Flowers Forest Floor

ひきこもりの女の子と大学生家庭教師の話です。地味です。 「ひきこもりクララ ①」から順番にどうぞ。④話にて完結しています。

「ねぇ、今日って、何の日か知っとる?」

 寝不足気味の頭に彼女の声が届く。低く落ち着いた声は女の子らしくないと本人は気にしているけれど、うるさいのが苦手な僕にはちょうどいい。

 さぁ、何の日だったかな。僕はマフラーにうずめていた顔を少しだけ上げて、並んで歩く彼女の表情をうかがう。染まった頬は寒さのせいか、僕への期待の現れか。

この手の質問の定番でいくと、彼女の誕生日? でも彼女は秋生まれだったはずだ。

それとも、付き合って何ヶ月かの記念日? っていうのは、先週付き合い始めたばかりの僕らのところにはまだ来ないだろう。

二月に来る特別な日といえば、バレンタイン! ……は、ちょうど一週間後。

まったくわからない、おてあげ。とあげた手をとって、彼女はふふふと楽しそうに笑った。

「今日は、二月七日、『ふ・な・の日』やで」

 なんだよダジャレかよって、僕も笑った。

 その次の週の同じ日、並んで歩く僕に彼女から手渡された包みの中からは、パック入りのにぼしがでてきた。2(に)月の1(ぼう)4(し)日で、にぼしの日。

 なんだよダジャレかよって、笑えない僕を見て、彼女はふふふと楽しそうに笑った。

「じょーだん。はい、これ」

 あっけにとられている僕の手を取って、彼女は押し付けるように可愛らしい包装を握らせた。

「わたしの人生初の手作りチョコレートやわ」

 じゃあ、今日はチョコレート記念日だ。僕を置いて歩き出す彼女の後ろから声をかける。

「作ったのは昨日だから、チョコレート記念日にするとしたら昨日やね」

 振り返って僕の手をとる彼女の頬が染まっているのは、きっと気恥ずかしいからだ。

「でも、二月十三日は『名字の日』やからなぁ」

 並んで歩き出した彼女は、そんなことを言って難しい顔をした。

 

 春が来て、僕は大学生活も最後の年に入り、彼女は二年生になった。就職活動はますます激化していたけど、その合間を縫って僕たちはデートの回数を重ねた。

 三月二十七日。この日はユネスコの定めた『世界演劇の日』だからと彼女が言うので、二人で映画を見に行った。

「ほんとはオペラとかミュージカルがいいんやけどね」

なんて言われたけれど、それはまた来年まで我慢してもらうということで。

 最高に傑作だったのは、なんといっても四月四日だと彼女は言う。

 その日、両親がでかけているからと彼女に呼ばれた僕は、ついにこの日が来たのかと、いつもより早く起きて朝シャンをし、行きがけにコンビニに寄って万全の準備を整えて、彼女の家へ向かった。

「ねぇ、今日は何の日か知っとる?」

緊張で震える手でドアを開けた僕を待ち受けていたのは、いつものふふふと楽しそうな彼女の笑顔だった。まぁまぁ座って座ってと座らされたのは、ベッドの上じゃなく、鏡の前。

「今日は、三月三日桃の節句と、五月五日端午の節句のちょうど真ん中やから、『オカマの日』やねん!」

 そのセリフの三十分後には、くっきりといびつなアイラインがひかれ、くちびるを真っ赤にした気持ちの悪い僕の顔が、鏡にうつっていた。

 これだけ聞くとすごく間抜けに聞こえるかもしれないけれど、メイクを落として真面目な顔になった後で、僕は僕の目的もきっちりと果たした。なのでまぁ、四月四日はトータルで見て僕にとってもすごくいい一日だった。

「五月九日は5月(May)9(く)日でメイクの日やねんけど……」

と、彼女はもう一度僕にメイクをしようとしたけれど、五月九日は『アイスクリームの日』だと僕が言い張って、その日は二人でアイスを食べに行くことで落ち着いた。調べておいてほんとうによかった。

