2020年03月20日

城跡探索記録・攻城レポ日記のリンク集

元々城好きが高じて2013年くらいから中世山城跡を中心に探訪を続けてます。

攻城レポ日記という名の訪城レポートを書きだしたのは2014年頃から。以来訪城した城跡はこまめに日記を書いてます。

ただ、書いている日記はmixiの日記。「みんなの日記」というmixiに登録しなくても誰でも閲覧できる公開にしてますが、ライブドアのこちらでも公開したいと思うようになりました。
ただ、これまで書いた攻城レポ日記は割と量が溜まっており、こちらへの転載も結構手間なのでこのたびmixiにて書いたこれまでの攻城レポ日記のリンクを張ることにしました。

今後、mixi内で書いたレポ日記はこちらにもリンクを張ることにしますのでよろしくお願いいします。

※mixiの日記ではありますが閲覧だけなら登録していなくても誰でも見ることができます。ただし、コメントは登録していないとつけることはできませんので、何か気になることがありましたらこちらのコメント欄にお願いします。
色の違う城名をクリックしたら、レポ日記が開きます。リンクの無いものは訪城はしたが日記は書いてないものです。
但馬八木城










※2014年
〇6月14日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇9月14日 兵庫県丹波市 黒井城跡
〇11月23日 兵庫県養父市 但馬八木城跡
有子山城雲海










※2015年
〇2月20日 京都府京都市右京区 周山城跡
〇3月26日 京都府南丹市 小山城跡
〇4月21日 滋賀県愛荘町 金剛輪寺
〇4月25日 兵庫県篠山市 丹波八上城跡
〇5月6日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡
〇12月30日 京都府綾部市 位田城跡・京都府福知山市 石原城跡
〇12月31日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡(再訪)

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※2016年
〇1月2日 京都府福知山市三和町 経ヶ端城跡
〇1月9日 奈良県大和郡山市 大和郡山城
〇1月10日 京都府亀岡市宮前町 神尾山城跡 
〇2月13日 京都府南丹市宍人 宍人城跡 
〇2月19日 京都府亀岡市 丹波亀山城惣構遺構
〇2月25日・26日 奈良県宇陀松山市 宇陀松山城跡
〇2月27日 京都府南丹市日吉町 塩貝城跡
〇3月11日 京都府亀岡市宮前町 中世金輪寺跡石垣群
〇3月11日 京都府亀岡市西別院町 笑路城跡
〇3月20日 滋賀県東近江市 観音寺城跡 
〇4月16日 京丹波町須知 須知城跡 
〇5月1日 京都府福知山市 医王寺跡・新庄城跡
〇5月2日 京都府福知山市 鬼ヶ城跡 
〇5月3日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡
〇5月21日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡再踏査
〇6月4日 京都府綾部市 上林城跡
〇京都府綾部市 山家陣屋跡・甲ヶ峯城跡
〇6月11日 京都市一乗寺・渡辺館 
〇6月18日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇6月25日 兵庫県丹波市柏原町 柏原陣屋跡
〇8月20日 京都府京丹波町 上野城跡
〇8月27日 京都府南丹市美山町 島城跡
〇9月16日 滋賀県多賀町 敏満寺城跡
〇9月24日 滋賀県彦根市 佐和山城跡・彦根城
〇10月29日 京都府南丹市美山町 旧歓楽寺跡
〇11月4日 高槻市芥川山城
〇11月5日 京都府南丹市 黒田城跡
〇11月12日 兵庫県丹波市春日町 黒井城の雲海
〇12月3日 兵庫県篠山市 籾井城跡
〇12月16日 滋賀県愛荘町 目賀田城
〇12月24日 滋賀県近江八幡市安土町 安土城跡
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※2017年

〇1月1日 京都府福知山市山崎 山崎城跡
〇1月7日 京都府南丹市園部町 埴生城跡
〇2月4日 京都府京丹波町 中畑城跡
〇2月4日 京都府南丹市日吉町 亀田城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 東胡麻城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 野化館跡
〇3月12日 京都府亀岡市 保津城跡
〇3月18日 京都府亀岡市 千軒寺跡(数掛山城跡下)
〇3月19日 京都府亀岡市 余部城(丸岡城)跡
〇3月20日 京都府亀岡市 穴太城跡
〇4月3日 京都府亀岡市 猪倉城跡
〇4月8日 京都府南丹市 丹波八木城西支城・内藤法雲曲輪
〇5月2日 京都府綾部市 高津八幡山城跡 段山城跡  将監城跡






besan2005 at 11:57|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 城郭 | 遺跡

2017年07月01日

宮津市にある近代化遺産の浄水場・滝上浄水場

滝上浄水場古絵葉書









先日、メインで運営している「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」にて使用する宮津町浄水場という昭和初期頃の古絵葉書資料を入手し、この浄水場の場所や情報を調べていますと、絵葉書に写る浄水場施設が現存していることを知り、絵葉書と現在の様子を比較するため探索に向かいました。
※古絵葉書の記事はこちら。 「古絵葉書・宮津町浄水場(現・宮津市滝上浄水場)」
今回訪問した滝上浄水場は、宮津市の西側の山中にあり、浄水場の麓には滝上公園があります。
1宮津市滝上浄水場ろ過池










滝上浄水場に入り最初に目にするのがろ過池の施設。
宮津滝上浄水場001








古絵葉書にあるろ過池です。現地で見比べましたら、90年前とほぼ同じ姿。
説明板










ろ過池の入り口にある説明版。滝上浄水場は一地方都市としては珍しく明治45年完成という上水施設としては最初期と言えるもの。しかも、戦前の施設がそのまま残されており、地方の戦前の上水設備を知る貴重な近代化遺産となっています。
2宮津市滝上浄水場ろ過装置










ろ過池の隣にある半地下の施設。見るからに古そう。
宮津滝上浄水場002







反対側になってますが、絵葉書にも写されており、戦前の施設であることが分かります。
奥に写っている建物は現存していません。
ろ過槽










半地下の施設の上部には空気抜きのようなものが並んでいます。これも当時のままなのでしょうか。
3宮津市滝上浄水場ろ過池取水桝










ろ過池の隅にある取水用の桝のようなもの。
宮津滝上浄水場003









こちらも絵葉書に写されており、見る限り当時のままのようです。
5宮津市滝上浄水場取水桝1










ろ過池のフェンスの外には先の取水桝に繋がっていると思われる取水口らしきものがあります。
雰囲気的に戦前当時のままでしょう。
4宮津市滝上浄水場橋










ろ過池へ取水していた川には当時の橋もあり、かつては公園になっていたようです。
ただし現在は公園として管理されず放置されています。
6宮津市滝上浄水場貯水池堰堤










ろ過池から林道を登っていくと貯水池の堰堤があります。
宮津滝上浄水場004








この貯水池堰堤は古絵葉書にもあるものですが、現在の姿はだいぶ変わっています。
後で出会った管理の人の話を聞くと、補強のため戦後に石張りだった堰堤をコンクリートで覆ったとのこと。コンクリートの外壁の中には石張りの当時の外壁が眠っているようです。
7宮津市滝上浄水場貯水池通水路










堰堤の脇には通水路があります。こちらは石張りが見えるため当時のままの姿のようです。
堰堤の周りはフェンスが張られ立ち入りできなかったので、再び林道に戻り登っていくと、川側の斜面に降りていく古い道が。その旧道を辿り降りていくと。
13宮津市滝上浄水場取水口通水路










貯水池へと続くであろうかつての管理道と通水路にたどり着きました。
貯水池方面は立ち入りできなかったのでそちらへは向かわず山側へ向かう方向へ。
8宮津市滝上浄水場取水口堰堤1










すると、アーチを持つ石張りの堰堤にたどり着きました。
宮津滝上浄水場005








この堰堤は古絵葉書にもある取水口堰堤。真ん中のアーチが取水口になります。
9宮津市滝上浄水場取水口堰堤2










取水口のアップ。現在も水門があります。
堰堤の下は岩盤を削ったと思われる川になっています。滝上浄水場は常願寺川をそのまま利用して取水していたと説明にあり、恐らく元々あった常願寺川を堰堤でせき止め貯水池を作り、また川を掘削し拡張したのかもしれません。
10宮津市滝上浄水場取水口堰堤上部










取水口堰堤の上部。石張りの堰堤は絵葉書が撮影された90年前の昭和初期当時のままの姿のようです。
下流側にある貯水池堰堤もかつてはこのような姿だったのでしょう。ただ、あちらは規模が大きくそのままでは強度に不安があるため、貯水池堰堤だけコンクリートで覆う補強をしたのでしょう。
取水口堰堤は現在、堰堤の左半分が土砂に埋もれてしまっています。
11宮津市滝上浄水場取水口通水桝










取水口堰堤の左端にある桝。その下には通水路があり、絵葉書にも写っているため当時のままのようです。
12宮津市滝上浄水場取水口滝













取水口堰堤の上には小さいながらも滝があり、滝の水も堰堤の下を流れる水も綺麗でこの滝上浄水場の水はきっと美味しいのでしょう。
滝上浄水場は絵葉書が撮影された90年前の昭和初期に比べて木々が生い茂り深い森となってます。
かつては散策できたであろう道は所々雑木等に埋もれ見通しも効かなくなり絵葉書と同じアングルでの撮影は不可能になっていました。
さらに、取水口堰堤は半分が土砂に埋もれるなど90年の歳月を感じる状態でした。
しかし、戦前の上水施設がそのまま残されている貴重な近代化遺産を目にすることができ、また、昭和初期の絵葉書に写る堰堤や、ろ過池の変わらない姿を現地で見比べることができる等、まるで90年の歳月を超えたかのような気分を味わうことができる訪問となりました。






besan2005 at 19:06|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ダム・堰堤 | 京都府

2017年01月04日

福知山市・山崎城跡

あけましておめでとうございます。本年も城好きの方もそうでない方もよろしくお願いします。
さて、2017年最初の攻城レポ日記は京都府福知山市山崎にある山崎城跡。
実は私の故郷の村にある城跡で、まだ実家に住んでた頃に1度探索したことあるのですが、それ以来行ったことなくていい機会だししっかり探索しようと試みまして。
1山崎城遠景








山崎城跡遠景。
山崎城跡は山崎地区にある山の麓の丘陵にある小さな中世城郭。
地元では古くから城跡と言い伝えられており、城跡の下の民家の辺りに殿さまの屋敷があったと伝えられてます。(真偽は別として)
中世の城跡はほぼ現在の村落単位に存在し、室町期の頃に村落の土豪が住まう城と治める村落といった1単位のグループが形成しそれが現在も続く村落の原型になったと思われます。
この山崎城跡も山崎地区の村落とそれを治める土豪の城のセットと考えていいかもしれません。
福知山市山崎城縄張図001










山崎城跡は周知の城跡で福知山遺跡地図にも山崎城跡として記載されています。しかし、近年発行された京都府中世城館跡調査報告書には城郭類似遺構とされ城跡と認知されていません。
今回、城内を散策し拙い図ですが縄張図を描いていきましたが、誰の目に見ても明らかに城跡の遺構が存在するのですが。地元での伝承、現地に残されている城郭遺構などから中世城郭として認知されるべきだとは思うのですが…
というわけで、縄張図が作成されていない現状であるため、私が現地で書いた図を基に紹介していきます。
2山崎城帯曲輪か1








山崎城跡帯曲輪(推定)。縄張図,硫媾蝓山崎城跡の南端は府道109号線に面しており、また道路の工事により一部削り取られています。この削られた崖面の箇所に帯曲輪のような段が見受けられますが、もしかしたら後世の改変による可能性も考えられます。
3山崎城南曲輪2








山崎城跡南曲輪。縄張図△硫媾蝓B啅蔑悄平篦蝓砲両紊寮擺澆鯏个辰討いと広めの平坦地が。ここは明らかに曲輪と思われます。ただ、東西部分がどうも削られて失われているようにも見えます。本来はもう少し広かったのかも。
4山崎城南曲輪切岸3








山崎城跡南曲輪とその上の曲輪の切岸。縄張図の箇所。
高さは低いですが、しっかりとした切岸が残されています。
5山崎城南曲輪切岸








反対側から撮影。
6山崎城南曲輪北から








南曲輪の上の曲輪から南曲輪方面を撮影。縄張図い硫媾蝓
8山崎城堀切・主郭切岸








同じ曲輪から堀切・主郭(推定)の切岸を望む。
9山崎城堀切








主郭(推定)の南にしっかりとした堀切が残されています。縄張図イ硫媾蝓
9山崎城堀切5








反対側から。堀切の南、曲輪い遼銘爾膨磴瓩療變櫃残されており、主郭(推定)への進入を土塁と堀切、3mくらいの高さの切岸で防御しています。山崎城跡で最大の防御であり一番の見所かと思われます。
10山崎城主郭6








堀切の北、山崎城跡主要部で一番高めの箇所に当たるところに広い平坦地があります。
縄張図Δ硫媾蝓0銘崚に山崎城跡の中心に位置し周りの曲輪より高所にあることや南に大き目の堀切を設けていることから、山崎城跡の主郭ではと推測されます。
面積は結構広く、建物なら余裕で建てられます。
11山崎城主郭北曲輪7








その主郭推定曲輪の北側に一段低い平坦地があり、主郭推定曲輪に次ぐ広さがあります。
縄張図Г硫媾蝓4兇古に主郭推定曲輪のΔ龍蔑悗良郭と思われます。しかし、近年まで畑地としての利用がされていたようで、後世の改変が大きいようです。
12山崎城北曲輪8








副郭と推測されるГ硫媾蠅ら山の稜線が一気に急傾斜となっていきます。それを登っていくとちょうど主郭群を見下ろす形で小曲輪が2つ存在します。写真は下段のやや広めの曲輪で縄張図┐硫媾蝓
恐らく上から主郭群を防御する曲輪だったのでしょう。
13山崎城北曲輪堀切9








