予州は頴川の人士であり、桓帝・霊帝・廃帝弁に仕えた宦官である。霊帝の時代には張忠と共に中常侍となり、皇帝の寵愛を背景に権勢を欲しいままにし、宦官勢力の中心となった。この頃、中常侍は十二名となっており、十常侍と呼ばれ、絶大な権勢を誇った。彼らは、皇帝権力の形骸化と宦官の支配による悪政を正そうとした清流派官僚を弾圧する「党錮の禁」を起こした元凶であり、時の世を大いに震撼させしめた。こうした朝政の混乱と悪政に業を煮やした太平道が「黄巾の乱」を起こすと、宦官内部に内通者が居たため、郎中の張鈞が宦官全体の責任として十常侍を弾劾するも、逆に張鈞を讒言し死に追いやった。絶大な権勢に対して、不正を重ねて出世した十常侍には清流派など敵が多く、王允・蔡邕に張譲ら十常侍こそが太平道の内通者である事を暴露されるが、これも暗愚な霊帝を逆手に取る事によって切り抜け、逆に王允・蔡邕を罷免させた。霊帝が崩御し、廃帝弁が即位すると、何太后の外戚である何進と対立し、霊帝の生母である董太后側に蹇碩が中心となって付こうとするが、宮廷の暗闘と処世に慣れた張譲は最後には士人の支持を取り付け優勢であった何氏に寝返り、蹇碩を殺害した。次第に宦官討滅を目指す何進との対決姿勢が明確になるが、何太后や何苗を味方に引き込み、権勢を保とうとする。政治的干渉によって宮廷改革を行う事を無理だと悟った何進や袁紹が、軍事力を背景とした威圧を狙い、洛陽へ全土からの諸侯の軍を動員して、朝廷に圧力を掛けようとすると、これに戦慄し、何進を偽勅をもって宮廷に呼び出し、殺害してしまうが、詰めを誤り軍権を掌握する事に失敗し、最強硬派である袁紹の逆襲を受け、軍勢に宮廷にまで雪崩れ込まれ、張忠らほとんどの宦官を殺されてしまう。張譲は皇帝と陳留王劉協を連れて洛陽城外へと逃亡するも、盧植らの追撃を受け、進退窮まり、黄河へと身投げをして自害した。
霊帝の時代に中常侍となり、曹節・王甫・侯覧らと共に権勢を欲しいままにする。中国王朝の政治は、宦官と官僚との対決と暗闘の歴史が主軸となり、高度な政治闘争が繰り返されて来たが、ほとんどの場合、皇帝権力を背景にした宦官が勝利を収めてきた。梁冀・鄭武らの外戚勢力も打破され、宮廷内部において宦官の権勢に敵う敵が無いという状況であった。中常侍は皇帝直属の宦官の最高職であり、皇后直属の大長秋とは双璧を成すと共に、権力の動向が、曹騰が在任していた頃の情勢から、さらに皇帝権力へと登りつめた十常侍支配の情勢へと変化したものであり、宦官達にとっては進展であるが、国政全体から見れば、暗愚な皇帝が群臣の意向のままとなる傀儡政治を行い、停滞させる冬の時代の到来であった。彼らは皆列侯に封じられ、一族を各地に派遣して支配を強め、官職を金銭で買い取っては、虎視眈々と権勢拡大を図り続けた。母屋は湯漬けをすすっているのに、裏で大盛の飯にすき焼きを喰らっているようなもので、清流派志士は悪政に対する強い正義感に駆られた。宦官と官僚は不倶戴天の敵同士であり、官僚が清流派を主力とした事から、対立する宦官は必然的に濁流となり、双方の対立は権力を制止し、正常な政権運営を出来ない皇帝にも責任があった。最も、敢えて幼帝や愚帝を即位させるなど、宦官や外戚にも思惑があった事であり、肥大化する悪しき権力の正体は、権力を乗りこなせず、正常な政権運営を行う能力や責任が欠如し、快楽に溺れる凡人が権力者になる事による悪政・失政の元凶の事であり、強力な指導者が出現すれば、宦官への依存度を失い、宦官は、政権運営の大権から従順な文官へと権勢を縮小される事が目に見えていたため、宦官は手練手管を尽くして皇帝を篭絡する術を磨いた。最も効果的なのは女色をあてがう事であり、「英雄も美人に形なし」と言うように、幼帝・愚帝を篭絡する事は狡猾な宦官にしてみればた易い事であった。桓帝・霊帝はまさにそうした愚帝の典型であり、漢代は宦官の害悪が最も強かった時代の一つとして挙げられる。霊帝は張譲を我が父、張忠は我が母とまで言った。
宦官腐敗の悪政に対して、正義の声を上げたのが清流派官僚であり、健全な政治主導を目指して、皇帝権力の壟断による宦官支配を政治改革させしめようとした天下万民にとって好ましい動きであった。「党錮の禁」は、こうした政治改革を潰す権力者の欺瞞と悪が世に知らしめられた事件であり、宮廷での甘い生活しか知らない皇帝は有事に際して余りに無力であり、幼かった。野心ある宦官は皇帝を骨抜きにする事を常に考え、書物を読む事、官僚と交渉を持つ事を禁止し、知識・情報を奪い政治に対して無力にすると共に、宦官依存を強める策略を練った。