2005年07月27日

28日ポイント2倍との事。
日付が変わったらオーダーの予定。

オムニバス/「nonohana」歌姫たちのソング・オブ・短歌

歌のタイトルと歌手
(1)セピア(川野夏美)
(2)今は今(イルカ)
(3)かるかやと(吉田鮎子)
(4)95歳(李政美)
(5)おかあさん(加藤いづみ)
(6)ナガスクジラ(イノトモ)
(7)Father’s Day(沢田聖子)
(8)ウキウキメロンタイム(イルカ)
(9)君はたからもの(吉田鮎子)
(10)晴香のマフラー(イノトモ)
(11)放課後の空(沢田聖子)
(12)リボン(加藤いづみ)
(13)ツーアウト(川野夏美)
(14)夕立ち(イノトモ)
(15)生きてあれば(吉田鮎子)
(16)ふるさとを偲びて(李政美)
(17)江刺りんご(ジャンティン)
(18)棟上式(川野夏美)
(19)僕の街(小林直)

あんべ光俊プロデュースで家族やふるさとをテーマに作られた短歌に
メロディーをつけたアルバム。
一番の目当ては李政美さんなんだけどね。
でもその他の参加アーティストも豪華な気がする。
31文字の短歌の詩も気になるしどんなメロディなんだろうとも思う。
解説は俵万智さんとの事。


(22:52)

2005年07月21日

永瀬清子さんという岡山県出身の女流詩人の本を購入。
朗読を聴いて惚れ込んでしまった。
永瀬清子詩集
永瀬清子詩集

永瀬清子
永瀬清子

(01:13)

2005年01月30日

こんな新聞記事が・・・。
===============
世界最古の稲作か、中国湖南省で1万2千年前の米粒【北京=佐伯聡士】
28日の新華社電によると、中国湖南省考古研究所の袁家栄所長は、昨年11月に同省道県の玉蟾岩遺跡から出土した炭化した米粒が1万2000年前に稲作栽培されていたころのものであると発表した。
 袁所長は「世界最古の稲作栽培の標本で、農業の起源を研究する上で重要な資料だ」と指摘している。
 米粒は地表から深さ約1メートル以上の地中に埋まっていた。米粒は全部で6粒発見されたが、うち5粒は年代が特定できず、1粒だけが1万2000年前のものとわかったという。
(2005/1/29/10:57 読売新聞 )
===============
すごいね。
たしか1万年ほど前に日照時間だか寒冷化だかの問題で人類にとっては食糧難の時代があったみたい。主流の学説では食糧難の時代は同時に人類の分布を広げる結果にもなったらしいんだよね。
つまり容易に食料を確保できる場所での生活がままならなくなったことで人類は場所を移動したり狩猟、漁撈、栽培、牧畜という新たなライフスタイルの確立したっていう事らしいんだよね。
ただ中国では現代人クロマニオン人一元説には懐疑的な考え方も存在していて極端な人は北京原人こそ中国人の起源だなんていう人までいるみたい。
でも1万2千年前の米ってどんなんだったろうね。
お土産で赤米や黒米買ったことあったけど黒米はもち米で、白米と一緒に炊くと赤飯色になったな。あの色はアントシアニンとのこと。
黒米で日本酒造ったらきっと健康マニアが敏感に反応するはず。
日本酒ってヘルシーさとは無縁のイメージが強いからね。

(17:51)

2005年01月26日

鳥越憲三郎さんという方の「古代朝鮮と倭族」という本を読んでいます。朝鮮半島の古代史というのはものすごく複雑なんですね。複雑なんですが、ちゃーんと記録に残ってある程度明瞭に分かっている。
なんでも古代朝鮮で初めて半島統一に近い国が出来たのは鳥越さんによれば紀元前1100年ほど前の事なんですね。
中国の朝廷には「太史令」という官職があって彼らは皇帝やら候に形としては仕えているんだけど、「天帝」というなにやら旧約聖書の神を思わせるような絶対者に対して責任を負うという意識を持っていたんですね。で何をしていたかと言うと歴史をありのまま記録することが彼らの仕事だったわけです。宮城谷昌光さんの「晏子」という小説にはこの太史令の自らの使命に対する凄まじさが描かれています。
候の位を宰相が簒奪して暴虐の限りを尽くす。史官はそれをありのまま記録する。簒奪者は史官に「記録を改ざんしろ」と命令するが史官は従わない。で怒った簒奪者に殺されてしまう。で代わりの史官が次の日出仕してきて同じ要求をするんだけど拒否されてこれも殺してしまう。こういう事を2,3回繰り返して簒奪者も呆れて「もう勝手にしろ」という事になるんです。
中国の歴史があれだけ不穏続きだったにもかかわらず比較的明瞭に残っているのはこうした数知れない史官たちのおかげなんですね。

話がそれました。
先般日本の稲作開始は紀元前10世紀くらいにまでさかのぼるのではないか。という事を示唆する遺物がちょこちょこ出てきているのですが、朝鮮半島で紀元前1100年ごろに国家があって稲作を行う人々だったのならば日本でも紀元前10世紀に稲作が始まっていても不思議ではありませんね。

再びそれます。
人類の古代史は民族異動の時代です。寒冷化が起こると民族がまるでドミノ倒しでも起こるように内陸から外に押し出されるんですね。
素朴な疑問なのですが、押し出された民族は例えば古代のインドやペルシャ、あるいは中国も侵入者に屈服するでしょう。あれってなんでなんでしょう。まあ中国はそうでもないですが、インドとペルシャは進入してきた民族が大きな顔をして支配層に納まっちゃったでしょ。
不思議ですね。
ついでにもうひとつの疑問
日本では縄文時代と言われる時代、弥生人に屈服していったという事になってますが、縄文が劣っている、古くて弥生が先進的って本当に言えるのかなと思うのです。こう一般的な歴史の定説でない事を空想始めるときりがないのですが、逆説的に言えば学生でないぼくたちは定説なんかに従う必要はないんですよね。

