2006年09月28日

A倍晋三的なるものからの脱却

年代こそ違うが、A倍晋三と同じS小学校に通った。いとこたちの多くはこのS小学校か、A生太郎と同じG院初等科に通っていた。東京のこういった小学校は、いわゆる2世、3世の巣窟である。親の職業の多くは、企業経営者、医者、芸能人やプロスポーツ選手だ。G院ではこれに皇族が加わる。大きな庭付きの家に住み、中には自家用プールすらある家の子もいた。
 A倍晋三は「再チャレンジ」なるものを掲げているが、彼らが暮らしてきたのは「チャレンジすることの必要のない、競争とは隔絶した社会」である。エスカレーター式に大学を出て、親のコネで上場企業に就職し、しばらくして親から政治家であれば地盤を、経営者であれば企業を受け継ぐ。彼らの多くは、チャレンジの何たるかを知らない。ましてや、生活の困窮や差別によって「チャレンジすることすら許されない」人々がいることに思いは至らない。
 今日の格差社会の根源は、「チャレンジの必要ない階層」と「チャレンジすらできない階層」の存在である。昨今の格差は「競争原理の導入によって作り出された格差である」と幻想を抱かされているが、本質は「競争がない―競争すらさせてもらえない―ところに生じる格差」なのである。
 A倍は自身の給与を30%削減するという。一般のサラリーマンにはできない芸当(パフォーマンス)である。言い換えると、彼にとって首相の給与などはハシタ金であることの証左である。何しろパーティーを開けば、一晩で5200万円も集めることができるのだから。給与はそのままでいいから、政党助成金として受け取っている168億円もの税金をせめて30%減らす努力をしてもらいたいと思う。
 拉致問題に熱心である一方で、同質性の高いいわゆる従軍慰安婦の涙には冷淡である。物事を本質で捉えることのできない「お坊ちゃま」の真骨頂がここでも発揮される。一言で言えば幼児性である。K泉を含め、こうした幼児性のウケがいいのは、この国の幼児性を示すものではないのか。

A倍晋三的なるものからの脱却は、私の小学校時代からの課題であった。公立中学校に進み、そこでの体験はさらにその思いを強くするものだった。中でも、とても親しい友達の家に遊びに行ったときのことは今でも覚えている。喘息の持病のある友人は、国道近くの6畳2間程のアパートに家族4人だったか、5人だったかで暮らしていた。昼間なのに奥の部屋は電気が消されており、タクシー運転手をしているお父さんが勤務明けで寝ているとのことだった。結局、家には上がらず、外で遊んだ。
 親の肩書きに頼らない、自分の学歴に頼らない、ひいては自分の肉体にも頼らない。いろいろなものをそぎ落として、結局それでも存在しうるナニモノかを見つけ出す内省的な営みを続けていきたい。それは、家柄、学歴、派閥、国家と外向きのベクトルをもつA倍晋三的なるものからの脱却への営みである。すべての人の涙とつながる営みである。容易ではないけれど。

biwako_strawbale at 00:13│clip!抱懐