1. ネイティブが言うことが絶対なのか?
相も変わらず、「日本人の英語はここが良くないからこうすればよい」と英語母語話者に言われるのを鵜呑みにする記事をよく見かけます。そのたびに心を痛めています。

先ほども以下のような記事を見かけました。

まず、「見苦しい」というのは日本語として奇妙に感じます。「聞き苦しい」のならまだわかります。

次に、maybeなどと言葉に詰まったからといって、「見苦しい」などと本当に英語母語話者は思うのでしょうか。思ったとしたら、それは「寛容さ」が足りないので、相手に問題があるのです。話者には問題はありません。

例えば、日本で外国の方が、「あの~~、う~~~ん」と会話が続かなかったら、日本人は「見苦しい」と思うでしょうか。多くの人はそう思わないと思うのです。
先日も近所のおせんべい屋さんで、外国人が一生懸命「Am......Am....オカネ」といいながらお金を出そうとしていると、その店主が「いくらかってことね。380円だよ」と紙に書いていました。それで「アリガトー」といって会話が立派に成り立っていました。こうしたことは日本では普通でしょう。

英語の専門家としてこのやり取り(interaction)をみると、このコミュニケーションは素晴らしいものです。相手の言葉を妨げず、パラフレーズし、万国共通の数字で示していたのですから。こういった姿勢こそ「真の国際人」に通じるのではないかとすら思います。英語ができるから「国際人」なのではありません。

2. 堂々と英語を話す姿勢が重要
ここで問題なのは「こういうと英語母語話者は「見苦しい」と思われる」からといって、日本人が委縮することです。堂々と話せばよいのです。委縮するとしたら、そこには言語的な優位性が存在するということも心にとどめておかなければなりません。つまり、英語という外国語を高く評価し、「外国人に自分が下手な英語で言ったら変に思われる」という否定的な意識をもっているからこそ、母語話者が「それは変だ」というとそれに従ってしまうようなことになるのではないでしょうか。

あらゆる言語や文化には優位性はありません。ゆえにもっと堂々と日本人が英語を使えるようになり、委縮しない姿勢を身に着けることこそ、日本人に求められる英語に対する姿勢であり、現代の日本の英語教育に求められていることではないかと考えております。そのためには英語教員の一人としても大いに尽力しなくてはならないわけですが。

もっともっと「日本人の英語でも通じるのだ」と肯定的な意見が気運としても高まると良いなと思っています。個人的には「日本人の英語でも世界で立派に通じる」と断言できます。海外に住んでいた時、日本の受験英語でも立派に世界各国の人とやりあい、尊敬を集めている日本人を多く目にしました。誰一人として、彼らの英語を馬鹿にする人などいませんでした。なぜなら彼らは「知的だった」からです。

3. 堂々話すには何が必要か?
ですから、もっと自信をもって英語で発言してほしいものです。ただ、そのためには語彙力であるとか、文法力とか、発音とか、最低限「通用性」のある英語の基礎はできなくてはなりません。そして言うまでもなく、内容も充実している必要があるのは言うまでもありません。

表面的なことを取り繕うような英語教育・英語学習の時代はもう終わりを告げなければならないのではないかと思っています。

皆様はどのようにお考えですか?
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