2008年04月

2008年04月24日

死刑と私刑

 あの判決を聞いてとても不愉快な気持ちになった。その気持ちはどこから来るのだろうと考えていると、それは今まさに「私」が犯行当時18歳だった少年の首を折って殺害しようとしている、という感覚から来るものであった。目は飛び出し、口からは血交じりの泡を吹き、下半身は糞尿にまみれる。そうした行為に自分が手を添えているという不快感である。読む人をも不快にさせるような描写をなぜわざわざするかというと、われわれがあまりにも国家というシステムを利用してなされる死刑というものの無頓着であるからだ。
 90年代以降年々死刑を行う国は減少し、いまとなっては死刑をおこなって国は、北朝鮮、中国、イラン、イラク、アフガニスタンなど限られた国である。死刑制度のある国としてアメリカも含まれるが、既に13州で廃止されている。昨年12月18日、国連総会でも「死刑執行停止決議」が104カ国の賛成多数で採択されている。今回の判決は、死刑を持ってするしかないような例外的な場合にのみ死刑を適用するというこれまでの考え方を180度転換し、特段の事情がない限り原則死刑とした。またしても国際社会から乖離していく日本の姿がある。
 また、この判決について、被告人の新証言の解釈などの問題を個別に指摘することもできる。しかし、じつは国際社会がどうであろうと、この個別事件がどうであろうと、私の不快感の源とは関係ない。
 これが一般に犯罪被害者による、文字通りの私刑(リンチ)であるのであれば、口を挟む余地はあまりないのかもしれない。しかしながら、これは国家を介在しての刑罰であって、主権者であり納税者でもある私は、間接的にでもこの少年の首の骨を折ろうとしているのである。
 死刑というのは「私」がする行為である。謝罪や反省というのは「彼」がする行為である。したがって、死刑(私がする行為)をもって罪を償う(彼がする行為)などということは、できない。代理することはできないのである。「掛け替えのない命」という言葉がある。失われた命が大切であればあるほど、金銭や相手の命などで置き換わることはない。水俣の緒方正人さんが補償交渉の場から降りてしまったのはそういう理由だ。所詮置き換わることのないものを求めるということは、憂さ晴らしでしかないからである。
 くしくもその日、19歳の少年が死刑になりたくてタクシー運転手を殺害した。土浦で8人を殺傷した事件も含め、死刑制度さえなければ起こりえなかった事件である。


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2008年04月20日

No Child Left Behind

堤未果さんの「ルポ 貧困大国アメリカ」を読んだ。今年の1月に上梓された本だ。その中でも詳しく述べられているが、アメリカには落ちこぼれゼロ法(No Child Left Behind Act)というのがある。要約すると「学力低下は国力の低下である。したがって全国一斉学力テストを義務化し、その結果に基づいて教師および学校を処遇する。」というもの(ん、どっかで聞いたような)。学力格差の縮小を達成した場合のへ報奨制度などを謳ってはいるものの、「学力テストの結果は州全体の成績のほか、各学校単位、(人種別などの)生徒集団単位で公表」するとある。各学校の成績がウェブでも簡単に入手できる法的根拠がここにある。こうした情報は、前のブログでも書いたように、不動産情報と結びつき、格差縮小どころか格差拡大の原動力となっている。
 恐ろしいのはココからである。この法律には、あまり知られていないが、「新兵勧誘のためにアメリカ軍の求めのあるときは、全米すべての高校はその生徒の氏名・住所・電話番号のリストを原則開示しなければならない」という条項がある。本来個人情報は原則不開示で、本人の許可のあるときのみ開示できるとするのが普通で、きわめて異常な条項である。こうして絡めとられるようにして入隊し、イラクに送られて命を落とした若者が一体どれぐらいいるのだろうか。格差社会の底で、暗闇のようにぽっかりと口をあけて待っているものがいる。No one was left behind me. それは後ろにいたはずの人々がすべてこの闇に飲まれてしまったからではないのか。
 当然日本の中教審でもしっかりとこれを参考にしている。やがて今年も、それを真似した「全国一斉学力テスト」が始まる・・・
 そもそも、落ちこぼれも吹きこぼれも、なにか枠に入れようとするからおきるのであって、枠さえなければ落ちることも吹きこぼれることもないんだけどなあ。
 堤さんの本には、このほかにも中流が下流に、下流が最下流へと落とされていく仕組みが、蟻地獄のようにアメリカ社会のいたるところに仕込まれていることをドキュメントしているので興味があればどうぞ。

