2021年09月12日

舞鶴朝来第三海軍火薬廠工員宿舎街(朝来中地区・吉野地区・鹿原地区)遺構探索レポ日記

工員宿舎街位置図








現在の舞鶴市の朝来地区一帯(日本板硝子工場〜舞鶴高専の奥の谷地)には朝来第三海軍火薬廠という広大な海軍の火薬工場がありました。戦後は払い下げられ、工場や学校、住宅地となりましたが、現在も多くの火薬廠時代の建物や遺構が残されています。特に舞鶴高専周辺の第二製造部は立地からそのまま放置され、多数の遺構が廃墟の状態で残されています。
旧海軍朝来第三火薬廠・空気炸薬成形工場・砲炸薬整形工場
舞鶴朝来第三海軍火薬廠第二製造部遺構探索レポ日記
※過去の記事。10年前の記事なので情報が古いです。近いうちに新たに確認した遺構などを追加して更新します。
また、日本板硝子工場の周辺にもいくつかの遺構が残されています。
舞鶴市・第三海軍火薬廠第一製造部遺構探索レポ日記
今回は新たに確認した工員宿舎街の遺構を探索・調査してきました。

まず向かったのは、朝来小学校の北側にある朝来中地区。ここは昭和22年の航空写真で明らかに第三火薬廠建設に際して区画整理されたような街割りとなっており、以前から目を付けていたエリアでした。
昭和22年朝来中地区・吉野地区












昭和22年米軍撮影航空写真(国土地理院HP公開写真より引用)
実際に現地を探索しましたが、かなりの数の工員宿舎が現存していることが分かりました。
この朝来中地区は舞鶴市の軍用地を示した資料にも、第三海軍火薬廠の研究資料にも未掲載の全く新たに確認出来た工員宿舎街となりました。

朝来中地区工員宿舎街遺構配置図








朝来中地区工員宿舎街遺構配置図。以下のレポはこの配置図に沿って書いていきます。

1朝来中工員宿舎1










工員宿舎街
当時の面影を生かした外観に改修されています。
工員宿舎1










中々いい雰囲気です。

2朝来中工員宿舎2










工員宿舎
民家となり外観の変更はありますが、おおむね当時の面影を残しています。

3朝来中工員宿舎3










工員宿舎
工員宿舎3










こちらは荒れていますが、一部当時の面影を残しています。

4朝来中工員宿舎4










工員宿舎
建物自体は半分に切り詰められているようです。ただ、外観は当時の面影を残しています。


5朝来中工員宿舎5・6










工員宿舎ァΝΑ
外観の改修はされていますが、プランは当時のままのようです。

7朝来中工員宿舎7







工員宿舎
外観・プラン共に当時のオリジナルの姿をよく留めています。

7朝来中工員宿舎8










工員宿舎
切り詰めた宿舎を集会所として利用されています。

8朝来中工員宿舎9










工員宿舎
外観、プランとも一番オリジナルの姿を残している宿舎です。
9朝来中工員宿舎9










反対側から。

9朝来中工員宿舎10










工員宿舎
切り詰めて増築されているため、面影は余りありません。

10朝来中工員宿舎11










工員宿舎
手前の建物に面影が残されています。

11朝来中工員宿舎12










工員宿舎
工員宿舎に次いで当時の面影を残す建物。
工員宿舎12










窓部分。

ところで、この朝来中地区を探索中に住民の方から声を掛けられました。何をしているのかと尋ねられ、第三海軍火薬廠の工員宿舎について記録をしていると話したら、理解をして頂き、貴重な詳細なお話を聞くことが出来ました。
この住民の方(以下、Sさん)も元工員宿舎に現在もお住まいで、奥様はかつてここで生活し、第三火薬廠に通っていたという方です。まず、大浴槽の跡を見せて頂きました。
12大浴場1










大浴槽跡。屋根は戦後に造られたもので、かつては大きな大浴場の建物があったとか。
13大浴場2










大浴槽の内部。かなり大きいです。10人くらいいっぺんに入れそうな規模です。
14大浴場3










現在は金魚や鯉を飼う水槽になっています。手前に浴槽へと入るための段が見えます。
Sさんからこの朝来中地区工員宿舎街について色々とお話を聞かせてもらいました。

〇昭和18年に第三海軍火薬廠が造られ、この朝来中地区工員宿舎街が造られた時、各宿舎に配水をするための貯水槽が山に設けられた。戦後、払い下げを受け住民が生活を始めたが、戦前より格段に水の使用量が増えたために既存の貯水槽では賄えなくなり、市が新たに上水道を設置した。
〇工員宿舎の建物は当初10年持てばいいと建てた大工が言っていたそうだが、70年以上経った現在でも住宅として使用され続けている。恐らく国産材を使っているからだろう。
〇第三海軍火薬廠第二製造部(舞鶴高専とその付近一帯)建設で立ち退きをされた住民の一部が戦後、払い下げを受けた工員宿舎に移り住んだ。
〇朝来中地区工員宿舎街でも一段高い位置(工員宿舎の向かいあたり)には偉い人(下士官か?)の住居があった。
等、貴重なお話を聞かせて頂きました。最後に「いずれ無くなるからしっかり記録を残して欲しい」とおっしゃっていただきました。Sさん、ありがとうございました。
この後、Sさんから聞いた山にある貯水槽へ。
15貯水槽1










貯水槽〜陲吠い錣貶かりづらいですが、見た感じ、開放型ではなくコンクリートで上部も覆った箱型になっているようです。
16貯水槽2










貯水槽◆F韻献織ぅ廚涼水槽が2つ並んでいます。
実は先ほどのSさんより重要な情報を聞いており、朝来中地区から南に約2.5km離れた場所にある鹿原地区も元工員宿舎街で、当時の建物が残っていると聞きました。鹿原地区については全くのノーチェックで、朝来中地区と同じく舞鶴市の資料にも第三海軍火薬廠の調査資料にも載っていない箇所。朝来中地区の調査を終えた後、鹿原地区へと向かいました。

その前に青葉山ろく公園に近い場所にある、吉野地区工員宿舎街へ。
昭和22年朝来中地区・吉野地区












第三海軍火薬廠の調査資料には、官舎となっています。
17吉野地区工員宿舎か










吉野地区には当時の建物と確定できる建物は一切残っていません。唯一怪しい木造の建物がありますが、昭和22年の航空写真を見てもこの場所には建物は無く、移築された建物の可能性があるとだけしておきます。
19吉野地区地下壕










北側の山裾に地下壕(防空壕)が残されています。
18吉野地区地下壕










だいぶ崩落しているようです。
鹿原地区・吉野地区工員宿舎街遺構配置図










吉野地区の背後の山には岡安支城という中世の砦跡があり、戦時中は第三海軍火薬廠を防衛するための防空機銃砲台があり、現在も数基の円形土塁状の砲座が残されているようです。

そして、Sさんに教えてもらった鹿原地区工員宿舎街。
昭和22年鹿原地区












昭和22年の米軍撮影航空写真(国土地理院HP公開写真より引用)
確かに新しく区画整理された箇所ですが、第三海軍火薬廠から割と離れていることから全くのノーチェックでした。
鹿原地区・吉野地区工員宿舎街遺構配置図










実際に探索すると、こちらも多くの工員宿舎が残されていました。今回は比較的当時の姿が保たれている建物を記録しましたが、増改築により大きく改変を受けているものの、工員宿舎の一部が使われている建物を含めると地区の半数の建物が現存していることになります。
19鹿原地区工員宿舎1










工員宿舎
鹿原地区工員宿舎街で一番当時の姿を残す建物。これには驚きました。
20鹿原地区工員宿舎1










裏側。規模、外観、プランとも、朝来中地区にあった工員宿舎とほぼ同じであり、他地域に残る海軍工廠等の工員宿舎とも同じ造りです。
22鹿原地区工員宿舎2










工員宿舎
こちらもオリジナルの姿を良く残している建物。
23鹿原地区工員宿舎3










工員宿舎
外観は改修されていますが、面影は残されています。
24鹿原地区工員宿舎4










工員宿舎
こちらも面影が残されています。
25鹿原地区工員宿舎5










工員宿舎
こちらは外観も当時の雰囲気が保たれています。
28鹿原地区工員宿舎5










反対側の妻側。こちらの方がオリジナルの外観に近いです。
26鹿原地区工員宿舎6










工員宿舎
外観は大きく改変されていますが、プランは当時のままのようです。
29鹿原地区工員宿舎7










工員宿舎
外観は大きく改変されていますが、プランはそのままのようです。ただし廃屋なのか荒れています。
記録をした工員宿舎は以上ですが、他にも増改築により大きく改変はされているものの、工員宿舎の一部が取り込まれる形で現存し使われている建物が多数存在しています。

鹿原地区工員宿舎街










舞鶴朝来第三海軍火薬廠の工員宿舎は現存していないと思ってたのですが、今回の調査で多数の工員宿舎の建物が現存していることが判明しました。さらに、舞鶴市の軍用地を記録した資料にも載っていない未確認のエリアでの発見。大きな成果を得ることができました。現存する工員宿舎は多くが現在も民家として使用されていますが、建設からすでに78年余り。老朽化により近いうちに消えている可能性があります。今回のタイミングで少なからず記録に留めることが出来たのは幸いでした。
貴重な証言および鹿原地区の情報を教えて頂いたSさん、ありがとうございました。


besan2005 at 11:43|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2021年09月07日

旧美方郡役所

旧美方郡役所










鳥取市内の近代建築探索からの帰宅の途中に立ち寄った建物。
明治27年、七美郡役所として建てられた洋館です。明治29年に美方郡役所となり大正15年まで使用されました。その後は林業事務所等にしようされましたが、昭和62年に現在地へ移築。
旧美方郡役所










現在は村岡民俗資料館まほろばとして使用されています。
旧出石郡役所







同じ兵庫県北部には酷似した明治25年築の旧出石郡役所の建物があります。


besan2005 at 19:28|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 官公庁・役所

丹波篠山市今田地区・古市地区の近代建築。

西脇市の近代建築の探索の帰り、丹波篠山市郊外の今田地区・古市地区の近代建築を探索してきました。
※西脇市の近代建築探索レポ日記は後日。


旧今田郵便局










旧今田郵便局。今田町下小野原。昭和10年代。

旧今田郵便局










最近までカフェとして利用されていましたが、現在は休業中。

古市の洋館付き住宅










古市地区の洋館付き住宅。昭和初期頃?


旧今田銀行










旧今田銀行。古市。明治期。
旧今田銀行










検索しても出てきませんでしたが、地元の有力者が開業した銀行と思われます。
旧今田銀行の情報は近代建築を取り上げた某ブログより。
旧今田銀行










旧今田銀行の建物は擬洋風建築といった感じでしょうか。窓周りが洋風ですね。
旧今田銀行










一見すると町屋か商家風の建物ですが、角に入り口を設けているところが普通の商家建築とは違う点ですね。
旧今田銀行










旧今田銀行の鬼瓦。水の文字があります。防火のおまじないでしょうか。
現在は民家として使用されていますが、明治期の地方の擬洋風建築の小銀行建築として、貴重な存在です。

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2021年08月29日

宮津市・第三十一海軍航空廠官舎、工員宿舎遺構探索レポ日記

第三十一海軍航空廠周辺位置図










京都府宮津市ある栗田半島一帯にはかつて舞鶴海軍航空隊および第三十一海軍航空廠がありました。
うち、第三十一海軍航空廠は昭和18年に水上機の生産工場として設立した海軍工廠で、現在の関西電力エネルギー研究所の敷地にありました。航空廠の本体はエネ研の敷地にありましたが、その周辺に航空廠で働く職員や工員が生活する官舎街や宿舎街がありました。官舎街や宿舎街は第三十一海軍航空廠の開設に伴い新たに造成された街並みで、古くからその場所にあった漁村と違い、碁盤の目に街並みが造られています。
第三十一海軍航空廠の官舎街・工員宿舎街は4ヵ所作られたようで、うち、中津工員宿舎街、女子工員宿舎・官舎街、小田宿野工員宿舎街は過去に探索し、当時の建物が何件か今でも民家として使用されていることを確認しています。

宮津市銀丘地区(第三十一海軍航空廠中津工員宿舎街)探索レポ日記
第三十一海軍航空廠小田宿野工員宿舎街・官舎街・女子工員宿舎探索レポ日記
今回、第三十一海軍航空廠の周辺をGoogleのストリートビューであらためて調べていたところ、これまで未確認の建物の基礎らしい遺構があることを確認。早速現地へ赴き調査をしてきました。

第三十一海軍航空廠官舎・工員宿舎遺構配置図








今回の探索結果。

第三十一海軍航空廠官舎・工員宿舎配置図













確認した遺構の平面図。

結果として想定以上の遺構の残存度で現在主に畑地となってますが、基礎などがそのまま残り、当時の様子を十分うかがい知ることが出来ました。

0官舎街通路










官舎跡・工員宿舎跡へと続く道路。この道路は官舎・工員宿舎を造成する際に造られたもので、現在もこの道に合わせる形で各建物のプランが造られています。

1官舎跡










官舎跡。平面図を参照していただければ分かりますが、規模はかなり大きく、女子工員宿舎の隣にある官舎街の官舎と同規模くらいあります。
10官舎6










※参照。第三十一海軍航空廠官舎。

2官舎跡










官舎跡北棟の一角。ここはコンクリートの床張りが残ってます。

3官舎跡入口










官舎跡入り口。道路に面して開口し、入り口を中心にして左右に棟が伸びています。

5官舎跡勝手口










こちらは勝手口と思われます。段がついてます。

4官舎跡










官舎跡の一部。

15基礎ボルト










官舎跡のコンクリートの基礎にはボルトが残されています。

6工員宿舎跡










道路を挟んで向かいには工員宿舎跡があります。

8工員宿舎跡










工員宿舎跡。ここの官舎・工員宿舎のエリア内には1軒のみ民家があります。ここで偶然出てこられた地元の方から親切にも遺構を案内していただきました。ありがとうございました。
官舎跡・工員宿舎跡はその地元の方による証言です。

7工員宿舎のコンクリート床










工員宿舎跡のコンクリートりの床張り。終戦後に官舎・工員宿舎は取り壊され、畑地にするため多くはコンクリートの床は撤去したそうですが、畑地にされなかった箇所はこのようにそのまま残されています。また、コンクリート床は撤去してもコンクリートの基礎は撤去が困難なこと、作物を栽培するのに特に支障はないことを理由にそのままになっているそうです。
16基礎煉瓦










工員宿舎跡の基礎。工員宿舎の基礎は官舎と違い、煉瓦造にモルタルで仕上げています。
ちなみに配置図に記していますが、工員宿舎跡の北側に大きなコンクリート製の浴槽があり、目視でも確認しましたが、何せこの時期で雑木や雑草が繁茂しまともな写真が撮れなかったので、冬に再訪して改めて掲載しようと思っています。なお、浴槽のあるエリアには他にもいくつか遺構があり、もしかしたら炊事場があった可能性があります。

9洗濯場










工員宿舎跡の南隣にある洗濯場。工員たちが使用していたのでしょう。コンクリート製の洗い場が残されています。

10洗濯場










反対側から。

11消火栓










洗濯場の西側の畑地には消火栓が残されていました。
13消火栓













消火栓には海軍の波マークと錨のマークがあります。舞鶴市の第三海軍火薬廠など工廠の敷地内ではしばしば消火栓が見られますが、宿舎の敷地内では初めて見ました。状態もよく貴重な遺構です。
これも撤去が厳しくそのままにしているのだそう。この下には貯水槽がそのまま残されているはず。

14洗濯場付近外郭










洗濯場の南側の外郭。

14外郭の塀基礎










洗濯場の東側の外郭。外郭ラインには用水路とその内側に塀の基礎と思われるコンクリート基礎があります。塀がコンクリートだったのか木造だったのかは分かりませんが、官舎・工員宿舎のエリアをぐるりと囲むように基礎が残存しており、海軍用地だった官舎・工員宿舎エリアを塀で囲って民地と分けていたようです。

17北へ向かう道










官舎跡・工員宿舎跡から山方向の東へ向かう当時の道。

18貯水槽










道の突き当り、山裾にある貯水槽。かなりの大きさです。
なお、今回は確認しませんでしたが、山側に防空壕か残されている可能性があります。
小田宿野の工員宿舎街には奥の山に防空壕が残されています。

19北側便所










敷地の北端には便所跡が2ヵ所あります。こちらは東側の便所跡。

20北側便所










個室は10個。工員用の便所だったと思いますが、官舎の向かいの工員宿舎からは結構離れてます。

21北側便所汲み取り口










便所跡外側から。手前に見えるのは汲み取り穴。臭突が設置されていたであろう丸い穴も残されています。

22南側便所










西側の便所跡。東側の便所跡と規模は同じ。

23煉瓦残骸










便所跡の南側の空白になっている一帯は、草ぼうぼうだったため今回確認は出来ませんでしたが、何かしら遺構が残されている可能性があります。その道路に面した一角に煉瓦の残骸が残されていました。予想以上の遺構の残存でしたが、舞鶴市所有の第三十一海軍航空廠の配置図には記載がなく、謎となっています。冬の追加探索も含め、今後も調査を続行していく予定です。

※余談。

第三十一海軍航空廠製品タグ













所有している第三十一海軍航空廠の製品タグ。
第三十一海軍航空廠に関して、官舎・工員宿舎の遺構や建物は現在も多数残されていますが、航空廠自体の遺構は地下壕くらいしかなく、また当時の資料も乏しく、他の航空廠と異なり不明な点が多い航空廠であります。


besan2005 at 11:25|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2021年08月09日

鳥取市の近代建築探索レポ日記

鳥取城










2021年8月7日に鳥取市内の近代建築を探索してきました。車で向かい、午前7時30分に鳥取城近くの駐車場に到着。そこから市街地の近代建築を徒歩で探索。炎天下の中、約5時間の行軍という結果となりましたw
1仁風閣










まずは鳥取市を代表する近代建築である仁風閣。実は仁風閣は市街地の探索の後に向かったのですが、こちらでは先に紹介。
仁風閣は池田侯爵の別邸として鳥取城内の旧扇御殿跡地に明治40年完成。後に当時皇太子だった大正天皇の山陰行啓時の御宿所にも利用されました。設計は片山東熊。
2仁風閣










大正期には鳥取市の所有となり、迎賓館や公会堂として使用。国指定重要文化財。映画「るろうに剣心」の武田観柳邸のロケ地としても知られています。
3仁風閣階段










仁風閣階段。
4仁風閣1階










謁見の間だったかな。
5仁風閣大部屋










1階大広間。
6仁風閣1階大部屋










大広間窓。
7仁風閣2階










2階。
8仁風閣食堂










食堂。
9仁風閣サンルーム










2階のサンルーム。明治大正期の西洋館にはつきものですね。
これより鳥取市街地に残る近代建築探索。

10長石邸 西町










N邸。西町。
11長石邸










昭和初期?気になった建物。

12河本邸 湯所町 昭和13年










K邸。湯所町。昭和13年。大規模な洋館住宅です。

13洋風住宅 湯所町










鎧戸のある気になった洋風住宅。湯所町。

14旧鳥取武徳殿 湯所町 昭和6年 置塩章










旧鳥取武徳殿。湯所町。昭和6年。設計・置塩章。昭和46年に移築され天徳寺の本堂として使用されています。県民の建物100選。
15天徳寺庫裏 










本堂の隣にある庫裏。これも移築建物?

16旧鳥取県立図書館 西町 昭和5年 置塩章










旧鳥取県立図書館。西町。昭和5年。設計・置塩章。
17旧鳥取県立図書館










外観保存され、現在は「わらべ館」という展示施設となっています。
18旧鳥取県立図書館










玄関部分。

19コンクリートブロック住宅 西町 昭和初期か










偶然見かけた建物。コンクリートブロックの建物です。西町。
20コンクリートブロック建築










どう見ても戦前の造りにしか見えなくて。
21コンクリートブロック建築










反対側。
22コンクリートブロック建築










玄関にある郵便受け。戦前の建物で良く見られる壁に直接作り付けられたもの。現在は空き家ですが、もし戦前の建築なら、戦前のコンクリートブロック建築として貴重なのでは。コンクリートブロック建築と言えば思い浮かぶのは本野精吾。まさかね・・・。

23五臓圓ビル 二階町 昭和6年










五臓圓ビル。二階町。昭和6年。国登録有形文化財。
24五臓圓ビル










玄関部分の表札。現在も1階は店舗として使用されています。

25旧鳥取刑務所所長官舎 行徳 明治24年










旧鳥取刑務所所長官舎。行徳。明治24年。県民の建物100選。
26旧鳥取刑務所所長官舎










和風の割と質素な建物です。現在は行徳苑という憩いの家として使用。

27浅井商店 寿町










浅井商店。寿町。昭和初期頃でしょうか。2階部分のベランダが特徴的。

28生駒邸 寺町










I邸。寺町。大き目の洋館付き住宅。

29洋館付き住宅 馬場町










洋館付き住宅。馬場町。割と複雑なデザイン。現在はNPO団体が使用しているようです。

IMG_1224










気になった建物。玄関部分の屋根がシャレてます。

30旧尾崎家住宅 栗谷町 大正12年頃










旧尾崎家住宅洋館。栗谷町。大正12年。県民の建物100選。
31旧尾崎家住宅










奥まった住宅地の中にハイレベルの洋館がありました。
33旧尾崎家住宅










2階部分のアップ。いかにも大正期の洋館住宅と言ったところ。
32旧尾崎家住宅










背面。

34石河邸 上町 大正期










I邸。上町。大正期。
35石河邸










比較的大きい洋館ですが、大正期にしては装飾が乏しい。外壁を改修したっぽい。

36旧佐々木家住宅 上町 昭和6年










旧佐々木家住宅。上町。昭和6年。昭和21年増築。鳥取市指定文化財。県民の建物100選。
37旧佐々木家住宅










元は医院として建てられたものの、医院としては使用されずそのまま個人宅に。戦後GHQの接収時に増築され現在に至っています。
40旧佐々木家住宅










現在は樗谿グランドアパートとなっています。
38旧佐々木家住宅













テラス部分は装飾に富み華やか。
39旧佐々木家住宅










内部も当時の面影が残されています。

41洋館住宅 上町










旧佐々木家住宅の隣の住宅も戦前っぽい。

42洋館住宅 上町










旧佐々木家住宅の隣の洋館。結構背の高い建物です。
43洋館住宅










玄関部分。現在は空き家。

44旧医院か 立川町










旧医院の建物か。立川町。旧医院としたのは別の所でよく似た旧医院の建物を見たから。なので、詳細に関しては不明です。

45門脇構造研究所 立川町










門脇構造研究所。立川町。
46門脇構造研究所










昭和初期頃と思われる洋館住宅で、六角形の屋根の小さな塔屋を持つ中々優れた建物なのですが、庭木が邪魔で全体を確認できません。
47門脇構造研究所










かろうじて玄関側は建物の様子を見ることができます。

48卯垣公民館 卯垣










卯垣公民館。卯垣。
49卯垣公民館










偶然見かけた建物。昭和初期頃でしょうか。

52旧歩兵第40連隊兵舎 明治31年










旧陸軍歩兵第40連隊兵舎。立川町。明治31年。県民の建物100選。
53旧歩兵第40連隊兵舎










かつての兵舎が三洋電機の敷地内に2棟残されています。
54旧歩兵第40連隊兵舎










現在、旧陸軍の兵舎が並んで残されている場所はかなり貴重です。
50旧歩兵第40連隊将校集会所 立川町 明治31年










旧陸軍歩兵第40連隊将校集会所。正面の写真は敷地内に入らないと撮影できません。
51旧歩兵第40連隊剣道場 昭和9年










将校集会所の背面にあるコンクリート造の剣術道場。昭和9年。
近年まで他にも連隊本部・大隊本部などの建物が数多く残されていましたが、再開発により現在は失われています。

55旧鳥取高等農業学校本館 南吉方 昭和6年










旧鳥取高等農業学校本館。南吉方。昭和6年。県民の建物100選。
56旧鳥取高等農業学校本館










近年外壁を改修し、現在は企業の事務所として使用されています。

ここまでで徒歩による鳥取市内の近代建築探索は終了。仁風閣へ戻った時点で12時30分。7時30分に出発して実に5時間の行軍。しかも炎天下での徒歩による探索でかなり堪えました。
最初に紹介した仁風閣と鳥取城跡を見学した後、車で郊外の近代建築探索へ。

57円通寺簡易郵便局 円通寺 大正期 昭和6年移築










円通寺簡易郵便局。円通寺。大正期。昭和8年移築。
58円通寺簡易郵便局










元々は倉田郵便局だったのを昭和8年に移築したようです。
59円通寺簡易郵便局










玄関部分。郵便マークがあります。

60旧岸医院 河原町 大正初期










旧岸医院。河原町。大正初期。
61旧岸医院










現在は個人宅ですが、岸医院の表札はそのまま残されています。岸医院は少し離れた場所で今も営業しています。

63旧山陰合同銀行河原支店










旧山陰合同銀行河原支店。河原町。大正4年。
62旧山陰合同銀行河原支店 河原町 大正4年










いかにも大正期の銀行建築といった感じで素敵な洋館。現在は個人宅。ちょっと羨ましいw
この近くに洋風住宅があり、それの撮影で〆たかったのですが、家の前に人が乗った車がずっと停まっていて、残念ながら撮影できず・・・
以上で鳥取市の近代建築の探索終了です。この後はホテルに戻り朝までゴロゴロ過ごしました。

鳥取城大手門










鳥取城にももちろん行きました。これは復元された大手門。鳥取城は失われた櫓などの建物を復元整備する計画があるようです。
鳥取城天球丸巻石垣










鳥取城天球丸の巻石垣。全国でも珍しい球体の石垣です。


besan2005 at 08:58|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 鳥取県 | 近代化遺産

2021年05月27日

舞鶴市・蛇島ガソリン庫遺構探索レポ日記

0蛇島遠景









蛇島は東舞鶴側の舞鶴湾に浮かぶ東西約100m南北約260mの島で、室町時代には逸見氏による蛇島城が築かれた島でした。(現在も城跡遺構が残る。)
明治34年に舞鶴鎮守府が設置されて以後、舞鶴湾は軍港整備が行われ、この蛇島も海軍軍需部のガソリン庫として整備、大正11年に護岸や隧道式のガソリン庫が造られました。
蛇島鳥瞰図







※大正12年に吉田初三郎が描いた舞鶴鳥瞰図の中の蛇島。石積護岸や隧道式ガソリン庫らしきものが描かれている。
蛇島ガソリン庫は終戦まで使用され、戦後はアメリカ軍が接収。その後は国有地となり現在に至ります。近年、日本遺産の関連として市関係者らによる視察等がニュースに取り上げられ、一般公開の計画もありましたが、諸事情により中止。今回、フォロワーさんの尽力により上陸が実現。近畿地方財務局と舞鶴市役所の職員さん同行のもと、フォロワーさん数名と共に蛇島探索を行いました。関係機関の方々、お礼申し上げます。
1蛇島桟橋









チャーターした漁船に乗り10数分。蛇島に到着。当時の石積桟橋(配置図)へと接岸し上陸。当時のビットに縄をつなぎます。
蛇島遺構配置図








※蛇島ガソリン庫遺構配置図。

18荷揚げクレーン台座










桟橋の側にある荷揚げクレーン台座。配置図

19荷揚げクレーン台座









クレーンを固定していたアンカーボルトも残ってます。
20レール跡









そのクレーンから物資を運ぶ際に利用したレールの跡。配置図
蛇島には島の山を東西に貫く形で4本の隧道式ガソリン庫が残されています。
桟橋に一番近い南端のガソリン庫から見ていきます。
3蛇島ガソリン庫1東口









ガソリン庫1東口(配置図)。
13蛇島ガソリン庫1西口









ガソリン庫1西口(配置図)擁壁は石積みでガソリン庫の隧道部分はコンクリートと煉瓦積。
12通気口の塗料









ガソリン庫1の西口の通風孔には青色の塗装がされた木枠が残されていました。
5蛇島ガソリン庫1内部









ガソリン庫1内部。内部はモルタルで仕上げています。本来は隧道の真ん中にガソリンタンクを置くコンクリートの台座がありましたが、戦後に再利用しようとしたのか撤去され脇に置かれています。
トンネルの規模は長さが65〜70m、横幅3.6m、高さ3.5m。
5蛇島ガソリン庫2東口









ガソリン庫2東口(配置図6)。
6蛇島ガソリン庫2西口









ガソリン庫2西口(配置図7)。手前に防爆壁の土塁があります。この土塁は全ての開口部の前に造られています。
7蛇島ガソリン庫3東口









ガソリン庫3東口(配置図8)。
8蛇島ガソリン庫3西口









ガソリン庫3西口(配置図9)。
9蛇島ガソリン庫3内部









ガソリン庫3内部。こちらは台座が撤去されずにそのまま残ってます。かつてはこの台座の上に配管で繋がったタンクが置かれ、ガソリンを保管していたようです。
ガソリン庫4東口










ガソリン庫4東口(配置図10)。こちらは鉄扉が残されています。
※画像は同行のフォロワーさん提供。
9蛇島ガソリン庫4西口









ガソリン庫4西口(配置図11)。こちらも鉄扉が残されていました。
10蛇島ガソリン庫4内部









ガソリン庫4内部。ガソリン庫1〜3の内部はモルタル塗りで仕上げられていましたが、ガソリン庫4は煉瓦の躯体がそのままむき出しになってました。剥がれたような形跡もなく当時からこのままのようですが、理由は不明です。予算的なものでしょうか。
11蛇島ガソリン庫4タンク残骸









ガソリン庫4の内部にはガソリンタンクと思われる残骸が残されていました。
14スリット









ガソリン庫の正面石積擁壁には縦のスリットが入ってます。これは山から流れてきた水を隧道内部に入らないよう逃がすための排水溝です。山からの水はこのスリットを伝い、
15排水口









海側へと延びる排水溝を流れ、
IMG_4686









石積護岸に突き出た土管から海へと排出されます。
16未完成壕









ガソリン庫4のさらに北に横穴が開いてました。新たな隧道式ガソリン庫を作ろうとして中止したものでしょうか。
17コンクリート製土管









その側に当時の物っぽいコンクリートの土管が転がってました。
2蛇島護岸









島の半周は石積護岸で整備されています。報道等ではガソリン庫が造られた大正11年頃としてますが、舞鶴港のいたるところに残る石積護岸が鎮守府が設置されたころの明治後期頃の構築らしいので、この蛇島の石積護岸ももしかしたら先行して造られたものかもしれません。ガソリン庫の以前に何か海軍の施設があった可能性があります。

今回初めて蛇島の遺構を見ましたが、予想以上に状態が良く、確かに一般公開も可能のように思えました。島へ渡る手段など課題もありますが、いつか定期的な公開がされることを望みます。

おまけ。

タンカー1









タンカー2









島を去る前に隣の鳥島を見ていたら1隻のタンカーが通過。
この時は知らなかったのですが、後に流れてきたTLでJMU舞鶴事業所最後の新造船と知りました。
舞鶴海軍工廠開庁以来120年余りの歴史を持つ造船所。その長い造船の歴史をこの日閉じました。
以後、海上自衛隊の艦艇を中心とした修繕所として続くそうです。


besan2005 at 12:08|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2021年05月15日

大垣市の近代建築探索レポ日記

1/9の1日目の岐阜市の近代建築探索に続く2日目は、大垣市の近代建築を探索。

0ホテル1










0ホテル2










岐阜市の近代建築探索を終えて泊った大垣市のビジホ。
ビジホでも旅気分が味わえますね。私的には豪華で広いホテルの部屋より
これくらいの方が落ち着くw
0ホテル朝食







ビジホの朝食。まぁ豪華さは無いけどこれでも十分でした。ワッフルが意外と旨かったし。
さて、大垣市の近代建築探索開始です。まずはホテルの近くの物件から。

1三甲テキスタイル 室村町 大正3年










三甲テキスタイル煉瓦倉庫。室村町 大正3年。
2三甲テキスタイル










結構大きな煉瓦倉庫。
3三甲テキスタイル事務所










三甲テキスタイル事務所。こちらも大正3年の築。装飾に富む立派な事務所。

4看板建築 林町













看板建築の建物。林町。昭和初期頃?

