2009年12月

2009年12月30日

ベストセラー

 週刊金曜日の今週号の表紙は大きく「1Q84」「1968」とかかれ、その間に「『ベストセラー』にだまされるな。」と大書きしてある。それを見た瞬間、「やられた」と思った。ここしばらく書きたかったことが書かれてしまった、と思ったのである。

 しかし、「1Q84」の書評の内容を見たら、大したものではなかったので、がっかりする反面、安心した(「1968」への反論を書いた田中美津さんの文章は痛快だった)。1本目の書評は書評とも言えない「苦々しい読後感しか残らないからダメである」といったものだし(苦々しい読後感を残そうと思って書いているならそれは成功した作品ではないか)、2本目は逆に「うんざりするけれど彼こそが状況を巧みに象徴化し組み入れることのできる唯一の作家であり、無視できない作家なのである」と持ち上げている。

 僕が提示したいのはそのどちらでもない。

 僕には天邪鬼なところがあって流行っているものは拒否したいとしばしば思う。大学に入ったころ、この作家の本がベストセラーとなったが読む気がしなかった。周りでは憧れて真似た作品を書く友人も何人かいたりしたので、パラパラと呼んでは見たものの食指は動かなかった。

 この思いは一体何だったのだろうかと、最近またその作家のベストセラーが出たのを契機にここのところずっと考えていたのである。

 そもそもこの作家の評価は、毀誉褒貶が相半ばする。内田樹も書いているように、日本の多くの批評家からは評価されないか、または無視されている。一方で、本はよく売れるということは一定の支持層がいるということだろう。海外では賞をもらうので、それほど評価は低くないのかもしれない(なんとなくタケシに似ている?)。

 内田樹は「村上文学の世界性について」(2006年5月2日)と題して以下のように書いている。

村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。<中略>村上文学には「父」が登場しない。だから村上文学は世界的になった。以上、説明終わり。
これでは何のことか分かりませんね。そこで補助線を一本引く。こんな命題である。「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」
これでだいぶ見通しがよくなった。分析的な意味での「父」は世界中のあらゆる社会集団に存在する。「父」とは「聖なる天蓋」のことである。<中略>
「父」はさまざまな様態を取る。「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。
<中略>
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。
キリスト教文学では「神」との、イスラム文学では「預言者」との、第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「支配階級」との、フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、自然主義文学では「家父長制度」とのそれぞれ確執が優先的な文学的主題となる。
いずれも「父との確執」という普遍的な主題を扱うが、そこで「父」に擬されているものはローカルな民族誌的表象にすぎない。
作家のひとりひとりは自分が確執している当の「父」こそが万人にとっての「父」であると思っているが、残念ながら、それは事実ではない。
彼の「父」は彼のローカルな世界だけでの「父」であり、別のローカルな世界では「父」としては記号的に認知されていない。
だから、彼が「ローカルな父」との葛藤をどれほど技巧を凝らして記述しても、それだけでは文学的世界性は獲得できないのである。
<中略>
人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。
けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。
「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。
私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。
「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。
地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない(はずである)。
でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか・・・という考え方をする人がまれにいる。


それが、かの作家である、というわけだ。

 どうやらこの作家は、初期のころは、「デタッチメント(分離、超然、無関心)」に興味があったらしい。内田樹の言うところの「父がいない」作品ということになる。既存の価値判断や宗教などを離れたところの世界で、何が立ち現われるかを虚心坦懐に模索する、といったところか。

しかしながら、ここに「存在しない普遍性」というパラドックスが生じる。特殊性を持たない普遍性は、逆に現実世界には存在しない。存在するものはすべて特殊だからである。仮想現実の中で、経験値を上げていくロール・プレイイング・ゲームはどこまでいってもロール・プレイイング・ゲームでしかない。スキゾ・キッズの逃走とは、まさにこのことか。私の食指が動かなかった大きな理由がここにある。

 言語という記号(「父のパロディ」)を用いて、デタッチメントを試みようとすること自身が、パロディでしかない。そんなものは、いくら逃げてみたところで、お釈迦様の手のひらの中であるのは自明だからである。

 実は「父」(あるいはそれは父のパロディにしかすぎないかもしれないが)を想起することによって、世界性と普遍性を獲得する人々もいる。例えばガンジーやマザーテレサである。彼らの世界性は一言で言えば「アタッチメント(付着、傾倒、愛着)」によって獲得されたものである。