┐龍蔑悗療貘Δ砲話擦瓩遼拈擇氾變櫃残されています。縄張図の箇所。
この曲輪のすぐ上に小さい曲輪が存在します。
故郷の山崎地区は今でも全員が同じ姓で、村の共有文書である江戸初期作成の家系図や共同墓地の江戸期の墓石や先祖供養塔にも同じ姓を名乗ってます。
村共有文書の家系図には永正5年(1508年)から江戸時代初期の寛文まで事細かに書かれた先祖の系図があり(次男三男の養子先や娘の嫁ぎ先まで記載)全て鵜呑みにはできませんが、戦国期には山崎地区に先祖が存在しこの小さな村に小さな城を構えて治めていたようにも思います。
(江戸初期に先祖が大先祖を供養するために建てた供養塔には延徳3年・明応4年という永正より10年古い年号が刻まれている)
先祖は江戸中期に3系統に分岐し現在の血縁関係としての株講として存続しています。
この山崎城跡が私の先祖の城とするには短絡的なのかもしれませんが、先祖の存在した時期や今と同じ姓を名乗っていたことなどそう考えてもいいのではないでしょうか。
なんせ、戦国時代は半農半士が普通で江戸時代でいう庄屋クラスの身分が戦国時代当時の小土豪だったのでしょうし。
そんな先祖も弱小がゆえに時代の流れには乗れず、江戸時代には帰農しています。ただし、先祖から受け継いだ姓はそのまま村内に限り名乗り続け現在に至ってます。
ちなみに山崎城跡は山の麓の小高い箇所に造られており、同じ尾根続きの本体の山の山頂には曲輪と思われる削平地は認められるものの、しっかりとした防御施設はあまり確認できず、今回探索した山崎城跡はいわゆる麓の居館跡で有事には山頂の簡素な城にこもったいわゆる詰めの城があったのではと考えられます。


besan2005 at 12:04|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2016年11月27日

丹波国天田郡福知山藩領十二村(現・福知山市十二)古文書群一括(暫定版)

丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群1








現在の福知山市十二地区である丹波国天田郡福知山藩領十二村の近世文書群、いわゆる村方文書群です。
あまりに大量の古文書群のため全く整理しきれていませんが、総重量は7kgあり恐らく300通以上はあるものと思われます。
十二村は近隣の村落とともに山陰街道に面し宿場町に設定されさらに山役や夫米が徴収されており、その代わり他の夫役は一切免除されていたそうで、その免状が多く残されています。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群2








大量のため半分も確認できてませんが、古文書の中で一番古い年号は元禄4年(1691)の物のようです。
ただし、これから調べていくうちにさらに古い年号の古文書が出てくる可能性があります。
十二村の古文書群は元禄期の古文書10数点から明治初期にかけて江戸時代全般に渡っています。
ほとんどが借用証文や免状や譲り渡し状等の証文類ですが、古記録類も含まれていました。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群5








「福知山米〇〇記録」元禄9年(1696)
年貢米等の記録でしょうか。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群4










「新開名寄帳」享保12年(1727)
新たに造られた田んぼの所有者を記した不動産記録。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群6










「五人組御改帳」寛政4年(1792)
江戸時代の村落の隣保制度。どの家がどの組に属していたかを記録したもの。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群3










「重仁(十二)邑今高名寄 丹波国天田郡川口庄」文政9年(1826)
十二村にある全ての田畑の不動産記録。かなり厚さのある写本です。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群7










「郷諸日記帳」文政13年(1830)
十二村のことを記した日記。証文類や名寄帳がほとんどの十二村古文書群において、当時の十二村の様子を知ることのできる貴重な記録かと思います。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群8










「牧村御神様御社建替奉加帳」天保13年(1842)
牧村(現・福知山市牧)にある神社の社殿の建て替えによる奉納品の帳面。
牧地区には現在も存在する一宮神社があり、当社は十二村を含めた立原・野花・上天津・下天津・夷・上大内・下大内の総社で、一宮神社の社殿建て替えに際しての奉納についての記録でしょう。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群9




これは福知山藩領十二村ではなく京都府の船井郡にある大谷村の文書ですが、慶安4年(1651)の年号があり一番古い年号があります。ただし、後年に写された可能性もあります。
船井郡大谷村の者が行うべき神社への儀式について記録したもののようです。

丹波国天田郡福知山藩領十二村の古文書群について、十二村だけでなく近隣の牧村や立原村についても触れている文書も見受けられます。
大量のため確認も整理も中々進まずまた長年折りたたまれて保管されていたため虫害により固着し広げるのもままならない文書も多いですが、近世文書群とは言え福知山市内において数少ない古文書として十二地区の歴史を物語る歴史資料として貴重であることは変わりなく、いずれしかるべき機関にて調査を依頼することも検討しています。
こちらとしても今後確認・整理作業を行い、新たな情報が得られましたらこの記事を随時更新していく予定です。


besan2005 at 11:30|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 郷土史 | 歴史資料

2016年09月07日

福知山市・天照玉命神社の氏子札(明治5年発行)

天照玉命神社氏子札モザイク表天照玉命神社氏子札モザイク裏











福知山市今安にある「天照玉命神社」の氏子札です。

明治5年に発行されたもので、表に「丹波國天田郡榎原村父(個人名)次女」「今安天照玉命神社氏子」
「(個人名)」「慶応四戊辰年四月廿四日生」
裏に「(個人名)」「明治五年壬申年三月廿一日」と書かれ、表には天照玉命神社の社印が押されています。

これは、明治4年に明治政府により制定された「氏子調」による札で、太政官布告により江戸時代までの戸籍制度だった寺請制度に代わるもので、それまで寺が行っていたものを神社が代わりに請け負った制度です。
※wikipedia「氏子調」
制度としてはまず戸長に届けてその証書を地区の郷社へ持参し、そこで神社から氏子札を発行してもらい、それが個人の証明書になり同時にその郷社の氏子に登録されました。
氏子札を発行していたのは郷社格の神社のみだったようです。
郷社は今でいう学区単位くらいにあった神社で、府県社以上だと規模が大きすぎ、村社以下だと無住も多く規模が小さすぎるため、郷社が担当したのかもしれません。いわゆる村役場的な役割だったのでしょう。
戸籍制度が寺院の寺請制度から神社の氏子調へと移行した背景には、政府の神道国教化、長年にわたる寺院および仏教界の権力集中の打破等の目的があったようです。
しかし、氏子調はわずか2年後の明治6年に廃止。その後は役場が担当することになりました。

天照玉命神社







※Googleストリートビューより画像引用。
さて、この氏子札を発行した今安地区の天照玉命神社ですが、平安時代の延喜式にも記載されている式内社であり歴史のある神社です。遠目からも鎮守の杜が目立つ神社で地区の人は大人も子供も「今安のてんしょうさん」と親しみを込めて呼んでました。
私も子供の頃、同じ学区内にあり通学路の途中にあったこの神社で下校時はよく同級生と境内で遊んだりしました。天照玉命神社の前は高校卒業まで毎日通過し、本当に身近な神社でした。
そんな馴染み深く思い出深い神社の150年前の歴史資料を手にしたのは一種の感慨深さを感じました。
この氏子札に書かれている人物は私とは全く縁のない方ですし、榎原村も私の実家の村から割と離れた村で私とは直接関わりがあるわけではありませんが、それでも馴染みのある神社の郷土資料を手に出来たのは意義深く、大切に保管し伝えていく責任を負ったことになります。


besan2005 at 20:34|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 郷土史

2016年05月22日

福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院跡・中世観瀧寺跡(&幻の滝山城跡か)の再踏査


記事の画像および文章の無断転載は一切禁止します。
前回5/3についに発見した福知山市奥榎原の中世観瀧寺跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54643859.html
※前回の踏査レポ日記。
しかし前回天候の急変と初めて到達した場所ということもあり十分な探索もできぬまま撤退する羽目に。そこで、梅雨に入るまでに徹底した再踏査を試みることにしました。
1中世観瀧寺跡遠景








中世観瀧寺跡遠景。山の中腹に広がる不自然な平坦な地形。
昔から実家から見えるこの風景を眺めては言い伝えでしか知らなかった古の寺院跡に思いを馳せていました。
今回の再踏査に当たって目標としたもの。
〇前回未踏査だった箇所の悉皆調査。
〇GPS観測による位置確認。事前に推定していた箇所との照合。
〇石塔類の存在の確認。
〇遺物の確認による時代の裏付け。
これらを念頭に置き再び中世観瀧寺跡へ。
中世観瀧寺跡位置図




現地に到着し、スマホのGPS機能付き登山ナビアプリで位置計測をしたら、最初の踏査前から推定していた位置とドンピシャ。あの実家から見えていた山の平坦地そのものの場所でした。
標高は300m奥榎原集落からの比高差は200m余り。
画像は国土地理院の地形図を引用して中世観瀧寺跡の位置を示しました。
中世観瀧寺跡縄張図







中世観瀧寺跡縄張図番号入り







その国土地理院が公開する地形図を利用してそれに乗せる形で中世観瀧寺跡の縄張図を作成。
今回初踏査した箇所と前回踏査した箇所も含め新たに判明した点を書き加えながら順に紹介していきます。
2中世観瀧寺跡石垣1








下の不動尊の滝からわずかに残る古道を登り切った箇所にある石垣。縄張図1の箇所。
中世観瀧寺跡において唯一しっかり残された石垣。この石垣の下には比較的しっかりした古道も残り、石段らしきものが見え、中世観瀧寺跡の正面に当たる箇所かと思われます。
3中世観瀧寺跡石組基壇2








1の石垣のある平坦地に残る方形石組の基礎らしきもの。縄張図2の箇所。
堂宇にしては小さいので祠か何かだったのでしょうか。もしくは古墓。
4中世観瀧寺跡曲輪3








その2の方形石組みのある平坦地。縄張図3の箇所。
4中世観瀧寺跡最上段曲輪石垣








3の平坦地の切岸には石垣らしき跡があります。1の石垣のある切岸と同じ箇所にありかつてはこの切岸を石垣が巡っていた可能性があります。
5中世観瀧寺跡最上段曲輪4








石垣の巡る切岸の上の平坦地。縄張図4の箇所。
この一帯では最高所となり、石垣もあることから、中世観瀧寺跡において何か象徴的な建物があったように思います。石垣を積むことで威厳を見せていたようにも。
この平坦地は途中で東に土塁状の形となって伸びています。
6中世観瀧寺跡石列虎口5








3の平坦地の北側にある虎口。縄張図5の箇所。石列もありしっかりとしています。
7中世観瀧寺跡石列虎口下石段跡6








5の虎口の下にはいくつか石が並び、石段があった可能性があります。縄張図6の箇所。
下の平坦地へと降りる石段だったのでしょう。
8中世観瀧寺跡最上段曲輪下北曲輪7








一旦戻り虎口5の東にある平坦地へ。縄張図7の箇所。平坦地4から伸びる縄張図21の土塁によって守られた形で、平坦地内には石垣の石材らしき石が多数散乱しています。
10中世観瀧寺跡7曲輪西から








西から撮影。
9中世観瀧寺跡7曲輪崩落石垣








平坦地7から土塁方面を撮影。石垣が崩落したように見えます。
しかし、自然崩落にしてはあまりに崩壊が大きく、意図的に崩されたのではないかとも思いました。観瀧寺の寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとありますが、もし寺院側の反乱だとしたら滅んだ後に城として使えないよう石垣を崩す破城されたのかもしれません。
ただ、南側の石垣のみ残されたのが不思議ですが。
11中世観瀧寺跡北曲輪8








虎口5を降りたところにある平坦地。縄張図8の箇所。
ここも石材が散乱し、石垣があったのかもしれません。
中世観瀧寺跡採集遺物1








この平坦地では初の遺物を確認。これは珠洲焼の壺の破片。
珠洲焼は平安時代より生産され戦国期にに突如姿を消した幻の焼き物。
それを見つけたのは大きな成果でした。つまり、この珠洲焼が落ちているということは確かにこの遺跡が室町期まで寺院として機能していた証となるものです。
中世観瀧寺跡採集遺物2








この珠洲焼の発見で改めて付近を探索したら、室町期と思われる備前焼や信楽焼きの甕の破片を多数発見。またここだけでなく、寺院跡一帯でもいくつか同時期の遺物を確認。時代の裏付けをとることが出来ました。しかし、瓦片は一切見つけられませんでした。
石垣があり広い平坦地を持ち礎石らしきものもあるので瓦葺きの建物があってもよさそうに思いましたが、瓦片が一切見つからなかったので中世観瀧寺跡の諸堂は杮葺きだったのでしょうか。
12中世観瀧寺跡曲輪9








平坦地8から西に向かうとさらに広い平坦地へ。縄張図9の箇所。
13中世観瀧寺跡西土塁10








そして平坦地9から西に延びる土塁。縄張図10の箇所。
この土塁は防御というより区画を分けるためのものだったようにも見えます。
14中世観瀧寺跡曲輪11








土塁10の北側の2段の曲輪。縄張図11の箇所。
15中世観瀧寺跡曲輪12








土塁10の南側の平坦地。縄張図12の箇所。
16中世観瀧寺跡西土塁端13








土塁10の西端の部分。縄張図13の箇所。
13の箇所から北側の平坦地へ向かえるようになってます。
17中世観瀧寺跡西曲輪14








縄張図14の平坦地。
18中世観瀧寺跡西櫓台跡15








平坦地14の西端には櫓台のような高まりがあります。縄張図15の箇所。
西側は麓に方向に当たります。麓側を監視する施設だったのでしょうか。
19中世観瀧寺跡西端曲輪16








櫓台15の下にも平坦地がありました。縄張図16の箇所。今回初確認の遺構です。
この下は自然地形の緩斜面が続きしばらく下りましたが、遺構らしきものは確認できませんでした。
20中世観瀧寺跡曲輪17








縄張図17の平坦地。中世観瀧寺跡の遺構はほぼ尾根上とその一段下の範囲で広がり、尾根から大きく外れて遺構は広がってはいないようです。
21中世観瀧寺跡南曲輪18








東へと戻り最初に上ってきた箇所へ。その東側に帯曲輪状に広がる平坦地。縄張図18の箇所。
写真左の切岸は21の土塁です。
22中世観瀧寺跡東土塁東端19








さらに東へ進むと大きな堀切に当たりました。縄張図19の箇所。今回初確認の遺構で、正面に見えるのは土塁に思えましたが、登ってみるとどちらかというと櫓台にも見える遺構でした。
23中世観瀧寺跡東土塁櫓台20








登ってみると、堀切に沿って低い櫓台のような高まりがあり、その西側に小さい平坦地がありました。縄張図20の箇所。ここから堀切を上って来る敵を迎え撃ったのでしょうか。
24中世観瀧寺跡東土塁21