5看板建築










純然たる洋風看板建築ですね。装飾が素晴らしい。
6看板建築










看板が残ってましたが、脱落してて元々の店名が分からず。
ここから国道258号線沿いを南下。
7唐破風のある近代和風建築 藤江町5丁目










唐破風のある立派な和風建築。藤江町5丁目。
8洋風看板建築 藤江町5丁目










洋風看板建築。藤江町5丁目。大正〜昭和初期頃?
9洋風看板建築










装飾は少ないけど、軒周りが戦前っぽいです。
10廃アパート 南頬町










南頬町を歩いていたら見かけた廃アパート。戦前物件ではないですが、何となく惹かれました。
11廃アパート










何となく哀愁を感じる雰囲気でした。
12西濃記念館 大井3丁目










西濃記念館。大井3丁目。大正期? 元西濃運輸の本社屋を移築したもの。
ここからずっと西へ。
13神鋼造機事務所 本今町










神鋼造機事務所。本今町。昭和初期頃? 
良い建物なので近くで見たかったけど、遠い場所からしか無理でした。
ここから再び戻る感じで北上。
14洋風看板建築 船町4丁目










洋風看板建築。船町4丁目。明治〜大正期頃?
15洋風看板建築













数ある看板建築の中でもこれは中々の古さを感じます。明治くらい遡るかも。

16洋館付き住宅 馬場町










洋館付き住宅。馬場町。大正〜昭和初期頃?

17洋館付き住宅










立派な洋館が付属するお屋敷ですが、すでに空き家。いずれ消えてしまいそう…。

18大規模洋館住宅 寺内町4丁目










探索前にGoogleMapで調べていて偶然発見した寺内町の大規模洋館。
昭和初期頃と思われる洋館は物凄く気になってましたが、通りの奥にある上に
明らかに私有地なので、ここからしか撮影できず。

19美濃庄商事 寺内町4丁目










美濃庄商事。寺内町4丁目。昭和初期頃?

20美濃庄商事










和洋折衷な感じの建物です。

21俵町










俵町の商店。

22碧雲堂印鋪 俵町










碧雲堂印鋪。俵町。大正〜昭和初期頃?

23槌屋看板 俵町










柿羊羹の槌屋本店の看板。この彫り物が素晴らしく思わず1枚。
ここから大垣市の中心部へ。

24旧大垣貯蓄銀行 郭町2丁目 昭和2年










守屋多々志美術館。郭町2丁目。昭和2年。

25旧大垣貯蓄銀行










元、大垣貯蓄銀行の建物。大垣市の近代建築でも大型の建物。

26旧大垣貯蓄銀行










角の装飾が良いですね。
次に向かったのは大垣城。

27大垣城天守







大垣城復興天守。大垣城の天守は戦前まで残ってましたが、残念ながら空襲で焼失。
で、その天守のすぐ近くで見つけた建物。

28大垣武徳殿 郭町 昭和13年










大垣武徳殿。郭町(大垣城内)。昭和13年。

29大垣武徳殿










武徳殿とは戦前に全国に造られた剣道場。有名な京都の武徳殿が本部。

30大垣武徳殿










しかし、すぐ近くの大垣城天守が空襲で焼失したのに、この建物は生き残ったのか。
まさに運命は紙一重なんだなぁ。現在は使われずやや荒れてきてます。
空襲を生き延びた貴重な戦前の木造建築、何とか活用して欲しいです。
大垣城を離れ西へ。

31スクラッチタイルの洋風看板建築 神田町1丁目










スクラッチタイルの洋風看板建築。神田町1丁目。昭和初期頃?
こちらも偶然見つけた物件。参考にした他サイトには載ってないもの。

32スクラッチタイルの洋風看板建築










結構立派な建物です。今回の中では武徳殿に次ぎ嬉しい出会い。

33イビデン西大垣変電所 西崎町4丁目 大正10年










イビデン西大垣変電所。西崎町4丁目。大正10年。

34イビデン西大垣変電所










大垣市内でも最大級の近代建築で、三甲テキスタイルの倉庫と並ぶ貴重な煉瓦建築。
足場が組まれていたから修理してるのかなと思ってましたが、ツイッターの情報で、
2021年の2月に解体されてしまったそうです。ギリギリのタイミングで見ることが出来ました。

35養老鉄道 西大垣駅 木戸町 大正2年










養老鉄道西大垣駅。木戸町。大正2年。昔懐かしの木造駅舎ですね。
このあと大垣駅に戻り、大垣市の郊外にある赤坂の近代建築群を探索しようと思いましたが、
13時出発のあと、戻りの電車が16時しかなく断念。結構ハイレベルな洋館がいくつかあるので、
あらためて探索したいと思います。あと、事前に参考にした他サイトにかなり立派な昭和初期頃の洋館住宅が紹介されてて是非見たかったのですが、数年前に取り壊し…。

さて、大垣市で頂いた昼食。
36朝日屋










朝日屋さん。昔ながらの定食屋さんですが、ここは特徴的なカツ丼が有名だそうで。

38朝日屋店内







有名店で人気のため店内は一杯で、通された場所はまんま田舎の民家の座敷w

37カツ丼







朝日屋さんのカツ丼。泡立ったふわふわの卵が乗ったカツ丼は口当たりがよく、
味付けも優しく美味しくいただきました。

besan2005 at 22:08|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

岐阜市の近代建築探索レポ日記

今年の1月9日と1月10日に岐阜県の岐阜市と大垣市の近代建築を探索してきました。
今回は初日の岐阜市の近代建築。岐阜駅に到着して、まずは駅の南側を探索。
1那波邸 加納上本町










N邸。加納上本町。昭和初期頃? 
事前の下調べで参考にしたサイトには無かった偶然見つけた物件。元医院ぽい雰囲気でした。
2廣田邸 加納永井町










H邸。加納永井町。昭和初期頃? 洋館付き住宅。

3西本邸 加納村松町










N邸。加納村松町。大正〜昭和初期頃?  こちらも洋館付き住宅。
再び駅方面へ。
4金津遊郭時代の建物か 加納水野町










旧遊郭の建物? 加納水野町。昭和初期頃?
この辺りはかつて金津遊郭があったようで、今でも歓楽街の名残が残ってます。こういう感じの建物、京都市の五条楽園や大和郡山市の東岡遊郭で見かけましたね。軒周りには凝った装飾があります。
5洋風看板建築 元町3丁目










洋風看板建築。 元町3丁目。大正〜昭和初期頃? 
5洋風看板建築










現在は商店としては使われていないようです。
次は東へと向かい、戦前の住宅街だったと思われる場所へ。
6洋館付き住宅 東栄町1丁目










洋館付き住宅。東栄町1丁目。大正〜昭和初期頃?  小規模な洋館付き住宅。
7平田邸 雲井町1丁目










H邸。洋館付き住宅。大正〜昭和初期頃? 雲井町1丁目。
8平田邸










洋館部分は応接室だったんでしょうね。
9小石邸 月丘町3丁目










K邸。月丘町3丁目。大正期頃? 
10小石邸










こちらは立派な洋館がありました。

11豊島邸 花沢町3丁目










T邸。花沢町3丁目。大正〜昭和初期頃? 

12豊島邸










事前の下調べで参考にしたいくつかの近代建築のサイトにはどこも掲載されておらず、
この界隈を探索していて偶然見つけた物件。中々の発見でした。
13豊島邸










現在は個人宅ですが、元々は事務所だったようにも思えます。
14戦前の工場か 瑞雲町2丁目










戦前の工場棟? 瑞雲町2丁目。
15戦前の工場か










今は使われていないようです。
16高橋邸 瑞雲町3丁目










T邸。瑞雲町3丁目。大正〜昭和初期頃? 
この辺りは洋館付き住宅が多く残ってます。
17洋館付き住宅 瑞雲町2丁目










洋館付き住宅。瑞雲町2丁目。大正〜昭和初期頃? 
18洋館付き住宅










小さいながらもちゃんと洋館部分が造られています。無表札。
19洋館付き住宅 月丘町2丁目










洋館付き住宅。月丘町2丁目。昭和初期頃? 
20洋館付き住宅










中々モダンな住宅。表札は分かりませんでした。
西へと向かい、市街地の中心部へ。

21旧岐阜貯蓄銀行 徹明町 昭和12年 西村好時










てつめいギャラリー。徹明町。昭和12年。

22旧岐阜貯蓄銀行










旧岐阜貯蓄銀行の建物で、銀行建築を多く手掛けた西村好時の設計。

23旧岐阜貯蓄銀行










内部を見たかったけど、勝手に入るなみたいなことが入り口にあり、断念(´・ω・`)

24旧岐阜県庁舎 司町 大正13年 清水正喜










旧岐阜県庁舎。司町。大正13年。

25旧岐阜県庁舎










清水正喜の設計。保存されてますが、入れませんでした。

26旧青木医院 大工町 大正6年










旧青木医院。大工町。昭和6年。

28旧青木医院










白亜の洋館がかつての医院部分。

27旧青木医院










中々素敵な洋館です。

29洋館事務所 西材木町










戦前の事務所建築。西材木町。昭和初期頃? 

30洋館事務所










スクラッチタイル張りの洋館で、丸窓もあります。

31洋館事務所










丸窓部分。

32銅板張りの倉庫 今町1丁目










銅板張りの倉庫。今町1丁目。大正〜昭和初期頃? 

33藤華 湊町













藤華。湊町。大正〜昭和初期頃? 中々華やかな装飾のある看板建築。
ここから長良川を渡って北方面へ。

34旧診療所か 若竹町2丁目










元診療所の建物か。若竹町2丁目。大正〜昭和初期頃? 

35旧診療所か










こちらも事前情報はなく、偶然見つけた建物。

IMG_9806










玄関部分にある「日本医師會會員」のプレート。規模的に診療所かなと思いました。
現在は空き家。

36旧久保田外科医院 長良福光 昭和6年










旧久保田外科医院。長良福光。昭和6年。
IMG_9813










スパニッシュ風の中々オシャレな洋館です。

IMG_9811










正面。
IMG_9814










玄関部分。らせん状の柱が良いですね。

IMG_9812










丸窓の装飾も優雅でシャレてます。
この旧久保田外科医院が本日の探索の最北端。なので、再び南下します。
37忠節用水第二樋門 御手洗 昭和8年










忠節用水第二樋門。御手洗。昭和8年。

38忠節用水第二樋門










事前の情報が無きゃ間違いなくスルーしてました。

39鏡石水源地ポンプ室 鏡石 昭和5年 










水の資料館。鏡石。昭和5年。元は鏡石水源地のポンプ室。
40鏡石水源地ポンプ室










残念ながら休館中で、岐阜護国神社の境内からの撮影のみ。

41名和昆虫研究所昆虫記念館 大宮町2丁目 明治40年 武田五一










名和昆虫研究所昆虫記念館。大宮町2丁目。明治40年。

42名和昆虫研究所昆虫記念館










かの武田五一の設計。現存する武田五一の作品の中でも最古クラス。
中々素晴らしい洋館ですが、屋根窓がやたらデカくて重そうに見えます。

43名和昆虫博物館 大宮町2丁目 大正8年 武田五一










名和昆虫博物館。大宮町2丁目。大正8年。
44名和昆虫博物館










先ほどの名和昆虫研究所昆虫記念館の隣に建つ博物館。こちらも武田五一の設計。
明治・大正期の武田五一の作品が並んだ形で見れるのはここだけかも。

45館長







建物の前にモフモフの猫がいました。

46旧岐阜県洋服会館 米屋町 明治後期










旧岐阜県洋服会館。米屋町。明治後期。

47旧岐阜県洋服会館










紹介されているサイトでは明治後期とありますが、綺麗に改装されていて古さを感じません。
今はどこかの会社の事務所になっているっぽい?

48旧日下部合資会社事務所 米屋町 大正2年










旧日下部合資会社事務所。米屋町。大正2年。

49旧日下部合資医者事務所










優美な洋館で、かつてこの場所にあった日下部久太郎邸の敷地内に建つ、事務所兼応接の洋館とか。
かつては左側のマンション部分に邸宅があったようです。

49旧日下部合資会社事務所










玄関から内部を撮影。内部も当時の姿がそのまま残されています。
何か良い活用法があればいいのですが。
51洋館付き住宅 上竹町 










和洋折衷住宅。上竹町。大正〜昭和初期頃? こちらも偶然見つけた物件。
52洋館付き住宅










和洋折衷というか、和館と洋館を無理矢理組み込んで一緒にした変わった住宅。

IMG_9863










側面は出窓付きの洋風デザイン。

53洋館付き住宅










中々のお屋敷ですが、現在空き家のようで2階部分のベランダの手すりが崩壊しかかってます。
あまり長くは持たなそう・・・
岐阜市の近代建築は以上です。ここからはその他の気になった物件などなど。

IMG_9770










岐阜城の復興天守。今回は時間がなく行けなかった。代わりに御城印のみ確保。

IMG_9841










正法寺大仏殿。いわゆる岐阜大仏。大仏殿は江戸時代の寛政12年。
大仏はそれから32年後の天保3年に完成。
IMG_9840










岐阜市では有名な寺院ですが、今回の主旨とは別なので外観のみ撮影。

さて、せっかくなので岐阜市内でも有名なお店で食おうと向かったのがこちら。
IMG_9760










丸デブ総本店。地元では有名なラーメン店で、元々は大正6年創業の中華料理店。
めちゃ老舗の店で、有名店らしく店の前には行列が。
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しかし回転は速く割とすぐに入店。メニューは中華そばとワンタンのみ。
というわけで、中華そばネギ多めを注文。届いたのは丼なみなみスープの1杯。
スープは蕎麦かうどんの汁に近い感じで優しい味。美味しくいただきました。

次回は2日目の大垣市の近代建築探索の記事となります。


besan2005 at 13:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

2021年05月05日

舞鶴市・空山防空砲台第一・第二聴測照射指揮所跡探索レポ日記

広域配置図









空山防空砲台位置図





去年、フォロワーさんの報告により舞鶴市の空山に防空砲台の遺構群が多数残されていることを知り、2020年12月13日に空山防空砲台の探索を行いました。その結果、砲座跡・指揮所跡・油庫・貯水槽等の多数の遺構を確認しました。その時の探索の記事についてはすでに公開しておりますので、そちらをご覧ください。

舞鶴市・空山防空砲台遺構探索レポ日記

しかし、前回は単独行動であったため、大規模な遺構の現存が想定される第一・第二聴測照射指揮所の遺構に関して、安全面の観点から見送っていました。そして今回、情報を頂いたフォロワーさんを含む数人のフォロワーさんと共に改めて未探索であった第一・第二聴測照射指揮所の探索を行う事にしました。第一・第二聴測照射指揮所には射撃用のS24号電波探信儀がそれぞれ設置されていました。

最初の探索地は第一聴測照射指揮所跡地。東側の峰に位置する箇所です。進入路は兵舎跡の裏より道が延びてるようなのでそちらから向かいます。
第一聴測照射指揮所遺構配置図







第一聴測照射指揮所跡遺構配置図。一応現地で描いた見取図を元に作成しましたが、
あくまで大体の位置であることをご了承ください。
1境界杭










かつての軍道跡の両脇に建つ境界杭。
2境界杭













海軍用地なので「海界」となっています。境界杭はコンクリート製。

5電探台座










3電探台座










境界杭は奥まで続き、それを目印に進んでいくと階段のある台座が。
4台座スリット










台座には2本のスリットが。これは探照灯の台座ではとのこと。
IMG_0276










そばに落ちていたケーブル。舞鶴周辺の防空砲台によれば、空山には追尾式150センチ探照灯が設置されていたとのこと。その探照灯がここに設置されていたようです。
7第一聴測照射指揮所跡










探照灯台座跡よりさらに奥に進むと、開けた場所が現れ、煉瓦やコンクリートの廃墟が現れます。ここが第一聴測照射指揮所の跡地。進駐軍による爆破により完全に破壊されています。
6便所跡










便所跡。第一聴測照射指揮所の跡地で比較的残存度の良い遺構。
8電動発電機室跡










電動発電機室跡。こちらも破壊されています。
9電動発電機室跡










内部。壁面は半分だけの状態になっています。躯体は煉瓦造で表面は化粧モルタル塗りで仕上げています。
この第一聴測照射指揮所跡地の背面に巨大な聴測所がありました。
10聴音機格納室










聴測所入口にある聴音機格納室。先のサイトでは97式聴音機となっています。
12聴測所入口










照射射撃専用電探があった箇所。直径約48m巨大なすり鉢状となっています。先のサイトによると、空山には13号電波探信儀1組、S24号電波探信儀2組があったとなっています。ここにはS24号電探が設置されていたようです。

第一聴測照射指揮所を後にし空山展望台へ戻った後、西側の峰にある第二聴測照射指揮所跡へ。
第二聴測照射指揮所遺構配置図







第二聴測照射指揮所跡遺構配置図。第一と同様に大体の位置を記したものですのでご容赦。
13境界杭









14境界杭










こちらも第一聴測照射指揮所と同じく軍道を挟む形で「海界」のコンクリート製の境界杭がありました。
15電探台座









16電探台座










さらに先に進んだ先には石垣が。
17電探台座










上部にはコンクリートの台座が。恐らく第一聴測照射指揮所でもあった探照灯の台座かと思われます。
18第二聴測照射指揮所跡










そしてその奥には第二聴測照射指揮所の跡地が。こちらも日本軍もしくは進駐軍の爆破により徹底的に破壊されています。
22便所跡










原形をとどめている便所跡。
19電動発電機室跡










第二聴測照射指揮所の電動発電機室跡は第一と違い躯体はほぼ完全に残されていました。
20電動発電機室跡










背面。
21電動発電機室跡










内部。第一と同じ煉瓦造に化粧モルタルで仕上げています。
23階段跡










照射射撃専用電探跡へと至る階段跡。第一では確認できませんでしたが、恐らくあると思います。
24聴音機格納室










聴音機格納室跡。こちらも土台は完存しています。
25聴測所入口










照射射撃専用電探があった箇所。第一とほぼ同規模のすり鉢状の地形で、こちらにもS24号電探が置かれていました。第二の方はコンクリート舗装が確認でき、電探へと引いていたケーブルを引き抜いた際の穴が開いていました。



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2020年12月30日

ドローンによる城跡の空撮

ドローン飛行中







2020年9月よりドローンを導入し、撮影等を行ってます。まだ国土交通省のDID地区への飛行許可を得ていないので、飛ばせる範囲は限られてますが、それでも飛行可能区域内にある山城跡を中心に空撮を始めてます。ドローンを導入したことにより、今まで撮影できなかったアングル、見る事の出来なかった光景を得ることが出来ました。以下、2020年12月現在までに撮影した城跡の空撮写真を紹介していきます。今後も撮影していく予定なので随時追加します。
※画像の無断転載・無断使用は一切お断りします。
※2021年5月30日 置塩城跡・上中城跡・上林城跡追加。

IMG_8482










兵庫県丹波市山南町・岩尾城跡。2020年10月31日撮影。
1岩尾城空撮南から







岩尾城跡全景・南から

2岩尾城空撮東から







岩尾城跡全景・東から

3岩尾城空撮北から







岩尾城跡全景北から
4岩尾城空撮垂直







岩尾城跡全景・真上から。

5岩尾城空撮天守台







岩尾城跡天守台部分。

6岩尾城空撮食い違い虎口







岩尾城跡西の丸食い違い虎口部分。
IMG_8491










※地上から。

ドローン飛行







兵庫県豊岡市出石町・此隅山城跡&有子山城跡。2020年12月5日撮影。
此隅山城空撮西から







此隅山城跡全景・西から
此隅山城空撮南から







此隅山城跡全景・南から
此隅山城空撮垂直







此隅山城跡全景・真上から
有子山城空撮西から







有子山城跡全景・西から
有子山城空撮南から







有子山城跡全景・南から
有子山城空撮垂直







有子山城跡全景・真上から

ドローン飛行







兵庫県篠山市・丹波八上城跡。2020年12月12日撮影。
丹波八上城空撮8







丹波八上城跡全景・南から
丹波八上城空撮7







丹波八上城跡全景・南東から
丹波八上城空撮5







丹波八上城跡全景・東から
丹波八上城空撮6







丹波八上城跡全景・西から
丹波八上城空撮3







丹波八上城跡全景・真上から

ドローン飛行中







兵庫県丹波市春日町・黒井城跡。2020年12月26日。
1黒井城空撮南西から







黒井城跡全景・南西から
4黒井城空撮北東から







黒井城跡全景・北東から
5黒井城空撮南東から







黒井城跡全景・南東から
6黒井城空撮北西から







黒井城跡全景・北西から
7黒井城空撮本丸石垣







黒井城跡本丸石垣部分
3黒井城空撮垂直







黒井城跡全景・真上から

ドローン










京都府南丹市・埴生城跡。2021年1月2日。
1埴生城空撮南から







埴生城跡全景・南から
2埴生城空撮西から







埴生城跡全景・西から
4埴生城空撮西から







埴生城跡全景・西から
5埴生城空撮東から







埴生城跡全景・東から
6埴生城空撮北から







埴生城跡全景・北から
8埴生城空撮北から







埴生城跡全景・北から
10埴生城空撮上から







埴生城跡全景・真上から

IMG_9960










京都府福知山市・猪崎城跡。2021年1月16日

1猪崎城空撮北から







猪崎城跡全景・北から

5猪崎城空撮南西から







猪崎城跡全景・南西から
6猪崎城空撮南から







猪崎城跡全景・南から
4猪崎城空撮真上







猪崎城跡全景・真上から
3猪崎城から福知山城を望む







猪崎城跡主郭から福知山城を望む。

ドローン







兵庫県姫路市・置塩城跡 2021年2月13日

2.置塩城本丸空撮東から







置塩城跡・本丸全景東から

4.置塩城本丸空撮北東から







置塩城跡・本丸全景北東から
3.置塩城本丸空撮真上から







置塩城跡・本丸全景真上から

5上中城北西から山を初む







京都市右京区京北町・上中城跡 2021年5月8日
4上中城北西から







上中城跡全景・北西から
3上中城北から







上中城跡全景・北から
4上中城南から







上中城跡全景・南から
1上中城真上から







上中城跡全景・真上から

2上林城北から







京都府綾部市・上林城跡 2021年5月29日
上林城跡全景・北から
4上林城北から







上林城跡全景・南から
1上林城真上







上林城跡全景・真上から



besan2005 at 20:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 城郭 | 空撮

2020年12月19日

舞鶴市・空山防空砲台遺構探索レポ日記

空山周辺







舞鶴市にあった空山防空砲台は舞鶴要塞地帯内に建設された倉梯山・愛宕山・博奕岬・中山・槇山・五老岳・空山のうちの1つで、昭和16年より建設が開始された海軍の防空砲台でした。空山防空砲台は昭和16年より順次施設が建設されましたが、昭和17年9月21日の大雨で兵舎が倒壊するなどの被害もあったようです。工事自体は終戦の直前まで行われたようで、最終的に12.7cm連装高角砲・13mm単装機銃の武装の他に聴測照射指揮所などがあったようです。
※2021年4月11日に未探索だった第一・第二聴測照射指揮所の探索を行いました。下記に記事のリンクを貼ります。

舞鶴市・空山防空砲台第一・第二聴測照射指揮所跡探索レポ日記

空山防空砲台に関してはサイト「高射砲と防空陣地」に空山防空砲台のページがあり、以前より気になってた場所ですが、現在砲台部分には海上自衛隊の気象観測レーダー施設があり、主要部分は完全に失われ、別尾根の聴測照射指揮所の遺構が残されているくらいでは?との見解でした。しかし、懇意にしているフォロワーさんの実地調査にて、砲座を含めたいくつかの遺構が現存していることを確認され、急遽当方も探索に向かう事にしました。なお、上記のサイトのページには舞鶴警備隊戦時日誌に添付された当時の空山防空砲台の写真が掲載されています。
空山防空砲台位置図





今回の探索により確認できた遺構の位置図。これを元に報告していきます。
なお各遺構の名称は、フォロワーさんが舞鶴市役所にて確認された空山防空砲台の平面図を元にしています。(ただし図面に記載されていない遺構は暫定的な名称にしています。)
1射撃指揮所










まず向かったのは、射撃指揮所跡。海上自衛隊の気象観測レーダーの正門前に残されています。
2射撃指揮所










煉瓦造の壁に化粧モルタルを塗っています。
IMG_8868










近くにある石製の縁石。
6砲座下の擁壁










一部が残るコンクリート擁壁。この擁壁を過ぎた場所に雑木林へと入れる箇所があり、そこへと入ると…
3高角砲座










円形のコンクリートの構造物が。1つ目の砲座跡です。どうやらコンクリートで埋められているようです。さらに雑木林の奥へと進むと。
4高角砲座










2つ目の砲座跡へと至ります。こちらはコンクリート造の円形の砲座がそのまま残されています。
舞鶴市内の砲台の砲座はほとんど撤去されている中、この遺構は貴重なものです。砲台は空山の最高所に造られています。
砲台跡を後にし、兵舎跡へと向かいます。
7兵舎跡










兵舎跡の平坦地。図面によると、ここには兵舎と付属屋、烹炊所があったようですが、
8兵舎跡の基礎










遺構とはしてはコンクリートの基礎と、僅かな煉瓦の基礎らしきものを確認したのみでした。道路の整備工事の際に撤去されたのかもしれません。烹炊所があったのなら、水槽や炊事施設があったはずですし。
9兵舎跡斜面の廃材










兵舎跡の東側の斜面には、木製の廃材が散乱していました。あと甕の底や土管や瓦の破片も。兵舎の廃材かもしれません。ただし、食器やガラス瓶は見つかりませんでした。
10煉瓦構造物










再び山頂方面へと道路沿いに向かうと遺構がありました。
11煉瓦構造物










12煉瓦構造物










土塁状の高まりを切り込む形で煉瓦壁が造られています。崩壊が激しく一部しか残されてませんが、規模的に何かの保管庫だったのでしょうか。この煉瓦構造物の遺構の反対側の高地には平坦地がありました。
13軍道入口










さらに進むと土塁状の部分に切れ目があります。ここが旧軍道の入り口になります。
14弾薬庫跡付近










旧軍道入口を入った箇所。この辺りに弾薬庫があったようなのですが、明確な遺構は確認できませんでした。
17軍道










旧軍道は荒れることもなく良好に残されています。
15平坦地1










軍道脇にある平坦地。結構な広さがあります。
16平坦地のコンクリート










詳細不明ですが、明らかに人工的に整地された痕跡があり、平坦地内には煉瓦やコンクリート片が散乱していました。
18油庫










旧軍道脇に残る油庫跡。
19油庫










煉瓦の躯体に化粧モルタルが塗られています。
20油庫










内部。煉瓦の質はあまり良くはないです。戦時中でも軍の施設には煉瓦建築が造られました。舞鶴市内でも朝来第三海軍火薬廠に例がありますが、コンクリート不足や建物の用途(コンクリートだと結露や湿気の問題がある)という理由があったと思われます。
21油庫










内部から入り口方向。意図的に破壊された感じがします。
22発電所跡推定地










油庫から進んだ尾根上に図面では発電施設がありました。現在、それらしい平坦地が残されていますが、倉梯山防空砲台や愛宕山防空砲台、博奕岬防空砲台の発電施設に見られるような貯水槽や地下式の燃料庫などの遺構を確認することが出来ませんでした。
IMG_2493










