長浜監禁事件

弁護士 中村武志

第1審判決に対して検察官が控訴せず被告人のみが控訴した場合に、控訴審判決が被告人の不利な認定をできるのか、
すなわち、検察が控訴していない以上、第1審で被告人の有利な認定となった部分は、控訴審の職権調査の対象外であり、もはや判断出来ないのではないかという刑事訴訟法上の重要な論点があります(攻防対象論)。

この攻防対象論に触れた判例として、
牽連犯ないし包括一罪の訴因の一部に第1審が無罪判決を出した場合は、控訴審がその無罪となった部分を含めて全体を有罪と判断することは違法であるとの最高裁判決(新島ミサイル事件)や、
共同正犯は認定出来ないが予備的訴因としての幇助犯は認定できるとした第1審に対して、控訴審が共同正犯を認定するのは違法だとした最高裁判決はあります。

ただ、結果について縮小認定した場合など、いわば一罪の一部に無罪判決が出た場合について、控訴審が第1審を覆して被告人に不利な認定をすることが許されるか否かについては、最高裁の判例はありません。

高裁レベルでは、①たとえ第1審判決の被害額に計算ミスがあっても、それを正して被告人の不利に認定することは、当事者主義の建前等からして許されないとする裁判例もあれば、
一方で、②傷害結果を縮小認定した第1審の判決を破棄して公訴事実通りの事実を認定した高裁判決もあり、罪となるべき事実の不利益変更が許されるかどうか判断は別れています。
ただ、②の判決も、被告人に不意打ちにはならない等の諸事情の下では破棄も許される旨判示しており、無条件に不利益変更することが許されるものではないということは前提になっているといえます。
学説上は諸説様々です。罪となるべき事実の不利益認定は無条件に許されないという考え方もあれば、検察の処罰意思が放棄されたと見得るかどうかで、合法か違法かを判断する考え方もあります。


本件では、公訴事実が約4時間半程度の拘束となっていたところを、第1審判決では、合鍵を使うのが現実的となった時点=両親が外出後すぐに戻ってくることがないことがわかるまでの拘束と認定して、拘束時間を大幅に縮小認定し、かつ、その縮小は量刑において被告人の有利な事情となる旨、はっきりと判示しています。
この第1審判決に対して検察は控訴していませんから、検察は、合鍵を使用した後の拘束については処罰意思が放棄されたと見ることが出来そうです。
よって、控訴審としては、拘束時間としては合鍵を使用するまでであることを前提としなくてはならず、合鍵使用時期後の拘束は控訴審での攻防対象ではなくなり、当然、控訴審が合鍵を使っていなかったと認定することは出来ません。

現に控訴審判決は、当該第1審の罪となるべき事実の認定を破棄していませんし、拘束時間を変更する旨の明示はしていません。
その意味では、控訴審判決は罪となるべき事実を明示的に不利益変更しているものではありません。

ところが、一方で控訴審判決は、合鍵を使って鎖を解いた時間は短時間であると認定しています。つまり、合鍵を使った後も、被害者は自ら鎖を巻き、長時間拘束されていたことになります。
仮に控訴審の認定が正しいとすると、被害者は一旦合鍵を使った後にも、被告人を畏怖して、長時間鎖を腹に巻いていたことになります。

(大問題として、これはあまりにも不合理な事実認定なのではないかという疑問があります。合鍵を隠し持って自由になった者が、その後、長時間再び鎖を腹に巻くことなど異常であり、単なる推論上の可能性のレベルの話しであって、少なくともそうではなかった合理的疑いがあると言わざるを得ません。ただ、ここでは一旦この問題は目を瞑ります。)

そうすると、普通は、この合鍵を使った後も長時間鎖を腹に巻いていた結果は、被告人の鎖を巻いた行為と因果関係があると評価されるのではないでしょうか。 つまり、この合鍵を使った後も長時間鎖を腹に巻いていたことは、被告人の実行行為と因果関係のある被告人が罪責を負う結果と評価されることになるはずです。 現に、控訴審判決は、この合鍵を使った後の拘束があるから、第1審の量刑は相当だと言い得る旨判示しており、すなわち、合鍵を使った後の拘束を被告人の罪責の根拠にしているのです。 結局、控訴審判決が合鍵を使った後にも拘束されていたと認定することは、第1審の縮小認定した結果を拡大認定するに等しく、実質的に罪となるべき事実の変更に他なりません。 検察が控訴していないのに、手続き保証もなく、大幅に罪となるべき事実を不利益に変更しているのですから、明らかに違法です。 当該事実認定には不意打ちの違法があることは既に述べた通りです。 罪となるべき事実の不利益変更が許されない根拠の一つとして不意打ちの防止があることから、既に述べた不意打ちの問題と、ここで述べた罪となるべき事実の不利益変更の問題は、軌を一にする違法があると言えます。 もっとも、検察官が控訴していない以上は、罪となるべき事実については、第1審が認定した以上の不利な事実認定をされることはないことが手続上保証されると考えるならば、当該保証を破ったという意味で、この不意打ちによる違法は、より悪質なものであるといえると思います。

