ヨーロッパの古典建築を見れば、その様式や都市計画の求心性などから「共同体」として街全体をつくりあげるという思想が働いていたことは言うまでもありません。共同体、もしくは権力と言い換えてもいいかもしれません。

宗教建築では、一つのモニュメンタルな建築を作ることによって、それを崇拝するか、もしくは礼拝しに来るという中心的・求心的・共同体的な効果が期待されていました。

小さな村では、村役場や市庁舎などの公共的性格をもつ建物が、派手に作られたり、権威を表すものとして作られていた場所もあったでしょう。

では、今はどうか。市庁舎などの公共建築で、共同体を示すような建築が求められているでしょうか?コミュニティ、コミュニティと叫ばれている一方で、そのコミュニティを象徴するような意匠が求められているでしょうか?実際は、全く逆であるように思います。共同体を表現するために、ひとつの押しつけがましい意匠をつくろうとすれば、多くの人から反対がでることを恐れ、誰からも文句を受け付けないニュートラルな無表情の建築が公共建築には作られている場所が多いのが現状です。この状態は、特に日本で顕著な現象としてあらわれているように思います。 

良く言えば、透明性のある建物が求められて、誰にでも開かれていて、誰の属性にもなれる建築です。押しつけがましい表情をもっているわけでもなく、権威を象徴しているわけでもなく、フラットで透明な表情。

現在公共建築の設計にあたって、設計者を選ぶ場合でも、作品から選ぶコンペという形式よりも、先に設計者を選んでおく指名プロポーザルが好まれています。

これは、コンペによって自由な発想から生まれ、そのコンペという個別の問題に対して個別の秀逸な答えを出した作品を選ぶのではなく、もともと実績のある設計者を先に選び、ブランドを重視し、世の中での認知度を重視し、どういう結果になっても「有名だから」「ブランドがあるから」「選ぶ時点でどういうものが出来上がるかある程度わかる安心感があるから」「作る前から多くの意思決定者の間で結果を共有できるから」などの理由があるからです。つまり、公共建築などの多数の意思決定者がいる場所では、多くの人の了解と納得を得なければいけないために、特殊な個別解はもともと嫌われ、特殊解を出す場合にも、すでにブランドとして確定していて誰もが完成形を想像できるものでなければ、受け入れられないのです。

つまり、ブランドも何もない人によっては、無表情な中庸的な建築しか建てられないことになり、前衛的な建築を建てられるのはブランドを持った建築家たちだけ、それもブランドというイメージから逸脱することは許されないという固定的な仕組みが出来上がっているわけです。

しかし、これは現代社会において、昔のような権力者がいなくなった日本ではある意味当たり前のことのように思えるかもしれません。様々な関係者や利害関係者が含まれるひとつの物に対して、「全会一致」という日本の風潮に応えるためには、「中庸解かブランド」という選択肢しか残っていないのです。

しかし、ヨーロッパの市町村を見れば実際は、日本のような状態ではありません。市長は大きな権限を持つし、トップに立つ人がリーダーシップをとり、行動に移すことで、中庸解以外のものを採択することに成功している事例が多くあります。

このブログで、クリエイティブ資本論について連続投稿した時期がありましたが、これからの時代、中庸的な都市はいつか人気をなくし、駆逐されるときがくるでしょう。間をとって、間をとって、抜けた先にはいつも同じ物しかない所には、人は集まってこなくなってしまうように思います。

日本では、他と違うことや、全会一致でないことに対して、まだまだ根強い抵抗があるように思います。僕自身も、そういう面がないことは否定できません。しかし、その場所にしかない、その場所らしさを見つけることを恐れていては、そのうち暗い未来しか待っていないように思うのです。

独断的な方法でしか、その場所らしさを持つ建築を作ることができないとは思いません。むしろ、そのことに対して肯定的な人々を集めて意見を出し合うことで、予想以上のものが作られる可能性があるのではないでしょうか。

まずは、否定や非難されることを恐れないことから始めるべきなのかもしれませんね。そのためには、自分を肯定できる理論武装を、みんながいつも抱えていること、日本式のなぁなぁの教育から、根本的に見直す必要があるように思います。