平坦地4から西に伸びる土塁の西端から撮影。縄張図21の箇所。
25中世観瀧寺跡堀切22








その東側に堀切があります。縄張図22の箇所。
22中世観瀧寺跡東土塁堀切








東側の平坦地20から撮影。正面の高まりは土塁21の東端部分。
26中世観瀧寺跡土塁堀切23








東に進むとさらに土塁と堀切が。縄張図23の箇所。
19の堀切と土塁を挟んで2連となっています。
27中世観瀧寺跡東曲輪24








堀切の東側から斜面が上がっていきますが、まるで中世城郭のように段状の平坦地が連なります。縄張図24の箇所。
28中世観瀧寺跡東曲輪25








平坦地24の上には縄張図25の平坦地があります。これらの平坦地は上の本堂跡かと思われる大規模な平坦地への接続する平坦地と思われますが、それぞれの規模は大きく十分建物も建てられそうです。各平坦地の虎口も良く残されスロープ状の上り坂もあります。切岸も高い。
29中世観瀧寺跡東曲輪石段26








平坦地25と上の平坦地の間に石段があるのを発見。縄張図26の箇所。
明瞭に残された石段はその上の平坦地が寺院の中心となる重要な個所だったことをうかがわせます。
30中世観瀧寺跡東曲輪本堂跡推定27








石段26を登った先に広がる平坦地。縄張図27の箇所。
P1040779








かなりの広さで中世観瀧寺跡でも最大規模を誇る平坦地。
31中世観瀧寺跡東曲輪虎口28








平坦地27の北側に明瞭に残る虎口。縄張図28の箇所。
虎口28からは古道が延び、下っていくと平坦地25につながります。
32中世観瀧寺跡東曲輪礎石29










平坦地27で等間隔に並ぶ石を発見。縄張図29の箇所。礎石に見えるこの石列は規模からして相当な大きさの建物があったように思えます。
麓から一番離れた山側の寺院跡でも最高所であり最大規模を誇るこの平坦地は中世観瀧寺跡でも最重要な施設、本堂とかがあったのではないでしょうか。
礎石らしき石列や西側の石段などを見てもそんな雰囲気がしますし、本堂跡と思われる平坦地27に至るまでの3つの堀切や2つの曲輪みたいな平坦地など防御を意識した施設を配置していますし。
33中世観瀧寺跡東曲輪切岸








山側の東側の切岸。かなりの高さです。
34中世観瀧寺跡東端曲輪30








本堂跡と推定される平坦地27の上にもう一つ平坦地がありました。縄張図30の箇所。
きぼはさほどではありませんが、平坦地27を見下ろすこの平坦地は、かつて建っていた本堂などの重要施設を防御する役目だったのでしょうか。
今回の探索で新たに確認できた東側の遺構も相当な規模を持ち、本堂跡と推定される大規模平坦地、残された石段の跡そして土塁や堀切などを確認でき大きな成果となりました。
また、前回は確認できなかった堀切を新たに確認でき、城としての性格も持つ防御性のある寺院だったこともわかりました。目標の一つだった石塔類は見つかりませんでしたが、室町期に遡る遺物を多数発見し、間違いなく中世観瀧寺跡が少なくとも室町期までは存在し戦国末期に兵火で焼亡したという言い伝えの裏付けとなりました。
寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとのことですが、その年はすでに豊臣秀吉が天下を統一した時代。丹波天田郡地域での兵火と言えば真っ先に明智光秀や丹波国人の赤井直正が思い浮かびますが、天正3年ならともかく天正13年でも戦はあったのでしょうか。
天正3年の間違いだった可能性も考えられるのですが、寺伝を信じれば残された国人たちが観瀧寺と呼応して籠城したかもしくは対立して結果焼亡したとも考えられますが、詳しい記録や古文書は一切ないため今となっては不明です。
ただ、遺構を確認したら明らかに城としての機能を持たせた防御施設があり、中世の多くの寺院でもあったように城も兼ねた寺院だったことは間違いなさそうです。
今回の探索でほぼ中世観瀧寺跡の寺域は確認できたかと思います。あとは尾根続きのの下って行った西側の麓に近い箇所の尾根が地形的に怪しい形をしており、中世観瀧寺跡の子院のあった可能性も捨てきれないので機会を見て踏査したいと思っています。
それにしても福知山市内でも最大規模とも思える有数の中世寺院跡、いや中世城郭と考えても市内有数の規模と思われる中世観瀧寺跡。この遺構が市教委や府教委に周知されておらず遺跡地図にも記載されていないのが。詳細な調査をして遺跡として認知されることを願っています。


※11/1追記
中世観瀧寺跡踏査後、丹波・丹後の中世山城や郷土史を踏査・研究している方々にレポートを報告し見ていただいた結果、もしかすると丹波志に記載のある未だ所在不明の「滝山城」でもあるのではないかとの一致した意見を頂きました。
寛政6(1794)年に編纂された「丹波志」の中に観瀧寺について以下の記載があります。
「瀧山 観瀧寺 真言宗 榎原村
高野山谷ノ上宝城院末寺 開山法道仙人 中興成遍法印 境内三十間ニ六十間除地 山林東西二丁半南北二丁半 千手観音堂三間ニ三間半 方丈五間七間 庫裡四間七間半 門二宇 郡巡礼十一番札所 薬師堂 地蔵堂 鎮守 土蔵 
古へ奥榎原ノ上ヘ滝山城ノ脇ノ地ニ在 後口榎原地移スト云」
丹波志にはかつての観瀧寺の脇には滝山城があったと記載されています。
滝山城については丹波志による記載はあるものの、どこにあったか具体的な場所は分かっていません。
ただ、今回探索し確認した中世観瀧寺跡の縄張を見ていると、堀切を境にして西側一帯は確かに城郭としての性格を持ち、東側一帯は礎石の残る広い平坦地と石段が残されています。
つまり、堀切を境にして東西の縄張にやや性格の違いがみられ、もしかすると東側一帯の区域が寺院、西側の一帯が城郭ではと考えることができます。
縄張図で説明いたしますと、
56816d14







こう推定できるのではないでしょうか。
ただ、滝山城推定地とした西側の一帯の縄張がもし本当に所在不明の滝山城だとすると、中世観瀧寺を防御するための砦、もしくは本来ここも中世観瀧寺の敷地ではあったが戦乱の時代に対応するため一部を城砦化したようにも感じられます。いずれにせよ、中世観瀧寺と無縁ではなかったはずです。
そのことは、この一帯の遺跡について地元では古寺跡との言い伝えはあるものの城跡との言い伝えは残されておりません。
中世観瀧寺は時代の流れとは言え、寺院の一角を城砦化もしくは寺院を防衛するための城砦を築き武装したがために攻められ滅ぼされたのではないでしょうか。
もし、この遺跡が中世観瀧寺跡並びに滝山城跡と確定、特に滝山城跡が確定されれば丹波志の記載以来200年あまり所在不明だった場所の発見という大きな成果と成りうるのですが。

※2017年5月2日に再踏査をし、新たな遺構を確認しましたので報告いたします。

中世観瀧寺跡縄張図2001









※今回初確認の遺構の位置。(前回踏査時に作成した縄張図に加筆。)
1年ぶりの訪問ではすでに確認済みの遺構の再確認とともに、新たな遺構が無いかを探索。
去年よりどことなく見通しが良くなったような感じの受ける中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)内にて、いくつかの大きな発見がありました。

曲輪7土塁側残存石垣1










まずは,鵬媾蠅砲導稜Г靴神仞僂漾わずかですが石積みであることが分かります。
この場所は去年確認した大土塁の北側の曲輪の土塁側の箇所。この箇所は南側の推定大手口に残る石積みやその周囲に散乱してる多数の石材を見るからに、かつては中央櫓台と思われる箇所とその周囲の曲輪は総石垣とまでは言えずともかなりの範囲に石積みが施されていた可能性が高いと思われます。

曲輪8残存石垣2










中央櫓台北の下への曲輪へと続く虎口の下にて確認した石積み。縄張図△硫媾蝓
こちらもわずかですが、明確な石積みです。
かつての中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)は中世から戦国期の福知山市内でも類を見ないくらいの範囲で石積みがされた城跡だったようです。しかし、この崩れ方を見るに自然崩落というより人為的に崩されたように見え、残念ながらかつての迫力ある姿は南側推定大手口の石積みにしか見られません。
当時は中世観瀧寺も含めた相当な勢力を誇っていたのでしょうが、この地に侵攻した明智光秀やその後を継いだ豊臣秀吉の配下により落城し大規模な破城が行われたのでしょう。

曲輪8北側曲輪(新確認)










△寮仞僂澆魍稜Г靴晋弩のある曲輪から何気なく下を覗いていると、規模の大きい曲輪を新たに発見。斜面がかなり急で下って行くことは困難な上に単独行動での無理な探索は危険を伴うと判断し上からの確認にとどめましたが、上からでも明らかに分かる平坦な地形と散乱する多くの石材。写真では写ってませんが、さらに奥にはもう1段曲輪らしき平坦地も確認できました。
さらに、写真は撮れませんでしたが、城域の西端の北面にも平坦地を確認。以上のことから、中世観瀧寺跡の範囲は当初確認したよりもさらに北方に城域が広がる可能性が高まってきました。まだまだ未確認の遺構が眠っていることに期待が高まってきました。
いずれ、複数人の専門の方とともに悉皆踏査を行いたいと思ってたり。

尾根上石積み










帰路は不動の滝側からではなく、西端の土塁から尾根を下る感じで帰還。
途中、尾根上に低い石積みが数か所あることを確認。中世観瀧寺跡との関連は不明ですが、一応報告しておきます。



besan2005 at 09:39|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 遺跡

2016年05月07日

福知山市・榎原鉱山跡遺構レポ日記

※mixi日記に書いたものの転載です。無断での画像や文章の引用は禁止いたします。

先日レポ日記に書いた中世観瀧寺跡の探索途中に発見した榎原鉱山跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/cat_50101861.html
※中世観瀧寺跡レポ日記。
実は最初ここが目指す中世観瀧寺跡と思い込んでました。
しかし、現地での踏査や改めて調べたりしてみるとどうやら鉱山跡だと確信。
目当ての中世観瀧寺跡ではなくその時は落胆しましたが、こちらもほとんど知られていない鉱山跡で、福知山市における貴重な近代化遺産としても重要と判断したことから、レポ日記を書くことに決めました。
榎原鉱山に関して、福知山市史第1巻によれば、明治40年を中心に前後10年間稼業し、最盛期は鉱員約200人職員約100人を有し黄銅鉱を産し銀や亜鉛も産したが、大正時代に入ると振るわなくなったとあります。
私自身榎原鉱山のことは知らず、初めて斜面に広がる平坦地や石垣等の遺構を見たときにここが中世観瀧寺跡かと勘違いしたくらいです。まぁ現地に散らばる新しい瓦や茶碗片や鉱滓を見て疑うようになったわけですが。
1榎原鉱山遠景








中世観瀧寺跡のレポ日記でも書いたように、榎原公民館の駐車場の近くの畑で作業をしていた老夫婦に中世観瀧寺跡の場所の手掛かりとなる不動尊の滝の場所を聞き山の中へ。
この写真の左の道をずっと進めば不動尊の滝に到着しますが、榎原鉱山跡の遺構は道に挟まれた正面の斜面一帯に広がります。
2榎原鉱山作業道








斜面に入ると斜面を掘り込んで作られた道が延びています。
鉱山施設を作る際の作業道で、その後も鉱員の行き来や作業道として使用されたと思われます。
3榎原鉱山飯場跡








このような平坦地が段状に斜面一杯に広がります。
中世寺院跡の僧坊跡も似た良ような形でこういった平坦地を作るため、てっきり中世観瀧寺跡と思い込んでしまいました(笑)
ここはかつての飯場跡かと思われます。
4榎原鉱山石垣








一部崩落しているとはいえしっかりと残る石垣にテンションが上がりましたが、どうにも違和感が。
積み方が比較的新しい谷積みに近い。それに何だか積み方が荒い。
5榎原鉱山石垣








低い石垣もありこれなど一見中世の石垣に見えなくはないですが、その周りに散らばる遺物が明治以降のコバルトの染付だったり新しい瓦だったり近代の遺物ばかりで肝心の中世までの遺物が全く見つからない。それにいわゆる鉱滓という鉱石の精錬後に出る残滓があちこちに。
この辺りからもしかしたら中世観瀧寺跡と違うのでは?鉱山の跡なのではと疑うように。
6榎原鉱山作業道








上に向かってさらに伸びる作業道。これを登っていくと。
7榎原鉱山石垣








なかなか立派な石垣が。
8榎原鉱山石垣








いい感じの石垣なんですが、その背後にそびえる山を見てもう疑いから確信に変わりました。
9榎原鉱山鉱滓山








大量の鉱滓の山。鉱滓はスラグとも言い、つまりは鉱石を精錬し目当ての金属を取り出した後に出る残滓で当然ですが精錬すると大量に出て廃棄されます。
現在では不法投棄になるんでしょうけど戦前まではこんな感じでその場に捨てられていたんですね。
ここで持ってたスマホで検索すると文章だけの表記で実際のレポではなかったですが、榎原鉱山に少し触れたサイトが見つかり、ここがその榎原鉱山だと確定。
10榎原鉱山鉱滓








落ちていた鉱滓を観察。見た目よりかなり重く叩くと金属音が。
榎原鉱山は銅鉱山だったようです。
ただ、鉱山としては鉱滓の量が少ないような。他にも捨てられた場所があったのかもしれませんが、もしここだけなら鉱滓の量から見て稼働時期はそんなに長くなかったのかも。
11榎原鉱山選鉱所








この場所から少しそれた場所を探索してみると規模の大きい石垣が。
見た感じは中世山城か中世寺院の石垣遺構。
12榎原鉱山選鉱所








ただ石垣に近寄るとやはり違和感が。これだけ立派な石垣なのに建物を建てるような意思の無い立地。石垣のわりにスペースが狭すぎるんですよね。
13榎原鉱山選鉱所








さらに近寄ってみると城でも寺でもない石垣と分かります。このような造りはしませんしね。
おそらく選鉱所の跡なのかなぁとも思います。
ここで採掘した鉱石を選別し別の精錬所で銅を取り出し鉱滓を先ほどの場所に捨てる。
そして作業員は麓に近い飯場で生活。
榎原鉱山がいつから操業を開始しいつ頃閉山になったのか操業者は誰なのか資料も何もないため全く分かりません。分かることはここにかつて鉱山があったこと、実際に操業していたこと。散らばる食器の破片や瓦などから割としっかりした造りの飯場があったことくらいでしょうか。
環境に対する配慮の無かった時代、戦前までの鉱山では付き物の鉱毒問題や煙害問題もあった気がするのですが、地元民でもそういった話を全く聞かないということは公害問題が起きる以前に採算が合わないと判断して早々に操業停止したからでしょうか。
ともあれ、これら榎原鉱山の遺構群は福知山市における鉱山業の歴史を物語る貴重な近代化遺産の一つだと私は思います。


besan2005 at 21:53|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 鉱山施設

2016年05月03日

福知山市・中世観瀧寺跡 言い伝えの寺院跡の遺跡を初確認。

※mixiにて書いた日記をこちらに転載したものです。
レポートに書かれている内容や画像の転載は一切禁止します。

※5/21に再踏査をし、さらなる成果を得ました。詳細なレポはこちらをご覧ください。
福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院・中世観瀧寺跡の再踏査