刑事訴訟の控訴審段階において、被告人に対し不意打ちを与え、その防禦権を不当に侵害する違法がある旨最高裁が判示した事件として、よど号ハイジャック事件があります。

被告人がアリバイを主張していた謀議の日について、原審が争点を顕在化することなく卒然として1日ずらして認定した点に不意打ちの違法があるとした事件です。

本件事件の控訴審においても同様の不意打ちの違法が見られます。
本件において、被告人は、被害者が事件の日に合鍵を使用したか否かのみに絞って防禦活動を行っていました。合鍵を使った後にも長時間鎖を巻いていたかどうかとか、きつくくくった時に合鍵を使ったことがあるかどうかとかいった事実関係が問題になるとは全く考えていませんでしたし、検察も一切主張していませんし、一審判決も全く触れていません。
そうであるにもかかわらず、控訴審は、合鍵を使用した後のAの行為について何ら争点として顕在化することなく、また、きつくくくった時に合鍵を使ったことがあるかどうかということについて何ら争点として顕在化することなく、卒然として、合鍵を使用した後にも長時間鎖を巻いていたかとか、これまできつくくくった時に合鍵を使ったことはないと認定したのです。

ここには二つの側面での不意打ちの違法があります。(最も大きな問題として、不十分な証拠しかないのに認定した(経験則に反する認定をした)という問題がありますが、適正手続きの問題に絞って論じる上で、そこは一旦目を瞑ります。)

まず、事実関係として、第1審裁判官、検察官、弁護人が全く想定していなかった事実関係、特に争点としていた事実関係と時期のずれた事実関係を認定したという不意打ちの問題です。これはよど号ハイジャック事件と共通します。

もう一つの問題として、弁護人が、被害者の承諾は結果の認容甘受があれば有効となるという、従前の裁判例や学説の立場に沿った主張立証をしていたにもかかわらず、
控訴審は、従前の裁判例には見られない、かつ、学説において賛成するものがいない、承諾が真摯なものではないから有罪との基準に立って判断し、
その独自の基準からすると、結論に関係しそうな間接事実を認定した不意打ちという問題です。

そのような間接事実が認定されることなど予測することは到底不可能です。
その意味で、本件控訴審判決の不意打ちの違法は、よど号ハイジャック事件の違法よりも不意打ちの程度が大きく(よど号ハイジャック事件の事実認定は、公訴事実に記載されている事実関係には一応含まれていました)、より大きな手続き上の違法があると言えます。

本件事件について再審請求がなされ、原審で不同意にしていた調書のマスキングをなくしたものが新証拠として提出されたこと(長浜監禁事件(84)―再審請求は、
手続き保証さえなされていれば、当然に原審で出てきていたはずの証拠が再審で出されたという意味で、
上記のような不意打ちの弊害がはっきりと現れているといえます。

ジュリスト「重要判例解説」において、既に述べた点長浜監禁事件(85)―平成28年度重要判例解説①
以外に、特に気になることとして、
本件記事の「判旨」において、本件判決の示した基準である、被害者の承諾が「消極的である」すなわち「真摯なものではない」ことを構成要件該当性の根拠としたという重要な点を省略していることです。

上記除外したことにより、本件判決における、承諾が消極的=真摯なものでないから有罪としたという、有罪の決定的根拠となる判示部分と、
解説にも記載されている、甘受があるなら被害者の承諾は有効である(よって無罪となるはず)との刑法解釈の基本的な考え方との矛盾が、紙面上は明らかではなくなっています。

本件判決は、承諾が消極的=真摯なものでないから有罪とした旨、繰り返し判示しています。
しかし、被害者の承諾に甘受があれば無罪となり、本件で甘受はあるのです(そう解説に書いてあります)。
この矛盾、しかも、有罪とするに最も重要な部分の矛盾が、本件解説記事から省かれているのです。

記載が省かれたのはなぜでしょうか。

甘受があっても有罪になる場合があることを前提にしているのでしょうか。
そうだとしても、どのような理論で甘受があっても有罪になるのかが記載されていないので、そのように理解するのは困難です。

それとも、判決を刑法解釈の基本(甘受があれば承諾は有効)と矛盾なく理解しようとすると、承諾が消極的=真摯なものでないから有罪とした判示部分は邪魔だから、敢えて除外したのでしょうか。
そうだとすれば、除外した部分(承諾が消極的=真摯なものでないから有罪)が誤っていることが、ここにも現れているとも言えそうです。

