうやら愛宕山防空砲台の遺構が残されていることが分かりました。しかし、あくまで中世山城である泉源寺城跡をメインに取り上げているため、防空砲台の遺構に関してはちょろっと写真に写っている程度。そこで実際に探索し愛宕山防空砲台としてのレポを計画しました。
愛宕山防空砲台配置図1








今回の探索で確認した愛宕山防空砲台の遺構群。同じ防空砲台である倉梯山防空砲台に比べると規模が小さく見劣りする感じではありましたが、それでも各遺構群が多数現存し、また倉梯山防空砲台と比べて防空砲台として探索した人がおらず、知られていない遺構という点でも探索する価値はあったかと思います。
※改めて泉源寺城跡のレポを拝見していると、私が向かわなかった東の一段低いエリアにコンクリート基礎の遺構があるようです。現地で確認できなかった指揮所か兵舎の可能性が考えられます。見逃したのは大きなミスでした…。再訪を考えないと。
愛宕山防空砲台発電施設群











麓から旧軍道と思われる道を登っていくと4合目あたりで削平地に到達します。そこは愛宕山防空砲台の発電施設エリアと思われ、冷却用の水槽・発電機室跡・燃料庫と思われるコンクリート壕が残されています。
2愛宕山防空砲台水槽










冷却水用の水槽。
3愛宕山防空砲台発電機室










発電機室の建屋跡。恐らく木造の建屋だったのでしょう。
7愛宕山防空砲台発電機室発電機土台2










7愛宕山防空砲台発電機室発電機土台










建屋の中には発電機の台座と思われるコンクリートの台座があり、脇には冷却水を流していたと思われる排水溝があります。
愛宕山防空砲台発電機室平面図













簡易的ですが、発電機室の平面図。
4愛宕山防空砲台燃料庫壕










一番山側にある燃料庫壕。愛宕山防空砲台で唯一現存していると思われるコンクリート壕です。
5愛宕山防空砲台燃料庫壕内部1










燃料庫壕の内部。ほぼ同じ時期に造られた倉梯山防空砲台と同じ感じの造り。
6愛宕山防空砲台燃料庫壕内部2










内部から。
8愛宕山防空砲台燃料庫壕上部遺構










燃料庫壕の上にはコンクリートの構造物があります。
9愛宕山防空砲台燃料庫壕煙突










燃料庫壕の上部にある通気口らしきもの。
10愛宕山防空砲台コンクリート残骸










発電施設エリアを過ぎ、少し上がった場所にあるコンクリートの残骸。
11愛宕山防空砲台軍道










上記のコンクリート残骸辺りから軍道と思われる道が九十九折れで山頂まで続いています。
愛宕山防空砲台山頂遺構群









山頂部の各遺構配置図。
12愛宕山防空砲台軍道分かれ道










山頂付近の軍道分かれ道。恐らく中世の泉源寺城跡の帯曲輪や城道遺構を再利用していると思われる軍道で、真っ直ぐ向かうとコンクリート壕の残骸と便所跡。右の登り道を進むと山頂に出ます。
まずはまっすぐの道を進みます。
13愛宕山防空砲台コンクリート壕残骸










大量のコンクリートの残骸。明らかに破壊された跡です。
14愛宕山防空砲台コンクリート壕残骸2










コンクリートの残骸の上にはアーチ状に残るコンクリートの構造物が。
これはコンクリートの壕の残骸ではないでしょうか。別のサイトでは「砲側庫の残骸と思われる」としています。
15愛宕山防空砲台便所跡1










先ほどのコンクリート壕の残骸の側にあるコンクリート構造物。
16愛宕山防空砲台便所跡2













便所跡で、未だに便壺が残されてました。
19愛宕山防空砲台浄化槽1










コンクリート壕の残骸の上部にあるコンクリートの構造物。
20愛宕山防空砲台浄化槽2










3つ連なる水槽状の造りのコンクリートの構造物には水を通せる穴があけられていることから、浄化槽ではと思います。下の便所や兵舎等に配水していたのでしょうか。
21愛宕山防空砲台煉瓦構造物










浄化槽の横にある煉瓦の壁。用途は不明ですが、浄化施設に付随する施設だったのでしょうか。この構造物のものと思われる煉瓦が下のコンクリート壕の残骸と一緒に散らばっていました。愛宕山防空砲台で煉瓦構造物を確認したのはここだけです。
17愛宕山防空砲台機銃砲座跡










便所跡から西側へ回り込むと穴が2ヵ所開けられた場所に出ます。恐らく機銃砲座跡と思われます。
18愛宕山防空砲台コンクリート残骸










先ほどの機銃砲座跡を上がった山頂にあるコンクリートの残骸。ただの残骸ではなく、形が割と保たれており、この場所に何か施設があったことをうかがわせます。
23愛宕山防空砲台高角砲座










山頂部分にある高角砲座跡と思われる大きな穴。
22愛宕山防空砲台円形台座










高角砲座跡の南側にあるコンクリートの円形台座。下部の土が流失して半分浮いた危険な状態となっています。何の台座だったかは分かりません。
12愛宕山防空砲台軍道分かれ道










このまま山頂を東へ向かおうとしましたが、酷い藪で進むのが困難だったため、一旦最初の分かれ道まで戻り、今度は上のルートへ向かうことに。道はくの字に折れて山頂に到達しているのは感じから分かってましたが、途中笹竹が阻んでおり、通行に困難さがありました。
24愛宕山防空砲台山頂機銃砲座跡










先ほどの上ルートの道を上がり山頂に到達すると円形の窪地がいくつかありました。
25愛宕山防空砲台山頂機銃砲座










円形の窪地の周りには掘り上げて盛った土塁が囲んでおり、これは倉梯山防空砲台で見た機銃砲座跡であると思われます。配置図でははっきりと確認できた2基を記してますが、見た感じでは4〜5基はありそうな感じでした。
今回、参考にした資料では山頂部の遺構はほぼ山頂に集中している感じで書かれていたため、東の平坦ている尾根へは向かいませんでしたが、改めて泉源寺城跡を紹介したブログの記事を確認したら、今回確認していないコンクリート基礎が写る写真が。もしかしたら確認できなかった兵舎跡の可能性もあり、見逃したのは痛恨のミスでした。(他サイトでも防空機銃砲座の東尾根上に泉源寺城跡の遺構が続いており、その曲輪を利用した遺構がある可能性がある。)
まぁ、ルートは把握したのでまたの機会に。
ちなみに愛宕山防空砲台の西側の尾根上には参考にしたサイトによれば「松ヶ崎防空機銃砲台」と思われる砲台があり、米軍の航空写真にもそれらしきものが写っており、松ヶ崎防空機銃砲台の尾根と愛宕山との間の裾部に地下壕らしきものがありそうなのですが、アクセスできそうな道が途中で消えており断念しました。


besan2005 at 11:06|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年04月07日

京都市・辻商店取り壊し前の最後の内覧会レポ日記

1辻徳商店外観













2019年3月30日、京都市中京区の四条堀川角にある辻商店の旧店舗の内覧会に参加してきました。
2辻徳商店外観










辻商店は昭和3年に建てられた商店建築で、ロマネスク風の外観が特徴的な歴史的建造物でしたが、解体が決まり、それに合わせて最後の内覧会が開催されました。
3辻徳商店看板













辻商店のタイル製の看板。
4辻徳商店プレート










辻商店は「市民が選ぶ文化財」に選ばれてますが、残念ながら解体が決定しました。
6辻徳商店店舗室










玄関に入って最初の部屋の営業室。木製のカウンターも当時のままです。
7辻徳商店通り庭










営業室奥の通り庭。基本的に間取りは町屋ですが、建物は鉄筋コンクリートのようです。
10辻徳商店応接室










営業室の横の洋室。恐らく応接間として使われた部屋と思います。
8辻徳商店和室










営業室奥の和室。
瑞雲扁額







掲げられていた「瑞雲」の扁額。まぁ、そうなるな。
9辻徳商店坪庭










和室の屋には坪庭があり、右手側には倉もあります。
11辻徳商店分かれ階段










次に二階へ。1階から2階へ通じる階段の途中に2股に分かれる箇所が。こんな造りの階段って見たことないですね。
17辻徳商店2階洋室










まずは左手側の階段へ。そこは堀川通が見下ろせる洋室でした。事務室だったのでしょうか。カフェとかにすればオシャレな空間になると思いますが…。
12辻徳商店階段小窓










再び階段へ。小窓から差し込む光が良い雰囲気を出してました。
15辻徳商店2階










2階階段。
16辻徳商店2階廊下










そして2階廊下。階段と廊下は洋風で各部屋はそれぞれ独立し道線にはなっていないなど、洋館でありオフィス的な性格が見えてます。
18辻徳商店2階廊下側扉










廊下側の扉は洋風ですが…
18辻徳商店2階










部屋は完全に和室。床の間や違い棚まである書院造です。
24辻徳商店2階奥階段










先ほどの廊下の奥にはもう一つ階段がありました。
25辻徳商店2階奥段













親柱のデザインは統一されています。
13辻徳商店階段













再び最初の階段に戻り3階へ。
19辻徳商店3階階段










3階の階段室。
14辻徳商店階段










3階階段から階下を見下ろす。階段のこの空間って好きですね。
20辻徳商店3階洋室










3階洋室。
21辻徳商店3階和室










3階和室。ここは生活空間だったようですね。
22辻徳商店屋根裏部屋










3階の更に上には屋根裏部屋があり、そちらも見せてもらいました。鉄骨のトラスの小屋組みを見ることができ、戦前の建物の構造等がよく分かります。
23辻徳商店棟札













棟札も見せてもらいました。棟札には「昭和三年五月二十五日 願人 辻徳治郎 施行人 益井重成」とあります。貴重な資料だと思います。

残念ながら辻商店の建物は取り壊されますが、最後に内覧会という貴重な機会を設けて頂いたオーナー様他には感謝いたします。素晴らしい建物を堪能することが出来ました。


besan2005 at 11:34|PermalinkComments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 近代化遺産 | 商業施設