 毎月二十二日になると、デートにでかけた先で、決まって喫茶店やケーキ屋さんに入った。べつに、二十二日が付き合い始めた記念日というわけじゃない。

「カレンダーで見たときに、上に1(いち)5(ご)がのっとるやろ?」

 だから、毎月二十二日は『ショートケーキの日』なんだという。

 

 六月の第二週の月曜日。彼女の言うところの『ロックの日』に、僕の第一志望の会社への合格が発表された。忙しかった日々からの解放と、肩の荷の降りた安堵感。両親も友達も、もちろん彼女も、とても喜んでくれた。来年の春からは、憧れた企業で働くことになる。

 その週末。並んで歩く僕と彼女。長袖をまくった腕に梅雨の空気がまとわりついて、つないだ手にも嫌な汗をかいている気がする。

「ねぇねぇ、今日は何の日か知っとる?」

 彼女の落ち着いた低い声は、じめじめとした空気を押しのけて僕の頭にしっかりと届く。

「今日六月十五日はねぇ、『千葉県民の日』やねんで。来年の春からは、仲間入りやねんからちゃんと覚えとかんと」

 僕をつないでる彼女の手が、いちだんと強く握られる。

「でもなぁ、『栃木県民の日』でもあるねん。ややこしいやろ?」

 何も答えない僕を見て、さみしそうに微笑んだ顔は、いつものふふふと楽しそうな彼女の笑顔ではない。

「来年からは千葉県民、離れ離れやなぁ……」

 そのことなんだけどさ。僕を置いて歩き出す彼女の後ろから声をかける。

 来年、就職活動が始まったら君も関東の企業を探して、いや、べつに就職もしなくてもいいんだけどとにかく関東に来て、すぐにとは言わないけど、いつか必ず、僕と。

「その先のセリフ、できれば先々週に聞きたかったなぁ」

 先々週……というと、六月一日?

「知っとる? 六月の第一日曜日は『プロポーズの日』やねんで?」

 振り返った彼女は、いつものようにふふふと楽しそうに笑っていた。

 

次の年のクリスマスの四日前、僕の家に彼女がやって来た。なんでも、もう授業なんてほとんどないし、就職活動もほとんどこちらでするのだからと、しばらくここに居候すると言う。あっけにとられている僕に向かって彼女は言う。

「知ってる? 今日十二月二十一日は、『遠距離恋愛の日』やねんで。わたしにとっては、遠距離恋愛が終わった日」

 彼女と僕は、毎日毎日、今日という特別な一日を過ごしている。これから先の今日を、ひとつずつ積み重ねていく。

 僕に飛びかかるように抱きついてきた彼女を抱えて、僕は心の中でたずねた。

 ねぇ、明日は何の日になる?

その日のクララの部屋は、いつもと違うことがひとつだけあった。どれだけ目を凝らしてもわからないことだったけど。

 その日は、いつも僕がクララの家を訪れる週三回のどの曜日にも属さない曜日だったのだ。

 なんてことはない。いつもの曜日にたまたま僕に野暮用が入ったので、曜日を振り替えてもらっただけのことだったのだけど。あまりにも当たり前のように続いていた習慣だったので、違う曜日に訪れるというだけで、何かが違う気がして少しだけ新鮮に感じた。

 野暮用というのは、九割を超える人間が人生で一度は、一度だけは経験する、成人式のことだ。べつに絶対行きたいと思っていたわけでもないけれど、いちおうこの手の儀式は正しく通過しておいたほうが無難だ。その程度の認識である。

「それでそれで? おもしろかった?」

 と、僕自身の関心とは裏腹に、クララは興味津々といった様子で、いろいろと話を聞きたがった。

「初恋の人と運命的な再会を果たしたりしなかった? 恩師に肩を叩かれて泣き崩れたりしなかった?」

 物語主義者的には、成人式というイベントは、けっこう大きな意味を持っているらしい。正確に言うと、大きな意味を持ちうるポテンシャルを秘めているらしい。言いたいことはわからなくもないけど。