ジュリストの「平成28年度重要判例解説」で本件事件が掲載されました(174頁以下)。

そこでは、本判決(控訴審判決)は2つの重要な問題に対する判断を回避していると評価されています。
第1に、監禁に慣れ、かつ合鍵を入手し、実際にそれを容易に利用できたのであるから、Aが短時間の監禁に真意で承諾しないとはいえないこと。
第2に、承諾は結果を積極的に望む必要はなく、結果の甘受があればよい。Aの承諾は甘受たりえた。

以上の2点は、非常に重要、かつ、的確な指摘です。
これまでもここで繰り返し述べたことで、控訴趣意書や上告趣意書でも繰り返し述べています。
以上の判断を回避した2点を回避せずに考慮すると、承諾は真意と評価せざるを得ないですから、本件は無罪であることは明らかです。

ただ、本件解説は、本件判決が「法益侵害の強度を捉えなおしたことによって」、上記2点の判断を回避した、
それが、本件判決のもっとも重要な特徴であると指摘します。
そして、その「法益侵害の強度を捉えなおした」とは、解説の文脈上、合鍵を使って拘束を解いた後も自らを鎖で拘束していたことを意味するようです。

しかし、本件の「罪となるべき事実」は、「合鍵を使うまでの拘束」です。
合鍵を使った後の拘束は罪となるべき事実ではなく、当然、承諾の対象になるものではありません。
承諾の対象は、当然「罪となるべき事実」つまり「合鍵を使うまでの拘束」しかありえません。
したがって、「法益侵害の強度を捉えなおし」たことで、上記2点の判断を回避することはできません。「法益侵害の強度を捉えなおし」たとしても、承諾の対象は、原審が認定した「罪となるべき事実」すなわち合鍵を使うまでの拘束であることから動きようがないからです。
そもそも、
「罪となるべき事実」の結果は「合鍵を使うまでの拘束」ですから、合鍵を使った後に拘束が長くあったといっても、それは結果すなわち「法益侵害の強度を捉えなおした」ことにはなりません。


承諾の対象を動かそうとすれば、罪となるべき事実の結果を変更しないといけませんが、それは、不利益変更禁止の原則からできませんし、本件判決も罪となるべき事実を変更するような認定は、明示的にはしていません。
したがって、「法益侵害の強度を捉えなおし」ても、すなわち、合鍵を使った後、どうなったのか新たにどのように認定しなおしても、上記回避した2点の判断は回避できないのです。

本件解説は、そこまで見通して、上記2点の判断を回避したことが、本件判決のもっとも重要な特徴であると指摘したのでしょうか。
そうであれば、本件判決が、承諾の対象を変更したこと、すなわち、黙示的に不利益変更禁止の原則に反する認定をしたことを「本件判決のもっとも重要な特徴である」と指摘したことと等しいことになるように思います。

本件解説は、判決に対して、そのような痛烈な皮肉を言うものなのでしょうか。

それとも、他の理由で、上記「判断の回避」が正当化できるというのでしょうか。
その「他の理由」は何なのか、想像もつきません。

平成27年4月5日付で本件長浜監禁事件について、大津地方裁判所に再審請求しました。

理由の骨子は以下の通りです。 再審請求書にも記載しています。


1 本請求は、確定判決が被害者の承諾の効果を認めず、有罪としたことについて、新証拠の裏付けの下、承諾する際の被害者の心理状態の認定が誤りであり、正しい心理状態によると被害者の承諾が有効であって、被害者の自由の侵害はなく、「逮捕」「監禁」(刑法220条)に該当しない合理的な疑いがあることを、その請求の理由とするものである。

 

2 被害者が承諾した際の心理状態につき、第1審判決は、被害者とされた者(以下「A」という。)が被告人らの意向におもねって承諾したことなどをもって承諾が消極的と判断し、それを主たる根拠にして有罪とした。

弁護人が控訴したところ、控訴審判決は、これまでAが頻繁に鎖から脱出していたとの弁護人の控訴理由の意義を減殺するために、きつく巻き付けたときに鎖を外したことはこれまでなかったなどの間接事実を付け加えて、Aの真摯な承諾がなく、行動の自由が著しく制約されたことは明らかであると判断した。

上記間接事実については、本請求において提出するマスキングされる前のBの供述調書により誤りであることは明らかである。Aは、本件直前の約1ヶ月半の間においても、複数回にわたり、本件と同様にきつく巻き付けられた際に、合鍵を使っての脱出に成功していたのである。

上記新証拠を加えた全証拠に基づけば、他の間接事実にも疑いが生じ、確定判決が前提としたAの心理状態は大きく誤っていることがわかる。

 

3 そもそも、被害者の承諾における心理状態は、法益侵害結果についての認容があればよく、承諾が消極的でも真摯なものでなくても有効になる。裁判例の大勢であり、学説における通説的見解と言ってよい。承諾が消極的だとか真摯ではないという理由で承諾を無効として有罪にした裁判例は見当たらない。

