October 04, 2008
イスラエルとパレスチナ
中古で買った本。金融を勉強し出してからユダヤ人とかイスラエルに非常に興味を持ち出したので読んでみました。歴史だけ軽くおさらい。
イスラエルとパレスチナ
■ユダヤ人とパレスチナ人の主張
ユダヤ人…旧約聖書に原則的な根拠を求め、ホロコーストを頂点とする迫害体験を自らの主張の基本的な契機としている。
パレスチナ人…過去何十世代にもわたり、パレスチナの地に生き続けてきた歴史的事実に、自らの主張の正当性を求めてきた。さらにパレスチナ人から見れば、ホロコーストに代表されるユダヤ人への迫害はヨーロッパ・キリスト教社会における出来事であり、ユダヤ人に同情はしてもパレスチナの将来には無関係であった。
・はじめはパレスチナの地(イスラエルの地)におけるパレスチナ人とユダヤ人の2つのコミュニティの対立。しかし、その後はむしろイスラエルとアラブの対立図式としてとらえられ、イスラエルとエジプト、ヨルダンなどのアラブ諸国との間でどのようにして和平を達成するかに力点がおかれた。
・1967年第三次中東戦争。パレスチナの地全土がイスラエルの支配下に入り、パレスチナ人が被占領民としてイスラエルと直接対峙する状況が生まれた。
■パレスチナ問題の発生
・フランスのドレフェスが有利な証拠があるにも関わらず、軍法会議で有罪とされる。(ドレフェス事件)
→ヘルツルは、ユダヤ人が民族としてのアイデンティティーを守り、真の「解放」を達成するためには、ユダヤ人の国を作るしかないと考え、1896年に「ユダヤ人国家」を発展。
but!!同化ユダヤ人の間からは「ユダヤ人国家再建」を声高に主張することは、折角進んできたユダヤ人の「解放」に水を差し、かえって反ユダヤ主義の風潮をあおると批判。
宗教に熱心なユダヤ人達は、ユダヤ人がパレスチナの地を追われ、「ディアスポラ」の状態にあるのは、神の意志によるものなので、それに背くことは冒涜行為だと非難。
→1900年代初めまでに約1万人のユダヤ人が新たに移民してくる。彼らはロスチャイルド家などユダヤ人大富豪の援助を受けて、パレスチナの土地を購入し、開拓農村などを建設。
→第一次世界大戦後の1920年代には、移民は8万人に。ただし必ずしもシオニズムの理想に燃えた者だけではない。ポーランド出身でもともと中産階級にいた都市市民は農業ではなく、持ち込んだ資産を元に軽工業を始める。また銀行網や労働者の連合組合、教育や報道機関もつくられる。
→1930年代には、16万人になる。しかし、ユダヤ人人口に比べれば、ごく少数に過ぎない。多くはアメリカへ移住。=シオニズム運動の限界
→パレスチナにおける2つのコミュニティーの対立問題を英国は放棄する。
1947年11月、国連総会はパレスチナをアラブとユダヤの二つの国に分割、エルサレムとその周辺を国際管理下に置くとの決議案を採択。
→1948年5月14日、イスラエル独立が宣言される。しかしこれは新しい戦争の始まり。イスラエルが「独立戦争」と呼び、パレスチナ人が「パレスチナ戦争」と呼ぶ。一般的には「第一次中東戦争」
周辺アラブ諸国が対イスラエル戦争を正式に開始。
→1949年、エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン、シリアの各国がイスラエルと休戦協定を結ぶ。この時イスラエルの支配下に入った地域は、パレスチナ全土の約三分の二、何十万人というパレスチナ人がイスラエル国誕生の嵐の中で難民となった。
→パレスチナ支援を名目に軍を進めたトランス・ヨルダン国王の真の狙いは、パレスチナとイスラエルを分割して、ヨルダン川西岸地図を支配すること。1950年に支配下に。パレスチナは結局事実上分割され、政治的独立の機会を奪われた。
→1956年、エジプトがエジプト・スエズ運河会社を接収、国営化した。スエズ運河をインド洋方面への生命線と考え、運河会社の株の大半を持つ英仏両国政府はイスラエルに働きかけ、ナセル大統領打倒を目標に共同作戦。
→スエズ動乱(第二次中東戦争)勃発。
but!!中東への発言力を高めたいソ連と、ソ連の進出を警戒した米国は三国軍のエジプトからの即時撤退を迫る。
→1964年、イスラエルに対する初のゲリラ攻撃を行う。
→1967年、中東の緊張はエスカレート。第三次中東戦争が起きたが、イスラエルの圧倒的勝利と占領地の拡大に終わる。
→1973年、第四次中東戦争。開戦から17日後に国連安保理は米ソ共同決議案を可決。各国が受諾を表明し、停戦成立。また、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は石油消費国のアラブ支持を求めた。日本経済は混乱し、アラブ支持を表明(石油ショック)
→1978年、カーター米大統領、サダト・エジプト大統領、ベギン・イスラエル大統領の三者会談により、キャンプ・デービット合意と呼ばれる二つの合意文章、「エジプト・イスラエル平和条約締結のための枠組み」と「中東和平のための枠組み」が調印される。また、1979年にはエジプト・イスラエル平和条約が調印。
but!!OAPEC、アラブ経済社会理事会などアラブやイスラム諸国で作られている様々な地域機構がエジプトを除名。「アラブの盟友」エジプトは一転して「アラブの孤児」となってしまう。(後にサダトは暗殺)
→1982年レバノン戦争。エジプトと平和条約を結んだイスラエルは南からの軍事的脅威から解放され、アラブに挑発的な行動を取り出す。9月16日から18日にかけ、シャブラ、シャティーラ両難民キャンプに住む無抵抗のパレスチナ難民がキリスト教マロン派民兵によって虐殺。
