本厄でも今年は違うぞ

皆さん、明けましておめでとうございます。

さて、一昨年のライブ納めは浅羽由紀さんでした。
そして、去年な初ライブはゆきママライブでした。さらに昨年2本目のライブ、大倉山記念館の振袖コンサートになる予定でした。

しかし、風邪のためダウン。これが前厄かと思ったものです。

今年は本厄。前と同じくゆきママライブで今年は始まりました。翌日には鶴見サルビアホールの、振袖コンサートが待っております。

が、今年は元気です。本厄を吹っ飛ばして鶴見サルビアホールのコンサートに行きます。

今日のゆきママライブ、オープニングアクトの浅羽由紀さんと「誇りを持っていきましょう」も合唱できましたし、松前の川合さんからサインも貰いました。

これで今年はバッチリです。

コンサートの前とに仕事の打ち合わせをして行きたいと思います。

その翌日は、雪の滋賀へ帰るど〜。

今年を振り返って

年末になって今年を振り返ってみました。
私のとっての今年は父が亡くなった年でした。

忘れないためにも思い出せるかぎり書いておこうと思います。

まず、3月末に救急車で運ばれました。
この時は母しかおらず、病院についてから近くに住む姉に連絡をしたそうです。
私はそのことを翌日知りました。
父に電話をしたときは、「黙っとけいうといたのに」という話をしていましたが、
話をしてくれないと困るという話をしていました。

そんななかで兄が帰省するということもあり、それに合わせて私も実家に戻りました。
さあ今日は東京に戻るという4月13日。
父は少ししんどいというので、私が起きたころまだ寝ていました。
ただ、やっと起き上がれるようになって、孫に「おはよう」を言ってトイレへ。
そのまま脳梗塞を起こしたのだろうと思います。
気づいた時には呂律が回らず、そのまま意識の無い状態へ。
以後6月24日に亡くなるまで意識が戻ることはありませんでした。。

ただ、幸せな死に方だった思います。
倒れる前日は近くに住む姉家族も集まって食事をしました。
普段、短期な父も思うところもあったのか、みんなに優しく振る舞っていました。
また、父の妹二人(私の叔母)とも一週間ほど前に祖母のふるさとなどを歩いて回って
ゆっくりと話しをしたそうです。

そして亡くなる最後の日、点滴を外して2時間ほどで息を引き取りました。
一般的には点滴を外すと少しずつ弱っていくのですが、その間に骸骨の様になるそうです。
もちろん二ヶ月以上、点滴のみだったので痩せてはいましたが、
骸骨のようになるようなこともなく良い顔をしていたと思うます。

ここからは、私が忘れないための覚書きです。。
倒れたその日、発見も早かったので、後遺症は残っても助かるだろうと思っていました。
倒れた当日、兄は京都へ、私は東京へ戻るつもりでしたが、当然そのまま滋賀へ残ることになります。
初日は母と兄が病院に付き添い私は自宅に戻りました。

翌日、精密検査を受けましたが、なかなか結果もでず、兄は一旦京都に戻ります。
その日は母が付き添いで泊まる予定をしていましたが、夜検査結果の話が聞きました。
思った以上に悪い状態で、意識が戻る可能性が低いこと、
2週間の治療の結果で、胃瘻や鼻注をしながら意識が戻る可能性だけで介護するか、
何もしないかを決めないけないこと告げられた。
さすがに、ショックを受けている母を一人病院に置いておくこともできず、その日は連れて帰りました。

そのあと人工呼吸器にしないといけないという話もでましたが、
まずは最初の治療が終わるまで、ただ考える時間になりました。

仮に、胃瘻をして意識のないまま介護をしたとして、
もうだめだという時、すべてを諦められるのか。
それは父に死んでもらおうという決断で、そのことに家族は耐えられるのか。
良い時に倒れた父にわざわざ苦痛を与えて良いのか。
母、姉、兄がこのときどのように考えていたかはわかりません。。

そんな間に今の会社の社長から中村仁一先生の本を紹介されました。
中村先生は医者の立場から現在に延命治療はせず自然死(餓死)をすることをら進めておられます。
私の中では餓死と言われると苦しんで死ぬようなイメージがありましたが
本を読んでいるとそうでもないようです。

治療から2週間が経って、結果は悪い方になりました。
主治医からは意識は戻る可能性は低いだろうと言われ、
今少し反応があるのも反射的なものだと言われました。

私の中ではこれ以上の延命をしない事に決めました。

ただ、ここからまだ延命の話も出てきます。
今となってはどのような話かはわかりません。
母親が看護士から胃瘻をして介護をしないといけないと聞いてきました。

私は最初に主治医から延命をしない方法もあると言われなが、
そんなことを言い、介護の道しかないのに家族を悩ませた病院に怒りをを覚えました。

ましてや、病院からの情報伝える人を絞ってほしいと言い、
姉に決めているのに、母に話をしたり叔母に話をしたりと、看護士だったり主治医だったりと
いい加減なことをしていることに嫌気がさしていました。

また母が参っていました
父には2人の妹がいることを書いていましたが、父は幼いころ母親を亡くしています。
その中で妹二人の面倒を見てきたこともあり、仲が良かったと思います。
だから、叔母2人も毎日のように世話に来ていました。
もちろん、悪気もないですし、何か言うわけでもないですが、小姑が毎日いることのストレスでも参っていました。

多分、母が父の介護を始めたら、すぐにダメになっていたと思います。
ただ、それでも病院は体調を見て胃瘻や鼻注をすることを考えています。
私はどうしても延命をしたくありませんでした。
私は病院には行かず、中村先生の本を何冊か読み、父が意思表示をしていない調べました。

最終的に父のPCの中から遺言を見つけました。
3月末に倒れ、4月1日に書いたものでした。
家族にそのことを伝えて、やっと延命を取りやめることになりました。
叔母には私から延命をやめることを伝えました。

最終的に法的には延命治療をしなくても大丈夫だったこともあり、
6月24日に点滴を外してもらいました。

最終日、父の世話をしてくれた介護士は私の同級生の女性でした。

葬式、四十九日が過ぎて9月になって何日か連続で父が夢に出てきます。
その時の父は病気を乗り越えて元気になっていました。
未だに、私が言い出したことが正しかったのかは迷います。

12月24日、クリスマスイブの日はライブに行っていましたが、ふとその日が父が亡くなって半年だと気付きました。
また、12月28日、コンサートに行ったアーティストから、今年どんな年だったかという話がありました。
ずっと父の死のことを考えていました。

せっかくなので、このことを書いておきます。

今夜もラポール、いやただの酔っ払いか。

今日は、神田つちのとにやって来ています。
瑠愛さんと阿部静華さんの歌を聴きに来ました。
ただ、今日も酔っ払いです。
つちのとは、楽しい居酒屋です。
もうこれでいいや。2014-12-02-19-49-04
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