本件は、上記新証拠によって明らかになった事実認定の誤りを踏まえると、Aにおいて結果に対する認容があるどころか、確定的認識があることが明らかである。これまで、Aは、合鍵を使って脱出することを、事件直前期にも度々成功させていたのであり、合鍵を隠し持ったAは、自己の承諾によって起きる法益侵害結果の意味を完全に理解し、確実に起きることを予見して、それでもよいと思い、承諾したのである。

   よって、Aの承諾は有効である。被告人は無罪である。

要するに、新証拠は、原審で不同意にしていた調書のマスキングをなくしたもの、
それによると、控訴審で認定された間接事実の認定評価が全て誤りであったことがわかり、
確定判決が前提としていた被害者の心理状態が誤りであったことがわかる、 
しかも、「逮捕」「監禁」に該当するかの評価基準も誤りであり、
新証拠を加えた上、正しい評価基準に基づけば、無罪となる、ということです。 

控訴審での事実認定に酷い誤りがあることは、
これまで、長浜監禁事件(42)ー控訴審の事実認定等で、何回も繰り返し述べてきたことです。
再審の理由でも、当然そのことについても触れています。 

 

刑法改正「監護者であることによる影響力に乗じ」について、日弁連が、意見書を出しています。
要は、「監護者であることによる影響力に乗じ」た場合を構成要件に含ませるのならば、
「相手方の意思に反して」という文言を書き加えろ、という意見です。
刑法上の性犯罪は、性的自由の侵害を保護するものであることからすると、正当な意見だと思われます。

しかし、この意見は、草案の立案者の考え方とは、若干噛み合っていない面があります。

既に述べたように、草案の立案者の考え方は、監護者であることによる影響力に乗じて18歳未満の者が監護者と性行為等をした場合は、およそ、任意性がないと考えているようです。

つまり、外形的に承諾があったとしても、それは、およそ自由な意思決定となされない、自己決定権の侵害があるから、構成要件該当性が認められると考えているのです。

もし、このような考え方を貫けば、「相手方の意思に反して」という文言は全く無駄、ということになるし、
逆に、日弁連意見書の考え方は、当然に、任意性がある場合も存在することが前提になっているわけですから、そこに、前提となる考え方の相違がみられます。

従来の司法における承諾の任意性の要件の考え方からすると、後者の日弁連が正しく、
逆に、前者の草案の立案者の考え方は、従来の司法の考え方から逸脱し、
承諾の任意性が否定される場面を非常に広く考えていることになります。
これに対する疑念は、においてすでに述べたとおりです。


本件長浜監禁事件の関係で見てみると、より一層、この問題がはっきりわかります。
本件事件の判決は、子が親におもねって承諾したことをもって、真摯な承諾がない、
それのみを根拠にして、承諾を無効とし、有罪と判断しました。
つまり、監護者であることによる影響力に乗じて承諾を得た場合は、真摯な承諾がないから、有罪としているわけです。
これが、日弁連の意見書の前提とする考え方と矛盾することは明らかです。
本件事件の判決は、「監護者であることによる影響力に乗じ」承諾を得た場合は、全て真摯な承諾ではなく、「相手方の意思に反して」承諾した場合となると考えており、
そうなると「相手方の意思に反して」との文言の意味がなくなるからです。


上記日弁連意見書のよって立つ考え方からすると、本件監禁事件の判決理由が、誤っていることは明らかです。
「監護者であることによる影響力に乗じ」ただけで、承諾が無効となるのはおかしいのです。


以上のように、見てみると、日弁連意見書の問題点も見えてきます。
「相手方の意思に反して」と加えるのは良いが、
問題は、どのような場合に「相手方の意思に反して」というのか、そこが明らかでないと有効な意見とはならない、ということです。
想定しているケースはおよそ任意性がないとか、
真摯な承諾がないから意思に反しているとか判断されると、全く意味のない文言になってしまいます。
もちろん、従来の司法判断に従って、正しい判断がなされることを期待した上での意見書なのでしょうが、
現に本件監禁事件のように、誤った判決が堂々となされていることからすると、
そのような楽観視をしていていいのか、疑問があります。
においてすでに述べたとおり、
本件判決が唯一の例外にとどまらず、一般化されるとなれば、とんでもなく処罰範囲が広がることになりますが、
その危険を秘めた改正であることは念頭に置いておくべきだと思います。
 

法相の諮問機関「法制審議会」が、性犯罪を見直す法改正の要綱を採択して法相に答申したとの報道が、最近なされました。
強姦罪の非親告罪化や法定刑の引き上げ等、非常に重大な法改正への動きとなりますが、
ここで本件に関することとして特に注目したいのが、監護者による未成熟者とのわいせつ行為の罰則の新設です。
具体的には、
監護者であることによる影響力に乗じて、18歳未満のものに対し、性行為等を行った者を、強姦罪等とするとの罰条の新設になります。
監護者がその監護する子を被害者とする事件という点においては、本件事件と共通します。
従来の刑法では、強姦罪等が成立するためには、意思の制圧や抗拒不能が必要とされていたところ、
それでは監護者がその子と性行為等することを強姦罪等に問えない場合があり、単に児童福祉法違反に留まるところを、
刑法罪として、重罰を科すことができるようにした改正案です。


