ヴァンパイアの心理学

水川と別れてから、沙奈は誰とも話さなくなった。
もう人間とは、話したくない。
明日はいよいよ、旅立つときだ。
アルプスの中腹あたりに、行くつもりだった。
そこに、親の遺産だった、一軒家のコテージがある。
死ぬまでひっそりと、そこで暮らすつもりだった。
最後の荷物の整理をしていると、自分の大学の教科書に紛れ込んで、水川の倫理の教科書があるのに気がついた。
「どうしよう。…ちゃんと、返さないと」
沙奈は、水川の携帯に電話をする。
なかなかつながらない。
わざと出ないのだろうか?
不安に思っていると、電話から声が聞こえた。
「…もしもし。水川だけど」
「あ、久しぶり。私、菜畑」
「何か用?暇つぶし?」
失礼なほど、ぶっきらぼうな言い方。
「随分な言い方ね。掃除していたら、水川君の倫理の教科書が見つかったんだけど…」
「捨てちゃっていいよ」
ガチャッ。
一方的に、切られてしまった。
「何よ、せっかく親切に電話してあげたのに。分かったよ。お望み通り、捨ててあげるから」
…強がって言ってみたものの、急に寂しい思いにかられた。
沙奈は水川から特にプレゼントをもらったことがなく、この教科書は水川との最後の思い出の品だった。
…捨てるのもなんだから、とっておこう。
そう思い、リュックにしまおうとしているところへ、沙奈の携帯の着信メロディが鳴る。
「はい、菜畑です」
「失礼な言い方してごめん。やっぱり返してくれない?」
「いいよ。会ったときに、面と向かって私にちゃんと謝ったら、返してあげる」
電話越しに沙奈はふふっと笑うと、電話の向こうで水川も笑っているのが分かった。