2019年03月17日

宮津市銀丘地区探索レポ日記(舞鶴海軍航空隊に関する官舎街の可能性のある遺構群)

舞鶴海軍航空隊位置





宮津市の栗田半島に銀丘地区という集落があります。近くにはかつて舞鶴海軍航空隊の敷地だった宮津海洋高校があり、北には水上機生産工場だった第三十一海軍航空廠(現・関西電力エネルギー研究所)とその官舎街があり、昭和22年の写真を見ていたのですが舞鶴海軍航空隊の北西部に明らかに区画整理された箇所があることに気付きました。
銀丘地区







現在の銀丘地区と昭和22年の航空写真との比較。(GoogleMap及び国土地理院公開の航空写真より引用。)
同じプランの建物が整然と並びます。道路を挟んだ東側にある集落と比較して新たに区画整理されて造られた地区であることは一目瞭然で、舞鶴海軍航空隊に近いことから、舞鶴海軍航空隊に関する官舎街ではないかと推定しました。しかしネットで色々検索しても北側の第三十一海軍航空廠の官舎街に関してはヒットするものの、この銀丘地区に関しては全く情報が出てきませんでした。
※過去記事・第31海軍航空廠官舎群・探索レポ日記
そこで今回、実際に探索してみることにしました。
IMG_2037










IMG_2036










IMG_2038










IMG_2040










銀丘地区には同じ規格と思われる古い住宅が数棟存在していました。いずれも南北に細長い平屋の建物。昭和22年の航空写真に写る建物と一致しています。
IMG_1728










※参考1・朝来海軍第三火薬廠第一製造部乙号官舎。規模の違いこそあれ、姿ヤブランはよく似ています。第三火薬廠第一製造部の遺構に関しては後日記事にします。
3官舎1










※参考2・過去に探索した宮津市鏡ヶ浦地区の第三十一海軍航空廠の官舎。造りがそっくりです。
9官舎5










11官舎6










※参考3・こちらは小田宿野地区の第三十一海軍航空廠の官舎。規模は大きいですが横長のプランに妻入り屋根つが付属するプランは共通しています。
しかしながら、第三十一海軍航空廠や第三火薬廠と違い、確たる資料や情報がない状況で銀丘地区の古い建物が本当に官舎なのか、銀丘地区が舞鶴海軍航空隊に関する海軍用地だったのか確定させる情報が無く、いつもの「可能性がある」という形で終えようと集落の外周を回っていると…
IMG_2044













集落の外周北端に「海界」の文字が刻まれた境界柱が。海界とは海軍用地の敷地境界のこと。
つまりはここが海軍の用地だという事を示す石柱。
IMG_2047













IMG_2034













それと同様の境界柱と思われる石柱が集落の南端にも2本あるのを確認。崖の上だったり立ち入り禁止と書かれた場所の向こうにあったりして近くで確認できなかったのが残念でしたが。
無題












今回確認した遺構の箇所。海界の境界柱は銀丘地区を囲むように配置されており、銀丘地区が海軍用地たことが分かります。(集落西側の浦宮神社の境内も探索しましたが境界柱は確認できず、神社も用地の中に入っていた可能性があります。)
今回の探索で「海界」の境界柱を確認したことにより、銀丘地区が海軍用地であったという証拠を得ることが出来ました。舞鶴海軍航空隊に近いため航空隊の官舎の可能性が考えられますが、それに関しては引き続き文献などを調査して確定させていきたいと思います。


besan2005 at 20:36|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年03月10日

某海軍防空砲台探索レポ日記。

諸事情により限定公開となってます。続きを読む

besan2005 at 11:39|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年02月24日

福知山市の近代建築

京都府福知山市は大きな戦災を受けなかったためか(洪水などの災害は受けてますが)地方の中小都市でありながら戦前の近代建築が多く残されています。しかしながら近年、全国で加速度的に近代建築が失われつつあり、国登録有形文化財の建物も失われている事態に。福知山市に現在も残る近代建築もいずれ次々と消えるのではという危惧から昨日探索した結果(2019年2月23日)と過去に撮影した物件を合わせてここに記録したいと思います。

1松村邸洋館













〇旧松村邸洋館。大正元年。京都府指定文化財。
2松村邸洋館













福知山市を代表する近代建築。中堅ゼネコンの松村組創業者・松村雄吉の邸宅で、自身が工事した由良川の堤防の堅牢さを証明するため、堤防上に自邸を建てました。
3松村邸撞球場










〇旧松村邸撞球場。大正期。旧松村邸は主屋・洋館・御殿・撞球場が現存し、京都府指定文化財となっています。
IMG_1478










この名建築の旧松村邸も京都府指定文化財でありながら解体の危機にあったことがあります。かつては松村組の福知山営業所として管理され、一般公開をされたこともありましたが、松村組が倒産した際に不動産会社の管理となり、その不動産会社が旧松村邸が京都府指定文化財であることを知りながらこれを偽り、府に書類を提出しようとして発覚し逮捕される事件でした。
担当者が気付かなければ今頃は更地になっていました。
ぎりぎりの所で守られた旧松村邸。現在は洋菓子店・足立音衛門が所有し店舗として利用・洋館も外観のみですが公開されています。

5郡是福知山工場事務所










〇旧郡是製糸福知山工場事務所。昭和3年。
隣町の綾部市で操業した郡是製糸の福知山工場の事務所です。おとなしい外観ですが味のある良い建物です。現在郡是福知山工場の敷地はグンゼの関連会社の敷地となってますが、綾部市の郡是本館と同じようにこの事務所も記念館か何かに活用して欲しいです。
4郡是福知山工場門衛所










〇旧郡是製糸福知山工場の敷地には事務所の他にも当時の建物が多く残されています。
こちらは門衛所。昭和3年。
6郡是福知山工場社宅










〇正門の脇に3棟並ぶ社宅。多分昭和初期。奥に寄宿舎の建物もあります。
7郡是福知山工場繭蔵










〇繭蔵。大正14年築と昭和8年築があります。

8中ノ町の木造工場棟










〇旧郡是製糸福知山工場の近くにある木造建物。何となく町工場の建物のように見えます。基礎のコンクリートの感じから戦前の建物と思われます。

9サヌキヤ










〇クリーニング・サヌキヤ。福知山市中ノ町。看板建築。

10旧三ツ丸百貨店










〇旧三ツ丸百貨店。昭和8年。福知山で初めての近代大型店舗でエレベーターもあったようです。
屋上には食堂や遊園地があったようです。戦時中に石原にあった福知山海軍航空隊が接収したという話もありますが、詳細不明。戦後は京都銀行からリサイクルショップとなり近年までポッポランドとなってましたが、今は閉鎖されています。

旧福知山銀行本店1









旧三ツ丸百貨店の新町通りを挟んだ向かいには昭和初期に建てられた旧福知山銀行本店の建物がありました。タイル張りのアーチ窓のある名建築でしたが、2005年に取り壊されてしまいました。
旧福知山銀行本店跡2










取り壊し直後の旧福知山銀行本店。基礎は煉瓦でした。現場でお願いして外壁のタイルを1枚頂きました。これが恐らく唯一残された旧福知山銀行本店の名残かと。

旧福知山銀行本店2









在りし日の旧福知山銀行本店と(奥は旧三ツ丸百貨店)

11小林歯科医院










〇小林歯科医院。福知山市下新町。
12小林歯科医院










新町商店街の南端にある建物。確か昭和初期。実は本体が町屋の看板建築です。

13櫻湯










〇櫻湯。福知山市西長町。明治37年(外観は大正期の改装?)
14櫻湯










今では貴重となった戦前の銭湯。しかも戦前から改修されておらずしかも現役という歴史遺産というべき貴重な存在。内装も当時のままでステンドグラスやらがあったりモザイクタイルもあるようで、最近口コミで話題になっている銭湯のようです。私はどうも他人と一緒にふろに入るのに抵抗があるんですが、内部だけでも見たいですねぇ。