福知山市奥榎原地区に観瀧寺という寺院があります。
福知山でも有数の古刹で福知山城の旧城門を移築していることでも知られていますが、
元々は瀧山という山の山中にあり戦国時代の兵火により全山焼失したため麓に下ったのが現在の観瀧寺と伝えられています。
私が中学生くらいの頃、今は亡き祖父が老人会で貰ってきた福知山市内の古老が書いた言い伝えなんかをまとめた一冊の本の中に中世観瀧寺跡の記載がありました。
地元の古老の話では奥榎原の山奥に不動尊を祀る滝があり、そこから登ったところにかつての寺の跡があり、今でも広い敷地が残っているという。
その記述を読んで別の集落ではありましたが実家からでもよく見える瀧山の高い山を眺め、その山中に眠るであろう言い伝えの寺院跡の遺跡に思いを馳せていました。
あれから20数年、中世山城跡巡りをするようになり、その中世観瀧寺跡への思いも強くなっていきました。
そして今回のGWを利用して確認の踏査にチャレンジしてみようと思い立ったわけです。

3中世観瀧寺跡遠景








中世観瀧寺跡の遠景。といっても大体の方向。
というのも、中世観瀧寺跡は地元の古老の言い伝えでしか情報がなく、市教委も府教委も遺跡を把握していません。
1中世観瀧寺跡観周辺図





京都府が公開している遺跡分布図。赤丸の範囲が中世観瀧寺跡の大体の位置ですが、(多分切れている尾根上の辺りが寺院跡の箇所。)そこには遺跡の記載がありません。
当然ネットで調べても具体的な情報なんて出てきません。
2中世観瀧寺跡天田郡誌資料










所有している昭和11年版の天田郡誌資料に観瀧寺の記載があります。
それによれば、開基は奈良時代の養老年間。奈良時代の宝亀元年(770)に勅願所となり以降は多くの僧坊や尼寺が建ち並び栄えたが、天正13年に兵火により全山焼失し現在の場所に下ったとあります。
中世観瀧寺跡へは前出の本と観瀧寺の寺伝のみ。あとは地元の古老への聞きこみくらいしか手掛かりは無し。
とりあえず目安となる不動尊の滝の場所を特定すべく奥榎原へ。公民館の駐車場をお借りして畑仕事をしていた老夫婦に声をかける。
「不動尊の滝ってどこですか?」「ああ、それなら・・・」「その近くに観瀧寺の跡があると聞いたのですが。」「あるよ。」「滝から50mくらい登ったところかな。」
これで、今まで伝聞でしか分からず実在が半信半疑だった中世観瀧寺跡が実在していることが確定しました。ありがとうございました。
4中世観瀧寺跡への道








教えられた道を進み山に入ると二差路にぶつかります。不動尊の滝と中世観瀧寺跡へは矢印の左方面へ進みます。ちなみに正面の斜面にはかつて存在した榎原鉱山の遺構や精錬後の鋼滓の山が残されていますがそれはまた別の機会に。
5中世観瀧寺跡への道








先ほどの分かれ道を進むと「不動尊の滝」と書かれた古い看板があり、その先の道をさらに進みますが、どんどん山の奥へと進んでいくので動物除けのベルやラジオは必須です。実際、向かっている最中に熊には会いませんでしたが鹿の群れには出会いました。また、途中写真のような沢を超えたりしますのでそれなりの装備は必要となります。
6中世観瀧寺跡への道








先ほどの沢を超えて細くなった道を進むと鎖の手すりがあります。ここまで来れば不動尊の滝まではもうすぐです。
7中世観瀧寺跡不動尊瀧








ようやく不動尊の滝に到着。思った以上に山の奥にあり、徒歩30分近くかかった気がします。
最初の案内板からここまで一切の看板も無くしかも途中道が荒れていたりして不安になりますが。
8中世観瀧寺跡説明版








置かれた古びた説明版。
話ではこの滝からずっと登ると寺院跡があると聞いたのですが、周りは切り立った急斜面で道のようなものは見当たらない。左の斜面を見るとうっすらと道らしき跡が。
・・・これを登るのか。
9中世観瀧寺跡下の急斜面








慎重に道を選びながら必死の思いで這うように斜面を登る。一歩間違えば10数mはありそうな斜面を転落することに。
10中世観瀧寺跡1








死にそうな思いで何とか登っていくと途中から多少道と呼べる跡が。それを辿って登り切ると、そこには思いもよらぬ広大な平坦地が。
2中世観瀧寺跡縄張図番号入り










念願の中世観瀧寺跡に到達したと確信しました。今まで伝聞という存在でしかなかった寺院跡の遺跡を実際に目の当たりにした時の感動。マジで鳥肌が立ちました。まさにパズーの「すごいや!ラピュタは本当にあったんだ!」状態。
ここからは私の拙い見取り図をもとにレポをしていきます。なんせ周知の遺跡ではないし遺跡として認識できる人はほぼ訪れてないので縄張図なんてありませんし。
中世観瀧寺跡縄張図







※5/21の再踏査により縄張図を描き直しました。
写真は縄張図1の箇所。やや広めの曲輪のようになっていて、東側から細くなり土塁状となります。
11中世観瀧寺跡土塁前曲輪2








縄張図2の箇所から東方面を撮影。途中から細くなり土塁となっているのが分かります。
12中世観瀧寺跡基壇3








方形に作られた石組を発見。縄張図3の箇所。大きさ的に祠でしょうか。もしくは古墓。
13中世観瀧寺跡曲輪4








方形石組みのある平坦地を西の端から撮影。縄張図4の箇所。かなり広いです。
14中世観瀧寺跡西方面の曲輪を望む








4の地点から西方面の平坦地を望む。段状に平坦地が続きます。
15中世観瀧寺跡曲輪5








縄張図5の箇所の平坦地。こちらもかなりの規模があります。奥にこれから向かう土塁がうっすら見えています。
16中世観瀧寺跡曲輪切岸6








縄張図6の箇所の切岸。高低差は結構あり今でも鋭く切り立っています。
17中世観瀧寺跡曲輪東方面








6の切岸を下の平坦地から望む。
18中世観瀧寺跡大土塁7








その平坦地内にある大土塁。縄張図7の箇所。かなりの大きさを誇ります。幅と言い高さと言い福知山市内の周知の中世城郭でも見かけないくらいの規模です。
19中世観瀧寺跡大土塁下曲輪8








大土塁の下には平坦地が続きます。縄張図8の箇所。土塁に沿って延びる平坦地は長く広い。
20中世観瀧寺跡大土塁








大土塁の別カット。長く続く土塁がお判りでしょうか。
21中世観瀧寺跡礎石か








平坦地には礎石らしき石もありました。他の平坦地でもいくつか見つけたのでまだ埋もれていることでしょう。
22中世観瀧寺跡大土塁東方面








同じ大土塁を逆の東方面を望む形で撮影。
23中世観瀧寺跡土壇曲輪








縄張図9の箇所の土壇状の平坦地。
24中世観瀧寺跡土壇曲輪9








9の平坦地の上から撮影。周りより高くなっており、お堂か何かがあったのでしょうか。
25中世観瀧寺跡土壇曲輪東方面








9の平坦地から東方面を撮影。
26中世観瀧寺跡西端曲輪








寺院跡の西端の平坦地。縄張図10の箇所。奥には土塁状の高まりがあります。
27中世観瀧寺跡西端土塁か








西端の土塁状の高まりは岩盤が露出していました。縄張図11の箇所。
28中世観瀧寺跡腰曲輪12








戻って9の平坦地の北側の腰曲輪のような平坦地を観察。縄張図12の箇所。
北側にはいくつかの小さい平坦地を確認しました。
29中世観瀧寺跡虎口石列13








方形石組みのある3の平坦地の北側に虎口のようなくぼみがありました。縄張図13の箇所。
寺院跡側には石列もあり、出入り口だったのは間違いありません。
30中世観瀧寺跡北側下段腰曲輪14








写真がブレていて申し訳ないですが、13の虎口の下に広い平坦地がありました。縄張図14の箇所。というのもこの辺りから天候が怪しくなり風も強くなってきてろくに道もない場所への初到達ということもあり不安になってきたのもあって焦ってました。
本当はこの下の平坦地も踏査したかったのですが、そういった事情で見送ることに。
どうやら北側一帯には他にも遺構がある可能性があります。
31中世観瀧寺跡崩落石垣15








中世観瀧寺跡は石垣が多用されていたようで、所々崩落した跡があります。縄張図15の箇所。
32中世観瀧寺跡崩落石垣








崩落石垣のアップ。裏込めらしき礫も見えます。
33中世観瀧寺跡土塁北側曲輪散乱石材16








石垣らしき石材が散乱している平坦地。縄張図16の箇所。右に見える切岸は2の大土塁。
この土塁は先までは踏査してませんがずっと東まで伸びてました。
34中世観瀧寺跡土塁北側曲輪17








石材が散乱している平坦地。縄張図17の箇所。こちらもかなりの規模があります。
35中世観瀧寺跡南側石垣








中世観瀧寺跡が石垣を持つ寺院だったことを証明する遺構。戻るときに見つけたものですが、立派な石垣が残されていて驚きました。縄張図18の箇所。中世以前の福知山市内の遺跡でここまでの規模の石垣を持つ遺跡は見たことがありません。
今回初到達ということと、天候の悪化で確認できなかった箇所や写真もしっかり撮れなかった十分な踏査とは言えない結果になりましたが、今まで地元の人からの伝聞でしか存在を知らず、市教委も府教委も周知していない自分の中では伝説の存在だったある意味幻と言ってもいい寺院跡の大規模な遺跡を発見することができ、感動いたしました。しかし、福知山市内でも有数ともいえる中世寺院の遺跡、これほどの遺跡が公的機関が周知していないのは驚きです。いずれしかるべき機関に報告はしようかと思います。そして、改めて悉皆踏査を試みたいと思っております。
次は他の石垣や石塔類の残欠や古墓が見つかれば大きな成果となるでしょう。


besan2005 at 22:21|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 遺跡

2014年05月31日

丹波笠次病院 京丹波町須知地区

旧須知小学校のある須知地区は旧山陰道の街道沿いの町として
発展してきた町でした。
現在は集落の前を拡張された国道9号線を通り、そちらが本通りとなっていますが、
かつては須知地区を通る道がかつての街道でした。
現在もかつての旧須知町の中心だった面影が残されています。
その中で戦前の洋館の医院が現在も残されています。
須知1








丹波笠次病院の旧館。典型的な昭和初期の地方の木造病院建築。
須知2








だいぶ老朽化はしているものの、当時の面影は良く残されています。
須知3








裏手はペンキも無くかなり傷んでいる様子が。
丹波笠次病院はこの旧館のそばに新館が建てられておりますが、
老朽化しているとはいえ、よく残していただいていると思えます。
須知4








街道沿いには古い町屋もいくつも残され、
かつての旧山陰道の面影を伝えています。

besan2005 at 20:24|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 医療機関 | 京都府

旧須知小学校

京都府京丹波町にある旧須知小学校を訪問してきました。
須知小学校は明治6年創立の小学校で、明治20年に須知小学校と改称しました。
現在残っている校舎は昭和10年に改築された校舎で80年経った現在でも
当時の姿をよく残しています。
須知小学校1








旧須知小学校本館。典型的な地方の戦前の木造校舎です。
須知小学校002







昭和10年の改築記念で作られた須知小学校本館の絵葉書。
80年前の姿そのままです。
関連サイト・古絵葉書 須知小学校
須知小学校3








建物の中には入れませんが、窓から中を伺うことはできます。
これは本館玄関から中を撮影したもの。
内部も当時の姿がよく残されています。
須知小学校4








教室棟。本館から広がるように左右に配置されています。
須知小学校2








二宮金次郎像。古絵葉書に写っているのと同じものです。
須知小学校5








台座には昭和9年に校舎改築記念として建立されたとあります。
須知小学校6








校舎のそばにはたくさんの花が咲いていました。
かつて花壇に植えられていた花たちの子孫でしょうか。

旧須知小学校は本館・講堂・教室棟が昭和10年当時のまま残り
地方の戦前木造校舎として貴重な存在となっています。
今後の有効活用に期待したいものです。

besan2005 at 13:41|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2014年05月07日

舞鶴市浜地区 旧海軍官舎群

舞鶴市浜地区通称「官舎山」と呼ばれた丘の麓には
北吸官舎と呼ばれた街並みが作られ、海軍軍人用の官舎が建ち並んでいました。
官舎の建築は明治32年から始められ、明治35年に終了し65棟建てられました。
海軍官舎配置図










図1
※舞鶴市教育委員会社会教育課「舞鶴の民家 旧市長公舎」のHPより引用。
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/modules/kyoikup/index.php?content_id=197
上記のHPから引用した北吸官舎の配置図。

今回浜地区の旧海軍官舎街を探索した結果、官舎と思われる建物を
10棟確認しました。
現存官舎位置










図2
※上記の図を参照し現存している官舎の位置を赤で塗りつぶしたもの。
(位置に関して差異があるかもしれません。間違ってましたらご指摘ください。)
半分になっている官舎もありました。

以下探索で確認した旧海軍官舎です。

海軍丁号官舎1








丁号官舎(図2)第1期工事のもの。
棟は半分だけ残されています。
門扉は交換されていますが門柱は当時のもの。
海軍丁号官舎2








丁号官舎(図2)第1期工事のもの
こちらは完存。門扉だけは交換されています。
門が2つあるので1棟に2世帯住んでいたと言うことでしょうか。
海軍丁号官舎3








丁号官舎(図2)第1期工事のもの。
棟は半分のみ残存。門扉と門柱は当時のものか。
塀はブロック塀に変えられてますが、塀の支え柱はオリジナルと思われます。
海軍丁号官舎4