昼間の井の頭公園のベンチ。
水川は、何を話そうかと、一生懸命考えていた。
一番言いたいのは、「やり直そうよ」だが、二回もフラれた今、それを言うことは出来ない。
…普通に会話して、普通に別れよう。
お互いに、友達同士の関係に戻ったことを確認するんだと、水川は思った。
「水川君」
「あ、沙奈」
気がつくと、いつの間にか沙奈はベンチに座っていた。
沙奈は、早速教科書をバックから出すと、ペラペラめくりながら言った。
「ちらっと見たんだけどさ。水川君、微妙な箇所ばかりに線を引いてるよね」
「どこが?」
「中世のヨーロッパの人の意見が書いてあるところばっかり」
「そうだったっけ?」
「ほら。見てごらん」
…そんなはずはない。
そう思いながら、沙奈から教科書を受け取り、先ほどの沙奈と同じように、ペラペラとページをめくる。
見ると、確かに中世のヨーロッパの人物の意見に、やたらと線が引いてあった。
「ホントだ。よく気がついたね」
「思想が、明らかに偏ってるよ」
「ちょっと待ってくれよ。別に、適当に中世のヨーロッパの人々の箇所ばかりに、線を引いたわけじゃないんだよ。この時代の人々は、いっぱい苦悩しているんだ。彼らの苦悩があったおかげで、今の僕たちがあるんだ」
「そんなの、他の時代だって同じじゃない?理由にならないよ」
「そうか、理由にならないか…でも、この時代のヨーロッパで発生した思想はけっこう、面白いんだよ。ちなみに沙奈は、中世のヨーロッパで、興味の対象にしている人はいる?」
「…ヴラド・ツェペシュ」
「ヴラド・ツェペシュ?聞いたことのない名前だ。どういう思想の持ち主?」
「調べてみれば、分かるよ」
「いや、そうなんだけどさ。…沙奈、随分いじわるをするんだな」
「ふふっ。水川君の反応が、おもしろいね」
沙奈が声を出して笑ったので、つられて水川も笑う。
それにしても、こうして話している分には、全く違和感がない。
沙奈と自分の間で、精神的には何も変わったような感じがしなかった。
変わったのは、今はもう、沙奈が彼女ではないという事実のみ…。
そう思ったところで、ある予感が心をよぎる。
…事実という事柄のみが動き、沙奈自身の心は、変わっていない?
水川はそっと沙奈の髪に触れると、やさしく撫でた。
沙奈も特に、何の抵抗もしない。
それは、付き合っていた頃と同じように、次にする自分の行為を待っているかのようだった。
「沙奈」
「何?」
「思想家ロックの話しは覚えているか?」
「ええ。あの後、本も読んで調べたわ」
「それなら、話しは早い」
「何?」
「人間とは、白紙の状態で生まれ、後天的な事象によりさまざまなカラーに染まり、人格や性格が形成されていく」
「そうね。先天的に内在するものが、カラーの染まり方に変化を与えるけれども、基本的にはそうね」
「多かれ少なかれ、後天的にキミは、何がしかのカラーに染まっているんだ」
「…そうよ」
「そして、僕が染めたカラーも、キミの心に色づいている」
「さらに…今もなお、しゃべりながら、染まり続けているよ」
「これから先もますます染まり、それが人格の一部となるだろう。後天が先天的なものさえも変えてしまう。…いいか、沙奈。後天は先天よりも偉いんだ。かつては自分も言った、その言葉に嘘、偽りはないな?」
沙奈はうなずくと、黙って目を閉じた。
「キミはやっぱり、僕が染めた芸術作品だ。心が鮮やかに、カラーリングされているよ」
「自画自賛しているの?」
「そうだよ、自画自賛しているんだ。我ながら、本当に上手に丁寧に、きれいに染め上げたなぁと思っているよ」
「私はナルシストの作った、芸術作品か。まあ、別にいいけどね」
「そんな言い方、するなよ。思想家ロックの意志を、受け継ぐ者と呼んでくれ」
沙奈は目を閉じたまま、もどかしそうに言った。
「ねぇ…しゃべってないで、早く。…本能が理性を駆逐して、久しいわ。いつまで待たせるの?」
「分かった。それじゃあ僕もキミと同じように、ここからは本能で理性を支配することにしよう」
カップルの多い、井の頭公園。
その風景に、一組のカップルが、さらに溶け込もうとしていた。
ベンチに腰かけたまま、沙奈を強く抱きしめながら、水川は言った。
「なあ、沙奈」
「何?」
「どうして別れたんだ?」
「それは…」
言葉を濁し、そのまま黙りこくってしまう。
「やり直そうよ」
「それは…ダメよ」
「どうして?」
「私の中の先天が、後天に逆らうのよ」
「え?よく分からないけど…」
「私は確かに、あなたが染め上げた芸術作品かもしれない。でもね、さっきも言ったように、下地に先天というものがあるの。どういう先天を持つかによって、後天の染まり方が変わるのよ」
「キミは…後天より先天の方が、偉いと言っているね」
「そうかもしれない」
「でも、一番よく分からないのは。僕とは付き合わないのに、どうして僕を今、受け入れたんだ?こんなことしちゃって…本当にいいのか?」
「…あんまり困らせないで。私の中で、先天と後天が戦っているわ。本当は、しちゃいけないのよ。あなたをはね除けないといけない。でも…今の私にはそれが出来ない。なぜなら、あなたがあまりにも上手に、きれいに私を染め上げしまったから。…私は、自分の意志で水川君から離れることが出来ないから、そっちから離れてよ」
「沙奈…」
名残惜しく感じながらも、ゆっくりと沙奈から離れる水川。
沙奈は肩に力が入ったまま、息をハァハァさせていた。
…相変わらず、精神状態が表に出やすい奴だな。
水川は思った。
沙奈はベンチから立ち上がると、ニコッと笑った。
「最後に良い思い出を、ありがとう。私はもう…消えるから」
「消えるって?」
「あなたの前からも、人間の世界からもいなくなるの」
「ちょっと待てよ。自殺でもするつもりか?」
「そんなんじゃないよ。じゃあね」
沙奈はあどけない笑顔を見せると、歩き出した。
2、3歩、歩いたところで、ふと振り返る。
「…そうそう。興味があったら、ヴラド・ツェペシュを調べてみてね」
一言だけ言うと、今度は振り向かずに去って行った。
「ヴラド・ツェペシュ…聞いたことない名前だけど、どういう思想の持ち主だ?よく分からないが、きっとそいつが沙奈に、僕から別れるように、歪んだ思想の種を植えつけたに違いない。そして、そのせいで、沙奈は僕のことが好きなのに、近づけないでいる。沙奈がかわいそうだ。沙奈の心を解放するためにも、ヴラド・ツェペシュという奴を調べないといけない…」
水川は、大学の図書館へと向かった。


調べ始めて、一時間が経過した。
中世、ヨーロッパの思想家のコーナーをそれぞれ隈無く調べてみたが、ヴラド・ツェペシュなんて名前は一向に出てこない。
「おかしいな。これだけ調べても、見つからないだなんて。そもそも僕が知らない歴史上の人物っていうこと自体、珍しいよな。世界史が好きで、そこから派生して歴史上の人物の思想にも興味を持ち、今の自分に至ったのだから。…そうだ、人名辞典で調べてみるか」
水川は辞書のコーナーに行き、世界人名事典を棚から取ると、空いている机で調査をした。
「あった。ヴラド・ツェペシュ。ルーマニアの人か。時代は15世紀だから、沙奈の言った通り、確かに中世のヨーロッパだ」
なるほどな、と思いながらヴラド・ツェペシュの内容をどんどん読み進めていく。
しかし、段々と気味が悪くなってきた。
ネガティブなキーワードばかりが、やけに目につく。
異常人格。
串刺し公。
残虐非道。
そして…ドラキュラ、ヴァンパイア。
純粋に心理学の勉強を志す沙奈が、どうしてこんな人に興味を持ったのか、不可解だった。