その立法目的は、もっともなところもあり、理解できるのですが、
この罰条の新設は、刑法解釈論上、特に被害者の承諾論において、非常に大きな影響を及ぼし得る法改正だと思われます。
というのも、法制審議会における議事録を見ると、 
本新設条項の該当するケースでは、
被害者において自由な意思決定がなされることはなく、常に自己決定権の侵害があって、
当然の如く、被害者の同意は問題にならない旨の説明が繰り返しなされています。 
つまり、この条項に当てはまるとされた以上、すなわち、監護者であると認定された以上、同意があったという言い分が通用しないということです。
これは、非常に大胆な考え方です。恐るべきことと言ってもいいでしょう。


もちろん、本条項が想定している事件では、自由な意思決定が無いようなケースも多いでしょう。
しかし、本条項では、ほとんど意思の制圧が無いような場合にも、監護者であるという理由だけで、被害者の同意はあり得ないという結論が前提とされています。
例えば、子が自ら積極的にさそって一度だけ血のつながりのない監護者と性行為に及んだような場合でも、その望むようにさせたこと自体が、自己決定権侵害の帰結なのであり、被害者の自由な意思ではないから、よって被害者の同意により無罪となることはない、と考えられているようです。 

しかし、被害者の承諾の効果を、上記のような根拠で一律に否定できるのか、疑問です。
上記のような法制審での被害者の承諾に係る議論は、
既に少し触れたように()、従来の学説における承諾の任意性の考え方にも整合しないし、
これまでなされてきた多数の下級審裁判例にも整合しない考え方が前提になっているように思われます。

本罰条を新設しようとするのは、抗拒不能等の要件で当罰的行為を補足できない、ということに問題意識がありました。
しかしだからといって、監護者としての影響力があるだけで、常に自由な意思がないと言い切っていいのか、
そこに論理の飛躍があり、従来の司法上常識とされた概念からの飛躍があるように思えてなりません。

この法案が施行された後、その新たな法律で起訴された被告人から、被害者の同意があったと主張されることは容易に想定されます。
その中には、従来では同意がある、任意性はある、と考えられていた場合でも、同意の効果を認めないことが予定されているわけです。
このままでは、それでも有罪となった人に対して、その有罪となる正当な理論的根拠を提供できるのか、疑問です。


問題は、上記のような当該罰条の解釈理論上に留まるものとも限りません。
気になるのは、この新設された罰則において、被害者の同意を許さないとなれば、
従来は当然に無罪になっていたケースでも、被害者の承諾は認められないだろう、という拡大解釈の危険性です。


本件監禁事件の控訴審判決では、子が親におもねって同意をした、ほとんどそれだけを理由に、承諾が無効だとされてしまいました。
そんな判断がなされたことは、過去の裁判例でも一つもみられませんし、
学説における通説からも乖離した判断です。
到底一般化できるような考え方ではなく、
この考え方が一般化されれば、社会生活がおよそ立ち行かなくなることは繰り返し述べたとおりです。
(例えば

しかし、上記の「監護者であることによる影響力に乗じ」た強姦罪等の新設と、それが被害者の同意による犯罪不成立を認めないという考え方と結びついたときには、
本件控訴審判決がなした判断と同様、
これまでは当然に犯罪とはならないと考えられてきたことについて、被害者の承諾が無効となり、犯罪を成立させることになる危険性があることになります。

上記法改正は、主体を監護者だけに限っていますが、 それには反対意見も強く、
教師と生徒の関係等、優越的地位を利用した場合に広く強姦罪を認めるべきだと議論がなされています。
仮にそうなった場合、優越的地位にある者が、ある行為を頼んだ場合、同意があっても、常に犯罪が成立することに繋がることになります。
親が子に留守番を頼めば、それで監禁罪が成立し得るということです。

もちろん、そんな解釈は不当です。
合理的な判断としてなされた承諾であり、承諾を有効とすべきなのは明らかだからです。
結局、優越的地位があったか否かは、承諾の有効無効に決定的な問題ではないのです。

しかし、この法改正の基礎には、優越的地位があったら承諾は無効になる、
理論上はそうなる危険性を有しているのであって、
改正の前提となる考え方に誤りがあるのではないか、その誤りが被害者の承諾論一般に波及することで、罪となる事実の範囲が拡大する危険性があるのではないか、その歯止めとなる考え方がそこに果たしてあるのか、との疑念があります。


判例時報2293号139頁以下(平成27年10月6日大阪高等裁判所判決平成27年(う)第679号)において、
本件控訴審判決は「客観的な拘束状況」から承諾の真意性(真摯性)を認定したのではなく、
拘束終了後のAの行動から承諾意思の程度を推認しただけであることは既に述べたとおりです()。