「べつに特におもしろい話はない」

 言いたいことはわからなくなくても、実際にそうであるかといえば、まったくの別問題だ。

「なんだぁ。つまんない」

「つまらなくてけっこう、それより、解けたか? いちおう授業中」

 僕が問題集のページをシャーペンで指すと、クララはおもしろくなさそうな顔でノートを投げてよこした。赤ペンに持ち替えて採点をする僕に、クララは声をかけてきたので、僕は顔をあげずに応答した。

「じゃあ、行く意味なかった?」

「いや、そんなことないけど、昔の友達とかと久しぶりに会ったし……」

 ここで僕の頭の中にひとつのアイデアが浮かんだ。

 中学校時代の友達と成人式で会うのは楽しい→クララも中学校時代の友人を作りに、学校に行こう!

 短絡的だけど、少しくらい効果があって、ちょっとでもクララが学校に行く気を起こしてくれるかもしれない。

「いやぁ、それがなかなか面白くてさ。昔の思い出話したり、こいつが今こんなことしてんのかぁ、とか、こいつ昔は野球選手になるって言ってたのに、今は料理人目指してんのかよっ、みたいなさ」

「そういえばさ、先生は将来何になるの? やっぱり教師?」

 すでにクララの意識は成人式にはなくて、この作戦は徒労に終わった。女の子というのは、どうしてこんなに気まぐれなのだろう。

 

「将来何になるの?」

 成人式やその後の同窓会から数えて、クララに聞かれたのは何度目かわからないほどだった。

 僕はそのすべてに、まだわからんとかなんとか言って歯切れ悪くはぐらかしてきた。

「やっぱり教師?」

クララのように、僕が教育学部に所属していると知っている人は、だいたいそう聞いてきたけど、僕はその質問にすら明確な答えを用意してはいなかった。きょうしぃ、かなぁ……、みたいな曖昧な返し方。

「黙ってないでねぇ、先生は何になりたいの?」

 何になるの、じゃなくて、何になりたいの、って聞かれたら、いちおう答えは持っているんだけれど。

「……小説家」

 同年代の友達相手には、とてもじゃないけど言えなかったけど、ここでひきこもっている女子中学生になら、言ってもいいかもしれないと思った。クララは、笑うかもしれないけど、きっと馬鹿にはしないだろうと思ったし。もしかしたらだけど、いいじゃん、なんて言って喜ぶかもしれないし。

「えーっ!」

 クララの反応は予想以上だった。体ごとリアクションをとるものだから、僕はクララが今にも立ち上がるんじゃないかと思ったほどだ。

「すごい、いいじゃん!」

 喜ぶクララに圧倒されて、素直に言うと嬉しくなって、つい聞かれてもいないことも話してしまった。手に持ったままの赤ペンをくるくると回しながら、

「こないだ一回新人賞応募して、いいところまではいったし。まぁ、最終選考でだめだったんだけど、初めてなのにそこまでいくのは、なかなかすごいっていうか。まぁ、あながち叶わない夢ってわけじゃないっていうか……」

 こんなふうに饒舌になった僕を責めることのできるやつは誰もいない。少なくとも男のはしくれなら、目の前で飛び跳ねるように喜んだクララの姿を見て、気をよくしないやつはいないだろう。

「で、次回作は? 今はどんなの書いてるの?」

 舞い上がっていた僕の気持ちは一瞬にして縮み上がった。床に落ちた赤ペンが、カラリと音をたてた。

「今は、……何も書いてない」

 僕の沈んだ表情を見て、クララは僕の状況を的確に読み取ったようだった。途端、険しい顔になった。クララのそういう敏感さには、恐れ入るばかりだ。

 書いてないんじゃない。書けないのだ。

 ――初めての応募で、最終選考までいった。小説家は叶わない夢じゃない。

「その気になればいつだって――、とか思ってないでしょうね?」

 クララは問い詰めるような目で僕を見た。自分より一回り近くも年下の女の子に図星をつかれて、僕は何も言えないでいた。

 そのときの僕の消え入りたい気持ちをもし正確に言葉にすることができたなら、僕はきっと小説家としてやっていけるだろう。クララに見つめられたまま、僕は数秒沈黙していた。