翌朝。
パソコンを立ち上げたまま、水川は自宅の机で眠ってしまっていた。
昨夜からずっと、ある調べものをしていた。
ヴラド・ツェペシュだ。
調べた結果、分かったこと。
ツェペシュとは、串刺しという意味。
本名はヴラド三世。
世間的には、異常人格者という認識だが、地元のルーマニアでは、祖国を守った英雄とされていること。
ドラキュラの由来は、本当の吸血鬼という意味ではなく、父親が「ドラクル」という異名で呼ばれ、ヴラドはその息子であることから、ドラクルの息子という意味。
また、世間一般で言われるほど、そこまで悪いことをした人ではないことも分かった。
処刑で串刺しばかりをしたのは、ある種の見せしめのために、あえて行なっていたのかもしれない。
しかし、そうはいっても…いまいちしっくりこない。
沙奈は、自分に何を言いたかったのか?
半分寝ぼけながら、昨晩から食べかけのポテトチップを食べていると、ある言葉を思い出す。
…私の中で、先天と後天が戦っているわ。
「まさか…ひょっとして」
あり得ないことが、頭をよぎる。
ヴラド・ツェペシュという人は、ドラクルの息子なんかではなく、本物の…。
しかし、もしそうだとしたら、全て説明がつく。
沙奈が別れ話しを持ち出したのは、満月の日のデートの後だった。
あのデートのとき、沙奈には何かが起きていたのだ。
それと同時に、昨日の言葉を思い出す。
…あなたの前からも、人間の世界からもいなくなるの。
「まずい!沙奈を止めないと!」
水川はパソコンをシャットダウンさせると、急いで沙奈のアパートへと向かった。


大荷物を持った沙奈は、ちょうどアパートを出るところだった。

玄関の鍵を閉めている沙奈のもとへ、水川が現れた。
「リュックなんか背負って、どこに行くんだ?」
「ほっといてよ」
「本当に、ほっといていいのか?」
「…その質問に対する正しい答えを、私は知らないよ」
「話せよ、全てを。大体見当がついたけど、キミの口から聞きたいんだ」
 沙奈は少し考えたが、思いつめた様子で話し始めた。
「あなたの思った通り、私は正真正銘のヴァンパイアよ。満月の晩のとき、私はあなたを噛みつきたくて仕方がなかった。それは、恋愛感情を遥かに凌駕するほどの激しい衝動よ。先天的に内在する強烈な本能に、私は打ち勝つことができないの。こないだは精一杯こらえたけど、一緒にいたらいつの日か噛みついて血を吸い、水川君までヴァンパイアになってしまうわ。悪魔の本能が理性を駆逐する前に、私は水川君のもとを去らなければならなかった。つらくても、それが最善の選択肢だと信じていたわ…」
「沙奈…」
「心理学の勉強を始めたのも、ヴァンパイアじゃなくて人間としての人生を送りたかったからよ。でも…ダメだったみたい。人間の社会は、ヴァンパイアには住みにくいよ。噛みついて血を吸えない社会なんて、居心地が悪くて仕方がないの」
「分かったから、もう言うな…」
「水川君はもう、行ってよ。私は人間じゃない。化け物なの。化け物相手に、人間の言葉をしゃべっても、時間の無駄よ」
「しゃべるな!」
「私はね…」
「それ以上しゃべるなって、言ってるだろ!」
水川が怒鳴ると、沙奈はうつむいて黙り込んだ。
「…荷物置けよ」
しばらく考えていたようすだったが、やがて肩のリュックと、両手に持ったごわごわした手提げ袋を、アパートの冷たいコンクリートの上に置いた。
 水川が近づこうとすると、即座に佐奈は身構えた。
「来ないで。私はあなたの思い出の中で、美しく消えて行きたいの」
「何言ってんだよ。見せたくないような汚いところもお互いに理解し合うのが、本当の愛だろ?」
「私にはそんな勇気がない。あなたには、ヴァンパイアの醜い部分を見せたくなかった…」
「キミがヴァンパイアだと分かったら、僕は沙奈を嫌いになるとでも思ったのか?」
「違うよ。疑ってなんかないよ。ただ、とにかく…もう私はあなたの前からは消えるから」
「何でだよ?」
「私のことはもう忘れて。私はあなたの記憶の中だけで生きられれば、それでいいの」
 水川は、沙奈の潤んだ瞳をじっと見つめながら言った。
「沙奈…たった一人で抱え込ませてごめんな。何も力になってあげられなくて、本当にすまなかった」
「そんなことないよ。水川君と出会えて、私とっても幸せだったんだよ」
「僕もキミと一緒に、ヴァンパイアとしての人生を歩むよ」
「ダメよ、そんなことしたら…気持ちはうれしいけど、私は他人を不幸せにしたくないの」
「沙奈、どうして分からない?このまま別れてしまうことの方が、もっと僕を不幸にしているということを」
「そんな…でも」
「ヴァンパイアとしての人生の未来に、喜びがあるのか、絶望があるのかは分からない。だが僕は、ここで沙奈と別れてしまったら、永遠に絶望の道を歩むことになるだろう…理不尽な結末を迎えた、恋愛の絶望について、心理学の講義では、習わなかったのか?」
「ヴァンパイアにならなかった方が良かったって、後で後悔することになるよ」
「早く後悔させてくれよ。さあ沙奈。僕を噛め。そして血を吸うんだ」
沙奈は、初めて相手の行動を待つことなく、自分から水川に抱きついた。
非力ながらも全力を込めて、自らの心と身体がそのまま壊れてしまうのではないかと思えるほどの強さで、水川にしがみつく。
「…私は自分の意志で噛むんじゃないよ。…あなたに頼まれたから、仕方なく噛むんだからね」
「分かっているよ。人生の道を選ぶのは自分だ。その選択肢に、ヴァンパイアというものがあっても悪くはないだろう?」
「選択の自由があったとしても、それがそのまま幸せにつながるとは限らないよ。自ら不幸の道を選ぶという、負の自由だって存在するんだから」
「不幸になる自由か。ヴァンパイアの人生が、それにあたるのかどうか、僕には分からない。大学の講義では、教えてくれなかったし、本にも書いてないからな。先人の教えにないことは、自ら体験することで、身をもって学ぶ他はないんだ」
「…そうね。私達の人生のシナリオは、教科書や本には書いてないんだよね。ここから先は、自分達で切り開いていかないとならないんだね」
「その通りだ。さあ、沙奈。二人で運命のドアを開こう」
「うん…」
「二人でなら、怖くはないだろ?」
「…ありがとう。さっきも言ったけど、私。水川君に会えて、本当に幸せだからね」