※参照・倉梯山防空砲台地下式燃料庫
IMG_2489










※参照・倉梯山防空砲台発電施設貯水槽。
IMG_2484













※参照・倉梯山防空砲台覆土式発電機室。
3愛宕山防空砲台発電機室










※参照・愛宕山防空砲台発電機室跡。
4愛宕山防空砲台燃料庫壕










※参照・愛宕山防空砲台地下式燃料庫。
2愛宕山防空砲台水槽










※参照・愛宕山防空砲台貯水槽。
舞鶴市・愛宕山防空砲台探索レポ日記

再び現在の舗装道へと戻ります。
23平坦地2










道路脇に残された平坦地。詳細不明ですが何かしらの施設があったかと思われます。
23貯水槽










空山展望台公園から西方向(空山展望台公園へと向かう麓の登り口方向)へと向かった谷地に貯水槽を見つけました。コンクリートの質や構造から戦前の物と推測。
24貯水槽










谷地を流れる水を取り入れて溜めていたようです。

25貯水槽










貯水槽内部。恐らく空山防空砲台への給水目的と思われ、ポンプにて汲み上げていたのではと思われます。

遺構はほとんど残されていないと思われていた空山防空砲台において、予想以上に数多くの遺構が残されていたのは驚きでした。特に砲台の砲座に関しては、倉梯山防空砲台も愛宕山防空砲台も砲座跡の大穴しか残されていないだけに、構造物が残されているのは貴重だと思います。今回、初の踏査であり単独行動であったことと、途中で天候が急変したこともあり大規模な遺構が残されている可能性が高い別尾根上の第一・第二聴測照射指揮所跡への探索は見送りましたが、そちらも大規模かつ良好な遺構が期待できるため、機会を見て探索を行い、その際には当記事にて追記したいと思っています。

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2020年11月23日

西向日住宅地の近代建築探索レポ日記

現在の阪急電車京都線西向日町駅の一帯は、開通した翌年の昭和4年ごろから住宅地としての開発が始められました。開発を行ったのは後の阪急電鉄である新京阪鉄道株式会社。当時、新京阪鉄道株式会社は沿線沿いに住宅地の開発・分譲を行っており、この西向日住宅地もその一つでした。その面影が現在もいくつか残されており、今回探索をしてきました。

1噴水公園










西向日住宅地の中心にある噴水公園。西向日住宅地はこの噴水公園の周囲にロータリーを作り、それを中心として碁盤の目の住宅地を造成していきました。
さらには街路樹としてソメイヨシノが植えられ、現在でも春には桜の花が咲き誇る景観を維持し続けています。
2高橋邸










T邸。昭和4年頃。西向日住宅地に残る唯一の洋風建築。かつて住宅造成時の現地事務所だった建物とのこと。
4高橋邸










洋館部分。

3高橋邸










敷地の煉瓦塀は意匠を凝らしたデザインになっています。造成後も支店的な役割を果たしていたのかもしれません。
13藤井厚二設計の邸宅があった石積










近くには立派な石積のある住宅が。かつては藤井厚二設計の住宅が建っていたそうですが、残念ながら現在は失われています。
西向日住宅地の住宅はほぼ和風建築となっております。

5向日庵 昭和8年 澤島英太郎設計・熊倉工務店施行










向日庵。英文学者の寿岳文章が昭和8年に自邸として建てたもの。設計は京都帝国大学で建築学を学んだ澤島英太郎。施工は熊倉工務店。
6向日庵










7向日庵










設計者の澤島英太郎は藤井厚二に師事した人物で、この向日庵も藤井厚二の影響を受けたデザインになっています。

8向日庵










向日庵の門。

9旧狩野直喜邸・葵園 昭和12年










葵園(旧狩野直喜別邸)。昭和12年築。京都帝国大学の教授で漢学者だった狩野直喜が別邸として建てたもので、農家風のデザインとなってます。施工は安井杢太郎。現在も向日市にある安井杢工務店の創業者の作品としても貴重な建物です。
その他にも造成時当時の建物と思われる住宅がいくつか残されています。
10見性庵










見性庵。

11恩地邸










O邸。
12恩地邸










当時の門柱の向こうに洋風っぽいデザインの窓が見えます。

15川口邸










K邸。大きな和風建築。

19綿本邸










W邸。こちらも大型の和風建築。
14中村邸










当時の門柱が残る住宅。

16三好邸










M邸。少し離れた場所にある洋館付き住宅。
17三好邸










洋館部分。

18三好邸










玄関部分。
昭和初期に造成された西向日住宅地は、多くの住宅が建て替えられた今でも、閑静な住宅街でした。

※参考文献 「鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致〜西向日住宅地」(PDFファイル)

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2020年11月15日

舞鶴市・第三海軍火薬廠第一製造部遺構探索レポ日記

第三火薬廠第一製造部遺構配置図












舞鶴市朝来地区一帯は戦時中の昭和17年、第三海軍火薬廠という広大な火薬製造工廠が造られました。
第三海軍火薬廠は現在、日本板硝子工場と朝来集落となっている一帯は第一製造部、青葉山ろく公園と舞鶴高専の奥の谷地一帯は第二製造部となっていました。第二製造部は主に砲弾の製造や充填を行う工場だったため、爆発事故の影響を最小限に抑える山中の谷地にあったため、現在も多くの遺構が残されていることで知られていますが、※過去の探索1 ※過去の探索2 第一製造部は主に庁舎や事務所、官舎・宿舎が主で戦後に利用しやすかったせいか、日本板硝子工場や集落となり、遺構はほぼ残されていないと思われてました。しかし、今回の探索(※2019年3月3日)により想定よりも多くの遺構が状態良く残されていることが分かりました。以下、探索結果を報告します。なお、各遺構は「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」に収録されている施設図を元に記しました。
青葉山ろく公園に駐車し、遺構が集中して残る日本板硝子工場の方向へと向かいます。
各遺構の位置は上記の配置図を参照してください。


1乙号官舎










まず向かったのは、朝来小学校近くに残る乙号官舎。

2乙号官舎










かつて庁舎や会議所があった近くにあり、工廠でも上位の正職員の官舎だったと思われます。
オリジナルの状態で良く保たれており、第三海軍火薬廠の数少ない木造建物であり官舎という貴重な建物ですが、現在は空き家で今後どうなるか心配です。
3乙号官舎










近くにももう1棟官舎が残されていますが、現在は民家となっており、はっきりと確認できません。
4官舎か










官舎の一部だったと思われる古い木造建築。
旧官舎街エリアを後にし、川沿いに進みます。

5導水管










川の中に残された土管。第三海軍火薬廠時代の物ですが、用途は不明。こういった土管はいくつか残されています。
この奥の山中に整地されたエリアがあり、恐らく木造の建物があったと思われます。
6石組水路










現在の日本板硝子工場の敷地は爆薬製造所だった場所ですが、敷地脇の水路には当時の石積の護岸が残されています。
8溶融回収所










そして、日本板硝子工場の南側に溶融回収所の廃墟が残されています。
溶融回収所は恐らく火薬製造過程で出た廃棄物を回収し処理する施設だったものと思われます。
9溶融回収所










別角度。
10溶融回収所










正面。遠目に見ると少々不気味…
13溶融回収所内部










回り込んで内部に入ることが出来ました。
11溶融回収所内部










12溶融回収所










鉄骨造りで壁はモルタルの薄い造り。
15溶融回収所水槽










コンクリートの水槽らしきもの。
16溶融回収所










こちらもコンクリートの円筒形の構造物。
14溶融回収所怪談













2階へと至る階段。
14溶融回収所階段













大分朽ちており、さすがに登りませんでした。
17溶融回収所内部










階段から2階を見上げる。
18溶融回収所










建屋の外には、何かの機械を設置していたと思われる台座と覆屋根の鉄骨が残されてました。
21溶融回収所基礎










台座はコンクリートではなく、煉瓦造の表面に化粧モルタルが塗られていました。
20溶融回収所電灯










電灯の笠。
22溶融回収所石積擁壁










溶融回収所の敷地の石積擁壁。
IMG_2077










石積擁壁には階段があり、西側のエリアと行き来が出来るようになってます。
23原料置場










階段を上ると煉瓦の構造物があります。配置図では原料置場となっています。
24原料置場










恐らく上に木造の建屋があったものと思われます。
25覆土式余作品置場










その西隣にある覆土式余作品置場。入り口はコンクリートブロックで塞がれています。
26覆土式余作品置場










反対側。かつてはトンネルのように貫通していたようです。
27第三爆薬仮置場










そこから西へ向かうと見えてくるコンクリート造の建物。配置図では第三爆薬仮置場となっています。
現在も壁面に迷彩が残されています。
28第三爆薬仮置場










入り口。鉄扉もそのままです。
29第三爆薬仮置場










通気口。
30第三爆薬仮置場










内部。戦後に倉庫として使われていたようですが、現在は使用されていないようです。
さらに西へ。
37石組水路










石橋と石組水路。この場所から薮の奥へと向かうと…
31第二爆薬仮置場










煉瓦造の建物が見えます。配置図では第二爆薬仮置場となっています。
33第二爆薬仮置場










背面。迷彩の痕が全面に残されています。
32第二爆薬仮置場













入り口部分。
35第二爆薬仮置場










内部。
34第二爆薬仮置場













奥壁。内部は狭いですが、結構しっかりした造りです。
36第二爆薬仮置場










内部から入り口方向。
今回の第一製造部の探索では予想より多くの建造物としての遺構が残されていることが分かりました。
第二製造部の方に注目されがちですが、第一製造部にも当時の建物や遺構が残されていることを周知されたらと思います。

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2020年09月06日

三田市の近代建築探索レポ日記

丹波篠山市やその周辺の市町村の近代建築探索はそこそこ行ったのに、そういえば三田市はまだ行ってないなという事に気付き、思い立っては吉日とやらで向かう事にしました。
まずは郊外の相野駅へ。

1旧相野郵便局 三田市下相野 明治32年










旧相野郵便局。三田市下相野。明治32年。新しく見えますが、明治期の古い郵便局です。
2旧相野郵便局










背後は町屋っぽいようで、看板建築みたいな感じ。軒飾りとかが良い。現在は喫茶店のようですが、結構似合ってますね。開店していたら入ってたな。ただ、Googlemapで見ても店舗表示が無かった。休業しているのかも。

三田市街へ。

3旧九鬼家住宅資料館 三田市屋敷町 明治8年頃










旧九鬼家住宅資料館。三田市屋敷町。明治8年頃。

4旧九鬼家住宅資料館










三田藩家老職の家柄だった九鬼家の当主・九鬼隆範が明治8年頃に建てたもの。

5旧九鬼家住宅資料館










1階が和風建築で2階が洋風という擬洋風建築ですね。内部も1階が和風、2階が洋風らしいです。1階は常時公開していますが、2階は期間限定の公開のようでこの日は公開してませんでした。

6大前邸 三田市屋敷町 大正から昭和初期










O邸。三田市屋敷町。大正から昭和初期頃か。立派な洋館が付属する大きなお屋敷です。

7大前邸










別角度から。

8前田邸 三田市屋敷町 大正12年 国登録










M邸。三田市屋敷町。大正12年。設計は西村伊作。

9前田邸










スパニッシュ風の白い洋館と広い庭がいかにもお屋敷と言った感じ。国登録有形文化財です。

10いこいの家さんだ 三田市屋敷町 昭和初期か










いこいの家さんだ。三田市屋敷町。昭和初期頃か。

11いこいの家さんだ










現在はNPO法人が使用していますが、建物の造りや門構えを見ると個人宅だったのでしょう。

12いこいの家さんだ










近くにM邸があることから、この一帯は高級住宅地だったのかもしれません。この建物も大きな建物です。

13若林邸 三田市三田町 大正から昭和初期










W邸。三田市三田町。洋館は大正から昭和初期か。

14若林邸










伝統的な日本建築の主屋に付属する白亜の洋館。商家の事務所だったのかも。

15旧岩木邸 三田市相生町 昭和初期か










旧I邸。三田市相生町。昭和初期。

16旧岩木邸










中々洒落た洋館住宅ですが、現在は空き家でだいぶ痛みが。

17旧岩木邸










リニューアルされて蘇ってほしい気はありますが、このままだといずれ取り壊しかも…
IMG_8175













玄関周りとかも結構凝ってていい感じなんだけどなぁ。
18旧辻井医院 三田市中町 昭和初期頃










旧辻井医院。三田市中町。昭和初期。ちょうど内装工事をしていて写真が撮りづらかったですが、玄関から内部がちらっと見えました。現在は個人宅のようです。
19旧辻井医院










2階の窓が特徴的。
20小島医院 三田市中町 昭和初期頃










小島医院。三田市中町。昭和初期。旧辻井医院のお隣さん。
IMG_8180










旧辻井医院と小島医院との並び。現代のスズラン灯も良いアクセントです。
21洋風看板建築 三田市中町 昭和初期










旧辻井医院と小島医院の近くにある商店建築。何となく気になったので撮影。
22廃洋館 三田市中央町 昭和初期










三田市中央町にある廃墟。
23廃洋館










造りからして元商店だったのかな。1階腰回りのスクラッチタイルから昭和初期かなぁと。この建物もいずれ消えそうな気がする…。

ここで、前から行きたかった「人と自然の博物館」へ。専用駐車場が無いことを知らずしばらくうろうろ。結局向かいのイオンに駐車…。
人と自然の博物館を後にし三田市郊外へ。
24旧木器郵便局 三田市木器 昭和5年










旧木器郵便局。三田市木器。昭和5年。
25旧木器郵便局










白亜の可愛らしい洋館です。今は個人宅?
さらに郊外へ。ここに素晴らしい洋館が…
26奥野邸 三田市川原 明治18年










O邸。三田市川原。明治18年。のどかな田舎の農村に突然現れる洋館と大きなお屋敷。
27奥野邸










秋景楼と呼ばれるこの擬洋風建築は当時大庄屋の家柄だった当主がサロンとして建てたもの。
29奥野邸










田舎の農村に突如現れた洋風の建物に当時の人は度肝を抜かれたことでしょう。当主は神戸の大工に依頼し、その大工は大阪の洋館を手本に建てたそう。それにしても明治初期に都市部ならまだしもこんな農村に洋館を建てちゃうセンス。もしかしたら前述の明治8年築の旧九鬼家住宅資料館を見て影響を受けたのかもしれませんね。
28奥野邸










洋館の正面と主屋側は洋風そのものですが、目立たない右側は伝統的な土蔵造り。
30奥野邸










そして正門の長屋門と一体化という珍しい造り。
31奥野邸










門は固く閉ざされてました。農村の田園風景に映える白亜の明治初期の擬洋風建築。素晴らしいものでした。

帰りにちょっと寄り道。
IMG_8210










丹波篠山市福住にある旧郵便局。恐らく大正から昭和初期のもの。
IMG_8212










現在は雑貨屋さんとして使用され、中にいたお姉さんと色々お話。
篠山市福江の洋館修復前










実はリニューアル前からこの建物は知ってて写真を撮ってました。
P1110183










P1110185










そして改装工事中の様子も…。
古い洋館がこうして再度リニューアルされて大切にされている姿を見ると嬉しくなりますね。




besan2005 at 19:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 近代化遺産

丹波市山南町の近代建築探索レポ日記

終戦から75年目となる2020年8月15日、丹波市山南町の近代建築の探索をしてきました。
まずは山南町の奥地区へ。

1旧小川村役場 丹波市山南町奥 昭和12年










旧小川村役場。丹波市山南町奥。昭和12年。
2旧小川村役場










現在は資料館として使用されているようです。

3旧小川村役場










正面には石製の門柱があります。
4小川村道路元標













旧小川村役場の前にある小川村道路元標。年号のチェックを忘れた…

5奥公民館 丹波市山南町奥 昭和初期か










奥公民館。旧小川村役場の近くにあります。
6奥公民館













玄関部分は格天井。大正から昭和初期頃の建築に思えます。
7奥公民館










よく手入れされた中庭がありました。

東へと向かいます。
8戦前の倉庫か 丹波市山南町森










途中で見かけた戦前っぽく見える倉庫。丹波市山南町村森。
さらに東へ。
9谷川駅 丹波市山南町池谷 昭和13年










谷川駅。丹波市山南町池谷。昭和13年。昔懐かしい木造駅舎。
10谷川駅










谷川駅の扁額が掲げられた入口。
谷川駅内部










谷川駅内部。この雰囲気も懐かしいですね。
去年取り壊し前に訪問した八木駅を思い出します。昭和9年に建てられた八木駅はすでに取り壊され、新しい駅へと生まれ変わろうとしています。戦前の木造駅舎も随分と少なくなりました。
11和洋折衷住宅 丹波市山南町池谷










谷川駅の近くにある和洋折衷っぽい住宅。
12和洋折衷住宅










主屋に付属する感じの離れになってます。応接用だったのでしょうか。

さらに東へ。篠山川沿いにある県道77号線を進むと…
14旧上久下村営発電所










今回のメインの目的地、旧上久下村営水力発電所に到着。
20081206070004








旧上久下村営水力発電所は、大正11年に完成した村営の水力発電所でした。
古絵葉書・氷上郡上久下村営水力発電所

13旧上久下村営水力発電所 丹波市山南町上滝 大正11年 










発電所としての役目は終えましたが、国登録文化財として修復され保存されています。

15旧上久下村営発電所













1階部分から。

16旧上久下村営発電所













入口。旧上久下村営水力発電所は当初から2階が入口となっており、道路と入り口をつなぐコンクリート製の橋も当時からの貴重な物です。
17旧上久下村営発電所










2階内部は直下の篠山川から発見された丹波竜を紹介する展示室となっています。
19旧上久下村営発電所










1階部分は発電所時代の雰囲気をそのまま残しています。
18旧上久下村営発電所










私はこういう雰囲気の方が好みですね(^^)
20丹波竜発見の地










旧上久下村営水力発電所の直下の篠山川にある丹波竜発見の地のマーク。
このあと、車を停めていた丹波竜のお土産屋さんのある観光施設で休憩。
IMG_7969










男子トイレ内の注意書き。何故インターネットに詳しい某弁護士のイラストがww

丹波市山南町の探索を完了し、帰路に就く途中に…
21浄法寺 丹波篠山市黒田 昭和初期か










全くノーマークだった建物が。場所は丹波篠山市黒田。
22浄法寺










近寄ってみました。どう見ても戦前の公民館建築。
23浄法寺










別角度から。この場所、浄法寺というお寺の看板が掲げられていました。後で調べてみると、浄法寺は黒田公民館の一部となっているそうで、この建物自体は黒田公民館のようです。
24浄法寺










内部も当時の姿が良く残されていました。

丹波市山南町の近代建築探索の旅でしたが、丹波篠山市で思わぬ出会いがあり充実した探索となりました。



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2020年08月23日

冠島旧軍遺構探索レポ日記

※記事中の写真の無断転載・無断使用は一切禁止します。

冠島は舞鶴市の沖合にある無人島で、オオミズナギドリの繁殖地として知られています。
大正13年に島全体が天然記念物に指定されて以来、オオミズナギドリの保護が行われ続け、島への上陸も厳しく制限されていましたが、戦前、戦中は軍が施設を建設しました。
現在もその時作られた照射聴音所・海軍仮設衛所・海軍特設見張所等の遺構が残っています。冠島へは葦谷砲台にあった28cm榴弾砲の移設も計画されていたようで、その移設の際に構築された遺構も残されていると思われます。現在、冠島は天然記念物であり、オオミズナギドリ繁殖地として保護されている島であり、一般人の上陸は禁止されています。今回は京都大学・環境省等のオオミズナギドリ定期生息調査に同行という形で冠島へと向かう事が出来ました。
今回の同行に関して、フォロワーさんのたまやさん(tamaya8901)によるお誘いで実現しました。
中々体験できない貴重な機会にお誘いいただき感謝しきりです。
水中処分母船1号










冠島へは海上自衛隊協力の下、支援船・水中処分母船1号(YDT-01)に乗せてもらい向かいます。
これも中々貴重な体験。海上自衛隊の体験航海には過去に何度か参加しましたが、昨今は年齢制限があるうえ、倍率も20倍近くになるというほぼ参加不可能な状態。この水中処分母船1号の航海は海上自衛隊の体験航海以来6年ぶりかも。水中処分母船に乗ること自体、私は今回が初めてでした。
水中処分母船1号内部1










水中処分母船1号内部2










出航まで内部を探索。300トンの小さい船なので、護衛艦みたいな広さはありませんが、一通りの設備は揃ってます。
水中処分母船1号内部3










この日は金曜日なのでカレーの日。美味しそうな匂いが調理室から・・・
護岸










水中処分隊の敷地内に残る石積の護岸。明治30年代の鎮守府整備の際に築かれたものの1つで、普段は入れない敷地内の遺構だけに見る機会がほぼ無いもの。
蛇島










出航後、しばらくして見えてきた蛇島。ここには旧海軍のガソリン庫のトンネル状の地下倉庫が残されています。
蛇島クレーン台座










蛇島に残る荷揚げ用のクレーンの台座が見えました。一般公開を目指して調整中らしいので、その際は是非参加したいものです。
冠島










出航から2時間あまり、今回の目的地である冠島が見えてきました。
ボート降ろし










上陸のためのゴムボートを下ろします。
冠島へ2







冠島へ1







冠島へはゴムボートで向かいます。ボートの縁に腰かけて向かう感じの中々迫力ある体験でした。
冠島上陸













冠島に上陸。大正13年の天然記念物指定の際に建てられた「天然記念物おほみづなぎどり繁殖地」
の大きな石碑があります。
与えられた時間は1時間半。山上にある冠島海軍特設見張所の遺構はとても無理と分かり、残念ではありましたが、冠島海軍特設見張所の遺構は断念。麓に点在する遺構を探索することに。
冠島遺構配置図







今回の探索により確認した遺構は配置図にある分となります。位置はだいたいの場所。
桟橋跡1










まず最初は〇袈鏡廖
桟橋跡2










かなり波の浸食を受けています。コンクリートの質も良くないように見え、戦時中の構築の可能性があります。
コンクリート構造物










▲灰鵐リート構造物。骨材の砂利の割合が結構多いです。何かの基礎だったのでしょうか。
海底線引揚室1










3つ貔引揚室。海底ケーブルを巻き上げる施設。
海底線引揚室1内部1










内部の様子。
海底線引揚室1内部2













内部には溝状の物がありました。
海底線引揚室2










の海底線引揚室の少し離れた場所にあるい粒つ貔引揚室。
この冠島の海底線引揚室に関しては、アジア歴史資料センターのHPに資料があり、今回探索した遺構の中で唯一資料による裏付けができ判明した遺構です。
アジ歴資料1













アジア歴史資料センター所蔵、「官房機密第1898号 9.8.18 大島(冠島)海軍用地の1部使用に関する件」(コード・C05023807300)より引用。資料によれば、昭和9年に陸軍築城本部が海底線引揚室建設のため、海軍省所轄地となっている冠島の敷地の一部を永久無償使用したいといった内容です。
アジ歴資料2









同資料より引用。海底線引揚室の建設予定地の図面です。やや灰色に着色されている冠島の麓の平地部分は海軍省所轄地で、後に冠島海軍特設見張所が建設された際、尾根部分も海軍省の用地となったと思われますが、冠島の大部分は民有地もしくは公有地で、軍の所轄外だったようです。となると、冠島の中に軍の境界杭があると思われるのですが、確認することは出来ませんでした。
老人嶋神社










島の神社である老人嶋神社。この神社から平地の森の中へ入るといくつかの遺構が残されています。

オオミズナギドリの巣










神社の敷地にあるオオミズナギドリの巣。オオミズナギドリは地面に穴を掘って営巣します。踏み抜かないように決められた場所を歩きます。
貯水槽










ッ水槽。スタッフと比べたら分かる通り、そこそこ大きさがあります。貯水槽は丁寧な造りで、コンクリートの躯体の上に化粧モルタルで仕上げています。戦前の海軍関連の施設は大抵こういう造りで、先ほど見た海底線引揚室の造りも同様です。恐らく、海底線引揚室と同時期かと思われます。規模的に発電施設の冷却用の貯水槽の可能性がありますが、周囲にそれらしき遺構は見当たらず不明です。
砲座跡か










λず太廚隼廚錣譴觀γ蓮Jかりづらいですが、ここだけ2ヵ所すり鉢状に窪んでおり、可能性も考えて記載しました。
コンクリート台座1










Д灰鵐リート台座。この一帯は遺構が固まっており、それなりの施設があったと思われます。このコンクリート台座に関しては用途は不明。
コンクリート基礎建物跡







┘灰鵐リート基礎建物跡。Г琉箙修里垢偉戮砲△蠅泙后E腓砲△覺歙个鮴僂濔紊押△修両紊縫灰鵐リートを貼り基礎としています。大きさ的に兵舎などの居住施設ではないように思えますが、何せ裏付ける資料がないので何の建物だったのか不明です。
炊事場跡か










炊事場と思われる遺構。流し台のような水槽状のものがあるため、炊事場としましたが、これも断定はできません。不明ばかりで申し訳ないですが。

冠島の旧軍遺構探索は多くの制約と持ち時間の少なさで正直不完全燃焼といった結果でした。特に多くの遺構か残り、ある程度遺構の詳細が分かっている山上の冠島海軍特設見張所を確認出来なかったのが残念至極といった感じですが、本来は上陸が禁止され、そのためほとんど報告の無い冠島の旧軍遺構、少しでも確認でき記録できたのは成果だったかなと思っています。


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2020年07月24日

通天湖堰堤(瑠璃渓砂防堰堤)探訪レポ日記

京都府南丹市にある通天湖の堰堤を見てきました。
通天湖というのは、南丹市の奥地、園部川の最上流にある景勝地「るり渓」の上流にある人口湖です。
度重なる園部川の洪水に悩まされた園部の町は、当時の園部町長が幾度も陳情、昭和14年にようやく着工しました。戦時中の昭和17年にようやく完成。現在はレジャー施設などが近くにでき、訪れる人も多い場所です。そんな昭和17年完成の通天湖のダムが現在も使用されているのを知り、探訪してきました。
1通天湖










通天湖のダム。正式名は瑠璃渓砂防堰堤。高さ12.5mなので正確にはダムではなく堰堤です。
2通天湖










通天湖側の様子。銘板がはめられています。
3通天湖銘板










銘板のアップ。
通天湖銘板














銘板の文字を書き起こしてみました。当時は園部川砂防堰堤という名前だったんですね。
通天湖の堰堤は治水・砂防目的。いわゆる砂防ダムです。
通天湖の堰堤は下まで降りられる遊歩道があり、長靴などを履いていれば堰堤のすぐそばまで行けます。
3通天湖










川から見た通天湖の堰堤。ダムと言える高さではなく堰堤の部類に入るとはいえ、やはり間近で見ると迫力満点!
4通天湖










堰堤脇の排水口。石積風のアーチ状にしているのがいかにも戦前と言った感じで良いですね。
5通天湖










天端から越流する水の迫力!
6通天湖










向かって右手側。
7通天湖










向かって左側。こちらは下部の川床面がやや高く、導水路のように左から右へと流れています。
8通天湖










堰堤直下から見上げた様子。雨の後は通天湖からの越流により天端からいくつもの水が流れ、まさに白糸の滝。美しい姿に感動しました。あと、やはり涼しさも感じましたね。



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2020年06月14日

経ヶ岬灯台訪問レポ日記

27経ヶ岬灯台看板











経ヶ岬にある経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所の探索と合わせ、経ヶ岬灯台を訪問しました。
経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所遺構 探索レポ日記
経ヶ岬灯台は明治31年に初点灯をした灯台で、日本に5つしかない第1等フレネルレンズを使用する保存灯台であり、日本んの灯台50選にも選ばれている灯台です。
26経ヶ岬灯台










経ヶ岬灯台の看板と遠くに見える経ヶ岬灯台。ちなみにここは正門ではありません。
28経ヶ岬灯台付属建物










最初に見える付属建物。
29経ヶ岬灯台付属建物










石造の建物で、倉庫なのですが、貼られているプレートを撮り忘れた・・・
32経ヶ岬灯台レーダー













敷地内にあるレーダーの鉄塔。
43経ヶ岬灯台正門










経ヶ岬灯台の正門。現在もこの正門から下って麓に行けます。
34経ヶ岬灯台










そして、主役の経ヶ岬灯台。
33経ヶ岬灯台










石造の堂々たる白亜の灯台。
35経ヶ岬灯台













海側の右から
36経ヶ岬灯台













左から。
37経ヶ岬灯台













正面から。経ヶ岬灯台に使われている石材は灯台下の海岸から切り出されたものです。
1海軍望楼










前回紹介した明治30年代の経ヶ岬海軍望楼の石材も同じ場所から切り出した石材かと思われます。
37経ヶ岬灯台銘板










灯台の入り口にある銘板。
38経ヶ岬灯台階段










石造倉庫や官舎のあった場所から灯台へと降りる階段。
39経ヶ岬灯台擁壁










経ヶ岬灯台は建物も塀も擁壁も全て石造です。恐らく煉瓦などを輸送する困難さより、海岸の石を切り出す方が効率的だったからだと思います。
40経ヶ岬灯台海










経ヶ岬灯台から望む日本海。
41経ヶ岬灯台海










まるで中世ヨーロッパの城塞か沿岸砲台の要塞のように見えるそんな雰囲気。120年余り日本海の安全を見守り続けてきました。
42経ヶ岬灯台海










経ヶ岬のある海岸は険しい崖がそそり立つリアス式海岸。今でこそ立派な道路がありますが、当時は灯台までの道は大変だったと思います。
経ヶ岬灯台古絵葉書








完成当時の経ヶ岬灯台。現存する灯台と倉庫の他に官舎がありました。この官舎も残されていたらより素晴らしい情景だったと思います。
44経ヶ岬灯台猿










経ヶ岬灯台からの帰り、ニホンザルの群れに出くわしました。
46経ヶ岬灯台猿










ニホンザルの親子。車内から撮影。野生のサルは凶暴なので要注意。餌などをあげてはいけません。

経ヶ岬灯台は毎年11月頃に内部の一般公開があるそうです。経ヶ岬海軍特設見張所の遺構で見逃したものもあるし、そのタイミングで再訪したいと思っています。


besan2005 at 19:10|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | その他近代化遺産