丁号官舎(図2)第1期工事のもの。
こちらも半分のみ残存。門柱と塀の支え柱は当時のもの。
海軍丁号官舎5








丁号官舎(図2)第3期工事のもの
建物の外観は改装されています。
海軍丁号官舎6








丁号官舎(図2)第2期工事のもの。
空き家になってて塀も一部失われているため、官舎の姿が一番よく確認できます。
外観は当時のままのようですが、やはり棟の半分が失われているようです。
棟が半分にされているのは、丁号官舎△里茲Δ烹韻弔療錣烹伽ぢ喟験茲靴討い燭燭
所有者が異なり、住み続けられている部分だけ残された可能性があります。
長らく空き家だったためか老朽化が進み管理会社の管理下に置かれているようで
近いうちに取り壊される可能性があります。
海軍丁号官舎7








丁号官舎(図2)第2期工事のもの。
外観は改装されています。門柱と塀の支え柱は当時のものと思われます。
海軍丁号官舎8








丁号官舎(図2)第2期工事のもの。
建物の外観は改装され塀も建て替えられていますが、
建物自体は当時のものと思われます。
海軍丙号官舎9








丙号官舎(図2)第2期工事のもの。
塀はブロック塀に建て替えられていますが、門柱と母屋の建物は当時のままのようです。
海軍丙号官舎10








この丙号官舎の敷地の隅に木造の小さな付属屋がありました。
当時のものでしょうか。
海軍乙号官舎旧市長公舎1








乙号官舎(図2)旧市長公舎 第3期工事のもの。
旧市長公舎として使用されていた旧官舎で、この官舎だけ門が枡形のようになってました。
海軍乙号官舎旧市長公舎2








街路の角から。最近左側の塀が修復されたようです。
海軍乙号官舎旧市長公舎3








母屋は当時の状態がよく保たれていると思われます。

北吸官舎街の旧海軍官舎は全て和風平屋建てで寄せ棟の屋根となっており、
門や塀も含めてデザインが画一化されています。
また、旧鎮守府長官舎近くの海軍官舎のように洋館は併設されておりません。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54136401.html
※記事・東郷邸近くの旧海軍官舎

旧鎮守府長官舎近くの官舎が鎮守府付き副官や艦隊司令官等の将官クラスの
高級将校用の官舎としたら、北吸官舎街の官舎は中級〜下級の所帯持ち将校用の
官舎だったのでしょうか。

現在現存している官舎は空き家を除いて個人宅として使用されています。
個人名が判明するものは画像の加工処理を施しました。



besan2005 at 11:24|PermalinkComments(2)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2014年05月04日

亀岡市 旧大谷鉱山鉱長社宅

京都府亀岡市稗田野町鹿谷地区はかつて大谷鉱山があった場所で、
鉱山の街として栄えていました。
鉱山の採掘はタングステン。大正3年から採掘がおこなわれました。
しかし、昭和58年閉山。現在は静かな集落ですが、
今でも鉱山町時代の遺構が残されています。

鉱長の社宅もその一つで良好な状態で現存しています。
大谷鉱山鉱山長旧宅3








鉱長社宅。平屋建ての和風建築。
大谷鉱山鉱山長旧宅2








一部出窓を設けています。中は洋室のようです。
しばらく空き家でしたが現在はリニューアルされ個人宅となってます。
出窓は元からあったもののようです。
建築年代は戦前であることは間違いないと思われます。
昭和初期ごろでしょうか。
大谷鉱山








鹿谷地区内には他にも鉱山時代の建物がいくつか残されてますが、
ほとんどが廃墟と化しています。

besan2005 at 12:00|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 鉱山施設 | 京都府

舞鶴旧北吸浄水施設&舞鶴旧鎮守府水道施設(桂貯水池・岸谷貯水池)

2013年7月7日に一般公開された旧北吸浄水場のレポです。
旧北吸浄水場は舞鶴湾に停泊する艦艇に給水するために
設けられた施設で、明治34年に建設されました。
第一配水池と第二配水池の2棟が現存し、
国指定重要文化財に指定されています。
北吸浄水場1








旧北吸浄水場の正門。こちらも国指定重要文化財。
北吸浄水場2








配水池上屋は煉瓦造りで、大正15年に建設されたもの。
北吸浄水場3








配水池上屋の間。

公開されたのは奥側の第一配水池。
北吸浄水場4








内部も煉瓦造りで荘厳な雰囲気。
このようなスペースが5つくらいあり、
つづら折れのようになっています。
北吸浄水場5








地下の配水池は明治34年築。
北吸浄水場6








まるで神殿のよう。
北吸浄水場7








上屋の屋根は鉄骨組のトタン張り。
鉄骨も上屋の煉瓦壁と同じ大正15年のもの。

海軍の軍用水道施設は別の場所に設けられ、
舞鶴の外れの与保呂川上流に貯水池が作られました。
明治33年完成の桂貯水池と大正10年完成の岸谷貯水池があり、
両方とも国指定重要文化財となっています。
与保呂堰堤1








桂貯水池。明治33年建築。
石張りの堰堤は欧州の古城のよう。
与保呂堰堤2








水門には扁額とMを2つ重ねた海軍のマークが。
このマークは朝来地区の第三火薬廠跡に残る消火栓にもあります。

岸谷貯水池1








岸谷貯水池。大正10年。
桂貯水池の下流側にある貯水池。軍港拡張により新たに建設されたもの。
これは放水路。
岸谷貯水池水路橋











放水路をまたぐ導水橋。コンクリート製と思われます。

besan2005 at 11:37|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院 中舞鶴分院跡

旧舞鶴鎮守府庁舎のあった丘の麓には、
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院の中舞鶴分院がありました。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院1








現在はコンクリート製の塀と門柱が残されています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院2








角部分には石製の柱が据えられています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院3








正門部分。敷地内はかさ上げされて駐車場として使用されています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院4








門柱の照明部分。凝った装飾が施されています。
コンクリート製ということとすだれ状の装飾から昭和初期のものでしょうか。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院5








旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院中舞鶴分院跡の隣には明らかに戦前の建物と思われる
平屋の住宅とコンクリート製の門柱が残されています。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院6








和風の平屋住宅です。
旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院7








舞鶴市浜地区にある将校用の海軍官舎だった旧市長公舎によく似ており、
この建物も海軍官舎かと思いましたが、隣の中舞鶴分院との関係上、
中舞鶴分院関係の建物の可能性もあります。

また、この一帯には戦前のものと思われる古い建物が他にもいくつか残されています。
舞鶴の洋館1








明治36年建築の旧高田商会の事務所だった建物。
高田商会は軍関係の商社で、鎮守府庁舎のそばにあることから
舞鶴鎮守府のお抱え商社だったのでしょうか。
後に医院として使用。現在は個人宅です。
平屋の洋館部分がいかにも明治といった趣。
一部戦時中に施された迷彩の跡が残ります。
舞鶴の洋館2








旧高田商会近くの住宅。戦前の建物かと思われます。
舞鶴の洋館3








伝統的な町屋建築に洋館が付属する建物。
写真には写ってないですが木造の洋館部分に煉瓦造りの壁があります。
コンクリート製の門柱や木製の門扉も戦前っぽい。
舞鶴の洋館4








外観が新しくリフォームされているが、恐らく戦前の建築。

besan2005 at 08:17|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2014年05月03日

東郷邸近くの旧海軍官舎(高級将校用か)

旧舞鶴鎮守府長官官舎(東郷邸)近くに、旧海軍官舎と思われる建物が
2棟残されています。
※東郷邸一般公開レポ記事
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54136392.html

旧海軍官舎1








細い小路に並ぶように建てられており、東郷邸と同じ和風の母屋に洋館併設された住宅建築です。
旧海軍官舎2








洋館部分。軒下の装飾等、東郷邸の洋館部分と酷似しています。
また、鬼瓦には東郷邸と同じく錨の紋が入れられています。
東郷邸2








こちらは東郷邸の洋館。妻側の装飾がほぼ同じです。
旧海軍官舎と思われる建物の洋館は鎮守府長官の官舎である東郷邸の洋館を
一回り小さくした感じでしょうか。
旧海軍官舎3








母屋部分。東郷邸と同じ平屋の和風建築です。
並ぶ2棟は全く同じプランで建てられているようです。
舞鶴には浜地区に将校用の官舎だった旧海軍官舎の建物が残されていますが、
その建物は和風の平屋。
この2棟は洋館併設の住宅建築でさすがに鎮守府長官の邸宅ほどではないですが
中々の規模と豪勢さを誇ります。
洋館のデザインが鎮守府長官官舎と酷似していること、洋館併設の豪華さ等から考察するに
鎮守府長官官舎とほぼ同時期に建てられた鎮守府付きの副官や艦隊司令官といった
将官クラスの人たちが暮らす高級将校用の官舎ではないかと思います。

besan2005 at 21:38|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

旧舞鶴鎮守府長官官舎(東郷邸)

かなり久しぶりの更新となります。
2013年5月27日に公開された旧舞鶴鎮守府長官官舎(東郷邸)のレポです。

東郷邸1








旧舞鶴鎮守府長官官舎は、舞鶴鎮守府が開庁した明治34年に鎮守府長官の邸宅として
同年建てられました。
初代舞鶴鎮守府長官であった東郷平八郎もここで2年間過ごしています。
すぐ近くにあった鎮守府庁舎は現存していませんが、長官官舎は海上自衛隊に移管され
東郷邸として保存されています。
東郷邸2








洋館部分。
長官官舎は明治期らしい和風の母屋に洋館が併設された建物です。
東郷邸11








洋館の基礎の一部は布積みではなく吹き抜け上になっています。
ここは後から改築されたものでしょうか。
東郷邸10








通風孔。
東郷邸3








裏庭部分。洋館と和風の母屋が接続されています。
東郷邸4








洋館内部。玄関にも近いため応接室として使用されていたと思われます。
東郷邸5








洋館部分のサンルーム。
東郷邸7








母屋の廊下。
東郷邸6








母屋内部。書院造の純和風建築です。
東郷邸8








奥の書斎へ通じる廊下。
東郷邸9








官舎の一番奥にある書斎。ごくシンプルな和風建築で
歴代の鎮守府長官がくつろいだ私室だったと思われます。
東郷邸12








書斎からは庭園が望めます。




besan2005 at 21:18|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2011年09月18日

福知山陸軍衛戍病院関連と思われる建物。

fukuchiyamaishi2
福知山市の市役所裏にある伯耆丸公園には、かつて陸軍の衛戍病院がありました。
遺構としては、当時の石垣と名盤が残っていますが、それとは別に伯耆丸の登り口に
衛戍病院時代と推測される古い建物が現存しています。
fukuchiyamaishi3
その証拠となるのがこの通風口で、写真に写る真ん中の平屋の建物にあるものですが、
通風口のデザインが陸軍の☆マークになっています。
また、基礎がレンガ造りという明治期特有の作りになっていることも挙げられます。

これまではこの登り口からの観察しかしておりませんでしたが、
今回中庭部分に回ってもう少し調査致しました。
P1030495
まず古いと思われていた建物は、真ん中の棟の陸軍の☆マークの建物だけかと思いましたが、
その左隣の伯耆丸側の建物も煉瓦基礎を持つ下見板張りの古い建物であることがわかりました。
ただ、通風口は☆マークではありませんでしたが、衛戍病院時代とさほど時期差の無い建物かと思われます。
新しく見えたのは、道路側の面だけ改修していたからのようです。
P1030502
中庭跡と思われる位置からの撮影です。
上記の下見板張りの建物は2階建てです。
衛戍病院時代と思われる建物は、中庭跡から見ると結構規模のある建物のように見えます。
福知山衛戍病院 病室
衛戍病院時代の絵葉書。
どことなく面影が無いこともないかな?
P1030498
中庭の左端にある建物。
衛戍病院時代の建物かはわかりませんが、
戦前の建物の可能性は十分ありそう。
P1030500
小口面から。
当初の面影がそのまま残されている気がします。
この建物もモルタルで塗られて入るものの、
基礎は煉瓦のようです。

最初に説明した2階建ての木造建築もですが、
現在同じ市内の旧20連隊の敷地跡に残されている陸軍時代の建物と
外観がよく似ています。
旧演武場
こちらは旧演舞場。
明治31年の建物です。
その他に、旧軍属宿舎の建物が残ってますが、
特に旧軍属宿舎と上記の平屋の建物がよく似ております。

※参考サイトhttp://kanreport.blog58.fc2.com/blog-entry-53.html#cm

これらの建物はもしかすると全て旧衛戍病院時代のむ建物であった可能性があります。
さらに言えば、一番手前の旧福知山医師会館の建物も改修されているだけで
元は旧衛戍病院時代の建物であった可能性も十分ありえます。

※福知山医師会のサイトによると、「福知山医師会」と改称したのは昭和22年。
http://www.fukuchiyama.kyoto.med.or.jp/syoukai/syoukai-1.html
医師会が戦後まもなく旧衛戍病院の建物を払い下げられた可能性がある。

P1030496
建物の背後の伯耆丸登り口下には、当時のものらしき布積みの石垣があります。
ところどころ小さなレンガ積みがありますが、不明です。
P1030493
建物の近くの登り口脇に軍の境界石が残されています。
「陸境・・・」と刻まれているので、陸軍の境界石のようです。
このすぐ横にあと2本石柱がありますが、埋もれていて文字はわかりませんでした。
しかし、恐らく陸軍の境界石かと思われます。

besan2005 at 14:45|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2010年11月29日

福知山衛戍病院の石垣遺構

かつて福知山城の曲輪の一つであった伯耆丸台地は、明治に入り陸軍の衛戍病院が駐屯することになります。

福知山衛戍病院 病室明治期の福知山衛戍病院を撮影した当時の絵葉書。





現在、伯耆丸は公園となり、衛戍病院時代の建物は残っていませんが、衛戍病院を建設するにあたり築かれたと思われる石垣が残されています。

福知山衛戍病院跡5こちらは市役所側の石垣。整然とした落し積みの石垣で、福知山城の頃の戦国〜江戸期の石垣ではないことは一目瞭然です。




福知山衛戍病院跡1切通し側の石垣。
一番下の石垣はより新しい石垣で、近年のもの。明治期の石垣は草に覆われた部分で、最近崩落があり修復されています。
実はここに石垣が築かれた時代を証明する資料が残されています。

福知山衛戍病院跡3石垣の一部に銘板が嵌めこまれており、石垣工事の請負人や施工者、石工の名前が刻まれ、「明治三十五年」の年号も書かれています。




ちなみに、伯耆丸へ上がる坂のふもとに古い洋館が建っています。

fukuchiyamaishi2この建物の基礎部分に重要な資料が隠されています。






fukuchiyamaishi3煉瓦の基礎に嵌めこまれている鉄の通風口の模様が陸軍の星マークで、陸軍の建物だったことは間違いありません。断定は出来ませんが、衛戍病院関連の建物だった可能性があります。

besan2005 at 08:23|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

篠山市の近代化遺産

城下町である篠山市は現在も古い町並みが残りますが、明治以降の近代化遺産も数多く残っています。
今回は篠山市に残る戦前の洋館の数々を紹介いたします。

大正ロマン館
大正ロマン館。元は大正12年に建てられた篠山町役場で、現在は改修され観光施設として利用されています。





旧篠山区裁判所外観篠山市歴史美術館。
明治24年築の旧篠山地方裁判所の建物で、現存する最古の木造裁判所です。
貴重な近代和風建築として保存活用されています。


旧篠山区裁判所法廷旧法廷。規模は小さいですが、内装や机など凝った作りになってます。






篠山市のその他の近代化遺産建築。

味処 一超味処 一超。

大正期〜昭和初期の建築か?