■ユダヤ人とパレスチナ人の主張
ユダヤ人…旧約聖書に原則的な根拠を求め、ホロコーストを頂点とする迫害体験を自らの主張の基本的な契機としている。
パレスチナ人…過去何十世代にもわたり、パレスチナの地に生き続けてきた歴史的事実に、自らの主張の正当性を求めてきた。さらにパレスチナ人から見れば、ホロコーストに代表されるユダヤ人への迫害はヨーロッパ・キリスト教社会における出来事であり、ユダヤ人に同情はしてもパレスチナの将来には無関係であった。
・はじめはパレスチナの地(イスラエルの地)におけるパレスチナ人とユダヤ人の2つのコミュニティの対立。しかし、その後はむしろイスラエルとアラブの対立図式としてとらえられ、イスラエルとエジプト、ヨルダンなどのアラブ諸国との間でどのようにして和平を達成するかに力点がおかれた。
・1967年第三次中東戦争。パレスチナの地全土がイスラエルの支配下に入り、パレスチナ人が被占領民としてイスラエルと直接対峙する状況が生まれた。
■パレスチナ問題の発生
・フランスのドレフェスが有利な証拠があるにも関わらず、軍法会議で有罪とされる。(ドレフェス事件)
→ヘルツルは、ユダヤ人が民族としてのアイデンティティーを守り、真の「解放」を達成するためには、ユダヤ人の国を作るしかないと考え、1896年に「ユダヤ人国家」を発展。
but!!同化ユダヤ人の間からは「ユダヤ人国家再建」を声高に主張することは、折角進んできたユダヤ人の「解放」に水を差し、かえって反ユダヤ主義の風潮をあおると批判。
宗教に熱心なユダヤ人達は、ユダヤ人がパレスチナの地を追われ、「ディアスポラ」の状態にあるのは、神の意志によるものなので、それに背くことは冒涜行為だと非難。
→1900年代初めまでに約1万人のユダヤ人が新たに移民してくる。彼らはロスチャイルド家などユダヤ人大富豪の援助を受けて、パレスチナの土地を購入し、開拓農村などを建設。
→第一次世界大戦後の1920年代には、移民は8万人に。ただし必ずしもシオニズムの理想に燃えた者だけではない。ポーランド出身でもともと中産階級にいた都市市民は農業ではなく、持ち込んだ資産を元に軽工業を始める。また銀行網や労働者の連合組合、教育や報道機関もつくられる。
→1930年代には、16万人になる。しかし、ユダヤ人人口に比べれば、ごく少数に過ぎない。多くはアメリカへ移住。=シオニズム運動の限界
→パレスチナにおける2つのコミュニティーの対立問題を英国は放棄する。
1947年11月、国連総会はパレスチナをアラブとユダヤの二つの国に分割、エルサレムとその周辺を国際管理下に置くとの決議案を採択。
→1948年5月14日、イスラエル独立が宣言される。しかしこれは新しい戦争の始まり。イスラエルが「独立戦争」と呼び、パレスチナ人が「パレスチナ戦争」と呼ぶ。一般的には「第一次中東戦争」
周辺アラブ諸国が対イスラエル戦争を正式に開始。
→1949年、エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン、シリアの各国がイスラエルと休戦協定を結ぶ。この時イスラエルの支配下に入った地域は、パレスチナ全土の約三分の二、何十万人というパレスチナ人がイスラエル国誕生の嵐の中で難民となった。
→パレスチナ支援を名目に軍を進めたトランス・ヨルダン国王の真の狙いは、パレスチナとイスラエルを分割して、ヨルダン川西岸地図を支配すること。1950年に支配下に。パレスチナは結局事実上分割され、政治的独立の機会を奪われた。
→1956年、エジプトがエジプト・スエズ運河会社を接収、国営化した。スエズ運河をインド洋方面への生命線と考え、運河会社の株の大半を持つ英仏両国政府はイスラエルに働きかけ、ナセル大統領打倒を目標に共同作戦。
→スエズ動乱(第二次中東戦争)勃発。
but!!中東への発言力を高めたいソ連と、ソ連の進出を警戒した米国は三国軍のエジプトからの即時撤退を迫る。
→1964年、イスラエルに対する初のゲリラ攻撃を行う。
→1967年、中東の緊張はエスカレート。第三次中東戦争が起きたが、イスラエルの圧倒的勝利と占領地の拡大に終わる。
→1973年、第四次中東戦争。開戦から17日後に国連安保理は米ソ共同決議案を可決。各国が受諾を表明し、停戦成立。また、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は石油消費国のアラブ支持を求めた。日本経済は混乱し、アラブ支持を表明(石油ショック)
→1978年、カーター米大統領、サダト・エジプト大統領、ベギン・イスラエル大統領の三者会談により、キャンプ・デービット合意と呼ばれる二つの合意文章、「エジプト・イスラエル平和条約締結のための枠組み」と「中東和平のための枠組み」が調印される。また、1979年にはエジプト・イスラエル平和条約が調印。
but!!OAPEC、アラブ経済社会理事会などアラブやイスラム諸国で作られている様々な地域機構がエジプトを除名。「アラブの盟友」エジプトは一転して「アラブの孤児」となってしまう。(後にサダトは暗殺)
→1982年レバノン戦争。エジプトと平和条約を結んだイスラエルは南からの軍事的脅威から解放され、アラブに挑発的な行動を取り出す。9月16日から18日にかけ、シャブラ、シャティーラ両難民キャンプに住む無抵抗のパレスチナ難民がキリスト教マロン派民兵によって虐殺。