15生長の家福知山道場










〇生長の家福知山道場。福知山市西長町。
16生長の家福知山道場










元銀行だった建物と聞いています。治久銀行だったかな。明治期に次々誕生した小規模銀行。

16古い建物










〇戦前っぽい古い建物。福知山市西長町。元商店だったと思います。

17看板建築













〇装飾のある看板建築。福知山市内記町。
18看板建築













新町方面へ向かっていて見つけました。軒周りの装飾が中々良い感じ。

19桑原辰印刷










〇桑原辰印刷。福知山市下新町。新町通りの南端の角にある建物。元は商店だったんでしょうね。
20古い食堂










その向かいにレトロ感満載の激渋食堂がありますが、今もやっているかは不明。やっているなら入りたくなる魅力がありますw

21福喜多内科医院










〇福喜多内科医院。福知山市内記。明治と言っていいのではと思うくらいのこれまた古い病院。

22市役所前の洋館付き住宅










〇洋館付き住宅。福知山市内記。市役所の真ん前にあります。
23市役所前の洋館付き住宅













福知山市ではあまり見かけない洋館付き住宅。軒の造り等から戦前物件かと。

24塩見産婦人科










〇塩見産婦人科医院。福知山市内記。昭和初期頃。福知山市内でも大規模な近代建築。
26塩見産婦人科










車寄せのポーチは装飾に富んでいます。
27塩見産婦人科










裏側から。現在は廃業されているようで、この建物の今後が気がかりです。

28意匠的な住宅










〇某住宅。福知山市内記。1階が意匠的で撮影。軒周りを見ると戦前はありそうです。

29越山小児科医院










〇越山小児科医院。昭和6年。福知山市南栄町。福知山市の近代建築を代表する建物の1つ。
30越山小児科医院










外観はシンプルながら品のある仕上がりになっています。
31越山小児科医院










実は子供の頃、掛かり付けの病院でした。内部も受け付けの窓口や病室も当時のままでした。
33越山小児科医院










病院の洋館に併設している主屋の住宅棟も貴重な近代和風建築です。国登録有形文化財となって末永く保存してもらいたいものですが…

34植村商店し










〇植村商店。福知山市内記。越山小児科医院の向かいにある古い建物。こちらも商店だったようです。

35桐村眼科










〇桐村眼科(旧両丹銀行本町支店)。福知山市天田。昭和10年代(昭和12年以前)。
36桐村眼科













福知山市に基盤を置いていた両丹銀行の支店の建物で、後の京都銀行の前身の一つです。福知山では珍しい様式建築のビルで、市街地に2つだけ残る戦前の銀行建築の1つで貴重な存在です。内部は改装されていますが、梁の部分に当時の面影が残ります。市内でも好きな建物の1つでいつまでも残っていて欲しいです。

37仲の湯










〇仲の湯。福知山市中ノ町。戦前の古い銭湯。現在は廃業。
38仲の湯










ただし、時々この建物を利用したイベントが開催されているようです。

34駅前通りの古い建物










〇駅前正面通りの建物。福知山市天田。軒周りや基礎周りを見たら恐らく戦前物件。
かつてファミリーがあったころは駅前通りも賑わってましたが、ファミリーが無くなったいまではすっかり寂れてしまいましたね。

39音衛門ビルヂング










〇丹波鶴屋・音衛門ビルヂング(旧福知山信用金庫本店)。昭和10年代(昭和12年以前)。この時代には珍しい装飾です。福知山市街地に残る戦前の銀行建築の1つ。
40福知山信用金庫旧本店2










現在は足立音衛門が所有し店舗として再利用されています。
41福知山信用金庫旧本店5










42福知山信用金庫旧本店3










内部は当時の意匠が良く残され、特に玄関周りは必見。
旧松村邸もですが、福知山市内の古い建物を積極的に再活用されている足立音衛門には頭が下がる思いです。感謝の意味も込めて宣伝w
仏蘭西焼菓子調達所 足立音衛門

惇明小学校本館







〇惇明小学校本館。福知山市内記。昭和12年。国登録有形文化財。

43福知山衛戍病院










〇旧福知山医師会館。福知山市岡ノ町。明治期か。
51福知山衛戍病院










以前紹介した建物。
50福知山衛戍病院










基礎は煉瓦で古く、通風孔に陸軍の星章があることから、背後の丘にあった福知山衛戍病院に関係する建物と考えられています。
46福知山衛戍病院










この建物の再活用が検討されており、良い再利用がされることを願ってます。

43中ノ町遊郭










〇旧中ノ町遊郭の遊郭建築。現在福知山の歓楽街となっている中ノ町歓楽街一帯はかつて遊郭街でした。今は場末の飲み屋か風俗店が建つ寂れた場所ですが、僅かに遊郭の建物が残されています。

52福知山迎賓館










〇長安寺公園憩いの家本館(旧福知山迎賓館)。福知山市奥野部。大正12年。
元々は御霊公園の敷地内にあった建物で、昭和47年に憩いの家として再活用するため移築されました。
53福知山迎賓館













旧福知山迎賓館の玄関部分。
54福知山図書館










〇長安寺公園憩いの家別館(旧福知山図書館)。福知山市奥野部。大正12年。
旧福知山迎賓館と同じく御霊公園内にあった建物で、同じく現在地に移築されました。
55福知山迎賓館










かつて存在した福知山公会堂や御霊会館と言った大型の近代和風建築が失われた今、福知山市内に現存する公共の近代和風建築として貴重な存在です。

以下は過去に撮影した福知山市の近代建築です。
将校集会所










〇陸軍歩兵第二十連隊将校集会所。福知山市天田。明治31年。
IMG_0656










〇陸軍工兵第十大隊兵舎。福知山市南岡。明治期。

堀浄水場ポンプ室1










堀浄水場遠景










〇福知山浄水場ポンプ室。福知山市堀。昭和8年。
立原郵便局3













立原郵便局2










〇旧立原郵便局。福知山市立原。昭和12年。

福知山市街地の洋館1










昔、内記町あたりで撮影した古そうな住宅。再び撮影しようと探しましたが見当たらず、取り壊されたようです。この住宅のように年々古い建物が姿を消していってます…


besan2005 at 12:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 近代化遺産 | 京都府

2019年02月17日

今も残る米軍の機銃掃射の痕。

芦屋市機銃掃射痕










先日の芦屋市の近代建築探索で見かけた古い塀のある住宅。
芦屋市機銃掃射痕










戦前のものと思われるこの塀に貼られたタイルは一部が大きく破損しています。
芦屋市機銃掃射痕







これは戦争中に米軍艦載機による機銃掃射によってついた傷跡です。

※米軍艦載機による日本本土への機銃掃射。

戦争末期、日本本土の制空権を失った日本に対し、アメリカ軍は爆撃機だけでなく空母艦載機の戦闘機による機銃掃射も行いました。それは軍事施設・軍需工場だけでなく民間施設や学校・病院・住宅にも及び、たとえ民間人であろうと女子供であろうと容赦なく狙われたまさに無差別攻撃でした。
DHCChsCVYAACHI7







※沖縄の現場で見つけ頂いた米軍艦載機が放った12.7mm機銃弾の薬莢。
本来は敵の戦闘機と空中戦の際や敵の車両・建物施設等に使用する強力な機関銃を生身の人間にも向けて撃ったわけです。ドラマ等では普通に撃たれて倒れるシーンが多いですが、本来は撃たれるとバラバラになるくらい威力があります。
存命中に祖父から聞いた体験談で、渥美半島にて小舟に乗って物を運んでいた同僚の兵士が機銃掃射を食らい、敵機が去ったあとその兵士の元に向かうとほぼ肉片になっていて、麻袋で回収したと話してました。

機銃掃射は大都市はもちろん地方の中小都市も含め全国各地で行われました。
その時の傷跡は今でも各地に残されています。
有名なのでは旧日立航空機立川工場変電所などがあり、首都圏や近畿圏の大都市ならば戦前の鉄道の橋脚や橋等今でも多く残されています。
以下、私が撮影した一例。
峯山海軍航空基地弾薬庫







峯山海軍航空基地弾薬庫機銃掃射痕













京丹後市・峯山海軍航空基地旧弾薬庫の機銃掃射の痕。
P1130068













P1130069













津市。藩主藤堂家墓地の墓塔に残る機銃掃射の痕。
IMG_0757










和歌山市のビルの壁に残る機銃掃射の痕らしき傷跡。
硬い石やコンクリート、そして鉄骨ですら貫通する威力。人体がまともに食らったらどうなるかは容易に想像できます。
非戦闘員に対して無差別に放った強力な機銃弾による機銃掃射。非人道的と言えるこの行為を後世に伝えるためにもこれら本当の意味での「戦争遺跡」は保存していく必要があると思います。