そんな事をつれづれ思ってます。

(00:33)

2005年01月22日

現在発見、解明されている日本についての記録は漢書地理史からです。
日本のルーツを辿るには本当は殷代あるいはそれ以上過去にまで遡って調べてみる必要があるのですが、とりあえずきりのいい所で新末後漢初から始める事にしました。
なかなかはかどりません。
随分歴史の勉強をしてなかったのでびっくりするくらい忘れています。
辞書を引きながら勉強しています。
記紀は中国の辛酉革命説という考え方がバックボーンにあると言われていますが、日本の政権交代はまる殷、周の時代までの「禅譲思想」そのものだと思っています。
日本の実質的な政権は天皇家から藤原北家→伊勢平家→清和源氏→豊臣(皇室落胤とでっち上げ)→徳川家(新田源氏の末流とでっち上げ)と移るのですが、天皇家自体は「犯さざるべきもの」として実のない権威は残したでしょう。
(それが明治になって当時流行の立憲君主制に無理に当てはめてそのまんま安心してあぐらをかいてふんぞり返ってしまったものだから後年ものすごい事になるのですが・・・。)
それは周が殷王室を形式的にですが臣下の礼をとり続けた事と重複してイメージされるのです。
日本は中国の古い流儀が澱のように残りましたし、一方で本家の中国と隣国は易姓革命的になって行きます。
歴史の授業では殷王朝が滅亡して周が建ったようにされていますが実際殷王朝は滅亡したのかと言うとそうではなく「宋」という国をもらってそれなりの崇敬は受けていたのです。
 国と言っても祭祀国家とも言えるもので、軍事でのし上がってきた周や覇王たちから見れば技術的に劣って抹香臭い国に見えたことだと思います。
やがて春秋・戦国時代に入り殷の末裔たちは徐々に東に追いやられています。
この殷系の集団があるいは日本に渡来してきたのかもしれません。
どうも記紀の時代までは帝の家は血統が変わっているフシが濃厚なのですが文章そのものは強引に皇統は維持されたように書かれています。
感覚的に殷の祭祀様式は古代日本のそれに類似する点も感じられます。
あくまで感覚的にですし実態はそんなに単純ではないはずですが今はそれ以上風呂敷を広げて考える能力が私にはありませんので・・・。

さて話を戻すと後漢が滅び「三国時代」に入ります。「三国」とは言ってもこれは動乱の最終段階の話で実際には多い時で25もの軍閥が中国各地に割拠し互いに争い牽制し離合集散を繰り返します。魏呉蜀の3列強に絞られ蜀が脱落し旧都洛陽が魏の支配地域として安定した段階で「魏志倭人伝」にあるように魏は邪馬台国からの使者を迎えます。
「漢書」地理誌、「後漢書」東夷伝読んでみたいです。

本日拾ったガセ(?)ネタ。
2002年ごろ北朝鮮から前方後円墳が見つかったとのニュースがありました。単純に考えて日本の墳墓には前方後円墳、円墳などがあるのですが、墳墓の造営形式の変遷を筋道をたてて納得できる説明はいまだにないんですよね。前方後円墳は現在のところ日本独自の形式だと言われていて「あれは方墳と円墳の合体作だ」なんて説明を聞かされました。本当にそうでしょうか。祭祀様式がそんなに簡単に合体するとは思えないのです。北朝鮮という国が考古学に興味がある国だともちょっと考えられませんし。
ただ情報が本当ならば興味深いな。と思います。
日本国内はもとより朝鮮半島、中国東北部の祭祀様式についていつか分類する機会があれば面白いな。と思っています。

勉強の資料は無料のインターネット百科事典の「ウィキペディア」を使わせてもらっています。お世話になっているので私もある1項目について2日がかりで執筆してみました。一旦文章を書くと更に広範囲の資料を元に詳細に書きたくなって・・・。閲覧する人が変な誤解を生じないよう結構神経を使いました。

体調が悪いです。ちょっと耐え難い状態になりつつあるため病院に行って検査してもらわないとダメですね。

(00:29)

2005年01月19日

日本人はどっから来たか?、という関心は昔からありましてね。
5,6年前にレポートを書いた事があります。
もちろんどこかに公開するようなものではないのですが、今回古事記を読んでそのレポートをもう一回読みたいな。と思ったのですが、散逸してしまってました。
前のパソコンからデータを移さずに処分してしまったのでしょう。
仕方がないので邪馬台国とも関係のある中国の漢から調べなおして、後漢、三国時代を読んでいるとき「おや?」と思いました。
以前も何度かこの時代は調べたはずだぞ・・・。
そうです。宮城谷昌光さんの「三国志」を読んだとき一度詳細に調べたんです。
やっぱりこの時もレポートを書いたはずです。
これは多分手書きでノートにしたためたはずです。
ノートそのものは処分していないと思うのですが、どこにあるのか分かりません。
以前から日本人のルーツには興味を持ち、いろいろ調べたのですが記紀には手をつけていませんでした。