 学校が忙しいとか、このバイトを始めてタイミングがなかったとか、僕がなんでもいいからなにか見苦しい言い訳をしようとしたそのときだった。

「そうだっ!」

 クララの表情が、ついさっきまでの嬉しそうなものに再び戻る。クララは床に転がっていた赤ペンを拾い上げると、それを指示棒のように振り回し、空を叩いた。

「あたしの話を書いてよ! 家庭教師のバイトを始めたら、行った先の女の子が車椅子でひきこもりでさ、その子がひきこもり脱却して、歩けるようになってさ、そういう物語!」

 何馬鹿なこと言ってんだよ。そんな風には言えなかった。笑顔で話し始めたクララは、いつしか真剣な表情になっていたから。

「物語から逃げられなくなった女の子のところに、小説家志望の男の子が来るの。捕らわれのお姫様を、王子様が助けるみたいに」

 ここでクララは、へへへ、と笑った。

「よかったね、先生。無個性から王子様に格上げだ」

 

 

 

「で、現在に至る、ってわけね」

 クララは、へへへ、と笑う。

「思ってたよりもいい出来映えだよ」

 僕もつられて笑いながら、クララに言う。

「ちゃんと最後まで読めよ」

 日頃、僕が命令口調で話してもクララは素直には聞かないことが多い。それなのにそのときのクララときたら、うん、とうなずいて、こちらに笑顔を見せてみた。

 

 

 

 ここからは後日談で、聡明な読者様の中には蛇足だなんて言う人もいるかもしれない。けれど、僕は蛇足だなんて思わないし、この物語を終わらせないために、僕が続きを書かないといけないと思う。

 けっきょく三学期の間、クララは一度も学校に行くことはなかったけど、ときどき僕はクララの車椅子を押して、家の周りを散歩した。クララは毎回家をでるときには寒いと文句を言ったけど、何かを見つけて指さしては、それ以上によく笑った。野良猫の交尾を指さしてけらけら笑うクララを見ても、僕は全然笑えなかったけれど。玄関に置かれた車椅子が少しずつ汚れていくのを、クララのお母さんは目を細めて見ていた。

 病院にも通い始めて、脚のリハビリをしているらしい。クララの症状は精神的なものからきているので、カウンセリングも同時に行われている。どちらかというと、そっちがメインのようだ。

症状は回復に向かっているらしい。もう少し歩けない期間が長かったら、脚の治療は今の何倍も難しくなっただろうと、お医者さんはぎりぎり間に合ったことを喜んでいたらしい。リハビリを担当している若い理学療法士の先生が、無愛想で口が悪くて不服だけど、顔だけは誰もが振り返るレベルのイケメンだとクララは言っていた。

 クララの物語を、新人賞に応募したいと思う。そう言うとクララはとても喜んでくれた。今度はうまくいくといいね、そう言ってくれた。もしうまくいったら、僕とクララの出会いは運命だったのかもしれないと思ってしまうのは、きっと物語主義的な考え方すぎるだろう。

 僕らは決められた物語の上のキャラクターではないのだから、きっと運命なんかない。イケメンの作業療法士との出会いだって、運命だなんて言ったって僕は認めない。

 

 

 

「ほら、あそこ」

 きれいに咲いた桜並木の下、忘れられたような赤いポストをクララは指さした。

「貸して、あたしが入れてきてあげる」

 そう言ってクララは僕の手から封筒を取り上げた。そんなクララの様子を見て、僕は思わず手を差し伸べる。

「大丈夫だから、先生はここで待ってて」

 クララは無い胸に僕の原稿が入った封筒を抱きかかえ、震える脚で立ち上がった。今にも倒れそうな足取りで、ゆっくりと歩き出す。僕はクララの命令を無視して、クララの腰に手を添えながら一緒に歩いた。