ここで当然出てくる疑問として、控訴審判決は、
簡易トイレに便があったことから、まともにトイレで排泄できない程に畏怖していたことが認められる、よって、承諾は真摯ではなかった、と判示すればよかったはずなのに、
なぜ、その後に、鎖を解いたとしてもそれはごく短時間だった、という余計な事実認定を付けたしたのか、ということです。
こんな認定がなくとも、真摯ではなかったことを示す事情を直接表現しているのに、
非常に無理な推認(でも述べたとおりです。)をして事実関係を付け足した上で、
だから承諾は真摯ではなかった、とまでいう意味が果たしてあったのか、という問題です。
原審の認定を追認し、つまり、生活を依存していた親との関係を悪化させないためという理由で、
とっくに承諾が真摯ではないと言い切り、
さらに、もっと強烈な事情であるまともにトイレに行けない程の畏怖を認定している上に、
またまた屋上屋を重ねる理由はないのではないか、ということです。

弁護人の主張に応答し切れてないところがあり(「鎖が解けても構わないように緩くくくり、鎖を解いたAを叱ったことはない」ことは、花子も供述していることであり、さすがに否定できない)、
一応応答したところも、防戦一方の苦しい言い訳なので(で述べたとおりです。)、
別の観点から理由を補強する必要があると考えたのでしょうか。
しかし、それでもまともにトイレに行けないほどの畏怖以上のことを、無理をして付け足す意義は見出せません。真摯ではなかった、というためには、まともにトイレに行けなかったほど畏怖していた、ということで必要十分でしょう。

それとも、前述のように弁護人の主張に応答しきれていないところがあるので、まともにトイレに行けないほどの畏怖があった、だから、真摯な承諾ではなかったと言い切るのも憚られるので、鎖の跡が残っていたことと併せて、鎖を解いた時間が短かかった事実を加えないと説得力がないと考えたのでしょうか。
しかし、まともにトイレに行けないほどの畏怖があったと言い切れないなら、鎖を解いた時間が短かかったことの主たる根拠が崩れるわけで、余りにも稚拙な考え方になってしまいます。


この点に関し、実は、判決で、鎖を解いた時間がごく短かかったという事実が後でもう一度出てきます。この事実を後で使いたいがために、わざわざ認定した可能性はないでしょうか。
 
後でもう一度出てきたところとは、
弁護人による、原判決は余罪を実質的に処罰するもので違法であって、その理由の一つとして、本件拘束時間は短時間、しかも、家でほとんど一緒にいた間の拘束なのに、量刑が重きにすぎるとの主張に応え、
「そして、前判示のように、」以下に判示している部分です(判例時報2293号144頁2段目2行目)。

前の判示をここでも引用しますよ、という表現になってはいますが、実は、前の判示は本来する必要のない判示であって、本当は量刑が重すぎないとの説明で使いたいがために、敢えて本来は必要の無い事実認定をしていたのだとすると、全て得心がいきます。
短時間の、しかも、家でほとんど両親と一緒にいた間の拘束だけならば、確かに第一審の量刑は重すぎるが、それを否定したいがために、承諾意思の認定には本来必要のない当該事実を付けたしたということです。

第一審判決は、明らかに、合鍵を使って鎖を解いた後のことは考えていません。
それで量刑が重すぎるというのならば、端的に判決を破棄すべきでしょう。
そうせずに、原判決も全く前提にしていなかったような、しかも、罪となるべき事実と実質的に矛盾するような当罰的な事実関係を付け加えて、原判決の結果を維持しようとするのは、違法であることは明らかです。
さすがにそれを面と向かってするのはまずいけれども、何とか原判決を維持したい、
そこで、本来は承諾の真意性(真摯性)の判断に必要のない、鎖を解いた時間がごく短かかったという事実関係を付けたしたのだ、と考えると、全てに辻褄が合うのですが、邪推に過ぎるでしょうか。


少なくとも、控訴審判決が、あえて、合鍵を使って鎖を解いた後の事実関係を付け加えたことにより、第一審判決の前提とする事実関係では量刑が重すぎることを、控訴審判決が認めたかのようになっているとは言えると思います。

すなわち、原審が生活を依存していた親との関係を悪化させないという理由で、承諾が消極的だと言い切り、それすなわち真摯ではなかったということだと控訴審判決が言い切っているのにもかかわらず、
控訴審判決が、誰もが前提としていなかったまともにトイレに行けないほどの畏怖があったとか、鎖を解いた時間がごく短かかったとかの事実を付け足さなければならなかったということは、
そうでもしないと第一審判決を維持できなかったということを意味しており、
つまり、トイレに行けないほどの畏怖があったとか、鎖を解いた時間がごく短かかったとかの事実を前提としていなかった原審判決は、有罪ないし量刑理由の根拠が足りないと控訴審で判断された、ということです。
 