2020年06月08日

経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所遺構 探索レポ日記

25経ヶ岬灯台










京都府京丹後市、丹後半島の最北端にある経ヶ岬にあった海軍望楼と海軍特設見張所の遺構を
探索してきました。経ヶ岬と言えば明治31年築の白亜の石造灯台、経ヶ岬灯台が有名ですが、
明治期と昭和17年に海軍の監視所が造られています。明治期の経ヶ岬海軍望楼と昭和17年の
経ヶ岬海軍特設見張所になりますが、調べていくうちに遺構が現存していることが分かり、
今回探索することにしました。
※経ヶ岬灯台に関しては後日記事にします。この灯台も素晴らしい建物でした。

経ヶ岬海軍望楼・海軍特設見張所遺構配置図







今回探索した経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所の遺構配置図。
まずは明治期の海軍望楼の時期と思われる遺構を紹介します。

経ヶ岬海軍望楼は明治期に全国の沿岸に置かれた海軍望楼の一つで、付近を航行する艦船の監視、気象観測、海難事故の報告などを行った施設です。経ヶ岬海軍望楼の具体的な設置年は分かりませんでしたが、アジア歴史資料センターの公開資料で、明治34年の資料の中に経ヶ岬海軍望楼の記述があるので、少なくともその時期には存在していたことが分かります。恐らくですが、経ヶ岬灯台が完成した明治31年の直後なのではないでしょうか。明治期に設置された各所の海軍望楼は第一次世界大戦後から整理が行われ、大正12年までには全て撤廃されました。経ヶ岬海軍望楼もそれまでに廃止され、以後放置されていたと思われます。
天狗鼻海軍望楼2








※参考・薩摩川内市 天狗鼻海軍望楼(2001年2月管理人撮影)
1海軍望楼










経ヶ岬には当時の海軍望楼が残されています。石造で、経ヶ岬灯台と同じく岬の石を切り出して建築されたと思われます。
1海軍望楼2










斜めから。
2海軍望楼










背面の入り口。
2海軍望楼内部










経ヶ岬海軍望楼の内部は休憩所に改装されてますが、ほとんど使用されていないため荒廃ぶりが目立ちます。あと、落書きが酷い。説明板も何もなく、改めてきちんと整備して説明板などを建てる必要があるのではないでしょうか。先に紹介した天狗鼻海軍望楼や稚内市の大岬海軍望楼は市の指定文化財として保存されているわけですし。
6石塁










経ヶ岬海軍望楼の背後には石塁が残されています。
7階段













石塁の側には荒廃した石段があります。ここを下ると昭和期の海軍特設見張所の遺構のあるエリアに至ります。
3石製構造物










海軍望楼の脇にある石製の構造物。穴が2つ開いてます。用途は不明。
経ヶ岬海軍望楼図面









アジア歴史資料センターの明治36年の公開資料より。信号竿や百葉箱があり、
兵舎の姿も描かれています。

経ヶ岬海軍望楼の廃止後、海軍望楼の施設は恐らく放置されていた可能性があります。
石造の頑丈な海軍望楼は残されましたが、その他の施設は荒廃し朽ちて行ったと思われます。
その経ヶ岬海軍望楼跡地に昭和17年、再び海軍が監視所を設置します。それが経ヶ岬海軍特設見張所です。
舞鶴警備隊管轄の海軍特設見張所は8ヵ所ありましたが、うち京都府内には経ヶ岬・上世屋・冠島の3ヵ所にありました。
※宮津市・上世屋海軍特設見張所探索レポ日記
経ヶ岬海軍特設見張所は、旧海軍望楼の建物をそのまま見張所として再利用。かつて兵舎等があった一段下の敷地を再整理して新たにコンクリート基礎の建物を建設したと思われます。
経ヶ岬海軍特設見張所には電探(レーダー)2基、探照灯1基、聴音機1基が設置されていたそうです。
以下、経ヶ岬海軍特設見張所時代と思われる遺構を紹介します。
1海軍望楼










経ヶ岬海軍望楼の前にあるコンクリートの台座らしきもの。
4観測機器台座か










円柱の台座があります。恐らく観測機か測距儀の台座だったと思われます。
5コンクリート構造物1










詳細不明のコンクリート構造物。何かの台座かなとは思いますが。
8兵舎跡か2










海軍望楼のある位置から1段下の敷地にはコンクリートの基礎群が残されています。
各遺構は上記の遺構配置図をご覧ください。
8兵舎跡か










兵舎跡と思われる基礎。
8兵舎跡か3










雑木で覆われて分かりづらいですが、間仕切りがあります。
8兵舎跡か4










アンカーボルトが残されていました。恐らく建物は木造だったのでしょう。
9カマド










兵舎跡に隣接するカマド。
10便所










コンクリートの腰壁と便所。
10便所2










便所部分。
11貯水槽か










コンクリートの基礎(通路か)の横にある大きなコンクリート構造物。
12貯水槽か










反対側から。コンクリートから鉄製のパイプが延びており、恐らく貯水タンクではと思われます。
というのも、後からこの近くに階段と貯水槽があると教えて頂き、そこから水をこのタンクに送っていたのではとのこと。今回の探索で件の階段と貯水槽は確認できなかったので、再探索する必要が出てきました。
13煉瓦構造物残骸










貯水タンクから遊歩道を挟んだ向かいにあった煉瓦の残骸。恐らく明治期の経ヶ岬海軍望楼の時期の兵舎等の基礎だったものではと思います。海軍特設見張所として再整備する際に元々あった煉瓦の基礎を撤去したのでしょう。
15コンクリート構造物2










海軍望楼と特設見張所の遺構群から経ヶ岬灯台へと至る道を下ると現れるコンクリート構造物。
16コンクリート構造物2










防空監視哨かと思いましたが詳細不明。ただ、コンクリートの感じを見ると昭和戦前期のもので間違いないかと思います。
17コンクリート柵柱










そのコンクリート構造物近く、遊歩道の下に当時のコンクリート柵柱が残されていました。
18コンクリート柵柱













十数本並んでいます。遊歩道を見ると、階段に再利用されたと思われる柵柱も多数見かけました。
19軍道










恐らく海軍望楼時代からの物と思われる軍道らしき道がありました。
20軍道石積










折り返し部分には石積が残されています。どこに至るのか気にはなりましたが、先がかなり荒れていて断念しました。
21山頂展望台










経ヶ岬の最高所には山頂展望台があります。
23山頂展望台土塁










展望台の東屋には円を描くように土塁があります。
22山頂展望台土塁










円形土塁は遊歩道から分岐した旧道の方向に開口部があり、端部は古い石積みがあります。
山頂展望台は最高所にあり、昭和22年の米軍航空写真にも施設らしきものが写っているので、東屋の辺りにあった何らかの施設を囲む土塁だった可能性があります。
IMG_7260










経ヶ岬の西側の海岸に面する麓にかつて兵舎があったと聞き、最後に行ってみました。
遊歩道を歩いていくと広い平坦地が。
IMG_7259










奥にも1段高い平坦地が。
IMG_7256










道沿いに石垣があります。ただ、当初の情報ではもう少し山側に向かった先の様で、航空写真でも怪しげな建物らしきものも写っているので、ここは違うかも。当初想定していた建物らしきものが写る箇所は現在はそういったものは確認できず、もしかすると崩落したのかもしれません。

以上で今回の経ヶ岬海軍望楼・海軍特設見張所の探索となります。後からの情報でまだ未確認の遺構があることが分かり、冬枯れの時期を待って再探索する予定でいます。また、近くの袖志地区にも関連の遺構が残されているようで合わせて探索する予定でおります。
ちなみに現在、航空自衛隊経ヶ岬分遣隊と米軍レーダーのある岳山にもかつて海軍の施設があったようですが、さすがにそちらは無理ですね。


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2020年05月24日

綾部市・旧奥上林小学校木造校舎&近代建築探訪レポ日記

京都府綾部市の奥地に素晴らしい木造校舎が残されているのを知り、探訪に向かいました。
場所は綾部市奥上林地区。国道27号線の山家の交差点からひたすら走って行きます。
そこにあったのは・・・
29旧奥上林小学校 綾部市奥上林 昭和初期〜10年代










立派な木造校舎。旧奥上林小学校校舎。
30旧奥上林小学校










以前探訪した京丹波町の旧須知小学校の木造校舎群を彷彿とさせる見事な建物。
31旧奥上林小学校













玄関部分。
奥上林小学校記念碑













旧校舎前には昭和3年銘の記念碑があり、奥上林小学校の文字もあったことから、この建物は戦前の物だと思われます。昭和12年築の旧須知小学校の木造校舎群と同じく昭和10年代の築かと思われます。
32旧奥上林小学校










裏側も当時の面影が良く残されています。まさに奇跡的。
33旧奥上林小学校













内部の様子。現在はイベント関連に時々使われているようです。
さて、この戦前の旧奥上林小学校の校舎の隣には体育館があり、そこから見下ろす場所に戦後の旧奥上林小学校の校舎が残されているのですが・・・
33旧奥上林小学校渡り廊下










その戦後の校舎と体育館をつなぐ木造の渡り廊下が残されています。
34旧奥上林小学校渡り廊下










まるで跨線橋のような佇まい。
35旧奥上林小学校渡り廊下










廃校・木造校舎ファン、廃墟ファンには有名な物件らしく、色々なサイトやブログで取り上げられています。誰が名付けたか通称「余部鉄橋」。
36旧奥上林小学校渡り廊下













下から見上げると、確かに鉄橋に見えなくもない。
37旧奥上林小学校渡り廊下内部













渡り廊下部分は開放されていて入れるようなので歩いてみました。
38旧奥上林小学校渡り廊下内部













橋脚が木造なので歩くとそれなりに揺れちょっと怖いですw現役の頃、この渡り廊下を走った子供は怒られただろうなぁと。今はまだ大丈夫ですが、今後手入れされず老朽化が進めば危険ですね。
それでもこの渡り廊下は見応えあります。先の旧奥上林小学校の戦前の木造校舎と合わせて訪れる価値は十分あります。

さて、この旧奥上林小学校へ向かう途中、中々良い感じの建物を見かけました。
22中上林診療所 綾部市中上林 昭和初期










中上林診療所。綾部市中上林地区。
23中上林診療所










見るからに戦前の建物。京都府近代化遺産調査報告書には未掲載でしたが、昭和初期の築かと思われます。
24中上林診療所










外観は当時の面影が良く残されています。
25中上林診療所










玄関部分。車寄せの柱も戦前の雰囲気があります。現在も中上林診療所と中上林歯科医院として現役の診療所。内部はさすがに改装されていましたが、こんな近代建築が綾部市の山間部に残っていたのが驚き。この建物、全くノーマークだっただけに走っていて見かけたときは興奮して即引き返しましたw
26中上林公民館か










27中上林公民館か










その中上林診療所から交番を挟んだ場所にある木造建築。地域のコミュニティー場所として使用されている建物ですが、かつては戦前の公民館だったのではと思います。

今回訪問した旧奥上林小学校の木造校舎と渡り廊下は行く価値のある見事なものでした。途中、中上林診療所という予期せぬ収穫もあり、充実した探訪となりました。


besan2005 at 11:32|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 学校建築

南丹市・京丹波町の戦前木造校舎&近代建築探訪レポ日記


前回、京丹波町にある旧須知小学校の木造校舎群を探索しレポ日記に書きましたが、京都府南丹市の奥地と京丹波町には他にもいくつか戦前の旧木造校舎があるので探訪してきました。ちなみに戦後の木造校舎もいくつか残されていますが、ここでは戦前築と思われる木造校舎(一部を除く)と、探訪中に見かけた近代建築も合わせて紹介します。
1旧神吉小学校及時館 南丹市八木町神吉 昭和初期か










国道9号線から八木に入り大堰川を越えてひたすら山道を走り、まず最初に訪れたのは、
南丹市八木町神吉地区にある旧神吉小学校及時館。
2旧神吉小学校及時館










現在は廃校となっている旧神吉小学校の戦前の校舎を記念館として保存したものと思われます。
恐らく昭和初期頃。
3旧神吉小学校及時館










戦前らしい下見板張りのシンプルな外観です。
5旧神吉小学校及時館サイレン










正面玄関の上部にはサイレンが残されていました。覆いがまるで燈籠のようなデザイン。
4旧神吉小学校及時館










内部も昔の姿を留めています。神吉小学校が廃校したあとは神吉診療所として利用されているそうですが、私が見た感じでは使われていないようにも見えました。
6旧内久保小学校 南丹市美山町内久保 明治39年










次に訪れたのは、かやぶきの里に近い南丹市美山町内久保地区にある旧内久保小学校。
7旧内久保小学校










京都府近代化遺産調査報告書によれば明治39年築とのこと。
8旧内久保小学校













正面玄関には城郭風の屋根を設け、屋根の棟上には小さい望楼を設けるなど、まるで五稜郭の箱館奉行所を彷彿とさせる佇まい。
9旧内久保小学校講堂










講堂内部。ほぼ当時のまま残されている感じ。
10旧内久保小学校廊下1










玄関が開いてて入っても良い感じだったので、廊下の部分だけお邪魔。
11旧内久保小学校廊下2










旧内久保小学校は山村の小さな学校だったのでしょうが、明治39年築の木造校舎が今でもほぼオリジナルの状態で残されているのは貴重かと。現在は内久保公民館として使用されています。
12旧五ヶ荘小学校体育館 南丹市日吉町四ツ谷










お次は南丹市日吉町にある旧五ヶ庄小学校体育館。
13旧五ヶ荘小学校体育館










戦後の築に見えますが、気になったので撮影。
14旧五ヶ荘小学校体育館










ただ、戦前でもこういうデザインの体育館があったりするから外観だけでは判断は難しい。
15旧五ヶ荘小学校










体育館の隣には戦後築の古い校舎が。そういえば自分が小学生の頃はこんな感じの校舎だったなぁと懐かしい気分に。
ここから国道9号線へと戻り京都縦貫道みずほIC近くにある京丹波町桧山地区へ。
17旧桧山郵便局 京丹波町桧山 昭和9年










旧桧山郵便局。京丹波町桧山。
18旧桧山郵便局










京都府近代化遺産調査報告書によれば昭和9年築とのこと。改造は大きいけれど2階部分に面影が残ります。
19橋爪橋 京丹波町桧山 昭和11年










旧桧山郵便局の近くにある橋爪橋。欄干のデザインが珍しい。
21橋爪橋













昭和11年3月架橋。
16旧桧山小学校










桧山地区には旧桧山小学校と旧須知高校桧山分校の木造校舎がありますが、いずれも戦後なのでここではスルー。次回、綾部市の山奥にある戦前築の木造校舎を訪ねます。その校舎、別の物でも有名なんですよね。



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2020年05月17日

亀岡市内の近代化遺産探索レポ日記

がんこ3










がんこ5










亀岡市の近代建築と言えば旧田中源太郎邸だった明治31年築のがんこ楽々荘が有名ですが、
※がんこ楽々荘訪問日記
その他にも市内にはいくつかの近代化遺産が残されています。今回それらを紹介していきたいと思います。まずは郊外から。
1旧佐伯郵便局 稗田野町 昭和初期










旧佐伯郵便局。稗田野町。京都府近代化遺産調査報告書によれば昭和初期とのこと。
2旧佐伯郵便局










どこか懐かしさを感じる木造建築。
3旧保津郵便局 保津町 明治期










旧保津郵便局。保津町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治期となっています。
4保津郵便局










北から。
5保津郵便局










南から。主屋は和風建築で手前の営業所部分が洋風になっています。
6保津郵便局










正面アップ。屋根瓦には今も郵便マークのある鬼瓦があります。入り口には「旧郵便局」の解説板があり、地域の歴史遺産として認識されているようです。是非活用して欲しいところ。
7保津郵便局










玄関上部のガラス窓には「保津郵便局」の文字が今でもあります。
8旭町自治会館 旭町 明治39年










旧旭小学校。旭町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治39年築。
9旭町自治会館










建物自体の外観は大きく改装されていますが、玄関部分は当時のまま残されています。玄関はまるで武家屋敷のような佇まい。
10旭町自治会館










屋根には桜に同の紋章のある鬼瓦が。
11旭町自治会館










玄関脇には「學」の字入りの鬼瓦が置かれています。
12旭町自治会館










玄関の天井は立派な格天井。
13旭町自治会館










入口には当時の正門も残されています。旧旭小学校は現在は旭町自治会館として使用されています。
12亀岡東別院町荒内の煉瓦倉庫1










昔記事にした東別院町の煉瓦蔵。大正期頃。亀岡市の奥の奥に存在する立派な高石垣のお屋敷跡。
13亀岡東別院町荒内の煉瓦倉庫2










以前、この記事にお祖父さんが住んでいたとコメントがありました。かつては銀行業務もやっていたとか。現在は住んではおられず当時の建物も煉瓦蔵しかありませんが、かつては相当大きなお屋敷があったと思われます。
23大谷鉱山鉱山長旧宅3










大谷鉱山鉱山長官舎。稗田野町鹿谷。大谷鉱山は大正3年にタングステン鉱山として操業開始。軍需材料としての需要もあり終戦まで操業され大いに賑わっていたようです。戦後一時休鉱しましたが昭和26年再開。昭和58年に廃鉱になるまで操業しました。この建物はその大谷鉱山の鉱山長の官舎だった建物。デザイン的に戦前の物と思われもしかすると創業時の大正期の建築かもしれません。
22大谷鉱山鉱山長旧宅 稗田野町鹿谷 










玄関脇の出窓は当初からのもの。中々オシャレ。空き家だった当時に見に来たことがありますが、この出窓から部屋を覗くと戦前らしき鉱山関連の本がたくさん置かれていました。現在は個人の方が買い取り面影を残した感じでリフォームされ住宅にされています。貴重な建物が大切に使用されているのは嬉しいです。
24旧吉川小学校奉安殿1 吉川町













旧吉川小学校奉安殿。吉川町。吉川自治会館の側に移築されています。戦後多くが壊された奉安殿がこうして残されているのは貴重。

ここからは市街地へ。
14旧旅籠郵便局 旅籠町 明治22年










旧旅籠郵便局。旅籠町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治22年築とのこと。大きく改装されていますが、2階窓の鎧戸に面影を残します。ちなみに隣に付属する平屋の建物はかつての丹波亀山城の城門でした。
15天理教亀岡大教会 横町 昭和戦前期か










天理教亀岡大教会。横町。大きな和風建築で大正から昭和初期くらいはありそうです。天理教の各支部の建物は結構立派な近代和風建築として現存している例が多いです。
16横町文化住宅 横町 昭和初期










横町文化住宅群。横町。昭和初期。
17横町文化住宅













18横町文化住宅













和風の主屋に洋館が付属する典型的な文化住宅です。この住宅は2棟続きとなっています。現在も個人宅。
19横町文化住宅










すぐ隣にある文化住宅。
21横町文化住宅













こちらは1階が洋風。2階が和風になっています。現在は学習塾。
27愛善みずほ会 北古世町










愛善みずほ会。北古世町。大規模な木造建築。戦後かもしれませんが気になってた建物なので取り上げました。
28愛善みずほ会










背面は割と戦前の雰囲気あります。 側面の円窓も。
29愛善みずほ会










玄関部分。
30愛善みずほ会










扉が開いてたのでちょっと失礼しました。玄関ホールも雰囲気あります。現在は大本教関連の施設として使用されているようです。

亀岡市にはかつてはこれ以上に多くの近代建築が存在しましたが、失われていった建物も数多くあります。ここからは過去に撮影したそれらを紹介します。
亀岡駅 昭和10年








亀岡駅。昭和11年。今となっては懐かしい駅舎です。
亀岡市森林組合1 昭和3年









亀岡市森林組合。横町。昭和3年。市内でも珍しい洋館の事務所ビルでした。
亀岡市森林組合2









取り壊し直前に一度中を見たことがあります。
亀岡市森林組合3









1階事務室。当時の面影がそのまま残されていました。
亀岡市森林組合4









階段も当時のままでした。失われた今、2階も見ておけば良かったと後悔しています。
旧亀岡郵便局001









旧亀岡郵便局。北町。どことなく和風の雰囲気のある木造建築でした。
旧亀岡郵便局003








現在は脇の袖壁だけ残されています。
大道金物店・亀岡









大道金物店。横町。近年まであった看板建築でした。
山金楼・新町 大正期









山金楼。新町。大正期。カフェーの面影を残す元料理屋の建物で、かつては池のある中庭があったそうです。取り壊され駐車場になって久しくなりました。
菱田邸取り壊し寸前 大正11年










旧菱田邸(理想郷社)。横町。大正11年。
菱田邸取り壊し中










取り壊し中の旧菱田邸。亀岡市を代表する戦前の洋風住宅も姿を消して随分経ちました。


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歩兵第三十三連隊・歩兵第三十旅団司令部・津陸軍病院遺構探索レポ日記。

津連隊配置図







三重県津市久居にあった陸軍歩兵第三十三連隊・第三十旅団司令部・津陸軍病院の現存建物群を陸上自衛隊久居駐屯地の一般公開に合わせて見学してきました。
久居の新兵営にはまず明治41年に歩兵第五十一連隊が駐屯し、大正14年に歩兵第三十三連隊が移駐してきました。この辺りに関してはいつもお世話になっている盡忠報國様のブログが詳しいので、そちらを参照してください。
陸上自衛隊久居駐屯地はかつての歩兵第三十三連隊・歩兵第三十旅団司令部・津陸軍病院の敷地をそのまま使用し、現在も多くの当時の建物が残されています。
3連隊本部










旧連隊本部庁舎。
1連隊本部










西側の妻部には陸軍の星章が今もあります。
6連隊本部東側










反対側。こちらはシンプルですね。
4連隊本部玄関










入口部分。こちらは改装されている気がします。
7連隊本部内部2










玄関から内部。
7連隊本部内部










妻側から内部。当時の姿がほぼ残されています。
8大隊本部










大隊本部と言われている建物。連隊本部庁舎と同じようなデザイン。
9大隊本部東面










反対側。
10厠










連隊本部と大隊本部と言われる建物の間にある厠。
11厠










現在も便所として使用されているようです。この日は表側に行けませんでした。
13将校集会所










将校集会所。大正10年築。さすがに将校集会所の建物は他の兵舎と違い華やかさがあります。
14将校集会所










将校集会所の正面。都城市の歩兵第六十四連隊の将校集会所とよく似ています。
15将校集会所背面










将校集会所背面。
16将校集会所背面










反対側から。背面はシンプルです。
17将校集会所入口













将校集会所入口。この日は音楽隊が練習をしており、居なくなった頃合いを見計らって撮影しました。
17将校集会所付属屋










将校集会所の付属屋。
18歩哨舎










移設された歩哨舎。コンクリート造です。
21木造建物










用途不明の木造建物。当時の物であることは間違いなく、陸軍の星章入りの鬼瓦が今も乗っています。
22弾薬庫










遠くに見える防爆壁の土塁に囲まれた弾薬庫。これも旧軍時代の弾薬庫をそのまま使用しています。
23自転車置場










気になった自転車置き場の小屋。
24自転車置場










小屋組みに使用されている木材に不自然なホゾとかあったり、材も古そうに見えました。
もしかしたら旧軍時代の解体された建物の部材を再利用しているのではと思い撮影しました。
19第三十旅団司令部










歩兵第三十旅団司令部庁舎。明治41年に開設されました。
20第三十旅団司令部解説板










解説板。
20第三十旅団司令部入口













歩兵第三十旅団司令部玄関。旅団司令部の庁舎は多くが画一化されており、正面にペディメント(三角破風)を掲げ、左右とも三間の翼部を延ばすデザインです。多くが連隊本部より小規模です。
25娯楽室










歩兵第三十三連隊の東側には津陸軍病院がありました。現在もいくつかの建物が残されています。この建物は娯楽室だった「愛国寮」。昭和10年に建てられたもので、名前から恐らく愛国婦人会の寄付で建てられたものと思われます。
※参考・古絵葉書・名古屋陸軍病院 豊橋陸軍病院愛国寮竣工記念絵葉書
27隔離病棟










左奥に見えるのは隔離病棟。結核患者を収容していたそうです。左奥には付属屋があるようです。
28食堂・浴室










食堂(右側)と浴室(左側)。
29食堂・浴室










背面。浴室はともかく食堂が倉庫みたいな煉瓦造なのが不思議です。
30井戸










歩兵第三十三連隊の西側、久居駅に面した場所にかつて歩兵砲・通信隊の兵舎がありました。現存していた兵舎の中でも2階建ての最大規模の物でしたが、惜しくも訪問時の1年前に取り壊し…。跡地は駐車場となっていました。しかし、当時の物らしき井戸が残されていました。
31ポンプ










井戸の上にあるポンプ。当時の物かは分かりませんが古そうなのは確かです。
砲兵隊・通信班の兵舎を見ることができなかったのは残念ですが、かつての姿は盡忠報國様のブログにて見ることができます。
IMG_2811










IMG_2787










この日は演習場で訓練展示が行われました。これを見るのも目的の一つ。まぁコンデジではこれが精一杯でしたが・・・
IMG_2930










あと、新装備である16式機動戦闘車を見たかったというのもありますw


besan2005 at 08:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2020年05月08日

舞鶴市北吸地区にある防空監視哨

舞鶴市・防空監視哨1











舞鶴市・東舞鶴の北吸地区、国道27号線を挟んだ赤煉瓦倉庫群の向かいの斜面にコンクリート造の防空監視哨が1つ残されています。
舞鶴市・防空監視哨2










防空監視哨は、来襲する敵機の監視、報告を任務とする施設で、民間人で構成された防空監視隊が任務に付き、将校や下士官が指揮などを取ってました。
舞鶴市・防空監視哨3










反対側の角度から。実寸はしてませんが、そんなに大きくはなかった(幅1.5mくらいかな?改めて実寸してきます。)です。コンクリートの質はあまり良くなく、戦争末期頃の構築に思えます。ちなみにアジア歴史センターで検索しましたが、該当する資料は見当たりませんでした。
監視窓のスリットの上に穴が開いてますが、もしかして機銃掃射の際の弾痕でしょうか・・・?