 ほんの数十歩の道のりを、僕とクララはゆっくりと時間をかけて歩いた。


                                                                        END 

 

 物語主義、というのはクララの造語であり、国語辞典を引いてもたぶんのってない。実際に引いてみたことがないので、確信はないけれど。

 物語主義者のクララに言わせてみると、僕がこの家に家庭教師に来たことは運命的なことであり、なにかしらの意味やそれなりの背景があることらしい。物語主義とは、この世で起こるすべてのことはなにかしらの意味やそれなりの背景がある、運命的、物語的なものであるという考え方である。クララに言わせてみると、そういうことらしい。部屋中にちらばるほどの小説や少女漫画に傾倒していたクララらしいといえば、らしいといえる。

 家を出ると曇り空が広がっていた。これはよくないことの予兆だ。何もない日にケーキを食べたりしない。ケーキは何かの記念日を意味しているから。隣の席の男の子は数学が得意だ。きっと本人の性格が理屈っぽいことのメタファーだろう。

 乙女チックで、かわいらしいという人もいるかも知れない。いわゆるイタい子の考え方だけど、思春期にはよくあることだという人もいるかもしれない。大人になるにつれて、そういうもんじゃないと割り切って、整理をつけて、切り捨てていくものだ。むしろ、それが大人になるということだと。

 クララは違った。クララは、物語主義から逃げられないでいる。逃げ足さえも失って。

 

 中学校にあがったとき、クララは今も面影の残る自己主張の強さを発揮して、クラス委員に立候補したそうだ。当時は運動が得意で、小学校からの親友に誘われて、一緒にバスケット部に入ったらしい。友達も多くて、成績もよく、いわゆる優等生だったという。

 全てクララの自称だけど、どれもほんとうに真実だったんだと思う。まだ、玄関の車椅子はなかった。

 クララに異変が起きたのは、夏休みが明けて二学期を迎えたときだった。異変、なんていうのはおおげさな言い方かもしれない。クララの感じた小さな違和感。

 クララの学校では、クラス委員は学期ごとに必ず交代するルールだった。クララは「委員長」から「生徒の一人」になった。クララをバスケット部に誘った親友は練習についていけずに手芸部に入り直し、そこで新しい友達と仲良くなった。クララは「親友」から「友達の一人」になった。

居場所がなくなったわけではない。友達がゼロになったわけではない。それでもクララの世界の物語で、クララは自分の役割が、立ち位置が、その存在が、揺らいでいくのを感じていた。

夕暮れ時。クララはバスケット部の友人たちと帰り道を歩いていた。そこに、かつての親友が、手芸部の友達たちと三人で帰り道を歩いていて、たまたま合流した。

バスケット部の友人の中にかつての友人とクラスが同じな人がいて、その友人と小学校が一緒だった人がいて、通っている塾が一緒で仲がいい二人がいて――

二つのグループは混ざりあって、しゃべり合い、笑い合いながら帰り道を歩いた。

なんてことのない、よくある光景と言ってもいいだろう。しかしクララは、これになじめない。

 クララの頭の中の物語で現在の状況に対して貼られていた「部活の友達と帰宅中」というレッテルは変更を余儀なくされた。自分の立ち位置を一口に説明できないこのシーンは、物語主義者にとっては自分の存在理由を問われている状況と同義である。

 クララはそこから家につくまで、一言も話すことができなかった。そして次の日から、学校に行かなくなった。

 

 聡明な読者様がどう感じるかはわからないけれど、クララほどではないにしろ、僕もこの感覚には共感できる部分があった。僕も「友達の友達」と話すのが苦手だ。グループで行動しているとき、例えばクララのようにクラス委員とか、そうでなくとも、時計係とかそういうのでかまわないから、なにか役割がないと落ち着かない。

