谷山駅にスタバができた
JR谷山駅の前にできたスタバがどういうロケーションにあるのか、なぜロードサイド型の店舗になっているのか、わかる写真を昨日撮りました。
バングラディシュの国旗のようなマークがタイヨーの看板です。その横がスタバで奥に歩道を挟んで駅舎になります。ドライブスルー利用の車はスタバが入ったタイヨーの建物をぐるりと回る面白い遠回りさせる構造になっています。
奥の谷山駅の駅舎ですが、プラットホームは駅舎の2階部分にあります。これは直前で永田川を越えるために橋があり、そのまま高架構造にしています。ですので、今後、一階部分に店舗が入るかもしれませんが、スターバックスとしては、駅の乗降客だけでなく、車での利用を見込んでドライブスルー形にしたのでしょう。
地元の大型スーパー・タイヨー(確か一度潰れかけたはずで、再生したのだったと思います)と組んで、駅前に、広い駐車場を持ったショッピングモールを作ったという感じです。今後、回りが商業エリアとして開発が進むと見込んでいるのでしょうね。
おそらく、この計画はコロナ前に進んていたはずです。この3年、ストップしていた観が漂っていますが、ここに来て俄に動き出したようです。(早々と出店を決めたお店は開店休業状態で撤退したところも見られました)
前にも書きましたが、我が母校のラ・サール高校をはじめ、私立鹿児島情報高校、県立鹿児島南高校(長渕剛さんの母校)、県立開陽高校(鹿児島で唯一の単位制高校)があり、中学生・高校生が多い地区でもあります。
さて歴史散歩
鹿児島の街の作りは戦国時代から江戸時代の城下町の作りと関係しています。集中させずに麓(ふもと)と呼ばれる城下をいくつも作りました。有名な知覧の武家屋敷もそうですが、地域分散型というか、県下の至るところに武家屋敷を作っています。
麓の最大の特色は守りのために道路を直線にしないことでした。そのため鹿児島の道路は幹線道路からちょっと入り込むと袋小路です。太平洋戦争でひどい空襲で焼け野原になったので、戦後の都市計画でだいぶよくなりましたが、いまだに名残りがあります。焼け残った石垣のせいだと思われます。石垣は凝灰岩です。火山の恵みと言えるかもしれません。
谷山も谷山麓です。南北朝時代から島津氏と対立した谷山氏の居城があった地区が元になっていますが、江戸時代の麓は城からは離れた場所にあります。これは谷山氏の戦いのための城と日頃の住まいが別な場所にあったのではないかという説もあります。その中心が谷山市役所、合併後は谷山支所が置かれたあたりで、今の谷山小学校の場所と推測しています。地頭館跡の碑が校地内にあります。江戸時代にも地域行政の中心でした。
そうそう、全景が上から見れるビルが5月に建つ予定です。なかなか建たなかったので谷山のサグラダファミリアと陰口が聞かれました。
JR谷山駅の前にできたスタバがどういうロケーションにあるのか、なぜロードサイド型の店舗になっているのか、わかる写真を昨日撮りました。
バングラディシュの国旗のようなマークがタイヨーの看板です。その横がスタバで奥に歩道を挟んで駅舎になります。ドライブスルー利用の車はスタバが入ったタイヨーの建物をぐるりと回る面白い遠回りさせる構造になっています。
奥の谷山駅の駅舎ですが、プラットホームは駅舎の2階部分にあります。これは直前で永田川を越えるために橋があり、そのまま高架構造にしています。ですので、今後、一階部分に店舗が入るかもしれませんが、スターバックスとしては、駅の乗降客だけでなく、車での利用を見込んでドライブスルー形にしたのでしょう。
地元の大型スーパー・タイヨー(確か一度潰れかけたはずで、再生したのだったと思います)と組んで、駅前に、広い駐車場を持ったショッピングモールを作ったという感じです。今後、回りが商業エリアとして開発が進むと見込んでいるのでしょうね。
おそらく、この計画はコロナ前に進んていたはずです。この3年、ストップしていた観が漂っていますが、ここに来て俄に動き出したようです。(早々と出店を決めたお店は開店休業状態で撤退したところも見られました)
前にも書きましたが、我が母校のラ・サール高校をはじめ、私立鹿児島情報高校、県立鹿児島南高校(長渕剛さんの母校)、県立開陽高校(鹿児島で唯一の単位制高校)があり、中学生・高校生が多い地区でもあります。
さて歴史散歩
鹿児島の街の作りは戦国時代から江戸時代の城下町の作りと関係しています。集中させずに麓(ふもと)と呼ばれる城下をいくつも作りました。有名な知覧の武家屋敷もそうですが、地域分散型というか、県下の至るところに武家屋敷を作っています。
麓の最大の特色は守りのために道路を直線にしないことでした。そのため鹿児島の道路は幹線道路からちょっと入り込むと袋小路です。太平洋戦争でひどい空襲で焼け野原になったので、戦後の都市計画でだいぶよくなりましたが、いまだに名残りがあります。焼け残った石垣のせいだと思われます。石垣は凝灰岩です。火山の恵みと言えるかもしれません。
谷山も谷山麓です。南北朝時代から島津氏と対立した谷山氏の居城があった地区が元になっていますが、江戸時代の麓は城からは離れた場所にあります。これは谷山氏の戦いのための城と日頃の住まいが別な場所にあったのではないかという説もあります。その中心が谷山市役所、合併後は谷山支所が置かれたあたりで、今の谷山小学校の場所と推測しています。地頭館跡の碑が校地内にあります。江戸時代にも地域行政の中心でした。
そうそう、全景が上から見れるビルが5月に建つ予定です。なかなか建たなかったので谷山のサグラダファミリアと陰口が聞かれました。