何かを勉強しようとするときやっぱり原典あたりする事は大切だなぁと思います。
原典をあたっていればそこから何を調べなきゃならないか分かってきますからね。
今まで記紀に関する本は何冊も読んでいたのですが、原典そのものは難しいからと言う事で逃げてきたんです。
特に記紀に関する本は著者独自の解釈だとか仮説が濃厚に反映されていますし、それってなんだか自分自身の仮説がたてられない子供っぽい事のように思えるのです。
いい大人なんだし、ボクは歴史の勉強でご飯を食べてるわけじゃないから原典あたりして、自分でデータを集めて自分で仮説を建てるべきだなと思います。
ま、原典と言っても今回読んだのは現代訳なんですけどね。
なんとかして記紀の原典そのものに当たってみたいと思ってます。

(21:18)
記紀を読むとやっぱりどうしても「日本人はどっから来たの?」って疑問にぶち当たります。
でどうも日本人は多様なルーツを持っているぞと言われ始めていますし稲作の始まりは少なくともBC1000年くらいには遡れるかも知れないと言う事が遺物の発見に基づいて言われるようになってきています。やっぱり記紀の善用の解明は推測を裏付ける確たる証拠となる遺物の発掘が必須なのだとつくづく感じます。
また記紀の時代では現代人の国家観とはおよそかけ離れた感覚を全世界的に共有していたような気がします。
現代はそれこそ飛行機に乗ってしまえば1日あれば世界の大抵の場所に行けますが、あるいは古代人の方が世界を身近に感じていたかもしれないな。とさえ思います。
昔は日本史が好きだったのに随分知識を記憶の彼方にやってしまった自分がいることに気がつきます。
今は中学生レベルの初歩的な古代史を本を読み読み思い出しています。
記紀についてはまずは最有力の説を調べていきたいと思います。
伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)までの天上編ついて勉強してみようと思います。


(00:21)

2005年01月17日

記紀(古事記・日本書紀)に描かれるに温羅(うら)伝説を読むと桃太郎伝説を連想してしまいます。
で、桃太郎伝説を読み解けば温羅伝説の真実も読み解けていくのではないかと思ったのですが・・・。
桃太郎伝説の原型はどうも室町時代に成立したものらしいんですね。
一般に広まったのは江戸時代の事・・・。
なんか柳田国男と梅原猛がなんか書いてたような記憶がうっすらと・・・。
桃太郎伝説そのものは温羅伝説を読み解くヒントにはならなさそう。
ただ岡山以外の桃太郎伝説発祥の地と言われている土地の伝説には興味があるね。

温羅といえば温羅を討った吉備津彦を祭った吉備津神社、発掘調査はやってないのかな。

吉備津彦を祭った中山古墳(120m)が3世紀末、吉備最大の造山古墳(360m)は5世紀初頭の造成とされていて両者は1世紀の隔たりがある。
吉備を平定した征服者の墳墓の3倍の大きさの墳墓が1世紀後に築かれた。
その遺跡は当時の倭国の墳墓遺跡よりも規模は凌いでいる。
あるいは墳墓の大きさそのものを比較する事には意味がないのか?。

(18:30)

2005年01月16日

ケネディ暗殺の調査資料は2049年まで公開されないのだとか。
つまりケネディ暗殺(1963)をリアルタイムで知っている人間が確実にあの世の人になってから事実を公開するよって事だね。
実質的には。ま、それはいい。
1世代我慢すればいいのだから・・・。

かわって日本の宮内庁
指定を受けている遺跡は立ち入り禁止で発掘も許されない。
よって記紀という巨大なジグソーパズルの大事なピースが埋まらない。
皇室典範改正の論議が起こっている。
開かれた皇室、女帝大いに結構。
しかし皇室が保有しているその歴史の情報についても是非開かれて欲しいものだ。
あるいは秘密を持つことが威厳であると勘違い?
女帝擁立の可否にばっかり注目されて大切な事がほったらかしになってるような気がするね。
なんて宮内庁にクレームあげてみるテスト・・・。

(16:13)
岡山には日本で4番目に大きな古墳、造山古墳がある。
宮内庁指定を受けていない古墳としては最大の前方後円墳である。
この古墳が作られた時代は堺の百舌鳥古墳群は存在しなかったので当時としては最大の古墳だった。
百舌鳥古墳群が建設当時は海岸に面していたのだが造山古墳はどのような有様だったのだろう。
百舌鳥古墳群と建築様式は類似しているが若干原始的とも稚拙であるともいわれている。
また造成自体は元々あった丘陵を掘削盛土して作られたため百舌鳥古墳群の巨大古墳よりは造成コストは安かったかもしれない。
造山古墳が百舌鳥古墳群に先立って作られた必然性は分かっておらず被葬者すら分かっていない。
またこのような巨大古墳がなぜ造成できたのかもはっきりと分かっていない。
某大学の考古学研究室のサイトも訪問したが何の研究をしているのか分からなかった。
2ちゃんねるの考古学板の造山古墳スレッドを訪問してみたが同様。
記紀と吉備国の関連ははほとんど研究すらされていないらしい。

ボクは記紀は全くの虚構ではないと思っている。
事実のすり替えや、あえて触れないという事はあったとしても「そこになにか」があったということは事実だと思っている。
というより今のところ記紀の内容はヨタ話ですよ。
発掘調査の結果、記紀のこの記述は事実とこのように違いますよ。
と具体的に例証してくれる本に行き当たってないだけなんだけど・・・。