劉禅が重用した黄晧が、宮廷外で活躍する姜維との交渉ルートを断ち、皇帝と名将を疎遠にしたのは、宦官にとっては権力維持のための策略であるが、国力増大と、戦争を仕掛けて来る外敵への対抗を思えば、国にとって損失をもたらすものであり、宦官も、大権を与える皇帝も、国賊であると言えよう。「党錮の禁」は政治を停滞させ、宦官支配の暴走を止める気骨の人士の活動は下火になったが、十常侍を弾劾した曹操の勇敢な態度の偉大さが際立つものである。十常侍は、自身の眷属の利益だけを重視した弾劾されて当然の政治を行ってきたのであり、本来は文官であるべき宦官を野放しにし、権勢拡大による跋扈を許して来たのは、国政の大局に立つ義よりも、眷属を重視する仁によって立つ悪政の根源があり、仁義は本来人間の美しい面ではあるが、双方の相克を断つには、一義的な正義を超えた英断が功を奏すのが複雑怪奇な政治の本質ではないか。
また、宦官支配に対する皇帝の責任は大きいが、外戚による皇后跋扈においても、官僚よりも、宦官勢力の側に付く事が多く、宦官との対決姿勢をとった何進に対して、何太后が宦官を庇った事などもあり、女系の権力者は宦官の存在と力量を必要とした事も面白い一面である。官僚の政治主導も、皇帝の独裁も好まず、敢えて国力を強くせず、停滞した世を望んだのが女系権力者の本質でもあるのだろう。だが、宦官の勢力拡大は、皇帝にも儒教にも法にも服さない超権力の肥大化を招くものであり、大局に立てば国家並びに万人にとって忌むべきものである事を知る必要がある。
悪政打破は天下の公論でもあった。太平道が「黄巾の乱」を起こすと、戦火が全土に広まり、たちまちに大反乱となった。遅遅として改革の進まない漢朝打破の大義を得た黄巾党の勢いは凄まじく、国家転覆の危うい情勢となった。これを受けて、漢朝に怨みを抱く清流派官僚や志士が反乱軍と結託する事を恐れて、恩赦した上に、官軍の将官として中央に招聘するのであるが、黄巾党と十常侍が結託していたというのは、すでにして絶大な権勢を誇る十常侍にしてみれば不可解な行動ともうつるが、十常侍は本気で黄巾党と組もうとしていたのではなく、中央からは追い出したものの今だ郷里に地盤を持つ士大夫や清流派志士を黄巾党と戦わせる事によって、双方を疲弊させ、不満の矛先をそらそうとしたのだろう。つまりは、貧民を中核とする黄巾を始めから見くびっていたのであり、漢朝にとっての毒を利用する事によって、毒に制されそうになったという間抜けな話であるが、同時に際限なき策略を巡らす張譲の恐ろしさを示すものでもある。策士、策に溺れるとはこの事である。宦官は国家や皇帝への忠誠も無く、売国の徒であり、坐記など後の世には司法専横も見られるのであるが、軍権を握る大権を受けた身でありながら、黄巾党との内通をするという不正義を目の当たりにして、曹操も袁紹もいつの日か宦官討滅を果たそうと、強く誓ったのであった。乱世の幕を開ける大反乱は泰平の世を欲しいままにした傀儡皇帝と宦官に対するしっぺ返しである。
廃帝弁が即位すると情勢は一変する。それまで皇帝権力を背景とした宦官の優位が崩れ、外戚として何氏が台頭するのであり、何氏の支持基盤は宦官ではなく、清流派官僚や志士であったからであるが、「黄巾の乱」を治めた功績として清流派が台頭したのであり、これをもって傀儡皇帝・宦官の支配は崩れ、聡明な志士は後漢王朝の滅亡への道を読んだ事だろう。何進や袁紹のした事は、宦官を守る強固なシステムが存在するため、常道による改革は無理だと悟った事が理由であり、詭道に頼り、洛陽に大兵を結集して軍事的圧力を掛けようとした事は愚かな判断であったとは一概に言えない。何進が暗殺されるという不測の事態を受けて、袁紹が暴走し、政変を起こした事が董卓に付け入る隙を与えた原因であり、安定を好むがゆえに、不安定な要素や有事に弱く、正常な判断力を欠く袁紹の器量と痴政が垣間見える一事ではある。足しげく宮廷に通った何進は宦官に暗殺されるのであるが、宦官の打撃など蚊に刺されるようなものとも思われるが、一挙に多数の宦官に襲撃され、成す術が無かったのであろう。何進は危機管理に欠け、袁紹は情勢判断に欠けた。これでは国政が混乱するのも当然であり、傀儡皇帝と高級宦官によって牛耳られる政治の歪が生んだ問題は、宦官が居なければならぬという中国王朝の政治形態にあったのであり、宦官支配の打破は一代の害悪ではなく、王朝にとって共通の課題としてくすぶり続けるのである。張譲にしてみれば、眷属の利益を守る事が正義であり、苛烈な生は一個の人間をして、非常の野心家へと押し上げた。権力に毒があるのは当然であるが、宦官全盛の時代を築いた才覚は別として、王者の器量として凡庸であった張譲は新たな指導者達に譲るを知らず、権力に固執するサディズムがかえって、眷属の命運を絶ったのは皮肉としか言いようがない。