2009年06月

2009年06月30日

ついに・・・

 先日は、共同通信の元社長で岩波から「ジャーナリズムの思想」や「ジャーナリズムの可能性」などの本を出されている原寿雄氏の話を聞くことができた。明晰な論理展開にただただ驚嘆。
 しかし今年はそれで終わらない。またまた大物・森達也氏の講演会も実現しそう。詳しくは以下を参照のこと。


**** 告知 ***********

森達也氏による特別講義の一般公開
社会システム論特殊講義「現代のジャーナリズム」授業の一般公開について

7月13日の「社会システム論特殊講義(授業題目:現代のジャーナリズム)」は、
森達也氏(映画監督/ドキュメンタリー作家)の特別講義です。事前のお申し込みは不要です。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。


演 題:「メディアと向き合う」
 講演者:森達也氏
日 時:2009年7月13日(月)16:10〜17:40
会 場:滋賀大学彦根キャンパス 第2校舎棟3階 第24番講義室
*駐車スペースに限りがあるためできるだけ公共交通機関をご利用下さい。

【この授業に関するご質問】
滋賀大学経済学部サービス・イノベーション推進室
担当:牛澤・藤本  電話 0749-27-1348(直通)・FAX 0749-27-4570
E-mail:innovation@biwako.shiga-u.ac.jp へお願いします。

【講演者紹介】森達也(もり・たつや)氏
1956年5月広島県呉市生まれ。立教大学法学部入学後テレビ番組制作会社に入社。報道系、ドキュメンタリー系の番組を中心に40本以上の作品を手がける。
1998年オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画「A」を公開、各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。2001年、続編「A2」が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。
著書に『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『クォン・デ〜もう一人のラストエンペラー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『戦争の世紀を超えて』(講談社)、『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)、『ご臨終メディア』(集英社)、『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)「死刑論」(朝日出版社)など多数。(公式サイトより引用)


biwako_strawbale at 00:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2009年06月08日

ちょっと長いですが・・・

裁判員制度についてある弁護士さんがテレビで、「無罪か、有罪か、判別できないようなときはどうすればよいでしょう、というご質問をいただきますが、答えは簡単です。その時は『無罪』ということです。」と言っていた。極めて明快で正しい。

昔から指摘されることだが、弁護士さんの言う「無罪」とは罪を犯していないという意味ではなく、有罪とは認定できない、という意味だ。陪審員制度のもと陪審員が判断してするのは、「Guilty or not guilty」(有罪か、有罪ではないか)ということであって、罪を犯しているか犯していないかではない。 Not guilty の訳語に無罪(innocent)という言葉を当てはめるのは間違いであり、非有罪というべきだったのである。

「有罪とは認定できない」という中には、罪を犯していないケースと罪を実際は犯しているが証拠が不十分のために有罪とは認定できなかったケースが含まれる。統計学では、正しいものを間違っていると判定してしまう第一種の誤り、と間違っているものを正しいと判定してしまう第二種の誤りというものがある。法律の「推定無罪」(これもしっくりこない訳語である。まだ無罪推定あるいは無罪の推定といったほうが良いし、presumption of innocentの訳語なのでpreのニュアンスを出すなら無罪の仮定もしくは無罪の前提としたほうが良いと思う。)や「疑わしきは被告人の利益に」「疑わしきは罰せず」という考え方はいずれも、第二種の誤りを恐れるあまりに、第一種の誤りを犯してはならない、という近代刑法の考え方である。簡単にいえば「罪を犯したにもかかわらずのうのうとしている人がいるということを恐れるあまりに、罪を犯してもいない人を罰することがあってはならない」ということだ。

アメリカの陪審員制度では有罪とするためには全員一致の評決が求められる。もちろんこれでも第一種の誤りが生じることはあるが、全員一致とすることによって、極力それを減らすことができる。

これに対し日本の裁判員制度は、多数決である。半数近い人が「有罪とはできない」と疑いを持つような事件までが、有罪とされてしまう。一言でいえば「半分以上の人が(合理的に十分に)疑わしいと思ったら罰する」という恐ろしい制度である。

日本の裁判員制度は、市民感覚の裁判への反映や司法に対する国民の理解の増進などが目的とされており、欧米の陪審員制度が歴史的に本来もっていた権力の監視・抑制機能については、直接的明示的には目的とされていないようだ。権力が市民に対して不必要に厳罰を科すのを抑制するための制度であったはずであるが、昨今の日本の状況をみると、むしろその逆にこの裁判員制度が利用されそうである。

17年以上も、おそらくは文字通りの意味での「無罪」であったにもかかわらず投獄されていた方が最近釈放された。真犯人が依然として娑婆をうろついていることは許しがたいことであるが、同時に、この方のお父さんは息子がつかまったことの心労で亡くなり、またお母さんも釈放の知らせを聞くこともなく自らの息子が殺人犯とされたまま亡くなったことを思う時に、冤罪の残忍さもそれに比肩すべきものと思える。

裁判員制度が冤罪の大量生産装置とならないことを祈る。

biwako_strawbale at 11:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2009年06月01日

今日はこんな感じ

DSC00195s

 写真だけですみません。少し風はあるけれど、穏やかな良い日だった。


biwako_strawbale at 23:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!