 クララは僕にも物語主義者の素質があるというから、不思議なことではないのかもしれないけど。僕はそんなことについて他人と話したことなんてなかったからわからないが、ひょっとすると普通の人はあまりそういう感覚はないのかもしれない。だとしても、少なくともクララは、そういうことにひどく敏感にできていた。

 

 学校に行くことを拒否しだした頃のクララは、常に何かを考え事をしているような顔で、口数もめっきり少なくなった。家の中をうろうろとし、ときどきひどく取り乱して暴れては、部屋に戻って泣いていたと、クララのお母さんが話してくれた。不安定になるのは反抗期に入ったからだと、最初はそう考えて耐えていたという。

クララ本人が言うには、「自分が世界の中でどのような存在なのか」を考えていた時期だという。

 この字面だけ見ると、いかにも思春期にありがちな考えに思えるが、少し違う点がある。普通の思春期たちは、この「存在理由」について考えた結果、「社会の役に立つ仕事につきたい」とか、「生きた証を残したい」といったふうに、社会性からくる自分の立ち位置を心の拠り所にしようとしていくものだ。「有名になりたい」なんて短絡的に考えるやつもいるだろう。これらはすべて、承認欲求からくるものであると、僕は思う。

 しかしクララは違う。クララの頭を悩ませたのは、物語性のみを考えた自身の存在理由についてだ。この世界という一つの物語で、自分はどういう意味合い、どういう面白みがあるのか。自分に、なにかしらの意味やそれなりの背景を見出そうとした。

 クララは、委員長や親友という肩書や立ち位置を失った自分の物語性の無さに、失望していた。登校拒否をしている自分にも、その意味の弱さ、背景の不安定さに嫌気がさしていた。

「なんとなく不登校している女の子」では、物語にならない。みんなそれぞれに悩みや不安、いらだちいや怒りがあって、いまやひきこもりはそう珍しい話ではない。批判を覚悟してクララの言葉を借りるなら、没個性的、というやつだ。

 ある夜、もんもんとした気持ちを抱えて布団に入ると、翌朝クララは立ち上がれなくなっていた。立つことができない衝撃以上に、自身の置かれた状況の持つ強い物語性にクララは歓喜した。「学校での人間関係がうまくいかず、歩くことができなくなった中学生」という自分のキャラクターは、ロマンチックで運命的だ。これなら、物語ができる。

そうして、自分の考え方に「物語主義」という名前をつけた。クララはとても満足して、それ以来、部屋からほとんどでてこなくなった。

これが、物語主義の説明、ひきこもりクララの誕生秘話だ。

 

 

 

「なんか、体重をみんなにばらされたみたいな気分だね」

 そんなことを言うクララは、笑いながらもぞもぞとコタツ布団に身をうずめている。どうやら恥ずかしがっているらしい。

「どう? こんな感じであってる?」

 今や完全にコタツの中にもぐってしまったクララに僕は問いかける。返ってくる声は、こもっていて聞き取りにくい。

「どうって、先生がこう思うんならこうでしょ。作者は先生なんだし」

 気のない返事に僕はため息をつく。さっきまではハイテンションで、勝手なこと書かれたら困るとか言ってたくせに。

「わかりにくくない? ってか、自分で書いてて途中から意味がわかんなくなったんだけど」

「大丈夫。先生も物語主義者の一員だって、自分でも書いてたじゃん」

 それは、クララがそう言ったからだろう。というか、クララの言葉を頼りに書いたのに、肝心のクララがこの調子だから、いまいち要領を得ないものしかできなかったのだ。

 コタツ机に開かれたまま置かれている原稿の束を手に取る。クララはコタツから出てくる様子を見せないので、僕は次のページをめくった。一行目からいきなり自分の言ったセリフが目に入る。自分の言ったセリフをこのような形で見るのは、たしかに恥ずかしい。まるで、体重をみんなにばらされたような気分になる。