この日新たに、一人のヴァンパイアが地上に誕生した。


二人のヴァンパイアは人里離れた秘境の地、アルプスの中腹を目指して、静かに歩き始めたのだった。

水川と一緒にいながら、沙奈はあることに気づく。
水川に口説かれたり、恋愛の所作をしたりしているときは、他の全てを忘れることが出来た。

沙奈は、ヴァンパイアの追加された欲望の吐き溜め口を、ついに見つけたと思った。
意図的に自分が恋愛に溺れるようにすれば、暴走するヴァンパイアの本能を別の形で昇華したことになり、自分の欲望を過度に抑え込んだことにはならない。

ボーリング場から出て辺りを散歩していると、外はすっかり暗くなっていた。

夜の井の頭公園は、カップルでにぎわっていた。
そして今、一組のカップルが、その輪に加わろうとしていた。
沙奈は、水川の上手なエスコートに、すっかりぼぉっとして、恍惚とした情感にどっぷりと浸っていた。
…もうちょっと、今の気分に酔っていたい。
沙奈は、夢見心地なひとときを、何とも言えないような気持ちで楽しんでいた。
水川も、沙奈がいつまでも眠れる森の少女のままでいられるよう、雰囲気を壊さないように言葉を選びながら、話し掛けた。
「ベンチがあるから、座ろうか」
「うん…」
腰かけると、水川は沙奈の眼がうつろで、焦点がまるで合っていないのに、すぐに気づく。
…機は熟せり。
白紙だった沙奈の心を、最高のカラーで染め上げるときが来た。
水川が沙奈の肩に腕をやると、沙奈は自然に自分の方へと頭を傾けてきた。
少しずつ身体の距離を縮めながら、水川は沙奈の顔に自分の顔を近づけていく。
水川の行為をただ待つだけの沙奈の目に、ふと満月が映る。
…今夜はきれいな満月…。

そのとき、ヴァンパイアの感情が、沙奈の心に込み上げてきた。
恋愛感情以上に激しく、ものすごい勢いで沙奈の心を支配する。
それは、犯罪性の伴う、本能による理性の駆逐だった。
…か、噛みついて、人の血を吸いたい…。
何も知らない水川は、沙奈を抱きしめ、濡れるように鮮やかな口紅の塗られた唇に、そっと自分の唇を合わせる。
密着しながら沙奈は、水川の燃えるような恋心が、自分の内部に激しくぶつかり、火傷するほどの火花が飛び散っているのが、手に取るように分かった。
しかし沙奈は、そんな水川の血を吸いたくて仕方がない。
必死で水川の唇を噛まないよう、身体を硬直させて、ひたすらグッとこらえる。
二人の間に、恋愛の本能と、ヴァンパイアの本能が交錯する、奇妙な時間が流れていた…。


次の日。
沙奈はある決心をしていた。
…水川と、別れよう。
恋愛の情感をもってしても、ヴァンパイアの本能を昇華することが出来なかった。
このまま水川と付き合っていたら、いつか馬脚を現してしまうだろう。
感情を下手に押し殺せたとしても、ヴラド・ツェペシュの二の舞になるのがオチだ。
何も起きないうちに、沙奈は終わりにしたかった。
そして、水川と別れてしばらくしたら、大学もやめるつもりだった。


講義が全て終わり、水川の手を引いて、沙奈は誰もいない教室へと入る。
「どうしたの、突然?」
「私たち、もう終わりにしましょう」
「え、何で…」
水川の声の響きに、昨日までの躍動感が全く感じられなかった。
表情には曇りが指し、目は怯えているようだった。
「私たち、合わないよ」
「そ、そっか。合わなかったか…ごめんね」
水川は涙が流れそうな自分の顔を相手に見せないようにして伏せると、そのまま振り向かずに教室を出て行った。
「終わった…全てが終わった。何もかも…これでも私、頑張ったんだからね」
沙奈は両手で顔を覆うと、声を上げて、恥も外聞もなく泣き出した。