※新たに撮影しましたら画像を追加します。


besan2005 at 11:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 戦争遺跡 

2019年02月11日

第31海軍航空廠官舎群・探索レポ日記

第31海軍航空廠航空写真








京都府宮津市にある第31海軍航空廠官舎群を探索してきました。
第31海軍航空廠は昭和18年に開設した海軍工廠で、主に水上機の製造を行っていました。
第31海軍航空廠の工場は現在の関西電力宮津エネルギー研究所(丹後魚っ知館のある場所)一帯にあり、当時の建物は残されていませんが、山裾に地下壕らしきものがあるようです。
その第31海軍航空廠の官舎街が航空廠の北西に造られ、現在も区画がそのまま残り、一部官舎も住宅としてそのまま使用されていることを知り、2年前に訪問。そして新たに現存官舎を確認したことから再度探索をいたしました。
第三十一海軍航空廠昭和22年写真








※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の第31海軍航空廠と官舎街の航空写真。
官舎街は2ヵ所に分かれていたようです。
官舎街1航空写真









まずは官舎街1。こちらはほとんどの官舎がリフォームされながらも現存している感じでした。その中でも比較的元の姿を保っていると思われる元官舎の住宅を2つ紹介します。
1第31海軍航空廠官舎街南から










まずは官舎街1の遠景。南から。
2第31海軍航空廠官舎街北から










北から。区画は碁盤の目のようになってます。
4官舎1










官舎1。だいぶ傷んでますが、オリジナルの状態を保ってます。
5官舎2










6官舎2










官舎2。こちらは比較的状態が良いようです。

官舎群2航空写真











続いて官舎街1の西側にある官舎街2へと向かいます。
官舎街2の官舎は官舎街1の官舎と違い規模が大きめで門があり、特に官舎5と6は他の官舎の倍近くの規模があり、中庭まで設けているため、航空廠の高等官の住宅だったのではと思います。官舎街1は所帯持ちの一般工員用の官舎、官舎街2の官舎3と4は上級工員か中等官の官舎だったのかもしれません。
ちなみに昭和22年の航空写真を見ると、東側にも張り出す感じで区画がされているので、官舎街2はそこまでの範囲だったようです。(後から気づきましたw)
IMG_1266










官舎街の風景(東から)。
7官舎3










官舎3。リフォームされてますが、建物自体は元官舎と思われます。門柱は当時の物と思われます。
IMG_1269










当時の物らしいドアが残されてました。
IMG_1259










隣の家にも官舎時代の門柱が残されています。建物ももしかしたら元官舎かも。
8官舎4










官舎4。門柱は失われてますが、官舎自体はほぼオリジナルを保っていそうです。
9官舎5










IMG_1260










官舎5。かなり大型の官舎で、官舎3・4の倍近くあります。官舎の状態もほぼオリジナルを保っており、門柱も残されています。門柱は官舎3・4より大型です。
10官舎6










官舎6。官舎5とほぼ同じ規模の大型官舎です。さらには改修などもなく、ほぼ当時のオリジナルのまま残されており、更には門柱や石積みの垣も残されているなど貴重な存在と思われます。
11官舎6










反対側から。
12官舎6










官舎6の西側部分。
13官舎6










正門。門柱は先の官舎3・4より大型です。
14官舎6










官舎5と6は航空写真を見ると凹型になっており、へこんだ部分に中庭が設けられ、官舎6には燈籠が残されていました。
第31海軍航空廠の官舎は改修されながらも多く残されており、資料が乏しく調査している人が少ない第31海軍航空廠において貴重な遺構群と思われます。特に官舎6は大規模な上にほとんど改修されておらず建物・門柱や石垣の垣根を含め官舎時代のオリジナルの姿を留めているだけでなく、状態も良好で、第31海軍航空廠の高等官向けの官舎として重要かつ貴重な遺構です。
北吸の海軍乙号官舎のように国登録有形文化財となり保存されれば有り難いですが。
官舎5・6は海軍乙号官舎よりやや大きいようです。官舎5・6は甲号官舎だったのでしょうか。
無題2










現在は畑となってますが、赤線で囲った箇所もどうやら第31海軍航空廠の官舎街か施設を建てるために造成は行われていたようで、昭和22年の航空写真を見ると一部建物が建てられています。
第三十一海軍航空廠施設か










第31海軍航空廠の工場建物自体は残されていないように思いますが、唯一航空廠時代の建物ではないかと思われる木造建築がエネルギー研究所の入り口近くの民家に残されています。

15舞鶴海軍航空隊正門










第31海軍航空廠の南、京都府立海洋高校とその周囲の敷地には舞鶴海軍航空隊の施設がありました。
昭和10年に開設した舞鶴海軍航空隊は水上機専用の航空隊でした。
※参照。古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)
現在は正門と滑走路の舗装などが舞鶴海軍航空隊の遺構として残されています。
無題







また、舞鶴海軍航空隊のすぐ北にある銀丘地区は、位置的に舞鶴海軍航空隊の官舎街として造成されたものと思われ、昭和22年の航空写真には整然と並ぶ建物が写されています。
まだ現地を実際に見ていないので分かりませんが、ストリートビューで確認すると僅かではありますが元官舎らしき建物が残されているようです。



besan2005 at 10:31|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年02月09日

奈良市内某所にある戦前築の廃墟の洋館・探索レポ日記

奈良市内の廃洋館航空写真














その廃洋館を知ったきっかけは奈良市内の近代建築を探索するため、事前にGoogleMapで調べていて見つけたことからでした。航空写真からも分かる大規模かつレベルの高いその洋館に興味を持ち、近代建築関連のサイトを色々検索しましたが全くヒットせず。とりあえず先月、奈良市内の近代建築探索の際に訪問。洋館は廃墟となってましたが、その際はさっと見て撤退。しかし1ヶ月後、やはりどうしても気になり今回再訪することにしました。
その間、この謎の廃洋館について調べましたが近代建築・廃墟サイトとも中々ヒットせず、かつて飲食店だった時の店名で調べたら僅かですがヒットしました。
そのブログの記事は13年前のもの。まだ飲食店として使用されていた時に入られた方の記事で、店主のお婆さんの話では建物は明治時代のもので、戦後は進駐軍に接収されたこともあったとか。ブログには店内のかつての姿の写真もあり、確かに天井の照明の座繰りや暖炉を見ると戦前の物らしく見えました。
無題





国土地理院公開の昭和21年米軍撮影の航空写真を確認して見ると、確かに件の洋館は写っています。
明治期の建物かは分かりませんが、戦前の物であることは間違いないかと思います。
調べるとどうも10年位前に廃業したようです。私が訪問した時はすでに廃墟と化し荒れていました。
※知っている人は知っている物件の様で、現役の頃に何度か行った人の証言もありましたが、不埒者に荒らされることを防ぐため詳細な場所やかつての店名が分かる部分は伏せます。
具体的な場所に関する質問にもお答えかねます。
1奈良市内某所の廃洋館










廃洋館に至る門。こちらは和風。戦前の屋敷には洋館でも門が和風だったりするのは普通でした。
飲食店だった頃はここが入り口で、今でも店名の扁額が掲げられています。
2奈良市内某所の廃洋館










洋館東面。前回行けず今回確認したかった東面は付属屋等で塞がれ確認出来ませんでしたが、たまたま隣の敷地の門(ここもかつてはお屋敷があったようです。)が開いていたためそこから撮影。出窓らしき張り出しが見えます。
3奈良市内某所の廃洋館










洋館西面。西側は改装されているようですが屋根や軒周りは当時の面影が残されています。屋根は日本瓦葺き。最近建てられた洋館ならスレート葺きになるので、この洋館が古いものであることが分かります。
敷地への入り口は扉の無いコンクリートらしき門柱のみの門。「立ち入り禁止」等の看板も何もないため、外観だけでもと前回同様お邪魔することに。
5奈良市内某所の廃洋館










西側の入り口。洋館自体の規模が大きいため、建物を分けてこちらも別の飲食店として使用されていたようです。西面は外観が大きく改修されており、あまり面影がありません。
6奈良市内某所の廃洋館













西側を過ぎ、南側へ。GoogleMapで確認した塔屋っぽい張り出しが2つ並ぶいかにも戦前の洋館と言った雰囲気。最初にGoogleMapで見たときは震えました。
7奈良市内某所の廃洋館