 「デタッチメント」による世界性とその対極にある「アタッチメント」による世界性。

 実はこの作家自身、関心が途中から「デタッチメント」から「コミットメント(言質、掛かり合い)」に移ってきたと語っている。しかし、「アタッチメント」に比べて「コミットメント」は踏み込みが甘い感じがする。

 その踏み込みの甘さ−帰依することの恐怖−は、氏の生育歴にも影響されているのかもしれない。

 通常、「デタッチメント」の作業は、少年期の終りぐらいに「反抗期」という形で行われる。親や教師という絶対的権力への懐疑、押し付けられた倫理観や価値観への疑念。今の季節で言えば「サンタクロースはいない」ということを知った時に、だましてきた親への不信感などもあるかもしれない。

 様々なことを自覚的に、そして時には自らの存在自身を疑いながらも、自我を確立させる。そして次の段階として「コミットメント」や「アタッチメント」が来ると、安定的な人格が形成される。安定的というのは固定的という意味ではなく、常に疑うこともでき、かつ信頼することもできる、バランスの良い、というほどの意味である。アルフレッド・マーシャルのいう「Cool Head, warm heart(冷めた頭脳と熱い心)」。「冷めた」は「覚めた」あるいは「醒めた」でもあり、「熱い」は「篤い」あるいは「厚い」でもある。

 さて団塊の世代の多くは、社会の熱に浮かされて、十分に「デタッチメント(覚めた思考)」を行わずに、先に「コミットメント」してしまったために、その熱が冷めるやいなや、急にはしごを外されたように、そこから改めて「デタッチメント」の作業に入った人が多かったのではないか。

 氏は、オウム真理教の事件(地下鉄サリン事件1995年)、阪神淡路大震災1995年などを契機に再び「コミットメント」に特に興味を持ったという。

 確かにオウム事件や震災、あるいはもっと最近では9.11事件によって、それまでの世界観が大きく変わった人が多いらしい。若い人達はそれでもいいと思う。しかし僕らより年配の人にとってそれらの出来事がwake-up call(目覚まし)であるというには違和感がある。

 僕にとって9.11やオウム事件は、1976年の田中角榮元首相の逮捕であった。当時13歳であったけれど、「絶対的権力ってないんだ」という(まあいわば当たり前の)ことにドーンと気付かされたときには、文字通り背筋が寒くなったのを記憶している。うわー、って感じだった。後に、吉本隆明の「共同幻想論」を読んだ時も、その時のことを思い出していた。

 そういう体験があるから、オウム事件に出くわした時も、とりたててすごいことには思えなかった。オウム事件のようなものは、そこら中に遍在しているからである。我々の「防衛省」がオウムの「防衛省」とどこが違うのかは常に問われなければならないと知っているからである。

 彼の作品に人が描かれていない、といって批判するつもりはない。それはハンス・ベルメールの作品(Youtube)に人が描かれていないと非難するに等しいからである。

 また、作品と作者は別である。しかし、イスラエルでのスピーチを見ていると、デタッチメントの後遺症をどこかに感じてしまうのである。もちろん、血だらけの子どもたちの姿を少しでも思い起こすことがあれば「卵」などという比喩を用いることが適切であったかどうかという批判もある(ただしスピーチには相手があることであり、多少不適切であっても効果を優先する場合もあるので、この批判は当たらない可能性もあるが)。

 しかし比喩を用いたこと以上に、「壁(システム)」と「卵(個人)」を対立的に描くところに、少年期の「父」に対する憎悪を抜け切れていない気がしてしまうのである。氏の壁(システム)に対するイメージも僕とは大きく異なる。氏は「壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在」と言うが、僕には、共同幻想ということばを持ち出すまでもなく、ブニョブニョしていて生暖かい存在に思える。氏もシステムは我々が作り出したものと言っているが、多数の人の足元が溶け出して、それが複数混ざり合って立ち上がったようなものと僕はイメージしている。だから、対立的ではなく、むしろどこか我々の体の一部のような存在だ(だからこそ対処が厄介なのだけれど)。

 このイメージの相違は重要で、「システム」あるいは「父」との付き合い方に決定的な差ができてしまう。

 デタッチメントが上手にできれば、「システム(あるいは父)」に教条主義的にならず、なおかつ傾倒・帰依(アタッチメント)を示すという離れ業的なことが可能となる。ガンジーやマザーテレサのように。

 この作家が、おそらくはその作風とは対極にあるような私小説を挿話として語った事は、希望である。「言葉にすることができないもの」を信じることは宗教であり、アタッチメントの表象であるからだ。

 うまく言いたいことが言えたかどうか分からないが、長くなったのでこの辺で一旦おしまい。


biwako_strawbale at 23:51|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!