舞鶴市・防空監視哨4










この防空監視哨は海軍桟橋(現・海上自衛隊北吸桟橋)と舞鶴海軍工廠の方面を向いており、主に舞鶴海軍工廠へ来襲する敵機の監視を目的としていた物と思われます。ちなみに、奥に見える2つの建物も旧海軍時代の建物。向かって右側に赤煉瓦倉庫があります。
舞鶴市・防空監視哨5










内部。かなり狭いです。1人か無理して2人が精一杯かと思います。監視窓のスリットは3方に開いていますがやはり監視のメインは正面側の舞鶴海軍工廠だったのでしょう。
呉市・防空監視哨1










呉市・防空監視哨2










参考として呉市にある防空監視哨。舞鶴市のと比べて大型です。舞鶴市にもかつては複数の防空監視哨があったと思われますが、現在は今回記事にした北吸の物しか知られていません。(もしかしたら舞鶴海軍工廠の裏山か敷地内に残されているかもしれませんが、JMUの敷地内なので確認は不可能。)舞鶴市の広報や赤れんがパークにある案内板には触れられてませんが、現在見ることのできる舞鶴市内の防空監視哨としては唯一の物で貴重な遺構と思われます。


besan2005 at 06:15|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2020年05月06日

歩兵第七十連隊・篠山陸軍病院・篠山陸軍墓地探索レポ日記

兵庫県篠山市には「丹波の山鬼」と称された陸軍歩兵第七十連隊が駐屯していました。現在、篠山市内には第七十連隊の他に多数の旧陸軍の遺構が残されています。今回は第七十連隊・篠山陸軍病院・篠山陸軍墓地の遺構を探索してきました。
篠山連隊・篠山陸軍病院配置図









歩兵第七十連隊及び篠山陸軍病院の遺構配置図。今回もツイッターでいつもお世話になっています盡忠報國様の記事を参考にさせて頂きました。篠山の旧軍遺構については盡忠報國様のブログ記事がかなり詳しいので、より詳細に知りたい方はそちらを参考にされるといいと思います。

まずは陸軍歩兵第七十連隊。
歩兵第七十連隊は明治40年に編成。当初は第4師団隷下の連隊でした。
20171209212645d01








当時の絵葉書の正門。歩兵第七十連隊は連隊の裏山を利用した苛烈な山岳戦の演習を行い、その勇猛ぶりは「丹波の山鬼」と呼ばれました。昭和12年から満州へと派遣され昭和15年に第25師団の隷下へと変更。昭和20年4月に九州で本土防衛の任に就くまで、大陸の各所で戦い抜きました。
201811031350080e2








歩兵第七十連隊は篠山城を利用した演習も行い、攻城戦の演習や
20181103135009c5e








外堀を利用した渡河演習を行っている絵葉書が残されています。

※参考・昭和4年、篠山歩兵第七十連隊軍旗祭の様子。

戦後、歩兵第七十連隊の敷地は篠山産業高校と工場の敷地となっています。
戦後は兵舎等ほとんどの建物が取り壊されましたが、外周を中心にいくつかの遺構と建物が残されています。
9七十連隊正門










歩兵第七十連隊正門。手前の石敷きも当時の物。
20171209212645d01








当時の姿を撮影した絵葉書。
9正門













門柱のアップ。
10土留め










正門の西側にある土塁の土留め。
11将校集会所門










敷地東側にある将校集会所の通用門。奥には中庭に置かれていた円卓と椅子が残されているそうですが、工場敷地内のため見れません。工場内に入るには許可が必要。
12東門










東門。コンクリート造なので昭和期のものかもしれません。
13炊事場










現在の工場の北側敷地には当時の煉瓦造の建物が2棟残されています。こちらは炊事場とのこと。
14煉瓦建物










奥に見える煉瓦建物。当時の物ではありますが詳細不明とのこと。
この写真は高校側のグラウンドの隅から望遠で撮影。実は敷地外から何とか撮影できないかとウロウロしていたら、ちょうどグラウンドで野球の練習をしていた生徒とコーチらしき人が見ていて、思い切って事情を説明したら、グラウンドの端のこの位置からならいいですよと言われ有難く入らせてもらいました。ありがとうございました。

15篠山陸軍病院正門










歩兵第七十連隊の北端の一角は篠山陸軍病院でした。歩兵第七十連隊と同時期に開設された病院でしたが、戦後敷地は工場となり現在は正門他の僅かな遺構しか残されていません。こちらは篠山陸軍病院の正門。
P1110220










正門の側に気になる建物がありました。新しくも見えますがプラン的にもしかしたらと撮影。
改装されている可能性もありますので。戦後すぐ撮影の航空写真で確認しましたが、あるような無いような…
16燃料庫か










篠山陸軍病院跡の敷地の端に気になるコンクリート建築がありました。
17燃料庫か










雰囲気的には当時の建物のように見えます。弾薬庫とは思えないので燃料庫だったかもしれません。

続いて歩兵第七十連隊から離れた篠山城の東にある篠山陸軍墓地へ。
1篠山陸軍墓地忠魂碑













駐車場に建てられている忠魂碑。
2篠山陸軍墓地忠魂碑













元々は篠山城天守に大正4年に建てられたものですが、戦後にGHQによる破壊を恐れ天守台下に埋没。昭和26年に再び掘り出され現在地に再建されました。揮毫は河村景明大将。
3篠山陸軍墓地門柱










篠山陸軍墓地正門。当初の参道の正門で木製の扉が一部残されています。
5境界杭










周囲にはいくつもの「陸軍用地」の境界杭が点在しています。
6境界杭













そのうちの1本。
7篠山陸軍墓地










先ほどの正門を潜り参道を上がっていくと下士官兵の墓地に到達します。陸軍墓地の中では状態はいい方だと思いますが、倒れた竹がそのままになっていたりと手厚い管理は余りされていないのかも。もしくは年1回か2回の管理程度とか。
P1110203










別角度。ここより高い位置に将校の墓があるようですが、今回失念してしまいました。
4遺芳殿










昭和18年、忠霊殿である遺芳殿が建てられました。その際に周辺も整備され、この石段もその時に造られたものです。この時に正式な参道が当初の正門からこのまっすぐ伸びる石段に改められられたと思われます。
4遺芳館










遺芳殿。戦後に忠霊殿から遺芳殿と改称し、現在も遺骨が納められています。
P1110198










遺芳殿から見下ろした様子。段状に整地されています。もしかしたらこの場所にもかつては将兵の墓があったようにも思えます。
P1110207










忠魂碑のある駐車場の下にある篠山遺族会館。和風の建物で古い建物をリニューアルしたものかと思いましたが、昭和61年に建てられたものです。館内には歩兵第七十連隊の軍旗の一部と軍旗日誌が収められています。



besan2005 at 12:43|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 旧軍遺構

舞鶴海軍刑務所遺構探索レポ日記

舞鶴市・東舞鶴市街から国道27号線を東へ少し進んだ交差点を右折し志楽川を渡って少し進むと行き止まりになり目の前に特別養護老人ホームが現れます。この特別養護老人ホームの敷地はかつて舞鶴海軍刑務所でした。
アジア歴史資料センター公開の資料によると、昭和16年11月1日付の舞鶴海軍刑務所設置のための海軍監獄官制中を改正する資料があり、舞鶴海軍刑務所はそれ以降に設置されたものと思われます。
舞鶴海軍刑務所正門









建物は早いうちに失われたようですが、老人ホームが建つ前まではこの場所にはかつての舞鶴海軍刑務所の巨大なコンクリート造の正門と高い塀が存在し、敷地を取り囲んでいました。写真は25年ほど前に出版された資料に載せられたかつての舞鶴海軍刑務所の正門です。(出典・つむぎ出版『京都の「戦争遺跡」をめぐる』1995年)。
老人ホームの建設の際に正門と塀は撤去され現在は失われていますが、敷地の周囲には区画の用水路と境界杭、また正門跡に当時のスロープが残されています。
37舞鶴海軍刑務所正門入口










舞鶴海軍刑務所の正門跡前に残るスロープ。
39舞鶴海軍刑務所区画溝













38舞鶴海軍刑務所区画溝













かつての舞鶴海軍刑務所の敷地を取り囲むコンクリート製の当時の区画溝。
33舞鶴海軍刑務所境界杭













34舞鶴海軍刑務所境界杭













35舞鶴海軍刑務所境界杭













36舞鶴海軍刑務所境界杭













その区画溝の外側には「海境」の文字がある海軍の境界杭が今でも立っています。
今回確認したのは4本のみでしたが、他にも現存している可能性はあります。


besan2005 at 10:25|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

舞鶴陸軍墓地探索レポ日記

舞鶴市の西舞鶴に位置する福来地区の小高い山にかつて陸軍墓地がありました。主に舞鶴市上安久の現・日星高校の敷地にあった舞鶴重砲兵大隊(後に連隊に昇格)の将兵の墓地であり、舞鶴重砲兵大隊設立からしばらく後に作られたものと思われます。舞鶴の軍人墓地としては共楽公園にある海軍墓地が良く知られ、管理も行き届き毎年慰霊祭が行われていますが、この舞鶴陸軍墓地はほとんど知られることもなく荒れ果てた状態になっています。
26舞鶴陸軍墓地










舞鶴陸軍墓地への入口。ぱっと見ではただの山道にしか見えません。
27舞鶴陸軍墓地境界杭













舞鶴陸軍墓地への入口の脇にある境界杭。「十三ノ三陸界」という感じに見えます。
28舞鶴陸軍墓地参道










舞鶴陸軍墓地への参道。
29軍曹墓













暫く参道を歩き尾根上へと上がると墓石が現れます。陸軍砲兵軍曹の方の墓です。
IMG_2606










舞鶴陸軍墓地内の参道。舞鶴陸軍墓地は戦後に集落の墓地とするため一部改変されています。
30境界杭













参道脇にある境界杭。「十三ノ五(?)陸界」の文字があります。場所がおかしいので移設された可能性があります。
31境界杭













境界杭と思われる石柱。
31砲兵中尉墓













陸軍砲兵中尉の方の墓。将校らしく立派な墓石ですが、もはや参拝する人や管理する人もなく笹や雑木に埋もれかけています。
32陸軍墓地










参道らしき道を上がると広い平坦面がありました。25年ほど前に出版されたとある資料には舞鶴陸軍墓地の頂部には「光來寺」の扁額のある廃墟化したお堂があり、舞鶴陸軍墓地の管理をしていた廃寺として紹介されていますが、恐らくこの写真の上の平坦地にあったものと思われます。しかし現在は跡形もありません。(その後出版された増補改訂版には舞鶴陸軍墓地の記載自体が削除されている)
今回は確認できませんでしたが、唯一舞鶴陸軍墓地を取り上げた別のサイトによると、あと数基の墓石が残っているようですが、いくつかは倒壊し散らばっている有様のようです。後日再探索し、確認・追記したいと思います。

共楽公園の舞鶴海軍墓地が整備され、現在も慰霊祭が行われるなど手厚く保護されているのに対して、この舞鶴陸軍墓地の荒廃ぶりを見ると落差に何とも言えない気分になります。舞鶴陸軍墓地自体ほとんど知られていないという事もありますが、せめて現存の墓だけでも整備し祀られればと願うのですが。
このままの状態ですと、さらに山の木々に埋もれ人々の記憶から存在が完全に消え去ることと思います。


besan2005 at 09:07|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2020年05月05日

旧須知小学校探訪レポ日記

京都府京丹波町にある旧須知小学校を訪問してきました。
実は2014年に訪問していますが、今回さらに詳細に探索をしましたので、改めて記事を書き直すことにしました。
須知小学校は明治6年創立の小学校で、明治20年に須知小学校と改称しました。
現在残っている校舎は昭和10年に建てられた校舎で85年経った現在でも当時の姿をそのまま残す貴重な建築物となっています。映画「銀河鉄道の夜」のロケ地にとしても使われました。
7083818a










旧須知小学校本館。堂々たる正面玄関。玄関には校章の額が掲げられています。
須知小学校002







昭和10年の改築記念で作られた須知小学校本館の絵葉書。
85年前の姿そのままです。
関連サイト・古絵葉書 須知小学校
2本館










当時と同じアングルで撮ってみました。建物は竣工時の絵葉書のまま。
周りの木だけ大きく育ち、85年の歳月を感じます。
IMG_6630










建物の中には入れませんが、窓から中を伺うことはできます。
これは本館玄関から中を撮影したもの。内部も当時の姿がよく残されています。
3北校舎










北校舎。
4南校舎










南校舎。本館から広がるように左右に配置されています。
IMG_6624










二宮尊徳像。
IMG_6625













台座には昭和9年に校舎改築記念として建立されたとあります。
台座の上に建つ二宮尊徳像も竣工記念の絵葉書に写るものと同じにも見えますが、だとすると、戦時中の金属供出に合わなかった貴重なものになりますが、どうでしょうか。
6南半地下通路










南側にある半地下式の通路。
7南半地下通路










南校舎と本館をつなぐ渡り廊下を潜る形になっていますが、水の張られた場所を通過する変わった作りになっています。現在は通過できませんが、中庭へは校舎を回り込む形で行くことができます。
8渡り廊下










本館裏側の渡り廊下。こちらも当時のまま。
19下駄箱










渡り廊下にある下駄箱。当時の木製の下駄箱が残っているのは珍しい。
17消火栓













渡り廊下にある消火栓。

18消火栓













消火栓の裏側。かつては渡り廊下側に「消火栓」と書かれた木製の扉があったと思われます。
9南中庭










南中庭。中庭は真ん中の講堂を挟んで南北にあります。
20南中庭










南校舎側方向。
11滑り台










南中庭の滑り台。
12ブランコ










南中庭のブランコ。南中庭には遊具が置かれているため、児童の遊び場だったようです。
かつての子供たちの喧騒が聞こえて来るようですが、今は誰もいない静かな場所。
10中庭から南校舎










中庭から見た南校舎。
13講堂










講堂。体育館としても使用されていた建物。校舎の真ん中の位置にあります。 
14講堂










講堂を西側から。体育館としての採光の機能を持たせるため、窓が他の校舎よりかなり多いです。
ここで朝礼や体育、そして入学式や卒業式が行われたんでしょうねぇ。児童たちの思いがたくさん詰まっている場所。
15南側本館裏










本館南側の裏側。正面側とはまた違った姿を見せてくれます。
16南半地下通路










先ほど見た南半地下通路の中庭側。こういうトンネル状の通路って子供たちは好きそう。
21講堂裏










講堂裏側。大きな破風が立派です。
22北中庭










北中庭。
23北中庭










北中庭は遊具の置かれた南中庭と違い、花壇や飼育小屋が置かれています。
24本館北側裏










本館北側の裏側。本館南側の裏側とまんま鏡写しの形。旧須知小学校の校舎群は本館玄関とその裏側の講堂を中心として左右に同じ形で広がるシンメトリーのデザインとなっています。
25北半地下通路










北校舎と本館の間にある北半地下通路。こちらも南側と全く同じ。
IMG_6664










校舎の軒のあちこちにある鉄製の持ち送り。アールデコ調のデザインでしょうか。
旧須知小学校の工事請負人は和久田喜一という人物らしいです。恐らく地元の人だと思いますが、旧須知小学校の建物のデザインを見るに、センスのある方だったと思います。
26白椿










旧須知小学校は現在はひっそりと静まり返ってますが、かつて中庭に植えられていた白椿は今も変わらず花を咲かせていました。
27マーガレット










旧須知小学校を散策していて目に付くのは校内の敷地のあちこちに咲くこの白い花。
6a5c927c










これは2014年5月31日に訪問した際に撮影した時のもの。敷地のいたるところで咲いてました。最初はマーガレットかなと思いましたが、調べるとフランスギクという花で、耐寒性があり強い繁殖力で日本中に広まっているとか。かつては花壇で色とりどりの草花が育てられていたのでしょうが、廃校となり人の姿が消えた今はこのフランスギクと先ほどの白椿や桜が今の旧須知小学校に彩りを与えています。
IMG_6655










IMG_6677










旧須知小学校は本館・講堂・南北校舎が昭和10年当時のまま残り地方の戦前木造校舎として貴重な存在となっています。一応地域のコミュニティ施設として再利用はされていますが、やはり老朽化の進行は否めません。地域の貴重な近代化遺産である旧須知小学校。修復や維持管理は大変ですが、何とか有効な利用をされて末永く残ってほしいと願うばかりですが。

※注意。
旧須知小学校の敷地内は自由に散策出来ますが、建物内への無断進入は厳禁です。校内に建物内への無断進入の発覚の際は警察に通報するという看板が立てられています。当然既存建物や施設への破壊行為や落書きも厳禁。また、危険個所には立ち入り禁止の札があるためその部分には立ち入らないようにしましょう。貴重な近代化遺産である旧須知小学校。節度ある見学をお願いします。


besan2005 at 20:39|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2020年04月12日

宮津市の近代建築探索レポ日記。

先日、宮津市内の近代建築を探索してきました。宮津市は何度も訪ねていますが、しっかりと近代建築の探索をしたことがなく、改めて探索をしようと今回行う事となりました。

今回の記事は宮津市街地内の近代建築となります。宮津市由良地区の近代建築の探索レポ日記は前回記事にしております。
宮津市由良地区の近代建築探索レポ日記
ミップルの側にある道の駅に車を停めて、あとは徒歩で市街地を探索。
1ジッソパルケ 宮津市新浜










ジッソパルケ。宮津市新浜。
2ジッソパルケ










だいぶ改装されていますが、昔見たときは結構古い下見板張りの建物でした。よく見たらオリジナルの姿が残されています。
3旧丹海本社 宮津市新浜 大正12年










旧橋北汽船本社。宮津市新浜。大正12年。
4旧丹海本社










宮津湾内の観光船を運営していた会社の本社事務所。現在は丹海交通の案内所として使用されています。
5新浜遊郭検番所か










宮津市の新浜地区はかつて遊郭街でした。いくつか当時の建物らしい住宅が残されてますが、そのうち気になったのがこれ。もしかしたら門番詰所だった可能性があります。
6新浜会議場 宮津市新浜 昭和初期










新浜会議場。宮津市新浜。昭和初期。古い街並みの中に挟まれるようにあります。
7旧医院 宮津市魚屋町 昭和初期










旧医院。宮津市魚屋町。昭和初期。道路側の外観はだいぶ改造されています。

8旧医院










玄関部分にかろうじて当時の雰囲気が残されています。
9茶六本館 宮津市魚屋町 明治期 昭和10年増築










茶六本館。宮津市魚屋町。明治期・昭和10年増築。国登録有形文化財。宮津市の老舗旅館です。
10旧小川湯 宮津市小川 大正2年










旧小川湯。宮津市小川。大正2年。外観が改修されているのであまり古そうに見えませんが、大正2年築。
11旧小川湯










斜め横から。
12旧小川湯










玄関部分の装飾に大正期の名残がありますね。
13佐藤医院 宮津市京街道 大正15年










佐藤医院。宮津市京街道。大正15年。宮津市内を代表する近代建築。
15佐藤医院










瀟洒で素晴らしい洋館。
14佐藤医院










これほどの建物なのに国登録有形文化財にもなっていないのが不思議。
16宮本会館 宮津市宮本 昭和4年










宮本会館。宮津市宮本。昭和4年。
17宮本会館










外観は当時の姿をよく残しています。
18カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂 宮津市宮本町 明治29年










カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂。宮津市宮本。明治29年。京都府指定文化財。宮津市を代表する近代建築で、宮津市で一番有名な近代建築。何でも日本で2番目に古いカトリック天主堂だとか。
19カトリック宮津教会










内部は畳敷きで知られるカトリック宮津教会ですが、老朽化による痛みが大きく内部には入れず。早々の修復が望まれます。
20カトリック宮津教会










21カトリック宮津教会










側面・背面はまた違った趣があります。カトリック宮津教会は昭和2年の北丹後地震で被害を受け、修復を受けています。
22宮津小学校 自彊館 宮津市字外側 昭和6年










宮津小学校 自彊館。宮津市字外側。昭和6年。宮津小学校の小講堂だった建物を移築したもの。
23中村眼科医院 宮津市魚屋町 昭和初期










中村眼科医院。宮津市魚屋町。昭和初期頃。
24中村眼科医院










玄関部分に趣がありますね。外観も当時の姿を保っています。内部が気になるところ。
25宮津聖アンデレ教会 宮津市島崎 昭和3年










宮津聖アンデレ教会。宮津市島崎。昭和3年。素朴で落ち着いた色合いの下見板張りのレトロ教会。
26宮津聖アンデレ教会










教会堂。
27宮津聖アンデレ教会










牧師館。牧師館は現在は使用されていないようです。
28洋館付き住宅 宮津市島崎 昭和初期か










宮津聖アンデレ教会の近くにある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。塀があるため見づらいですが、付属洋館は中々のレベルです。
29清輝楼 宮津市魚屋町 明治34年










清輝楼。宮津市魚屋町。明治34年・大正13年増築。国登録有形文化財。宮津市最大かつ老舗の旅館。創業は元禄年間で、吉田茂や芦田均といった首相経験者の政治家や、菊池寛・吉川英治・上村松園といった著名人が数多く宿泊した旅館です。
30洋館付き住宅 宮津市島崎 昭和初期か










新大手橋の側にある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。立派な洋館が付属する住宅。
31洋館付き住宅










背面を見ても規模の大きさが分かります。
32中村邸 宮津市島崎 昭和初期か










M邸。宮津市島崎。昭和初期頃か。こちらも大きなお屋敷です。
33冨田屋










さて、一通り探索をした後の宮津での昼食は宮津駅前にある富田屋(とんだや)さん。昭和10年頃創業とのことで、この店舗も恐らく創業当時のもの。宮津で昼食となった際にいつも足を運ぶ富田屋さんですが、理由は店舗がレトロだからと言うわけではなく…
DSC_0632







ここの煮魚定食が本当に旨くてしかも安い!この定食で550円です!
富田屋メニュー







富田屋さんのメニュー。信じられない安さ。
富田屋メニュー













お店で出す料理の魚は地元産のもの。安くて旨い魚料理を出す店のため、お昼時はお客さんでいつもいっぱい。夜も地元の常連客らしき人が地魚料理をつまみに盛り上がってますw
富田屋宿泊代













ちなみに富田屋さん宿泊できます。しかも1泊2食付きで6000円と言う安さ。レトロな部屋で美味しい魚料理を頂ける私の大のお気に入りのオススメのお店です。

以上で宮津市の近代建築探索は終了。建物や古い街並みを見れるし、日本海の幸も楽しめる良い街ですよ。



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宮津市由良地区の近代建築探索レポ日記。

宮津市の由良地区には良質な近代建築がいくつか残されています。今回、由良地区の近代建築を訪ねてきました。宮津市街地の近代建築探索レポ日記はこちら。
宮津市の近代建築探索レポ日記。
由良川橋梁










由良川橋梁。大正13年。全長552mもある鉄橋。
由良川橋梁2










かつては国鉄宮津線の鉄橋でしたが、現在は京都丹後鉄道の鉄橋。
由良川の河口に架かる鉄橋ですが、まるで列車が海の上を走るような姿は有名な撮影スポットとなっています。
1四方医院 昭和6年










旧四方医院。昭和6年。設計施工・中西熊太郎。国道176号線に面して建つ洋館の医院。
2四方医院










中々立派な医院です。かつては由良地区のランドマークだったのでしょう。現在は使われていないようですが、是非活用方法を見出して欲しいです。
3浜野路公民館 昭和2年










浜野路公民館。昭和2年頃。設計施工・中西熊太郎。
5浜野路公民館










下見板張りのレトロな公民館。痛みも少なく大切に使われています。
4浜野路公民館










浜野路公民館の玄関部分の装飾。
6脇公民館 昭和2年










脇公民館。昭和3年。設計施工・中西熊太郎。
7脇公民館










由良地区の近代建築は中西熊太郎という人が手掛けています。地元の大工さんでしょうか。
こちらも最近修復されたようで大切に使われています。
8千軒長者の館(旧農協) 昭和初期か










千軒長者の館。昭和初期頃か。
9千軒長者の館










元農協の建物だったとか。建築年代は不明ですが、建物の様式から浜野路公民館・脇公民館と同じ昭和初期頃かと。設計施工も中西熊太郎かもしれません。現在は北前船資料館や販売店となっています。
10由良小学校正門










由良小学校の正門。由良小学校の建物は失われてますが、正門の門柱と塀は残されています。
由良小学校










外周の塀と正門はほぼ当時のまま。
由良小学校








かつての由良小学校。この校舎が残ってたら、さぞかし見ごたえあったでしょう。
由良神社










近年、ブラウザゲームの「艦隊これくしょん 艦これ」の影響で、軽巡洋艦由良ゆかりの場所(軽巡洋艦由良は由良川から命名)としてファンが訪れるようになりました。ここは由良神社。最近ファンが自主的に掃除をして新聞の記事になってました。
人気ゲーム「艦これ」聖地で清掃交流 キャラ名由来の由良神社にファン、住民と絆 | 京都新聞
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由良地区にある丹後由良駅の駅構内はファンが持ち込んだ由良さんグッズ等でいっぱい。
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地元の人も割と乗り気のようです。
IMG_6258










由良由良してきたwww
艦これと言えば隣の舞鶴で以前から盛り上がってますが、宮津市にも派生して影響を感じますね。由良地区に新たな名所が出来て若い人が訪問するのは良いですな。由良神社の社務所で交流会もあったことですし。
由良さん







ちなみに我が艦隊の由良さん(ケッコン済み)。実家の街が由良川を流れる街で、由良川は昔から親しみのある川だったので、艦これのプレイ当初から手に入る由良さんには思い入れがありましたねぇ。


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2020年04月09日

旧海軍舞鶴鎮守府水道施設遺構群・探索レポ日記。

2020年4月4日、舞鶴市にある与保呂浄水場の一般公開に行ってきました。
与保呂浄水場のある岸谷貯水池と上流の桂貯水池は、旧海軍の舞鶴鎮守府所属の艦艇に補給する用水を確保するために作られた軍用水道施設で、明治33年に桂貯水池、大正10年に軍用水源地増強のため岸谷貯水池が造られました。現在は舞鶴市水道局の管理となっていますが、近代水道施設として貴重な存在であるため、平成15年に桂貯水池・岸谷貯水池とも国指定重要文化財に指定されました。

まずは岸谷貯水池へ。
1岸谷貯水池










岸谷貯水池沈砂池。大正時代当時のもの。
2岸谷貯水池取水口










岸谷貯水池取水隧道。旧海軍時代の姿を良くとどめている遺構。
3岸谷貯水池放水路海軍マーク










隧道のキーストーン(要石)の部分には海軍の二重波マークが。
扁額がありますが、「科」の横の文字が読めないw
ちなみに、堰堤上には当時の取水塔が残されていますが、今回失念してしまいました。来年行けましたら撮影して追記したいと思います。
5岸谷貯水池水飲み場










古そうな水飲み場。蛇口部分は新しくなってますが、コンクリートの本体が古そうにみえます。
当時のものかは分かりませんが。
4岸谷貯水池放水路










岸谷貯水池の東側には放水路があります。これも当時のもの。
この放水路の東側に何やら整地をした区画があり、気になって探索したところ、
6岸谷貯水池貯水槽跡







コンクリートの構造物を発見。ポンプの金具のようなものもあり、貯水槽の跡ではないかと推測。
7岸谷貯水池貯水槽跡鉄蓋










貯水槽跡と思われるコンクリート構造物の側には鉄蓋があるのを確認。ただ、錆が酷く銘文やマークなどは確認できず。よく洗うと判明するかもしれませんが。
IMG_3744










こちらは、かつての舞鶴海軍工廠だったJMU舞鶴事業所の正門前に残された錨マーク入りの海軍工廠時代のマンホール。参考までに。
さらに、貯水槽跡の周囲には。
8岸谷貯水池海界境界杭1













海軍施設の境界杭である「海界」の石柱が。
与保呂浄水場遺構配置図







岸谷貯水池東側の遺構配置図。上の境界杭は番号
9岸谷貯水池海界境界杭2










番号の境界杭。「海界」の「界」が埋もれています。
10岸谷貯水池海界境界杭3













番号い龍界杭。
11岸谷貯水池海界境界杭4













番号イ龍界杭。ここには恐らく後述の桂貯水池へと至ると思われる旧道が残されており、配置からこれら4本の境界杭は道の境界を示すものであったかもしれません。
岸谷貯水池から上流に向かって進むと、最初に作られた軍用水道施設である桂貯水池に至ります。
12桂貯水池堰堤1










桂貯水池堰堤。明治33年に完成した舞鶴の軍港に停泊する艦船へ水を供給する軍用水道の貯水池で、やや下流にある現在は駐車場となっている広場から伸びる旧道を進むと堰堤の下へと至ります。
旧道の法面には当時の石積が残されています。
※桂貯水池の堰堤上は立ち入り禁止となっています。
13桂貯水池堰堤2










桂貯水池堰堤を正面から。丁度クレストゲートから水が越流していました。石張りの堰堤から流れ落ちる3本の水流。美しい姿・・・。
14桂貯水池水門







堰堤の横には取水口隧道が。扁額には海軍中将伊藤雋吉の揮毫による「清徳霊長」の文字が刻まれています。
16桂貯水池水門海軍マーク










取水口隧道のキーストーンには岸谷貯水池と同じく海軍の二重波マークが。
15桂貯水池水門内部







内部は煉瓦造りになっています。
17桂貯水池海界境界杭










桂貯水池の道沿いにあった「海界」の境界杭。

あとから知ったのですが、この桂貯水池の上流に同じく重要文化財に指定されているいくつかの堰堤があるようなので、岸谷貯水池の取水塔と合わせて後々探索したいと思います。



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2019年12月15日

本野精吾邸一般公開レポ日記。(2017年8月6日探訪)

0本野邸一般公開













※この記事は2017年8月6日に訪問した本野精吾邸一般公開のmixiでの記事を転載&再編集したものです。
今年(2017年当時)の京の夏の旅、文化財特別公開に立命館大学の側にある本野精吾邸が一般公開されると知り、見学に向かいました。
本野精吾は大正から昭和初期にかけて活躍した建築家で、モダニズム建築の先駆者として知られています。
本野精吾の家族は父親が読売新聞創業者、兄が外務大臣、4代目読売新聞社長、京都帝国大学教授というエリート一家でした。
本野精吾は東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、関西の戦前の建築界のボスともいえる武田五一の招きで京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授となりました。
そのため、西陣織物館(現・京都市考古資料館)を除いてほとんどが京都高等工芸学校に関わる建物を設計しており、京都工芸繊維大学3号館・旧鶴巻邸(元京都高等工芸学校学長邸)(※いずれも現存)などが代表作として知られています。
1本野邸外観










2本野邸外観










本野精吾邸外観。
この本野精吾邸は自身の邸宅として大正13年に建てられたもので、当時としては先駆的だった中村鎮式コンクリートブロックにて建てられています。
本野精吾邸は20年前、見に行ったことがあります。当時はほとんど知られておらず迷いに迷ってたどり着いた本野邸は前庭が草木で覆われ門からちらっと建物が見える程度。しかも当時はご子孫が住まわれていたためあまりジロジロ見ることできず写真を何枚か撮影して立ち去りました。
あれから20年ぶりに訪れた本野邸は住まわれなくなった代わりに文化財指定を受けて隣に住むご子孫が大切に保管され、前庭に蔓延っていた草木も取り払われて門からよく見えるようになりました。 
今回初の一般公開ですが、20年前はまず見学できるとは思いもよらなかったこの機会に感慨深いものを感じました。
4本野邸門柱













門の表札。煉瓦の門柱にタイルで「本野」の表札が作られた洒落たもの。当時の物です。
5本野邸玄関













本野邸の玄関。一部煉瓦が使われていますが、建物本体は中村鎮式コンクリートブロックを用いたもの。中村鎮式コンクリートブロック、通称・鎮ブロックはL字型をしたコンクリートブロックで、建築家・中村鎮が考案しました。中村鎮は本野精吾と交流があり、京都事務所を本野邸の隣に建ててます。これに関しては後述します。
6本野邸リビング










本野精吾邸1階内部。大正時代の建物とは思えないモダンさ。
8本野邸窓










1階窓。本野邸の特徴は天井が低いこと。これは2階へ通じる階段を緩やかにするため天井を低く抑えたことによるものですが、逆に部屋に圧迫感を与える弊害も。そこで本野精吾は窓の開口部を広く取り、腰板部分も低くして開放感を与える設計をしました。
9本野邸暖炉










1階の暖炉。暖炉の金属の板には葡萄のデザインがされています。
これも本野精吾のデザイン。本野精吾は客船の内装のデザインもしていたそうで、他にドアノブやネジ式鍵のつまみにも洒落たデザインが施されています。
この暖炉、良く見たら奥に焦げた後や煤がついていて、実際に暖炉として使用されていたようです。
10本野邸階段













階段部分も全く装飾の無いデザイン。
11本野邸2階部屋










12本野邸2階部屋










2階内部。こちらは1階以上に窓の開口部を多く取り、2階からの眺望を考慮されているようです。
13本野邸裏口













一旦外に出て本野邸の裏へ。こちらは南面。勝手口玄関の上にベランダがあります。
14本野邸池










その傍らにある睡蓮池。聞くところによるとこれも当時の物らしいとか。この池も本野精吾の設計でしょうか。
15本野邸背面










本野精吾邸の裏面。20年前ではます見ることが叶わなかった場所。
壁面に植物の痕がついてます。近年の整備で取り払われた跡なのでしょう。
16本野邸便所










その裏手に小さな小屋があります。最初は燃料とか入れてる小屋だったのかなとも思いましたが(昔の小学校とかにはこういう感じのコンクリートブロックの灯油倉庫があった)
17本野邸便所













なんとトイレでした。機能性を重視した本野精吾が、どう考えても不便な外に離れのトイレを作ったのは意外でしたが、トイレの建物も一貫してコンクリートブロックというこだわりを感じます。
3本野邸外観










今回初めて本野精吾邸を見学するという機会に恵まれ、まだまだ装飾的なデザインが多かった大正期において先駆的なモダニズム建築として建てられたこの本野邸は90年以上経っているとは思えないモダンさでした。
18中村鎮建築研究所京都出張所