篠山の洋館2結構レベルの高い洋館。
大正期か?





井塚歯科医院井塚歯科医院。

窓まわりに改装が見られますが、
概ね旧態はとどめてます。
大正期〜昭和初期か?


篠山の洋館1下見板張りの小さな洋館。
2階部分の窓は当時のまま。

昭和初期か?



篠山の洋館3日本風の入母屋屋根を持つ洋館。
1階はガレージに改造されてますが、
2階は窓を含め当時のままのよう。
大正期か?

besan2005 at 07:56|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 官公庁・役所 | 兵庫県

2010年06月06日

亀岡市東別院町の煉瓦倉庫。

亀岡東別院町の煉瓦倉庫1京都府の亀岡市街から茨木市へと抜ける府道46号線を走っていると亀岡市東別院町へと入りますが、東別院町荒内という地区に煉瓦造の蔵らしき建物が残っている民家がありました。
現在は戦後建築の平屋建物と、この煉瓦蔵しか残ってませんが、写真のお城のような高石垣から分かるとおり、かつては相当なお屋敷だったのではと思われます。
亀岡東別院町の煉瓦倉庫2煉瓦蔵のアップ。煉瓦はイギリス積みで、明治末期から大正期の建築かなと推定されます。
建物のデザインはまんま和風の蔵。
しかし、当時は煉瓦自体が高級な建築資材だったはずで、このような田舎に煉瓦建築が建られること自体珍しく、かつては地主クラスの屋敷だったのではないでしょうか。
現在平屋が建てられている敷地には豪勢なお屋敷やもしかしたら洋館もあったのではと思いますが、今となっては煉瓦蔵と高石垣のみ当時の面影を残しています。
ただ、敷地内に庭園が残されている可能性もありますが、現在も個人の敷地なので確認することは出来ませんでした。

煉瓦蔵も含めて、このお屋敷の素性は全くもって不明です。
現在亀岡市内には、楽々荘とこの東別院の煉瓦蔵の2件しか
煉瓦建築はないと思われ、貴重な存在ですので、
何かご存じの方はご連絡ください。

大きな地図で見る

besan2005 at 19:09|PermalinkComments(1)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 煉瓦 | 京都府

2010年04月12日

豊郷小学校旧校舎群

豊郷小学校正門滋賀県豊郷町にある豊郷小学校の旧校舎群です。
昭和12年にヴォーリズの設計により建てられた校舎で、鉄筋コンクリート造の建物は当時「東洋一」と呼ばれました。
2002年に解体問題が浮上し、保存運動が起きた結果、旧校舎は耐震工事を行った上に保存。背後に新校舎を建てることで決着しました。
その後旧校舎は町の施設として使用されていますが、2009年に放送されたテレビアニメ「けいおん!」の学校のモデルとされたことから、けいおん!ファンが訪れるようになり、「聖地」として賑わうようになりました。
校舎外観旧校舎外観。外観はすっきりとしたモダンデザイン。




ウサギとカメの手すり1階段の手摺には「ウサギとカメ」のブロンズ像。
豊郷小学校のシンボルとも言える存在。






部室前階段階段を上がりきった3階には旧音楽室があります。




P1000540旧音楽室。昇華を歌うための演壇が設けられています。




部室旧音楽室の隣にある準備室は「けいおん!」の主人公たちが軽音楽部の部活を行う「部室」のモデルになった部屋で、ファンによるセットや小物が置かれています。


P1000511部室に置かれたホワイトボードには、
ファンが張ったイラストなどが多数。




P1000516黒板は書き込み自由で、ファンによる
コメントやイラストで埋まっています。




P1000507「部室」に置かれたティーセットとお菓子。
作中で主人公たちがティータイムを過ごす
シーンを再現しています。





講堂外観別棟の旧講堂。





講堂内部旧講堂内部。
入口側から奥に向かうにつれて
高さが下がっていき、奥からでも
壇上が見えるようになってます。


図書館外観別棟の旧図書室。





図書館内部旧図書室内部。
アールデコ調のデザインでまとめられ、
豊郷小学校内で一番装飾的な建物です。
こちらは現在観光案内所として使われ、
特に「けいおん!」関連のものが
たくさん展示されています。

P1000522展示されているグッズの数々。





P1000529こちらが「けいおん!」のポスター。
今年4月から2期が放送開始となり、
ますます見学者で賑わうことでしょう。



http://besankosyashin.blog56.fc2.com/blog-entry-441.html
こちらに、建設当時の竣工記念絵葉書を紹介しています。
すべて揃っていないのが残念ではありますが、ほぼ現在の姿と変わっていないことがわかります。

※今回紹介した豊郷小学校旧校舎群の画像は時系列に差があります。

besan2005 at 06:52|PermalinkComments(2)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 学校建築 | 滋賀県

2010年03月28日

ポストモダン建築の夜景。

ひさしぶりに夜景でも
道の駅 夜景2
とある道の駅。
道の駅 夜景3
いわゆる「ポストモダン建築」の部類に
入る建物。
道の駅 夜景
壁面はほぼ全面ガラス張りで、透明感を出し、
支えの鉄骨の柱もデザインを考慮されています。
道の駅 夜景4
ポストモダン建築は賛否両論がありますが、
私は好きです。近未来的なデザインに惹かれます。
ただ、機能的でないことも多いですけどね。

besan2005 at 07:33|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック (旧版)夜景散影 

2010年03月15日

舞鶴要塞・金岬砲台跡再訪

2009年の9月に舞鶴要塞ツアーとして、各砲台跡を巡った中に
金岬砲台跡がありました。そこは山の奥に位置し、当時の広い旧軍道が残っているので歩きやすいとは言え、中々たどり着きにくい砲台でしたが、そのおかげで、他の砲台跡の中でも極めて保存状態の良い砲台でした。

この金岬砲台へはどうしても再訪したいと願っており、
今回、再び見学に向かう機会が出来ました。
前回は到着したのが夕方4時近くであり、9月とは言え末に近く、
時間も殆どない状態で、十分見学出来なかったのですが、
それでも保存状態の良さと規模の大きさに圧倒された記憶があります。

今回は朝から向かうことが出き、時間もありましたので
前回見ることの出来なかった地点も踏査してみたのですが、
さらに多くの遺構が残されており、舞鶴要塞の中でも1番ではないかと思えるくらいの砲台跡のように思われました。

前回訪問時に見た遺構は前回のレポートを見ていただくとして、
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/51308179.html
今回は前回確認出来なかった遺構を紹介します。

金岬砲台最奥弾薬庫1まず、1番砲座に近い半地下式の弾薬庫の
1番奥の地点。前回藪で先に進めなかった地点。
やはり、同じような半地下式の弾薬庫がありました。突き当たりは石積みの擁壁になっており、
横に石の階段があります。
ここから、上の砲座に向かったのでしょう。

金岬砲台最奥弾薬庫3壁側から撮影。
この場所にはこれで、同じような作りの半地下式の弾薬庫が4つ並んでいることがわかりました。



金岬砲台煉瓦指揮所1その最奥の弾薬庫の上にあがると、このような煉瓦の通路が。




金岬砲台煉瓦指揮所2先に進むと円形の煉瓦構造物となっており、
恐らく砲座の指揮所だったのではと思われます。




金岬砲台高射砲座階段半地下式の弾薬庫の地点から正門側へと戻り、
正門側から入って2番目に見えてくる弾薬庫群の
上部にこのような石積みの擁壁と階段がありました。
壁に開いている半円の窪みは用途不明です。



金岬砲台高射砲座1上がると砲座があったのですが、ここだけコンクリートで補強されている上、砲座ののような出っ張りが・・・



金岬砲台高射砲座2間違いなく大砲を据えていた台と思われるのですが、艦船を狙う榴弾砲にしては小さすぎる。
これは、高射砲の台座ではないだろうか・・・
だとすると、昭和9年に廃止されたと言われている金岬砲台は、実は他の明治の要塞と同じく
対空砲台として利用されていたと言うことになります。
ちなみに、コンクリートで補強され、台座の置かれた場所は、現時点でここだけでした。

金岬砲台砲座横煉瓦その砲座の近くには、指揮所と思われる煉瓦構造物があります。脇に階段がありますが、これも煉瓦製です。



金岬砲台北端弾薬庫正門から1番目の弾薬庫群(4つ)と、さきほど書きました2番目に見えてくる弾薬庫群との間の通路は二手に分かれていて、上へ上がる道は2番目の弾薬庫群へと通じるのですが、したへずっと下っていくと、もう一つ半地下式弾薬庫がありました。こちらは煉瓦の擁壁になっています。

金岬砲台最北端煉瓦構造物1さらに進んで行くと、かなり広い平坦地に出ます。その海側には大規模な煉瓦壁と言うべき遺構が残されていました。



金岬砲台最北端煉瓦構造物2広大な平坦地を守るかのように煉瓦壁は作られているため、この煉瓦構造物もかなりの規模です。
推定ですが、この平坦地は兵舎もしくは砲台の司令室のような施設があり、それかを海側から守るために巨大な煉瓦の壁で防御しているのではと
思いました。

金岬砲台排水口1今回、砲台の各所に石積みの排水口がいくつも設けられているのが確認出来ました。他の砲台にもあったと思いますが、ここ金岬砲台みたいに立派で目立つものはありませんでした。




今回の再訪で、さらに大規模な砲台跡であることが確認できた
金岬砲台跡。しかし、今回の探索でもまだ全部は確認出来ていないと思われます。(砲台のさらに下にも平坦地や軍道があるのを確認しているので、その先に付属施設や付属の小砲台がある可能性あり。)もう一度探索する必要がありそうです。

金岬砲台ガラス瓶余談ですが、金岬砲台の敷地内を探索していると、当時のビール瓶やサイダー瓶などのガラス瓶が多数見つかりました。当時の兵士たちが飲んで捨ててたものでしょうが、砲台の規模、敷地全体に敷かれている玉砂利、そして散乱する陶磁器やガラス瓶。さらには葺かれていた瓦の大きさ(落ちていた瓦は本瓦でした。本瓦葺きは、通常の桟瓦と違い重量があるので、城や寺院と言った大規模な建物にしか使われません。)など、他の砲台跡とは一線を画す、ただの砲台には見えません。それこそ司令部があったかのような。
こんな別格に近い金岬砲台がなぜ昭和9年に廃止になったのか。
今のところ理由は不明です。



besan2005 at 15:39|PermalinkComments(2)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年12月01日

福知山・旧陸軍歩兵第二十連隊関連遺構

正門門柱29日は陸自福知山駐屯地内でイベントがあり、一般開放されていたので、旧陸軍時代の建物や遺構がどれだけ現存しているか調べるために訪問。もちろん、装備品の展示物や模擬戦闘訓練の公開も目当てでしたけどw

写真は、旧二十連隊の営門の門柱。煉瓦製。

続きを読むで、他の写真へ。続きを読む

besan2005 at 00:04|PermalinkComments(4)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年11月30日

竹田城の雲海2009.11.29

竹田城遠景2「天空の城」として有名な竹田城。
山城ファンにとっての聖地だけでなく、写真家にとっても有名な場所。
私自身5回も訪れているまさに「聖地」です。
しかし、今まで有名な「雲海に浮かぶ竹田城」の姿を見たことはなかった。季節が晩秋から初冬に限られるうえ、さまざまな気候の要素が重なり合わないといけないから。
しかし、昨日11/29の日曜日早朝、ようやく雲海を見ることができた。それも濃く厚い雲海を。
上の写真は、竹田城の向かいにある「立雲峡」という山からの撮影。雲の上に浮かぶ石垣の古城はまさに天空の城の名にふさわしい。

つづきから、竹田城からの雲海の写真を紹介します。

続きを読む

besan2005 at 23:04|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 城郭 | 兵庫県

2009年11月23日

舞鶴海軍第三火薬廠

第三火薬廠道路11/22の舞鶴の戦争遺跡探索午後の部は、朝来地区の山中に眠る旧海軍第三火薬廠跡の見学。




以前の探索でも旧火薬廠の廃墟を訪れていますが、http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/51284815.html
今回はSさんによる案内で、奥地にある遺構まで見学することができました。
上の写真は、第三火薬廠内に残るかつての廠内道路。ここだけイチョウが生え、路面に落ち葉の絨毯ができていました。現在も幹線だった道路はそのまま残され車でも通れる場所ありますが、いくつかは荒れつつあり、山水等が路面を流れたりしています。
かつては広大な敷地の中に数多くの火薬廠の施設が立ち並び、多くの工員が作業し行き来していたこの場所も、終戦後60年あまり放置され、人が立ち入ることもなくなり、人気もなくただ広い敷地と施設の遺構のみが寂しく点在する姿は何やら物悲しくもあります。

続きから、今回見て回った第三火薬廠の各遺構を紹介。続きを読む

besan2005 at 12:05|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

舞鶴・倉梯山防空砲台

倉梯山防空砲台軍道11/23に行われた舞鶴の戦争遺跡見学。午前中は倉梯山の尾根上一帯にある防空砲台の探索。Iさんの案内の元、私を含め4人参加。舞鶴自動車道舞鶴東IC近くの道から上がる道があり、それがかつての旧軍道。馬に引かせる車などを通さねばならないので、幅員は現在の1車線くらいあります。これは、9月に探索した舞鶴市内の各明治期砲台の軍道と同じ。
ふもとに近いところは結構広かったけど、砲台施設に近づくにつれ、明治期砲台の軍道と同じくらいの幅員に。こっちが本来の幅だったのかもしれない。
倉梯山防空砲台は、昭和16年から昭和19年にかけて建設された
要塞としては比較的新しいもの。そのため、明治期の要塞と違い、コンクリートが多用されています。