古事記には温羅(ウラ)伝説という話があって百済人が吉備で反乱を起こして「吉備津彦」という王子に鎮圧されたという伝説が残っている。
温羅は百済様式の要塞を築き倭国に反抗する。その要塞は現在の「鬼ノ城」とも言われるが真偽は不明。
「鬼ノ城」は天智天皇が白村江の戦いで新羅に大敗した後築かれた国家防衛のための拠点だったのだがあるいは温羅が築いた要塞を修復増強したものが「鬼ノ城」の本当の姿なのかもしれない。
現在は内陸の山中の城だが創建当時は吉備の穴海を監視するには好適地だったと思われる。
大宰府には水城が築かれ更に大宰府を囲むように城が築かれたとされているが吉備も「鬼ノ城」を中心として他にも砦が築かれたと思う。
「鬼ノ城」から見渡せるどこかの山頂に必ず天智天皇時代の砦遺跡があると私は思っている。

温羅の反乱は鎮圧され温羅自身は殺された。首は晒されたが死後も温羅のうめき声はやまなったので首を犬に食わせたがシャレコウベになっても13年間うめき声はやまなかった。
吉備津神社という延喜式に残る古い神社がある。
名前からして「吉備津彦」という古事記では第七代孝霊天皇の皇子・比古伊佐勢理比古命、日本書紀では日本書紀によれば、祭神・大吉備津彦命を祀る神社らしい事は分かるのだが吉備津神社には「鳴釜の神事」という儀式が行われている。
年に1度巨大な釜を火で焚いて釜から緩やかな音が鳴れば1年は平穏で激しい音が鳴れば不穏であるという占い神事。
記紀の記述に照らすとどうもこの神事は温羅を祀る慰霊行事のような気がしてならないし井沢元彦(実は梅原猛の焼き直し)はもっと突っ込んで吉備津神社と神社の奥の中山にある中山古墳(宮内庁指定)は実は温羅を祀ったものだとだと言っている。
たしかに吉備津神社から2kmほどの場所に「吉備津彦神社」という平安初期ごろに分祀された神社がある。距離的に近接し一本道でつながっている場所になぜわざわざ分祀する必要があったのか意図が現在ではまったく不明。
何か政治的な匂いがする、プンプンと。
倭国は各地の潜在的に反抗的奴勢力の力の削ぎ落としに躍起になったはずだが吉備国にも相当てこずったのではないか。
吉備国出身の帝の婦人になった人は何人も出ているが吉備出身の妃からは記紀からは一人の帝も出ていない。
中山古墳が3世紀後半から4世紀前半にかけて作られ造山古墳は5世紀前半に作られた。
一旦吉備津彦尊に平定され吉備津彦自体は土着したが、子孫が地元豪族の後援を受けて再び独立色を強めていったのではないか。
造山古墳が築かれた頃前後が再び吉備が結束を強めた時期でこの後分裂していく。
現在の赤磐郡山陽町に拠点を構えるグループと浅口郡山手村に拠点を構えるグループである。
備中側には作山古墳が築かれやや後に両宮山古墳が築かれる。
中小豪族は倭に接近する。
和気清麻呂という弓削道鏡の陰謀を暴いた奈良時代の官僚はこの時代に倭国側に接近した豪族の末裔だと思われる。
徐々に吉備国は弱体化した。
吉備真備は元は「道口」という吉備国首長の縁の姓を名乗っている。
吉備真備は吉備国首長の末裔で吉備津彦あるいは温羅とつながりのある人物だったのかもしれない。

参考にしたサイト(ありがとうございます)
吉備津神社
http://www.genbu.net/data/bicchuu/kibitu_title.htm
吉備津彦神社
http://www.genbu.net/data/bizen/kibituhiko_title.htm
吉備中山古墳
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/kibi/nakay2.htm
造山古墳
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/kibiji/tukuri.htm

(13:55)
隣人が昨年末に引っ越した。
家を建て替えて隠居屋敷でも建てたのかと思ったら児島に跡継ぎのない農家を田畑ごと一切合財買い取って「移住」したとの事。
実はこの売買の交渉は10年以上も前に成立していて、猶予期間として10年となっており年末の引越しとなったわけだ。
田んぼの固定資産税は一反2,000円。
非常に優遇されている。
当地は桃山時代の干拓地で先に入植したものが庄屋(大地主)になり後から入植したものが小作になった。
栄枯盛衰は世の常で庄屋階級が没落し田んぼを小作に売るというようなことがあって田んぼはこま切れ、とび地になっている。
農業機械をとび地とび地に移動させることも一苦労だ。
さらに住宅化・農家の高齢化と田んぼの売却傾向。
当地で農業を続けることは先行き明るくないのである。

児島は古事記にも出てくる伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)が生んだとされる島。
戦国時代後期宇喜多氏の覇権が安定して以来干拓が進み江戸時代初期には本土と地続きになった。
「吉備の穴海」と呼ばれた穏やかな海は現在見渡す限りの農地になっており広域農道・下水処理施設も整備されていて農業には好適地と言える。
ボクも児島に移りたいし多分移るのではないかな。

(13:15)
李政美ブログで日本酒の話を書いたのでヨタ話をこちらに書きます。
日本酒って複雑な工程を経てできるお酒なんですよ。

米を蒸す
 ↓
麹かびでデンプンを糖化
 ↓
乳酸菌を繁殖させバクテリア類を殺菌 ※
 ↓
酵母によりアルコール発酵

※最近は「山廃」(やまばい)を除くと乳酸菌を繁殖させる工程を市販の乳酸を添加することで省いてます。
ワインの造り方は以下のとおり

ぶどうの果汁を抽出
 ↓
酵母によりアルコール発酵

ワインと比較すると日本酒造りの工程が複雑だということがよく分かりますね。
これだけ複雑な工程を経ているということはそれだけ多様なお酒造りが可能なはずなのですが、国民性なのでしょうか。あまり多様な味・香りのバリエーションがありませんでした。
最近はバリエーションも増えてきましたね。
精米率を高め低温発酵させた吟醸、大吟醸は定番ですし長期貯蔵させた古酒も盛んになってきましたし敢えて精米率を低くしたお酒も出てきています。
「地産地消」という言葉がありますが、ボクは地酒にこだわりたいなと思います。
醸造元を見に行けますからね。
できれば杜氏ご本人にも会いたいのですがそこまではなかなか・・・ですけど。
自分で飲んでみて「これは美味い」と思えるようなものを飲み続けたいし人にも勧めたいですね。
「純米大吟醸」でもひどいお酒もありますから・・・。その逆もあるんですけどね。