反対側から。一部窓が改修されていますが、当時の上げ下げ窓も残されています。
庭木であった梅が花を咲かせていました。
9奈良市内某所の廃洋館










正面から。
8奈良市内某所の廃洋館










南側は中庭だったようで燈籠などもありましたが、管理者がいなくなり放置された今では庭木も伸び放題で、引きが取れませんでした。
IMG_1191










南面の東側には接続している付属屋へ入る入り口が。ここを入ると気になる東側に行けるはずですが、さすがに行けませんでしたね私は。
10奈良市内某所の廃洋館













西側から南側へとつながる階段。再び元の場所に戻ります。
11奈良市内某所の廃洋館










北側へとつながる小さな門。ここを通ると最初に紹介した和風の門の裏側、かつて飲食店だった時の玄関へと至ります。
12奈良市内某所の廃洋館










洋館北側。煉瓦造の大きな煙突が目立ちます。
13奈良市内某所の廃洋館













かつての玄関口。こちらが本来の洋館の玄関だったと思われます。
玄関の屋根が落ちて傷んでいます。廃業して管理されなくなってからかなりの時間が経ったことが分かります。
柱頭飾り











洋館角の2階部分には柱頭飾りがあります。最近建てられた洋館だとここまでこった装飾はまずしません。
16奈良市内某所の廃洋館










2階窓部分。2重扉になっています。窓は当時の物のようです。
14奈良市内某所の廃洋館










玄関を東方面を向いて撮影。玄関車寄せの柱や手摺も凝ったものです。
15奈良市内某所の廃洋館










玄関床のタイル。黒島模様のものです。
17奈良市内某所の廃洋館










窓から内部を撮影してみました。長年放置された窓はホコリだらけで、カメラを窓に当ててもうまくピントが合わない。何回か撮影して何とか内部が撮影できました。内部は現役だった頃の写真のままで、竣工当時のままと思われる暖炉や天井のシャンデリアの座繰りがそのままでした。
19奈良市内某所の廃洋館













18奈良市内某所の廃洋館













20奈良市内某所の廃洋館







スマホで撮影した写真の方が幾分マシのようだったので掲載。雑多にはなってますが、飲食店だった頃の雰囲気は残されてました。戦前の住宅だった時代の名残も良く残されています。

この廃墟の洋館はブログの情報では明治期とのことですが、見た感じでは大正期のように思えました。それでも戦前の大規模洋館であることは変わりはなく、廃墟と化して痛み始めてはいるもののまだ状態は良く、奈良市内でも屈指の戦前の洋館であり貴重な近代建築であることには変わりません。進駐軍も接収した経緯のある洋館だけにレベルの高さが伺えます。しかし、元々誰の屋敷だったのか、具体的な竣工年はいつなのか、設計者は?など洋館そのものの詳細な経歴が一切不明です。(ただし、奈良県近代化遺産調査報告書には掲載されているかもしれません。ただ、そうなるとすでにチェックして報告している人がいるはずですが…)

そしてこれだけの洋館が見向きもせずに放置されている現状は、やはり古都奈良という土地柄だからでしょうか。国登録有形文化財はもちろん、指定文化財になってもおかしくはないこの洋館。最近内で奈良市内では近代建築をカフェや案内所等に再利用している例もあるわけですし何とか修復して再びレストラン等に再利用できないものでしょうかね。場所的にも好立地ですし、このまま朽ち果てて失われるのは惜しすぎると思うのですが。



besan2005 at 20:58|PermalinkComments(7) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 住宅建築 | 奈良県

2019年01月27日

鈴鹿市・亀山陸軍病院跡〜第一航空軍教育隊跡〜北伊勢陸軍飛行場跡探索レポ日記

去年10月(2018年10月21日)に三重県鈴鹿市にある亀山陸軍病院・第一航空軍教育隊・北伊勢陸軍飛行場の遺構群の探索を行いました。
鈴鹿市には他にも鈴鹿海軍工廠や鈴鹿海軍航空隊等の旧軍遺構が残されており、うち鈴鹿海軍工廠の方は探索を終えレポ日記を書いています。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
探索行程













今回の探索ルート。
加佐登駅を出発し、まずは亀山陸軍病院の跡地へ。
亀山陸軍病院は昭和16年に開設した近隣の北伊勢陸軍飛行場や翌年開設の第一航空軍教育隊によりそれらの患者を収容するために昭和18年に開院した陸軍病院で、全国にあった陸軍病院の中では比較的新しいものでした。戦後、亀山陸軍病院は鈴鹿病院の敷地となり当時の建物は残されていませんが、外周にいくつか遺構が残されています。
1亀山陸軍病院東門外側から










亀山陸軍病院東門。
2亀山陸軍病院東門内側から










コンクリート製のシンプルなものです。
3亀山陸軍病院東土塁内側より










4亀山陸軍病院東土塁外側より










正門から東門にかけて境界の土堤があり、かつては外側の畑地の中に境界石があったようですが、現在その場所は住宅の造成地となり、境界石は見つけられませんでした。
9亀山陸軍病院北土塁外側から










北側敷地にも土堤は残されています。
6亀山陸軍病院境界石柱1













周囲には陸軍境界石がいくつか残されています。まずは正門前の駐車場敷地に埋もれている境界石。
7亀山陸軍病院境界石柱2













正門近くの民家横の花壇の中にある境界石。
8亀山陸軍病院境界石柱3













同じく花壇の中にある境界石。
10亀山陸軍病院境界石柱4













北側土堤側の境界石。
亀山陸軍病院境界杭位置












今回確認した境界石の配置図。このほかにも西側竹林内等にも境界石が残されているようです。

次に向かったのが、第一航空軍教育隊の跡地。
昭和17年に幹部候補生や下士官の教育部隊として開設されたもので、営舎等の施設が建ち並んでいました。
第一航空軍教育隊航空写真











※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の第一航空軍教育隊の航空写真。いくつかの建物が建ち並び、格納庫らしき建物も見えますが、基礎だけのままの場所もあり、いくつかは未完成だったようです。
戦後、跡地は住宅街や畑地となりますが、いくつかの分厚いコンクリートの基礎や建物は撤去されず、そのまま残されています。
11第一航空軍教育隊自動車庫基礎1










自動車車庫の基礎。コンクリートのベタ基礎です。
12第一航空軍教育隊自動車庫基礎2










仕切りがあり、それぞれの車が収まる様になってます。
13第一航空軍教育隊自動車庫柱基礎










生垣になっている箇所にはボルトのある基礎らしきコンクリート柱があります。
14第一航空軍教育隊貯水槽1










自動車車庫跡から北に進むと向かって左手に貯水槽があります。
15第一航空軍教育隊貯水槽2










現在は水は無く、土が溜まった状態で放置されています。
17第一航空軍教育隊特殊講堂基礎2










講堂の基礎。ここで様々な講義とか行われてたのでしょうか。
畑地の中に残されてますが、分厚いベタ基礎なので撤去できずにそのまま残されたようです、
23第一航空軍教育隊特殊講堂基礎5










ベタ基礎の上にさらに基礎があり、束石が並んでいます。
18第一航空軍教育隊特殊講堂基礎3










コンクリートの基礎の上には古い木造の倉庫が建てられています。
20第一航空軍教育隊の建物か2










第一航空軍教育隊の当時のままの建物ではないでしょうが、建物の部材や造り自体は古いです。兵舎等の建物は戦後の復興資材として住宅などに再利用されたようですから、もしかしたら第一航空軍教育隊の建物を再利用したものかもしれません。
24第一航空軍教育隊弾薬庫1










さらに北に進んだ場所、第一航空軍教育隊の敷地北端に当たる場所にかつては弾薬庫が5棟並んでおり、うち1棟が現在も畑地の中に残されています。
25第一航空軍教育隊弾薬庫2










コンクリート製の建物で、弾薬庫らしく頑丈な造りです。
26第一航空軍教育隊弾薬庫3










裏側から。何故か1棟だけ残されてますが、ともあれ第一航空軍教育隊の遺構で唯一残された確実に当時の建物と言える遺構です。
27第一航空軍教育隊弾薬庫内部1













内部。どうやら2段の棚があったようです。
28第一航空軍教育隊弾薬庫内部2










現在は物置になってます。
30第一航空軍教育隊塀支柱か2










弾薬庫の前に置かれた塀の支柱と思われるコンクリート柱。弾薬庫を囲んでいたのでしょうか。
31第一航空軍教育隊水路橋1










34第一航空軍教育隊水路橋2










35第一航空軍教育隊水路橋3










当時の水路と水路に架かるコンクリートの橋もいくつか残されています。
33第一航空軍教育隊水路水門2










第一航空軍教育隊当時の物かは分かりませんが、水門もあります。
36第一航空軍教育隊基礎1










格納庫の基礎。コンクリートの撤去は困難なので、大規模な造成が無い限りはずっと残り続けるでしょう。

第一航空軍教育隊跡を後にし、次は北伊勢陸軍飛行場跡へ。
北伊勢陸軍飛行場は岐阜陸軍飛行学校の分教所として昭和16年に開設。昭和18年に明野陸軍飛行学校の分教所へと改編されます。昭和19年からは教育部隊ではなく実戦部隊が配備され特攻隊の部隊も配備されていました。
北伊勢陸軍飛行場航空写真