2009年12月29日

久しぶりに

2週間ばかり更新が停止してしまった。

いろいろの事があった。土日に仕事が入ることも多く、名古屋、三重、その他ちょこちょこと出張も多かった。

プライベートでは、今年はネズミがこないなと思っていたら、イタチ(?)が1階食料庫の屋根裏に侵入して大騒ぎ。イタチに追われたか、翌日ネズミが室内に出現。進入路は未だ特定できないけれど、3匹を捕獲してとりあえず、一段落。

23日は、太子ホールで、劇団『石(トル)』と芸術家バンド ビスタリのジョイント公演「すべて」。2回公演で、特に1回目は大入り満員の大盛況。

酒のせいか、若干お腹まわりに肉がつく。昔ラグビーをやっていた時でも体重は65キロ、それ以降61〜62キロぐらいで変わらずに「ん」十年。ところが最近、友達の「やばいで」との指摘に、体重を測ってみると65キロ近く。まもなく恒例の(サッカーの)初蹴り大会もあるので、せっせと運動。

以上、近況報告までに。

biwako_strawbale at 20:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2009年12月12日

映画「未来の食卓」



日曜日に映画「未来の食卓」の先行上映会が滋賀会館である。

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日時 2009年12月13日 日曜日 
   AM9:30開場 10:00〜上映
場所 滋賀会館(JR大津駅より5分)
TEL 077-527-3315
料金 前売り 1,500円 当日 1,800円
(Open Sesameで前売り券を購入の方は、お食事の
際、オーガニックコーヒーまたは紅茶がサービス!)
予約・申し込み Open Sesame TEL 077-521-0084

村長と村民の熱心な働きかけにより、学校給食をオーガニックにしようと立ち上がった南フランスの小さな村の一年を描いたドキュメンタリー映画。
オーガニック給食や学校菜園での野菜作りを通じて自然とのつながりを学んだ子どもたちに、最初は消極的だった大人たちなども巻き込まれて行くというドキュメント。
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滋賀会館では年明けにもロードショー公開か。
近江八幡でも自主上映会の動きあり。

biwako_strawbale at 00:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2009年12月11日

「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

 政党のビラを配布するために東京都葛飾区のマンションに立ち入ったことで、住居侵入罪に問われた住職の有罪が最高裁で確定したのはつい先日のことである。不当な判決であると思う。
 今回マンションに「チラシ・パンフレット等広告はお断り」との張り紙があったというがその内容はあいまいであって一般的警告としか読めない。政党の意見というのは一般にいう広告ではないし、では自治会のお知らせはどうなのか、ダイレクトメールはどうなのかなど、判断は難しいからである。
 いわゆるピンクビラなどが繰り返し投函されることに対してならばいざ知らず、そうしたケースでさえ日常的にに住居不法侵入罪で起訴がおこなわれているとは言えない状況で、今回のケースはどう見ても言論弾圧の一つとして取り締まりが行われている(23日間の身柄拘束というのも異常である)。
 また、言論の自由との関連で、裁判所が『「表現そのもの」でなく「表現の手段」を処罰する今回のケースは、憲法に反しないと結論づけた』というは相当に詭弁であるし、「表現」という言葉の意味すら理解していない。「意見」というのは、表し方がいろいろある。しかし、「表現」とは表し方(手段)をも含めたものである。次回の国民審査ではぜひ忌避したい。

 思い出すのは、マルチン・ニーメラー牧師の有名な言葉である。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。

彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。

そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。


関西の教会では何者かが消火器などを投げ入れる事件が50件以上続いている。これは「キリスト教は独善的」という小沢一郎氏の発言とも関係するのか。

在日外国人に対する攻撃も激しくなってきている。先日も京都の朝鮮第一初級学校でも嫌がらせとしか思えないような事件があった(wmv)。

閉塞状況の中、いらいらを他者に向ける傾向が強まっている。手遅れとならないように、「殺せ、殺せ」の大合唱がこれ以上広がることのないように、声をあげねばと思う。


biwako_strawbale at 01:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2009年12月04日