ボクのお勧めの蔵元、利守酒造
http://www.sakehitosuji.co.jp/index1.html
日本酒のウンチク
http://www.rakuten.ne.jp/gold/sakezo/bunka/bun1.html


(06:17)

2005年01月13日

 中国遼寧省の1億2800万〜1億3900万年前の地層から、小型恐竜の子を食べたとみられる原始的な哺乳(ほにゅう)類の化石が初めて発見された。それに近い仲間の哺乳類で、大きさが犬ほどもある新種の化石も見つかった。中国科学院や米自然史博物館などの研究チームが13日付の英科学誌ネイチャーに発表した。
 哺乳類は約2億2000万年前、恐竜とほぼ同時期に出現したが、恐竜が約6500万年前に絶滅するまでは、ネズミ程度と小さく、夜間に昆虫を食べていたと考えられていた。今回の発見でひ弱なイメージが覆され、原始的な段階から肉食で、小型恐竜と争う強い種類がいたことが分かった。 
(時事通信) - 1月13日7時1分更新

(01:00)

2005年01月12日

 1be3f1c9.swf
他愛のない空想を面白半分に書きました。あんまり本気にしないでください。まだ古事記を読むばかりで遺跡や学説を参照してません。
あくまで空想を楽しむって現状ですので。

高島宮はどこにあったのか
古事記には8年日本書紀には3年神武が滞在されたとされる「吉備の高島宮」はどこにあったのか?
岡山県だけでも笠岡高島説、岡山市高島説、同宮浦説があり広島県東部説と大きく言えばこの4説がある。
皇紀2600年(昭和15年)文部省により児島郡甲浦村大字宮浦字高島が指定され「一応」結論している。
ただこれは皇紀2600年に合わせて高島宮公認運動(要するに町おこし)が各地で起こって険悪なムードになったためで正式な調査を経た上の結論ではなく”仲裁”だったようだ。
このため高島宮はどこだったのか今だに結論を見ていない。
記紀では「8」という数字が多く出てくる。「7,8」という数字は記紀執筆当時「聖なる数字」とされた。したがって高島宮に8年滞在というのは厳密に8年なのではなく、長い期間滞在したと考えるのが無難だと思う。
いずれの高島宮も神武の時代は海と縁のある土地だった。

神武はどんな部族の人だったのだろう。九州日向国から安芸→吉備に至るルートに該当する諸勢力を武力鎮圧しながら移動したとはちょっと考えにくい。鎮圧したなら統治する必要があるから。鎮圧より統治の方がはるかに困難だろうし東に東に移動する神武は統治のために一体誰を残したのだろう。そもそも一時的に武力鎮圧する事に何のメリットもない。東征ルートを一旦武力鎮圧したとしても隙を見て反乱を起こす部族も当然考えられるし、東征ルートが反乱により分断されえれば兵站路が失われ神武一行はたちどころに干上がってしまう。東征は2年や3年で完結したのではなく当時の寿命からすれば2,3世代かかった事業なのだ。古事記の神武東征はそうした困難が感じられない。神武は東征に海路を使った。
神武は海洋航海民だったのではないか?。九州、高知は日本でもひと際南方のインドネシア、ベトナム、カンボジアの文化的類似点が多い地域だと言われている。実は記紀の創世神話の多くがこれらの地域の創世神話と酷似しているのだがこの点はまた別途。
神武一行は海洋航海民と弥生人(渡来系)の混血部族が神武一党だったように思えるのだ。
混血民族が存在していた例として出雲臣族が挙げられる。彼らは弥生人(渡来系)と縄文人の混血である可能性が高い。出雲大社などは中国の殷の祭祀様式に似ているけれども縄文の磐座とか太陽信仰のようでもあり、独自の色彩がある。渡来してきた弥生人が数百年で独自の祭祀様式を確立するとは考えにくい。やっぱり折衷と考えるのがいいとおもう。
最初の弥生人、つまり渡来人は大陸での居住を犯されて逃げてきた人々。一方で当時の日本の縄文人と呼ばれた民も決して食料が豊富だったとは思えない。一部の縄文系の人々は初期や弥生人と同化した人々もいたはずでここで折衷の祭祀様式が生まれたのではないか。
もちろん高度農耕民である弥生人と縄文人の間での闘争はあったと思うし古事記には吉野で神武一行に従わなかった縄文系の王と兵士が神武にだまし討ちで虐殺されたりしている。弥生人が一旦農耕地として切り開いた土地は縄文人にとっては不毛の大地の他なく土地をめぐる互いの反目は確実に生じていたと思う。西日本地域では縄文系の人々は弥生系と同化する以外生き残る選択の余地は最終的に残されなかった。西日本は縄文系の人々が食料獲得するには不便な土地で一方木の国(吉野)、北陸、東北地方は農耕に不向きだった上縄文系の人々にとっては豊富な海産物という有利さが働き長く蝦夷の民として大和朝廷と反目する。梅原猛は東国武士は元々蝦夷の民だったとしているが私もその通りだと思う。
私は神武は本当に東征したのだろうか疑問に思っている。実際には「東征」(東に向かって征する)ではなく、「東遷」(東に拠点を移す)だったのではないかと私は想像する。
そして西日本で最後まで縄文文化が農耕に残った木の国(和歌山、吉野一体)にも強力な縄文系海洋航海民がいたのではないか?。
昨日、縄文海洋ネットワークについて書いた。このネットワークはボクはインドネシアなどもその領域とする広大な遠洋航海ネットワークだったと考えている。そしてこのネットワークは温暖化により重要拠点(港)が失われたため分断される。同時に気候変動により縄文人全体として食糧確保に深刻な問題が生じ、ネットワークとして一旦機能を失うが、木の国を中心とした近海航行ネットワークとして再編されたのではないかと。九州の拠点は弥生人の流入により混血する。気候の安定化とともに安定した食料調達の術を持つ弥生人が徐々に優勢になり物流の必要が高くなる。
当初は木の国ネットワークの一拠点だった日向の一部族が勢力を徐々に強め、より良い港を求めて東に遷る。
神武東征の西日本ルートを考えるとき、「村上水軍」とイメージがだぶる。
村上水軍と神武一行を重複して考える事はナンセンスなのだが、少なくとも神武一行が木の国入りするまでの期間はあまり土地に依存していなかったように思えるのだ。
想像をさらにたくましくすると神武はその最終目的地として浪速の港の奪取を目論んでいたのではないか。
しかし浪速の上陸戦ではコテンパンにやられ、神武は兄を失ってしまう。
そこで浪速の港を正面からではなく紀伊半島の反対側から攻略する戦略に転換しこれも山の荒ぶる神の抵抗にあってこれも頓挫する。
単純に考えれば「なら名古屋に行けば」とも思うのだが、紀伊半島に執着した理由は何なのか?。


