2015年05月25日

チャッピーを見てきた:ブロムカンプ論 (長文&スポイラー)

 チャッピーを見てきました。いやぁ、面白かったなぁ。やっぱり天才だよ、ブロムカンプ監督。

 ただまぁ、予想と違ってあんまり泣けなかった。むしろ、バイオレンス・アクションみたいな方向のエンタテイメントに振ってあって、お涙頂戴の話にはなってなかった。ハリウッド的ではないというか、その辺は監督がひねってきた所なのかなとも思うし、シナリオのまとまり具合から余分な尺は使えなかったかとも思う。

 とはいえ、ヒューマンドラマではなくても、アフリカやISILの少年兵を連想させる「無垢な者に対するインプリンティング」とか、コンピュータ上の自我とか、「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」的な、最新テクノロジーが使い方によって善にも悪にもなることみたいな現代社会のホットなトピックスを外連味たっぷりに盛り込んであるのはいつも通り。

 また、映像の美しさというか凄さもいつも通り。なんでだろうね、心に引っ掛かるCGだよなぁ、っていつも思う。ツルンとしていない。質感が凄くて美しいんだけど摩擦がある。

 ダイ・アントワードの二人の演技はまぁ、ラッパーであって俳優ではないし及第点でいいんじゃないか(特にニンジャはそれっぽかった・・・「テンション」ってカタカナで書いてあるジャージを除いては(笑))。本業のラップが存外に良くてビビった。劇中に挿入される歌はどれも素晴らしいし、音楽はハンス・ジマーだし音という面では文句ない。

 そんなわけで、以下ではキャメ論に続いてブロムカンプ監督について熱く語ろうと思うっす。残念ながら、ブロムカンプ論にはチャッピーのネタバレを盛大に含むので読む際には注意してください。



 ブロムカンプ監督は1979年、南アフリカで生まれた、ということは、1994年にマンデラ大統領によってアパルトヘイトが撤廃されるまでの15年間は国際社会からの厳しい批判にさらされていた国を祖国としていたわけだ。
 俺も、1985年にチャリティー・ソングのブームに乗って発表されたArtists United Against ApartheidのSunCityという曲が大好きだったし(今でもチャリティー・ソングの中では一番好きだ)、当時の雰囲気は何となく覚えている。

 南アフリカは白人による不正義が横行していてヒーローであるマンデラ大統領に救われた、みたいな世界観を世界中の人が持っていたと思う(それは単純化されているけど、妥当ではあった)。

 南アフリカで白人として生まれたという事は、つまり、ブロムカンプ監督は生まれた時には世界の中で悪役だった、ということだ。
 どうだろう?1985年、6歳だったブロムカンプ監督がSun Cityを聞いたかどうかは知らないけれど6歳の時には世界中の人から「差別してる人」って歌われるコミュニティの一員だった。バカバカしいことだけど、6歳の子供なんて差別という言葉すら知らないワケで、普通と思っている生活を普通に送っていただけだろうと思う。
 1994年、14-15歳の時にアパルトヘイトが撤廃されて、その後18歳までは南アフリカで暮らしたらしいけど、その頃はどんな気持ちだっただろうか??自分は好むと好まざるとに関わらず差別に加担していた側の人間で、世界中から非難される側の人間で、今まで当たり前だと思っていたけれど制度が撤廃されてみるとやっぱり差別はあったみたいで。。。

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 ブロムカンプの映画に通底するのは、こんな経験なんじゃないかと思う。一言でいうと、差別というものに対する現場観というか、「差別に対する批判と、差別する人間に対する理解(共感)」である。「差別は悪いって、いうほど簡単なもんじゃねぇンだよ!誰の心の中にも差別的な気持ちがあるとか、きれいごとじゃねぇンだよ!」みたいな。