 

 

 

「クララは、もう学校には行く気はないのか?」

 僕が授業終わりにそう尋ねたのは、何も突然だったわけではない。

 少し前から、聞こう聞こうと思ってタイミングをうかがっていたことだった。

「急にどうしたの?」

 だからクララのこの返答は的外れだ。急に、ってわけじゃなかったのだから。

「いや、ただ聞いてみただけだけど」

 もっとも、僕の返答は的外れを通り越して、ただの無意味な嘘だ。ほんとは聞いてみただけなんかじゃなかった。ずっと聞こうと思っていたのだから。

「あっそう」

 クララはすぐに不機嫌そうな顔になって、

「学校に行こうにも、あたし歩けないし」

「玄関に車椅子あるじゃん。あれはダメなの?」

「あれ、しんどいんだもん」

 まるで取り付く島もなかった。

 

「あの子、どうでした?」

 クララとは部屋で別れて、僕はリビングでコーヒーを入れてもらっていた。

「すいません、全然まともに取り合ってもらえなくて……」

 クララのお母さんと二人で、コーヒーの湯気にため息をこぼした。二人を悩ましているのはもちろん、今日も部屋からでてこない、クララのことだった。

 お母さんとしては、初めは勉強を見てもらうだけのつもりで頼んだ家庭教師がみるみる娘と仲良くなっていったこの状況を、いい機会だととらえているらしい。

 クララはひきこもってこそいるものの、部屋にひきこもって以降はお母さんとは以前のように仲が良く、よく二人でお茶を飲みながらおしゃべりをするのだそうだ。クララはいつも僕の話をしているのだという。

あの子はあなたをとっても気に入っているから、という嬉しいセリフをお母さんは上品な笑顔で言ってくれるのだが、ただ単に部屋をでないクララに選べる話題が僕のことしかないという線も捨てがたい。むしろそれが本線だろう。

「いい機会だから三学期からでも、なんとかならないかしら……」

困った顔があんまり板につかないのは、この人の人柄なのかこの家が裕福だからなのか。そういえばクララも、困った顔が苦手だ。遺伝なのだろうかと、僕はくだらないことを考えたりしていた。この頃には、この家でコーヒーを飲むことときにも、そんなことを考える余裕が生まれていた。

そんなふうだから、この家の人たちにはどこか危機感が足りないように僕は感じていた。一番の問題はやはりクララ本人だが。

僕が見てきた限り、とてもじゃないけど自分がある日突然歩けなくなった本人だとは自覚しているとは思えなかった。おそらくその瞬間も、二階の部屋で寝転がって本でも読んでいただろう。

物語主義的には、もうすでにクララの中でこの一連の流れが完結してしまっているのだ。歩けなくなってひきこもることで、設定の回収が終わり、理由付けができてしまっている。だからこの物語はお終い。

クララのお母さんとしても、あまり変わらない。不安定で荒れていたクララが、今は自室にひきこもることで安定していることで、ある程度の満足をしてしまっている。所詮義務教育の中学校は、放っておいても卒業できるのだから。それから先はゆっくり考えればいいと思っているのであろうことが、ある意味部外者の僕にも伝わってきている。

でも、僕はこのままではいけないと思った。なんのためにクララと名前を付けたのか。

 

「だから、クララがひきこもりをやめて学校に戻れるように、僕にできることを考えよう!」

 クララは芝居がかった口調で言った。無い胸に右手をあてて左手は大きく広げるという、ご丁寧な身振りまでそえて。そういう姿が案外様になってみえるのが、クララなんだけど。

「先生はそんなふうに考えてしまったわけだ」

一転して冷静になり、クララはコタツ布団を引っ張りあげてくるまる。

世間の学生たちは冬休みに入った時期だった。もっとも、クララにはまるで関係がなかったし、クララの口から冬休みだからどうこうなんてセリフはひとつも出てこなかったけれど。普段からなんだかんだいって大学への出席率の芳しくない僕にしても、冬休みだからどうこうというものもなかったし。つまりはいつも通りのクララの部屋の光景だった。