※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の北伊勢陸軍飛行場航空写真。
南側の一角に兵舎や格納庫の建物が写ってます。
戦後、北伊勢陸軍飛行場の跡地は滑走路敷地は畑地や住宅地・古河電気工業の敷地に、兵舎等の敷地は川崎小学校等の敷地となっています。
37北伊勢陸軍飛行場掩体壕1










まずは有名な遺構である北伊勢陸軍飛行場掩体壕へ。
39北伊勢陸軍飛行場掩体壕3










北伊勢陸軍飛行場唯一のコンクリート製掩体壕で、完成直前で終戦を迎えたようです。
40北伊勢陸軍飛行場掩体壕4










北伊勢陸軍飛行場の遺構ではほぼ完全に残されたものであり、国登録有形文化財となっています。
42北伊勢陸軍飛行場掩体壕内部










内部は相当広いです。こちらもやはり物置に。
46北伊勢陸軍飛行場の旧建物か1










掩体壕を後にして格納庫のあった南側へと向かう途中、元滑走路敷地内に見つけた古い木造建物。
47北伊勢陸軍飛行場の旧建物か2










北伊勢陸軍飛行場の建物だったかは分からないが、建物も基礎のコンクリートも戦前の物ではないかと思う相当古いので、もしかしたら再利用したものではないかと思い撮影。
48北伊勢陸軍飛行場の旧建物か3










さらに南に下った先、格納庫跡の近くにあった建物。
49北伊勢陸軍飛行場の旧建物か4










壁部分は新たにコンクリートブロックで造ったものだが、屋根部分は明らかに戦前ではないかと思われる古い造り。こちらも北伊勢陸軍飛行場と関係あるものかは分からないが、再利用している可能性もあるので撮影。
50北伊勢陸軍飛行場駐機場か










駐機場だったと思われる場所。現在は何もありません。
51北伊勢陸軍飛行場格納庫支壁










第一格納庫の支壁。かつてはこのコンクリートの壁の上に木造の格納庫の躯体が乗っていたようです。北伊勢陸軍飛行場の格納庫は9つあり、鉄骨造の1棟を除いてあとは全て木造でした。
52北伊勢陸軍飛行場燃料庫










川崎小学校西側の畑地に残る燃料庫。以前は2棟並んであったようですが、南側は宅地として造成されたせいか、もう1棟は失われていました。
53北伊勢陸軍飛行場正門










川崎小学校の正門となっている北伊勢陸軍飛行場正門。この奥の小学校敷地にかつては兵舎が建ち並んでいました。ちなみに兵舎の一部が移築され公民館として使用されていますが、時間(と体力)の都合で今回は断念。

今回の行程は総距離15km。結構疲れましたが有意義な探索となりました。


besan2005 at 10:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年01月19日

京田辺市・三山木海軍火薬製造所跡探索レポ日記

航空写真









本日は京都府京田辺市にある三山木海軍火薬製造所跡の遺構群を探索してきました。
三山木海軍火薬製造所は元々は大正10年に設立した大日本火薬工業という民間企業で、第一次大戦後に倒産しましたが、山城火薬が引き継ぎ操業をしていました。大日本火薬工業も山城火薬も海軍からの払い下げの火薬を使用して製品を製造していたため、民間企業ではありましたが軍との密接な関係にあり、アジア歴史資料センターの資料では頻繁に陸海軍の軍人が視察に訪れています。
満州事変勃発後は軍の火薬の消費が大幅に増え、火薬の払い下げが受けられなくなったため、日曹火薬に吸収されました。そして昭和19年に海軍に移管して海軍直営の火薬工場になった・・・と手持ちの書籍にはありますが、どうやら海軍の直営ではなくフォロワー様によれば昭和18年に関東電気興業という企業に買収され昭和19年に軍需工場に指定されたそうで、舞鶴にあった第三火薬廠の指導の下に製造していたようです。つまりは海軍の指導と委託を受けて火薬製造をしていた民間企業の工場だったという事になりましょうか。ここでは一応「三山木海軍火薬製造所」と呼称しておきます。
昭和23年航空写真







国土地理院公開の昭和23年米軍撮影の三山木海軍火薬製造所の航空写真。三山木海軍火薬製造所は終戦後に閉鎖されたようですが、当時の写真では諸施設がはっきり写されており、現在も山中に当時の施設の遺構が良好な状態で残されています。今回はそれらの遺構群を探索してきました。
三山木工場 地図









※お世話になっているフォロワーさんの盡忠報國様(ブログ・大日本者神國也)より提供を頂いた図面を元に探索した遺構群を紹介していきます。
1三山木海軍火薬廠道










京奈和道の高架をくぐり少し進むと(それまでにある釣池と京奈和道との間に事務所跡の石垣があったようですが見当たりませんでした。)酷い藪が。薮の中を何とか突き進むと開けて広い道に出ます。これが火薬工場へと向かう道でした。
2三山木海軍火薬製造所貯水槽










3三山木海軍火薬製造所貯水槽










薮を抜けてすぐの道の側にある貯水槽(地図に記載は無し)。火薬工場の本体からは結構離れているので三山木海軍火薬製造所のものかは分かりませんが、コンクリートの打設の感じや質感を見ると戦前の物のように見えます。
4三山木海軍火薬製造所火薬庫前広場










さらに進み、途中で東に折れ進んでいくと開けた場所に出ます。この道を挟んだ両側に防爆壁の土塁に囲まれたコンクリートの火薬庫の遺構が残されています。
5三山木海軍火薬製造所北火薬庫










北側の火薬庫(地図 法H床したコンクリート造の火薬庫が残されています。
6三山木海軍火薬製造所北火薬庫










反対側から。どうも意図的に破壊されたようにも見えます。
7三山木海軍火薬製造所北火薬庫窓










火薬庫の窓。窓の木枠が残されています。
8三山木海軍火薬製造所北火薬庫貯水槽










火薬庫の脇には小型の貯水槽があります。防火水槽でしょうか。
9三山木海軍火薬製造所北火薬庫土塁










火薬庫を囲む防爆壁の土塁はコの字の中にTの字の形で仕切りのように配置されており、入り口部分はまるで中世城郭の食い違い虎口のようです。
10三山木海軍火薬製造所南火薬庫土塁










次に向かいの南側の火薬庫へ。
11三山木海軍火薬製造所南火薬庫










南側の火薬庫(地図)。こちらは屋根が失われてますが、躯体のコンクリートの壁は完全に残されています。
12三山木海軍火薬製造所南火薬庫










反対側から。火薬庫という性質上、屋根は薄めに作って爆発事故が起きた際に爆発エネルギーが上に抜けるようにしたのでしょう。窓が多いのも壁に圧力をかけず窓から抜けるようにしたのかも。
13三山木海軍火薬製造所南火薬庫土塁










隣の区画の火薬庫へ。
14三山木海軍火薬製造所南火薬庫










15三山木海軍火薬製造所南火薬庫










こちらの火薬庫(地図ぁ砲盒軋里牢袷瓦忙弔気譴討い泙后K迷Δ硫侈庫だけ何故破壊されたのでしょうか。こちらも北側の火薬庫と同じく脇に防火水槽と思われる貯水槽がありました。
16三山木海軍火薬製造所道路土塁










 銑い硫侈庫を過ぎ、真っ直ぐに伸びる道路を進んでいきます。道の両側には区画を分けるためと思われる土塁が延びています(地図に記載なし)。地形的に平坦地が続き何かしらの整地の後が見られたため、土塁の向こう側に工場施設が並んでいたのではと思いましたが、昭和23年の航空写真には何も写されていません。
17三山木海軍火薬製造所火薬庫への道










しばらく進むと分かれ道に到達。そこから北に延びる道を進みます。最近伐採された後があり、道は切り開かれていて容易に進めました。地元で見学会等が行われていたのかその際の伐採と思われ、何はともあれ有難いことです。
18三山木海軍火薬製造所煉瓦造入り口










道を進んで最初に現れる煉瓦造の入り口(地図ァ櫂◆法
20三山木海軍火薬製造所煉瓦造入り口










反対側の土塁区画内部から。
19三山木海軍火薬製造所煉瓦造入り口退避所










煉瓦の躯体は一部が凸型にへこんでいます。これは後述する退避所と思われます。爆発事故の際にエネルギーがトンネルに抜ける際に脇へ退避する場所のようです。しかしここはトンネル型ではない煉瓦造の出入り口。もしかしたら古い時期の遺構なのかもしれません。
22三山木海軍火薬製造所火薬庫道










先述の煉瓦造の遺構から道の両脇に防爆壁の土塁が延び、それぞれコンクリートのトンネルが8ヵ所開けられ、地図Α銑の火薬庫があった区画へとそれぞれ進入できるようになっています。
23三山木海軍火薬製造所火薬庫隧道