残りは続きから。

続きを読む

besan2005 at 09:19|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年09月25日

舞鶴要塞・金岬砲台跡

舞鶴要塞見学ツアー最後の場所となる金岬砲台跡は、槇山砲台跡のある同じ峰にあるようで、槇山砲台跡へ行く道路の途中にあるカーブ部分から伸びている旧軍道から向かいます。
普通に走っていたらまず気付かないけど、車を降りて良く観察したら、各砲台跡で通ったのと同じ幅員の道が伸びている。
山中の山道でこんな幅の広い道なんてまずないから、砲台跡探索にはいい目印になります。
道自体は広くしっかりしているので通行困難というわけではないけど、金岬砲台跡へ至る旧軍道に関しては、他の砲台跡と違い(まったく道の無くなった浦入砲台は除く。)人がほとんど通らなくなったためか、倒木が散在したり泥濘があったり、挙句の果てには途中大きく崩落している箇所があったりと状態はそんなによくない。しかし、そのおかげでこのあと目にする遺構の素晴らしさが保たれていたのかもしれませんが。

金岬砲台衛門2どれくらい歩いたか。
突如目の前に現れる衛門の門柱。
本当に突然現れるからびっくりするww
こちらは門柱だけでなく、脇の石柵も残っていて状態良好。


金岬砲台弾薬庫5そしてその先に見えてくるおなじみのデザインの弾薬庫。しかし、保存状態はこれまでで一番ではないだろうか。




金岬砲台弾薬庫1普通、弾薬庫の入口あたりとかは金物目当てで終戦のどさくさにはぎ取られ、その際に大きく破壊されることが多いんだけど、金岬砲台の弾薬庫は、金物自体は取られているけど、破壊の度合いがごく少ない。
煉瓦壁は焼き過ぎ煉瓦とかを使って巧みに変化を持たせて実に華やか。当然ゴミも落書きもなく本当にきれい。
金岬砲台弾薬庫内部1弾薬庫内部。
カビはしょうがないけど、それでもこの状態の良さは素晴らしい。
中に入っていて怖い感じが無いもの。



金岬砲台弾薬庫内部通路1各弾薬庫をつなぐ通路。
まるでダンジョンのような雰囲気。
これは廃墟では無い、遺跡だ。




金岬砲台跡は保存状態の良さだけではない。規模もかなりでかい。
弾薬庫も下に5つと上がった所に3つ。
そして、砲座と砲側庫が2つ以上。
葦谷砲台クラスかそれより大きい気もする。

金岬砲台砲側庫1
下の弾薬庫跡の階段を上がり、上の弾薬庫から左に向かうとある砲座等の石積みの擁壁。木々に埋もれる石積みの壁は、まるで古代遺跡のよう。


金岬砲台砲側庫4砲座跡の脇にある砲側庫。
吉坂や建部山にあったのと同じで、
内部も銃窓のあるクランク状の部屋ですが、規模が他よりでかい気がする。



金岬砲台砲側庫2砲側庫へと降りる階段も健在。
擁壁側のこの石の出っ張りはなんだろう。
砲座と砲側庫のセット、現地では2つ見学できますが、木々で藪になっている場所を覗くと
まだ続いているようで、3つ4つはありそうです。




写真の遺構のほか、トイレ跡と思われる煉瓦の建物跡や石積みの擁壁に囲まれた建物跡の基礎石。貯水槽などもあり、かなりの要塞跡だったことが分かります。それ以上に驚いたのは、途中の旧軍道や敷地内に明らかに他から持ってきたと思われる玉石が敷かれていたこと。他の砲台跡では見られなかったもので、思った以上にこの金岬砲台跡は重要拠点として位置していたのではと思われます。
さらに、当時使われていた遺物も敷地内に散乱していたのも驚き。
「日本麦酒鉱泉」のサイダー瓶やキリンビールの瓶。一升瓶や小瓶といった大正から昭和初期の瓶がそのまま転がっていたり、茶碗なども落ちていました。
金崎砲台は昭和6年に廃止にされ、その後は放置されたと思われますが、現役だった頃、砲台に勤務していた兵隊さんや将校たちは、時折運ばれてくるサイダーやビールを飲んで楽しんでいたのでしょう。
遺構としての砲台跡だけでなく、当時使われていた道具が70年以上そのまま残されているこの場所。他の砲台跡以上に生々しく当時の様子を伝えてくれるその姿に感動しきりでした。
もっと見ていたい気分に駆られましたが、なにせ最後の訪問地で時間も夕方になりつつあり、惜しみながら後にしました。

浦入砲台弾薬庫煉瓦壁22日にわたる舞鶴要塞見学ツアーは私にとって大変有意義なものとなりました。
特に一番トリとなった金岬砲台跡は予想を超える素晴らしさで大満足。ぜひとももう一度訪ねて見たいと思いました。
私一人では到底辿りつくことができなかった砲台跡を巡ることができたのは同行していただいた皆様のおかげでもあります。



ちなみに、私的これまで巡った舞鶴要塞の感動度をランキング。

1位・・・金岬砲台跡
2位・・・葦谷砲台跡
3位・・・浦入砲台跡
4位・・・建部山砲台跡
5位・・・吉坂堡塁跡
6位・・・槇山砲台跡

砲台跡にランク付けというのもヘンですがw
まぁ、個人の好みということで。

besan2005 at 01:03|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年09月24日

舞鶴要塞・槇山砲台跡

建部山砲台跡を見学した後、お次は槇山砲台跡へ。
西舞鶴の湾の先にある砲台は、NHKやNTTの電波塔やパラグライダーの離陸場所があるせいか、山頂に至るまでの道は舗装され車でも行けるようで、こちらは本当に気軽に行ける砲台跡のよう。

一旦とれとれ市場に戻り、それぞれの車で向かうことになったが、
とれとれ市場がかなり込み合っており、長く路駐できないので、私はnagaiさんの車に便乗させてもらうことに。

槇山砲台までの道のりは舗装されているとはいえ、旧軍道をそのまま舗装したような感じなので、車一台分の幅員しかないうえにヘアピンカーブの連続。油断はできない…
その道の途中に…
槇山石橋建部山で見たのと同じアーチの石橋が。
やはりアーチ部分だけコンクリでそこから上の石積みの積み方が荒い…
改修したのかそれとも当初からこのままなのか・・・


槇山砲台弾薬庫6車で上がりきった先に弾薬庫跡が見えてきました。
舗装された道に沿って弾薬庫が並んでいます。
しかし、車で来れる位置にあるせいか、荒れ方がひどい。キッチンのシンクが放置されていたりゴミが散乱したり落書きがあったり…。肝試しでやってきたやつとかDQNが面白半分に荒らしていったのか。正直がっかり感とやるせなさで複雑な気分になりました。まぁ、落書きするやつはこういう近代化遺産の貴重な遺構なんて何とも思ってないんだろうけど。(旧日本軍憎しのあまり、客観的に近代の遺構として評価できずに侵略戦争に加担した砲台跡なんて壊せとか言ってる馬鹿もいますけどね。防備用の永久砲台が侵略ってwww)
まぁ、なんにせよこういう廃墟は人知れず山中にひっそりと眠り続けるのがいいのかも。雰囲気的にも遺構保存的にも。
もしくは完全に遺跡公園として整備してしまうとか。
中途半端なのがいけないんでしょうなぁ。
そう考えると、次に向かった金岬砲台は跡は素晴らしかった。

槇山砲台弾薬庫2弾薬庫を上がったところにある煉瓦理構築物。砲座っぽくは思えないのでなんの構造物なのか分かりません。
それに中途半端にへっこんだアーチの部分。窓でもないしなんでしょうかね。これ。

槇山砲台退避壕こちらは、弾薬庫跡からやや離れた場所にあるコンクリートの構造物。
恐らく、昭和期に作られた防空砲台用の退避壕でしょうか。中は結構広いです。




槇山砲台跡は遺構自体は立派でしたが、なんせ荒れ方が…
どうにか改修して再利用できる道はないでしょうかね。
舞鶴市内の各砲台跡の中で一番行きやすい場所だけに
もったいない気がします。

P9220084正直残念な状態になっていた槇山砲台跡でしたが、ここからの眺めは本当に素晴らしいものでした。
この写真は海側のものですが、西舞鶴の市街もきれいに見渡せました。
なるほど、これなら敵艦艇とかしっかり把握できるわ。



besan2005 at 23:59|PermalinkComments(2)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

舞鶴要塞・建部山砲台

2日目は西舞鶴側の要塞群を巡ることに。
最初に向かったのは建部山砲台。丹後富士として知られる建部山の頂上を削平して作られた砲台は、西舞鶴側の湾内を良く見渡せます。また、建部山は中世に城も築かれており、古くから要所として重要拠点だったことが分かります。

現在建部山はハイキングコースとなって気軽に登れますが、やはり砲台へ至るまでの道は中々大変wしかし、現在ハイキングコースとして再利用されている旧軍道は吉坂堡塁の軍道と同じく2mほどの幅員を持ち、また削られた部分の崖面は石積みで擁壁がつくられ、かなりしっかりと整備されていたことが分かります。
その砲台へ至る途中の道に…

建部山石橋3石積みで造られたかなり立派なアーチ橋が。さすが軍が作っただけあって100年経ってもそのまま残ってます。
アーチの基部はカーブが付けられ、
はっきり言って目立たない場所にあるのにこの凝りよう。しかし、アーチ部分は何故か石ではなくコンクリート。
ただ、アーチ上部のみコンクリートで、さらにコンクリ部分あたりから上の石積みの感じが下の方と違う積み方で、しかも粗いため、
もしかしたら、昭和期に改修したのかもしれません。

しばらく進むと突如煉瓦塀が。
・・・写真撮ってなかったです。
衛門跡らしき場所を通り、頂上に着くと目の前に。

建部山砲台弾薬庫1おなじみの弾薬庫が。
見なれたせいかやや感動が薄れていたけど、正直贅沢ですねw




建部山砲台弾薬庫内部2内部はカビが目立つものの、大きな損傷はなく、良い状態が保たれてます。
中はひんやり。




建部山砲台弾薬庫内部通路1こちらも各弾薬庫内をつなぐ通路があります。
吉坂よりやや痛みあり?




建部山砲台弾薬庫側階段1弾薬庫の脇にある階段。
ここを上がると砲座と砲側庫に至ります。
階段は石造で今もしっかり残ってます。






建部山砲台砲側庫2上がった先に見える砲側庫。
外壁は石積みっぽい。





建部山砲台砲側庫3砲側庫の入り口。






建部山砲台砲側庫内部2砲側庫内部は吉坂と同じくクランク状にして正面の壁に銃窓を設けています。
砲座に送る砲弾を置く場所のようですが、
砲兵の退避所とか指揮所の役目も果たしていたのかもしれません。


建部山砲台砲座1こちらが砲座跡。
石積みでしっかり残ってます。






建部山砲台自体は一般的によく見る砲台の感じなので、要塞跡とか砲台跡を見なれた人には目新しさがあまり無いかもしれませんが、
こちらはハイキングコースとして気軽に上がれますし、それなりに整備もされてますので、要塞見学入門編として初心者には見学しやすい砲台と思います。初めて見る分には十分なくらいの立派さですしね。

besan2005 at 23:17|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

舞鶴要塞・吉坂堡塁跡

舞鶴要塞見学ツアー初日午後は、福井県高浜町にある吉坂堡塁跡へ。
舞鶴市内ではないですが、場所は本当に舞鶴市と高浜町の境。
堡塁というのは、湾内に侵入する敵艦艇を迎撃する砲台とはまた別で、直接上陸してきた敵兵を食い止めるための要塞。
まさに堡塁こそが明治の城塞と言える性質を持つ要塞です。
この吉坂堡塁は、福井県側から侵入するであろう敵兵(ロシア兵)
を舞鶴に入れさせないように食い止める前線の砦だったのです。

場所は杉森神社の裏の山。関西電力が鉄塔の管理をしているためか、狭いながらも登山道が途中まで延び、道に迷うことはない…
んですが、かなりしんどいwしばらく上がっていくと途中から幅員が3mくらいある広い道が出現。これこそが堡塁に至る正規の道で、さすが軍が作っただけあって石で擁壁を作る立派なもの。
休みつつ頑張って上がっていくと…

吉坂堡塁付属堡塁衛門突如現れる門柱。
当時の衛門の跡で、こんなのが残っているのは意外。こういうのって大抵倒壊していると思ってたので。



吉坂堡塁付属堡塁2奥にあったのは、状態の良い弾薬庫跡。
煉瓦の入り口だけでなく、半地下に降りる階段も良く残ってます。







吉坂堡塁付属堡塁貯水槽ここは弾薬庫1つと貯水槽らしき施設、
それに指揮所らしき施設が3つ
並んでいます。こちらは貯水槽らしき遺構。






吉坂堡塁付属堡塁内部2こちらは指揮所か退避所と思われる遺構。
内部はクランク状に作られ、正面の壁には銃眼の窓が。
敵が容易に中には入れないように作ってます。





吉坂堡塁付属堡塁内部1指揮所らしき内部はドーム状になってました。作りは丁寧だけど内部は狭い。






実は最初に訪れたこの遺構は付属堡塁の跡で、いわば出城のようなもの。付属でこれだけ立派な施設を作ってますから吉坂堡塁はまさに舞鶴軍港防備の最重要拠点だったことが分かります。

付属堡塁を後にし、いよいよ本堡塁へ。

吉坂堡塁弾薬庫2まず見えてきたのが5つ並んだ弾薬庫跡。
もうこのタイプのデザインは共通ですね。
しかし、細部は微妙に違ってたりするのが面白い。



吉坂堡塁弾薬庫4弾薬庫前には階段も残存。
この作りは付属堡塁と同じだが、
敷地の広さは段違い。




吉坂堡塁弾薬庫内部2内部は各弾薬庫をつなぐ感じでつながっています。弾薬庫内は大きく広い。





吉坂堡塁弾薬庫1こちらは別のタイプの弾薬庫。






吉坂堡塁弾薬庫内部1内部はちょっと狭い。
吉坂堡塁の各施設は人があまり立ち入らないためか状態がかなり良い。




吉坂堡塁弾薬庫内部入口弾薬庫内部から。
雰囲気抜群。








たしかこの上に砲座と砲側庫があったのですが、写真撮り忘れ…

ところで、吉坂堡塁を見て回って感じたことですが、煉瓦の構築物等が思ったより多くなかったこと。規模の大きさから見たら少々拍子抜けでしたが、それよりも大規模な範囲に土塁を構築し、斜面を削り空濠なんかを設けています。正直そちらの土による防御施設のほうがメインのようにも感じました。
敵の戦艦を相手にする砲台とちがい、斜面を上がってくる歩兵を迎撃する堡塁は土の防御で十分だったのでしょうか。
確かにかなりの長さにわたって築かれた土塁による歩兵の射撃ラインは見事ですが、これを見ていると明治という近代なのに堡塁の防御自体は中世の山城とあんまり変わらないなと。
明治でも中世さながらの防御施設を取り入れているのは
私にとっては意外な発見でしたね。