「くそ、何でだよ?」
水川の心は、荒れに荒れていた。
勉強が手につかない。
いつものように、図書館で本を読むことが出来なかった。
「どこが合わなかったんだよ?全然、分からない…それほどまでに、お互いの感情が、行き違っていたのか?」
沙奈が自分に見せた、楽しそうな表情。
会話のテンポのよさ。
どこが合わなかったのか、水川には全く理解できなかった。
…あれらは全て、演技だったのか?
いや、そうとは思えない。
全てが本当に、自然な仕草だった。
しかし、だとしたら…なぜ沙奈は、自分のもとを突然去ってしまったのか。
本当に不可解だった。


学食で昼食を済ませ、席を立った沙奈は、時計を見る。
次の講義まで、だいぶ時間があるので、購買部に向かった。

購買部へと続く、アスファルトを歩く途中、沙奈は後ろから呼び止められる。
「沙奈」
懐かしい声が聞こえたが、沙奈は無視して歩き続ける。
「待てよ」
無理やり腕をつかまれたので、振り向くと、案の定、水川だった。
「ちょっと来て」
人気のない、事務棟の廊下にまで来ると、水川は沙奈に目を合わせず、ため息をつきながら言った。
「ごめん。沙奈をストーカーするつもりはないし、かと言って、未練がないわけでもないんだけど。…なんていうか。何が合わなかったのかな、と思ってさ。僕、馬鹿だから、分からないんだ。恥の上塗りもいいところなんだけど、沙奈に教えてもらおうと思って。こういう行為をすること自体、愚かだというのはよく分かる。でも、教えてもらわないと、また次も同じ愚かなことを僕はしてしまいそうなんだ。…本当に、分からなかったんだよ。いつの間に、行き違ってただなんて。そうと知らずに、僕は心の底から沙奈といた時間が、楽しくて仕方がなかったんだ…」
最後の方は、声が震えていた。
沙奈は、何と答えていいか、分からなかった。
ここで寄りを戻すことが出来たら、どんなにか幸せだろう。
しかし、沙奈にそのつもりはなかった。
一時の幸せのために、後の苦しみを大きくするのだけは避けたかった。
「合わなかったから、合わなかったって言ってるの。それだけよ」
冷徹なまでに、毅然と言った。
「そうだよね。…ごめん、ありがとう。今ので踏ん切りがついたよ。とにかく、僕のことが嫌いになったんだね。分かったよ」
水川は沙奈とは一度も目を合わせないまま、廊下を歩きだした。
「嫌いだなんて、一言も言ってないよ。私の心の中には、今でも水川君がいるよ。ただ…人間とヴァンパイアじゃ、合わなかったって言ってるだけなの…」
沙奈は小声でつぶやいた。
これから沙奈は、山奥で一人暮らしをしようと考えていた。
ヴラド・ツェペシュの死後、身の危険を感じた大半のヴァンパイア達は、人里離れたところに身を潜めた。
沙奈も、そうするつもりだった。
しばらくは大学に通いつつ、並行して隠遁生活の勉強をし、ある程度メドがつき次第、人間世界から消える予定だった。


水川は、友人の原田と、大学近くにある居酒屋のチェーン店に来ていた。
誘ったのは、水川の方。
沙奈にフラれた愚痴を、聞いてもらうためだ。
「お前ら二人、けっこう良い感じに見えたんだけどな」
「そう思うだろ?」
「ああ。別れたって聞いて、耳を疑ったぜ」
モスコミュールを一口飲むと、水川は語り始めた。
「本当に突然だったんだ。『私たち、合わないから別れよう』って」
「俺思うに、それ。他に好きな男が出来ちゃったんだよ」
焼き鳥を食べながら、原田は言った。
水川もつくねに手を出し、一口食べると、言った。
「…そんな風には、見えないんだけどな」
水川の言葉を、原田は鼻で笑った。
「お前は小学生か?人の性格なんて、見た目じゃ分かんないだろ?お前はちょっと遊ばれただけなんだよ」
「遊ばれただけか。…いいよ、別に。遊びでいいよ。沙奈ちゃん、もう少しだけでいいから、俺と遊んでくれよ!」
原田は、吠える水川の肩をやさしく叩いて慰めた。
「おい、そんなに女と付き合いたいなら、合コンやろうぜ。お前、誘っても全然来ないんだもんな」
「いいよ。遠慮しておく」
「どうしてだ?」
「沙奈の気が変わって、俺のもとに戻ってくるかもしれないから」
「なあ、そんなこと考えているうちは、幸せになれないぞ。世の中の半分は、女なんだ。また他の女の子と、新しい恋をしたらいいじゃねえかよ」
水川は、原田の言っていることも、もっともだと思った。
「そうだよな…失恋くらい、誰でも一回は経験するよな」
「そうだよ。そして、その後にまた、別の恋が生まれるんだよ」
「沙奈と付き合い出してから、原田の誘う合コンに、全く出てなかったよな。今度からはちゃんと出ようかな」
「おう、そのいきだ。ちゃんと出ろよ。というより、出た方がいい。そうしないと、なかなか立ち直れなくて、いつまで立ってもつらい時間が続くぞ」
水川はうなずいた。
モスコミュールを全て飲み干すと、沙奈を忘れる心の準備をし始めた。
そもそも大学に入ったのは、恋愛をするためではでない。心理学の勉強をするために入ったのだ。
再び学問に志し、きっかけさえあれば、新しい恋愛もしようと、水川は思った。