さて、先ほどの本野精吾邸の南隣に白い洋館があります。最近の建物のようにも見えますが、壁面を良く見ると本野邸と同じサイズのコンクリートブロックとおぼしき目地が。
INAXREPORTの本野精吾の特集には、本野精吾邸の隣にあった中村鎮建築研究所京都出張所の古写真があります。
http://inaxreport.info/data/INAX171_04_14.pdf
※INAXREPORT本野精吾特集(pdf)
この写真を見ると、屋根や南側の増築や窓の改修等の改変はありますが、窓の配置や庇などはまさに古写真と同じで、中村鎮式コンクリートブロックで建てられたこの事務所は、本野精吾が設計した可能性があり、大正13年築の中村建築研究所が現存していることになります。
古城邸









また、20年前に本野邸を見るためこの場所を訪れた際に偶然見つけた古い洋館。
本野邸・中村事務所の1件飛んだ南の十字路の角にあったものですが、当時は京都の建築に詳しい人から中村鎮建築事務所と聞かされていました。
しかし、ツイッターでの指摘や本野邸でのスタッフさんの話やINAXREPORTでこの建物の正体が判明。古城鴻一という京都高等工芸学校の教授の邸宅だった建物で、やはり中村鎮式コンクリートブロックによる本野精吾が設計した可能性があるという建築。大正13年12月完成という本野邸・中村事務所とともに同時に建てられた形となります。
この旧古城邸は恐らく2000年前後に取り壊されて現存してませんが、かつてはこの狭い通り沿いに3つの中村鎮式コンクリートブロックのモダニズム建築が並んでいたことになります。建築時期も同年に3件一度に建てられたことから、本野精吾は自邸を含め自身が進めていた中村鎮式コンクリートブロックでのモダニズム建築住宅による新たな街並みをも実験的に造ろうとしていたような気がしました。
19藤井厚二設計住宅










20藤井厚二設計住宅










余談ですが、本野精吾邸のすぐ近くに藤井厚二設計と言われる住宅が残されています。
藤井厚二は日本の風土に適した住宅を目指した建築家で、重要文化財に指定されている大山崎町の聴竹居をはじめいくつかの作品が残されており、京都市内にも何件か現存しています。


besan2005 at 09:40|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 住宅建築

2019年11月27日

京都市・二条〜西院〜壬生・大宮界隈の近代建築探索レポ日記

7月に京都市内の二条から西院・壬生・大宮界隈の近代建築を探索してきました。
探索ルート








今回の探索ルート。サムネでは表示がおかしいですが、クリックして拡大するとちゃんと表示されるはず。地図上の番号は探索した以下の建物の番号と付随。年代の記載のある物件は「京都市近代化遺産調査報告書」掲載の物件です。
探索は二条駅からスタートし、まずは北へ。
1洋風住宅 西ノ京内畑町










\哨竜内畑町の町屋に洋館が付いた感じの住宅。
2西植司法書士事務所 西ノ京内畑町










△垢斡瓩の事務所建物。
ここから西へと向かいます。
3田村製作所 西ノ京東中合町










E賃疾什扈蝓西ノ京東中合町。大通りに近いめっちゃ街中にこんな古い木造の工場事務所建築があるとは…
4田村製作所










門も当時のものが残されていますが、結構古く感じます。戦前くらいはあるでしょうか?
さらに西へ。
5島津製作所E31棟 西ノ京西中合町 昭和12年










づ臘点什扈E31棟。西ノ京西中合町。昭和12年。
島津製作所三条工場は大正8年に開設されましたが、昭和9年の室戸台風で壊滅的な被害を受け、昭和12年に近代的な鉄筋コンクリート造の社屋等が建てられ、以後島津製作所の中心地となりました。その建物もここ最近次々と建て替えられていき、わすが現存しているものはわずかとなりました。このE31棟は数少なくなった昭和12年築の戦前の建物。
6島津製作所E31棟










ただ、現在は空き家状態に見えます。かつては研究棟だったらしい・・・
7島津製作所E31棟










玄関部分。
島津製作所三条工場1










10年ほど前までは本社屋はじめ戦前築の社屋が数多くありましたが、ほとんど建て替えられてしまいました。この写真の社屋も現存していません。
8砂原邸 西ノ京月輪町










ヅ臘点什扈E31棟の西にある黒壁の洋館。
9砂原邸










表札が分からなかったのでどなたが住まわれているかは分かりませんでしたが、大切に住まわれているようで建物の状態は非常に良いです。
ここから西院方面へ向かうため南下していきます。
10永巧舎 壬生西大竹町 昭和初期










Ρ聞舎。壬生西大竹町。昭和初期頃か。洋風の外観の民家が2棟並ぶ箇所。現在は民泊施設になってますが、かつては戦前の分譲住宅だったようです。
11永巧舎










検索すると内部も当時の雰囲気を残した感じでリノベーションされており、どことなく懐かしさを感じる良い雰囲気です。
12永巧舎向かいの洋風住宅










永巧舎の向かいには似たような建物があり、恐らくこの一帯は戦前の建売住宅の分譲地だったように思えます。
12秋山邸 壬生西大竹町 昭和初期










A邸。壬生西大竹町。昭和初期。まるで「うろこの家」のような洋館。
13秋山邸










棟続きですが門柱と玄関がそれぞれ2つあるため、本来は2世帯の長屋みたいな感じだったようですね。今も世帯が違うのかも。
14松浦邸 壬生西大竹町 昭和初期










M邸。壬生西大竹町。昭和初期。下見板張りのシンプルな洋館です。
15宮本邸 壬生西大竹町 昭和初期










M邸。壬生西大竹町。昭和初期。┐M邸とは名字が異なります。こちらも下見板張りのシンプルな洋館。
壬生西大竹町の洋館群を見た後、東へと向かいます。
16芥川医院 壬生森町 大正から昭和初期










芥川医院。壬生森町。大正から昭和初期。今回の探索で一番見たかった建物。
17芥川医院













当時の姿が良好に残されている洋館医院。素敵な外観です。
18芥川医院










国登録有形文化財になってもおかしくない建物だよなぁ。
さらに東へ。
19芋松温泉 壬生森町










芋松温泉。壬生森町。住宅街の中にこんな趣のある銭湯があるとは。
20芋松温泉










確実に戦前はありそうな雰囲気。
21芋松温泉










堂々たる玄関の唐破風屋根。銭湯ファン界隈では有名なようで、検索したらレポートが結構出てきました。ただ、具体的な建築年が載ってないのが残念。
22三川邸










M邸。壬生森町。Googleの航空写真を眺めていて気になった建物。ただし、ストビューの見れない箇所だったため実際に行ってようやく判明。
21三川邸 壬生森町










確実に戦前物件かとは思います。目を引くのは2階にある、まるで手水鉢みたいなベランダ(多分)。なんでこんなデザインにしたのか分かりませんが、何というか見た目が重々しいw
奥の丸窓の建物も気になりましたが、庭木で良く見えませんでした。
このM邸のすぐ隣に明治期の洋館の旧本館や煉瓦の工場棟群がある旧京都綿ネル・日本写真印刷がありますが、今回はスルーしそのまま南へ。
23京都リベラルアーツ 壬生森町










京都リベラルアート。壬生土居ノ内町。大正から昭和初期。
擬石洗い出しモルタルの外壁の洋館。
25西大路アパート










西大路アパート。西院平町。昭和13年。今となっては数少ない戦前のアパート建築。
24西大路アパート 西院平町 昭和13年










反対側から。現在はアパートとして使われていないようで、貸倉庫の看板が掲げられていました。
東へ向かいます。
26小谷与染工場 中堂町庄ノ内町 昭和初期













小谷与染工。中堂寺庄ノ内町。
この近くに大型の洋館を見つけたのですが、かなり奥まった場所にあり撮影できる隙間がほどんどないため写真は断念。
南下し五条通に出た後、JR丹波口駅方面へ。
27中央湯 中堂寺北町 昭和2年










庵羆湯。中堂寺北町。昭和2年。現在は廃業していますが、数年前までは営業していたようです。
28中央湯










外観はリニューアルされてますが、側面は当時の面影を残していました。
29中央湯













奥にはコンクリート造の建物が。ボイラー室でしょうか。中央湯は近くの中央卸売市場で働く人たち用の銭湯だったと京都市近代化遺産調査報告書に書かれていました。
北上していきます。

35末松邸 壬生椰ノ宮町 大正から昭和初期










S邸。壬生椰ノ宮町。新選組で有名な八木邸の近くにある洋館付き住宅。
36末松邸










付属の洋館は2階建ての大型のもの。どことなく和風っぽい雰囲気も感じます。
37末松邸













昭和初期頃でしょうか。戦前であるのは間違いないかと。
30末松工務店 壬生椰ノ宮町 大正期










暇松工務店。壬生椰ノ宮町。洋風事務所建築。軒周りの雷文とデンテルの装飾がオシャレ。
31末松工務店










玄関部分。玄関の庇にも装飾があり中々凝っています。
32 末松工務店邸宅 壬生椰ノ宮町 大正期か










海修遼松工務店の背後に、末松工務店の住宅棟と思われる豪奢な洋館が建っています。
33 末松工務店邸宅か










今回の探索で一番豪華な洋館かもしれません。
34 末松工務店邸宅ステンドグラス













丸窓にはステンドグラスがありました。他の窓にもステンドグラスらしきものが。スクラッチタイルの外壁・建物外観の意匠から昭和初期頃でしょうか。外観だけでこの雰囲気ですから内部はさらに立派でしょう。
壬生を離れ東に向かいます。
38梅鉢医院 風早町 大正から昭和初期










看瀏医院。風早町。大正から昭和初期。まさに戦前の町病院といったたたずまい。
40梅鉢医院










奥行きはそこそこありますね。
39梅鉢医院










開発の相次ぐ京都の市街中心部に未だこういう戦前の洋風医院が残されているのは嬉しいですね。
42美髪館










21.美髪館。石井筒町。昭和2年。近代建築界隈では有名な建物。
41美髪館 石井筒町 昭和2年










実は20年前の学生だった頃に見かけて写真を撮った記憶がありますが、当時はほとんど知られていない無名の建物でした。当時はそれ以上に名建築と呼ばれる戦前の近代建築が京都市内にはたくさんありましたからねぇ。
43美髪館










あれから20年あまり。京都市内の各所にあった多数の大型の近代名建築は次々と姿を消し、美髪館のような小さな近代建築も貴重な存在となっていきました。
44美髪館










この美髪館は今でも理容室として営業されています。ずっと残ってほしいものです。
ここから二条駅方面へ向け北西に進んでいきます。
45星華通商 畳屋町 昭和初期










22.innk。畳屋町。昭和初期。元々は商店だった建物。軒周りなどに装飾があります。現在は宿泊施設になっているようで、内部はだいぶ改装されています。
46太田医院 壬生朱雀町 昭和初期










23.太田医院。壬生朱雀町。昭和初期。洋館の個人医院。今回探索した戦前の医院、芥川医院・梅鉢医院・そして太田医院とも洋風の外観ですね。やはり洋館の病院というのは一種のステータスみたいなものだったんでしょうか。
47太田医院










現在は廃業されていますが、個人宅として使われているのか荒れた感じには見えませんでした。

今回の探索はここまで。今回も多くの良質な近代建築に出会えました。今回出会った建物がこの先もずっと残っていれば良いのですが、最近は気が付いたら取り壊されていて消滅(訪問して2か月後には消滅ということも)することがしばしばあるので油断できない状況ですね。



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2019年11月19日

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構探索レポ日記(地下工場編)

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












先日探索した鈴鹿海軍工廠関分工場の地下工場編です。
関分工場は空襲の激しくなりつつあった昭和20年1月に鈴鹿海軍工廠の工場機能のいくつかを5か所に疎開させることに決定。そのうちの1つが三重県亀山市関の関分工場です。
関分工場は観音山に掘られた地下壕に工場機能を移した地下工場で、地下壕を構築した鈴鹿海軍工廠の疎開工場は関分工場と高山分工場でした。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
※鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記
前回は関分工場の遺構のうち、地上部分に残る遺構群の探索レポ日記を紹介しましたが、
※鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地上遺構編)
今回は有名な地下工場の地下壕群のレポ日記です。
なお、今回の探索にあたっていつもお世話になっている藎忠報國様(ブログ・大日本者神國也)からの情報と提供された資料を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
関分工場地下壕配置図











鈴鹿海軍工廠関分工場地下壕配置図。今回私が確認した地下壕です。藎忠報國様の資料やほかの方のレポを見ると確認できてない地下壕もあり、特に西側の谷へと抜けている反対側の入り口はほぼ確認できず。草ボーボーでしたからねぇ。あと、各地下壕は横穴で繋がっているようですが、入って確認したわけじゃないので(入口から確認できたものもあり)今回は明記していません。
40地下壕群遠景










地下壕群は観音山テニスコートの北の道路から東へ進んだ交差点の北へ延びる道の両側にあります。
41地下壕1










地下壕 J頂燭気譴晋園の裏にある地下壕。入口はコンクリートで固められています。公園自体がフェンスで囲まれてしまっているため入口にすら近寄れず。
42地下壕2入口










地下壕入口。
43地下壕2内部










地下壕内部。地下壕自体は厳重に封鎖されているので中には入れませんが、入り口から内部の様子は伺えます。この時のために用意した3500ルーメンのライトが役に立つww
地下壕△呂靴辰りしたコンクリート造で崩落もなし。恐らく地下壕,汎韻犬最初期に造られた壕だと思います。
44地下壕3入口










地下壕F口。ここから入口部分が素掘りに・・・
45地下壕3内部










内部は手前側の腰部のみコンクリートが残されています。奥は素掘りです。コンクリートの瓦礫が見当たらないので奥は最初から素掘りだったのかもしれません。支保工無しとは危険すぎる…
46地下壕4入口










地下壕て口。地下壕0聞漾入り口は全て素掘りです。
47地下壕4内部










地下壕て睇堯こちらは奥の方は天井までコンクリートが残されていますが、手前側は腰部しかありません。崩落してしまったようです。
48地下壕5入口










地下壕テ口。
49地下壕5内部1










地下壕テ睇堯手前の鉄柵扉のせいで光が奥まで届かない…。コンクリートは巻いてたようですが崩落しています。それにしてもコンクリートが薄い。物資不足の戦争末期とはいえこんなお粗末なコンクリート巻きではアーチにしても持たないでしょう。コンクリートの質も悪かっただろうしそりゃ崩落しますわ。内部に入ってのレポをされているサイトを見たことありますが、危険極まりない行為かと。
51地下壕6入口










地下壕ζ口。やや斜めになっている入口です。
52地下壕6内部










地下壕ζ睇堯こちらも同様にコンクリート巻きの崩落が激しい。
53地下壕7入口










地下壕入口。
54地下壕7コンクリート










地下壕Г瞭り口手前には大きなコンクリートの残骸がありました。
55地下壕7内部










地下壕内部。手前側の崩落がひどいですが、奥の方は比較的保たれています。
56地下壕8










地下壕入口。かなり上の方にあり足場的に危険と判断したため道路からの遠景のみ。
57地下壕9入口










地下壕入口。
58地下壕9内部










地下壕内部。ここはコンクリートは巻かれておらず素掘りのままでした。しかしコンクリート巻きの他の壕より崩落が少ないのは皮肉。
59地下壕10入口










地下壕入口。
60地下壕10内部










地下壕内部。こちらも素掘りですが崩落はほとんどなく、両側の排水溝も確認できるくらい状態が良いです。岩盤の質にもよるでしょうけど質の悪いコンクリートをく薄くり巻くより丈夫なのかも。それでも支保工無しは怖い…
61地下壕11










地下壕入口。ここも結構上にあり登るのは危険と判断し道路からの遠景撮影。恐らく地下壕・と同じく素掘りと思われます。
62地下壕A










次に西側の谷の道路へ。地下壕A入口。恐らく地下壕の西口かと。このほかにも東側に入口を開けている地下壕の西口がいくつもあるようですが、前述の通り草で覆われ確認できず。
63未成地下壕1










地下壕Aのある道路の崖下には作りかけの地下壕が3つあります。これは未成地下壕 
64未成地下壕2










未成地下壕
65未成地下壕3入口










未成地下壕F口
66未成地下壕3内部










未成地下壕F睇堯A之,蠅覇口から4~5mまで掘られていました。

鈴鹿海軍工廠関分工場の地下工場は掘られた15本の地下壕のうち2本の地下壕で機銃を生産し2本に旋盤が置かれたとのことで、ほとんどが未完成もしくは使われなかったようです。高山分工場の地下壕もですが、工事が開始されたときはもう遅かったんでしょうね・・・。



besan2005 at 19:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年11月17日

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地上遺構編)

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












戦争末期の昭和20年になると空襲も激しくなり、同年1月に鈴鹿市にあった鈴鹿海軍工廠は工場機能のいくつかを疎開させることが決定。疎開先の5か所が選定されそれぞれ工事が開始されました。うち岐阜県高山市の高山分工場と三重県亀山市関町の関分工場は山の麓に横穴を掘って作られた地下工場でした。
しかし、関分工場は一部のみ稼働。高山分工場は地上の仮工場のみ稼働し地下工場は未完成で終わりました。

※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
※鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記

今回は三重県亀山市にある関分工場の遺構群を探索してきました。
地下工場編のレポ日記はこちら。
※鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地下工場編)
44地下壕3入口










関分工場と言えば観音山麓の地下壕が有名ですが、実は地上にもいくつか遺構が残されています。まぁ、ずっとモグラみたいに過ごすわけもいかないわけですしね。なのでレポ日記は地上遺構編と地下壕編の2つに分け、今回は地上遺構編としていきます。

なお、今回の探索にあたっていつもお世話になっている藎忠報國様(ブログ・大日本者神國也)からの情報と提供された資料を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












なお文中の各遺構の番号は作成した位置図に従っております。

1第四寄宿舎遠景










´第四寄宿舎。寄宿舎ということは動員学徒が生活していた建物でしょうか。横長の長屋のような建物が2棟残されています。
2第四寄宿舎










奥の建物(番号)は昭和21年の航空写真を見る限り、規模・位置とも当時のままと思われます。
3第四寄宿舎










別角度から。
4第四寄宿舎










右奥側は当時の外観を良く残しているようです。しかし言っちゃ悪いですが粗末なつくりですね。戦争末期だから仕方ないとはいえ。
5第四寄宿舎










手前側の短い棟(番号)ですが、昭和21年の航空写真にはその場所には建物が存在していませんが、建物の造りが酷似しているので、恐らくどこかの工員宿舎を切り詰めて移築したものと思われます。 
6第四寄宿舎井戸か










寄宿舎の建物の前には井戸がありました。コンクリートの感じから当時のものと思われます。

12第八工員宿舎遠景










ぢ菷工員宿舎。こちらも現存している建物でしたが・・・訪れた時はフェンスが。なんと取り壊し中。
13第八工員宿舎










手前の工員宿舎(番号)は昭和21年の航空写真を見ると位置は当時のままのようですが切り詰められ短くなっています。
奥の建物(番号)は航空写真にはその位置に建物はなく、第四寄宿舎の手前の建物()と同様別の宿舎の建物を移築してきたものと思われます。
15第八工員宿舎










移築されたと思われる宿舎建物()。
14第八工員宿舎近景










アップ。
16第八工員宿舎










別角度から。どうも火事を起こし一部が焼失したようで梁や柱が焼け焦げていました。老朽化もあり取り壊されることになったのでしょう。
IMG_4820










積み上げられた廃材…。
17第八工員宿舎井戸










工員宿舎のそばには井戸がありました。
18第八工員宿舎井戸










ポンプは当時のもののようです。
19第八工員宿舎ベタ基礎










これは当時の宿舎のベタ基礎でしょうか。

7移築官舎か










先ほどの第八工員宿舎から西へ進むと見える古い木造建物(番号)。
昭和21年の航空写真にはこの場所に建物は存在していませんが、一般の住宅とは違うように見えるどうも気になる作り。いわば「カタギの建物じゃない」建物といった感じでしょうか。
8移築官舎か










右側から。
9移築官舎か










左側から。
10移築官舎か










側面。これまで鈴鹿海軍工廠や舞鶴市の朝来第三火薬廠・宮津市の第三十一海軍航空廠など色々な官舎・宿舎を見てきましたが、それによく似た感じなんですよねぇ。切妻屋根の玄関・寄棟屋根・庭側に作られた庇など。ちなみにここから真っ直ぐ上った突き当りに関分工場の診療所があったようです。
決定的な裏付け資料がないので断定できませんが、移築されてきた建物ではという可能性も考えて紹介。
11移築宿舎か










先ほどの建物Гら登った先に移築されてきた可能性のある建物┃があります。規模的に工員宿舎の長屋にも見えるんですよね。あくまで可能性として紹介。
20移築事務所か










さらに西へ進み、関神社御旅所の隣に古い木造建物(番号)があります。
21移築事務所か










番号の建物東面は当時と思われる外観が良く残されていますが
22移築事務所か










西面は大破しており廃屋となってます。
23移築建物か










奥にある番号の建物。
この辺りには事務所建物があったようで位置的にはこの建物とだいたい同じ個所にあったようですが、建物の向きと規模が異なります。全くの推測ですが、事務所建物を再利用し民家として使用していたのでは。
27事務所基礎か










建物の西側の空き地には当時の事務所の基礎の一部と思われるコンクリートがあります。
25浴場跡










番号の建物の北側には浴場跡(番号)があります。
24浴場跡










別角度から。
26浴場跡小便器










傍らには小便器も残されていました。そういえばトイレっぽい間仕切りのある一画もありました。
この周辺には炊事場や浄水場もあったようですが、雑草に覆われまくり確認不可でした。この浴場跡だけ雑草が無く、遺構という認識で手入れされているのかも。だとするとありがたいですが。

28取水塔遠景










国道25号線を渡り、焼肉びっくりや(結構有名な店らしい)の裏手の川の中に円筒形のコンクリート構造物があります。これは関分工場時代の取水口(番号)とのこと。
29取水塔










望遠でアップ写真を撮影。この背後にポンプ場があったようです。

30鍛錬工場跡










観音山公園へ向かい、テニスコートへ。その背後に整地した平坦地があります。ここは鍛錬工場(番号)があった場所。
31鍛錬工場コンクリート基礎










わずかに基礎と思われるコンクリートの構造物が残されています。
32汽缶場跡煙突











その隣には汽缶場(番号)があり、煙突(番号)が残されています。
33汽缶場跡煙突










正面から
34汽缶場跡コンクリート基礎










汽缶場の基礎と思われるコンクリート構造物。
IMG_4910













煙突の手前には長方形の大きな穴があります。これも汽缶場の遺構と思われますが、何せ周りが草に覆われていて分かりづらく足を踏み外す可能性があるので注意!
35汽缶場跡煙突










汽缶場の番号の煙突の上にも煙突の遺構(番号)があります。
36汽缶場跡煙突










正面より。耐火煉瓦らしき煉瓦で作られています。
37汽缶場跡煙突土管










付近には陶製の土管の破片が散乱しています。恐らく常滑焼。
39貯水槽跡










汽缶場跡から東に道を進んだ先の崖の上の公園に貯水槽跡(番号)があります。頑丈なコンクリート製たものと思われますが破壊され一部のみ残されています。恐らく公園整備の際に危険なので破壊したのでしょう。
40地下壕群遠景










汽缶場と貯水槽との間に交差点がありますが、その交差点の北に向かう道の両側の崖面に地下工場として掘られた地下壕が複数(管理人は11本確認。どうやら14本あるらしい)存在しています。
41地下壕1










交差点角の公園に一番近い側にある地下壕 残念ながらこの地下壕は道側まで厳重に柵がされており、入り口にすら近寄れませんでした。
42地下壕2入口










43地下壕2内部










しかしそれ以外の地下壕は(一部を除き)入口まで近寄ることができ、柵がされていたので入口からのみでしたが内部を観察することができました。次回は地下壕編として鈴鹿海軍工廠関分工場地下工場の地下壕を紹介していこうと思います。



besan2005 at 21:10|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年11月13日

JR嵯峨野線・八木駅舎&千代川駅探訪レポ日記。

3八木駅舎正面











京都府南丹市にあるJR嵯峨野線・八木駅は昭和9年に建てられた戦前の木造駅舎です。
嵯峨駅舎









10年ほど前までは明治30年築の嵯峨嵐山駅(当時JR西日本管内で最古の現役駅舎だった )や
旧亀岡駅2








旧亀岡駅1









昭和11年築の亀岡駅がありましたが、いずれも姿を消し(明治37年築の二条駅舎は梅小路に移築され現存。)JR嵯峨野線管内で現役の戦前駅舎は昭和10年築の千代川駅と昭和9年築の八木駅のみとなりました。
その八木駅も建て替えが決まり、2019年の9月には姿を消すと聞き、同年7月に訪問してきました。
合わせて同じく戦前の昭和10年築である千代川駅にも訪問してきました。
1八木駅舎外観










八木駅外観。
2八木駅舎外観










八木駅外観その2。昔懐かしいレトロな木造駅舎です。
4八木駅舎玄関










八木駅の正面入り口。丸窓が特徴的です。
5八木駅舎待合室










待合室内。
6八木駅舎待合室










改装されてはいますが昔懐かしい雰囲気が残されていますね。
7八木駅舎ホーム










駅舎側ホーム。
9八木駅舎ホーム










反対方向。
10八木駅舎ホーム古レール










ホームの骨組みには昔の駅らしく古レールが再利用されています。
IMG_3668













古レールを観察すると銘があるのが分かり、「1910」や「1881」の西暦があるのを確認しましたが、厚く塗られた塗装で判読しきれませんでした。
11八木駅舎跨線橋










跨線橋も駅舎と同じころの物と思われる古いもの。
12八木駅舎跨線橋看板













跨線橋の壁に付けられた古い看板。国鉄時代の物でしょうかね。
14八木駅舎跨線橋内部階段










跨線橋の階段。
13八木駅舎跨線橋内部










跨線橋の連絡通路。トラスの鉄骨もリベット打ちの古いものですね。
15八木駅舎跨線橋内部階段










跨線橋の階段2。
16八木駅舎反対ホームより










反対側ホームから駅舎を望む。
17八木駅舎反対側ホームより










別角度から。
18八木駅舎ホーム待合










反対側のホームにある待合室。
19八木駅舎ホーム待合










ホーム上屋側から。結構モダンな造りで戦後の物かなと思いましたが、
20八木駅舎ホーム待合管理表










貼られていた建物財産標には昭和18年9月の文字がありました。意外と戦前の建物でした。
IMG_3684










撮影中、ちょうど電車が入ってきました。もうこの姿を見ることは出来ませんね。

IMG_3688










八木駅から1駅京都方面に向かった側の亀岡市にある千代川駅にも行ってきました。
千代川駅は昭和10年に建てられた小さな無人駅です。
IMG_3687










駅舎の入り口側。
IMG_3689










駅舎内の待合室。
IMG_3691










ホーム側。
IMG_3690










一部増築部分はありますが、駅舎に付属している屋根は当時のもの。
規模は小さいですが八木駅が建て替えとなる中、JR嵯峨野線管内では唯一の貴重な戦前の駅舎となります。この千代川駅の駅舎もいつまであるか分かりませんし。



besan2005 at 20:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索レポ日記

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9月17日より1ヶ月半余り出張で岐阜県の高山市に滞在して休日に高山市内の近代建築を探索していましたが、
※高山市の近代建築探索レポ日記 - BESANの歴史探訪
滞在中に隣町の飛騨市の飛騨古川町でちょうど新そば祭りが行われたため、そば祭りと合わせて飛騨古川の近代建築探索をしてきました。飛騨古川町も範囲は狭いですが古い街並みの残る観光地で、街中にはいくつもの近代建築が存在していました。

1旧河合療院 古川町弐之町 昭和3年










〇旧河合療院。古川町弐之町。昭和3年。
2旧河合療院










飛騨古川町を代表する洋館ですね。いかにも戦前の町の医院と言った佇まい。
3旧河合療院













外観も良く保たれてますが、現在は向かいの場所に河合療院の新たな建物が建てられこちらは使用されていないようです。内部を見てみたいものです。国登録有形文化財。

4渡邉家住宅土蔵別館 古川町壱之町 昭和9年













〇渡邉家住宅土蔵別館。古川町壱之町。昭和9年。
造り酒屋の大きな商家の裏手に建つ洋館。何故かこの建物だけ洋風。
5渡邉家住宅土蔵別館










裏手の様子。いい雰囲気ですね。
渡邉家










表側の主屋も含めて国登録有形文化財。

6加藤邸 古川町壱之町 昭和初期か










K邸。古川町壱之町。昭和初期か。
街中を歩いていて見かけた住宅。何となく洋風の雰囲気を漂わせる感じだったので開いてたガレージになっている部分を拝見すると…
7加藤邸内部洋室










タイル張りの床に洋風の窓。そして壁に作り付けの机(元は暖炉?)と中々良い雰囲気のスペースが。元は応接室だったんでしょうかね。

7洋風商店 古川町壱之町 昭和初期か










古川町壱之町の元洋風商店。昭和初期頃でしょうか。1階は完全にガレージとなってますが、2階はオリジナルの姿が残されていました。

8馬場のかどや 古川町殿町 昭和初期か










〇馬場のかどや。古川町殿町。昭和初期か。
9馬場のかどや










2階は伝統的な商家ですが、1階はまるでカフェーのような洋風のデザイン。現在は居酒屋ですがふさわしい用途かも。

10由布衣工房 古川町壱之町 昭和初期か










〇由布衣工房離れ。古川町壱之町。昭和初期。
元は河合家別邸だった建物。大きなお屋敷です。離れのこの建物は2階部分に洋風の意匠がありますね。表門の写真を撮るのを忘れました。国登録有形文化財。

11飛騨古川駅 古川町金森町 昭和9年










〇飛騨古川駅。古川町金森町。昭和9年。
12飛騨古川駅










JR高山本線開業時からの駅舎です。10数年前までは地方都市のあちこちにこういった洋風の平屋建てのレトロな木造駅舎がありましたが、ずいぶん数が減りました。
八木駅舎










もうすぐ建て替えになるため、建て替え前に訪問した京都府南丹市の八木駅舎を思わせる昔懐かしい駅舎です。※八木駅舎の記事は後日作成予定。
13飛騨古川駅










車寄せ部分。天井部分に若干の装飾が。
14飛騨古川駅










15飛騨古川駅










待合室内部。そうそう。昔の駅舎はこんな感じでした。懐かしいですね。
16飛騨古川駅










駅のホームの上屋。できればこのまま使われ続けて欲しいです。

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この日、飛騨古川駅の裏の駐車場では飛騨そば祭りが開催されていました。10時の開場直後の様子なのでまだお客さんは少ないですが、11時になるとお客さんで一杯になり列が出来ました。
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会場では地元の蕎麦屋さんの手打ちの実演も。
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私も新蕎麦を頂きました。
DSC_0049







地元産の天然キノコを使ったきのこ蕎麦。山で採れた天然のキノコは味が濃く旨みや歯ごたえもあり絶品。蕎麦は新蕎麦の十割蕎麦で香り良くコシがあり旨かったです。
DSC_0050







1杯じゃ足りず、盛り蕎麦も注文w
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地元産のイワナの炭火焼も美味しかったです。
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飛騨古川町はさすが観光地だけあって、高山市と同じく古い町並みが良く残されてました。蕎麦も旨かったし、こちらに旅行するなら高山市と飛騨古川はセットで巡りたいところですね。
ちなみに飛騨市内には他にも飛騨神岡町にいくつか良い感じの近代建築があるようですが、距離と時間の都合で行けませんでした。ママチャリじゃなぁ・・・

君のそば













※おまけ。お蕎麦屋さんの店先にあった「君のそば」www
飛騨古川は映画「君の名は」の舞台になった町で、ヒロインの三葉ちゃんの住む糸守町のモデルですね。で、この「君のそば」・・・

君→温泉卵黄身
三葉ちゃん→三つ葉。
瀧くん→しらたき
結び→結び揚げ湯葉
赤い組み紐→飛騨の漬物

よく考えてますねw


besan2005 at 08:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

2019年11月11日

高山市の近代建築探索レポ日記

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先月まで岐阜県の高山市に出張に行ってました。1ヶ月半に及ぶ長い出張で忙しさもあり大変でしたが、おかげで観光名所や市内の近代建築をくまなく探索することが出来ました。
また、出張中に隣町の飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索も行いました。
飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索レポ日記 - BESANの歴史探訪

以下、私が探索した高山市の近代建築を紹介していきます。
1かみなか旅館 花岡町 明治21年 元遊郭










〇かみなか旅館。花岡町。明治21年。
2かみなか旅館










国登録有形文化財の元遊郭の建物。

3かみなか旅館










今はちょっとお高めの旅館となっています。中が気になるなぁ。


4柚原邸 花岡町 大正〜昭和初期










〇柚原邸。花岡町。大正〜昭和初期。
5柚原邸










下見板張りのシンプルな建物。1階部分の窓がオシャレ。
6柚原邸










反対側の窓は改装されてますね。

7遊廓の検番所か 花岡町










8遊廓の検番所か










花岡町にあった何となく気になった建物。遊郭関連だった建物?