ただ、そうであれば、第一審の認定判断はおおむね是認できると言わずに、
原判決の理由は間違っている、こう考えるべきだ、というべきでしょう。

それをしなかった理由が、原審及び控訴審判決の違法を隠すために新たな事実を付け加えたとすれば、
また、法律上違法があったところを事実認定の問題にすり替えることにより、上告審で取り上げにくくしたのだとすれば、
到底許されないことだと思います。

なお、別の観点から、控訴審判決の裏の意図について述べたものとしてがあります。
 

判例時報2293号139頁以下(大阪高判平27年10月6日平成27年(う)第679号)に、
「確かに、残された自由の範囲が過少であることは、承諾の真意性を否定する一つの重要な判断要素となろう。」との記載があります。

一見すると、また、タイトルの文言も加味すると、罪となるべき事実における客観的な拘束状況のことをもって、拘束度合いが強かったことを意味するようにも読めるのですが、そうではないようです。
その少し前の記述に「本判決は、・・・Aが合鍵を持っていたとしても、Aには被害者ら(ママ)への発覚を恐れながらのわずかな自由しかなかったこと、すなわち自由の侵害が重大であったことを理由に、そのような拘束についてAが真意で同意したとは認められないと結論付けた。」とあることからして、
 「残された自由の範囲が過少であること」とは、
Aが合鍵を使って鎖を解いた後に自由度が少なかったことを意味するようで、
つまり、罪となるべき事実、つまり、監禁の実効行為の際の客観的な拘束状況ではなく、
合鍵を使って拘束が解けた後にも不自由がまっている、それは真意性(真摯性)を否定するような重要な判断要素となる、と言っているようです。

監禁時の客観的な拘束状況が真意性(真摯性)を否定する判断要素になるのは、容易に理解できます。
鎖で柱に縛られることは、普通は承諾に納得していないだろうということでしょう。
しかし、本件では合鍵を隠し持っていて、現に両親の外出後、鎖を解くことがわかっている状態で承諾したのですから、
監禁時の客観的な拘束状況それだけでは、真意性(真摯性)を否定するに足りるような要素では到底ありません。
合鍵を持ち、間もなく拘束が解かれることを知って承諾している以上、承諾するのは、ある意味当然であり、承諾することに何ら障害はないからです。
だからこそ、第一審判決は総合考慮に持ち込んだのであろうし、
控訴審判決は、簡易トイレに便があったからトイレにまともに行けないほどの畏怖があったとAの意思の推認を試みたのでしょう(これが無理のある推認であることは)でも述べたとおりです。)。

しかし、解説の言っていることは、上記のような罪となるべき事実の客観的な拘束状況のことではなく、
前述のように、拘束が解けたその後にも不自由が待っているということであって、それが真意性(真摯性)を否定する判断要素になるという意味だととしか読めません。

ところが、 拘束が解けたその後にも不自由が待っていることが、そう簡単に真意性(真摯性)を否定する判断要素となると断言できるような、自明なことではないと思います。

本件事件の罪となるべき事実は、両親が外出するまでの拘束です。
両親が外出するまでの拘束に対する承諾意思の程度が問題となっているのに、
なぜ、その拘束が終わった後の自由度の少なさが、拘束が終わる前の拘束の真意性(真摯性)を否定する判断要素となるのでしょうか。
拘束は短時間が終わるのです、それをわかって承諾しているのです。
その後に仮に不自由が待っていたとしても、不自由の前の短時間で終わる拘束については、積極的に承諾することはいくらでもあるのではないでしょうか。
いや、そうではなく、後の不自由まで全部ひっくるめての承諾を問題にしているのだ、と言うかもしれませんが、果たしてそれは、罪となるべき事実が両親の外出後まもなくまでの拘束としたことと両立する考え方なのか疑問です。
Aが承諾したのは、合鍵を持っていたからこそです。にもかかわらず、合鍵を使って拘束を解いた後の不自由をもって、承諾が真摯ではないとされるのは、全く納得できません。

これは前述の解説の混乱(判示とのズレ)と同根の問題だと思われます()。

結局、でも述べたような、
本件控訴審判決は「客観的な拘束状況」から承諾の真意性(真摯性)を認定したのではなく、
拘束終了後の事情から、承諾意思の程度を直接推認したとの考え方からすると、
解説の言うような「残された自由の範囲が過少であること」が、「承諾の真意性を否定する一つの重要な判断要素」になるという指摘は、不正確であり、
単に、本件では、拘束終了後のAの行動から承諾意思の程度を推認したことが指摘できるに留まると思われます。

もちろん、その推認が適切な推認かどうかは別問題です。
さらに、承諾が真摯でなければ、承諾は有効にならない、という判断基準が正しいかも別問題です。

 