 差別に対する批判は厳然としてある。どの作品を見ても、人間−エイリアン間(第9地区)にしろ、貧乏人−金持ち間(エリジウム)にしろ、人間−AI間(チャッピー)にしろ、差別や格差というものに対する純然たる批判は歴然だ。批判どころか怒ってると言ってもよいレベル。

 しかし、(習慣とか制度としての)差別は悪いことであるという理念とは別に、それとは独立して、現場で差別を行っている人間への理解は存在しうる。ありがたい神や仏の教えを守って神仏に対する責任感を持って生きる宗教という理念に対する理解と、現場で宗教を実践している人間への理解が別であるように。

 そんなわけで、ブロムカンプ監督の映画はどれも格差を扱いつつも、差別する側の人間に対する描写が格別なんだよね。第9地区ではまさに差別する側の人間を主人公に置いて、こいつがどうしようもない小市民で出世と保身のために自分より弱い奴を小突き回すような男なんだけど、所々に「でも、エビだぜ?キモくね?」みたいな。「ちょっとしたきっかけがあればお前だってこのエイリアンを差別するんじゃね?」みたいな問いかけが次から次へとやってくる。で、立場が逆転してきて、主人公が小突き回され始めると実にスカッとするんだけど、同時に主人公の中にある人間らしさというか、自分と同じ部分が見えてくる。やっぱり家族が大事なんだなとか、人間であることに誇りと希望を持っているんだなとか。

 長くなってきたのでエリジウムは省くけど、差別する側にジョディ・フォスターを持ってきて自分の民に対する責任感が強い(強すぎる)女王を演じさせる。差別する側もきちんと描いているよね(ハリウッド映画にしては)。

 チャッピーが優れている所は悪役だらけって所でもあるんだけど(「何で人間はみんな嘘をつくんだ!」)、とりあえずわかりやすい悪役筆頭にヒュー・ジャックマンを据えた。まぁ、一番金をかけたね、差別する側に(いやまぁ、チャッピーのCGにも金かかってるんだろうけど、俳優のギャラで見ると一番はヒューでしょ)。
 で、また、いけ好かない男に仕立てたよなぁ、これ。シャツがインした弱い者いじめが得意な体育会系のわがまま男で狂信的で小狡くて、これもう、差別は悪であるという理念の表明みたいなキャラだよね。ヒューも一生懸命いい奴っぽさを消して頑張ってた。プロデューサーとしては無能だけど(ウルヴァリン・シリーズを見る限り)、役者としては色々挑戦してガッツあるよ。

 でも、実際にチャッピーは犯罪に利用されて警官のふりをして車を強奪したり、現金輸送車を襲って人を殺したりしているので、彼の言う「AIは危険」って主張が一面では正しいことが映画の中で証明されてしまっていたりする。このジレンマ!これぞまさにブロムカンプ節でしょうと思う。でも、彼の行動は彼の主張の正しさを吹き飛ばしてしまうくらい悪かったりする。ジレンマ!

 チャッピーがズバズバ人を殺す映像だけテレビで見たら、(AIは危険って決めつけるのは良くないと思いつつも)俺もヒューの意見に賛同するかもしれない。黒人とか外国人の犯罪のニュース見たり、黒人や外国人の居住地域の治安が悪かったりしたら(差別は悪いと思いつつも)移民を制限しようと考える人の気持ちみたいな。

 そんな風に考えると、チャッピーが何を許しているかに思い至る。チャッピーが許しているのは、自分を迫害する側の人間であり、悪い理念に染まって悪いことをした人間であり、、、それはやはり、自分と同じ人間なのだろう、と。

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 蛇足だけど、第9地区で主人公がエイリアンになったように、チャッピーでも人間がAIベースになったりする。まぁ、差別する側とされる側の完璧な理解という理念の問題なのかもしれないけど、これは差別階級でいることからの逃避というか、そーゆーのがあるのかなと思っちゃう。被差別階級に回った人が解放されてる感があるよね。何となく。



Posted by bijoux_iris at 02:38│Comments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote 映画や音楽 

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