なんせ、土塁と切岸(斜面を削って崖状にした部分)と空濠なんてまんま中世城郭ですし。知らない人が見たら、中世の城とカン違いするかも。

1日目はここまで。

besan2005 at 21:16|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

舞鶴要塞・浦入砲台跡

9月21日と22日に舞鶴要塞跡ツアーとして5つの砲台跡を巡りました。初日は浦入砲台跡と吉坂砲台跡。
まずは午前中に訪れた浦入砲台跡です。

浦入砲台は明治32年に完成した砲台で、現在関西電力舞鶴火力発電所のすぐ裏にあります。
というのも、火力発電所が浦入砲台の敷地を削って作っているので。というわけで、遺構本体も破壊されているのでは…と危惧していましたが。
浦入砲台砲座5道なき道を進み藪をかき分け、斜面を這いつくばって辿りついた先に見えたのは、見事な煉瓦の壁。かつて要塞砲の砲座として使われていたところです。軍の要塞なんだから実用本位でいいのに、半円の角の部分はしっかり隅石で構築するという凝りよう。
浦入砲台弾薬庫外面5砲座跡を下ると、発電所によって削られた法面の崖ギリギリに弾薬庫跡がほぼ完全に残されていました。
関電側が貴重な近代化遺産を残そうと配慮したのか、壊す手間と廃材処理が面倒だからあえて手を付けなかったのか分かりませんが、ともあれ、残してくれたことにはGJ!!
浦入砲台弾薬庫外面4木漏れ日の中にたたずむ煉瓦の構築物は美しい…





浦入砲台弾薬庫内部2弾薬庫内部はどうしても不気味に思えますけどねw
今となってはコウモリの巣。




思ったより砲座と弾薬庫の残りがよく、満足して帰路につこうと
行きとは違う尾根伝いを進んでいくと・・・

P9210023陸軍の石製境界杭発見。
でっかく「陸」と刻まれた立派なものですが、
境界杭自体は粗削りの適当に見えるもの。

ちなみに1mほど離れたすぐ横に「海界」と
刻まれた海軍のものらしき石製の境界杭も。
なんか、陸軍と海軍の意地の張り合いを思わせて面白いw


境界杭を後にし、さらに進むと…

浦入砲台水雷衛所外面アーチ3今までとは作りの異なる煉瓦の構築物が。
入口にはカマボコ状の楕円アーチ飾りも。
これは資料であまり見ない施設。




浦入砲台水雷衛所内部3内部は殺風景だけど、よく見ると入り口部分は内部側が広く外側が狭く作られている。
これは城郭の狭間と同じ効果を狙ってるのか?
しかし、これだけ空いていればあまり意味が無いような…

この楕円アーチの建物、nagaiさんのブログに寄せられたコメントによると水雷衛所ではないかとのこと。
水雷とは、魚雷やら機雷やら爆雷などの海で使う兵器の総称。
恐らくここでは港湾に施設する機雷を担当していたと思われるが、
詳細な資料があればより分かりやすいんですがね・・・
そういえば、歴史群像の「日本の要塞」に近年見つかったという
函館要塞の水雷司令部跡の写真が載ってましたが、
そんな感じの施設だったんでしょうか。

浦入砲台は思った以上に遺構が残り満足。
次は県境の吉坂堡塁跡へ。


besan2005 at 20:07|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年08月29日

古書籍・建築土木資料集覧

P8290122昭和4年発行の建築土木関係の業者の紹介や施工例を載せたでかく分厚い本。




P8290125中身はこんな感じになってます。






P8290124
巻頭に評議委員の名前が載ってますが、
層々たるメンバーで構成されてます。

評議委員で著名な人物を列挙していきます。





安藤徳之助・・安藤組(現・安藤建設2代目社長)

内田祥三・・建築家。東京帝国大学総長。作品、安田講堂など

大熊喜邦・・建築家。作品、国会議事堂・山口県庁舎など

大林義雄・・大林組2代目社長

片岡安・・建築家。作品、大阪市中央公会堂など

古宇田実・・建築家。京都・奈良・鎌倉の古建築の修復に関わる

鴻池忠三郎・・鴻池組初代社長

桜井小太郎・・建築家。作品、旧丸ビルなど

佐藤功一・・建築家。作品、日比谷公会堂など。

佐野利器・・建築家。震災後の帝都復興建築を手がける

清水釘吉・・清水組(現・清水建設)初代社長

銭高善造・・銭高組初代社長

武田五一・・建築家。京都市役所・関西電力京都支店など多数

竹中藤右衛門・・竹中工務店社長。

中條精一郎・・建築家。作品、慶應義塾大学図書館など

戸田利兵衛・・戸田建設社長

内藤多仲・・建築構造学者。東京タワーの設計者。

森井健介・・建築学者

吉田享二・・建築家。北丹地震復興計画に参加。

横河民輔・・建築家。作品、三井本館・帝国劇場など。



besan2005 at 21:29|PermalinkComments(1)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 建築の本 

2009年08月16日

内宮発電所ダム

内宮発電所ダム岩戸橋から上流へと向かっていくと見える堰堤。これは、下流の内宮発電所の為に作られた発電用堰堤で、完成が大正6年とかなり古手のダムです。しかし、写真の通りコンクリート張りの変哲もない堰堤の為、全く知られていないうえに正直見どころもそんなにない。

しかし、ちょうどやってこられた管理の方に伺った話だと、かつては石張りの堰堤で、堰堤の上を渡る橋も木造だったそう。
しかし、昭和50年代ごろの改修で石張りの堰堤の上にコンクリートを張ってしまったとか。
うーん、もったいない。石張りのままなら舞鶴の与保呂貯水池の堰堤のように山中の風景と相まって雰囲気抜群でもっと知名度が上がっていたかもしれないのに。
しかし、それでも大正6年築の重力式RCダムが現存しているというのは貴重な存在と思います。
もしかしたら、大正13年築の由良川ダムもかつては石張り堰堤だったのかも。

besan2005 at 10:58|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ダム・堰堤 | 京都府

岩戸橋

岩戸橋1大江町の内宮発電所を見に行った際、上流に大正期の古いダムがあるのを知り、そちらへ向かう途中に見つけた古い橋。
連続アーチの装飾を施したごつい欄干。
そして古びたいい感じ。
これは戦前物件じゃないか?

岩戸橋2側面へまわってみると、なんと立派なアーチ橋。RCの桁橋はよく見るけど、アーチ橋はあまりない。しかものアーチはかなりのレベル。これはちょっとした発見!



岩戸橋親柱2期待しながら親柱の年代を確認すると、
「昭和二十七年十一月竣工」。
戦後物件なのか。正直残念。
しかしたとえ戦後のものでも、中々立派なアーチ橋だったことと、いい感じの古び方なので紹介。
山の中の旧道を歩いていて突然こんなアーチ橋に出会ったら、たとえ戦後物件でも感動しますしね。



besan2005 at 10:33|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

野笹橋

野笹橋1夜久野方面へ向かう国道9号線沿いを流れる牧川に架かる古いRC橋。
結構長く見ごたえのある橋です。




野笹橋2欄干は連続アーチで装飾し、
4連ごとに柱で区切っています。
親柱はいたってシンプル。




野笹橋親柱親柱には、「昭和十一年三月架設」
の文字が刻まれています。
小さな集落だけに、この橋が架けられた時はかなり話題になり地区の誇りになったのではと思います。







besan2005 at 10:18|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

梅田橋

梅田橋瑞穂町の水原地区浄水場のそばに掛かるRC橋。欄干はごく単純で、RCの枠に鉄パイプを通しただけのもの。
この手のデザインの橋は昭和30年代に架けられたRC橋にも多く見られます。


梅田橋親柱2しかし、親柱を見ると「昭和十二年十一月竣工」の文字が。
実はこの手のデザインの橋は戦前から造られているんですよね。
なので、似たような橋を見つけて期待していっても昭和30年代のものだったりして
ハズレというのが多いですが、しかし、梅田橋のような例もあるので油断できないです。



besan2005 at 08:33|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

須知庄ノ下地区の古い橋

須知の橋1国道9号線沿いの集落へと入る脇道に架かる古い橋。
親柱は残ってますが、銘板が剥がされていて橋名・年代ともに不明です。



須知の橋2橋を横から見た様子。
欄干の丸い透かしがいいですね。
恐らく戦前のものと思うのですが、
この手のRC橋は戦後も似たようなデザインで造ったりしてますから判断が難しいです。

besan2005 at 07:59|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

2009年08月13日

由良川ダム

由良川ダム2何の変哲もないコンクリートのダム。
しかし、このダムの完成は大正13年と結構古い。貴重な土木遺産なんだろうけど、戦前のダムにありがちな装飾たっぷりの堰堤というわけではないので、全然知られていません。せめて、石張りだとかならもう少し知られていたんだろうけどなぁ。
この由良川ダムは発電用ダムなので現在も発電を行っていますが、
かつては煉瓦造でアーチ窓のシャレた発電所建屋がありました。
いつ頃取り壊されたかわかりませんが、これも残ってたらなぁ。

besan2005 at 09:36|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ダム・堰堤 | 京都府

石原駅跨線橋

石原駅1山陰本線の石原駅にある跨線橋。
実はこの跨線橋、明治か大正期のものを
移築した可能性の高いもの。




石原駅2跨線橋を支えている柱は鋳鉄製ですが、
この柱が明治大正期に良く見られるデザインの柱です。
しかし、柱の土台はコンクリートで、
移築したものと分かります。







石原駅3跨線橋内部の鉄骨トラスもリベット打ちの古いタイプ。
戦後にどこかの駅(それも主要な駅)から
お下がりでまるごと移築してきたのでしょう。駅の台帳があれば、何処からの移築か分かると思うのですが。


besan2005 at 09:17|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 鉄道・交通 | 京都府

旧京都銀行園部支店(取り壊し)

京都銀行園部支店つい最近取り壊された京都銀行園部支店(旧園部銀行本店)昭和3年竣工。
地方の小さな町には珍しい立派な銀行建築でした。
うーん、もったいないかな・・・

besan2005 at 09:06|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 金融機関 | 京都府

大堰橋(八木大橋)

八木橋大堰川に架かるシャレたトラス橋。
八木町の中心部と対岸を結ぶ橋です。
この橋、カンチレバートラスという
ちょっと珍しいトラス橋だそう。




八木橋プレートプレートに「昭和拾年 株式会社横河橋梁製作所大阪工場制作」と書かれています。





八木橋竣功当時の記念絵葉書。





besan2005 at 09:03|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

二条大橋

二条大橋鴨川に掛かる橋のうちの一つ。
親柱も欄干もあっさりとした装飾です。





二条大橋親柱親柱に「昭和十八年十月竣功」の銘板があります。昭和18年は戦中真っただ中ですが、二条大橋にはごつい鉄骨が使用されています。昭和18年当時はまだ余裕があったのでしょうか。

besan2005 at 08:35|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

2009年08月08日

舞鶴要塞・葦谷砲台跡

葦谷砲台8海軍の鎮守府があった舞鶴の周辺の山には、舞鶴湾や市街、海軍の諸施設を防衛すべく砲台や保塁といった要塞が築かれました。葦谷砲台はそのうちの一つで、明治32年に完成しました。


葦谷砲台11一歩足を踏み入れるとそこはまさに異空間。遺跡のように残る煉瓦の構築物は、
雰囲気抜群です。




葦谷砲台3山中にひっそりと残っているのがいいですね。脇の階段などすぐに駆け上がりたくなる。




葦谷砲台弾薬庫内部2弾薬庫内部は煉瓦で頑丈に作られ、100年経ってもびくともしていません。
舞鶴には葦谷砲台の他にもいくつも要塞が残っています。ちなみに、これら舞鶴要塞の管轄は陸軍でした。



besan2005 at 06:37|PermalinkComments(2)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2009年08月07日

御池橋

御池橋鴨川に架かる御池大橋ではなくて、高瀬川に架かる小さな橋。
しかし、10m程度のこの橋の欄干は
非常に意匠に富んだデザイン性の高い橋です。


御池橋親柱御池橋の親柱。
銘板もしっかりしていて凝ってます。
文字のスタイルもいい。
親柱上部の半球の飾りは
大正から昭和初期の古い橋で
時々見ますが、残念なことに御池橋には
年号を刻んだ銘版はありません。


御池橋欄干欄干の飾りは鋳鉄製で、(たぶん)
よく金属供出に合わなかったなと。
デザインはたしかアールデコですよね。
京都市内には、10m前後の小橋でも
かなり凝ったデザインの古い橋が多数残ってます。


besan2005 at 22:20|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

坪原橋

坪原橋1新しく架けられた橋の横に架かる古いRC桁橋。現在はほとんど農道として利用されているようで、橋自体も少し傷みが見られます。
しかし、欄干のデザインは中々のもの。



坪原橋親柱親柱には昭和9年の年号があります。












besan2005 at 00:09|PermalinkComments(2)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

昭和橋近くの小橋

昭和橋近く小橋桁昭和橋の近くにかかる1スパンの小さな橋。
しかし、親柱には昭和7年の年号がありました。
橋の下部がアーチっぽくなってますが、
アーチではないですよねぇ。




besan2005 at 00:00|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

2009年08月06日

昭和橋

昭和橋国道9号線から脇道に入ったところにひっそりと架かる橋ですが、見事なRCアーチ橋です。
しかし、両橋ほど知られていないのが残念。




昭和橋親柱親柱には昭和9年の年号。
両橋より4年も前に架けられたのに。
こちらも土木遺産として十分価値があると思いますが。











besan2005 at 23:53|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

両橋

両橋1最近日本土木学会の選奨土木遺産に指定された
福知山市三和町の両橋です。
RCアーチの優美な橋です。




両橋2橋の親柱には「昭和13年」の年号があります。












besan2005 at 23:37|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府

三俣橋

三俣橋福知山市三俣にある戦前のRC桁橋。
結構長く立派な橋です。
欄干はシンプルです。




三俣橋2昭和16年2月竣功の文字があるプレート。
このプレートで三俣橋が昭和16年に完成したことが分かりますが、プレート自体は新調されたものです。










besan2005 at 23:25|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 古い橋 | 京都府
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