10旧村田医院










〇村田医院。本町4丁目。昭和27年。
9旧村田医院 本町4丁目 昭和27年










戦前かと思いましたが、戦後らしいです。(高山市の近代建築リストの本より)
11旧村田医院










戦後の建物ですが建物自体は良い雰囲気です。新たな用途になるのか改装中でした。
12上野家具店 花川町 昭和初期か










〇上野家具店。花川町。昭和初期。
軒周りの飾りが素敵な看板建築。

13高山信用金庫川西支店 朝日町 昭和戦前か










〇高山信用金庫川西支店。朝日町。
昭和戦前期か。何となく古そうです。
14うつほ人形店 朝日町 昭和戦前か










高山信用金庫の向かいにある戦前っぽい看板建築。

15飛騨高山中華そば鍛冶橋 本町3丁目 昭和初期か










〇飛騨高山中華そば鍛冶橋。本町3丁目。昭和初期。
16飛騨高山中華そば鍛冶橋










軒周りの装飾が凝ってます。今はラーメン店ですが、かつては何の建物だったんでしょうね。

18三之町倶楽部 上一之町 昭和23年










〇三之町倶楽部。上一之町。昭和23年。
19三之町倶楽部










戦前の建物に見えましたが、資料では昭和23年らしいです。
20三之町倶楽部










かつては商店だったようですが、現在はイベント関連の建物になってるようです。

17たま井や 下一之町 昭和初期か










〇たま井や。下一之町。昭和初期の看板建築。

21旧山桜神社火の見櫓 本町2丁目 明治14年 昭和11年移築










〇旧山桜神社火の見櫓。本町2丁目。明治14年築。昭和11年移築。
割とランドマーク的な存在の火の見櫓です。

22天狗総本店 本町1丁目 昭和11年










〇天狗総本店。本町1丁目。昭和11年。
高山市の近代建築で一番有名な建物ではないでしょうか。
IMG_4600










西から。
IMG_4599










北から。
23天狗総本店










お肉屋さんなので「精肉」の看板があります。
24天狗総本店










屋号でもある天狗の装飾。本格的な洋風建築とバラエティーに富んだ装飾は見ていて飽きません。
国登録有形文化財です。


25駿河屋(旧北陸銀行) 本町2丁目 昭和18年










〇駿河屋本店(旧北陸銀行)。本町2丁目。昭和18年。
戦時中の建物ですが、ちゃんと列柱を施した古典様式となっています。

28旧スミ時計店










〇旧スミ時計店。本町2丁目。昭和9年。
26旧スミ時計店 本町2丁目 昭和9年










天狗総本店の向かいにある建物。
27旧スミ時計店










こちらも高山市を代表する近代建築です。

29ル・ミディ 本町2丁目 昭和初期










〇ル・ミディ。本町2丁目。昭和初期。
現在は飛騨牛レストラン。天狗総本店の斜め向かいにあり、
天狗総本店・旧スミ時計店と並んでこの一角は近代建築が集中しています。

30バグパイプ 片原町 昭和初期










〇バグ・パイプ。片原町。昭和初期。
31バグパイプ










こちらも高山市を代表する近代建築の一つ。
32バグパイプ










内部は喫茶店です。レトロな良い雰囲気。
33バグパイプ










京アニ作品の「氷菓」にも登場し、ファンの聖地となっています。
34バグパイプ













階段の親柱。店主の方に聞くと建物は昭和初期とのこと。

35旧瀬古写真館 馬場町2丁目 昭和初期










〇旧瀬古写真館。馬場町2丁目。昭和初期。
36旧瀬古写真館










高山市図書館「煥章館」の近くにある建物。割とシンプルな外観。現在は廃業。


37山岸写真館 馬場町1丁目 大正7年










〇山岸写真館。馬場町1丁目。大正7年。
38山岸写真館










飛騨護国神社の近くにある華やかな外観の写真館。
39山岸写真館










玄関の「山岸写真館」の額も当時の物かな?国登録有形文化財です。

40旧日下部味噌醤油煉瓦蔵 上一之町 大正10年










〇旧日下部味噌醤油煉瓦蔵。上一之町。大正10年。
41旧日下部味噌醤油煉瓦蔵










近代建築が豊富な高山市ですが、煉瓦建築は非常に少ないです
(もう1か所あった煉瓦建築は取り壊された)。国登録有形文化財。

42旧高山町役場 神明町 明治28年










〇旧高山町役場。神明町。明治28年。
43旧高山町役場










堂々たる近代和風建築です。
44旧高山町役場










現在は資料館となっています。なんと無料。
45旧高山町役場










こちらの和室に置かれている高山市の近代建築の資料が大変参考になりました。
今回紹介している近代建築の年代はここで判明しました。
46旧高山町役場講堂










2階の講堂。大空間に広がる格天井は迫力あります。

47洋館付き住宅 堀端町 昭和初期か










〇堀端町の洋館付き住宅。昭和初期か。
城山に向かう途中で見つけた住宅。

48旧押上森蔵陸軍中将邸主屋 堀端町 大正2年










〇旧押上森蔵陸軍中将邸主屋。堀端町。大正2年。
50旧押上森蔵陸軍中将邸主屋










現在は移築され照蓮寺の庫裏となっていますが、かつては街中の西之一色町にあり、書斎や豪奢な洋館が付属していました。
49旧押上森蔵陸軍中将邸主屋  移築され照蓮寺の庫裏として使用










表玄関には式台がある格式高いもの。主屋は照蓮寺に書斎は飛騨国分寺の境内に移築されました。
51照蓮寺煉瓦蔵 押上邸の関連か










奥には煉瓦造の倉もありました。これも移築されたものでしょうか。
押上森蔵陸軍中将は陸軍兵器本廠を勤めた方で、退役後は火藥製造株式会社の社長を務め、また高山市の郷土史研究もされていた地元の名士。
65旧押上森蔵陸軍中将邸書斎 総和町 大正2年

 








で、こちらが飛騨国分寺境内に移築された旧押上森蔵陸軍中将邸の書斎。大正2年。
書斎と言っても一軒家です。
唯一残された洋館は取り壊しの危機に遭いましたが、地元の左官業の方の尽力で自邸に移築されたようです。詳しくはこちら
この方、なんと大河ドラマ「真田丸」の題字を書いた人だそうで、有名人だったんですね。
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飛騨国分寺三重塔。江戸時代後期・文政年間の築造。

53旧三星製糸事務所 神明町 明治21年










〇旧三星製糸事務所。神明町。明治21年。
54旧三星製糸事務所










明治前期の貴重な擬洋風建築。大切に使われています。

55サロン花里 花里町 昭和初期か










〇サロン花里。花里町。昭和初期か。
56サロン花里










小さな洋館付き住宅です。洋館もですが横の庭園も素敵。現在はカフェっぽいですね。

57旧須田医院 桜町 大正末期










〇旧須田医院。桜町。大正末期。
当時の外観が良く保たれており大切に使われています。
58旧須田医院










ただ、庭木がちょっと邪魔・・・

59旧高山測候所 西之一色町 明治36年










〇山岳資料館(旧高山測候所)。西之一色町。明治36年。
60旧高山測候所










高山市街地からやや離れた「飛騨の里」内に移築された建物。
国登録有形文化財ですが、やや傷みが目立ちます。 
61旧高山測候所










内部は登山や山岳関係の資料館になっています。
62旧高山測候所










入館料は無料。
63旧高山測候所










それにしても誰もいない。管理の人すらいない・・・

64旧藤井医院










旧藤井医院。上三之町。大正期か。
63旧藤井医院 上三之町 大正期か










かつて診療所だったと思われる洋館の方に目が行きますが、
横のかつて邸宅だった美術館の方が有名ですね。

66旧広瀬医院 上二之町 昭和22年










〇旧広瀬医院。上二之町。昭和22年。
67旧広瀬医院










小さい洋館付きの住宅。戦前かと思ったら戦後の建物でした。

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〇JR上枝駅。下切町。昭和9年。
上枝と書いて「ほずえ」と読みます。難読駅名ですね。
高山本線開業時からのレトロな木造駅舎。これを撮影した時、一応撮影した感じだったので、内部までは撮影せず、後から開業時の駅舎と知ってもっと撮影しておけばとガッカリ。

67戦前の発電所か 国府町村山










飛騨古川町へ向かう途中に見つけた古い水門。国府町村山。
68戦前の発電所か










吐き口は石積みで、
69戦前の発電所か










呑み口は古いコンクリート。何の施設かは分かりませんが戦前はありそうな古さです。
大正から昭和初期?

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〇高山市図書館「煥章館」。
2004年に開館した図書館ですが、外観は明治9年に完成した煥章学校(現・高山市立東小学校)を再現しています。
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映画「君の名は」にも登場した図書館としても知られていますね。

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高山市と言えば、和風の古い街並みが有名で、この界隈はいつも観光客でにぎわってましたが、少し足を延ばすと様々な洋風建築に出会えた素敵な街でした。

※余談
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高山市到着初日にホムセで買った安いママチャリ。
1ヶ月半の間、仕事場も買い物も街中の探索も山の上の松倉城跡へも隣町の飛騨市へもこのママチャリを漕いで走り回ってました。
最後の方は後輪のブレーキが不具合を起こしはじめ悲鳴を上げてましたが、よく頑張ってくれました。
チャリは地元の一緒に仕事をした方に贈呈。
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1ヶ月半過ごしたアパートの部屋。1ヶ月半とはいえずっと過ごしているとそれなりの愛着も湧くもので。何せ自宅に帰ったのは1度だけでしたからね。1ヶ月半お世話になった部屋。2度とこの部屋に住むことは無いだろうけど思い出には残りました。


besan2005 at 21:03|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

2019年11月04日

舞鶴市・旧海軍水交社社営住宅群と海光会建物(推定)探索レポ日記

水交社社営住宅位置図









舞鶴市・東舞鶴の浜地区航空写真を眺めていて同じ規格の建物が同じ向きに整然と並んでいるのを発見。官舎ではと思い調べてみました。
無題2







国土地理院HPより米軍撮影の航空写真。同場所に整然と並ぶ建物群。
水交社住宅配置図










昭和11年の「新舞鶴市街図」を見てみると、「水交社社営住宅」となっています。
水交社は旧海軍の将校向けの親睦団体で、福利厚生なども行っていましたが、住宅の供給もしていたのは知りませんでした。
アジア歴史資料センターの昭和3年の資料によれば
「機関学校常設と共に益々住宅難となり、水交社を経営主体として京都府より資金を借り入れ尉官向けの住宅を建設する」とあります。
舞鶴の海軍将校向けの官舎は所謂「官舎山」の麓に明治32年から35年にかけて造られました。
舞鶴市浜地区・旧海軍官舎群
しかしそれだけでは足りなくなったようです。
現在5棟の住宅が残されているのを確認しました。
11住宅群










現在の旧水交社社営住宅群。昭和11年の市街図によれば手前左が住宅九。手前右が住宅一二。左奥が住宅八。右奥が住宅一一。その他に住宅九の西側に住宅三があります。
7住宅九










住宅九。当時の塀が残されており一番オリジナルを保っています。
IMG_4689










正門部分。現在は空き家になっています。
10住宅一二










住宅一二。塀はブロック塀となってますが、主屋は当時のものです。
9住宅一一










住宅一一。こちらも塀と門は建て替えられてますが、主屋は当時のもの。
8住宅九










主屋部分。
住宅八






住宅八。(迂闊にも写真を取り忘れていたので、Googleのストリートビューより拝借。後日差し替えます。)
6住宅三










住宅三。手前に新たに建物が建っており主屋が見難いですが、航空写真で確認することができます。
これら水交社社営住宅群はアジア歴史資料センターの資料と昭和11年の市街図より、昭和4年頃から昭和10年頃にかけて建てられたものと思われます。

この水交社社営住宅群から南西の位置に舞鶴東遺族会館という建物があります。
1海光会正面










舞鶴東遺族会館の正面。
2海光会妻部













妻部には鎧窓と装飾のある破風があり、古さを感じます。
3海光会側面










舞鶴東遺族会館全景。
4海光会背部










舞鶴東遺族会館背面。モルタル塗されてない壁面は板張りの古風な感じ。
内部は和室となっています。
5海光会基礎部










基礎のコンクリートは川砂利の古いもの。
5海光会塀










正面のブロック塀には舞鶴市の市章があります。これは昭和19年に制定されたものです。
ただしこのブロック塀は戦後の可能性があります。
昭和11年の市街図には「海光会」という建物となっています。アジア歴史資料センターの資料「海光会設立の件」によれば、海軍判任文官の親睦団体だったようです。
この建物が海光会の建物であったかどうかは断定できませんが、建物や基礎のコンクリートの感じから戦前の建物の可能性があります。引き続き調査を続行していきます。




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2019年11月03日

舞鶴市・旧海軍東山防空指揮所地下壕見学会レポ日記

旧海軍特設防空指揮所壕位置図












舞鶴市の旧海軍東山防空指揮所は昭和16年頃に東山山頂に鉄筋コンクリート造2階建ての見張所を備えた防空指揮所が建てられたのが始まりですが、昭和18年末から昭和19年にかけて東山の地下に巨大な地下壕が建設されました。これは空襲の危険性を回避するために計画されたもので、内部は指揮室・作戦室・電信室・電話交換室やさらには鎮守府長官室・参謀室なども設けられ、寝室や食堂も備えられていました。コンクリートの壕は爆弾の直撃にも耐え、更には毒ガス攻撃に備えて空調も完備しており、鎮守府機能を丸ごとこの東山の防空指揮所壕に移転する予定だったようです。

戦後、占領軍が爆破作業を行いましたが、余りに頑丈なため断念。そのため現在も多くが残される形となりました。
現在は落盤の恐れがあるため普段は立ち入り禁止ですが、今回、日本遺産WEEKの一環として見学会が企画。またとない機会なので応募して本日参加してきました。
1旧海軍東山特設防空指揮所壕遠景










東山遠景。この山の地下に巨大な地下壕の遺構が残されています。
1東山特設防空指揮所壕スタート










まずは東山山頂まで登っていきます。
2麓の地下壕入り口










ゲートのすぐそばにほとんど埋もれたコンクリート造の地下壕入り口を発見。
3麓の地下壕入り口近景










僅かな隙間を照らしてみました。どうやら土砂は入り込んでいますが地下壕の躯体自体は無事のようです。
4東山山頂










東山山頂。かつては2階建ての防空指揮所の建物がありましたが、戦後の前島ふ頭建設のための埋め立て工事による土砂採取で山頂が削られてしまい消失しました。
5地下壕入り口遠景










今回の地下壕への入り口は山頂からしばらく下った先にあります。
6地下壕入り口










地下壕入り口。意外なことに開口部は岩盤の素掘りでした。
7地下壕素掘り部分










入口からしばらく素掘りの状態が続きます。支保工も無い本当に素掘りの状態。落盤が怖い。
8地下壕コンクリート造部分










しばらく進むとコンクリートで巻いた状態に。
9地下壕コンクリート造部分










入口付近が素掘りなのは工期と予算の関係でしょうか。
10地下ドーム










通路を抜けるとドーム型の巨大な空間に出ます。
11地下ドーム奥壁から










反対側からの撮影。参加者との対比で大きさが分かりますでしょうか。
旧海軍東山特設防空指揮所壕内部配置図








案内の方が見せてくれた当時の内部の各部屋の配置図。この巨大なドームの内部には2階建ての木造建築が建てられており、1階に送信機室・電話交換室・砲台指揮室・情報室・先任伍長室があり、2階は長官室・参謀室・作戦室・暗号室・電信室があり、さらには生活空間としての食堂や寝室があったようです。2階の作戦室には大きな日本地図が壁に掛けられ、電球の点滅で敵機の来襲を知らしていたとのこと。
東山防空指揮所壕には軍人77人と軍属135人が働いていましたが、それだけでなく女子挺身隊の女学生も働いていました。その女学生は京都などから呼ばれた良家の子女だったらしく、やはり親のコネで安全で快適な部署に配置させてもらったのでしょうね。まるでジャブロー・・・
12コンクリート配管










コンクリート製の配管が残されていました。
12コンクリート配管2













用途の方は不明です。

戦後に占領軍が木造建物を解体し焼却したため、堅牢なコンクリートのドームだけ残された形となりました。現在も焼け焦げた木材があちこちに点在していました。
このドーム内からはいくつか開口部があります。上記の配置図に番号を追記しました。
13非常口










“鷯鏝。今回進入した箇所とこの開口部は当時は非常口であり、正規の入り口の通路は反対の壁側にありました。こちらは奥が崩落し進めません。
14碍子










非常口上部の碍子。
13扉部分の金属と鉄筋













扉部分。扉の基部の鉄やコンクリートの鉄筋はずっと地下の湿った環境に74年間も晒されていたにもかかわらずほとんど劣化していません。
15発電機室への入り口










発電機室への開口部。本来ならこの奥に発電機室の広い空間があるはずですが、残念ながら崩落により塞がれています。
16開口部










G枌嵜泙砲鷲舛れていない開口部。どこに通じているかは不明。こちらは入り口まで塞がれています。
17二階との通路か










2階部分から通じていたと思われる開口部。本来はこの下に正規の入り口へと通じる開口部があったはずですが、2階部分まで大量の土砂で埋もれてしまい開口部すら確認不可能です。
18ガラス片










残された遺物は大変少なく、このガラス瓶の破片を見つけた程度です。終戦後にあらかた片づけたのでしょうか。
IMG_4762










74年もの間地下に放置されたコンクリートの地下壕は染み出した地下水がコンクリートを溶かし鍾乳石のように床面に柱状のコンクリートが出来てました。舞鶴市内の戦時中のコンクリート地下壕ではこのような状態の物は見たことありません。他の地下壕は割と風通しがあったり地下水の染み込みが少なかったからでしょうか。

旧海軍東山防空指揮所壕の見学会は今回でまだ3回目。実際に見学した人はまだ100人にも満たないのではと思います。普段見学できない旧軍遺構を実際に見ることができたのは貴重な体験となり得ました。来年機会があったら是非もう一度参加したいです。





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2019年11月02日

鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記


観光地として著名な岐阜県高山市の市街地の北側にある北山に戦争末期、鈴鹿海軍工廠の疎開工場としての地下工場の建設が行われました。それが鈴鹿海軍工廠高山地下工場です。

鈴鹿海軍工廠は三重県鈴鹿市に昭和18年に建設された海軍工廠で、主に機銃弾や爆弾・砲弾の信管を製造していました。工廠本体の敷地は現在のイオンモール鈴鹿から本田技研鈴鹿工場の南端に至る広大なもので、最盛期は1万人あまりが働いていました。さらには周囲に工廠職員の官舎や職員用の海軍共済病院、工員養成所などが建ち並んでいました。

※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記


鈴鹿海軍工廠の疎開工場としては三重県亀山市の関地下工場が有名ですが、高山市の疎開工場はあまり知られていません。
実は高山市には1ヶ月余りの出張で滞在していたのですが、滞在中にツイッターでいつもお世話になっている祐実総軍三等兵様からの情報でその存在を知り、探索をすることとしました
しかし具体的な場所が分からず、地元の郷土資料室で聞いても分からず、資料室の高山市史の記述と
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飛騨護国神社で教えていただいた情報を元に遺構の場所を特定できました。
鈴鹿海軍工廠高山地下工場位置図








※鈴鹿海軍工廠高山地下工場位置図。
北山公園の東側麓に3ヵ所(うち1つは推定)のコンクリート造の地下壕入り口を確認しました。
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地下壕群遠景。住宅街の背後の擁壁の裏に2ヵ所存在します。
IMG_4501










地下壕 ブルーシートの下にあります。ブルーシートは劣化してビリビリになっており、破れた部分から 撮影。地下壕入り口は最近作られた鉄製の頑丈な扉が付けられています。
IMG_4504










地下壕◆C浪執茘,留にあります。同じ造りのコンクリート造の地下壕で、こちらも頑丈な扉が付けられています。
実はこの一帯の擁壁は平成27年に作られたというプレートがあり、最近整備されたものですが、コンクリート地下壕部分は崖面を擁壁で塞がず手前に擁壁を作り新たに鉄製の扉を付けられています。詳しく聞いたわけではありませんが、これらの地下壕の保存を意図したものではないかと思われます。
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2つの地下壕入り口の南側の元旅館の敷地内に地下壕ではと思われるコンクリート造の横穴が残されています。
IMG_4488










形は違いますが大きさ的に先ほどの2ヵ所の地下壕と同じくらいです。
IMG_4490













コンクリートは川砂利を使用し、背後のコンクリート擁壁と比べ古さを感じます。また、躯体のコンクリートにモルタルを化粧塗りしている造りは戦前戦中の海軍のコンクリート造構造物に多く見られます。
ここは推測ですが、かつては崖面がもう少し手前にあり、その崖面が崩落したか削られ、地下壕の躯体の一部が露出したのではとも考えられます。
祐実総軍三等兵様が以前探索された際には、素掘りの壕や崩落したコンクリート造の壕もあったようですが、それらは確認できなかったので、擁壁工事の際に塞がれ保存状態の良い地下壕だけ残されたようです。
また、これは時間が無く確認できませんでしたが、後日地元の方から「勝久寺の背後の畑の中に防空壕がある」という話を聞き、北山の西側部分の地下壕の可能性もあります。
高山市の郷土資料室で閲覧した高山市史の記述によれば、鈴鹿海軍工廠高山地下工場は昭和20年2月に航空機用機銃生産の疎開工場としてこの北山で地下工場の工事が始められましたが、完成するまでの間は同市内の江名子町と下岡本町の山林に仮工場が作られたとあります。(仮工場の遺構は現存しているか未確認)
造られた仮工場は、
〇間口三間・奥行十七間。平屋建ての片屋根で波トタン葺き。外壁は緑色に塗装し周囲の雑木林と同じように見せるため偽装。
〇建築は地元の高山木工組合員が担当。用材は統制会社の地方木材株式会社が軍需品として供出。
〇仮工場開設に際し、全国から600人の若手の徴用工が集められ近隣の寺院などに宿泊。
〇1日の食事は白米2合・味噌汁1杯・煮付1皿。食事の不味さと少なさに工員が近隣の畑から作物を盗む事態が相次いだ。
〇高山分工場長は奥田益造海軍大佐。江名子工場主任は貞良三海軍中尉。
とのことです。
鈴鹿海軍工廠高山地下工場は結局未完成のまま終戦を迎え放棄されました。高山地下工場に関しては資料が乏しく調査もされていませんのでどれくらい工事が進んでいたのか、内部がどうなっているのか不明です。しかし、新たに鉄製扉が造られ、擁壁で塞がれることなく保存されているため、いずれ詳細な調査が行われるのかもしれません。その際の調査結果に期待したいところです。


besan2005 at 21:19|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 旧軍遺構

2019年08月25日

舞鶴憲兵分隊遺構探訪レポ日記

舞鶴憲兵分隊001








舞鶴市にある現在の中舞鶴交番の場所にはかつて舞鶴憲兵分隊がありました。
当初は紺屋町にありましたが、明治33年に現在の中舞鶴交番の場所に移転しました。
舞鶴憲兵分隊は京都の陸軍第16師団管轄下の京都憲兵隊の指揮下にありました。
画像の絵葉書は大正期頃と思われる舞鶴憲兵分隊の建物。かつては庁舎・官舎の他に憲兵が乗る馬術場と馬小屋、さらには武道場があったそうです。
舞鶴は軍港でありその軍港を守る陸軍の舞鶴重砲兵連隊が管轄する各砲台が舞鶴湾を囲むように配置された要地であり、要塞地帯法の適用地でした。そのため、舞鶴要塞地帯内での間諜(スパイ)行為を取り締まる役目などをこの舞鶴憲兵分隊が担当しました。
舞鶴憲兵分隊の建物は一切残されていませんが、門柱や建物の基礎等が残されています。
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舞鶴憲兵分隊の門柱。中舞鶴交番の正面両脇に残されています。
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南側の門柱。荒石積で変わった形をしてます。
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北側の門柱。当時の絵葉書にはこの門柱は写されていません。デザイン的に昭和期に入ってから作られたもののように思います。
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中舞鶴交番の背後、マンションの裏には当時の石積基礎が残ります。
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さらに道を挟んだ向かいには現在公園となっている古い基礎が残されています。
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反対側から。通風孔が確認できます。
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恐らく入り口だったと思われる場所。親柱部分に装飾があります。
「アジア歴史資料センター」公開の資料には、大正8年に官舎を増築したという記述があり、もしかするとその際のものかもしれません。
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背後にはコンクリート製の柵柱が残されており、ここまでが敷地だったと思われます。
当時のボルトが残されており、かつてはこの柵柱に固定された板塀が舞鶴憲兵分隊の敷地を囲っていたものと思われます。高さは2m近くあり、当時は敷地内の姿は全く見えなかったことでしょう。
まぁ、覗いたところで捕まるでしょうけど(笑)


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舞鶴市・白杉弾丸本庫補助施設遺構探索レポ日記

白杉弾薬本庫配置図













舞鶴市の西舞鶴にある「とれとれ市場」から海岸沿いに北上し、白杉地区を過ぎた槇山砲台・金岬砲台へと至る槇山公園への登山道入り口の麓の集落に明治期の陸軍が設置した施設の遺構群が残されています。ここには明治34年に完成した白杉弾丸本庫という舞鶴要塞地帯西部の砲台群(槇山・金岬・建部山等)へ弾薬を供給する施設がありました。舞鶴要塞地帯内には白杉弾丸本庫と下安久弾丸本庫の2ヵ所があり、白杉は西舞鶴側の砲台、下安久は東舞鶴側の砲台へと弾薬を提供していました。
※下安久弾丸本庫は今年の5月に再探索を行い、多数の遺構を確認しました。以下のレポ日記の記事をご覧ください。
舞鶴市・下安久弾丸本庫(再探索)+匂崎演習砲台探索レポ日記
また、今回の探索にあたりkanレポート様のブログ記事を参考にさせていただきました。本文中の各遺構の名称は一部を除きkanレポート様の記事に準拠しています。
なお、kanレポート様の記事では「舞鶴要塞 白杉補助建築物」とされていますが、白杉弾丸本庫が白杉地区の北方谷地に建設されたという情報もあり、当ブログの記事では「白杉弾丸本庫補助施設群」としました。
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白杉地区を過ぎて最初に見える木造建物。これは糧秣支庫ではないかとのこと。
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反対側。基礎は縁石製です。「アジア歴史資料センター」公開資料によれば、明治34年2月に「舞鶴要塞白杉糧秣支庫外3棟敷地買収の件」という資料があります。
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横から。
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窓部分も当時のままの状態で残されているようです。
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糧秣支庫の道を挟んで向かいにある同じ造りの木造建築。砲具庫ではとのこと。
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こちらも保存状態は良好です。前述のアジ歴の資料に従うなら、糧秣支庫と同時に用地買収され建てられたものになります。
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砲具庫背後を流れる用水路は古い石積みと煉瓦が使われています。
12下安久弾薬本庫煉瓦基礎土台