「先生もあれだね、すっかり物語主義者だね」

 コタツ布団に頬をこすりつけながら、クララはしんみりと言った。僕もコタツ布団にうずまろうとしたけど、クララが自分のほうにだいぶひっぱりこんでいて、僕のところにはうずまれるほどの布団がでていなかった。おまけにクララのセリフの意味もわからなかった。

「どういう意味だよ」

 僕はしかたがなく自分で自分の肩を抱いて寒さをしのぎながら、クララに尋ねた。僕の姿はどうやら様にならないようで、クララはにやにや笑いながら答えた。

「いやね、家庭教師先のひきこもりの女の子、いや、美少女を、助けたいとかすごく物語的だよね」

 クララは得意気に続けた。

「あたしとかママの話を聞いて、自分がなにかしてあげようとか、助けてあげたいとかおこがましい気持ちを持ってしまったんだね。先生は、あたしが学校に戻ることがこの物語の終わり方だと考えて、その中で自分の役割を果たそうとしてるの。あたしが家庭教師を頼もうと考えた思惑通り、ね」

 そこまで言ってクララはひとつため息をついた。そしていつものようにおおげさに肩をすくめてみせる。そういう姿がほんとに様になってみえて、僕は口をはさむタイミングを逃してしまう。

「でもまぁ、先生はもうがんばんなくていいよ。先生が嫌いとかそういうんじゃ全然ないんだけど、先生はあたしを連れ出す役割を持ったキャラクターではなかったみたいだから」

「なんだよそれ」

そのセリフは聞き逃せなかった。人がせっかく何かしてあげたいと決意した矢先だったのだ。

「なんだか、先生とはだらっと仲良くなりすぎちゃった。そういう大きな役割を持った人とは、もっと劇的に出会ったり、最初はすごく反発しあったりするものじゃない? 先生とは、もうそういうの無いまま過ぎてきちゃったから。」

 こういうことをいたって真面目に考えるところが、クララが物語主義者たる由縁である。

「学校へ行かせるってことは、あたしを連れ出す王子様なわけだから、めったにない共通点があったりとか、実は過去に会ったことがあったりとか、そういうのがないと」

 クララは自分の言葉に酔ったように、蒸気した顔で空を見つめながら語った。

「もちろん、王子様のキャラクターはそりゃ強力じゃないとだめ。すごく一長一短のある性格だったり、誰もが振り返るようなイケメンだったり。先生は、まぁ正直すごくいい感じだけど、そういう個性みたいなのが足りないかな。運命的じゃない」

こういうことをいたって真面目に考えて、あげくに自分を縛って歩くこともできなくなるようなやつなのだ。

注文の多いお姫様に、僕が言えることはもうなにもなかった。

 

 

 

いつの間にかクララはコタツの中から這い出してきていて、僕の隣から原稿をのぞきこんでいた。

「やっぱり、けっこうひどいこと言ってるね」

「この辺はたぶん一言一句間違えてないと思う」

 根に持つなよぉ、そう言ってクララは少し申し訳なさそうに笑う。クララが申し訳なさそうにするところなんてなかなか見られないから、僕はそれで許してやることにする。我ながら平穏な性格だ。たしかに無個性かもしれない。

「悪気があったわけじゃなくてね。先生、いい人だし、普通よりはかっこいいし、好きだよ? ね?」

「僕はロリコンじゃない」

 許してやったつもりだったのに、クララが必要以上にべたべたしてくるから、少しだけ仕返し。クララは、子ども扱いされることが嫌いだ。

「あっそう、それ返して。まだ途中」

 案の定少し機嫌をそこねたクララは、僕の前に置いてあった原稿をひったくると、寝転がって続きを読み始めた。

 まだ途中と言っても、もうあと少しだ。僕は黙って待っていることにした。

 

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