現在「公認」とされる現在の岡山市宮浦は児島湖沿岸の地続きの土地であるが、神武当時は「児島」の北の沿岸に当たった。宮浦、笠岡、広島説は記紀の時代にはいづれも島であり岡山市高島説だけは当時本土側の沿岸地域だった。
いづれも海と縁のある土地であり、神武は海と縁のある部族だったと思うのが自然な気がする。
で、なんか八咫烏の案内で奈良に落ち着く前後で神武一行の性格が一変しているような気がするんだよね。ボクには。

高島宮について参考サイト
岡山市高島説はこちら
笠岡市高島説はこちら
沼隈郡説(現岡山市宮浦、玉野市との境界)はこちら

横道話
岡山には「吉備路」という旧街道がある。この街道沿いには吉備津神社、吉備津彦神社、大小の古墳、国分寺、磐座(巨石信仰の祭壇)の遺跡が目白押しである。ここにある遺跡のひとつに水攻めで有名な「備中高松城」がある。豊臣秀吉が総大将となり病没した竹中半兵衛に代わり黒田官兵衛が(如水)初めて参謀を務めた合戦である。秀吉は巨費をばら撒いて長大な堤防を築いたがどうしても足守川を塞き止められない。史伝では黒田官兵衛の献策により海に浮かんでいる大きな舟を何艘か一晩で備中高松城近くまで引っ張って行きこの舟に石を山積した上で船底の栓を抜いて一気に沈没させ流れが緩んだところに土砂を一気に投入するという奇策を実行したという。今海から30km近く離れた備中高松城まで舟を運べるかいな、しかも一晩で。と思ったのだけれど16世紀の海岸線地図を見ると海岸から高松城まで10kmも離れていないんだよね。そういえば「吉備津彦神社」の「津」は港の意味だね。ひょっとしたら古墳時代は吉備津神社周辺まで海だったのかもね。今はのどかな田園風景の吉備路も古代は吉備国の強さ、豊かさを精一杯アピールする土地だったんだろうね。

(06:22)

2005年01月11日

吉備国というのは今の岡山県に広島県東部を加えた備前、備中、備後、美作の4国を指しました。
早くから当時としては貴重な砂鉄を産出する土地でした。
私の知る限り出雲大社のような祭祀施設は持たず、磐座と呼ばれる縄文系の祭祀様式の遺跡が多い土地です。
記紀の時代には代々天皇家と姻戚関係がありました。(吉備族系の天皇は一人も出ませんでしたが。)
吉備国自体の最盛期は作山古墳という天皇家以外の古墳としては日本一大きな古墳が築かれた頃だと推定されています。
天皇家とは一応臣下の形をとっていたようですが、吉備国の強大さは無視できず天皇家も吉備国の懐柔には手を焼いたと思います。
出雲との敵対関係を煽って出雲と戦争させたり、吉備国の中小豪族を天皇方に引き込む一方で吉備国内の内紛を煽って吉備国を2分させたりです。分裂した吉備国の一方は備前を、もう一方は今の国分寺周辺に本拠を置いたようです。
遣唐使で有名な吉備真備は備中真備町出身の豪族で元の姓は「下道」といいます。吉備国の元の首長の家柄です。
吉備で有名な官僚にもう一人「和気清麻呂」がいます。弓削道鏡の専横を阻んだ人です。
この人は垂仁天皇の皇子鐸石別(ぬでしわけ)命の三世の孫弟彦(おとひこ)王が祖先で吉備の姪族出身の吉備真備に対して皇族出身の和気清麻呂、好対象ですね。
古事記には吉備族の首長の温羅と言う人が鬼ケ城付近に立て篭もって反乱を起こします。多分吉備真備のご先祖さんだと思います。
これを討ち取ったのが吉備津彦命で吉備津神社に祀られています。
以上メモ書きでした。

(22:03)