※参考・下安久弾丸本庫弾薬庫。
下安久弾丸本庫の弾薬庫は煉瓦積みの基礎が良好に残されています。白杉弾丸本庫の弾薬庫も同じ造りだとすれば、この用水路にある煉瓦は破壊された遺構の一部かもしれません。
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糧秣支庫の近くにある気になった古いコンクリートの土管状のもの。
 IMG_3961










少し北上した箇所にある、現在は民家となっている看守衛舎ではないかとされる建物。基礎は糧秣支庫・砲具庫と同じ石製の縁石。
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更に少し北に進んだ先の空き地の隅にあるコンクリート建造物。看守衛舎の弾薬庫ではと言われています。その奥にも何かありそうなんですが、この弾薬庫も含め蔦や雑草が凄まじく確認できず。冬に再チャレンジですな。
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その弾薬庫の隣の槇山への登山道と隣接する空き地にはコンクリート基礎の建物跡が残されています。
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結構大きいプランになっています。コンクリートの感じから白杉弾丸本庫時代のもので間違いないかと。
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先ほどのコンクリート基礎建物跡からしばらく北上すると海岸側に林があり、その道路側に門柱が1本れています。恐らく白杉弾丸本庫の営門ではないかと思われます。ちなみにこの門柱の奥の林の中を覗くと怪しい平坦地が確認できましたが、立ち入り禁止となっており断念しました。
白杉弾丸本庫の主要部は、集落の西の槇山麓の谷辺りにあったのではと思われ、次回以降の探索の課題といたします。


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2019年08月18日

敦賀市の近代建築探索レポ日記

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2019年7月15日に敦賀港へ「護衛艦かが」の寄港による一般公開に合わせ、敦賀市へ行った際にフォロワーさんと敦賀市内の近代建築探索をしました。
2敦賀連隊歩哨舎










ちなみに同日、祖父が下士官時代を過ごした敦賀連隊跡も訪問してきましたが、そちらは別記事にしております。
※敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)
敦賀市は昭和20年7月12日の空襲で壊滅的被害を受けてますが、今回探索しましたら意外と戦前の建物が残されていることが分かりました。
1旧紐育スタンダード石油会社倉庫 明治38年










まずは護衛艦かがが停泊していた桟橋の近くにある旧紐育スタンダード石油会社倉庫。明治38年。国登録有形文化財。
2旧紐育スタンダード石油会社倉庫










現在は敦賀赤煉瓦館という観光施設となっています。内部にある敦賀港のジオラマ展示は必見。
3ガソリン倉庫










赤煉瓦倉庫の近くにあるコンクリート建造物。路駐の車が邪魔!
4ガソリン倉庫










正面から。草ぼうぼうでよく見えませんが、先ほどの道路側からの姿を見たら戦前はありそうな古さに見えたので。
5ガソリン倉庫2










近隣の方がいたので聞くと、元々はガソリンの保管庫だったそうです。
24敦賀港駅ランプ小屋 明治15年










敦賀港駅ランプ小屋。明治15年頃。
25敦賀港駅ランプ小屋










現在は展示施設になっていました。ちなみにすぐそばの敦賀港駅も明治15年築だそうですが、非公開です。活用してもらいたいですが。
5敦賀倉庫 昭和8年










敦賀倉庫。昭和8年。赤煉瓦倉庫と共に商業港としての敦賀港の繁栄を伝える建物。
6敦賀倉庫










出窓のデザインが可愛らしい。
7敦賀倉庫事務所  昭和8年










敦賀倉庫事務所。昭和8年。リフォームされてますが、当時の面影は良く残されています。
8汐谷鉄工所










汐谷鉄工所。昭和初期頃?当時の姿をそのまま残す下見板張りの建物。
9汐谷鉄工所










よく空襲で焼けなかったものです。
9敦賀の建物










気になる建物もいくつかありました。
10旧大和田銀行 明治25年頃










旧大和田銀行。明治25年。敦賀市立博物館となっている旧大和田銀行本店の前身の建物。
路駐の車が邪魔…。この日は前述のとおり護衛艦かがの一般公開が行われた日であり、市内の各所にこういった路駐の車で溢れていました。
11旧大和田銀行 明治25年頃










アップ。洋風建築に見えますが、背後は町屋造りです。
12旧大和田銀行本店 昭和2年 重要文化財










旧大和田銀行本店。昭和2年。国指定重要文化財。
13旧大和田銀行本店










規模・質共に敦賀市で一番の近代建築。現在は敦賀市立博物館。
14旧大和田銀行本店


















玄関部分。
15旧大和田銀行本店営業室










営業室。当時の姿が復元されています。
16旧大和田銀行本店階段










階段も豪華な造り。
17旧大和田銀行本店金庫室










金庫室。
18旧大和田銀行本店会議室













2階貴賓室。重役会議も開かれていたと思います。流石に格式高い造りです。
19旧大和田銀行本店講堂










3階講堂。旧大和田銀行本店は銀行の店舗としてだけでなく、敦賀市民向けに講堂や地下の食堂を開放しており、講堂は市民の催し物や講演会などのイベントにも利用されたようです。
20旧大和田銀行本店エレベーター










3階講堂に展示されているエレベーター。大正14年製の国産最初期のエレベーターだとか。
21日本聖公会 敦賀キリスト教会  2階・明治後期 1階・昭和8年










日本聖公会敦賀基督教会。この教会ちょっと変わっていて、2階が明治後期築。1階が昭和8年築というもの。元々平屋だったのが昭和8年に1階部分を持ち上げ2階にすることで1階を増築する形になっています。
22敦賀市の街並み










敦賀市内にはこういった伝統的な町屋のある街並みも残されています。
22敦賀市の建物










擬洋風っぽい住宅。
23敦賀市の洋館付き住宅










洋館付き住宅。腰壁部分は石張りになっている割と手の込んだ建物。敦賀市内にはまだこういった戦前の洋館付き住宅が残されていそうです。
26東洋紡クラブハウス 昭和10年










市街地の南へ。東洋紡敦賀工場クラブハウス。昭和10年。
27東洋紡敦賀工場クラブハウス










ハーフチンバーの洒落た洋館です。
28東洋紡敦賀工場クラブハウス










かつてはこのクラブハウスの周りには沢山の東洋紡敦賀工場の社宅が建ち並んでいました。この洋館はその唯一の名残。
29東洋紡敦賀工場










東洋紡敦賀工場の敷地内には戦前当時の建物も残されています。
30東洋紡敦賀工場通用門










敷地南端に残る通用門と思われる門柱。
31東洋紡敦賀工場塀










当時の物と思われる塀。
東洋紡績敦賀工場001








昭和初期頃の東洋紡敦賀工場を撮影した絵葉書。現在残る塀と同じ物が写されています。
32敦賀の事務所建築 昭和初期か










今回の敦賀市の近代建築探索で一番の成果だった建物。事前の下調べでも敦賀市の近代建築を扱ったサイトのどこにも取り上げられていなかった知られていない物件。
33敦賀市の事務所建築










玄関部分。この玄関の梁の形は昭和初期の建物によくみられるもの。
34敦賀市の事務所建築










内部を窓から撮らせてもらいました。建物の平面プランは戦前の事務所建築そのままに思えます。
35敦賀市の事務所建築










個室部分。現在リフォーム工事中でした。戦前の近代建築が再再利用されるのは嬉しいこと。どんな建物に生まれ変わるのか楽しみです。
今回の探索は市街地の中心部をメインに探索したので、空襲を受けた市街地でも思った以上に
戦前の建物が残されていたので、比較的空襲被害の少なかったであろう西側の気比の松原あたりの一帯はまだまだ多くの近代建築が残されていそうなため、次回以降の課題にしたいと思います。







besan2005 at 09:31|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 福井県 | 近代化遺産

2019年08月17日

鹿児島・天狗鼻海軍望楼台

天狗鼻海軍望楼所006








20年ほど前、まだ鹿児島にいた頃に訪問した鹿児島県薩摩川内市にある天狗鼻海軍望楼台です。
天狗鼻海軍望楼台は明治28年の日清戦争後に設置した監視所で、当時海軍が沿岸の要所の監視のために設置した望楼台の1つでした。望楼台の多くは日露戦争の終結とともに廃止され、現在国内で残っているのはこの天狗鼻海軍望楼台と北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台の2ヶ所のみです。
この天狗鼻海軍望楼台も明治38年に廃止されました。
天狗鼻海軍望楼所005








鹿児島にいた当時、この天狗鼻海軍望楼台の存在を知り、一度行ってみたいと思い行った際に撮影した写真が当記事の写真となります。当時はまだ一眼のアナログカメラで(AFではありました)、画像はネガからスキャンしたものです。
天狗鼻海軍望楼所002








天狗鼻海軍望楼台の入り口。実はここに至るまでに兵舎跡と思われる平坦地があったのを覚えてるのですが、当時はこの煉瓦造りの遺構にしか興味がなく写真を取らずに立ち去ってしまいました…
天狗鼻海軍望楼所003








反対側から入り口を撮影。かつては恐らく木造の屋根があったと思われますが、現在は煉瓦の壁のみ残されています。
天狗鼻海軍望楼所004








海側から。監視のための窓が海に向かって開いてます。
天狗鼻海軍望楼所007









側面から。
天狗鼻海軍望楼所009








上部から監視窓を撮影。一部欠損していますが保存状態は良好です。
天狗鼻海軍望楼所008








天狗鼻海軍望楼台から眺めた天狗鼻の岬。まさに天狗の鼻の形をしています。見晴らしは最高で、航行する艦船は良く見えたことでしょう。現在、天狗鼻海軍望楼台は内部の土砂の除去などこの時よりも多少整備されているようです。


besan2005 at 11:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 鹿児島県 | 旧軍遺構

2019年08月12日

敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)

福井県敦賀市にある敦賀連隊の跡地を訪ねてきました。敦賀市にはかつて陸軍歩兵第19連隊が駐屯し、昭和15年には留守連隊の歩兵第119連隊が、戦争末期の昭和20年には本土防衛部隊の歩兵第441連隊が編成されます。この敦賀連隊は祖父が下士官として終戦まで赴任した縁の連隊であり、仙台陸軍教導学校卒業後の伍長から軍曹までは歩兵第119連隊に、昭和20年の曹長からは本土防衛部隊の歩兵第441連隊の連隊付下士官として渥美半島へ赴任し終戦を迎えました。

この度、その祖父ゆかりの敦賀連隊の跡地を訪問し、祖父の足跡をたどることにしました。
1敦賀連隊










敦賀連隊跡地。かつて営門があった場所には歩哨舎が残されています。
2敦賀連隊歩哨舎










歩哨舎正面。
3敦賀連隊境界石柱













その脇には移設された「陸軍省」の境界石柱が保存されています。
5敦賀連隊塀










営門前の県道225号線前には敦賀連隊当時の塀がそのまま残されています。
敦賀連隊001









祖父のアルバムにあったほぼ同じアングルの連隊前の写真。現在残る塀は当時のままで残されていることが分かります。
6敦賀連隊塀










営門から少し離れた場所にも塀が残されています。
7金山橋










営門から西へ進んだ井の口川に架かる金山橋。昭和8年竣工。
8金山橋










恐らく敦賀連隊の兵士たちも渡っていたでしょうね。
9敦賀連隊碑










現在、敦賀連隊の敷地は団地となっており、建物等の遺構は何も残されていません。敷地内には昭和39に敦賀連隊史蹟碑保存会により建立された記念碑があります。
10敦賀連隊碑










敦賀連隊史蹟碑。
敦賀連隊002









祖父のアルバムにあった恐らく連隊本部と思われる建物。
敦賀連隊003









軍旗を掲げる連隊旗手。連隊旗に痛みがなく新しいので、昭和15年に編成された歩兵第119連隊の連隊旗と思われます。
敦賀連隊004









検閲行進の1枚。他にも数枚あります。奥に兵舎が見えますね。馬が引いているのは連隊砲(四一式山砲)でしょうか。
坂田写真館













営門の向かいには坂田写真館という写真館がありました。明治33年創業の老舗の写真館で、敦賀連隊の兵士たちの御用達の写真館であり、多くの兵隊さんの記念写真を撮影されました。
現在手元にある祖父の軍人アルバムの写真はまさにこの坂田写真館で撮られたものでした。
陸軍曹長時代と祖母













曹長に任官し祖母と結婚した際の記念写真。以前別の記事にて紹介していましたら、2代目の次男の方からコメントがあり、床の模様や祖母が座る椅子は紛れもなくかつて坂田写真館にあったものと教えていただきました。
現在写真館はその次男の方の甥に当たる方が継がれ、谷写真館と名を変えて営業されています。
※谷写真館様公式HP
突然の訪問にも関わらず、快く対応していただき、当時の貴重な写真を見せていただきました。
軍人アルバム









特に祖父の遺した軍人アルバムと全く同じものが谷写真館様にも残されていたのには感動しました。
見せていただいた写真群の中には残念ながら祖父の姿はありませんでしたが、このアルバムと同じ物が出てきたときは確かにこの地との繋がりを感じ取ることが出来ました。
13谷写真館写真機













谷写真館様に置かれている写真機。かつて使われていた写真機で、敦賀連隊の多くの兵隊さんを撮影したであろうこの写真機。私の祖父も撮影したことでしょう。
11旧郵便局










営門後から東に進んだ場所にかつての旧郵便局の建物が残されています。
13旧郵便局










敦賀連隊の兵隊さんもよく利用した郵便局。残されている祖父母宛の葉書もここから配達されたり、相手に手紙を出したりしたことでしょう。
葉書001













連隊近くの下宿に居住していた時の祖父母宛の葉書。昭和20年3月8日の消印があります。
連隊旗









昭和20年1月20日、本土防衛のための歩兵第441連隊が編成。根こそぎ動員で編成されたこの連隊は渥美半島に配備され、沿岸の防衛にあたりました。祖父はこの441連隊の連隊本部付下士官として配属され終戦を迎えました。
葉書002













祖父宛の葉書。「護京第二二六五三部隊」は歩兵第441連隊。その部隊本部宛になっています。
Dszvjn5V4AQjUmq













この時の祖父の軍装品一式が今も実家に残されています。以下のリンク先に軍装品一式を記録した記事を書いております。
※祖父の遺品である軍装品の記録
また、敦賀赴任前の仙台陸軍教導学校への入校前までの日記となりますが、祖父の
軍隊時代の日記を紹介した記事もここに紹介しておきます。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)



besan2005 at 11:29|PermalinkComments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 福井県 | 旧軍遺構

2019年08月11日

姫路海軍航空基地跡遺構探索レポ日記

兵庫県加西市に姫路海軍航空隊が駐屯していた姫路海軍航空基地がありました。
昭和18年より工事が開始され昭和19年に完成。川西航空機姫路製作所の専用飛行場でしたが、姫路海軍航空隊や筑波海軍航空隊文献体も駐屯し訓練基地や特攻基地として使用。アジ歴所有の引渡目録には
九三式中間練習機や九七式艦上攻撃機、艦上爆撃機「彗星」、陸上攻撃機「銀河」そして局地戦闘機の紫電改が配備されていました。姫路海軍航空基地は戦後に陸上自衛隊が滑走路跡を中心に訓練施設として使用していましたが、2016年に加西市へと払い下げられました。現在も一帯には姫路海軍航空基地の遺構が点在し、隣接の神戸大学農学部構内の敷地内にも多数遺構が残されています。
姫路海軍航空基地は地元では地名を取って「鶉野飛行場跡」と呼ばれており、滑走路跡北端に復元された格納庫と原寸大に復元された紫電改が展示され、観光地としての再整備がされはじめています。
今回(6月)、復元された紫電改を見に行くのと合わせて、姫路海軍航空基地の遺構群も探索してきました。
姫路海軍航空隊位置













今回探索した遺構群の配置図。今回の探索に当たっていつもお世話になっている盡忠報國様のブログ「大日本者神國也」内の記事を大いに参考にさせていただきました。ちなみに盡忠報國様のレポのほうが詳細な上に今回の私の探索では見られなかった内部や遺構、すでに失われた遺構などの写真もあり、そちらの方がずっと参考になりますので、当記事は紀行文的な感じで初心者の方でも分かりやすく平滑に書きたいと思います。
1姫路海軍航空隊正門










紫電改が展示されている復元格納庫から直線距離で1.5kmの位置に姫路海軍航空隊の門柱と衛兵詰所があり、現在門柱や衛兵詰所・付属建物が復元され駐車場を伴った小公園として整備されています。
2姫路海軍航空隊守衛所










復元された衛兵詰所。
2門柱













姫路海軍航空隊の看板が掲げられた復元門柱。
9門柱基礎










整備の際に発掘された門柱の基礎。
3姫路海軍航空隊退避壕










復元された衛兵詰所の南隣にはコの字型のコンクリート製の覆土式地下壕があります。
4姫路海軍航空隊退避壕










北側入り口。
5姫路海軍航空隊退避壕










南側入り口。残念ながら扉が設置され入ることが出来ません。
7姫路海軍航空隊退避壕内部










扉の隙間から内部を撮影。恐らく隣接する衛兵詰所等の退避壕ではと言われています。
8守衛所向かいの竹林内の不明遺構










衛兵詰所の向かいの竹林にはコンクリート構造物がありました。何かの施設があったようです。
10地下壕










コの字型のコンクリート退避壕の南に素掘りの地下壕がありました。
11地下壕










柵はされてますが隙間から入れますので入り口を撮影。個人的にこういう洞窟は一人で入る勇気はないのでここまでw
12弾薬庫










先ほどの素掘りの地下壕からさらに南、協和ロジスティクスの敷地北側にコンクリート製の覆土式弾薬庫壕があります。
13弾薬庫










弾薬庫壕だけあってコンクリートはかなりの分厚さがあります。
14弾薬庫内部










ここも柵があり中に入れませんが、入り口に近づくと照明がともりました。中々の親切さですw
内部に入れないのは残念ですが、落書きとかされることを考えたらこの方が良いのかも。
15コンクリート基礎建物跡










一旦衛兵詰所まで戻り、そこから北上した畑の中にコンクリートの構造物があります。何かの建物の基礎のようですが何だったかは不明です。
17貯水槽










コンクリート基礎の遺構の北側に貯水槽が残されています。結構大きなもので今でも貯水しています。
18ドラム缶残骸










貯水槽の側に放置されているドラム缶の残骸。姫路海軍航空隊時代のものかは分かりませんが古そうだし一応撮影。
16医務室壕










コンクリート基礎遺構の南の竹林には覆土式のコンクリート地下壕があります。この辺りにあった医務室の地下壕ということらしいです。
16医務室壕内部










入口から内部を撮影。L字状に折れています。この時も勇気が出ずここまでしか入れませんでしたが、ここは入ればよかったと後から後悔。後に紹介する地下壕は入りましたし、この手の壕は舞鶴でも結構入ってたし…。次回行く機会があれば入りたいと思います。
盡忠報國様のレポではこの近くにもう一つコンクリート製の覆土式地下壕があるはずなのですが、見つけることは出来ず…
IMG_3512










近くにあった不自然な盛土がそうだったかもしれませんが、入り口が見つからなかったんですよね。
IMG_3514










竹林内は当時の物と思われる小道が残ります。
IMG_3513










小道の先のやや開けた場所に残るコンクリート構造物。
IMG_3520










散策路まで戻り、再び北上して2つある池の北側にある東笠原機銃座へ。
19東笠原機銃座










こちらは整備されていました。
20東笠原機銃座内部










地下弾薬庫への階段。扉か設置されており内部へは入れませんでした。整備された遺構は悉く内部進入不可になってますね・・・。問い合わせたら入れるようですが、日時指定があったりと中々難しいようです。
21東笠原機銃座










機銃座。ここに25mm連装機銃が据え付けられ、対空防備を行ってました。
22耐弾壕










東笠原機銃座から西へと延びる小道へ入ると建設会社の側にコンクリート製の耐弾壕があります。
23耐弾壕内部










内部。蒲鉾型の屋根になっています。内部は資材が置かれ進入不可。
24地下壕










先ほどの耐弾壕から西へと池沿いに延びる道沿いには3か所のコンクリート製の覆土式地下壕が残ります。これらは整備地区から外れており現在も中に入れます。最初に現れる覆土式地下壕。
25地下壕入り口










入口部分。入り口は2重になっています。
26地下壕内部










内部。長さはかなりあり、まっすぐ伸びています。
IMG_3530










2つ目のコンクリート製覆土式地下壕。残念ながら入り口手前から浸水が酷く近寄れませんでしたが、最初に見た覆土式地下壕と同じ構造かと思います。
27地下壕










3つ目のコンクリート製覆土式地下壕。
28地下壕入り口










こちらも入り口部分は2重構造になっています。
29地下壕内部










内部。状態はかなり良いです。
30地下壕内部










内部はL字状になっており、折れた先は長く伸びています。
ちなみにこの壕の周辺は開発が行われており、整備地区から外れていることもあり今後が心配です。
31柵列か










覆土式地下壕群の近くにあった気になるもの。コンクリート製の柱。柵柱かなぁと思い一応撮影。
IMG_3546










コンクリート製の構造物。神戸大学農学部の構内なので近寄れないため遠望から。
航空写真を見ると貯水槽のようです。当時のものかは分からないため保留ですが、コンクリート自体は古そうです。あと、奥にコンクリート製の耐弾壕らしきものが見えます。
36大型地下壕遠景










再び散策路へと戻り北上。東側に大きなコンクリートの構造物が見えます。
35大型地下壕










姫路海軍航空基地の遺構で最大と言われるコンクリート製の地下壕。
34大型地下壕










かつてはコンクリート部分は土で覆われていたようです。入り口は閉じられてますが、地下へと降りる階段となっており、地下はかなりの広い空間のようです。用途不明らしいですが、重要施設であったことには変わらないと思います。
32地下壕










先ほどの大型地下壕から北に向かった先にあるコンクリート製の地下壕。
33地下壕内部










こちらも地下へと階段が続いてますが、扉が設置されており内部へは入れず。散策路沿いの地下壕遺構は悉く整備され、進入不可となっています。
37戦闘指揮所壕










キョーリン物流センター前から散策路は西へと向かいその先には以前から有名だった戦闘指揮所の耐弾壕が残されています。個人所有で地下壕内は展示施設となってますが、見学には事前予約が必要であるため、この日は見られず…。かつてはこの近くにも耐弾壕があったようですが、隣接する民家もろとも更地にされていました。
38発動機調整所跡










再びキョーリン物流センターの位置まで戻り、今度は鶉野飛行場方面へと向かう道を進むとコンクリートの遺構が残る箇所へ。ここは発動機調整所という施設があった場所とのこと。
39発動機調整所跡










何かの台座だったように見えるコンクリートの遺構。
43滑走路跡










そのまま進むと、鶉野飛行場のメインの遺構である滑走路跡があります。全長1.2kmにも及ぶ長大なものです。かつては南側は陸上自衛隊の敷地で立ち入り禁止でした。
滑走路は姫路海軍航空隊のものではなく、川西航空機の滑走路だったとのこと。まぁでも航空隊も使用していたはずでしょうけど。以前はコンクリート舗装されてましたが、何故かはがされてしまいました。そのまま残して遊歩道にすればよかったのに。
40姫路海軍航空隊記念碑










姫路海軍航空隊の記念碑。この辺りから観光客の数が増えてきました。
41整備用ローラー










そばに置かれた転圧ローラー。
42整備台










整備台。かつては小学校の朝礼台に転用されていたとのこと。
44駐機場










復元紫電改は後回しにして遺構を巡ります。滑走路の側にある駐機場跡。コンクリート舗装が残ります。
45駐機場水路










駐機場の側にあるコンクリートの水路。
46コンクリート構造物










その側にあるコンクリートの建築物。
47コンクリート構造物










用途不明ですが、コンクリートの感じやアンカーボルトを見ると結構古そうに見えるのですが。かつてはこの上に木造の屋根が乗っかっていたと思われます。
48道










先ほどのコンクリート建造物の前には当時のものらしい小道が延びています。
49暗渠













その小道にはコンクリート製の暗渠の蓋が残されていました。この暗渠の蓋、京丹後市の峯山海軍航空基地跡でも見たのと同じ感じで姫路海軍航空基地当時の物と思われます。
50無蓋掩体壕










さらに北に進むと土盛りの無蓋掩体壕がありました。伐採されて見やすくなっており有難いです。
51鶉野機銃座










その無蓋掩体壕の近くに鶉野機銃座があります。
52鶉野機銃座内部










地下弾薬庫への階段。当然扉がされており進入できませんでしたが、それ以前に浸水が酷い。
53鶉野機銃座復元機銃










機銃座部分には25mm三連装機銃のレプリカが置かれていました。
姫路海軍航空基地の遺構探索はここまで。次に話題の紫電改を見に向かいます。
54復元格納庫










復元された格納庫と紫電改。流石に観光客が多い。
57格納庫内部










格納庫内。このトラスの骨組みは当時のままの復元?ボルトはまぁ仕方ない。
55紫電改










復元された紫電改。なかなかよくできています。
56紫電改










正面から。年配の男性や子供たちははしゃいでましたね。姫路海軍航空基地が鶉野飛行場として観光地化していることに軍跡界隈では賛否あるようですが、とかくマイナーでちょっと前までは負の遺産として忌み嫌われていた旧軍遺構にこうした形でも理解が進んでいることは私は良い方向だと思います。旧軍遺構が負の遺産としての戦争遺跡という認識から近代化遺産という文化財としての認識へと変わりつつあるのも。今では舞鶴を代表する観光地になり重要文化財にも指定されている旧海軍の赤煉瓦倉庫群も市民団体が再評価し整備される前は負の遺産的な扱いで邪魔者扱いされてましたしね。
57鶉野少尉










マスコットの「ウズラノ少尉」。可愛いw
20年くらい前、いやほんの10年位前まではこんなマスコットや復元紫電改なんかを置いてたら、共産党系団体から「戦争賛美だ!」とか言われて叩かれまくってたはずなので、とてもこんな展示なんてできなかったと思いますよ。


besan2005 at 23:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 旧軍遺構

2019年07月21日

京都アニメーション第一スタジオ放火事件について

※すいませんが公開限定記事となっています。続きを読む

besan2005 at 21:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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2019年07月13日

魚にも感情はあるのか?・・・今朝のムギツクの不思議な行動。

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以前記事にした通り、私は自宅で近所の川で採った川魚を飼ってます。
水槽は35cm水槽1つと30cm水槽1つ25cmキューブ水槽1つの計3つ置いているのですが、毎週行っているろ過槽の掃除などの水槽のメンテナンスで35cm水槽で飼っている魚のうちの1匹のムギツクを驚かせてしまったのかどこかにぶつけたようで怪我をしてしまい仰向けになったり自力で泳ぐことが出来ず漂ったりとかなり弱った感じでした。
もうダメかなと思いつつも回復してくれることを祈りつつ観察してましたが、徐々に回復し何とか体制を保てるようになりました。ただ、まだ弱っている感じで濾過槽の下のスペースに潜ってじっとしていました。
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その時、気になる出来事が起きました。傷つき弱って濾過槽のある隅の方でじっとしているムギツクの傍らにまるで寄り添うかのように1匹のムギツクがずっと離れずにいました。時々他の魚がこのスペースに入って来た時は2匹とも追われる感じで出ていきましたが、他の魚がいなくなるとまた傷ついたムギツクが入ってきて、少し後にまた先ほどと同じムギツクが入ってきてぴったりと寄り添ってるのです。

このような姿は初めて見ました。

ムギツクは普段こんな狭いスペースに入らず水槽内を自由に泳いでいます。また、あまり群れるという事もしないようで、一緒に泳いだりといった感じは見受けられません。

では、この行動は何なのか…

以前読んだことのあるサイトでこんな記述があります。
「不思議館〜魚にも心がある?」
このサイトによれば、筆者の方が飼っていたタナゴが傷ついた際、おびえて隅の方でじっとしていた傷ついた雄のタナゴの側に1匹の雌のタナゴがずっと寄り添っていたそうです。
また、こんな記事もあります。
「魚にも感情があった!障害を持った金魚が生き延びられた理由とは・・・」

「魚だって仲間を思う気持ちがある?網に捕らわれたフグのそばから片時も離れず、救助を待ち続けたフグ」
また、最近の研究では魚も怒ると感情的発熱を起こし、失恋すると悲観する行動をとると言った研究発表がされています。
 魚は声を出しませんし表情も表しません。ずっと飼ってて餌をやり続けると慣れてきて顔を近づけただけで寄ってくるようになりますが、それは「餌を与えてくれる対象」という認識だけで、喜びや怒りや悲しみといった高度な感情は無いと思われてきました。

となると、この我が家のムギツクの行動やリンク先の記事は何なのでしょうか。
これらの事例を目の当たりにすると魚も他の動物や我々と同じく感情や思考を持っているように思えてきます。それを目に見える形で表現しにくいだけで…

そう考えると、もし魚に感情があるならガラスの向こうで泳いでいる魚たちは私のことをどう思っているのか気になってきますw 決まった時間に餌をくれるただの都合のいいヲッサンとしか見ていないのか感謝しているのか鬱陶しく思っているのか、それとも勝手に住んでた川から拉致られて恨んでるのか…まあ、最近は懐いているので負の感情は持っていないと思いたいですがw

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件の負傷したムギツクは多少怪我の痕は残っているものの、すっかり回復しいつも通り水槽内を泳ぎ回り晩御飯の餌をせっせとパクついてます。と同時に寄り添っていたムギツクも離れいつも通りの行動をしています。

ちなみに毎朝この魚たちを起こすのは私の役目ですw 起床し電気をつけると底の方で沈んで寝ていた魚たちが驚き慌てて起き始めます。その様子は心なしかだいぶ不満そうにしているように見えますw




besan2005 at 21:47|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 日本産淡水魚 | 水槽観察記録
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