火薬庫へのコンクリート造のトンネル(地図-イ)。トンネルの前には袖壁が出ています。
24三山木海軍火薬製造所火薬庫隧道内部










トンネル内部。
25三山木海軍火薬製造所火薬庫隧道退避所










トンネル内部は凸型にへこんでおり、ここは爆発事故の際に退避する退避所のスペースだったようで、手前に溝が掘られており、ここに退避所に入る木製の扉があったと思われます。しかし、爆発事故の際、ここに逃げ込む余裕があるのでしょうか・・・
26三山木海軍火薬製造所火薬庫道










北東側から道路と防爆壁のトンネルを望む。手前のトンネルは地図-ケ。トンネルは8ヵ所あり、全て同じ構造になっています。両脇に並ぶ防爆壁とトンネルは圧巻で見ごたえがあります。
27三山木海軍火薬製造所貯水槽










北側に折れる道を進んでいくと田の字型のコンクリートの貯水槽があります(地図㉔)。
28三山木海軍火薬製造所貯水槽










薮に覆われ見づらいですが、田の字型の大きな貯水槽が2つ並んでいます。
この近くに土塁に囲まれた一画があるようですが、藪で確認できず。また、さらに進んだ所にも遺構があるようですが、めぼしい感じではなさそうなのでスルー。
29三山木海軍火薬製造所南火薬庫










来た道を戻り、南側にある田の字型の火薬庫群(地図〜院砲悄ここも前述のようなトンネルを持つ防爆壁に囲まれた場所のようですが、進入路すら確認出来ない有様。諦めてその東にある遺構(地図押砲惴かいましたが、進入路は確認できたものの、ひどい藪で進めず…
31三山木海軍火薬製造所南火薬庫航空写真










Googleの航空写真では2ヵ所ともはっきり写っているので、確認できると思ったのですが…
30三山木海軍火薬製造所残骸










近くにはかつての火薬庫か施設らしきコンクリートの残骸が放置されていました。
さらに西側の遺構(地図)の遺構を目指すも結局わからず断念。
いつくかの遺構を確認することが出来ず残念な結果もありましたが、良好に残る貴重な火薬製造所の遺構を見ることができ満足しました。
しかし、伐採された箇所も笹竹なので1年もすればまた元通りになることは明白。南側の遺構も含めて伐採作業が継続されれば有り難いのですが中々難しいでしょうね・・・。
何とかこれらの遺構を活用する手があればよいのですが。


besan2005 at 22:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月06日

福知山・旧工兵第十大隊境界石レポ日記

2018年の年末から年明けの旧軍遺構探索レポ日記の最後は、福知山工兵第十大隊の背後の山中にある陸軍境界石のレポ日記といたします。
陸軍省所轄地境界石位置







境界石の位置関係。かつて工兵第十大隊の敷地だった場所にある福知山成美高校の背後の山中に残されていました。ここの山中を探索した理由ですが…・
9福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










以前ツイッターで「工兵の演習陣地」が残されているという情報を知り、この遺構を全く知らなかった私は興味を引かれ、是非探索してみたいと思い工兵の演習陣地なら背後の山中にあるのだろうと想定をして向かったのでした。
・・・結局この工兵の演習陣地はここには無く、全く別の場所にあったわけですか。
改めて情報の発信元の方に凡その場所を教えてもらい、年明け1月2日に無事探索することが出来ました。その時の探索レポ日記を書いてますのでリンクを貼っておきます。

福知山市・陸軍演習陣地跡探索レポ日記

演習陣地は要塞に見立てた煉瓦の壁だけでなく演習用陣地としての土塁や空堀を備えた見事な遺構で貴重なものと思われました。

さて、その演習陣地を求めて福知山成美高校の山中に入ったわけですが、目当ての物は全く別の場所だったので当然見つけられなかったものの、副産物的に陸軍境界石を3つほど確認することが出来ました。
15工兵第十大隊境界石













1つめ。「陸軍省所轄地」の文字が刻まれた境界石。「地」の部分が埋もれています。
16工兵第十大隊境界石













2つめ。こちらも「陸軍省所轄地」の文字。同じタイプ。
17工兵第十大隊境界石










3つめ。こちらも同じタイプ。倒れ掛かってます。
これら3つの境界石はだいたい数十メートル間隔で並んでおり、現位置を保った貴重なものだと思われます。
旧工兵第十大隊の境界石はいつも参考にさせてもらっているサイトによると、この「陸軍省所轄地」の境界石の他に「陸境」の文字のもあるようです。その辺はまたいずれ。

工兵第十大隊は大正14年に宇垣軍縮で岡山に移駐し、工兵大隊跡の建物は長田野に演習に来た部隊の演習廠舎となり大阪の第四師団の管轄下となります。
Dov11BEUUAEt1Zf













祖父の軍人日記(昭和14年9月21日)にも「工兵営から(演習に来ていた)歩兵七十連隊(篠山連隊)が行軍してきた」とあります。
14工兵第十大隊兵舎










戦後、現在の福知山成美高校に払い下げられますが、現在も兵舎の一部や将校集会所と思われる建物が残されています。
工兵第十大隊営門001








かつては福知山成美高校のグラウンドの北側、JR官舎の側に北門と思われる煉瓦の営門の門柱がありました。今回10数年ぶりに確認しましたが、一帯が再整備されたせいか、門柱も失われていました。
実は私が中学生の頃、まだ福知山商業高校時代に受験で入ったことあるのですが、その当時はまだ大隊本部が残されており、内部も階段の手すりや室内がほぼ旧軍時代のままだったのを覚えています。今にして思うと少しでも写真を撮っておけばよかったなと悔やむばかりですね。


besan2005 at 07:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月05日

福知山海軍航空基地(石原飛行場)遺構探訪レポ日記

石原飛行場配置図








※画像は日吉コミセンの説明板より。福知山海軍航空基地の配置図。
去年(2018年)の大晦日に福知山市にかつて存在した海軍福知山航空基地の遺構を探索してきました。
福知山海軍飛行場は戦争末期の昭和19年10月に用地買収が始まり、昭和20年6月にようやく滑走路が完成しました。滑走路は金網で覆った上にコンクリートで舗装をした大規模なもので、戦後に返還され農地へと戻そうとした際、かなり苦労したようです。飛行場の敷地は石原地区と土地区にまたがる広大なものでした。
福知山航空基地米軍写真






※国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。
昭和22年米軍撮影による空撮。長大な滑走路と周りに無蓋掩体壕が見られます。
現在遺構はほとんど残っておらず、一部が移築された搭乗員退避壕と完全な形て残されている飛行場指揮所壕、格納庫と言われている工場の建物が残る程度です。(一部山中に壕があるようですが。)
今回は石原地区の飛行隊指揮所壕と格納庫と言われている建物を訪問してきました。
1福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕










石原地区の竹林の中に大きなコンクリート構造物が見えます。これが福知山航空基地の飛行隊指揮所壕です。
2福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕迷彩跡










コンクリート壁には黒色の迷彩塗料が残されています。
3福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕西入り口










西側入り口。壕の入り口の前には防禦用の壁があります。
6福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕東入り口










東側入り口。西側と同じ造りでシンメトリーとなっています。
4福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕西入り口通路










西側入り口から通路。当然中は真っ暗で、こういうのが苦手な私は最初の一歩を踏み出すのが中々・・・
5福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕内西から










飛行隊指揮所壕内部。西側からの撮影。内部は中々の広さです。かつては福知山航空基地の海軍航空隊の司令施設があったのでしょうが、今ではコウモリの巣になってます(個人的にコウモリも苦手・・・)
それよりも目立つのが壁の落書き・・・。地元の若者というかDQNが肝試しの際に書いたのでしょうが、他の旧軍遺構でも「心霊スポット」という馬鹿げた噂でやって来た価値の分からない輩にこういった貴重な遺構が荒らされるのは許しがたいものがあります。そういえば舞鶴第三火薬廠の成形工場の壁にも落書きがあるらしいし…。
7福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕内東から










東側からの撮影。左上の壁に換気口の穴があります。こういう場所が個人的に1人ではどうも苦手なので奥には入らず。
福知山海軍航空基地飛行場指揮所平面図







飛行隊指揮所壕の平面図。だいたいこんな感じでした。
8福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕土塁










飛行隊指揮所壕の周りには土塁が築かれています。
現在、福知山海軍航空基地の遺構で完全に残されているのはこの飛行隊指揮所壕のみですが、かつては土地区の畑の中にコンクリート造の搭乗員退避壕がありました。
13石原飛行場跡待避所










※2005年頃の撮影。
畑の中にこのような蒲鉾型のコンクリートの壕がぽつんと残されていました。中を覗いたり上に登ったりした遺構でしたが撮影したのは1枚だけ。この後解体されることを知ったらもっと撮影していたのですが・・・。現在入り口の部分だけが日吉コミュニティーセンターの敷地に保存されています。

次にスーパーなどの商業施設が並ぶ一角の背後にある福知山海軍航空基地の格納庫と言われている建物を訪問。
9福知山海軍航空基地格納庫










10福知山海軍航空基地格納庫










11福知山海軍航空基地格納庫










こちらが格納庫と言われている建物ですが詳しくは分かりません。可能性があるという程度。
確かに建物の形はそんな雰囲気に見えますが。
昭和20年9月 引渡目録並要図 福知山航空基地2