2005年01月09日

年末に古事記の現代訳を読んでからハマっています。
以下はメモ書き
のりの佃煮あてに酒飲みながら書いてます。
天国です。

神武はなぜ東征を急いだのだろう。記紀から逆算すると東征そのものは100年前後なんだろうけど。
いや、神武も九州で田んぼを耕す都市国家で安穏にしていれば平和だったろうに。ボクはそう考えてしまう。
ちょっととんでもない空想に走る。
「縄文人」という呼称はあまり好きではない。「縄文時代」の日本列島は、一種類の民族であったかのような誤解を招きやすい言葉だから。ボクが考える縄文時代とは原始的な都市国家が誕生し各都市国家間同士は主に海運を使ってネットワークが形成されていた。
理由は以下の通り
’帯地域にしか生息しない装飾用の貝殻が山内丸山遺跡から発掘されている。
香川県でしか産出しない石器用の「サヌカイト」が全国各地の遺跡から発掘されている。

各都市に住む住民も民族的なルーツにより風俗・習慣に違いがあったように思う。
理由は以下の通り
ヽ特呂瞭貶鍵篝廚鯣羈咾垢譴亳世Δ泙任發覆

海運ネットワークの盟主は西日本以南にあったと推測している。
理由は以下の通り
〆廼甓縄海底に巨石文明の遺跡と思われる遺構?が発見された。
ボクはあれは遺跡だと思うし瀬戸内海にもそうした遺跡はあると思う。近場では岡山県玉野市あたりに。
飛鳥時代には大和朝廷では中国の隋・唐にはなかった花崗岩を加工する技術があった。

地球的な環境変動により水没し、「縄文ネットワーク」も減衰した。
,海了代には全ユーラシア大陸規模で民族異動が起こっている。

地球の気候変動は都市間ネットワークの分断を生むと同時に深刻な食糧難を来たした。遺跡の発掘調査により縄文時代、最も日本列島に人口がピークに達したのは中期ごろだと考えられている。縄文時代後期、晩期になると発掘人骨を見ると度々飢餓による成長停止が見られ、土偶や炎をかたどったグロテスクな土器が急に増えている。絶え間ない社会不安があったように思う。あるいは都市国家間同士の争いも勃発したかもしれない。

弥生時代、つまり稲作と中国式の祭祀様式が日本に入ってきたのはこのころだった。最初の弥生人は中国、朝鮮の人々である。
私は注入民は中国古代王朝の殷様式の古い祭祀様式を持つ人々が日本に異動してきたと思っている。
彼らは集落単位等のある程度組織力を持った集団として日本にたどり着いたに違いない。
彼らが日本列島にもたらしたのは稲作と祭祀様式ばかりではなく「新しい病気」ももたらした。具体的には「新種の風邪」と「結核」である。
縄文後期になると縄文人の遺骨から結核が骨髄転移して歪曲したものの発掘が多くなる。大陸の病気に対して耐性のない縄文人にとっては大きな脅威だったと思う。
縄文人の一部は弥生式の農耕生活に同化した集団もあったと思う。出雲の大国主の部族や神武の部族も決して純潔な大陸人ではなく縄文系部族との混血民族であると思う。
[磴┐丱ぅ鵐匹両豺膕薪戮睫餌歌入があった。この場合古い民族神は新しい民族神の下に隷属する形になるが日本の場合例えば古代出雲大社は完全に縄文信仰と中国の天帝信仰との折衷だと思う。

ただ神武の場合は縄文人といっても海上生活部族との混血集団だったように推測する。
‥貔伝の異動はほとんど舟を使ったと考えるのが自然。

神武東征伝はいったい何のための旅だったのだろう(戦国時代の天下統一とはかなり意味と実態が違う)。そしてなぜ最終的に奈良を拠点にしたのだろう。
九州の邑(むら)でゆっくりしてれば神武も苦労しなかっただろうに・・・。ま、苦労して東に進まなければならなかったやむにやまれぬ理由があったはずなんだけど今は『大胆』な推測するしかない。(奇説)。
単純計算で100年といえば当時なら4世代ならかかる旅だったろう。これは果たして征服の旅だったのだろうか。その期間の長さから言って神武を将として軍隊だけ連れて行った旅だとは思えない。むしろ民族異動のような印象がある。

神武東征伝では神武は浪速(大阪)に上陸しようとして反抗され神武の兄を失っている。一旦和歌山に逃げた後、熊野(三重)から上陸しようとして八咫烏に導かれるが、山の神(縄文系)の反抗にあってまた逃げている。なぜ紀伊半島にこだわったのだろう。
自然に読めば神武一行は紀伊半島の縄文系をどうしても押さえ込まねばならなかった理由がある気がする。
大胆に推測すれば紀伊半島は気候変動後の縄文海洋ネットワークの新たな中心拠点になっていたのではないだろうか。
ゝ伊の漁師は近年まで有名だったよね。

同じ海洋運輸で生きていた神武一行と利害の衝突があった。よってどうしても紀伊の縄文系部族を抑制あるいは排除する必要が生じた。
と、考えれば複数世代のわたる紀伊半島への異動の理由も分かる気がするし、異動の際兵站線を維持する必要はなかったのかという疑問も解決する。一行の異民族へのアプローチは軍事的というより商業的なアプローチである事も納得できる。商人だったから自ら食料を調達するより他から買ってくる。そういうことではなかったのだろうか?。


(20:57)

