2007年01月27日

常世の舟を漕ぎて(語り/緒方正人、構成/辻信一)

「大学生に推薦する本を・・・」と言われて書評を書いてみた。いまどきの大学生に興味を持ってもらうように書くのは、やっぱり大変な作業だったけれど、どうだろう。読んでくれるかな。

 悲しい本である。そして美しい本である。
 語り手である緒方正人は、熊本の漁師の家に18人兄弟の末っ子として生まれた。網元として多くの人を束ねる父は、思慮深く、曲がったことが嫌いで、家の中でも村の中でも尊敬される存在だった。緒方はそんな父にかわいがられて育った。しかしある日、元気だった父が草履を片方脱いだまま歩いていた。水俣病の発症だった。みるみる体調を崩していった父が死んだのは、それから約2ヵ月後、緒方が6歳のときだった。
 父を殺された緒方は、中学卒業後家出などを経ながら、自らも「患者」として、やがて行政やチッソとの闘争へと入っていく。しかしながらいつぞや闘争が患者認定や裁判という制度の中に絡めとられていることに気づく。本質とはかけ離れていくさまに疑問を持ち、あてもなく「運動」から身を引く。経済学には、カルドアの補償原理やらヒックスの補償原理というものがある。被害と加害の関係を金銭的補償という座標面で解決しようとするものだが、緒方はこの座標面からひょいと飛び降りてしまったのである。緒方自身は知るや知らずや、「金銭による補償などはできない」というメッセージは経済学者に突きつけられて、重い。
 彼にとってもその後の3ヶ月はもだえ苦しみ―かれは「狂い」と呼ぶが―の時であった。しかしその後に、彼は新しい地平へと身を置く。それはあたかも地獄から澄み渡る天上界へ続く道が示されたかのようであった。彼はそして、木造の船「常世の船」を作り、チッソと直接向き合うために海路を赴く。
 「常世」とは、緒方によれば安心あるいは無我の境地である。英語ではsteady stateとでもなろうか。steady stateは物理学や経済学では「定常状態」と訳されるが、この訳語は冷たすぎる。steadyには「steadyな彼氏」というようにどこか暖かな響きがあって、せめて「安定状態」とでも訳すべきなのかもしれない。steady stateはまた、環境問題でも「持続可能な社会」を表す言葉として用いられることがあるが、我々はそこに「安心」や「安らぎ」の意味をきちんと込めているだろうか。緒方は「常世の船」で、またしても学者たちを尻目に、「定常状態」のさらに先にあるものを目指しているのである。
 彼が常世の船に自らの身と一緒に積んだのは、原罪であった。補償交渉から降り、罪ではなく原罪と向き合うことは、チッソを赦(ゆる)してしまうことになるのではないのかという指摘がある。しかしそうではない。むしろ逆である。原罪とは、いつまでも抱えていかねばならないものである。チッソは緒方の胎内に取り込まれ、その意味ではもはや決して、赦されることがなくなったのである。とはいえ、チッソと直に向き合った緒方がとうとう2001年に「チッソは私であった」(葦書房)という本を上梓したと知ったときに、私はおののいた。この書名は彼にしてみれば「私が父を殺した」といっているに等しく、私には想像も及ばぬほどの思いの果てがそこにあると感じたからである。
 ノーベル賞経済学者のゲアリ・ベッカーは刑罰の対象としての「犯罪の経済学」を研究したが、今、本当に必要なのは「原罪の経済学」ではないか。緒方はそう問いかけているように思う。
 「水俣病私史」と副題にあるこの本は、実は人類普遍の歴史でもあった。石牟礼道子の詩情に満ちた序文に始まり、聞き手の辻信一のあとがきに至るまで、緒方の奏でるメッセージと共鳴して美しい。今回読み返してみて、緒方という「船」が今どこにいるのか、緒方に会って聞いてみたくなった。(了)


biwako_strawbale at 21:20│TrackBack(0)clip!抱懐 

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