中世のヨーロッパに発生したヴァンパイアの伝説は、あくまで架空の話だと思われがちだが、ヴァンパイア自体、歴史の裏舞台では実際に存在していた。
いや、歴史の表舞台に出たこともある。
15世紀、ルーマニアのワラキア地方。
ヴラド・ツェペシュ公が、自らドラキュラ伯爵であることを告白していたのは、有名過ぎる話しだ。
ルーマニア独立のために戦った、串刺し公こと、ヴラド・ツェペシュは英雄と残虐非道という二つの異名を同時に持ちながらも、最後は家臣に暗殺されてしまった。
その後、ヴァンパイアは再び歴史の中へと埋没した。
しかし、誰も信じていなくとも、ヴァンパイアがいたという事実が消えることはない。
ヴラド・ツェペシュのように、正体を明かすと、まわりから何をされるか分からないことを知った、賢いヴァンパイア達は、ひっそりと身を潜めた。
ある者は正体を明かさないまま、普通の人々と結婚し、血の薄れたヴァンパイアの子孫を後世へと残した。


菜畑沙奈(なばたさな)、20歳。
ヴァンパイアネームはキリア。
彼女はれっきとした女性ヴァンパイア、いわゆるカミーラだ。
何代か前、ヨーロッパに住んでいた、ヴァンパイアの血筋の女性が日本人と結婚し、その血が沙奈に流れている。
他人には噛みついて血を吸ったことなんか、一度もないが、満月の夜だけは、どうしても噛みつきたくなってしまう。
衝動が起きてしまった時は、ひたすら我慢するしかない。
大抵は、トマトジュースを飲んで、こらえられるだけこらえ、なるべく早く寝るようにしている。

沙奈は現在、東京にある私立親王大学の二年生であり、文学部心理学科を専攻していた。
彼女の夢は、心理カウンセラー。
 将来は世の中に役に立つ人になるんだという夢を抱いていた。

沙奈は、あまりオープンな人付き合いはしなかった。
ただ大学に通い、講義を聞くだけだった。
どこのサークルにも所属しないし、合コンにも行かない。
ヴァンパイアである自分と仲良くなりたい人なんて、いるはずがないと思っていた。

しかし、同級生の水川(みずかわ)との出会いで、その考えも一変する。
水川は、真面目な男だった。
ガリ勉タイプではないし、見てくれはそれなりに遊び人のようにも見えた。
しかし、純粋に心理学の勉強に取り組んでいた。
水川は、いつも欠かさず講義に出席し、一生懸命にノートを取る沙奈に対し、小さな敬意に近い感情を抱いていた。
彼女が、自分と違う知識をどれくらい持っているのか?
あるいは、彼女をそこまで心理学に没入させする、原動力となるものは一体何か、興味があった。
自分の知らない、心理学の新しい角度の世界があるのならば、ぜひ教えて欲しい…そう思っていた。

ある日の講義のこと。
沙奈が教科書を忘れて困っていると、水川はすかさず隣りに座り、沙奈と自分の間に教科書を置いた。
「ありがとう」
「別に」
落ち着いたようすの沙奈を見て、照れ隠しにぶっきらぼうに言いながらも、水川も軽く笑ってみせた。

講義が終了し、筆記具を片づけている沙奈に、水川は話し掛けた。
「お昼ご飯、一緒に食べない?」
「いいよ、私は一人で食べるから」
「どうして?別に、無理強いするつもりはないんだけどさ…」
少し残念そうにうつむく、水川。
「私と一緒にご飯食べても、会話がつまんないよ。勉強以外のこと、何も知らないの」
「勉強の話しをしようよ。最初からそのつもりだったんだ」


学生たちでざわめく、ボロい学食のフロア。
安そうな天ぷらそばを、おいしそうに食べながら、水川は沙奈に言った。
「イギリスの思想家、ジョン・ロックの言葉を知っているかい?『私に、二人の赤ちゃんを渡してごらん。片方を悪魔に育てよう、片方を天使に育てよう』」
「すごい言葉ね」
「ああ、彼は教育万能論者だからな。人の人生は、全て後天的要因で決まるってわけだ。しかし、これに対して『蛙の子は蛙』だからと、先天的要因。つまり持って生まれた才能が全てだと言う人もいる。さて、真理はどっちだと思う?」
「両方真理で、両方ウソよ」
「鋭いね。確かにそうだ。これはいわゆる、先天と後天、どっちが偉いかと言う議論なんだけど。ロックは、後天的努力で全ては変わるという考え。後者は、そうは言っても、やはり持って生まれた、先天的な要素というものの方が、影響が大きいという考え。どっちが正しいという風に、一意に決めることはできないかもしれないけど、どちらかといえば、菜畑さんはどっちに賛同できると思う?」
「私は…ロックに近いかな」
「なるほど、そう思うんだ。ちなみに何か、根拠はあるの?」
「根拠というよりも…願いかな。後天的な影響の方が大きいって、信じたいじゃない?そうでなきゃ、何のために今を頑張って生きているのか、分からなくなっちゃうよね」
「うん…そうだね」
水川は、沙奈の言葉に深い感慨をおぼえた。
…意見を聞いて、良かったな。
水川は、心の底からそう思った。