※アジア歴史資料センター所蔵「昭和20年9月 引渡目録並要図 福知山航空基地」より引用。
アジア歴史資料センターの資料の引き渡し目録によると、福知山海軍航空基地には海軍の局地戦闘機の紫電一一型と紫電二一型。「白菊」など海軍の練習機。そして陸軍の練習機も配備されていたようです。


besan2005 at 10:23|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月02日

福知山市・陸軍演習陣地跡探索レポ日記

福知山陸軍演習陣地見取り図001









ツイッターでのフォロワーさんより教えていただいた福知山市にある陸軍での演習に使われていたと思われる陣地の遺構群。そこには煉瓦造の城壁に見立てた壁が残されていると聞き、具体的な場所を教えてもらい探索してきました。この遺構に関しては、まず知られていない旧軍遺構であり、私自身初めて知った遺構でありました。上図は帰宅後に記憶を頼りに作図した福知山・陸軍演習陣地跡見取図。思い出しながらの作図なので正確だとは言えませんが、だいたいこんな感じだったと感じていただければと思います。
工兵作業場地図001










昭和3年の地図を見るとこの場所は「旧工兵作業場」と書かれています。
(画像は所有する福知山五万分の一地形図より。)
福知山にはかつて現在の福知山成美高校の場所に工兵第十大隊がありましたが、大正14年に移駐しました。工兵第十大隊が駐屯していた頃は陣地攻略の演習場として利用されていたと思われますが、移駐後の昭和4年の地図には「旧工兵作業場」の表記となっており、昭和戦前期も利用されていたかはわかりません。
1福知山市陸軍演習陣地大穴










当初煉瓦遺構があると想定した場所へ進入すると陣地構築であろういくつかの地形の改変があり、その東側に大きく掘りくぼめた箇所がありました。
2福知山陸軍演習陣地大穴










何の用途で掘られたのかは不明ですが塹壕のようなものだったのでしょうか。
3福知山陸軍演習陣地空堀










先ほどの大穴から東に進むと長細く掘りくぼめた箇所が。いわゆる空堀状になっており、空堀の両脇は土塁となっています。
7福知山陸軍演習陣地空堀










反対側からの撮影。左側が南になります。
4福知山陸軍演習陣地北土塁










北側の土塁。所々切れ込みが入っています。
5福知山陸軍演習陣地南土塁










南側の土塁。道路に面した部分で土塁上から空堀を眺めるとそこそこの高低差があります。
ここの空堀と土塁は日露戦争で悩まされた旅順要塞に見られた要塞や陣地の空堀を想定としたもののような気がします。日露戦争時、突撃により空堀の底に進入して身動きが取れなくなった日本軍に対し、ロシア軍は機関銃を浴びせ次々と倒されていきました。この演習陣地が何時作られたのかは不明ですが、この空堀の底から南側の土塁上に向かって這い上がっていく訓練がされていたのではないでしょうか。
6福知山陸軍演習陣地北通路










空堀の突き当りの端には細い道のような部分がありました。
8福知山陸軍演習陣地通路か










一旦戻り、最初の大穴の西側へ行くと、陣地遺構のある丘陵へ進入できる道がありました。当時の物かは不明ですが、右側の斜面の整地の丁寧さを見るともしかしたら陣地時代に作られたものかもしれません。
9福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










先ほどの空堀のある丘陵一帯に目指す煉瓦の構造物があるのではと探索しましたが見つからず、一旦道路に出て北東に向かって丘陵を眺めながら歩いていると丘陵上に何か構造物が。山中に進入して見ると遠くに煉瓦の壁が。目的の煉瓦の構造物に辿り着くことが出来ました。
11福知山陸軍演習陣地煉瓦壁下土塁










煉瓦の構造物は丘陵の最高所に構築され、煉瓦構造物の正面に当たる位置の麓にはコの字に作られた土塁の陣地がありました。
10福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










高所にある煉瓦壁。
12福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










反対側から。煉瓦壁は南北に2つ並ぶようにに建っています。
14福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁










北側の煉瓦壁。
16福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁銃眼










壁には銃眼と思われる穴が1つあけられていますが、煉瓦の積み方が丁寧な割に銃眼は雑に開けられています。
17福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁穴










何かを取り付けていたらしき4つの穴。
15福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁










南側の煉瓦壁。
18福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁銃眼










こちらは縦長の銃眼が3つ開けられています。
北側の煉瓦壁の銃眼と同じく雑に開けられています。
あと、何かを取り付けていたような貫通しない穴がいくつか開けられています。
13福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁上部










南側の煉瓦壁の上部は屋根のように三角の山型になっており、モルタル塗りになっています。
IMG_0678










煉瓦壁の背後は兵が駐屯できるように周りを削り込み平地に加工した地形になっています。
19福知山陸軍演習陣地個人塹壕か










煉瓦壁のある陣地の前方を守るコの字型の土塁の南には小規模の穴が並ぶ箇所がありました。個人用の塹壕でしょうか?
煉瓦陣地













これらの遺構群をまとめてみると、この演習陣地での攻め手と守り手の位置関係はこんな感じではないでしょうか。青色の攻め手は個人塹壕から飛び出し最初のコの字型の土塁を突破し切岸の斜面を登り切り要塞に見立てた煉瓦壁のある高地を制圧する。オレンジ色の守り手は土塁と高地の煉瓦塀の箇所に兵を配置して攻め手を防ぐ。そんな感じの攻城戦の演習が行われていたのではないでしょうか。
実際に私も麓から最初のコの字型土塁陣地を越え切岸の斜面を登り高地の煉瓦壁の要塞まで攻めてみましたが、二百三高地のミニミニ版みたいに感じました(笑)。ただ、ここが昭和4年の地図では「旧工兵作業場」となっているため、工兵による陣地破壊の演習がされていたのかもしれません。IMG_0689











今回探索した福知山市の煉瓦壁のある演習陣地、ほとんど知られていない遺構で煉瓦の感じから恐らく大正時代までに作られたものと思われますが、昭和4年の地図にこの辺りは「旧工兵作業場」の文字が書かれている以外、使われていた時の記録や実際いつまで使用されていたのかなど具体的な事は分かりません。工兵による陣地破壊の演習はもちろん、長田野演習場にも近いことから、20連隊を初めとした歩兵による攻城戦の演習にも使用されていたのかもしれませんが、記録等は不明でこの遺構に関しての具体的な事は分かりませんし「旧工兵作業場」と書かれているため、昭和に入っても利用されていたかはわかりません。ただ煉瓦壁を始めとした演習陣地の遺構群を見る限り、日露戦争時の旅順要塞の攻略戦を意識したように感じ、当時の要塞への攻城戦に対する軍の考え方を知る貴重な旧軍遺構に思えました。現在は山中に放置された状態とはいえ立地的にも見学しやすい場所ですし、可能なら貴重な旧軍遺構として公園化して保存し説明板等の設置などの整備をして欲しいところですが・・・。

※追記。
国立公文書館アジア歴史資料センターにこの工兵作業場についての資料がありました。
まずは用地買収の件。
福知山工兵隊作業場用地買収の件1













福知山工兵隊作業場用地買収の件2













※アジア歴史資料センター所蔵「福知山工兵隊作業場用地買収の件」より引用。
この資料によれば、明治32年に現在の福知山市長田の民有地を買収したとあります。
となると、この遺構はだいたい明治後期から末期(恐らく日露戦争直後くらい)に作られたと思われますが、この遺構のある場所が買収用地とは少し違うのが気になります。ただ、この資料の買収の土地は次に紹介する「甲地」だった可能性があります。
工兵作業場は大正4年頃に一部が民地と交換となっています。
福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件1













福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件2













福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件3













※アジア歴史資料センター所蔵「福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件」より引用。
この資料によれば工兵作業場は甲乙とに分かれており、甲地は兵営から遠く往復に時間を要し、乙地は敷地が広大で作業場内に民有地が介在し、演習上障害となる上に民間人の出入りがあるので、民有地の買収が必要となるが、比較的重要ではない甲地と乙地内の民有地とを交換する条件を出すことにより、乙地内の民有地を取得したいと書いてあります。このことにより乙地の作業場の価値が増大する期待が持てるとも書いてますので、乙地は陸軍にとってそれなりに利用価値を認めていた場所のようです。
今回探索した演習陣地は昭和4年の地図の「旧工兵作業場」の表記から大正4年の民有地交換後も残された乙地の中にあったものと思われます。大正14年に工兵第十大隊は岡山に移駐し福知山には工兵部隊がいなくなりましたので、工兵作業場は「旧工兵作業場」としてそのまま陸軍の管轄地だったのではないかと思われます。


besan2005 at 13:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新のお客様のご意見