判例時報2293号(大阪高判平27年10月6日平成27年(う)第679号)の解説は、
「虐待が常態化しているときに、被害者の慣れや諦めが、その承諾の真意性や意思の抑圧(強制)にどのように影響をあたえるのかはなお十分な議論のないところである。」
と指摘します。

その指摘する内容自体は一般論としてもっともなのですが、
本件に対する問題意識としては、的外れであることは、既に述べた通りです()。

もっとも、仮に、解説者の想像する様な、本件では存在しない常態化している虐待が存在したと仮定した場合、
拘束に対する承諾の効果への影響は果たしてどう考えることになるのか、
という問題は、思考実験としては考えてみる価値はあると思います。

結論からいえば、
従来の承諾の任意性に対する考え方や、
承諾の意思的要素は認容で足り意欲は不要という通説的な考え方によれば、
本件でたとえ常態化している虐待があったとしても、それ以外の条件が全て本件と同じならば、やはり、承諾は有効とせざるを得ない可能性が高いと思われます。
監禁に向けられた意思の制圧行為が何も無く、かつ、結果を認容した承諾があれば、それは有効な承諾とならざるを得ない、
たとえ以前に虐待があっても、目の前の法益侵害を被害者が認容している以上、法益侵害はないと考えざるを得ない、
そうだとすれば、法益侵害不可欠の原則からして、有罪にはできないとならざるを得ない。

さもないと、常態化している虐待さえあれば、日常生活のありとあらゆる行為について強要していることになりかねず、明らかにおかしいことになりかねません。

それを不当という感覚は、当罰的な常態化している虐待が罰せられない場合に感じるものでしょうが、それは当罰的な常態化している虐待についての犯罪成立によって解消されるべき問題です。
逆に言えば、常態化している虐待があるのに無罪とするのは不当だから有罪とすべきというのは、起訴されていない事実を根拠に有罪とするものに等しいものであり、明らかに誤った考え方です。

もっとも、虐待が常態化している状態であれば、通常は監禁行為に向けられた何らかしらの意思を制圧する行為が行われることが多いでしょうから、それにより任意性がないと判断されることはあり得ます。
この拘束だけは意思の制圧行為は何もなかった、というのは希なことかもしれません。


一方、通説的考えではなく、
本件控訴審判決のように、承諾が真摯でなければ法益侵害があると考えれば話しは別で、容易に有罪にできます。
むしろ、常習的な虐待を受けていようがいまいがすら関係ありません。
本人が内心で嫌だと思っていれば、真摯な承諾ではないから有罪、とできるのですから、簡単です。
解説は、「なお十分な議論のないところである。」と言いますが、本件控訴審判決は、議論のないところを一足飛びに解決策を示したことになります。
しかし、控訴審判決のような考え方は、ほとんど誰も賛同しない異端説です()。
社会生活上到底受け入れられない考え方であることは、複数の学者が指摘しているところで
)、
本件控訴審判決が示した「承諾には真摯さが必要」という基準を一般化することは不可能でしょう。


話を本件控訴審判決から、通説的な考えに戻します。
従来の任意性についての考え方や、承諾には認容があれば足りるという考え方をとったとしても、
常態化している虐待があれば、意思の制圧行為のハードルが下がる、つまり、強度の制圧行為ではなくても反抗抑圧が起こりうるという制圧行為の認定評価により有罪となる可能性はあります(これで引っかかる場合が多いであろうと予測されるのは、前述のとおりです。)。
あるいは、仮に長時間の監禁の承諾ならば、そんな長時間の拘束について利害得失を判断して承諾する能力はないという評価で、あるいは、そんな長時間の拘束は認容していなかったという承諾意思の解釈により有罪となる可能性もあると思われます。



ところが、本件のように、意思を制圧する行為は何もなく、合鍵を使ってすぐに自由になることができる程度の短時間の拘束の承諾の場合は、たとえ以前に常態化している虐待があったとしても、監禁の結果自体については、承諾能力があるし、結果への認容はあると考えざるを得ない以上、監禁罪には問えないことにならざるを得ないと思われます。

もし、過去に虐待をした上で、かつ、鎖でくくったにもかかわらず無罪となるのは正義に反する、社会的相当性を逸脱しており有罪というのならば、行為無価値一元論そのものであり、論外です。



以上のように、通説的な考え方や、原理原則を守った考え方に従えば、本件では常態化している虐待が存在したと仮定した場合にも無罪となるはずですから、
常態化している虐待の証拠がない本件では、結論をどうすべきであったかはいわずもがなです。


控訴審判決は、承諾が真摯でないから法益侵害があるという異端説を持ち出して有罪としました。

その背景に、常態化している虐待があったはずなのに無罪になるのはけしからんという判断が先行していたのならば、法益侵害不可欠の原則や、証拠裁判主義あるいは不告不理の原則を無視した判決である、しかもそれを一見もっともらしい(よく見るとおかしいことはすぐわかる)理屈で隠した判決だということになります。
 

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