一人暮らしのアパートに着き、電子レンジでココアを温めた。
電子レンジの光に照らされて、内部で回るティーカップを見つめながら、沙奈は先ほどの水川との会話を思い出した。
先天と後天、どっちが偉いか…。
自分の先天は、ヴァンパイアだ。
その事実を今、後天的努力でなんとかしようとしている。
先天の方が偉いと認めてしまっては、沙奈には目の前に歩む道がなかった。

電子レンジで温まったココアを飲み、静かに一息つく。
ブルブルッ。
勉強机に置きっぱなしの携帯電話が、バイブレーションで揺れた。
アラームかと思い、ディスプレイを見ると、本日、携帯のアドレス交換をした水川からのメールだった。
…今日は話しを聞いてくれて、ありがとう。今度は、菜畑さんの話しも聞かせてね。
メールの最後の言葉が、うれしかった。
同世代の異性から興味を持たれて、悪い気はしない。
沙奈は明日、また水川と会うのを楽しみに思い、返事のメールを打った。


 テスト前でない、図書館はだだっ広く、人の数もちらほらだった。
水川と沙奈は向かい合い、心理学の話をしていた。
「さて、昨日の話の続きだけど」
「うん。私は水川君みたいにいろいろと、興味を持って勉強しているわけじゃないんだけど…今はね、人の欲望について、研究しているの」
「へえ。何か、随分と哲学的だね」
 興味深げに水川が返事をしたので、沙奈はうれしくなり、話を続けた。
「犯罪とか起きるじゃない?犯罪を単に物理的行為と捉えるのではなく、その背景には欲望の吐き溜め口を見出だせずに、間違った欲望の昇華に走るケースとして犯罪を起こすことが、けっこうあるみたいなの。欲望について、一つの答えを導き出すことで、悩んでいる人々に一筋の光を与えることが出来ないかと思ってるんだけど…変かな?」
「変じゃないよ。いいテーマだと思う。現代の世情をよく反映した、いい着眼点だと思うよ」
「ありがとう」
「でもさ、人の欲望をどう昇華すればいいの?」
「それなんだよね。私も今、いろいろと考えているところなんだ」
「僕が思うに、欲望の全ては本能なんだから、ある程度は外に放出しないと、自分の心がおかしくなってしまうよね。問題は、放出の仕方だ。一気に放出し過ぎると、犯罪性が伴う場合があるし、溜め過ぎても、異常な心理状態に陥りやすい。本能の放出を、適度に理性でコントロールすることが、大事だと思うんだ。本能という名の排水を、理性という名のバルブで閉めたり、開けたり、上手に適量ずつ外へ押し流す…なんてね」
「ふふ、面白いたとえね。私はね、理性が本能を支配している状態が、正しい状態だと思うの。本能が理性を支配してしまったとき、犯罪に走りやすくなってしまうんじゃないのかなと思うんだけど」
「それは微妙だよね。人の心って、いつも揺れ動くじゃん?あるときは理性で本能を支配していても、ある瞬間は本能で理性を支配してしまうときが、日常生活でもあると思うよ」
「どういうときだろ?」
 沙奈は、首を傾げた。
 そんな沙奈の眼を、水川はじっと視線をそらさずに、見つめながら言った。
「たとえば、人が人を好きになったとき。普段は理性で本能を支配していてもだよ、大好きな彼女から『もう少しそばに居て欲しい』って言われたら、理性では『後5分で終電だ』と分かっていても、恋愛慕情という名の本能に負けて、終電を逃してしまうときがあるかもしれないよね。そういうとき、それは別に犯罪でも何でもないし、ある意味、人として当然の反応だと思う」
「恋愛慕情による、理性の駆逐(くちく)?」
「こういうことだよ」
 水川は立ち上がった。
沙奈は、「トイレでも行くのかな?」と思っていると、後ろからいきなり、水川は椅子に座ったままの沙奈を抱きしめた。
 慌てて沙奈は、声を上げた。
「み、水川君。ここは図書館だよ」
「人なんて、ほとんどいないよ。大丈夫」
 瞬間的にパッと離れると、水川はニコッと沙奈に笑いかけた。
「どう?本能が理性を駆逐した瞬間は?」
「…悪くないと思う」
 肩に力が入ったままの沙奈は、2、3回深呼吸したが、それでも気持ちがなかなか収まらない。
 自分でも信じられないくらい、心臓がドキドキしていた。
 そのようすを、いたずらっぽく水川は見ていた。
「良かったら、もう一回どう?本能で理性を駆逐する瞬間は?」
「図書館から出ようよ。私はまだ、十分に理性が本能を支配しているわ」
「菜畑さんは理性が強いね。僕も見習わないと」
「そんなことないよ。私も早く、本能で理性を支配したい気分だから、外に出るんだよ…」

