縄文人と弥生人、明らかに人種が異なるとされ、現代に生きる私たちについても、耳垢の乾湿や口を動かさないでウインクできるかとか、くせ毛、瞼の二重......どっちの要素が濃いか、見分ける方法なども指南されたりする。

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国立科学博物館が、3万年前に手に入る道具と素材で船を考えれば、「草船」が妥当だとして、与那国島 → 西表島への実験航海に漕ぎ出した。
あろうことか「草舟」......
普通に考えれば、「筏」だろう。竹を結わえた竹筏は早々に却下されたというが、どんな根拠で?
流木やら竹やら束ねて結わいた頑丈な筏(双胴船、カタマランは無理だとしても)の方が黒潮も乗り切れるのじゃないか?
宮本常一は、竹と稲をもたらした人々は筏で日本列島にやってきたと主張した。
ともあれ、本番は、当時大陸棚ゆえに地続きだった台湾から与那国島への、黒潮をまたぐ2019年の航海である。
だが、そもそも一体なぜ「3万年前」という設定なのだろうか?

一体姶良カルデラ噴火(約29,000年前)後の列島に、それも不毛大地と化した九州〜西日本から、日本列島に上陸しようとするだろうか?
旧石器時代から新石器時代への移行にスポットを当てたいなら2万年、いや1万年前で十分だ。2万年前なら、海面低下で、今より130mも水位が低かったから、間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡、朝鮮海峡、全部陸続きで歩いて渡れる。
分かっている。
おそらく3万年前は、アフリカを出たホモサピエンスの極東到達、もしくは日本列島の旧石器時代(先土器文化:岩宿などの遺跡年代)に照準を合わせているのであろう。だとしても、気が早すぎはしまいか?海路航海を想定するのもおかしい。バイカル湖畔のマンモスハンターが日本列島に細石器をもたらしたのが、晩氷期の1万5,000年前とされるが、晩氷期にはすでにマンモスは北海道では絶滅している。しかしながらサハリンは北海道と接続していたから、旧石器時代の最終まで北方侵入組は列島に入り込むことができた。それよりも以前に旧石器をもたらした人類が、南方からの北上組であるという推測自体、そもそもはたしてどうなのであろうかとも思うが、南方にこだわる根拠はあり、樺太や沿海州アムール川沿いには、2万年以前の最終氷期極大期=LGM期(3万3,000年前から2万6,500年前をピークとした2万年前までの期間を差す)の 現生人類の痕跡が発見されていないのである。
陸橋があっても必ずしも人が渡るとは限らないし、氷河期に人が大型哺乳類を追いかけて今のイヌイットやエスキモー同様に、好き好んで寒冷地を選んで住み、寒冷適応した生活を営んでいたとは言えない。サハリンを経由しての北海道流入は、確実なところでは温暖化した1万8,000年前からである。細石器は登場するが、マンモスではない他の大型哺乳動物を対象としていた。
さらに、北方侵入組の南下流入の後、世界に農業の採用を促したと推定されるヤンガードリアス期(1万2,900年前から1万1,500年前)の寒の戻りもある。この時期までは変動幅の大きい気象が、生態系を思う存分かき混ぜて、人の移動を促したと言える。
本州で始まる縄文時代は、今から1万6,000年前から草創期とされているから、晩氷期に先行すること1,000年にもなる。先行する旧石器時代には関東が最大の居住圏であったようだが、数十年ごとに10度も振れる変動幅の時代が続く内に、列島内でもシャッフルが起きたようだ。
気候支配が圧倒的な時代、ここいらあたりまでは、南から侵入しての北上の動機はなさそうだが......。
それ以前の話として、わずかな隙間の対馬海峡を挟んで3万年前は大陸とほぼ地続きなのである。対するに南西諸島は殆ど陸地とは繋がらず、孤立したままだ。なぜ外洋船なき時代の航海実験が必要なのだろうか?ただでさえ文部科学省はお粗末なのだから、無駄な予算組で遊ばないでいただきたい。