巨大技術

巨大技術の管理は難しい。

今朝の西武新宿線は電気系システムのトラブルのため始発から約5時間運休、約17万人に影響が出たらしい。

基本的に巨大システムを事故もなく動かすことの方が奇跡に近いことであると思うので、事故には寛容でありたい。

JR西日本の事故でも思ったことだが、直接の加害者は運転者かもしれないが、その背後には極端な時短や正確な運行を強硬に求める会社があり、さらにその背後には電車がちょっと遅れたからと言って駅員に食ってかかるような我々の姿があったりする。

同じJR東日本ではトイレ汚水を川に40年流していた事件があった。長い時間に埋没し、毎年の検査などからも見逃されてきたのだろう。お粗末な話ではあるが、身の回りでも決して起こらないとはいえない。

しかしである。寛容とばかりも言ってられないケースもある。

先日、柏崎刈羽原発で配管ミスがあり、24年間もトリチウムを海に放出してきたことが明らかになった。実は、福島第2原発での同様の問題があって、調べた結果、明らかになったという。設計はちゃんとされていたというが、同じミスが異なる原発で発見されたということは、(共通する)施工図面で間違っていたということか。

技術論の要諦「マーフィーの法則」をすべての技術者は心にとめなければならない。

If there is any way to do it wrong, he will.
=失敗する方法があれば、誰かはその方法でやる

biwako_strawbale at 23:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2009年12月01日

【告知】「原発ルネッサンス」を考える

ATTAC京都 コペンハーゲンCOP15関連特別企画
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      「原発ルネッサンス」を考える

−「地球温暖化対策としての原子力発電」は本当に環境に優しいの?? 
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●日時:2009年12月15日(火)午後6時30分〜9時

●場所:同志社大学今出川キャンパス 神学館地下1階 1号教室
(地下鉄「今出川」駅から徒歩1分、京阪「出町柳」駅から徒歩15分)
アクセスマップ
キャンパスマップ)正門から入り北上、二番目の右手の建物です

●内容:

特別報告1「ポスト京都議定書とアジアへの原発輸出の動き」
 講師:細川弘明さん(京都精華大学人文学部教員〔環境社会学・資源エネルギー論〕)
プロフィール

特別報告2「アメリカ・チャーチロック・ウラン鉱山・製錬所の環境汚染と健康被害」
 講師:和田喜彦さん(同志社大学経済学部教員〔エコロジー経済学〕)
プロフィール

対談「『地球温暖化対策としての原子力発電』の実態」
 細川弘明さん×和田喜彦さん

●「原発に未来なし」などのライブ演奏
特別出演:古川豪さん(フォークシンガー)
プロフィール/まるごと古川豪の部屋)

●参加費:300円(どなたでも自由に参加できます)

【呼びかけ文】
 いよいよコペンハーゲンでのCOP15(第15回気候変動枠組み条約締約国会議)開催が近づいてまいりました。この会議を成功させ、地球温暖化をストップさせることができるかどうかに人類の未来がかかっています。

 一方で、「地球温暖化対策」としての原子力発電の「有効性」が唱えられ、世界的に原発回帰の流れが加速、今後世界各地で数百基の原発が新たに建設されようとしています。たとえば新興国であるインドは「原子力発電を現在の100倍にする」ことを打ち出し、アジアでの原発建設ラッシュの到来に、東芝・日立・三菱重工など主要原発メーカーを抱える日本政府は「原発を新たな輸出産業に」と官民あげて色めき立っています。こうした世界的「原発バブル」「原子力ルネッサンス」の流れは、本当に「地球温暖化対策」として有効で人類の未来を切り開くものなのでしょうか。環境社会学、エコロジー経済学の観点からこの問題を検証する公開シンポジウムを行いたいと思います。

 また当日はアルバム『原子力時代の昔語り』や歌集『原子力時代のラブ・ソング』、また反原発運動の現場で歌われてきた「原発に未来なし」などで知られる京都市出身のフォークシンガー古川豪さんによる会場でのライブ演奏も行います。ふるってご参加ください。

●主催・お問い合わせ先:ATTAC京都
ATTAC京都HP
http://kattac.talktank.net/
ATTAC京都ブログ
http://kattac.talktank.net/blog/
E-mailアドレス
kyoto@attac.jp

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