biwako_strawbale at 00:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!抱懐 

2008年04月10日

アメリカン・ドリーム

 子供が春休みにサンフランシスコに短期留学してきた。ホームステイをしてきたのだが、どうもそのスティ先が超高級住宅街なので、気になって少し調べてみた。
 彼のいたところはLos Altosという町で、そこで売りに出ている不動産の平均価格は、Yahoo!の不動産サイトによれば 約1億9000万円(中央値)。
 このサイトの価格リストのすぐ隣に「周辺の小学校」というタブがあって、それをクリックするとなんとその地区の小学校の全国学力テストの成績が載っている。日本でも不動産広告には近くに小学校があるとか、ショッピングセンターがあるとか言う情報は載っているが、まさかテストの成績が載っているものはないだろう。
 で、その点数を見ると、全国平均が34点のところ、この地域の小学校の平均は88点。平均が34点ということは、例えば10点とか20点とかいう小学校も少なからずあるということだ。そう考えると88点という数字はものすごーく高い。
 実際、子供が現地の小学校に行ってみると、5年生で元素の周期表を覚え、代数を習っていたという。さらに気になって、その小学校を調べてみたら、どうやらその地区でもトップクラスである(こちらは別なサイト)。このサイトにはこの登録児童数395名の小学校の人種別の成績なども載っていて、空恐ろしい。さらに驚くべきは、親の教育水準についての記載もあって、この小学校では実に親の65%が大学院以上の教育を受けているらしい。断っておくが、公立小学校である。
 不動産のページに小学校の成績が載っているということは、つまり、お勉強のできる学校を目指して人が集まり、それが不動産価格を上昇させる。結果としてお金持ちだけが「よい」教育を受けることができ、その「よい」教育を受けた人だけが再びお金持ちとなって自分の子供に「よい」教育を受けさせることができるという格差の再生産システムがそこにできあがる。
 ちなみにこの小学校の近くにあるスタンフォード大学の授業料は年間約380万円。寮費なども含めると年間500万円ほどか。でもご安心あれ。年収10万ドル(約1000万円)未満の「低所得者(!)」世帯には授業料を全額免除してくれるらしい。
 かつては機会均等、アメリカン・ドリームといわれたこの国の実相は−そりゃ、いまでもそう人もいるだろうが、また逆にもっとシニカルに言えば多くの先住民や黒人にとってそもそもアメリカン・ドリームなんてものは過去にもなかったのかもしれないが−現実にはまず起こりえないという意味でのアメリカン・ドリームでしかないのかもしれない。銃による死者数が毎年1万人を超える、まさに戦場のような国の、光と影である。
 しかし、翻ってみれば自殺者が3万人を超えつづける日本の姿もさして変わらないし、自らもその格差拡大のシステムの中に知らず知らずのうちにも一定の立ち位置を得てしまっている。成績がよくても経済的理由で大学にいけない人がいる一方で(人を街中で襲うかどうかは別にして)、小学生にして短期留学に出してもらえる子供がいる。わずかな年金からさらに保険料を取られ、まともな生活もできない人もいれば、孫にブランド品の洋服をいくらでも買ってやることのできる人もいる。日本もまた戦場のようである。

biwako_strawbale at 18:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2008年04月08日

文殊の知恵

 週刊金曜日の3月28日号に「おかしいよこの予算」という投書が載っていた。
 要約すれば、 「イージス艦は1隻1400億円もし、わが国は6隻所有している。一方で、気象庁では7年に1回程度の海洋気象観測船の更新費用、10数億〜40億円が財務省に認めてもらえなかった。そもそも、かつて700億円だった気象庁予算は現在では570億円まで減らされている。また奈良県の大和北道路建設費はわずか12.4キロで3100億円かかる。これに対し、環境省の予算は全部あわせても年間2000億円である。」というような趣旨であった。
 ちなみに防衛費は約4兆8000億円、道路特定財源は国と地方を合わせて5兆円を超える。イージス艦や奈良県の道路などはそこから見ればわずかな金額でしかないのだろう。
 政府が環境対策などをやる気がまったくないということが、この予算配分を見ていてもよくわかる。道路を作る予算の10分の1でもあったらどれだけのことができるか。
 昨年、イギリスに行ったときに、向こうの専門家に、「日本ほど、風力、波力、地熱、すべてに適しているところはない」といわれた。海に囲まれ、火山も多い。
 火山が多いということは地震も多いということだが、活断層の上で原発を動かすのは自然の力に抗うおろかなこと。むしろ自然の猛威を逆手に、ちょっとその力をお借りして、発電させてもらうほうがはるかにかしこい。まさに文殊の知恵だ。それのほうが、「柔よく剛を制す」の国らしいとも思う。
 もんじゅの再稼動は10月の予定。ただし、ナトリウム漏れ検出器がいたるところで曲がっており、再点検をしなければならなくなったので、若干ずれ込むか。不幸中の幸いであるが、見方を変えれば、「まともに設計も施工もできない」ということである。前の事故についても「結局流体力学がまったくわかっていないからだ」と知り合いの物理学者が言っていた。
 もんじゅの反対運動については2003年に高裁で勝訴したものの、2005年の最高裁で逆転敗訴となって以来、いさかあきらめムードがあるかもしれない。しかし
ストップ・ザ・もんじゅのHPなどを読んで、もんじゅについて知れば知るほど、再稼動はなんとしても阻止しなければと思う。

biwako_strawbale at 00:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!