時代設定はともかく、海路探索には意味がある。ただ、列島への経路は、当然、南方インドシナ、インドネシア、フィリピン、台湾経由だけであろうはずはない。北方樺太(サハリン)経由もおれば、朝鮮半島経由もおったはず。むしろ、時代を遡るほど北方経由の線が濃くなる。
南洋ルートは選択肢の一つであるに過ぎない。また海流という障害、偏西風という追い風は方向を規定するであろう。加えて、有史以前の航海では目標物が目視できない地点へ漕ぎ出すことができない。当てもなく、一か八かでなければ当然で、通常は沿岸航法だけであり、意を決すれば、はるか沖、遠望可能な島影に向かって漕ぎ出すのである。その場合でも距離は100kmがせいぜいではないか?
南方から列島を目指す場合の最大の障害は、バシー海峡ではなく宮古海峡である。これが250km近くもある。日本海は、対馬を利用できなければ鬱陵郡と隠岐島がやっとで、あとは樺太(サハリン)経由以外にはほとんど考えられない。したがって、目標目視航法以外の事故、トラブルの漂流、漂着を、歴史上無視できないとするかどうかだけである。
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縄文人を形成した祖先のルーツとても、大陸と地続きだった前時代の、必ずしも一方向、数回で済むはずもなく、縄文人が列島全土において単一人種であろうはずもない。方言も多様だろうし、交易を専らとする航海民や漁労民もおれば、内陸性の狩猟採集民、中期以降なら焼畑民もいただろう。たまたま発見されたDNA分析可能な試料が得られた個体だけが、縄文文化の担い手だったわけでもない。「海峡を挟めば異国」ではないので、同一人種が南朝鮮にいてもおかしくはないだろう。7,300年前の鬼界カルデラの破局噴火はアカホヤ火山灰を宮城から山形県にまで吹き散らした。このため、縄文時代中期における愛知、滋賀、福井までの西日本の人口はわずかに3.6%。岐阜、長野、関東を中心とする人口稠密地帯と東北を控える東日本は96.4%と大半の縄文人を擁する非常に極端な人口の偏りを生み出した。後期には全国的な人口減少が起きるが、西日本人口も著しく増えたとはいえない。

南方ルートでなくては困るのは「稲作」であり、高床、文身、和弓などだ。
近年では、轟式土器、曽畑式土器など縄文前期の九州産の土器が、沖縄から朝鮮半島にまでわたっていったことが判明している。新潟県糸魚川産のヒスイ製勾玉も、百済・伽耶・新羅などで多くの出土例を見ることができる。時代はかなり下るが、支石墓は半島からのものだが、甕棺墓や稲作は、朝鮮から来たのではなく、日本から朝鮮に渡って行ったという仮説も登場した。確かに朝鮮半島にはなく列島には普及した稲の種類はある。ただ、朝鮮半島の方が稲の種類が多いので朝鮮流ルートでの流入品種は否定できない。
また、かつての百済(任那)の地で、80年代に5〜6世紀の前方後円墳が11基発見されたが、朝鮮半島南部が日本の影響下にあったことを強く証拠づけるものだ。これなどは、明らかに百済支援の倭人駐留の証拠だろう。後漢書に曰く、馬韓、弁辰は倭と接しており、文身をするものがとても多かったという。また、弁辰は鉄を産するので、韓、濊などとともに倭も、鉄を採掘していたと記されている。多くは列島からの倭人だろうが、半島倭人もいたはずだ。というより、そもそも倭人は列島内部から自然に進化したわけではなく、半島から南下した人々であることは否定しようがないのだから、倭人が半島南部に渡ったのではなく、もともといたのである。
倭と弥生人が同一であるなら、稲作農民としての弥生人の姿と同時に、海洋民、商業民としての弥生人像も無視できない。

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