今日は、朝から曇り空の天気。ときおり雪が舞う秋田市です。最低気温は、マイナス 2.9度と、結構冷え込みましたが、日中の最高気温は 6.1度と、お日さまがでていないわりには、気温が高かったようです。

下の写真は、昨日の夕暮れどきの様子です。低く立ちこめた雲がとても不気味に見えました。

20070309夕暮れの景色1 20070309夕暮れの景色2 20070309夕暮れの景色3

下の写真は、昨晩の晩ご飯です。左はすいぎょうざ、中央、これは、ばっぱが苦労して作ったれいのワカメの茎の料理。右は、トンブリとハンペンの青シソマヨネーズ和え。青シソの味と香りが絶妙。

20070309スイギョウザ 2007030ワカメの茎 20070309トンブリとハンペンの青シソマヨネーズ和え

下の写真、左は昨夜食べたウドとエリンギのキンピラです。右は、今日のお昼に食べた揚げモチの雑煮。中央は、北側で先日来の雪がまだ残っているラベンダーの苗。

20070309ウドとエリンギのキンピラ 20070310ラベンダーの苗 200703あげモチの雑煮

確定申告の資料を調べていました。昨年の東京や、仙台、大阪のセミナーで、30回近くも出張した事に改めてビックリしました。そんなとき、NHK のラジオから、今年 01月27日に放送されたラジオ深夜便の再放送が放送されていました。

旭川にある旭山動物園の小菅さんの「
いのちを伝える ということ」でした。

ある動物の生態を観察していて、一般的に理解されていた事柄が,実は、ほんの一面の事にしか過ぎず、今までの常識が覆される場面を経験され、動物を通じてことばでは現せない感情や知識を得てきたそうです。

また、生命を持った動物が命を全うするとき、動物から「
生きる事」の本当の意味を教わり、自分が関わった命と命の交流ができたかどうかを知る事ができたそうです。

動物の名前を忘れてしまいましたが、オスとメス、何事もなく四年間過ごしていたのに、子供が産まれなかったそうです。ところが、ある一瞬の間、いつ交尾したかも分からない一瞬に、次の世代の命を誕生させたのだそうです。

通常自然界では、この動物の場合、三年くらいで子供が離れて行くのだそうですが、その子供を別の動物園へ移したときから、メスはだんだん弱ってきて、起き上がれないくらいになりました。

そこで、オスと交尾をするチャンスが巡り、再び子供が誕生し、そのメスは考えられないくらいに元気になりました。そんな経験から、人間を含むすべての生物が何故生きているのか、という事を考えたとき、今の命を次の世代に引き継ぐ事なのではと思われたそうです。

その「
命を次の世代に引き継ぐ」という事への一番強い生物が動物なんだ、と感じたそうです。例えば、人間は、一人ではなかなか生きて行くとことは困難ですが、動物は、生きて行けるのだそうです。野生の暮らしの中で、常に異性を追い求め、一瞬のチャンスをとらえて、次の世代に命を引き継ぐ、ということをしてしまうのだそうです。

とても感銘を受けたのは、生きていればいつかチャンスが到来し、そのチャンスを待って生きている、という事です。この事が、40億年という長い長い歳月を経た今でも、こうして生物が生きていることにつながっています。

たった一回のチャンスで生命が誕生し、自分と同じ生命をはぐくんで、肉体は滅びて朽ちて行きます。でも、それがずっと続いているがゆえに「今生きている
」ということを、動物から教えてもらったというのです。

その中で、今の自分があるのは、親が必ずいて、常に 40億年前にさかのぼれるという「
命の源」を感じ取って、命は自分のものだけど、自分だけのものでもない、だから、かってに使っていいものではないということも教えてもらったとの事。

そんな命でも、生きていくためには、食べ物を食べないといけません。それは生き物の宿命で、生きるために死んだ命に犠牲になってもらい生かされています。ここに、大きな意味があって、命を与えてもらったことに感謝と責任を持たなければいけない、ということも話されていました。

生命を一秒でもおろそかにせず、肉体の中に入れておく事の大切さを理解すると、自らの命を絶つ事の愚かさ、また、してはいけない事なんだということがわかります。

そういう思いがあれば、自分だけではなく、相手の人にも同じ心で接することができる、ともお話されていました。しっかり次ぎの世代へ命のバトンタッチをしていくことが、この責任に対しての答えとなるような気がします。

そのような生きる事に、人間がいかに簡単に考えている事の多いことも、「
悟りの境地」にある動物を見ていて感じたそうです。動物には、何の迷いも、悩みもないのに、人間にはなかなかそうはいかないようです。

小菅さんが、動物の死ぬ現場におられるとき、「
俺に無断で死ぬなよ」と訴えかけます。いつもそう思いながら、生かすために精いっぱい治療していると、動物が「俺もうだめだよ」っていって死んでいってくれるそうです。

気を抜いていたとき、黙って死んでいった動物に対しては、「
約束したのに、何で黙って死んでしまったんだ」と腹が立つのだそうですが、その後に「何でそれに気がつかなかったのか」と思い、動物に「ごめんね」と声をかけるんだそうです。

こういった動物との死と立ち会っていると、ある日突然死を迎えたとき、肉体である命の入れ物が「
モノ」となっていることをとても実感できるそうです。人間であれば、あれもやってあげればよかった、生きている間にやり切れたのか、という後悔の念にかられるのが常。

悔やんでも意味がなく、生きている間にちゃんとやってあげたかどうか、また、しんどかったけど、死ぬまで辛いことはなく、結果がよければ、辛い想い出も忘れることができ、死ぬ瞬間に「
よかったね」といってもらえれば、それで報われる、というとても奥深くの感情も動物達が教えてくれたそうです。

現代に生きる人々は、知識だけを教えられている、ヴァーチャルな世界に生きている事を強く感じるそうです。そのため、動物が「
」となって、特に、子ども達に生きているという感覚や感情を「」で伝えられる環境を作り出したい、ということで、動物園の必要性を訴えかけておられます。

人間が人間になるためには鏡が必要で、その鏡としての動物から、ことばでは現せない「
感情や知識」を伝えていきたいとの事でした。このお話を聞いていて、ひまわりは、全身が身震いしてきました。

動物に限らず、植物療法にたずさわるものにとって「
植物は鏡」といってもいいのではないでしょうか。とても考えさせられるラジオ深夜便の再放送でした。