 図書館から出るや否や、二人は抱き合い、そのままあっけなく、恋に落ちていった。
 犯罪性のない、本能で理性を駆逐する時間を、思うがままに過ごしていた。


沙奈が心理学で、人の欲望とは何かについて研究しているのは本当だ。
何のためかと言えば、ヴァンパイアとしての自分の生きる道を模索するためだ。
歴史を学ばぬ者は、愚かにもそれを繰り返す…とはアケム・ドロームの言葉だが、沙奈はこの言葉を座右の銘にしていた。
 誰の歴史かと言えば、ヴァンパイアの歴史。
 もっと具体的に言えば、ヴラド・ツェペシュの歴史だ。
沙奈は、彼ほど一生懸命にヴァンパイアとしての人生を全うした人を知らなかった。
彼は、英雄であり、異常人格者だった。
なぜそうなってしまったのか?
ここに、沙奈が欲望について、研究したがる理由がある。
ヴラド・ツェペシュは、ヴァンパイアでありながら、善なる心を持ち、誰よりも祖国を愛していた。
自分の命すら顧(かえり)みず、勇敢に戦った。
彼がいなかったら、誰がオスマン帝国からルーマニアを守ることができたのだろうか?
彼は、祖国ルーマニアの英雄に間違いなかった。
しかし、自ら自分がヴァンパイアだと語ってしまった、正直過ぎる彼の性格に問題があった。
当時、周囲にいた人々は、英雄である彼を忌み嫌い、最後は家臣に暗殺されてしまった。
また、それ以前に、彼がヴァンパイアとしての感情を無理やり押し殺していたことにも、問題があった。
吐き溜め口のない欲望…。
沙奈は、心理学を学びながら、ヴァンパイアと普通の人の違いを見つけた。
一つの切り口だが、それは欲望の数だ。
ヴァンパイアは、基本的に普通の人と変わりはない。
「人に噛みついて、血を吸いたい」という欲望…その追加された欲望を持つ生き物が、ヴァンパイアだ。
ヴァンパイア以外の人間が多く生きる社会で、ヴァンパイアとして振る舞うことは許されなかった。
人は誰でも、心の中に善人と悪人が住んでいるものだ。
ジキルとハイドの均衡において、ヴァンパイアは欲望が一つ多い分、ハイド側、つまり悪人の心が強いと言えるのかもしれない。
この追加された欲望を、どこかで昇華しないといけない。
そうでなければ、善なる心を持ちながらも、どこか性格に異常性をきたしてしまいかねなかった。
ヴラド・ツェペシュが処刑を行う際、誰かれ構わず串刺し刑を執行した、性格の異常性、凶暴性…。
串刺し公と後世でも呼ばれ、英雄の名を汚してしまった理由が、ここにあるのだ。
このあたりを解決することが、沙奈の研究テーマになっていた。


休みの日になると、沙奈は水川と一緒に出かけた。
映画を見た後、喫茶店に入り、二人はいつものように、心理学について語り合う。
「沙奈。キミが『先天より後天の方が偉い』という考えを取るから、僕もそれに従うよ」
沙奈はコクリとうなずいた。
「思想家ジョン・ロックの意見によると、人というのは生まれたばかりのときは白紙であり、そこからさまざまな経験をしていくことで、いろいろなカラーがついていくらしい」
「なるほどね。同じ出来事なのに、人によって反応が違うのは、それまでの人生において、白紙に染めてきたカラーが違うからなのか」
「沙奈は、男ってどういうものだと思う?」
「…唐突にそんな質問されても、分かんないよ」
「キミはまだ、白紙なんだね」
「そうみたい」
「僕がキミの心に色を染めたら、沙奈は男の人を、そういうフィルターを介して見るようになる」
「…私はそんなに単純じゃないよ」
「本当?」
「なんなら、試してみる?」
「ああ、試すよ…沙奈、今どこに行きたい?」
「どこにも行きたくない。もうちょっと、話ししたいから。まだここにいようよ」
「あ、そう?」
「もう少し、白紙に色を染めてからじゃないと、男の人と何をしたらいいか、分からないから」
「分かった。僕が沙奈に、鮮やかなカラーをつけてみせるよ」
「思い出に残る、素敵な配色でお願いね」
「もちろんだ。後天が先天より偉いということを、証明するためにもね」
「…こんなことしゃべっている間に、私は染まっていくんだね」
「そうだ。少しずつ、染まっているよ」
「もっと染めていいよ。今日は、どこまでも染まりたい気分…」
「白紙に染める恋愛の色は、きっときれいだよ。今から僕が、これでもかと言うくらい、永遠に色が残るように染めてみせるから、沙奈は何もせずに染め上がるのを待つんだ」
「うん…」
向かい合って座っていた水川は、沙奈の隣りに座ると、沙奈の腰に腕をやった。
沙奈は、何も言えず、ひたすらドキドキし、うつむきながら相手の行動を待った。
分かりやすい沙奈の仕草を、水川は可愛く思うと同時に、今のひとときが沙奈にとっての最高の思い出となるよう、やさしく染めてあげようと気遣った。


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