2004年09月12日

9/10の南の空に怪しい光が見えた件、本日
9/12の地元新聞にようやく掲載。
画像はこんな感じ
記事
こんな明るい空が激しく明るさを変えていた
ました。
以下は2004/09/12山陽新聞社会欄「色鉛筆」
の全文抜粋
========================================
△・・・山火事、それとも何かの予兆か−。
十日夜、岡山、倉敷市など岡山県南の住民か
ら「南の空が赤く光っている」という問い合
わせが、岡山地方気象台などに相次いだ。岡
山市では午後八時ごろから約二時間半、南西
の空の雲がうっすらと赤色に染まって見えた
=写真。
▲・・・倉敷市消防極によると「水島コンビ
ナートのプラントの炎が上空で乱反射したの
が原因」。工場の定期点検の際、煙突から出
る炎が通常より大きくなる。四〜十四日の日
程で実施すると市消防局などに連絡が入って
いた。
△・・・同様の現象は一九九九年にも発生。
岡山地方気象台は「十日夜は雲が低く広が
り、乱反射した光の明るさがましたのでは」
と話す。折りしも米中枢同時テロから丸三年
の「9.11」前夜。目撃者からは「不気味
だ」「調査してほしい」という不安な声が上
がった。
========================================

工場側からは事前に届出はされていたものの
岡山県・倉敷市・地元のケーブルテレビ、い
ずれのサイトにも情報が事前に告示されてい
なかった。

まったくもう・・・。

(08:39)

2004年09月04日

こちらは涼しい秋らしい1日です。
気温は26℃。雲がかかってるのが珠にキズですが。
予報では明日は雨のようです。
ボクは秋の抜けるような青空に巻雲がかかっているのを眺めるのが好きです。「BIN」というハンドルネームも「旻天」からとったものです。秋の空って意味です。
どうも週末は旻天は期待薄です。
今日はこれから酒津公園にでも行ってみようかな。

(14:48)

2004年09月01日

分散していた旧日記の一部をLivedoorのBLOGに移行。
非公開だったので、訳の分からない内容については御容赦を・・・。
意外と長い事続いているので自分でもびっくりした。

フォントサイズが自由に設定変更できないようです。
見づらい方はキーボードの「Ctrl」+マウスのホイールボタンでフォント調節できます。
不自由おかけしますがよろしくお願いいたします。

(03:09)

2004年08月31日

午前から新幹線が止まり、広島支店は早々に陥落(全員帰宅)。
その頃僕ら特攻野郎岡山チームは、窓から街を覗きつつ「なんだぁ風も吹かんし、雨も降ってないなぁ。ところで昼飯何にする?」と余裕をかましていました。
お昼は生まれて初めて「そばめし」食べました。
いままで「そばめしぃ?、焼きソバとメシなんて一緒に食えねぇよ」と頑なに口にする事を拒んでました。
だって、ソバと米って同じ炭水化物じゃないですか。
名古屋でヨコイのスパゲティおかずにメシを、大阪ではお好みおかずにメシを食べる事を頑なに拒んできたボクとしては絶対死守しなければならない一線でした。(ワケワカンネ)
初めて食べたソバメシはなんか正々堂々、ワイはジャンクフードじゃ、という感じでなかなか旨かったです。
食事を終えて店の外に出ると、ようやく台風を予感させるような湿っぽい風が吹いてきました。
お昼からは皆もう「帰ろう」モードです。
Yさんなど仕事なんてそっちのけでインターネットにかじりつき10分おきに「おっ、今○○県に暴風警報でた。」なんて虚しく響いています。
皆入れ替わりたち替わり窓辺で外の様子を伺っています。
Yさんの「岐阜にも警報出てる」という言葉にボクらも「ちょっとやばいかなぁ。」と思いました。
心配になって女の子が本社に電話しています。3時頃の事です
「名古屋から西はココ以外は全員帰ったらしいですよ。」
その言葉を聞いたF君が「あらもぉ〜、あらもぉ〜」と言ってます。
どうも「アラモ砦」とかけているようです。
ボクラはそんな気高くも自己犠牲の精神を代表もしてません。
ただ高速道路が止まっても新幹線が止まってもまるで他人事のように「お〜すげぇなぁ、大変だなぁ。」なんて完全他人事モードのニシちゃんが「帰宅命令」を出さないだけなんです。
みんなに絶えず台風情報を提供してくれるYさんも「今日はきっと飲み屋街空いてますよ、みんなで飲みに行きましょうか」などと完全にアサッテの方向を突っ走っています。
結局激しく雨が窓に叩きつけるようになってようやくニシちゃん「あ、ヤバい」と思ったみたいです。
帰宅命令が出たのは午後5時25分、定時の5分前でした。
バスで帰るSさんは不機嫌そうな顔で傘を持ってそそくさと退社されましたが1分もしないうちに裏返った傘を片手にびしょびしょになって戻ってきました。
外を見るともうバスは1台も走っていません。そうこうするうちにJRも止まってしまいました。
という事でぎゅうぎゅう詰めの自動車でみんなを自宅まで送りました。
道中Yさん「あ、あの焼肉屋旨いらしいっすよ」などと順調にアサッテの方向を突き進んでいます。
道は普段の帰宅ラッシュを思えばかなり空いています。タクシーが目立ちました。
帰宅手段を断たれた方を乗せているのでしょう。お気の毒です。
皆を送り届けて1人山道を走ってるとき葉っぱが道路に転がってるなぁ、と思っていたら「ガツン」と音がして「あ、落石だったのね」唯一怖かった経験です。

まあ、失態を犯しながらもあまり人から恨まれない人なんです。ニシちゃんって。得だわ。

今回の台風16号は大潮の時期と重なりました。コップから水があふれるように瀬戸内海があふれて海岸近くの地域に被害がありました。お気の毒です。
このまますんなり秋をお迎えできればと思うのですが・・・。

(22:10)